――――第六章
第七話 かげろう
窓から射し入る陽光に照らされて、宙を漂う微かな塵埃が鮮烈な光に灼かれながらゆっくり零れていく様は、その場に満ちた深甚の情念の影を色濃くする。
丹念に整理整頓が為された店内には耳に痛いまでの静寂が落ちていたが、それを嘲笑うように壁や窓を伝って外の生活の音韻が不躾と響き渡り、水で満たした杯の如く些細な事で即座に決壊してしまう表面張力的な緊張によってこの閉ざされた空間が今、世界から隔絶された位置に在るという事を逼迫した空気が主張していた。
「君も知っている通り、ここ十数年でカリオテの権威が強まったのは、貴族達を統括すべき筈の王家の力が弱まっていたからよ」
仄暗い湖底の深淵を思わせる雰囲気の中。燦然とした光に溢れている窓の外に視線を投じていたタニアが、沈黙を破り徐に口を開く。
「その元凶は魔王や魔物に有り、変わり往く国際情勢に有り、当時国を導いていた先王陛下に有り、そして……君の父、オルテガに有る」
「……」
タニアに背を向けたままのユリウスは、外の明るさに比べてより暗い屋内の陰を面に載せて無言で頷く。
二十年以上も昔。永きに亘って世界同盟盟主として泰平を維持してきたアリアハン王国は、弱体化の途を緩やかに進んでいた。それは特異な事ではなく、世界各国の歴史を顧みても往々がそれぞれ辿った形跡を残している、言わば時の移ろいによる盛者必衰の理を表しているに過ぎない。
如何にアリアハン王国が世界の頂点に君臨していたと言えど、時代の変遷に伴う衰退の波濤に抗う事は難しかったのだ。
だが、なだらかだった天秤の均衡を崩し一気に斜陽へと傾けたのは、幾つもあった綻びの要因が機を計ったかのようなタイミングで重なり、一挙に押し寄せたからである。
即ち、魔王降臨を始端とする魔物の出現と各地への侵攻。それに対する人界の抵抗。
未曾有の事象を前にして浮き足立つ同盟の連携が呆気無く崩され、孤軍奮闘を余儀なくされた各国家。そして――。
「先代王ビスマルクは生来気弱で、今の激動の時代に立つ王としては不向きな人格だったと聞いていた」
今から十年前に病没したアリアハン先王といえば穏健な人間として知られ、策を弄するよりも民との対話を何よりも重要視していた。その姿勢は現王ザウリエも踏襲していると言えるが、彼の王の場合、毅然とした偉容から発せられる清冽な存在感で彼我の立場の相違を明瞭にし、厳格な規律を以ってして踏み越えてはならない絶対の境界を浮き彫りにする事で整然とした秩序を保つ事を成していた。
それに対して先王は穏健過ぎるが故に意志薄弱で優柔不断。人が好く簡単に言葉を信じてしまう性格であった為に、邪な考えを抱き狡猾に近付いてくる他者につけ入れられる隙が過分にして多かったという。
幼少期に一応の面識を持つユリウスも歳月と知識を重ねるにつれ、そういった王であったと認識するようになっていた。
何の感慨も見せず肩を竦めたユリウスを尻目に、その当代を生きていたタニアは両腕を組んで何度も首肯していた。
「確かにそうね。無礼を承知で言うならば……先王陛下は物腰が柔らかいというか、とにかく決断の出来ない方だった。だからこそ陛下の右腕であったカリオテ家が指導する“
隷属派”の台頭を許し、彼らに王国を裏側から操らんとする野心を生じさせてしまった」
“隷属派”ないし“
叛逆派”とは、アリアハン王国を運営する王国貴族院に存在する大きな二つの政治的派閥の事だ。それは専ら社会体制、歴史慣習の在り方について意見を戦わせており、新たなものを厭い往古より連なる旧態を遵守する“隷属派”に対し、“叛逆派”は様々な面で革新的な思想、新たな秩序を造ろうと行動する者達である。
何れも是として唱える主義の違いで永く反目しあっていたが、それでもその摩擦は国をより良い方向へ導こうとする意思に起因していた為、結果として多角的な視野の拡充と共にアリアハン王国の政治水準は高められ、巨大な世界同盟を支える原動に一役買っていた事になる。
だが時代が移れば統治者も移るのが条理である。そして統治者が変われば、国やそこに住まう人々の意識の色模様が変わるのも情理であった。
やがて、先代王が御しきれなかった臣下である隷属派の野心は露顕する。それは旧きを尊び、永く仕えていたが故に生じてしまった剣の歪。血に塗り固められた剣が光り輝く杖になる事を望んだ妄執と言えるだろう。
踵を返したタニアが感情を載せない眼差しでユリウスに投げ掛ける。
「そして、ある意味その状況に止めを刺したのが君の父親、オルテガの存在。詳しくは言わなくてもわかるよね?」
「言われるまでも無い」
ユリウスは鬱陶しそうに肩を竦め、一呼吸置いて淡々と返していた。
剛毅なる巨人であっても、足元に転がる些細な石礫一つに躓き、転んでしまう事もある……つまりはそう言う事だった。
世界同盟という巨大過ぎる体系の中枢にて、多岐に亘る傍からの声に蕩揺う意志の脆き王の統治は、盤石であった国家と言えどその屋台骨を揺るがすには充分に足りた。そこに地盤そのものを鳴動させる魔王、魔物という常識から逸脱した脅威の顕現。そして何よりも、それを打倒せんと立ち上がった希望の英雄の存在はあまりにも大きい。
聖典に記されている邪悪の化身と、それを討つべく世に現れる救世主。まさに天の采配とでも言うべく程に都合の良い展開で、熱狂する人々によって伝え易く飾り立てられた輝かしき英雄譚、即ち偶像の黎明。
幻の光に照らされての偽りの夜明けにより、アリアハンという国は自ら立ち上がり抵抗せんとする積極性、自己防衛の基礎となるべき反骨精神を悉く萎ませてしまったのだ。
事実オルテガが出立し、その没が伝えられるまでの六年間。その間のアリアハンの姿勢は幾つかの例外を除いてその殆どが受身に徹し、自国が誇る勇者の戦果を待つだけの怠惰の一言に尽きる。誰もがその齎されるであろう眩い結果を疑問に思わないまでに人々が勇者オルテガに寄せる期待は絶大で、王自身の明確な信頼がそれを諌めるどころか肥大させていた。
それは上天の光ばかり見上げるが故に、足元への注意が疎かになる典型。“アリアハンの勇者”という清廉で強すぎる輝きは、それ程までに人々の意識を囚えて放さず。正にも負にも国家の基盤を侵蝕する細動は収まる事を知らず。
魔物出現より数えて十余年。“勇者”という幻影に縋る様は英雄オルテガの訃報を契機に終息するかに見えた。
「でも結局、幕引きは訪れなかった。他ならぬ、君という存在の登場によって」
英雄は斃れ、続いて王は崩御する。それら一連の悲劇によって一つの幻想は確かに終わりを迎えた。しかし人々が寂寥の余韻に浸る間も無く次なる夢を、失われかけた幻の新たなる続きが用意される事になる。
それこそが当時既に権勢の中枢に立っていたカリオテにより仕立てられていた“オルテガの息子”。その存在を新王の座に就いたばかりのザウリエが巧妙にして絶妙なタイミングで、“アリアハン勇者”を継ぐ者として世界に発表したのだ。
偶像は斜陽の刻を迎えず、人々は未だに希望と言う幻の影を追う事になった。……そこに確かに実在する一人の少年を置き去りにして。
「……実に迷惑な話だな」
ここ十数年の世情の変遷など、当事者でありながら所詮は他人事との認識が確立しているユリウスには既に何の感慨も齎さない事実にしか過ぎなかったが、嘗ては
そこに属していたタニアはそうではなかったようだ。
窓から射る昼下がりの光を目を細めて見上げ、タニアは懺悔をするような雰囲気で連ねた。
「私は、隷従派としての旧き業を背負わせるカリオテ家が昔から嫌だった。他とは明らかに異質であるにも拘らず、それを少しも疑問と思わせない思想統制。英才教育と聞こえだけは良い異常な文武教練――」
「だからこそあんたは十七年前、自分の宿業から逃げ出した……生まれたばかりの妹に、全てを押し付けて」
「……否定はしない。どうしようもない位に事実だものね。そして、君が今も無理矢理に抑え込んでいる殺気の根源は
それなんでしょう?」
背を向けたまま視線だけを肩越しに言われてユリウスは目を見開く。殺気の制御など幼い頃から行なってきた今や呼吸にも等しい自然な行為なので、その扱いにはそれなりの自負を持っていたが、こうも容易く看破されるとは思っていなかったのだ。
「……気付いていたのか」
静かに紡がれた言葉には称賛に近い感嘆と、嘗てカリオテであった眼前の女性への警戒が複雑に織り交ぜられていた。
そんなユリウスの言葉と視線を察して、タニアは薄く笑う。
「良く研ぎ澄まされているわね。だからこそ、それを包み込む
鞘にはそれ以上の強度を求められると言うけれど、君の場合は――」
「…………」
何かを言いかけたタニアを否定も肯定もせず、ユリウスはただ凝視する。温度の通っていないような仮面の無の中で、その双眸に宿る漆黒の輝きだけが一層鋭さを増した。
その時点で既にユリウスは殺気の抑制を放棄し、無為自然なるがままに垂れ流していたのだが、肌寒ささえ覚える重圧を直に浴びながらもタニアは少しも取り乱す事はなかった。
胆力の弱い者ならばそれだけで恐慌を来たすであろう無言の圧力をゆっくりと噛み締めるように、タニアは頭を左右に振る。
「……いいえ。何れにせよ、少なくともあの家に生まれた以上、私にそんな人間らしい悲嘆に暮れる資格は無いわ。『カリオテの者は人に非ず。ただ主君の利刃として生を捧ぐべし』、なんてのが家訓だからね」
耳に馴染んだ言葉が飛び込んできて思わず息を呑んだユリウスを見て、タニアは冷たく優美な自嘲の笑みを浮かべた。
「狂っているでしょう? カリオテの歴史は血潮に狂気を溶かして連綿と重ねられてきた。そしてその果てに、狂気はカリオテを継ぐ者ではなく本来無関係である筈の君に引継がれた。……君にしてみたら、本当に迷惑な話よね」
「そんなもの、取るに足らない感傷に過ぎない。所詮俺は殺戮人形だ。血染めの路以外に進める場所など最初から存在しない」
「最初から、か……子供にそう自覚させてしまったカリオテの罪は、永遠に消えないわ」
大仰に肩を竦めて綴るユリウスがあまりにも平静であった為、子を持つ親の端くれとしてタニアは思わず天を仰ぎ眸を閉ざした。
本来自分には光に当たる資格すら無いとタニアは自覚しながらも、こうして光に曝されているのは自らの裡に巣食う悔悟を焼き切って欲しいと願う故だ。
しかしそれも結局は逃避に過ぎない現実を突き付けるように、厳然と降り注ぐ鮮烈な陽光が闇に縋りたくて閉じた瞼の裏側を粗暴に撫で付けて、抗えない眩さと熱さを否応無しに伝えてくる。
ジワジワと圧力さえ伴って責め苛んでくる光の洪水は、カリオテの名が自らの生が続く限り背負わねばならぬ業である事を囁いていた。
最初から切り離せなかったその認識を改め、再度自分の意識に蒔き散らしてタニアは開眼する。完全に感情を抑制できている証か、これまでにない冷徹な輝きを宿した眼差しでユリウスに問うた。
「あの男の行方はまだわからないの?」
それが誰の事を指しているかなどユリウスには明白であった。
「カリオテ家当主ガレイア=A=カリオテ、か。奴は“咎血の粛清”で取り逃がしたらしいが、その後の行方など俺は知らない。生存を疑っていないのか?」
“咎血の粛清”。それは一年程前にアリアハン王国で起きた政変とその結末。国家の安泰を乱す反乱因子と断定された隷属派を主導するカリオテをはじめとした周辺貴族を一族郎党粛清するに至った、市井の人々に決して知られざる血塗られた事件の事だった。
そしてタニア、いやリリージュにしてみれば肉親親戚全てを失う事になる本来ならば聞き逃せない忌々しき事象であるが、彼女の反応は実に淡白で、寧ろそうなって当然と言わんばかりに冷然としていた。
裡からこみ上げて来た暗く淀んだ憎悪を唾棄に変換して吐き棄てるようにタニアは続ける。
「不愉快甚だしいけど、私もあの男の娘……だから解る。あの男は見苦しいまでに生き汚い。何を犠牲にしてでも自分だけは生き残る選択肢を常に持っているわ。その犠牲を強いるのが例え実の娘であっても、ね」
「……王は密かに探らせているようだが、生憎と経過は知らない。俺にはもう関係の無い事だからな」
そう言って今度は逆にユリウスが瞑目する。
無の表情で平坦な声調ではあったが、それでも微かに擦れていたように聞こえたのは、黒髪の下に隠れた眉間が僅かに顰められていたのを見止めた為であろうか。
古き友の忘れ形見の痛ましささえ感じられる様子に、そう、と短く呟いたタニアは、この店内に満ちた烈々とした雰囲気を転じさせようと話題の矛先を変えた。
「十五年位前、かな。このバハラタで私はオルテガと再会した」
光溢れる窓際から離れ、カウンターの側に置いてある椅子に腰を掛ける。見上げる視線は立ち尽くしたままのユリウスではなく、その先の天井に向けられていた。
「会ったのは本当に偶然だったんだけど……なんか道連れらしい凄く可憐な女の子と一緒に泣いている赤子をあやしている姿を見つけたものだから思わず殴り倒してやったわ。『故郷に奥さんと子供を置いておきながら、外で何を好き勝手やっているんだっ!』ってね」
「……」
「あの時のアイツの顔と言ったら、スライムが水鉄砲を喰らったような顔で傑作だったわねぇ。その後、きっちり半殺しにしてやったけど」
「…………」
昔を懐かしむ表情で、だがその実は物騒極まりない発言をユリウスは敢えて黙殺する。
何をどう解釈してタニアがそんな行動に走ったか理由などユリウスには解らなかったが、十五年前。オルテガと旅路を共にした女性の存在。赤子……それらの単語が一つの帰結を導いていた。しかしユリウスはそれを形にする気は起きなかった。誰かの甲高い声が聞こえてきそうな気がして辟易したからだ。
先程とは打って変わって声を情思に弾ませるタニアの回想は止まらない。
「でもあの時のアイツの連れの女の子が人形のようにとっても可愛らしくてね。流石の私も見惚れちゃって思わず家に連れて帰ろうかと……いえ、そうじゃなくて」
暴走しかけた言葉を、んん、と喉を鳴らし一旦区切る事で戒めて、タニアはチラリと横目でユリウスを捉える。
無造作に伸ばされている癖の無い艶やかな黒髪。その奥に潜む切れ長の漆黒の双眸。無機質な色彩の眸からはやはり感情が感じられなかったが、それだけに揺るがない意志を宿しているのが良く判る。線の細い顔立ちは、逆に引き締められた精悍さを存分に醸し出していた。
そのいずれもが、タニアに嘗て置いて来た時間を想起させるには充分すぎる要素だった。
「君が店に入ってきた時、一瞬だけど本当に若い頃のオルテガが来たかと思ったのよ。アイツ、子供の頃は一応美少年に分類されるような顔立ちだったからねぇ。成人を迎える頃には図体は大きくなって、風貌とか色々ごつくなってその変貌振りに一体どれだけの女の子が泣いた事か……」
私は違うから、と半眼で恫喝するように釘を刺すタニア。ユリウスは心底どうでもよさそうに小さく肩を竦めた。
「あ、君はその点大丈夫そうね。どちらかというとセシルさん似の美人だし」
「血縁なのだからどちらかに似るのは致し方ないだろう。大体、そんな事に一体何の意味がある?」
「……そういうのに興味が無いって顔をしているわね。勿体無いわよ。今の剣姫様なんて随分熱心にちょっかいを掛けているそうじゃない」
「場所を弁えず斬り掛かって来る事か……規範となるべき立場の人間が時と場所を選ばないのはどうかと思うが、そんな事は俺が気にする事では無いな。被害を受ける側としては迷惑極まりないの一言に尽きる」
ちょっかいをかける、と表現するには随分と物騒だが、それでも傍から見れば微笑ましいものもある。しかし情感に乏しいユリウスにはそれが伝わらず、真顔で連ねられた論点の異なる回答にタニアは呆れたように溜息を吐いた。
「……君って朴念仁?」
「聞き慣れた言葉だが、その単語には一体どんな意味があるんだ?」
「真面目に聞かれると何て答えたものか困るわね……あ、でも人が持つ感情に疎い点では、若い頃のオルテガもそうだったわ。アイツの場合は天然だったんだけど」
「……あんたが何を言っているのかよくわからないが、それらがこちらを愚弄する類の言葉だというのは理解した」
オルテガと同列に扱われた事が不快だったのか、ユリウスは半眼でタニアを睨みつける。だがタニアは何処吹く風だ。
「あれ? でもそう言えばさっきの綺麗な子は君の旅の仲間よね。……ひょっとして彼女が君の恋人かな?」
実に愉しげに喜々として声を躍らせ、タニアは邪推に満ち満ちた妖しい視線をユリウスに投げかけるも、やはりユリウスはその意味を把握できず相貌は訝しげに歪んだまま。
それでも眼前の女に詳しい説明など不要である事を、カリオテである事を否定しなかった人間に対しユリウスは確信していた。
「ライズバード」
「大聖堂の? そう、彼女がルカスとディナの……」
「ルカス?」
「! ……いえ、気にしないで」
ユリウスの思惑通り、明瞭な一言で全てを察したタニアは目を瞬かせ意味深に頷く。
しかしそれが聞き慣れない人名を呼び起こしたので、思わずユリウスが鸚鵡返すとタニアは何故か言葉を濁して半ば強引に打ち切っていた。
余人が触れてはいけない話題だったのか、何処となく面倒な気配を発していたのを察してユリウスは即座にそれを意識から押し流す。他人の事情に無闇に立ち入るのは、自分にとっては危険な事だった。
「私は家の関係で王太子だったザウリエの護衛役なんて形式上やらされていたからね。ザウリエはイリオスさんに師事していたから、私もオルテガとは子供の頃から顔馴染みなのよ」
「王族、大貴族と平民の取り合わせか……全く以って理解に苦しむ。何をどう間違えたらそういう構成になるんだ?」
「こらこら。身分云々に関して言えば、君も似た者でしょう?」
「……どんな因果が働いているか知りたくも無いが、な」
嘗てを思い出してしまい、ユリウスは苦々しく眉を寄せる。
そんな不貞腐れているようにも見えるユリウスに、タニアは苦笑を零した。
「私達の場合、ザウリエの奴がイリオスさんの所に押し掛け弟子入りしたのが始まり、かな。私はそれに巻き込まれただけなんだけど……あの時のイリオスさんやオルテガなんて、ただ目を丸くしてたわね」
「甚だ迷惑な連中だ」
それは思考よりも先に反射的に口から突き出た感想で、紛れも無くユリウスの本心だった。
確かに何の前触れも無く王弟が従騎士一人を引き連れて現れ、開口一番弟子にしろと命令されたら誰だって驚くだろう。
真面目な気質の祖父の性格を思えば、大層困惑した事だろう。祖父には同情の念を禁じえない。
無感動のまま切って捨てたユリウスの言葉は当人に聞かれれば不敬罪で処罰されそうなものだが、当事者の一人であるタニアは乾いた笑みを浮かべていた。それは少なからずユリウスの言に同意するところがあった為だろう。
「君も容赦が無いなぁ……まあそのお蔭で、アイツの消し去りたかった恥かしい過去とか女性の遍歴とか色々知っているのよね。聞く? 君も知っている名前が幾つかあると思うけど」
「拒否する。価値の無い情報を記憶に留める気は無い」
「ちぇ、つまらないなぁ」
実に冷淡に拒絶したユリウスに、期待した反応ではなかったのかタニアは元貴族の淑女らしからぬ様相で大きく舌打ちをする。
「じゃあオルテガとセシルさんの馴れ初めなんてどう? あの色ボケ、真顔で『俺の前に天使が現れたんだ』とか言って、口を開けばセシルセシルって誰彼構わずに延々と惚気てたから、一番それを聞かされていたザウリエなんて相当鬱陶しがっていたのよね。一時期、職権でも何でも使って本気で辺境捜索隊に入れてやろうか悩んでたわ」
「……どうでもいいと言っている。俺は世間話をしにここに来た訳ではない。いい加減用件を済ませたい」
何時の間にかオルテガの暴露話になってしまった状況に、心底億劫そうにユリウスは苛立たしげに腕を組む。
もしも仮に今この場に旅路を共にする面々が立ち会ったならばさぞ驚いただろう。明鏡止水を地で行くユリウスの普段らしからぬ不機嫌さを露にしている事に。
流石にその辺りの事情までは知る由の無いタニアも、その言葉にようやく思考が
今に帰還したのか、今更ながらに不思議そうにユリウスをまじまじと見返した。
「そう言えば、そもそも君は何をしに来たの? 私がバハラタにいる事なんて全然知らなかったようだし」
「ここは胡椒屋だろう? ならば、胡椒を買いに来る以外にどんな用件がある」
「え!? あれって単なる建前じゃなかったの?」
「あんたに関してはただの偶然だ。それ以上でも以下でもない」
至極真っ当な事であったがタニアは心底怪訝な表情を浮かべる。
「……魔王討伐という君の旅路に胡椒なんて何に使うの? 魔王にでも振り掛ける気?」
「そんな事…………俺が知るか」
実に核心を突いた質問であったが、流石のユリウスもそれには閉口せざるを得なかった。
紆余曲折を経て、漸く目的の『黒胡椒』の購入を果たせたユリウスであったが、達成感など微塵も無く。ただ異常なまでに気疲れしただけだった。
どういう訳か気を使ったタニアが提示した金額以上の量の黒胡椒を譲ってくれた為、当人は今も梱包に格闘中である。
そのタニア曰く、『ポルトガでばら撒けば軽く一財産築ける量』らしい。流通規定を鑑みても、他の同業者達の目から見ても迷惑な話である。
許容量以上に胡椒が詰められて膨れ上がった革袋を受け取り、それを億劫そうに自分の荷物の中に放り込むユリウスの後姿を、カウンターに両肘を立てて眺めていたタニアは吐息を零した。
「でもそうかぁ。オルテガが亡くなり、ザウリエが王を継いでもう十年……あの頃はこんな事になるなんて夢にも思わなかったな」
それは誰に向けたでもない独白。戻らない過去を顧みる、自分だけに投げ掛ける追憶の言の葉。
先程から昔語りにどこか熱を帯びさせているタニアの様子は、ユリウスにはまるで見た事が無い異様なものとして映っていた。オルテガを知る者の昔話など聞くに値しないものだと常々一蹴してきたが、タニアの語った様はそれらに比べてあまりにも異質だった。
その理由を、何故か先刻から意識がささくれ立っていた原因をユリウスは直ぐに見つける。
「あんたにとってオルテガは……
人間、なのか」
小さく呟いた言葉は、狭い店内では他者に簡単に拾われる。
ユリウスのありとあらゆる感情の一切が抜け落ちた茫然とした声を聞き止めて、タニアは眦を細め、これまでとは一線を画した一児の母親の慈しみに満ちた顔でユリウスを見つめた。
「……そうだね。でも君にとっては偶像。いえ、陽炎のようなものだったね」
そこに在るように見えて実体の無い、儚いもの。だがそれだけに印象は人の意識に根強く残る。
ならば、歪曲し誇張されたまま蔓延る事になった虚像になる事を義務付けられた自分は一体何だというのだろうか。
ユリウスは心中で自らにそう問いかけてみる。
(……結論など既に出ている。“アリアハンの勇者”とは、予め用意された台本通りに演じるだけの単なる道化に他ならない)
陽炎など、遠くに在るように見えるだけで、決して近付く事も触れる事も叶わない希薄な存在でしかない。数多の努力を重ねた先にそこに迫る事はできても、決して至る事はできないのだ。
そんな判りきった現実を、自らにその義務を与えた者達は知っていた筈だった。そもそも現実を冷静に見つめたからこそ、自分は
次として用意されたのだから。
しかしそれでも。手に触れられないと解っているからこそ、“勇者オルテガ”という強烈な輝きを放つ偶像の再来を求めて止まなかったのだろう。
それは幻に拘るあまり自ら視界を閉ざしているのと同義であり、魔物と言う
現実に対する為と言う当初の題目とは矛盾している。そして、それを肌で感じ理解していながらも、結局それをやる事しか選択肢が無かった己が身は実に滑稽で愚昧甚だしい。
零れ落ちそうになっていた他の荷物を手で押し止め、自嘲の笑みを封じ込めたユリウスは替わりに双眸を伏せる。
その神妙な横顔から眼を逸らさずに、タニアは静かに問うた。
「アイツは自分の信じるものの為に戦っていた。世界とか国とか、そういう大きなものじゃない。もっと身近にある、アイツ自身の大切なものを守る為に剣を手にして立ち上がった……君には、そういう自分の中に掲げる
刃、ってある?」
「…………」
真摯な問い掛けにユリウスは答えず、無言のまま緩慢と立ち上がり荷物を抱える。
その手の問い掛けに意味など無いという認識が既に出来上がっている以上、答えはいつも否。瞭然過ぎるくらいにユリウスには自明だった。
(確固たる信念など……ある筈も無い)
《どんな状況に陥ろうとも、自らの中に定め高く翳した刃を信じ抜く事だ。仮に己が信じた世界の総てに裏切られた時、最後に自らを支えるのはその剱しかない》
ほんの数週間前に聞いた、今の自分では到底届かない遥かなる高みからの声。そして予てから祖父に言われ続けた言葉が脳裏に再生される。
普通なら、それ程までに一目置いた存在の言葉ならば自分の中でも重く受け止められるべき事であるが、ユリウスにはどうしてもそれが出来なかった。否、する訳にはいかなかった。
自分を信じる事だけは、絶対にしてはならない。それは決して赦されない事だったからだ。
死への恐怖に怯え、殺戮しか知らない自分が初めて護りたいと思ったセフィーナを殺めた自分。
セフィーナとの最後の約束の為に、魔族に堕した兄とも思ったアトラハシスを必ず殺害すると決めた自分。
そしてその為に……定めた目的を完遂する為に更に一つ罪を重ねた惰弱な自分の事など、どうして信じられようか。
(血剣を振るう者は、殺戮に溺れ、やがて剣によって滅ぶ)
嘗てどこかで、誰かが言っていた言葉。しっとりと自分の中に染み込んだのは、十六年生きてきた中で数える程度しかない。
その内の一つで、それこそが旅立ち前に自分に課した命題。偽りの感情しか持たない自分が定めた、偽りであれど遵守しなければならない絶対の
宣誓。
(一度でも命をその手に掛けた者は、終を陰惨に迎えなくてはならない……その時を、迎える為にも)
だからこそ常に戦いの中に飛び交う狂気に身を投じる。目的に向かう自分自身を見失わせない為の手段が、それだけしか無いのだとわかっているからだ。
(そうだろう?)
―――コーデリア。
震える意識で虚空にそう問いかける。
その名が脳裡で反響し、自分の中の何かが削げ落ちていくのを実感してユリウスはタニアに背を向けた。
次の瞬間。ソニアに街を案内しに行った筈のターニャが、何故か都市の憲兵に連れられて帰宅する。
その涙ぐんだ声韻に、決して聞き逃してはならない怨敵の名を乗せて―――。
*
「ソニア、少しは落ち着いたかい?」
あれからどれだけの時間が流れたのか。今の今まで目の前に現実化していた事象によって心が激しく拍動し、抑えられていないソニアには解る筈も無く。
実際には数刻も経っていないのだが、既に冷たくなってしまったカップの中身一気に飲み干し、再び温かい湯で紅茶を淹れ直しているアトラハシスの気遣いが何処か遠くから響いてくるようだった。
「え、ええ。いえ、ごめんな……さい。わ、私まだ頭が、混乱して……何て言ったら良いか、わから……なく、て。その……でも――」
何とか言葉を連ねようとしても途端に切れ落ちるまでにソニアの思考は混乱の渦中にあった。自分の中で固まっていた筈の認識という地盤の一つが崩壊してしまったのだから、それは無理からぬ事だろう。
血の気が失せる、という言葉を文字通り体現して顔色を蒼白にさせているソニアは、泣きじゃくって何度も擦った為か赤く腫れた双眸に涙の残滓を湛えたまま俯いている。
繊細そうな乙女が痛痒のあまり打ち拉がれるその姿は儚く、相見える者に言いようの無い罪悪を感じさせて止まない。それは過去の彼女の姿を記憶するが故にアトラハシスとて例外ではなかった。
しかし、彼女をそんな状態に導いた元凶は紛れも無くアトラハシスであり、彼には真実の一端に触れたソニアが
こうなる事など最初から解っていた事だった。
「また後で機会は設けるからね。
向こうもそう言って聞かないし……それよりも、これ以上話を続けるのは止めておくかい? 君にそんな顔をされたら、何だかぼくは悪い事をしている気分になるよ」
「あの、す、すみま……せん。わ、私」
朗らかに責め立てるような言葉を連ねてみると、本当に申し訳無さそうにソニアは細い両肩を落とす。力無く消え入りそうな声の呟きと、真っ直ぐな浅葱の髪が青い衣の上をスルリと流れている様は、彼女の悄然とした心中を如実に表しているようで空虚さを醸し出しているようだった。
勿論アトラハシスに彼女を追い詰めようとする腹積もりなど微塵も無い。寧ろ逆に、他ならぬソニア自身の意志と望みを尊重し、真実と向き合う事への後押しをしてやろうと協力的であった。但し、その事で生じる傷みの全てとも等しく対面して然るべきだという心算が根底に存在していたが。
その為かアトラハシスは項垂れているソニアを前にして生じてくる呵責による胸の傷みを意志の力で押し殺し、感傷に絆される事無く彼女の心情を気にしない事に徹していた。
結果としてアトラハシスの言動はどこか冷たく、あえてソニアの感情を逆撫でるように穏やかに続けられる。
「だけど最初に言った事だろう? 真実を得るには覚悟が要る、ってね。それとも真実を見つけようと故郷を発ってまで固めた筈の決意はそんなにも簡単に躓き、立ち上がれなくなるまでに脆弱なものだったのかい?」
「そ、そんな事はっ」
ない、と言おうと顔を上げたソニアであったが、アトラハシスの無機質な眼差しに小さく身体を震わせ、逃げるように視線を卓の上で所在無く彷徨わせる。
思いの他強い口調でアトラハシスに言われてしまったが為か、或いは生来の感受性の高さ故か。
相手が発する感情に敏感になり過ぎているソニアの昔と変わらぬ姿に一つ柔和な微笑みを浮かべ、アトラハシスは落ち着かせようと卓の上に身を乗り出して彼女の頭を撫でた。
「えっ、あ、あの……殿下?」
「ちょっと意地悪し過ぎちゃったね。ごめん、ぼくも冗談が過ぎたよ」
それはまるで泣き止まぬ子供をあやす親のように大らかな温かさと共に。成人して既に数年経っているにも関わらず、その行為に気恥ずかしさよりも寧ろ安堵を覚えてしまったのは、今の彼がソニアの知るアトラハシスそのものだったからだろう。
行動の一つ一つに優しさが溢れる姿と
つい先程の出来事とが相俟って、少しも色褪せていない懐かしい時間が戻ってきたのだと実感し、ソニアは漸く惑い迷う内心を鎮める機会を得る事ができた。
粘着質に渦巻いていた胸の裡の澱みを溜息と共に深々と吐き出すと、ソニアはけたたましく揺れ動いていた筈の視界が徐々に定まってきている事に気が付く。混濁して宙を漂っていた意識が、久方振りに確りとした地に着いたのだ。
ソニアの目の確然とした意思の光が戻ってきたのを見止めたアトラハシスは、自らのカップを口に付け、湯気と共に芳しい香りを放つ紅茶を一飲みする。これからの事に備え、清涼な感覚が身体はおろか意識までも濯いでくれたようだった。
「さて、どこから話そうかな? いや、まずはまた脅しておこうか」
緩やかに剣呑な宣言をしてアトラハシスがソニアを見つめると、彼女のしっかりと引き結んでいた口元が刹那動き、瞬きの間隔が早く短くなっていた。
ソニアの反応はアトラハシスがそうなるように言ったのだから当たり前の事なのだが、心の動きを如実に行動に反映させてしまうのは彼女の素直過ぎる性質の美点であり、同時に欠点でもあるとも言えよう。
しかしそれでも。身構えるという心中をそのまま顕現させながらも、彼女は紡がれるであろう言葉をただ一心に待っている。
アトラハシスはそんな彼女の純真さに眼が眩む思いを抱きながら、ゆっくりと続けた。
「これから本題に入るけど、話の内容はまた確実に君の認識の一つを壊すと思う。そして君は知る事になるだろう……君が今まで生きてきた世界は、虚飾に彩られた綺麗な箱庭に過ぎない事を。真実の世界は、とても醜く歪んでいて矮小で残虐で、酷烈なものだと言う事を」
そんな言葉を受けてあからさまに身を強張らせるソニアを眼前にしながら、やはり自分は狡いな、とアトラハシスは自嘲する。
実のところアトラハシスは、ソニアにとって一番心が穿たれるであろう事実を敢えて最初に告げていた。彼女の中に根差す優先順位を鑑みれば、ソニアにその事実を受け容れる以外の選択肢が無い事を知っているからだ。そもそもその痛烈な洗礼さえ越えられれば、後は率先して我を主張しようとしない朴訥な彼女の性質から、途切れる事無く真実を語れるであろうと算段をつけていた。
そして、ソニアは最初の閂を開け真実の一欠片を受け入れる。心が動擾するあまり泣き崩れた先程の姿も併せ、全てアトラハシスの思惑通りに。
相手が他ならぬソニアであれ、そんな悪辣な打算を講じている自分の狡猾さに嫌気がさしながらもアトラハシスは気を緩めない。そんな単純な計量で済む程に人の心は単純ではなく、十全に理解しているアリアハンの裏側に巣食う闇は深遠なのだ。
やがてアトラハシスの柔らかな雰囲気から一転し、真剣な翡翠の双眸からはこれまでのように言葉をわざと弄しているおどけた色彩が完全に消え失せていた。
「自分の立っている場所があやふやになって、今のような苦しい気持ちになりたくないなら、ぼくはここで止める。だけど君がそれでも真実を望むと言うのならば、途中で耳を塞ぐ事は許さない。君の求めている真実とは、そういう類のものなんだからね」
「……お願い、します」
強い眼差しからひしひしと伝わってくる真摯さを覚り、ソニアは静かに唾を呑み込む。次いで目尻を拭って膝の上に乗せ、その両手を握り締めながら確りとした口調で答えた。
顔色こそまだ良くなかったが、それでも双眸に宿る輝きはつい先刻、同じ問い掛けをした時に返ってきたものと同じ。
悲壮ささえ滲ませたソニアの面を見止め、これまで何度も反芻した過去の事実を頭の中に呼び出して、アトラハシスは瞼を閉ざす。
「解ったよ。じゃあ結論から言うね。第二次アリアハン王都襲撃事件……あれは、とある人間達の反乱さ」
「は、反乱っ!?」
いきなりに告げられた核心は、正に思いも寄らない単語だった。
ソニアの中で反乱と聞けば、以前滞在していた聖王国イシスでの王弟アスラフィルの叛逆が思い起こされる。
自国の民を不死者に変え、その凶牙を以って同胞を苦しめるという陰湿にして怖気の走る、正に悪逆の限りを尽くした所業と言えた。しかし協力者として後から真相を聞かされた限りでは、表面的な事実だけに非ず。あの反乱における首謀者アスラフィルは、やがては破滅を導く古の
軛に縛られ続ける民を憂い、誰よりも祖国の未来を案じたが為に敢えて国に弓引いたという話だった。
それが正しいか否かの判断は、他国の人間で所詮は余所者であるソニアに下せる筈も無い。だがその自己犠牲に通じた清き理念に共感する部分があったとしても、掲げた旗の下に人が傷付き死する事になっていたのは紛れも無い事実なのだ。あの時の人々に浮かんでいた嘆きや悲しみや苦しさ、悔しさを思うと、見据えた目的に到達する為に他のあらゆる一切を振り切る事など自分には到底できそうにないと改めて強く自覚させられた。
その為、自らの祖国アリアハンの平穏な空気の中にそんな不穏の気配が潜んでいたのだろうかとソニアは疑問を胸中に浮かばせる。そもそも
反乱とは歴史的に見ても人間だけが行なってきた事であり、そこに魔物が絡んでくるのは一体どういう理由があっての事なのかと急に不安に駆られた。
その時を思い起こしながら、アトラハシスは鷹揚に頷く。
「そう、反乱だよ。古くから王家に従属しながらも、現在の政治体制の中枢から外されてしまった“隷属派”という派閥の人間達が、現体制を主導する“叛逆派”に対して引き起こした
謀反の結実。勿論それは市井の民が知るところのない領域で行われていたんだ。……まあ世間では、魔物というより解り易い脅威が犇いていた訳だから、暗く澱んだ政争になんて気付かないだろうね。隷属派の行動は常に水面下での事だったし、それに対する叔父上の采配は隙も容赦も無かった」
確かに魔物の脅威は、城壁の中で生活する日々であっても常に何処かに暗い影を落としていた。
それでも屈強な兵達に護られて平和を維持しているのだと頑なに信じていた身としては、祖国でそんな出来事が起きていたなどと言われても、そう簡単に信じる事はできない。故郷で過ごしていた平和が確かに自分の中で息衝いているからこそ、その念は強い。
瞠目してはいるがソニアの表情はそれを雄弁に物語っていた。
ソニアから眼を逸らさず真っ直ぐに見つめ返したまま、アトラハシスは卓の上に乗せた両手を祈るように指を絡ませる。そしてそこに口元を当てて覆い隠し、訥々と連ねた。
「そもそも何故反乱という結果に辿り着いたか……その過程を語るには、まずユーリの事を話さなければならない」
「ど、どうしてユリウスがアリアハンの反乱に関係するんですか!?」
予想だにしなかった名前が浮上した事に、ソニアは眼窩から眼球が零れんばかりに見開く。
だがその反応は当然だった。平和であると思っていた祖国で反乱が起きていたなどと言うだけでも眉唾なのに、更にはそこに旅路を共にするユリウスという個人……いや、より広義で“アリアハンの勇者”が関わっていたと言うのだ。その関連性にソニアの理解が追いつかない。
狼狽する彼女の心境を手に取るように明朗に察したアトラハシスは、ただソニアの反応だけを見て淡々と首肯する。
「君はこれまでユーリの旅路に着いて来た訳だから、当然彼に回復魔法を使った事があるよね。効き、悪かっただろう?」
「え、ええ。うまく言えませんが、回復魔法を使った時、何かに阻まれているような感覚がしたのを覚えています……殿下はどうしてなのかご存知なのですか?」
一転して今度はまるで方向性の異なる問い掛け。話の矛先が一向に見えない流れにソニアは動揺を隠す事ができない。
ただそれでも紅の双眸を揺らし、しどろもどろになりながら何とか事実だけ掻い摘んで答えていた。
「簡単な事だよ。ユーリの魔法抵抗力は異常に高いんだ。具体的に言えば、セフィの中級攻撃魔法を至近距離で受けてもまともな効果が得られない程に、ね」
「ね、姉さんの!?」
“理叡の魔女”セフィーナ=アルフェリア。その名は狭いアリアハン大陸に留まらず、世界にさえ伝わっているアリアハン史上最年少で宮廷賢者に任ぜられた稀代の魔導士の名前であり、賢者認定機関ガルナより“試練”を経ずして“賢者”と認められた秀逸な魔韻の奏者である事を意味する。事実、術者としてのセフィーナの能力は“マナ”の活動が著しく抑圧されているアリアハン大陸において随一、規格外と畏れられる程のものだった。
そんなセフィーナが紡いだ中級攻撃魔法は、恐らくは他の者では上級魔法に比肩する威力を秘めているだろう。だがそれでさえ、ユリウスにはその効力を殆ど発揮しないという。
指摘されたのは俄かには信じられない事で、だがアトラハシスの声色は嘘を言っているものではなかった。
驚愕をありのままに表情に貼り付けていると、アトラハシスは苦笑を零していた。
「信じられない、って顔をしているね」
「それは、まあ……だって姉さんの魔法を、なんて――」
「その気持ちも解らないではないけどね。でも、事実だ。イシス戦役の終戦時、ユーリは獣魔将副将ライオンヘッドが放った上級閃熱魔法ベギラゴンを完全に掻き消したそうじゃないか」
ぼくは直接見た訳では無いけど、とアトラハシス。
魔王軍の中で最も数が多く獰猛な魔獣の群を率いる獣魔将ラゴンヌの右腕、ライオンヘッド。魔族としての格では中階級程度で、且つ魔法を扱う事を本分としてはいないが、それでも魔物や人間とは比較にならない魔力を誇っていた。
もっとも、本来ならばライオンヘッドのような畜生如きとセフィーナを比べる事自体おこがましいとアトラハシスは本気で確信している。だがここで敢えて挙げ連ねたのは、人間が魔族の魔法を全く寄せ付けなかった、という事実を重要視するが故であった。そしてあの時、如何なる作用が起きてあのような事象に相成ったかはアトラハシスでも未だに知る事はできていない。
探求のあまり思考の坩堝に陥りそうになるアトラハシスとは裏腹に、その一言でソニアの疑念は幾らか薄らいだようだった。
「……でも、どうしてユリウスはそれ程までに高い抵抗力を?」
「そうなるように、アリアハンが実に理に則った方法で仕立てたからね」
「理に則る?」
首を傾げたソニアにアトラハシスは一つ頷く。
「闘氣や魔力に触れ続けているとマナへの親和性が増し、マナとの癒着が強くなる。その癒着深度が抵抗力、操作力、そして感応力の優劣を左右する。魂魄強度として論じた学説を君の母親であるディナ殿が発表していた筈だけど」
「あ、お母様が『金枝篇』に寄稿した論文ですね。それなら読んだ事があります」
旅立ち当初までソニアは自分の母が“十三賢人”という至高の座に着く存在である事を知らなかったが、魔法学の研究者であるのは知っていた。そして『金枝篇』とは世界に存在する数多の賢者、研究者あるいは術者達がそれぞれの研鑽の成果を書に綴った高度な理論文書集で、現在は“魔導の聖域”ダーマ神殿にある図書館に蔵書されているという。
ソニアの口からその名を聞いて一瞬だけ眉間を動かしたアトラハシスは、ゆっくり瞼を閉ざした。
「……“人工賢者創造計画”」
「え?」
「『腐朽なる黄金の種子を
食み、空疎にして漠々たる幹枝の先に渾然と萌ゆる葉叢を築かん』……『金枝篇』の冒頭に記述されている一文で命題さ。その理論に基きユーリは幼少から反流魔法と正流魔法を受け続けてマナの親和性、引いては魔法抵抗力を無理矢理引き上げていたんだ。もっと噛み砕いて言えば、攻撃魔法を受けて瀕死になってから直ぐ回復魔法で治癒されるのを繰り返していた。ほぼ毎日、ね」
「そ、そんなっ!?」
一瞬の沈黙の後。その意味を咀嚼したソニアは思わず立ち上がる。心中の激しさが顕れてか、後ろに放り出された椅子が渇いた音を立てて部屋に転がった。
滑らかに語られた言葉の中身は、総毛立つ程におぞましい事象。そしてそんな事に母が記した論文が利用されていた事実にソニアは頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けていた。
「訓練と言えば聞こえは良いけど、実際にやっていた事は虐待よりも凄絶な拷問だ。これを自我の定まらぬ子供の頃から続けていたのだから、普通なら精神は崩壊するだろうね……だけど、ユーリは壊れられなかった」
壊れていたらどんなに楽だったか。アトラハシスはそう続けるのを抑えて息を呑み込む。
それに対しソニアは腹の底から込み上げて来る不快な吐き気と怖気に耐えていた。
平和だと信じていた祖国が、国ぐるみで幼い子供にそんな事をしていたなどと、どうして信じられようか。だがそれを語るのが、今では鬼籍に名を連ねられているアリアハンの王族であったアトラハシスなのだから、その信憑性は推して知るべきだろう。
何時しか総身が打ち震えているのを遅れて自覚したソニアは、だが止められなかった。
「どうして……どうしてそんな、酷い事をっ」
眉を顰め、精一杯の理性でソニアは悲叫する。
しかしその言葉を待っていたのか、アトラハシスは謎掛けの正解を告げるが如く満面の笑顔を作った。
「決まってるじゃないか。ユーリが“オルテガの息子”だからさ」
「っ!」
至極当然のように告げられた答えに、ソニアは息が詰まる思いだった。
そんな彼女を見て笑みを深め立ち上がったアトラハシスは、床に転がっていた椅子を元の位置へと戻し、静かに両肩を抑えてソニアを座らせる。
そしてその耳元に囁くようにそっと連ねた。
「聞き慣れた言葉だろう? あの国では何時も何処でも誰もが口を揃えてそう言う」
ユリウス=ブラムバルドは“アリアハンの次代勇者”であり英雄“オルテガの息子”。当人を無視してアリアハンで構築された確固とした人物像がそれである。そして、それ以外には存在しかなかった。
「君は考えてみた事があるかい? オルテガが没した時、何故こうも容易く
次を据える事ができたのか」
「それは……」
「普通の大衆心理ではね、目の前に押し寄せた絶望が大きければ大きい程、自分達の命運全てを託したオルテガへの期待は盲目的に絶大で、その失敗を考慮から外そうとするものだ。実際、当時王であったぼくの父もそうだった。だけど、アリアハン上層の極一部は大局で考えてしまい……いや、この場合は冷静に状況を検分し、万が一オルテガが失敗した時の事を鑑みてその予備を用意しようとしたんだ。白羽の矢が立ったのは、当然ユーリだよ」
聞きながら無意識に両手で口元を押さえていたソニアに、アトラハシスはとても優しい眼差しを向ける。
「親が優れているならばその子もまた然り……なんて血潮の寓話に縛られた何の根拠の無い浅はかな夢想の下にね。でも、人々の意識の向かう流れを考えるならばそれは自然な事なんだ。だってユーリが六歳で“アリアハンの次代勇者”として発表された時、誰もがすんなり受け入れただろう? 誰一人異を唱えず、納得していただろう? 『ああ、あのオルテガの息子ならば当然だ』ってね」
昔のアトラハシスを知るソニアとしては、彼がこうして嘲笑染みた言い廻しをするなど信じられなかった。しかし、彼の語る事は自分にも覚えがある確かな事実なのだ。
愉しげに弾むアトラハシスの声が、柔らかく暢達な筈の声が冷たく鋭さを増していく。
「オルテガの予備として抜擢されたユーリは実際、オルテガが魔王に向けて旅路を続けている最中であっても既に戦闘訓練に従事させられていた。確か初めて魔物を殺したのは四歳の時だって言っていたから、今から十二、三年くらい前になるのかな?」
「よ、四歳で!?」
「それでも最初は兵士達が予め瀕死にしておいた魔物に止めを刺す事を徹底して続け、殺害という行為に慣れさせようとしたらしいよ。殺し合いの中で最大の障害になり得るのは、倫理観を基礎に据えた人間的な躊躇、恐怖、背徳心……そんなところだからね。せっかく魔物を滅ぼす為に鍛えているのに、いざという時に斬れない鈍らな剣なら役には立たない。刃は研いで研いで余計なものは削ぎ落とし、徹底的に研ぎ澄まさなければならなかったんだ」
ここまで口早に連ねたアトラハシスは一旦呼吸を整えて自らを鎮める。語る中で意識に掛けている
箍が外れそうになったのを諌めたのだ。
「その思想の下。ユーリは六歳になる頃にはアリアハン大陸に棲息する全ての種類の魔物を殺したと言っていたよ。言葉だけなら凄い話さ……実態を知ればこの上なく酷い話だけどね」
呼吸をするのも忘れそうになるくらいに茫然と聞き入っていたソニアは、やはり言葉が接げなかった。
聞かされた事は俄かには信じがたい……というより、常識外れにも程がある。だがこれまで常識を悉く踏み躙ってきたユリウスの戦闘能力を思えば、それは寧ろ納得のいく答えにもなる。否、なってしまった。
自分の思考の落着に驚いてソニアは小さく頭を振り、意識を掃って再度アトラハシスに問う。
「なんで……なんでそんな非人道的な事を誰も咎めなかったんですか?」
縋るような眼差しでソニアはアトラハシスを見つめる。
心優しい彼女ならばそう言ってくれると信じていたのか、アトラハシスは実に爽やかに、嗤った。
「一体誰が咎めると言うんだい? あの地で、自分達で立ち上がる事を忘れ、ただオルテガの再来を待ち望むだけに徹していた無責任な人間の中に、そんな気概を持った人がいたと思うのかい?」
「か、彼の親御さんだってっ!」
饒舌に語るアトラハシスの表情は柔和のまま。だがその双眸には一片の熱も無く、ただ酷薄な冷たさに満ちていた。
思わず叫んでしまったのは、そんなアトラハシスに対してのソニアの慈愛からくる抵抗だったのかもしれない。しかし、その芽は直ぐに潰える。
「その訓練を了承し、我が子を何の躊躇いも無く差し出したのは他ならぬ彼の母親さ。彼女こそが最先鋒の“勇者オルテガ”の信奉者だからね。その様は狂信者と言っても良い」
「そんな……そんな事って」
仇討ちの感情があるならばまだ解る。魔物に対しての憎しみに由来するものであるならば、姉を殺した事を認めたユリウスに向けていた自らの裡に巣食う黒く澱んだ感情を思えば……理解はできる。だが、賽が振られていたのは仇討ち以前の話だった。
アトラハシスの話が真実ならば、ユリウスの訓練はオルテガが存命時には既に始められていたと言う。最早、語られる事象はソニアの理解の範疇を大きく超えて想像を絶していた。
ソニアは身体の中心から力が抜けていくのを、覚束無い思考で感じ取る。
それでもアトラハシスは言葉を止めてくれなかった。逆に余計に熱が入ったようでさえあった。
「いいかい? 人々が“オルテガの息子”と讃える程に、ユーリはそれに応える為に自己を殺して能力の強化に勤しまねばならなかった。そして行われるのは身を削り、心を削り、常識、倫理、普遍、道徳……人間が社会に適応する為に持ち得る当然にして必然な権利全てを放棄して、ただ魔物を殺す為だけの武力を養わされ続けた。わかるかい? ただ“オルテガの息子”というだけでユーリは人間としての前提を剥奪され、人々の、国の安定を保つ為の楔という役割を担わされたんだ」
一気に捲くし立てたアトラハシスはゆるりと背凭れに身体を預け、虚空を半眼で睨み据える。
「……オルテガもいい気なものさ。世界を背負った気でただ前に進んでいれば、後顧の憂いは無いと無碍に信じていたのだから」
「殿下……」
アトラハシスの口振りは宛らオルテガを非難するようであり、ユリウスを擁護しているようであった。
嘗て憧憬を抱いた環を思えば、ソニアにはそれがごく自然のように思えた。
「ユーリには、逃げ出す事は赦されなかった。世間は決してそれを見過さなかったからね。その結果としてユーリは心身を喪失しながら、ただ虚妄の父になるべくして鍛えられてきた……悲しいかな、ユーリの不幸はその逸脱した資質だ。天才などという薄っぺく卑賤な言葉なんかで片付けられない程に優秀で直向な努力を見せてしまったが故に、オルテガの次を用意しようと画策し、その
計画に関与した人々の幻想を擽ってしまった。まだいける。その先に。進化の果てにある不朽の
神化……そんな言葉と共にね」
些か感情的になったが故に、自らの口から零れてしまった言に気が付いてアトラハシスは佇まいを正すべく一つ咳払いする。
幸いな事に、ソニアはただ言葉を無くしているだけだった。
「少し話が逸れたね。ユーリの抜擢を先王……つまりは父上に進言したのは隷属派の首魁、ガレイア=A=カリオテ。君の親友で、ぼくの従兄妹であるエルティーナの従騎士であったコーデリアの実父さ」
「え?」
ここでその名が連ねられるのは、ソニアにしても青天の霹靂だった。
アリアハンの中でも指折りの大貴族、カリオテ家当主であるコーデリアの父親とはソニアも面識があった。そもそもその家の令嬢であるコーデリアとは親友同士で、加えて当主が母親の友人という事で何度も邸宅に招かれた事もあり、ガレイア当人から優しくして貰った記憶は確かにあるからだ。
その面影が強く残っている為にソニアは信じられない表情を浮かべる。
「ユーリの祖父イリオス殿が動いていたら少しはマシだったんだけど、やっぱりガレイアは狡猾でね。人間社会において王命に歯向かえば、その後の人生でどんな影を落とす事になるか君も想像出来るだろう? 嘗て“剣聖”と謳われたイリオス殿単身であるならユーリを抱えてアリアハンを逃げ出せた筈だけど……実際にはそうではなかった。彼は早くに夫オルテガを亡くした妻セシルを憐れんでいた。息子を死地に送り出した身としては、その悔悟もあってアリアハンに留まらざるを得なかった。隷属派はその感情を逆手にイリオス殿の行動を封じていたんだ」
形無き人質というものだね、とアトラハシス。
「やがて父がオルテガを追うように亡くなり、その後を叔父上が継いで“オルテガの息子”の育成を監督するようになってから状況は一変した。多少強引ではあったけど、叔父上は戴冠して早々にユーリをオルテガの後継者である“アリアハンの次代勇者”に指名し、ユーリが成人を迎える十年後に魔王討伐の旅に出立するという事を大々的に世界に公布したんだ。そうしてユーリを表舞台に立たせた事によって、目に見えての非難の対象となる非人道的な訓練計画から遠ざけた」
でも、と瞼を半ばほど閉ざしたアトラハシスは、卓の上に乗せた両手に視線を落とす。
「“アリアハンの勇者”が魔物を殺す事は人々の願いでもあったから、その方面での訓練を廃止する事はできなかった。本来為政者にとって英雄なんて存在は厄介なものでしかないから、叔父上も本当はそんな事をしたくはなかったんだろうけど、ね。だけどオルテガが没した後の世界の斜陽の速さと人心の退廃を鑑みて、苦肉の策だったんだろう」
「陛下は、ユリウスの事を護ろうとお考えになられていたんですね……」
アリアハン王宮に仕える一宮廷司祭として。また精霊神ルビス教の一信徒として、ソニアは自国の王がアトラハシスの言ったような人間の本質的な歪みのままに“アリアハンの勇者”を公布したのではないと知り胸を撫で下ろす。
アリアハンに住まう若者達にはザウリエ王を尊敬する者が数多くいた。ソニアの同輩にも大勢おり、また彼女自身にもそれは当て嵌る。質実剛健で威風堂々とした姿に萎縮を覚えてしまうのも事実だが、公平無私で万人に分け隔てる事無く等しく対面する毅然とした姿は颯爽としていて。そこに人々の意識を惹き付ける王者としての必須の素養であるカリスマを感じていた。
少しばかりの安堵から平静を取り戻したソニアに、どこか遠くを見つめるような眼差しを向けながらアトラハシスは続ける。
「でも叔父上の戴冠と同時に、権力の中枢から排除された隷属派はユーリを疎み始めた。そして彼らが取った行動は……暗殺」
「あ、暗殺!? ど、どうしてそうなるんですかっ!?」
自分達の希望であった筈の“アリアハンの勇者”を暗殺しようとするなど、“勇者”の輩出国として支離滅裂で荒唐無稽だ。
どんな政治的判断があろうが、ソニアには決して許容もできない事だった。
泣き出しそうに表情を歪めているソニアに、とても人間的な理由だよ、とアトラハシスはゆっくりと綴る。
「隷属派が“オルテガの息子”を自分達の利の為に見出し持ち上げたにも拘らず、“アリアハンの次代勇者”として叛逆派に横から掠め取られる形で手を離れてしまった。その瞬間から彼らにとってユーリは既に眼の上の瘤でしかなかった。そして徐々に明るみになる、自分達の想定を越えて育ち過ぎた強力な力の発露。ユーリの成長度合いと能力のある程度は協力を求めた世界中から開示するように言われていたから、それが戦いを誘致してしまう元凶になるのではないかという疑心暗鬼、身勝手な恐れに駆られたんだ。更に付け加えるならば、出立前にユーリが死ねばそれは監督者である王の過失として糾弾できる……そんな人間臭い理由でね」
「そ、そんなの……あんまりです」
どこまでも利己的であまりにも身勝手に過ぎる理由。これまで聞かされた話の中にはユリウス本人の意思など微塵も介在されていなかった。
いつかユリウスが言った言葉。この世界で安全な場所など無い。それはその事実を指しての事だったのか。
だとすれば、あの時。自分は何と返したのか、どれだけ自分の感情を思いのままにぶつけて来たのか。改めて思い返せば足元が崩れ落ちそうな気持ちになる。
ソニアは椅子に腰掛けたまま一つ後ずさり、急に感じるようになった肌寒さに思わず自らの身体を抱きしめた。
「本当に下らないよね……でもかと言って現実問題、ユーリを暗殺する事は困難を極めたんだ。暗殺が始まった十歳当時、既に完璧な殺戮人形と影で囁かれるまでに成長していたからね。更には守護者であるレイスの眼も掻い潜らなければならないから、必然的にその役目を与えられる人物は限定された」
「レイヴィスさんが、ユリウスを……」
アリアハン王国最高の騎士と謳われる“天眼の騎士”が守護者として側にいた。ユリウスが普段一方的に反目している様子からソニアには想像が出来なかったが、両者の間に流れる他とは少し異なる空気の熱を思えば寧ろ納得がいくだろう。
ソニアがそう考えている間も、アトラハシスは暢達に連ねていた。
「求められたのは隷属派の意志に従い、疑われる事なくユーリに近付け、且つ実行に移せるだけの実力を持つ者。そうして抜擢されたのは、ユーリが受けてきた訓練の全てを同等に修めていた、ユーリの影ともいえる存在だ」
「そんな人が……いた、なんて」
明確な差なんてせいぜい魔法使用の可否ぐらいだったかな、と付け足すアトラハシスに、ソニアは口腔で呟いていた。
あのユリウスと同等の実力者が国に他にもいるのなら、その名が世間に知られない筈が無い。そして“アリアハンの勇者”の供の候補に挙がらない筈が無い。しかしそれでも名が知られていないのは、つまり国が意図的に隠していたと言う事になる。
如何なる思惑が働いての事かソニアには想像もつかなかったが、国随一の魔力を誇る姉セフィーナが供の候補には挙がっていなかった過去の事実を思い起こし、只ならぬ何かがあるのだと言う事を直感で覚っていた。
次々と明るみになる事実が齎す衝撃に瞬きをするのも忘れて聞く事に徹している直向なソニアの様子の見止め、アトラハシスは一瞬だけ躊躇うように双眸と口元を閉じ、やがて開く。
「カリオテがユーリを暗殺する為に仕向けた刺客こそ、君の親友であるコーデリア=I=カリオテ。アリアハン王国より正式に任命された勇者の
最初の供であり……ユーリの、たった一人の幼馴染さ」
単調に伝えられたその時。
ソニアは、世界に亀裂が奔る音を確かに聞いた。
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