――――第六章
      第九話 剱は謡う







 対峙するソードイドにユリウスが得た第一印象は、触れる事すら躊躇われる程に清廉な刃。
 体躯のあらゆる場所から生える刃や禍々しい髑髏の意匠が目を惹くのは事実だが、そんな外見よりもソードイド自身から発せられている負と陰で編まれた“魔”の波動を感じ取ったユリウスはそう認識する。
 これは、永きに亘る魔物の殺戮において返り血を浴び続けてきた為に何時しか身に付いていた習性で、“魔”の存在に対してその格を探らんと無意識の内に働く知覚。ユリウスの異常なまでの索敵能力の根幹を成すものの一つだ。
(強い。間違いなく、こちらよりも……上だ)
 そして、自らが最も頼っているその第六感的な感覚から得られた現実により、いつしかユリウスの面は険しく烈々としたものに変わり、緊密な警戒が浮かんでいた。
 だがその変貌は、先制攻撃を繰り出した側であるユリウスからすれば寧ろ必然の事だった。
 今の不意を狙った一撃は、接近に際し完全に自らの気配を断ち、反応が最も遅れる真後ろからの奇襲である。急襲に気付いてから躱せるようなタイミングではなく、仮に幸運に護られ回避が叶ったとしても、呼吸の虚を突かれたが故に生ずる隙を無視できる事はできず、追撃に曝されるのは必至。
 もしも今の攻撃を自分が受けたと想定するならば、躱しきれず捌ききれず、左右どちらかの腕を斬り飛ばされるのが最も被害の無い結果に落ち着くだろうと自覚できる……自画自賛などする気は無かったが、客観的に分析すればそう冷徹に判断できる際どいもの。致死を為し得る会心の一撃だったのだ。
 しかし、ソードイドはそれを難なく躱してみせた。しかも一跳で離脱するには開き過ぎている間合いさえ設けて。
 距離にして、凡そ一般的な長剣を縦に六本並べた程。
 この隔たりは、相手側にはまだそれだけの余裕がある事実を言無く表していて、実力差そのものでもあると言っても良い。剣一本分の間を詰めるのに重ねなければならない鍛錬を思えば、気の遠くなる話だった。
 そんな壮絶な事実を突き付けられたユリウスは、余裕や油断など全く無い漆黒の眸を細め眼光を強める。
 絶対に戦いを挑んではいけないと、殺戮人形としての本能がそう言っていた。嘗て祖父イリオスや宮廷騎士レイヴィス、アリアハン王ザウリエ達から散々言われた、勝てないと自明である敵と戦ってはいけない、という戒めが不協和音となって戦慄を覚え往く脳裡に反響していた。
 しかしながらユリウスは、己の中でけたたましく鳴り響く警鐘を無視する。目の前にいる存在は紛れも無く魔族で、避けては通れない確実な敵なのだ。刈るべき敵を前にしてどうして背を向けられようか、とユリウスの裡で沸々と滾る何かがそう囁く。
 髪を掻き分けて流れる一筋の汗が頬を伝わり、革手袋の下の掌がじっとりと汗で滲むのを感じながらも、ユリウスはそのに従い、逆に冷えていく思考を巡らせて格上だろうが確実に殺す算段を構築せんとソードイドの細かな一挙一動さえも見逃さぬように凝視していた。
 対して悠然と距離を空けたソードイドは、不意を突いて現れたユリウスの突然の介入に少しも動揺を見せる事無く。そればかりか漸く見えた相手の姿に、仮面の下で感嘆の笑みを浮かべたような気配を発してさえいた。
「今の急所突き、見事だった」
 厳かに紡がれたのは、惜しみない賛辞。声韻に嘘や皮肉、嘲りといった感情の色は一切見られない。
 だがそれをそのまま受け取る程に、ユリウスの思考は硬直してはおらず。少しでも隙が現れたならば攻撃に転じんと、摺り足で間合いを徐々に詰めながら下肢に力を篭めていく。
「ただ一つの点において指摘するならば……不意打ちは文字通り相手の意表を突く神出鬼没さがあってこそ真価を発揮する。それを敢行せんとするならば、最初から最後まで殺気は隠し通す事だ」
「……一撃必殺を狙っていたが故の殺気が漏れていたか」
 不意打ちは、相手にこちらの存在を覚られぬように虚を突くのが定石である。その時に僅かでも殺気が漏れれば、腕の立つ者ならばそれだけで攻撃を察知する事もあり、回避の暇を与えてしまう事になるのだ。ましてや声を挙げるなど言語道断。それはその行動自体を否定する愚の骨頂としか言えない。
 今回は魔に対して逸る殺戮衝動が御しきれず、それが仇となってソードイドに読まれたのだとユリウスは納得する。既に自分の中に叩き込んだ筈の戦の理であったが、奇襲が現実に失敗した以上、相対する敵からこうも穏やかに指摘されれば頷く他無かった。
 だがしかし、ソードイドは逆にユリウスの自省をも否定した。
「今の攻撃に限った事では無い。貴殿からはこうして言葉を交わす間も尋常ならざる殺気が流れ出ている。それ程の濃密な気配を隠そうとしないのであれば、自分の位置を常に相手に教えているのと同じ……敵を前にして若さ故に気勢が逸るか?」
 静かに語り掛けながらゆっくりと芝生を踏み締め、ソードイドは前進する。
「それとも、貴殿の心を躍らせるだけの何か・・があったのかな?」
「っ!」
 まるで心臓を鷲掴みにするかのような絶妙な問い掛けに、思わずユリウスは息を呑み込んでしまった。
 小さく目を見開いたその表情を見て、ソードイドは誰にも覚られる事無く笑みを深める。
「何れにせよ、戦者たる者。戦場に臨まんとするならば、どのような局面に相見えようとも決して自らを見失わず、歪み無き意志を貫く剱の精神を持つ事が肝要と言えるだろう」
 それは宛ら子弟に道理を伝える教師のように。先程までイシスの面々と対峙していた時のような寡黙さとは一転して、饒舌に言葉を連ねるソードイド。
 その身から周囲に向けて無差別に放散される圧力は声調共々先程と何ら変わりないが、傍から聞く者の耳にもどこか柔らかく、好意的でさえあるように感じ取れた。
 対してユリウスは深々と眉間に皺を寄せる。
 こうして直に言葉を交わした魔族はこれで二人目になるが、忘れもしない一人目の“導魔カオスロード”アークマージにとってこちらは、目当ての女……白妙の賢者ルティアに付随していただけの、言わば視界の端に映った道端の小石と同程度の認識だった。
 しかしこの刃の魔族は明らかに、こちらに関しての何かしらの核心を持っている、とユリウスは視線に更に尖鋭にする。
「……貴様、何者だ?」
「“剣魔将”ソードイド」
 魔群の長の暢達な佇まいを訝しみ、冷然と誰何するユリウスにソードイドは迷い無く返す。
 全く以って自らの素性を隠す気が無い即答振りに、ユリウスは怪訝を深めた。
「聞いた事が無いな。魔王の将は龍、智、獣、剛、天、海の六将と聞いていたが?」
「然り。嘗て天魔将サタンパピーは討たれ、そして海魔将テンタクルスもまた、アリアハン―ランシール海戦において貴殿らに討伐されている。私はそれらの後任として過日、魔将の座に就いた」
「……その剣魔将が単身でこんな所に何の用だ?」
 こうも易々と自身の陣営の情報を連ねるソードイドに、ユリウスの猜疑の念は加速する。相手の意図が全く掴めない事に、警戒の焔は一層強く猛々しくなった。
「人の身でありながら、魔獣軍を単独で虐殺せしめたという貴殿の武勇に興味があった。他の将共も今更ながらに貴殿の器を測ろうと何やら画策し始めたようだが、一番手は何人にも譲るつもりはない」
 雄々しく、澱みなくソードイドは断言する。
 その誠実ささえ感じられる言葉が真実ならば、イシス戦役における幕引きの戦闘……ユリウス自身としては無様な失態を曝した忌々しい記憶であるが、それでもあの殺戮が魔将の目に留まった。つまり、魔王軍に目を付けられたと言う事になる。
 それは普通の感覚では先行きの不安を突き付けるものだったが、逆にユリウスにとっては僥倖であった。このまま漫然と世界を廻り無為な時間に取り殺されるよりも、自らを餌として敵をおびき寄せ刈り取った方が効率が良く、自分の性に合っている。己が目的の成就に繋がるのだと常々考えていたからだ。
 既に何の感慨も沸かない故郷アリアハンを旅立って十ヶ月足らず。人の世という闇中を手探りで歩み進んできた身としては、漸く掴みかけた光の端に昂揚せずにはいられない。事実、誰にも知られる事の無い破滅的な利己の思惑が満たされた事に、ユリウスの口元は無意識に持ち上がっていた。
「剣に生きる者の一人として、一戦交えて頂きたい」
 陽光に眩く輝く剣を構えながら昏く歪んだ笑みを湛えるユリウスを見据えたまま、ここで初めてソードイドは両腰に佩く剣を引き抜いた。
 戒めから解き放たれる刃は艶かしく、左右それぞれに独自の軌跡を描きながら虚空に向けて諸手を翳している。それらの刃は既に材質から異なるのか普遍的な鋼鉄とは一線を画した異彩を放ち、生物的で無秩序を象る曲線は斬る事のみを追求して鍛えられたのか、引こうが押そうが、薙ごうが突こうが凡そありとあらゆる剣撃全てがという結実に至らしめる程に、斬る事に特化していた。
 更にソードイドは長さが異なる左右両方の剣の柄尻同士を合わせて連結し、拳六つ程の長さになった柄の双方からそれぞれ刃がヌラリと伸びるという一振りの双刃剣へと変化させる。
 見るからに扱いが困難を極めるであろう長大な兇刃を苦も無く携えるその姿。剣花という言葉が良く馴染む鋭刃の全身鎧を纏っている事も相俟って、そこに立つ威風堂々たる存在は正に至高の剣であった。
 触れる事すら躊躇われる清廉な刃、という最初に抱いた印象がユリウスの意識の中で更に高まる。
「……剱の聖隷」
 気を確かに持たねば魅入りそうになる刃の輝きを前にして、一つ呪言を自らに投げ付けたユリウスは双眸を伏せ、開く。急速に色彩が亡失していく世界を無言のまま見据え、殊更緩慢に剣を構えようとしているソードイドに向かって真正面から駆けた。
 この場に躍り出た時から既に闘氣を全身に行き渡らせている為に、その瞬発力は射られた疾風の矢の如く。体勢を低くしたまま一呼吸で剣六本分の間合いを詰め、突進の勢いを乗せて袈裟に切り上げる。
 切先で地面を擦りながら進ませ軌道を隠した下段からの一撃は、だが風を捲き込んで轟然と振るわれた横薙ぎの一閃に易々と阻まれていた。
 最初の交錯は聴覚を通して脳裡に直接突き刺さる鋭利な韻律を中庭に響かせるも、その余韻が周囲に浸潤したのは一瞬。
「速さと力を兼ね揃えた良い一撃だ」
「っ!」
 単純な腕力の差から、身体ごと後方へ弾かれそうになったユリウスは即座に刃を引き戻し、地に着いた軸足を右から左に替えてその場で身を翻らせては、身体の捻転に遠心力を乗せて真逆の左方へと切り払った。
 競り勝った相手の力をそのまま反す逆巻く烈風を、ソードイドが身体の前で腕を掲げただけでいとも簡単に受け止める。
 その呆気無い結果に内心で驚きつつも、そこで足を留めるような愚を犯さなかったユリウスは気勢を弛ませる事無く連撃を放つ。線から点へと攻撃基準を切り替え、ソードイドの両翼の刃の動きに注意を払いながら、真正面から柄部分に狙いを定めて果敢に刺突を繰り出した。
 相手の突然の攻勢変化にもソードイドは至極落ち着いた様相で対応し、群れを為す疾風の突きを完全に見切っているのか、手首を動かすという最小の動作で柄を操り、ユリウスの剣の切先を弾き、受け流し、捌く。
 回避するならまだしも流石にその対処には瞠目せざるを得なかったユリウスは、それでも手を休めず更に点と線を織り交ぜて間断無く剣を閃かせ続けるも、ソードイドはその卓越した技量を以って双刃剣を振るい尽くを防いでいった。
 双刃剣はその形状から扱いこそ至難だが、極めれば槍の破壊力と剣の防御力を同時に発揮でき真なる意味での攻防一体を戦場に具象させるのだ。
 実際、その双刃の砦を前にしてユリウスは攻めあぐねていた。
 速さを以って翻弄し僅かな死角を狙ったとしても、思いも寄らない軌跡を描いて飛来する迎撃に阻まれてしまう。
 技を以って鉄壁を開けんとしても、小手先の技巧など既に自明である腕力と得物の破壊力の差で叩き潰されてしまう。
 捨て身で相手の間合いの深くに踏み込んで力押しにしたところで、高速で旋廻する刃を前に後退を余儀なくされてしまう。
 既に戦闘に突入してから十を超える剣閃を繰り出し、それと等しくソードイドと切り結んでいたが、ユリウスが放った斬突の濁流は鮮やかに掻き分ける双刃の前に潰えていた。そしてその間、ソードイドは戦闘を開始した場所より一歩も動いてはいない――。
 ソードイドからの空を裂く鋭い一撃を何とか逸らし、躍る追撃の刃を躱しながらユリウスは思考を巡らせる。
(手札が無い訳ではないが……いや、今使えない以上、考慮から外さなければならない)
 本来のユリウスの戦闘スタイルならば、こういった剣のみで歯が立たない局面に陥った時にこそ魔法を用いて現状を打破する選択をしていただろう。魔を滅ぼす為に持ち得る全ての手段を利用するのがユリウスの変わらぬ姿勢なのだから、剣技に固執する事など無い。戦況に応じて必要と在らば剣を投擲し、徒手空拳で戦いを続ける選択肢もあるのだ。
 そして同時に、自身の切り札である魔法剣が使えていれば少なくともこんな防戦一方の状況にはならなかったと確信していた。しかし、魔法が原因不明のまま封印されている現状においてそれらは全て机上の空論でしかない。仮定を論ずる事に意味など無く、無いもの強請りに価値など無い。特に、瞬間瞬間の火急的判断を迫られ続け、刻々と変化する戦場においては顕著である。
 彼我の間にはまるで大人と子供のような確実な力の差がある。現状を冷静に検分して導かれる結論を痛感し内心で歯噛みしたユリウスは、思考が深まるが故に生じてしまった僅かな隙を狙うソードイドの地を穿つ雷霆の如き一撃を、反射的に剣を頭上に掲げる事で辛くも受け止める。
 その凄まじいばかりの威力に剣が折れたのではないかとユリウスは一瞬錯覚したが、そこはやはり貴重な鉱物より鍛えられた『白金の剣』。自らを支えるユリウスの力を感じ取り、頼もしくその優麗な佇まいを崩さずにしっかりとソードイドの双刃剣を受け止めていた。
 しかし切り裂かれこそしなかったものの、反応が刹那遅れた代償としてユリウスはその場に縫い付けられる事になる。
 双刃剣の長さと重さを以って多大なる負荷を掛けて来るソードイドを前に、持てる膂力りょりょくの全てを注ぎ込んで抵抗せんとするも、少しでも意識を動かしてしまえば即座に押し潰されてしまうという膠着の沼地に、自ら足を踏み入れてしまったのだった。

 真正面から激突した力と力は、苛烈な剣戟音を生じさせ周囲に戛然と轟かせる。
 そのまま鍔競合いに縺れ込んだユリウスとソードイドは、草叢を駆ける風に無遠慮に曝されながら彫像の如く静止していた。
「……楽しそうだな」
 十字に交差した刃を挟んで両者の視線は絡み合い、鬩ぎ合う刃からのけたたましい金擦り音が逼迫した緊張感を煽っては周囲の空気を冷たく硬質なものへと塗り替えていく。
 そんな中、ソードイドはまるで天気を問うているかのような気軽さでユリウスに語りかけた。
「剣閃が喜色に染まり弾んでいる。やはり何かあったようだな」
「……そんな事、貴様の知るところではない」
 その落ち着いた弁舌に余裕を感じ、徐々に押され始めていたユリウスは苦渋に顔を顰める。
 この時ユリウスが憮然と表情を歪めたのは現在の趨勢を危ぶんでの事もあるが、その殆どはソードイドの指摘が図らずも正鵠を射ていたからに他ならない。
 期せずして黒胡椒屋で得たとある情報・・・・・に狂喜したユリウスは、それまでの買い出しで得た荷物全てを放り捨てて店を飛び出し、“その場所”を知る為に急ぎこのイシス領事館に帰還したのだ。
 そして辿り着いた先にはどういう理由かは定かでは無いが魔族、それも六つの頂点の内の一つが佇んでいたのだから、魔物の殲滅を本懐とするユリウスにして懐裡で猛る殺戮衝動が昂ぶらない理由は無い。
 荒々しく迸る殲滅の意識が激流となって下肢に檄を打ち、大地を抉り込むように踏み締めては力を大腿、腰、背、両腕へと澱み無く伝導し、燃え滾る気勢のままにユリウスはソードイドの刃を押し戻さんとする。
 が、最初から闘氣を限界まで集約しているユリウスにはこの劣勢を覆す事が出来ず。今の拮抗を維持するのが精一杯であった。
 逆にこの拮抗を愉しんでいるのか、長引かせようと敢えて力を調節している様子でさえあるソードイドは静かに続ける。
「内なるまま刃を振るう事は悪しき事ではない。それが唯一の正道を征する事もある」
「! その言い回しはっ」
 嘗て、自らの意識の深くに刻まれた言葉の再現にユリウスが微かに目を見開くと、その隙を突いてソードイドからの重圧が増した。
 両腕と両膝に掛かる負荷の大きさにユリウスは左足を退き、歯を食いしばって耐え忍ぶ。
「貴殿は何故剣を取り、魔物を滅ぼす? そんな事をしたところで、貴殿に一体どのような益を齎すと言うのだ?」
「何をっ」
「仮に魔物を滅ぼしたところで何になる? 人類共通の脅威が失せたとなれば、その先にあるのは人間同士による覇権を賭けて繰り広げられる醜怪極まりない血みどろの争い。いや、人は既にその事態を見据えている。貴殿の存在は来るべき時に備え、我欲のまま影で並べ配さんとする盤面を誰の眼からも欺く為の態の良い矯飾に過ぎないのだ」
「下らないな。そんな問答など既に無価値だ。周りが何を画策していようが、俺には関係――」
「無いと言い切れるか? 貴殿はある意味、人の世の破滅の鍵を握っている厄介な存在でもある。そして名のある者に限らず、人の所業は当人が望む望まざるに関わらず連鎖し無作為に伝播するものだ。貴殿がこれまでに訪れた場所でとった一挙一動が、どういう風に変換されて世界に伝え拡がるか、考えた事はないか? それが善き方向ならば大事無くとも、悪意を以って編まれた言葉が如何なる波紋を齎すか、解っているのか?」
「……っ!」
 それは“勇者”という存在に付いて廻る蔓を不意にユリウスに思わせた。一方的な期待をかけておきながら、それが叶わぬと知った時に発せられる誹謗中傷。嫉妬、侮蔑、非難、忌諱……その他の身勝手に紡がれる酷烈な感情の数々。
 何故か最初に、父の訃報に泣き崩れる母と、その背を痛ましげに見つめる祖父の顔が記憶の底から浮上する。
「イシスで、ロマリアで。ランシール、そしてアリアハン……何の謀も無く、ただ純粋に貴殿と言う存在を喜んで迎えていた場所などあったか? 卑しくも並べ連ねられる美辞麗句に裏を感じた事は無かったか?」
 行く先々で、自らの権勢を誇示したいが為に虚栄のまま押し付けられる厄介な事案の数々。こちらを態良く利用しようという思惑が透けて見える、何重にも張られた深慮遠謀。
 次いでアトラハシスとセフィーナの木漏れ日のような温かい笑顔が、強張った糸を解すように涼やかに脳裡を横切った。
「……何が、言いたい?」
「考えた事は無いか? 魔物と言う存在が人類共通の脅威であるならば、何故人間は持てる自らの手勢全てを投げ打って魔物に戦いを挑まないのかと。刻一刻と世界の破滅が近付いていると切実に囁かれながらも、どうして世界は未だ穏やかに在り続けているのかと」
「!」
 それらは予てからユリウス自身が感じ、無意味だと断じて切り捨てた思考そのものだった。
 だがしかし、まさかそれを他ならぬ魔族から浴びせられるとは考えてもいなかったユリウスの意識に緊張が走る。
「貴殿の意志の如何無しに、貴殿の逸脱した能力を見た世界はどういう眼をしていた? よしんば貴殿が魔王を討ったとして、その時、貴殿に帰れる場所はあるのか? 何れの国家も貴殿の名声と功績を利用しようと画策し、それと等しく警戒している中で、最も扱い辛い貴殿そのものに安穏な場所など用意されると思うのか?」
「そんな事……俺の、知った事ではない」
「国としての権謀ならばまだ優しい。だが国の基盤たる一個人ではどうだ? 人は脆い。人は弱い。己の理解を超えたものが目の前にあると、まず己が領域の内に取り入れようとする意思を放棄する。そこに論理など無い。そこに道理など無い。情理も無く、ただ後に続くのは不条理より導かれるただ一点の拒否、拒絶」
 畳み掛けてくる口述は、実に人間の情操と性質を理解しているようだった。
 これまで見えた人々の無機質な、人とは違うモノ……まるで魔物を見るかような冷酷な眼差しがユリウスの意識を掻き揺らす。
(……危険だ)
 刃越しに切々と投じられてくるそれらは、甘く芳醇に香り立つ猛毒だった。
 浸蝕されている事に自覚さえ持たせずしっとりと内側に染み渡り、やがて気付いた時には全てが遅く。存在を構成する全てを情け容赦無く瓦解させて終焉を齎す……人が己の意思を伝達する手段に過ぎない言葉という魔性の毒。
 平時のユリウスならば、敵がどのような言葉を弄そうとも気にも留めず、一笑に伏していただろう。敵の吐く戯言など、所詮は相容れない者が放つだけの騒音に過ぎないと認識しているからだ。
 だが今のユリウスは先の事もあって本人の自覚なきままに意識が大きく掻き揺らされている。更にその“毒”を発しているのが、今のユリウスなど及びもつかない練達の技量を持つ“剣魔将”ソードイド。その存在は既にユリウスの中で鮮烈に刻み込まれていた。
 それら二重の蔦が手や足はおろか意識に絡み付かんとしているのを直感的に覚ったユリウスは、阻まんと外側から触れてくる全て一切を拒絶する硬き鞘に自らの意識を納め、その内側にて思考だけを冷たい利刃に換えてただただ敵に集中する。
 双眸の輝きから感情が亡失し、目の前で冷徹に変貌する兆しを見せたユリウスにソードイドは更に重ねた。
「貴殿の剱は孤高だ。何者もその柄に触れる事は適わず、何者もその刃より逃れる事はできない。しかし鋭利過ぎるが故に自らが毀れを抱えている事すら気付けず、全てを覚るのは己たる刃が折れ砕かれた時のみ」
 聞きようによってはユリウスの行く末を案ずるが如く憂いてさえいるように響くそれは、ユリウスが思考を刃化させる速さをも凌駕して巧妙に鞘との隙間に入り込み、その奥にしっとりと染みてこころを蝕む。
 最後に、顔半分を緋色に染め上げたコーデリアの最期の微笑が瞼の裏側に刻まれては、消えた。
「黙れっ!」
 頑なに沈黙を維持しようとしていた鞘に次々とことばが突き立てられた事で、稲妻の如き亀裂が鞘全体に迸る。穿たれた孔の全てから滔々と黒く昏い何かが溢れ出て来て、静謐が崩壊。
「黙れ、黙れ黙れっ!!」
 叫び散らすユリウスの眸に仄昏い黒き光が燦爛と滾り、視界が一気に狭窄した。
「何故剣を手にする、だと? そんな事決まっている。魔物を殺す為だ。何故魔物を滅ぼす、だと? 解り切っている。俺はその為だけの存在だ」
 襲ってくるから、などと安易な言葉は返さない。その程度の事はユリウスからすれば理由ですらないのだ。
 そもそも魔物を殺せと言うのは、不特定大多数の他者が一方的に課した命題である。そして永い間、その前提を受け容れて歩んできたユリウスにとっても、既に意識の奥深くに刷り込まれた常識でしかなかった。呼吸をして筋肉と神経を働かせ、身体を動かすという生理的な本能と同義であり、そこにいちいち理由も意味も価値も求めなどしない。
 更には旅立ち前にユリウスは敵意と殺意を持って向かってくる者があるならば、魔物であれ人間であれ分け隔てなく殺すと定めている。それがどれ程までに人の世の倫理に反していようとも、どれだけ外からの咎めの声が沸こうとも、一切耳を傾けず貫徹すると誓っている。……誓いの代償を払った時より、己は最早引き返す事などできないと誰よりも理解しているが故に。
 そう、全ては“アリアハンの勇者”の性。全ては“オルテガの息子”の本能。全ては、殺戮人形としての習性。それらはユリウスを構成する要素の一欠片で、且つユリウスを突き動かす原動力そのものだった。
 何時しか烈々とした抑揚に躍動していた言の葉と双眸の嗜虐的な輝きに引き寄せられ、ユリウスの周囲の空気が微かに、だが濃密な何かの放射に渾然と揺れはじめていた。
「態の良い矯飾? ……今更だ。俺が道化である事など“アリアハンの勇者”を継いだ時から知っている。安寧? ……笑わせる。臭い物には蓋をするのが人の不変情理である事など“オルテガの息子”である以上とうの昔に理解している。未来? 下らない……下らないっ! 殺戮人形である俺には、魔物を殺し続ける現在があれば良い。未来うえばかりみて現在あしもとを掬われるなど、語るに落ちる愚の骨頂だっ!」
「……まるで蝋燭の焔だな。猛り輝いているように見えて、その実は己を支える身そのものを自ら食い潰していく」
 獰猛な獣の眼光で睨んでくるユリウスから目線を逸らさずに、仮面の奥で微かに吐息を零したソードイド。
「哀しき耀きだが……そこで思考を止めるな」
 裡の昂りか、或いは砂漠の陽炎の如くに揺れる周囲の空気がそうさせているのか。堰を切ったように懇々と並べるユリウスに鋭く哮ったソードイドは、膠着を自ら打ち破った。
「っ!?」
 これまでとは質も量も異なる乾音が響いたかと思うと、ユリウスは何かに弾かれ大きく後方に吹き飛ばされる。
 それはソードイドが繰り出した力を篭めた只の一振り。今のユリウスでは到底収束できない膨大な量の闘氣を瞬間的に、一度の剣撃に絡ませてぶつけただけの単純な一撃だ。たったそれだけで、これまでのユリウスの全力の抵抗は全く意味の無かった事にされ、何の反応もできぬまま自らの制空圏から叩き出されていた。
 何とか受身を取って着地し体勢を整えたユリウスであったが、刀身から伝わってきたあまりの衝撃にジリジリと痺れている掌と、ソードイドの刃と接触した剣の部位がそのまま削り取られていた現実に愕然と目を見開く。
 大きな力で打ち砕かれたのではなく、削り取られた。いや、削り取られたと表するにはその断面はあまりにも滑らかで鋭い事から、切り取られたと言った方が正しいと思える。放たれた一撃にはそれ程までに力が一点に集約し、澱みない刃を形成していたのだろう。
 艶かしい断面から目が離せないユリウスに、ソードイドは厳かに言う。
「思考の放棄は意識の停滞を招き、留まり生じた意識の澱みは魂魄の輝きを曇らせる。そして剣閃は、その者の意識の在り方を映す鏡。貴殿の剣の余裕の無さは、その鏡面が澱みに覆われているからこそ……それはそのまま貴殿の未熟さに帰結する」
「黙れと言っているっ!」
 ソードイドが纏う刃の鎧に貫かれる事を厭わず、今までに無い速さで深く踏み込んでユリウスは全身全霊の気魄を篭めて真一文字に切り付ける。
 だがその軌跡を初動で既に見切っていたソードイドは、まるで埃でも掃うかのような軽快な動作で剣を合わせた。
「くっ……!」
 加速した刃同士がぶつかる衝撃に耐え切れず、ユリウスは再び後退を余儀なくされ、剣もまた先程と同じように一部分だけ切り取られていた。
 刀身そのものが半ばから折れるか、砕かれたのならばまだ理解は易かった。しかし現実はもっと酷烈で、接触した場所そのものを切り取ってみせるなどユリウスには真似出来ない芸当だ。その結果から導かれて色濃く表面に浮かんでくる歴然とした力の差……それは既に大人と子供どころの話ではない。この様では、相対している事が既におこがましいと否応無しに理解できる程のもので、ユリウスの焦燥は募るばかり。
「これで手詰まりという訳ではあるまい。貴殿の力の本質を、澱みの深奥に在りし真なる輝きを、その鞘から抜いて見せてみろ」
 遥かな高みより下される冷厳な一言。
 思い浮かぶのは、アークマージに手も足も出なかった滑稽な己の姿。圧倒的な力の差を前にして、否応無しに理解させられる自らの無力さ。
 あからさまな挑発であったが、嘗ての敗北の記憶が脳裡に甦っていたユリウスは全身を流れる血液が沸騰するのを感じる。筋と骨の細部にまで行き渡る神経に灼熱の雷火が駆け巡るのを感じる。
 身体を内側から灼き切らんとする焦熱の流れは、このまま何もできずに終わる事など赦さないと言わんばかりにユリウスを責め立て、殺戮衝動を限界まで肥大させる。ありとあらゆる手段を用いてでも目の前の魔族を滅ぼせと、何かが耳の奥で頻りに囃し立てる狂奏が奏で流れていた。
 己の中で猛り昂ぶっていた何かが臨界を超えて破裂し、意識の奥底でブツリと断裂した音が生々しく響く。
「まだ、だっ!」
 敵に向け、そして誰よりも自らに向けてユリウスは一喝する。
 すると昂ぶるユリウスの意識に合わせて足元から膝、大腿、やがて全身から霧のような漆黒の霊光がゆっくりと立ち上る。それは瞬く間に蔓の如く絡み付いて四肢を、五体を覆っていく。
 やがて顕れた姿は、宛らユリウスが光の繭を纏ったかのようだった。内側の意思の烈しさに同調して強く明滅する光の衣……いや、その光輝が夜よりも深い闇色である事も鑑みれば、闇の衣と表するべきだろう。
「共振励起……やはり、貴殿はそう・・なのか」
 突然ユリウスに顕れた変化を見止めて、どこか悔やむようにソードイドが呟く。その刹那、ユリウスの姿がその場から煙の如く掻き消えた。
 そして次の瞬間。ソードイドの眼前にまで詰め寄せていたユリウスは、既に振り被っていた剣を全霊を篭めて振り下ろす。
 荒ぶる漆黒の霧に纏わり付かれ、清廉な白金の刃が悲鳴を挙げていた。その叫喚さえをも斬撃に乗せた急襲に、ソードイドは少しの遅れも見せる事無く迎撃の剣を打ち出し――激突。
 裂帛の爆音と衝撃が既に半ばを越えた黄昏の浸潤した空に轟いた。








 バハラタ北東の台地に人知れず佇む遺跡の内部には警備の意味で魔物や、ここにある研究施設で造った魔物の変容体を放ち自由に闊歩させているが、当然、今回廊を往く二人の魔族に牙を剥く者などいない。魔物という、より本能に忠実な存在だからこそ、己よりも遥かに上位に在る魔族にはただ畏怖と隷従に跪くだけなのだ。
 回廊の前後の闇に潜みながら、ただ遠巻きにこちらの様子を窺う幾つもの気配だけが床を蹴る反響音に身を震わせながら犇いている。それは真夜中の森林や、底の見えない大穴を覗いた時のような心胆を凍えさせる薄気味悪さを感じさせるが、アトラハシスもティルトも歩む速度を落とす事は無い。
 元々アトラハシスは来賓であるソニアの為に新たな茶を淹れようと遺跡内に設置した給仕場に向かっていたのだが、どういう訳かティルトも目的地は同じという事だった。オルドファスがイーファの為に焼き菓子を用意したとの報告を受けていたアトラハシスは、まさかティルトもそれに誘われたのか、と詮無い事を一瞬考えたが、彼女に聞くつもりだった本来の用件を思い出して逸れた思考を正す。
「そういえばソードイド殿は? 今後の予定の打ち合わせをしたかったんだけど……」
 そもそもティルトの気配を察知して声を掛けたのは、その事を聞く為であった。目的を次から次にと湧き出す思考に浚われて見失っていたのは、自分の意識の流れがあまり好ましい状態ではない事をまざまざと思い知らされる。
 原因は解ってはいるものの良くない傾向だと一人懊悩に暮れるアトラハシスなど露知らず、ティルトは淡々と答えた。
「先刻までは鍛錬を見て頂いていましたが、所用があるとの事で出掛けられました」
「どちらに向かわれたんだい?」
「そこまでは聞いていません」
「……そうか」
 何の謀も無く、何かを包み隠した様子も無い単純明快な解に、ここで初めてアトラハシスは足を止め徐に天井を見上げる。
 地下でありながら床からの高さが相当ある天井付近には燭台の光が届かず、闇に塗れたまま。目を凝らしてみれば微かに煤で黒ずんでいるのが判るが、敢えて探ろうとしない限り見つけられないだろう。
 それは得てして、人の情理の面でも似通っているとアトラハシスは思う。人が他者の事を一見するだけで全て理解できる事などないように、自ら率先して知ろうと或いは探ろうとしなければ見つけられず、真贋の判断を下す事はできない。
 ソニアがユリウスの事を解りかねているように。ユリウスが、自分の事を量り違えているように。それは世界の論理と、人の理論にも通じている事だった。
 どうしたものかと眉を寄せて思案に耽っていると、何かを考え込んでいたティルトが慎重な声色で問うてきた。
「ソードイド殿は……誰、なのですか?」
「どうしたんだい、藪から棒に」
「あれ程までに極められた剣の腕をお持ちなら、さぞ名の通った剣豪なのかと思っただけです。我々と同じく“堕転誓約カヴナント”によって魔族化を成し遂げた方なのでしょう?」
 魔槍を持つのとは逆の掌を真剣な面持ちで見つめながらティルトは綴る。
 戦士としての性質か、或いは無意識の癖なのか。握っては開き宙を掻いている手が微かに震えているのは、至高の剣士に対する畏怖か、それに類する感情なのだろうと何と無しにアトラハシスは思う。
 そんな彼女に、アトラハシスは一つ頷いてから正直に紡いだ。
「実を言うとね、ぼくも正体はわからないんだ」
「は?」
 こちらもまた実に単純明快な解を発する。
 真顔から返ってきた澱みなき言葉を受け、回廊に気の抜けたようなティルトの声が朗々と響いていた。
「いや……君はまだお会いした事が無いけれど、ぼく達の統率者は魔王軍三皇の一“導魔カオスロード”様で、あの方は今、別の任務に就いておられてこちらに指示を出せない状況にあるんだ。そこで“導魔”様と同じ三皇の“剣帝ゴッドハンド”様が代わりにぼく達の監督者として此方へ来られたのだけど、“剣魔将”殿は“剣帝”様ご自身がご推挙され、自らの名代としてお連れになられた方なんだ」
「ええ、それは聞き及んでいます」
 何故か言い訳染みた言い回しになっているのをアトラハシスは疑問に思ったが、それは目の前で胡乱な視線をぶつけて来る仲間の所為だと納得して先を続ける。
「それでね、“印”が『兇刃・諸刃の剣』だと言うのは聞いているんだけど……ぼくの『破壊の剣』とは別系統の“印”だから探知なんて出来ない。剣を扱っているから、剣の使い手ならその剣筋から誰かを見定める事ができるかもしれないけど、生憎とぼくは剣の事では素人でね」
 お手上げさ、と自信を持ってアトラハシスが言い切ると、ティルトは深々と呆れるように溜息を零していた。
「……仮にも剣の“印”を持つ方の言葉とは思えませんね」
「いやいや、君みたいに“印”の容と当人の得意分野が一致する方が珍しいんだよ。そもそも“印”の絶対数は元より、その適合者が何を得意としているかなんて千差万別だからね。ぼくは本来弓が得意だし、オルドなんて鞭だって言っていたし」
「……ままならないものですね」
 オルドファスが鞭を振るう姿を想像しようとして出来なかったティルトは小さく頭を振る。
 諦念から吐かれた言葉に心の底から同意して、アトラハシスは気を取り直して厳かに続けた。
「何にしてもソードイド殿の正体が誰であれ、ぼく達“魔王の使徒”がすべき事は変わらない。此方における“黒”の欠片の探索こそが不動にして至上の命題さ」
 緩やかな声韻ではあったものの、そこには何人たりとも侵す事の出来ない覚悟が痛切に篭められていた。








 世界に終末を予感させる黄昏に彩られた中庭のいたる所から、聴覚を痛烈に責め苛む破砕音が轟いていた。
 だがそこに、その原因を生み出している者達の姿は見当たらない。いや、それを撒き散らしているのは“アリアハンの勇者”ユリウスと“剣魔将”ソードイドの二人であるのは間違いないが、両者の動きが速過ぎて他の者達ではその軌跡を目で追う事すら叶わぬ状況であった。
 とは言っても剣同士が交錯して飛び散る火花と、ユリウスが動くと後ろには霧のような黒光の残滓が深々と宙に舞い降っているので、両者の足跡を辿る事はできた。ただそれでも両者は完全に風を凌駕して一箇所に留まる事無く動き回っている為か、中庭のあちこちに黒の残影が満ち広がっていく様子は、まるで夕暮れの庭園という表題の風景画の上から黒の筆を縦横無尽に走らせて、失敗と断じた絵そのものを否定し塗り潰さんとするような凄絶さを感じさせる異様な光景だった。
 先程、ソードイドに打ち倒されて未だに意識が戻らぬ者も多々在る中で、早々と意識を取り戻していたミコトは戦場を見て愕然とする。
「馬鹿な……何で、何でアレをユリウスが使えるんだっ!?」
 それは誰かに投じた訳ではない。ただ眼前に広がる理解が出来ない事象に対して解を求める叫呼。
 優れた動体視力で茫然と勇者と魔将の剣戟を見ていたミコトは、猛りと共にユリウスの全身を覆い往く漆黒の霊光に叫ばずにはいられなかった。
「……“赫耀紗綸エマナティオ”」
「朔夜、気が付いたか!」
 ソードイドの一撃を受けた場所を手で押さえながら上体を起こすサクヤ。その様相はあまりに弱々しく蒼褪めたままで、確実に肋骨の何本かは折れているのだろう。自ら回復魔法を掛けようとしても未だ身体に奔る痛みで集中を阻害されているようだ。
 慌ててミコトはその背を支えると、サクヤは遠くから眺めるような眼差しで戦場を、ユリウスが纏う黒き霊光を見止め呟く。
「“フォース”、あるいは“エーテル”の収斂がある境界を超えて活性し、より高次の領域に到ると顕現する完全賦活状態……“赫耀紗綸”。あれこそが美命さまの到達点で、“破魔の神氣”を真に顕現させる領域です」
「だ……だとしても、一体どういう事だっ? ユリウスは……“洗礼職クラス”としては無職だ。ありえないだろうっ!?」
 己が最も信頼する者に、自分が辿り着かなければならない場所を示唆されたとしても、今回ばかりはミコトもそのままに受け入れる事はできなかった。
 悲痛に口早に捲し立てるミコトに、サクヤは首肯する。
「確かに、ありえません。“赫耀紗綸”を体現する為の絶対条件として“洗礼職”に、“転職”によって存在の根源たる“魂魄マナ”に“器”を与え、形質を定めている必要があります」
「そうだ。不定形の魂魄が“器”に収まる事で初めて無秩序に起きている流出を封じ、逆に欠損無く完全な収束活性ができる……でも“職”に就いていなければあの状態には絶対になれない。それが世界の、絶対の法則なんだろう?」
 世界に記された絶対の不文律が今、こうして目の前で蹂躙されている。
 それを為しているユリウスが“アリアハンの勇者”だとか“オルテガの息子”という理由では説明できない。それは血統などという浅はかな論理など歯牙にも欠けない、世界の普遍にして不変なる根本原理なのだから。
 絶句するミコトの横顔を一瞥し、だが彼女に対する答えを持たないサクヤは再び戦場を眺め、それにしても、と一人ごちる。
「魂魄の赫灼かくしゃく……その光彩は、その個人が持つ魂魄本来の色彩と言われていますが、漆黒とは」
 ユリウスを覆う光繭の色が夜よりも深い漆黒である事から、サクヤの口からは思わず、禍々しい、と出掛けたが自制を効かせて何とか言葉を呑み込んだ。
「アイツは……一体、何なんだっ!?」
 震える声で発せられたミコトの問いに答えられる者は、当然その場にはいなかった。



 どんな場所にでも行ける。どんな事でもできる。
 それらはいつか、誰かに投じられた問いへの答え。内側で昂ぶる衝動と外側の感覚に言葉で外形を与えたものだった。
 何時しか視界にちらつくようになった黒い霧に後押しされ、前へ前へと漲る意識で確かな全能感を覚えていた。これまで身体に蓄積していた疲労が嘘のように掻き消え、イシス戦役以来感じぬ時など無かった闘氣と魔力の不調和さえ拭い去られたかのようだ。神経がより鋭敏になって身体の隅々まで感覚が行き渡り、これまでに無い程に力が全身を充たしている。
 しかし。
 どんな敵にも敗れない。どんな敵であろうとも斃せる。
 嘗て、昂揚するその意気のままアークマージと対峙し、それが胡蝶の夢に過ぎなかったと理解させられた時のように。今ユリウスは、遊ばれている、という当初より抱いていた疑念を胸中で一層強く持つようになっていた。そしてその念は、最早数えるのも億劫になるまでに剣を重ねる中で肥大し、“剣魔将”ソードイドにこちらを害する気は……少なくとも生命を脅かす事はない、という確信にへと到っていた。
 ソードイドの恐ろしいまでに研ぎ澄まされた剣撃は、予想だにしない軌跡を描いて峻烈に攻め立てて来るものの、それでも絶対に回避不能な一撃や、致命を狙った急所攻撃などがこれまで一切繰り出されていない。ソードイド程の実力者ならば、その気になればこちらの首など容易に斬り落とせるのは明白であるにも関わらず、だ。
 その動かざる事実が自らの疑念を確定付け、侮るなと言う意識の狂奔を招いていた。
 最初に比べると格段に相手の動きに対応できるようになっていたものの、それでも力の基礎に近寄れない遠大な隔たりがある為か、ユリウスは幾度も打ち据えられては、地面を転がる。
 それでも戦意を亡失させず、果敢に立ち挑んでいく姿は勇ましいものであった。
 吹き飛ばされてもう何度目になるのか。全身が既に土と草に塗れゆく中、不意にユリウスは一度自分の方から己が間合いを放棄してソードイドから離れる。そして周囲に倒れている誰かの手から離れた剣を拾い、左手で構えた。すると瞬く間に全身覆う黒き霊光が新たなえものに向かって這い寄り、捕食するかの如く刀身を呑み込んでいた。
 そうして既に何層にも黒霧で覆われた白金の剣と併せて黒き双剣を携える事になったユリウスは、躍動する双つの黒剣を以ってしてソードイドに向けて疾駆した。
 右に左にソードイドの死角を狙って動き回り、ひたすら攻めの意識のままに息をも吐かせぬ連撃を繰り出す。
 己が持ち得る種類の剣撃の限りを尽くして乱れ切るそれは、まさしく剣嵐舞踏。虚空を断つ剣閃の全てが、身を覆う黒き光の作用によって強化された一撃必殺を越える絶殺の威力を秘めた暴虐なる破壊の驟雨。
 数え切れない幾重もの斬撃の群が縦横無尽に宙を滑空して襲い掛かるが、明鏡止水の境地で佇むソードイドは両手で構えた柄を力強く優雅な演武の如く回し、双方向に伸びる刃を大きく羽ばたかせる事で全ての剣弾を受け止め、弾き、流し、払う。
 更には隙を突いて幾つか反撃も試みていたが、今のユリウスは回避などせず、左右の剣を巧みに繰り真正面から叩き落として防いでいた。
「むっ」
 ここで初めてソードイドは小さく唸る。今のは、これまでのユリウスならば回避しか取り得ないタイミングで放った攻撃だったからだ。
 再度確かめるように追撃を真横から閃かせるも、ユリウスは剣を十字に交差させ、その交点で一閃を受け止める。そしてあろう事か左手の剣でソードイドの刃を牽制したまま、右の剣で至近距離から逆袈裟に切り下ろした。
 流石にその攻撃にはソードイドも虚を突かれたのか、装着する刃の鎧の胸甲から生える鉄棘の幾つかが切り落とされ、無造作に足元の草叢に転がった。
 地面を蹴り、軽やかに後方に着地したソードイドは特にいきり立つ訳でもなく、真っ直ぐにユリウスを見つめる。
「闘いの最中、我が剣を見て経験を吸収したか……一つ、階梯を昇ったようだな」
 その感慨染みた裏表無き賞賛を、ユリウスは受け取らない。
 敵ならば殺す。魔物ならば殺す。魔族ならば殺す。それはユリウスの中で斟酌の余地など無い絶対の理念。敵が何を思慮し画策していようが己には何の影響も齎さず、すべき事が変わる事などないのだ。
 理の声に従い腰を落とし両腕を構えたユリウスは、何時でも切りかかれる様に全身に力を行き渡らせる。
 既に数十を超えて切り結ぶ事になっていたが、疲れなど微塵も見せないソードイドは満足げな笑みを零しながら双刃剣を再び二つに分離し、ユリウスと同じく双剣で相対した。
「次は少し速さを上げる。遅れずに着いて来るがいい」
「!」
 楽しげに、それでいて厳かに告げられたソードイドの言葉にユリウスは眼を細める。
 互いの視線がぶつかり合い、肌にピリピリと痛い緊張が高まる。その時、これまでに比べ一際冷たい風が一陣流れ去り、両者は一斉に駆け出――。
「ユリウス君! 忘れ物を――っ!?」
「な……」
「っ!?」
――思わぬ人物の介入によって、その機は凍結する事になった。
 突然二人の戦場に割って入ってきたのは、先程ユリウスが訪ねていた胡椒店の寡婦、タニア=クリシュナ。もとい、アリアハンの大貴族カリオテ家の元令嬢リリージュ=G=カリオテ。
 夜の刻限が近い時間なだけに娘のターニャを連れてきてはいなかったが、彼女が両手に抱えているのはユリウスが彼女の店に放棄してきた荷物だった。タニアは昔馴染みの子供に気を利かせて、滞在しているであろうイシス領事館に届けに来たのだ。
 自分が一触即発の空気が漂う修羅場に足を踏み入れた事を、二人に遅れて悟ったタニアは愕然としている。
 だがそれよりも不審に映っていたのは、剣を構えたままのソードイドがタニアを視界に捉えたまま微動だにせず硬直していた事だろう。
 タニアはユリウスと斬り合っていた異形、その存在から視線を一心に向けられている事に狼狽を禁じえない。いかに戦いの業を幼少より刻み込まれているカリオテ家の人間とはいえ、タニアは既に剣を置いて久しい一般人なのだ。魔族で且つ頂点の一つである魔将という熾烈な存在の気配に気圧されない筈が無い。
 しかし、仮面で表情は見えないものの、その禍々しい姿から発せられる眼差しに何か違和感を覚えたタニアは困惑を露にする。
「……?」
 招かれざる者の登場によって戦場の烈気が既に霧散してしまっている現状に苛立ちを覚えていたユリウスは両者の醸す機微に気付かず、ソードイドに向ける注意を怠る事無くタニアに声だけで問うた。
「何をしにきた?」
「何を……って、君が店に荷物を置いて・・・行ったんでしょう? わざわざ届けてあげたのだから、礼の一つを言っても罰は当たらないと思うわ」
「……今はそんな事をしていられる状況ではない」
 この切迫した空気の中。まさか自らの問いにそんな答えが返ってくるとは思っていなかったユリウスは深々と嘆息する。
 もう気を取り直して普段通りに振舞える強かなこの女性は、やはり腐ってもカリオテの人間なのだと改めて思い知らされる。
 周囲を見れば、意識を取り戻していたイシスの面々もまた、何の前触れも無く舞台上に登ってきたタニアに唖然とした視線を集めていた。
「……興が冷めたようだな」
「待て」
 不意に抑揚無く淡々とソードイドは言う。タニアを一瞥した瞬間から既に戦意を失せさせていたのか、これまで発していた威圧感や闘氣を全て収め、二振りの剣も鞘に戻している。
 そのまま踵を返し立ち去ろうとしていたソードイドに、ユリウスは声を荒げた。劣勢なのは明らかであっても、戦いがこのような中途半端に消化不良で終る事など、ユリウスとしては認められるものではない。戦いは、いつも何れかの死を以って閉幕しなければならないのだ。
 双眸に危うい燈を載せるユリウスに、ソードイドは溜息を吐く。
「急くな。貴殿もまた、これ以上の闘いの続行は無理というものだろう」
「な、に……っ!?」
 心外甚だしい事を指摘された途端、ユリウスは地面に膝から崩れ落ちる。何とかして両腕を地に着いて身体を支えたものの、黒霧は徐々に消え失せていき、全身に圧し掛かってくる疲労感は今までの比では無い。身体の端々から発露してくる不調を自覚した瞬間、脳を掻き毟るような頭痛が発せられ思わず苦悶に顔を歪める。
 更には両手から投げ出されていた剣が再び陽光の下に晒されると、ピシリという甲高い音共に亀裂が走り刀身が粉々に砕け散った。
「このような結末は私も想定外だったが、そちらも限界だったようだな」
 ひっそりと降り頻る銀色の細雪が、夕日の眩さを反して燦々と大地を照り、そこに在る者達の影をしっかりと草叢に刻み付けている。
 ソードイドは、黒き霊光の残骸を纏いながら憔悴を色濃くして跪くユリウスを厳然と見下ろした。
「ユリウス=ブラムバルド。その身に起こりし赫灼は、器に納められし魂魄が完全活性した状態である“赫耀紗綸”ではない。それは器の赫灼とは階位を異にする力の律動……霊素と元素の共振励起だ」
「共振、励起?」
 顔を上げ鸚鵡返すユリウスに、ソードイドは頷く。
「往古、監視者であらせられる“魔呪大帝スペルエンペラー”と“聖芒天使アースゴッデス”、そして“金光皇竜ドラゴンキング”が世界を維持する為に施した大いなる軛“大憲章マグナカルタ”。その根源律令に囚われる事のない異端の特質だ」
 そこまで言って自らを省みたソードイドは自戒に首を小さく振った。
「いや、それについては今ここで私が語る事では無かったな。いずれ然るべき者から伝えられる事……だがやはり、貴殿が『魔王ルドラ』様と相対する運命に在りし『勇者ロト』、なのか」
 周囲の理解を置き去りにしてソードイドは一人、諦めるかのように深々と溜息を吐く。
「霊素賦活が芳しくないようだったが、どうやら封印されているようだな。貴殿の魂魄に干渉が可能な存在は……“白雪姫クロウカシス”様か。それならばその意図も得心がいく」
「さっきから何を訳の解らない事を……貴様は、一体何をしに来たっ!?」
「最初に言った筈だ。貴殿に興味があった、と。そして手合わせをして、それが無益でなかったと確信している。実に心躍る時間だった」
「戯言をっ!」
 殆ど一方的に遊ばれただけだったと認識するユリウスには、贈られる賞賛は既に嘲りでしかない。
 内側で激しく波打つユリウスの感情が擾乱する。
「……ユリウス=ブラムバルド」
「何だっ?」
「その路は……修羅の路だ。誰からも理解されず、誰からも求められず、得られるものなど何一つ無い。ただ磨耗し続け喪うだけで、やがて朽ちていく果ての無い闇の路だ」
 綴られる神妙な声韻と言の葉にユリウスの意識は一気に冷えた。
「……今更だ。得られるものなど無い? そんな事、最初からわかりきっている。だからこそ何も望まない、何も求めない。ただお前達魔を滅ぼし尽くす力以外、全てを切り捨ててでも俺は進む」
「そうか……自ら望んで亡却の途に着こうと言うのか。他ならぬ貴殿自身の意志で」
 無理矢理身体に力を篭めて立ち上がろうとしているユリウスを見つめたまま、ソードイドは続けた。
「では、せめて予言しておこう。貴殿はいずれ人間の……世界の敵になる。だがそれは、貴殿が世界の敵に廻るのでは無い。世界が、己が利得と領域を護る為に貴殿を敵に据えるのだ。それこそが、その業・・・を背負う者が辿り着く果てだ」
「!」
「我らは今、この地より北に在りし台地の山岳遺跡に滞在している。アトラハシスが貴殿の仲間である僧侶の身柄を預かったようだが……取り戻したければ彼の地へ来るがいい」
 それだけを告げてソードイドは踵を返し歩み始める。
 ゆっくりと夕闇に埋没していくその背に向けて、ユリウスは何故か手を差し伸ばしていた。
「待てっ……」
「そう遠くない時間の先で、再び見える事になるだろう。その時まで、自らの在り方をよく考えてみるといい」
 ソードイドの姿が暮れ往く闇色の空に揺らぎ、失せ始めては完全に掻き消える。
「誰の意思も介在せず、誰の言葉にも因らない……他ならぬ貴殿自身の意思で」
 その韻律だけを夜の冷ややかな風に乗せ、中庭には呆然と佇む者達の姿だけが残る。
“剣魔将”が何の目的を持ってイシス領事館を襲撃したのか、その真意が未だ見えぬまま、だが確実にはっきりした事が一つ。
 魔王軍を統べる将の一人と対峙して“アリアハンの勇者”ユリウスを含む面々は、完全なる敗北を喫したのだった。








 とっぷりと闇の帳が落ちて木々の間を余さずに埋め尽くした夜の森林。
 冷たい夜風によって掻き鳴らされる枝葉の風鈴の音色や虫の輪唱、身を潜ませた動物達の単調な息遣い。それら種々の音韻がこの場の深奥さに拍車をかける。
 仮初の拠点としている山岳遺跡の入口に降り立ったソードイド。
 その背後から、唐突に声が掛けられた。
「好きにしろとは言ったが、随分と思い切った行動をとったな。まさかこの時期のバハラタに単身赴くとは私も予想していなかったぞ」
 それは今まさにソードイドが帰還するのを予見していたかのようなタイミングであり、普通ならば驚愕に硬直しても仕方がないだろう。
 しかし当のソードイドは別段驚くでも無く、静謐の様相のまま踵を返す。
 その視線の先では、夜に染み込むように艶やかな黒の長髪と同色の外套を羽織った精悍な青年が、逞しい樹木の幹に悠然と背を預けていた。
「加えて、楽しそうだった」
「これはお目汚しを……梃子摺った挙句、情けなく遁走してしまいました」
 青年は粛々と語るソードイドが仮面の下でどんな表情をしているのか察し、笑う。
「嘘を言え。破壊の寵児である『勇者』の覚醒は、シュレリアの事もある故にあまりセリカが良い顔をしない……その事は理解しているだろう?」
「…………」
 緩やかな指摘にソードイドは答えず、ただ沈黙を保つ。そこにどのような狙いがあるかなど、恐らく当人以外には窺い知れはしないだろう。
 それを熟知しているのか男は追求せず、ゆるりと口の端を持ち上げるに留めた。
「まあいい。こちらの事は当初の予定通りにお前に任せる」
「かしこまりました」
「私はこれから“魔呪大帝”との会談に赴くが……さて、“魔呪大帝”の口に合えば良いが」
 そう言いながら青年は小脇に抱えていた木箱を徐に持ち上げる。内側に納めた物を固く厳重に封じる為か、紐で何重にも括られていて微動だにする気配も無い。
 中の様子を見定めるが如く目線の高さに固定して検分する姿に、ソードイドは口を開く。
「それは?」
「ん、ムーンブルク産の良い酒が手に入ってな。訪ねる側としては土産の一つを持参するのが礼儀というものだろう?」
「ムーンブルク……懐かしい響きです」
「ふ、流石のお前も故郷を恋しく思うか?」
 穏やかに問いかける青年に、ソードイドは、まさか、と首を横に振った。
「ご冗談を。私は既に彼の地を捨て、此方に骨を埋めると決めた身です」
 その決然たる即答に、そうか、と青年は微笑む。
「“双魔帝”は色々と画策しているようだが、気にするな。お前はお前の思うようにやればいい。頼むぞ、ヨシュア」
 青年は滝の如く流れる麗かな漆黒の長髪を木々を梳く風に靡かせながらソードイドに歩み寄り、その肩甲の刃の付いていない部分を拳で軽く小突く。
 それは遥か昔から続けられているこの師弟間での激励のやり取りだったのだが、ここで初めてソードイドは疲れたように溜息を零し、その内側に隠されていた人間味を表に出した。
「……師よ。それは私が幼く、世界を知らなかった頃の名です。今の私は、貴方より授けられた名で確立しています」
「ふっ……そうだったな、――――」




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