―――第六章
      第十話 早駈け







 嵩貴なる古の技術によって建造された〈天空の塔〉ガルナ。
 往古より積み重ねてきたその歴史は、人類が開闢以来刻んできた時間よりも永く、久遠の彼方より変わらぬ姿を保持してこの地に佇んでいた。
 古より天を支えし巨神の一柱として人々に崇められてきた偉容は、今の世であっても普く人の意識を集める。それは優れた芸術に心奪われる事と同じように、模倣さえ叶わない傑出した姿に惹き付けられる事が一因として挙げられるものの、だがそれよりもこの塔の存在感そのものが、見る者の根源にある魂魄に直接働きかける何か・・を発している、と言うのが専らそこに帰属する“賢者”達の往々たる回答だった。
 ガルナの塔は魔の喜悦の喊声も人の悲嘆の涙声も、世の移ろいなど見向きもせず、今日も変わらずにただ泰然と天帝の如くその場所に鎮座していた。



 身を切る風が不躾に吹き荒れる塔の外周回廊を、肩を怒らせてのっそりと進む臙脂の影がある。
 その全身から発せられる烈々とした気迫は周囲を気侭に流れる風を戦慄させ、その剣呑なる眼差しは尋常ならざる圧力をもって視界に映る尽くを萎縮させていた。
 白磁の瑞々しい眉間に深く刻まれた皺は一見して不機嫌の絶頂にあるという事を言葉無く知らしめ、だがそれとは裏腹に、生来より人の域から逸脱した美麗さを誇るその姿は華奢そのもので、繊細という言葉がこの上なく馴染んでいる。そんな内外の不調和さが、憤怒という激情に附帯されるべき迫力という要素を著しく欠乏させている事に、幸か不幸かその人物にはまるで自覚がなかった。
 しかし、外見の評価とは真逆の方向に突き進む荒ぶる意識は行動に如実に顕れる。忌々しげに石床を踏み割らん勢いで一歩一歩力強く踏み締める度に、その人物が纏う臙脂の外套がけたたましく躍り、その上を流れる藍青の髪がその人物の心情を模すように絶えず激しく揺れ動く。
 触れようものならば即座に噛み付かん気概を惜しげもなく発するその人物……ミリア=エルヴィラは、激怒していた。
「……さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さ――」
 心の奥底から止め処なく涌き出る呪詛を、地獄に轟く怨嗟のように低く冷たい声調でミリアは連ねている。
 幽鬼の如き蒼褪めた表情で、あまりの怒りに思考が沸騰している為かぶつぶつと呟きながらの足取りはどこか覚束無い。
 事情を何も知らない他者がその姿を見れば決して関わらないように全身全霊を賭して身を隠すだろうが、幸いにして現在ミリアが徘徊している塔の上層部は、この塔に帰属する者であっても立ち入りが厳しく制限される“禁域”だった。
〈天空の塔〉ガルナの深層領域は、現代において太古のマナの分布模様を保持しており、今代よりも遥かに濃密であるが故に徒人ただびとが足を踏み入れる事は猛毒を全身に浴びる事と同義であった。例えマナの流脈レイラインへの“接触者”としての権限を有する“賢者”であっても、『悟りの書』への同調深度が浅ければ短時間の滞在さえままならないのだ。
 しかし妖精種エルフ族の中でも、今では断絶している古の純エルフであるミリアにとっては、逆に地上よりも過ごし易い環境であると言えた。
 本来は“賢者”か、或いは“賢者”を志さんとする者でなければ立ち入りの許可が下りないガルナの塔。“賢者認定機関”としての役割を堅実に担うが為に、その掟は厳正に護られるのが〈魔導の聖域〉ダーマ神殿との間に布かれている協定である。にも関わらず“賢者”でも志望者でもないミリアが自由にこの領域を闊歩できているのは、偏にミリアの母であり、嘗てこの塔に属していた旧世代の十三賢人、“星詠の預言者”の遺児を“魔呪大帝”が庇護しているからだった。
“アリアハンの勇者”オルテガに同行していたミリアが“魔呪大帝”に引き取られて以来、この塔で寝食を始めて早十数年の時が流れている。十数年という年月は人にとって長久だが、妖精の中でも特に寿命が長いとされるエルフにとってはたかが・・・でしかない。されど既にミリアにとってこの塔はそれなりに愛着を感じる事のできる自らの家と何ら変わりが無かった。
 そしてその彼女が、自宅の内で烈日の怒りを放散させているのには訳があった。



―――つい先日の事である。
 ミリアは自らの師にして庇護者の“魔呪大帝”の勅命で、弟分であるスルトマグナの助手という名目の下、砂漠の秘奥イシスまで出向き、人と魔の争いに殆ど強制的に参加させられた。灼熱の日差しに飢渇の風。肌に合わない〈屍の生地〉という土地の性質や、黴臭い不死者との争い。不快を齎す負陰のマナに満ちた夜、疲労感ばかり与えてくる神装器アルマデウス『嵐杖・天罰の杖』など……。
 色々と溜まってしまった鬱憤は数え上げたらキリが無く、それらをまとめて一掃し尚且つ疲れた心身を癒す為に、直接会う事をしないにしても影から愛しいノエルを一目見ようとミリアはガルナに戻らず、こっそりノアニール村や光属エルフの隠れ里に出向いていた。
 最後に顔を合わせたのはもう随分前になるが、その間にもノエルの表情は祖父や祖母の温かな眼差しを受けながら歪む事無く真っ直ぐに育ち、異種族である村の同年代の人間の少年少女達との賑やかな交流によって日に日に明るくなっていた。
 その環の中に自分が加われない事実を寂しく思いつつ、ノエルの為だと自らに言い聞かせてミリアはその感情を誤魔化す。
 ノアニール側の様子までは良かったのだが、隠れ里の状況は相変わらず目立った変革の様子はない。ノエルが女王に手を引かれて共に集落を歩いていると、道往く周囲の者達は余所余所しいぎこちない笑みを浮かべ、どこか距離を置いているようでもあった。
 王女アンの件については一応鎮静の方向へと流れてはいたものの、禍根が痕を残さず綺麗に消え去るなどという都合の良い結末はある筈も無く……。それでも視線を少しでも前に向けようとする素振りをエルフ達の端々から見る事ができた為、大きな一歩と言う事もできるだろう。一昔前までは、ハーフエルフとは言葉にするのも憚れる程に忌み嫌われていた存在だったのだから。
 だがミリアからしてみれば、それは実に緩慢としたものに過ぎず。
 種としての寿命や歴史が長ければ、一度生じた蟠りがそう易々と解けるものではないと理解してはいるものの、ミリアの感情としては中々割り切れるものでもなかった。そして人に近い場所で生活してきた自分にとって、時の流れの速さは最早他のエルフ達とは違う流れにあるのだとミリアは痛切に実感したものだ。
 ともあれ、里の状況がどうであろうとノエルに害さえなければ如何なる事も我慢し、許す事ができた。ノエルが大勢の者達に囲まれる中であの明るい笑顔を浮かべていられるなら、いつかは種族の蟠りも解け、色々な意味で良い方向に進んで行ってくれるとミリアは頑なに信じているからだ。
 その後、まるで我が子を溺愛する親の顔で熱心にノエルを見守る事に徹していたミリアは、半ば唐突にそれを中断させられる事になる。
 用心に用心を重ね透過魔法レムオルさえ使用して、人目を忍んで草陰から覗く不審者さながらの姿を晒していた彼女は、何処からともなく文字通りの意味での冷水を情け容赦無く浴びせられたのだ。
 無礼極まりない事を敢行したのは、ミリアにとって不倶戴天の怨敵と言っても過言ではない存在……女王付護衛兵士の女エルフ、リーヴェ。全く以って望まない彼女のとの再会は熱烈もとい極冷の眼差しの交錯で始まり、続いて紡がれた歓迎とは程遠い棘だらけの小言は尽くミリアの神経に突き刺さり、感情を逆撫でして癇癪を引き起こすには充分過ぎる効力を発揮した。
 最早存在としての波長そのものが真逆を向いているのだと再認識したミリアは、持てる知識を総動員してリーヴェへの悪態を吐いて徹底抗戦する。その際、自らには過ぎた代物である厄介な『嵐杖・天罰の杖おおぐらい』をエルフ女王にして伯母たるティターニアに返却しようとしたが、女王は体調がすぐれないと言ってリーヴェは断固として謁見を取り合わず、更にはその杖はミリアが所持しておきなさい、という真偽さえも怪しい言伝を投げ付けられ、終には隠れ里から放り出されてしまった。
 癒されに行った筈が、寧ろ赴く前以上の鬱憤を抱えてしまう事になってしまった散々な帰郷。
 ガルナとはまた別の仮宿がある〈妖魔の隠れ里〉ムオルの昔馴染みの小僧に、小細工が裏目に出たな、と鼻で嗤われそうな実に腹立たしい事実は自分の中に固く封印する事を一人誓い、ミリアは凡そ数ヶ月振りにガルナの塔の一角に構えた自室に帰還を果たしたのだ。
 そして、そこで目にしたものは……誰かに荒らされた様子の我が部屋だった。
 人間とは違い物欲に乏しく、特に盗まれて困るようなものは元々持ち合わせていなかったものの、自分の領域に見知らぬ誰かが土足で入り込んだとなれば当然気分が良いものではない。
 種族としての全体性を重んじるのがエルフという種の性質ではあったが、特殊な事情でこれまでの生を歩んできたミリアに普通のエルフの常識は既に当て嵌まらず、自由の身になってからムオル、ガルナでの生活の影響で従来のエルフの色調からの著しい乖離を示している。
 そんな事情もあって、最後にある記憶とは全く別の状態を示していた我が領域の成れの果てを目の当たりにして、ミリアは暫し呆然と立ち尽くすだけだった。
 しっかりと書机の下にしまっておいた椅子は部屋の中央に無造作に放置され、書棚に銘柄別に揃えて並べていた筈の数々の魔導書はその殆どが取り出され、哀れ書机や椅子、寝台、果ては床の上にそのまま無造作に積み上げられている。
 これらの荒らされ方はどうにも妙で、物盗りというよりは誰かが勝手にこの部屋で生活をしていたという残り香が漂う様子だった。そもそも冷静に考えれば、この塔で空き巣を働くような勇気ある者などこの世に存在する訳が無い。今、世間を騒がせている魔王バラモスとかいう不逞の輩でさえ一睨みで斃せるであろう我が師の膝元。そんな愚行に走れる者こそ“魔王”、或いは“勇者”を名乗るに相応しいとミリアは本気で思ったりもした。
 不在であるミリアの自室に平然と入り込んでくる者がいるとすれば師本人か、師の側近である“魔理四天”達。或いは弟分であるスルトマグナやノエル辺りだろう。だがそもそもノエルは今ここには滞在しておらず、スルトマグナもイシスでの戦後処理やダーマからの指示で忙しなく動いている為、訪れる訳が無い。大体にしてノエルは殆どムオルで生活していたし、スルトマグナは子供の割に紳士気取りなので分別は弁えている。また、師や側近達も用が無ければ立ち入る事は無い為、部屋を荒らした咎人にまるで見当が付かなかった。
(絶っっっっ対に下手人を見つけ出して、生きている事を後悔させてやるっ!)
 しかしミリアがここまで憤怒を露にしていたのは、見知らぬ誰かに部屋を荒らされたからでは――ない。いや、少しはその要因は含まれるものの、その少しを優に呑み込んで凌駕する無視できない現実がある。
 それはミリアが書棚の分厚い書物の後ろに大切にしまっておいた、未開封のままの秘蔵のバハラタ産高級茶葉が勝手に開封され、飲み干されていたという点。しかも貴重な『さえずりの蜜』までもが一滴残らず使用され、これ見よがしに空いた小瓶を書列の前に置いてあったからだ。
 師の地獄さえも生温い特訓の後、はたまた煩わしい任務の後。自室で爽やかな陽光と穢れない天空の風を浴びて寛ぎながら口にする茶の優雅で心安らぐ香りと味が、この塔におけるミリアにとって至福の時間だった。鬱憤を抱えて帰還した今日もそれだけを楽しみに、師への報告などという瑣末事を後回しに真っ先に我が部屋に戻ってきたにも拘らず……結末はあまりにも残酷である。
 許せなかった。犯人を見つけたら、どんな生き地獄を味あわせてやろうかと危うい方向に邁進する思考でミリアは処刑方法を脳裡に巡らせる。
(万死にしてやっても飽き足らないっ! 殺して下さいって懇願するまで、痛めつけて痛めつけて、痛めつけてあげる……ふ、ふふ。ふふふふっ――)
 そうして虚ろな眼差しのまま下手人の捜索に取り掛かったミリアであったが、拍子抜けする程簡単に答えが得られる事になる。
“魔呪大帝”の側近四賢者“魔理四天”の一人。ミリアの印象では能面冷血女であるキリエ=カカロン=フィンブルに問い質したところ、師の食客がミリアの部屋で暫く滞在しているとの確定的な情報を得られたのだ。
 勝手に決めな、と即座にミリアはキリエに噛み付いたが、糾弾する相手を間違えるなと冷静に正論を返される始末。
 だが捜査線上に一気に躍り出た許されざる罪人は今、師の所に呼び出されていると言う有力な一報を手に、怒りに沸き立つミリアはガルナの塔の頂点にして最深部“天元の間”へと向かっていたのだった―――。



「ついに……ついにっ。ようやく、追い詰めたっ!」
 それは帰還してから一刻にも満たない間での事。しかし今のミリアにそんな小さな事などどうでも良い。
 興奮の為か裡の脈動にけたたましく打ち震える手で扉に触れ、ミリアはもう片方の手に持った“四神鍵”の一つ『嵐杖・天罰の杖』を起動させる。現存する全ての“魔導器マグスマキナ”の源流たる“神装器”に分類される超絶的な力を秘めた魔杖は、自らの身に膨大な魔力が流れ込んできて歓喜のままその力を開放しようとする。
 ミリアは突入と同時に攻撃を仕掛ける心算であった。勿論その際、下手人と一緒に師も巻き込まれるのは確実だが、師には自分程度の魔法では傷一つ負わせられないのは予てより実証済みである。それ故に憂いも躊躇も一切無く、ただ全霊を賭した最高の一撃を解き放つだけだ。
 重々しい鈍色の扉に耳を近付けて、ミリアは中の様子をつぶさに窺う。エルフの優れた聴覚ならば、分厚い魔導書数冊程度の鉄扉で遮られていようとも、その先で繰り広げられている会話を盗み聞く事など造作もないのだ。
『それで、呼びつけた用件は?』
『君に一つ仕事を頼みたくてね』
 聴き慣れない女性の無機質な声と共に、普段から決して余裕の消える事の無い師の声が聴覚に飛び込んで来る。
『仕事、ね。まあ私は居候の身だからお使い位は構わないけど……貴方から直々に指名がある程だから、一体どんな厄介な事を私にさせる腹積りなの?』
『ふ、これは手厳しいな。だが話が早くて助かるよ』
 続いて拾う言葉の一つ一つを咀嚼しながら、ミリアは自らの記憶に、中にいる女の声と一致する者はいないとの結論に至る。そして何よりも印象的で癪に障ったのは、その小生意気な口調だった。
 数在る“賢者”の中でも頂点に君臨する“魔呪大帝”に対して軽口を叩いているのだから、とても礼儀を弁えているようには思えない。何処までも慇懃無礼で倣岸不遜で泰然としている。それら全てが実に気に入らない、とミリアはさらりと自分の事を棚に上げてそう思う。
 そしてミリアは奇襲に最善のタイミングを推し測る為、聴覚に全神経を集中させた。








 天井の無い“天元の間”から見上げる蒼穹にはいつも悠然と白雲が漂っている。その更なる上方には眩いばかりの光輝が空の中心に在り、普く世界を照らしていた。
 当然、遮るものの無いこの“天元の間”には惜しみなく光は注がれ、その部屋に在る者達を不躾に撫で付ける。
 幾何学紋様が幾重にも重なり、何らかの魔法を構成しているであろう複雑怪奇な魔方陣が床に描かれた部屋の中央に、往古より納まるべき“何か”を待ち続けている台座があり、そこに“魔呪大帝”ジュダ=グリムニルは王者の如く尊大に座す。
 そして台座を中心に描かれた魔方陣から丁度脱した場所に、全身を白妙の外套で覆う女賢者、ルティア=アタラクシアが正対していた。
「このガルナから遥か南西の方角にバハラタという人間の都市がある。その地より北の山岳地帯に、とある古代遺跡が存在するんだ。君にはそこに向ってもらいたい」
 手にした四神鍵の一つ『閃杖・天雷いかずちの杖』でその方角を指し、蒼穹の髪に歳若い容貌を持つジュダは告げる。
 何となしに天蓋無き天井の先を見上げていたルティアは怪訝そうに振り返り、その真意を図るよう眼を細めた。
「古代遺跡?」
「そう。その遺跡はイシスのピラミッドと同程度のレイラインの特異点でね。どういう因果か、遥かな古代より魔導研究施設として利用されてきた厄介な場所なんだ。そして、嘗てそこで行われていた研究は……“進化の秘法”」
「!」
 その意味を知るからこそなのか、重々しく投じられた単語にルティアは眼を見開いて息を呑む。
 ルティアの驚愕に確証を与えるが如く、ジュダもまたコクリと首肯した。
「あの施設の起源は、他者に付与する補助魔法を追求し、その観点から生命の秘密を解明せんとした事にある。その思想の下に開設された研究所で探求が進むにつれ、やがて究極的な目標として本来幾星霜もの時間も経なければならない“進化”という事象を自らの単一意思を以って自在に操らんとする“進化の秘法”を見出し、その術法の創造を絶対の命題とするようになった」
「……たしか、“転職の儀”もその成果の一つだったわね」
“転職”を司る為には、『悟りの書』のある領域に存在する特殊な悟りを体得している事が絶対の条件だが、その条件の発見と、前提として整えなければならない儀式場の構築といった環境設定の創造は、研究に研究を重ねて得る事ができた事実で、ある意味、一つの到達点に辿り着いた事を意味していた。
「不変の定理さえ己が意の下に置こうとするなんて、人間らしい傲慢さじゃない」
 口元に手を当て、その下で嘲笑を浮かべながらのルティアの言葉には容赦の欠片も無かったが、それはその真価を確かに捉えているが故の事だった。
 暁朱の眼差しが主張する歯に衣着せぬ物言いに、思わずジュダは苦笑を零す。
「もっとも、世代を重ねる毎に積み上げられていく新たな研究材料に埋もれ、何時しか忘れ去られていたのだけど、ここ最近……五十年くらい前になるのかな。閉鎖された施設を暴き、凍結していた研究を再開した者がいるようだ」
「それが事実ならとても迷惑な話ね。でも、厄介な存在だと知りながらこれまで敢えて黙認し、放置し続けてきた事にこそ問題があるように思うけど?」
 そう皮肉を詠うルティアの顔には仄暗い翳りが一つ。白絹の間から零れる影掛かった双眸には、職務怠慢ね、と彼女の連ねんとしている言葉が色濃く載っていた。
 実に期待した通りの予定調和な反応に、ジュダは口の端を持ち上げる。
「物事には、それを為すに適した時局と言うものがある」
「随分と悠長な事を言うのね。“進化の秘法”が齎すものの意味と傷跡を熟知しているくせに」
「……それは今のところ問題にする事では無いよ。が天の回廊の頂にて閂をしている限りはね。そしてフェレトリウスもまた、その場所への入口を自らの生命を賭して閉ざしている。余程の事が無い限り、その磐石さに揺らぎは無いだろう」
「心にも無い事を……現に貴方の言う余程・・の事が起こりかけていて、その磐石さとやらに綻びが生じているじゃない」
 責めるような刺々しい語調と視線を向けられてもジュダはまるで気にも留めない。
 悠久を生きる大賢者にとって、二十にも満たない小娘の知識だけによる苦言など、言葉尻を捉えて非を唱えるだけの児戯に等しいのだろう。事実、ジュダはルティアが遠回しに何を言おうとしているのかを見通し、真正面から受け止めて優雅に笑ってさえ見せた。
「知ってのとおり、我々は不遜なれど世界を監視する事を業としているからね。因果律を踏み越えてまで俗世に干渉するつもりは無いよ。この時代に生じた脅威にはこの時代を生きる者達が立ち向かうのが是であるし、そう思うからこそバラモスを好きにさせている。私もアナスタシアも、その諒解で一致しているんだ」
 そうして得られた言質に、口元を歪めてルティアは酷薄に笑った。
「無責任な放任主義も、そう言えば崇高に聞こえるから言葉と言うのは便利よね。随分と高みから見下ろしているようだけど、よもやあの酒浸りの女共々、現人神でも気取っているのかしら?」
「そんな事に何の意味も無いよ。ただ、そうだね……我らが戒めを超えて動く時があるとすれば、それは世界を調律する鐘の音が奏でられる刻のみ」
 声調はこれまで同様緩やかに。だが厳かに放たれた言葉を受けた途端、ルティアは表情を強張らせる。今まで浮かべていた威勢は一瞬の内に鎮まり、無意識のまま掴んだ左腕の小さな震えが右手を伝わって白き外套を戦慄かせる。
「……アルス・マグナ」
 擦れた声で呟かれた自らの言葉。その真意を誰よりも、何よりも理解しているからこそ、自分の意識は掃いようのない暗澹に包み込まれる。
 何時の間にか乾いていた喉が空気を呑む度に鈍い痛みを発している事を、ルティアはその時、初めて気が付いた。
「そう。『勇者ロト』と『魔王ルドラ』が因果の螺旋の果てに紡ぎし、破壊と創造。世界に穿たれたユガは既に花開いている……それは他ならぬ君自身が一番理解している筈だ」
 ジュダからの視線と声から逃れるように、塔外へと顔を背けたルティアは諦念から瞼を閉じる。
「……ラーミアの目覚めは近い。覚醒を喚起する『山彦の笛』の唄で、既に竜の封印の幾つかが胎動しているみたいね。“緑”は、どうやら既に開放されたようだし、次に怪しいのが“青”。……二つ程開かれたのなら、後は連鎖的に封印が解かれるでしょうね」
「おいおい、随分と他人事じゃないか」
「私は鳥が大嫌いなの。特に“鳥”という身の程を弁えず、無駄に自己を主張した図体を曝している鳥なんて、考えただけでも怖気が走る……知っているでしょう?」
 眼を半ば程開き忌々しそうに吐き棄てるルティア。横目でジュダを睨みつけるその顔は憮然としていて、剣呑な光が双眸から滔々と発せられていた。
 そんな彼女が用いる剣は、鍔の形状が鳥を模った羽毛よりも軽いと言われる細剣『隼の剣』。今では失われた技術で造られた優美な細剣は以前、彼女を殺そうと画策していた魔王軍総括参謀長“導魔カオスロード”セリカシェルに破壊されていたが、“魔理四天”の一人、クレド=バルバルー=ボレアス……人間達の間では伝説の鍛冶師ゴディアスと伝えられる者に修復を依頼している。
 余談ではあるが、対価を身体で払えと要求された時に中級爆裂魔法イオラで塔の一角ごと彼を地上に叩き落してやったのはルティアの記憶に新しい。その後、魔法の直撃を受けた当人が無傷のまま軽い足取りで上層への生還を果たした事にルティアも呆れずにはいられなかったが……。
 また、突然の塔上層部の崩落に下層で日々真面目に鍛錬に勤しむ“賢者”達から幾つか動揺の声が挙がっていたが、塔自体の破壊行為は“魔呪大帝”の直弟子であるミリアが割と頻繁にする事であり、更にはどういった理屈が働いているか開示されていないが、塔そのものが回復魔法で復元が可能であるという非常識な現実もあって深刻な事態には陥っていない。被害という被害と言えば、せいぜいジュダが溜息一つを零す程度に留まっているのが現状だった。
 ともあれ、顔を明後日の方向に背けたルティアは機嫌の悪さを隠そうともせず。無論それは彼女自身の発言に起因する事は明らかであり、言うなれば自業自得である。しかしルティア自身、それが己の幼稚さの顕れであると自覚していても、裡に留め切れていないのは、今も心の奥底に寄生して尚も拡がっている根が相当に深いからであると言えた。
 一応彼女がそうなった理由を知るジュダは今更そんな事に触れたりはせず、次の瞬間には今まで声や気配に敢えて・・・載せていた感情の色一切を封殺する。
 その瞬間。塔の周囲を回遊していた上空の風の身を切る轟音が完全に息を潜め、代わりに場には、理の環から外れた超越者の超然とした存在感が降臨していた。
「神凰の目覚めに伴い、番たる壊竜もまた目覚める。無論、その先にある大いなる意志も」
“魔呪大帝”ジュダ=グリムニルは悠然と佇んでいる。
 ただそれだけの事で万象を傅かせる威圧的な姿を、ルティアは眉を顰めながらも真っ直ぐ見つめ返した。
「……そら高く穿たれし楔より双輪の花、堕つる刻。地の裡に潜みし不朽なる竜、夢幻の泥濘より目醒める」
「そう。世界は、往古よりその理によって廻されて来た。そして今世……例外は無い」
「迷惑な、話ね……本当に」
 言いながらルティアは僅かに俯く。それはジュダではなく、寧ろ自分自身に吐き棄てた言葉だった。
 肌寒い訳ではないのに、いつしか自らを抱きしめるように両腕を押さえていた手に力が篭り、外套越しに爪が肌に強く喰い込む。普通ならばそれなりの痛みを覚えるものだが、今は何も感じない。肉体の痛みなど拾わない程にルティアの意識は今、内側の傷みに占有されていたのだ。
「だが同時に、今世は世界に初めての例外・・を産み出す機運が満ちている。その意味を、君は違えないだろう?」
 ゆっくりと開かれたジュダの瞼の奥から、絶えず明滅し虹の色相を遷移し続ける神秘的な双眸が露になった。眼光だけで一層強く激震したマナの波動が、世界を震撼させる鳴動となってルティアに襲い掛かる。
 無防備だったルティアは面を上げ、世界を塗り潰す白き燐光を纏っては不可視の重圧に抵抗する。虹と暁の視線の交錯は見えざる熾烈な衝撃波を両者の間で発生させ、だがそれぞれに到達する前に消え失せる。
 それはマナを支配し隷従させる者同士が、世界の根源に通じる力を以って織り成す深遠なる応酬だった。深域のあまり知覚できる者が限られる攻防は幾度となく繰り返され、その度にけたたましく空気を掻き揺らすも、ルティアとジュダの双方には全くの被害を与える事無く。唯一その余波を受ける“天元の間”の中心に描かれた魔法陣だけが、狂喜にその輝きを増していた。
 その後。極めて限られた領域で展開された力の衝突は、ジュダが口元を緩めて瞑目する事で呆気なく終結を迎える。
 余韻に浸る事無く踵を返し、空色の外套を靡かせながら部屋の縁側まで歩を進めたジュダは、限り有る蒼穹の世界を見眺めた。そこには既にこれまで場を征服していた威風など、夢幻の如く掻き消えていた。

「さて、話の輿を折ってしまったが、君達に実際やってもらいたいのは件の山岳遺跡研究所の殲滅だ」
「君、?」
 改めて依頼の話に戻ったジュダであったが、その微妙な言い回しの差異に歓迎できぬ事態を予感してか、ルティアの眉は自然と険しく寄せられる。
「ミリア。そんな所で何時までも聞き耳を立てていないで入ってきなさい」
 そうジュダが“天元の間”の内外を隔てる扉に向けて声を投じると、扉は自らの意志で軽やかに開き、同時に「ひっ」と小さな悲鳴が響いたかと思うと小柄な臙脂色の影が“天元の間”に勢い良く転がり込んできた。
 当然その影の正体は、扉に自重を預けて内部の様子を窺っていたミリアであり、いきなり支えを失った事でバランスを崩し、部屋の中に雪崩れ込んでしまったのだ。
 乱れた髪や外套を直す事もせず、ミリアは気付かれていた事、そして今の今まで塔上層部に起きていた空震の震源に茫然としたまま青藍の眼を見開いている。本人も気付かぬところで半開きになっていた口は言葉を紡げず、ただ虚しく宙を食むばかり。
「聞いたとおりだよ、ミリア。君に与える新しい任務だけど、できるね?」
「な、何で私が……こんな得体の知れない奴とっ!」
 普段通りの穏やかな師の口調に我を取り戻したミリアは、遠慮など一切無しにルティアを指差した。聞き耳を立てて声だけで既に気に入らない人間だと認定していた為に、礼儀に反していようともその行動に一抹の迷いも無い。
 逆に清々しいまでに指を突き付けられたルティアも、今の間際に現われたミリアの事など全く興味が無いとでも言うように、感情の載らない冷め切った目で一瞥をくれ、直ぐに視線をジュダに戻していた。
 その完全に無関心な一動を目の当たりにしたミリアは、この白髪の女とは決して相容れる事はないという結論に一瞬で至る。自分でもどうしてかは理解できないまま、とにかくリーヴェ以上の“敵”としての認識が瞬く間に意識のど真ん中に建立されたのだった。
「グリムニル」
「ん?」
「私は足手纏いを連れ歩く趣味は無い」
「何ですってっっ!!」
 静かに断じられたそれに誰よりも早く反応し、ミリアは勢い良く立ち上がって大股でルティアににじり寄る。
 妖精種として、魔を御する者としてそれなりの自負を持つミリアは、見るからに年下の、ましてや人間種の小娘如きに扱き下ろされては黙っている事などできなかったのだ。
 般若の如くつり上がった眦からの藍の視線は、双方の身長差も相俟って、下から上へと抉るようにルティアに投じられる。
「人間のクソガキの分際で、随分舐めた事を言ってくれるわね。誰が、何ですって!? もう一度言ってみなさい!!」
「邪魔だから来るなって言ったのだけど、聞こえなかったの? ……全く。効率良く音を拾う割には意味を理解する事ができないなんて、その無駄に自己を主張する耳はただの飾りのようね。それともエルフは長寿だから、既に耄碌しきっていて使い物になっていないのかしら? だとしたら謝るわ。お年寄りは労われって、昔から言うものね」
 荒ぶる剣幕で放たれた敵意に酷似した視線を一身に受けながらもルティアは全く気にしていない。そればかりか射られた幾つもの矢を纏めて掴み上げ、そのままミリアに投げ返してさえいた。
 そして止めと言わんばかりに、神経を逆撫でするよう肩を竦めたルティアに、決して長くはないミリアの堪忍袋の緒は音を発てて千切れ飛んだ。
「ジ、ジュダっ!!」
「ん?」
 怒髪天を衝く勢いでミリアは師を仰ぐ。だがジュダは初めて引き合わせた二人のやり取りを楽しげに見守っているだけだ。
「こ、この失礼極まりない白髪頭は一体何なのよっ!!」
「ふむ……強いて言えば食客になるのかな」
「ただの穀潰しじゃない!!」
「まあ端的に言えばそうだね」
「…………」
 新鮮な空気を貪った焔の如く、先程よりも苛烈な勢いで喚き散らすミリアに、今度はルティアが柳眉を微動させる。
 人からの怨嗟や呪詛などの言葉ならば聞き慣れている為に流す事は容易であったが、今の師弟のやり取りから生じた微笑ましい罵倒は流石に聞き捨てならなかったのだ。
 顰めた眉間をそのままに、頬を引き攣らせたルティアは苛立たしげに口早に告げる。
「魔導士ならば人一倍冷静さを問われるというのに、そんなに沸点が低いのでは先が思いやられるわ。自身の感情制御が疎かな魔導士は、何れ己が脆き心によって自らを焼く事になる……森の民とも言われるエルフなら、さぞ景気良く盛大に燃えてくれるのでしょうねぇ」
「くぅぅ……こ、このっ! い、言わせておけばっ!!」
「おいおい。アタラクシア、あまりミリアを苛めないでくれたまえ」
 あまりにも一方的に打ち据えられてか、或いは怒りのあまりかミリアは顔を紅潮させ眼の端には涙さえ浮かべてしまったので、流石に見かねたジュダが仲裁に入ったが、無感情な眼差しでミリアを見下ろしているルティアはそれさえも嘲る様に小さく肩を竦めていた。
「私は事実を呈しているだけ。憤りを感じているのならば、裡なる声が少しでもそれを認めているという事よ」
 更なる挑発に、何ですって、と地団駄を踏むミリアを無視し、ルティアは冷徹な眼差しでジュダを見据えた。
「まあ、荷物があろうがなかろうがどうでもいい事ね。……そんな事より、結局どこの誰が身に余る玩具に手を出したの? 可能性が一番高いと考えられるのは知的好奇心という己の欲求に正直な人間だけど」
「“進化の秘法”の研究が全盛であったムーやアトランティスの時代ならばまだしも、嘗てに比べると未だ幼年期にある最鋭のダーマと言えど触れる事はできないさ。存在さえ忘れ去られ永らく日の目を見る事がなかったのだから、今の時代においてそれを識る術・・・を持つ者は非常に限られてくる」
 そう返してくるのが解っていたのか、つまらなそうにルティアは鼻を鳴らした。
「でしょうね。せいぜい失われた智に触れる事の出来る“賢者”か、或いは――」
「五十年程前に遺跡を発掘したのは確かに“賢者”の一人だが、現在において研究を再開しているのは、魔族さ。それも、“印”持つ“魔王の使徒”達だ」
「……自分の手駒である直属の“魔理四天”では無く、部外者・・・の私をわざわざ呼び出すぐらいなのだから、そうなるでしょうね」
 特に気負い無く連ねられた単語にルティアは疲れたように溜息を吐く。
 と同時に、横でミリアが眼を見開いて息を呑み込む気配を感じた。真っ当に考えれば、会話の中にごく自然に“魔王”という物騒な単語が並べられたのだから当然の反応だろう。
 怪訝そうな面持ちでこちらと、眼前の大賢者を見比べる慌しい藍色を横目に、面倒臭そうに肩に掛かっていた髪を払うルティア。そして、全てを見透かした上で言葉を弄する至高の賢者の空々しさに煩わしさを覚え、冷ややかに睨め付けた。
 そんな尖った視線を受けても、当然“魔呪大帝”は微塵も揺らぐ筈も無かったが。
顔見せ・・・くらいしておいても問題は無いだろう?」
「……嫌がらせとしか思えないくらいに余計な気遣いね。私としてはセリカが統率している連中とはあまり関わりたくは無いんだけど」
 セリカシェルの直属配下に過ぎない使徒達が騒ぐ事で、“導魔”本人が再び此方に来訪してくるのはルティアとしても非常に歓迎できない事実だ。特にセリカシェルはこちらの顔を見れば即座に殺しに掛かってくるのだから、嫌がるというルティアの感情は当たり前の事だったが。
「ああ、君の懸念を一つ解消しておこう。セリカシェルが直接此方に出向いてくる事は当面無いみたいだよ。彼方で少し局面に変化があったらしくてね。マリアによると、ルビスの封印の一部が剥がれたみたいだから、その処置に追われているとの事だ」
「ルビスの!? ……貴奴に干渉出来る『妖精の笛』は、他ならぬマリアベルが破棄したって言っていたけど」
 これまでになく驚きを面に露にしたルティアは、一人そう呟いては細い顎に手を当て、思考を深める。
 自らを神と僭称する卑しきルビスに従属し、〈呪われし大陸〉アレフガルドを統御する伍色守護天使“賢者の石ティンクトゥルス”。その総統である“生命の青晶導師ウィリディタス”、マリアベル=カリクティスは目の前に座す“魔呪大帝”、〈地球の臍〉の最深層を掃除する“聖芒天使”に並び立つ、悠久より生き続ける真正の化物の一人。
 己が背丈よりも長い青緑の髪を持つ“賢者”は自分の後見人に違いないが、その内なる思惑はルティアには及びも着かない。
(まあ、予備が在ったとしても不思議では無いけれど……それともジュリアが何かしてしまったのかしら?)
 闇の世にあって、光そのものと言える穢れなき性根の少女の姿を思い、ルティアは小さく頭を振った。
「“魔理四天”は兎も角、“進化の秘法”に連なる痕跡はなるべく普通の人間の目には曝したくない。感化されると厄介だからね。だから今回は君に頼みたいんだ」
「私も人間だけど?」
「君に“普通の”という接頭語を付ける気は無いよ。それ位は自覚しているのだろう?」
「……酷い人」
 不敵に眼を細め口元を歪ませるルティアにジュダは頷いた。
「いずれにせよ、君に頼んだ時点で既にこれは極秘の事案になる。何よりも君は、ガルナにもダーマにも存在していない・・・・・・・“賢者”だ。悪いけどその特異性を利用させてもらう」
 本人を前にしてそれを言うのか、と抗議の視線をぶつけるも、ジュダには柳に風だった。
「……そこの血気盛んで騒がしい純エルフが関与する事には問題は無いの?」
「んまあっ!?」
 あまりにぞんざいな言い様に顔を真っ赤にして怒りを滾らせるミリアは既に言葉すら紡げない。
 そんな愛弟子の姿を微笑ましく一瞥したジュダは頭を振って否定した。
「無い。何故ならその研究は、ミリアにとっても全くの無関係という訳ではないからね。知っておく必要があると私は考えているんだ」
「……どういう事?」
「何? さっきから何の話をしているのよっ!?」
 疑念に声韻を低めるルティアに、全く話に着いていけず右往左往するミリア。
 静と動、温度さえも両極の様相を楽しげに眺めた後、ジュダは綴った。
「この時代に囁かれるようになった“進化の秘法”が齎したものに、“人工賢者創造計画”と言う名の研究題目がある。それは――」
「下らない。“賢者”の絶対数は百八人って決まっているでしょうに」
 半ばジュダを遮ってルティアは冷酷に切り捨てていた。
「そうだね。“大憲章マグナカルタ”が許容する定員はそうであり、『悟りの書』を持つ我々からすると、そんな感想を抱くのも無理は無い。だけど持たざる者にしてみれば、それはとても甘美な誘惑の香りに満ちているんだ」
“賢者”という存在の本質を知らず、ただその特異性のみを挙げ連ねて神格化し、畏敬の念を抱く。世に語られる“賢者”という者の形容をルティアは聞いた事があっても、それを理解しようと思ったなど無かった。つまりは、見解の違いなのだろう。
 深く考える事でも無かったので、自分の中で早々と結論付けてルティアは先を促す。
「それで、結局何なの? その大仰な題目の割には矮小さが香り立つ計画は?」
「二十年近く前に彼の地に降り立ち討伐されてしまった“金光皇竜ドラゴンキング”フェレトリウスの妹姫、“光燐白竜ホワイトドラゴン”セフィルフリギアの魂魄移植を始端とし、それを基に考案された諸外因子による魂魄強度の向上を目指した研究実験さ」
「ちょっと、それってまさか――っ!?」
 二十年という時間、そして討伐された竜の魂魄。これら事象が結ぶ事など一つしかない。ミリアの脳裡に赤髪の少年が思い浮かび息を呑む。そして同時に、側から背筋が縮こまるような寒気が発せられたのを感じた。
 悪寒を覚えながら何事かとミリアが視線を移すと、そこには気に入らない白髪の女が先程と変わらぬ佇まいで平静に立ち尽くしている。だがその面には表情など無く、ただ暁朱の双眸は空からの鮮烈な光を受けて燦爛と赫灼かくしゃくしていた。それは宛ら、煉獄で滾る焔の如き純然たる憎悪の耀きだった。
「……ふーん、そういう事。そんな事ができるまでに、この世界の人間も堕ちていたのね。忌々しい……このまま魔物に滅ぼされてしまえばいい」
 ルティアは声調を著しく低めて淡々と吐き棄てていたが、それだけに隠し切れていない呪怨の念を深々と場の空気に伝播させていた。
 その無情の冷貌を真正面から見据えたジュダは小さく苦笑を浮かべる。
「穏やかじゃないな。君の人間嫌いも相当なものだね」
「“あの連中”の教えとやらの所為で、私はこれまで人間に散々な目に合わされてきたからね。今更人の味方をしようとは思えないわ。まあ意味が無いから、こちらから率先して敵対しようとも思わないけど」
 素っ気無いその姿は、だがルティアの偽らざる本心を如実に表していた。
 その過去を想起してしまったのか、頬に掛かる自らの白き髪を指先で弄びながらルティアは顔を顰める。
「自らの意思で激動の生を選択するのと、与えられ束縛された虚構の自由を無味緩慢に生きるのとでは、果たしてどちらが倖せなのだろうね?」
「どちらも願い下げ。私は……何れにも当て嵌まらない平静を望むわ」
 決して叶わぬ願いを追い求めているかのような決然とした声韻に、ジュダは満足げに頷いた。
「それでこそのアタラクシアだ。では研究施設の件、よろしく頼むよ」
「……いいでしょう。研究に関連する全ての事象、及び施設そのものを破壊する。状況によっては多少地図の改変が必要になると思うけど、その程度は目を瞑ってくれるわね?」
「好きにしたまえ」
 その答えが得られると、ルティアは踵を返し足早に退室する。その際、未だに状況が呑みこめていないミリアとすれ違ったが、当然ルティアが目線を移す事などせず。
 開かれたままの扉を閉じる事もせず、ルティアは風に吹かれて消える煙のように颯爽とその場から立ち去っていた。



 そして完全に置き去りにされたミリアは、再燃してきたやり場の無い怒りを手近にいる師にぶつけた。
「ジュダ! あのクソ生意気な小娘は何なのよっ!!」
「“賢者”だよ。聞いていただろう?」
「……あの無愛想な女が?」
 心底意外そうに眼を丸くしている弟子に、流石に師も失笑を禁じえない。
 これまで幾度も“賢者”という存在の特殊性と世界との関係について講釈した筈だが、今の昂ぶったミリアの意識がそれを遮蔽しているのだろう。
 それすらも愛らしく思いながら、ジュダは苦笑を面に貼り付けた。
「“賢者”である事に無愛想という情緒的な要因は関係ないよ。ただ……そうだね。彼女は世界で唯一“王位ケテルの章”に至る資格を持った特種な“賢者”なんだ」
「そ、それって――」
“王位の章”とは『悟りの書』の最深部である最終章。人ではなく世界そのものの歴史を顧みても数える程しか存在しなかったという、理の化身だ。そしてそれは悠久を生き、現在全ての“賢者”を支配する最高階位“魔呪大帝”よりも上位に君臨せし存在、という事だ。
 先程の無愛想で生意気な小娘が、師より上に立つ可能性があるのだと師自身が認めていても、到底納得できないミリアは不満を口にしようとする。
 だがそれは、親が子にそうするように、ジュダがミリアの頭を優しく撫でた事で封じられてしまった。
「全てはマナの揺籃に護られ眠る、偉大なる竜の意志のままに」
 掌の中でもぞもぞと身じろぐミリアを宥めながら、ジュダは開けた天空の中心に座している輝ける太陽を見上げ、呟いていた。


――それは、ユリウス達がバハラタに到着する七つ前の日の事だった。








「……どういう事ですか?」
 アトラハシスは声調を低めて、眼前の存在に問い質す。
 その翡翠の眼差しは鋭く、険しい。普段より柔和な姿勢を崩さないアトラハシスにしては珍しいと言っても良い程に烈々とした情思が迸っている。更には魔族に“転生”した事で存在としての格が人間種よりも上の領域に移行している為、ただ一睨みするだけで気の弱い者ならば発狂してもおかしくない圧力を秘めていた。
 だが、それを真正面から受けている“剣魔将”ソードイドは、何事も無いように平然と佇んだままだ。
 そんな現実は単純であるが故に両者の力関係を一目に瞭然とさせていた。いかに“魔王の使徒”達が往々に持つ“印”の中でも上位に君臨する『破壊の剣』をアトラハシスが所有していようとも、ソードイドが手にする『諸刃の剣』は同等以上の階位に在り、且つその同調深度において両者は比較するに値しない程の隔たりがあるのだ。
 しかしながら、力の天秤がそのまま上下関係を表すものでは、この二人に限ってはなかった。
 第七の魔群として魔王軍という組織に組み込まれている使徒達の指揮権は、正式な“魔将”であるソードイドの意向によりアトラハシスに委ねられている。その事実は、力の序列がそのまま組織に反映する魔王軍の体系においては特異と言う他ないだろう。
 両者の同意の下でそのような体制が組まれている以上、ソードイドとアトラハシスの間にこれまで軋轢あつれきが生じた事など無く、ましてや今のように睨み合って両者が対峙するなど無かった事であった。
 現在、ソードイドとアトラハシスが緊迫した気風を撒き散らして正対しているのは、使徒達のこれからの行動を定める意向について意見を戦わせているからでは――ない。バハラタに単身乗り込んで帰還したソードイドが、“アリアハンの勇者”ユリウス=ブラムバルドと剣を交えたという顛末をアトラハシスに告げた事が、この重く硬質な空気を場に満たす発端となったのだ。
 丁度、同じ場に居合わせたオルドファスやティルトさえもが息を呑み、戦慄を覚えずにはいられない緊迫した雰囲気の中。ただ一人、場に充満する空気が理解出来ていないイーファは、先刻オルドファスが作った焼き菓子を無垢なる無表情のまま黙々と頬張っていた。
「言葉通りだ。ユリウス=ブラムバルドが恐らく今夜にでもここに来るだろう。バハラタで一戦交えた際、去りしなに貴公が連れてきた客人の事を仄めかしたからな」
 睨み合う、と言うよりアトラハシスが珍しくも一方的に剣呑な視線を投じている中にあって、ソードイドは特に何かを思う事も無く、淡々と首肯する。
 その情動が全く感じられない、あるがままを伝える無色透明な肯定にアトラハシスは小さく眼を見開いた。
 無論、ソードイドが指摘する客人・・というのが誰を指すのか、アトラハシスは問われるまでも無く充分に理解していた。そして驚きを露にしたのは、彼我の関係をこの上役に言った覚えなど一度も無いからであった。
 知られる事のない事実を知られている事にすっかり動揺してしまったアトラハシスは、逸る鼓動を何とか内側に押し留め、ぎこちないまま平静を装う。
「ティルトから出掛けられたとは聞いていましたが、バハラタに行かれていたんですか……何故、そのような事を?」
「個人的な事だが、そのような答では納得しないという顔をしているな」
「…………」
「敢えて言葉をあてるならば、剣に生きる者故の性というものだ。貴公には解るまい」
 そうして堂々と投げ返された答えは、本人も認める通り実に個人的な事であった。仮にも一軍を預かる将という身の者が、特に戦力が結集している今の局面に単身乗り込み、私闘に興じるなど軽率も甚だしい。言わずもがな、剣士ではないアトラハシスにはその心情が理解し難く、面に困惑を載せざるを得ない。
 しかし、アトラハシス自身もバハラタには個人的な事で出向いていたので何も返す事ができなかった。
 そう反応に窮していると、ソードイドの方から口を開く。
「ここの撤収の件は聞いている。私としてもそれに異論は無いが、進捗状況はどうなっている?」
「重要度の高いものに関して最優先で新しい拠点に移しています。といっても殆どの研究成果はシルヴァがまめに別の拠点に持ち出していましたので、副産物の移送が主になります。現在シルヴァは『幻魔石』の作成に入っていますが、それも近いうちに終る事でしょう」
 続けて詳細な進捗状況を連ねるアトラハシスに、ソードイドはそれら一つ一つに丁寧に頷いていく。
 そして。
「我々の撤退は、全てを見届けた後になる予定です」
「順調ならば良い。今のバハラタには“盲目の預言者”がいるからな。我らの存在は既に彼女に察知されていると考えて良いだけに、早いに越した事はないだろう」
 静かに告げられた名にアトラハシスは愕然と眼を見開く。上役の何気無い一言に自らが犯した失態に気が付いたのだ。
「サラサ=ニルヴァナが!? そ、それでは――」
「気にするな」
「し、しかしっ」
 明らかな動揺を見せてしまったアトラハシスに、ソードイドは一つ短く溜息を吐く。
「貴公の危惧は尤もだろう。彼女の探査能力を以ってすれば、都市の内側で発せられた魔力航跡を辿る事など容易だからな。我らがここに居を構えている事も既に見抜かれていると見て良いだろう」
 精霊神ルビス教団六司教の一人、“盲目の預言者”の眼は光を捉えず、ただ万物に遍在するマナの絢爛たる活動を視る。嘗て英傑の一人に数えられた彼女は、俗世の温かさに触れられない代わりに、根源そのものに接する事を許されているのだ。
 サラサ=ニルヴァナの眼は大気中や大地に漂う無機質なマナから、人間や動物と言った有機体の内に潜みしマナの様子も完璧に看破する。その為、著しく世界を揺らす原因の一つである魔法を紡ぐ事で生じた歪みを見出す事など造作も無い……それは負陰に限定したユリウスの異常な索敵力などとは次元を異にする、ある意味で究極的な探知能力と言えるだろう。
 そんな彼女が、人々の闊歩する昼下がりの街中にて。隠す事無く堂々とアトラハシスが仲間やソニアを伴い移動魔法ルーラを用い、バハラタの結界障壁を内側から突破したという事実を見逃す筈がない。事実、アトラハシス等が放つ“魔族”特有の人間から逸脱したマナの波動を探知したサラサは、すぐさま配下の騎士達に指示を出し、その訓練の秀逸さが体現した驚くべき速さで聖殿騎士団達による哨戒班を結成。バハラタの都市外部への警戒と注意を著しく促していたのだ。
 そして、外側への緊張が刻々と高まる中。アトラハシス以上の強大な“魔”の気配を擁するソードイドがその内側、最重要拠点であるイシス領事館に唐突に現れたとなれば、必然的にその眼は再び内側へと引き寄せられる。実際にソードイドがイシス領事館の中庭にてユリウスと対峙していた一部始終を、サラサは離れた場所から確認し、すぐに騎士団の一部隊を領事館に向かわせていた。
 もっとも、ソードイドもまた遠くから自分達の様子を窺うがある事に気付きながらも、特に問題は無いと放置していたのだったが。
 ともあれソードイドは、相手側の索敵力の高さを逆手に取り、敢えて敵の懐に飛び込む事で相手側の注意を惹き付けて撹乱し、時間を稼いだという事だ。
 それらの事実が想起され、軽率だったのは自分の方だったという自責の念がアトラハシスの胸裏で滾々と湧き出してくる。体中から血が引いていくという感覚を実感しながら、ソードイドに向けて深々と頭を垂れていた。
「……申し訳ありません」
 全てはバハラタ市内で自らが安易に移動魔法ルーラを使った事に起因する。己が魔族である以上、人間の街中に入る際の警戒を怠ったつもりは無かったが、この時期のバハラタは人の流入が多いという事実は、外見的に人と変わらない自分達の姿を隠す遮蔽物になってくれるだろうとの楽観が無意識のどこかにあったのかもしれない。思いも寄らなかったソニアとの再会で狼狽したのも事実ではある。だがしかし、それは転嫁でしかなく何の言い訳にもならない。
 悔悟に表情を強張らせた若輩の様子に、ソードイドは再び小さく溜息を零した。
「気にするなと言った筈だぞ。ルビス教団の要人護送の予定を外部から知る事など不可能に近い。グランデュオも同行していたと聞くが、あやつでも知る術は無いだろう」
「確かに……そうかもしれませんが」
 上役からの叱責が無いのだとしても、そのまま既に終った過ちの一つとして流す事はアトラハシスにはできなかった。仲間を指揮する者としての責任感が、浅慮だった己がお咎め無しである事を由としなかったのだ。この辺りは、アトラハシスの気質の問題だろう。
「後ろを振り返るより、今はただ前を見据えよ。現在の局面において懸念すべきは、彼の地に集った神の代弁者共が、集いし神々の盟約により怨敵たる魔の討伐に乗り出す、という事態に移る可能性だろう。そうなれば、この地に攻め込んでくるのは必至だ」
 言い回しは皮肉に満ち溢れていたが、要はバハラタ駐留軍と聖殿騎士団、各宗教の権力者達が随行させてきた戦力を併せて討伐軍を編成する可能性があるという事だ。バハラタ地方の風土記や領事館や諸々の教団の記録には、この山岳遺跡の事が確実に記されている。十五年前に起きたある事件・・・・は、この遺跡を舞台としていたのだから。
「“神聖騎女ホーリーナイト”エレクシア=ヴォルヴァが、公会議の場において戦を促すような事を許すとは思いませんが」
「公会議が抑制するのは人間同士の争いに限られている。対象が魔の手勢ならば、寧ろ先陣を切って煽り立てるだろうな。それにエレクシア殿は“監視者”側の存在でありながらも、人の立場に在る時は人としての選択を優先する。それは貴殿らもランシール海戦において見ている筈だ」
「…………」
 そう指摘されて、アトラハシスは押し黙る。
“神聖騎女”と畏れられ超越者の一人に列せられる“賢者”がその本来の力を振るえば、ソードイドの言う通りに嘗ての海戦など一瞬にして終結していただろう。誰一人の被害も出さず、魔の軍勢を一匹残らず消滅させるだけの能力をエレクシア当人と、彼女の持つ神装器『偉大なる大神オーディンボウ』は有しているのだ。
 しかし結局、彼女はその力を海戦で発揮する事は無かった。あくまでも人として総司令官の職務を全うし、アリアハンとの足並みを揃えながら騎士団員達に随時指示を飛ばして戦場を操っていた。結果だけ見れば、魔王軍に対して人類勢が勝利を収めた初めての快挙となるのだが、そこに至るまでに積み重なった犠牲は数知れない。
 それでも情理のままエレクシアに向けられる非難は、一つも挙がらなかった。何故ならエレクシアは精霊神ルビスの代理人、教皇アナスタシア=カリクティスに選ばれた者なのだから。敬虔な信徒であればある程、彼女に向ける悪意の矛先など持ち得ない。
 アトラハシスが魔族になって初めて知り得た事実を想うと、当時の戦役を人の身で見ていた自分は遣る瀬無い気持ちになる。
 船団の最後方で厳重な警備に護られた上で、自分は戦局を眺め見ていたに過ぎなかったが、それでもアリアハン側で展開した戦端の中核で、全身を魔物の青き血潮で染め上げて戦場を駆ける漆黒の少年の凄絶な姿は、瞼の裏に鮮烈に焼き付いたのだから。
 脳裡を掠めた記憶にアトラハシスは顔を顰め、傷みに耐えるように一度瞼を閉ざす。
「攻め込まれる事自体に問題は無い。真正面から来るならば返り討ちにすれば良いだけだ。そんな事よりも私はこの遺跡……いや、研究施設の存在が多くの人の目に触れる事になる事態の方が由々しき事と考えている」
「それは、理解しているつもりです」
 そう。この秘されし遺跡で試されていた探求は、人の世にとっては禁忌の坩堝だ。禁断の果実にも等しい研究経過を見続けているアトラハシスも良く解っている事だ。
「ならば良い。これからは私が遺跡の哨戒に当たろう。貴公は皆を指揮して撤退を急がせよ」
「かしこまりました」
「有事の際は、何があっても・・・・・・私の事は捨て置いて構わん。指揮者は貴公だ」
 伝えるべき事が済んだのか、踵を返したソードイドが立ち去ろうとする。その背中にアトラハシスは慌てて声をかけた。
「ソードイド殿」
「何だ?」
「先日、貴方の指示で発見した“黒”の欠片についてですが、現在“導魔カオスロード”様には転送できない状況にあります。代理として此方にいらしている“剣帝ゴッドハンド”様に献上しようと思うのですが、今はどちらに?」
「師は今、別の用件で“魔呪大帝”との会談に赴かれている」
「“魔呪大帝”に!?」
 予想だにしない名を挙げられてアトラハシスの面は驚愕に染まる。だがそれはソードイドの、問題ない、という確信染みた語調で封殺されてしまった。
 これまで一度も見えた事のない、“導魔”と並ぶ至高の存在。その“剣帝”の弟子であるソードイドがそう言うのならば、アトラハシスには納得する以外の手立ては無く。
「では、貴方がお持ちしていれば」
「……私は、それ・・に触れる訳にはいかない。こちらの勝手ばかり押し付けて悪いが、暫くは貴公が預かっていてくれ」
「触れられない?」
「戒め……いや、自らに刻んだ誓いと言うものだ」
 そう言って立ち去る背中に、アトラハシスはかける言葉を持たなかった。
 その譲れない何かの決意に満ち満ちた韻は、嘗て自分が魔族になる事を決めた根底を為す意志と同じ響きであると、アトラハシスは感じたからだった。








「―――という訳だよ、ソニア。もうすぐ、ユーリがここに来るみたいなんだ」
「…………」
 穏やかに投じられた言葉に、だがソニアは答えない……否、答えられる筈も無い。それは切り出したアトラハシスが一番解っている事だった。
 給仕場で新たな茶の用意をし、バハラタから帰還した“剣魔将”ソードイドの報告を受けた後。アトラハシスはソニアにその事を包み隠さずに伝えたのだ。つまりソードイドが単身バハラタのイシス領事館に乗り込み、イシス親衛隊並びに“剣姫”。ソニアの仲間である勇者一行の面々、そして“アリアハンの勇者”と一戦交え、それら悉くを打ち倒して来たという事実を。
 ソニアが滞在して既に半日近く経過している秘されし遺跡内部の客間にて。
 柔らかな口調で綴られた内容は、仲間思いで心優しいソニアの性格からすれば本来聞き流す事など決してしないものであったが、しかし彼女はただ呆然と眼を見開き、視線を目の前の卓上に忙しなく彷徨わせるだけの反応しか示せなかった。
 その繊細な面は蒼白で、処理しきれていないのか感情が載っておらず、ただ俯いた事により貼り付けられた翳りで覆われているだけ。そして一見して彼女の心の在り処が今、奈落の淵に立たされてしまっているのだと如実に示し助長するのは、全身から発せられる気落ちした悄然とした様子だった。
 ソニアの視界を独占していたのは、小洒落た円卓の上に所狭しと並べられた紙の束。それらは総じて『金枝篇』と呼ばれる高度な魔導理論が記述された文書の写しであるが、その実態は嘗てこの地で考案され実行に移されていた“人工賢者創造計画”の詳細が記された資料であり、実際に敢行した事による結果を記載した報告書も添付されていた。
 細かな文字で整然と記述されていたのは、計画に到るまでの苦悩と試行錯誤の歴史。読む者の脳裡に深々と刻む程に克明に記された、道徳、倫理の下では凡そ殆どの人間が忌諱するであろう身の毛がよだつおぞましき所業の数々。更には実験の中途報告、或いは結果を記した無数の生と死の事務的な顛末……。
 それらは、正に地獄の存在証明であるかの如く、冥府魔道に堕する為の血で書かれた手引書とでも言えるだろう。
 どんなに気丈な人間であっても、読み進めるだけでも気持ちが折れそうになるそれらを、ソニアは全てに一通り眼を通していた。いや、目を通さずにはいられない……逃げられない理由があったのだ。それをソニアは、見つけてしまったのだった。
 ソニアの意識が混迷の坩堝の奥底に落ち込んだのを悲痛な眼差しで見つめていたアトラハシスは、感情を押し殺した声で告げる。
「……それが、君が求めて止まなかった真実の欠片だよ」
 求めれば求める程、得られた真実は身を切り心を潰す程に残酷である、という言葉を、アトラハシスは“印”を下賜された時にアークマージから受けていた。それは自分達の場合だけでなく、他の人間にとってもそうであるのだと、項垂れたソニアの姿を見つめながらアトラハシスは思う。
 彼女に気付かれないように小さく溜息を零し、用意していた布に包まれた棒状の何かをソニアの傍らにそっと立て掛けた。
「それは、君に持っていて欲しい。その方が、セフィも喜ぶからね」
 まるで泣き止まぬ子供を宥める為にお菓子を与えるような行動であったが、それがアトラハシスの純然な慈しみによるものだった。
 感受性の高い普段のソニアなら、彼の感情も直ぐに汲み取る事ができただろう。
 しかし今のソニアは、彼女にとって普通である事の一つさえままならぬ程に千々と心が乱れ、思考が停止してしまっていた。
「客人として招いたのに申し訳ないけど、ぼくはこれからユーリを迎える準備をするからしばらく席を外すよ」
 言いながらソニアから離れ、アトラハシスは部屋の扉に手をかける。
 セフィーナやユリウスの名前を出された時、ソニアが微かに肩を揺らしたのをアトラハシスは敢えて見て見ぬ振りをした。
「これからどうするかは、君が決める事だ。どんな選択をするにせよ、後悔をしない生き方を選んで欲しい……セフィも、それを望んでいるからね」
 そう告げるのは些か卑怯かと思いながらも、ソニアの反応を待たずにアトラハシスは客間の扉を閉めた。



 ソニアから思考する力を根こそぎ奪い、心を徹底的に打ちのめした元凶に、アトラハシスは目星が付いていた。正確には、卓一面に散らばっていた写本をソニアに見せた時点で、この結末は予定調和だったのだ。
 何故なら、『金枝篇』の表紙の裏に並べ連ねられてある計画の発案者達の中に、彼女の尊敬する母の名が記されている事。
 書を読み進めていくと、ある意味計画全ての起源とも言える事象に、彼女の敬愛する義姉の名が記されている事。
 そして、計画被験者の書類の中には、今は遠くに行ってしまった彼女の親友の名と、旅路を共にしている勇者の名前が連ねられているのだから。
「幾らなんでも、急ぎすぎじゃないかな。一度に色んな事を言われたら、ソニアでなくても処理しきれないよ?」
 遺跡の回廊を歩むアトラハシスは不意に、誰にでもなく虚空に語りかける。
 回廊の前後には如何なる人物の影も形もなく、それは傍から見ればただの独り言にしか見えないだろう。
 しかしアトラハシスは確実に相手が存在する、“会話”を続けていた。
「うん、時間が無いのはわかっている。ユーリと一緒に旅をしているんだから、遠からず真実に引き寄せられるのは自明だ。だけどね、それでソニアが悲しむのは君の本意でもないだろうに…………ふぅ、わかったよ」
 一瞬だけ立ち止まり、宙空を一心に見つめていたアトラハシスだったが、一つ嘆息した後に歩みを再開させる。
 真実の一端を知った彼女が、これからどう変わっていくのか、アトラハシスにはわからない。だが、変わらなければその先で待つ結末を思えば、変わって欲しいと切実に願う。
 まだソニアに明かしていない真実の欠片達。その全てを知った時……彼女が、壊れない為にも。
 そうならないように、大切に育てられてきたが故に強固に形成してしまった殻を破り、少しでも視界を広げて欲しいと思っていた。その為に投じる薬がたとえ劇薬であったとしても、今、彼女が涙を流し悩み苦しもうとも厭わずに。こちらの心が引き裂かれそうになっても構わずに。
 それはソニアの事を妹のように思っているアトラハシスの本心であるし、何より大切な存在であるセフィーナとの同意の上での事だった。
「……世界は、本当にままならないなぁ」
 弱々しく吐露した言の葉は、誰に掬われるでもなく闇の回廊に溶けて消えた。




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