――――第六章
      第二話 白蓮がそよぎし地







 中央大陸最南端に位置する自治都市バハラタ。
 版図の上では聖王国イシス領内に存在する一地方都市だが、住まう人々にとって自分達の立つ地がイシスという国の一部であり、自らもイシスの民草である自覚は殆ど無い。人々のそんな従属意識の乖離は生活習慣や風土文化と言った表面的なものに留まらず、宗教をはじめとする精神面の深い領域にまで及んでいて、イシスに在ってイシスに非ざる地である、と世界から評価が下されていた。
 国家に組みする一都市が国家から離意を臆面も無く表している事は、本来他国に侵略の隙を与えるようなもので捨て置く事などできないのだが、バハラタという地に限りその常識は通じなかった。
 そうなるに到った理由として挙げられるのは、バハラタと聖都イシスとの間に“亢龍の臥床ドラゴンズホール”という峻峰が横たわり地理的に断裂されている事。この地が太陽神ラー教、大空神フェレトリウス教、精霊神ルビス教という世界に名立たる三つの大宗教圏の丁度接触点にあるという事実。そして何より、バハラタに隣接する永世中立を謳う“魔導の聖域”ダーマ神殿が、周囲に睨みを利かせるように泰山の如く佇んでいるからであった。
 それら多方面からの人や物流、思想の流れが溶け合った結果。今日の、不思議な調和を保った独特な色彩を作り出していた。

 バハラタはそもそも“聖なる河”と呼ばれる大河に隣接して建造された都市である。
 古くから土着信仰で竜を崇める風習が色濃く残るこの地で、その河水は“慈しみの竜の涙”と称され神聖なる加護を受けし水として人々に接してきた。
 中央大陸を東西に別つその大河は水深も深く急流であり、そして対岸までの距離が非常に長い。泳いで渡る事は凡そ不可能とされ、渡し舟で横断するにしても命を切符としなければならない、と揶揄される程に至難であった。
 先人達の苦労の果てに、この大河に頑健な橋が架けられるようになって幾星霜。
 今ではこの大河そのものを国境として定めている為、バハラタ自体が大きな関所という事になる。街の一部としてある橋を渡りバハラタを領有するイシスが対面しているのは、ありとあらゆる政治的、武力的介入を許していない永世中立地帯を管理する“魔導の聖域”ダーマ神殿。それは同時に“賢者認定機関”を有する“天空の塔”ガルナに座する“魔呪大帝”が眺望する天領であった。
 だからという訳ではないが、街を囲う城壁は防衛という目的を果たす上では充分な高さと頑健さを併せ持っていた。そしてそこに備えられた門扉もやはり強健な佇まいで、守護に当たる兵士達も各々が双肩に背負う使命を実直に勤めている為、魔物と言う脅威蠢く暗礁に易々と乗り上げる事も無い。
「やっと着いたか……今回は結構厳しい旅だったな」
 検問を終え、漸く街の領域に入る事が出来たミコトは全身の筋を伸ばしながら呟く。生真面目な気質の彼女が疲れを滲ませてこうした言葉を零すのは珍しい事であったが、危険な地帯を抜け安全が確保された場所に立ち入れたのだから、これまで張り詰め続けていた緊張が一気に弛緩したとしても無理からぬ事だろう。
 深呼吸で心身を鎮める事に努めていたミコトは、徐に今回の旅路…目的地を“魔導の聖域”ダーマに設定し、聖王国イシスを発ってからバハラタに到るまでの一連を振り返った。
 ダーマ神殿を目指して東方街道に入り、道中で最も危険な一区間と冒険者達の間で恐れられる“バーンの抜け道”を通り抜け、大陸を二分する“亢龍の臥床”を無事に越える事ができた。そして、そこから連なる山岳地帯に築かれた細道を延々と南下する事、数週間。絶えず視界に入り込み、鬱蒼と生い茂っていた木々の群列を潜り抜け、唐突に広がったのは見通しの良いなだらかな平原地帯だった。
 深緑の草々からなる絨緞は何処までも続いており、遥か地平の彼方には青き海の面さえ薄っすらとであるが見る事ができる。薄青の境界は海と空との区別がつけられなくなるほど朧で、この大地が空に浮かんでいるのではないかと言うある種の幻想に浸らせるには充分な景色だった。海抜から見て標高が相当高い位置を進んでいた事と、水平線が緩やかな孤を描いていた事がその錯覚をより一層強固なものにしていた。
 その後。右手に海を臨んだまま街道に沿ってひたすら東に向けて足を進めて七日七晩。イシスを発って凡そ一ヶ月、漸くバハラタの街影が草原の中にゆっくりと姿を現す事となったのだった。
 今回の旅路を開始するにあたり、聖王国が誇る砂漠の双姫“魔姫セルキス”ユラ=シャルディンスによる移動魔法ルーラにて直接ダーマまで移動する案も挙げられたのだが、旅を指揮するユリウスが頑なにそれを拒んだ為、彼の地まで自力で到達する事を余儀なくされ、殆どが馬車で移動する事となった。
 自分の足で歩み進む事にこそ意義があるのだと信じているミコトは、ユリウスの判断に非を唱える気など無かったが、感情よりも効率を重視する傾向の強い彼にしてはらしからぬ判断とも密かに思ったものだ。
 また、自分自身“バーンの抜け道”を越えての旅路は初めての事である為か目にするものは一々新鮮であったが、同時に彼の道を往く事が至難と云われる所以を骨身に染み込ませる事になる。戦闘以外の移動のほぼ全てを馬車で行なっていたにも関わらず経過した日数を思えば、この旅路が徒歩のみによるものだったならばどれ程の時と労力を費やさねばならないのか、あまり想像はしたくない。
 ミコトがこれまでをそう顧みていると、花が咲いたような笑顔と共に弾んだ声がバハラタの空に舞った。
「ここがバハラタかぁ……話には聞いていたけど、すごく活気のある街なのね」
 街中に入り意気揚々と馬車を降りたソニアは、物珍しそうにバハラタの街並みを眺め、その紅い双眸を輝かせている。嬉々とした様子は周囲の者の強張った心を解す心地良い眩しさを醸しており、本人にとって今回の旅路で堆積した疲労など既に吹き飛んでしまっているのだろう。
 朗らかに言うソニアの感じる活気とは、アッサラームやロマリアでの生命力溢れる活潤な雑踏とは質の違う、聖都イシスに通じるような身の引き締まる、心が浄化されるような荘厳さ。僧侶にとってとても身近で、神と言う存在を幻視する事が出来る清浄さを空気の端々から彼女は感じ取っていたのだった。
「……変わらないな」
 ソニアの純真さにある種の羨望を覚えながら、平穏な時が流れる街並みを眺めミコトはそう思う。
 この時勢、人里から離れた辺境における村落が酷く寂れ、或いは打ち棄てられる事など決して珍しくはない。そしてその原因の一端には魔物の存在が確実に絡んでくるのだ。
 東方街道を往く道中にて、寂れた名もなき寒村や完全に人間がいなくなった建物だけの廃村を幾つも通り抜けてきた。音に聞いていた熾烈な現実を直に眼にしたからこそ、このバハラタの賑わいが一層際立っているようにミコトには感じられた。
 この街で特に眼を惹くのは幾つもの異なる宗教の教会が面を合わせて佇んでいる事であり、街路を行き交う人波には住人や行商人は勿論の事、巡礼者や冒険者、果ては学者然とした人間が数多く見られる。一見すると彼らの間に共通する点など思い浮かばないのだが、“魔導の聖域”ダーマ神殿に往く者が最後に休息をとる大きな宿場街であり、この地より南に座するルビス教国ランシールと直通の航路で結ばれた門前街、そして竜神を奉ずるフェレトリウス教にとっての聖地、という定義付けが彩を異にする彼らを一堂に会させていたのだった。
(そう言えば……ここからランシールに発ってもう一年以上になるのか)
 決意を胸に故郷を発ち、自らを高める為にダーマで修行の日々を送った後。“アリアハンの勇者”を求め、この地からランシールへの定期船に乗り込んだのは、もう随分と昔のように懐かしく感じられていた。
 その時ふと、ミコトは先程からの自分の思考が妙に郷愁的なものに傾いている事に改めて気が付く。過去に浸るのが悪い事だなどと言うつもりは勿論無いが、それに過剰に囚われる事が前へ進もうとする意志を阻む事になるのを体験として知っているミコトにとって、あまり歓迎できるものではなかった。
 安全圏に到達した事で生じた気の緩みが、予想以上に意識の深い所にまで浸潤していた事に内心で驚く。
 確かに今回の旅程は自分の足で辿ると言う意味で、ロマリア―アッサラーム間以来の久々に長く続いたものだった。穏かな気候でなだらかな中原を往くだけの以前の旅路とは一変して、今回は天候の変遷や勾配の緩急が激しい山岳の道を進んだ。それに加え、まだこの辺りの魔物に対してならば自分は後れを取るつもりは無かったのだが、どういう訳か魔物の凶暴性が強まったような気がしてならなかった。
 旅慣れた冒険者だと、或いは正式な“武闘家”であると自負しようとも、人間という生き物である以上、心身の状態に気勢が影響されるのは切って切れるものではない。それを既に受け容れている前提があるにも拘らず、ならば何故と更に自らに畳み掛けると答えは実に呆気なく見つかった。
 このバハラタはミコトにとって、魔王討伐に収束する旅路においての出発点と言っても良い場所だった。
 ダーマでの修行時代、修練の一環として各地を飛び飛びで訪れた事のある自分は、大義抱えしこの旅路で初めて自らの足を以って世界を廻る事になった。それはこれまで知識としてでしか備えていなかった世界の真の姿を教え、同時に自身の未熟さを酷く鮮明に浮き彫りにさせてきたものだ。
 感慨に耽っていると、ミコトは不意に故郷にいる姉が未熟な自分を見て苦笑を漏らしたような感じがして思わず天を仰ぐ。
 空高く輝いている太陽が真昼に向けて眩さを増し、街の何処からか正午を報せる鐘の音が聞こえてくる。
 不朽にして遥かなる天蓋の果てを見上げたまま、ミコトは故郷にいる唯一の肉親を想った。
(朔夜の話じゃ……まだ姉上の容態が芳しくないのか)
 活動を著しく制限されているとは言え、龍魔将ヤマタノオロチの意識体は時折顕在化して周囲に悪影響を及ぼす。嘗て施した封印が年々弱まっているとの話もあるが、“戒魔の神氣”を持つ姉がそれを易々と見過ごす事は無い。しかしその代価とも言うべきか、表出せんとするオロチを押さえつける為にその瘴気に直接曝される事になり、且つそれを他者に波及しないよう自らの身を挺して阻んでいる。つまりは人知れぬところで人柱になっているのだ。
 その代わりになる事が出来ない自分に残されたのは、力を蓄え、姉を苦しめる根源たるオロチを討つ事なのだと今も変わらずに信じている。
 だからこそ、この原点に帰って来た事で強く思うのだろう。
 信念を持って故郷を発った自分が、自分の目的を見失わずに真っ直ぐ前に進めているのか。始まりの点より未来さきへと少しでも歩んでいるのか、と。
 耳に痛い程に響く鐘楼の歌声をどこか遠くに感じ、逆に自らの内なる声が耳元でねっとりと囁いている錯覚に襲われながらミコトは無意識で腰に下げた鞄に手を添える。その中には過日、魔王軍との戦争を勝利で収めた聖王国イシスより借り受ける事になった国宝『黄金の鉤爪』が収められていた。
 イシスを発つ際。世界情勢の変化に伴いポルトガへの通交証を用意できなかった事に心を痛めた女王フィレスティナは、出来得る限りの援助を施してくれた。旅の資金は勿論の事、その一環として仲間達の武装はほぼ一新され、往々の戦力的は飛躍的に強化されていた。
 特に武器の水準は素晴らしく、ユリウスは貴金属の採掘量が世界随一を誇るイシスにおいても稀少鉱石である白金から鍛えられし『白金の剣プラチナソード』を寄与され、ソニアは四神鍵の一つである『嵐杖・天罰の杖』を模して造られた魔導器『裁きの杖』を、ヒイロは『鋼棘の鞭』をそれぞれ賜っていた。いずれも一介の冒険者では易々と入手する事のできない貴重な品々だ。そんな中、唯一ミコトだけが貸与という形式で譲られたのはイシスの国宝『黄金の鉤爪』であった。
(“武闘家”としてはこの上ない栄誉だけど、やっぱり重いな。私にこれを扱う資格があるんだろうか?)
『黄金の鉤爪』…歴史に名を刻むイシス開祖が手にしていたという伝説の武具であり、無論ミコトも武闘家の端くれとして、その名を耳にした事はある。そして“武闘家”が見出す価値以上に商人、盗賊にとっては至宝の名に相応しい武器だった。
 この武器の優秀さは実際に手に取って直ぐに理解した。そしてそれよりも深域にある金爪に秘められた特異性をも把握する事ができた。この爪は魔を誘致する禍々しき祭器であり、数千年にも及ぶ年月の間、怨念を喰らい続けてきた呪物なのだ。今でこそ潜在する魔は解かれつつあるものの、恐らく普通の人間が手にすれば瞬く間に精神を蝕まれる。
 貸与するには物騒極まりない代物だが、しかしミコトにとってすれば優れた武器以外の価値は無い。“破魔の神氣”を生来備えている自分には、およそ呪いという概念が絡む諸事象は一切効力を発揮しないのだ。
 そんなミコトの特質を知っているからこそ、“十三賢人”でもある執政官ナフタリは周囲の反対を押し切って国宝の貸与というある種の暴挙を執ったのだろう。結局は女王の、恩人に対しての感謝の意としてそれは通った訳であったが、ミコトの従者であるサクヤから今回の貸与劇の裏側には、ミコトの素性がジパング宗主“陽巫女ヒミコ”の妹である事実が深く関係する政治的な駆け引きである事を強く念押されていた。
 元々ジパングとイシスとの間には浅からぬ繋がりがあったが、魔物出現以降交流が疎遠になって久しい。それを打開せんとする両国家間での外交手段の一端がジパング宗女にイシス国宝を貸与した・・・・・・・・・・・・・・・・・という事実であり、今後の国交復旧の兆しとなる事を見込まれての事なのだろう。
 その現実は、宗女という立場にありながらこれまで政とは無縁で自身の思うように生きてきたミコトにとって、とても重い責務を背負ったような気がしてならなかった。そしてこの先、貸し与えられた爪を振るい続ける事の重さ・・に自分が耐えられるのか、改めて自問せずにはいられなかった。
「弱気になっては駄目だ。私は……決めんだ」
 自らの進む道は自らの手で切り拓く事を、と隣を歩くソニアに気取られぬよう口腔で小さく呟き、何となしに前方に視線を移す。そこにはある意味、次元の違う重責を常に背負わされている“アリアハンの勇者”ユリウスの背が映っていた。








「……思いの外、何の変哲も無い普通の街並みだな」
 活気に賑わう周囲の街並みを冷めた眼差しで一瞥したユリウスは平坦に零す。
 抑揚の無いそれは寧ろ自身に言い聞かせる類のものだったが、直ぐ後ろで手綱を牽きながら馬を導いていたヒイロが偶然にも拾う。
 軽やかに苦笑を浮かべてヒイロは問うた。
「普通って……君は一体どんなところを想像していたんだ?」
「このバハラタは幾つもの宗教の結接点と言われているだろう? 毛色の異なる数多の宗教がそれぞれ我を主張しつつ拮抗を保ち、だが互いが一歩も退かず鬩ぎ合い……混沌に満たされているという点では、ある意味この世界の縮図のような場所だと認識していた」
「……うん。それが実際どういう所か全然想像できないけど、清々しいまでの偏見に満ち満ちているね」
 無感情に淡々と連ねるユリウスに、ヒイロは表情を固めたまま呟くのが精一杯のようだ。
 ふと気が付けば、道往く人々が視線をこちらに射ってきていた。それらは余さずユリウスに収束しており、心なしか何れも鋭く冷たく感じられる。今のユリウスの言葉は周囲の心情を慮って声調を落とすような配慮を全くされていなかったので、そのまま嘲りと受け取った貶された側は心中穏やかではいられなかったのだろう。
 現地の人間からの非難の眼差しを一身に受けようともユリウスは素知らぬ顔をしたまま実に堂々泰然と、空々しく肩を竦めて見せた。
「排他的で独善的な姿勢はどんな毛色の宗教だろうと共通している。自らが奉ずる存在を至上とせんとする考え方は……まあ理解できなくも無いが、それを世界の中心だと絶対視し、内なる善意のまま他人に押し付けてくる姿勢は迷惑極まりないな」
「……お前には言われたくない言葉だ」
 ユリウスは常日頃から自らの価値観に従順で他の意志は完全に黙殺している。それは最初から周囲の意志を受け容れる選択肢を排除した拒絶の明示に他ならない。
 これまでに培ったユリウスの人間性に対しての認識があるからこそ、自分の言動を棚に上げるな、とその背後に追いついたミコトは半眼で睨みつけていた。
「どうでもいいが、随分と人がいるな」
「当たり前だ。ここはこの地方最大の都市だぞ」
 未だこちらを盗み見る周囲の冷たい視線に少しも臆する事無く、ありのままの発言をするユリウス。それは随分と唐突で飾り気が無く返答に窮するものだったので、自然とミコトの声には険が織り交ぜられて乱暴に返していた。
 イシスを発って以来のユリウスといえば戦闘においては冷絶さが増し、口数は極端に減っていた。一言二言で会話を終わらせる事はおろか終始無言を徹していた日もしばしばあった。常に何かを深刻そうに思案している様子ではあったが、ユリウスにどういった心境の変化があったのか周りに知る由は無い。問い質してみても無視か沈黙しかない為、敢えてそれをしようとする者が無かったのが現状だった。
 だが、こちらも何かしらの意識の改革があったのか、ソニアの方からユリウスに歩み寄っている光景を最近見られるようになっていた。もっとも、それは結果から言えばユリウスが率先して距離を置くという行為によって悉く宙を掻く形になっていたが。
 結局。ユリウスが誰に近付こうともしない根本的な姿勢を崩さない為、ユリウスと他の面々との距離感は寧ろ旅を共にするようになった当初の余所余所しさが鮮明になり、命を賭した旅路を往く仲間としては良くない傾向にあった。
「そんな事はわかっている。ただ街の空気に警戒に似た忙しなさを感じただけだ」
「忙しなさ?」
 今日のユリウスは珍しく良く喋ると思いながらその言葉に導かれるよう街行く人々に目を配ると、彼らは相変わらず各々の日々を送る事に終始しており、他者がそれを見たところでその深意を汲み取る事など決して出来ないだろう。確然としているのは、そこには彼らの平穏があり日常が鏤められている事だ。
 ユリウスが何を感じて言葉を紡いだのか全く理解できないまま、亡羊と遠くの景観に視線を移した際。偶然にも街の北側に群立する教会の一つを視界の端に捉えたミコトの脳裡に唯一思い当たる何かが浮上した。
「……ああ、そう言う事か」
「何だ?」
 疑問が氷解し一人納得するミコトにユリウスが眼で問うと、彼女は結われた黒髪を再度上下に揺らした。
「そろそろ“協会”によるバハラタ公会議がこの地で開かれる。そんな時期だから厳戒態勢に移りつつあるんだろう」
 よくよく周囲を見れば、武装している僧兵らしき人影があちこちで見る事が出来る。バハラタと言う土地柄を鑑みれば決して珍しい事ではないが、平時にしては些か多過ぎるようだった。
「“協会”……という事は、ルビス教団からも?」
「“協会”を統べているのは“聖芒天使アースゴッデス”…教皇アナスタシア=カリクティスだから当然だろ。ルビス教団は寧ろ協会公会議の主催側で、実質的な頂点である“神聖騎女ホーリーナイト”が議長を務めている。それに“協会”に加盟している宗教の首脳は必ず出席する筈だ」
 そんなの常識だろう、とミコトはユリウスに視線を送ると、ユリウスはユリウスで初めて耳にしたかのように言葉を咀嚼していた。
 ユリウスが一般常識に疎いのは知っていたが、ここまで持っている知識に偏りがあると一体これまでどういう生活をしてきたのか疑問が生ずる。年齢に対して豊富すぎる戦闘経験と能力、深すぎる魔法への造詣。それらに反比例して極端に乏しい一般常識。それらから導き出せるのは……、とミコトが思索を深めようとした時。当の少年は疑念に満ちた眼差しで再三問うてきた。
「何故そんな会議がこのバハラタで開かれる? ルビス教団が主催ならばランシールで行なうのが適切だろう」
「このバハラタで開催する事に意味があるのよ。そもそも“協会”は、嘗て起きてしまった宗教戦争を後の世まで深く戒める為に発足された機関。だから毎年、戦争が終結したこの地で開かれるの」
 丁寧に説明を加えたのはミコトではなくソニアだった。
「ならば……エレクシア=ヴォルヴァは、ここに来るのか?」
 小さく呻きながら一層険しく表情を歪めるユリウス。その露骨な拒否を載せたユリウスに、ミコトが軽く驚いた様子を見せる。
「何だお前、“神聖騎女”と面識があるのか?」
「……ああ。可能ならば二度と会いたくないものだ」
 ルビス教徒でもない人間が、その組織の頂点に立つ存在と面識を持っていたという事もそうだが、ユリウスがこれ程まで明瞭に嫌悪…というより苦手意識を示すのは珍しくあり、周囲には信じ難い事だった。
 そんな何気無い言葉の応酬に、この地に着いて以来表情が明るいソニアが介入する。
「ユリウス! あなた、エレクシア様にお会いした事があるのっ!?」
「ああ……それがどうした?」
「それが、ですって!? だってあなた、エレクシア様よ。教皇アナスタシア様のお言葉をただ一人直接賜る事ができる“聖女”様よ! 私達一介の信徒じゃ、一生掛かってもお会いする事ができるかわからない場所に立つ雲の上の方なのよっ!!」
 胸の前で握った両方の手を小さく震わせるのはそれ程までに必死である事の証明か。若干上気した頬と、真摯な紅の眼差しは話題に上がった人物への崇敬を強く力説している。
 そんな自分から物事を主張する事があまり無い傾向にあるソニアの豹変振りは、ミコトですら思わず面食らって二、三歩後ずさった程だ。ソニアの真剣さはユリウスに向けられていたものであったが、正直傍からそれを見ていたミコトすらソニアの剣幕に圧倒されていた。
「エレクシア=ヴォルヴァの地位の高さは理解している。……だから、そんな事が一体どうしたと言うんだ?」
「そ、そんな事!?」
 崇敬する人物をぞんざいに扱うユリウスにソニアは愕然と眼を見開いて悲鳴を挙げる。
「あ、あなたには一度エレクシア様の事を説明する必要があるようね……いい? このバハラタは、エレクシア様にまつわる数多の聖女伝説の発祥の地。嘗て敬虔なルビス教徒であったエレクシア様は、祈りの最中に神の御声を聞き、戦争で苦しめられる人々を護る為に立ち上がられた。ルビス様の御意思を受けた“神使たる天導の虹翼”の声に導かれるまま、自らに降り掛かる危険を顧みず争いの渦中に身を投じ、その身を挺して戦争を止めたの。エレクシア様はその時一度命を落とされてしまったのだけど、ルビス様はエレクシア様を見守っておられた。ルビス様の祝福によってエレクシア様は甦り、“虹翼”に導かれて天上におわすルビス様の序列への参列を許される事となった。その洗礼の場所もまた、このバハラタ……ダーマに行くって聞いてもしかしたら立ち寄れるかなって思っていたけど、まさか公会議の開催時期に到着できるなんてっ!」
「いや、会える可能性は限りなく低いと思うけど」
 ユリウスに説明していた筈が何時しかソニアの表情は陶酔しきったものに変わり、夢心地なのかヒイロの注意は全く届いていない。彼女がこの地に到達してからというもの心が躍っていた理由が実はこれであった。
 バハラタ公会議は各々の垣根を取り払った“協会”に加盟する宗教組織の首脳達が一同に集い、信徒達を導く上で互いに摩擦を生じさせないか、周囲との折合いを計り、牽制または交渉して方針を定める外交の場であった。全ては嘗てこの地方を舞台にして起きた宗教戦争の二の徹を踏まぬ為のものであり、そこに一信徒が入り込む事など出来る筈も無い。そして世界の要人が集まる機会である以上、警戒は厳重を以って為されるのだ。
 その中で“神聖騎女”エレクシアは、“協会”のあらゆる会議において議事を進行する議長の役割を担っている要人中の要人である。その警護の厚さは他の参加者とは比べようもない事は想像に難くない。
 そんな事情を理解しているか定かではないが、エレクシアという人物を記憶から浮上させたユリウスの貌には一段と陰が深まり、警戒を露に呟いていた。
「今の話を要約すると……エレクシア=ヴォルヴァは不死者か、それに類似する存在という事か。……成程、確かにあの女が人の領域から外れているという点を鑑みれば納得できる説明だが――」
「不敬よ! なんて惧れ多い事を言うのっ!」
 いきり立つソニアにユリウスは深い溜息を零した。
「……そもそも、その伝説とやらに登場するエレクシアと“神聖騎女”エレクシア=ヴォルヴァは同一人物なのか? 史実にあるその宗教戦争とやらは四百年前に起きたのだろう? 常識的に考えて人間がそんな長い時を生きれる筈も無いんだが」
「そんなの決まっているでしょう。ルビス様の寵愛を受けていらっしゃるんだもの」
「…………」
 真剣に澱みなく言い切ったソニアに、もういい、とユリウスは頭を振った。
「あの女がどのような存在であれ……遭遇せず、発見もされずにこの街から出発できるのを願うばかりだ」
「君がそんな事を言うのは珍しいな……でも、仮にも世界の要人なんだから、魔物と同列のように扱うのはどうかと思うよ」
「同じ事だ。人間の器から大きく逸脱している点で、な。それに奴に比べればその辺りを徘徊している魔物など、産まれたばかりの脆弱な小動物に成り果てる……魔王バラモスがどれ程の存在か知らないが、恐らくあの女単身で討伐できる事だろう」
「……そ、そうなんだ?」
 これまでに無く真摯に頷くユリウスに、ヒイロはその余裕の無さを垣間見た気がして頬を引き攣らせた。
 特に戦闘面に関してユリウス自身も人間という範疇から相当飛び抜けているように思えたが、そのユリウスにここまで言わせるエレクシアという女性は一体何なのだろうか、と純粋に疑問を感じる。ユリウスが戯れで冗談を言うような性格でないのも併せて、ヒイロは音に聞き何時しか築いていた聖者の偶像を再考する必要があるかもしれないと本気で思ってしまった。
 ソニアにそんな内心を気付かれれば間違いなく激昂したであろうが、しかしソニアはヒイロの抱いた心象よりもユリウスの暴言が腫れ物にでも触れるかような……厳密には、その口調がまるで知己に対して向けられるそれである事に気が付いて驚愕していた。
「ユリウス! あ、あ……あなた、もしかしてエレクシア様とお話した事がある……の?」
「先程面識があると言ったんだが」
「いつ!? どこでっ!? どうしてっ!?」
「何でお前がそんな事を気にする?」
「別に良いでしょう!」
 聞く耳持たないとはこの事か。本当に今日のソニアは一体どうしたのかと思いながら、同時に彼女の執拗な追求が鬱陶しくなってユリウスはウンザリしたように深々と溜息を吐いた。
「アリアハン―ランシール領海戦争。あの女はランシール側の総司令官だった」
 アリアハン―ランシール領海戦争とは、魔王六軍の一つ、海魔将テンタクルス率いる海棲ネレイス軍の侵攻に対しアリアハン王国騎士団、ランシール聖殿騎士団の共同戦線で抗戦し、対魔王軍を勝利で飾った数少ない戦端だ。
 しかし、その戦争は世情の安定を鑑みて公にされる事は無い。またその戦での犠牲者数はアリアハン、ランシール共に生半可なものではなく、世に轟く十三賢人の一人の犠牲を以って終結されていた。したがってその戦にて勝利の美酒に酔いしれる事ができたのは、その戦争の存在を知りながら戦争に参加しなかった者のみであった。
「あ……その、ごめんなさい」
 その単語を耳にした途端、ソニアの気勢は急激に萎む。追求に重ねていた目線を逸らし、気まずそうに声や言葉を濁らせた。
「何を謝る?」
「ちょっと不謹慎だったかなって……」
「海戦の事をスルトマグナにでも聞いたか?」
「……うん」
 ソニアはイシス戦争終結後の余暇を利用して、当時の体験者であるスルトマグナに海戦の顛末を聞いていた。あくまでも簡易的な経過のみであったが、公式発表されていない事実だけにその内容はただただ驚くばかりだった。
 何より心を貫いたのは、姉も数えられている“アリアハン三雄”という呼称はその戦役を機に謳われるようになった事と、犠牲になった十三賢人の凄絶な最期を聞かされたからであった。
 海戦に幕を降ろしたのは、十三賢人“双天使・秤”ジョセフ=ディストリーが禁呪指定魔法の一つ、自己犠牲破壊魔法メガンテを用い、敵の総大将であった海魔将テンタクルス諸共その命を砕いた事による。そしてジョセフは父母の友人であり、ソニアにとっても浅からぬ間柄の相手であったからだ。
 小さく頷き、こみ上げてきた心の傷みにそのまま項垂れてしまったソニアを見て、ユリウスは内心で舌打ちする。余計な事を、と今ここにいない賢しい赤髪の少年の悪辣な笑みを思い浮かべ、消した。
 代わりに大きく溜息を吐いて、冷然とした視線をソニアから外した。
「海戦の事などお前には全く関係ない。もともと公表されていない事実だからな……故に気を使われても迷惑だ」
「…………」
 はっきりとした拒絶の意を示してソニアを押し黙らせたユリウスは、この話は終わりだと言わんばかりに未だに呆気に取られていたミコトを見据えた。
「ダーマ神殿までは、ここからどういう道程になる?」
「あ、ああ……そうだな。ダーマに向かうには、基本的にここから北東にある山脈を東側から迂回しなければならない」
 ミコトがダーマで“転職の儀”を受けている事は既に仲間達に伝えていた。だからこそユリウスが問うたのだろう。
「基本的に? ……今一要領を得ないな」
「現在正式に東方街道の公路として用いられているのが今言った山脈を迂回する道の方で、他にダーマへ直通に続く“修験の路”と呼ばれる道があるんだ」
「どうして二つに別れているの?」
 思考を切り替えたソニアが純粋な疑問を浮かべる。当然の問だと一つ頷いてミコトは続けた。
「“修験の路”は元々旧公路として用いられていたんだけど、この地方は昔から気候の変動が激しくて大雨で山崩れとかも頻繁にあったんだ。そのままにしておくのは余りにも危険だから昔、新たに山脈を迂回する道を開拓して現在の公路の基礎を築き上げた」
 徐にミコトは北東の空を見上げる。その遥か先にダーマ神殿が泰然と座しているのだろう。そこに到る過程を思えばこのバハラタまだ中継地に過ぎない。目的地はまだ遠いのだ。
「公路は交易用の道だから定期的に整備されているけど、“修験の路”の二倍以上の距離がある。逆に“修験の路”はダーマ神殿への最短距離を直進する道だけど、長い間打ち捨てられているから殆どが獣道……今じゃ魔物の巣窟だな」
「魔物って……ダーマ神殿から討伐には動かないの?」
 ダーマに辿り着く為の明確なの一つとして数えられているのだから、ダーマは徹底して管理しているものだとソニアは思っていた。更に言うなれば彼女の中の認識では、ダーマという場所は“魔導の聖域”として世界最高峰の頭脳が集まるところであり、“転職の神殿”として“転職”を希望する種々多々な人材が集う場所であった。そして永世中立を謳ってはいるものの、双方からの才能の流入によってダーマという共同体が保有している武力は恐らく人間世界で随一だとさえ考えていた。
 だからこそダーマが管理統治する領地の中に、魔物と言う危険因子を残しておく事が極めて不思議だった。
 嘗てはダーマにソニアと同じような印象を抱いていた者の一人として、ミコトは小さく頷く。
「私もダーマに所属して内情を知ったんだけど……まず前提知識として、ダーマ神殿の北にある“ガルナの搭”を中心に強力な結界が張られているから、ダーマ領では魔物の活動は著しく制限されているんだ」
「え、そうなの?」
「結界の正確な規模は解らないけど、聞いた話ではダーマ領のおよそ八割に及ぶらしい……南限は、このバハラタから国境の河を越えて直ぐかな。アリアハン大陸程じゃないけど、ダーマ領の魔物の勢力は弱小の部類に入るんだ」
 ミコトが語る範囲は概ね、中央大陸の東部地帯をほぼ全て網羅する程の領域である。
 世界地図を脳裡で思い描いたソニアは、話の壮大さに呆然と眼を見開いて絶句してしまう。その様子を苦笑して見ていたミコトも、嘗てこの話を聞かされた自分も思わず言葉を無くしたものだ。
「どういう理由でそうなのかなんて私なんかじゃわからないけど、この界隈で例外的に魔物が活発に活動できるのが“修験の路”と“ガルナの搭”の二つ。だけどガルナの搭にはダーマ神殿からの推薦を得た“賢者”志望者か、特例を除いて立ち入りの許可が下りる事は無いから、ダーマのどの学派に属する教導師達にも共通して“修験の路”が修習士達の実践訓練を行う上で非常に好都合な場所だと言う見解があるんだ」
「な、何だか凄い話ね……」
「勿論、公路やダーマ、バハラタに魔物が流れ出てこないように徹底管理はしているけど、ね。だからバハラタからダーマに向かう旅人の殆どは公路を選択するし、この街でしっかりと準備をしていく。私達の場合は馬車もあるから結局、公路を通るしかない」
 問題ないよな、とユリウスにミコトは視線を送る。
 ここ最近のユリウスの様子を鑑みれば戦いを求めて“修験の路”を選ぶ気がしてならなかったが、こうして先制して選択肢を断っておけばユリウスとて無理に我を徹すような事はしないだろうと思い、ミコトは締めくくる。
 図星だったのか、或いは反論するのも億劫だったのかユリウスはただ小さく肩を竦めて見せた。
「じゃあまずはイシスの領事館に行かないと。イシス本国から伝令は行っているだろうだから、宿を手配してくれる筈だ」
 これからの予定のやり取りを静観し、納得に頷いたヒイロが言葉を継ぐ。広い街路とはいえ、話している間は往来の真ん中で佇む事になってしまっていた為、このまま続けていても他の人間の迷惑になるだけだろう。
 イシスの領内に限り、聖王国より交付された通交証『魔法の鍵』を提示するだけで滞在費は王国が支援してくれている。旅路である身にとって出費は常に避けられない重要事項である為、この援助はユリウス達にとっては非常にありがたい事であった。
 ユリウスは一人無言で歩き始め、ソニアとミコトが続く。二人の後を追おうと一歩を踏み出した時、そう言えば、とヒイロは思い浮かべる。
(“協会”の会議があるなら、イシスからアズサ達もここに来ているんじゃないかな?)
 先日、太陽神ラー教団にて新たな大司教に任命された女王、フィレスティナ。そして彼女を守護する二人の麗しき乙女達も彼の宗教において重要な位置に座している。故にこの地を訪れないと言う方が不自然と言うものだろう。
 ならば今脳裡を過ぎった、街の中で“剣姫”が“勇者”に斬りかかっている光景が妙に現実味を帯びてくる。思わずヒイロは自身が幻視した景色に、自然と苦笑が浮かばせていた。
(そうなったらなったで、きっと賑やかな事になるな)
 先頭を往く黒髪の少年の後姿に若干の同情を送り、進むのか進まないのか手持ち無沙汰にしていた馬の鬣をそっと撫でてヒイロは前を行く三人の後に続いていった。








―――ユリウス一行がバハラタに到着する十数日前。
 世界地図の南東端に位置する海域に、人々の記憶から存在そのものが忘れ去られた小さな島がひっそりと浮かんでいる。
 その名を、ルザミと言う。
 総面積がアリアハン王国の王都とほぼ同程度であるルザミ島は、一般に流布している世界地図には描かれていない。その存在は古くから囁かれてはいたものの、彼の海域は幾つもの潮流が交錯して非常に複雑になっており、従来の航行器や知識だけでは流れを正確に読みきるのは到底不可能で、自ら望んでの到達は至難を極めるのだ。その為、航海を生業とする海の者達が用いる海図にのみ、魔の海域に在りしこの世とあの世の入り乱れた地、という一種の迷信として忌避されながら記されているだけだった。
 また近年実しやかに囁かれるようになってきた学説の一つに、大地は遥かなる時間の彼方から気の遠くなるような年月の間、僅かながらの移動を繰り返して陸地の集合体…即ち大陸として漸く現在の世界地図に等しき配置をとるようになった、というものがある。そしてルザミという地は、大陸へと集約せんとする群の意志から弾かれた孤高の地。世界から置き去りにされた、“忘れ去られた地”と形容されていた。
 玉石混交数多ある諸説の中から往々がルザミという名を耳にして連想するのは概ねこれら二者に帰結し、前者は海に生きる者達が往々に信心深い事に始まり、後者は学徒の門戸を叩いた者が知を広めた事に端を発する。
 何れにしろ双方の見解は共に確証に至っていないが故に、まだ暫くはルザミという地は世界から存在さえ不確かとされる幽幻の未開地として様々な思惑と共に認識される事だろう。
 勿論、それは外界からの一方的で身勝手な見地であり、ルザミ島に人間は当たり前のように営々と生を刻み、島の外に広大な世界が広がっている事も認識していた。



 より巨きな大地から力任せに引き剥がされた傷痕の如く、海面から垂直に切り立った断崖は城塞のように島全体を囲っており、接岸できる場所は島の南側にある唯一の入江に限られる。そうなれば自然と人々はそちらに集まるようになり、必然的にこの島唯一の共同体は港町としての色彩を放つようになっていった。
 元来、小さな漁村の小さな漁港と言って差し支えない規模であった港には、今日では新たに増設された桟橋が海面の上を縦横無尽に走り、その様相はさながら水面に張られた蜘蛛の巣と言っても良い。そしてそこに停泊する船はどれも一般的な商船と同じ位の大きさの中規模なものであるが、船体を彩る武装はあまりにも物々しかった。
 岸辺に殺到する如く並ぶ武装船の中に、一際巨大な体躯を誇る軍艦染みた船舶があり、それこそが盗賊団“流星”の首領が駆る旗船であった。

 旗船だけあって広々とした甲板は、人払いでもしてあるのか船員は誰一人としていない。戦闘中ともあれば、視界の彼方此方に武器やそれに連なる道具が散乱し、絶えず怒号が響き渡っているのだが、今はそんな活気がまるで感じられない程に幽然としている。
 ゆるりと宙を舞う潮風だけが行き交っており、流れる時間は非常に緩慢なものだった。
「空はでかいな、大きなぁー……っと」
 不意に、軽やかな韻が甲板の上を響き渡る。
 無人かと思われた甲板には黒い外套に身を包み、同じく鐔の広い黒の帽子を深く被った青年が無造作に身体を投げ出し、仰向けになって蒼穹の大空を眺めていた。
 束縛の無い蒼き海を悠然と流れる入道雲をぼんやりと眼で追いながら、気楽な鼻歌に興じる黒衣の青年はノヴァ=ブラズニル。サマンオサ帝国に仇為す盗賊団“流星”という組織を率いる若き首領だ。
 しかし。一大帝国に反旗を翻し、それなりに世界に名の知れた組織の首魁たる者の振る舞いとしては今のノヴァからは緊張の欠片も感じられず、そして無防備この上ない。
 寝転んだまま、ノヴァは自身の白金の髪が風に揺られて鼻先を掠めたのを擽ったそうに顔を顰めて退かそうとすると、その時ふと、気の遠くなる蒼に翳りが差し込んだ。
「……こんな所に寝転んで何してんだ?」
 怪訝な声色を乗せて聴覚に運ばれてくる声は、ノヴァにとっては聞き慣れた声だ。声の主は己が紫の髪を掻きながら、呆れたような表情でこちらを見下ろしているのだろう。
 ノヴァは帽子の鍔を指先で幾許か動かし、予想通り逆光の中で冷ややかな眼差しを落としてくる紫髪の青年…ゼノス=アークハイムを捉えた。
「ん、いや……する事が何も無くてなぁ」
「それでジーニアスに倣ってボーッとしてたのか。久しぶりの休暇だからお前が何をしてようが構わないが、そのまま日光浴をしてると、その内バブルスライム並に身体が溶けちまうぞ」
「んな訳あるか……だがまあ正直、こう暇過ぎるのは辛いな。過剰な余暇は人間を駄目にするって何処かで聞いたが、本当かもしれん……くそっ。どいつもこいつも俺からやる事を奪いやがって」
 盗賊団“流星”の首領ノヴァは、今現在余暇に興じていた。それも自らが望んだのではなく、周囲から有無を言わされぬまま強制的に、だ。その為、急に空いた時間の潰し方が思いつかず、こうして一人時間を持て余していたのだった。
 よっ、という小さな掛け声と共に上体を起こし悪態を吐いたノヴァに、彼の性格を良く知るゼノスはカラカラと肩を揺らして笑った。
「大切にされて結構な事じゃないか。毎度毎度後先考えずに突っ走って、それに付き合わされる側の苦労を考えれば、お前がその辺で暇に取り殺されている方が周りは心穏やかに過ごせるってもんだ」
「……随分な言い様だな、おい」
 相変わらず辛辣で遠慮のない相棒の言に、ノヴァは半眼を向ける。この男は相手が誰であろうと物着せぬ言い方を崩す事が無いだけに信頼が置けるのだが、どうしても気分がげんなりするのは間違いなく気のせいではないだろう。
 帽子を脱いで、ノヴァは髪を掻き上げる。気持ちの良い潮風が髪を梳いていき、眠気が一気に吹き飛んだ。
「で、何の用だ?」
「今朝方届いた報告書を見たんだが……随分と不吉な事が書いてあってな」
 笑みを止め、苦虫を噛み潰したかのように顔を顰めたゼノスに、ノヴァは深々と溜息を吐いて同意する。
「ああ……スィの奴、どうやらまた悪い癖が出ちまったらしい。バハラタ公会議に出席する為に出向いたは良いが、現地で姿を眩ませたそうだ」
「掻っ攫われたんじゃなくて自ら姿を晦ますってのがあの姫さんらしいが……ん? そういやあの姫さん、何で皇族のくせに太陰神ゼニス教の司祭長なんてやっているんだ?」
「サマンオサ出身じゃないお前には馴染みが無いかもしれんが、皇室には大昔に神権政治をしていた頃の名残とかいう古くさい慣習が幾つもあってな」
「ほぅ……それはまた、随分と面倒そうだ」
「まあな。政教分離は現在において完遂されているんだが、象徴シンボルってのはやっぱり人心を統御する為には必要だろう。その象徴たるべくして在るゼニス教歴代の司祭長は、皇族の中から輩出しなきゃならない。で、ゼニス教司祭には高度な魔法的素養が求められるからな。今の皇族の中で条件を満たしていたのがあいつ一人だったて訳さ」
「ま、あの姫さんに限っては良かったじゃねぇか。年に一度、正当な理由で大手を振って外を歩けるんだ。いつも城の中に引き篭もっていたんじゃ、動きたくってうずうずしてるだろうよ」
 現在サマンオサ帝国は鎖国状態にあるが、太陰神ゼニス教自体が封鎖されている訳ではない。国内外にも数多の信者を抱えている為、門戸を閉ざす事ができないでいたのだ。
 そこを上手く突ければ反帝国を掲げる“流星”にとって大きな利点となって然るべきなのだが、世界はそう都合良く廻らない。廻せない事情が彼らにはあったのだった。
「簡単に言ってくれるが……あいつのそれがどれだけ暴走するのかお前にはわからんのか?」
「俺には関係の無い話だからな」
 堂々明朗に居直るゼノスを横目で睨み、ノヴァは頭を抱えた。
「……バハラタに到着して早々、護衛の兵士達を撒いて姿を晦ませて数日、現在に到る。現地のイシス領事館には捜索願を出し、護衛隊長として随行していたブレナンも彼方此方探し回っているそうだが未だに見つからない。個人的な見解じゃ街の中には既にいないと踏んでいるが」
「……街の外には魔物もいるだろうに、勇ましい限りだな」
 説明を聞いて思わずゼノスも乾いた笑みを浮かべてしまう。後先考えず即行動を地で行くどこかの誰かさんと同じく、有り余る行動力を持った皇女の捜索に寝る暇も惜しんでいるであろう壮年の騎士に心底同情した。
「ブレナンには引き続き捜索させるとして……誰かさんに似て無駄に正義感の強いスィの事だから、サマンオサの現状と真実を他国のお偉いさん方の前で説明して助けを求める為に躍起になっているんだろう。だがそれは性急……いや、幼稚な結論だ」
「だな。祖国解放に他国の介入があったんじゃあ、下手すりゃ魔物が居座っている場所に他国の人間が挿げ替わるだけだ」
 考えられる最悪を想定してゼノスは肩を竦める。それを受けてノヴァもまた重々しく頷いた。
「それ以前に、“流星おれたち”が掲げている旗の土台が崩れる。これまでやってきた事も、これからやろうとしている事も全て無意味になりかねん」
「……姫さんがやきもきする気持ちも解らんでも無いがな」
「……ああ。だがな、あいつは悪く言えば全体が見えていない。限定された情報しか得られないから仕方ないと言えばそれまでだが……結局、近視眼的に行動せざるを得ない」
 そんなところだな、と言って立ち上がったノヴァは全身を伸ばして筋肉を解す。長時間甲板の上で横になっていた為、それなりに筋が凝り固まっていたようだった。
「じゃあ大局を考えた結果、“曙光の軍勢”入りの件は突っ撥ねるのか? お前の所にこの前、連中の使者が来ていたよな?」
 話題の矛先を変え、ゼノスは試すように連ねる。ノヴァの声色は確実に一段下がった。
「……一時保留にはしたが懐疑的な訳じゃないぞ。軍勢首脳の獅子卿の考えが見えないのは確かだが、参加自体を拒否するつもりはない。問題なのは純粋に時期という一点だけだ。大体、帝国を取り戻した後で無ければ恐らく団の誰も納得しないだろうが」
 国家と言う枠組みを越え、対魔王という大義を翳した軍勢。嘗て父がその勢力を率いていた事を思えば、ノヴァ個人としても加盟に断る理由は無い。だが今、彼自身が率いている盗賊団“流星”はサマンオサ帝国の解放を最終的な目的として動いている組織だ。優先順位はとしては世界よりも祖国解放の方に重きを置いているのだ。
 ゼノスもそれを理解しているのか、敢えて口を挟む事は無かった。
「その辺りの判断は元々お前に任せるつもりだからな。お前が良いと思った時期に加盟してくれて俺は構わないぜ。で、目下の最優先事項である姫さんの話に戻るんだが……結局そっちの対応はどうするよ? まさかこのままブレナンのおやっさんに任せきりって訳にもいかないだろ」
「当たり前だ。スィは大切な神輿の一つだからな」
 ゼノスからの問い掛けの視線を背に受け、ノヴァは船首まで歩を進める。両腕を鍛えられた胸の前で組んだまま鷹の眼光を湛えて、遥か先の青に挟まれた境界線を見据えた。
「……今現在、任務遂行中の諸隊の中で余裕がありそうなのは?」
「任務の性質上、情報採集部隊“風潜”や対外折衝部隊“駿天”からは無理だ。拠点強襲部隊“炸洸”はこの前帰還したばかりだから……妥当なところで拠点防衛部隊“飛影”だな。まあ今のところロマリア自体は穏やかなもんだし、隣でポルトガとエジンベアが小競り合っているんだから静観決め込むのは正しい判断だと思うぜ。ロマリアはロマリアで王都の件があって以来、復興にかまけてそれどころでもないしな」
“流星”以下の下位組織の名と役割を思い連ね、一つ溜息を吐いたゼノスは続ける。
「“飛影”隊長カンダタは、ロマリアの安定を鑑みてその任を他に預け、本人はちと単独行動をしている……最後に見た時の様子じゃあ、アリアハンに行ったと見て間違いないな」
「アリアハン……何でまた?」
 その名を耳にしてピクリと眼を細めたノヴァに、ゼノスは肩を竦めた。
「あいつはあいつでオルテガのオッサンの重篤狂信者だって事だな。改宗は無理。もう手の施しようがねぇよ」
 仲間のカンダタ=オデッサが“アリアハンの勇者”オルテガと旧知の仲なのは嘗てこの眼で確かめているから知っている。そしてオルテガ亡き後の彼の家族の事を少なからず心配していたのも解っていた。だからこそ“オルテガの息子”であるユリウス=ブラムバルドと対峙して、その在り様に一つの価値観を徹底的に蹂躙されたカンダタは、少年が辿ってきた経緯が酷く気になったのだろう。
 ゼノスはそんなカンダタにお人好し、という評価を下した。親友の息子という点での贔屓目もあるだろうが、結局は人情に篤いところがカンダタの本質なのだ。
「お前な……もう少しマシな言い方はないのか」
「ん、そうか?」
 見ればノヴァは非難染みた視線を送ってきていた。確かにこのノヴァもカンダタに似た気質を持っている……いや、それはノヴァだけに当て嵌まる事ではない。寧ろ“流星”という組織に属するジーニアスや他の面々といった故郷から淘汰された経験を持つ者達は似通った気質を備えていた。
 勿論それをゼノスは悪い事とは言わない。その感情は寧ろ人間としての美徳に挙げられるべきものだ。
 だがそれは個であれば看過できるものであっても、組織としては易々と寛容する訳にはいかない。何でもかんでも無作為に抱え込む事で自ら沈没を招く危険性を有するくらいならば、物事を冷静に検分でき、無慈悲に切って捨てられる適度に冷徹な方が丁度良いのだ。そしてこの“流星”という組織において、その任を担うのが自分の役回りだとゼノスは理解していた。
 故に老婆心に近い感情からカンダタに一応釘を刺しておいたのだが、案の定納得のいかない表情を残しカンダタはアリアハンへと向かっていった。
「リースを引き取ってから父性に目覚めちまったからかね……ま、あいつらしくて良いじゃないか」
 少しも悪びれずあっけらかんと笑う容赦のない相棒に、ノヴァは乱暴に己の髪を掻き回した。
「……あの国とはなるべく関わり合いたくないのが本音なんだがなぁ」
 アリアハンの国情や軍の練度については情報採集部隊からの報告を受けていたが、その情報さえも彼の国に敢えて掴まされたものだという事に気付いた時、ノヴァは彼の国を統治する王に戦慄するのを禁じえなかった。更に加えるならば王自身の武勇について、世界最強の軍を保有する聖殿ランシールに所属していた頃のものが半ば伝説となって今でも語り継がれている。
 アリアハンという国の仮面の裏側について思索を深めれば深める程、伝統に則って儀礼的に“勇者”を仕立て上げ“魔王討伐”の旗を掲げている事に疑問が浮かんでくるのだ。だからこそ、ノヴァにしてみればアリアハンとは現存する国家で最も油断できない、対峙したくない相手だった。
 そんな首領の愚痴に近い独り言に心当たりが有り過ぎるのか、一応の当事者の一人であるゼノスは苦々しく表情を歪める。
「あー、それこそ今更だな。彼の国ご自慢の“勇者”とやり合った時点で」
 嘗て相見えた、双眸に十六という年齢にそぐわぬ光を宿した漆黒の少年。一対一で“金獅子”としての異名を持ち盗賊団“流星”の中でも指折りの実力者であるカンダタを下したという事実から、その将来を思えば空恐ろしい想像も出来なくは無い。だが、ゼノスには彼の行く末には自滅が待ち構えているように感じられていた。
 そもそもその勇者と対峙した理由というのも、もとを糺せばカンダタの情に起因するものであったが、それを批難する気はゼノスには微塵も無かった。迷惑な事態ではあったが既に終わった事象である以上、何時までも引き摺る必要もなかったからだ。ただ彼の勇者の背後にいるアリアハンとの間に要らぬ軋轢が生じぬか気を揉みはしたが……。
「報復が厄介だったが、魔王討伐中なのは僥倖か……よし。カンダタに連絡しろ。スィを探し出せ、ってな」
「……いいのか?」
「良いも悪いも無い。ダーマ近辺はあいつの古巣だろ。探索もしやすいだろうし他の選択肢は無い」
「そりゃあそうだろうが、姫さんを見つけたらどうする気だ?」
「決まってるだろ。バハラタの兵士達に引き渡して予定通り会議に出席させる。あいつは一応、人質と言う形にしておけば当面の安全は保障されるんだからな」
 自由と引き換えに、とノヴァは口腔内で連ねる。皇女の性格を思えばそれは酷な事かも知れなかったが、命には替えられない。そしてこちら側に連れてくる事は、今のところ保っている均衡を一気に崩す事になるであろう事をノヴァは理解していた。
「カンダタの補佐は……“海皇三叉鎗トライデント”の連中に任せるか。公会議開催期間はバハラタは完全に封鎖されるからな。地下活動はあいつらの方が上手だし、あいつらなら街の出入りなんて容易いだろ」
「うげ……マジか?」
「ははっ、そんなに嬉しそうにするなよ。残念だがマジだ」
 苦々しく頬を引き攣らせたゼノスに、ノヴァは鼻を鳴らして肯定する。そして手にしていた帽子を深く被り直し、外套についた埃を払った。
 行動の指針が定まれば、実行は神速を以って敢行する。それが首領たるノヴァの考えであり、つまりは盗賊団“流星”の行動理念の一つだった。勿論その内側に、現在の暇を持て余す手持ち無沙汰な状況からの脱出と言う個人的な大義を孕ませているのは言うまでも無いだろう。
 どんな時でも携行している己の武装を確かめ、ノヴァは踵を返した。
「さて、そうと決まれば早速連中のアジトに出向くぞ。さっさと準備しやがれ」
「……面倒が起きなければいいがな」
 項垂れたまま未だに愚痴っているゼノスに、ノヴァは眉を顰めた。
「何だ、あの女……ナディア=ネプトゥスはお前の苦手系か? 美人の類だと思うがな」
「中身を気にし無けりゃな……いや、あの女自身は別にどうって事はないんだ。面倒なのは、あいつが持ってる『魔剣・吹雪の剣』の方だ。『雷神の剣こいつ』との相性が良いとは言えんし……ま、ジーニアスの『烈炎の剣』程じゃねぇけどな」
 ゼノスが腰に佩いている剣を小突いて主張し、ノヴァの視線もそれに釣られる。鞘に納められた青碧の刃は静かに、だが確かな存在感を持って主の手元に鎮座していた。
 何年か前、盗賊団“流星”と海賊船団“海皇三叉鎗”と共同で実行に移した作戦行動があったのだが、その任務中、ジーニアスの持つ『烈炎の剣』とナディアの持つ『吹雪の剣』が共鳴してジーニアスやナディアが大怪我を負う事故があった。原因はそれぞれの魔剣が持つ属性の反発作用による暴走事故だったのだが、一時的に両組織の間に緊張が走ったものだ。結局、ジーニアスやナディアが事故に関しては自らの未熟に非があるとして、それぞれの組織に生じた蟠りを封殺した為、関係が悪化する事は無かった。
 余談ではあるが、ジーニアスの妹であるジェシカは未だにその事でナディアを恨んでいる様である。理性では原因も何もかもを理解しているものの、大切な兄が怪我を負ったと言う動かない事実に感情が許容できないのであろう。
 完全に魔剣を支配しているゼノスと違って、ジーニアスやナディアは未だ所有権は得ているものの、支配権を得るに到っていない。数年経過した今でもその現状は変わらないだろう。
「“星辰六芒剣ガイアクリーヴァ”の因果か……お前とつるんで十年以上になるが、未だに俺には良く解らん」
「そりゃあ、所有者以外はそうだろうな。コレはお前の双竜兵装オモチャ…『竜顎の爪ドラゴンクロウ』と『竜の尾鞭ドラゴンテイル』と違って色々と面倒な因果に絡め取られているからな」
 言われたノヴァは小さく肩を竦めて歩みだす。特に慌てるでも無く自然に後ろに続くゼノスがその背に投げかけた。
「おい、留守はどうするんだ?」
 ルザミ島は絶海の孤島。複雑に入り乱れた海流によって護られた天然の城砦とも言える。ここに到達できるのは、僅かながらに存在する抜け道を探り当て、通り抜けた者か、奇蹟的な幸運によって流れ着いた者のみ。
 よって外から敵が襲来するという事態に陥る事はまず無いと考えて良かった。だからこそ首領、副首領が揃って遠出するのだが、組織として統制者を欠くような避けたい。そう配慮した上でのゼノスの言だった。
 背中からの言葉に、ノヴァはピタリと足を止める。
「あー……他の連中には申し訳ないが、犠牲になって貰うか」
「せめて本音は胸の裡だけにしまっておけよ……」
 哀悼を捧げるような意味深な眼差しで海面を見つめるノヴァに、ただそれだけで真意を悟ったゼノスは思わず強く目頭を押さえる。
 海からの無遠慮な潮風と海鳥の鳴き声はけたたましく宙に舞い、それがこれから留守を預ける“賢者”の高笑いに聞こえて二人の男は陰鬱な気分になる。
 団員達を薬の実験台にして喜ぶ声が耳の奥で恐々と響いているようで、自然と二人の口から溜息が同時に零れ落ちていた。



 凡そ十年前の政変によって故郷サマンオサから脱出する事を余儀なくされた彼らは、抜け道をる海賊船団“海皇三叉鎗”の導きによってこの地に落ち延びる。そしてノヴァが、サマンオサ奪還という旗を掲げ盗賊団“流星”を立ち上げた。
 当初はノヴァの父クエーサーが率いていた遊撃騎士団“流星”の生き残りを始めとする敗残兵達が主体であったが、“海皇三叉鎗”の協力や、同じく帝国の変貌に危機感を覚えていた諸国の者達、虎視眈々と利得を狙う富貴商人達の思惑をも取り込んで組織として急激に肥大する事となる。
 また同時に本拠地として共生する事となった島の発展にも手を貸し、ルザミ島と盗賊団“流星”の共同体は着実に力をつけていった。

 ノヴァとゼノスはルザミ外縁の道を行き、崖の上に建つ建物に向かっていた。
 そこは彼らが天文台と呼ぶところで、建物の天球上の屋根の辺りから細長い棒状の物が空に向かって伸びている。初見の者ならばそれを見て思わず頭に疑問符を乗せてしまう程に理解が追いつかない代物だが、この島に住む者達にとってそれは慣れ親しんだ物に過ぎなかった。
 細長く巨大な筒状の物体は望遠鏡と呼ばれる道具で、人の視力では到底及ばない先を見据える事が可能で、主に天空を観測しているのだった。
 その建物の入り口の前で、駆け回る数人の子供達の姿を眺めていた若い女性が一人。まだ歳若い少女の年代だが、彼女が属していた国においては既に成人を迎えている。肩にかかる位で綺麗に切り揃えられた蜜金の髪が潮風に揺られキラキラと輝いている。強い意志を秘めた翠碧の双眸が、近付いてくるノヴァとゼノスの姿を捉えた。
「あら、ノヴァにゼノス。二人揃ってどうしたの? 母さんに用?」
 穏かに微笑む少女に挨拶代わりに軽く手を挙げるゼノス。少女の名前はジェシカ=エレイン。今はここではない遠い海を旅するジーニアス=エレインのただ一人の実妹だ。そしてジェシカが言う母とは、彼女らの実母、十三賢人に数えられる“三博士・封”のサラ=I=エレインに他ならない。
「まあな。ちょっと島を空けるんで、留守を任せたいんだ」
「外出? 作戦行動とは違うわよね?」
 そんな予定聞いていないし、とジェシカは小首を傾げる。元公女とあってその仕草の一つ一つに品があった。
「都会の女が恋しくなったってノヴァが煩くてな。どうせここにいてもする事がないだろうし、鬱陶しいからアッサラーム辺りに放り出してくるのさ」
「てめ、何言ってやがる」
 相変わらずといえばそこまでだが、あまり聞き逃したくない冗談をけらけらと笑いながら綴るゼノスに向けて、ノヴァは声色を低くする。
 ジト目で、軽蔑しきった冷やかな視線でジェシカはノヴァを射抜いていた。
「ふーん……別にどうでもいいけど、小さい子供達の前でそういう卑猥な話はしないでね。教育上良くないから」
「卑猥って……おい」
 飛躍しすぎてねぇか、と言いたげなノヴァを黙殺してジェシカはゼノスを仰いだ。
「そんな事よりゼノス。兄さん元気だった?」
「ああ。直接会ったのは随分前だが相変わらずさ」
「良かった……船旅ばかりで身体を壊すんじゃないかって、ずっと心配していたの。あのメンバーで料理作れるのがヴェインさんだけだっていうのも問題だわ。ううん、兄さんの作る料理は凄く美味しいけど、そんなに種類は多くないし。船旅だから栄養が偏るのは注意しなければならないから……やっぱり、何としてでも私もついて行くべきだったな」
 少々度が過ぎているようだが、兄を心配する妹を眺めながら、ノヴァは一笑した。
「今から追いかけて行けばいいじゃねーか」
「じゃあ許可を頂戴。準備はいつでも出来ているんだから、直ぐにでも行けるのよ」
 その言葉の意味が慨然である事を示すように、ジェシカの双眸には真っ直ぐな光が宿っていた。それを見て、ゼノスはノヴァの脇腹を小突く。
「……馬鹿、こいつジーニの事に関しては本気だぞ。本当に飛んで行きかねん」
「……すまん、失言だった」
「何二人でヒソヒソしてるの? 気持ち悪いわね」
 顔を深いそうに歪めて言い放つジェシカにノヴァは項垂れる。穏健で若干優柔不断なきらいがある兄に対して、この妹は何処までも強かで勝気、そして言うべき事ははっきりと容赦無く言う性格だった。
「何でもねーよ……って、お前な。面と向かって気持ち悪いとか――」
「兄さん……今はどの辺りなのかな?」
「無視かよっ!」
 傍で大声を上げるノヴァの声など微塵も届いていないのか。遠い水平線を眺めるジェシカの表情は、さながら港で船乗りの恋人を待つ女のそれと同じだった。
「最新の報告じゃあ、ネクロゴンド大陸南西部にあるテドン経由でランシールに向かうって聞いたが」
「ネクロゴンド!? 何でそんなところに……危険じゃないっ!!」
 愕然と眼を見開くジェシカに、現地を知るゼノスが否定に首を横に振る。
「いや、あの辺りは他に比べれば割りと安全な方だ。灯台下暗しとも言うべきでな、元々城塞都市テドンがあった場所を中心に特殊な力場が発生していて、魔物の活動が著しく制限されているんだ」
「確か見物に行った時はそうだったよな。理由は結局判らず終いだったが……それこそ、唯一の生き残りのカルロス公にでも聞くしかないか」
「そんな悠長な事言わないでっ! ああ、兄さん。私は……どうすれば――あっ」
「じ、じゃあ。俺たちは行くぜ」
 背筋に何か嫌な予感が走ったノヴァは即座に退散しようと試みる。一刻も早くここを去らねばならないという危機察知本能がけたたましく警鐘を鳴らしていた。
「待ちなさい!」
「あ?」
「私も連れて行きなさい!」
「お前、俺達が何処に行くかわかってんのか?」
「“海皇三叉鎗”の所でしょう?」
「何でわかった!?」
 驚愕を露にするノヴァに、ジェシカはゆるりと上品に微笑む。
「カマをかけてみたのよ」
「ぐっ」
 あまりにもあんまりな答えに顔を引きつらせたノヴァの横で、阿呆、と小さく語散てゼノスは掌で顔を覆った。
「だからついでに、私をランシールまで連れて行って!」
「待ち構える気かよ……だが無理だな。生憎と俺らはランシールに行った事が無――」
「――思い出した! ナディア=ネプトゥス……あの女、昔兄さんに怪我を負わせてたわね。許せないっ!」
 その詳細は魔剣同士の反発力によって生じたものであったが、ジェシカにはそんな事情など届かないのだろう。
“海皇三叉鎗”の本拠地がある方角を険しく睨み据えたジェシカが、その背に猛る焔を背負っているのを言い様のない迫力から幻視したノヴァは思わず数歩後退する。
「こ、怖ぇ」
 たじろいだノヴァよりも更に数歩下がっていたゼノスは既に諦観の域に到り、無味な遠い目で大海原を眺めている。
「穏便に……話つくかねぇ」
「……言うな。頭が痛くなってきた」
 言葉の余韻が海からの潮風と海鳥の鳴き声に掻き消され、それもまた潰えた頃。二つの溜息が同時に零れた。




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