――――第六章
      第四話 せせらぐ奥意







 因果とは、光の下で常に自分に絡み付いて廻る影のようなもの。それはあたかも鎖状に結ばれた円環の如く、切り離す事叶わず。
 その形無き鎖の存在を、哲学者達は遊離する魂同士の引力と謳い、神職者達は神が引き合わせた宿縁と説く。古来よりこの事にまつわる数多の教訓が様々な故事や諺といった体を為して綴られてきた。しかし幾世代を経ようとも一向にその実体を掴む事はできず、解は見出せてはいない。だが確かにあらゆる生命の間に介在し、意識の深域にて大いなる流れを形成する。
 どんな時も離れず、付帯される事が無為自然であるかのように振舞うそれは、常にこちらを監視しているようでさえあり、事実として未だ相対すべき宿命と遭遇していないのであれば、逆にそれは鎌首をもたげたまま向こうから何時知れず現れるのだ。
――持って産まれた定めから、人は逃れる事はできない。ただ一つ、死を除いては――
 とある人間の言葉だが、それは実に的を射ていた。
 鎖を解いて二つの円環になる為には、円そのものを破綻させなければならない。即ち、生という柵に囚われている以上、その生を閉ざさぬ限り背後に連なる影からは逃れられないのだ。解脱という言葉がそれを如何無く証明している。

 そして今。眼前にひらかれた光景は、その事を強く意識させる――。



 ユリウスとソニアの二人は、バハラタの市街で出会った少女ターニャに導かれ、現在この街で唯一営業をしていると言う胡椒屋を訪れていた。
「ただいま! お母さん!」
「……ターニャ。今この町には偉い人達が沢山集まってピリピリしているから家で大人しくしていなさい、って言っているでしょう? また言いつけを破って遊びに行っていたの?」
 勢い良く店の扉を押し開けて入ってきた愛娘の姿に、店の奥のカウンターで帳簿整理をしていた女性は浅く溜息を吐く。その寡婦の顔立ちや雰囲気は、娘の亜麻色に対して紫緋色の髪を除けば確かな血縁を感じさせるまでに似通っていた。
「デリアのお散歩だもん! それにお客さんを連れてきたんだからっ!」
 仔犬のデリアを突き出し、ムキになって主張するターニャに母親は目を丸くした。
「お客様?」
 娘以外には懐かない我が家のもう一人の家族をまじまじと見つめ、ターニャの母は小首を傾げる。この店は古くからバハラタで黒胡椒の卸問屋を営んでいるが、店頭でも勿論販売はしている。だがやはり顧客の殆どが商会ギルドに所属する他所の商人達であり、彼らは定期的に大量に仕入れる事を常としていた為、刹那的な衝動の如く直接ここに買い求めに来る事など滅多にあるものでもなかった。
 何よりターニャの母を驚かせたのは、娘が客を呼び込んでくるような真似をした事についてだった。そんな事は今回が初めてで急にどうしたのかと眼を瞠るも、娘の背後から店の敷居を跨いで来た者の姿に少女の母は稀な事が起きた事を覚る事になる。
 二人の来訪者の内、一人は精霊神ルビスを奉ずる巡礼僧が身に着ける蒼の僧衣を纏った尼僧で、衣の上を流れる浅葱の髪が涼やかな空を髣髴させる優しげな女性だった。癖の無い綺麗な長髪と相反する色彩である紅の双眸が印象的で、陽だまりの如き穏やかさと清楚さが自然と溢れ出ている。
 そして女性の後ろに佇んでいたもう一人は、店内に入りきっていない為か空の逆光の中で影に覆われていてその姿をはっきりと捉える事はできない。しかし、その身に纏わり付く影すら厳然に付き従えているかのような雰囲気を醸す、黒という色がしっくりと馴染む青年だった。
 突然の来客が纏う空気は明らかにこのバハラタに住まう人間にはなく、外来の冒険者のそれに相違なかった。
「あ、旅の方ですね。この度はこの子…ターニャがご迷惑をお掛けしまして――」
「い、いえ。そんな……」
 開口一番謝罪を連ねる母親に、迷惑なんて掛けてないもん、と子が不服に異議を唱える。だがそれを悠々と黙殺して深く頭を下げる母の、思わぬ来客に一瞬だけ呆けた様子を見せたが直ぐに商売人の仮面を被り直した姿はやはりその路の熟練者である事を示していた。
 その整った仕草に、寧ろ頭を下げられた側である浅葱の女性…ソニアが狼狽を浮かべてしまった。
「…………」
 慌しさが空気に波及する中。店の入口で未だ微動だにしない漆黒の青年…ユリウスは、ソニアの背後からただ眼を細めて前を見据えていた。艶やかな黒髪が反す陽光と無表情とが相俟って、それは宛ら研ぎ澄まされた剣の切先の如く眼前にある何かを注意深く見極めんとする冷徹な眼差しだった。
 視線の意味を理解できないターニャが、母親を睨んでいるようにしか見えないユリウスを不安げに見上げる。
 カウンターの奥に立つ女性は、初対面にしては些か不躾すぎる視線に何かしら思う事があったのか、逸らすどころか真っ向からその姿を見つめ返した。
「あの、どうかしましたか?」
 唐突に落ちた沈黙に困惑したソニアが恐る恐る声をかける。
 表情無く泰然と佇むユリウスは、幾多の死線を潜り抜けて培った抗い難い烈気を無意識的に放っているかのようだ。だが真正面からそれを浴びながらも、ターニャの母は微塵も動揺を見せず落ち着いた様相を保っている。
 その佇まいにソニアは内心で驚嘆していた。既に一年近くの期間を仲間として同行する身であったが、ユリウスのこの・・殺気にも似た無言の迫力には未だに慣れる事ができていない。しかしそれを初見で平然と受け流す姿に、どこにでもいるような寡婦の仮面の裏側には一体如何なる胆力を備えているのかとさえソニアは思った。
「……オル、テガ?」
「人違いだ」
 何かを思い出そうと思案に耽ったまま、少女の母は探るように尋ねる。それは擦り切れた記憶の糸をたどたどしく手繰り寄せているのか弱々しい問い掛けであったが、ほぼ反射的にユリウスが答えた為に明確な解となる。
 逡巡も何も無い刹那の否定こそ、この上無い肯定と受け取った女性は微かに口元に孤を描いて一転して口調滑らかに続けた。
「そうでしたか……申し訳ありません。お客様が、昔この地を訪れた勇者オルテガの姿にあまりにも似ていたものでしたから」
「黒髪黒眼の人間など、世の中に吐いて棄てる程いる」
「それもそうですね。……ところでお客様は冒険者の方とお見受けしますが、冒険者ギルドから発行されている身分証はお持ちでしょうか?」
「この店では、初めて訪れた客はまず己の素性を曝さねばならないのか?」
 言いながらユリウスは小さく肩を竦める。だがその呆れたような仕草とは裏腹に、表情は微塵も動いておらず眼光は鋭く女性に向けられたままだ。
 至極もっともなユリウスの反論であったが、その対応に慣れているのか店の女性は物怖じせず深々と腰を折る。
「お気を悪くされたのなら申し訳ございません。ですが当店で扱っている商品は、商会ギルドが定めた流通協定の第四条七項目、特定流通規制品目に指定されておりまして、身の証が立てられないお客様に商品をお売りする事ができないんです」
「……随分と仰々しいな。たかが一香辛料だろう?」
「はい。西側では価格が高騰し過ぎていて、巷では“胡椒の一粒は黄金の一粒”なんて言われておりますけど、実際にそんなレートで取引がされているたかが一香辛料、です」
「何に価値を見出すか、か……つくづく人とは良く解らないな」
 耳慣れない単語にユリウスは目を瞑り、小さく嘆息する。商会ギルドの名が挙がった事から、世界の物流を統御する事に関連した言葉であるのは間違いないと推測できるが、自分には関係の無い事だといつものように結論付けて興味を閉ざした。ただ、溜息と共に口腔から零れていた反応は紛れもなく本心だった。
「重ねて申し上げますが、所属ギルドの登録証明が提示できなければ商品を販売できません」
「そうか。その事実を知らなかったのはこちらの落ち度だ。邪魔をした」
 何の未練も無くユリウスは即座に踵を返す。その間、一連のやり取りを呆気に取られたまま聞いていたソニアは、店の入口を再び跨いだユリウスの背中に向けて焦った様子で声を挙げていた。
「ち、ちょっとユリウ――」
「とまあ、胡椒の流通経路を無闇に乱立される訳にもいかないから普通はこうしてお引取り願うところですけど、貴方なら話は別ですね……ユリウス=ブラムバルド。“アリアハンの勇者”を継いだオルテガの子」
 濃紺の外套を靡かせる背中に女性のクスクスと笑みを漏らした声が掛けられた。
 その韻はそう呼んだ事に対してこちらの反応を値踏みするものであり、且つ悪戯の成功を喜ぶ様に極めて近い。ユリウスの印象としては遠きアリアハンに住む冒険者ギルドの長、ルイーダことカーラ=シャンティの佇まいに似通ったものを感じた。
 既に店外へと踏み出ていたユリウスは半身だけ翻し、冷然とした眼差しを店内に放つ。外からでは屋内は影掛かっていたが、奥に立つ女性の双眸だけは明確な解を得たも者が持つ光を燈していた。
「……初対面の俺を、何を根拠にそう断定する?」
 表情無く問うユリウスに、女性は逆に緩やかに微笑む。
 カウンターを挟んで佇む女性の突然の翻意と双方の変容に、ソニアはおろか実娘のターニャすら唖然としたまま店の奥と外を交互に見やるだけだった。
「そのサークレットは、アリアハン王国の特設位階授受者に与えられるものですからね。近年それを下賜されたのは貴方以外にいない筈です」
「……これの本当の意味を知っているのか」
 溜息と共に口腔で小さく呟いたユリウスはサークレットの赤の宝玉に触れる。滑らかな感触を返してくるその存在の起源を求めるのならば、数百年もの時を遡る事が必要だった。
 国家開闢以来、興国初期を除いてその殆どを王制によって運営してきたアリアハン王国。
 支配階級の頂点に君臨するのは当然国王であり、貴族達がそれに追従する。彼らが構成し運営する貴族社会において、王侯貴族では無く基本的な人権すら確立していない一市民が個人として王に謁見する事、ましてや言葉を交わす事など叶う事ではなかった。
 王は支配する者として民を見下ろし、庇護される側を自覚する民はただ王を見上げる。その双方に直接的な接点など何も存在しない不可侵かつ絶対的な身分差こそ、調和を堅持するのに必要な体制であった。勿論それに反駁する制度を布いている国も存在するが、嘗てのアリアハンはそうではなかった。
 しかし何事にも例外が存在するように、市民の中でも特例的に王との謁見を許される者は古くより存在した。それは武勇であれ学績であれ、万人が認める偉業を成し遂げて国の威信の向上に多大な貢献をした者達だ。
 彼らには“特設位階”という王と民の関係とは範疇を異にする便宜的な仮初の身分が用意され、その授受者達は国家よりその証明として各々の功績の系統に合わせて金、或いは銀製の頭冠サークレットが贈られ、額部にあしらわれた宝玉の色によって授受者内での序列を形成していた。古くは“冠位七階”と呼ばれていた制度だが、今日のアリアハンにおける“勇者”や“賢者”の立場の源流となったのは言うまでも無い。
 やがて時は流れ。原点も過程も長い年月の末に一般市民の認識から風化し消え失せていた。だが逆説的に、その風習をると言う事はアリアハンの古き歴史に通じている事になり、伝統としてそれらを伝え重んじる旧家の出自に連なる事を意味する。
「随分とアリアハンの事に詳しいようだな。頭冠これの起源など、今となってはアリアハンに住む者の記憶からすら失われているというのに」
「商売における機運を引き寄せるのは、情報の正確さと速さを御せる事です……それに、こんな時代ですからね。嘗ての“アリアハンの勇者”オルテガを輩出し、今また新たな勇者を世界に送り出したアリアハン王国は業種問わず常に話題の中心にいます。今はまだ鎖国中ですが、文武に秀でると云われる新王の治世の下で、その一挙一動に世界は注目しているんですよ」
 アリアハンという国を外側から観察した様子を女は流暢に語る。ソニアなどは自分の祖国がそんな風に見られていたという事実に無自覚だったのか眼を丸くしていた。
 対して同郷のユリウスはというと、色々と曰くのある頭冠の事を真っ先に指摘された事によって先刻から記憶の中で明滅していた陰が眼前の人物と重なり、加速度的に膨れ上がっていた疑念を確信へと変貌させていた。
 この応酬の中で、ユリウスとしても懐裡に生じた暗雲を晴らす事への確かな導灯を手にしていたのだ。
 少女の母を油断無く見据えていたユリウスは一瞬だけ仔犬を抱いたままの少女に移し、また戻す。
「成程……旧き慣習に聡いのは、流石はカリオテの人間と言ったところか」
「え?」
「っ!?」
 懐かしい名を聞いてソニアは思わず振り返ってユリウスを見つめ、少女の母親は驚愕を面に貼り付けてそのまま一歩後退する。あからさまに空気が動揺する中、ただ一人蚊帳の外のターニャはデリアを抱いたまま不安げに大人達を見上げていた。
 ユリウスは一歩静かに、だが重厚に店内に踏み入る。
「あんたの娘に良く似た顔立ちの人間を知っている。その母親がアリアハンの…強いては頭冠の本当の意味を知っているのであれば、その選択肢は大きく絞られる」
「……頭冠の事は知る人は知っている事です。世界的な勇者であるオルテガに授けられ、今また“アリアハンの勇者”として旅立った貴方に与えられた。アリアハンが貴方の出立を世界に発表した際、そのように公布されたではありませんか」
「そうだ。だからこそオルテガが出立して以来、アリアハン王国は国内外における情報の一元化を図る為、王国が定めた“勇者”と“賢者”にこの頭冠を与えると定めた……その定義の中に特設位階・・・・などという単語は存在しない」
「!」
 大きく目を見開いて女性は口を押さえる。その仕草にユリウスの思考は急激に冷えていった。
 今では殆ど使われる事が無くなった特設位階という単語は、現代における武と勇を体現する英雄としての“勇者”と、智と慧を顕現する聖者としての“賢者”の原点となっている。しかし、“勇者”や“賢者”に頭冠が授けられる、という事実が公的な常識として前面に押し出される格好で組み上がってしまった為に、その真髄を歴史や風土、伝統を紐解いてまで探ろうとする者はまずいなかった。
 言葉遊びのような逆転の意識誘導に見事に乗せられている殆どのアリアハン人と同じく、授受者であるユリウス自身とてこの事実を知ったのは偶然に過ぎなかった。知った当初は一体何の意味があるのかと訝しみ、興味が惹かれなかったので記憶の中に埋もれていたのだが、まさかこんな所で掘り起こされるとは思ってもみなかった。
 何れにせよ、現在のアリアハンの内情を伝えた事により動揺を表出させたままの女性は、自身がアリアハン王国の歴史や慣習に深く通じている事を曝したのだ。
「…………」
 いつしか双眸を伏せ、動揺を鎮めるように黙して佇む少女の母親に、ユリウスは厳然と告げた。
「あんたが、十七年前にアリアハンから逃げ出したというカリオテ家の長女、リリージュ=G=カリオテだな?」
 微かに肩を揺らしながらも完全に押し黙った母親と、自分が連れてきた客との間で息も吐かせぬ緊迫した空気が漂っているのを子供ながらに察したターニャは、両者を見上げながらソニアに駆け寄る。
 泣き出しそうな少女の手を護るようにしっかりと握り、ソニアもまた固唾を呑んで状況の推移を見守っていた。
 どれ位の間、無言の時間が流れていたのだろうか。
 余談など許さないというユリウスの毅然とした眼差しは変わらず、それに根負けしたのか母親は観念したようにふぅと溜息を吐いた。
「今はタニア=クリシュナ。カリオテとはとっくの昔に訣別しているから、その呼び方はしないで欲しいわね」
 開眼と同時に再び纏っていた雰囲気を一転させるタニアを自称した女性。その面には商人としての深謀さでも、母親としての慈愛でもない、全く別種の凛然とした気配が張り付いていた。
 不敵にこちらを直視してくるタニアの視線は、確然たる血の繋がりを思わせる程に誰かのものと酷似していて、ユリウスは反射的に掌を剣の柄に這わせた――。








「さあソニア。バハラタで買って来たばかりのお茶だよ。これに合いそうな砂糖菓子もたくさん用意してあるから、遠慮せずにどうぞ」
「はあ……頂きます」
 ソニアの眼前にある卓の中央には、菓子職人が丹念に作り上げたであろう菓子が盛られた器があり、その周囲を囲うように並べられた茶器はそのどれもが王侯貴族が好んで用いるような格式高く、非常に価値を有した品々である事をソニアは理解できていた。それは彼女には親しい友人達の一人にアリアハン屈指とされる大貴族の令嬢がいた為であり、交流の中で贅を尽くした高貴な品々を手にする機会が幾度もあったからだ。
 その経験が、目の前でなみなみと茶を湛えているカップ等がその類に属している事を思い知らしめる。まあどの道、茶を注いだ人物が元アリアハン王太子であるアトラハシス=オケアノスなのだから、その嗜好の敷居が高くなるのは当然と言えば当然なのだろう。
 義姉のセフィーナ=アルフェリアが“アリアハン宮廷賢者”でありアトラハシスの守り役であった経歴を思い返せば、王立神学校に修学していた当時、二人が度々開く茶会に半ば強制的に参加させられていた身としては否定する要素が無くなると言うものだ。
 淹れられた茶の芳しい香りに誘われたソニアは、意を決して器の中から菓子を一つ抓み、口にする。
「……おいしい」
「そうだろう。ここの砂糖菓子って甘さが控えてあるから風味としては素朴だけど、茶と一緒に口に含んだ時の甘味の広がりはとても優雅なんだ」
 無意識に自然と零れていた感想に、アトラハシスは嬉しそうに微笑む。
 その陽だまりの如く穏かな眼差しにソニアは確信した。今こうして微笑を向けてくる柔和な翡翠の青年が、十ヶ月以上前に起きた第二次アリアハン王都襲撃事件によって行方不明となり、やがて公式に死亡と断定された前王の御子息に違いないと。紛れも無く、記憶の中にあるアトラハシス本人であるという事を。
 胸の奥から止め処なく溢れてくる懐かしさに、ソニアの視界は潤む。出された茶菓子によって心身の強張りが解れた事もあるが、それ以上にもう二度と来ないと思っていた時間に戻れたようで、王子と共に喪われた姉の微笑が近くにあるような気がして思わず涙しそうになっていた。

 ここはバハラタの側面を流れる大河の上流…街の北方に位置する台地の一角にある古代遺跡。何時の時代に建造されたものか定かではないが、現在アトラハシス達が拠点として使っている為に小奇麗に手入れされている。そこの一室にソニアはいた。
 偶然バハラタの街でアトラハシスと再会したソニアは、言葉を交わす為に自ら進んで同行してきたのだった――。



 時を翻す事、数刻。天高くに在る太陽が未だ燦然と大地を照らす昼下がりの刻限。
 ソニアはバハラタ随一の名所と言われる大河を一望する臨河公園を行く当ても無く歩いていた。胡椒屋の娘であるターニャと手を繋ぎ、そのターニャは愛犬のデリアを引き連れている。一見すれば仲の良い姉妹にも見える微笑ましい光景だった。
 ターニャに導かれて辿り着いた胡椒屋で、縁あるカリオテの名と邂逅する事になろうとはソニアは夢にも思わなかった。
 カリオテとは一年前に一家揃って異国へと旅立っていった親友コーデリアの、アリアハンでも屈指の大貴族の家名だ。嘗て、親交が深かった友コーデリア自身が己の姉妹は姉が一人だけと明言しており、その姉というのも現アリアハン王ザウリエの妻としてエルティーナ王女を産み落とした直後に亡くなられている。
 カリオテ家と交流があったソニアとしては、王妃たるコーデリアの姉ネイジェルの上に更に姉が存在し、正統たる長女の身でありながら事もあろうか身分を棄て名を偽り、この異国で一介の商人の妻としての人生を歩んでいたというのが信じられなかった。
 姉妹の事に関しては話でしか聞いた事が無く、背景にどのような経緯が孕まれているのか想像できない故に驚くなというのが無理であり、青天の霹靂という表現はこの上なく正鵠を射ていた。
 しかし同時に、それが真実であるならば今こうして手を引いている少女が親友の昔の容姿に瓜二つである事に納得がいった。ターニャの中にコーデリアの面影を感じるのは他人の空似ではなく、そこに確かな血脈が息衝いているからなのだ。親友に連なる者としての認識ができあがると、急に少女への親近感が沸いて来る。少し現金過ぎるかと思いもしたが、その後ろめたさも、少女の無垢なる眸の前には直ぐに消えてしまっていた。
 ただ一つ解せない事があるとすれば、その一連の事実をどうしてカリオテとは無縁である筈のユリウスが知っていたのか、という点だ。十七年前という言葉が正しいのならコーデリアが産まれる前の事になり、ターニャの母タニア…リリージュをどういう理由からか“逃亡者”と呼んでいる。しかもそれを告げた時のユリウスの様子は何処か憮然としている様でさえあった。
 ここに来て新たに浮上した疑念が、義姉の事に微かな光明を見出しかけていたソニアの心を大きく掻き乱す。それは収束しかけていた幾つもの波長の束を悉く乱し、拡散させんばかりだ。理由は全く以って解らなかったが、その動揺からくる胸の鼓動を押さえる事ができなかった。
 その事が余程表情に出ていたのだろうか。顔色が良くないとタニアに指摘され、気分転換に臨河公園でも散歩して来たら良いと促され、半ば有無を言わさずターニャと共に店から放り出されてしまっていた。
 正直、納得がいかなかった。また何か重要な事から外されたようで、何かに置き去りにされるのではないかという焦燥が胸を押し潰す。
 そこでソニアはふと思った。
(何に置き去りにされるのが厭なんだろう……)
 言葉で言い表せないこの想いは、ずっと前から胸の内にあった。
 姉の訃報を聞いた時も、恐らくは全てを知っているであろう両親は何一つ自分には言ってくれなかった。ユリウスに追求した時も、目先の断罪をちらつかせてこちらの意識を外そうとしていた。
 何故誰も何も言ってくれないのか。どうして自分はいつも蚊帳の外に置かれるのか。事ある毎に意識の水面に浮かび上がる昏く澱んだ感情。それは心を無遠慮に浸潤し、凍り付かせては砕いていく。
 感情の共有が叶わない現実は引き裂く傷みとなって虚脱感を心の奥底に穿っていた。その深淵に巣食う意識の歪みを、何と名付けるべきなのだろうか。
 自身の心の在り方が判然としなくなっていたソニアには、その答えが見つけられなかった。

――そんな時だった。公園に面した街路沿いに構えるカフェテラスに、もう一年程前にもなるアリアハン王都襲撃事件以来行方不明となった筈の懐かしい翡翠を見つけたのは。

「殿下……アトラハシス殿下っ!」
「ん?」
「何だ?」
「…………」
 突如として自分の名が呼ばれた事にアトラハシスが暢気に振り返り、真正面から来訪者を見たシルヴァンスは怪訝そうに眼を細め、イーファは周囲の変化など気にもせず黙々とケーキを口に運んでいた。
 大人二人に少女一人、尚且つ卓一面にケーキが乗った皿を広げられる様はソニアから見ても異様の一言に尽きる。一瞬蹈鞴たたら踏んでしまいそうになる光景だったが、なまじアトラハシスが自分の呼びかけに応えた事が本人である事の証となり、些事を押し退けてソニアの胸は万感で一杯になった。
 呆気に取られていたのは刹那で、アトラハシスは歩み寄ってきた懐かしい顔を見止めて相好を崩した。
「ソニア、か……久しぶりだね。こんな所で会うなんて思ってもみなかったよ」
「殿下……やはり、生きていらっしゃったんですね。良かった……」
 ソニアは傍らにターニャが居るのも忘れて胸の前で両手を組み、双眸を潤ませてアトラハシスを見つめる。
 その心の底から自分の生存を喜んでいるような眼差しと涙声を受けて、アトラハシスの表情に僅かだが翳りが走った。
「……そうとは限らないよ」
「え?」
 一つ瞬きするソニアに、アトラハシスは続けた。
「ところで、さ。どうして君がこんな所にいるんだい? アリアハンは未だ鎖国体制を保持したままだったと思うけど……」
「わ、私は――」
 伝えたい言葉と感情が一気に噴出してきて、ソニアは息を詰まらせる。
 何をどこから話せば良いものかと逡巡する彼女を、アトラハシスはやんわりと遮るように言葉を重ねた。
「いや、こんな所で話し込むにしても人目が有り過ぎて落ち着かないか。うーん、そうだなぁ……ソニア。丁度この街の北の方にぼく達の借宿があるんだけど、一緒に来るかい? ぼく達もそろそろ帰ろうかなって思っていたし丁度良い。こうして久しぶりに会えた訳だから、ぼくは君と色々とお話したいな」
「殿下……」
 それはソニアにとって願っても無い誘いだった。アトラハシスは姉にとって大事な人間であり、身分の上における敬うべき王子、という単なる一言では片付けられない存在であった。
 自然と差し出された手は蟲惑的で、嘗ての一光景を幻視させるだけに抗い難い魔力のようなものを発しているようだ。
 ルビス教団の聖典に記される原初の刻。まだ神の御座に着いておらず精霊の一人にすぎなかったルビスが住んでいた〈天界イデーン〉の滅びる原因となった、とある二人の兄弟の物語。その神話に登場する、この世の全ての叡智を内包すると伝えられる星の血晶、通称『女神の果実』。
 その実を食す事は秩序の崩壊を齎すとして掟によって禁じられていた世にあって、偶然それを手にしてしまった兄弟は処遇について対立し、結果として天界という一つの世界は住まう生命の悉くを道連れにして崩壊した。
 その始端に相当する、相容れぬ意見を戦わせる兄弟の諍いを破滅的な訣別にまで誘ったとされるのは、忌まわしき白き闇の鳳の囁きによるものだと伝えられている。
 この物語の教訓を元に考えれば、アトラハシスの手は崩滅を導いた白鳳の囁きに他ならない。それを掴めばどうなるのか、敬虔なルビス教徒であるソニアならば躊躇くらいは生まれただろうが、アトラハシスという失われた欠片に最も近しい存在を前にして、素直に逸ったソニアの心は信仰さえ僅かばかり凌駕していた。
 この瞬間だけ、ソニアは自分の置かれている環境の一切を顧みなかった。正確には豊かな感受性が災いし、アトラハシスの手を取れという内なる声が心を過去の時間に捕らえさせ、自分が今この街にいる理由や一緒にいるターニャやデリア、そして今も胡椒屋にいるであろうユリウスの事などの現在を形作る要素を全て意識から弾いてしまったのだ。
 躊躇は刹那。ソニアの手はアトラハシスの手をしっかりと掴む。その時、アトラハシスの手に重ねた自分の手を覆うように、喪われた筈の姉の手の温もりが感じられたような気がしていた。

 それから。ソニアは胸の内から滾々と湧き出る喜びの感情のまま再会を懐かしむ暇無くアトラハシスの移動魔法ルーラでバハラタを辞し、現在彼らが仮宿にしているという遺跡に連れてこられた。
 まさかカフェを辞した直後に街中で移動魔法を使った事にソニアは驚いたが、それよりも公会議開催に合わせて、ランシール聖殿騎士団が何重にも強化したという都市そのものに掛けられた移動魔法制限の結界を軽々と突破した事には瞠目を隠せなかった。自分の知るアトラハシスは正陽魔法…つまり自分と同じく“僧侶”達が用いる魔法しか使えなかったからだ。
 辿り着いた場所は何処かの森の奥深くで、切り立った崖の剥き出しの岩肌を彫って造られたであろう入口は、永らく人の住んでいない洋館のような幽然とした佇まいだった。街の賑わいが色濃く記憶に残っていた為か、こうした静けさが耳に痛い秘境染みた場所にソニアは得体の知れない怖れを感じてしまう。決して剛胆とは言い難い気質のソニアは、この急な状況推移に若干顔を青褪めさせてしまうのは無理からぬ事だった。
 アトラハシスと同行していたシルヴァンスと呼ばれた青年とイーファと呼ばれた少女はソニアに興味が無いのか、到着して早々何の躊躇いも無く遺跡の中に入っていた。彼らにすれば仮宿として用いているのだからこの地は未知に非ず、恐怖を覚えるに値しないのだろう。
 翡翠の君は、この場所は今よりも遥かな過去に築かれていた古代遺跡で、嘗てダーマ神殿の一機関が研究施設として用いていた場所だと説明してくれた。
 そして遺跡内部へと通され、アトラハシスが客間として用いている部屋に招かれる。茶棚に円卓、数脚の椅子だけが広々とした空間に備えられただけの殺風景な部屋だったが、閑散さを感じさせない絶妙な配置により寧ろ広々とした開放感を覚え、何よりも丹念に手入れされているであろう品々は全てが格調高く、如何なく彼の趣味が発揮されているのだと、アリアハンでの時間を知るソニアは懐かしさを感じずにはいられなかった。



――冷めてしまった紅茶の水面を眺めながら自らを顧みると、自身の内心を占めていたのは、自責の念だった。
(……私って、すごく身勝手な人間だったんだな)
 あの場にターニャを置き去りにしてしまう結果となったのは、アトラハシスがいきなり街中でルーラを使うとは思ってもいなかった事もあるが、元を糺せばターニャの存在を一瞬だが忘れ、己が心のままにアトラハシスの誘いに乗った自分の浅慮さが招いたからだ。
 自分が生まれ育った街とは言え、冒険者や巡礼者といった見知らぬ大人達が行き交う街角に取り残されてターニャは心細くないだろうか。無事に家に戻れただろうか。先程からそればかりが脳裡で傷みを発しながら渦巻いている。
(私は……なんて事をしてしまったの)
 親友に良く似た少女の事を思えば、胸が張り裂かれそうになる。
 成り行きではあったが、こちらの都合で小さな子供を街中で連れ廻したにもかかわらず、自分は一言も発さないまま立ち去ってしまった。現在のバハラタならば憲兵が多く巡回して少女の身の安全を確保してくれるだろうとの予想は容易につくが、本来少女を見ていなければならなかったのは自分であり、放棄したのもまた同じ……不可抗力などという言葉は言い訳にすらならない。
 自然と、自虐の意識が胸の奥を苛み、思考までもが負の方向に傾倒する。
 この現状は、過去を求める余り現在を疎かにしてしまった末路なのだ。それで他の人に迷惑を掛けてしまう事になったと実感して、ソニアは暗澹に震えてくる。後悔や罪悪という一言では到底片付ける事はできなかった。
 嘗てこの旅路に着く事を決めた時、母から諌められた言葉が耳の奥に厳然と響いていた。
 ソニアの正面の席に座り、自らのカップに茶を注いで一口喉を潤したアトラハシスは、一人俯いて悄然とした様子の彼女に向けて苦笑を零した。
「そんなに深刻そうな顔をしなくても大丈夫だと思うよ。ほら、公会議期間中のバハラタにおける犯罪発生率は最低だろう。憲兵や聖殿騎士達が油断無く街の隅々まで見張っているんだから、家に連れて行ってくれるさ」
「それは……そうかもしれませんが」
 余りにも暢気にそう告げられては、流石のソニアも視線に非難を篭めずにはいられない。が、しかし。結局その非難は自らに返ってくる。どこまでいってもターニャの事は完全なソニア自身の過失に他ならないのだから。
 ソニアに連れがいた事をすっかり意識から零していたアトラハシスとしても自らに非を感じない訳ではなかった。だからこそ軽口を叩いて気を紛らわせようとしても、ソニアの表情は晴れる事は無い。少しも変わらない彼女の頑なさに、アトラハシスは懐かしさを覚えながらも溜息を吐いた。
「君は相変わらず気にしすぎだね。君を攫って来たのはぼくなんだから怨まれるべきはぼくであり、君は攫われた身としてもっと堂々として然るべきさ。あ、君を攫っただなんて言ったら、セフィに嫉まれちゃうかな」
 アトラハシスの口調はおどけるようであったが、逆に彼から唐突に姉の名が挙げられた事にソニアの胸は一際強く鼓動を打つ。
「殿下。姉さんは――」
「ソニア……どうして君がバハラタにいたのか聞くよりも前に、ぼくはまず君に言っておかなければならない事がある」
 遮るように呼ばれた自らの名に、ソニアは小さく肩を震わせて顔を上げる。正対して交錯した翡翠の眼差しの真摯さに、ソニアは思わずゴクリと唾を呑み込んだ。
「ぼくは魔族だ」
「そ、そんな……どうしてっ――!」
 ソニアはそれ以上言葉が続けられなかった。
 魔族とは魔物の上位存在。そして魔王討伐の旅路という盤面に身を置く自分とは敵対する位置に配された者だ。
 悲痛さを隠す事が出来ない素直なソニアを見つめ、アトラハシスは自嘲的な笑みを口元に浮かべる。
「確かに昔のぼくなら君と同じような反応だったろうね……だけど、ぼくには成し遂げたい願いがあって、それを実現する為にはどうしても力が必要だった。その為の手段として見出したのが魔族という“路”であり力の容。偶然にも、ぼくには魔族になれる素養があったんだ」
 何の気負いも無く連ねられるそれがアトラハシスの偽りない本心だと気付き、だが納得出来ないソニアは知らず立ち上がっていた。
「人を棄ててまで叶えたい望みって、何ですか? そんな事が、許されるんですかっ!?」
 親しい人間がはっきり自らは魔族だと断言した事による悲哀と、それに見え隠れするように魔族とは相容れないという意思がソニアには浮かんでいた。
 確かにソニアの糾弾に近い訴えは紛れも無く人間の側に立つ者の言葉であり是だ。しかしそれがどれ程まで一義的で独善的であるか、恐らく彼女には理解できないていないのだろう。いや、きっと理性がそれを受け容れようとしても感情がそれを許容しないのだ。彼女はそういう人格であるとアトラハシスは昔から思っていた事だ。
 人間は異質を懼れ、拒絶する。そして共感を尊び、孤高を蔑する。それらは実に判りやすい人間の根本原理であり、存在の基幹を成している部分だけに討ち払えるものなど極めて稀な事だ。それはソニアの反応を見れば一目瞭然で、彼女もまた稀ならざる普遍の範疇に納まっていた。
 だが、アトラハシスはそれに否を突きつけようとは思わなかった。愚直なまでに解り易い反応は彼女の純真さの顕れで、寧ろ好ましく映る。そして恐らく自分が彼女と同じ立場に在るのなら、きっと同じ事を言っただろうからだ。
 既に別け隔てられた互いの路において、夢幻の如き仮定に想いを馳せるのは詮無き事だと思考を切り替え、アトラハシスは眼前のソニアに気取られぬように小さく嘆息する。
「……まあ人の倫理を語るなら、そう思うのは当然だよね。だけど、ぼくの望みは人だからこそ望むものであり、人のままでは叶えられないと知っていたから、さ。ぼくは俗物だから、それを叶えれる手段に突き進んだ」
「殿下?」
 真剣な眼差しで虚空を見据えるアトラハシスの雰囲気があまりにも儚く見えたので、ソニアは上手く言葉を返せなくなってしまった。ただ、アトラハシスがそれ程までに望んでいるものが何なのか酷く気になった。
 何時しか視線の意味が変わっていた事にアトラハシスは表情を緩め、これまでの張り詰めた気風を払拭する。
「そんなに慌てないで。ぼくにも色々と複雑な事情があったから、順を追って話すとなるとそれなりに時間が掛かる。まずこちらの質問に答えてもらえるかな?」
「……何でしょうか?」
 些か強引に出鼻を挫かれてしまったが、アトラハシスが語ろうとしなければ先へは進まない。若干気落ちしたソニアは慎重に頷いた。
「さっきの話に戻るけど、君はどうやってバハラタに来たの? いや、そもそも何時どうやってアリアハンを出たんだい? 世間では結構誤解されがちだけど、バウル老師がアリアハン大陸に張った結界は単なる魔物の弱体化を誘発するものではなく、魔法的にも物理的にも内外を切り離す厄介極まりない代物なんだ。だから無闇に侵入する事もできないし、脱出経路だって限られてくる。唯一通過許可を得ているランシール船籍の船舶だって半年に一回の頻度でしか寄港しない位だから、アリアハンは国としては未だ閉ざされたままなんだよ」
 理路整然と重ねられる質問はどこか詰問染みていた。勿論アトラハシスにそんな気が無いのはソニアも判っていたが、やはり自然と意識が強張る。自分がバハラタにいた理由と目的が、魔族だと言い切ったアトラハシスと敵対する意を宣言してしまう事に他ならないからだ。
 ソニアは、アトラハシスと敵対などしたくはなかった。何故なら彼は姉の最も深い理解者であり、そして自分にとって――。
「私は……イシスから来ました」
「イシス? 何で君があの砂漠の奥地から?」
「……旅で、立ち寄ったんです」
 自然と濁すような形になってしまう。嘘を吐いている訳ではないが、後ろめたさが首筋を冷たく撫でていた。
「旅、ね。あのディナ殿がそれを許されたんだから、それなりに理由のある旅なんだろう?」
「それは……」
 言い澱んで苦しそうに視線を逸らしたソニアの様子を見たアトラハシスは、一旦会話の流れを断ってカップに注いだ紅茶で喉を潤す。
「まあ何れにしろ、無事で良かったよ。あそこは最近、魔王軍と大きな戦があったからね。そんなつまらない事に君が巻き込まれて、何かあったとなってはぼくも遣り切れない」
「つまらないって……」
 人間の国家と魔王の手勢との争いをまるで対岸の火事と同じように断じてしまうアトラハシスにソニアは驚き、ズキリと胸が傷んだ。魔族であるアトラハシスがあの戦争に関わっていたかはソニアの与り知らない事ではあるが、それでも、嘗て見てきたアトラハシスは他者の不幸を横目に何の感慨も無く素通りするような人格ではなかったからだ。
 あの戦争で喪われた命は、計り知れない膨大な数に上っている。それに連なり哀しみに暮れる人々に至っては想像を絶すると言ってもいい。自ら魔族であると告白した彼が、心の底から人ならざる者に変わってしまったのかと思うとソニアは遣る瀬無くなった。
「不甲斐無い、って事だよ。だって結局、イシスがあの戦争に勝利する事ができたのは、丁度その時期に居合わせた強力な助勢によって辛うじて勝利を拾う事になったんだからね」
「あ、それって……」
「外部のたった二つの個戦力に頼りっぱなしだったらしいから……情けない。イシス人って、平時は周辺国家に人類史最古の王国だとかで傲然に振舞っているのに、いざ自らの身に火の粉が降り掛かったらあれだ。自国の危機には自らの手のみで抗して欲しいものだ切に思うよ」
「……ユリウスと、スルトマグナ君」
 イシスそのものか、或いは何か別のものを扱き下ろしているのかアトラハシスの言葉は意味深だった。しかし、ソニアは彼が語る中に意識を揺らす単語が織り交ぜられていたのを耳にし、無自覚に小さく口腔でその名を呟いていた。
 言葉に引き摺られて甦る二つの影。それは長久の歴史を積み重ねて研鑽された屈強な将兵達を差し置いて異質過ぎる能力を如何無く発揮し、遂にはイシスを勝利に導いた年下の少年達……“アリアハンの勇者”と“焔の申し子”の事だ。しかし各々の武勇にしろ智謀にしろあまりにも常識の範疇から逸脱していたが故に、両者が人々より向けられていたのは尊敬よりも畏怖であったとソニアの印象にはあった。
 卓に視線を落として長い睫毛で心の表層を覆ったソニアの様子を、彼女の呟きを耳聡く拾っていたアトラハシスは油断ない眼差しで見つめていた。
「ふぅん……そういう事、か。ソニア。やっぱり君が“癒しの乙女”なんだね?」
「……やっぱり、ってどういう事ですか?」
「“癒しの乙女”という称号の由来は、不完全であったが為に極端な性質を顕した『闇の衣』の内にあって正陽魔法を苦も無く紡げた事にある。場の属性エレメントが正と陽を拒絶したとしても、“寵愛者アマデウス”である君ならその条件に見事に一致するし、寧ろ他を探す方が無理というものだからさ……一番当たって欲しくない可能性だったけど、ね」
 理解できない単語が並び、ソニアは首を傾げる。
「“寵愛者”……それはルカス伯父様がルビス教会より得られていた称号では?」
「いや、何でもないよ。でも、そうか……よりにもよって君が」
 ソニアは自分が些か大仰過ぎる渾名を自称した覚えも、しようとも思った事は無く、こうして誰かか面と向かって言われると恥じ入るばかりだった。ましてやそれが自分を昔から知るアトラハシスでは一入というものだ。
 居心地の悪さに窮するソニアの内心など露知らず、アトラハシスの眼差しが一際鋭くなった。
「“癒しの乙女”は“アリアハンの勇者”一行の一人だと聞いていた……君は、ユーリの仲間なの?」
「……はい」
 それは聞き慣れない呼称であると同時に、とても懐かしい響きだった。ユリウスの事をそう呼ぶのはアリアハンにおいて目の前のアトラハシスと姉のたった二人だけであり、そこだけで完結しているせかいだ。
 嘗て抱いた疎外と羨望の感情が同時に騒ぎ出して、ソニアは鎮めるのに必死だった。それが表情に出てしまったのではないかとソニアは不安になったが、反して明瞭な答えを聞いてアトラハシスは破顔していた。
「そう……ユーリは元気にしている? ユーリって無口で無表情で無関心で人付き合いが極端に苦手だから、知らない人と一緒に旅に出る事になって心配していたんだ」
「え?」
「ユーリはね、一匹狼の傾向が強すぎて眼を離したら何処に行くかわからないから、ちょっと付き合い辛いかも知れないけど悪い子じゃないよ。無愛想なのは育ってきた環境が環境だからでもあるんだけど……極端な話、ユーリって自分を出す事が下手なだけなんだ」
 連ねられる特徴は確かにユリウスの事を指していた。しかし、それは今のアトラハシスのように嬉々とした表情で語られるような事だろうか。その言い方はまるで出来の悪い弟を心配する兄か、子を案じる父のような言い回しではないか。
 思えば、嘗て自分が義姉にユリウスの事を尋ねた時の表情が、このアトラハシスと重なる。それはつまり、二人が同じ感情を共有していたという事に他ならない。
 しかしそれはソニアに混乱を齎した。これまでの旅路を思い返す限り現実のユリウスという人間は冷酷なまでに冷静で感情など微塵も見せず、旅路を共にする仲間にすら一定の警戒や距離を保って無関心を貫いている。その孤高な在り様は、アトラハシスが朗らかに語る人物像の印象とはあまりにも乖離しすぎていた。
 掻き回された思考がそのまま面に出てしまっていたのか、アトラハシスはソニアの表情を見て怪訝に眉を顰める。ここまで露骨な困惑を見せられては、少し熱が入ってしまったアトラハシスとて互いの齟齬に気付くというものだった。
「……随分意外そうな顔をするんだね。君は今まで、ユーリと一緒に旅をしてきたんだろう?」
「ええ、それはそうですが……」
 歯切れを悪くして言い澱んでいる。そんなソニアの様子にアトラハシスは怪訝を促進させる。
「ソニア。そもそも争いの嫌いな君が、どうしてユーリの旅路に同行する事を志願したの? ユーリの旅路は魔王討伐。魔物は当然としても、その過程で立ち塞がる事になる人間も手に掛ける事を厭わない……そんな旅路なんだよ」
 勇者の供としてアリアハンを出立したのならば、ここに到るまでに必ず相対する魔物をその手で屠ってきた事だろう。全く手を汚さずにアリアハンからここに到るまでを踏破出来るほど、世界は甘くも優しくも無い。自分が知る虫も殺せない性格のソニアを思えば、一体どんな心境の変化と覚悟を胸にその旅路に臨んだのかアトラハシスにも想像がつかなかった。
 そわそわと落ち着きを無くしたソニアは、伏目がちに言葉を模索する。
「ユリウスの監視は国命ですが、私は、自分の意思でその任に志願しました」
「監視? ……ソニア。君は何を言っているんだい?」
“アリアハンの勇者”を監視する。ユリウス=ブラムバルドという存在を知るアトラハシスは、その言葉とそうする理由を理解する。だがそれをソニアが自らの意思で行なっている事を信じられなかった。
 声調を一段下げ、アトラハシスは眼を細める。気配に若干怒気を孕ませただけで空気が硬質化し、雰囲気が重くなった。
「っ!?」
「あ、ごめんよ。怖がらせてしまったね」
 場の突然の変容に身を竦めてあからさまな怯えを見せたソニアに、小さく自らの頭を小突いてアトラハシスは苦笑を浮かべる。重苦しさは消え失せたが、凛と引き締まった空気は失せてはいなかった。
 冷たい沈黙が、部屋に落ちる。
「……殿下が行方不明になられた王都襲撃事件で、姉さんはユリウスに殺されました」
「ありえないよ。ユーリにセフィを殺せる訳が無い」
 即答だった。
 脊髄反射的に返ってきた、何を馬鹿な事を言っているのだと言わんばかりのアトラハシスの言葉に、ソニアは少し反発して柳眉を寄せる。
「城では、そんな噂が流れています。実際、血塗れの姉さんの遺体を教会に届けたのもユリウスです」
 義姉が亡くなった夜の事は、今でも鮮明に思い出せた。
 魔物の襲撃より避難してきた人々を大聖堂に受け容れ、怪我人の治療に忙殺されながらも国軍が魔物を討伐してくれる事を祈っている時だった。天を引き裂くような雷鳴が人々の心に怯懦の影を落とした少し後、身体を紅蓮に染め上げて物言わなくなった義姉の亡骸を抱えたユリウスが現れたのは。
「状況証拠だけか……まさか君は、たったそれだけでそんな根も葉もない突拍子な噂話を鵜呑みにしているの?」
 だとすればあまりにも浅慮で視野狭窄甚だしい、とアトラハシスの非難を孕んだ視線は語っていた。
 だがソニアにしても当然それを甘んじて受ける気にはなれなかった。
「いいえ。私も信じられませんでしたから、ユリウスに尋ねました」
 はっきりと告げられた事にパチリと眼を瞬かせ、その直情的な行動に思わずアトラハシスも目を見開く。大人しい性格であるソニアにしては、それはあまりにも大胆な行動だったからだ。
「それを本人に直接問い質すなんて、また随分と勇気が要る事だけど……それでユーリは何て?」
「彼は……それを認めました。いえ、私には復讐する権利があるとさえ言い切ったんです。それ以降、事ある毎に私に復讐するように、自分を殺せって言ってきて……私は、そんなつもりで聞いたんじゃなかったのに。私はただ、本当の事が、知りたかっただけなのにっ」
 言い連ねていると心の底に積もり積もった蟠りが滔々と溢れ出して来て、止められなくなる。胸の内を圧搾する激流は目元で溢れそうになる涙に形を変え、ソニアはそれを湛えたまま感情を爆発させていた。
 悲嘆に暮れるその様子を冷静に見つめながら、アトラハシスは口元を押さえて思考する。
(切り離した半身は自ずと崩滅するように仕掛けた筈だけど…………まさか)
 幾つかの可能性を自らの中で咀嚼し、ある一つの帰結に辿り着いたアトラハシスは、立ち上がったまま息を荒くしているソニアを手で制して椅子に座らせる。
「君は、ユーリを憎んでいるの?」
 静かに、ただゆっくりと問われたそれは、決してソニアを責め立てているようなものでも、尋問しているものでもなかった。
 晴れた日の風の無い湖の如く、全く波立たない深く澄んだ翠の眼差し。それを向けられて少し冷静さを取り戻したソニアは、既に冷たくなっていたカップを両手で包み込んだ。
「……わかりません。旅の始めは噂を肯定された事もあって憎くもありましたけど、時間を重ねる毎にだんだん解らなくなってしまいました。イシスでスルトマグナ君のお話を聞いて少しは解りかけたと思ったんですが、結局また解らなくなって……私には、ユリウスの事が何もわかりません」
 共に王都アリアハンを出立し、道中ミコトやヒイロという頼もしい仲間が出来た事。
 アリアハン大陸脱出前に、初めて噂の真偽をユリウスに尋ねた事。
 ロマリアに着き、王からの依頼を受けて民の間では義賊と名高い盗賊団“飛影”と対峙した事。
 美しいエルフの少女と出会い、嘗てノアニールと隠れ里を巻き込んだ愛憎劇の事。
 唐突な異変に見えた交易都市アッサラーム、イシス大砂漠を経て、聖王国イシスに辿り着き、戦争に参加した事。
 そして。故郷から遠く離れた地にあって、再び耳にする事になった、カリオテの名の事……。
 ソニアはこれまでの旅路であった出来事を掻い摘んで語った。アトラハシスは言葉を発さず一つ一つ頷いて聞いていた。それはあたかも、懺悔をする者とそれを聞く聖職者のような様子だった。
 ソニアの告解を受け止めたアトラハシスは双眸を伏せ、数瞬もしない内に開眼する。
「……ソニアはユーリの事を解ろうとしている? 知ろうとしなければ知る事なんて絶対に出来ないよ」
「しています! していますが、でもっ……」
 真実が見えかけた姿も、カリオテの名によって再び霧中に掻き消える。最早ソニアは何を信じたら良いのかわからない、何処を見たら前に進めるのかわからない深い闇の中に落とされたようなものだった。
 カップを掴んで小さく打ち震えるソニアの手を、アトラハシスはそっと己の掌で包み込んだ。
「真実とは、時にとても残酷だ。何せ受け取る側の心構えも時局も全く慮ってはくれないからね。……だからソニア。多くの事を中途半端に知ろうとするのなら、何も知らない方が良いよ。他人の見解に便乗して賢者になるくらいなら、むしろ自力だけに頼って足掻く愚者である方が遥かに人として幸せなんだから」
「……意味が、わかりません」
 翡翠と紅の視線が交差する。
「アリアハンに限らず、他の国々でもそうなんだけど……意図的に流される世論を絶対視し、それに添うようにしか物事を考えれない人は自分で目と耳を塞いだ挙句、思考を止めているのと同じなんだよ。……真贋を見極める事をせず、拾える情報を精査しようともしないで恣意的なまま辿り着いた結論なんて、結局は自分が納得できるように都合良く脚色された形に落ち着くものだからね」
 吐き棄てるようにアトラハシスは言う。その言葉が、誰の事を想ってのものなのか、ソニアは何となく察しがついた。
(きっと姉さんの事だ……)
 今は亡き姉も、他の追随を許さない優秀な魔導の使い手だったからこそ、英名に等しいだけの誹謗中傷を影で囁かれていたのだ。もっとも、姉の振る舞いはそれを微塵も感じさせなかったが。
「今の君は、感情が先走っているようにぼくには見えるよ。感情という色彩に染められた眼に映るものは、総じて同じ色しか映し出せないからね」
「!」
「真実を前にしてもありのままに理解するには、限り無く透明な冷静さを持つ事が必要不可欠。だけど、感情に縛られる人間にはその外形さえ掴む事はできない……ままならないけど、それが現実さ」
 滔々と言われて思わずソニアは息を呑み込む。
 旅立ち前に母に言われた事を、他人にこうして指摘されるまでに自分は直情なのだろうか。
 激しく動揺する心と身体を落ち着かせるように空気を貪ろうとするも、なかなか上手くいかなかった。
 苦しそうに胸に手を当てたソニアを見て、自分の一言に原因があると察したアトラハシスは済まなそうに小さく頭を振った。
「ごめん、少し説教臭くなったね。君には君の論理があるんだし、君の問題に外野が安易に口を挟むべきではなかったんだけど……君の沈んだ顔を見てはいられなかった」
「殿下……」
「これまでの話から察するに、君はアリアハン王都襲撃事件の時、何があったのか。それを知りたいんだよね?」
「……は、はい」
 たどたどしくソニアは頷く。自分にとっての全ての始まりは、そこなのだ。変わらないと信じていた日常が、狂い始めたのは。
「わかった。ぼくが知る限りの事を話すよ……但し、真実の形は君が前提としているある事象・・・・を確実に破綻させ、君の価値観これまでの一部を粉砕する」
 意味深長な表情を浮かべたアトラハシスは、徐に虚空に手を翳して何かの感覚を確かめるように掌を握り締め、開く。そして、深い翡翠の双眸をソニアに向けた。
「ましてや打ち砕かれた後。君がこれまで通りの日常に戻れるかどうか、ぼくには保障しかねる。……それでも、真実と対面する覚悟は君にあるかい?」
 アトラハシスは敢えてこちらの不安を助長するような言葉を選んで厳然と告げてきた。
 それに心が引き摺られたのか、何故か言いようの無い不安にソニアは駆られる。まるで自分の中の何かが喚起され、これ以上は訊いてはいけない、と喚き立てているようだった。
 一瞬、内なる声にそのまま呑まれかけるも、ソニアはこれはきっとアトラハシスの優しさなのだと確信した。穏かな脅しとも取れる言の葉も、今ならまだ引き返せるという意味の裏返し。自分の身と心の安寧を案じて、躊躇する暇を与えてくれているのだ。
 都合の良い解釈かもしれなかったが、ならばこそ、とソニアは双眸に決意を宿す。
「……私は、それを知る為にここまで来ました。殿下、お教え下さい」
 ソニアも覚悟を載せた強い意志を紅の眼に篭めてアトラハシスを見つめ返す。
 その揺るぎない必死の訴えを前にして、アトラハシスは余計なお節介だったか、と諦念から深々と溜息を吐いた。
「……いいだろう。おいで、我が魂魄の印」
 正面から真横に宙を漕いで伸ばしたアトラハシスの腕。その先の掌は何かを迎えるかのように差し出され、それに応えるべく何処かより染み出してきた闇が収束する。
 それは瞬く間に肥大し、空間を侵食しながら禍々しい気風を放ち明確な形状にへと変容する。
「因襲の楔に繋がれし天地陰陽を詠う魔韻の奏者よ。我が声に応え、連理の鎖を解き、ここに真なる姿を示せ……『崩剣・破壊の剣』よ」
「え……っ!?」
 眼前で象られる闇の凝縮が臨界を超え、爆ぜる。
 現出した器を前にして、ソニアは眦を限界まで大きく見開いた。








「アリアハンを出てからもう十七年……、か。思い返せば一瞬の出来事のように思えるわね」
 ソニアとターニャを半ば強引に街の散策に送り出したタニアは、店内に備えられている窓から外を見ながら感慨深げに呟く。その韻には星霜の時間の深淵にへと入り込んでいくのか、余人には決して計り知る事のできない情思が滲み出ていた。
 そんな郷愁に耽るタニアに冷や水を浴びせるが如く、ユリウスは何時の間にか抜き去っていた剣の切先を彼女のうなじに突き付ける。その表情は無であり、だが平時よりも細められた双眸に宿る深い漆黒は、彼の内側の底から溢れ出さんとしている何かを意思の力で阻んでいる様を如実に表していた。
「カリオテ家……アリアハン中興期より代々王家に仕える剣の一族。王に権威の杖を存分に振るわせる為に、裏側で血剣を迸らせ暗躍してきた影の守護者。近代においては、王国貴族院の“隷従ダトニオイデス派”を統べていた」
 淡々と並べられる事実の欠片。声に殺気こそ絡ませてはいなかったが、聞く者に恐れを生じさせんばかりの低められた底冷えする声調だった。
 一つ言葉を間違えれば容易く咽喉を貫くであろう冷たき死影。だが、真後ろからそれを浴びせられている筈のタニアは恐怖も少しの気後れもした様子はなく、実にあっけらかんと平静に佇んでいた。
「そして、君の人生を台無しにした罪深き業の一族。成程……確かに君には、嘗てカリオテに属していた私を殺す理由があるわね」
「…………」
 状況を顧みず、事もあろうかこちらの反応を試すような言葉を連ねる彼女に、ユリウスは肯定も否定もせず無言を保つ。先程の応酬でもそうであったように、この女性は自らに直面する死の影に慣れているという結論に到った。
 しかし同時に、この反応にユリウスは深く納得していた。このタニア…いや、リリージュ=G=カリオテという女はアリアハン屈指の大貴族カリオテの長女で、現アリアハン王であるザウリエ=V=オケアノスの従騎士として共に“剣聖”イリオス=ブラムバルドに師事し、その長子オルテガとも友人関係にあったという。
 嘗て共にいたであろう面々を思い起こせば、このリリージュという人間も普遍とは隔たりのある場所に類別される人種だという事だ。
「君は、カリオテを憎んでいる? いえ……そんな事、聞くのは無粋よね」
 踵を返したタニアは、思惟を重ねるユリウスに静かに告げる。突き付けられた切先の事など最初から微塵も気に留めていない。
 誰かを否が応にも想起させる紫緋の眼と漆黒の双眸が重なった。
「……勘違いするな。今更お前らへ吐く恨み言など持ち合わせてはいない。そんなもの、探すだけ時間の無駄だ」
 つまらなさそうに吐き棄て剣を収めるユリウスを、タニアは哀憐に染まった眼で見つめていた。
「君はオルテガの遺志を継いだの? アリアハンの意思に従ったの?」
 意味深な言繰りにユリウスは目を細める。その双眸に浮かぶ色は警戒。
「言葉遊びだ、そんなもの。一体この世界の何処にオルテガの遺志など存在する? それを誰が聞いた? 何時伝えられた? ……全ては偽りだ。所詮は人心を統御する為の体の良い方便に過ぎない」
「事実と言えば事実だけど……ふぅん。自分の父親の事なのに随分と君は冷めているんだね」
「生憎とオルテガの事を父と認識するだけの繋がりなど、俺には無い」
 実の息子にそうはっきりと言われてしまえば、父を良く知るタニアとしては失笑を禁じえない。
「あらら。でも、生まれて直ぐに旅立って育児放棄した放蕩親父なんだから、そう言われてもアイツも文句は言えないでしょうね」
 苦笑を浮かべるタニアに嫌味は無かった。
 故郷の一部では神格化させされているオルテガを気易くアイツと呼ぶ事に、彼の者と気を置く必要の無い昔馴染みであったという関係をまざまざと感じさせる。
 現アリアハン国王ザウリエと親友だったオルテガ。そこに加わる眼前の女性の存在が、ユリウスの中で生じていた警戒を一層際立つものにさせた。
「あんたは、どこまで知っている?」
「さっきも言ったとおり、今でもそれなりの情報網は持っているわ。アリアハンの裏側の事情も良く知ってる。……“咎血の粛清”による“隷従派”とその首魁であったカリオテの末路。そして……君がどう・・なってしまったのかも、ね」
「……そうか」
 ユリウスは瞑目し、そっと左胸に手を当てる。
 自らの役割を例えるならば、アリアハンという一振りの剣におけるその切先……真っ先に敵の肉を引き裂いて骨を断ち切るが、同時に真っ先に毀れて拉げ砕け散る結末をも併せ持つ役回りである。
“アリアハンの勇者”による“魔王討伐”を掲げる王の真意が何処を向いているかなどユリウスには知る由もなかったが、世界共通の脅威に対して一個人をぶつけるなどという、そもそもが破綻している対局図を全面的に支援する姿勢を世界に主張しているのだから、額面通りに世界の存亡を憂いているのでは無い事だけは確かだと結論付ける。そこに自らの立ち位置が摘み取られる事を前提としている事実への感情など、微塵も孕まれてはいない。
 自分の扱いがどうであろうともユリウスは特に異を唱える意思は無かった。どこまで行っても自分は“魔王討伐”という喜劇を演じるだけの滑稽な道化に他ならず、しかし自らに課した目的を果たす為には、お膳立てされたこの盤上を往く事が最善であるのだと理解していたからだ。
 故に、自らの路がどれだけ血塗れで愚昧なものであろうとも、如何なる感慨も持ち合わせてはいないのだった。
 悲壮の覚悟と語るにはあまりにも熱が欠如した胸の裡の燈。自分の与り知らない所で用意された流れに為すがままに身を委ねる事は、思考の放棄と大差無い。だがユリウスの言い分としては、抗うのは未来を求めるが故なのだ。生にしがみ付こうとする意志があればこそなのだ。そんな選択肢を一番最初に切り捨てた身としては、世界の大小様々な移ろいなど気に留め置くものですらなく、無関心で築かれた牙城は崩れる事はない。
 自らの行き着く末が唯一つの結末であると既に見据えている身としては、他の何かに気を取られる暇は無かった。
「……君はまだ・・、大丈夫なの?」
「この身は既に魔物を斬る為だけの一振りの剱だ。剣としての存在意義を貫く為に、一々刃が毀れる事を恐れると思うのか?」
「君は、それで割り切れたの? 君の人生が狂った原因は紛れも無くカリオテにある……オルテガがまだ存命で旅を続けていたにも関わらず、その果て・・を想定して君を持ち上げたのは、他ならぬカリオテなんだから」
“アリアハンの勇者”の後継として王国より指名されたのは、オルテガの訃報があった直後の事であり、ユリウスが六歳の時の事だった。しかしその頃には既に戦闘訓練は始まって二年の月日が経過しており、ユリウスは四歳の頃からこの血塗られた路を歩き始めていた。
 そして、それを先代の国王に承認させたのは当時国内で最も権勢を誇っていたカリオテ家。
 タニアの言う通りだった。今よりもはるかに脆弱だった子供の頃。小振りのナイフを両手で支えるのが精一杯な身で、ただひたすらに命の灯を消す事に慣れる為の訓練を受けさせられていた。いや、訓練と称する事自体がおこがましいと言える、余りにも単純な殺害という経験だけを重ね続ける作業。
 倫理も感情も置き去りにした殺戮が日常になりつつあったその当時、何度思った事だろうか。自分はどうしてこんな事をしているのか、と。どうして予め兵士達に痛めつけられ、既にその生命が風前の灯に成り果てている魔物の首を切り落とす事を延々と続けているのか、と。
 父はまだ存命で、旅を続け着実な成果を挙げているにも関わらず。いつも自分の身を案じている祖父も……自分を全く見る事の無い母親も。どうして疑問に思わないのか、と。どうして止めようとはしないのか、と。
 結局。否だと口にしてみても、態度に表してみても何一つ変わらなかった現実。やがて全てを諦めるには充分過ぎる理由を悟り、感情をはじめとする外界への全ての意思を閉ざすに到る。
 全ては、最初から決まっていたのだ。何故なら、自分は――。
「っ!?」
 そこまで思い起こしてしまったユリウスは、鈍い痛みが脳裡を過ぎったのに思わず顔を覆いこめかみを押さえる。頭蓋の内側で何かが引き千切られる感覚にきつく瞼を伏せ、意識を侵し神経を灼く脈動する傷みに耐えんとする。
 不意に虚ろに、自覚無いまま数歩後ろによろめいたユリウスをタニアは静謐のまま見据えていた。だがその枠に組していた事があるからか、或いはオルテガの友としてからなのか、その原因を知るが故の後ろめたさから声を掛けれずにいたのだった。
 外の喧騒が厭に大きく聞こえてくる沈黙の中で、ただ息を整えようとするユリウスの荒々しい吐息だけが深々と響く。
「……生憎と、俺は自分の人生が狂わされたとは思っていない。最初からこう・・であったのだから、それこそが俺にとっての正常だ」
 そう言い止めユリウスの、掌に覆われ指の隙間から覗くその双眸は、どこまでも冷たく危うい輝きに彩られる。
「割り切れた? 下らない感傷だ。現状を嘆くだけで何もしないのであれば、その場に沈んで溺死するだけ……ただそれだけの事だ」
「前向きなのか後ろ向きなのか……いえ、君は無常なまでに現実的なのね。だけど感情そう簡単なものじゃない」
「……言った筈だ。全ては必要に応じ、目的の完遂の為の手段を手に入れる為だと。そこに感情の立ち入る余地など無い」
 顔から手を離したユリウスには既に表情が亡く、ただ一振りの剱がそこに在った。




back  top  next