――――第六章
      第十二話 心軋の迷図







「待て、ユリウスっ」
 遺跡に足を踏み入れて、最初に立ち塞がる扉が闇の奥に幽かにその姿を現した時。ユリウスの背後から敢然とした声が投じられた。
 身を引き締める勇ましさを孕んだ声韻は良く通り、周囲に犇く闇を強かに打ち掃って目標に到達したのだが、それを確実に受けた筈のユリウスは歩みを止めることは無く。ただ足早に闇の先へと身を滑り込ませているだけだ。
「…………」
「おい、聞いているのかっ!」
 少しの反応も見せないユリウスに、声の主であるミコトは業を煮やして詰め寄り、背後からその肩を乱暴に掴みかかる。
 普段のユリウスならば即座に手を払ってくるのだろうとミコトは予測し、半ば期待していたのだが、今回はそれが無い。なすがまま半身を後ろに引かれているにも拘らず、それでもユリウスから前に進む歩を止めようとする意思は微塵も感じられなかった。
「用件は何だ?」
「お前、いい加減にしろよっ!!」
 漸く返ってきたのは、未だに振り向かえろうともしない姿勢と、意識がこちらに全く向いていないのが明白な空返事。
 心ここに在らずといった空虚なユリウスの様子は、何の準備も無く敵陣に乗り込むのはあまりにも無用心だとして、バハラタ出発前から何度も諫言を繰り返していたミコトのささくれ立った神経を酷く逆撫でしてしまった。
 魔族の拠点内であることもあって殊更緊迫した表情のミコトは、ユリウスの肩に掛けた手を思い切り引く。抵抗するかと思いきや、ミコトの予想に反してすんなりとユリウスは踵を返すこととなったが、その表情と見えた時。ミコトは全身の肌という肌が粟立つ感覚に襲われた。
「っ!?」
 それはまるで、恐怖と言う猛毒を仕込んだ針が何千何万の束となって一挙に殺到してきたかのような錯覚。驟雨の如くに降り頻る針の一つ一つが身体の奥底に深々と突き刺さり、内側をじっとりと蝕みながら一方的に貪り尽くす――死という結実を否応なしに想起させる、殺気と呼ばれる意志の凄絶なる奔流。
 ユリウスと目が合わさり、彼我の意識と意識が交錯した瞬間。ミコトはユリウスから発せられる夥しい質と量の殺気を何の心構えもないまま正面から浴びせられたのだ。
「用件は何だ?」
 先程の光景を再現しただけの問い。しかしその漆黒の眸には危う過ぎる兇刃の光を爛々と燈している。
 更にはこの場に犇く闇の深さ、或いはここに立つ面々がそれぞれに持つ手燭の光によるものだろうか。強弱が激しく揺れ動いている陰影によって、ユリウスの面には狂気染みた凄絶な笑みが刻まれているように見えた。
 ユリウスは普段から無表情を装ってはいるものの、それは強固な意志の力によって感情を無理矢理に内側へ押さえ込んでいるような、張り詰めた空気を常に纏っている。そこに彼特有の人情を孕まぬ冷徹な言動が絡み合うことで、年齢にそぐわない峻烈な存在感を形成しているのだと、ミコトは最近そう認識するようになっていた。
 どのような心境かは定かではないが、今のユリウスは裡に滾る昏き情念を抑えずにただ無作為に垂れ流していて、自らを御そうとする意志が全く見受けられなかった。
 しかしミコトとてこれまで無数の死線を潜り抜けてきた、一流と冠しても遜色無い実力を保持した強き者である。不意に殺気をぶつけられてたじろぎはしたが、直ぐに萎縮しかけた自らの精神に喝を入れ、清冽な意志の力を緑灰の双眸に篭めて正対する。
「何、だ……じゃない。お前、一人で先行しすぎだぞ。ここを何処だと思っているっ!」
「魔族が拠点としている遺跡だろう。こんな所に侵入しておきながら今更お前は何を言っている?」
「そうだっ、ここは敵陣なんだぞ! そんな場所でリーダー自らが仲間との隊列を崩してどうするんだっ!」
「そんなこと、俺の知ったことではない」
「お前なっ!」
 ミコトの叱咤も何処吹く風。少しも表情を動かさずそう言い棄てたユリウスはミコトの手を払い、外套を翻しては回廊の先に向けて歩みを再開させる。
 抑揚無く綴られた声韻には温度がまるで通っておらず、全身から発せられる拒絶の気配は、聞く耳持たないという言葉の意を完全且つ完璧に体現していて、あらゆる追随の一切を封じていた。
 また、先程垣間見せた狂笑の影は言葉を発するのと共に息を潜めていたが、抜き身の剣を携えたまま静かに闇の中へと突き進んでいく後姿は、さながら餓えた野生の獣が獲物を狙い定めてにじり寄るが如く、それだけに油断も隙も無い慎重なものだった。
 そのような鬼気迫る意思すがたを目の当たりにして、注意の喚起は通じないと覚ったミコトは頭を押さえずにはいられない。
 思い返せばバハラタを出発してからというもの、ユリウスは終始周囲の声には一切耳を傾けず、何一つ顧みること無く独走していた。そんな彼の後を慌てて追ってきたミコトやサクヤ、イズモなどは、それぞれが常備している武装や道具以外に万全を期した準備をすることができないまま、こうして敵の拠点に到達するという由々しき事態に陥ってしまっていた。
“剣魔将”襲撃に端を発し流転した現在の状況。ユリウスの背を睨みながら続くミコトの胸裏には、気掛かりなことが幾つも生じては消化せぬまま停滞する。
 今のユリウスは平時における無情なまでの冷静沈着な様子とは打って変わり、まるで何かに急かされているのか、焦燥に背を押されているようであった。確かに大事な仲間であるソニアが、この遺跡に巣食っている魔族達に囚われているとあっては急を要するのも事実だが、それでも普段から仲間意識とは無縁の佇まいを堅持しているユリウスだけに、急ぎ向かっている姿はどこか異様に映る。
 そして異様を異様たらしめているのは、バハラタを出て直ぐにユリウスは結界魔法であるトヘロスを用いて魔物との遭遇を牽制し、その効力が切れれば再び唱えることを繰り返していた点だろう。
 夜闇に覆われた樹海を往く中で、不意の魔物の襲撃を警戒するのは当然と言えば当然の意識だが、自らを餌にして率先して魔物との戦いの渦中に飛び込んでいくユリウスの性質を思えば、どうにも腑に落ちない。バハラタに到着する前の、今よりも遥かに長く険しい道程では一度も魔法を使わなかったのだから尚更である。
 そもそもユリウスの魔法、闘氣を併せて用いる戦闘スタイルから考えて、片翼だけで戦場を駆けるここ最近の姿は不自然であり、もしかしたら何らかの理由で魔法が使えないのではないかとミコトは推測していた。結局それは思い過ごしだったのだと考えを改めることになったが、しかしそうすると新たな疑念が浮んできてしまう。
(使えなかったのか……それとも、バハラタまでの道中が危険であると知りながら、意図的に魔法を使わなかった、か)
 ミコトとしては前者であったと願いたいところだったが、ユリウスの性格を鑑みれば後者の可能性の方が濃厚だという結論を示している。
 些か邪推が過ぎた面もあるが、それでも不可解な点は事実のあちこちに鏤められていて尽きることは無い。
 その最たるものが、“剣魔将”ソードイドとの戦闘時に発揮した漆黒の霊光……“洗礼職クラス”に就き、練達の級位に辿り着いた者だけが体得することを許された、魔力、闘氣収斂の極意である完全賦活、“赫耀紗綸エマナティオ”。
“無職”であるにも関わらずそれを顕現して見せたユリウスの姿に、ミコトは驚愕を覚えるよりも絶対たる理に順じていない事実に不気味さを感じた。それを覚えた感情の中には自分には持ち得ない資質、能力を多数体得しているユリウスへの嫉妬という淡い人間的な情も多分に孕んではいたが、世の道理と意味を知る者があの現実を目の当たりにしたならば往々に抱く念でもあった。
“アリアハンの勇者”という輝かしい装丁の内側から垣間見える、凡そ常軌から逸脱した闇に塗れた何か・・
 その一端に近付いたミコトは、これまで同行してきた一年近い旅路の中で感じ、徐々に心の中で蓄積されていた数々の不審が強い不信感に変わり始めているのを実感していた。ソニアを攫ったのが元アリアハン王太子だということで、少なからず心当たりがある筈のユリウスがその件について一切口を閉ざしていることも、その念を一層強固にさせる。
 ただ同時に、義を重んじる性分であるが故に、仲間に対して抱いてはならない想いだと戒める自分も確かに存在していた。
 そんな二律背反の狭間で揺れるミコトは、複雑な感情が篭った眼差しをユリウスの背に向けずにはいられなかった。



「ユリウス殿」
 ミコトが一人懊悩する中。これまで彼女の後ろに黙々と追従していたサクヤが自ら一歩前に進み出た。
 真っ直ぐに伸びる艶やかな烏珠の髪の隙間から覗く濃緑の眼差しは、無風の湖畔の如き静謐を保ったままユリウスを捉えている。
 耳の奥に深々と染み込む声色と、肌に突き刺さるような気迫。サクヤが発している凛然とした静かなる威圧感に、ミコトは表面上は平静を保ちながらも、内心で冷や汗を掻いて僅かに一歩後退していた。ミコトの経験則から、こんな様子のサクヤは道理に反した言動に対して苦言を呈さんとする前兆なのだ。
「ソニア殿が攫われて気が急くのは解りますが、美命さまが仰られたように、既に敵地に潜入を果たした状況下では個人の独断が全体の危機を招くことも充分に想定できます。ですのでより一層の慎重さを心掛け、周囲との意志の疎通より緊密にして身勝手な単独行動は慎むべきです。小隊行動の規律をアリアハンでは学ばなかったのですか?」
 これまでのやり取りを静観していた為か、ミコトの予想通りサクヤは落ち着いた様相で的確な直言を矢継ぎ早に放っていた。
 普段のように無視するのかと思われたが、意外にもユリウスはあっさりと足を止める。
「あんたの言うことはもっともだが、生憎と俺は単独で敵を殲滅する術しか知らない。あんた等がどういう曲解をしているのかは知らないが、周りに誰かがいる状況など最初から想定の外の話だ」
「貴方が望む望まざるにしろ“アリアハンの勇者”であることに変わりはありません。“勇者”とは人々に勇気を与え、人の意志を束ねることで魔王に対する光を導く……言わば太陽の輝きです。失礼ながら、貴方には些かその自覚が足りないと思います」
 流れるように継がれた言の葉に迷いは無く、それは紡いだ者の懐裡で既に確りと根を張った答を持つが故である。つまり、サクヤの認識の中では“勇者”とはそういう存在――嘗て故郷ジパングの危機を救った、勇者オルテガのことを指しているのだ。
 ミコトとしても幼い頃から散々聞かされた英雄オルテガの伝説が“勇者”の基準になっていたのだが、それに尽く反しているかのような在り方のユリウスに対して、かの偉人と直に面識のあるサクヤは実に容赦無かった。
「勇者の自覚、か。成程、確かに“勇者”という存在をそういった考えの下に捉え、それを強要してくる者がいるのは事実。だが、人の意志を束ねるだと? 笑わせるな。古今東西、世界の普く意志が統一されたなどという事例は無い。そんなことが叶うなら、とうの昔に世界から争いは消えている筈だからな」
「そのような子供の極論について言っているのではありません」
「同じ事だ。世間の吐く“勇者”にまつわるお為ごかしなど、所詮は安全な場所から喚いているだけの愚にも着かない妄言だ。野に立たない分、惰弱な野犬の遠吠えにも劣る蒙昧な戯言に過ぎない。そんなもの、子供の虚妄とどう違うと言うんだ?」
 小さく肩を竦めたユリウスは、感情の載らない眼差しでサクヤを、その背後に佇むミコト、イズモを順に一瞥する。
 人種の違いの為かユリウスの目には三人、特に女性同士であるサクヤとミコトは近親のようにも見える程に似通った顔立ちに映っていて、須らくサクヤの言に同意する内心を面に載せているようだった。それぞれが古くからの縁者であり、余人の立ち入る隙間無き信頼で結ばれた間柄が弛み無き連帯感を生じさせ、その念に環をかけて強固にしているのだろう。
 およそ理想的な主従関係を確立している様子から、サクヤの語った勇者像こそが紛れも無く三者に共通する認識であるのだと物語っていた。
 そんな往々の意思を垣間見て、半ばほど瞼を伏せたユリウスは口元を歪ませる。
「バハラタでも見ただろう? どんな綺麗事を並べようが、世間が“アリアハンの勇者”に求めているのは魔物の殲滅という即物的な結果のみであり、その在り方などではない。これを極論と言わずして何と言うつもりだ?」
“剣魔将”ソードイドの襲撃直後。魔族に敗北を喫したユリウスは、フィレスティナに追従してきたイシス本国の高級役人達やラー教団の高司祭達をはじめとして、バハラタ領主や領事館勤めの役人、兵士。果ては丁度その場に居合わせただけの民間人や騒ぎを嗅ぎ付けて集ってきた野次馬達に無慈悲な糾弾の槍玉に挙げられることになった。
 その場には、同じく剣魔将に敗れ去った“剣姫”アズサや女王親衛隊の者達。“勇者の供”であるミコト、彼女の個人的な従者であるイズモやサクヤがいたにも関わらず、厭くまでも悪意の矛先が狙いを定めたのは、“アリアハンの勇者”であるユリウスただ一人だけだった。
 フィレスティナが宥めても、それは寧ろ心優しい女王の慈悲、という形で受け止められ、かえって人々の憤りを煽るだけの逆効果しか示せず。人々の憤慨は、“魔姫”が場を鎮静するまで収まることは無かった。
 もっともユリウス自身、感情に任せた他者からの避難など全く気にしてもいなかったが。
「そんな言い方はするな。いや、確かにバハラタのことは私も……」
 あの場にいたミコトは、決して負けられない立場に立つと言うことがどういうことなのかを、初めて本当の意味で理解することとなった。
 勝てば惜しみない賛辞、喝采を浴び、負ければ止まることの無い罵声、怒号を投げつけられる。その過程で受けた痛みなど一切斟酌されること無く、ただただ輝かしい結果のみを求められ続ける……なんとも報われない話ではあったが、それは紛れも無く現在の人間世界における情理そのものである。
 そんな現実を思い出し、自然と苦々しい表情になるミコトからは、納得していないという彼女の心情が如実に表れていた。
 だが。
「何を傍観者面をしている? 同情か? それとも憐れみか? ……だとしたらお前はもう少し己の立場を理解するべきだな」
「……どういう意味だ?」
 驚くほど冷めた声韻に、何を言われたのかわからないミコトは顔を上げて眉を寄せる。
 すると感情どころか精神活動一切が凍り付いたかのような、全く色を載せていないユリウスの双眸と眼が合った。
「“勇者”の名に寄って来た時点で、お前も奴らと同類だ。何を目的として近付いてきたかは知らないが、人を利用しようとしている思惑が透けて見える。そんな自覚が無いまま他人事のように憐憫とは……随分と良い身分だな」
「お、お前っ!」
 あまりにも無情な言の葉を投げつけられて、ミコトが気色ばむのは仕方がない。しかし、そう告げられるだけの隙もミコトにあるのは事実だった。
 確かに旅立ちからこれまで、ミコトは一度も同行してきた理由を話していない。その為、世界を滅ぼさんとする魔物に対しての義憤から同行しているのだと思われても、ミコトには否定できないだろう。
 それは紛れも無く本心の一つではあるが、ミコトも人間なのだから当然叶えたい願いがあり、果たさねばならない目的がある。それを現実のものとする為には、どんな事でもやり遂げてみせるという気概に満ちていると言っても良いだろう。その秘めたる想いを貫かんとする、ミコトの真っ直ぐで誠実な精神が、今一つ“アリアハンの勇者”を信用しきれず、こちらの事情を曝け出して拒否されるのを怖れ、何よりも自分の都合に本来関係の無い者を巻き込んでしまうことへの遠慮があった。
 いずれもミコトの閉ざされた内面で生じていた葛藤であり、そうなるに至ったのにも彼女なりの苦悩があるのだが、一度も口外したことのない身の上である以上、他の人間にそれを察しろと求めるのは些か都合が良すぎるというものだろう。
 ミコトの言動の端々に無意識的にそういった傾向がでてしまうのは、言うなれば彼女の精神的な甘さ、未熟さによるところだ。
 しかし、だ。ミコトに省みる点があるにせよ、それを差し引いてもユリウスの発言は非情極まりなかった。
 いかにユリウスに仲間意識が欠落していようとも、ミコトはこれまで共に幾多の戦列に並び立ち、死線を潜り抜けてきた者であるのは紛れも無い事実だ。少なくとも危険とは程遠い、安寧を謳歌しているだけの市井の人間達と同列に語って良いことではない。
 ミコトはこれまでの自分の道程、それに連なる苦悩全てを否定された気がして激昂を抑えることができなかった。
「こっちの、事情もっ、知らないでっ!!」
「早合点するなよ。お前が俺……いや、“アリアハンの勇者”を何に利用しようとして近付いてきたのかなど、どうでもいいことだ。俺の目的を果たすことにおいて、他人の思惑など関係ないからな」
 憤怒の形相で顔を紅潮させたミコトであったが、ユリウスは先んじて手で制する。
「お前の言うとおり、お前の事情は知らないし、知るつもりも無い。そして今更訊ねてもいないお前の目的を語られても、逆に迷惑以外の何者でもない」
 それは議論の余地など微塵も無い、完全なる拒絶である。
 最早いかなる反論も封殺されてしまい、悔しげに下唇を噛み締めながらミコトは拳を打ち震わせた。吐息に紛れて口に出すべきではない本心が零れ出てしまったが、打ち拉がれてしまったミコトの心情を思えば無理からぬことだろう。
 俯いた主君を気遣ってか、サクヤがユリウスの視線を遮るように間に身を滑り込ませる。その双眸には烈々とした鋭利さが宿り、ユリウスを睨み据えていた。
「貴方は、同じ“勇者”を冠する者とはいえ、オルテガ殿とは随分と異なる在り方をしているのですね」
「当然だ。俺はオルテガという人物のことなど何一つ知らない。奴がどういう人格で、どういった志を持っていたかなど、本人の口から語られるならばまだしも、奴を神聖視した上で築き上げた偶像の理念を説かれていただけだからな。そんな妄想、それこそ無邪気な子供の夢想を押し付けられているに等しい」
 だからこそ残酷だが、と口腔で消え入るような声量で呟き、ユリウスは無感動に主従を睥睨する。
「そもそも、だ。“勇者”が人の先頭に立ち、それぞれの意志を束ねる者だと言うのならば、“世界の勇者”であるオルテガが何を成した? サイモンが何を果たした? “勇者”が常に結果を求められる存在である以上、奴らは何もしていない。連中は世界を煽るだけ煽り、その結末を迎えることもせずさっさと死んでいる。意志を束ねるどころか、今のように世界を分断させ疑心暗鬼と怠惰を拡散させたことにこそ大きく貢献していると言えるだろうな」
 饒舌に綴られるそれは、凡そ父を語る子供の言葉ではなかった。
 父のことを知らないのが事実とは言え、子の発言としてはあまりにも常軌を逸している。それを平然と繰る酷烈な眼光に、ミコトは息を呑まずにはいられない。
 だが、実際言葉を交わしているサクヤはまだ冷静だった。
「何を語るかと思えば……浅はかな。彼の先人達が為したことも知らず、ましてや自分の父親の大きさがわからないまま、ただ己の認識のまま闇雲に反発しているだけでは未だ子供の領分は超えられませんよ」
「人の世がそう言うのであれば、別に構わない。自ら立つことをしないまま、不平不満を並べ立てることに何の疑問も抱かず、それが世界の常識だとして盲目的に押し付けるのが正しい大人の在り方なら、そんなものになる必要などない。ならば俺は子供らしく、浅慮に視野狭窄のまま眼前にある一つのことを全うするだけだ」
 言葉尻を掴んで切り返したユリウスにさしものサクヤも片眉を動かしたが、それ以上に表面的な変化はなく落ち着いた佇まいを堅持している。それはサクヤが物事を常に冷静に客観的に見つめることを心掛けているからであり、ミコトとは異なり、跳ねた感情を自らの裡で処理しきれる程に精神的に完成されている為だろう。
 その冷徹さ故に。重ねた経験由来の認識は、ユリウスの骨組みが欠け落ち極端に走った稚拙な論理を見逃す筈もなかった。
「成程。確かに、貴方の言うことは正論です。そこまで人の情理に囚われず物事を冷静に断じることができるのは、貴方が“アリアハンの勇者”という特殊な立場で育ったが故に得られた真実なのでしょう」
 ですが、と一旦息と言葉を呑み込んだサクヤは瞑目し、直ぐに開く。
「そこに感情が通っていないからこそ、中身が感じられません。情の立ち入る事を許さない極論は、ただ空虚な音と文字の羅列でしかない。人間とは感情を持つ生き物です。そんな伽藍堂なさえずりでは、決して人の心には届きませんよ」
 サクヤが発する言葉には抗い難き説得力を孕んでいて、何より、ユリウスに対してのはっきりとした失望が滲んでいた。
 清々しいまで真っ直ぐに否定されたユリウスはパチリと瞬きをして、やがてその口元に笑みを浮かべる。眼差しだけが異様に鋭く耀いていたが、刺々しさは全く無い。敢えて言葉を宛がうならばそれは純粋な喜色だった。
「……そうだな。届かなくていい。届いて欲しいとも思わないし、届いたのだと勝手に思い込まれても、困る」
 そう一方的に告げたユリウスは、何の予兆も無く手にした剣をサクヤとミコトに突きつける。
 今までにないユリウスの表情とその唐突な行動はあまりにも自然に為されていて、彼女らは反応さえできず。二人の後ろで事態の推移を静観していたイズモも、佩いた刀に手を掛けるのがやっとだった。
「下らない議論はここまでにして、これからのことについて忠告しておく」
「な、何?」
「ソニアを見つけたら、即座にアイツを連れてこの遺跡から離脱しろ。長年冒険者をやっていたのなら、『思い出の鈴』や『キメラの翼』は当然持っているだろう?」
 それらの品々は今や冒険者の必需品であり、旅に赴く者の基本的な心得だ。冒険者としての歴が浅いユリウスとは比べ物にならない程の経験を重ねている三人は、言われるまでもなく必要分を常に所持している。
 だが、そんな蓋然をこの場面で改めて指摘されたことに、不吉な予感を覚えたミコトは怪訝を面に載せた。
「お前は、何をするつもりだ?」
「俺のやることなど、いつも一つと決まっている。俺は、ここにいる魔族を殺す。その為の手段の一つとして、この遺跡そのものを崩落させることも考えている。巻き込まれて死にたくなければ、そうしろ」
「……滅茶苦茶だ」
 その意志を聞いて小さく頭を振ったミコトは、いよいよユリウスが正気を失っているのではないかとの疑いを抱いた。
 元々極論を弄するきらいがあるとはいえ、バハラタでの魔族との戦い以降、その傾向は極端に強く、いや異常と言える程に肥大している。その変貌たるや、一年近い同行の中でも見たことがないまでに狂気に囚われていると言っても過言では無いだろう。
「お前、一体どうしたんだ? “剣魔将”と戦ってから、いや、ソニアが攫われたことを言われてから――」
「あぁ、そうだ。奴が、奴がここにいる。奴は、必ず殺さなければならない。その為に、その為に俺はここまで来たんだ。奴を殺すことこそが、俺の……それだけが、俺のっ――」
 その言葉が引き金となったのか。
 不意によろめいたユリウスは左手で顔を覆い、情思に抑揚を弾ませながら迫真に独白する。指の間から覗く眸は大きく見開かれたままヌラリと微かに動擾し、その両肩は笑っているのか小刻みに震えてさえいた。
 ユリウスという人間を少しでも知るならばこの変化だけでも充分に驚嘆に値するのだが、遺跡に入って最初に見たユリウスの相貌が再び浮上して膨大な殺気が漏れ出したことに、かつてない警鐘が自らの裡で掻き鳴らされているのをミコトは覚る。
「お前は、一体?」
「俺の邪魔は、するな」
 無意識で身構えていたミコトを一瞥して、ユリウスは踵を返す。もはや周囲の反応を待つ気がないのか、颯爽と歩みを再開させていた。
 今にも焼き切れてしまいそうな背から発せられた言の葉は、寒々しく回廊に反響して薄闇に溶けていった。








「しかし、この遺跡は一体どういう造りをしているんだ? こうも同じ部屋が続いていると流石に気が滅入ってくる」
「方向感覚や時間感覚を狂わせる魔法的な……いえ、魔法というより人間の生理面に負荷をかけるような、生態学に基いた構造になっていますね。どうやらここを設計した者はよほど性格が歪んでいると言えましょう」
「……お前、相変わらず容赦がないな」
 背後から主従の緊張した声色が、硬質な床や壁に反響して届いてくる。
 敵陣に潜入しているだけあって声は控えめであったが、それは陰鬱な雰囲気に気後れしないようにする為のささやかな抵抗であるのがよくわかる。
 入口でのいざこざ以来、一度も彼女らはユリウスに声を投じていなかったが、警戒という意識の緊張が空気を通してひしひしと伝わってきた。
 そのことに、先頭を歩くユリウスは特に何も思うことはない。敵かそうでないかでしか他者を判断していない為、どう思われていようが今更どうでもよい瑣末事でしかないのだ。
 しかし、後ろから響いてくる二つの声が言っていることは、確かに正鵠を射ていた。
 外側からもこの遺跡が只ならぬ気配を発していると感じていたが、内部に立ち入ったことではっきりとその異常性が認識できる。
 入口を越えて最初の扉を開けた先は、何の変哲の無い小部屋だった。
 特に何かが設置されているわけでもない、ただ先へと続く扉が全ての壁面に備えられただけの閑散とした空間。正確な測量によって設計されたのだと一見してわかるほどに、その小部屋の構成は整然としていて、正面、左右の壁は見分けが全くつかない。仮に部屋の中心に立ってその場で一回りすれば、今自分がどの扉から入ってきたのかさえわからなくなるだろう。
 方位を錯覚させる手の込んだ構造であったが、更に悪辣だったのは、開いた扉が一定時間を越えると自動で閉じる、という細工が施されていた点だ。その機構であれば扉を開けたままにしておくことで方向感覚を維持しようとする試みは封じられ、せいぜい長い縄を用意するか、定期的に小さな石か何かを目印代わりに放るかなどの入念な準備を要する手段でしか現在位置を推測することができなくなる。
 最初に到達した部屋に三つあった何れかの扉を押し開け、続く回廊を進んだ先もまた、全く同じ構造の部屋が続いていた。そこからまた別の扉を潜り、均等な距離の回廊を超えると三度同じような部屋に辿り着く。
 進んでいるのか、いないのか。この閉ざされた空間の中では、その感覚を惑わすだけで進む者の精神力を磨耗させ、体力を少しずつ確実に削いでいく……遺跡を設計した者の悪意が滲み出ているかのような陰湿な構造であった。
 加えて霊穴レイポイント特有の、息苦しいまでに濃密なマナの鼓動だ。視界が歪んでいると錯覚してしまうまでに高密度な不可視流脈の存在は、その扱いに長けている者であればあるほど敏感に感知してしまい、その感覚に多大なる負荷を受けることになる。
 そして更には魔物が徘徊している明らかな形跡と、決して襲っては来ないがこちらを窺っているような気配。
 神経が急速に磨り減っていくミコト達が冷静を保つ為に、声に出して気を紛らわせようとするのも仕方のないことだった。
(結果としては、上々といったところか)
 周囲に注意を払いつつ、背後の三人にそれ以上のものを投じながらユリウスは内心で一人ごちる。
 後ろに並んでついてくるミコト達が、いつでも戦闘行動に移れるよう気構えているのは自明であったが、その警戒の対象にこちらも含まれているのが手に取るようにわかったからだ。
(誘導したのだからそうなって貰わねば徒労に終わったが)
 どうやらこちらの目論見通りか、と小さく溜息を吐く。
 ユリウスとしては、今更ミコトが自らの目的を明かそうが明かすまいが、その姿勢に感じるものなど特に無かった。旅の目的を明かしていないのはお互い様で、彼女には彼女の都合があり、自分は自分の理由で動いている。結局のところお互い様なのだと理解しているからだ。
 しかし同時に、こんな敵陣で指摘することでもないのも事実だった。ミコトの眩しすぎるまでに真っ直ぐな性格ならば、正面から彼女の信義を否定してやれば、その負けん気から衝突は避けられないのは火を見るより明らかなのだから。
 にもかかわらず、ユリウスが敢えて言葉に出してミコトを揺さ振り、従者共々こちらとの間に奔っている亀裂を明瞭にさせたのは、全てこれから行うことへの下準備の為。魔族となったアトラハシスとの戦いに、余計な横槍を入れられるという懸念を払拭する為に投じた布石だ。
 その甲斐あって、剥き出しの警戒心とここまでの不信を引き出すことができた。一方的な義による助力など迷惑以外の何者でもないので、この結果こそが現時点における最良であるとユリウスは確信する。
 後はせいぜい彼女らが、目下最大の障害となるだろうソニアを発見次第、この遺跡から離脱することを期待するばかりだった。
(そうだ。アトラを殺すのにソニアは……邪魔だ)
 それは既にユリウスの中では確定した事実である。
 彼女らの間に流れていた嘗ての時間を知っているだけに、どうあっても予定調和な結末にしかならない。だからこそ魔族、魔物に対して並々ならぬ敵愾心を持つミコトを扇動し、ソニアを遠ざける為の手を打たんと思い至ったのだ。
(しかし、ソニアがアトラに着いて行った以上、情報が奴から漏れているのは間違いない。奴がソニアの願いを無碍にする筈が無いからな)
 話を聞く限り、アトラハシスは昔からソニアには甘かったらしい。それがセフィーナの子供染みた無聊や嫉妬を買い、彼女の憂さ晴らしに愚痴と共に魔法を投じられた我が身を思い起こせば、実に迷惑極まりない。そして、その積み重ねが自分の魔法抵抗力を著しく高めるのに一役買った現実を考えれば、この上なく遣る瀬ない。
 だがそれでも。あの時間こそが、もしかすると自分の知らない平穏というものに相当するのかもしれない……知らず、意識がそう考えてしまった。
(っ!)
 それを自認した瞬間。忌々しげに顔を歪めたユリウスは下唇を噛み締め、すぐさま思考を黒く塗り潰す。
(危惧すべきはどの程度話したか、だな。仮に、ソニアに全てを知られてしまった場合は――)
 その可能性を考え、剣呑な眼差しで前方を睨み据えたユリウスは剣を持つ手に力を込める。
 きしりと柄が軋み、刃が打ち震えた。



(……何だ?)
 思惟の海を漂っていたユリウスは、ふと回廊の先を見つめる。
 小部屋と小部屋を繋ぐ薄暗い回廊は、短い距離ながら前後をそれぞれ木の扉で遮られており、狭く息苦しさを覚える閉塞した空間である。
 そんな中、ユリウスは薄闇にぼんやりと映り込んでくる頑強そうな扉の先に、何者かの気配を確かに感じ取ったのだ。
(誘っている、ということか)
 分厚い扉に遮られながらも、どうやら気配の主は自らを隠そうとしていないようだ。寧ろこちらにその存在を知らしめているのか、大胆不敵に足音を打ち鳴らしてさえいた。
「どうした?」
「…………」
 急に立ち止まり前を注視するユリウスに、ギクリとして足を留めたミコトは怪訝を投じてくる。先程の一件もあってその声色は強張っていて、少しの挙動でも身構える程に意識の距離が隔てられていた。
 既にその他の些事に思考を割くのを既に止めていたユリウスは、徐に携えていた剣を強く握り直す。そうして狭い回廊に充満した緊張感で、漸くミコトも扉の向こうに何者かがいるという事態に気が付いたようだ。
 四者の意識が自然と臨戦態勢に移行し、往々の視線が扉にへと集中する。
 錆び付いた物を擦ったかのような、何時までも耳に残る低音が轟き、重厚な木扉がゆっくりと押し開かれた。先の小部屋と回廊とでは明るさが違う為か、扉が開いていく程に流れ込んで来る光は強まり、視界を蝕んでいく。
 やがて、丁度人間一人が通り抜られるまで扉が開いた瞬間――。
(来る!)
 一気に押されて扉が全開となり、圧倒的な光量が通路の先から注ぎ込まれた。途端に視界は白転する。
 開扉と同時に薄っすらとした影が、光に紛れて躍り出た。影は眩く鮮烈な白光の内に自らを隠蔽しながら、こちらの視野が戻る暇を与えんとして凄まじい速度で間合いを詰めて来た。
 だが先頭に立つユリウスも、ただ手を拱いて視界の回復に努める筈もなく。こうなるであろうと予期していたユリウスは、影とほぼ同時に力強く床を蹴っては前に踏み出していて、瞬く間に肉薄する輝く影に向けて問答無用で真一文字に剣を振り抜いた。
 短い風切り音と共に先制したのは、ユリウスの放った宙を薙ぎ払う峻烈な剣撃だった。
 充分に速さが乗った必殺足り得る一撃は、だが下段から打ち上げる斬撃と上段から叩き落す斬撃……ほぼ同時に打ち出された二種にして真逆の攻撃によって阻まれる。いや、それどころか剣ごとユリウスを弾き返していた。
(速、いっ!)
 戛然とした音と共に剣を通して手に伝わってくる二連の衝撃は、同着かと思えるほど僅差の内に繰り出されたものだった。
 限り無く同時に近い連続攻撃を実現し得る剣速と、それを支える尋常ならざる俊敏な身のこなしに瞠目したユリウスは、それでも怯むことなく咄嗟の判断で膝を折り、仰け反った身体を無理矢理沈めて重心を低くする。そして深く相手側に踏み込むと、立ち上がる反動を乗せて下段から切り上げた。
 全身の捻転を加算して鋭く閃く反撃の刃。
 虚空を破断せんと袈裟に昇るユリウスの斬撃に、影は何の迷いも無く自らの剣を叩き付ける。
 その衝突はけたたましい剣戟の音を響かせはしたが、刃と刃が離れることは無く。喰らい付いた刃は器用にもユリウスの剣の刀身を滑り、寄り添って斬の軌跡を順道に描いていた。そして唐突に手首を返すことで勢い良く弾き、完全にあらぬ方向へと逸してしまった。
「な……にっ!?」
 順風に終るかと思われた斬撃が、容易にいなされてしまった。その現実にユリウスは思わず声を挙げてしまう。
 今の一撃は、途中の抵抗ごとまとめて叩き切るつもりで行った全力の攻撃だった。それを真正面から力で押し返すならばまだしも、こともあろうか巧みさだけで完璧に捌いたというのだ。
 目の前で起きた事実にはユリウスとて瞠目を禁じえない。終始自然に澱みなく振り抜いた実感があるだけに尚更である。
 未だその姿をはっきりと捉えられない白き影の襲撃者が振るったのは、卓越した技巧で織り成された防御の剣。風にそよぐ柳の如き一切の無駄を省いた最小の動作と、刃と刃の衝撃で互いの力を全く衰えさせない絶妙な力加減。そして、ユリウスにして凄まじいと思わせる高速移動の最中でも揺らがない精密な体感覚……守りに長けた細剣特有の軽快で繊細な、ユリウスでさえ思わず見惚れてしまう程の優麗な剣捌きだった。
 見事なまでの受け流しに一瞬だけ気を取られたユリウスに向かって、今度は左右同時の切り払いが飛来する。
 刹那反応が遅れたユリウスは、考えるよりも先に反射によって右腕を振り上げることで弾き、追随する二撃目を無意識に左手で抜き去らんとしたもう一本の剣の鍔で辛うじて受け止めた。
 目にも止まらぬ高速の連続攻撃に対して、ユリウスは身体に染み付いた闘争本能を以ってして拮抗せしめていた。
「っ!?」
 逆に今のを阻まれるとは思わなかったのか、あるいは別の何かに気を取られたのか。影は確実にその身を硬直させる。そのことにより、初めてユリウスは攻撃を仕掛けてきた襲撃者と正面から向き合うこととなった。
 漸く光に眼が慣れてきて、それぞれ相手の姿が明瞭になる。
「……あら?」
「あんたは」
 逆光の中で一層眩く映える純白の髪がはらりと靡き、その下で鮮やかな暁色の双眸が柔らかな光を帯びる。
「ユリウスじゃない。随分と熱烈な歓迎だと思ったけど、あなただったのね」
 息を吐かせぬ暇の間に幾度もユリウスと切り結んだ白い影は、以前より何度か見えたことのある女賢者、ルティアであった。
 ルティアは剣を向けた相手が判明して戦闘意志が失せた為か、静かに細剣を退けてフワリと微笑みを浮かべている。それは鬱屈した回廊で、一瞬前には刃を交差させていた場にあって実に場違いな表情だった。
「魔物だったら取り敢えず斃してしまおうかと思って仕掛けたのだけど……いえ、いきなり攻撃してごめんなさい」
「別に。それはお互い様だろう」
 申し訳無さそうに頭を下げるルティアに、ユリウスは感情を全く動かさずに淡々と返していた。
 幼少より堅強に築かれた行動原理の下、こと戦いにおいてユリウスは敵対者に容赦はしない。その為、攻撃を仕掛けてきたルティアに対して全力を以って抗したのはユリウスも同じだったからである。
 しかしそれにしても、気が付けば互いの顔が視界を占める程に接近していたこの状況。相手の方がより一歩深くこちらの間合いを侵犯している事実に加えて、速さと巧さで圧倒してきた剣技が奇妙な縁のある人物によって繰られたという現実。
 眼前の女性の実力を見誤っていたことも加えて、さしものユリウスもこんな結末に落ち着くなど想像もできなかった。
「こんなところで何をしている?」
「何って、そうね……そこに洞窟があったから知的好奇心に駆られて探検してみた、というのはどうかしら?」
「知るか」
 真剣な表情で綴られたのは、まるでどこぞの誰かが挙げ連ねそうな理由であった。
 だが言った当人の眼にはこちらの反応を窺っている好奇の光が燈っていて、そこからは真剣味がまるで感じらず、冗談であるのが明らかだ。その為、そんなものに付き合う気など無いユリウスは淡々と返すだけだ。
 小さく鼻を鳴らしたユリウスの顔を、一歩顔を近付けて覗き込んだルティアは意味深な笑みを浮かべる。
「改めて考えると、私達って妙な状況での逢瀬が多いと思わない?」
「どういう因果が働いているか、わからないがな」
「もしかしたら私達……運命的な鎖か何かで結ばれているのかも」
「だとするならば、会う度に厄介な状況に叩き落されている身としては、実に迷惑な話だ」
 最初の邂逅は、殆どの住民がアークマージの意志によって操られたアッサラーム。次はイシス戦役の折、敵の本拠地と断定されたピラミッドの最下層より続いた、レイラインの内在宇宙。そして霊穴であり、魔族が拠点としているこの遺跡。意識的な干渉も加味するならば、嘗て訪れた光属エルフの穢れた聖域においても、何らかの接触があったのだと思える記憶が確かに残っている。
 思い返せば思い返す程、この白妙の女とは異常事態の最中での遭遇しかしていない。どれもが妙な状況・・・・と軽口で表するにはあまりにも物騒極まりなく、とてもではないが今のように上目遣いで艶やかな笑みを浮かべながら言えるようなことではなかった。
 意図を図りかねて眉を顰めるユリウスであったが、どうやらその反応に寧ろ満足したのか、ルティアは面映そうに笑みを深めていた。

 ルティアが未だ携えたままだった優美な細剣『隼の剣』を鞘に収め、臨戦態勢が解かれたことで漸く周囲の凍り付いていた時間が動き出す。
「ゆ、ユリウス!? どうしてここにっ?」
 途端、真っ先に悲鳴のような甲高い声を挙げて現れたのは、藍青の髪の純エルフであるミリアだった。思いもよらなかった面貌との再会に、群青の目を見開いて心底驚愕の表情を浮かべている。
 逆にユリウスは淡々とした眼差しを異種族へと放っていた。
「……あんたもか。スルトマグナからダーマに戻ったと聞いていたが、今度はこんな山奥の遺跡か。次から次へと忙しないことだな」
「そ、それは任務だから仕方が……いえ、そんなことよりっ! あ、貴方達……知り合い、なの?」
「そうだが、その言葉はそのまま返そう」
 呆然と大きく見開いたミリアの目線は、ルティアとユリウスの間を交互に行き来していた。
 ルティアとの経緯を説明するには、アッサラームにおける事実から語らなければならない。それが面倒で気が乗らなかったユリウスは、ミリアの視線を億劫そうにルティアの方へと受け流す。
 本来ならば無責任であるそれを、ルティアは一つ苦笑を浮かべて掬い、頷いた。
「私は今、保護とかいう名目でガルナに置いてもらっているの。こちら・・・に寄る辺が無いとはいえ、何もせずに滞在するというのはとても肩身が狭くて気が滅入ってしまうからね。だからこうして地道な下働きに精を出しているの」
「……どの口がほざくのよ」
 小さく肩を竦めておどけたルティアを横目に、ミリアは苦渋を浮かべて忌々しそうに呟く。ガルナにて自室を荒らされた当人が耳にしたのは、何の気兼ねなく悠々自適に過ごしている彼女の様子だったからだ。
 自然と刺々しい視線を投げつけていたミリアであったが、ルティアは気付く素振りは見せずにユリウスとの会話に興じていた。
「〈天空の塔〉ガルナ……ということは“魔呪大帝スペルエンペラー”絡みか?」
「ええ。今回、この遺跡に来たのもその一環よ。まあ真面目な話、グリムニルにはアッサラームの件で助けられているから、借りは返しておかないと何だか気持ちが悪いじゃない。後々それを逆手に脅される可能性を考えたら、恐ろしくて夜も眠れないわ」
 朗らかな調子を崩さず、ただ純粋にユリウスとの会話に花を咲かせているルティアの姿からは、全世界にその名を轟かせる超越者に対しての畏敬が微塵も感じられなかった。
“賢者”の身であればこそ、各々が所有する“賢者”を“賢者”たらしめている『悟りの書』を統御できる統制者“魔呪大帝”は決して無視できない存在であり、崇拝にも近い敬念を抱くことこそが寧ろ普遍であるのだ。それは彼の大賢者と共に十三賢人として列せられる者達であっても例外ではない。
 しかし眼前でたおやかに微笑む白妙の女賢者は、その枠組みから外れているようだった。
 偉人への畏敬代わりに、滾々と眼前に向けて放たれていたルティアの晴れやかな情念の波。残念なことにそれは殆ど一方通行でユリウスに届くことは無かった。だが何気なく綴られた中からその単語・・・・を耳にして、ユリウスは反応を示す。
「アッサラーム、か。ピラミッドの時は聞きそびれたが、結局……あの後に何があった? 何故俺は生きている?」
 あの敗北の夜から既に数ヶ月の時が経っているが、何の抵抗もできぬままアークマージに敗北した事実は、今でも鮮明に思い出せる程にユリウスの深層に癒えない傷跡を刻み込んでいた。
 それと同時に頭の片隅に棲みつき、常に離れず精神を苛み続けてきた疑問。それに答えられるであろう存在が今、目の前にいる。
 言葉は自然と詰問調になり、眦は油断無く細められた。
「うーん、盤面をひっくり返すような特筆すべきことは何も無かったわ。単純にあなたが自滅した後、グリムニルがその場に乱入して来るのを察したセリカが逃げ帰っただけだから。あ、でもあの時グリムニルが来なかったら、私達、二人仲良く消し炭どころか消滅していたのは間違い無いわね」
「…………」
 魔法剣ライデインの制御に失敗して自滅したのは確かなのだが、あまりにも飾らない正直過ぎる物言い。そして想像以上に絶体絶命に陥っていたのだという事実。
 あっけらかんとした口調で紡がれた言の葉に、ユリウスは僅かに眉を寄せてしまう。
 それはどこか憮然としているようであり、真正面からその変貌を見つめていたルティアは笑みを深めていた。

 唐突に戦闘に入ったかと思えば、次の瞬間には何故か談話が朗々と繰り広げられている現状。特にその片割れのルティアはユリウスだけを視界に捉えているようであり、当然の如く周囲になど気にも留めていなかった。……もっとも、ユリウスは遺跡に立ち入った当初からの殺伐とした雰囲気を維持したままで、ルティアとの温度差はかなりのものであったが。
 だが、自分の投じた疑問がいつの間にか明後日の方角に追いやられてしまっていたミリアは、目の前で形成されたそこはかとない二人だけの世界に、むくれた表情で小さく舌を打つ。
「……穀潰しが偉そうに」
「穀潰し?」
 低く苛立たしげな韻を耳にしたユリウスが鸚鵡返した途端。ルティアは振り返り、ユリウスだけに向けていた視線の熱を絶対零度にまで落としてミリアにぶつけた。
「五月蝿い。いきなり話に割り込まないで。エルフならエルフらしく、調和を保つ為に場の空気を読んで黙っていなさい。邪魔よ」
「こ、この……クソガキがっ!」
「そうね。平均して軽く千年は生きる長寿のエルフ族から見たら、二十も生きていない私なんて小娘もいいところよね。もう少し労わった方が良かったかしら、お婆さん?」
「誰が! お婆さんですってっ!?」
 会話に水を差されたルティアは極端に下げた声調で口撃を連続して閃かせ、無礼極まりない罵声を浴びせられたミリアは瞬時に顔を怒りで紅潮させて唸り声を挙げていた。
 ただならぬ不穏な気配を漂わせながら剣呑に睨み合った両者の狭間で、ユリウスは深く嘆息を零す。二人がどういう理由で反目し合っているかなど与り知らないので、関わらないことこそが最善だと判断した。
「……揉め事なら他所でやってくれ」
 疲労が滲んだその吐息は、遺跡の仕掛けによって扉が閉ざされる音に掻き消され、誰の耳に届く事も無かった。



 やがて回廊には再び薄闇が落ちる。それと同時に周囲の燭台の焔が我を主張せんと、一斉にその身を揺らめかせ始めた。
 そこに立つ者達はまたも視界が慣れるまでの時を要することとなったのだが、それが気にならないまでに場の推移に呆気に取られたミコトとその従者達は、言葉を紡ぐことができないまま立ち尽くし、ユリウスとルティアのやり取りを面白く無さそうに横目で捉えるミリアは、苛立たしげに両腕を組んでいた。
 そんな中に響く、穏やかな口調のルティアの声。
「そういえば、ユリウスはこんな辛気臭い所に何か用なの?」
「ああ。仲間がここに巣食っている魔族に捕われているんだ」
 話し込んでいた今となっては今更ながらの問い掛けであったが、ユリウスが口を開くよりも先に我を取り戻したミコトが答えていた。
 ミコトはルティアと初対面であり、面識あるミリアを同伴していようが不審な人物であることに変わりは無い。ユリウスと知り合いなのは二人の会話の端々から察することはできたが、その内容がアッサラームでの異変の中心にいたという言質であり、決して無視できることではなかった。
 その為、警戒は自然と最大限まで高められ、意識を硬質なものにしていたミコトであったが、そこに恐ろしく冷たい視線が易々と突き刺さってきた。
「私はユリウスに聞いているの。貴女の予定なんてどうでもいいわ」
「なっ!?」
 ユリウスに向けられている柔和な表情とは打って変わった、凍て付いた眼光。
 凡そ常識的に初対面の人間に対して向けるべくも無い明確な拒絶の色に、ミコトは愕然と目を見開く。
 逆に、ここで初めてこの場にユリウス以外の人間も居たのだと気が付いたルティアは、周囲の景色を眺望するが如くユリウスの背後に佇む三人を順に見やる。そして最後に唖然としたミコトにつまらなそうに目線を戻すと、怪訝に眉を顰めた。
「ヒュギエイア? ……いえ、気配が違うわね。でも」
「なに?」
「!」
 聞き慣れぬ単語を紡がれても何のことかわからず、きょとんとした声を挙げるミコトに反して、サクヤとイズモは表情を動かし息を呑み込んでいた。
 そんなあからさまな反応を浮かべた二人を視界の端で捉え、ルティアは口元を歪ませ仄暗く嗤う。
「ふぅん。雰囲気が似ているからまさかと思ったけど、どうやら思い過ごしでは無いみたいね」
 何らかの確信を得ている言葉。それを耳にした途端、イズモが刀を抜き払い、サクヤが錫杖をルティアに突きつけた。
「貴様、何者だっ!」
「どうしてその名を……八岐大蛇の真名を知っているのですか!?」
「イズモ? サクヤ?」
 ミコトですらこれまで見たことがない、完全に余裕を無くなってしまった従者達の表情。見ず知らずの人間に対していきなり武器を突きつけるような真似などしないとわかっているだけに、二人の行動にミコトは瞠目するばかりだ。
 ヤマタノオロチの真の名、という事柄について初めて耳にしたミコトは困惑を強めるが、その解は、原因であるルティアから齎された。
「ヤマタノオロチ、ねぇ……しばらく彼方で存在を感知しないと思ったら、あの女はこちら・・・でそんな土着神の真似事をしていたのね。それもまさか、バラモスの配下で“龍魔将”に収まっていたなんて」
「お前……大蛇のことを知っているのか!?」
 まさかこんな所で、姉を苦しめている元凶の名が挙げ連ねられるとは思っていなかったのだから、ミコトの自制は一瞬で奪われる。
 自然と険しい口調で問い質すミコトであったが、ルティアは激昂する彼女のことなど気にも留めずに、両腕を組んでただ己の思考に埋没していた。
「十中八九、“龍皇キングヒドラ”の指示なんでしょうけど……ならばその目的は“金光皇竜ドラゴンキング”の容態の観察、というところよね。そうでなければバラモスに協力なんてする筈が無いし」
 魔王をまるで知己のように呼び捨てにしたことに周囲は息を呑んでいたが、ルティアは気にせずに思惟を深める。
「とは言え、気配の希薄さは気になるわね。現在の希薄なマナの分布では、完全成体である竜は地上に堕ちた太陽と同じだから存在できないのに……“竜の聖域”と同種の結界でも張り巡らせているのか? いえ、それが可能な場は“魔呪大帝”と“聖芒天使アースゴッデス”に占領されているし、“閉ざされし地レイアムランド”も六色竜に編まれた揺籃の中。どういうこと?」
「おい、聞いているのかっ! お前はさっきから何を言っているんだっ!?」
 この世界ならざる知識の一端で自らに問い掛けては、無感情の暁色は虚空を睨み据えるも、丁度その時。詰め寄ってきた黒髪の少女の全容を再度眺めたことで、ルティアの疑問は解消された。
「ああ、竜種の末裔の血を色濃く継いでいるのね。その血族ならばあの女も裡に潜むことは可能だし……世界の進化の系譜を鑑みれば、当然と言えば当然の帰結か」
 肩透かしを食らった気分なのか、ルティアは詰まらなさそうに鼻を鳴らしていた。
「しかしそれにしても……ふ、ふふふ。あの高慢な女が、陰険なバラモスの下で汗水垂らして涙ぐましく働いているなんて。これほど滑稽な座興は無いわね。是非とも笑いに行ってあげなくちゃ」
 ルティアは笑声が零れるのを抑えようと口元に手を当てるが、直ぐに堪え切れず小さく肩を揺らし始めた。浅く断続的な吐息には、底冷えする哄笑が混じっていることから、心の底から“龍魔将”という世界の脅威の一端を嘲っているのだろう。
 詰問しても全く相手にされていないミコトは憤り、一人楽しげに嗤っているルティアの外套に思わず掴みかかった。
「“龍魔将”のことについて、何か知っているのか? 知っているなら――」
 突然身体に走った衝撃に目を瞠り表情を潜めたルティアは、ゆっくりと視線を動かす。すると次の瞬間には、自らに触れているミコトの手をまるで汚物でも見るように一瞥して払い除ける。
「……私に、触るな」
「うっ!?」
 静かな光を燈した暁色の眼差しは、だが烈日の如き激情に染まっていて、殺気が止め処なく発せられている。
 剣こそ抜かれてはいなかったが、その研ぎ澄まされた氣魄は、ただそれだけで相手の心を切り裂くことができるのではないかと思える程、鋭利なものだった。
 そんな凄絶な殺気が警戒に固めていた心身を酷く刺激してしまい、ミコトは反射的に床を蹴って距離を開けてしまう。その退避は、寧ろミコトが幾多の死線を潜り抜けてきたが故の本能による防衛行動であり、自らが意図しないままにそれを敢行したということは、それだけ無意識で今のルティアに危険を感じたと言うことだ。
 大粒の汗が滲み出てきて頬をねっとりと垂れていたが、それを拭う余裕はない。自らの裡を流れる血液のけたたましい鼓動が、耳の奥で厭に大きく鳴り響く。
 主君を護るようにサクヤとイズモが前に出だし、各々武器を翳して牽制する後ろで、ミコトはルティアを捉えたまま肩を小さく上下させて空気を貪っていた。
「随分とあの蛇女のことにご執心のようだけど、誰か知っている人間が寄生でもされたのかしら?」
「蛇女? 寄生? 一体、何の――」
 半眼でそんな三者を真正面から見据えたルティアは、不敵な笑みを浮かべて滔々と連ねる。
「だとしたら諦めることね。環境に適応しようと進化し、結果として衰退した人間種に、現存する竜種の魂魄憑依に抗う術なんて無い。双方に同意があれば話は別だけど、あの女の竜としてのプライドの高さと執念深さは特に度が過ぎているからね。既に内側から喰らい尽くされているでしょう」
「い、いい加減なことを言うな! それではまるで、姉上がっ……」
 全く以って信用なら無いが、それでも仮にルティアの言うことが確かならば、既に姉のミサナギはヤマタノオロチに存在を乗っ取られていることになる。“戒魔の神氣”を操る強く気高い姉が、魔の者に屈するなど到底信じられないミコトは盛んに否を唱えるが、年々衰弱していた姉の姿が脳裡に浮んできて、その自信を大きく揺らがせてしまう。
 動揺して見る間に顔色を亡失させたミコトをサクヤが支え、イズモは今にも斬りかからん形相でルティアを睨み据えていた。
 一転して一触即発の修羅場と化した回廊には、緊迫感がひしひしと増す。
「揉め事なら他所でやれと言った筈だ」
 これまで沈黙に徹していたユリウスは、億劫そうに横からルティアの肩を掴んでいた。
 今までのやり取りを見ていたならば避けただろう行動ではあったが、勿論そんなことを気にするユリウスではない。
 だが話を中断させられたルティアも、今度は激昂しなかった。肩を引かれて振り向いた彼女の関心は既にミコト達から離れ、一心にユリウスに向けられていたからだ。
「ユリウスは……封印を解いてしまったのね」
「状況的にそうだと思ってはいたが、やはり、あんたの仕業だったのか」
 言いながら頬に触れようとしてきたルティアの手を弾き、ユリウスは浅く嘆息する。
 魔法が使えない日々において不便を覚えたのは紛れも無い事実だったが、その分、闘氣を中心に据えた鍛錬に没頭することができていた。魔法が敵を殺す為の手段の一つでしかないユリウスにとって、封じられたことについての真相など、その程度のことでしかなかった。
「ええ。あなたがレイラインに落ちた時に、ね。迷惑を掛けてしまったのなら、ごめんなさい」
「何の為に?」
「そうね。虫除け、といったところかしらね」
「……再び魔法が使えるようになった以上、最早どうでもいいことだ。仮にそうする理由があんたにはあったとしてもな」
 深々と頭を垂れた殊勝な姿は、直前までミコト達に向けていたてらった傲然な様との落差が激しく、それを目の当たりにした周囲は唖然としていたが、情感に疎いユリウスにそれを察するだけの機微は無い。
 その為、抑揚に起伏など起きる筈もなく。ただ淡々と事実を連ねるだけだった。
「ふふ、淡白なのね。てっきりその理由を尋ねられるものだと思っていたのだけど」
「答える気の無い者に尋問したところで時間の無駄だ。今はそんなことよりも優先すべきことがある」
「そんなこと、か……ふぅん、何だか妬けるわね。その優先すべきこと、とやらに」
「あんたには関係無い」
 指先を口元に当て、薄く目を細めたルティアはユリウスを流し見るも、既に軽口に付き合う気が無かったのか、ユリウスは無感動に振り払う。
 ルティアと剣を交え、言葉を交わしたことで何時しか乱されていた調子も元に戻ってきたのか、代わりにユリウスからは先を急いているような気配が切々と発せられていた。
 徐々に乾いていくユリウスの声色からそれを感じ取ったルティアは、ふっ、と口元を綻ばせる。
「あなたがこの遺跡で何をするにせよ、急いだ方が良いわよ」
「どういう意味だ?」
 そう返されるのを予期していたのか、既にルティアは外套の下の道具袋から一つの宝石を取り出していて、静かに掌を差し出してきた。
 その上に転がる透き通った幾つかの小石。燭台からの光を浴びて宝石の如き艶やかな煌きを見て、ユリウスは息を呑み込む。
 ルティアがユリウスに呈したのは、この遺跡の入口付近で発見して破壊した、アトラハシスが造ったと思しき魔晶石クリスタルだった。
 一見すれば高価に、だがその実は厄介極まりない性質の石を摘んでは、ルティアは徐に燭台の光に翳して透かし見る。
「遺跡のあちこちに転がっていたけど……あら、どうやらイオナズンを二重で載せているわね。しかも周到なことに、遺跡の中に入り乱れているレイラインに接続さえしている」
 細められた眼差しは、ただそれだけで石の構成を暴いているのか、暁の双眸はぼんやりと色調を深めていた。
 妙に確信染みた口調でルティアは連ねていたが、一旦言葉を切り、石を床に落として唐突に踏み砕く。
「マホトーンで外部の霊素エーテルから隔絶させてしまえばただの石ころだから、どのみち目くじらを立てるようなものでもないけど。ただ、レイラインが行き交っているこの遺跡に、こんなものをばら撒いているという点は問題視すべきね。もしかしたらここにいる“魔王ルドラの使徒”の連中は、この遺跡を木っ端微塵に破壊するつもりかもしれないわよ」
「待て。それでは――」
「こちらとしては手間が省けるから放置したいところだけど、任務上そういう訳にもいかないのよね。あなたも用があるなら、早く済ませて撤退することをお勧めするわ」
 彼女が何を言わんとしているのか気が付いたユリウスが止めにかかるも、ルティアはそれを聞かず。
 殆ど一方的に告げた後。またね、と何か言いたそうにしているユリウスの肩に軽く手を添えてから、ルティアは軽やかな足取りで彼らが進んできた扉に向かって歩み去っていった。








 予期せぬユリウス達との邂逅を経たルティアとミリアは、再び二人だけの迷宮行に戻る。
 遺跡に立ち入ってからそれなりに時間が経過していたのだが、その感覚が鈍くなっているのは紛れもなく、この悪意に満ち満ちた構造の所為だろう。
「……ねぇ、穀潰し」
「…………」
 コツコツと石床を蹴る音だけが響く薄暗い回廊と小部屋。
 神妙な顔をしてミリアは前を歩くルティアに呼びかけるが、彼女は依然として無視したまま速度を緩める気配はない。
 ガルナを発って終始こんな調子であったのだが、ユリウス達と会ってからというもの、ミリアには前を進むルティアの歩調がどこか軽快になったように見えていた。
 そんな彼女に、そしてそう感じてしまった自らの感慨に苛立たしくなり、思わずミリアは声を張り上げる。
「ねえ! 聞いているのっ!?」
「……何?」
 深々と溜息を吐き、足を止めて頭だけ半ば振り返ったルティアの双眸には、鬱陶しいという意思が乗せられていた。
 師の前で引き会わされた時から変わらずの、無関心を全面に押し出した態度。不敵で不遜で、剣呑でさえあるそれに加えて、先程のルティアがミコト達に発したおどろおどろしい殺気を思い出し、ミリアは小さく肩を震わせる。
 しかしそれで怯んでいる訳にもいかず、ミリアは眉を顰めて白妙の外套を睨み付けた。
「さっきの……あれで良かったの?」
「さっき?」
「……ユリウス達よ。貴女が散々引っ掻き回した所為で、彼ら困惑していたじゃない」
「そうねぇ。あれでユリウスが私のことを意識に留めるようになったのなら、こちらとしても願ったり叶ったりね。良くも悪くも、無関心とは真逆だもの」
 検討違いのことを嬉しそうな韻で言い連ねるルティアに、ミリアの眉間に刻まれた皺は一段と深くなる。
「だ、誰がそんなことを聞いたのよっ! ……そうじゃなくて、誰構わず喧嘩を吹っかけていたでしょう!」
「人聞きの悪いことを吹聴しないで欲しいわね。でも、相手がそう言う風に感じたのならば、それはそれで仕方がないわ。喧嘩を売られたと感じるのは結局、相手の感傷によるものだし、私には関係ないもの」
「あ、貴女ねぇ!」
 あまりにも自分本位で他を顧みないルティアの様相に、ミリアは頬を引き攣らせた。自らは妖精種で人間とは異なる存在だが、それでも人の世の道理というものは、ここ十数年で察しているつもりである。
 そのミリアにして、ルティアの言動から滲み出る心奥はそこから逸脱しているように感じられたのだ。
 怪訝さを増して鋭く見上げるミリアの受けながら、だがそれを気にしたでもなく、ルティアは徐に天井を見上げた。
「今のユリウスには、きっと何を言っても届かないわ。この遺跡ですべきことに意識を囚われているようだったからね。周りの音が一切聞こえなくなる程、それがユリウスにとって心に秘めた大切なことなら、邪魔なんて無粋な真似はしたくない」
「ど、どうしてそんなことがわかるの?」
「さあ。どうしてかしらね」
 彼女の言い分はユリウスについてのみであり、彼の周りに居たミコト達のことなど本当にどうでも良いのだろう。
 そう思える程に、ユリウスだけを特別視しているかのようなルティアの態度が、ミリアには気に入らなかった。
「そもそも貴女……どこでユリウスと知り合ったのよ? ジュダが助けた? そ、そういえば、アッサラームって!!」
「私と彼の関係がどうであれ、貴女には無縁よ」
 説明する義理は無い、という冷徹な意思表示であったが、ミリアはこのまま引き下がる訳にはいかなかった。
「そ……その、き、きき」
「何?」
「き……気になっている、の?」
「……は?」
 言われたことを脳内で反芻したルティアは怪訝そうに眉を顰めながら踵を返す。
 そこには、臙脂の外套の上から両手で杖を掻き抱いている異種族の少女が。俯いている為に前髪で表情が隠れていたが、高らかと自己を主張する耳を朱に染めたミリアの姿があった。
 顔を上げて一瞬だけルティアと視線が合ってしまったミリアは、即座に脇に逸らして唇を尖らせる。
「貴女、ユリウスのことなら何でも知っている、って顔をしている。その……気に、しているからなの?」
 視線が落ち着きなくあちこちを彷徨い、震え、所々が裏返っている、呆気なく周囲の静寂に溶け消えてしまいそうな弱々しい韻律。
 それを耳にしたルティアは、ここで初めて真正面からミリアと正対し、深々と溜息を吐いた。
「……貴女、エルフなのに随分と人間臭いことを言うのね」
「う、うるさいわよ!」
 ミリアも薄々自覚していることだったが、それを狙い違わず指摘されたのだ。瞬時に頬を紅潮させて叫んでしまう。
 そこに迫力は皆無であったが、恥じらいは寧ろ過分だった。
 身長差から見下ろす形になっていたルティアは、腰を屈め、ミリアの目線に合わせて薄っすらと唇を歪ませる。
「だったら、どうする?」
「っ! そ、それって、そのっ……」
 妙に艶やかに、挑発的に紡がれた声韻にミリアは表情を強張らせていた。
 見る間に動揺を浮かべた彼女を見止めて、小さく肩を竦めたルティアは踵を返して歩みを再開させる。
 数歩進んだところでピタリと足を止め、俯いて自らの掌を茫洋と見下ろした。
「……そんな簡単な言葉や感情で言い表せるなら、どれだけ楽なことか」
 纏う白き外套が周囲の光を反して悄然と揺れ動いていた。外界に在りし数多の色彩に簡単に染められてしまうそれは、触れるとあっさり消えてしまう細雪の儚さを感じずにはいられない。
 どこか諦念を滲ませた声色に、我を取り戻したミリアがその背を見つめた。
「どういう、意味?」
「……どうやら目当ての場所に着いたみたいね」
 戸惑うミリアには答えず、一変させた硬質な声で話の流れを断ったルティアは、腰に下げた鞘から『隼の剣』を軽やかに抜き払う。
 玲瓏を掻き鳴らした時のような小気味良い音が回廊に反響するのを耳にしながら、薄っすらと闇掛かった回廊の先にその姿を現した、金属製の扉を見止めた。
 これまでは須らく木の扉であったにも関わらず、ここに来て新たな異質の登場に、漸く目的の場所に着いたのだとルティアは確信していた。
「何……あれ? 前に連れて来られた時は、あそこにあんな扉なんて無かったわ!」
「あの先から何かの薬品とか濁ったマナの匂いとかが零れ出ている。……何よりも血の匂いが濃いけれど、はてさて一体何が出て来るのやら」
 先にあるものを想起して、昏く嗤ったルティアは抜き身の剣を片手に暢達に扉にへと近付いた。
「まあこんなにも死臭を垂れ流しているのだから、碌でもないものは確かよね」




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