――――第六章
      第五話 うつろわざるもの







 行き交う人々の意識を攫う商いの声を器用に避け、自らに分担された役割を完遂させたヒイロは持ち前の銀髪を陽光に煌かせながらバハラタの主街路を歩いていた。
 その足取りは確かで、人の波で溢れかえる雑踏の中にあって自身の場所を見失う事は無い。仮に迷ったとしても、いざとなれば特殊技能の“鷹の目”を用いて上空から自身の現在位置を割り出し、拠点となっているイシス領事館への道筋を探れば良いだけなので緩慢とした散策に不安を感じる事は無かった。
「さて、どうやって時間を潰したものか」
 武具等や馬車の整備はイシス領事館の関係者が請け負ってくれていたので、それぞれが担当する物資補給等を済ませてしまえば後は自由行動を許されていた。
 ヒイロは特に行く当ても無く、漠然と人の流れに逆らわぬように歩いていたので何時しか観光名所となっている臨河公園に辿り着く。方向的にイシス領事館とは真逆の場所に来てしまった訳だが、やはりとも言うべきか少しも慌てる様子を見せない。
 普段通りの自然な振る舞いで、近くに備えられていたベンチに腰を下ろした。
 イシスからこのバハラタまで魔物との戦闘や野営の連続であったので、久方振りに得た余暇をのんびりと過ごすのも悪くない、と周囲の街並みを茫洋と眺めながらヒイロは思う。少しばかり年寄り染みた思考であったが、本心なので覆す気は無い。
(この旅路に着いてそろそろ一年、か。色々あったけど、思い返せばあっという間だったな)
 アリアハン大陸に構える古代遺跡、〈四方塔〉の一つであるナジミの地下で“アリアハンの勇者”と邂逅し、そのまま旅路に同行するようになって今に至る。その過程で多くの人々と接触し、様々な出来事を体験してきた。
 瞼を閉ざせば闇色の緞帳にそれらの光景がすぐさま再現され、歩んできた道程を鮮明に思い起こさせた。
 髪や頬を撫でる風は、大河を一望できる公園一帯に吹き入って涼やかさと爽快さを運んで来る。今は乾季から雨季への過渡期にある為、この地では一番過ごしやすい時期と言えるだろう。しかし木々の隙間から漏れる陽の光には、暖かさに見え隠れするが如く苛烈な鋭さを確かに孕んでいた。
 風のせせらぎを堪能したヒイロは、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
(ミコトは変わらない、って言っていたけど……それなりに様変わりしている)
 行き交う人々の服装の流行や、店の商品棚に陳列されている品の系統。新たに建造された家屋の風潮や人の目を惹くように試行錯誤の末に調整された街路の装飾、都市の景観……それらいずれもが時間という不可避の流れに蕩揺い、移ろいを強要された末に至った変貌の結果なのだろう。
 この街のように人間の流入が多ければ、時の経過と共に容を変化させるのは世の習い。いや寧ろ変わり往く事、時間の重みを背負う事こそが整然とした秩序に准じる正しい姿に違いないとつくづく思わされる。
 旅の仲間であるミコトは今より一年程前。“アリアハンの勇者”という存在を求めて鎖国中のアリアハン王国に向かう為にこのバハラタを訪れたというが、一つ所に留まる事が稀な冒険者の身ならばそう言った些細な変化を見落としても致し方が無い。
 冷静な客観で仲間を評し、その矛先を自らに向けて思い返せば、自分は昔からそういう細かなものを拾ってしまう性質だった。
(……前に来たのは“流星”を抜けた後の事だから、時期的にミコトとはあまり変わらないのかな?)
 盗賊団“流星”を抜けてそろそろ三年近くになる。それより再開した自分探しの旅路で各地を転々とする中、一度このバハラタに立ち寄った事があった。
 その当時の街並みと今現在のそれを重ねてみると、記憶と現実との齟齬の大きさには眼を瞠らされたものだ。嘗ての滞在は僅かであったものの、都市そのものから感じられる色彩が以前と比べ遥かに強かに映っていたのだ。
 勿論、その心象は受ける側の状態一つでいかようにも色調を変えるものだろう。しかしそれを差し引いても、普遍的な日常を重ねる中で得られる経験と進歩は貴く崇高な輝きを放ち、金色にさえ見える。
 何ら特別ではない至極当たり前の事だが、それを前にして自分が特に顕著に眼が眩むような感覚に陥っているのは、恐らくそれら変化の様子を外側から観測したからなのだろう。
 そう。自分は決して人当たりの良い人格者などではない。所詮は当たり障りの無い振る舞いで、周囲との適度な距離感を一定に保ったまま観察するだけの傍観者。この身体も精神も、自らを知覚した瞬間から何一つ変わっていない、停滞した存在なのだ。
 常にその場に留まり続ける存在は、常に動いている流れに介入してはならない。緩やかに流れる川に巨石を投じれば流れそのものが変質してしまうように、保たれていた整然性が澱み、終には秩序が破綻してしまう。
 自分がそういった事象を引き寄せる類の……あたかもこの世界・・・・の摂理から完全に切り離された存在である事をヒイロは薄々だが実感していた。
(……なんて、我ながら少し突拍子がないか)
 勿論根拠はあるけど、と内心で己に言い聞かせる。
 これまで幾度も繰り返したがこの手の思考は出口の無い迷宮であり、それを知っているからヒイロは足元を崩し掬っていく流砂から抜け出そうと別の方角に意識を移す。すると直ぐに何かが引っ掛かった。
「あれ……そう言えばあの二人、無事に黒胡椒を買えたかな?」
 それは以前、自分がバハラタに立ち寄った時の事を思い出したが為に萌芽した懸念。知らず口腔から漏れ出し、小さな呟きとなって風に浚われる。
 二人とは、別行動をとっているユリウスとソニアの事だ。
 世界規模での物流を統御する為に商会ギルドが定めた条規の一つ。特定流通規制品目に指定されている黒胡椒を購入するには所属ギルドの登録証が必要である事を、迂闊にも買い出しに向かった彼らに伝え忘れていた。
 冒険者や盗賊、或いは商会といった各種ギルドが発行する登録証は、そこに所属する者の身元を認め、生業の基盤を形成する為の証だ。世界の様々な都市にはどのような形であれ各ギルドの支部が存在しており、そこに自らの登録証を提示すればある程度の活動の糧を紹介される仕組みになっている。
 だからこそギルド登録者は、新天地に着いたら最初にそれぞれが所属するギルドに赴き、身元の照会を済ませてから行動に移る。そんな一連の流れが常識であり基本だった。
 ユリウスとソニアにしても、二人は彼らの祖国アリアハンにて冒険者ギルドに登録を済ませているので登録証を持っているのだが、これまでの旅路でそれをギルドに提示するという旅の基本的な事柄を一切行っておらず、またそれを行おうとする意思も見せた事がない。寧ろ、そもそもその常識を知っているのかさえ疑問に思うくらいだ。
 もっとも、ソニアに限っては少し事情が異なると言えた。
 精霊神ルビス教団も加盟する“協会”という宗教統括機構の組織体系は、広義ではギルドの体制と何ら遜色は無い。その為、“協会”に参加する巡礼僧が各々の奉ずる神の紋章を施された僧服を纏い、所属する教会に礼拝に伺う事が無自覚に身元の明示を完遂しているのと同義であった。
 これまでソニアが己が信仰心に従って各地の教会を訪れていた事を鑑みて、ギルド登録者の慣例から外れているとは言い切れず、逆にその習慣に疎いのも頷ける話だろう。
 だがユリウスは、ルビス或いはその他の“協会”に加盟する宗教徒ですら無かった。
 ギルドに籍を置きながらある一定の期間を超えて照会を怠ると、ギルド側がその登録者の生存を判断しかねて最悪、登録の抹消措置をとる場合がある。それは公的記録上での行方不明であり、特に魔物蔓延る昨今では社会的に死亡した事を意味する。仮にそうなってしまった人種は身の証を立てる術が無い為、旅路の生活を支える路銀を稼ぐ事すらままならず、更には異端の者として社会の庇護を享受する者達から冷たく酷烈な扱いを受ける事もどんな都市でもしばしばある位だ。
 この冷酷な事柄は、旅路に身を委ね生業とする者にとって致命的だった。
 ルビス教徒では無い為、“協会”の庇護は働かず。ギルドの照会、登録更新作業も行っていない為、記録の上で何処に存在しているのか定かではない。本来ならばそんな状態で旅を続けるのは、こういった都市に立ち入る事すら容易ではないのだが、ユリウスにはそんな現実さえ縁遠い。
 それは何故か、と問われれば返す答えは一つしか浮かばなかった。
(まあ、ユリウスは“アリアハンの勇者”だから大丈夫か)
 これまでの旅路が滞りなく敢行できた最たる理由は、偏にユリウスが“アリアハンの勇者”という存在である事に収束する。
 アリアハン王国の名の下に、世界に先だって“魔王討伐”を掲げて実践する者。それが世に提示された“アリアハンの勇者”という存在の定義であり、頭冠サークレットがその証となる。十年前のオルテガの悲報と入れ替わるように彼の国から宣言されて以来、実しやかに世界に周知される事になった確然たる事実だ。
 また、各国の支援はあれど実質的には民間組織の域を脱しないギルドよりも上位の範疇、国家というより強固な枠組みが直接身元を保証する事を暗に示し、潤沢な援助が施される事を約束している。過去にはロマリア王国、そしてつい先日は聖王国イシスから多くの資金や武具を提供されたのはその実例だった。
 アリアハンの出自であの・・サークレットを身に付けているのは今のところ現“アリアハンの勇者”であるユリウスだけであるのが覆しようのない現実である。故に、見る人間が見れば一目でユリウスがその存在であるのだと判るだろう。
(それでも……お題目通りに清く尊いものでは無いだろうけど)
 日常を安寧に生きる市井の人々からすれば、“勇者”という称号は高潔な輝きを放つ者なのだろう。
 しかし、高く掲げられた大義名分に寄せられる多大なる援助は、それだけ魔王討伐、魔物根絶を現実のものにする事への期待の裏返しだ。突き詰めていけば、誘蛾灯の如きに引き寄せる方々からの希求の裏側にどんな邪な思惑が蠢いているのか察しようが、旗を引き下げる事はできず支え続けなければならない責務を背負う事なのだ。
 一介の旅人の身ではありえない貴賓扱いも、それを紛らわす為の目眩ましの一環。甘い囁きの本質は、打算に基づいた狡猾な策略だ。
 一度その名を世界に流布させてしまった以上、退路など既に絶たれており、その路は前に進むだけの細く狭い一本道。光さえ射さぬ未開のみちを歩むにあたり、一体如どれだけの重圧を掛けられているのか余人には想像を絶している。
(少なくとも、飴と鞭、で表現できる程度の生易しいものではないな)
 仲間の事であるにも拘らず随分と他人事のような酷薄な感想がヒイロの脳裡に浮かんだが、それは物事をより冷徹に精確に見えるならば、磐石に定義された事実にどれ程の感情を立ち入らせた所で、局面は変化しない事を知っていたからだ。
 しかしながら渦中のユリウスもまた、自らの立ち位置を正確に理解して振る舞っているように見える。その姿勢に揺らぎが無いように映るからこそ、ヒイロはこれまで轟く英名の影で自分の事に専念できていた。
(いや……何にせよ、利用している俺が思うのもおこがましい事か)
 ヒイロはこれまでの旅路で訪れた地において、旅を進める上で有益な情報を収集精査する傍ら、自身の事についても同等以上に精力的に調べ廻っていた。それこそ一般的な取るに足らない世情をはじめとして、種類問わず歴史風土記、神学、魔導学など一般では手にする事の出来ない類の多岐に亘る文書にも眼を通し、現在の立場を存分に利用して知識を蓄え、自らに問い掛けてきた。
 吸い上げる知には既知のものもあれば未知のものも数多くあり、己の裡に確実に根を下しているのが自覚できたものだ。やはり“魔王討伐”と言う旅路に臨む意識で見える世界はこれまでとはまた違った色彩に映り、この旅路に参加する意義を充分に満たしていると言えよう。
 だが、それでも未だに記憶の手掛かりになりそうなものは発見できず。自分探索と魔王討伐の旅はまだ続くのだと実感していた。
「利己的で打算的で……つくづく俺は酷い男だ」
 これまでを省みて、内心で一人自嘲の笑みをヒイロは浮かべる。
 自らに課した命題を至上とする意識がある為に、常に打算を張り巡らせる自分も数多いる“アリアハンの勇者”の名を利用せんとする浅ましき者の一人にすぎないと自認していた。
 自分のこんな内なる本音を知れば恐らく実直で正義感や仲間意識の強いミコトならば激昂するか軽蔑し、純朴で清廉な性質のソニアも同種の反応を示してくれるだろう。
 しかし、求めるものに対し現状が逼迫していればいる程、周囲の眼など気にしなくなるのもまた情の一面なのだ。
 そんな自己の正当化を図りながら無造作に銀髪を掻き上げ、ヒイロは空から降り注ぐ陽の眩さに眼を細める。陽光を反した琥珀の双眸には怜悧な輝きが燈り、大空を気ままに流れる白雲を捉えた。
(現在の各国勢力図から鑑みて、この地方ではアリアハンの影響力は強いとは言えないか。不要な面倒を招かない為にも、その名を出さないように図った方が穏便で都合が良かったかな)
“アリアハンの勇者”を全面に押し出す事で懸念される旅路の展開と進捗を考えると、その行為は寧ろ障害を誘致するのではないかとの危惧をヒイロは覚え、今更ながらに自らの迂闊さを悔やんだ。
 本来ならばこの魔王討伐という旅路は煌びやかな英雄紀行でも何でもなく、火急速やかに遂行しなければならない暗殺任務と似ているようにヒイロは思う。世に明るみになれば混乱を誘致する事に繋がる為、秘匿性、隠密性を高くして処理されるべきものだからだ。
 だが過日。“魔王”という存在が世間に露見し、驚くべき速さで浸透を始めている現状で市井の人々の不安は日々増幅されている傾向にある。そんな中に希望とも言える“勇者”という存在が明確に現れでもしたら、きっと人々は熱気に沸く事だろう。そしてそれは往々にして旅路を阻む堰となる。
 更に都合の悪い事に、今の時期は公会議の開催期でもあった。精神の面から世界の統治を図っているその存在からすれば、“かみに選ばれし”という接頭語を付与するだけで色調を容易に変化させる事の出来る実に扱い易い存在が掌の上に転がり込んだという事にもなるのだ。
 必要最低限の事以外は何も語らないユリウスが如何なる理由で旅路を急いでいるか解らなかったが、自分としてもその意気には賛同している事もあり、無用な面倒に巻き込まれ停滞する事態に陥るのは御免被りたいのが正直な気持ちであった。
 ヒイロは例えようの無い倦怠を双肩に感じ、深々と悔悟の念を溜息と共に吐き出さずにはいられなかった。

―――実際この時。“アリアハンの勇者”を示す頭冠を発端とし、ユリウスはタニアとの裏の読み合いで場の空気を凍り付かせていたのだが、ヒイロは知る由も無かった。








 バハラタの北西に位置する区画には古くから宗教関連の施設が群立する。
 天上に在りし神の威光を顕現せんと、人が持ち得る技術の粋を集めて地上に建立された荘厳な建造物が幾つも軒を連ねる様は壮観の一言に尽きる。また造り出した人々のそんな願いが込められているのか、各聖堂が往々にして醸す凛然とした空気は、衆生に信仰とは何たるかを問い掛けているようでさえあった。
 この地に籍を置く主だった宗教に太陽神ラー教と精霊神ルビス教、そして大空神フェレトリウス教が挙げられる。それぞれこの地を領有する国家が掲げる旗であり、海を挟んで隣接する世界最大規模の宗教における導きの光であり、古くより崇め続けられてきた土着信仰を基とする象徴であるが、いずれの施設からも至上の是とする神の違いによる差異が建築様式をはじめとする種々の要素より垣間見る事ができた。
 しかし個々としての特色が際立って尚、全体として調和を保っているように映るのだから、この地の空気に満ちた信仰心は純然たるものなのだろう。
 嘗てこの地には、行き過ぎた信仰心から相容れぬ神や教義を淘汰せんと無数の骸と血涙を大地に広げた惨憺たる悲劇の歴史があった。幾星霜を越えた現在の姿よりそれを想起する事が殆ど不可能と言えるのは、そう思えるだけの確かな調和と安寧がここに実現しているからだ。
 だがそれでも時を置けば人は傷みを忘れるものであり、世が暗澹と混迷に脅かされる程に人心は救いを求めて見えざる神の幻影を追う。それらは疑いようの無い確かな人間としての一つの側面で、現世はそんな情理を基礎に組み込み、各教団が自らの勢力を拡大せんと様々な思惑を飛び交わせる混濁の坩堝と化して久しい。
 そんな中。少しでも互いの境に緩衝を設けようと対話の為に用意された円卓に着く事ができるのは、偏に世界に名を轟かす絶対にして超絶の存在、“魔呪大帝スペルエンペラー”に並び立つ“聖芒天使アースゴッデス”アナスタシア=カリクティスが提唱した“協会”という枠組みを、“神聖騎女ホーリーナイト”エレクシア=ヴォルヴァという歴史の生き証人が支えている為であった。



 今現在、このバハラタには世界の名立たる大宗教組織の指導者層が集いつつある。
 公会議の開催場所はバハラタに存在するルビス教団の関連施設の中で最も嵩貴で格式高い、“聖女”の名を冠した〈エレクシア大聖堂〉だ。建造されて四百年近くにもなるその建物は、建造時に何らかの魔法を施したのか、長きに亘る年月に曝されても朽ち果てる様子は無く、寧ろ熟成した蒼古なる優雅さを見せ付けていた。
 また、この公会議は“魔導の聖域”ダーマ神殿で開催される世界会議に並ぶ世界規模の最重要行事の一つである為、それに見合った厳重な警護が求められた。その重責を担うのは、バハラタ地方を領有する聖王国イシスではなく、公会議を主催する側のルビス教国が保有する魔王軍との戦に直接的な勝利を収めた実績を持つランシール聖殿騎士団パラディンであった。
 聖殿騎士団は、聖典にあるルビス神が纏う霊光、或いは神そのものとされる伍色の光に因んで五つの師団から構成される。ルビス教で最も尊い色とされる“青”を冠した“昂翼師団・青光”を頂点に、“焔兜師団・赤光”、“地鎧師団・黄光”、“風楯師団・白光”、“海刃師団・黒光”とそれぞれの色が秘める属性に合わせた機能を有していた。
 公会議の時期になるとこの地には五師団の内、重要拠点防衛を主な任務とする“白光”を中心に空軍の“蒼光”と海軍の“黒光”の三師団の一大隊が一局集中する事実からも、ルビス教団としてもこの公会議に望む姿勢が真剣なものである事は明白だった。
 集った聖殿騎士団員が一時的に詰める団舎は、その大聖堂に隣接する。
 一般的なバハラタの建造物と比べても群を抜いて広く高い聖殿騎士団団舎には、元々は見張り台として造られ、今では鐘楼が設けられている堂塔がある。そこからは隣に泰山の如く佇む大聖堂の雄姿を一望でき、踵を返せばバハラタの市街とその先に広がる蒼穹の空と紺碧の大海原を眺める事が可能だ。
 団舎そのものは大聖堂に比べて新しい時期に建造されたものだが、こちらは隣と打って変わって相応に老朽化が進み、場所によっては立ち入りを制限されている区画が幾つか存在するが、この堂塔もその中の一つに数えられている。
 そんな禁じられた場所に佇む人影が、一つ。
 腰まである緩く波打つ瑠璃色の髪が風に弄られざわめく様は滝のように涼やかで、スラリとした鼻梁、その麓で伏せられた瞼から零れる睫毛は長く、自然と穏やかな気風を醸し出している。だがその奥に秘められた双眸は世界に晒される事を拒んでいるのか、固く閉ざされたまま動く気配はない。
 元来持っている雰囲気に加え、教団の中でも高い位置に座す者しか纏う事を許されていない深青を基調にした麗雅で重厚なローブが深い落ち着きを髣髴させるその人物は、世に語られる魔竜討伐の十勇傑の一。
 人間の、または世界の命運を記した因果律さえをも読み解くと云われる“盲目の預言者”だ。
 彼女、サラサ=ニルヴァナは両頬を撫でる風の深奥にある意思を汲み取らんと、張り詰めた表情で虚空を見つめていた。
「こんな所にいらっしゃいましたか。探しましたよ、ニルヴァナ卿」
 空に想うサラサの背に、その声は影を率いて何の前触れなく無く舞い降りる。
「この街に滞在される時は一日の大半をここで過ごすと聞いてはおりましたが、貴女程の方がこうして公然と規律を破っておられるのは褒められた行為とは言えませんね」
 慇懃に呈される苦言とは裏腹に、その口調は飄々としていて真剣味に欠けていた。寧ろその軽口は周囲に軽薄な印象を与える事で、自らの真意を悟らせまいと操作しているようにも聞こえる。
 少なくともサラサには、それが計算された行為であると判る程度に来訪者の事を知っていた。
 突然の声に驚くでもなくサラサは振り返り、現れた存在を構成するマナの流動をて微笑む。
「少々身勝手が過ぎたようですね……申し訳ありません、レイヴィス様」
 立っていたのは、彼女の優に頭二つは高い背丈で流麗な真銀の鎧を纏う薄緑髪の男。昼行灯を演じて周囲を欺く姿勢とは裏腹に、決して揺るがぬ固き信念を基盤に据えている澱みない青年…アリアハン王国が誇る三雄が一人、“天眼の騎士”レイヴィス=ヴァレンタインだった。
「いえ、こちらも悪ふざけが過ぎました。本来私如きが貴女の行動を咎めるなどあまりに畏れ多い……ただこの場の風は冷たく、長く曝されていては御身体に毒というもの。こういった場所にお一人でいらっしゃるお姿を思えば、肝が冷えるというものです」
 建物の高さに比例して粗暴さを増した風が前後左右から不躾に吹き入ってくる鐘楼搭。そこに備えられた欄干の高さはせいぜいサラサの腰程のもので、レイヴィスであれば簡単に跨いで越えられる。仮に実行してしまえば、遥か先に待ち構えている地面まで遮る物はないので膝が震えるものだが、それ以上に盲目・・という二つ名の通り、その双眸が光を映さないサラサがこんな所に一人で佇んでいるのを見ればどうにも危なっかしい為、レイヴィスで無くとも注意を喚起したくなるものだろう。但し、それはレイヴィスのようにサラサの立場を度外視できればの話だったが。
「お心遣い、痛み入ります」
 勿論それは指摘されるまでも無くサラサ自身が誰よりも自覚している事なので、己の非を認めて謝意のまま頭を垂れようとした彼女だったが、逆に慌てたレイヴィスによって制止された。
 どれ程の高みにいようとも、自らの非を抵抗無く受け容れられるのは人間としての美徳に違いない。が、それでもサラサはルビス教団の中でも上層部に君臨する高位の存在で、教団外の者にそれを易々と許したとあっては他に示しが付かず受けた側も他方からの非難に曝される事になりかねない。
 幸いにしてこの場には自分達二人の他に誰も存在しなかったが、どこに誰の眼があるやも知れぬ為、面倒事は極力避けたいと考えるレイヴィスは空々しい愛想笑いを一つ浮かる。殆ど自らが蒔いた種であった事を棚上げして、この流れからの脱却を試みた。
「何をなさっていたのですか?」
「風を、感じていました」
 言いながら踵を返し、サラサは再び虚空を見上げる。
 その遥か先で悠然と蒼穹を漂う白の雲が、鳥達の囀りを引き連れながら風に誘われるまま東へと流れていた。
「……風、ですか?」
 意味を図りかね顔を顰めて鸚鵡返すレイヴィスに、サラサは無言で頷く。
 漠然とし過ぎた答を得た為か怪訝に眼を細めるレイヴィスの気配を背に感じたまま、サラサは大空を仰いで伏せられた双眸を開いた。
 ゆっくりと露になる眸は赤み掛かった眩い金色を湛えていたが、その色彩は蠢いていて均一では無く、まるで虹彩自体が輝いて逆に外界からの光を阻んでいるようでさえあった。
 開眼した姿は人間離れした清冽なまでの神々しい印象を受けるにも関わらず、しかしその両眼は無機的であまりにも生の熱が欠如しており、宛ら人形のようだ。事実、普遍的に生物が眼識を用いる時に発せられる視線が彼女の硝子玉のような眸からはまるで感じられなかった。
 精霊神ルビス教団にて教務統括を担う“神導衆”の一人。司祭サラサ=ニルヴァナの眼は光を捉えず。代わりに霊素エーテル元素フォース、ひいてはそれらの元型であるマナそのものを見つめ、世界の源流を読み解く事ができるとされていた。
 故に盲目。故に預言者。
「この風には、竜神フェレトリウスの慨嘆と怨嗟に満ちている様にわたくしには思えます。事実、私達が愚かにも討伐してしまった竜は、私達の身を案じてこの地に降り立って下さったというのに……無知なる私達はそれを――」
 最後は声が擦れていて言葉にならなかった。下げた眉尻と半ばに伏せられた瞼が悲愴な面持ちを織り成し、自身の右手によってローブの上から押さえられた左腕は微かに震えている。その上に流れる瑠璃の髪が照り反す空の蒼茫と、風に吹かれる灯火の様に明滅する黄昏の瞳の輝きが悲愁の陰影を色濃くさせていた。
「罪深き我々がこの地で人心の平安を憂うなど、果たして許される事なのでしょうか? あれより二十年……今でもその答は私には見えません。だから私は毎年ここで、風に秘められた想念を視なければならないのです」
 それは自責の念か。或いは全く別の感情なのか。サラサは内なる感情を痛ましく吐露する。
 仮に、自由闊達な風の深奥に彼女の言う烈日の色彩が鏤められているのであれば、その色・・・だけを捉える事のできるサラサにとってはこの上ない苦行だろう。今もこうして峻烈に流れ往く風の裡側に潜む負陰の色彩を受け止めているからこそ、サラサは自らの懐裡に犇く悲嘆に圧し潰されそうになっているのだと言われても頷ける話だ。
 しかしその理はサラサだけの範疇せかいに君臨するものであり、他者であるレイヴィスには理解し難い。彼女とは別の原理での判別ができるレイヴィスには、どう凝らして視ても風はどこまでも無色透明なままだったのだ。
 赤金に変えていた双眸を本来の青銀に戻し、その背を見つめていたレイヴィスは静かに問う。彼女の心奥に如何なる棘が刺さっているかは解らずとも、表層に浮いている情緒を察する事など言動を見れば造作もない。
「後悔、されているのですか? 嘗て“神聖騎女”殿の制止を振り切って魔竜討伐に参加された事を」
 微かにサラサの気配が強張る。それはどんな言葉よりも雄弁に語る肯定。
 続く数瞬の沈黙は宙を行き交う風韻と重なり合い、まるで地鳴りの如く響き渡って場の空気を重くする。
「後悔など……私には許されざる事なのです。あの時、真意を量れぬまま私が読んでしまった言葉によって多くの兵達が戦いに身を投じ、死する事になったのは決して覆らない事実。若気の至りなどという安直な言葉で言い逃れる気はありません」
“魔竜討伐”に関する争乱で確かに世界は何者にも代え難い英雄を得たが、同時にその花を咲かせる為に散っていった者達の数は計り知れない。その原因の一端に未熟だった自身の預言が組しているのは疑いようが無いのだ。
「ただ、戻った私にエレクシア様は何の罰も与えてはくれませんでした。竜の事も、同胞達の事も……内なる罪の呵責に苛み続け、終にはその迷いのまま朽ち果てる事こそが、世界そとを見る事の出来ない私に与えられた罰の形なのかもしれませんね」
 再び振り返り、悲しげに微笑む女性は夕暮れの空を思わせた。
 まるで裁かれる事を望んでいるような口振りだったが、その様を見て本心だと覚ったレイヴィスは人の情と隔絶した極めて無機的な動作で恭しく頭を垂れる。その行為を見止める事はできずとも、彼女ならばこちらを構成するマナの流脈の動きで行動を推察する事はできるだろう。
 サラサ本人には自覚があるかは定かではないが、その双眸には相対する者の意識、無意識に浸潤し抗い難い共感を生じさせる確かな魔性が秘められている。催眠暗示ヒュプノーシスに限りなく近いとされる、預言者として言葉を人に信じさせる事に非常に適した稀有な特質だった。
 強靭な精神力と鉄の自制心を以ってすれば跳ね除けるのも容易であったが、それを持ち得ない者は今のサラサの悲哀に笑う姿を見れば、否応無しに彼女の感傷に共鳴して愁情に引き摺り込まれるだろう。
 そんな蔓に囚われるのを厭うレイヴィスは早々に意識への干渉を遮断したのだった。
「信心とは無縁の私には、貴女の懺悔に対すべき告解を持ちえてはおりません。ですが……そのような事を仰られては、陛下が悲しまれると思います」
 その単語・・・・が用いられた事でサラサが息を呑む。
「傷みを抱える貴女の心に寄り添え、癒す事ができるのは陛下のお言葉だけかと……こちらを」
 硬直したサラサの手にレイヴィスは持っていた書簡を渡し、彼女の様子を窺った。
 大きく眼を見開いたサラサは今の今まで醸していた弱々しさを霞ませ、澱みなく簡を開いては中に収められていた羊皮紙の紙面を食い入る様に見つめていた。
 盲目であるが故に彼女は物を見る事が出来ない筈だが、眸が左から右に、または逆に忙しなく動いている事からサラサにはその書が読めているのだと確信する。記された内容に逐一頷き、口腔で反芻し、次第に強張った表情を緩めていく事からも明らかだった。
 書の内容などレイヴィスは知る筈もなかったが、これまでの頑なな表情を綻ばせ、哀憐を鎮めさせたサラサの醸す空気から察するに彼女を喜ばせる類のものなのだろう。
 差出人は、アリアハン王国で唯一自分を使役できる立場にある国王ザウリエ。彼が言うには『魔法の聖水』を原料にした特殊な薬品をインクに用いているらしく、他者からすると白紙でしかないそこに、サラサだけが視える文字で伝えたい言の葉が認められているとの事だった。
「……やはり、ザウリエ様のお書きになる文字は優しいですね。昔も今も、あの方は闇の中にいる私に光を導いてくださる。本当に眼が見えられない方々からすれば、私はまだ充分に幸せ者ですね」
 数枚ある内の一つを読み終えたサラサは、心が満ち足りたような声韻で発して手紙を胸に抱く。天を仰いだその様は、初めて聖書を手にした純真な信徒のようであり、また恋に焦がれる少女の姿でもあった。
 一国の王が他国の指導者の一人に書を送るとなれば、どんな外交的な策略があるのかと不要なまでの憶測を生み出すものだが、この両者の間で行われるやり取りに限りその詮索は徒労に終わるだろう。レイヴィスが届けた書は、あくまでもザウリエが個人的にサラサに宛てたものであるからだ。
 そこで次に着目されるとすれば両者の関係になるが、ザウリエは嘗てアリアハン王太子の身分であった頃。聖殿騎士団の一つ、ランシール本土防衛を任務とする“地鎧師団・黄光”の団長を務めていた。そして当時、教団内で先視の巫女としての存在価値を高めていたサラサと親交があったという。
 諸々の事実より両者がどんな関係だったのかを邪推すれば、今のサラサの表情を見れば感情の機能が麻痺していない限り一目瞭然だった。
 それだけに余人が口を挟む事ではない。
 下卑た推測をする気など更々無くとも現実を前にすれば明瞭な解が得られてしまう事は、レイヴィスとしては甚だ気が滅入るものだったが、そんな様は面におくびも出さず平静にサラサの言葉を待った。
「……貴方程の御仁を遣わせて頂いて、ザウリエ様にはいつも申し訳なく思います」
 やがて本当に済まなそうに綴るサラサに、いいえ、とレイヴィスは端的に答える。
 月に一度、ザウリエの手紙をサラサに届けるのがレイヴィスの任務の一つであった。普段はランシール本国を動かないサラサも、公会議に出席する為にバハラタを訪れる。昨年までは時期を考慮してランシールに赴いていたが、今回はこの地に監察対象であるユリウス=ブラムバルドが訪れている事も鑑みて、レイヴィスはこちらに足を運んだのだった。
 その為、この応酬も常日頃から交わされている普段通りの常套句に過ぎなかった。
「本当ならば陛下自身が直接手渡したいと仰っていましたが、何分――」
「理解しています。あの方も私も……もう昔のように振る舞う事はできない場所に立ってしまっていますから」
 レイヴィスを遮ったサラサは、物悲しいですね、と締め括る。
 そこにどんな感情が込められているにしろ、下げられた眉尻と表情から嘘偽りが無い事を察し、レイヴィスは深々と腰を折った。
「これでこの度の我が任務は完遂されました。ニルヴァナ卿、私はこれで失礼させていただきます」
「レイヴィス様もお元気で」
 そうしてレイヴィスはサラサの前を辞した。








(毎度毎度の事だが……恋文くらい自分で届けて欲しいものだ)
 扉を潜り屋内に戻ったレイヴィスは心の底から強く思う。先程サラサに弁明した通りザウリエには易々と国から出る事の出来ない立場と事情があるにしても、毎月のこの任務内容を思い返せば辟易する他無い。
(ま……陛下の悪辣さは今に始まった事ではないか)
 レイヴィスは疲労を載せて深々と嘆息する。
 最早諦念の域に到達している為か、その事実を再認識すると無意識的に溜息を零してしまう習慣が出来てしまっていた。実に迷惑な事である。
“天眼の騎士”レイヴィス=ヴァレンタインはアリアハン王ザウリエの懐刀という認識が何時からか周囲に持たれるようになっていた。だが一番そう思っていないのは恐らく他ならぬザウリエ自身であるだろう。何故なら、レイヴィスとザウリエの二人はそれぞれの目的を果たす為に共通の過程を望み、互いに互いを利用する協定を結んで世界を欺くと決めた共謀者なのだ。
(何にせよこれで雑用は片付いた。ユリウスは……商店街の方だったな)
 レイヴィスが何よりも重要視している事項はユリウス=ブラムバルドの監察であり、それ以外の事はどうでもよい些事でしかない。例え王命があったとしても自分の中にある優先順位が覆る事はない。
 その姿勢はアリアハン王への反意と取られかねないが、そもそも王自身がこちらの腹の底を知った上で臆面も無く色々と用いているのだから性質が悪いとレイヴィスにして常々思わせた。
「お話は終わりましたか?」
 自らに課せられた面倒事の一つを済ませ、これからの事に思いを馳せていたレイヴィスを迎えたのは、落ち着いた青年の声だった。
 扉前の僅かな踊り場の先には地上まで続く螺旋階段が構えているが、その前で直立不動のまま佇む青年の姿がある。清爽な青の騎士団服を身に纏った彼は団舎内であるにも拘らず聖銀のレイピアを腰に佩き、更にはそれらの上から所属師団とその階級が一見して判る、ルビス教の印章が厳かに刺繍された純白の外套を羽織っていた。
 一介の騎士ではない事はその佇まいから判別できるが青年の面持ちはまだ若く、年の頃は二十を超えた辺りだろう。だが清潔に切り揃えられた濃青髪と常に身に着けている銀縁の片眼鏡、そしてその奥にて佇む夜空の如き黒く澄んだ眼差しが年齢にそぐわない知性と怜悧さを想起させた。
 その存在を見止めたレイヴィスは、サラサの時と同じように柔和で空々しい笑みを浮かべる。
「ええ。これで私の任務も無事に完遂できましたので、心置きなく休暇を満喫できるというものです」
 バハラタにある観光地の名を続けて連ねながらレイヴィスは実に大仰に言葉を結ぶも、対する青年は特に気に止めた様子無く、それは良かった、と朗らかに笑った。
 大海を隔てて隣接する清廉にして勇壮なる国家。それが世間一般より与えられたランシールの印象だ。
 そんな人々の想念を真摯に受け止め、体現せんと日夜研鑽に励むのが聖殿騎士団の矜持であり、精強さの秘訣でもある。騎士団員達は交代でそれぞれの任に着いていたが、得られた余暇を安穏と過ごすものはまず存在せず、僅かな時も惜しんで何かしらの鍛錬を自らに課しているものが殆どであった。
 唯一気を緩めれる場所であるこの団舎内にて、騎士団正装に身を包んだままの青年の様相から彼もまた慣例から脱しない類の人種なのだろう。
「ディストリー卿。ニルヴァナ卿の守護の任にはもう慣れましたか?」
「勿論です……と言いたいところですが、慣れる事で任務に対する姿勢が弛緩してしまうのは好ましくありませんので、この場ではいいえ、と答えさせていただきます。事前にザウリエ陛下に脅されておりますので、この任務では全く気が抜けませんよ」
 困ったような苦笑を浮かべる青年はシゼル=ディストリーという。嘗て十三賢人“双天使・秤”として世界に名を知られていたジョセフ=ディストリーの一人息子だ。
 彼は未だに聖殿騎士団に強い影響力を持つザウリエによって、“盲目の預言者”サラサの護衛の任に数ヶ月前から就いていた。その為レイヴィスとも面識があり、その度に世間話も兼ねた情報交換で交流を重ねていた。
 笑って語る事ではない話を軽やかに発するシゼルに、彼も随分とザウリエの存在感に慣れたものだとレイヴィスは成程と頷く。
「それは殊勝な心掛けですね。悪逆非道極まりない陛下の事ですから、手を緩めたなどと知られたらどんな懲罰が待っているか……考えただけでも総毛立つ思いです」
「あはは、私は小心者なのでこれ以上脅さないで下さい。それに如何に真正面から陛下に否を唱える事が許されている信が厚い貴殿とは言え、その陰口がサラサ様の耳に入ってしまえば逆鱗に触れてしまいますよ」
「おおっと、それもそうでしたね。これは他言無用でお願いします」
 了解しました、と厭味な無くニコリと微笑むシゼルにレイヴィスも同種の笑みで口元を歪ませる。それは往々にして互いの腹の底を探るような空々しい冷笑であった。
「そういえば貴公は来月、〈地球の臍〉における“勇者の試練”に挑戦されるそうですね」
「……お恥ずかしながら。他に志願者がいなかったのでその役が私に廻ってきただけです」
「謙遜されるな。貴公は既にその若さで“白銀騎士”の称号…“風楯師団・白光”副団長を任されているではありませんか」
 聖殿騎士団の頂点に立つ“神聖騎女”は同時に“青光”の長であり、残りの四師団長は共通して“王珠騎士キングスナイト”の称号を保持している。そして団長を補佐する役割として副団長にも“蒼晶騎士クリスタルナイト”、“赤銅騎士ブロンズナイト”、“黄金騎士ゴールドナイト”、“白銀騎士シルバーナイト”、“黒鋼騎士スチールナイト”の位がそれぞれ与えられ、各々の師団の統括管理を担っていた。
 教国にとって重要な拠点の守護を本懐とする“白光”において副団長の“白銀騎士”は常に五名が任官しているが、目の前の二十を越えてそこそこの若き青年は数多いる騎士達の中でも特に優れたエリート中のエリートであるという事だ。師団員は必ず各々が所属する師団を示唆するの腕章を着けるのだが、副団長以上のみが身に着けるのを許された外套を纏っている事実がそれを如何無く証明していた。
「私如きがこの位に就けているのは、先代“白光”団長であった父の…所謂親の七光りですよ」
 シゼルの父である十三賢人“双天使・秤”ジョセフ=ディストリーは、嘗てランシール海戦において戦争末期に禁呪指定されている自己犠牲破壊魔法メガンテを用い、海魔将テンタクルスを滅ぼした。多くの命を守る為に自己犠牲という尊き精神の下に自らの生命を賭した英雄である。
 そしてその清廉なる姿こそが聖殿騎士のあるべき姿だと、誇りに満ちた顔で騎士団員達は彼の賢者を語る。
「年に一度開かれる聖地〈地球の臍〉にて、聖殿ランシール認定の“世界の勇者”を選定する一大祭事。これまで多くの者がその試練に臨みながらも、ここ十数年間認められたものがいない」
 事の重大さを知らしめるように、レイヴィスはわざとらしく説明的な口調で綴る。シゼルもまたそれを理解しているのか、しっかりと頷いていた。
「前に認定されたのが、オルテガ様とサイモン様という偉大な方々ですからね。参加者達が気後れしてしまうのも無理はないと思います。……まあお二人の場合は、魔竜討伐の功績を以ってして“世界の勇者”に任ぜられておりましたので、試練そのものは世に対する喧伝という色が強かったそうですが」
「我らが“アリアハンの勇者”も、実のところ“勇者の試練”を経た後に出立させたかったのが本音です」
「心中お察しします。不遜な言い方ですが、アリアハン・・・・・の勇者というだけでは確かに国際的な立場としては些か弱いですからね。いかに嘗て協力体制を布いたとは言え各国にはそれぞれの面子や思惑があるでしょうし、その威信もあって彼の勇者を素直に認めたがらない。地道な努力を重ねて実績を築かなければ、領内でさえ通過する事もままならないでしょうね」
「返す言葉もありません。恥ずかしながらその通りです」
 当事者であるユリウスはアリアハンから脱して訪れたロマリア、イシスで色々な面倒事に巻き込まれていた。領内通行、或いは援助要請の為には必要な事であったにしろ、行く先々での足止めに先を急ぐ事に念頭を置いているユリウスはさぞ苛立った事だろう。彼の無表情ながらに憮然とした姿が脳裡に思い浮かび、レイヴィスは内心で一つ苦笑を浮かべる。
 レイヴィスの思考を他所に、シゼルは滾々と続けた。
「ですが、それは仕方が無いのでは? 昨年の試練の開催時期、貴国アリアハンは魔王軍の襲撃に遭いその復興を第一の急務としていらっしゃったでしょう。復興を支える柱として“アリアハンの勇者”の出立という事実が無くば、民の心は直ぐにでも暗澹に流れ落ちてしまう程に不安定だったのではないですか?」
「違いありません」
「更に言うならば“咎血の粛清”直後の時期でしょうし、内政の安定も図らねばならなかった。いかにザウリエ陛下が賢しき方であっても、時局に恵まれなかったとしか言えないでしょう」
 ルビス教国とアリアハン王国は強い繋がりを持ってはいるが、それでも良く周辺情勢を見つめている。レイヴィスは素直にシゼルを賞賛した。
「やはり、貴殿は聡明ですね。流石は十三賢人“双天使・秤”ジョセフ=ディストリー卿の忘れ形見だ」
「……恐縮です」
 誇らしげに恭しく頭を垂れるシゼルの眼に、刹那だが不服そうな輝きが点ったのをレイヴィスは見逃さなかった。が、特にそれをどうする気も無く、気付かないふりをして話題を広げる。
「“勇者の試練”について、何か面白そうな情報でもありましたか?」
「そうですね……ダーマに留学中のロマリア第二王子シャルティエ殿下やフェレトリウス教大主教のご子息ローレン殿。ダーマ神殿“慧法王”派の主席修習士“氷蝕の貴婦人”フリーダ殿に“智導師”派の教導師“拳仙”フェイレン殿。他にも“暴君”や“鉄騎”と言った名立たる冒険者の方々が参加されるそうですよ」
「そしてランシール聖殿騎士団からはディストリー卿が……錚々たる顔ぶれですね」
 綴られた音に聞く名前にレイヴィスは思わず感嘆を零す。
「私などは甚だ場違いですよ。それよりも今回の試練は本来の意味である“世界の勇者”の輩出というより、再編中の“曙光の軍勢モルゲンレーテ”に組み込むべき戦力の選定と、その旗頭に据えるべき存在を見出す事に目的が置かれているそうですから、これを利として各国から挙って参加者を輩出するようですね」
 その為に国境を越えて強者が集うのです、とシゼルは続ける。
 時期が時期だけに、魔王軍との戦争直後であるイシスは祭事に推す人材に欠け、ポルトガとエジンベアに関しては目下戦争中である為、戦力を割けない。この公会議開催時期に限り“聖芒天使”の目を気にして停戦中であるが、両国は何時再開しても不思議ではない緊張感を保っていた。そしてサマンオサは……何の前触れ無く鎖国して以来、その内情は未だ謎に包まれたままであった。
「“曙光の軍勢”という事は……獅子卿のご意向ですか?」
「ええ。卿直々に推挙される者も試練に参加されるようで。お祭り気分の浮かれた風紀は褒められた事では無いですが、団の中ではその話題で持ちきりなんです」
「ほぅ、獅子卿のお眼鏡に適うとは……一体どのような方なんですか?」
 純粋に興味があるような表情を浮かべたレイヴィスに、したり顔でシゼルは口元に笑みを浮かべる。
「驚きますよ……“サマンオサの勇者”サイモン殿のご子息、ジーニアス=エレイン殿です」
「彼が、ですか?」
 意外な名前が連ねられた事に、レイヴィスは眼を数回瞬かせた。
 嘗てロマリアでの惨劇の最中に相見えた時は頼りない印象の青年だったが、と口腔内で呟く。
「おや、そのご様子では面識があるようですね。ええ、あと数日でランシール領海に入られます。ジーニアス殿と言えば、ヴァレンタイン卿はテドンに起きた事象をご存知でしょうか?」
「嘗て決戦があった地の事ですね。私は彼の地に赴いた事はありませんが、確か異常な魔力場の出現によって周辺地域の理が歪んでいると聞いています」
「そうです。そして先日、我らの観測方がその力場の消失を確認しました」
「! まさか、彼が?」
 今度は完全に瞠目する。
「はい。当該地域を監視する為に遠征していた“黒光”の一部隊がジーニアス殿に接触し事情聴取を行って判明した事です」
(となると“緑”は既に解放され、その力の一端を彼に授けた可能性がある訳か)
 秘匿としなければならない情報。その存在と真相の事を、今の世で知っている者は一体どれだけいるのか。
 知り得た側のレイヴィスが一人戦慄する中、語っていて熱が入ってきたのかシゼルは些か口早に連ねる。
「彼の地は魔王の呪によって穢された場所として世界から疎まれた地。そんな人類から見捨てられた地を勇者の子であるジーニアス殿が浄化した……教団上層部はその事を重く見ております。彼の方が試練を乗り越えた暁には、軍勢再編の発表と同時にテドンの真実を世界に公表し、勇者サイモン殿の汚名を雪ぐ、と」
 嘗て“曙光の軍勢”が魔王に大敗し、その呪怨によって忌み地と化したテドン。
 魔王によって穿たれた忌まわしき楔を祓い、再生された“曙光の軍勢”の旗頭として表舞台に立つのがサイモンの息子であるというならば、魔王に対しての最大の意趣返しという事になる。
 過去に彼の父サイモンが魔竜討伐を成し遂げて“世界の勇者”に任じられた時のように。そして同時に再来する“曙光の軍勢”……それはまさに魔王軍に対しての人類総意の宣戦布告だった。
「それが現実のものとなったら……サマンオサ皇帝は黙っていませんね。裏で未だ追い切れていない勇者の幻影が、転じて光を掲げて公に立とうと言うのですから」
 サマンオサ帝国がサイモンに連なるエレイン一家を逆賊として追っているのは広く世界に知れ渡っている事だ。末端の市井はその限りではないにしろ、サイモンを継ぐ者がランシールで“世界の勇者”の認定を受けたのならば、帝国が掲げている旗の一つが完全に瓦解する。それは帝国としては看過出来ない忌々しき事態と言えるだろう。
 世界情勢を知っているならば、その一連の流れを想像するのは容易である。レイヴィスは元より、シゼルも既に辿り着いている解答に重々しく頷いていた。
「……我らが“アリアハンの勇者”も、うかうかしていられない状況になって来たと言う事ですね」
 これでまたユリウスを取り巻く環境が著しく変遷してしまう事を思い、レイヴィスは静かに瞑目した。








 道往く人の流れは相変わらず慌しく、より大局的に見れば雄大な環を構成しているようでさえある。
 やはりとも言うべきか。以前アッサラームでも感じた事だが、このような喧騒の忙しなさに包まれていると、その環に溶け込む事ができない自分の姿は浮き彫りになり、環との遠大な隔たりを痛切に実感する。
 徐に周囲を眺めていたヒイロの思考は、何らかの見えざる導きによるものか元の鞘へと収まった。
(俺は……人間なんだろうか?)
 自意識過剰でも不遜でもなく、最近特にそう思うようになってきている。当然それを裏付ける根拠はあった。
 端的な例を挙げるならば、己の外見。自身の記憶は十年前を始端としているが、その間一切の変化は無い。背丈も頭髪も全くと言って良い程伸びてはいないのだ。姿形に合わせて適当に二十三歳と公称しているが、それも所詮は偽りに過ぎなかった。
 ならば何者なのかと問われれば答えに詰まるが、懊悩に暮れるままヒイロは無意識に鞄の中から『命の石』の残骸を取り出していた。
(ピラミッド最上層での記憶は無いけど……ミコトの話では確かに俺の生命活動は停止した筈だ)
 どのような魔導器であったかは既に確認する手立ては無いが、呪殺魔法ザラキと同等の効力を持つ術に自分は一度捕らえられた。
 肉体と精神の繋がりを強制的に剥離させる恐るべき魔法であるが故に、発現した魔法効果と自身の魔法抵抗力の低さを考えれば、自らの精神力だけでそれに耐え切れるとは到底思えない。ユリウスのような異常なまでの高さを誇る魔法抵抗力やソニアのような抜きん出た陽の性質、またはミコトのように精神侵蝕系への完璧な耐性を保持してでもいない限り、行き着く“死”という結末から逃れる事はできないだろう。
 実際にその場に居合わせたミコトが虚言を弄する性格ではないのは疑いようが無く。その彼女が検分した結論として自分はあの時、確かに死んだ。
(でも現実は、こうして生き延びている……大地の恩寵と呼ばれる宝石、『命の石』の効力によって)
『命の石』…詳しい原理は未だに解明されていないが、文献によれば所有者の身が生命を刈り取るような危機に陥った時、所持者の身代わりとなって砕け散るという。但し、文字通り粉々にだ。
 しかし実際に残骸として手元に残った石礫は、一体如何なる意味を自分に提示しているのだろうか。
 己がこれを所有していた事は知っている。最初に自分を自分と認識した時、既に持っていた物なのだ。だからこそ、どう思い返してみても何時、何処でこのような希少価値の高い宝石を手に入れたのかがわからない。
 更に浮かんでくる疑問は、どうやってピラミッドを脱出したか、だ。最上階で呪殺魔法に倒れた後。次に眼を醒ましたのは砂漠の上だった。周囲にはミコトをはじめ、共にピラミッドに乗り込んだイシスの騎士達もいたが全員が全員意識を失っていたようで、状況的に誰かが迷宮離脱魔法リレミトを使ったものとは考え難かった。
 空白の時間への疑念は強まるばかり。それならば現地を調査すれば少しは何かを見出せたかもしれないが、今となってはそれも叶わない。そもそも砂漠に佇んでいる筈のピラミッドそのものが消失してしまったのだ。代わりに出現したオアシスなど調べるまでも無いだろう。
(……そして、今のところ一番解せないのは――)
 寧ろ最も重要度が高い事なのだが、ここ数ヶ月。どうにも自分の記憶が曖昧であるような気がしてならなかった。
 イシス戦争終結後。“焔の申し子”と名高い少年魔導士に魔王軍の構成について質問された。何故自分に聞くのか尋ねれば、逆に貴方が言い出した事では無いですか、と言われる始末。何を言ったのかと更に訊けば、その内容は驚くべきものだった。
 自分が知るのはせいぜい魔王バラモスと、イシス攻略を画策した“智魔将”エビルマージのみ。話では聞いた事がある“海魔将”はもとより、“獣魔将”の名前など勿論知らないし、その“獣魔将”が古くからバラモスに付き従っているという情報など、一体どうやったら入手出来ると言うのか。
 そんな思いをそのままに言うとスルトマグナに心底怪訝な顔をされた。いやスルトマグナだけでなく、その場にいたソニアやミリアも困惑を隠せない様子だった。からかっているのかと一瞬疑ったが、彼女らがそんな事ができるような人種でないのはこれまでの旅路で良くわかっていた事だ。
 しかしスルトマグナに限らず他の誰しも、そして自分も。明らかな周囲との齟齬から、自分の身に理解を超えた何かが起きているという事に薄々だが感付いているようではあった。
(記憶喪失の身で妙な話だけど、記憶力には自信があったんだけどな……)
 そんな考えが浮かんできてヒイロは内心で失笑する。だがそれは動かぬ事実で、少なくとも己を己と自覚した瞬間からの記憶はあらゆる局面においても詳細に覚えており、どんな時でもその情景を思い返す事ができた。
 深く長く吐息を零して、ヒイロは過ぎ去った星霜を顧みる――。

――自分史の最初は、何処とも判らない海岸。全身を雷鳴の如く駆け巡る激痛と共に始まる。
 漂う冷たい空気と一定のリズムで脈打つ漣の音色、そして天蓋に満ちた星空の輝きから夜の刻限である事は判ったが、全く見覚えの無い砂浜に自分は全身血塗れで倒れていた。
 たまたま丁度そこを訪れた戦士風の男が自分を介抱してくれたのだが、もしもその男が通り掛らなかったら、自分はその場で失血死していただろう。男が回復魔法を会得していなければと思うと、改めて考えて肝の冷える話だった。
 人の世とは隔絶したかのような場所にどうして一人で現れたのか。一介の冒険者や盗賊というにはあまりにも清廉な性質から、何処かの国の騎士と思って率直な疑問を呈してみても、男はただ穏かに微笑んで首を横に振るだけ。
 人には言えない何らかの事情か、或いは人には言えぬ咎でも背負っていたのか。男は自らの素性を語る事は無く、逆に自分の身の証を立てようと名乗ろうとした時、初めて自分が誰なのか判らない事に気が付く。記憶が、無かったのである。
 お互い名乗らないまま男と過ごしたのは、せいぜい三日というところだろう。もっとも、こちらは全身に生きているのが不思議なまでの深手を負っていたのだからその感覚は曖昧で、交流も、身を横たえたまま起こせない自分を男が看病がてら気晴らしに少しばかり世間話をした、という程度だった。
 この場所が人里から遠く離れた秘境の海岸であると男は語った。具体的な固有名詞は出なかったが、海と陸とを隔てるように砂浜の直ぐ側には高く聳える木々が壁のように生い茂り、更にその奥には樹齢数百年の樹木など比較にならない背丈を誇る建造物が佇んでいた。夜闇の帳と星空の僅かな光に浮き出されるシルエットより、その建物が何処かの塔のようにも感じたが、それ以上知る術は無く。
 結局、双方共に自らの事に一切触れる事はせず、名前も、出身も。何を目的としてこの辺境を訪れていたのか、あらゆる一切が不明のまま、夢のように現実味の希薄な不思議な時間は過ぎていった。
 別離は、唐突だった。
 傷も癒えきらぬ内に、魔物の大群がその浜辺に押し寄せてきたのだ。それが土着のものか、勢力を拡大させていた魔王の手勢なのかは世情の事など何も知らなかった自分に判断できる筈も無く。
 危機を察した男が機転を利かせ、自分に強制転移魔法バシルーラを掛けなければ間違いなく死んでいただろう。
 名も知らぬ男の意思がそうさせたのか。その後、世界からの眼を避けるように築かれていた人里の側で行き倒れていた自分は、その村落に隠棲する住人に保護される。
 そこは大海に名を轟かす海賊船団“海皇三叉鎗トライデンド”の本拠地だった―――。

(結局、あの人が誰なのかもわからないままか)
 自分を助けてくれた男の事は十年経った今でも何も判っていない。いや、そもそもあの魔物の襲撃で命を落としたのか、それとも窮地を潜り抜けたのか、男の生死すら未だ不明なのだ。もしかすると自分と言う存在が枷になって、命の恩人を窮地に追い込んでしまったのでは無いかと言う後ろめたさは、恐らくこの記憶が続く限り消える事はないだろう。
 男の事について唯一つ明確なのは、彼が美術品のような高尚な装飾が施された剣を手にしていたという点だけだった。
「……もどかしいな」
 記憶の探査を進めた末に、思わず苦悶に満ちた弱弱しい声が口腔から漏れた。
 あれより十年。記憶の欠片を探して世界中を廻っているが、その片鱗さえ未だ掴めていない。
(いや、そういえば……)
 片鱗の断片にはなるかもしれない事が一つあった。それは意識の隅に刺さった小さな棘による疼き。
 以前、交易都市アッサラーム南の海岸で倒れたユリウスを見つけた時。彼と共にその場にいた白き女性。
 何故ユリウスがあんな場所に居たのか理解が追い着かず、呆気に取られて瞬き一つした間に消え失せてしまっていたが、邂逅した刹那で何となく感じたものがあった。
 あの暁を想起させる驚愕に開かれた双眸には、その深奥から煮え滾るような憎悪の焔を一瞬の内に覗かせていたのだ。これまで幾多の死線や殺気と憎悪の嵐流を駆け抜けて来たからこそ、その直感は外さない。
 勿論、自分に彼女との面識など無い。故に初対面の人間に憎悪を向けられるという事は、知らず自分がその者に対して不利益を齎したか、或いは自分の過去に関わった事のある存在であるという事だ。そしてヒイロが覚ったのは、後者。
 月の光を浴びたあの白妙の女性は、もしかすると自分の失われた記憶に関与している。そんな根拠の無い予感がヒイロの中に息衝いた。
 しかし現状、あの白き女性と会う手立ては無い。一瞬の邂逅だけで、どのような存在なのかすらわからないのだ。ただ、やはりと言うべきか。様々な因果に絡み取られるのが宿業であるのか、あの場にいた“アリアハンの勇者”であるユリウスならば彼女について何らかの情報を知っているかもしれない。ならば問題はそれをユリウスから聞き出せるかどうかに移行してしまうが……。
(それが一番難しいかもしれないな。……だけど)
 出来る事があるならばやらなければならない、と多難を前にしてヒイロは小さく意気込む。
(俺は、俺自身の事を知らなければならない。その為ならば、どんな事でもやり遂げてみせる……例えこの先、どんな犠牲を払う事になっても)
 この旅路を始める遥か以前より定めていた己が意志。少しも色褪せる事無く始原のままの形を保ち、一片の揺らぎさえ無い。
 しかしそれでも嘘で塗り固められた冷たき現実は、情け容赦なく自身の基盤が薄氷である事を自覚させ、焦燥を募らせてくる。
 それを振り払う為により一層切実に過去を求めるのは、今の自分を確かに定義し、その先に歩み出したいという願望が潜在的にあるからなのかもしれない。
 それは単純明快な、変化への羨望。
 何処にいても何処にも存在しないような希薄な自分と決別し、自らの両の足で踏み締める大地に己という存在の影を落としたい。停滞した時を解き放ち、揺らぎ朽ちていく流れに身を委ねたい。
 自分の欲望がはっきりと自覚できているからこそ求めて止まないのだ。だからこそ、狂おしい程に望むのだ。
「この世界に、変わらないものなど何一つ無いのだから――」

《何を言い出すかと思えば……愚かな事を。我らは“守――使”だ。御主の御威光が普く世界を照らし続ける限り、我らもまた不変。世界を導く役目を負う我らが容易く揺れるようでは、世界が不安定になってしまうだろう》
《ふ……若い事だな“――”よ》
《何だと?》
《確かに世界は今、調和に満たされた安楽の中にある。あの方が入られた眠りも安らかなものだ。我々に課せられた使命は、主の眠りを妨げる悉くを排除する事にある》
《言われるまでもない。御主の御心を煩わせる愚昧なる一切を見極める為だからこそ、我らの眼は変わってはならない。それが〈箱庭ア――ガル―〉の管理者である我らが存在意義》
《……その驕りが若いと言うのだ。流れ移ろう世界の姿を見ろ。惑い転ぶ世界の容を感じろ。この世界を支えている摂理は、万物にうつろう事を既に定義している。その理が我らの存在の基幹にも記述されているならば、この大地に存在する以上、その鎖から逃れる事はできない。動物であれ人間であれ竜であれ、神であれ、理と言う前提を享受して初めてこの世界に存在を許されるのだ》
《貴方は驕りと言うのか! 御主がおわす箱庭こそが世界の、そして理の中心である。万象一切は流れる風に牽かれるが如く、御主が示した途を歩む。それが整然たる秩序の根幹を為し、世界を普く平穏で満たすのだ。……変化を齎すものなど、世界にとって害悪でしかない排除すべきものだ!》
《 “――”よ。この世界そのものはうつろうもの。我らの存在如何無しでも世界は常に刻々と変化している。だからこそ、主の眠りを妨げる因子が世界の上に産まれ、営々と育まれる。これまでの歴史がそれを証明しているだろう?》
《見識の相違……いや、主観の違いか。貴方の論ずるその思想は危険なものだと以前“―晶”は言っていたな》
《マリ――ルは優しいからな。我々が、己が使命に惑わぬようにそう言ってくれるのだ。貴様も“――”も、そして産まれて時を置かぬ“――”もまだ幼い。それを理解するに至らないのも無理はない》
《…………》
《この世界で変わらないものなど何一つ無い》
《“――”よ。貴方は御主に――》
《逸るな。だからこそ私は宣誓しよう。このうつろう世界の中で変わらぬ忠誠を永久に。我が銘たる“――”の名に掛けて。我らが神……“太母グレートマザー”と共に在らん事を》
《……全ては“太母”、精――ビ―の御心のままに》

「――っ!?」
 ハッとして意識を取り戻したヒイロは、頭の中を駆け巡る鋭い痛みに思わず額を押さえる。
(今、のは……何だ?)
 麗らかな陽気の下で、惰眠に落とされるほど緊張を解いてはいない。だがそれでも一瞬、意識が確実に身体から離れていた。こんな事、今までに一度も無い経験だ。
 見知らぬ場所で誰かと誰かが会話をする記憶。姿形は見えず、その声韻はもう拾えない。
 刹那の回帰は、刹那のままに閉じられる。手で掬い上げた砂のように、垣間見た光景は瞬く間にスルリと意識から零れ落ちていく。
(白昼夢……なんてものじゃない。あれは――)
 双眸を伏せて今一度意識の探査を伸ばしてみても、広がるのはただの闇。瞼の裏から痛烈に射す陽の輝きによって、その闇さえ振り払われてしまう。
 何故だか心に孔が開いてしまったような虚脱感と喪失感に襲われ、自分の身体が自分の物ではないような感覚に全身から厭な汗が噴出する。
 左胸の奥にある心臓が疼き鈍い傷みを発している事を、ヒイロはただ呆然と感じていた。




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