――――第六章
      第十一話 深闇への追尋







 仲間達を待機させていた遺跡の一室に入るなり、アトラハシスは部屋に備えた長椅子の一つを見やる。そこには、そう広くない空間の中で自らの存在を強く主張しているような巨体が、両腕を組んで泰然と座していた。
 アンティーク調の木椅子に深々と腰を掛けた巨漢……オルドファス=バコタは、椅子に合わせて調達したテーブルの上にだらしなく両脚を乗せ、その筋骨隆々な双肩をゆっくりと上下に揺らしている。深く規則正しい呼吸の音と共に静謐を維持している彼の様子は、一見して寝入っている者のそれだと周囲に確信せしめるものであり、例に漏れずアトラハシスは即座にそう判断した。
 もっとも、アトラハシスとしては仲間達が空いている時間をどう過ごしていようと構わなかったが、このオルドファスの場合は寛ぎが過ぎた事によって睡魔の蔓に囚われてしまったのだろうと思う。
 その裏付けか、現にオルドファスはアトラハシスの入室の気配にも身動ぎ一つする事無く、未だ沈黙したままだった。
(……鼾を掻いていないだけマシか)
 諦念の嘆息を一つ零してから、アトラハシスは彫像の如く動かないオルドファスに歩み寄る。
 王室育ちであるが故に貴族の価値観の中で生きてきたアトラハシスにとって、普段からのオルドファスの粗野な行儀は本来好ましいものではなかったが、その好悪判断の基準となるべき認識は決別した過去の残骸でしかないので、今となっては既に気にするものでもなくなっていた。
 それは格式、伝統というものを重んじる旧き固定観念からの脱却を意味していて、些細ながらも人より魔族に転じた事によってアトラハシスが新たに得たものの一つであった。
 改めて誇るような事でもなかったが、そうした眼で捉えるオルドファスの様子はいつもと何ら変わらない自然体を呈していて、一応間近に迫ってきているであろう緊張に対してまるで気負っていないという心情を如実に体現している。それは頼もしくあると同時に、そう在れるだけの自信を支える神経の太さ、或いは豪胆さは羨むべき素養であるとアトラハシスは密かに思っていた。
 だがしかし、流石に現在の状況と自らの立場を秤にかけた時、このような弛緩しきった姿を黙認している訳にもいかなかった。
「オルド」
「んぁあ?」
 凛然とした声がまどろみの揺籃の殻に打ち破り、その内の惰眠の泥濘を蕩揺っていたオルドファスの意識に突き刺さる。
 ここで漸くアトラハシスに気付いたオルドファスは、間延びした声と共に鈍重な瞼を持ち上げた。焦点の定まらない虚ろな目でぼんやりと周囲を眺めては乱暴に目元を擦って視界を正し、首や両肩を緩慢とした動きで回して固まった身体の筋肉を解す。
 そうする事でやっと意識が完全に覚醒したのか、大きな欠伸を一つ零してアトラハシスを仰いだ。
「大将か。おはよう」
「……残念だけど、今はそんな時間じゃないよ」
「何言ってんだ? 目が覚めたら兎にも角にもおはようだろうが」
 時間にして今は既に真夜中である。日付もとうに越えている、草木すらも眠りにつく静寂の刻限だ。
 にもかかわらず、常識だぜ、と妙な自信を持ってのたまうオルドファスには、さしものアトラハシスとて脱力せざるをえなかった。
「……まあいいよ。そんな事より頼んでいた件はどうなっている?」
「おう、それだ。それを報告しようと待っていたんだが、大将が中々来ないもんだから思わず寝ちまってたぜ」
 そう言って少しも悪びれず豪快に笑ったが、見下ろしてくる翡翠の視線に予断許さぬ気配が宿ったのを察し、オルドファスはテーブルに乗せていた足を勢い良く下ろす。靴底で床を強かに打っては小気味良い音を響かせて、その硬質な乾音で眠気の残滓を振り払い、両手で両膝をガシリと掴んで長椅子の上で堂々と構えた。
 その面にニヤリと浮かぶのは、不敵な笑み。獣を思わせる油断無き面貌は、アトラハシスの詰問を待っていたと言わんばかりに好戦的だった。
「言われた通りの場所に設置しておいたぜ。ただ、博士の野郎が研究中は近付くなって言っているから、あそこには手が回らなかったが」
「研究区画、か。一番置いて来て欲しかった場所だけど、仕方がないか」
 ここにはいない“賢者”が現在行なっている研究には精密な魔力操作を求められる為、集中の阻害を厭うて決して人を近付けない。それは作業中に発せられる膨大な量の魔力波によって、心身の調子を崩す可能性のある他者を案じての事であるが、彼は決して認めないだろう。寧ろそれを指摘すれば手痛い皮肉を返してくるのが明白なのだ。
 顎を摘んで考えを巡らせていると、目の前のオルドファスは不思議そうに首を傾げていた。
「ところでよ。大将に設置を頼まれたアレって何なんだ? 単なる宝石にしか見えなかったんだが」
「……今更だね」
 オルドファスは、アトラハシスがソニアの所に向かう前。彼から手渡された幾つもの宝石を、遺跡内の全ての部屋に設置するように頼まれていたのだ。その為、数にして二十を軽く超える各部屋全てにそれを配置して回っていたオルドファスは、いわば先程まで遺跡全体を歩き回っていたに等しい。
 その事もあって疲れて一眠りしていたとしても理由としては何ら不思議ではないが、鍛え抜かれた巨躯を誇る彼がその程度で体力的に疲弊を催す筈も無く。先程まで寝入っていたのは、本当に時間を持て余していたからなのだ。
 よもや、全てを終えた今になってそんな質問が来るとは思っていなかったアトラハシスは小さく溜息を吐く。
「あれは魔晶石クリスタルに上級爆裂魔法イオナズンを展開する魔方陣を組み込んだもの……わかり易く言えば爆弾だよ」
 まるで明日の天気でも語るかのように、柔らかに綴られた内容に、オルドファスは思い切り頬を引き攣らせた。
「ば、爆……何て物騒なモンを人に押し付けてんだ!」
「ぼくが作動させない限り大丈夫さ。そもそもここを発つ際は研究の痕跡を完全に消し去らなければならないのだから、この遺跡そのものを消滅させる方法を選ぶのは当然じゃないか」
「それならそれで一言くらい言っておけっ。俺は適当に放り込んできただけだぞ!」
 心底狼狽していたオルドファスは、いつの間にか頬を垂れていた冷や汗を乱暴に拭い去る。その際、自覚無く自らの杜撰さを露呈してしまっていたが、アトラハシスに気にした様子は無かった。
「問題無いよ。重要なのは遺跡内の随所に在る、という事なんだから」
「……どういう事だ?」
「この遺跡の中のいたる所にはマナの流脈レイラインが行き渡っているのは知っているだろう? ある意味、この遺跡は巨大な魔力流の中にあると言っても良い。そしてその渦中に設置した魔方陣はそれぞれが繋がっているようなものだ。魔方陣を起動させるのと同時に相互に共鳴、干渉し合う事で顕現効力を増大させる……全ての陣は二重積層型で構築したから、概算だけどこの遺跡の規模程度なら確実に消し飛ばせると思うよ」
 要するに一つの魔方陣が起動すれば、レイラインに接続している他の魔方陣も連鎖的に起動し、一斉に組み込まれた魔法を発動させるという事だ。それもそれぞれがお互いを補完し合い破壊力を高める、という物騒過ぎる効果まで付帯されて。
 この遺跡はバハラタ北方に座する台地の内部に、蟻の巣の如く深々と根を下ろしており、極論ではあるが台地の基部がそのまま遺跡であると言っても過言ではない。そこを丸ごと効率的に破壊するとなると、各所からで一斉に爆破する事が最も理に適った方法であったが、その効力たるや一体どれ程のものになるのか、魔法の方面は門外漢であるオルドファスには想像できなかった。
 だがそれでも、告げられた事の苛烈さは理解できる。遺跡の存在領域がそのまま消し飛べば、続く二次災害として遺跡の上部に存在する台地の質量を以って、完全にこの場所は押し潰される事になるのだ。そうなれば最早人の手が入る事など不可能と断言できるだろう。
 その凄絶さを薄々ながらも感じ取り、オルドファスは無意識のままゴクリと喉を鳴らしていた。
「……万事、抜かり無しって事か」
「いや、実はそうでもないんだよね。遺跡の滅却に皆を捲き込む訳にはいかないから、魔方陣起動のタイミングが目下の問題として残っているんだ」
「おいおい、それは根本的な問題じゃねぇか。博士の奴は研究室に引き篭もったら数日は出てこねぇし、“剣魔将”殿は哨戒に出たままそれっきりだ。さっき遺跡の中を走り回った限りじゃ会わなかったぜ……いや、剣魔将殿にしろ博士の野郎にしろ、あの二人に関して言えばこっちで心配するだけ無駄なのはわかっているがな」
「もっと言い方というものがあるけど……そうだね」
 酷くぞんざいな言葉の基底に揺らがない信頼があるとはいえ、そのあまりの歯に衣着せぬ言い様にアトラハシスも苦笑を禁じえない。だが同時に、綴られた事には確かに同意できると内心で思う。
“剣魔将”は当然の事として、今この場にいない相談役の“賢者”もまた、他者を寄せ付けぬ能力を保持しているのだ。この場に異変を感じれば、即座に脱出するなど造作も無い事だろう。
「それに、色々と面倒なものが紛れ込んじまってるからなぁ」
 天井を見上げてしみじみと呟くオルドファスに、アトラハシスは静かに瞑目する。
 何故ならオルドファスの言う色々・・の中には自らが招いたソニアの事も含まれるのだ。彼女に危害を加えるような真似は絶対にしないにしても、その扱いには些か困窮していた。
 当初の予定ではこっそりとバハラタに送り帰すつもりだったが、ソードイドの行動によりバハラタの周囲に対しての警戒が一層厳しくなっていた。と言ってもその事自体は問題は無いのだが、“魔王討伐”を任務とする“勇者一行”のソニアが自らの意思で魔族に着いて行ったという事実は消える筈も無く。唐突に行方不明になっていた彼女がひょっこりと帰って来たとなれば、誰もが彼女を訝しむだろう。そしてその経緯が明るみになるならば、彼女の立場も悪くなるのは明白であった。
 ソニアが世間に追い遣られるような事態に陥るのはアトラハシスとしても本意ではなく、かと言って自分達が連れて行く事など以ての外だ。彼女は敬虔なルビス教団の信徒であり、“寵愛者アマデウス”なのだ。言わば自分達魔族とは相容れない場所に立っている存在だと言えるだろう。たとえ彼女自身がそれを自覚しておらず、また望む望まざるに関わらず持ち得た特質だとしてもだ。
 殆ど自分で蒔いた種だったが、こういう局面になった以上、アトラハシスの取り得る選択肢は限られてくる。その解決法の一つが今、接近しているとの事だが、それに委ねる事をアトラハシスとしてはあまり歓迎したくはなかった。
(だけどそれも結局はただの我侭に過ぎない……いい加減、ぼくも決断しなければならないと言う事か)



「ま、撤退についての責任は大将が持つから良いとして……“幽霊船”に関してはどうするよ?」
 懊悩するアトラハシスの耳朶を打ったのはオルドファスのにべもない言葉だ。
 確かにその通りではあるのだが、こうも裏表の無い爽快な言葉と視線を向けられては、心の内で決意を固めていたアトラハシスとしては苦笑いを浮かべずにはいられない。
 本人に悪気は無いのはわかりきっているので、気を取り直すように改めて一つ咳払いをしてアトラハシスは鷹揚に綴った。
「一応それとなく次の拠点の事は匂わせておいたよ。明確な時期は伝えていないとはいえ、当然彼の商会もバハラタに間諜を放っているだろうから問題ないだろう」
「相変わらず用意周到だな」
 主だった取引拠点でもあるこの遺跡が吹き飛べば、どんな事態があったのだと順を追って推測するにしても、並行して他の拠点の所在にも思考を割くのは当然だろう。寧ろその程度の機転が利かないのであれば、危険を冒してまで取引を続ける必要は無く、関係はそこで終結するだけだ。
 だが、彼の商会ならば当たり前のように新たな拠点に辿り着くだろうとアトラハシスは確信している。
 その為、何にせよそんな懸念など杞憂だ、と穏やかな口調で言葉を結ぶと、オルドファスも納得したのか頻りに首を縦に振っていた。
「これで“海皇三叉鎗トライデント”の連中ともおさらばか。あいつら、しつこ過ぎでいい加減鬱陶しかったからな。清々するぜ」
「イシスは以前より“魔姫”を通して“海皇三叉鎗”にバハラタ領海の海上警備を依頼していましたが、よく相対されるのですか?」
 ここで二人の男達の話に生真面目そうな女性の声が入ってくる。その余計な情思を削ぎ落として引き締まった声韻は、仲間のティルト=シャルディンスのものだ。
 当然、“昂魔の魂印マナスティス”の所有者全員がこの部屋に召集をかけられていたのだから、ここにティルトの姿があっても何ら不思議な事では無い。そして最初からこの部屋で待機していた彼女がこれまで会話に入ってこなかった理由は、歩み寄って来るその背後を見やる事で容易に察せられる。
 そこにはオルドファスが座るものとは別の長椅子が配置され、その上で横になりあどけない寝顔で眠るイーファの姿があったのだ。
 薄桃の少女には、その小さな身体を包み込むように毛布が掛けられていて、彼女の周囲に他に誰もいない事からも十中八九、今の間際にティルトが掛けてやったのだろう。
 イシスにおける魔導の大家という出自から、魔法を使う事のできないティルトは人付き合いが苦手だという印象をアトラハシスは抱いていたが、どうやら意外と面倒見が良いらしい。
 そんな仲間の一面を改めて認識しつつ、アトラハシスは彼女に一つ頷いて語りかけた。
「うん、ここに拠点を移してからは割と頻繁だね。あ、そうそう“海皇三叉鎗”と言えば、音に聞くかの“氷虎”と互角にやり合ったそうだね?」
「え、ええ」
「“星辰六芒剣ガイアクリーヴァ”の一振り、『魔剣・吹雪の剣』はどうだった?」
「魔剣は……その名の通りに凄まじいの一言でした。使い手に未熟なところがあった為、互角の様相を呈する事ができただけです」
 その話題に触れられるとは思っていなかったのか、当初ティルトは若干たじろいだ様子であったが、その後は少しも声に抑揚を持たせる事なく言葉を綴っていたのだから、それは彼女の本心からくる言葉で紛れもない事実なのだろう。
「謙遜するなよ。あの女頭目には結構な数の兵が殺られているし、それなりに煮え湯を呑まされて来たんだ。あの女が魔剣の使い手なら、嬢ちゃんはさしずめ魔槍の使い手。慣れない具象化で良くもまあ立ち回ったもんだ」
「はぁ……」
 オルドファスの裏表の無い賛辞にティルトはただ曖昧に頷いていた。
 気取った様子の無いその姿は謙虚さに通じるものだが、彼女の師はイシス最高の剣士であった先代“剣姫”であり、親友は現“剣姫”アズサ=レティーナである。そしてイシスには国風から優れた剣の使い手が多く、何よりも魔族に転生してからというもの、それらの者達が霞む程の至高の剣士に師事している事も相俟って、ティルトは実際、海賊船団“海皇三叉鎗”の女提督“氷虎”の剣技に脅威を覚える事は無かった……但し、厭くまでも剣技・・に限っての事だ。
 朱染めの外套の上から黒髪を優雅に靡かせて、船上を勇ましく舞う彼女の剣の能力を思った時。ティルトは良く自分は戦い抜けたのだと改めて思う。
 常時凍結の魔力を垂れ流している氷青の魔剣は、海上を自らの領域だと声なき声で高らかと宣言していた。
 斬り付けた箇所をそのまま氷結させるだけならまだしも、水気の多い洋上ではただ宙を凪ぐだけで大小様々な無数の氷塊を生み出しては、矢として壁として利用する。アズサの持つ『聖剣・滅邪の剣ゾンビキラー』が不浄に対して絶対的な攻撃力と防御力を兼ね備えている性質を鑑みると、その威力と応用性の高さは、伝説化している古代魔導器“星辰六芒剣”の名に恥じない凄まじいものである事をまざまざと見せ付けられた思いだった。
 だがしかし、自らの新たな相棒となった『魔槍・王鬼の槍デーモンスピア』の能力もそれらに引けを取らないとティルトは確信している。
 ならば最後に明暗を分かつのは、武器を振るう者の地力だ。それはティルトが幼い頃より身体に叩き込んできた確然とした真実であった。
「リヴァイア殿の後継者、ナディア=ネプトゥスと一戦交えた後に、剣魔将殿の訓練を受けていたのか……相変わらず随分と無茶をしているけど、その勤勉さはオルドにも見習って欲しいと思うよ」
「オイ、何でそこで俺を引き合いに出す!? 俺ほど真面目に働いている奴なんていねぇだろうがっ!」
「ああ、“幽霊船”の事だったね。うん、ぼく達がここを拠点として“幽霊船”と取引をするようになってから目を付けられたみたいなんだ」
「無視すんなっ!!」
 オルドファスの抗議を華麗に無視して、アトラハシスはティルトを仰いで逸れた話題の修正を図った。
「この一ヶ月は特に頻繁だった。まあ取引の代物を考えれば、人道的視点から眼を光らせるのも頷ける」
“幽霊船”とは、今も船乗り達の間で語られる迷信の一つで、大時化の晩に現れては、荒れ狂う波をものともせず突き進む帆船の事だ。
 濃密な霧を纏いながら大海を掻き分けるその姿は、何時沈没しても不思議ではない程に損傷が著しく、甲板上では常に船員らしき者達の影が互いに殺し合って阿鼻叫喚の地獄絵図を形成し、去りしなに絶望に染まった怨嗟の悲鳴を撒き散らしているという。
 そんな逸話から百鬼夜行の一種とされ、海上の怪異として信心深い船乗り達の間で昔から恐れられていた。
 しかしそれは“幽霊船”と直に接点を持つアトラハシス達からすれば、実に滑稽な事であった。憶測が憶測を呼び、脚色で歪められた眼で本質から程遠い見当違いの場所を見せられているに過ぎないからだ。
「記録上、公的に存在しないが故の“幽霊・・船”……人伝に噂は聞いた事がありましたが、まさかあのような実態をしていたとは思いませんでした」
「色々といわくのある噂の真実なんて大抵味気無いものだよ」
 そう言ってアトラハシスはつまらなさそうに小さく肩を竦める。
 一昔前、アトラハシスがまだ人間だった頃。おいそれと外の世界に出る事ができなかった王太子という身分の反動からか、よく外の世界に憧憬を抱いたものだ。世界中に散らばる説話や寓話などを積極的に集めた事もあり、“幽霊船”の話もその中の一つに数えられていた。
 そして時が流れ魔族に転生した後に、件の船の真実を知った時は随分な肩透かしを喰らったのだ。正直なところ、今のティルトの心境は身に覚えがありすぎたのだろう。
“幽霊船”の真実とは、とある商会が極秘裏に造り上げ運用している特殊な交易船に他ならない。そしてその特殊性を特殊たらしめているのは、人によって制定された規律……嘗て世界同盟が同盟樹立により広がった世界の秩序を保たんとして築いた、船舶登録制度という国際法の一つであった。
 その法の下に世界各国が配備している軍艦はおろか、商会ギルドが保有する数多の交易船や客船、果ては漁師達が個人で所有する帆船は、大きさに関してある一定の基準を境にして、国や都市村落の行政統括機関に船舶登録の申請を出し、個体を識別する籍を受領しなければならない義務を負う。
 そうして得られた船籍が、その船舶の身元を保証する銘となり帰属先となるのだ。そして船籍という名のラベルは、その船の造船から完成までの過程、及び運用実績の記録と共に恒久的に管理され、海上におけるあらゆる面での諍いの火種を断ち続けてきたのだった。
 発布からかなりの年月が経ち、同盟時に制定された国際法の多くが形骸化して久しい昨今。それでも海洋の統治においてはどの国でも当初の形式を頑なに維持している。
 そんな強固な基盤の上にありながら、所属国籍、造船した際の船籍登録、航海記録等が一切残されていない紙の上では世界に存在しない筈の巨大帆船に、古くから船乗り達の間で語り継がれる迷信を織り交ぜる事で、“幽霊船”という全くの出自不明な幻が世界に投影される事になったのだ。
 現在においては、陸よりも強大な力を持つ魔物が跳梁跋扈する海原を駆け抜ける現実から、何処かの国が秘密裏に建造した秘蔵の戦艦ではないかと実しやかに囁かれるものの、所詮は噂の領域を脱するには到らず。更にはその正体に多額の懸賞金が懸けられたという実話が幾つもあったが、ことごとく徒労に終っている。
 それらが一般的な“幽霊船”の逸話に不気味な現実味を与える事に一役買っていた。
 人を欺くには真実と虚構を適度に織り交ぜるのが定石であり最上である、と“幽霊船”の所有者である彼の商会の長は堂々と主張するが、その様は口先だけの情報で人はおろか国をも翻弄する商人らしい実態だとアトラハシスは思っている。勿論、気に入る入らないの評価を下すならば、間違いなく後者であった。
「そして、その積荷は――」
「“幽霊船”が運ぶ代物に不服があるようだね。でもそれは一つの側面からくる感傷に過ぎないよ」
 苦々しく表情を顰めたティルトに視線を真っ直ぐに投じて、アトラハシスは素っ気無く告げていた。
 勿論アトラハシスとしても、今のティルトが抱いているであろう感情が何なのかを理解し、それに同調する事も吝かではない。しかしそれであっても、アトラハシスは意識の内側に感情を完全に閉じ込めて、その姿勢を崩す事は無かった。
「奴隷そのものは現在の社会構造ならそれ程珍しい事じゃない。貧しい寒村や生きていくだけでも厳しい辺境では、糊口を減らし僅かな金銭を得る為に奴隷商人に我が子を売る、なんて話は昔から良くあるありふれた悲劇で現実だからね。それに今の世の中では魔物という要因まで加えられる」
 周囲に満ちていく沈痛な空気を一瞥したアトラハシスは、瞼を半ば程に伏せて淡々と続ける。
「魔物の活躍で身寄りを無くし路頭に迷う人間なんて、それこそ数え切れない程いるだろう? そんな彼らに迫られているのは野垂れ死ぬか、魔物の餌になるかという究極的な二択だけなのだから、少なくとも直ぐに死ぬ事は無いという淡い希望を提示される第三の選択に寄って来るのは、本質的に生にしがみ付く人の情理を鑑みれば自然な流れさ。その点につけ込んで商品・・の仕入れをする彼の商会の者達は、手間や経費が掛からなくて良いって大喜びしていたけどね」
「……全く以って胸糞の悪ぃ話だな」
「気持ちはわかる。だけど、ぼく達が仕入れた奴隷を何に・・扱っているかを鑑みれば、彼らを糾弾する資格なんて無いさ」
 聞きながら表情を険しくして嫌悪を露にするオルドファスやティルトに、アトラハシスはすかさず釘を打ち付けた。
 彼らの憤然とした感情には表立って賛同したい気持ちも持ち合わせていたが、それでも自分達がやっている事の意味を真摯に捉えているが故に、己が情緒のままに繰られた非難を見過す訳にはいかなかったのだ。
 だからこそアトラハシスは冷徹になり、敢えて酷薄な言葉を選び続ける。
「そもそもこの遺跡は魔導の研究施設であるのと同時に、立地条件や隠匿性の高さから例の商会が奴隷達の一時的な保管施設としても使われていた場所でね。シルヴァが言うには、最初にここを見出したダーマの魔導士達と商会が秘密裏に、場所を貸す対価として研究資金と実験の為の素体の提供する、という約定を結んで協力体制を確立していたらしい」
「素体……人体実験、ですか」
「うん。理論の洗練と実証はあらゆる研究活動に着いて回る永遠の命題だからね。この遺跡でも“進化”という輝かしい名目の下に、その妨げでしかない人間倫理を徹底的に廃して“人工賢者創造計画”は磨かれていた」
 そうして紡がれた単語は、間近でその経過・・・・を見続けてきたアトラハシスとしても、軽々しく口にできる筈も無い重みあるものだった。
 故に、感情任せの安易な言葉で飾ってはいけないのだと戒める意味でそれを綴る。たとえ本心が眼前の二人と同じように人間的な良心の呵責に打ち震えているのだとしても。
 しかし同時に、言葉にする度に荒れ狂う感情を面にしてはならなかった。それは大切な人と二人で決めた事であったからだ。
 代わりに闇色の外套の下で、アトラハシスは掌をきつく、皮膚を突き破り肉を掻き毟らん力で握り締める。
「……世界の裏側は、かくもおぞましいものなのですね」
 ティルトが悄然とした響きを以って呟いていた。
 彼女もまた、祖国の大地の知られざる危機を知り、安寧を願う意思に賛同して反逆の旗を翳したのだ。人の世の裏側が惨憺たる様なのは、まさに身を以って理解しているのだろう。
「別に裏に限った話じゃないよ。ただ目に見える表の領域で装われる理由が大抵煌びやかで清らかに整えられているから、それを見上げるだけの人々は気付かないだけさ。最も解り易い例えに、“アリアハンの勇者”を挙げてみるけど、ほんの少し視点を変えてみれば、それは脅威を密やかに始末せんとする暗殺者に等しく。また大多数の安寧を護る為に差し出された生贄、という見方もできるだろう? ……まあ、極端に穿った見方ではあるけれどね」
「……はい」
「世界は欺瞞に満ちていて、それらは総じて人の情より萌すものだから無慈悲でおぞましい。ぼく達は、魔族に転生した事で一つの柵から逸脱したからこそ、表とか裏とか一義的で単純なものに縛られる事無く、本質を見極めて前に進んでいかなければならないんだ」
 アトラハシスはここで一旦言葉を切る。長く語っていたが為に昂ぶりつつあった心を、深々と吐息を零して落ち着かせた。
「これから世界に起きる変革の波濤に、押し流されてしまわない為にもね」



「そういえば、彼はどうしたんだい? 召集はしておいた筈だけど?」
 陰鬱な空気が漂い始めたのを察して、転換の意味で音を立てて掌を打ち鳴らしたアトラハシスは声調を高める。
 オルドファスやティルトを眺めながらの問いに、気丈で冷静、幾多の死線を越えて来たが故に自制心が強い性質であるティルトが苦々しく表情を顰めた。
「まだ大広間で魔人兵相手に訓練していたと思います……あの様子を訓練、と称するならばですが」
「あのボウズ、最近時間があればすぐ失敗作共相手に斬りかかってやがるな。血を見る度に狂気を増しているっていうか、正気を失くしているっていうか“印”に意識を喰われつつあるんじゃねぇか?」
 ティルトもオルドファスも、無事に魔族化を成し遂げた一角の者達だ。そんな彼らにして厳しい表情を浮ばせる程の事を、この場にはいない仲間が行なっているという。
 無論、アトラハシスもそんな事は承知しているので特に触れなかった。
「それはないよ。あの“印”との同調深度を高めるのならそれで正常なんだ。血を求め続けなければ、耳元で囁かれる慨嘆の声に理性を焼かれる……『慨嘆の楯』とはそういう業を持っているんだ」
「……厄介なものですね」
 徐にティルトは自らの掌に視線を落とす。まだ魔族化して日が浅い為、自らの“印”の業と見える事になっていないが、いつかは対峙しなければならないのだ。
 知らず緊張に握っていた拳を解き、ティルトは小さく嘆息していた。
 その様を横目で捉えていたオルドファスは、長椅子に深く座ったまま両腕を頭の後ろで組み、茫洋とした眼差しで天井を見上げる。
「俺に言わせりゃ、精神制御が未熟だってのもあるな。ボウズは我慢を知らないからボウズの領域を抜け出せないんだ」
「君といいシルヴァといい、随分と彼には厳しいね。でもその辺りは時間と経験を重ねるしかないよ……仮に彼の嘆きの元凶と対面し、それを乗り越える事ができれば或いは」
 そう言いながら一瞬だけ虚空を見やったアトラハシスは、やがて相好を崩して上品に微笑む。
「まあ何にしても、もう直ぐお客様が来ると言う事だから、もてなしの準備をしておこうよ……入念に、ね」
 オルドファスとティルトが怪訝そうにしながらも頷いたのを見止め、ゆったりとアトラハシスは踵を返した。
(久方振りの再会か……君は、どんな感情かおを見せてくれるのかな? ユーリ)
 そう胸の内で呟いて。








 満天に広がる星空の中で、自らが王者だと言わんばかりに泰然自若と席巻している満月の姿がある。その孤高にして優雅、冷絶にして荘厳なる輝きは、空を往く暴虐なる風をかしずかせている。
 夜天の光は、己が意を遥かな大地に伝えんとして携えた風を解き放ち、容赦なく地に吹き流しては鬱蒼と生い茂る闇色の化粧を施した木々や枝葉をけたたましく掻き揺らす。
 しかしそれでも、降り頻る光の瀑布は一面に敷かれた枝葉の重厚な絨毯に遮られ、地上に届く事はなかった。

 空からの明かりの殆どが遮られている所為か、バハラタ北方の台地に連なる樹海の中は真闇に近く、さながら深遠へと続いているかのようだ。
 その中を、圧倒的な質量の闇に塗り潰されてしまいそうな仄かな灯りと共に颯爽と駆け抜ける一団がある。
 動作の妨げにならない明色の装束に身を包んだ白銀髪の青年が手燭を片手に先頭を行き、その後ろに青年を優に超える体躯を誇った薄金髪の偉丈夫が続いている。更には毅然さと柔和さを同居させた淑やかな雰囲気を持つ蒼髪の女性と、朱に染めた革の外套コートと艶やかな黒髪をはためかせる長身の麗人が、先の二人に遅れまいと足早に追随していて、誉れ高き騎士の礼装で身を固めた金髪の青年が、一団の安全を支えんとして油断無く殿を勤めていた。
 分厚い葉群の天井により夜明かりが殆ど期待できない暗がりにあって、勾配が激しく樹木の根が地面を下から迫り上げている酷烈な山道を苦も無く疾走できる彼らは、市井の人間とは一線を画した経験を持つ者であるのは想像に易い。往々の姿にはそれぞれ随所に物々しい武装が施されており、戦の場に赴いているのだという意識が誰の眼からも明らかであった。
「バルマフウラ。この先は少し道が狭くなる。足元に注意してくれ」
「確かにそうみたいだ。わかったよカンダタ」
 後ろから硬質な声で注意を促してきた薄金髪の偉丈夫……カンダタ=オデッサに、灯りを持つ手とは別の方に持つダガーで伸びしきる枝葉を薙ぎ払いながらヒイロ=バルマフウラは頷く。
 盗賊としての高い技術と経験により夜目が常人よりも遥かに利くとは言え、こうも辺り一面が深い夜の色彩に染められては、なかなか思うようにいかず。日中ならば特殊技能の“鷹の眼”を用いて空から山岳地帯の全景を見下ろす事もできたが、その技能の特性上、夜間ではそれも適わなかった。
 だがこの山道は閉ざされた空間ではなく、群立する木々の先で闇を劈く満月の光と風に繋がっているのだから、その加護を誰よりも受ける事のできる自分が、常闇には遠く及ばないこの程度の浅い闇などに臆する理由は無い。
 何故か意識に昂揚を覚えていたヒイロは、より一層鋭敏に研ぎ澄まされる感覚を以ってして自然に埋もれつつある山道を確りと看破し、澱みなく後続を導いていた。
「それにしても、この森は一体どうなっているんだ? ずっと真っ直ぐに進んでいるつもりではあったけど、随分と迂回させられている」
 バハラタ北方の山岳地帯にある深い樹海。地元の人間でさえ立ち入るのを怖れ憚る地に足を踏み入れた時から付きまとっていた微かな違和感。
 それは喉の奥に小さな棘が刺さったかのような感覚で、人によっては煩わしさを覚えるだろう。その疼きは森の奥へ奥へと進む程に肥大し、やがて無視できない実体あるものとしてヒイロは知覚していた。
 呈された疑問に心当たりがあるのか、巨大な戦斧を背負い山道を疾走しながらも息一つ乱していないカンダタは淡々と頷く。
「それを自覚できているなら惑わされる事は無い。この樹海は人の方向感覚を狂わせる何かに満ちていると言われていてな。行方不明になる人間が昔から多かった事から、神隠しの地として地元の人間に怖れられている。だからバハラタの人間は率先して立ち入ろうとはしない」
 やがて並走してきたカンダタを横目に、ヒイロはこの先にあるだろう目的地に想いを馳せる。
「神々が集う地での神隠し、か……随分と皮肉が効いている。木を隠すには森と言うけれど、厭忌の風習を隠れ蓑にして遺跡の存在を隠しているのは、その遺跡には人目から秘さねばならない何かがある、という事になる」
 実に興味深い、と薄く笑みを浮かべるヒイロ。その琥珀の双眸は冷徹な好奇心に満ち満ちており、空よりの夜光が断たれて尚、ぼんやりと輝いているようだった。
「この樹海にまつわる噂を誇張して伝える事で人の意識を遠ざけ、遺跡の存在はイシスとルビス教団の極秘資料の一部に語られるのみ。こうまで要因が揃っていると、何を隠しているのか気になってくるな」
「意図的である、と?」
 その可能性に一度は思い至った事があるのか、カンダタは神妙な面持ちで呟いていた。
「確かに、バハラタの人間は歳を重ねる程に信心深い。加えてイシスをはじめとして“協会”が厳格な規律を以って統治している為、清潔に整えられた道から外れようとする者は殆ど無いと言っても良いだろうが……」
「外から眺めていると、そういった意識誘導が特に際立って見えるんだ。面白い事にね」
「不謹慎だぞ」
 諌めるように力の篭った目線をカンダタが投げ付ける。好奇心が何よりも勝っている時のヒイロは、普段の冷静沈着で傍観者然とした立ち位置とは打って変わり、度が過ぎる程に冷徹で率先して物事の中枢に介入してくるきらいがある。
 現在の目的を考えるならば、それを許容する訳にはいかない。そう思い到って諌言を繰ったカンダタであったが、当のヒイロは丁度顔面目掛けて頭上から伸びてきた枝を鮮やかに切り払っていて、その視線には気付かなかった。
「あそこは遺跡というより研究施設だ。お前の興味を惹くようなものは無い」
 そう小さな溜息と共に連ねられた言の葉には、実際に言い表す事への躊躇いが滲んでいた。難しそうに顔を顰めたカンダタの相貌に落ちた暗い陰がそれを確かに助長する。
 だがやはり今のヒイロはそんな感情の機微を察する事無く、邪気の無い顔で一つ頷くだけだった。
「それを決めるのは俺だけど……研究施設、か。人目を忍んでいる時点で、口にするのも憚れる類のものだって主張しているようなものだね」
「行けば解る、と言いたい所だが……バルマフウラ。目的を違えるなよ」
「わかっているさ。先行しているユリウス達の援護と、そこに囚われているであろうスフィーダ皇女の救出。“流星”にとっても重要な任務なんだから真剣に取り組むよ」
 再度刺された釘を受け止めて、ヒイロは深闇の樹海を見据えた。その双眸の奥に、燦爛と耀く情思を燈して。



―――そもそもヒイロが今、旅路を共にする仲間達とは異なる面々で人里離れた山岳遺跡に行軍しているのには訳がある。
 昼間に臨河公園で自らの記憶の齟齬に苦悩していたヒイロは、気を紛らわす為にこのバハラタにも拠点を置く盗賊ギルドの支部に赴き、最新の世界情勢を仕入れようとしたのだ。
 そしてその時、その場所で。思いも寄らなかった面貌と再会する事となる。
 その人物とは、盗賊団“流星”の“金獅子”カンダタ=オデッサと“海皇三叉鎗”の女提督、“氷虎”の異名で知られるナディア=ネプトゥスであった。
 表向きは一般的な大衆食堂に過ぎない支部の中で、市井の人々からは存在感そのものがまるで違う姿を見つけた時、ヒイロは思わず我が目を疑ったものだ。彼らはそれぞれに何名かの部下を引き連れ、公会議開催前の厳戒態勢下にあるバハラタに正々堂々と乗り込んできたのだという。
 訊けばカンダタは、“流星”の任務に際してバハラタへの入港許可を得ている“海皇三叉鎗”に助力を求め、ナディアはイシスとの協定であるイシス領海の哨戒中に彼等を手引きした。そしてその折、裏の世界で語られる“幽霊船”という存在と相対して戦闘行動に突入し、双方痛み分けという辛酸を舐めさせられる結果になったとの事だ。
 それぞれに予期せぬ邂逅となった訳だが、再会の余韻に浸る間も無く、それからの展開はまさに急転であった。
“幽霊船”の一件をイシスの“魔姫”に報告に行くと言う海賊提督は、本来何重にも及ぶ手続きと検査の末に叶う“魔姫”への面会を、都合良くイシス領事館に滞在中であるヒイロを伴う事で省略しようとしたのだが、いざ現地に着いてみれば魔王軍の六魔将の一“剣魔将”の襲撃に遭い、“アリアハンの勇者”を始めイシスが誇る“剣姫”以下親衛隊の者達全てが敗れ去ったと言う事で、イシスの人間達は右往左往していた。
 絶対安全圏と謳われる時期のバハラタの中枢に魔族の単独侵入を許した事は重大な問題であったが、それよりも魔を駆逐する為に援助している“アリアハンの勇者”の敗北が明確な形として、限定的ではあるが人々の記憶に刻まれたのは無視できない事実だった。
 援助している側が寄せる見解として、“アリアハンの勇者”は常勝こそが是であり敗北を喫するなど絶対にあってはならない事である。なまじ先のイシス戦役における終局で、勇者による魔勢の殲滅が誇張されて伝説化している事も相俟って、起きてはならない事象の実現は著しい混迷を呼び起こし、一時的にではあるが領事館の機能を麻痺させる要因となったのだ。
 その果てに女王フィレスティナや“剣魔将”と直に刃を交えた面々以外から、不甲斐無く魔族に敗れた勇者に対して苛烈な非難や罵倒が集っていたという。イシス人の心象としては、女王を単身で魔族の前に曝してしまったと言う事態を招いたのだから弾劾や叱責は無理からぬ事とは言え、襲撃時にその場に居合わせなかった“魔姫”が戻り場の鎮静を図るまで人々の勢いは衰えず、勇者に対する一方的な糾弾は止む事は無かった。
 やがて一応は表立っての反感は潰えたものの、一度熾った勇者への不審の焔は消えず。今も人々の意識下に確かに燻っているだろう。
 そして当の勇者は、囚われた仲間を助ける為に既に単身でバハラタ北の台地に存在するという古代遺跡に出向いており、彼を追って仲間の武闘家やその従者達もこの地を発ったとの事だった。
 事の顛末を“砂漠の双姫”から聞いたヒイロは、自分も直ぐに追いかけた方が良いと判断したが、それはカンダタの持ってきた情報によって押し留められる。その内容とは、公会議に出席する為に訪れたゼニス教団の祭司長、サマンオサ帝国第四皇女スフィーダがこのバハラタの内で行方不明になったというものだった。
 嘗て盗賊団“流星”に所属していたヒイロは、件のスフィーダ皇女がやがて来る時に“流星”の旗頭として担がれる存在である事を知っている。ヒイロにとって“流星”は古巣であり、今でも仲間意識を持っている事に変わりは無い。そんな彼らの任務を手助けしてやりたいという気持ちを抱くのは、情ある人間ならば自然な事だろう。
 カンダタによると、皇女は姿を晦ませてから既に十数日が経過しており、彼の教団の者をはじめ皇室の近衛騎士達も捜索に奔走しているが、最早市内にはいないとの結論に到っているという。
 失踪と断じた報にしては遅々としている気がして、ヒイロはその情報の出所を精査した方が良いと提言したが、“魔姫”がそれを取り下げる。実は今日と言う日にユラが領事館から離れていたのは、サマンオサ皇室近衛隊隊長のブレナン=バルバロッサと極秘裏に面会し、以前より頼まれていた皇女捜索の状況説明と改めての協力を仰がれていたからだった。
 目まぐるしく移り変わる現状と、考え得る様々な状況を推察して、ヒイロは場の判断に身を委ねる事にした。
 現在の仲間の身を案じている事に変わりは無いが、それぞれが別々に行動しているならば、このまま個人で動いても好転しそうにない。寧ろ“アリアハンの勇者”という立場が揺らぐ予兆が発生してしまった以上、闇雲に動く事はそれを悪化させる可能性すらあるのだ。
 そして何より。勇者の面目の失墜から連鎖的に自分の目的の進捗が滞る、という危機も充分に考えられたので、それを回避する為にも現場の状況に従う方が有利であると判断したからであった。
 その後。“魔姫”ユラ=シャルディンスは集めた種々の情報を下に、スフィーダ皇女が魔族が根城にしている遺跡にいる公算が大きいと判断し、公会議開催まで既に時間的猶予が無い事も鑑みて、少数精鋭を以ってバハラタ北の遺跡に向かう事を決断する。
 バハラタに魔族の侵入を許した事はイシスの過失も多分にあるので、対外的にそれを雪ぐ為にも“魔姫”ユラ自ら陣頭に立って小隊を率い、“流星”の任務でスフィーダ皇女の捜索の為にこのバハラタに降り立った盗賊団“流星”の“金獅子”カンダタと“幽霊船”とその護衛に就いていた魔族と実際に剣を交えた“海皇三叉鎗”の“氷虎”ナディアを選抜する。更にはイシスと同じく公会議の開催側であるルビス教団に協力を要請して人員を組み込んだ。
 そしてカンダタ、ナディア両名の推薦で高い探索能力を持つヒイロを加える事で、即席ながらもサマンオサ皇女捜索という命題を掲げた魔族追跡隊が結成されたのだった―――。



 これまでの経緯を思い返し、ヒイロの心内には打算でしか物事を図れない自らの薄情さへの嘲りが充満しつつあった。
 魔族に連れ去られたという仲間のソニア、盗賊団“流星”にとっての重要人物であるスフィーダ。先を往くユリウスやミコト、彼女の従者達。それぞれの事を心配する気持ちがある反面、人に秘されし遺跡に立ち入れるという知的好奇心が確実に昂ぶっているのも自覚できる。
 秤に掛けてどちらに傾くかは定かではないが、定かではない程に双方に差が無いというのが本当のところなのだ。
 己の真実に対しての探求を続ける事。それだけを糧に今まで生きてきた事もあって、ヒイロには理想も無く、野望も無く。希望を求めて必死になる事も無ければ、野心を貫く為に我武者羅になる事も無い。
 完全なる中庸。それこそがヒイロが自身に下している評価である。そしてそれは感情に支配される人の環の中にあれば、否応無く周囲との乖離が浮き彫りになるだろう。
 そんな円環から一歩引いた場所に立つ事を自覚している為に、ヒイロは己が下す決断の全てに自らの利に繋げようとする打算が潜在している事を理解している。
 故に誰かの為にと言いながら、結局は自分の為でしか物事を捉える事はできず、判断もできない。そんな自分を変えたくて、自らを確立する為に過去を求めていても、その過程の全ては結局、厭う自分の軌跡そのものなのだ。変えたいと願いながらも変えられないのは最早意志の力ではどうする事もできない、存在の基底にある魂魄に刻まれた呪いのようでもあった。
 自分の心に巣食う矛盾が歪んだ笑みという形で面に出るや否や。夜露に湿った剥き出しの地面に深々と刻み込まれた幾つかの足跡を見つけた事で、内面の葛藤は意識の奥に引きずり込まれ、やがて潰える。
 深い夜の帳が降りた木々の回廊を、先頭で駆け抜けていたヒイロは不意に立ち止まり、その場に膝を着いた。
「これは……」
 唐突に立ち止まっては跪き、澱み無き澄み切った琥珀の双眸で地面を注意深く観察し始めたヒイロ。その背に、同じく立ち止まったカンダタは怪訝な眼差しを送りながら問う。
「どうした?」
「まだ新しいな。地面の踏み込み具合と足跡の方向を鑑みるに、麓から来た人間が一人、二人……いや、四人。それもかなり急いでいるような感じがする」
 眺める角度を何度も変え、革の手袋を脱いだヒイロは素手で地面の足跡に触れては、その足跡と周囲の土を交互に掬い、指先で擦り合わせる。
 大地に残る熱や水気を咀嚼し、パラパラと再び地面に還る細かな土塊の様相を真剣に吟味して、ヒイロは頷いた。
「靴底の痕跡や数から見てユリウス達で間違いないだろうね。それに地面の湿り気と足跡の乾燥具合を併せると、ここを通過してからそれ程時間は経っていないようだ」
 今の僅かな調査で確証を得たのか、衣服に着いた土を払いながらヒイロは立ち上がり、油断なき眼差しで足跡の向かう先を見据える。
「この地点と遺跡の入口と目されている場所との位置関係から考えて、ユリウス達は恐らく既に遺跡に到達している頃合だろう」
「……良くわかるな」
 傍から見ていれば何をしたのかさえ理解し難かったが、確信を持って言い切ったヒイロ。今の間際に見せた観察と推測は、確かな経験に裏打ちされた自信に満ちている。それは、ある種の魔法と言っても良い練達さを見せ付けていた。
 嘗ては盗賊業に身を窶していた経験を持つカンダタだからこそ、思わず感嘆を零さざるを得ない。
「ん、まあ注意深く観察すれば、これくらいはね」
 照れ臭そうに頬を掻いて謙遜するヒイロに、嘗ての時間が重なってカンダタは緩やかに目を細めた。
 思えばこの感情や先入観に囚われない観察眼や慎重すぎるまでの注意力、大胆且つ精密な論理を構築する思慮深さこそが嘗てサマンオサ帝国を翻弄し、盗賊団“流星”に数々の勝利を導いてきた“銀梟”という参謀の姿だ。
 時たまに知的好奇心が先行する場面があれど、彼の退団をいつまでも惜しんでいる首領、ノヴァ=ブラズニルの気持ちがカンダタも理解できた。
「いつもながら、お前の探索能力の高さには驚かされる」
「風は世の変化を導く者であると同時に、変化を見届ける者でもある。大地に残された熱の痕跡を辿る事など、私にとっては造作も無い事さ」
「……バルマフウラ?」
「何だい?」
「いや……」
 過去に浸っていたが故か、刹那の変貌にカンダタも呆気に取られてしまった。一瞬だけその姿が二重三重にブレたようにも映ったが、依然としてヒイロは平静を保ち佇んだまま。
 結局、今の錯覚は自分の気のせいだったと結論付け、心中で消化する事に落ち着いていた。
「しかし気になるな」
「何がだ?」
「ここまで動物や魔物の気配がしないというのは、安心を通り越して怪しくすらある。先行しているユリウスが魔物除けの魔法トヘロスを用いた可能性も考えられるけど、それでもここまで自然の音が失せているのは、やはり腑に落ちないな」
 夜が深まるにつれて渾然とした闇が広がる森林の暗中。今しがたヒイロが指摘した通りに、周囲に流れるのは何処か遠くから囁いてくる無機質な風琴の音色だけで、獣の呼吸も虫の輪唱も、生命の鼓動が微塵も感じられない。
 それは紛れも無く異常であった。そしてその異常は、ヒイロに言われるまで誰も認識できなかった程に自然の調和に溶け込んでいて、通常ならばまず気付けない程に些細な綻びに過ぎなかったのだ。
 再び好奇心が擽られたヒイロが楽しげに口元を歪ませて思惟を広げようとすると、その予兆を察していたカンダタは厳然と告げる。
「バルマフウラ。お前の言う事は気になるところではあるが、今はそんな事をしている場合ではないだろう」
「……それもそうだね。考察するにしても情報が少なすぎる。今はまず、目の前の問題を片付けようか」
 意外な事にあっさりと退いたヒイロは手燭を再び高々と掲げて、前方を照らす。
「ユリウス達は既に遺跡の内部に侵入している可能性もある。出来る限り早く合流しよう」
 光が直ぐに圧殺されてしまう程の質量を伴った常闇に、何故か奇妙な懐かしさを覚えたヒイロは、だが少しの躊躇も無く颯爽と駆け出した。








「マホトーン」
 厳かな韻で発せられた宣言の後、虚空に翳した掌に収束した魔力が眩い輝きを発し、やがて形ある確かな事象となって世界に顕現する。
 魔呪封印魔法マホトーン。それは幾重もの淡い青の光帯が、まるで投じた鎖の如く宙空を奔り対象を絡め取って封縛するという、内外に連なる魔力エーテルの流れを遮断する魔法だ。その魔法を受けた対象は、体内で収斂した魔力を外界に発揮する事が出来なくなり、結果として魔法行使を封じられる。
 ユリウスはそんな光鎖を樹海の底に聳えていた岩壁に向かって放っていた。
 何の変哲の無い岩の巨壁に向けて用いるには見当違いの魔法であったが、ユリウスの表情は真剣そのもので、それ以外の選択肢など無いという揺らがぬ意思を物語る。
 すると数瞬もせぬ内に、ただの岩肌に過ぎなかった場所に、人工物である事が明白な扉が現出した。
「魔族が根城としている遺跡であるのは、どうやら間違いではないようだな」
 夜の静謐を壊さぬように、岩壁から深々と滲み出てきた遺跡の門扉を前にして、ユリウスはポツリと呟く。
 遺跡が築かれているという台地は、麓のバハラタから見てちょっとした山岳の頂上に相当する高さの場所にあった。台地そのものは、そこから更なる高みに向かって尚も天に続いているが、この地点こそが人の足で踏破する事のできる限界なのだと、沈黙に佇む巨壁が言無く示している。
 そんな岩肌の窪みに埋め込むように安置されていた魔晶石をやおら掴み取ると、ユリウスは宙に掲げその透き通った鉱物を凝視する。
(見る角度によって入口が失せているように映っていたのは、やはり光の屈折率が操作されていた所為か。透過魔法レムオルだという予想は当たったが……それだけではないな。マヌーサ、トラマナ、トヘロス。いや、フバーハまでも組み込まれているのか)
 遺跡の入口たる門扉は、樹海の奥に聳える岩壁を削って造り上げたものに違いは無いが、どういう訳か貴族が住まう館のように手の込んだ彫刻が施されていた。
 更に門前は岩壁と鬱蒼とどこまでも続く木々により天然の回廊を形成しており、樹海の終点らしく枝葉の天蓋が取り払われ、気休め程度ながらも空の様子を臨む事ができる。入口は僅かな開放感を覚える事ができる場所に、一見すれば簡単に見逃してしまう程巧妙に。魔法によって、明らかに人為的な手法で隠蔽されていた。
 ユリウスは森の回廊を注意深く観察していく事で、岩肌の一部の景色が微かに歪んでいるという不自然さを目の当たりにし、やがてその綻びの元凶を発見する事になったのだ。
「異なる魔法の同時展開を可能とする、積層型魔方陣……間違いなく奴の仕業か」
 そう言うとユリウスの眼は険しく細められ、そこに宿る光は刃の如くに鋭くなる。
 通常、一つの生命体が同時に異なる二種以上の魔法を行使する事はできない。その解に向けて遥か昔より連綿と議論は重ねられているのだが、解明の糸口すら未だ掴めていない魔法学における最難関の問題の一つである。
 しかしその問題の存在が、異種の魔法を同時に使役する方法が無い、と示す事にはならない。そしてその術を語るには、魔晶石の名が必ず浮上してくる。
 魔晶石という鉱物に霊素を蓄える性質があるのは古くより既知の事実だった。そんな性質を基にして水晶内部に魔方陣を構築し、且つ保存ができるという可能性も同時に示唆されていたが、それまで確認できたものには偶発的要素が非常に多く、長年その理を定める事ができずにいた。
 だが数十年前、十三賢人“智導師”バウル=ディスレビがその理を解明し、明確な技術体系として確立した事で一気に進展する事になる。
 魔晶石に篭められた魔方陣を展開するのに必要とされるのは、陣の起動に消費する魔力……つまりは精神力だけであり、一度でも起動してしまえば石内部の励起された霊素同士で連鎖反応を起し、魔法の発現まで歪みなく到る事になる。複数の魔方陣を埋め込んだ場合でもその理は同様で、種々の魔方陣全てを完全展開させるのに求められるのは、純粋な魔力量だけだった。
 ただし、陣の基となる魔法を通常行使する際に必要な魔力量を省略する事はできない。仮に上級火炎魔法メラゾーマの魔方陣を起動させるには、術者がその身でメラゾーマを行使するのと等価の魔力量が求められる。そして二種以上の魔方陣を同時に用いる場合は、それぞれに記された魔法を展開するのに必要な魔力を一度に要求される事になる。
 魔晶石の純度によって魔力の最大許容量や実装できる魔方陣の数が左右され、加工の際に魔晶石が変性して変動する事も多々あり、乗り越えていかなければならない課題は多い。しかしそれでも、扱いは極めて難しいものの、魔晶石に蓄積可能な容量限界を見極め、展開効率の良い魔方陣を考案して構築、封入する事ができれば、異なる多種の魔法を同時に展開する事も夢ではなくなるのだ。
 この機構は魔導器の根幹を為している技術であり、十三賢人“智導師”によって一般に開示されてからというもの、魔導技術の更なる躍進を目的として世界中で研究される事になった。
 魔法の出力制御こそ出来ないが、単純な対価を支払うだけで得られる効果は多岐に渡るが故に、もしもこの先研究が進めば魔法がより身近に、より多くの人間が気軽にその恩恵にあやかる事が可能になる事を示唆していて、その為に人々は探求に明け暮れる。中でも特に機工王国と名高いエジンベアは真っ先に国を挙げての研究に取り組み、今日において王立魔導研究所の存在は“魔導の聖域”ダーマ神殿に勝るとも劣らない学術機関として英名を馳せている。
 しかし、言葉で表すのは簡単だが、実際にその技術を操る事は生易しい事では無かった。そもそもの魔晶石に魔方陣を封入する作業自体に、恐ろしく精密な魔力制御が求められるからだ。
 アリアハンの元王太子アトラハシス=オケアノスは魔力や闘氣、武芸等で突出したものは無かったが、魔法を発動させる過程において細工を施し、通常発揮される効力に重ねて追加効果を生む技法を得意としていた。魔力量に物を言わせて顕現形態そのものを変化させる変容魔法とは異なるそれは、本人曰く小細工を弄するのが得意だという自信の結晶であったが、こと魔法操術の精巧さに関してのみは“理叡の魔女”すら上回る、と嘗て魔女当人が認めていた程だ。
 そんな過去の片鱗を思い返しながらユリウスは、アトラハシスには魔晶石を利用した積層型魔方陣の構築が可能であると確信する。昔、初歩の初歩である回復魔法ホイミを用いて三重構成の陣を実際に造ったのを目にしているのだから、その予想は外さない。
 そして同時に、この石に細工を施したのがアトラハシスという前提を立てるならば見過ごせない点があった。それはアトラハシスが正流魔法……つまりは俗に僧侶達が扱う系統の魔法しか使用出来ない筈であったという事だ。
「魔族化して存在属性が反転した、という事か」
 そこで思考を中断させたユリウスは掌の魔晶石をスルリと地面に落とし、忌々しげに踏み潰す。既にマホトーンによって魔晶石に接続する魔力の流れが断たれている以上、この石には何の意味も無く役割を終えている。
 魔方陣を埋め込んだが故に脆くなった石は、小さな断末魔の悲鳴と共に粉々に砕け散った。
 キラキラとした砂の如き砕片が土の上に広がる様を無感動に見下ろしたユリウスは、それにしても、と内心で連ねて徐に岩の門を見上げる。
「どこから魔力を供給している?」
 眼前にある山岳遺跡は、イシス領事館で閲覧した資料によれば、建造してから軽く数百年どころか千年単位の時が経過しているという古きものの一つだったが、大自然の中にある精巧な人工物という不調和もさる事ながら、その領域に立っているだけでこの場所に秘められる異常性がひしひしと肌で感じられる。
 特にここ最近、霊素や元素フォースを包括する根源要素“マナ”に対しての感知力が増大していると自覚するユリウスには、どうやら遺跡のみならず、遺跡に連なる樹海そのものに視覚をはじめとするおよそ感知に携わる全ての感覚器官から逃れる為の隠蔽処理が徹底して施されているように感じられていた。
 入口に関しての目眩ましなど後から付与されたものに過ぎないが、樹海全域に及ぶ隠蔽工作自体は、先程無力化した積層型魔方陣と同じような術を用いれば理論上実現可能ではある。が、それだけに疑問を覚えずにはいられなかった。
 建造当初からどうかは知る由も無いが、仮にそうだとしても魔法の効果を永続的に保たせる術など極めて限定的な例を除いて現在の魔法体系及び、魔法理論の面を考慮しても無いと言える。魔方陣を刻み魔法発動の構成を物理的に残していたとしても、それを起動させ続けるには膨大な量の魔力が必要となるのだ。この遺跡がどれほどの規模のものか定かではないが、並の魔導士が数十人数百人集ったところで賄える量ではないだろう。
 魔力供給という単純で判り易い問題点だけに、その解決は至難である。だからこそ一般論でこの地の異常性について語る事ができないのだ。
 泰然と佇む遺跡を前にして思惟を深めていたユリウスは、不意にアリアハン大陸に存在するナジミの塔、或るいはイシスのピラミッドという巨大構造体を眼にした時のような底知れない何かを感じた。地の底から競りあがってくるようで、逆にそこに立つ者を引き摺り込まんとする底無し沼のような……上手く言い表す事ができない不可解な感覚は、しかしユリウスにある解を導かせる。
「……やはり、ここは霊穴レイポイントだと言うのか」
 その独白に一つ大地が鼓動を打ったかのような錯覚を感じ、口元に手を添えたユリウスは目を細める。
 この地が霊穴という極めて限定的な例だとすれば、長久を超えて永続的に魔方陣を稼動させる事も可能であるし、この樹海に入って一度も魔物や野生の動物と遭遇してこなかったのも頷ける。マナの濃度が深ければ深い場所は、現代の生命にとっては生き難い場所であるのだから。
「いずれにせよ、ただの遺跡ではないのは確実か」
 イシスに残る記録では、嘗てこの遺跡を調査した者は、何ら特筆すべき事の無いただの遺跡・・・・・だという見解で終結していた。
 その事が何を意味するのか、どこぞの誰かのように遺跡を造った者の思想も、遺跡そのものにも全く興味が惹かれていないユリウスには既にどうでもいい事だった。
 この場所が普遍か異質か、という天秤において後者に傾いただけの事。そう結論付けたユリウスにとっては、この地が霊穴という世界の特異点であるのがわかっただけで充分だった。
 背に靡く濃紺の外套の下に佩いた二振りの鋼鉄の剣。その内の一つを鞘から抜き去り、カザーブで貰った鋼鉄の槍を背負い直す。そしてユリウスは、これまでの無意味な思考の全てを振り払い、中への進入を試みる意識をより冷徹により尖鋭にする。
(ここから先は魔の領域……敵陣だ)
“剣魔将”との戦いで蓄積した疲労は残るものの、明確な敵を前にして気力は充分。どういう理由かは定かでは無いが、ソードイドと剣を交えた直後から魔法が再び使えるようになった事も相俟って、戦術の手札は十全に揃っている。戦いに赴く態勢としては必要充分であった。
 自らに出来る唯一の事を意識に深く刻み付けて、ユリウスは重みある石の扉をゆっくりと押し開ける。
 重々しい残響を轟かせて開かれた扉より溢れ出てくる深闇。心地良い静寂に満たされた内部に一歩、足を踏み入れる。
 歩を進める度に床や壁、天井を勢い良く跳ね回った反響音が闇の奥へと吸い込まれていく様を全身で感じたユリウスは、その双眸に歪んで危うい光を湛えて嗤う。
(もうすぐだ……もうすぐ俺は――)
 見据える先は、光届かぬ闇一色。それは宛ら前に立つ者の意志を斟酌せず、ただ無慈悲に虚無へと誘わんとする大穴のようでもある。
 そんな闇中から差し出された手を掴もうとする意思を滾らせ、ユリウスは勇んで進んでいった。
 ここが、自らに定めた約束の地になるのだと信じて。



――終れる。
 外より流れ入る風が、そう静かに囁いているようだった。




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