――――第六章
第三話 染浄の風韻は軋る
滴り落ちる雨の雫は、地に立つ者達に例外無く打ち衝けていた。
夜の雨は得てして空の深い慨嘆の涙を想起させ、大地はその陰鬱な情思に否応無く染められる。
曇天という鈍色の蓋栓が閉められた夜の世界には一条の光も射さず、だが真闇には至らないという中途半端さが、そこに住まう者の意識を自然、暗澹へと誘った。
無謬漂う暗涙の帳の下で、向かい合う一組の男女…いや、その様相はまだ年若い少年と少女だ。それぞれが闇に紛れる為に纏ったかのような漆黒の外套、革の胸当てやブーツと言った簡単な武装に身を包んでいる。そしてその二人は、雨水を滴らせて艶やかに光る剣を諸手に握りしめていた。
「……結局、私達はこうなる運命だった」
言葉を紡ぎながら少年の顔に向けてゆっくりと剣の切先を動かす少女は、淡々とした物言いながらどこか諦めるような韻を孕ませていた。雨によって少女の頬にぴったりと張り付いた紫桃の髪の一房が、少女の内なる悲哀を模すが如く、艶かしく頬線を撫でて宙に落ちる。
「でも、仕方がない。持って産まれた定めから、人は、逃れる事はできない……唯一つ、死という終焉を除いては」
感情に震えるそれは消え入るような声色だった。
「そう、だな……行き着く先など、最初から一つだけだった」
少女の諦念の独白を聞いてピクリと肩を揺らした黒髪の少年は、だが力無く垂らした両腕を構えようとはせず。代わりに、けたたましい雨音に掻き消されてしまう掠れた声量で呟いていた。それは絶望の沼地から這い上がらんとする事を閉ざしたからなのか。
酷く渇き切ったそれは世界を満たす音群に呑まれ、少女に届く事は無かった。
「……どれだけ望んでも、届かないモノがある。どれだけ願っても、切り離せないモノも……ある」
少女の眼は俯いた少年の姿をつぶさに捉えていたが、やがてそれは閉ざされる。きつく落とされた瞼の裏側は、次々と湧き出してくる傷みに焼け爛れるようだ。自らも知らぬまま噛み締められていた下唇からは血の気が引き、外気と雨の冷たさも相俟って蒼白となっている。
「全てがもうどうにもならないなら……己に課せられた存在意義を貫くだけ。そうでしょう? ユリ――」
開眼した少女の掲げた切っ先がスラリと雨の雫を切り断ち、その残滓は地面に呑み込まれる。
「―――リア、お前もか」
どこか遠い空で天がおどろおどろしく啼いた。大地が、深々と鳴動する。
少年と少女の視線が交錯し、二対の双眸に刃の輝きが燈る。
次の瞬間、二人は一斉に大地を蹴った。
夜の天に迷わず、ぬかるんだ地面をものともせず駆ける二つの影は、互いが自らを一振りの刃と為して、互いに向けて肉薄する。
迫中する意識、疾空する閃光、交錯する刃。
跳梁する雨雫、飛散する血潮、決壊する心。
そして……
濯れる、剱。
その遥か上空で、世界をも呑み込んだ闇を劈く稲妻が、深陰に満ちた夜に爆ぜた――。
*
結局、ヒイロの懸念は的を射る事となった。
聖王国イシスの統治機関であるバハラタ領事館に辿り着いたユリウス達一行を待ち構えていたのは、砂漠の双姫たる“
魔姫”と“
剣姫”の二人、そしてその背後に彼女らが守護する女王“
王裡”であった。
彼女らは国の中央で政の指揮を執らねばならない立場にあったが、そんな彼女達を旗頭と擁する太陽神ラー教団は“協会”に加盟する宗教組織の中でも三指の内の一つに数えられる大組織体であり、その会議が自らの治める領内で開催されるとなれば、参加するのは必然。例え王都が未だ復興の最中にあると言えど、出席は避けては通れない事だった。
ヒイロの予想通り、顔を合わせるなり問答無用で斬りかかって来た“剣姫”アズサの猛攻をユリウスは淡々と受け流していたが、やがて驟雨の如きに連ねられるそれに鬱陶しさを覚え、余程書類仕事が堪えたと見える、と冷然と言い放つ。それが彼女の逆鱗に触れ、領事館前の広場は一時けたたましい怒声と剣戟が飛び交う戦場となった。
フィレスティナの一声で場の収拾はついたものの、憤慨たるや昂ぶった気勢が鎮静しない“剣姫”と至極冷ややかな“魔姫”の両極の視線を一身に受ける事となったユリウスであったが、素知らぬ顔で粛々と到着手続きを済ませ、領事館に隣接する宿の敷井を跨いでいた。
その際、ユリウスはこのバハラタが“協会”の公会議開催期間になれば完全に閉鎖される事を知った。世界の要人が集まる以上、防犯対策としては当然の措置であったが、この間、真っ当な人間社会に属する者ならばどんな存在であれ街に入る事も出る事も叶わない。唯一の例外が街の警護を担当するイシス兵や神殿騎士達であるが、それでも許可が出るのはそれなりに地位のある者に限られた。
よって先を急ぐ身であるユリウスとしては、魔物を倒す旅路を人間の都合によって阻まれる事になった事態に甚だ不愉快さを露にしていた。平時よりも一層憮然としたユリウスを見て、たまには休息を取れと呆れた様子で言ったのはアズサであったが、聖都イシスで不必要なまでに足止めされた側であるユリウスとしては、彼女の気遣いは逆効果で寧ろ迷惑でしかない。
ただ、望まぬ足踏みを強いられる事となって辟易するユリウスと違い、これまでの強行軍の疲れが滲んでいた他の面々は、思わぬところで訪れた休息の機会にホッと胸を撫で下ろしていた。
一夜明けて。
変わらずに日常を謳歌している活気ある街並みと、人々の穏やかな喧騒の裏側に潜みながら徐々に高まる警戒感。数多の人の意思が混在する街路をソニアとユリウスは歩いていた。但しそれはソニアが先導して街並みを往き、ユリウスがそれに億劫そうについて行くと言う至極珍しい形ではあったが。
気だるげなユリウスの両手には既に大きな麻袋が抱えられており、その中には大量の干し肉や長期保存に耐え得る処理の施された食料類が溢れんばかりに収められている。
公会議開催によるバハラタ完全閉鎖まであと二、三日の猶予があるという事なので、この僅かな間に出発する為に翌日からユリウス達は物資の調達に繰り出し、既に何件もの店を巡っては旅路に必要な分の物資を補給しているのであった。
「最後は……黒胡椒ね」
ソニアが手にしている目録に眼を通して言う。これから先、必要になるであろう物資の候補を一つ一つ挙げ、熟慮した上でそれを几帳面に書き連ねて買い物をしているのだから一切の無駄は生じない。パーティの財政を一手に担う彼女としては当然の事だった。
ちなみにその両手には目録以外の物は持っていない。買い出しに入った店で会計を済ませた後、全ての店主達が
悉く強制的にユリウスに荷物を手渡したからだ。ユリウスとしては特に現地の人間と揉め事を起こすつもりも無かったので、甚だ不本意であったものの一応は従ってはいた。
視界にちらつく荷物の影の落ち着かなさに辟易しながら、聞き慣れない単語にユリウスは眉を顰める。
「……黒胡椒?」
「ええ。この地方の特産品ね。香辛料の一種で西方の国々…特にポルトガでは昔、“天国の種子”なんて呼ばれていて驚くような高値で取引されていたそうよ」
胡椒の一粒は黄金の一粒という言葉もあるくらいだから、とソニアは語る。
説明を受けたユリウスは、随分と仰々しい呼称に一層強く怪訝を眦に載せた。
「……そんな物を奴は何故求める?」
「ほら、ヒイロって自分で気付け薬とか作っているでしょう? それを調合する時に使うそうよ。余った分は料理に使えるし、食料を保存するのにも転用できる。最悪資金が尽きた時に売り払えばそれなりのお金に替えられるから、買っておいて損は無いって言っていたわね」
「だが、高価な物なんだろう?」
多方面に器用な性質を持つ人間の言葉なのだから用途は多様にあると考えて間違いは無いのだろうが、ソニアの説明を受ける限り自分達には手の届かない物のように思える。
元々金銭に対して無頓着で且つ執着も興味も無い為か、ユリウスはパーティの所持金の状況さえ把握していないのが現実であったが、実際のところユリウス達の旅の資金は一介の冒険者から比べればあまりにも潤沢だった。
“魔王討伐”という大義名分の下、アリアハン、ロマリア、イシスといった国々からの援助を受けている事もその大きな一因ではあるが、実家が教会であり質素倹約に長けた性質のアリアハン宮廷司祭ソニアが、各々の所持金以外でのパーティの資金管理を厳正に執り行っているからだ。
しかし興味が無いとは言え、ユリウスとて人間社会における貨幣の重要性は理解している。更に言うなれば各国の支援とは、つまるところその国の人々からの税金で賄われているものである事も、だ。よってユリウスは旅の初期から宮廷に仕える者であるソニアに任せ、資金面には極力関与しないようにしていた。
そんな背景もあって、ユリウスがパーティの財政状況への認識が疎かになってしまってもそれは寧ろ自明と言えるだろう。
「大陸西方で黒胡椒の価格が高騰していたのは、入手の難しさに対してよ。今ではルーラや『キメラの翼』と言った輸送手段があるから昔ほどではないらしいけど、やっぱり一般にはまだ高嶺の花みたいね。あ、でも原産地であるこのバハラタで直接仕入れる分には大した出費にはならないって」
流暢に連ねるソニアを眺めながら、予め彼女に知識を吹き込んだであろう銀髪の盗賊の周到さにユリウスはある種の感心を零す。
だがそれにしてもやはり。黄金の一粒とただの一香辛料の一粒が等価値に設定していたという現実は、ユリウスには甚だ理解不能だった。
「物にどんな価値を見出すか千差万別という事か……つくづく人間とは良くわからない生き物だな」
「あのね……それを言うなら、あなたも充分良くわからない部類に入ると思う」
武器が消耗品である事は間違いないが、ユリウスの場合その消費度合は半端ではない。その最大要因たる魔法剣の事をソニアは知らなくとも、周囲の眼から見れば剣を湯水の如く浪費するユリウスの姿は充分に異質だ。
その為、達観染みた物言いで呆れた溜息を吐くユリウスにソニアも口を挟まずにはいられなかった。
「いずれにせよ、早急に買い出しを終わらせて解放して欲しいんだが」
「あなたは先を急ぎたいのかもしれないけど、皆今回の旅で相当疲れているわ。馬だって少しは休ませてあげないといけないし。自分一人だけの旅路じゃないんだから我侭を言わないで」
両腕が塞がったまま肩を竦めたユリウスに、両手を腰に当てソニアは毅然と言い放つ。
その様子は傍から見ると、聞き分けの無い弟をしっかり者の姉が叱っているような微笑ましい光景であった。
ソニアの言葉は正論に違いなかったが、その論拠はパーティの面々がそれぞれを仲間だと認識し合っている前提があって初めて輝くものだ。仲間達の誰もがそう思っているのだと信じて疑わないソニアらしい言動だと言えよう。
しかし、ユリウスはそれを理解できないもののように不可解そうに眉を顰めるだけだ。裡に生じた純粋な疑問が無色のまま面に貼り付けられていた。
ユリウスが何を思ったか彼女には判断付かなかったが、ソニアは不意に生じた寂しさと悲しさから溜息を深めていた。
「だいたい剣の鍛錬は駄目だ、ってユラさんに言われていたじゃない」
「あれも駄目これも駄目……全く、奴等はつくづくこちらの行く手を阻みたいらしいな」
「そんな言い方しないでよ」
元々ユリウスはこの街で足止めをされるのだと覚った時。余った時間を少しでも有意義に利用する為に、これまでもそうしてきたように人気の無い場所で剣の鍛錬でもしようかと思っていた。だがその矢先、この公会議開催前という緊張感が増す時期に街中でそんな事をするのならば、不審人物として問答無用で拿捕します、と清々しいまでの冷笑を浮かべた“魔姫”ユラに宣告されてしまったが為、出鼻を挫かれる結果となっていた。
ユラの立場を思えばその諫言に不自然さは無かったのだが、ユリウスは彼女の淑やかな対応の端々に刺々しい何かを孕ませていたのを感じ取っていた。恐らくは妹ティルトの顛末をアズサより伝え聞いたからであろうとユリウスは自らの内でそう結論付けて納得する。実際その事について彼女から説明を求められた訳ではないが、その可能性が尤も高いと推断でき、それ以上に結果として彼女の心象を悪化させたのだとしてもユリウスには既にどうでも良い事だった。
(この旅路は急務である、と事ある毎に言われたものだが)
ユリウスは内心で語散る。アリアハンにいた頃など、外で誰かと顔を合わせる度に早く出発しろとか、どうしてもっと早くに生まれなかったのかとか、不条理な論理や感情と共に、兎にも角にも魔王討伐の旅路に発つのを急かし立てて来たものだ。しかし現実を見れば、魔物の脅威に曝されている事は間違い無いものの、それでも時間は驚く程緩慢と流れている。
己が認識と世の現実との差異は小さな綻びとして徐々に磨耗し、自分を深々と蝕んでいた。
諦念を深めて吐息を零すと、ユリウスは足を止めて前を歩くソニアを見据えた。
「予め言っておくが、悠長に公会議の終了までこの街に留まるつもりは無い。これ以上、イシス絡みで旅路の邪魔をされては迷惑だからな」
「そ、そうやって改めて念を押さなくてもわかっているわよっ!」
するとソニアは釘を刺された事が面白くなかったのか、小さく頬を膨らませて睨んできた。それはどちらかと言えば気恥ずかしさを誤魔化しているかのような反応であったが、つい昨日。エレクシア=ヴォルヴァという存在への並ならぬ憧憬の一端を見せつけられた側としては、彼女の言葉に懐疑的にならざるを得なかった。
「……だといいがな」
頬を紅潮させ、上目遣いで睨んでくる紅の双眸にユリウスは大仰に肩を竦めた。
*
バハラタという地は如何なる神を奉ずる宗教であれ、その枠内に身を置く者にとって特別な意味を持つ場所であり、特にルビス教徒にとっては公式指定されてはいないものの聖殿ランシールと並び崇められる特別な地とされていた。
ロマリアを始め、アッサラーム、イシスと世界有数の大都市を見てきたソニアは、この街のあちこちを見渡す中で目に馴染んだルビス教会の姿が視界に飛び込んできて思わず胸を撫で下ろす。思えば、アリアハンを発って以来、フェレトリウス教圏内のロマリア、ラー教圏内のイシスと異教圏ばかり旅してきたのだ。久しぶりに見るルビスの章印の影に、我が家に帰ってきた時のような安堵をしみじみと思い起こさせる。
勿論それくらいの事で見失う程に自分の信仰心が薄っぺらなものではない事を自覚しているし、他教徒に対しての偏見は無い。逆に、異教徒であるソニア自身がこれまでの旅路で宗教的な差別、迫害を受けた事も無かった。それを考えれば、世界の中で大きな影響力を持つ宗教統治機構である“協会”の存在の大きさと有難みをまざまざと思い知る事になった。
ここバハラタは“協会”発足の地であり、その切っ掛けとなった今より四百年程前に起きた宗教戦争の惨劇の場であり、それを終結させた“聖女”生誕の地であるのだ。
憧れの“賢者”であり崇敬する“
神聖騎女”エレクシア=ヴォルヴァ。彼女が四百年前の戦を終結へと導いた“聖女”であるのは、ルビス教徒にとっては疑いようが無い史実だ。人間が四百年も生きている事への懐疑など、神の寵愛という一言で全てが片付いているのだ。
だからこそ次なる目的地がダーマ神殿でバハラタを経由すると聞いた時は、ソニアは人知れず内心で飛び上がった。昔から一度は訪れてみたいと思い描いていた場所だけに、こうして自分の足で到達できたのだから感慨深さに拍車が掛かる。恐らく故郷にいたままでは、この時勢決して叶わない夢想で終わった事だろう。
そして今、この地にはエレクシア本人が来るという事なのだ。敬虔なルビス教徒であるならば、この現実を前にして心躍らずにはいられようか。
そんな想いを抱いたからか、この地の空気から神聖な地の証である清廉さをひしひしと感じていた。
「この地方は古来より雨季になると大河が頻繁に氾濫し、衛生状態の悪化が疫病の蔓延を幇助するとは聞いていたが……どうやらそれは国境を挟んだ東側での事情のようだな。今の時期は乾季から雨季への過渡期だから、火急速やかに出発するべきか」
「……人が感傷に浸っているのにどうしてそんな事を言うのよ」
路地を往きながら想いを馳せていたソニアは、後ろでバハラタの生々しい現実を一人反芻しているユリウスに非難の眼を向ける。涼やかな感傷に水どころか泥水を差された訳だが、当然その事で睨まれる理由が思い当たらないユリウスは怪訝そうに首を傾げるだけだ。
「何の話だ?」
「……何でもない」
恨めしそうに言葉を呑み込んだソニアは唇を尖らせたまま逃げるように早足になるが、その背を見ていたユリウスは一つ嘆息する。
「感傷に浸るのは構わないが、いい加減現在位置を明確にして欲しい」
「い、今やっているでしょう!」
黒胡椒を取り扱っている店を目指して商店街を歩いていたソニアとユリウスは……現在道に迷っていた。
商店街そのものは大きな街路に面していて判り易かったのだが、この街において武具や道具類を扱う商店は公会議開催時期は商売を自粛する慣習があるようで、これまでの買い出しでも相応の労力を費やしていた。その中で黒胡椒を扱う店となれば、利用客の殆どがアッサラームの商会ギルドの者や行商人といったバハラタ外部から訪れる者である為、公会議に伴う閉鎖期間は殆ど商売にならないので休業し店の戸を閉めているのが通例だった。
ユリウスとしては店が閉まっていて購入できないのであれば仕方が無いと忠告したのだが、ソニアは頑としてそれを受け容れず、開いている店を
虱潰しに探す事になった。
そして須らく閉ざされていた店を何軒か訪ね廻った結果。この時期であろうとも商いをしている店があるという情報を得てそこに向かっていた訳だが、目指す店は商店街から少し離れた入り組んだ場所に店舗を構えているようで、旅人や行商人達はまず訪れる事は無いと言う。件の店は主にバハラタに存在する胡椒屋相手に商売をしている卸問屋であった。
この情報を提供してくれた信心深そうで気さくな店主が記してくれた地図を見ながら右に左に路地を進み……すっかり方向感覚を無くしたソニアは自分達の現在位置を見失い、迷ってしまったという事だ。意気揚々と先を往くソニアに反してユリウスは極めて消極的であった為、最早言葉を紡ぐのも億劫だった。
「……ねぇ、ユリウス」
難しい顔で両手で持った地図をくるくると回し、現在位置に無理矢理合わそうとしていたソニアが徐に名前を呼ぶ。その韻はどこか神妙だ。
「何だ?」
「どこか調子でも悪いの?」
「唐突だな。何を根拠にそんな事を言う?」
「だって、イシスを出てから一度も魔法を使っていないでしょう」
地図から視線を外し、ソニアは半身ほど振り返って真摯にユリウスを見つめた。
路地を駆け抜ける風に揺られて靡く浅葱の前髪の奥から覗く紅玉の瞳から、深い何らかの感情が滔々と湧き出している。もっとも、情感に疎いユリウスがその繊細な動きに気付く事は無かったが、言葉は確実にユリウスの意識を強張らせた。
「……何か問題でもあるのか? 通常戦闘に支障は無い」
「あの黒い霧の所為?」
ユリウスの返答には触れず、ソニアは自身が思う事をそのまま口にする。
魔法を使える身のソニアは、あの戦争の終局時にユリウスが見せた漆黒の霧が異端の事象である事を察していた。全身傷だらけで砂漠の上に倒れたユリウスに駆け寄ったソニアは真っ先に回復魔法を掛けたのだが、何らかの作用によってほぼ完全に弾かれてしまっていたからだ。そしてその原因を考察するならば、行き着く結論は直前にあった事象一つだけ。
砂塵の戦場に現れたユリウスが身体に纏っていた黒い霧は、魔族が放った最大の閃熱魔法ベギラゴンを掻き消し、事もあろうか呑み込んだようにも映っていた。仮に鏡壁魔法マホカンタで反射か、同等のベギラゴンで相殺したのならばまだ理解は易かったが、目の前で起きた現実はただただ常軌から外れていた。
現存する魔法大系の中に魔法を掻き消すような効果を示す魔法は、自分の知る限り存在しない。それが魔法大系の全てかと言えば閉口せざるを得ないが、経験的にそんな魔法が存在するとはとても思えなかったのだ。
これまでは過酷な旅路の日々に手一杯だった為、尋ねる機会を見出せずにいたが今は丁度良いと判断してソニアは聞いていた。
何かしらの反応を期待していたソニアは一旦手にした地図に視線を落とし、チラリとユリウスの顔を覗く。
真剣にこちらを見下ろしてくるユリウスの表情は、相変わらずの無だった。
「黒い霧、か。何故そう思う?」
「あの後のあなたの疲弊が尋常じゃなかったのは自覚しているでしょう……そういえばアッサラームでも似たような状態だったわね」
ミコトの従者のサクヤの説明では、霊素と元素の急激な消耗、それも等しくという常識から外れた症状であった。
アッサラームという単語が出た時、ユリウスの片眉がピクリと動いたのをソニアは見逃さなかった。
それが図星である事を直感的に察したソニアは勢い付く。口早に、再び歩み出そうとしていたユリウスに連ねた。
「何がそれ程までにあなたを追い立てているの?」
「な、に?」
今度は確実にユリウスは瞠目する。ソニアは言葉を重ねた。
「今回の旅で魔法を一切使わない事も、急に双剣を使うようになった事もそう……どんな気持ちの変化があったかなんて私には解らないけど、ここ最近のあなたの様子は何かが迫ってきて立ち止まれず、焦っているみたいよ」
「一方的な言い掛かりだな……そんな事、お前には関係――」
「無い、なんて悲しい事言わないでよ。だって私達は……仲間、でしょう?」
空の明るさを燈して和らげに映える紅に純粋な心配を載せたまま連ねられた言葉に、ユリウスは完全に押し黙った。
(……こいつは、一体どういう心算なんだ?)
正対して自分を見つめてくるソニアを捉え、ユリウスは内心で訝しんだ。
どういう理屈か一切不明だが、自分が魔法を使えなくなってしまった事に関しての推察は、概ねソニアの言う通りであった。
これまでの経験上、魔法剣の使用過多による消耗の反動で魔法や闘氣の威力、収束効率が著しく低下するという状態に陥った事は何度もあったが、今回のような症例は初めてで正直対処のしようがない。ある意味で魔法封印マホトーンを受けた時のような状態に近いが、凡そ二ヶ月間も効力を持続させるなどある筈も無く。明らかに得体の知れない作用が働いているとしか考えられないのだ。
(思い当たる節は……ある)
ただ、何に原因子があるかと考えた時。ユリウス自身、現在の状態を招いた元凶そのものについての目星は着いていた。
真っ先に思い浮かぶのはルティアと名乗る正体不明の白妙の女賢者。交易都市アッサラームにて共に仇敵アークマージに殺されかけたという奇妙な縁だが、イシス王墓地下で氾濫したレイラインに呑み込まれた際、彼女に引き揚げられてその内在宇宙に直接接触した。
その後。紆余曲折を経て決戦最中のイシス大砂漠に舞い戻ったものの、逃れられない過去と対面して表面化してしまった自分の裡に未だ巣食う感情の残骸が暴走し、露顕した新魔法マホステ。その魔法というのも妙な話で、自分で使用したにも関わらず効力は今一つ把握しかねていた。“反魔法”と誰かが囁いた言葉が脳裡に微かに残っているような気がするのだが、今の状態を招いたのは恐らくそれの副次的作用によるものなのだろう。そして、それが原因だと推断できるだけにどうしようもないとの結論に帰結する。
この事は特に他の面々に隠しているつもりも無く、だが敢えて相談しようとも思わなかった。一度、ダーマの天才魔導士スルトマグナには尋ねた事はあったが解決の糸口は見つからない。また、衆目に晒した訳だからイシスの魔導師達の間で密かに議論されていたのも彼を通して知った事だが、別に気に留めおく事でもなかった。
結局のところ。終戦から時間が流れると闘氣側の不調が回復し、尚且つ収束効率が著しく向上していたのでこれを機にその扱いを磨く事に徹し、魔法の事は一時保留にしていたのだった。
ユリウスの思惑はどうあれ、ユリウスは魔力と闘氣の双方を用いる戦闘スタイルを貫いていたのだから、戦後一度も魔法を使っていない今回の旅路で周囲に不審に思われるのは寧ろ然るべきだろう。
しかし、ここで問題視すべきは――。
(仲間、だと? 姉の仇に対して、どうしてこいつはこんな事を平然と言える?)
認めたくは無い事だが、感情の残滓が未だ自分の中にあるのは自覚しなければならない。それは憎悪という色彩に塗れきったものだが、それだけにここ最近のソニアの様相は理解不能だった。
以前は口を開けば姉の事を訊ね、それに連なる恨み辛みといった鬱劫とした感情を吐き出していたものだが、最近はそれすら無い。そればかりか閉口を貫いている自分に対して取り留めの無い日常的な会話を振り、あまつさえこちらを気遣うような事を口走る始末だ。
自分がソニアの姉を殺した仇である事は紛れも無い事実であり、それは決して覆る事は無い。彼女も仇敵に対しての敵愾心を剥き出しにして然るべきだと言うのに……自分としては紛れも無く良くない方向に傾いている感じがしていた。
(スルトマグナが余計な事を吹き込んだか?)
昨日の話題を顧みれば、その可能性が最も高いとユリウスは思う。だがなればこそ、事前に手を打たなかった自分の失態だと言えるだろう。
過ぎ去った時間を顧みればみる程に、自分の目論見の甘さにほとほと嫌気が差す。
思えばいつもこうだった。算段を重ね、想定を繰り返して綿密に立てた計画も必ずどこかに綻びを内胞し、そこから全体が破綻する。これまで戦闘戦略に限らず、色々な所でその兆候はあった。
目の前に現れた敵を殺すだけの単なる殺戮人形に過ぎなかった昔ならばこんな危惧を抱く事は露程も無かっただろうに。
(……厄介だな)
次々に浮かび上がるのは数多の懸念と、それに対しての警戒。原因を模索して現状からの脱却を為そうとするならば、矛先は現在の自分の在り方そのものに帰依するのだ。
この魔王討伐の旅路は手段ではあるものの、目的では決してない。自身が旅立ち前に定めた誓いに従い、ただ魔と戦いが織り成す狂気の渦に飛び込んでいっているだけなのだ。そこに一条の光は無く、一芥の希望も無い。掴める未来、得られるものなど最初からありよう筈も無い。血によって濯がれた刃は、冷絶な刃で在る為にも更なる血を以って濯ぎ続けねばならないのだ。
だからこそ単身で出立する予定であった本来の旅路が、何故かこうして人に囲まれて歩むなどという歪められた事態になってしまっている。所詮は各々の目的を果たす為に一時的に同行している、利用し利用されるだけの偽りの同盟に過ぎないと重々承知しているが、人と人との間に飛び交い環を形成する情という柵は粘着質で浸透性が高く、更にはそれぞれの内面の変容さえ促すから始末が悪い。
(情などに囚われるつもりは無いが……油断は出来ない。今の中途半端で無様な自分が形成されたのはその所為だからこそ、壊す為には――)
外界で常に流転する瑣事など一切気に留めず、ただ只管に自らの研鑽だけを考え、目的を見失わないようにする。宿願を果たす為に貫いてきたこれまでの姿勢…他者と関わる事を極端に避け立ち入られぬよう距離を開く事を一層強化する事こそが最善の選択だとの自覚を検める。
自分の側を横切る人垣、自分が切り捨ててきた魔物、万象一切に何の価値も見出さず、全てはただ無為自然のままに生命を刈り取るだけの剱であった昔の自分に還る為にも――。
(これから先、最も危険視せねばならない存在はこの女か。勿論、“勇者”という存在を利用する目的で近付いて来る奴等も同じ……ならば)
元々仲間などと言う感覚は絶無であったが、ここに来てユリウスは同行者達に自らの目的を阻害する可能性を秘めた警戒の対象としての認識を萌芽させていた。
その抱いた警戒こそが、自らの決意の裏に潜む明らかな矛盾である事に少しも気付かずに――。
自分の顔を真剣な表情で見つめたまま黙り込んだユリウスに、ソニアは居心地の悪さから若干狼狽して視線を地図へと避難させた。
思えばこうしてユリウスの眼を真正面から見たのは何時以来だろうか。ユリウスと対話する時は必ずと言って良い程、亡くなった義姉の影が両者の間に介在する。それは安直な悲しみや憎しみの感情を呼び起こし、易々と意識を激動の紅蓮に染め上げる。
だが、憎しみの感情を情動のまま晴らす事は更なる憎しみを呼ぶのではないか、とこれまでの旅路で思うようになっていた。負の螺旋、陰の連鎖。それは人間について廻る根源的な業なのかもしれないが、それを受け容れ、背負い、乗り越える事もまたできるのだと、先日イシスで実感した事だった。
そんな事をソニアが考えていると、徐にユリウスが口を開いた。
「ソニア」
「な、なに?」
不意に名を呼ばれ、ソニアは弾かれたように顔を上げる。何時に無く真顔のユリウスと眼が合わさった。
「この街とランシールを結ぶ定期船は、今の時勢であっても恙無く運航している。そしてランシールからアリアハンへ繋がる直通の航路もまた、表向きの鎖国政策下であっても生きている」
「ええ、それが?」
その情報はアリアハンの民ならば知っていて当然に近いものだった。それをユリウスがこの場で口にする事に、今更何を言っているのだとソニアは怪訝に思う。だがユリウスは面を変えず淡々と、それだけに実直に連ねた。
「お前は、ここで――」
「あーん、待ってぇぇ!!」
無表情故の真面目さがひしひしと伝わるユリウスの唇が更に言葉を紡ごうとした時。
どこか遠くから響く幼い少女の悲痛の叫び声と同時に、ソニアの背に何か飛び着いてきた。
「きゃっ!?」
衝撃そのものより、突然に背後から押された事によって前方によろめき、向かい合っていたユリウスにしな垂れかかる。一瞬の事であったが勿論ユリウスは少しも動じず、荷物も両手に抱えたまま微動だにしない。ただ、ソニアの唐突な行動を訝しんで眉を顰めていた。
「……何だ?」
「あ、ええっと……こ、仔犬?」
未だ状況が掴めなかったソニアはたじろぎ慌ててユリウスから離れると、自らの足に絡み付いている何かに気が付く。それはよくよく見れば真白な毛並みが鮮やかな、小さな仔犬だった。
現れた仔犬はソニアの足先に鼻を摺り寄せ、嬉々として尻尾を左右に揺れ動かしている。
見るからにじゃれている犬の頭をソニアは困惑気味に撫でてやると、犬は心地良さそうに目を瞑り愛らしい声で小さく唸った。昔から何故か異常に動物に好かれる体質であった故か、久々に動物に触れ合えた事にソニアは心が解されるのを実感し、ようやく落ち着きを取り戻せて相好を崩した。
「この仔、どこの仔かな?」
輝かんばかりに白い毛並みは丁寧に手入れされており、大きく円らな黒の眸は純粋にソニアの姿を映し返している。首には一般的な首輪がされている事から誰かに飼われている犬だと一見して判ったが、ソニアはこんな小さな仔が主の姿も見えないまま野放しになっている事に戸惑った。
「……あの子供ので――っ!?」
ソニアの手に戯れる仔犬の様子を彼女の背後から肩越しに感慨無く見下ろしていたユリウスは、路地の先から何かを叫びながらこちらに駆け寄って来る人の気配を察し、それを見止め――凍り付いた。
「あ、ありがとうございます!」
「! え、ええ。それよりも大丈夫?」
途中で言葉を切ったユリウスを不思議に思いつつも、ソニアは近付いて来た人影…まだ年端もいかない少女を仰いで一瞬息を呑んだが、直ぐに柔和に微笑む。
疾走する仔犬を全力で追いかけて来たのだから無理もないが、少女は緩やかに波打つ明るい亜麻色の髪を上下に揺らし、両肩を大きく動かして空気を貪っていた。
「う、うん。でも、この仔って他の人には懐かないのに……」
そうなの、と言無く目線で返すソニアの手は仔犬の頭を撫でており、仔犬は甘えるようにその身を丸く縮込ませている。
愛犬のそんな様を見た事が無かったのか、暫し呆けたように少女は眼を丸くしていたが、その裡で何かを閃いて瞳を輝かせてソニアを見上げた。
「おねえさんって、もしかして聖女様?」
「え?」
「だってお母さんが言っていたよ。動物に好かれる人は、心が清らかな人だって!」
満面の笑みで少女はソニアを見つめる。その無垢なる眼差しを受け、ソニアは思わず目を逸らしそうになった。
疑う事を知らない無邪気な子供の笑顔の眩しさは一点の曇りもない純粋なものだからこそ、そうではない事を自覚する身にとっては酷烈で、ソニアの心情的には少女の純真な眼差しを正面から見る事ができなかった。
憧れの“聖女”に間違えられた事は少し嬉しく思ったのも事実だが、それ以上に畏れ多いという念から恐縮し、それを誤魔化す様に小さくはにかんでソニアは少女に目線を合わせた。
「違うよ。私は旅の僧侶でソニアっていう名前なの。あなたは?」
「ターニャだよ、ソニアおねえさん。それでこの仔がデリアっていうの」
少女…ターニャは名残惜しそうにソニアの手に擦り寄っている仔犬デリアを主張するように高々と掲げてみせる。デリアはターニャの拘束の中で手足を忙しなくばたばたと動かしていたが、突然に大地から切り離されて落ち着かないのだろう。
苦笑を浮かべたソニアはデリアの頭をそっと一撫でする。
「ターニャちゃんに…デリアね。あなたはこの辺りの子なの?」
つぶらな眸でこちらを見上げてくる仔犬の名前を呼ぶ事に一瞬の躊躇を見せる。だがソニアはそれを直ぐに隠し、ターニャに問うた。
「うん、そうだよ!」
「私達はね、この辺りで黒胡椒を売っているお店を探していたの。ターニャちゃんはどこにあるか知っているかな?」
「くろこしょう? あ、それってうちの事だよ!」
「そうなの?」
「うんっ!」
子供とは言え現地の人間なのだから知っているかもしれない、という淡い期待からそれとなくソニアは訊いてみたのだが、どうやら思った以上に効を奏したようだ。
ぱちぱちと瞬きをするソニアに、ターニャはやはり邪気の無い笑みで大きく頷いた。
「ひょっとしておねえさん……お客さま? じゃあ私が案内してあげるね!」
「ええ、お願いでき――」
「こっちだよっ!」
「あ……」
勢い良く立ち上がったターニャはソニアの返事も待たず、今度は仔犬を抱えながら路地の先へと消えていく。急にソニアから引き離された仔犬は名残惜しげな鳴声を挙げていたが、それも遠ざかりやがて聞こえなくなった。
嵐のように現れては去っていた少女に、取り残されたソニアとユリウスの二人は暫し呆然とその場に佇んでいた。
「……行…っちゃ、った」
「…………」
「ふふ……何だか似てるなぁ」
言葉にしていたのは無意識だったのか、ゆっくりと立ち上がって膝に付着した土を払うソニアは、目尻を細めて穏かな微笑みを作ってターニャの向かった方角を見つめる。その面はどこか遠い昔を思い懐かしむような郷愁の色彩を醸していた。
「似て、いる?」
「あ、うん。今の子…ターニャちゃんの事よ。ちょっと幼馴染に似ていたなぁと思って」
「幼馴染……か」
精彩を欠いた声色でユリウスは呟く。小さく掠れていた独白は街の中に広がる生活の喧騒に掻き消えて、ソニアの耳には届かなかった。
「丁度一年位前、かな? 突然一家揃って別の国に行ったって人伝に聞いたのは……親友だったから、急にいなくなった時は悲しかったな」
ターニャを追う為に歩を進めながらソニアは徐に空を見上げる。
入り組んだ街の路地から見上げる空は、高く聳える建物に囲われていて少し窮屈に思えた。だが、その限られた中でも空は何処までも深く澄み切り、時に合わせて刻々とその色彩を変えて往く。つまりはそう……どれだけ狭められた環境にあっても、自らを変える事はその意思次第で幾らでもできるのだ。
今は何処とも知れない遠くへ行ってしまった親友が、家柄の為に様々な柵に縛られているのを知っていたソニアは、親友の事を想ったが故に硬質な空を見てそんな心象を抱いたのだろう。
その事を自覚しながら、ソニアは祈るように呟いた。
「どこかで元気にしているかなぁ……コーデリア」
「っ!」
その名が聴覚から脳に届いた時。走り去った少女を追う為に歩いていた二人のうち、後ろを歩いていたユリウスはピタリと足を止めてしまった。前を行くソニアは、突然路地の中央で立ち竦んで動く気配の無いユリウスを何事かと振り返る。
「どうしたの?」
「…………」
振り返った先のユリウスの表情は、荷物で覆い隠れていてソニアの側からは見る事ができない。
押し黙ったままのユリウスにどう声を掛けたものか躊躇っていると、程なくユリウスは無言のまま歩みを再開させた。やがて不思議そうに見つめたままのソニアの横を素通りし、颯爽と路地の先に向かって行く。
直感的にではあるが、ソニアは今のユリウスの行動は、普段のそれからすればらしくないもののように思えていた。しかし、すれ違った際に一瞬だけ確認できたユリウスの表情は普段と変わる事が無かった為、ソニアの直感を支える根拠はなくなり、泡沫の如きに懐裡で生じた疑念は消沈して意識は先行したターニャやユリウスを追う事に遷移する。
――だが、もしもこの時。
感受性に富むソニアがユリウスという人物についての性質をこれまでに知る事ができていたなら、漆黒の双眸の輝きが一層昏く澱んでいた事を、これまでにない深度の違和感として察する事が出来たのかもしれない。そしてそれは彼女の求める真実に連なっているのを、推測する事が出来たのかも知れない。
しかし、その仮定は現実に投影される事は無く。
事実ユリウスの黒曜石の眼差しは既に虚無に満たされており、その視界から一切の色彩が消え去っていた事に、ソニアは終ぞ気付く事はなかった。
*
雄大な河が街の景観の一部として溶け込んでいるバハラタには、聖なる河水の伝承に肖ろうと訪れる旅人は昔から後を絶つ事は無い。その事実に着目し、街独自の観光産業の基盤に据える事で都市全体の発展を試みるのは、常に積み重ね続けている人の世において自然な事象と言えるだろう。
その為、バハラタの観光業における主基幹である大河に面した河川広場は人の往来を誘致する為に石畳を敷き詰めて丹念に整備され、人々の憩いの場である宿屋や飲食店といった類の店舗が幾つも軒を並べていた。それらは多種多様の人間でも満遍なく受け容れるように、東洋と西洋の文化が絶妙に混ざり合って生まれた新たな様式として独自性を世に喧伝していた。
一般的な物販店と異なり宿屋や飲食店、酒場は公会議開催期間であろうとも店を閉める事はない。公会議はある種の祭りでもあるので、開催中完全に閉ざされてしまう事実があろうともその前後には世界中から数多の旅人が訪れ、留まる為に迎える側も様々な創意工夫を以って人の意識を引き寄せるのだ。
この習慣は魔物出現以前よりのもので、現在でもその勢いは後退してしまったが変わらずに続けられている。
麗らかに陽気が降り注ぐ昼下がり。枝葉の間を縫って降り頻る木漏れ日と大河の上を駆け抜ける涼やかな風が齎す安穏という重奏は、街往く人々に平和を実感させる。
それは河川広場に面して開かれる数多に存在するカフェにあっても同様であり、街の者や旅人達が訪れては何気無い一時を謳歌していた。
だが、その中の一つであるオープンカフェの一角に、今現在この都市における特異が存在した。
「緊急の呼び出しだと聞いて戻ってみれば……これは、一体どういう事だ!?」
目の前に広がる光景に、金に近い薄茶の長髪を首元で一つに結び、背に優麗に流している黒衣の青年…シルヴァンス=グランデュオは愕然と立ち尽くす。
落ち着いた雰囲気を醸すカフェテラスには、
昼餉の刻限を過ぎた頃合であっても人が大勢留まっていた。それぞれが各々の輪の中で談笑を楽しみ、午後の一時に興じている。
その中のとあるテーブルには、その面積を凌駕せんばかりに皿が並べられており、その一つ一つには凝った意匠の施された大小様々なケーキが乗せられていた。一見してそれは異常な量ではあったが、それ以上にそのテーブル席に着いて、繊細な装飾を楽しむ事無く無情にフォークで突き刺し黙々と口に運んでは食べ続ける桃髪の幼女と、その様子をカップに注がれた紅茶に舌鼓を打ちながら穏かに見守る翡翠の青年の方が周囲の奇異の眼を集めて止まなかった。
周りの目など微塵も気に留めていない奇妙な取り合わせの二人であったが、それでもその二人の様子は、平穏という表題でも付きそうな実にほのぼのとした一枚絵を構成していた。
その一翼を担う翡翠の青年…アトラハシス=オケアノスは、席にも着かず棒立ちのままのシルヴァンスを見上げた。
「どういう事って……見たままだよ。イーファがケーキを食べたいって言うからさ。食べに来たんだよ」
「……食べたい、って限度があるだろうが」
来訪したシルヴァンスには眼もくれず、ただ一心にケーキを食べている桃髪の少女…イーファの傍には既に両手では収まらない数の空皿が何枚も積み上げられている。好きなだけ食べても咎められないとあれば年の頃が年の頃ならば満面の笑みを浮かべそうなものだが、イーファは相変わらず無表情に手を休めずケーキを淡々と貪り続けている。量が尋常ではないだけに、それは何と言うか不気味な光景ではあった。
この日を境に、この地でケーキ数十皿をペロリと平らげた幼女の存在が半ば伝説として語り継がれる事になるのだが、それはまた別の話だ。
「今日の訓練では随分長く“印”を顕現できていたからね。そのご褒美さ」
乱暴に着席し思わず頭痛を覚えたシルヴァンスは頭を抱え、アトラハシスは緩やかに笑った。
「……そんなに甘いもん食わせると後でオルドの野郎が煩いぞ。虫歯が出来たらどうするんだ、っていきり立つ姿が鮮明に想像できる」
「うーん……彼って見た目に似合わず面倒見がいいから、そういうのも有り得るかな」
「おか、わり」
「ぼくの分をお食べよ」
「う、ん」
何時の間にか恐るべき速度で全てを平らげていたイーファは物欲しそうな眼でアトラハシスを見上げ、アトラハシスもまたにこりと微笑んで自分の側に有った皿を差し出す。
「お前らな……」
眼前で繰り広げられる微笑ましい光景に、シルヴァンスは押し寄せてきた疲労感に深々と溜息を吐いた。
現在、自分達“
魔王の使徒”を指揮するのは眼前で穏かで能天気に茶を楽しんでいるアトラハシスだ。彼は非常に柔和な人格であり、魔族になって日は浅いものの適合した“印”の位階の高さから統率する任に就き、同胞達に様々な指示を出している。ここ最近、魔王“軍”にて新たに“剣魔将”が六魔将の空位を埋めるべく設定されたが、“剣魔将”自身は“軍”における使徒達の立ち位置を保障する後見人のような存在であって、統率者はあくまでもアトラハシスという事が両者の間で合意されていた。
そして目下、シルヴァンスがアトラハシスに下された指示は、遥か西の地に領土拡大にしのぎを削っている海運国家ポルトガと技術国家エジンベアの戦火をより深刻な方角へと誘う事だった。その為にイーファを伴いポルトガまで出向いたシルヴァンスは彼の王を煽るだけ煽って帰還し、イシスで決起したアスラフィルの顛末を確かめた後。サマンオサに飛んで彼の国を監察していたのだが、指揮者に呼び出されて急遽この地に戻って来たのだ。
しかし、だ。割と逼迫したような印象を受けた帰還命令だったものの、それを発した張本人であるアトラハシスは人間の都市に堂々と紛れ込んで優雅な午後のティータイムを満喫している。
思わず言葉にしてしまっていたが、まさにこれは何がどうなって到った局面なのか、その背景の流れがシルヴァンスには想像が及ばなかった。
(こいつもそうだが、ここの連中も随分と暢気なものだな)
道往く人間達の中で、こんな和やかな様子を織り成している人物が実は魔族だったなど如何して想像できようか。更にはそれを知った時、どれ程の混迷に堕ちていくのだろうか。
興味深い事では有ったが、それを実行に移せば確実に面倒になる。まあランシール聖殿騎士団が現在この都市に駐留しているのだとしても、“
神聖騎女”以外には後れを取るつもりなど微塵も無いので、警戒するには到らなかったが。
自分達の事ながら他人事のように思いを巡らせ、眉間を押さえてシルヴァンスが黙り込んでいると、芳しい香りと湯気が立つカップが差し出された。慣れた手つきでアトラハシスが淹れたものだ。
「たまには息抜きも良いじゃないか。ここ暫くは君に動いてもらってばかりだったしね」
「……まさか、単に茶会をする為だけに呼び出したんじゃないだろうな?」
「それこそまさか、だよ。確かにこういった趣向に応じれるのは君だけだとしてもね」
ジト目で睨み皮肉の一つでも零してみても、真正直に返される始末。シルヴァンスは肩に圧し掛かる疲労が増した気がして、思考を切り替える事にした。
「お前が以前ロマリアで拾ってきたあのひょろいガキ、使えるようになってきたのか?」
「仲間に対してそんな言い方は感心しないな」
アトラハシスの穏やかな諫言にシルヴァンスは肩を竦める。
「俺はお優しいお前と違って仲間という存在にはある程度の水準を求めるからな。新顔の女の方は元々が戦士だったから即戦力足りえたが、正直あのガキは素人だろう? 拾ったのがロマリアって時点で納得できるがな」
「“印”との適合には何の問題もないさ。そもそも選んだのは『
慨嘆の楯』の方だからね。実戦経験の不足については否めないけど、それを埋める為に今はティルトと共に“剣魔将”様の指導を受けているよ。やはり師が良いから上達も早い」
「ただの石くれも、名匠の手で磨かれる事によって珠玉の輝きを放ち得る、か……まあ“印”が適合した時点で道端の石くれではなく埋もれていた原石だった訳だが」
言いながらシルヴァンスは釈然としない面持ちを浮かべていた。
「改めて考えてみれば、魔力型から闘氣型への変化なんてあのガキが初めてじゃないか?」
「そうだね。でもぼく達の“
堕天誓約”の根源は、変わりたいと言う意志そのものだよ。彼の
嘆きが向けられるのは世界に対してもそうだけど、何より力の無い自分に対しての絶望が大きい」
「問題は、そう思うに到った経緯と言う事か……一体、何を見たのかねぇ」
背凭れに身体を預け、シルヴァンスは湯気が立ち上る紅茶を啜る。特に気取った訳でもない何気無い仕草であったが、そこには元王族のアトラハシスにも劣らない高い教養と気品を感じさせた。
「それは彼自身が向き合わなければならない問題さ。今よりも深い領域に足を踏み入れるのであれば、ね」
会話が途切れ沈黙が訪れると、周囲の喧騒が厭に大きく聞こえてくる。だがその何れも取り留めの無いものである為、単なる音の羅列の領域を脱する事は無く。
イーファが不思議そうな眼差しで男二人を見上げていたが、アトラハシスは一つ穏かに微笑んでその頬に付着していたクリームを拭ってやった。
「それよりも、研究の経過はどうなんだい? サマンオサに行っていたんだから、当然向こうの様子も見てきたんだろう?」
今までとは違う眼光を翡翠に載せたアトラハシスに、漸く本題に入れた事を察してシルヴァンスは口元を歪ませた。
「順調、とは言い難いな。素体が魔物化した時点で精神が汚染され、自我意識が消失してしまうのには変わりない。自意識の保持時間が少しずつ長くなってきたのが成果らしい成果だな。コストとリスクを秤に掛けるなら、魔物に人の皮を被せて
人間のフリをさせた方が無難で穏便だ」
実際あっちはそれを制式採用しているしな、とシルヴァンスは面白くなさそうに言った。
「ふぅん、確かに屍術師殿が考案したやり方だと肉体の劣化が激しすぎるからね。イシスでそれは実証された訳だし」
「……アスラフィルが熱心に研究していたのは、イシス人の血統に秘められたモノを中心に据えた呪法だったからな。そもそも奴とは目指していた場所が違う。あれは一つの結果だと割り切って考えるべきだ」
魔法に関しては一日の長があるシルヴァンスの講釈を聞きながら、アトラハシスはテーブルに両肘を立て、組んだ指を台座にスラリとした顎を乗せる。その表情は何処かつまらなさそうな色を発していた。
「粗悪品である魔物なんかを使わず、竜の魂魄があれば良かったんだけど……」
「“竜の聖域”には俺達ではまだ侵入できない。嘗て偶発的にこの地に舞い降りたものは、既にお前の嫁さんと“天竜の仔”に使われていてもう残っていないしな……魔物に変異する程度の下級竜種じゃ半端な失敗作にしかならなかった」
「……歯痒いものだね。無い物強請りだって事はわかってはいるんだけど」
ふぅ、とアトラハシスは疲れたように溜息を吐く。
「研究者としてはそれが次に進む為の糧になるんだがな……そもそも全ての生命が魔物に変移する可能性を秘めてはいるが、特に人間種はそれが困難な理由がわかるか?」
「それはつまり、人間と動物の差を示しているのかい?」
「そう取って貰っても構わん」
唐突な問いかけに、ふむ、とアトラハシスは口元に手を添える。
「肉体的な形質はこの場合問題じゃないな。魔物への変移現象は根源領域層であるマナそのものの変容だから……意識の深度、自我の強さ、本能…野生。そういったところに関係があるんじゃないかとぼくは睨んでいるけど」
たどたどしい口調ではあったものの、期待通りの答えにシルヴァンスはニヤリと笑う。仲間の中でこの手の話題が出来るのはアトラハシスだけだと解っていた為、スムーズに話が進む事に満足を覚えた。
「正解だ。人間が須らく魔物化しにくいのは自我の強さ……レイラインにおける顕在意識領域の浸潤深度にある。元々レイラインの影響を受けるこの世界全ての存在は顕在意識よりも下層の、無意識領域の更なる深層で繋がっているんだ。その深度が浅くなればなる程、生命体としてより強固な個を持つようになりレイラインから独立した存在となる。まあ厳密に言えば完全な独立が許された存在などないんだがな」
「つまり、自我と他我の境界が虚ろであればある程、より深くレイラインに接続できるようになるという事か」
自らの裡で何度もその意味を反芻して咀嚼する。そうやって自身の知識に吸収する事で、知恵を紡ぐ際の一要素とするのだ。
「レイラインへの接続深度を鑑みるなら、“転職”からのアプローチはどうなんだい? あれって本来不定形である魂魄を定型化する儀式だよね」
「良いところに眼を着けたな……が、それは実現する為の条件が厳しすぎるから難しいと言わざるを得ないな」
「確かに“転職の儀”はダーマ固有の秘儀だから、おいそれとその秘密を外部に漏らす筈は無いけど――」
アトラハシスの言葉を半ば遮ってシルヴァンスは訂正を図る。
「“転職の儀”を完遂する為に必須とされる土地条件は、実は前提に過ぎないんだ。殆ど知られていない事だが、真の意味で必要不可欠なのは『悟りの書』の第五篇“
完美”に記載されている特殊な悟りに至る事だ。現在の人界でそれに到達しているのは現“慧法王”ラジエル=ベニヤミン唯一人。あの爺さんをダーマから拉致って洗脳できるなら、試してみる価値はあるが」
「……それは無理だろう」
見ればアトラハシスの表情は僅かに引き攣っている。自分でも突拍子の無い事を言っているのだと自覚しながらも、シルヴァンスは滔々と続けた。
「ああ無理だ。第五篇以上に到っている“賢者”は悉く化け物だからな」
「第七篇“
慈悲”に到達している“智導師”バウル様は、そんな風には見えないんだけどなぁ」
「それはお前が近しい場所にいたからだ。好々爺然としていようが、あの爺さんは首座賢者の中でも激烈にヤバイ超危険人物なんだぞ」
卓に肩肘を着いて、呆れたようにシルヴァンスはアトラハシスを睨んだ。
「なにせ“剣聖”の親友だからね」
「それだけじゃない。“魔呪大帝”様の直弟子の中で唯一“四神鍵”の『燈杖・
岩漿の杖』の
授受者になったんだ……時代が違えば、バラモスなんざその二人にとっくの昔に狩られてるだろうよ」
言いながら遠い眼でシルヴァンスは西の空を見上げた。その遥か先には、今も世界を混迷に陥れんと画策している魔王が泰然と在る事だろう。
所詮は想像でしかないが、その光景が妙に現実味を持って浮かんでくるのでそれを打ち消す為にシルヴァンスは温くなってしまった紅茶を一気に喉に流し込み、真剣にアトラハシスを見た。
「で、これからどうするつもりだ?」
「うん。とりあえずの方針なんだけど、今の拠点でこれ以上『進化の秘石』を精製するのは中止しよう。精製効率も大分落ちてきたし、これ以上留まっていても意味は無いだろう」
リーダーからの行動指針の提示に、シルヴァンスも一つ同意に頷く。
「そうだな。アレの製造に関しては、適度に純度の高いマナが湧き出る霊穴が必要不可欠だが、造り過ぎて澱んでしまった場所に用は無い……何より、“魔呪大帝”様のお膝元で禁忌に触れてるってのは生きた心地がしないからな。この日々の胃痛から開放されるのなら俺としては願ったり叶ったりだ」
あまり笑えない事を笑って語るシルヴァンスに、アトラハシスは苦笑を浮かべた。
「彼らが介入して来る可能性は?」
「無い、と俺は考える。あの方にしてみれば、俺達なんざ地面を忙しなく這い回っている蟻と同じだ。蟻を踏み潰すのに、一々思索などすると思うか?」
「喩えが悪いなぁ」
あっけらかんと語られては、流石のアトラハシスも苦笑を深めざるを得ない。だが同時に、強心臓を持つシルヴァンスを羨ましく思ったりもした。
「かといって楽観もできないがな。直接干渉は無くとも直属配下の“魔理四天”を投じる可能性は無いとは言い切れん。“聖芒天使”にしても“神聖騎女”に色々と指示を出しているようではあるし……更に都合の悪い事に、今この街に来ているみたいだぞ」
「ああ、そういえば公会議開催まであと数日だったね。エレクシア様か……それは、空怖しいな」
穏かな雰囲気はすっかりと形を潜め、アトラハシスは乾いた声を零す。
それは明らかな苦手意識の露呈であるが、誰に対しても静穏な姿勢を崩さないアトラハシスにしては珍しい様子にシルヴァンスは小さく眼を見開いた。
「お前、面識があるのか?」
「海魔将が没した時にね。セフィにして二度と関わりたくないと言わしめた程の存在だよ」
「はは、そりゃあ強烈だな。目を付けられない事をルビスにでも祈っておくか」
「盛大な皮肉だけど、この街でそんな大声で言う事じゃないよ」
何処までも恐れ知らずなシルヴァンスにアトラハシスは呆れたように溜息を吐いた。
「何にしろ、次は何処に拠点を移す予定なんだ? 個人的な要望としては、辺鄙な場所ではなく活気がある都会が良いんだが」
「うーん、候補は幾つかあるけどまだ決めてないんだよね。後片付けだってあるだろ? 立つ鳥跡を濁さず、って言うし」
「……相変わらず緊張感に欠ける奴だな」
シルヴァンスの辛辣な言葉を聞き流し、アトラハシスはカップの底に残った紅い湖面を亡羊と眺めた。
「殿下……アトラハシス殿下っ!」
「ん?」
思索に耽るアトラハシスの脳裡に意識を擽る懐かしい声韻が飛び込んできて、思わずアトラハシスは声の発せられた源を探す。それは直ぐに見つかり、アトラハシスの翡翠の双眸に飛び込んできたのはやはり嘗ての時間を想起させる浅葱の髪を鮮やかに風に流す女性の姿。この街の住人らしき子供と手を繋ぎ、子供に抱かれた仔犬を引き連れている。
大きく見開かれた紅の眼を驚きの一色に染め、現れた女性…ソニアは信じられないといった様子でアトラハシスを見つめていた。
「……久しぶりだね。こんなところで会うなんて思ってもみなかったよ、ソニア」
何年来の旧友に会った時と同じ類の微笑を浮かべ、アトラハシスは穏かにその名を呼んでいた。
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