――――第六章
      第一話 動き出す世界







―――時を導す針は本来在るべき流れに還り、再び今を刻み始める。



 一欠片の光も音も無く、全てが無の泥濘に埋もれし閉ざされた世界とも言い換える事の出来る真闇が満ちる空間。そこには生物の鼓動も熱も存在せず、ただ闇が空気の流れに揺られて静かに蠢動しているだけだ。
 その時、唐突に蒼黒い光が降り注ぐ。いや、それは寧ろ空間を満たす闇が動いて浅薄が強調されただけであろうか。
 いずれにせよ、濃闇から露わになったのは高く突き立つ一つの柱。その頂上に一つの人影があった。
 全身を包み隠す黄銅のローブからは、微塵もその人物の特徴を見出す事は出来ない。ただ彫像の如く佇んでいるだけで放たれる峻烈な気配が、冥府魔道に身をやつす者である事を言無く物語っていた。
 その存在こそ、魔王軍随一とされる魔韻の奏者“智魔将”エビルマージ。世界に広がる冥律を操りし魔の眷属を統べる将は、深く昏い思惟の海を蕩揺っていた。



――過日、聖王国イシスにおける戦争は結果として彼の国を滅亡に追いやる事はできなかった。その点だけを見るならば魔王軍の敗北といっても良いが、魔王軍としてはあの戦における勝敗の行方などに重きを置いている訳ではなった。
 そもそも彼の聖王国を貶めた軍勢の主体は、現地の人間に古より秘められたる業を用い、その存在を魔に変異させただけの半端な魔物が占めていた。それらは正式な魔王に属していない上に、を率いていたのは不完全な魔族“屍王ワイトキング”。その彼にしてもエビルマージの配下…いや、自らが精製した試作型“昂魔の魂印マナスティス”、『冥鎧・死屍の鎧ゾンビメイル』の実験体に過ぎなかった。
 屍王アスラフィルはこちらの思惑に乗りながらも、独自の目的を胸に秘めて動いていたようであったが、それは大火を前にすればただの瑣末な灯火に等しい。元よりイシス戦争の目的は、たかだか辺境の奥地に生息しているだけのイシス壊滅に非ず。
 エビルマージが画策した戦争の真の目的は、自らの持つ“黒の欠片”に餌を与える事。そして人々の意識が不安定に揺れ動かした後、主君たる魔王バラモスの存在を知らしめる事にある。
 王の喧伝はイシス単体に対して行った事であったが、危機を恐れる人々は戦の恐怖と共に自らその噂を世界に満ち広げる事になった。戦後、聖王国は何よりも早く緘口令を敷いたようであるが、どれだけ強固に情報の流出と統制に尽力しようとも人の口に戸をかける事など不可能なのだ。特に、それが恐怖と言う感情と色を伴って生じるものであればある程。
 ただ、当事国であるイシスの対応の迅速さに関してのみエビルマージは彼の国を動かす者達に内心で賞賛を贈っていた。まず間違いなく、彼の地に在りし“十三賢人”の知恵である事など既に知れていた。
 青臭い若造だと認識していたが、随分と聡くなったものだと彼の者を思い浮かべ、昏く嗤う。
 十年前。勇者オルテガ、勇者サイモン、そして“曙光の軍勢”が敗退した時は何とか隠し通す事が出来た真実……人間にとっての大敵である魔物の背後に座す王という絶対的な存在。長らく降ろされて欺瞞の緞帳は、直に開かれる。その時こそ世界は、負陰の極地へと向かって一気に滑落するのだ。
 実際、イシス終戦後。既に四週間程の時が経過していたが、人の出入りが激しい大都市では不安を誘う様々な方向に誇張された噂が浸透し始め、急速且つ確実にその気配を高めている。
 全ては、こちらの描いた通りに――。



 これまで、そしてこれからの事に思考を巡らせ、エビルマージは誰にも見られた事の無いフードの奥の素顔で酷薄に笑う。
 その時。もう一条の光が闇の天より降り注いだ。
 闇の深遠より浮上する柱には、エビルマージと同様に一つの人影が佇んでいる。
「随分ト愉シソウダナ、えびるまーじ」
「……卿か。何用ぞ?」
 金属同士を打ち付け合っている中で発せられたように、不鮮明で聴き取り難い声を耳にしてエビルマージは笑みを止める。興が殺がれたと言無く主張する冷めた視線は、顕現した柱の上に向かって横柄に投げ付けられた。
 新たに現れた姿は遠巻きに見ては人型であったが、それでも決して人間のものでは無い。その筋骨隆々たる体躯は見事な灰銀の毛皮に覆われ、背中に生えた蝙蝠のような翼が仰々しく空を漕いでいた。また、大蛇を思わせる太くしなやかな尾の先端には常に幽朧な焔を燈し、重力に反して宙空を所在無く漂う。それだけで充分に人外の存在である事を物語っていたが、その者を人外たらしめている最たるものは頭部にあった。
 暗紅蓮のたてがみを闇に靡かせているのは、獅子の頭蓋だった。人間の五体の内、頭部だけをそのまま獅子のものに挿げ替えたかのような獣頭人身の魔族、白焔獅子ラゴンヌ。獰猛な百獣を統べる獣の主“獣魔将”を冠する魔王バラモスの腹心中の腹心だ。
 魔族で在りながらその姿が人型に近いのはラゴンヌに限らず、“偽躯魄合フュージュン”をはじめとする手段によって魔族化を為し遂げた魔物に良く見られる傾向で、しかしその現実はそれまで獣の姿の喪失を意味するのではない。寧ろ自身の裡で肥大化し、暴れまわる力の安定を求めた結果として人型を象るものに過ぎず、全力を露する時はやはり本来の姿に戻らねばならない。
 それを進化と呼ぶのか、または逆の事象を指すのか議論の余地はあるが、どの道この事情は人の世界では語られる事が無い故に無意味である。
 ただ目線を合わせただけで死を髣髴させる危うき眼をギロリと動かし、ラゴンヌはエビルマージを侮蔑のままに見据えた。
「アレダケ大見得切ッテ出張ッタ割ニハ、碌ナ戦果モ上ゲラレナカッタヨウダナ」
「何を言いだすかと思えば……イシスの事か。下らぬ」
 小さく頭を振って嘆息するエビルマージに、ラゴンヌは眉間に皺を刻んで眼を細めた。
「下ラナイ、ダト?」
「然り。此度の戦役、勝敗など問題ではない。重要なのは我らが王を世界に開示する事にある。ご降臨の時に始まり、卿も追従したであろう十年前の戦役を含めた現在に至るまで、人間共はこそこそと情報統制などと言う小賢しい事をしていたようだが、それも先日の戦を機に意味を失った。これからは、生き残った人間同士の繋がりを基盤として徐々に混迷は深く拡大する事になるだろう」
「ヤル事ガ一々面倒臭セェナ。人間如キ、適当ニ狩ッテイケバ良イダケダロウガ」
 ラゴンヌを筆頭に殆どの魔物、魔族にとって人間などただ狩られるだけの脆弱な生物という認識しかない。その彼の眼から見れば、甲斐甲斐しく計画を練ってまどろっこしく人間を追い詰めているエビルマージの行動そのものが不可解極まりないものだった。
 その念を込めていたのか、巨漢の獅子は深々と溜息を吐いて肩を竦める。
 エビルマージに彼の内心など知るつもりもなかったが、ただその発言を冷ややかな視線で受け止めていた。
「目的を履き違えるでない。人間世界を滅亡に追いやるだけならば、そんな事とうの昔に終えている。人界侵攻はあくまでも手段に過ぎず、我らが目的は世界に負陰を撒き散らし加速させる事にある。そしてそれは単純な破壊と殺戮だけを以ってして叶う程の易き勤めではないのだ。短絡で物事を計るなと苦言を呈したいところだが……獣たる卿にはちと無粋と言うものか」
 その口調には明らかな嘲りがあった。それを覚ったラゴンヌは眦を吊り上げる。
「……貴様ノ口車ニ乗セラレテ出張ッタ下僕ドモハ無駄死ニサセラレタンダガナ。ソノ落シ前ハドウシテクレル?」
「笑止。あの程度の雑兵、吐いて棄てる程おるだろう。数の多さだけが取り得たる獣の群れ…弱き者は強き者の糧となり血肉となるのが、そなたら獣魔軍の往々なる摂理ではなかったか?」
「狩リニ出向イテ逆ニ狩ラレル程度ノ馬鹿共ナンザ、ドウデモイインダヨ。俺様ガ言イタイノハ、“智魔将”デアル貴様ガ俺様ノ配下ヲ無断デ使ッタトイウ点ダ」
「成程。越権行為と申すか……くくく、ラゴンヌ卿よ。汝も随分と人間染みた言葉を知っているではないか。猫の額ほどの知恵しか備えていないと考えていた妾の認識を改めねばなるまいな」
 くつくつと全身を揺らせて嘲笑うエビルマージに、ラゴンヌの眼が血色を増して赤化する。それは彼の意識が戦闘状態に移行した事を意味し、それを裏付ける冷絶な存在感…殺気がラゴンヌから急速に膨れ上がった。
「……貴様、相変ワラズ無駄ニ口ガマワルヨウダナ」
「言葉で反駁できなくなると今度は力で訴えるか? ふん、程度の低い浅ましき獣の本能とは言え、その様相は我侭な人間の子供と何ら変わりがないな。そのような低俗な文句を吠えるだけならば、口を閉ざせ。汝の言葉は聞くに堪えず耳障りだ」
 颶風ぐふうの如きに吹き付ける怒気をさらりと受け流し、エビルマージはわざとらしく大仰に肩を竦める。
 言葉の聞き難さについてはラゴンヌの頭蓋の構成上、人語を表する事に適していない為である。無論、エビルマージとてそんな事情など百も承知している事なのだが、この程度の挑発に易々と乗ってしまうラゴンヌに軽く失望し、更には心底呆れたような溜息を吐かずにはいられなかった。
 対して大きく犬歯を打ち鳴らしたラゴンヌは、その衝撃で飛び散った火花によって表情の陰影を浮き彫りにする。元々が厳つい造りであった彼の面には、燃え滾る憤怒が浮かんでいた。
「……減ラズ口ヲ」
「……秩序の無い畜生にはやはり躾が必要か」
 互いに半身を引いて臨戦態勢になり、両者から放たれた凄絶な殺気が交錯する。鋭利な刃を思わせる容赦無く吹き荒れる気迫の波は、粘着質で濃密な闇と絡み合って気の弱い人間がその場にいたのならば、一瞬にして狂死してもおかしくない程の圧力を場に浸透させた。
 続いて粗暴のまま解き放たれた闘氣と魔力がその空間を縦横無尽に擾乱し、ラゴンヌとエビルマージの間にて烈しく何度もぶつかり合い、その度に不可視の火花が迸っては静寂に満ちていた闇を無残に蹂躙する。
 やがて膨れ上がった殺意が拮抗を保てず、暴発する――。
≪止めよ≫
「!!」
「ッ!」
 刹那。威厳ある重厚な声が闇に轟き、瞬時にその場に犇いていた逼迫した空気が霧消する。
 周囲に漂う深闇には一切の変化が無く、己が身に射し込む光にもまた変わりは無い。だがしかし、その声が深々と響いただけで、今正に衝突せんとしていた二つの暴虐な波動は呆気無く消沈させられた。
 けたたましい殺気の源であったラゴンヌとエビルマージの両者は既に恭しく跪いていた。魔将という貴き位に就く者二人が一言も発さぬまま従順だったのは、それぞれの身体に途轍もない重圧が掛けられていたからであり、それぞれにとって頭を垂れるべき相手がそこに居たからだ。
 戦慄し、鎮まった二人の様子を眺めていた声の主は厳かに連ねる。
≪将同士の決闘は禁じていた筈だが?≫
「っ!」
「……」
≪ラゴンヌよ。そなたの憤りはもっともだが、イシスに関してエビルマージは余の意志の下に行動していた。臣下の責は主に帰す。故にその件で異を唱えるならば余に向けて放つが筋というものだ≫
「メ、滅相モゴザイマセン」
 完全に萎縮してしまったラゴンヌは声の震えが露にならないにするのが精一杯な様相だ。それを傍から見ているエビルマージは、だが彼を嘲る事などできなかった。エビルマージの全身にもラゴンヌと等価の負荷が掛けられ、その言の葉を封じていたのだから。
≪なれば黙れ≫
「デスガ……」
≪……二度は言わぬぞ≫
 声から発せられる威圧が増し、ラゴンヌは総毛立った自分の肉体から体温が徐々に亡失していくのを止める事はできなかった。
「シ、失礼シマシタ。ばらもす様!」
 その名が恐々と紡がれると、不意に第三の光が舞い降りたった。
 ラゴンヌやエビルマージが立つ足場よりも遥かに高い位置に、巨壁の如く泰然と現れる柱。その頂点には豪奢さ、華やかさとは程遠いが、圧倒的な力を誇示する巨大な玉座が構え、その闇より出だした玉座には一つの影が至極自然に、威風堂々と席捲していた。
 その者こそ現在世界を破滅へと導いている魔の首魁。恐怖と殺戮の権化、魔王バラモスであった。



 魔王バラモスが座す玉座の柱を中心に、四つの柱が周囲に聳えていた。
 往々の天頂には、この深闇の中でさえはっきりと判る、尋常ならざる存在感を解き放つ影が四つ佇んでいる。
≪“獣魔将”ラゴンヌ≫
「ハ」
 忠実なる獣が厳かに背筋を正して立つ。
≪“智魔将”エビルマージ≫
「はい」
 粛然とした理知的な声が衣擦り音と共に響く。
≪“剛魔将”ボストロール≫
「ここに」
 痩身だが背丈の高い壮年の男は、紳士然とした姿とつりあわぬ野太く落ち着いた声を重厚に広げる。
≪そして、“龍魔将”ヤマタノオロチ≫
「……」
 艶やかな黒髪を背に流す白装束の女性が、物静かな雰囲気のまま慎ましく目礼する。声は発せられなかった。
 黒き帳が降ろされる中。王の前に一堂に介した者達こそ、魔王の手足として魔物を率い世界を侵略している諸軍の長、六魔将。彼らは須く人の形をとっていたが、それは世の理の範疇に身を置く為だけの仮初のものに過ぎない。それをせねばならぬ程に、彼らに潜在する力は強大なものなのだ。
≪頼もしき我が将達よ。此度はよくぞ我が召致に応じてくれた≫
 魔王の威厳あるその一言に、将達は畏まり一様に頭を垂れる。
 世界に散らばる将達が、本拠地であるネクロゴンド宮殿にて王の前に集うこの御前会議は、王から将へ重要度の高い伝達事項がある場合にのみ開かれ、定期的に行われている事ではない。細かな世情の変遷についての対応に王は直接関与せず、それぞれの魔将が各々の配下より受けた報告を基に、独自の裁量で対処しているのが実態だった。
 そしてここ一年間を振り返り、この御前会議は三度目となる。これまでにない多さは近年における世界変動の慌しさ、或いは魔王軍そのものに何らかの変質がある予兆を意味していた。
≪こうして諸君らが集うのは“海魔将”が没して以来、か。“天魔将”に続き魔将二名の亡失は我が軍にとっても手痛い損害ではあったが、諸君らの尽力により世界侵略の進渉に対する遅延は細緻である。諸君らが日夜己に課せられた任を全うしている事を、まずは労わせてもらおう≫
 王が感慨深く連ねる。勿論、この間に声を発して主の興を殺ぐような愚昧な者はこの場にはいない。将達は須らく直立不動で上方の王を仰いでいた。
≪さて、既に諸君らの耳に届いていると思うが、過日。智魔将の策により人界に我が存在を再び知らしめる事となった。これは我等が大望成就の為に撒かれた布石である。各自これを厳正に扱い、己が任を今以上に邁進せん事を期待する≫
 魔物の活動が活発になればなる程、世界には負陰の鼓動が満ちていき、そこに住まう人間という存在がそれを大きく助長する。この連鎖こそが世界を暗澹へと誘っているプロセスであり、世界が未だ滅亡に到っていない真なる理由に繋がっていた。だがこの時を以って、世界を負陰と混迷の深淵へと落とし込む為により一層大々的且つ熾烈な破壊活動が魔王の名の下に許可された。人知れず、世界は人間にとって確実に悪しき方向へと誘われる事になる。
 鋭く下された命令を将達はそれぞれの中で咀嚼し、重々しく頷いて受け止めていた。
 言葉が空気よりも深い闇の奥に浸透するのを見止めた王は、厳かに続ける。
≪それに先だって、混迷を深める為に一つ段階を進めてみようと思う≫
「段階、デスカ?」
 ラゴンヌは徐に鸚鵡返した。
≪然様。天魔将サタンパピー、海魔将テンタクルスが堕ちて以来、我が方の軍に魔将の席が二つ開いている事になる。これまでは敢えて留意する必要も無い事として捨て置いた訳だが――≫
 ここで一旦言葉を留め、王は眼下で不動に佇む将達の面を順に睥睨する。闇が静かにどよめき、その中で幾つもの影が緊張に身じろぐ気配が広がった。
≪ここに新たな魔将を擁立する事を宣言する≫
 地の底より轟く鳴動の宣告と共に、第六の光が天より降りる。
 ゆっくりと闇を侵す光の波動は黒の緞帳を捲し上げ、新たな台柱を浮上させた。
 そこには全身を骸骨の鎧に包み込み、腰の双方に禍々しさを存分に主張する曲剣を佩いている。その面も、人の頭蓋骨をそのまま加工したかのような仮面に隔てられていて、どのような存在なのか窺い知る事さえできない。
 将達は新たに自分達と同格になる存在に、一見して警戒を生じさせる。ただ静謐に佇んでいるだけで、身を斬るような烈気が放たれていたからだ。
≪新たな将……“剣魔将”ソードイドよ。貴様には特務隊として“使徒”達の統率を委ね、人界に溶け込み内側から混乱を誘致する事を命ずる≫
「承知」
 端的に人語で答えるその声は、男のものだった。
≪尚、旧天魔将配下の悪鬼デーモン軍、海魔将配下の海棲ネレイス軍は解体し、残る将達の指揮下に再編成する。智魔将よ。軍の再編はそなたに一任しよう。最良と考えられる采配を期待する≫
「仰せのままに」
 魔王軍にて頭脳としての役回りを担っているエビルマージが深々と頷いた。
「……バラモスよ」
 エビルマージと入れ替わるようなタイミングで、今の今まで沈黙を保っていた女性の影…龍魔将ヤマタノオロチは剣魔将を一瞥し、バラモスを仰視しながら口を開く。
「此度の抜擢、その真意は何処にある?」
≪ふむ、真意か≫
 畏れ多くも王にその真意を質す臣下。他の者ならば絶対に踏み越えぬ一線を、この将は何の躊躇も無しに平然と成し遂げたのだ。
 周囲が息を呑むのを感じ取りながら、だがそんなものを露程も気にせず彼女は能面の表情のまま淡々と連ねる。
「使徒はそなたの管轄に非ず。彼らには彼らにのみ与えられし命題がある。人間を生かさず殺さず、彼の地・・・と同じような状況に貶めたいのならば、敢えて使徒達を用いる必要は無い……何を考えておる?」
「不遜デアルゾ、龍魔将!」
 数ある将の一人でしかないヤマタノオロチのこの行動は、上下の規律を重んじる者であるならば侵犯してはならない禁忌の一つだ。人間社会のみならず、魔王軍にあってもその理は通じる所がある。いや、寧ろ“力”という単純明解な指標が評価される体系であるならば、それは一際顕著と言えるだろう。そもそも、それが通用するからこそ魔なる存在が許されているのだ。
 この中で最も魔王に忠義が篤いのは古参の忠臣ラゴンヌであり、どのような時も魔王を第一に考えるその忠実な性格を思えば当然の事だっただろう。声を発していたのがエビルマージならば、問答無用で即座に殺しに掛かっていた筈だ。だが、今回に限り相手が悪かった。
 振り向かず、ただ視線だけを動かして吼え散らす獣を横目で捉え、女は冷然と言った。
「喚き散らすな仔猫よ。そちは儂に対して不遜であるぞ」
「!」
 仔猫、と嘲られてラゴンヌは色めき立つも、ぐっと堪えて小さく唸るだけに留めた。ヤマタノオロチが自分よりも力ある存在である事を、ラゴンヌは百も承知であったからだ。
 抜けるような白さの肌と、一点の曇りなく流れる漆黒の髪。人間の範疇では美麗に評される姿であれ、この場ではまるで意味を成さない。だが相反する色彩が並ぶ中、燦爛と輝く緑灰の眼に睨み付けられただけでおぞましい寒気をラゴンヌは覚えていた。魔王の発する轟然なる覇気とは異質な、存在の基盤にある種族という絶対差が凄絶なまでの威圧となってラゴンヌを圧倒していたのだ。
 視線だけで獰猛な獣を黙らせた女は、再び王を見据える。
「理由の如何次第では…………解っておるな?」
 静寂に溶け込むように、だがこの上なく恫喝染みた言の葉にバラモスは溜息を吐いた。
≪三皇の“剣帝ゴッドハンド”がご推挙とあれば、そなたとて納得はいくだろう?≫
「あの方か……此方にいらしていたのか?」
≪そういう事だ≫
 意外そうに首を傾げるその姿は、麗しき女性の優雅な仕草そのものだった。この場において、その動作がかえって彼女の持つ凄みを濃密にさせる。
「……ふむ、いいだろう。此度はそれで納得しておくぞ」
 暫し無言でバラモスと視線を交わしていたが、やがて自身の裡で消化しきったのか、再び平静の無表情に還り、その双眸を閉ざす。
 王は超然と続けた。
≪では諸君。これまでと変わらぬ忠誠と尽力を期待する≫
 その一言で、この御前会議は閉幕した。



 全ての魔将の気配がそこから去り、その空間は再び闇に包まれる。
 だがまたも光が射し、闇の裡に溶け込んでいた二つの柱を照らし出した。
「龍魔将殿は相変わらずでしたな」
 姿が現れるのと同時に、柱の上に変わらず粛然と佇んでいたエビルマージはもう一方の光へと語りかける。
 その視線は遥か上へと投じられており、魔将を見下ろす位置に立つのは王以外の何者もいない。
 謁見時と変わらぬ様相で泰然と玉座に構えていたバラモスは、先刻のヤマタノオロチの様子を思い返して浅く溜息を吐く。
≪……あれの事はよい。あれもまた役回りを異にして此方に来ている故な≫
 魔王軍の内、魔王に次いで力のある存在として認識されているのが龍魔将である。
 その周知より組織内での立場も特殊な地位にあり、表向き魔王軍六軍に属しながらもその実、指揮系統は完全に軍から独立しているのだ。よって魔王“軍”の軍事行動を統括する智魔将の策謀に対して拒否権を発動でき、他の将でさえ龍魔将だけに与えられた特権の前では、傅く事になる。そしてそれが許されている事こそ、魔王が龍魔将の存在を重要視している証明でもあった。
 軍の行動指針を担う任にあるエビルマージとしては、ヤマタノオロチは最もやり辛い相手ではあった。もっとも、ヤマタノオロチ自身が他の魔将の思惑など歯牙にも掛けていない節があり、これまで互いの意見を戦わせるような事態にもならなかった訳だが。
 意識を切り替え、王は将に厳粛に問う。
≪さて……エビルマージよ。首尾は如何に?≫
「……ご覧下さい」
 畏まりながらエビルマージが虚空に手を掲げると、バラモスの目前の空間が歪み、そこに小さな物体が現れた。
 この深闇に満たされた空間にあって、それ自体を否定せんばかりの金色に輝きながらも、かえってそれが闇よりも底知れない何かを潜ませている存在感に満ちた禍々しい腕輪だった。
 バラモスは眼前に出現した妖しげな光輝を、まるで宝物でも見るかのように燦爛と瞳を輝かせながら、そっとその両手で包み込む。皮膚から伝わる金属の冷たき感触と共に、まるでこちらを値踏みせんとする慎重な律動が感じられた。
≪おお……これが“あの方”が欲して居る力の形。素晴らしい……実に素晴らしき昏滅の波動だ≫
「今のところ、このネクロゴンドに在来していた黒の欠片『闇のサファイア』、『闇のターコイズ』を妾が造りし『黄金の腕輪』と連結させてあります。今それが活性化しているのは、妾が持つイシスで餌を与えた『闇のパール』と共鳴しているからと考えられます」
 懇々と説明を連ねるエビルマージだが、バラモスは腕輪の煌きに魅入られたままだ。それは極上の美酒に酔いしれる酩酊した姿だと言っても良い。事実、バラモスの意識は今、腕輪から発せられる力の鼓動にこの上なく昂揚していたからだ。
「現在の励起状態から逆算したところ、黒き壊竜の力の一部を顕現する為に連結すべき欠片は、あと一つ。但し、為し遂げたそれが“あの方”の纏う『闇の衣』か否かは判断しかねますが」
≪構わぬよ。世界の負陰を加速させる黒の欠片……どのような形であれ、黒き壊竜の力を我らも再現エミュレートする事が出来れば“あの方”の目的の一助にもなるのだ≫
 視線を戻すバラモスにエビルマージは確かに、と首肯する。
「その為に、黒の欠片の探索も視野に入れておく必要がありますが……本当に宜しいのでしょうか? 欠片に関しては三皇の“導魔カオスロード”様の管轄にあり、直属の使徒達が動いておりますが――」
≪案ずるな。その為の“剣魔将”だ≫
「?」
 エビルマージがフードの奥で眼を細めた気配を察し、バラモスは鷹揚に笑った。
≪そういえば、そなたにはまだ彼方との縁が無かったな……まあ、知らずとも良かろう。それよりも、そなたは我らが目的成就の為にも、早急にこのネクロゴンドに在った失われし力…天翅イデーンの遺産の一つ、天涯大陸の礎であった“飛空石”を甦らせる作業を急げ≫
「……御意」
 説明を求めたい気持ちはあったが、王自身がその話題を閉ざしてしまった以上、将にはどうする事もできない。エビルマージは胸に手を当て、退席の意を示し深々と腰を折る。その刹那の後、魔将の姿は宙に掻き消えていた。
 独り、闇の中で金色の輝きを眺めながら悦に入っていた王は、暫くの間くぐもった笑声を漏らしていたが、それもやがて地の底より吹き上がってくる闇に塗られ、潰える。
 瞬間、そこは一切の光も音も存在しない空間に還り、無謬の闇だけがただ渾然と広がっているだけであった。








 麗らかな陽射しが降り頻る街並み。暖かな陽気に育まれた草花は新緑の輝きを放ち、生命は躍動の最中にある。晩春から初夏に移り変わらんとする頃合の陽射しはまだ穏やかで、その下にいると滑らかに絡みつく眠気が誘われ、どんな生命であれそれへの抵抗には苦心せねばならない程だ。
 アリアハン大陸全土を治める同名の王国、その王都アリアハン。そこには長い冬の時を終えて萌した新たなる命達の息吹が染み渡り、活潤の力強い香りが夏に向けて暖かくなりつつある風に乗って軽快に街並みを駆け抜けていた。
 切望していた春が来て瞬く間に夏を迎え、秋の到来に浸る間も無く冬が訪れ、また春がやって来る。この大自然の流れは不変のものであり、人間が何をしようとも御する事などできはしない。それはどれだけ年月が流れようとも変わらない日々の証明であった。
 だが昨今。世界の不変性を語る一つの指標として、新たに魔物の存在が挙げられていた。
 魔物はどんな場所でも、どんな季節でも、どんな時間でも。数多の世界の事情など汲まずに出現する。
 ここ王都アリアハン周辺では、勇猛果敢な王率いる軍によってあらかた掃討され安全を確保されていたが、根絶には至らない……そう、世界は今も変わっていないのだ。自分達が一縷の望みを託して世に放った“勇者”があれど魔物の姿や噂は潰える事は無く、未だ世界には何の変化の兆しも見られる事は無い。
 そんな現在など、自分達の期待したものに非ず。結果を求めるには性急過ぎている事を自覚しつつも、殺戮の徒である魔物の絶えない世界の有様に、市井の人々は些細な落胆と失望の影を無意識下に落とす。
 果たして自分達の送り出した“勇者”は、本当に自らの役目を全うしているのか。果たして本当に、それを成す事ができるのか。
 高き壁に囲まれた人々の心の中で、そんな猜疑の歯車が本当に微かであるが廻り始めていた――。



 勿論、人々の意識の流れが少しずつ負の方向へ変わりつつあるのを“剣聖”イリオスは気付いていた。
 我が子、そして孫を危険極まりない世界に送り出した父、或いは祖父としての立場からすれば、当人達の苦労も知らず一方的に何を身勝手な事を、とイリオスはしばしば憤慨したものだが、それを面に出す事はしない。市井の彼らに言ったところで意味の無い事であり、そんな意識の流れは寧ろ人間である以上仕方がない事なのだと割り切っていた。
 だからこそイリオスはせめて自分だけは変わらず、どんな時もユリウスの無事を祈ろう。ユリウスが出立する遥か以前より決めていた心に従い、安全に護られた日々を窮屈に送っていたのだ。
 我が子オルテガが生まれてから移り住んだ、数十年の月日を共に歩んできた我が家の扉を開き、外の気温に比べて若干肌寒く感じる家の中にイリオスは立ち入る。目を閉じていてもどこに何があるのか完璧に把握している場所は、やはりざわめいた心を落ち着かせるには適している。屋内の暗さに視界を馴染ませながらイリオスはそう感じた。
「ただいま、セシルさん」
「お義父さん、お帰りなさい」
 いつもの句を発して敷井を跨ぐと、こちらも変わらずいつもの言葉が返ってくる。本来ならばその言葉は息子も受けるべきものであり、それは孫とて同じ事だった。
 扉を開けて直ぐ側にある食卓に着いていた義娘セシルは立ち上がり、帰宅したイリオスを迎える。今日は更にその場所には先客がいたようだった。
「イリオスおじさん、お邪魔してます」
「おや、カーラさんも来ていたのか。いらっしゃい、ゆっくりして行きなさい」
 セシルと卓を同じくしていた近所の酒場の女主人ルイーダ…いや、営業外では本名のカーラが会釈した。
 セシルとカーラはそれこそ二人がまだ少女であった頃からの付き合いで親友同士だ。貞淑なセシルに対して妖艶なカーラ。ある意味真逆の性質を持った二人で、接点など無さそうに感じるものだが、この二人は昔から気が合い、こうして二人でいる時の仲の良さは実の姉妹と言っても過言ではない、とイリオスは密かに思っている。
 思えば我が子オルテガと義娘となったセシルの間を取り持ったのがこのカーラであり、このブラムバルド家との繋がりは他人の中では一番近いのかもしれない。
 セシルが奥の台所へ入っていった為、卓に着いたイリオスにカーラは話しかける。
「お出かけでしたか?」
「ああ、バウルの奴に急に呼び出されてな。チェスの相手でちょっとナジミの搭に行っていたんだよ」
「あはは、バウル様も相変わらずですね」
 こちらの都合もお構い無しに呼び付ける旧き相棒の様子を思い浮かべ、まったくだと溜息交じりにイリオスは頷く。
「でもおじさんもおじさんです。ナジミの搭はちょっと・・・・で済む場所じゃないですよ。そのお歳で軽々とあの搭を踏破するなんて、うちに出入りしてる酒浸りの奴らにも見習えって言ってやりたいですよ……今度、気を引き締めてやってくれませんか?」
「はは、考えておこう」
 辛口な酒場の女主人にイリオスは苦笑を零す。この娘の気性の強さは昔から変わる事が無い。だからこそ、荒くれ者が多い冒険者ギルドの長として“ルイーダ”を襲名できたのだろうが。
 台所から湯気が立ち上るカップを持ってきたセシルが、そうそう、と一言置いて口を開いた。
「お義父さん、聞きましたか?」
「何をだい?」
「先程、お城の方がいらして、あの子の近況を教えてくれたんですよ」
 朗らかな笑みを湛えながらセシルは言う。
 彼女に“あの子”と呼ばれるのは勿論この家に一人しかいない。血塗られしブラムバルドの名を継ぐ者、ユリウスだ。
 凡そ十年前。“世界の勇者”であったオルテガやサイモン、そして数多の勇士達が集った“曙光の軍勢”が敗北し、人類の未来が暗澹に包まれ始めた時。それを打ち払わんとアリアハン王国が世界に宣言した誓いの下に、成人の儀を終えたユリウス=ブラムバルドが“アリアハンの勇者”というこの国最高の誉を背負い、世界の怨敵である魔物の支配者…魔王バラモスの討伐に旅立ってから既に十ヶ月近くの時が経過し、もうすぐ季節が一巡りしようとしていた。
 その間、王であり嘗ての弟子であるザウリエが、直属部下の“天眼の騎士”レイヴィス=ヴァレンタインを近況報告の為に定期的に来訪させてくれるように計らってくれていた。
 この伝達過程は王の密命であり、当事者以外の者が知る事は無い。またレイヴィスという人物はこの十年間、様々な思惑の矢面に立たされる事になったユリウスを陰で守護してくれていた者であり、彼の行動原理にしても詳しく知らないが我が子オルテガに由来するものだという。
 限られたものであるものの、知らず繋がった人の連鎖は確実にユリウスを護ろうと循環していた。しかし、それは人類総体から見ればとても儚いもので、僅かな切欠で派生する世情の波濤の前では簡単に押し流されてしまう。
 更に言うなれば、ブラムバルドの名に纏わる業は、自らに近付かんとする因果の鎖の悉くを断ち切る事にあると言っても過言ではない。妻子を置き去りにして単身旅立ったオルテガ然り、最初・・にブラムバルドを名乗ったイリオス自身がそう考えているのだから、これはもはや血に潜む歴然とした真実であった。
 そんな背景が原因ではないが、我が孫の安否の報に一喜一憂のまま胸を撫で下ろすのはイリオスにとって最早日常と言ってもいいだろう。
 剣の基礎を手解きしたイリオスの眼から見て、ユリウスの強さはまだ荒く真なる刃には程遠い。そして若さと言う脆さと危うさを併せ持つ事も、それに拍車を掛けているのは事実だ。
 だが何れにせよユリウスを信じている事に変わりは無い。それは肉親としての贔屓目もあるが、愛する孫を過剰なまでに心配してしまうのは、やはり自分もまた親という人種なのだからだろう。
 小さく溜息を吐いたイリオスは徐にセシルを見上げた。
「そうか……それで、ユリウスは今どの辺りに?」
「先日イシスを出発したそうです」
「イシス、か。遠いな」
 その名を聞き、イリオスの耳には記憶の中から引き出された深い砂のせせらぎが甦ってきた。
 アリアハン大陸より遙か北西に位置している砂漠の秘奥にある大国。
 嘗て、自分が“剣聖”などと言う業深き名で呼ばれた頃に一度訪れた事がある。そして彼の地で“剣姫”と称される強く美しいうら若き女剣士と何度も手合わせした事を思い出した。
 聖王国イシスの“剣姫”と言えば、その道では必ずと言って良いほど耳にする称号であり、年若くしてそれを継承するに到った女傑である彼女は、こちらが巷の酒卓を騒がせていた“剣聖”と知るとなると所構わず問答無用で斬りかかり勝負を挑んでくる程に気勢が溌剌として活力に満ちた女性だった。
 幸か不幸か、最初に挑まれた勝負を完膚無きまでの勝利で終わらせてしまった事で、敗れた彼女の中のプライドをいたく刺激してしまったのか、滞在中は隙有らば挑んで来たものだ。悉く返り討ちにしたものの、負けん気の強かった彼女はその度に成長して挑んでくる。おかげでこちらは砂漠の風に身を委ね、砂と風のせせらぎをゆっくりと謳歌できた記憶が無い。
 当時、旅路を共にしていたバウルからは、熱烈な求婚だな、と良く茶化されたものだが、あの輝ける瞳はただ純粋により優れた使い手に惹かれ、それに少しでも近付きたいという憧れと向上意志の顕れだろう。その輝きには覚えがあり、自分が今のユリウスと同じ年齢の頃、剣を教えてくれた師の遙かなる高みを追いかけていた自分の姿と重なったのだ。
 時は流れ、健常だった彼女も病床に臥して長きに亘る生を閉ざした事、そして“剣姫”も新たなる若き世代に受け継がれた事を人伝に聞いた。その報を耳にした時は、ただただ彼女の冥福を祈るばかりだった。
 年を取ると昔の記憶が頻繁に湧き出し、感傷を大いに揺らめかせてくる。耄碌したものだと自嘲するも、それは自身の胸の内のみで留めた。
「あの子はタイミング良くイシスに侵攻していた魔物軍との戦争に参戦する事ができて、見事お役目を果たしたそうですよ」
「セシル……あんた」
 純粋に、心の底から喜んでいるように顔を綻ばせたセシルに、カーラは言葉を詰まらせ瞠目する。我が子の活躍を自分事のように誇るのであればそれは普遍的な親としての感情だったが、戦に介入できた事を前面に押し出して喜悦のまま語るセシルの言葉は、子を案じる母親のそれではなかったからだ。
 唖然としたカーラの目線に気付く事無く、セシルは恍惚に連ねる。
「沢山……本当に沢山の魔物を倒したそうですよ。それでこそ“アリアハンの勇者”オルテガの代わりです」
「……ユリウスは、無事なのかね?」
 何時しかカップに目線を落としたまま苦々しく顔を歪めていたイリオスは、声色を低めて言った。
「今はダーマに向かっているとレイヴィスさんは仰っていました。あ、そう言えば陸路を選んだような事も言ってましたね」
「…………」
 酷く他人事のように綴られて、イリオスは自然と眉間に皺が寄るのを止める事ができなかった。
 イシスからダーマへ向けて陸路を進むとなれば、世界を知る者ならばそれがどれ程の危険が付き纏う旅路であるか容易に想起できる。中央公路はポルトガの管轄故に恐らく使えず、“亢龍の臥床ドラゴンズホール”を横切る旧道…通称“バーンの抜け道”は、自由国境地帯故に秩序に欠け、無法のままに悪意と力がとぐろを捲く危険地帯なのだ。
 それはイリオス自身が旅路に身を委ねていた頃と何ら変わりが無い。いや、寧ろ魔物という存在を考慮しなければならない分、危険度は今の時代の方が遥かに上と言えよう。
 そんな世界とは無縁であるセシルにそういった事情など知る由もなかったが、それを踏まえなくとも魔物が蔓延る野というだけで充分過ぎるくらいの危機と不安を覚えるのが普通の感覚だ。ましてやその路を我が子が歩んでいるのであれば居ても立っても居られない心持ちになるのが人情というものだろう。
 その点を鑑みればユリウスの仲間として同行している大聖堂の娘、ソニア=ライズバードの両親であるラドル、ディナの両人は表向きは毅然とした態度をとっていようとも、痛々しいまでの心配の念が裡を占めている事に一見して良く解る。
 だが、セシルの様子から全くと言って良い程にそれが見られる事は無く、穏かな口調が殊更他人以上の冷たさを醸し出していた。
 イリオスの両手に包まれたカップが軋み、微かな悲鳴を挙げていた。
「……セシルさん。ユリウスが心配ではないのかね?」
 思わずそう問い質してしまいイリオスは後悔する。その問い掛けへの答えなど既に解り切っている故に、決して言葉に出して聞いてはならない事だと自覚していたにも関わらず。
 唐突なそれに面食らったセシルはパチパチと瞼を瞬かせ、やがて柔らかく笑った。
「心配? イヤですよお義父さん。しているに決まっているじゃないですか」
「そうか……」
 軽やかに微笑むセシルの姿に偽りは一切無い。それが紛れの無い親としての反応ならば良かったが、イリオスはその淡い期待すら脆く崩れ去っているという結果を既に知っている。だからこそ、言葉などと言う明瞭なものを発してしまった事に悔悟の念が浮かんだのだ。
 当のセシルは、罪人さえも優しく見守る慈母の如き眼差しで窓の外を見つめていた。
「あの子には魔物を滅ぼし尽くす使命があります。それを成さねばならない義務があります。立ち止まる事は許されない。逃げ出す事なんて、絶対に許さない。しっかりと魔物を殺して殺して殺して殺し尽くして……魔王を討って、あの人から引き継いだ務めを果たして貰わなくてはならないんです」
「……セ、セシル?」
 元修道女とは思えぬあまりにも苛烈な言葉が紡がれる中。絶句してしまったカーラを気にも留めず、セシルは変わらず虚空に視線を投じているままだ。そこに何を写しているのか当のセシル以外に知る由も無く、傍から見ればその表情はいたって普通だ。その為、彼女の深い濃紺の双眸に昏く冷たい炎が燈されていた事に気付く事はできず、そして恐らく本人すら自覚していなかった。
 セシルは堰を切ったように滔々と続けた。
「あの子は魔物を倒す為だけに産まれたんです。オルテガの仇を取る為だけに生きているんです。だから途中で倒れられては困ります……あの子の価値なんて、魔物を殺す事以外に無いんですから」
「セシルさんっ!」
「……どうしました、お義父さん?」
 唐突に大声を出したイリオスに虚を突かれたものの、心底不思議そうにきょとんと小首を傾げるセシル。
 その様は宗教に傾倒する者が妄信のまま己が正義を貫くあまり、それ以外を酷烈に弾圧しようとも一切の迷いを持たない姿に酷似している。そしてそれは悪意の無い子供に限りなく近い純真さであった。
 故に、今の今まで紡がれていた過激な発言は彼女の偽らざる本心なのだろう。
 半ば椅子から立ち上がり掛けたイリオスは悄然と肩を落とし、再び腰を下ろす。
「いや……大声を出してすまない」
「あ、お茶のお替りですね。今、用意します」
 イリオスのカップが空になっている事に気が付いて、セシルはぱたぱたと忙しない足音を残して台所に消えていく。
 殆ど蚊帳の外に放り出されたような心境のまま呆然とセシルの背を見送っていたカーラと、苦痛に堪えているかのように眉間に皺を寄せて瞑目しているイリオスだけが食卓に残された。
「……おじさん。セシルは、やはり」
「すまないカーラさん。それ以上は言わないでくれないか」
 全ての事情を知っている訳ではないが、カーラも真相に近い場所にいる事に変わりは無い。
 だからこそイリオスは続くであろう彼女の言葉を聞きたくなかった。
「でもそれでは……」
「セシルさんが悪いのではない。全てはオルテガが……あの馬鹿が現実を受け容れきれなかった事にある」
 嘗てオルテガが取った軽率な行動の一つが、間違いなく一つの大きな歪みを生んだ。それを今、イリオスは痛切に実感していた。
「でも……セシルの気持ちも、オルテガの気持ちも私にはわかる気がします」
「解っている。私とて人の親だ。可能性があったのならばそれに縋りたくなる気持ちは、厭という程に解る……例えそれが禁忌であると知りながらも、オルテガの行動の結果に私も喜びもしたのだ。だからこそ、私にはセシルさんを責める事はできない……いや、言う資格すらない」
「イリオスおじさん……」
 悲哀に満ちた眼でカーラはイリオスを見た。
 イリオスは卓の上で組んだ拳の上に自らの額を乗せ、宛ら教会で懺悔をする者のように瞑目していた。
 絶望に支配される意識の表面に甦るのは、十六年前のあの時…ユリウスが産まれた時の事。
 信じたくない現実を前にしたオルテガが、それを覆さんと行動した結果。あの瞬間、この家は地獄に変わった。そして最もその地獄を味わったのがセシルであり、母となったばかりの義娘の、精神が灼き切れる寸前の狂った悲鳴がイリオスの耳の奥に今も色濃く残って離れない。
 だからこそ、我が子が選んだ娘を、厳しく叱咤する事がイリオスにはできなかった。たとえこの地獄の中を生きてきたユリウスの身を誰よりも案じていたとしても。
「カーラ」
「なに?」
 台所の置くから朗らかな声が聞こえてくる。
「あなたもお茶のお替り、いる?」
 カーラはちらりと横目でイリオスを見やる。イリオスは俯いたまま微動だにしない。
 他人の領分だと割り切って今ここを無情に立ち去るには、カーラはブラムバルド家には限りなく近い位置にいた。それを自覚していたからこそ、カーラは逆に深く椅子に座り直していた。
「あ、うん。いただいていくよ」
 朗らかに頷くセシルの声をどこか遠く聞きながら、店の準備は少し遅れるかな、とカーラは思った。



 あの後。いたたまれなくなって再び散歩に行くと家を出たイリオスは、ゆっくりとした足取りで城門を潜り、真っ直ぐに広がる平原を往く。
 王都の周囲では魔物の掃討は殆ど終わっている為、魔物が出没するという事例は極端に少ない。だがそれでも完全と言う訳ではないので、市井の人間にとって見れば危険である事に変わりなかった。
 しかし、イリオス=ブラムバルドは老いても“剣聖”。腕力や体力こそ今では若い者に敵わなくなっているが、その技術には一点の曇りも無く、他者を寄せ付けない程に極められている。そんな彼にすればアリアハン大陸を徘徊する魔物など、人の躾が入っていないただの野犬に等しいのだ。
 杖の代わりに細身の剣を常に携えるイリオスは、やはり何処に行っても戦い身を置く剣士であった。
 海を眺めれる丘に立ち、杖のように地面に着き立てた剣で身体を支え、遠い水平線を眺める。
「……あの子にある救いの形など、既に一つしか無いと言うのか」
 双眸を伏せたまま、神ではない何者かに祈るようにイリオスは呟く。それが叶う事を思うと、自分の胸は張り裂けるような傷みを発し、意識は狂奔してしまう。
 だども願わずにはいられない。苦痛からの脱却、そして限りない安息があの子に訪れる事を。
「ユリウス……」
 風に容易く攫われる程度の声量でイリオスは呼ぶ。言葉そのものは決して届く事が無いが、それでも想いだけは届いて欲しいと思った。
 その背後にふっと影が降りて来た。
「オルテガの父にして“剣聖”、イリオス=ブラムバルドだな?」
 自身をすっぽり覆った影は、その外見と変わらぬ胆力ある声で厳かに問う。
 イリオスは殊更ゆっくりと双眸を開き、落ち着いた声で返す。
「……どなたかな?」
 自分に近付いてくる何者かの気配など随分前から察していたが、イリオスは自分から動くつもりは無かった。相手の気配の消し方が非常に巧妙で優れていたとしても、自分を欺ける程のものでもない。つまりはその程度の相手であったからだ。
 しかし、投げかけられた言の葉は耳に留め置くには充分に値した。
 近年では普通になってしまった息子の名の前に冠される単語が無い事。そして逆に、一般にはあまり知られていない筈の自分の二つ名。それを双方兼ね備えていた誰何を懐かしく感じながら、平然とした表情のままイリオスは踵を返す。
 そこには逆行の中で尚眩い薄金髪を短く刈り込んだ偉丈夫が、油断無い眼差しを投じたまま巨壁の如く佇んでいた。








「……この程度か」
 つまらなそうに吐き棄てたユリウスは、陽光を鋭く反した剣に付着する青い血糊を眼を細めて捉え、やがて感慨無く振り払った。
 足下には、毒々しい色彩が鮮やかに映える人間の大人程の巨躯を誇る蜂の魔物…ハンターフライや、空の蒼さを髣髴させる毛並みで、だが相対する生物に嫌悪感を生じさせる巨大なアリクイの魔物…アントベアが、元が一体どういう姿形をしていたのか想像する事さえ許さないまでに斬り刻まれた無惨な屍を曝している。いや、辺り一面に散乱するそれらは既に骸と表現するには相応しくなく、絶命してなお烈しい斬撃の嵐に打ち据えられた果ての、単なる肉塊でしかなかった。
 やがてそれらは日光や風に好い様に嬲られた末、この世界に存在を留め切れなくなったのか、砂の如く流れる風に攫われて消えていった。おどろおどろしい青き傷痕を存在した証として遺し。
「危険地帯と聞いていたが……噂など所詮こんなものか」
 右手に一種の美術品かと見紛う程に美しい片刃の長剣を、左手にはごく普遍的な両刃の剣を携えて惨憺たる場に独り佇んでいたユリウスは無感情に周囲を一瞥する。
 視界一面に連なるのは、樹齢数十から百を優に越えるであろう逞しい樹木の群。永き年月によって造られた群立する蔟柱は、荘厳な神殿よりも圧迫感を解き放って、力強く高きに広がる深緑の天蓋を支えていた。
 そんな中、草叢や木の幹に艶かしく飛び散った凄絶な青は、大自然の大らかな緑の中にあって異様な雰囲気を形成する。耳を澄ませば木々の影の先々から恫喝に唸る獣の声が幾つも聞こえた。
 このような未開の純粋な自然の深奥こそ、魔物が棲息し活動するには絶好の場所である。世で実しやかに囁かれる通り、魔物達は自由気侭にこの界隈を闊歩していた。そんな場所を人間が通れば、縄張りを侵犯した獲物に色めき立って魔物が襲い掛かって来るのは必然。例に漏れず、森林に犇く数限り無い魔物の群れの一部が、侵入者であるユリウスに向かって殺到してきたのだ。
(……随分と慎重な事だ)
 木々のざわめきを漆黒の眼で捉えながらハンターフライの鋏の残骸を踏み砕き、左手に持つ鋼鉄の剣を鞘に納めた。
 ユリウスが襲来した魔物全てを斬殺した結果。他の魔物達は静寂に溶け込みながらこちらの様子を窺うと言う姿勢に転換し、徹底してその均衡を保っている。すぐさま襲撃して来るような気配が無い事に野生の本能より導かれる慎重さに感心を覚えるも、転じてユリウスは無聊に捉われた。
 森の薄闇から奏でられる斉唱のそれは、生物の根源的な恐れを呼び起こすに足る山鳴りのようなものであったが、甚だユリウスには無縁だった。
「こんなものでは……全然足りない」
 小さく溜息を吐いたユリウスは頭を振り、右手で握っている白金の剣プラチナソードの刀身に目線を移す。
 蒼茫の穢れから解放された白刃は、磨き抜かれた鏡よりも鮮明に世界を映し返している。その限られた鏡面世界の中でただ独り立つを姿を捉えたユリウスの思考を色濃く支配していたのは、ただ激しい自分への苛立ちだった。
 自由国境地帯である“バーンの抜け道”を抜け、その先に広がっていたのは青々と生い茂る豊かな緑に囲まれた山岳地帯。そこは遠きロマリアより続く東方街道の一区間で、人里から遠く隔たりのある秘境の山道である為、最も危険の多い領域とだと行商人や冒険者達に古くから認識されていた。
 その一連の道程において、既に相当数の魔物や賊徒との戦いを潜り抜けてきた。
 それら全てを悉く勝利で飾ってきたにも拘らず、ユリウスは釈然としない何かを感じていた。元より魔物を殺す事で気分が晴れるような感性を持ち合わせている訳ではなかったが、こうして敵を滅ぼし青き湖中に立っていると腹の底から何かが沸々と込み上げて来て、ささくれた神経に酷く無遠慮に逆撫でする。
 幽鬼然とした表情でユリウスはヌラリと周囲を仰ぐ。それはどこか飢渇に喘ぐ狼が獲物を探すが如く、危うい輝きが漆黒の双眸に載せられていた。
(もっと、殺さなくては。敵を、魔物を……殺し続けなくては)
 その行動原理は単純明快。幼少より我武者羅に殺戮を重ねる事で力を付けてきたユリウスにとって、その過程と培われた認識が自己の根幹に確然と根ざしているからこそ、力を得る為には血塗られた路を進み続けなくてはならないのだという意識が確立していた。そしてその意志が戦いに誘致され、殺戮を誘致するのだ。
 だがしかし。自らの意識が赴くまま戦闘に身を投じてみても何の手応えも無く敵は剣戟の嵐に沈み、進めている実感が微塵も得られない。その思いは旅立った当初より潜在的にあったが、ここ最近は特に強くそれを感じる。
(このままでは奴には届かない。あの男にも近付けない)
 アッサラームにおける怨敵との戦い然り。イシスで出会った剣士との手合わせ然り。世界には遥かな高みに立つ者が数多に存在していると言うのに、どうして自分はこう脆弱なのか。
 至高の二者との戦いを経て、ユリウスの意識下で燻っていたその想いが急速に浮上した。そしてそれを自認してしまっている事が、酷烈にユリウスを焦らせ、苛立たせている根源となっていた。
 焦燥に駆られる意識は止め処なく戦いを求め、平穏に堕ちる事を頑なに拒む。完全に力への執着に取り憑かれ、戦いへの貪欲さが増しているのを自覚しながらユリウスは思う。
 天の高さを知った今、地で彷徨っているだけの自分では決してそこを往く背に追い着く事は出来ない。遥か先を羽ばたく鳥の翼を掴み、その背に刃を突き立てるにはこちらにも翼が必要なのだ。
 敵が魔族ならばそれに類する力を手にし、敵が魔族以上の存在ならば、その存在を誅殺できるまでに自らを高めなければならない。仮にそれを導く手段が禁忌であろうと、自身の全てを対価として支払う事を余儀なくされても。
 力を求めるならば、弱さに繋がるものは全て切り捨てなければならないのだ。
 その志を強く持っていても、だが一向に打開策を見出せない現実にユリウスは逸る。左右に携えた二振りの剣を同時に扱う事をここ最近の戦闘で試みているが、こんなものは所詮は付け焼刃の曲芸に等しい。小手先の技術をどれだけ磨いたところで、大きな真なる力の前では何の抵抗も出来ずに敢え無く終わる。それはこれまでに何度も経験していた。
「剱の、聖隷」
 余計なものを自らの裡から排除する、甘美なる自壊の毒。
 自分の中に萌した狂気の胚は、ゆっくりと胎動を始めていた。




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