――――第六章
      第八話 萌動







 その存在は、何の前触れも無く現れた。
 まるで最初からその場に在ったのではないかと周囲に思わせん程、唐突に。
 まるで静謐を保ったまま虚空より染み出だしたのかと思わせん程、自然に。
 穏やかな初夏の風が吹き荒ぶ草叢を踏み締め、喧騒に満ちていたイシス領事館中庭にその存在・・・・は現れた。
「こ……こんな、事がっ!?」
「へい、か。お逃げ、下され……っ!」
 地面にうつ伏せに倒れていたミコトは、何とか立ち上がろうと腕に力を込めて身体を支えたまま悔しげに呻く。
 対して仰向けに横臥するアズサは、手放していなかった愛剣を一層強く握り締めたまま上体を起こし、擦れる声で主君の退避を促した。
 双方共に何度も地面を転がって全身を強かに打ち据えた為か衣服には土や草がこびり付き、何れも相貌が苦悶に歪んでいるのは、それぞれが自らの心身に受けた衝撃の大きさに再起さえままならなかったからだ。
 否。今そのような状態に陥っているのはミコトやアズサだけではない。彼女達をはじめ、時を同じくして中庭にいたサクヤ、イズモ。イシス親衛隊隊員達……女王フィレスティナを除く、戦える全ての者達が突然に出現した只一人の闖入者を前にして為す術なく制圧されてしまったのだ。
 ミコトは歴戦を潜り抜けてきた勇者一行の中で唯一“洗礼職クラス”に就く正式な“武闘家”であり、アズサは聖王国が誇る“砂漠の双姫”の片翼たる“剣姫”の称号を持つ剣豪。サクヤやイズモはそんな彼女ら以上の力量を持つ強者であり、親衛隊の者達もその役職に違わず往々に優れた一角の者達だ。
 それ程の者達がたった一人を囲うように円を描いて倒れ伏している。彼女らを知る者達が見て絶望的な光景が、朱に染まり始めた蒼天の下に広がっていた。
「……女王陛下。御前を騒がせた事、お詫び申し上げる」
 円陣の中央に立つ者は胸に手を当て、礼節に則りフィレスティナに向けて恭しく頭を垂れる。成熟した知性と冷静さが窺える落ち着いた男の声と堂に入った仕草は洗練されていて、しかし惨禍の中心にて悠然と佇む様はこの上なく異様であった。
 その男は、一言で言い表すならばそのものだった。
 胸や背、肩、腕や脚といった普く部位を保護する黄銅色の装甲の上から同色の抜き身の刃が何本も生え、宛ら近付く者全てを切り刻まんという意志が具現化したような狂気染みた甲冑を纏っている。更にはその上から深紫色に染められた骨をまるで人体を模るように飾り付けられていて、この上なく禍々しい気風を撒き散らす。
 頭部どころか顔面全てを覆う髑髏を髣髴させる意匠の兜は装着する者の表情はおろかその精神をも完全に隠匿し、あたかも貴族の邸宅に荘厳さを色付ける装飾品として安置されている鎧兜像の如き無機質さを呈していた。
 鋭色に煌く危うい偉容はあまりにもおどろおどろしく、それを助長するかのように泰然不動に立つだけで周囲に発せられる威圧感プレッシャーは苛烈極まりない。明らかに在野の魔物などとは一線を画した、いや比べる事さえおこがましく感じる程に上位の存在である事実を白日の下に曝している。
 そして何より、人の体型を為している事が突然の闖入者の存在感をより一層大きく不気味なものにしていた。
「あ、貴方は……一体?」
 骸骨の剣士の凄烈な存在感に気圧され、一歩後ずさりながらフィレスティナは問い返す。
 その誰何の声に震えや涙色が混ざらなかったのは、フィレスティナにイシス戦役を経て王としての自覚と、どのような窮地でも気丈に振舞える精神力を得た故だ。だがそんな彼女であっても、自らが信の置く者達がこうも呆気無く打ち倒されてしまった現状を見せ付けられては動揺を隠す事ができない。
 その事実に拍車を掛けるのは、倒れた者達がまだ全員息が有る事……それどころか信じられない事に、闖入者は腰に佩く剣を一度も鞘から抜く事無くこの場に在る手練の者達を凌駕したのだ。
 誰が見ても明らかな歴然たる力の差は、目の前で見た彼女には悪夢としか言いようが無かった。
「私はこの世界・・・・にて“魔王ルドラの使徒”を統べる者。魔王軍六魔将が一、“剣魔将”ソードイド」
「ま、魔将!? そ、そんな」
 フィレスティナの双眸が大きく見開かれる。
 世界を混沌に陥れている魔群の長と相見えるのはフィレスティナにとってこれで二度目だったが、以前“智魔将”エビルマージが聖都イシス上空に出現した時とは状況が違いすぎる。天から地の大多数を睥睨していた“智魔将”とは異なり、自らを“剣魔将”と称した眼前の存在は同じ地に立ち、個の一つとしてこちらを捉えているのだ。
 それでも無様な恐慌を見せないフィレスティナの気丈さは寧ろ称賛すべきものだろう。
 相変わらず剣を抜こうとしないまま、ソードイドは一歩フィレスティナの方に歩を進めた。
「女王陛下。こちらからも貴女に問う」
 重々しい響きにフィレスティナは眼を逸らせず、ただ後ずさる。
 緑萌ゆる中庭を一陣の風が颯爽と吹き抜け、木々の枝葉や草々を無遠慮に撫で付けては石で鏡を擦るようなざらついた斉唱を奏でる。
 闇しか覗かせない仮面の奥底で、眼光が強く閃く気配が広がった。
「ユリウス=ブラムバルドはどこにいる?」
 ざわめく空気が不安を煽り立てる中。ソードイドは厳然と告げた――。



“剣魔将”ソードイドの突然の襲撃。
 公会議開催期のバハラタという、現時点において世界で最も堅強な護りに覆われた地に単騎潜入してきた魔軍の将。
 俊英が出揃うイシス領事館の畿内にて、護衛騎士や戦士達の悉くを返り討ちにして尚、その実力の片鱗を見せた様子はない。
 戦う術を持つ者達が往々に倒れ伏し、残るは女王のみという急迫極まりない事態に陥ったのは、ほんの半刻前だった。








 死合としか表現できない手合わせでミコトがサクヤに敗れ、時を置かずにアズサの持つ剣がイズモに弾かれて地面に突き刺さる。
 自分達が誇る“剣姫”の鮮やか過ぎる敗北に、配下であるイシス親衛隊の者達と主君フィレスティナが息を呑む中。
 負けん気が強いという気質さえも良く似た二人の乙女達は、何度も立ち上がって格上の存在を相手に果敢に挑んでいく。その姿は愚直であったがとても輝かしく清らかなもので、溌溂な彼女達を一層眩く麗雅に飾り立てていた。
 だがそれでも敗衄はいじくを重ねれば猛っていた気勢は鈍くなり、踏み出す一歩は次第に重くなる。
 大地に壮健に根差して優美さを誇る大輪の花も、粗暴な強風に曝され続ければ茎から折れてしまうのは自然の理なのだ。
 打ち拉がれ続けた事でやがて体力的にも精神的にも精彩を欠いた二人は、ほぼ同時に大地に仰向けに倒れ伏した。
「……ミコトよ、生きておるか?」
「いや……私はもう、駄目だ」
 頭を寄せ合うように地面に転がりながら雲一つ無い蒼穹の空を茫然と見上げ、二人は敗北を噛み締める。
 長く保っていた緊張の糸が切れた為かそれぞれの面には表情が載っておらず、地に足の着かない幽然としたアズサの問い掛けに応じるミコトの声にはどこか感情が欠けていた。
「め、珍しいのぅ……お主がそれ程までに露骨な弱音を吐くとは」
「……そう思うのなら、お前が朔夜の相手をしてみろ。その後で同じ質問をしてやる」
「ぜ、絶対に御免じゃ!」
「……お前な」
 余程心身が疲弊していたのか、その場で首やら腕やらを振ってジタバタと全身で拒否を示すアズサの声には力が無く。そんな自分と良く似た容姿の相手に呆れながらも、既に顔を動かす事も億劫だったのかミコトは半眼で空をめつけて深く嘆息した。
 それを機にミコトとアズサは悔しさを誤魔化す為か普段ならばしないような稚拙な言い争いを始めるが、草叢に横臥したまま見苦しく騒ぎたてる二人の顔に音も無く影が覆い被さる。
「ん?」
「何じゃ?」
 突然周囲に暗闇が落ちて何事かと動かした二人の目線が同時に同じ場所に集うと、丁度その瞬間。二人の頭の間に転がっていた頭大の石礫が鼓膜を強かに打つ小気味良い音を発てて粉々に踏み砕かれた。
 この地方の岩石は内包する成分の関係上硬度が非常に高く、たとえ砕片に過ぎなくとも仮に魔物に向かって投じれば凄烈な効果が得られるという。
 恐らくは先程の手合の最中に抉り出した土塊の中から飛び散ってきたのだろうが、それが近付いてきた影…サクヤが接触の瞬間に収斂したフォースを纏った一踏で易々と砕いたのである。
「う、あああぁぁっ!!」
「ひ、ひぃぃぃぃっ!?」
 今し方、目の前で踏み砕かれた石礫。仮にそこに自分達の頭があったならばと思うと嫌過ぎる結果しか想像できない。石の残骸から生々しく漂う断末魔の粉塵が自らの髪を白灰に染め往こうとも、ミコトやアズサは戦慄で顔を蒼くしたまま言葉を紡ぐ事すらできなかった。
「お二人共。まだそんな軽口を叩ける余裕があるのですね。ならば今度は、私がお二人まとめてお相手致しましょうか?」
 眩く白んだ陽光を背負いながら二人を見下ろすサクヤは穏やかに麗らかに微笑む。
 それは大人の女性が醸す清涼な色香さえ発しているような艶かしく整ったものだったが、逆光の中で更に影による薄化粧が施された表情を見て、アズサは赤面どころか顔を蒼褪めさせ、ミコトは嘗てのサクヤによる荒くれ者達の瞬殺劇という過去のトラウマを甦らせて卒倒しかける。
「あっ、おいミコトっ! お主、一人だけ寝過ごそうとは卑怯じゃぞ!」
「ね、寝てなんかいないっ!!」
 アズサの見当違いの叱責に、身体から離れかけていたミコトの意識は一気に引き戻される。
 そればかりか反射的に叫び出すまでに意識が身体から消えず、何とか踏み止まって保つ事ができたのは過去には無い事であり、それはこれまでの旅路で生命を賭した幾多の修羅場を潜り抜けてきた経験と、多種多様な人々との対話で重ねてきた事により精神が拡充した事の賜物と言えるだろう。……まさかミコト本人も、幼き頃よりの従者に対する恐怖で、それを自覚する事になろうとは夢にも思わなかっただろうが。
 ここ数時間の内で会話の呼吸が驚くほど合ってきていたミコトとアズサの二人を見下ろして、サクヤは頷く。
「やる気は充分、ですか。それならば私も、二対一という事を踏まえて久々に全力を尽くさせて頂きましょう。そうしなければお二人に失礼でしょうからね」
「む、むむむむ寧ろ全力で手を抜いてくれて構わんぞっ!」
「ま、まままま待つんだ朔夜! 誰もやるとは言って――」
 自らの持てる全ての語彙を総動員して回避の手立てを模索するも、恐慌を起こしかけている思考と唇は安直な言葉しか紡がず。身体の内を迸る怯懦が全身をカタカタと小刻みに震撼させて、双子のように良く似た二人は絶望を色濃く相貌に貼り付ける。
 そんな傍から見ると憐憫さえ覚える醜態を晒している彼女らに、救いの天声が届いた。
「皆さん。日も傾き始めましたので、今日のところはそろそろ終わりにしましょう」
「そ、そうですな! それが良いですじゃ! 直ぐにでも終わりましょうぞっ!!」
 風鈴のように耳心地の良く響いた声は、女王フィレスティナのものだった。
 本来ならばこの場において彼女に逆らえる者など存在しないのは自明であったが、その言葉に我先にと飛びついたのは他ならぬ“王裡アセト”の威光を守護する“剣姫ネイト”アズサだった。まるで激流に呑まれ溺れ沈む我が身に差し出された一本の藁を必死の末に掴んだ時のように、フィレスティナに向けて縋り付く視線を発している緑灰の双眸が涙で潤んでいたのは、恐らく当人も気付いてはいない。
 地面に這いつくばった身体に鞭を入れ、恥も外聞もかなぐり捨て涙目のアズサは匍匐ほふく前進で死地……主にサクヤの足元から逃げ出していた。
「あ、待て。一人だけ逃げるなっ!」
「逃げではないわっ! 戦略的撤退じゃ!」
「同じだっ!!」
 慌ててミコトも腹這いながら先行するアズサを追って行く。
 両者とも未だまともに立ち上がる事もできず、のっそりと鈍重極まりなく進むそれは蛞蝓なめくじや亀の動作そのものである。
 そんなラーを信奉する者達が見れば目を疑いたくなるような彼女らの姿に、そうなるに至った経緯を知る周囲はただ引き攣った苦笑いを零すばかりであった。当人達からすれば笑って済む冗談ではないが、これまでに行なわれた鍛錬の質の高さは他の者達を傍観者の領域に追いやるには充分過ぎたという事だ。
「……やれやれ、ですね」
 情けない様相のまま離れていくミコトとアズサの後姿を目で追い、サクヤは小さく溜息を吐く。幼き頃から知りながらも主君と定めた者のあられもない姿には、声韻に呆れたような感傷を孕ますのも禁じ得ない。だがそれでもあっても、生き写しの二人に向けられた眼差しは温かかなものだった。
 慈しみの眼差しを去った二人に投じているサクヤに、倭刀を鞘に納めたイズモは歩み寄る。
「美命さまにいち早く“破魔の神氣”を完全に体得して欲しいとは言え、『草薙の剣』の事といい……朔夜。お前、少しばかり気を急いているな」
 傍から見ていた限り、サクヤは全くの情け容赦無く徹底的に普段通りにミコトを打ちのめしていた。それはミコトの成長を願うが故の裏返しである。
 ただそれを汲み取れる程に対峙していたミコトに心的余裕は無く、他者がその鍛錬の様子を見れば凄惨という感想や同情の声が聞こえてくるだろう。観戦していたイシス親衛隊の者達はおろか、イズモ相手に剣を交えていたアズサさえもが表情を引き攣らせたまま目を離せない状態になったのだからそれは一入というものだ。
 もっとも、付き合いの長いイズモはサクヤの想いを熟知している為、その口調に諌める類の無粋な色彩など無かった。
 ミコトとアズサ、他の者達が自分達二人からそれなりに離れたのを見止めて、サクヤは小さく首を縦に振る。
「確かに、否定はできません。あの二人の並んだ姿を見ていると、急がねばならないという意識にどうしても駆られてしまいます……邪悪なるものから“胎魔の神氣”を護る為にも」
 一旦サクヤは言葉を呑み込み眸を伏せる。数瞬の逡巡の間、想いを形にして発する事を躊躇いながらも続けようとする。
 だが痛ましげに顔を顰めている彼女が紡ごうとしたものを察し、イズモが掬った。
「戒めを喰い掃った大蛇の魂魄は、新たな器を求めて最も溶け込みやすい胎に向かうだろう――。それを何としても阻止するのが先代“陽巫女”美月様の……“封魔の神氣”を以ってして大蛇の肉体を自らに同化させ、滅ぼさせたあの方の最期の願いだ。弥生からの報告で、美沙凪に残された時間も僅かになっている以上、事は一刻を争うか」
「……ええ」
 半ば程に瞼を閉ざしたサクヤは悄然と頷く。
 これら全ては今は未だミコトに伝える事のできない真実。ミコトを誰よりも案じるが故の苦悩であった。



 その後。サクヤや親衛隊の者に回復魔法をかけてもらい傷を癒したミコトとアズサは、それぞれの陣営の顔触れに囲まれて休息の時を過ごす。やはり目の前で盛大に打ち倒され続けた事もあって仲間達の声は自分達を気遣ったものが多く、体力が回復しつつあった二人は再戦への意欲を意識下で密かに燃やしていた。
 太陽が傾き始め、暑さが鎮まりつつある刻限の風は冷たさを増して疲弊した身体を心地良く撫でる。
 麗かで豪奢さを載せ燦爛と輝く陽射しが領事館の中庭を見守るように柔らかく照らしていた。
「聖王国イシス女王、フィレスティナ陛下とお見受けする」
 その時。張られていた平穏な空気の天幕に刃を突き立てんと、確かな力を秘めた精悍な言葉が何処からともなく発せられる。
 誠実な性質が滲み出ている凛然とした声韻には、その意志の裡に決して揺るがない鋼鉄の芯が確りと立っている事を感じさせ、泰山の如き落ち着いた存在感を聞く者達往々に齎す。
 それらの点だけに限るならば、声の主はイシス領事館を訪ねてきた凡庸ならざる来客として、気を引き締めて毅然と応対する事ができただろう。
 しかし、本館から中庭に続く細道を殊更ゆっくりと歩んで現れたその姿はあまりにも鋭く危うく、禍々しく。凡そ人間が安穏とした日常を綴る、暖色に彩られた街中からの乖離を浮き彫りにしていたのだった。
「なっ!?」
 都市内であるにも拘らず、顔面さえをも覆い隠す全身甲冑で完全武装を施し、且つそのあらゆる部位から刃を生やしているという酔狂さ。どう穿って見ても市井の者でも、このバハラタにある何れかの勢力からの使者の類でもない。
 領事館の正門を護る守衛兵からの連絡が一切無いまま、身の毛がよだつ明らかな異形の出現によって無意識に警鐘が奔ったのか、それぞれが気を緩めていた状態から一瞬にして臨戦態勢を取りフィレスティナを守護するように囲い立つ。その一連の流れる動作と速やかな意思疎通で展開した兵達の姿は雄々しく、訓練が行き届いている証拠であり流石は親衛隊と賞賛すべきものであった。
 フィレスティナを背に、親衛隊の最先鋭にて颯爽と立ち構えた“剣姫”アズサ=レティーナは『聖剣・滅邪の剣ゾンビキラー』の切先を侵入者に向けて勇ましく掲げる。
「貴様、何者じゃ!」
「…………」
 険の篭ったアズサの誰何に、しかし侵入者は答えない。
 その事に眉間を顰め、眼光を強めるアズサだったが、不意に聖剣が掌の中で小さく打ち震えている事に気が付く。
 魔や邪、不浄を滅ぼす事に特化したさがか、聖剣は眼前の存在から発せられる気を掬い、以前見えた魔族アトラハシスやティルトの時とは比べ物にならない脅威を敏感に感じ取って総身をけたたましく震えさせていたのだ。
 腕から伝わる愛剣の怖れにアズサは内心瞠目しながらも、それをおくびも見せず再度詰問した。
「その禍々しき出立ち……貴様、魔族か。どうやってここに入ってきおった? 魔族が今のバハラタに易々と入って来るなど――」
「公会議開催期にて頂まで高まった警戒の意識。些細な異状も見出さんとする昂る注意力が全体に波及するからこそ、逆にその触れ幅は狭められ普遍を見逃してしまう……事実、こうして私はここにいる」
 特に嘲るでも無く、ただ至極落ち着いた様相で堂々と侵入者は語る。それは純然たる事実を告げているに過ぎなかったが、暗に誰一人として気付かなかった、という点を痛烈に指摘しているようであり、実際そう受け取ったアズサは口元を獰猛に歪ませる。
 今にも斬ってかかりそうなアズサの肩に手を置いて宥め、隣に立ったミコトが腕に『黄金の鉤爪』を装着し直し、決然と言い放った。
「アズサ、落ち着け。魔族相手に問答なんて通じる訳がないだろ?」
「ミコト……」
「アイツの言葉じゃないけど、魔族は……人間とは相容れない、敵だ」
 魔族である事を否定しなかった眼前の侵入者は、人間とは相容れる事の無い不倶戴天の敵である。魔物、魔族に対して尋常ならざる害意を示す勇者に同意してミコトは綴る。
 肉親を苦しめている魔の存在を強く憎むが故にその認識が著しいミコトは、敵意を漲らせた眼差しで油断無く天敵を見据えたまま一定の間合いを保ち、隙を窺わんと刃の魔族を中心に据えた円周上を慎重に歩む。
 そんな彼女の背中に一瞬だけ何かを言いたそうにしたアズサであったが、状況が状況だけに息を呑み込んで気を引き締め、ミコトとは真逆の徒を辿った。
 サクヤとイズモを始めとして他の者達も彼女らに倣って動き、往々諸手に自らの武器を携え、何時しか刃の魔族を囲う包囲網が形成されていた。
 一触即発の緊迫した空気が、地の趨勢を反映するかのような茜色に浸蝕され始めた天を駆け巡る。
 草叢を踏み締める一歩一歩の音がやけに大きく響き、ここでは無い場所から届く虫の羽音や鳥の囀りが地鳴りの如く、そこに在る者達に深々と伝わってきた。
「止めておけ。力の差を感じ取れない程に未熟ではあるまい。無益な争いは本意ではなく、私は貴殿らに用は無い」
 だが殺伐とした渦中にあって、あらゆる意味で基点に立つ魔族だけは至極落ち着いた佇まいを崩す事はない。
 その声色に恐怖は無く、その姿勢に緊張は無い。こうして退路さえ閉ざされた現状にあって、危機など微塵も感じていない気負い無き様相でさえあった。
「余裕だなっッ!!」
 こちらを完全に眼中から外している魔族の様相に激昂し、膠着を劈く叫喚を挙げたミコトは大地を強かに蹴り円の中央に向かって疾駆する。と同時に予め目線で示しを合わせていたのか、アズサも同じく真逆方向から剣を構えて突進していた。
 それは面々の中で素早さに特に秀でた二人の、更には闘氣の奔流を身に纏って繰り出す電光石火の挟撃だった。直進しながらも、僅かに左右に揺れて牽制さえも併せたそれらの動きは、魔族を中心として点対称に完全に同調する。
 収束する波浪。肉薄する幾重もの鋭刃。
 だが央にて静寂を維持していた刃の魔族はやはり慌てるでも無く、冷静に最小限の動きで半身だけ身体を引く。
 その刹那。瞬く間に距離を詰め、渦を巻くが如く閃く二刃の先制攻撃が対象たる刃の魔族に殺到した――。
「なにっ!」
「何じゃとっ!」
 次の瞬間。その場に示された事象に誰もが驚愕を禁じえなかった。
 刃の魔族に右方より接近したミコトの手首を『黄金の鉤爪』の腕甲ごと右手で掴み、逆に左から急襲したアズサの『滅邪の剣』の鍔を左手が押さえ制している。両者とも尋常ならざる速度でそれぞれの武器を振るった筈だったが、刃の魔族は交錯の一瞬を彼女ら以上の速度で動いて攻撃を無力化したのだ。
 そればかりか、肘当や肩甲から伸びる鎧の刃が彼女らの眼前に突き付けられており、あと一歩深く踏み込んでいたらそれらが逆に自分達を串刺しにしていたという事実をまざまざと知らしめる。
 愕然として思わず表情を失わせ、全ての行動を停止させてしまうミコトとアズサ。更には先陣を切った二人に続かんと周囲で機を窺っていた者達全ても目を見開いて行動を止めていた。
 敵前で立ち止まるなど戦いの最中ではこの上ない失態だったが、それに構わず刃の魔族は勢い良く身体を翻し、硬直した彼女らを別々の方向に投げ飛ばす。
「くっ!!」
「うぬっ!?」
 何とか気を取り直して着地する彼女らであったが、そこは奇しくも攻勢に出る直前までそれぞれが立っていた場所。つまり、今の攻撃そのものが無かった事にされたのと同義だった。
 そんな信じ難き現実が、彼我の実力の隔たりを残酷なまでに浮き彫りにする。
「自ら魔と定めた者に対して一歩も退かず、果敢に立ち向かわんとするその勇猛さ。裡に宿す毅き志が気高く輝いているのは認めよう。だが……」
 言いながら刃の魔族は腰の両側に佩いていた剣を掴み、鞘に収められたままの状態で左右の手に構える。ただそれだけの行為で彼から放射されていた威圧感が急激に勢いを増した。
 あまりにも濃密で重々しい気配の乱流に、ミコト達はたじろいで後ずさる。それはまるで自分達の目の前に巨大な嵐が出現したかのような怒濤の圧迫で、目に見えぬ威風の壁に吹き飛ばされぬよう立つ事が精一杯だった。
「意志無き力が熾すは、秩序を乱すだけで行く先を持たぬただの蛮勇。そして力無き意志など、自ら正そうともしない無為なる者共のただ妄言」
 一人一人の様をゆっくりと睥睨しながら、刃の魔族は冷厳に告げる。
「発した言葉の型を整える意志、裡を満たし重みを与える力。それら双方が等しく調和を保持していなくば、全ては伽藍堂なる浅ましく空虚な詭弁に成り下がる……果たして貴殿らのは、如何なるものかな?」
「あ、侮るなっ!!」
 いきり立つ誰かの叫びを皮切りに、全員が一斉に只一人に向かって押し寄せる。
 全方位から迫り来る斬突打の群れに、顔の前で両腕を交差させた刃の魔族は上体を仰け反らせて大きく息を吸い込む。そして、二閃。
 一刃につき半円をそれぞれ描く双刃の軌跡は、詰め寄る者達には閃光が一瞬だけ迸ったかのように映った。
 往々がそれを認めた瞬間。光の筋から凄まじいばかりの風圧が発せられ、荒ぶる暴虐の衝撃は今まさに繰り出さんとしていた数多の攻撃それさえをも呑み込んで圧倒する。
 まるで真正面から等身大以上の岩石をぶつけられたかのような剣圧波に、ミコトやアズサ、親衛隊の者達が軒並後方に吹き飛ばされ、碌に受身を取る事もできないまま地面に何度も弾かれ転がった。
 だがその中で、培った戦闘経験から反射的に自ら倒れ伏す形で衝撃を躱していたサクヤとイズモは、刃の魔族の間合いの内側に到達し、完璧な連携で攻め立てていた。
 一般的な刀剣とは趣を異にする倭刀を用い、刃の反りによる斬の速さを最大の武器とした独特の剣技でイズモは刃の魔族と正面から激しく打ち合う。
 敵さえも見惚れる程の流麗にして豪放な軌跡を残し、縦横無尽に空を断ちながら繰り出される斬撃の瀑布に、だが刃の魔族はやはり動じた様子も無く。鞘に納められたままでありながら巧みに剣を動かしては峻烈な攻撃を受け止め、流し、悉くを捌き切って逆にイズモを押し返す勢いで剣閃を重ねている。
 その背後から無骨な鉄杖を鍛えられた棒術を以って操り、イズモとの応酬の最中に生まれる隙を巧妙に突くサクヤ。疾風の如く放たれる一突一打は攻撃の瞬間に“魄”を一点集約させた破壊的なものだが、刃の魔族はそれさえもイズモと切り結ぶのとは逆の手で持つ剣でいなし、弾き、牽制し、且つ隙有らば痛烈な反撃に転じてさえいた。
 既にサクヤは“僧侶”として体得していた補助魔法を用いて自分やイズモの援護、更には魔族に対して妨害も行なっていたが、それが思うような効力を発揮せず。また、唯一使用できる真空バギ系の攻撃魔法は敵と接近しすぎている為に使う事が出来ない。それでも現状において全力を賭した二人の技は、先程までミコトやアズサに対して鍛錬の為に行なっていたものではなく、その根底に確実に敵を屠る事を据えた決然とした殺意を絡めていた。
 それ故、少なくともサクヤとイズモはこの場に居る誰よりも刃の魔族に肉薄して戦闘を行い、善戦していたといえよう。
 しかし。
 イズモの倭刀とサクヤの鉄杖。双方から迫る同時攻撃を、刃の魔族はその両手に持つ剣でそれぞれ迎撃し完全に受け止める。
 そして拮抗を維持したまま二人の武器をゆっくりと誘導し、それが自らの身体の前に到った瞬間。手首を返し両腕を大きく廻して二人の武器を薙ぎ払い、更にその場で翻って双剣を大きく旋廻させた。
 颶風の如き烈しさを持った双撃は、体勢を崩し防御の間に合わなかった二人の胴に深々と入り、そのまま後方へと吹き飛ばす。仮にそれらの剣が抜き身であったならば、今の一撃は二人の胴を易々と分断し、確実に絶命させていただろう。
 現実はそうでないものの、それでも痛恨の一撃である事に変わりは無く、地面を勢い良く転がった二人は終に横ざまに倒れ込んだまま動かなくなかった。あまりの痛烈さに意識を手放したのだ。
「あああああっ!!」
 悠然と踵を返した刃の魔族は、怒りの形相で真正面から飛び掛ってくるミコトを上段への切り上げで更に上方に弾き飛ばし、咄嗟に半歩身体を引いてアズサの捨て身の刺突を躱しては、無防備になった背を強かに打ち据えて草叢の上を滑らせる。その上に身動きできないミコトが背中から落ちてきて、激突の鈍い音がおどろおどろしく響かせては二人の少女もまた沈黙した。
 そして魔族は、戦闘不能に追い遣られた四人の無念を晴らさんと勇んで間合いに飛び込んできた親衛隊の者達と剣を交えるも、その格の異なる技量で退けてそれぞれを一撃で昏倒させ地面に沈める。
 やがて黄昏に染まり往く戦場には、戦闘に参加しなかったフィレスティナただ一人を除いて全員が大地に伏すという惨状が広がっていた。
「闘いとは、揺るがぬいしと撓まぬ刃による飽くなき諮問の螺旋。故に、これは無益ですら無いと知れ」
 双剣を己が両腰に戻した刃の魔族…ソードイドは小さく呟く。
 そして、場に静寂が訪れた。








 山岳遺跡の薄暗い回廊を一人往くアトラハシス。その手には高価そうな茶器を乗せた盆を持っており、二つあるカップの片方は空で底に茶の跡が刻まれ、もう一つは半分ほど口を付けた形跡はあるものの既に冷め切っているのが一見して判る。
 石造りのひんやりとした空気を抱える壁に備えられた燭台の灯りは回廊の広さから鑑みると充分とは言えないが、そんな薄暗い中をゆったりと確かな足取りで進むアトラハシスの歩調に迷いは無い。ここを往く事が既に習慣として身体に染み付いている証拠だ。
 アトラハシスは、闇と光が鬩ぎ合う回廊の先から何者かがこちらに近付いて来る気配を感じて声を投じる。未だその姿が見えなくとも、自らの“印”である『破壊の剣』に従属する“印”の存在位置を知る事が出来る彼には、虚空の先に誰がいるのかは自明であった。
「ティルト。ソードイド殿との特訓は終わったのかい?」
 その問い掛けに答えるよう足音を反響させながら姿を見せたのは、過日イシス戦役にて同胞となったティルト=シャルディンスだった。
 女性にしては短めに切り揃えた暗青の髪を揺らして現れたティルトは仲間になって以来、“印”を飼い馴らす為に彼女らの統制者である“剣魔将”ソードイドに師事し、空いた時間の全てを自らの研鑽に捧げていた。
 平時で今の刻限においては、ティルトはまだ自主的な鍛錬に努めている筈である。その証拠に彼女が今も手にして人目に晒している槍は、周囲に撒き散らす気配はおろか意匠そのものが既に禍々しい“昂魔の魂印マナスティス”の一つ、『魔槍・王鬼の槍デーモンスピア』。具象化に慣れる為に頻繁にそれを行うようアトラハシスは指示していたが、こうして平然と敢行している事は彼女の力がそれだけ高まっている事を意味していた。
 ええ、と一言同意を発してアトラハシスの視界にいだしたティルトは、彼の手にする盆を一瞥して逆に問う。
「“癒しの乙女”殿とのお話は終わったのですか?」
「ん、まだ途中だけど……話した内容が内容だからね。真実を歪み無く受け容れてもらう為にも、少し一人で心を落ち着かせながら頭を整理する時間が必要だと思ったんだ」
「貶す訳ではありませんが、真実をあるがままに受け容れるだけの心の強さが彼女にあるとは思えません」
 冷静さと心胆の毅さを兼ね備えた凛とした声で、ティルトはきっぱりと言い切る。その余計な情緒を介さない潔さには流石のアトラハシスも苦笑いを浮かべていた。
「手厳しい見解だね。でも、そうかもしれない。昔からソニアは内気で繊細で、自分の信仰に逃避する癖があったからね」
 それが彼女の美徳でもあると思うアトラハシスは、前へ進む歩調を少しも緩めないまま、今は遠い昔を思い懐かしむよう暢達に続ける。
「見たくないものは見ない、という気持ちはぼくも良くわかる。だけど、結局それは子供の我侭なんだ。子供でいられる時間は永遠には続いてくれない。人には各々の両の眼で見据えなければならない現実があり、それをどのような形でも受け容れなければ先には進めないからね。問題はそれと何時対面するかなんだけど……これが、ままならない」
「そう……ですね」
 嘗て、祖国を滅亡に追い込んでいる光の裏側の現実を知ったからこそ、故郷に弓引いたティルトもまた神妙に頷く。
「本当はもっと時間を掛けてゆっくり真実を伝えていきたかったんだけど、起きていられる・・・・・・・周期の事もあるからね。この場所はまだマナに満ちているから大丈夫だけど、こればかりは巡り合わせ……仕方がないさ」
 回廊の先を遠い目で見据えたまま、本心から残念がるアトラハシス。その姿を、並行していたティルトは珍しそうに眺めていた。
「彼女の事を、随分と気に掛けているのですね」
「まあね。ソニアは実際に妹みたいなものだし……アリアハンを離れる時、彼女には何一つ言葉を遺す事ができなかった。せめて一言でも遺せていたら、違ったを過ごしていたのかもしれない事を思うと、少し遣り切れない気持ちになるよ」
 言いながらアトラハシスは眸を伏せ、脳裡に廻り回る過去の時間の断片を思い浮かばせては消していく。
 二度と戻る事の無い時間を思うと切なさが込み上げて来て、それを自覚したアトラハシスは顔を正面のまま動かさず声だけで隣を歩むティルトに投げ掛けた。
「過去を置いてきたと僭称する身としては、未練がましい甘い行動になるのかな?」
「いいえ。ただ私には、それがあなたの罪滅ぼしの一環のように映ります」
「罪滅ぼし、か……改めて言われると、そうかもしれないね」
 意外な切り返しの言葉に暫しアトラハシスは目を瞬かせた。
「あの時、ぼくがもっと周囲に注意を配り、思慮深く行動して上手く立ち回っていたらこんな事にはならなかった……ソニアを、あんな旅路に駆り出す事も無かったんだ」
 どこか自らを責め立てるように嘲りの光を双眸に湛え、アトラハシスは微かに声を震わせる。
 それは鬼気迫る内心の表情を滲ませた言の葉で、聞く者によっては悲哀の感傷から同調を得る事ができるだろう。
 だが唯一の傍聴者であるティルトは、彼女としては聞き逃せない響きに眉を顰めていた。
「まるでユリウス殿の側にソニア殿がいる事を、好ましく思っていないみたいですね」
「言葉通りさ。ユーリの旅路にソニアが同行している……正直、ぼくには悪夢が目の前で実体化したかのような現実だよ」
 それはあまりにも痛烈で容赦が無く。嫌悪さえ感じられるまでにはっきりと言い棄てたアトラハシスの様子に違和感を覚えたティルトは、胸中に怪訝を生じさせた。
 アトラハシスとユリウス、そしてソニアの間にある詳しい相関などティルトの知るところではないが、それでも過去に同じ時間を共有し、それは穏やかな環であったという事実を他ならぬ彼自身より以前聞かされていた。
 だが今のアトラハシスの反応は、自らの言葉を悉く翻しているように聞こえる。しかも、ユリウスに非があるような口振りでさえあった。
「悪夢? それはどういう意味ですか?」
 そう追求するティルトの眼差しは些か鋭い。アトラハシスは直ぐには答えず、穏やかな眼差しで彼女を見つめた。
「不満そうだね。そういえば君はユーリに興味を持っているようだけど、気になるのかい?」
「ええ。人であった私の最期を看取ってくれた方ですので」
 憮然としているからなのか、無表情を決めているつもりでも穏やかならぬ彼女の胸の内が窺える相貌。愚直なまでの誠実ささえ感じられる程の直向さに、ああ、とアトラハシスは心の中で納得した。
(この娘は、彼女に似ているのか。……だからこそユーリは)
 勿論外見の事ではない。裡に秘めた自分の在り方を支えようとしながらも、望まぬ方に揺蕩ってしまう現実に必死に抗っている姿。それがきっとユリウスの中で重なったのだろう。
 いじらしくも彼らしいと思いながら、アトラハシスは澱みなく肯定したティルトに向けてゆるりと口元を綻ばせる。
「君の最期を、ねぇ……あの・・ユーリが、そんな情動を取るなんて信じられないな」
 朗らかにそう言われては、それで救われた気持ちを抱いていたティルトとしては面白くない。自然と彼女の面持ちと声調が暗く低くなる。
「……随分な言い方ですね。まるでユリウス殿には感情が無いのだと聞こえます」
「そう言ったつもりだよ。ユーリの感情は所詮は後付された仮初のものだからね」
「仮初、ですか?」
 その真意が理解できず、ただ眉を顰めて鸚鵡返したティルトにアトラハシスは淡々と首肯した。
「そうさ。ぼく達と最初に出会った当時、ユーリには感情なんて存在せず、ただ“アリアハンの勇者オルテガ”という偶像から“魔を討つ者”としての性質だけを抽出し、誇張歪曲させた上で徹底的に刷り込ませて造られた本当の意味での完璧な殺戮人形だったからね……ぼくが初めてユーリと会ったのは彼が十二歳の時だったけど、その時は問答無用でいきなり攻撃されたよ」
 眼を合わせた瞬間に斬りかかって来た、と笑えない過去の事実をアトラハシスは楽しげに語る。
 初めての出会いの記憶としてはあまりに鮮烈で物騒なものであったが、あの時、己の守護役であったセフィーナが抵抗していなければ多分死んでいたのだろうと自覚ができる。それ程までにあの時のユリウスの目は、人間を人間として認識していなかった。
 だが彼自身の性質を思えば、それは自明でアトラハシスはユリウスを責めるつもりなど微塵も無い。そうなるようにしたのは他ならぬアリアハンで、それを著しく助長させたのが彼に刻まれた呪い・・なのだから。
「でも彼の周囲の環境を思えば、それは寧ろ都合が良かったのかもしれない。アリアハンでユーリを人間として扱っていたのなんて、本当に数えれる程度だったからね。本人は本人で、昔は人間と魔物の見分けがつかなかったらしいし」
「見分けがつかない、というのは?」
「うーん、他人の感覚だから説明するのは難しいな。ユーリが言うには、人間は全て人の形をした水嚢。魔物は全て魔物の形をした焔……特に生命は輪郭でしか判断できなかった。逆に物質は全て錆び付いた金属質で、空は煤けた羊皮紙、海は濁り澱んだ黒インク。大地は堆積した灰塵……全てが白と黒、或いは灰色の強弱で形成された無彩色の景色。そんな風にしか世界を認識できなかったらしい」
「…………」
 他者の姿を判別する要素が輪郭と、そこに内包される無彩色の濃淡だけ。そんな認識の世界など一体どんな地獄なのか、ティルトの想像を絶していた。
 ただ一瞬だけそれを幻視した記憶が甦るものの、あの情景が常時続くのだと言われたら、なまじ生の彩ある世界を知っている分、自分ならば発狂してしまうと思った。
 表情を無に導き、アトラハシスは抑揚無く続ける。
「彩の無い世界。自我も定まらぬ幼い頃から魔物の血の海の中にいたから、精神が自己を護る為にさせた防衛本能とも言える。そしていつからか細かな個体の判別ができなくなり、やがて全ての存在を黒と白の強弱でしか見られなくなった……彼曰く、負陰の感情は眩しいらしいよ。だから負陰のマナに染まった魔物はすべからく眩くて、それだけに煩わしいと言っていた」
 それを語ってくれた時のユリウスの無の相貌は、アトラハシスは生涯忘れる事はできないだろうと自覚している。
 過去から回帰して隣を歩むティルトを見れば、彼女は何と言って良いのか判らない曖昧な表情を浮かべていた。
「つまるところ、ユーリにあるのは敵と断じた者に対する殺意のみ。だからぼく達は彼に仮初の感情を植え付けた。でも結局は急拵えの張りぼてだから、ふとした切っ掛けで簡単に剥がれ落ちる事にもなる。それは齎すものは極度の恐怖であったり、高まり過ぎた殺戮衝動であったり……仮初の感情の処理能力を超えた現実に直面した時だね」
「何故そのような……いえ、“アリアハンの勇者”。或いは“オルテガの息子”だからですか」
「そういう事さ。でも、それさえも含めた全ての元凶は、とある外因子・・・・・・によってユーリの感情の元型が意識の深層領域に封印されている事にあるんだけど」
「封印?」
 随分と物騒な単語が出た事にティルトは思わず足を止めるも、彼女の反芻から喋り過ぎた事を自認したアトラハシスは敢えて気付かない振りをして歩を進める。
 背中に説明を求めるティルトの視線が何本も突き刺さるが、全てを無視してアトラハシスは茶器を載せた銀の盆に映る己が相貌を見て内心で一人ごちた。
(“神約烙印テスタメント”の側に“寵愛者アマデウス”が在る……全く、性質の悪い冗談としか言えないな)
 先刻、ソニア自身の口から同行の旨を告げられた時。アトラハシスは思わず頭を抱え唸りたくなったものだ。当然、そんな態度などソニアには見せる訳にもいかず隠し通したが。
 自然とアトラハシスの口腔を通して諦念が嘆息となって吐き出される。そして気を取り直して、未だに佇んだままのティルトに結びの一言を告げた。
「ユーリにはユーリで色々と事情がある。人に歴史あり、と言う事さ」
 軽やかな拒絶の言葉に、これ以上は聞いても無駄だと覚ったティルトの名残惜しさを乗せた溜息が回廊に響き渡った。








「ユリウスさん? それを知ってどうするのです?」
「貴女が知る事ではありません」
 訝しげに問うフィレスティナに、ソードイドは冷厳と言い放つ。
 間髪入れずに断じられたそこには、余人が立ち入る事など許さないという明確な拒絶が浮かんでいた。
「……そうですか。ですが我々も仲間を売るような事は絶対にしません」
 しかしながらフィレスティナも、押し寄せてくる圧迫感に負けじと彼の者の要求を潔く拒否する。
 眼前の得体の知れない存在に対して確実に恐怖を抱いていると言うのに、それを胸の裡に隠し切ったが故の張り詰めた表情。
 真摯にそう告げるフィレスティナの頑なな双眸を言葉無く受け止めたソードイドは、やがて小さく肩を揺らした。
「仲間、か……ふふ」
「……何が可笑しいのです?」
 自分の本心を嘲られたのかと、フィレスティナは不愉快そうに眉を顰める。
 心の深底に生じた仄暗い感情が表面で波紋を広げても尚、彼女の麗美さは翳らず。寧ろ明瞭な相貌であるが故に、内心の烈々とした感情は色濃く鮮やかに飾り立てられ、不服の言葉に涼やかな迫力を与えていた。
「失敬。貴女はイシス女王陛下。そしてユリウス=ブラムバルドは…………そこに利用する者される者以外、どのような関係があると仰るのかと思いまして」
「……確かに、それは事実でしょう。ですが私は、我が国の恩人に対してそのような利得だけを掲げて接したくはありません」
“アリアハンの勇者”であるユリウスは、本来ならば王として自らが率先して身を挺し護らねばならないイシスの為に、文字通り身を削って貢献してくれたのだ。体裁上は双方の利害関係の一致による飴と鞭の協力体制を前面に押し出したものであれ、そして本人の思惑が何処を向いていたかがあれど、それでも国主として、またフィレスティナ個人として大き過ぎる恩を受けた事に変わりは無い。
 不審な存在に仲間の情報を売る、という恩を仇で返すような真似など己の矜持が赦さなかった。
 その心を澱み無く言の葉に乗せて連ねると、納得したのかソードイドは鷹揚に一つ頷いた。
「人として好ましい、清いお考えと存じます。そして同時に、王者として若い考えです。それは他に付け入る隙を生じさせる、甘さと言ってもいい」
「自覚しています。それでも、それが私個人の偽らざる本心です」
 言いながらフィレスティナはどうして自分がこうも胸の内を正直に吐露しているのかと不思議に思う。自らの兵達を難なく退けた確実な敵であるにも拘らず、今こうして対話している中で眼前の者が自分に危害を加えないであろう事に、何故か確信が持てていた。
 怖気を催す外面の印象とは裏腹の感覚にフィレスティナが戸惑っていると、ソードイドは不意に仮面の奥で深々と吐息を零した。
「……どうやらフィリオパトラ陛下はその志を良き方に受け渡せたようだ」
「お、お婆様を知っているのですか!?」
 まさかその人名がこの場面で耳朶を打つとは夢にも思わなかったフィレスティナは大きく目を見開く。
 既に亡くなった祖母と、今こうして相対する魔族との間にどのような接点があったというのか。軽く混乱をきたして瞳を微かに揺らがせるフィレスティナにソードイドは答えず、ただその威圧感を増やす事で応じた。
 再び、空気が硬化したかのような冷絶なる気配が拡がる。
「っ!?」
「貴女の毅く、揺るがない意志はわかりました。……では私は魔の者らしく力を以って今一度問おう。ユリウス=ブラムバルドはどこにいる?」
 いきなり息が詰まり呼吸さえままならなくなったのは、まるで落ちてきた空が身の上から降り掛かり、押し潰さんとしているからなのか。
 胸を押さえて苦しそうに顔を歪めるフィレスティナは、先刻まで確かに感じていた筈の、そして何時しか失せていた眼前の存在への畏怖に全身を苛まれる。
 厳然と圧倒してくる気迫は歴戦の剛の者でさえ身を竦める程だ。当然、戦闘者ではないフィレスティナにはとても抗えるものではなく、やはり幾瞬の内に呆気無く崩れ落ちる。その最中に何とか駆け込んできたアズサが女王の身体を支えんとするも、彼女自身、先の戦闘での負傷で既に満身創痍であった為に、尚も展開する圧迫に耐えきれず終に主従は大地に膝を着き、傅いてしまった。
「フィ、レスさまっ!」
「アズ……サ」
 王を守護する“剣姫”としての誇りと意地を以ってして、何とかアズサはフィレスティナを庇うように自らの身体をソードイドとの間に滑り込ませ、更には聖剣を大地に突き立てて身体と剣を楯として、重圧が主君に及ぶのを遮断せんとする。
 その行為にどれだけ効果があるのかを思えばアズサは絶望的な気持ちになるが、悲観的観測はしないように意識に喝を入れた。
(智魔将といいこの剣魔将といい、魔将とは……これ程のものなのかっ!?)
 殺気すら孕まれていない純然たる存在感は、正対している者に総毛立つ程の壮烈な意志を轟かせている。
 その気高き精神性は真っ直ぐで澱み無く澄みきり、ただ一点を追求して極め更なる高みに至らんと研鑽し続けた者のみが到達できる境地。これ程までに清冽に己が存在を世界に刻み込むなど一体どれ程の時を費やし、どれ程のものを切り捨てれば良いのか、若輩のアズサには想像すらできない。
 恐らくこの熾烈な存在感を前にして平静を保つ事ができるのは、既に何かが灼き切れた者か、或いは相対できるだけの時の練磨を続けた者のみなのだろう。
 往古より連綿と続く血統より、魔力への耐性が人間としては非常に優れているフィレスティナさえ意識が混濁し始めている現実を受け止め、アズサは戦慄きながらそう思う。聖剣を握る掌にじっとりと汗が滲んでいた。
 そんな足元に伏した二人の姿を、仮面の奥から何の感慨も載せぬまま見下ろすソードイドは、視線で二人を捉えながらも周囲で起き上がろうと体勢を整えていた者達にも均等に威圧を発し、往々の行動を制圧する。といっても直接的な行動を起こす訳でもなく、その牽制はソードイドが自らの裡に漲らせた闘氣フォースを周囲に無作為に放出するだけで行われていた。
 より一層の練度を以って、ソードイドはその場に在る者達を再度大地に縫い付ける―――。
「っ!」
―――事は無かった。
 場から唐突に圧力が消え失せ、突如としてソードイドが大きく身体を捻り真横へと飛び退いていたのだ。
 誰もが何事かと目を瞠る中。何処からともなく躍り出た黒い影が凄まじい速さで今の今までソードイドが立っていた場所を駆け抜け、鋭く光る剣閃で空気を深々と切り裂く。
 それを間近で見る事となったアズサとフィレスティナは、お互いを支えるように身を寄せ合いながら同時に叫んだ。
「ユリウスっ!」
「ユリウスさん!」
 唖然とする二つの双眸の先には、濃紺の外套と漆黒の髪を靡かせて、黄昏の陽光で艶かしい輝きを燈す剣を携えたユリウスがソードイドを冷静に見据えていた。




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