――――異伝二
      第六話 狂騒なる出帆







 その晩。海より吹き入る風は強く、建ち並ぶ家屋の窓の悉くをけたたましく打ち据えながら駆け抜けていた。
 この地を安住に定め、既に日常の中に溶け込んでいる者ならば気にも留めない程度の些細な事に過ぎなかったが、馴染み無い者にとって心に性急を誘う鬼気迫る韻は、まるで何かが始まろうとしている予兆を示唆する風雲の調べに等しい。
「ああもうっ! あっちもこっちも兵士だらけじゃない!!」
 そんな中。ポルトガ市街に連なる倉庫街区画の路地裏から淑女らしからぬ悲鳴が響き渡る。
 背に大量の荷物を詰め込んだ鞄を背負い、両手で白猫を抱えたままリースは叫びながら地団駄を踏んでいた。
「騒ぐ元気があるなら走れよ」
「だってこれ重いのよ!」
「それは自業自得だ」
 リースは背を向けてその存在を主張するが、冷徹なジーニアスの一言で一蹴される。
 警備の網の目を縫うように潜り抜け、人や建物の影に溶け込みながらジーニアス達は裏路地をひた走っていた。
 想像以上に入り組んだ倉庫街の迷宮は遷都以来それなりに歴史が長い為、区画整理などの新たな手が届ききっていない分、大小様々に所狭しと乱雑に立ち並んでは方向感覚を麻痺させる。
 滞在中、事前に脱出経路を検討する為に下調べをしていなければ、上空から自分達の位置を把握する術のない自分達だけでは、恐らく瞬く間に迷った事だろう。
 一行は夜を駆けながら確実に海へ、自分達の船を係留している埠頭へと向かっていた。



 事の始まりは一刻程前。翌朝の出港を控え早めに休息を取る為に、仲間内で今後の予定の簡単な打ち合わせをするべく宿の一室にジーニアスは集まっていた。
 宿の部屋で待機していたのはジーニアスとウィル、リースの三人だけで、ヴェインは旅の資金を捻出する為、船に大量に保存してある黒胡椒の一部を換金する事を目的として街の商人達を訪ね歩いていた。一つの店に卸すのではなく、複数の場所に分けて売り払うのは、物が物だけに相手側の負荷を慮る意味もある。何せ胡椒の一粒は黄金の一粒と言い表されるように、比喩ではなくそれがポルトガの市場においての現実だったからだ。もっとも、それ以上に自分達の素性を悟られない様にする為の意味の方が大きかった訳だが。
 しかし何にせよ、その行為は金塊をばら撒いて歩く事と同義である。傍からその様子を見て、良からぬ野心を抱かんとする者達が現れても何ら不思議ではない。ポルトガは昼も夜も並ならぬ賑わいを見せる大都市であり、荒くれ者や性質の悪い人間も往来を歩く人影の中に潜んでいるのだ。仮に諍いが生じ、それを回避しようとすれば否応無く荒事になるのは明白であり、騒ぎが大きくなればなる程、その渦中の人物に関心が集まるのは必然。憲兵はおろか騎士団までもが出動し、こちらの素性に辿り着く者がいないとは言い切れない。
 これはあくまでも最悪を想定しての一例だったものの、妙に現実味を帯びていた。理路整然とこの喩えを説いて自ら役目を担ったのはヴェインであったが、彼が提示した合流時間は既に過ぎている。ジーニアスやウィルは何らかの出来事に巻き込まれてしまったのではないかという危惧から、自分達が次に取るべき行動を考えていた。
 風の便りか、虫の報せが届いたのかは定かではないが、直後に話題の人物であるヴェインが戻る事になった。その背後に、纏う漆黒の外套に明らかな襲撃の痕を載せたカルロスと夜は白猫のサブリナを伴い、ポルトガ王国騎士団が“エレイン”捕縛の為に動き始めた、という全く以って歓迎したくない一報と共に。
 幸いにして兵士達の動きよりもこちらが行動を起こす方が早かったのか、とりあえず不審がられる事も無く宿を発つ事ができ、停泊している船に向けて走り出す。だが主要な街路には既に手が回っており、武装した幾十にも及ぶ兵士達が物々しい気風を放ちながら往来を徘徊していた。
 未だ寝入る時間帯ではない為、街往く人々は何事かと兵士達を好奇に満ちた眼差しで眺めている。活気ある街の特色か、日常とは少しばかり異なった色彩が生活の枠の中に飛び込んでくるだけでちょっとしたお祭り騒ぎになるものだ。それぞれが無責任な声援を送って兵達を捲くし立てる始末だった。
 そんな人々に釈然としないものを感じつつも、ジーニアス達は人混みに紛れながら市街中心を抜け、倉庫街や埠頭が常設されている港湾地帯に突入する事ができたのだった。
 ちなみに、リースが担ぐ大荷物の中身は十数着にも及ぶ衣服だけであり、明日何を着ようかと思案せんが為に船からわざわざ宿まで持ち込んだものだ。このポルトガで色々な衣服を買い揃えていた事もあり、お洒落に気を使う年代の少女としては珍しい事ではなかったが、流石に状況が状況だけにジーニアスとて安直に見過ごす訳にはいかない。その結果、選別しようとしたリースはジーニアスから一喝されて不承不承のまま引き下がり、ただ持ち運ぶにはそれなりに労力を要するだけの荷物ができあがった訳だ。
 追加するならば、同じ女性と言う事で今は猫のサブリナを運ぶ役目もリースが担わされていた。



「ルーラで、一気に……船まで、行けないのっ!?」
「主要都市内でのルーラは同盟協定により禁じられています。使ったら一直線で牢獄に誘導されますよ」
 多岐に亘る世界同盟協定条約の中には移動魔法制限という項目がある。
 これは言葉通り瞬間移動魔法ルーラに対しての戒めであり、王都や主要都市に外部から易々と侵入を許さない為の防衛処置としては当然の対策であった。
 保護対象である都市の外壁に施された幾つかの特殊な魔方陣を連結共鳴させて起動する事で、都市そのものを覆う帳の如き天球ドーム状の魔力場を形成させる。その不可視の力場が外界から進入してくるルーラや、近年爆発的に普及したルーラと同等の効力を示す魔導器『キメラの翼』を排除対象として弾き反し、果ては魔法構築の際に指定した転移先座標を強制的に書き換えて、国や都市が定めた場所に移動させる。大抵の都市では誘導された先に兵士達が駐留する検問所を配している為、即座に渡来者は身元を暴かれる事になるのだ。
 またこの結界は進入の逆事象である脱出も同時に制限しており、使用者の記憶を遡る事で脱出経路を辿る迷宮脱出魔法リレミトや原理を同じくする魔導器『思い出の鈴』も封縛する。この現実を知らぬ者が内側から外に逃れようとしても、魔力の帳に閉鎖された空間では内側に弾かれて元の場所に戻るだけだった。
 この制限は、世界同盟発足と同世代に生きていた当時の“十三賢人”達が提唱し実現した偉業であり、嘗て未だ魔法が一般的でなかった時代に施行された政策だが、理の体系化、学問としての大系が整えられるとその存在意義は堅強なものとなる。そして編まれた智と理は連綿と受け継がれ、重ねられる創意工夫によって世代を経る毎に進化していった。
 近年その研究は著しく進んだ結果。都市そのものという巨大な結界範囲をより小規模化する事に成功し、建物単体にも適用する事が可能となった。また、現在世界を悩ませている魔物と言う暴虐な存在が都市に侵入するのを防いでいるのは、従来あるこの結界を基盤としてその上に魔物を遠ざける結界を付与している為でもある。
 この条規が世界各国の自立と防備の基幹を為している疑いようが無く、歴史がそれを証明していた。これを犯す事で厳しい処罰がどの国でも下され、無論このポルトガとて例外ではない。ただこれは法による統制よりも、寧ろ魔法を扱う者達の倫理によって厳かに遵守されている傾向にあった。
「そ、そんな事知ってるわよっ!!」
 他の者達に比べて荷物を多く背負ったリースが走りながら息も絶え絶えに叫んだのだが、殆どそれは泣き言に過ぎなかった。駆け出しだが魔導士であるリースも骨身に染みている事なのだから、懇切丁寧にその理を説いてくれたウィルにリースは赤面しつつがなるのは、恥かしさを紛らわせる為だろう。
 しかし、一応追われている身でありながら狭い路地で喚く事を止めないリースに、その前を走るジーニアスは軽い頭痛を覚えていた。注意しようかと考えながら路地の角を曲がりかけ、即座に立ち止まり跳び退いた。
「っ!」
「ちょっ、ジーニっ!?」
 急に後退したジーニアスの行動は唐突なものだったので、その後を直ぐに続いていたリースは反応する事ができず、そのままジーニアスの背中に激突する。その際、強かに額や鼻の頭をぶつけたようで微かに目尻に涙が浮かんでいた。
 その事にリースは非難の声を挙げようとするも、ジーニアスは逆に彼女の口を手で塞ぎ、建物の影に溶け込みながら今まさに飛び出さんとしていた路地の先を慎重に窺っていた。
「……待ち伏せされている」
 夜が一層深まったと錯覚させる暗がりの路地。期待していたそんな光景とは裏腹に、煌々と燃える松明を掲げた兵士達が大挙して待ち構えているのが目に映った。それぞれが物々しい武装に身を固め、周囲を険しく見渡している。幸い、反射的に建物の影に潜ったジーニアスにはまだ気付いていないようだった。
 ジーニアスの戦慄した声に表情を硬くしたヴェインが入れ替わりに様子を見、小さく嘆息する。
「網を張られていたのか……どうする?」
 背後の気配に意識を留めながら仲間達を見眺めたヴェインが問う。それに深刻そうな表情を浮かべたウィルが応えた。
「……この道筋で待ち伏せされていたのならば、少し迂回するしかないでしょうね」
「時間の浪費は避けたいところだがな」
「では、このまま強行突破を試みますか? まあ、決して押し通れない事でも無いでしょう……騒ぎを大きくするのは本意ではありませんがね」
「……そんな物騒な事は却下だ」
 鷹揚と語るウィルにヴェインが呆れたように吐き棄てた。
 確かにこのまま直進すれば兵士達と真正面から邂逅する事になり、余り面白くない事態に陥ったのだろうが、それは決して切り抜けられない危機でもない。緊迫する状況にあって悠々と連ねるウィルやヴェインの様子がそれを物語っていた。実際問題、常に危険と隣り合わせの世界を往く歴戦の彼らを、外壁あんぜんに囲まれて生きている兵士達にどうこう出来る道理など無いのだ。
 二人の会話を聞いていたジーニアスは小さく頷き、踵を返す。
「とりあえず、ここから離れよう。あの兵士達だって何時周囲の捜索に移るかもしれない。このままここで立ち往生しているのは危険だ」
 踵を返して来た道を戻ろうとするジーニアス。
 その時、リースが抱えていた白猫が腕から飛び出した。
「あっ、ちょっと!?」
「サブリナさん?」
 ジーニアスが怪訝に呟くと、それを聞き止めた白猫が一度振り返り、再び駆け出す。
「……着いて来い、と言っているようですね」
「行こう、皆」
 今まで通ってきた道とはまた別の路地に入り、瞬く間に白猫はその先に消えていく。ジーニアスは迷わずそれに続いた。
 サブリナならば自分達以上にこのポルトガの事に精通している。所詮は付け焼刃の自分達とは、そこに生きてきた積み重ねが違うのだ。
 その背中を追う事に、ジーニアスには一抹の不安も無かった。




 ジーニアス達が立ち去った後。その辺りを分散して捜索を開始していた兵士達の数人は、今しがたジーニアス達が屯していた場所を、草の根を掻き分けるが如きの注意で調べ、その痕跡を辿っていた。
 そんな時、兵士達の背後に一つの影がフワリと舞い降りる。
 着地音でその存在に気付いた兵士の一人が息を呑み込んだ。通りの方が路地裏よりも明るい為か、そこに佇んでいたのが華奢で小柄な子供であるとシルエットから判別できた。
「こんな所に……子供?」
 突如として現れた子供の存在に兵士達は困惑する。深夜に近い時間に、それも人気の無い倉庫街を一人で徘徊する子供の姿は、常識的に考えてみても不似合い甚だしい。誰もが突然の闖入者に怪訝を抱くのは致し方のない事だった。
「迷子、か?」
「いや待て。この子、どこから現れたんだ?」
「…………」
 口々に兵士達から流れてくる疑問をその子供は沈黙で返す。俯いている為かその表情は一切知れず、それがかえって兵士達に不気味な印象を与えていた。
 暗闇に独り立つ子供の影…良く見ればそれが年端もいかない少女である事に気付いた時、兵達は不審を深める。
 だがそれをそのままに享受する以上に、自分達に課せられた任務の重大性を誰もが理解し、遂行しなければならないという使命感が彼らの中で燻っていた。下された勅令という大波を背に乗る彼らにとって、こんな夜道に子供が一人で徘徊している事実など小波に等しき現実でしかない。その為、与えられた任務を是として全うする彼らの裡に生じた戸惑いは即座に圧殺される。
「君、ちょっといいかい?」
「この辺りで人を見かけなかったか?」
 丁寧な口調、乱暴な口調。様々な韻を口にしながら兵士達は少女を取り囲む。もはやその眼差しは往々にして尋問に近かった。
「…………」
「おいっ、聞いているのか!?」
 相手が子供であろうとも自然と高圧的で強硬な態度になってしまうのは、寧ろ彼らが任務に忠実な証であり、ひいては上からの命令に何ら懐疑を抱いていない事を示す。大義に狭窄した彼らの目には少女の姿は極めて異質に映り、その異質から、自分達が追っている者達との関連性を見出そうとする些か強引な猜疑が彼らの意識を占めていたのだ。
 少女は一向に俯いたままその顔を見せる事はない。自分達の問いに全く反応しない子供に業を煮やした兵達の一人が声に恫喝染みた怒気を孕ませ、その小さな肩を掴んで傲然と言い放つ……それが彼らの仇となった。
「……させ、ない」
「え?」
 風韻よりも微かな声が流れると、幼き肩に乱暴に乗せられた手が、巨力に握り潰されたかのように小気味良い音を発てて拉げた。あまりにも一瞬の事だったので腕を砕かれた兵士も茫然とし、やがて自らの人体構造上ありえない方向に折れ曲がった自分の腕を見て、続いて雷速で迸る激痛に狂ったような悲鳴を挙げる。
 同胞の叫び声が彼らの警鐘を大きく鳴らしたのか、瞬く間に兵士達は少女との距離を開けて手にした槍の穂先を向ける。無事な兵士達は地面でのた打ち回る仲間を尻目に、何をされたのか未だ理解できていなかったが、紛れも無くこの少女に一因がある事を察して警戒を露にしていた。
「ジーニアスの、じゃま…………させない」
 剣呑さを増す殺伐とした空気が流れる中。夜の静寂に溶け込んでいた少女…イーファがゆっくりと顔を上げる。感情を載せない大きな双眸は敵意を剥き出しにする兵士達を捉え、夜光を反して妖しくヌラリと閃いた――。








 ジーニアス達がサブリナに導かれ、路地裏を突き進んで暫くしてようやく港に辿り着いた。
 空の明かりが乏しい為、墨汁の如く黒く濁った海を背景に、濃厚な夜闇に飾られて様々な風体で佇む船舶が鎮座していた。もしこれを夕暮れの黄昏時に見えたならばその壮麗さに感銘を覚えたところだが、こうして深い夜の帳に覆われていると悪趣味で威圧的な彫像が圧迫感を解き放っている様相でしかない。
 その中から自分達の船を見つけるのは容易だった。元々係留に指定された場所は、運良く王城から離れた場所であった為、未だ兵士達の走査の手が届いていないのだろう。
 だがそれは楽観できる事ではなく、暗闇の中にあって目視で充分に確認できる程度の距離では、既に松明の灯が無数に浮かんでおり、幾つもの船舶がポルトガ騎士の指示によって兵士達に接収されている様子が見て取れた。しかもそれは殆ど港にある船舶全てを対象としているようで、一隻一隻手当たり次第に拿捕しているのが一見して理解できた。
 あんまりな暴挙にジーニアス達は憤慨したものだが、同時に“エレイン”の捕縛をそれ程までに本気で取り組んでいる事に、ポルトガとサマンオサの繋がりの深さを垣間見た気がした。
 船橋を駆け上がり、操舵室に真っ先に飛び込んでいくウィルとリース。
 サブリナに紹介された技師達の尽力によって、この船の動力の殆どが魔力で補えるという特殊性を手に入れた。その事で船による移動に関しては二人の能力に依存する割合が増えたのだ。今のような緊急発進を求められた場合、どれだけ早く動力部に魔力を大量に注ぎ込むかが重点であり、それを支えるのは魔力密度の強弱ではなく、魔力の許容量だった。操舵室に向かったのがジーニアスではなくリースなのは、魔力強度ではジーニアスの方に未だ歩があるが、魔力許容量自体は潜在的な面も合わせてリースの方が上だったからだ。
 こと魔法が絡んでくると蚊帳の外に放り出されてしまう傾向にあるジーニアスとヴェインは、船を港に繋ぎ止めている縄や鎖を少々力技で切り離し、甲板の上で帆をいつでも張れるように待機する事になる。また、当然周囲への警戒にも目を光らせなければならない。ここに到るまでに薄暗い路地裏を駆けてきたこちらの視界は充分に闇に慣れており、光の中で作業をする兵達の姿を明確に浮き彫りにする。
 この船から少し離れた眼下では、また一隻。新たに誰の物とも知れぬ船舶が押さえられていた。しかし、兵士達がこちらの様子に気付いた素振りは見られない。
 脱出の時は今をおいて他に無い。泡沫の間の安堵に、ジーニアスは深く溜息を吐いた。
「カルロスさん……無事だといいけど」
「……今は信じるしかないだろう」
 ポルトガ王国が国を挙げて“エレイン”捕縛に動き出したと言う報を持って来たカルロスとは、宿から脱出した時より別行動を執っていた。
 カルロス曰く、自身はポルトガ最大の不穏分子たる自負がある為、その自分が喉元に現れれば捜査の人員を割く可能性が極めて強い。そうして指揮系統を撹乱させて時間を稼いでいる間に、このポルトガから脱出しろと言ったのだ。
 はじめジーニアスはその提案を頑なに拒んだ。偏にそれは恩人を犠牲にするような真似はしたくないという気持ちからだ。しかしカルロスもまた、恩人の子を実兄が討たんとしている事を黙って看過する事もできなかった。
 結局、相対する意見を戦わせて時間を無為に浪費する訳にもいかず、ジーニアスも一度面識がある王付き参謀官サイアスとカルロスが結託している事実と、行動予定を聞かされて渋々であったが頷いたのであった。
 夜の刻限では猫であるサブリナは現在、船縁に身体を預けるジーニアスの隣で王城の方角を見つめたままピクリとも動かない。猫の身であれ人間と何ら変わりなく世界を知覚できる彼女にとって、その心は夫の安否を案ずる姿に他ならなかった。また、彼女の愛剣『妖刀・誘惑の剣』は、カルロスから託されて今はジーニアスが預かっていた。
「……新しい時代の旗って、何なんだろう?」
 それは別れ際にカルロスに言われた言葉だ。どんな意味を持つ言の葉なのかサブリナが人に還らない限り判らない。だが去りしなにその事を告げるような形になってしまった事を、カルロスは随分悔いているようであった。カルロスの誠実な人となりを考えれば、少しずつ話を広げ、理解を得た上で告げたかったのだろう。殆ど押し付けになってしまったのは彼の本意ではない筈だ。
 カルロスと言葉を交わしたのは数回であったが、その僅かな間でカルロスの人物像を固めたヴェインはそう考える。故に、自分の意見を織り交ぜてジーニアスに要らぬ曲解を与える事はできないと思ったヴェインは、素っ気無く首を横に振った。
「行ってみなければわからないな。どの道、宝珠オーブを求めてランシールに向かう予定ではあった訳だ」
「それはまあそうだけど……聖殿ランシール、か。獅子レオ卿だっけ?」
「そうだ。聖殿ランシールを実質的に主導する聖枢機卿会を構成する一人」
 カルロスは最後に、ランシールの獅子卿を訪ねろと言っていた。
 精霊神ルビス教団における教会行政、及び運営方針を決定する最高位会議、聖枢機卿会。十二人の聖枢機卿と一人の議長からなる、精霊神ルビス教団の心臓であり、頭でもある機関だ。その構成要素である聖枢機卿は、地上に生きる者の運命を司る星座の名をその銘として教皇より拝受する。枢機卿会のメンバーはそれぞれ互いを与えられし星銘で言い表す為、教団の誰がその銘を賜った者なのは素性を知る事は互いにできない。すべてを知るのは議長たる“神聖騎女ホーリーナイト”エレクシア=ヴォルヴァと、任命者たる女教皇アナスタシア=カリクティスのみである。
 世界に名立たる大宗教組織の指導者の一人を訪ねろとカルロスに言われたが、同じ教団の者でさえ知る者は極少だというのに一応異教圏内で育ったジーニアスは勿論、ヴェインもまた獅子卿なる人物の素性など知る由も無い。また、そんな人物とカルロスの関係もまったくと言って良いほど見えては来ない。正直、雲を掴みに行けと言われた気分だった。
 ジーニアスが半ば茫然とした溜息を吐くのを横で聞きながら、ヴェインは月の無い夜空を見上げた。
「何れにせよ、ここに着て何らかの因果の歯車が急速に回り始めたと俺は感じる」
「因果、か」
 それは“エレイン”の名に纏わるものなのか。脳裡に真っ先に浮かんだそれに、顔を伏せたジーニアスは握った自分の拳を見つめる。
「そして、その中心にいるのは……ジーニアス。お前のように俺は思う」
「……僕、が?」
 瞠目しながらジーニアスはゴクリと唾を呑み込んだ。自分の名が出されると露程も思ってなかったのか、その強張った表情を見てヴェインは小さく肩を竦める。
「そう固くなるな。あくまでも俺の勝手な印象だからな。……どうであれ言葉の真意を確かめる為にも、俺達は立ち止まる訳にはいかない。この先どんな障害が立ちはだかろうとも、それを乗り越えなければならないんだ」
「……うん、そうだね」
 空から流れてくる夜風と遠くから響く人の喚声を無言で受け止めて、二人は言葉を噤んでそれぞれの思考に埋没する。
 足元が小刻みに震動していた。恐らく船の動力に発進に必要充分な魔力が供給されたのだろう。規格外の巨大魔導器と化したこの船も、起動と同時に闇色に染まった大海原へと漕ぎ出す。また暫くは大地の感触から離れる事になるのだ。
 名残惜しいという気持ちは無い訳ではなかったが、それでも新たな世界に向けての最初の一歩はどんな時でも胸が躍るものだ。不謹慎と思いつつも、ジーニアスは胸の裡に去来した想いを噛み締める。
 海面に幾重もの波が生じ、それは周囲に波及する。小さな漣がやがて激しい波浪となり規則正しく積み上げられた停泊場や周りに鎮座している船を強かに打ち据え始めた。
 パタパタと慌しい足音と共に甲板に顔を出したリースの声が、出発を喚起する。
「発進するよ! 二人とも何かに掴まってっ!!」
 その声が夜に染み込むや否や。船尾に新たに装着された推進器スクリューが咆哮を挙げ、埠頭を大きく鳴動させた。



 突然の地鳴りに、少し離れた場所で何事かと周囲を慌しく見回す騎士兵士達。彼らが闇の中で一隻の船が動き出した事に気付いた時には、そんな彼らを嘲笑うようにジーニアス達の船は通常の帆船では考えられない速度で既に湾内を疾走していた。








「ジーニアス……いった。…………よかっ、た」
 港に軒を連ねる倉庫の一つの屋根の上から、闇に紛れながら凄まじい速度で遠く離れていく一隻の帆船を見つめる姿がある。ねっとりと絡みつく粗暴な夜風の擾乱に長い薄桃の髪や黒衣を靡かせ、だがそれでも眉一つ動かさない少女、イーファだ。
 イーファは、ジーニアスが兵士達に捕らえられる事無く出港できた事に淡々と安堵を零していた。
 そんな少女の背後で、辺りに犇く夜闇が凝縮する。
「……つくづく呆れる速度だな。一体何をどう改造をしたらあんな非常識な船速が出るんだ?」
 頭上から急に発せられた声に、イーファは全身を硬直させた。
 唐突に現れた声…シルヴァンスは、こうして言葉を紡いでいる間にさえ視界から消えていく船影を興味深そうに見据え、続いて足元の薄暗い眼下の路地を一瞥して深く大きな溜息を吐いた。
「随分と派手に暴れたな……こんな仕事、頼んでないぞ? 何故勝手な事をした?」
「……じゃま、したから」
「邪魔、ね……この俺が告げ口なんて姑息な真似をしてまで舞台を進めたんだがな」
 その些か冷ややかな詰問口調に、イーファは変わらずに単調に返す。だが心なしか声が掠れている様に響いたのは、恐らく少女自身も意識していない緊張が今のシルヴァンスに対して生じたからだろう。
 イーファよりもイーファの事を理解しているシルヴァンスは、その粛々とした様子に浅く溜息を吐いた。
「まあ良いか。元々の目的はポルトガここの連中を煽りに来ただけだしな。連中が“エレイン”を取り逃がそうが知った事ではない。……いや、寧ろ力押しで物事が罷り通せると思い込むあの馬鹿には良い薬になるというものか」
 視界にちらつく前髪を優麗にかき上げて、シルヴァンスは今は遠き異国の玉座に君臨する存在に向けて心の中で唾を棄く。ついでに眼下の現実も“エレイン”の仕業と言う事に報じておけば、罪の一つや二つ追加される事になるだろう。叶わないにしても、そんな事の成否などシルヴァンスの知った事ではなかった。
「それよりもあまりソレ・・は解放するなよ。あいつ・・・からも言われてるだろ?」
「……う、ん」
 話題を全く別の方向へと転換させたシルヴァンスに、イーファは素直にコクリと頷く。そんな少女の両手には、明らかに不釣合いな巨大な鉄鎚かなづちが握られていた。その柄の長さは優に少女の身長を超え、夥しい数の鉄刺が飾り付けられた禍々しい鎚の部分でさえ、少女の身体をすっぽりと匿える程の巨大な鉄塊だ。常識的に考えても少女がそんな物騒極まりないものを持ち、振るう事など不可能。だが現実はそれを嘲笑うが如く否定していて、イーファは力無く下げた両腕で掴み無為自然なままに佇んでいた。
「何か良い事でもあったのか?」
「いいこと……って、なに?」
 日中に合流してからと言うもの、イーファの纏う気配が普段のそれと若干違っている事に気がついていたシルヴァンスは何となしに問う。問われた側である少女は少女で、何を言われたのか理解できないのか不思議そうに首を傾げていた。
 イーファの認識が透明なだけに、曖昧な概念を伝えるのは難しい。逆に問い返されたシルヴァンスは自然と難しい顔になり、両腕を組んで黙考を深める。
「抽象的な事の説明をそう改めて問われると難しいな……陳腐な言い回しだが、心が温かくなるような事、とでも言うべきか」
「……ここ、ろ?」
「わからないか?」
「わか、らない……でも」
 イーファは自らの胸に手を当て、噛み締めるように双眸を伏せる。
「……でも、あたたかい」
 その答えに口元を緩やかに歪めたシルヴァンスは、倉庫の屋根の上で踵を返して歩き始める。
「そうか。それは良かったな……じゃあ行くぜ」
「つぎの、おしごと?」
「いいや。実はさっきあいつから連絡があってな。いよいよ屍術師殿がイシスと全面的に事を構えるらしいから戻って来い、だとさ」
 お手並み拝見だな、とシルヴァンスは大仰に肩を竦める。
 遠きイシスの事など眼中に無いのか、再び水平線の彼方に視線を戻したイーファだったが、既に船影は深い闇の中に消えており見る事が叶わなかった。
「おねえちゃん、あえる?」
 一瞬だけ全身に寒さが走ったが、その感覚がどんな感情に由来するものなのか自分自身で理解できないイーファは気に留める事は無く。寧ろ振り返り発せられた問い方に、少女の強い思いは推移していた。
 問われたシルヴァンスは一層深く眉間に皺を寄せ、夜空を仰ぐ。
「あの女か。俺はあいつらの事情なんざ詳しく知らないから何とも言えないが、起きていれば・・・・・・会えるだろ……全く、だとしたらまたアジトが騒がしくなるな」
「……かえる」
「そうだな。こんな血生臭い場所、早々に退散するか」
 周囲に飛び交う風の香りを鼻腔で捉え、不快そうに顔を歪めていたシルヴァンスはパチンと指を鳴らす。
 次の瞬間、二人の足元で闇が花開いた。完全に諸手を広げ夜闇に咲き誇った影の花弁は、蕾に還元するように二人の姿をゆっくりと内包していき、自らが出だした更なる影に沈んでいく。やがて数瞬も経ぬ間に、その場から一芥の塵も残さないで消え去っていた。



 荒々しく吹き曝す潮風は、無常に狭く入り組んだ倉庫街や港を駆け巡る。静寂が支配していたその場には、宛ら天から隕石でも落ちてきたかのように大きく陥没した路地の成れの果てと、その周囲に無惨に飛散した石畳の砕片、崩れ落ちた壁の石礫。そして、元の形状が判別できぬまでに拉げた大小数多の金属片が飛び散っていた。
 共通する事は、その本来鈍色である筈のそれらは生々しくねっとりとした血色に染められていた。








「……ジーニアス君は無事に発ったか」
 同じ頃。ポルトガ城外壁通路から闇の中を出向する船影を見送り、カルロスは安堵の息を吐いた。
 その出で立ちは闇夜に紛れる為の漆黒の外套に身を包んでおり、手には緩やかに波打つ鮮やかな蒼き刃を握っている。そして艶かしく波打つ刀身には、仄かに香る紅の液体が付着していた。
 カルロスはポルトガ兵士達の捜査が始まった旨をジーニアスに伝えた後、独り真っ直ぐ宮廷に向かって移動し、わざと目立つように大立ち回りをして兵達の注意を掻き集めてきた。大胆且つ無謀とも言える陽動であったが、元々こんな事態に陥った時の事を想定して行動方針を予め定めていた為、その動きに一切の迷いは無い。
 そもそもカルロスが“エレイン”捕縛の情報を知り得たのは、ポルトガ騎士団を統括する立場にある参謀官サイアスからの使者によって先んじて齎されたからであった。カルロスはこの情報伝達経路をポルトガで最も信頼していて、その起源は現在の身分に堕ちてから自分の前に現れたサイアスとの交流が始まった十年前に遡る。
 何時しか自然と組みあがっていたシステムであったが、その指針は事有る毎に自分に有益に働いてくれた。そして今回もまた、これまでの例に漏れる事は無く。国内に“エレイン”の名を継ぐ者が潜伏しているのをサマンオサ皇帝勅使シルヴァンスの密告で発覚。それに激怒したポルトガ王リカルドが全ての騎士団、兵士達に対して“エレイン”並びに、接触の疑いが濃厚な弟カルロスを逮捕せよとの勅令が下ったという報を得て、それを阻むべく行動を起こしたのだ。
 それはカルロスにしてみれば、来るべき時が来たのだと半ば予定調和の結果に帰着したにすぎない。サイアスの一計で周囲の目を欺く為に、王籍剥奪よりこれまでの十年間住んできた家屋を焼き払う事になってしまったのには幾許かの寂寥を覚えたが、それでも命に代えられるものではない事は充分に承知していた。ただ、血を分けた実の兄が恩師の子を討とうとしている事、強大な力を持つ怨敵サマンオサに迎合している事に少しだけ悲しさを覚えたものだった。
 若干の予定変更は余儀なくされたが、概ね思い描いていた通りに状況は動く。それに従ってカルロスはの為にこうして王城の外壁回廊を忙しなく駆け回っていた。
「やれやれ……少し腕が落ちたか?」
 カルロスは疲労を滲ませながら一人語散る。良く見ればその姿には幾つもの裂傷が走り、その内側から更なる深みを持った黒で滲んでいた。呼吸もそれなりに早く疎らになっており、平時に比べて顔色が優れないのは体力の消耗の大きさを物語る。実はここに到るまでの数多の戦闘で、カルロスは既に満身創痍の状態にあった。
 呪いが発症してからというもの、夜の間という限られた時しか人間としての行動が取れなったのは勿論大きな弊害であったが、度々監視の目を盗んで城外へ抜け、野に蔓延る魔物と戦いを重ねてきた。その為、実戦から遠ざかっていたという訳ではない。
 カルロスの憔悴は、偏にここに到るまで幾十人ものとの騎士達と切り結び、それら全てを殺さずに制圧して来た事にある。相手を殺める戦闘よりも、相手を殺さず戦闘不能にする戦術の方が遥かに難しい。それをポルトガの軍相手に実際にやってのけるカルロスの戦闘能力は極めて高い事を示していた。
 しかしそれでも。相手は正規の訓練を受けた騎士達。自らの戦いに制限を掛け、何よりも魔法を扱う事が出来ない以上、カルロスとて数の神話に勝るものではなかった。
(次は地下の――)
「随分と派手に暴れてくれましたな、カルロス様」
「……ヘルマンか」
 今一度大海原を仰いだカルロスは、その背後より掛けられた声に表情を消す。
 振り返りもせず言い当てられた男…ポルトガ宰相へルマン=カルデモンドは深々と刻まれた皺を持ち上げてうっそりと笑った。
「お久しゅうございます。こうして直接見えるのは、今の地位に落ち延びられて以来ですな。その間、随分とご苦労を重ねられたようで……臣は御身の安否を案じぬ日はございませんでした」
「ふ……相変わらず空々しく口が廻るな。その厚顔に変わり無いようで安心した」
「この度の事、些か度が過ぎましたな。これ程の騒ぎを起こしたのであれば、最早看過する訳には参りませぬ」
「良く言う。お前がこうして直接現場に出てきた時点で、その心算など最初から無いのだろう?」
 感情を載せぬままカルロスが心理的余裕を上乗せして皮肉を放つと、ヘルマンは笑みを止め、双眸に滾るような侮蔑を貼り付けて手を振り上げる。すると背後に控えていた兵士達が一斉に剣を抜き放った。
 彼らの眼に元王族に対しての敬意など微塵も存在していない。在るのはただ、国に刃を向けた賊へと放たれる悪意と侮蔑。未だカルロスの事を慮る者が騎士団に在る中、彼らは紛れも無く宰相直属の近衛兵達で良く教育が行き届いていた。
 騎士団は参謀府の管轄だが、当然その中にも派閥が存在し彼らは宰相側に着いたのだろう。その事にカルロスは何の感慨も沸かなかった。国家という巨大組織である以上、完全な一枚岩で統御できる筈も無い。幾重にも分れた思想が互いを切磋琢磨し、この国をより良い方向へと導いていくのであれば歓迎するところだったが、サマンオサにすり寄った彼らを受け容れる訳にはいかなかった。
 頑なにサマンオサを拒むカルロスの姿勢には、サイモンの事を始めとして些か私情が入り過ぎている感はあったが、カルロスは己が裡に根付いた明然たる意志に従って動いている。それは嘗て師から引継いだ騎士道であり、実際に魔王と対峙した経験を持つ者として世界の行く末を切に案じる想いから来るものだった。
 その為にもジーニアス達を捕らえさせる訳にはいかなかったし、自身に与えられた役割を全うする為にも、ここで死ぬ訳にはいかなかった。
 カルロスは名剣『漣衝の剣』の切先を、ヘルマンの背後で槍の穂先を突きつけてくる近衛兵達に向ける。純粋に国に仕えるポルトガ騎士兵士ならば殺す訳にはいかなかったが、彼らに容赦するつもりは微塵も無い。なぜなら――。
「ここに到るまで、ポルトガ兵達の中に明らかに毛色の異なる者達を大勢見とめた……サマンオサ勢を手引きし、彼らを潜り込ませていたのは全てお前の仕業か?」
 鋭くカルロスが詰問すると、再びヘルマンは悪辣な笑みを浮かべた。それは問いへの応えは肯定なのだろう。
「この混迷の時代を生き抜く為には、より大きな力を持つ存在に寄る辺を預ける事こそ賢しき選択というもの。その程度の外交戦略における機微はご理解頂けませんかな?」
 それは尊大にして不遜な言い回しであった。長きに亘りポルトガの政務を取り仕切ってきた自身への誉れと、形だけの王族で実質的に何もしていないのと同じカルロスを嘲笑っての事だろう。
 カルロスは眉を顰め、声調を低める。
「サマンオサを治める者の背後に何が在るのか知りながら斯様な大言を吐くか……貴様の行動が、世界を破滅に導く一助になっているのだ。何故それに気付かない?」
「はて、何の事でしょうか? 貴方の仰る事は理解に苦しみますな」
 少しの動揺も載せず、間を置かずして淡々と連ねられたという事は、予め要していたものなのだろう。小さく舌打ちしたカルロスは気迫を込めた眼光で宰相を睨む。それは覇気と言ってよい裂帛の気迫だったが、ヘルマンもまた長年政務に携わった者としての老獪さで優に受け流す。
「見れば随分とお疲れのご様子……せめてもの慈悲として大人しく投降して頂けるならば、寛大な処置を取らせて頂きますが」
「要らぬ気遣いだ」
 他人事のように浅く嗤い、カルロスは自身の状況を顧みた。
 海に面して聳え立つ外壁の背後は行き止まり。その下に広がるは岩礁。この高度から落下すればまず助からないのは自明だ。そして王都の内側では『キメラの翼』や『思い出の鈴』は使えず、緊急脱出の術も既に無い。
 状況は、既に万事休すを物語っていた。
 決起の当初より、仮にこれが生死を問わずと言う条件下での制圧と自身に与えていたならば異なる結末を迎えていただろうが、カルロスにその選択肢を選ぶ気は毛頭無かった。腐っても王族として、我が手で我が民を殺める事などできようものでもなかった。
 自身の想いの為にこうして窮地に陥り、そしてまた自身の想いの為にこの困窮を打破しなければならない。あの戦い以降、生死に関して自分は潔いと思っていたが、どうしてなかなか生き汚いものだと自身の新たな側面を発見し、こんな状況であるにも拘らずカルロスは可笑しくなった。
 傷付き、疲れ切った身体で何処まで戦えるかわからないが、カルロスは既に死など恐れるに足らない。不思議と負ける気がしなかった。
「諦めはしないさ。私にはまだやらねばならない事があるのでな」
「! 歯向かう気かっ」
 ヘルマンが兵達の後ろに下がり、場の空気が一変する。
 三対一の戦力差で、且つ舞台は狭い通路。退路は既に無い。幸い相手の得物が剣であった為、間合いにおける優劣は無く、慎重に相手との距離を測る。
 剣を正眼に構え、敵の一挙一動、どんな些細な動作も逃さぬように注視する。
 同じように機を窺っていた敵の兵士が、摺り足に地面に落ちていた小石を弾いた。
 場の緊張が揺らぎ、表面張力的な均衡を保っていた殺気が破裂し、大きく決壊する。
 迸る殺気。夜空を行く暴風が昂ぶる意識を煽り、一気に加速させた。
 兵士達が一斉に動こうと姿勢を低める。その刹那の挙動に合わせて、カルロスも刃を返し、両腕に力を込め――。
 次の瞬間。強烈な閃光がその場にある全ての視界を灼いた。
「っ!?」
 不意に到来した烈光にカルロスの視界が失われる。思考も一瞬停止し戦場にあって大きな隙を生じさせてしまったが、何故か痛みは無かった。
 代わりに場に轟いたのは、耳を劈く幾つもの悲鳴だった。
「な、何事だっ? どうしたというのだ!?」
 瞬閃の光と、それに続く苦悶の断末魔。未だ戻らぬ視界の中で、悲鳴染みたヘルマンの怒鳴り声が細々と響く。
 徐々に戻る視識に飛び込んできたのは、潮風に曝されている回廊。だがその回廊のいたる所に深い闇色の染みが付着し、更には暗がりの為に良く見えないが、これまでに無かった筈の何らかの物体が周囲に転がっていた。
「これ……はっ!」
「ひぃっ!!」
 カルロスとヘルマンの両者の視界が徐々に闇に慣れてくると、回廊に散乱しているの正体が明らかになる。それらはヘルマンに従っていた兵士達の身体の一部分や、彼らが纏っていた鎧兜の破片だった。兵士達は往々に何か恐ろしく鋭利なもので切り裂かれたのか四肢や肉体が無数に分断され、あらゆる方向に飛散していた。周辺一帯に咲き乱れた緋色の血潮や、細切れの肉塊や臓腑が石畳を深々と染め上げている。
 場に急激に立ち上る死の臭い。それは現実に牽引されて浮上する恐れの心情が齎す錯覚なのだろうか。言うに及ばず兵士達は残らず絶命しており、非日常があまりにも突然に現れた事態にヘルマンは恐慌を起こす。
 戦場に立った経験のあるカルロスでさえ思わず顔を顰めたくなる程に凄惨な光景。文官であるヘルマンの気が動転するのは無理からぬ事だと、震える老爺を茫然と眺めながらカルロスは思った。
 その時、場違いなまでに悠然とした声が夜の空より舞い降りる。
「何とか、間に合ったようですねカルロス様」
 声で誰かが判別できたカルロスは無意識で安堵を零す。だがカルロスよりも先に声を挙げたのは、もはや動揺を御しきれていないヘルマンの怒声だった。
「何をしているのだ、サイアスっ!!」
「これはカルデモンド卿。ご機嫌麗しくあるようで。月見の散歩……では無いですね。今宵は新月でした」
 仰々しく芝居掛かった仕草で優雅に連ねるサイアスは、この惨状に立ち入ろうとも至極普段通りのおっとしとした様相のままだ。それは見方によっては慌てふためいているヘルマンを嘲笑っているようでさえある。
 事実、そのように受け取ったヘルマンは苛立ちを隠しもせずに捲くし立てた。
「貴様っ、どういうつもりだっ!?」
「どういう、とは?」
「とぼけるな! これは貴様の仕業だろう! 何故逆賊の処刑の邪魔をするっ!!」
 ヘルマンに促され、サイアスは足元に飛び散った兵士達だった肉塊モノを一瞥して小さく頷く。
「逆賊? ……ああ、貴方が招いた彼らの事ですか。何か問題でもありましたか? 私はカルロス様にお話があり参じたのですが、彼らが回廊を塞いでおりましたので……ちょっと退いて頂いただけなのですが」
 無感情のまま単調に語るサイアスに、ヘルマンは戦慄を禁じえない。だが得体の知れない恐怖に襲われているとはいえ、彼は政敵でもあるこれ以上の痴態を見せる訳にもいかないと言う意地が更なる怒声を搾り出した。
「そもそも以前より不可解だとは思っていたのだっ。先日サマンオサ帝国の勅使が謁見した時も、陛下は既にその意を固めておられたというのに無粋な真似をしおって! 皇帝勅使を前にしてあのような醜態を曝しては、我が陛下の名誉に傷が付くであろうっ!」
「私はただ、あのままの流れに従いこの国を彼の国の属国に成り下がるのを阻んだだけです。それに……」
 ここで一旦言葉を溜めて、サイアスはじっとヘルマンを見据える。その冷静な眼差しに射抜かれて、尚も捲くし立てようとしていたヘルマンは口を噤む…いや、噤まざるを得なかった。
「それに貴方にとって陛下の名誉など一芥の砂程の価値も無いでしょう? 貴方の筋書きでは、この国をサマンオサに売り払い、その代価としてこの国の統治権を得る筈だった……随分な安売りを画策したものですね」
 それは責め立てるような口調では無く、普段と変わらず柔和なものであったが、何か言いようの無い威圧をサイアスから感じてヘルマンはあとずさる。ヘルマンの背後に佇んだカルロスが息を呑んでいた。
「い、いい加減な事をっ……」
「貴方の手引きで、相当数のサマンオサ兵が騎士団に流れ込んでいる。蜂起に必要十分な数が揃った後、彼らを従えて現王の退位を促す行動に移ったのでしょう? ……実に浅はか甚だしい。確かにこの時代、ポルトガがここまで国力を蓄える事ができたのは、貴方の功績である事に疑いの余地は無い。それを齎した貴方の政治手腕は確かに賞賛に値するものです。しかし、それだけが王に相応しき器か否かを示すものではない……自らを弁えず計り損ね、要らぬ野心を抱いてしまったが故に――」
 サイアスは小さく溜息を吐き、眉間に指を当てる。それは惜しんでの事か他者には知る由も無かったが、やがて顔を上げヘルマンを仰いだ。
「まあ、そんなさもしい野心などこの際どうでも良い。貴方にはもっと別の、より的確な使い道ができましたので」
「なに?」
「サイアス?」
 先程から二人の会話を聴く事に徹していたカルロスも、サイアスの言動に奇妙な違和感を感じて怪訝そうに眼を細める。
 その時。言葉無く腕を翳したサイアスの掌から一条の熱線が放射され、ヘルマンの左胸を寸分の違いなく貫いた。
「ぐがっ!?」
 尚も熱線は消える事無く背後の石柱に突き刺さり、ヘルマンを宙吊りにする。一瞬何をされたのかさえ理解できなかった当のヘルマンは、内側からこみ上げてくる死に漸く自らの状況を呑み込む……だが、そこまでだった。
「ざ、い……アず……ぎ、さマっ……」
「お役目、ご苦労様でした」
 ニコリと笑ったサイアスは、刃の厚みまで細められていた熱線をそのまま真上に振り抜いた。熱の刃は心臓から切り上げられて肩口を大きく引き裂く。一見すると斬撃を受けて刃が心臓に到達した上での死と断定されて然るべき様相だろう。
 夥しい血液が夜空に向かって噴出し、暗がりの回廊を更なる鈍色に深々と染める。
 サイアスによるヘルマン殺害の瞬間を目の当たりにしたカルロスは、表情を引き締めた。
「……何故殺した?」
「役割を終えた役者は、舞台から去るのが道理というものです」
「だが、ヘルマンを泳がす事でサマンオサを炙り出すと提案したのはお前ではなかったか?」
 いつか自分達が行動を起こす時の決定事項。それが提案した側のサイアスから覆されたのだ。カルロスの疑念は然るべきものだろう。
 サイアスにしても、そう問われる事など既に予定調和としている為か、横目でちらりと壁に凭れ掛かったまま絶命したヘルマンを一瞥し、悠々と応える。
「本来はそのつもりでしたが……予定が変わりまして。彼の存在に価値が無くなったんですよ」
「どういう事だ?」
「サマンオサという巨人の足元を掬うには、より適した役者が舞台に上がったのでね」
「まさか……ジーニアス君か?」
 カルロスとしては賛同しかねていたが、やはりその予感を抱いていたのだろう。思わず瞠目してしまったカルロスに対し、サイアスは頷くでもなしに意味深な笑みを浮かべた。
「表舞台に立った彼が自由に動く事で、“エレイン”を恐れるサマンオサも自ずと深底から水面に近付かざるを得ない。今まではジーニアス殿が盗賊団“流星”の一員として影に隠れていた事もあって選択肢からは外していましたが、このポルトガを訪れ貴方に接触した。その事実を以って、最も効率的に計画を遂行する為の条件が満たされたと言う事です」
 懇切丁寧に説明してもカルロスの表情は晴れなかった。やはり恩師の子を巻き込む事を納得できていないのだろう。
 サイアスはそれに対し特に非難をせず、ただ小さく頭を振った。
「彼の勇者達が没し、十年。この十年の間で世情は大きく移り変わり、世界はまた激動の予兆を見せはじめました。この機を逃す訳にはいきません。貴方も私も、その為にこれまで準備を進めてきたではありませんか」
「……そう、だな」
 カルロスやサイアスはこの十年間、日々勢力を拡大している魔王軍に対抗する為に、嘗ての“勇者”達がそうしたように国家という枠組みを越えた同盟軍“曙光の軍勢”の再生に心血を注いでいた。軍勢再生を最初に提唱した人物は聖殿ランシールの“獅子卿”であるが、彼の意志に従い、十年前の唯一の体験者として擁されたカルロスが世界に散らばる勇士達や組織と接触を図ってきた。
 以前は共通の大義を掲げて一丸となっていた同盟諸国も、勇者達の敗北以降足並みが揃わず今日では各国独自の抵抗に留まっているのが現状だった。その結果として魔王軍に対し後手後手に回ってしまう事が殆どであった。
 そんな状態がこの先続けば世界の破滅は必至。だからこそ、緊迫した世界の趨勢を変える為にも世界は再び一つになる必要がある、と“獅子卿”の遣いとしてサイアスはカルロスに初めて接触した時に告げていた。
「せっかく魔王なんて都合の良い世界共通の脅威がいるのですから、これを利用しない手は無い。あまり慎重になり過ぎていても機を逃します。もう賽は投げられているのですよ」
 この計画は当初、軍勢の大敗により各方面の疑心暗鬼から難航していたが、十年と言う長い歳月を掛けて漸く様々な援助や協力を取り付ける事ができ、現実味を帯びてきていた。そして残る最大の仕事は、軍勢の旗手となるべく存在を探していたのだ。
 掲げた大義の旗に不朽の輝きを与える、太陽の如き存在。それは嘗ての二人の勇者達と同等ともいえる人の意志を束ね導く者だ。その存在に最も適しているのは“勇者”、或いは英雄と言う肩書きを冠する者であり、現在それに相当する人間がいるとすれば“アリアハンの勇者”の名が思い浮かぶが、彼の存在はあまりにもその背後にあるアリアハンという国家単独の色が強い。故に、カルロスはその選択肢を閉ざしている。
 様々な人種や思想が軍勢の中に包含される以上、希求すべき最上は聖殿ランシールより賜れる“世界の勇者”の称号を得た者だ。
 勿論、そんな存在がこの時代に生まれるかカルロスにわかる筈もない。だがジーニアスとの別れ際に、真意を除きつつもそれを髣髴させる言葉を投げかけたのは、十年という年月を経て立派に成長した師の子息に少なからず師の面影を追い求める心情がカルロスの裡にあるからだろう。切迫した状況下で、殆ど押し付けるような形で告げてしまった事は自分の未熟さ故であり、後から自嘲せずにはいられない心境になったものだ。
「……私も、覚悟を決めねばならないと言う事か」
 自分の中から甘さを吐き出しきるように深く長く溜息を吐き、カルロスは双眸を伏せて思考を広めた。



 夜は更に深まり、既に暦の上では新たなる一日を刻み始めていた。
 海上を舞う風はその冷たさや荒々しさを増し、遥か眼下の港では未だに煌々と松明の火が右往左往していた。
「……一度獅子卿と連絡を取りたい。サイアス、頼めるか?」
「カルロス様。そろそろ貴方には、貴方の役割を演じて頂きます」
 カルロスとサイアスは同時に口を開く。
 それで退いたのはカルロスであり、唐突なサイアスの真意が読めないカルロスは怪訝に眼を細めるばかりだった。
「……どういう意味だ?」
「貴方にはエジンベアの潜兵として、ここで退場して頂く」
「なん、だとっ!?」
 冷厳と告げられた言葉は正に青天の霹靂であり、予想だにしていなかった衝撃にカルロスは二、三歩後ずさる。逆にサイアスは一歩前に進み出た。
「現在、第一王女マーゴット殿下率いるエジンベア艦隊がポルトガ領海外縁近傍の小島に停泊しています。勿論これは非公式な軍事行動ですので、ポルトガの対応としては“無敵艦隊”を派遣、牽制を選択しました」
 所属不明の武装船が自国の領海を侵犯しようとするのであれば、軍を統括する身であるサイアスがそう指示を下すのは防衛上当然の事だろう。
「こちらの希望としては、“無敵艦隊”に組み込んだサマンオサ工作兵達をまとめて処理する為にも戦端を開きたいところですが、ここで一つ問題が生じます」
 その言葉に表情を強張らせるカルロスを見据えながら、サイアスはスッと人差し指を立てる。
「エジンベアと交戦するに当たって、やはり相応且つ明確な理由が必要となってきます。幾らこのポルトガに潜在的なエジンベアへの敵愾心が在ったとしても、この時勢、人同士で争う事に人間としての道徳がそれを阻みます。カルデモンド卿やサマンオサ勅使が随分と陛下を煽っていたようですが、それでも些か足りない。その不足分を解消するには、呼び水として貴方の存在が必要不可欠……つまり、王家を追われた元王弟がその地位を簒奪せんが為に他国に組したという、事実がね」
「っ!」
 思った事も無い謀略に言葉を接ぐ事すら忘れ、カルロスはただ唖然とする他は無い。
 サイアスの連ねるその建前は、先程彼自身の口から発せられていたヘルマンの野心と何ら変わりが無い。背後から傀儡を操るのがサマンオサかエジンベアかの違いしかない。そしてこのポルトガにおいて、疎まれるのは間違いなく後者である。
 カルロスにその心積もりが全く無くとも、信頼していた参謀の翻意に危惧を覚えずにはいられない。先程から柔和な笑みを浮かべているサイアスであるが、その笑みは既に冷たく鋭く突きつけられた刃に等しかった。
「結果として貴方には悪名を被って頂く事になってしまい申し訳無く思います。ですがこういうものは人間的な生臭さや、万人に伝わる判り易さが重要なんです」
「ま、待てっ。それでは本当にエジンベアと戦争になるだろう!? 我々とマーゴット王女との間で交わした密約は、あくまでもポルトガとサマンオサの間で結ばれんとしていると反同盟協定締結に対して、西方三国の立場からその真意を質す為の圧力としての派兵と決まっていた筈だ!」
 カルロスは乾いた喉に鞭を打って叫ぶ。対するサイアスは少しも悪びれた様子も無く、相も変わらず単調に続けた。
「いいえ。当初より、ポルトガとエジンベアには戦争をして頂く予定でした。マーゴット王女の意志がどうあれ、後ろに座したエジンベア首脳がこのポルトガに対して如何なる思惑を秘めているか、両国の成り立ちを鑑みれば簡単に思い至るでしょう? それを前提に据えて、勧告より四週間後…つまりは明朝、夜明けと共に攻撃を開始するよう艦隊には指示を出しております」
「馬鹿なっ!」
 つまり、この夜の終焉と共にポルトガとエジンベアの戦端が開く事を意味する。それをあまりにも平然と首肯するサイアスに、カルロスは激昂した。
「いいですか? 軍勢再結成の暁に最大の障害となるのはサマンオサ帝国です。帝国は今でも周辺国家に多大なる影響力を持っている上、貴方もご存知の通り、彼の国は魔の手勢によって支配されている。そんな物騒なものを何時までも捨て置く訳にはいかない。魔王軍と対峙する軍勢結成後にその歴史に幕を下して貰うのが重畳というものです」
「だがあの国には――」
「確かに勇者サイモンを追放して以来、盗賊団“流星”が最大の抵抗勢力として彼の帝国に敵対していますが、所詮は寄せ集めの集団。その抵抗も微々たるものです。せいぜい巨人の足元を竹槍で突いているようなものですからね。そこで理想となるのが軍勢と“流星”が協力して帝国を討つという図式ですが、それを成す為に、ポルトガとエジンベアの戦争が必須となるのです」
「……な、何故そうなる?」
「エレインと繋がりの深い貴方が、水面下でエジンベアと結託していた。その事実より始まった戦争は、サマンオサ帝国に対しても充分なふるいとなる。サマンオサはサイモンの影を今でも恐れていますからね。貴方を通して敵対組織であり、“エレイン”の庇護者である盗賊団“流星”がエジンベアと裏で協力しているのではないかという疑念を抱かざるを得ない。また、エジンベア首脳が既にアリアハンと同調している事をカルデモンド卿を通じて既に彼の国に意図的に流しておりますし……そうなれば、四面楚歌に近い状況を打破する為に、唯一懐柔しやすいこのポルトガを足掛かりとして、その包囲を脱そうと画策する。その一端としてより多くのサマンオサ兵がこのポルトガに送り込まれてくるのが予想できます。それをエジンベアに駆逐させて確実に彼の国の国力を削るのです」
「待て。エジンベアとアリアハンの同調が既に知れているなら、ポルトガとエジンベアの戦争は…………ま、まさかっ」
 とある事実に気がついて愕然と大きく眼を見開くカルロス。その帰結に到達した事を満足そうに頷き、サイアスは口元を歪ませた。
「ご明察です。やはり、貴方は優秀ですね」
「お、お前達は……一体何を考えているのだ!?」
 それはサイアスと、彼が橋渡す人物に向けて放たれていた。
「勿論、この世界がこの世界で永遠に在り続ける為に。世界を動かすのは、そこに住まう各々の意志によるものであって欲しいと願うが故」
 踵を返し、サイアスは外壁通路から真夜中でさえも明りが消える事の無い街並みを眺望する。その眼差しは、宛ら我が子を愛でる親の如き柔らかなものだった。
「……貴奴・・がこの世界に到る前に」
「貴奴?」
「貴奴は、嘗て一つの世界を呑み込んだ。そこにある全ての意識を篭絡し、逃れられない鎖に封縛して統治下においた。彼の地に真の意味での自由は存在しない……貴奴は、必ず来る。貴奴がこの世界に浸潤してくるまでそう時間は残されていない……世界が、“ギアガ”によって連結している限り」
 これまでの穏和な韻を一変させて、深刻な声色でサイアスは一人語散る。そこには憎悪に近い感情が滲み出ていた。
 それは十年近い付き合いのあるカルロスさえも見た事の無い側面であった。
「サイアス……お前、何を言っている?」
「……少し、お喋りが過ぎたようですね」
 自嘲気味に笑って外套を翻し、カルロスから数歩離れた場所まで歩んだサイアスは再び立ち止まる。
「何れにせよ、世界に布かれた旧き枠組みを廃し、新たなる秩序が必要となってくる。その為にも誰が味方となりうるか、誰が敵となりうるか見定めなければならない」
「その為に何をしても……戦を起こしても正しい事だと言い張るつもりか!?」
「当然です。誰もが正義を貫くが故に争いが産まれるのです。人類史とは争いの歴史。人の織り成す意志の奔流は闘争によってのみその矛先を定められるのです」
「こんな……こんな欺瞞が許されてっ」
 サイアスの真意はカルロスの騎士道に悉く相反していた。それは今まで自分が立っていた場所が崩れ去るのと同じくらいの衝撃を齎す。
「奇麗事で世界は動かないのは、“魔竜討伐”に参加された貴方も良くご存知の筈では? 重要なのは倫理観に基づく人道的な正しさでは無く、確然たる事実です。そしてこの度の場合、貴方がサイモン殿のご子息と共に行動しておられたという事実。貴方が刃を手にこの宮廷に立ち入ったという事実……真意を語る口は既に無く、語られぬ真実など一片の価値も無い」
 言いながらサイアスは周囲を示す。闇に満ちた回廊のあらゆる場所で見るも無惨な斬殺死体が散乱しており、事情を知らない者がこの状況に立ち会えば、唯一剣を手にしているカルロスの仕業であると考えるのは一目瞭然だ。
 これまで自分の取って来た行動の全てが、この信頼した参謀の掌の上で踊っていたに過ぎない事実に気が付き、悄然とカルロスは肩を落とす。
「私を……謀っていたのか?」
「……予め申し上げた筈ですよ。初めてお会いした時、貴方には世界の礎となって頂きたい、と」
 それは数年前。王籍剥奪後に暫くして着任した参謀官サイアスが唐突に現れた時に告げられていた言葉。紛れも無い事実だった。そこにこんな結末が秘められていたなど考えもつかなかったが。
 心外だと言わんばかりにサイアスは小さく肩を竦める。
「無論、貴方の願いである“曙光の軍勢”の再生は完遂するのでご安心下さい。国家間の枠組みを越えて結成される存在は、ただそれだけでも大きな意味を持つ」
 言葉を閉じたサイアスは夜空の星を掴まんと腕を高々と掲げる。
「この空に太陽が燦然と輝く為には、駆逐されるべき闇が蔓延るという前提が必要不可欠。新たなる朝をこの不朽の天に迎える事を望むならば、夜を駆け抜け立ち止まってはならない…………メラゾーマ」
 ここで初めてサイアスの口から紡がれる上級火炎魔法。彼が非常に優れた魔導士である事をカルロスは知っていたが、まさか真言詠唱を破棄してこうも容易く上級魔法である極大の焔を操れる程とは考えていなかった。
 振り翳した掌から、外壁通路を優に飲み込むだけの巨大な炎球が具象し、真夜中に突如として現れる太陽として、燦然と闇を蹂躙し駆逐する。
 夜が白転し、灼熱の炎波にカルロスは圧されて外壁の最縁部まで追いやられてしまった。
「この国の行く末はお任せ下さい。カルロス様」
「サイアスっ!!」
 絶叫するカルロス。その彼の眼前で太陽とも言える紅蓮の極光が急速に肥大し、爆ぜた。
 轟音と共に、城の外周回廊は崩れ落ち、闇を彷徨うが如く、噴煙が寂しく風に攫われていった。





「!?」
 船尾の縁の上で今は既に見えないポルトガを見つめていた白猫は、何かを感じてビクリと身を捩じらせる。
 その様子を沈痛な表情で見守っていたジーニアスもまた、言い表せぬ感覚に闇の先を見据えた。
 だが既に随分と進んでいた為か、そこに灯る筈の夜の明かりは終ぞ捉える事は無かった。




back  top  next