――――第六章
      第六話 この道の向こうに







 ユリウスとソニアが物資の補充でタニアの店に足を踏み入れ、ヒイロが臨河公園に辿り着いて一息吐いたのと同時刻。
 聖王国イシスの保有する広大な版図にて東限を治める自治都市バハラタ。その都市の政の中枢たるイシス領事館は、街の北東部区画の凡そ八割を聖王国の重要施設が軒を並べる中に佇んでいる。最も重要な拠点である性質上、その場所は武と勇に長けた精鋭を間断無く配置して厳戒な警備体制を敷き、周囲への哨戒を最大限にする為にも静粛であるべきものである。
 まして今は、公会議出席の為に現存する最古の大国である聖王国イシスの新たなる頂点となった女王フィレスティナと、その守護者である“砂漠の双姫”という重鎮中の重鎮が滞在しているのだから、その姿勢は度が過ぎる程であっても足りない位なのだ。
 しかし現在。領事館の中庭は分不相応な喧騒と異様な熱気に包まれていた。



「美命さま! “魄”の変移速度が落ちていますよ!」
「くっ」
 真っ直ぐに流れる艶やかな黒髪を優雅に靡かせたサクヤ=ミカドが真横に一閃した裂帛の錫杖を、ミコトは地面を転がって間一髪で回避する。だがサクヤは杖を振り抜いた際の勢いを殺さず慣性を巧みに利用し、片足を軸に身体を独楽のように翻しては体勢を整え、頭上を超え高くに導いた鉄の杖を容赦無く垂直に振り下ろした。
 回避後の硬直で地面に未だ四つん這いの体勢のまま立ち上がれていなかったミコトは、息も吐かせぬ猛追の連撃に目を見開き反射的に全身に“魄”……闘氣フォースを集約。四肢に等しく分配して真横に跳ぶ。それは猫科の獣の様なしなやかな反応で、迸る闘気の補助もあって驚くべき俊敏さで窮地を辛くも脱した。
 その刹那の後。戛然とした爆音と衝撃が轟き、地面が深々と穿たれる。
 鉄製ではあるものの見た目は只の細い棒に過ぎない杖が土塊を撒き散らして大地を抉り出す様は、傍から見る者の心胆を震え上がらせる。疑うまでもなく、その一撃もまた充分に闘気が篭められた破壊的なものだった。
 今度はすかさず着地後の体勢を立て直していたミコトは、つい数瞬前に自分がいた場所から濛々と立ち昇る土煙を見て思わず息を呑み込んだ。
(い、いくら朔夜に容赦が無いからって、これは訓練で出すような威力じゃないぞっ!)
 顔を思い切り引き攣らせ、内心でミコトは声にならない悲鳴を挙げる。もしも仮に先程の回避が成功せず、背中に直撃でも喰らっていたならば骨折どころの話ではない。周囲に散華した土塊がそのまま自分の肉体に置き換えられる無惨な場面が出来上がっていただろう。
 戦慄によって生じていた冷や汗が、脳裡に自然と生じた厭な想像に現実味を帯びさせるが如く背筋をねっとりと這い擦っていた。
 ミコトの従者であるサクヤは、長い時をミコトと共に過ごした姉のような存在に違いないが、その親しさを差し引いても如何せん躊躇という言葉を知らない。性格が生真面目で、自分が一度決めた事を全身全霊を賭して貫徹しようとする苛烈な意志と行動力を持つが故に、揺るぎが全くないのだ。
 昔、まだ幼かったミコトがサクヤとイズモの三人で武者修行の旅に出ていた頃。とある町の酒場で食事を摂る為に立ち寄った際、冒険者崩れの厳つい男達に因縁を付けられた事がある。その時、サクヤが屈強そうな彼らを一瞬の内に襤褸雑巾の山に変えてしまった惨憺たる光景は、幼いミコトの心に深い心的外傷トラウマを刻み込んだと言っても過言では無いかもしれない。
 ある意味恐怖の象徴たるサクヤとの組手は武具の装着、急所攻撃、闘氣の使用など何でも有りの極めて実戦に準えた形式で行われ危険極まりない。サクヤの側はミコトに合わせて魔法の使用を禁じているものの同じ足場に立つ故に一切の手加減は無く、組手中は限り無く高めた集中を常に持続しなければならず、一瞬たりとも気が抜けない。
 それは既に真剣勝負を通り越し、絶対死地にて背水の覚悟を胸中に立った時のような悲壮なる極限状態であると言えよう。
 当のサクヤは地面に突き刺さった錫杖を軽々と引き抜いては、掌で器用に回転させて土を掃い構える。右手で棍代わりの錫杖を小脇に抱えるように持ち、左手を空手のまま相手に向けて半身で立つその構えは、天地の隔てる支柱の如きに泰然と在り、また明鏡止水を体言するかのように相対する者の一挙一動をつぶさに見つめている。
 鮮やかに、そして油断無く構えるただそれだけで相手を怯ませるサクヤの清廉な凄み。覇気にも似た圧倒的な迫力を前にして、対峙しているだけでミコトの心は今すぐにでも逃げ出したくなる衝動に駆られるが、彼女に生来備わっていた負けん気によって辛うじて抗していた。
「今の反応は悪くなかったですよ。回避直後の体勢の立て直しも併せてギリギリ及第点を上げましょう。惜しむべくはその際、装飾型アクセサリに分配した魄を縫衣型ドレスに戻しておければ言う事は無かったです」
 暢達に連ねられたのは、闘氣を用いた戦闘術において非常に高度な領域にある技巧と運用の術。闘氣の局部変移は言葉で言い表す程に容易ではなく、血の滲む努力の果てに到るか、或いは類稀な先天的素質の上で成せる境地であり、ミコトは幼い頃より自らの資質を見極め曇り歪まないように適正に向けられて只管に磨き上げてきたからこそ到達し、堅実な彼女の根幹が築き上げられた。
 闘氣の扱いにおいてミコトは勇者一行の中でも頭抜けていて、彼女だけが縫衣型から装飾型、またはその逆の変移が可能であった。
 だがそんなミコトであっても同郷同門のサクヤの前では霞んでしまう。それだけの絶対的な経験の差が両者の間に隔てられているからだ。
 濃茶の双眸に冗談の無い真摯な光を湛えながら述べるサクヤに、ミコトは一つ苦笑いを零す。
「ようやく及第点か……相変わらず、お前の採点は厳しいな」
「これは異な事を……美命さまは正当ではない評価を甘んじて受けたいとでも仰るのですか?」
「まさか!」
 そんなもの自分の矜持が決して許さない。実直なミコトの清冽な意志が、煌く緑灰の眼がそう語る。
 続いて右足を引いて半身に立ち、左の掌をサクヤに向けた。サクヤが杖を持っているのと同じように、ミコトは過日イシスより貸り受けた『黄金の鉤爪』を装着する右手を構え、全く同じ型で正対する。
 強い輝きを宿す双眸は真っ直ぐに前を見据えていて、その潔さは鮮烈な曙光に似ていた。
 時を置いても少しも変わらないミコトらしさを垣間見て、サクヤは優美に清浄な色香を醸すように笑う。
「では次は今よりも速度を上げていきます。ついて来て下さいね」
「ああ!」
 両者が何気無い会話の最中で収束していた闘氣は目視できそうなまでに濃密で、気迫と共に全身を駆け巡り、爆ぜる。
 次の瞬間、二人は草叢の上を自由に舞う風になった。



―――聖都イシスより“アリアハンの勇者”率いる魔王討伐の一行が出立する際。事情があると言う事で主君のミコトと一旦別れたサクヤとイズモであったが、公会議出席の為にイシス女王、並びに双姫が従える護衛団に同行してバハラタの地を踏んでいた。
 領事館で久方振りに再会した折。これまでの一年の間に自分は己に課した目的に対して前進できているのだろうか、という胸の内をミコトは弱々しく蔭りのある口調でサクヤに吐露していた。
 嘗ての日に抱いた唯一の肉親である姉を助けるという志。“魔王討伐”を掲げる勇者一行の一員である責務。ジパングとイシスの間での政治的な結束の為に『黄金の鉤爪』を預けられた事実……それらは時間を重ね、世界を、現実を知る事で自身の双肩に途轍もない重さで圧し掛かっているのを、ミコトは実感しない日は無かった。
 その重圧に押し潰されず、自らを突き動かし背中を支えるだけの確然たる力があれば歩む事に一抹も迷いなど抱かなかったのだろうが、残念ながら今の自分では未熟の領域を脱する事ができていない事をミコトは自覚している。それを強く認識させる存在が旅路を共にしている者の中にいるのだから、一年という区切りを迎えた事で自分の志に対する進捗が気になって仕方が無かった。
 この弱音は不安定に揺れる自分の在り方を誰かに肯定して欲しいという、確信を持ち得ない自分の弱さの顕れなのだとミコトは言いながらに自嘲する。だからこそ自分の理想とする在り方の体現で、他の何よりも自らに厳しいサクヤからの叱咤で正して欲しかったからなのかもしれない。
 だが同時に気恥ずかしさがミコトの胸中に生じたのは、サクヤが両親の姿を知らないミコトにとって母であり姉でもある存在だと言えるからだろう。それ故に弱々しい心を感情のまま曝け出している今の自分の姿が、まるで夜中に眠れなくて母親に泣き付いた子供みたいだ、と内心で浮かんだ情景を思えば面映さのあまり身悶えしそうであった。
 そんな想いの為か、相談があると呼び出したにも拘らず視線を合わせる事のないミコトに、久しぶりに組手をしましょう、とサクヤは実に淡々とした返事を発していた。
 冷静な美貌によって連ねられた言葉は情動とは無縁の静謐さを孕んでいるように聞こえるも、サクヤという人物が決してそれだけではない事をミコトは誰よりも良く知っている。寧ろ詳しく追求されない事、鬱屈した思考の蔦に囚われている心を晴らす為に他の事に気を逸らせようとしてくれている気遣いに深い感謝の念を覚えずにはいられなかった。
 しかし。美しき主従愛と表現するに相応しい場面はその瞬間まで。
 心温まる情景を軽々と一蹴したのは、他ならぬサクヤ自身によって付け加えられた物騒すぎる一言だった。
「組手はいつものように実戦形式で行ないましょう。武器の使用は言わずもがな、急所攻撃、魄の収斂しゅうれんも有りとしますので、最低でも骨折程度は覚悟して下さいね」
 慈母の柔和な笑みと共に告げられた死の宣告を耳にして、瞬く間に顔から血の気が失せたミコトは逃げ出したくなった。
 サクヤの反応はある意味で期待通りだったのだが、如何せん彼女の辞書には躊躇、容赦という類の言葉が存在していない。その有言実行を愚直なまでに貫徹する自若さを今更ながらに思い出し、既に後の祭りでしかない状況の推移とその顛末を想像してミコトは弱音を吐く相手を間違えたのだと心の底から後悔した。








 同じ刻限。同じ場所のイシス領事館中庭。
“剣姫”アズサ=レティーナは訓練用の片刃の剣を構え、サクヤと同じくミコトの従者である倭国ジパングの戦士イズモ=カミガキと対峙していた。
 ミコトがサクヤと組手をするという話を何処からか聞き付けたアズサは、先のイシス戦役終結後から今日まで書類仕事に忙殺されていた事によって蓄積した鬱憤を晴らす為……もとい、気分転換に身体を動かそうとする為に手持ち無沙汰にしていたイズモに鍛錬の相手を申し出たのだった。
 嘗て一度だけ訪れたダーマ神殿にて正式な“戦士”の職に就いていたアズサにして、イズモという異国情緒溢れる風体の剣士は完全に格上の相手だと理解していた。まだ剣を合わせてはいないにもしても、その無色で堂々とした佇まいから発せられる気風はこちらに対してまるで気負った様子が無く、自然体のままである。
 聞けばイズモも“戦士”の職に就いて十数年以上の経験を積んでいると言う事であり、鍛錬の相手として申し分無い。終戦してからというもの“剣姫”がイシスにおける剣での最強を示すのが先代までであった事を強く自覚し、更には聖都イシスの大神殿での『黄金の女神像』破壊事件以来、向上意欲が著しく高まっていたアズサにとって、格上との対戦は願っても無い機会だった。
 今この場にはアズサの他に親衛隊の隊員が数名いて、更には事もあろうか守護すべき対象である女王フィレスティナまでもが楽しそうに見物している。彼女の臣として無様な姿を呈する訳には行かない上、“剣姫”という称号を背負う者として他の者の規範にならねばならない事もあって気張らない筈が無かった。
 ……だが、確かにそう意気込んで鍛錬に臨んだ筈だったが、いざ戦場に立つと自分達の直ぐ隣で激しさを増していくおぞましい戟音の嵐。明らかに鍛錬の度を超越した死合が奏でる優麗なる旋律。
 可能な限り聞かないように意識してはいたものの、寧ろそれが逆効果となって次第に顔を青褪めさせていたアズサは上擦った声を出した。
「あ、あっちは随分と派手にやっておるのぅ……どう見ても訓練の域を脱しておるわ」
 対戦訓練での闘氣使用は基本的にイシスの軍規では認めていない。その為、傍からでは目視するのがやっとの速さで縦横無尽に動き回り、交錯の度に轟音と衝撃を撒き散らす二人の異邦人に親衛隊隊員達はそれぞれ驚きを面に貼り付け、或いは息を呑んで疾風の演舞に見入っている。そんな中、一人純真な感嘆を零しているフィレスティナの声だけは喧騒に掻き消されず良く通って空に響いていた。
「何と言うか……騒がしくして申し訳ない。朔夜の奴、久々に美命さまと組手が出来て張り切っているようでして」
「張り切り……過ぎじゃろうがっ!」
 呑気に告げるイズモにアズサは反射的に叫んでいた。
 殺し合いにしか見えない白熱する戦闘ではあるが、実のところアズサがユリウスと剣を交える時も傍から見れば似たようなものであるという事を、この時アズサは無自覚に棚に上げている。
 ミコトとサクヤが移動する度に踏み荒らされていく、本来は瑞々しい芝生が敷き詰められていた中庭。専属の庭師が現状を保つのにどれ程の苦慮を重ねているかアズサには窺い知れなかったが、所々に見るも無惨な大穴を穿たれては彼らの悲鳴が聞こえてきそうだ。
 阿鼻叫喚とはいかないまでも、元来静穏でなければならない場所の不文律を軽々と蹴破った二人に近いイズモは、呆気に取られている周囲の様子に困ったように頬を掻いていた。その面には二人を心配するような意志は微塵も無く、寧ろ見慣れた光景にまたか、と嘆息を零すような諦観さえ載せている。
「そなたも少しは止めようとはせんのか? いくらなんでもミコトが押されっ放しじゃぞ」
 アズサがそう言ったからではないが、丁度そのタイミングで正拳突きを繰り出したミコトに合わせてサクヤも同じ技を放ち、闘氣によって強化され勢いに乗った拳と拳が衝突。生理的な悪寒を誘う鈍い乾音をけたたましく響かせた拮抗は一瞬で、競り負けたミコトは大きく後方に吹き飛ばされた。
 宙に投げ出されたミコトが器用に体勢を立て直しているのを目で追い、イズモは少しも驚いた様子を見せないまま淡々と頷く。
「そうですね。あれで朔夜は妥協を全く知らない奴だから美命さまも徹底的に伸されるでしょう。……それこそ、迷いなど感じる暇がなくなる程に」
「よ、良いのか? ミコトはそなた等の主君なのじゃろう?」
「美命さまの姉君からは、決して甘やかさず、寧ろ厳し過ぎる位に厳しく接しろと言われております」
「……あやつも大変じゃな」
 当人が聞けば涙を流しそうなものである断言は実に堂々と一点の曇りも無く、イズモとサクヤが倭国ジパング国主から寄せられる素晴らしく篤い信頼を前にして逆にアズサが狼狽してしまう。
 注意をイズモから外さぬようにしながらチラリと覗き見ると、防戦一方で駆け回るミコトの姿。その切羽詰った表情を一瞥してアズサは心の底から湧き上がる同情の念を抑える事はできなかった。
“剣姫”の称号を預かるアズサの目から見て、“武闘家”ミコトは決して未熟者などではない。剣と徒手空拳という各々の戦闘スタイルの違いを不問にしても、ミコトの実力は自分と伯仲しているだろうとアズサは認識していた。
 これまで魔王討伐を掲げる勇者一行の一員として魔物との戦いの日々を潜り抜けてきた技量と精神、ピラミッドの最上層でティルトと互角以上の戦いを繰り広げたと言う顛末。それらの諸事実を鑑みても充分過ぎる確信を得ていた事だ。
 そしてそのアズサにして、サクヤという異国の風体の僧侶は紛れも無く格上の実力者。ミコトを軽々とあしらいながらも優麗さを失わないその姿に戦慄を覚えずにはいられない。
「あの身のこなし……ただの“僧侶”とは思えぬ」
 硬くなったアズサの声質に、イズモはやはり暢達に頷いた。
「あいつの兄貴の日向……十三賢人“四華仙・命”は元々“武闘家”で、後に“賢者”に転職しています。そんな兄貴の姿を見て育った所為か、あいつも同じく“武闘家”を志し、その後に“僧侶”を選んでいる。かと言って“転職”では身体に叩き込まれた経験が消える訳ではないですからな。今となっては武術は趣味の領域でしょう」
「……故に妥協無しで容赦無し、か」
 ミコトの代わりに自分があの場に立っていたら果たしてどうやって立ち回れば良いのかと考え、アズサはごくりと生唾を呑み込む。戦いに生きる者の端くれとしての本能が強者の底を測らんとする思考を無意識に生じさせ、対抗策を紡げない事に言葉が出なくなっていた。
 先程からずっと強張ったままのアズサの表情から、彼女の内心を朧気だが察したイズモは宥めるように繋ぐ。
「まあ、あれがあの二人にとっての普通なんですよ。二人の師の口癖が「百聞は一見に如かず、百見は一戦に如かず」でしたから、愚直にそれを実践しているんでしょう」
「……言っておる事には賛同するが、な」
 耳と身に覚えがあり過ぎる文言にアズサは苦々しく顔を顰める。師であった先代“剣姫”から技を伝授される際は説明など一切無く、実戦に勝る修行は無い、という死の宣告と共に師が放つ技を我が身に徹底的に叩き込まれるのだ。薀蓄を延々と垂れ流すより何度も何度も骨身に染み込ませる事で技の真髄を体得できるという、今思えば背筋がぞっとする思想だった。
 自分の容姿と瓜二つである為かミコトに奇妙な近親感を覚えていたアズサは、師による血も涙も汗も枯れ果てんばかりの地獄の修業を思い出し、今正に繰り広げられているミコト達の組手がそれに重なった事で陰鬱な気分になった。そして自分の最大の好敵手ライバルであったティルトといつも張り合い、騒がしさのあまりに師に二人揃って制裁された過去を思い出して更に気分が深く沈む。
「誰なのじゃ? ……そんな、我が師と同じような事を言う恐ろしき御仁は?」
「ダーマ神殿の教導師“拳仙”フェイレン殿です」
 少しも勿体振る事無くすらりと連ねられた名を咀嚼し、アズサは思わず素っ頓狂な声を出した。
「け、“拳仙”フェイレンと言えば、“剣聖”ブラムバルドに並び立つ世界最高位の“武闘家”ではないか! あやつら、そんな御仁の弟子なのか!?」
「美命さまは元より、朔夜、朔夜の兄貴の日向も同門です」
「じ、十三賢人まで……ミコトの奴、実はとんでもない人間なのかっ」
 同格だと思っていた人物が偉大なる先人の名前と同列に挙げられたのならば、自然と高みに引き揚げられるのが人間の心理というものだろう。例に漏れず、ここに来てアズサの中でミコトの評価が格段に上がっていた。
 アズサは思わず目を瞠って風速を超えて動く二人の姿をまじまじと追ってしまう。同じ思想の下に統制される動きの端々からは、実に理に適った無駄が削がれた身体捌きが察せられ感心する他無い。……但し、現在闘氣が活性状態にあり既に風速を凌駕しているミコトとサクヤの動きを易々と捉え、生粋のイシス人ではないにも関わらず“剣姫”という至高の御座に就いている事もまたアズサの言う「とんでもない事」に相当する。その辺りの自覚が全く無い性質は彼女らしい一面であった。
「ま、まあこの私に瓜二つなのじゃから、そうでなくては張り合いが無いわ」
 容姿が絡む要素は全く無いのだが、何故か強がってみせたアズサの何気無い一言を耳にしてイズモは一瞬表情を消す。それが何を思っての事なのか、真意を知る者はこの場ではサクヤだけ。
 イズモの変化は刹那のものだったので、正面に立っているとはいえ隣の舞いに目を奪われているアズサは気付く事は無かった。
「世界は広い、か。ユリウスといい、ティルトといい……最近つくづく思う」
 出会った当初は剣技において互角か自分に歩があると思っていた相手……“アリアハンの勇者”ユリウス=ブラムバルドも、旅路の中で徐々に明るみになる力の片鱗は苛烈で、果てはイシス戦役終戦時に見せた単身での魔物の大量虐殺。軍に属した異形の敵であっても、漲る殲滅の意思のままに作り出した惨憺たる光景を前にしてアズサは驚愕よりもまず恐怖した。嘗ての隣国の王都ロマリアでの魔物暴走事件における凄絶な様相を否応なしに幻視させる姿から、それがどれ程までに人の常識から外れた事であるのかを実感せずにはいられない。
 また、時を同じくして再会した幼馴染にして好敵手のティルト=シャルディンス。彼女が魔族に転生して得た力は、既に自分の知る範疇を超えていた。
 アズサ自身がこれまでライバルと認めた相手はその二人しかいないが、彼らに一気に引き離されてしまったという焦燥の念が胸の裡で渦巻いている為、終戦後からずっと気持ちが騒いで収まらなかった。
「……いや、それだけではないな。“剣姫”としての責任の重さを背負う事さえ、今の私では到底届いておらぬ」
 これまで任を軽んじた事など一度も無いが、それでも他の多勢が求める“剣姫”という象徴には至っていない事を先の戦役でつくづく覚らされた。
 陽光を反して自らの顔を映す刀身を見下ろして、ただ自分に言い聞かせるように胸の内を吐露する。そうやって明確な言葉と共に自覚と自戒を促さねば、真っ直ぐ前に進めない気がしていた。
「その若さで自らを省みる事ができただけでも大したものです」
 自身に向けて一人呟いたつもりであったが、風の流れに乗って対するイズモに届いてしまったようだ。
 だがしかし、自分よりもずっと年長で且つ格上の人間にそう言われてしまえば頷くしかない。そこで反抗でもしようものなら自らの青さを露呈するだけで、改める機会すら失われてしまうのだ。
 暗にそれを示したイズモの言葉に鼻を鳴らし、アズサは口元を歪ませる。その言の葉が正しいと思うからこそ、初心に還らなければならなかった。
「ならばこそ、じゃ。今暫しご教授願おうぞっ!」
 全身を血流と共に駆け巡る活力によって気が紛れ、既に声に最初の震えは無かった。こうして互いに剣を向け合って対峙しているのは、そもそも世間話をする為ではないのだ。
 戦いに参ずる者の美しくも獰猛な笑みを浮かべ、アズサは前に向かって疾駆した。








 アトラハシスがソニアを連れて拠点とする古代遺跡の自室に戻った頃。
 数ある中の一つの部屋に備えられていた長椅子にシルヴァンスは鷹揚と腰を下した。自重に木材特有の乾いた軋み音を発しながらも、歪みなく支え立つ椅子の堅硬な様は、材質の特徴を良く理解した上で丁寧に設計された上質なものだというのが窺い知れる。
 魔王軍の中でも六軍に属さない、形無き第七の軍という特殊な立ち位置に存在する“魔王の使徒”という群れ。いくつかの例外はあれど、そこに組するそれぞれが“堕天誓約カヴナント”という特異な過程を経て魔族の領域に至った異端の者達だ。そんな彼らを統べているのは最近正式な魔将に任じられた“剣魔将”ソードイドであるが、実際は実動隊を率いて現場を指揮する元アリアハン王太子アトラハシスである。
 指揮者の趣味が色濃く反映されている為か、彼らが拠点の一つとして用いているこの古の山岳遺跡にある数々の部屋には、普遍的な貴族の邸宅と何ら遜色無い格式高い調度品が並べ連ねられていた。贅を尽くした絢爛豪華さなどは無いが、それとなく飾り立てられた事によって生じる慎み深い趣は、ここがいつの時代に建造されたかも分からない往昔の遺跡とは夢にも思わせないだろう。
 配された品々は無言で、だが各々の醸す気品を漂う空気にしっとりと伝播させていた。
 しかし様式よりも機能に重点を置く性質のシルヴァンスとしては、雅などに興味が無く、凝った意匠が視界の中で我を主張する様など煩わしさしか感じない。そんな中で徐に視線を動かしてみると、静寂に彩られた部屋の中央でアトラハシスの自室の方角を茫洋と見つめて佇んでいたイーファが、普段通りの無表情のままこちらに近付いてくる姿が映った。
「……おねえちゃん、は?」
「ん? あいつ等は今、客をもてなしている最中だ。おとなしくここで待っていろ」
「……う、ん」
 本当に微かに声調を落とした消え入りそうな声で返し、イーファは先程まで立っていた場所に戻る。
 悄然としたように映るその背が更に小さくなった印象を覚えるのは、少女から寂寥の念が滲んでいるからなのだろうか。
 その認識に確信があるからこそ、シルヴァンスは内心で一つ嘆息した。
(こいつも、変わってきたと言うべきか)
 無感情という第一印象を往々に齎すイーファという少女は、まず自発的な行動を取ったりはしない。ただ命令を受けて素直に遂行するだけの人形のように受動的な存在で、昔はシルヴァンスに対しても今のように自ら話し掛けてくるなど極めて稀な事であった。
(無い筈の感情でも萌したのか? それはそれで良い事ではあるが……)
 遠くを見るような眼差しで少女の後姿を眺め、シルヴァンスは思惟に耽る。
 これまでを顧みると、イーファにこうした変化の兆候が現れたのは丁度アトラハシスが“魔王の使徒”という一団に参加した頃に遡る。
 アトラハシスは見た目に違わぬ柔和な気質で難無く団に馴染み、本人の努力と誓約を交わした“印”の位階の高さもあって既に中心にまで上り詰めている。イーファも今ではすっかり彼らに懐き、親を追いかける無邪気な子犬の如くその後ろを追っていた。
 傍から見ていてそれは微笑ましい光景であると同時に、彼らが双方共に“魔族”という人間種の理から逸脱した存在である事を忘れてはならないだろう。
 しかしそれでも。ここ最近の小さな変化の兆候には目を瞠る思いだった。
(自我や感情が萌す以前の嬰児の段階で“昂魔の魂印マナスティス”の一つ、『壊鎚・魔神の鉄鎚かなづち』と連結させて魔族化させられた稚児……果たしてその意識はこの子のものか、或いは“印”のものなのか)
 それはイーファが誕生・・した瞬間から知っているシルヴァンスとして判断できるものではない。そしてイーファ自身、恐らく疑いもしないだろう。
 嘗てこの地で行われていた、人間が後生大事に掲げる倫理や道徳の一切を排除した、負の極致とも言うべきおぞましき研究。それは人の世の情理など歯牙にもかけない酷烈にして真影なる世界に対し、抗うべく嘗ての人々が見い出した“進化の秘法”に連なる禍々しき秘儀の数々。
 多岐に亘る内の一つの試みが、無垢なる少女を人の道から弾き出したのだ。
(……いや、俺も所詮は同じ穴の狢か)
 何時の間にか少女を憐れんでいた自らの思考に目を瞬かせ、シルヴァンスは自嘲に口元を歪ませる。
 人の世に出れば確実に悪と断じられる研究に携わり、実際に行動した者達を非難する資格など自分には無い。何を犠牲にしてでも果たさねばならない悲願を胸に秘めているが、己もまた“進化”という言葉が齎す至高の美酒の如き芳醇な香りに誘われ、酔いしれた者の一人なのだと自覚しているからだ。
「ったく、この俺も焼きが回ったもんだな」
 そう吐き棄てながら乱暴に頭を掻き回したシルヴァンスは、不意に己の視野に不躾に踏み込んでくる巨きな影を見止めた。
 筋骨隆々たる体躯の上に、長い間に亘り乱雑に伸ばした黒髪を後ろで無造作に結い、無精髭を生やしたまま手入れをした様子が見られない粗野な大男。全身から野性味を滾らせ、獣のそれと同じ強く獰猛な眼差しには理性からくる慎重さと本能からの危うげな狂気を同居させていた。
「よぅ博士。随分と荒れてるじゃねぇか」
 近寄り難い風体とは一転して、野太いながら気さくな声色で巨漢はシルヴァンスに声を掛ける。
 その呼び方が気に入らなかったのかシルヴァンスは不快そうに眉を顰め、歩み寄ってきた男…オルドファス=バコタを半眼で睨めつけた。
「バコタか。その呼び方は癇に障るから止めろといつも言っているだろう」
「そうだったか? まあ気にすんな。特に悪気だって無いんだしよ」
 あっけらかんと大声で返すオルドファスに、自分で言うな、と言おうとしたシルヴァンスは内心で止める。眼前の人物に悪態を吐いたところで暖簾に腕押しだと思い至ったからだ。
 これ見よがしに疲倦の嘆息を零しながら、眉間を指先で抓んで揉み解すシルヴァンスにオルドファスは苦笑する。
「おいおい、マジでご機嫌斜めかよ……サマンオサから戻ってきた早々大将に呼び出されたって訊いていたが、何か不機嫌になるような指示でも受けたのか?」
「そんな事は無い。単に奴の趣味である茶会に呼び出されただけさ。お前を含めた他の連中に趣を求めるのも苦しいからな。止むない人選だったって訳だ」
 聞きようによっては嘲られているようでもあったが、このシルヴァンスという男の言の大半が皮肉と厭味で構成されている事を熟知するオルドファスは気に止めない。寧ろのんびりとした口調で茶会の開催を告げる上役と、頭痛のあまり頭を抑えている眼前の男の姿が鮮明に浮かび上がった。
「茶会かぁ。確かに大将らしいっちゃあらしいが……ん? そういやイーファも連れて行ったみてえだが、まさか菓子を食べさせまくったんじゃないだろうな!? 大将はイーファに甘いから制限なんてしないだろ! 幼少期に甘い物ばかり食べさせるんじゃねぇ! 虫歯になったらどうするんだっ!!」
 早口で捲くし立て、これまでに無い真剣な怒りを散らすオルドファス。彼らは魔族という身であるが身体構造の基盤はあくまでも人間である為、その嗜好は魔族化以前と何ら変わる事は無くこれまでと変わらない普遍的な食事を摂る事もある。もちろん摂取しなくても活動に支障は無いが人生と共に心身に染み付いた習慣を拭い去るのは容易ではなく、更には食事と言う行為そのものが精神の充足と安定を支える面に役立っている事を鑑みて、彼らの中では逆に推奨さえしていた。
 そして使徒達の中でほぼ専属で料理番と化している彼、オルドファスとしては栄養の偏りを引き起こす間食の超過摂取など看過出来よう筈も無い事象だった。
 実に外見に似合わない父性溢れる言動をするオルドファスの憤りを察しながらも、そんな彼を心底鬱陶しそうに一瞥して、シルヴァンスは多分に揶揄を孕んだ実に人の悪い笑みを浮かべた。
「察しがいい事だな。だが一つ見落としがあるとすれば、イーファに甘いのは影でこそこそ焼き菓子を用意しているお前も間違いなく同類だよ」
 この部屋にオルドファスが現れてからというもの、小麦を焼いた時に漂う芳しい香りが眼前の魁偉を中心に発せられている。恐らくはこちらに顔を出す前は厨房として用いている部屋にでもいたのだろう。
 図星を突かれて僅かばかりに顔を紅潮させたオルドファスは、それを誤魔化す為に恫喝の形相で切り返した。
「……そりゃテメェもだろうが、ああ? 保護者殿よぉ!」
「んんっ……まあ、あの子は純粋無垢な破壊の化身だからな。俗なる色彩に穢されるのを厭う気持ちはわからないでもない」
「何だそりゃ?」
 咳払いと共に言い訳がましく連ねたシルヴァンスに、すっかり毒気を抜かれたオルドファスは呆れた表情を浮かべる。
 大人達が騒ぎ立てる中、渦中の少女は周囲の喧騒など露知らず、相変わらず虚空に視線を彷徨わせたまま動く気配は無かった。



「そういや大将はどうした? 一緒に戻ってきたんだろ? 報告しておきたい事があったんだが」
「ああ、アイツならバハラタから客を連れてきてな。今頃自室で昔話に花を咲かせているだろうぜ」
 アトラハシスの自室の方角を顎で示し、些か投げやりにシルヴァンスは言う。胸の内にある億劫な心象が態度に表れて、だがそれを隠す気は微塵も無いようだ。
「昔話だぁ? 大将と同郷の奴がバハラタにいたってのか? まあ珍しい事では…………あるな。あの国、アリアハンは鎖国中だった」
“昂魔の魂印”『鬼斧・魔神の斧』の所持者である“豪”の魔族“デスストーカー”ことオルドファス=バコタは、嘗て単身でアリアハン王国に潜入した過去を持つ。当時、使徒達を暫定的に統括していた“智魔将”エビルマージにより、至宝と名高い古代魔導器『燈杖・岩漿マグマの杖』の奪取という命を受けての事だった。
 そしてその所持者が十三賢人“智導師”バウル=ディスレビであるのはその道に詳しいものならば誰もが知っている当然であり、盗賊として世情の裏側を熟知するオルドファスがすぐに目的の人物に接触を果たすのは蓋然だった。
 しかし、離婁りろうの老賢人と対峙した時の事を思い返せばオルドファスは未だに恐怖に駆られる。あの時既に魔族だった身であっても、眼を合わせた瞬間に自分は狩られる側の立場である事を自覚させられたのは、過去にも今日においてもあの時だけだ。“印”との同調深度を高め、魔族としてより完成形に近付けば近付くほど一層強くそれを認識させられる。
 殺されず捕縛され、アリアハン王国に突き出されただけで済んだのは、それこそ当人の慈悲なのか、神の気紛れなのかと当時は本当にそう思った程だ。
 昔日の苦渋に満ちた記憶を思い出して顔を歪ませたオルドファスに、シルヴァンスは軽やかに笑った。
「お前は本当にアリアハンが嫌いなんだな」
「あんな化け物共の巣窟を好きになれるんなら、俺はそいつを崇拝するぜ」
「……確かに、あの国にはバウル爺さんや剣聖ブラムバルド、狂人ディナにそもそも国王がザウリエという物騒極まりない面々が揃っているから気持ちは判らんでもないがな」
 脳裡にて強烈な存在感を示す往々の姿を思い浮かべ、やれやれ、とシルヴァンスは小さく零す。
「アトラの奴にする報告って何だ? 急を要するなら俺が代わりに聞いてやらんでもないぞ」
「あ? いや、“幽霊船”との取引の話だぞ。お前、興味が無いからって大将に丸投げしてたじゃねぇか」
 一応、シルヴァンスは彼らの中ではアトラハシスの右腕、つまりは副統括の役割を担っている。その為、仲間からの報告がアトラハシスに取り次げない時、代理として報告を受ける事も多少なりともあるのだ。
 だが今回の場合。話題が悪かったと確信するオルドファスは、椅子に気だるそうに腰掛けている仲間への視線が自然と胡乱な色彩に染まるのを抑える事ができなかった。
 現に綴られた単語を耳にしたシルヴァンスは至極つまらなさそうに髪を掻き揚げている。彼の興が乗っていない心中を如実に示すあからさまな態度であった。
「ふむ、“幽霊船”って事は例の商会絡みか……その件なら確かにアトラの奴に任せてたな。寧ろそんな案件如きではこの俺が出張るまでもない」
「んな威張る事じゃないだろうよ。お前は割と有名人だから、つまらん駆け引きにを利用されるのは甚だ不愉快だ、とか言っていただろうが」
「そう言えばそうだったな。幸いにしてアトラの奴はそういった連中の扱い方に長けている……流石は元王族といったところか」
「お前な……本人に聞かれたらどやされるぜ」
 ここにいない人物への揶揄を諌めてくるオルドファスの視線を受け流し、シルヴァンスは大仰に肩を竦めてみせた。
「そんな小さい事を気にするような奴じゃないと思うがな……まあいい。そのアトラの方針でここを撤収する事になった。お前は他の連中に準備させておけ」
「そういう話になったのか。ま、俺は一向に構わんが……お前はどうするんだ?」
「俺はやる事があるから期限まで研究室に篭る。用があるなら呼べ」
 一方的にそう告げたシルヴァンスは椅子から立ち上がり、大きく首を廻して全身を解す。
 意気込んでいるようにさえ見える姿とその行動の結果を予見して、オルドファスは顔を険しく強張らせた。
「……『進化の秘石』か?」
「ああ。アトラの奴がどこに拠点を移すつもりなのかは知らないが、俺としては移転後、直ぐにでも『進化の秘石』の練成に取り掛かりたい。その為の準備したごしらえをな」
「準備だと? 素材である『時の粋晶すいしょう』に『天使の劇薬ソーマ』は、澱んじまったここの霊穴レイポイントじゃあもう精製出来ないって言ってなかったか?」
「そうだ。世界樹によって還元、純化されたマナの世界への拡散浸潤速度は尋常ではなく、寧ろ一点に留まり結晶化する事そのものが奇跡と言って良い。その為、純潔なマナの結晶体である『時の粋晶』はここの霊穴からは採掘し尽くされてもう採れないだろう」
 裡の怪訝をそのまま面に載せたオルドファスに、シルヴァンスは首肯する。
 本人は認めたがらないが、学者肌故か饒舌に語る様子には心中の情緒模様が如実に顕れていて、こんな時は大概シルヴァンスは気を良くしている。それを知るオルドファスは自分から話の腰を折るような浅慮を冒すつもりはなく、ただ黙々と傍聴に徹していた。
「水清ければ魚棲まず、とどこぞの古人が詠んだ諺があるように、無色透明なマナは今のユガの生命にとって至高の猛毒と同じだからな。純度が質を左右する『天使の劇薬』も、ここのように澱んでしまった源泉では精製できん」
「……それじゃあ準備も何も無いだろうが」
「阿呆、お前は決定的なものを見落としている。秘石練成に必要な素材には更に一つ、『幻魔石』がある。逆にこれだけは今の世界どこでも作成が可能だ」
 教師が生徒にするように流暢に説明を続けるシルヴァンスを何となしに見つめていたオルドファスの表情から、その固有名詞が出た瞬間にこれまでの砕けた雰囲気が消えて硬質な巌の如く凄然とした胸裏が面に浮かんでいた。
「……『幻魔石』ってあれだろ? 数百もの魔物の屍骸から抽出した血液やら体液の中に触媒・・をブチ込んで変成させる――」
「再結晶、と俺は呼んでいるがな。都合の良い事に、“幽霊船”が調達してくれるおかげで触媒には困っていない。仮に失敗したとしても魔物の変成体ができるだけだから、兵力の補填という意味で再利用でき、同時に撤収作業も行えて一石二鳥だろ?」
「……俺が言うのもなんだが、あれは何時見ても気持ち良いもんじゃない。いや、本音を言わせてもらえば胸糞が悪ぃ」
 心底厭うているのか、忌々しそうに唾棄するオルドファスにシルヴァンスは冷笑を投げつける。
「はっ、魔族化して人の理から外れた奴がそんな温い事をほざくな。そもそも有史以来、人類が進歩を続けてきた背後には、口にするのも憚れるような汚れた事も常に存在しているんだ。今でこそ『キメラの翼』なんて便利な物があるが、あれの機構を定める為の試作段階で一体どれだけの人間が身体の部分的な消失を引き起こして死んでいったか知っているのか? 昔、試作品の作成現場を見た事があるが、あれの方が魔物による虐殺よりも余程陰惨だ」
 今では汎用的で極めて有用な魔導器として名を挙げられる『キメラの翼』。どれ程の長距離であろうとも一瞬で移動する魔法“ルーラ”を宿した道具であるが、製品化に漕ぎ付くまでには気の遠くなるような試行錯誤があった。そして数々の問題の中で特に難解だったのが、生命体……つまり使役する人間の転移の安全性である。
 その立証の為に只管に繰り返された過程は凄惨の一言に尽きる。
 被験者の腕や足の一本が消失しているなどまだ生易しい。嘗ての実験では頭部が半分欠如、或いは胴体に不自然な丸い孔が開いた人間や、表面は何ともなくとも体内の臓器の幾つか消失し、果ては中身そのものが欠如して革の人形と化してしまった人間等……想像を絶するような惨たらしい結果を真実の闇の中に残していた。
 それらは既に正気を亡失させた者達による狂った所業の数々。その果てに今の世界は利便性のみを重視して気軽に扱う人間に溢れている。そんな現実をシルヴァンスは滑稽に思わずにはいられない。
 世界に対して無自覚に漏れ出していた嘲りの邪笑を目の当たりにして、オルドファスは顔を顰めた。
「……お前ら研究者はつくづく倫理観が欠如しているよな。絶対碌な死に方しねぇぞ」
「倫理観? そんなもの人が人の行動を制限し、互いを牽制する為に用意された方便に過ぎん。世の中には夢や希望、愛といった綺麗に飾り立てられる言葉が多々用いられているが、結局それらは欲望であり妄念であり、単なる我執に過ぎない。お前がその方便をどう受け止めていようとも、世界を廻す絶対真理の前では屑にも劣る魯鈍で人間的な、あまりに人間的な甘えだよ……俺は“賢者”としてそれだけは明言しておく」
 厳然と告げるシルヴァンスの言葉には、実際にその現実を前にして打ち拉がれた経験があるかのように、相手の意識に深く浸透させるだけの重みがあった。








 最初は苦手意識のままサクヤの驟雨の攻勢をどのようにして回避するかばかりをミコトは考えていたが、それでも身体を動かしている内に、次の手にはどうやって応戦するか、という風に徐々に思考の進む方向が変わっていた。それはサクヤの思惑通りにミコトの心が誘導されている事を意味していた。
 薄々ながらその事を自覚し始めていたミコトは、敵わないな、と内心で呟いてから戦いに意識を一層加速させる。
 自身の内側で練り上げた闘氣を一気に解放して全身を満たした時の全能感は通常では考えられない世界を齎す。平常時とは比較にならない高速移動によって一瞬にして背後に流れていく景色は、この世界の柵から自分だけは脱せたのではないかという優越感と爽快感を知覚させ、同時に自分だけが世界から切り離されたのではないかという孤独と不安を如実に錯覚させる。
 しかし、相対する者が同じ境地で動いているならばそれらの感慨に一切の意味は無い。ただ己と相手だけの孤高の戦場が形成されるだけだ。
 右に左に、風をも凌駕する圧倒的な速さで接近し、鉄の杖を振り抜いてくるサクヤの動きを目で追い躱しながら、彼女が僅かに自分の攻撃の間合いに侵犯した事を見出してミコトは回避から攻撃に転ずる。
 一層強く地面を踏み締めて身体を急止させ、その反動の力を脚、腰、胴、肩、腕と順に澱みなく伝えて拳に集約。そして艶かしい金色の光を燈す『黄金の鉤爪』を伴った正拳突きをサクヤに向かって一気に繰り出した。
 颶風の如き裂帛の突きは力の伝導に伴って変移させた闘氣も上乗せされ、周囲の空気を捲き込み粉砕しながらサクヤへと直進する。
 だがサクヤもミコトの初動と攻撃姿勢で迫り来る拳と爪牙の軌跡を見切っていたのか、錫杖で突撃を完璧に捌いて受け流し、続いて体を沈めミコトに足払いを放った。
「くっ!」
 こちらのバランスを奪わんとする相手の意図を察したミコトはその急転の蹴撃に見事に対応し、瞬時に跳ね空中に逃れる事で回避する。そのまま反撃に転じようとしたが、サクヤはそれをただ指を咥えて見送るような真似はせず、単純な杖の一薙ぎを追加する事でミコトの行動を封じ、逆に牽制によって生じた暇でゆっくりと立ち上がった。
「今のは両脚に魄を収斂させて防御する場面ですよ。その方が反撃に転じ易く、相手は一瞬ですが硬直します」
「……まだだっ!」
 攻防の最中でアドバイスを出す時点で、サクヤの方に余裕があるのは火を見るよりも明らかだった。
 歯噛みしたミコトは一旦後方に退いてサクヤから距離を置き、改めて半身で立ち構える基本の型を再現する。そして全身に纏っていた闘氣を一瞬の内に全て下半身に移動させて大地を蹴り、驚くべき突進速度で間合いを縮めてサクヤに向けて回し蹴りを繰り出した。
 鞭の様な撓りで迫る暴虐なそれは巨大な鉄塊の一打に等しく、直撃でもすれば岩をも砕く威力を秘めているだろう。
 だが、それは当たりさえすればの話だ。これまでに積み重ねてきた組手の経験より、ミコト本人すら気付いていない細かな癖や行動パターンからこの攻撃を予測していたサクヤは、寧ろミコトよりも高く跳び上がって前方に宙返りしては軽々と二連の鞭撃をやり過ごし、技を繰り出した直後で隙だらけのミコトの背に痛烈な打撃を与えて怯ませる。
 完全な意表を突かれた背後からの一撃で前のめりに体勢が崩れたミコトに向けて、サクヤは着地して翻身。即座に接近して顔面を狙う跳び膝蹴りを放った。
(まずいっ――)
 肺の空気が空になって白転しかけていた意識が迫りくる蹴撃の危険度を本能的に察し、ミコトは体を捩って咄嗟に両腕を交差させる。だが完璧なまでの闘氣変移によって強化されたサクヤの攻撃と、虚を突かれた為にそれが不完全だったミコトの防御。どちらが勝るかなど結果は自明だ。
 乾いた枝が折れた時のような小気味良い音が両腕から発せられて表情を歪めたミコトは後方に吹き飛ばされ、碌に受身すら取れずに地面を勢い良く転がる。
 生じた激痛によって集中が削がれた刹那。更に前に踏み出していたサクヤは杖を宙に放り投げ、確実に折れたであろうミコトの腕を正面から容赦なく掴み、強く大地を踏み締めて踵を返す。そしてそのまま苦痛に喘ぐミコトを躊躇いもせず背負い投げて草々が生い茂る地面に背中から叩き付けた。
「くああああああああっ!」
 全身を迸る灼熱の感覚にミコトの視界は大きく揺らぐ。
 しかしそれでも意識を手放さなかったのは、ミコトの“武闘家”としての矜持故だろう。
 果敢にも跳ね起きようとしたミコトであったが、間髪入れず眼前に突き出された鉄杖の石突によって行動が停止する。
 こちらの次動作を完全に封殺している点の圧力を前にして、次の行動手順が思い浮かばなくなったミコトは身体の中心から活力が消え失せていく感覚に抗せず、そのまま力なく地面に横たわった。
 その瞬間。この組手の勝敗が完全に決した。当然ながらミコトの惨敗であった。



「また負けた、か……」
 そう言うが、実のところミコトはこれまでサクヤに勝てた例が無い。その事実を受け容れながらも悔しそうに呟いたのは、ミコトの中で心がまだ折れていない証明だ。
 地面に仰向けに倒れたままのミコトに向けて、流石に長時間に亘る闘氣の連続使用は堪えたのか、少しばかり肩を上下させていたサクヤは冷静に告げる。
「瞬間瞬間での判断は悪くありませんでした。回避行動の一つをとって見ても、後にどうやって攻撃に繋げるかを良く考えて動いていましたし、魄の変移に関しましても時間が掛かっていたとはいえスムーズに成されていたと言えるでしょう」
 予想に反して褒められた事にミコトは思わず上半身を起こそうとしたが、それをサクヤは淡々と手で制する。
「ですが、明確な負の要因が見当たらなかったからこそ、今の勝敗は純粋な力量の差が露になった訳です」
「それは……そうだろう。朔夜の方が魄の量も技の練度も――」
「いいえ。私の魄では、どう足掻いても質、量共に“武闘家”である美命さまには及びません。美命さまは“武闘家”へ転職した事によって身体の裡を流れる勁脈レイラインのうち、魄の経絡を肥大増強されていますから」
「……それならお前だって“僧侶”に転職しているだろう」
「確かに、“僧侶”である私の場合……魄の経絡のみならず“魂”の径路も補強されてはいますが、如何せん“洗礼職クラス”としての立ち位置が異なります。“僧侶”という“職”は魄において“武闘家”に及ばず、魂では“魔導士”に届かない。魄ないし魂を活性化させようとも、“大憲章マグナカルタ”に記述された根源律令“ゲシュタルト崩壊”の法則によって双方向に位相変換が出来る故にどちらかを単一で選定する事ができず、またそれを伝導するパスが貧弱で十全に伝える事が適わない……魄の扱いに特化している“武闘家”に比べて器用貧乏と言えるでしょう」
「そんな事はっ」
 ない、とミコトは声を大にして言いたかった。サクヤの能力が中途半端というのならば、その彼女に手も足も出ない自分は何なのだと思えて仕方が無いからだ。
 唇を尖らせ、子供染みた反論が口腔から漏れ出さんとしていたミコト。そんな彼女を遮る当のサクヤは自嘲するでもなく、全く気にした様子を見せないまま続ける。
「ですが、僧侶には僧侶の長所もありますので、結局のところは一長一短という事ですね」
 ミコトの反論の悉くを摘み取ったサクヤは、だが冷たく突き放すだけではなく。未だ地面に横臥したミコトの側に跪き、自らが痛手を与えたその両腕に向けて掌を翳して回復魔法を紡ぐ。
 滑らかに発せられた柔らかな光帯の温もりが疲労に塗れた全身にしっとりと染み込んでいくのを感受して、ミコトはゆっくりと吐息を零した。
「ご存知の通り、美命さまの“破魔の神氣”は物理的な直接接触を以ってその真価を発揮します。ですので、その特質を最大限に生かせる“武闘家”は、美命さまにとって天職と言えるでしょう」
「……まあな」
 それは常に実感している事だ。“武闘家”を選ぶに至った最初の切っ掛けは“破魔の神氣”を操る為には必要だと言う事でサクヤやヒュウガに勧められたからであったが、自らの選択を後悔した事など一度も無い。そして今後何があろうともミコトはこの“職”を変える事は無いと密かに自ら誓いを立てている。
「我々の環式魄打闘術“神楽”は自らの内なる流れを知り、相手の内なる流れを感じ、そして相手と自分の間にある環を覚る事で、その何れにも逆らわず無為自然なるがままに相手を制する……円循環の思想を基礎に据えた武の極意です」
「わかっている。“神楽”において魄の縫衣型収斂形態は基礎中の基礎。自らの裡に円環を想定し、決して逸らず乱さず清流の如き落ち着きを以って装飾型への変移を為す……老師の教えは片時も忘れた事など無いさ」
 徐に両の掌を見つめてミコトは嘗て師より教えられた武の理念を思い起こす。既に一年以上も無沙汰にしているが、尊敬して止まない師の言葉は、自分の中に確実に根を下ろしているのだと改めて実感した。
「究極的には意識せずに常時縫衣型を維持し、腕を動かし、脚を動かすのと変わらない極めて自然な動作で装飾型へ、あるいは逆の変移を行う事になりますね。実際にその境地に至っているのは我らが師である“拳仙”フェイレン殿や、オルテガ殿の父君“剣聖”ブラムバルド殿と言われています。兄の日向でもその域には到達できていませんでしたから、どれ程先の境地にあるのか正直私にも想像が出来ません」
 回復魔法の光の放射で幾分か白んだその表情、そして声色にはどこか畏れを孕む響きがあった。
「ですが、美命さまはそこに至らなければならない。“破魔の神氣”を完全に自分のものとする為には、魄を操る技術の向上は必要不可欠なのですから」
「あ、あまり脅さないでくれよ」
 今の自分では到底敵わない目の前の女傑を超え、更にはその遥か上に立つ師の領域に辿り着く為には一体どれだけの時を研鑽に費やさねばならないか。今のミコトに想像などできよう筈も無く、そしてそれが出来ると軽々しく断言出来る程に自惚れてもいなかった。
 ただサクヤが向けてきている期待の片鱗を目の当たりにして、ミコトの気は引き締まる。
「これからの課題としては縫衣型から装飾型への形態変移の速度向上と、収斂の際の余分な魄の消耗を抑える事が挙げられます。その為に日常でも出来る訓練として常時下半身に魄の収斂し、歩行の際は右足が地面に触れる瞬間には右足に、左足が着く瞬間には左足に……という具合に地面と接触の刹那だけ変移を行うように意識して下さい」
「接触の瞬間だけ……それって、もの凄く難しいんじゃ」
「簡単では訓練にはなりませんよ?」
「……お前ならそう言うよな」
 収束した闘氣を変移させるだけでも難しいというのに、その上、一瞬だけでそれをやってのけろとサクヤは言う。理論上、それは最大効率を齎す運用法だとわかるのだが、あまりにも突拍子が無く荒唐無稽だ。
 しかし躊躇う事の無い女は、やはり何処までも容赦が無い。そして妥協など認めてくれはしなかった。
 両腕の痛みが徐々に無くなっていくというのに、ミコトの双肩は寧ろ重くなる。
「他にも色々と克服すべき点はありましたが、それは追々指摘していくとして……本題に入りましょう」
「本題?」
「護神刀の事です」
「!」
 回復魔法を展開しながらミコトだけに聞こえる小声で話し始めたサクヤに、ミコトは思わず息を呑み込む。
 咄嗟に目線だけで周囲の様子を窺うと、周りの人間はいつの間にか隣で繰り広げられていたイズモとアズサの剣舞に魅せられていて、こちらを注視している姿は見られなかった。
「今の組手では使っていらっしゃいませんでしたが……何故ですか?」
「何故って……あれは消耗が激しい上に、思った以上に威力が大き過ぎてあまり――」
「どんな理由があるかと思えば……呆れました。その考えは浅慮にして傲慢というものですよ」
「な、なに?」
 失望を色濃く載せた非難の視線にミコトはたじろぐ。
「護神刀は貴女の“魂”と“魄”を同時に喰らって力とし、魔を調伏する神浄の刃。それを用いれば急激な消耗が起こる事など既に自明だったでしょう? よもや威力が大きすぎる事を危惧して温存していたとは……」
 落胆のあまり言葉さえ続けられないのか、諦念を滲ませた小さな溜息を吐くサクヤ。そんなあからさまに貶しているような姿を眼前に突き付けられては、組手に敗れた側のミコトであっても流石に黙っている事ができなかった。
「さ、朔夜っ!」
「逆に美命さまは先日イシスより預けられた『黄金の鉤爪』を使っていらっしゃいましたね。それは所有者の精神を蝕み、また周囲の意識を邪に引き寄せる呪物……美命さまだけが呪に捕われず平然と扱えますが、今後どう扱うつもりなのですか?」
「どうって……そりゃあ他の人にとって害になるなら、私が借りている間はなんとして、も……っ!」
 激昂を発しても柳に風。至極冷然としたサクヤが何を言わんとしていたのか、その意図に気付いたミコトは瞬きをしながら自らの右腕に鎮座する艶やかな装具を見つめる。
 静かな、それでいて望んだ回答に自ずと到ったミコトを満足気に見つめてサクヤは首肯していた。
「大き過ぎる力を手にした時、まっとうな人ならばその大きさに震え、畏れる気持ちは私にもわかります。ならば尚の事、手にした力が暴走しないように飼い慣らし、完全に自分の制御下におく事が力を持つ者、持った者の責任というものです」
「力を持つ者の……責任」
「護神刀に関して美命さまの認識が甘かったのは、その由来を告げなかった私共の落ち度ではあります。……美沙凪様からは時機を見て伝えるように命じられておりましたので、良い機会ですから言っておきましょう」
「あ、ああ……」
 これまでに無く真剣な表情で綴るサクヤに、ミコトは知らず唾を呑み込む。
「護神刀“天照アマテラス”、“月読ツクヨミ”……“素戔嗚スサノオ”は、それぞれ倭国に往古より伝えられ神代の霊剣“天蠅斫剣アマノハバキリノツルギ”を三つ分けた内の一振り。そして護神刀に神威を与える美命さまの“破魔の神氣”……その真名こそが“天叢雲剣アマノムラクモノツルギ”。八岐大蛇を倒すと定めたならば、何よりも貴女自身の成長が必要不可欠なんですよ」
 伝承のように厳かに紡がれた言葉を脳内で反芻し、ミコトはじっくりと咀嚼する。そして目を剥いてサクヤに詰め寄った。
「待て……ちょっと待てっ! なんだそれ……何だそれはっ!? “破魔の神氣”が“天叢雲剣”、だと? それはオルテガ殿が使っていた『草薙の剣』を指すんじゃなかったのか!?」
「……違います。オルテガ殿が大蛇を封じた時に用いていた剣は、かの剣聖より受け継がれたと言われる『聖剣・奇蹟の剣』……“剣姫”アズサ=レティーナ殿が持つ『聖剣・滅邪の剣』と同じく、神代に六色竜を滅ぼす為に創造されたと伝えられる“星辰六芒剣ガイアクリーヴァ”の一振りです」
「そんな……馬鹿な」
 瞠目したミコトは愕然とした様相を隠せない。
 全身を打ち震わせさえする驚愕を律する事ができていないミコトの大声を聞き止めた周囲が、座する二人に何事かと視線を集め始めていた。
 しかし今のミコトにそれを気にする余裕は皆無だった。
「じ、じゃあ『草薙の剣』って……一体?」
「大蛇の肉体と精神を断ち、且つ〈封龍殿〉に縫い付ける楔たる『草薙の剣』は、大蛇自身が最初から持っていた剣……いえ正確には、剣であった物の破片です」
 サクヤの告白をどこか遠くに感じながら、ミコトは動擾する心が打つ拍動に顔を顰めていた。
 封じられて尚、故郷を蝕み続けている龍魔将ヤマタノオロチを滅ぼせる可能性を秘めた『草薙の剣』。それを扱える使い手を探す為に旅立ち、そしてその担い手として“アリアハンの勇者”という存在を求めてアリアハン王国に向かい、当人の旅路に同行して現在に至っているのだ。
 サクヤの言うそれは、自分自身の原点そのものを覆す。何よりも自身の成長が求められるのであれば……価値観がまるで合わない“アリアハンの勇者”に同行する必要が全くと言って良いほど無くなってしまうのだ。
 想像だにしなかった真実の欠片を手にして、鈍器で殴られたかのような衝撃にミコトは眩暈と吐気を覚える。
「……なんで、何でそんなっ――」
 泣き出しそうに顔を歪めたミコトであったが、それ以上に真実を語るサクヤの顔に暗い影が落ちて張り詰めていたので言葉を続けられなかった。
 白磁の痛々しさに満ちた相貌が、故郷を発つ際、護神刀を受け取った時の実姉ミサナギの表情に酷似していたのだ。
「今の美命さまにこの事実を突き付けるのは不忠だと重々承知しています。ですが美命さまは、一年前のあの日より自分は進めているのか、と疑問を仰られました」
「あ、ああ……」
「どんな事でも真摯に受け止める責任感の強さは貴女の美徳です。しかし世界とは、表層に浮き出て、光に当たるものだけで構成されている訳ではありません。この世界の有様を直に見て、あなたが得られてきた経験全てがそれを証明しているでしょう?」
「…………」
 言いたい事がまとまらないのもあったが、それ以上にサクヤの提言が自分の理性に納得を生じさせていた為、ミコトは険しい表情をしながらも首肯するだけで言葉を挟めない。
「そう頷けるのならば前には……少なくとも立ち止まっている事など有り得ません」
「朔夜……」
「ただ、私共の願いとして……焦らず、肩の力を抜いて下さい。自らに急切を迫る余り己を顧みれない路は、自身の破滅に繋がります。弛む暇無く張り続けた糸には、弾け切れるしか行く末はないのですから」
 そう静かに告げたサクヤの双眸は、深い哀切の色彩に染まっていた。




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