――――第六章
      第十三話 螺旋の逢着







 バハラタ北の台地に密やかに佇む山岳遺跡は、地元の人間達でも知る者が殆どいないのが実情だ。
 それは幾多の外勢力の思惑によって、河辺の名も無き村落がバハラタという街として開拓されて以来、厳かに編纂を重ねてきた史書にすらその影を残さないからである。
 そして何よりも竜神信仰の根強いこの地方の人間が、中央大陸を縦断する“亢龍の臥床ドラゴンズホール”に連なるこの地の山々には竜が住まい世界の安寧を見守っている、という古くよりの伝承を頑なに信じ、山岳部への立ち入りを不信心の極みであるとして忌諱してきた慣習が、遺跡の存在が永きに亘り明るみにならなかった最たる要因と言えるだろう。
 だが現在のイシス領事館やルビス教団が擁する記録には、この遺跡の存在が明記されている。今より十五年ほど前。当時この地方で起きていた“神隠し”……相次ぐ女子供の失踪事件の舞台であったことと、とある一人の旅人が事件に介入し、解決に一役買ったからである。
 旅人の名は、“アリアハンの勇者”オルテガ=ブラムバルド。
 遠きアリアハンの地より、世界を救わんと単身立ち上がった英雄を、当時の人々は挙って歓迎する。そしてその活躍を信じ、彼ならば、と事件解決を願うのは寧ろ当然の成り行きだった。
 魔物の仕業と誠しやかに噂されていた事件の調査をオルテガは快諾し、見事、解決に導いてみせる。
 結果。その事件は、世に蔓延る斜陽の闇を引き裂く光の到来として“勇者オルテガ”の功績を確かなものにする一つの喧伝材料として使われることとなった。
 しかし、事件の詳細が公表されることはなかった。真相を知るに到った当時の各陣営の首脳達が、意図的に隠蔽することを決めたからである。
 その為、神隠し事件はオルテガが解決した、という表層の結果のみが語り継がれるようになり、その舞台となった遺跡の話など次から次へと押し寄せてくる称賛と喝采の波に掻き消え、人々の記憶に留まることは無かった。
 そうして語られぬ歴史は、闇に葬られる。眩く光輝くその足元に、踏み潰される形で……。




 遺跡の入口前に辿り着いたヒイロは、精緻な彫刻の門扉を感慨深げに眺めた後。踵を返し、どこまでも高く聳える岩壁に目を奪われている“魔姫”ユラ=シャルディンスに声を掛けた。
「ユラさん、恐らくここからが魔族の本拠地になります。内部に入れば魔物との戦闘も予想されますので、万全を期す為にも一度休憩を挟んだ方が良いと思いますが、どうしましょうか?」
 この一団の指揮者は“魔姫”ユラであり、方針の最終的な決定権は彼女にある。小規模な部隊における隊の意思決定は常に一極化しておくのが最良であり、最善の判断を下す為の材料として、詳細な現状の報告と想定できる状況を提案するのが参謀の務めであると、ヒイロは嘗て得た経験を踏まえて綴っていた。
 パチリと瞬きをして我を取り戻したユラは、細い顎を抓んでは双眸を伏せる。
 敵地潜入に際して起こり得ると想定できるあらゆる状況を並べ連ね、それぞれ一つ一つに最善を導く為の算段を組み上げては、現実に還元せんとする。
「そうですね……個人的には一刻も早く進みたいところですが、任務に失敗は許されませんので、用心を重ねるに越したことはありませんね」
 ユラは殆ど瞬時に十に及ぶ数の行動案を構築し、吟味検証を終えてコクリと頷いたが、それはヒイロの提案を受け入れるということだった。
 責任者がそう告げたことで、その場にある面々は構えていた意識を少しばかり弛ませる。
 真夜中の山岳行軍は想像以上に過酷であり、その上、道中魔物が一匹も出現しなかったという事実が往々の双肩に重荷となって圧し掛かっていた。現在の世界情勢を鑑みると、こういった人里離れた自然の深奥において魔物が全く存在しない、というのは寧ろ異常な事態であり、逆に何かがあるのではないかという疑心を誘い、長時間に亘る警戒を強いられることになるのは仕方のないことだ。
 その為、ここでの息抜きは体力面よりも精神的安定を図る意味では適切だった。この場にいる全員は、何かあればすぐさま対処できるように最低限度の緊張を保持していたが、それでも矢を番えたまま弓を引き絞り続けることなどできはしない。仮に実行できたとしても、張り詰めた弦が弛むように必ずどこかに歪が生じ、全体がより深刻な状態に陥るのは火を見るより明らかなのだから。
「随分急なペースで登ってきましたから、疲れてはいませんか?」
 気持ち良さそうに冷たい夜風を浴び、額に滲んだ汗を手の甲で拭っているユラに、ヒイロは歩み寄る。
 常に全力で疾走してきた訳では無いが、バハラタを出立してから一度も休まずに、それなりの速さを維持したまま凹凸の激しい斜面を登り続けてきたのだ。ましてや戦闘行動を前提に武装していることもあり、体力的に劣る女性が同行するには厳しい行程だったと言っても過言ではない。
 だがそんなヒイロの心配を受けたユラの声は、疲労を乗せてはいたもののまだ余裕が見られ、実にあっけらかんとしたものだった。
「私のことならば心配には及びません。イシスでも鍛錬を怠っていませんので、これくらいは平気です」
 小さく両拳を握ってみせるユラの格好は、普段の“魔姫”の格式高い重厚なローブを纏った粛然としたものと一転して、以前アズサがお忍びでロマリアを訪れていた時と同じような、動きの妨げにならない身軽な軽装だ。蒼髪に合わせた薄青の装束姿から活動的な印象を受けるのは、彼女が自らの背丈をも越える長さの杖を背に担いでいるからだろう。
 ユラ曰く『理力の杖』という名の魔導器なのだが、その実態は杖と呼ぶにはあまりにも厳つい肉厚な刃が付けられた、一見して槍斧ハルバードのような武器で、それが発する気風は無骨で猛々しく歴戦を潜り抜けた勇猛ささえ感じられる。
 幅広なくろがねの中央に座している赤い宝玉が、自らの存在を強く主張するように、僅かに開けた夜空の光を受けてキラリと煌いた。
「ダーマそのものが山中に存在していますし、スルトから魔導士の接近戦闘術を習っていましたので、足手纏いにはならないと思います」
「魔導士の接近戦……ひょっとして“魔練闘舞”というものですか?」
「……ヒイロ殿は本当に博識ですね。まず一般には知られていない単語なのですが」
 純粋に感心したように見つめられて、ヒイロは若干居心地が悪そうに頬を掻く。
 以前、盗賊ギルドの任務を受けた時。その下準備として魔法関連の様々な書物を読み漁った際に偶然に拾った程度の知識でしかないのだ。それを本職の、しかもその路の高階位に到っている人間に感服されては、面映いどころか申し訳ない気持ちになった。
「いえ、ちょっと耳にしたことがある程度でして。内容に関しても、せいぜい“魔練闘舞”は『理力の杖』の使用を前提としている戦闘術、としか」
「そ、そうなんですか。でも確かに概要は仰る通りです。『理力の杖』無くして“魔練闘舞”は成り立ちません。ここ近年のダーマでは、“魔導士”を志す者達の基礎教練科目として“魔導戦技”という分野が設立され、“魔練闘舞”の基本習得を義務付けています。こんな時勢ですので、魔導士もただ後方で構えている、という訳にはいかなくなったのでしょうね」
 魔物が世界に出現して以来。自衛の手段として魔法の必要性が著しく高まり、多くの者がその習得を望むようになるのは自然な流れだ。そして魔物の絶対数が増加するにつれ、一対一という単調だった戦場はより混戦の様相を呈するようになり、状況に応じては後方援護の者でもあっても自らの力のみで戦端を切り抜けなければならない局面も当然生じ、近接戦闘技術の習得を求められるのは必至だった。
 特にダーマは人間世界が誇る最精鋭の人材が集うところであり、他に規範として示さなければならない立場にある為、その取り組み姿勢は一入と言えるだろう。
「確かに、その考え方はわかる気がします。……あれ、でもスルトマグナ君に習っていたと言うのは?」
「はい。あの子はダーマの徒弟制度上は修習士でありながら、“魔導戦技”という分野に限り、教導師の資格も持っているんです。そもそも“魔練闘舞”は、闘氣と魔力両方を切り替えて扱う“賢者”の方々が自らの平衡を保つ為に行なう瞑想法を、あの子が自分で改良して、一つの武として体系化したものですからね。言わば、あの子が“魔練闘舞”の開祖で師範ということになるんです」
「スルトマグナ君は、そんなこともしていたんですか!?」
「ええ。私がダーマに在籍していた頃ですので二年くらい前、ですね。“魔練闘舞”の体系化の際には、あの子に随分と付き合わされました」
 ユラがダーマで学んでいた二年前ということは、彼女が師事したという少年魔導士はそれこそ成人を迎える以前の年齢である。その時点で既に一つの戦闘スタイルを完成させ他の人間に伝授する程とは、その才能は驚愕を超えて空恐ろしくもあった。
「私も恥ずかしながら師範代という位を拝受しています。任務でダーマに赴いた際は、手合わせの申し出もありますので、気は抜けないんですよ」
「ゆ、ユラさんも……?」
 珍しく狼狽した様子を見せるヒイロに、はにかんでユラは頬を赤らめていた。それが何よりも真実であることを裏付けているようで、ヒイロの驚愕に拍車をかける。
 確かに武の鍛錬を日々重ねているのならば、走駆には不向きの険しい山道を疾走しながらも、未だ息が上がった様子を見せない彼女の姿に納得はできる。更に改めて考えてみれば、ユラの足運びは武術を体得している者特有の体幹が鍛えられ、軸が全くぶれない確りとしたものだ。
 ユラと彼女の自信の礎を築いた不敵な少年の存在に、ヒイロはただ瞠目する思いだった。
「私なんてまだまだです。スルトは十三の時には既に“魔導士”という職の最高位“大魔導師”の称号を得ていましたから……正直、才能の差を感じない日はありませんでしたよ」
 小さく苦笑を浮かべながら連ねるユラ自身もまた、二十歳を迎える前に“魔導師”の称号を博していて、正流反流双方の上級魔法を扱うことができる。“僧侶”と“魔導士”という職歴を重ねている為であるが、実際にそれを実現化できるのは、突出した才能と弛まぬ努力両方の賜物であるのだから、他の者達から見れば彼女もまた充分に雲の上の存在だろう。
 その事実を鼻にかけない辺り彼女の生真面目な性格か、身の程を弁えているからなのだろうが、深く溜息を吐いたユラの姿には、イシスで神童と呼ばれながらも世界の広さと向き合ってきた彼女の苦悩や歴史が滲み出ているようだった。
 人が往々に持つ過去の積み重ねを垣間見せられて、ヒイロは思わず眩しそうに目を細めて彼女の顔を見つめていた。
 言葉を無くしているヒイロにユラは悪戯っぽく薄く微笑む。
「意外ですか?」
「え、ええ。正直に言えば……ユラさんは典型的な魔導士だと思っていたので、アズサに匹敵するくらい接近戦ができたなんて、失礼ですが意外過ぎましたよ」
「ふふ、そのことはフィレス様とアズサ、父上くらいしか知らないので、仕方ないかもしれませんね」
 当初、この追跡行には“剣姫”アズサが出向くと言ってきかなかったのだが、“魔姫”ユラも一歩も譲らず。互いに譲歩無き口論で無為に時間を浪費するのを厭うたユラは、埒が明かないと力による説得・・・・・・に打って出て、アズサを沈黙させたのだ。
 まさか説得という名目で“剣姫”と“魔姫”がそれぞれに武器を取り、真正面から烈しく打ち合うとは誰一人として思わず。更にはその末にアズサがユラに黙らされたという衝撃的な瞬間を目の当たりにしては、いかにアズサ自身に先の“剣魔将”との戦闘で受けたダメージが残っていたという事実を加味しても、その瞬間を目撃した者達は唖然を通り越して戦慄するばかりだった。
 聖都にいる時。或いは公務時の“魔姫”は言わば貴婦人の代名詞である。その淑女然とした慎ましくも気品ある一挙一動を思えば思う程、双姫の激突によって呈された事実は受け入れたくない、という心情になるだろう。
 出発直前に負傷者が横たわる寝台の上で意識を取り戻したアズサが、両手両足をばたつかせて暴れながら酷く憤慨していたのは、“剣魔将”に敗れたことよりもユラに言論封殺されたことに向けられているように映ったのは、傍目から見てきっと気のせいではない筈だ。
 そしてむくれるアズサを爽やかな微笑を浮かべながら労わっていたあたり、想像以上にユラ=シャルディンスという人間は強かで逞しいということだ。
 そんな改めた認識と当人からの問い掛けに虚を突かれた為か、一応言葉を選んだつもりではあったものの、ヒイロの言い回しは随分と直接的なものになってしまった。
 だがユラは気を悪くするでもなく、寧ろ嬉しそうに微笑を浮かべていた。
「先代“魔姫”様はとてもお淑やかで、貴婦人という言葉が馴染むお人柄でした。その在位が長かったものですから、“魔姫”のイメージが先代と同じように定着してしまったんです」
 永く人々の意識に染み付いた認識を払拭することは並大抵のことではない。ユラの綴る言葉には妙な説得力が秘められていた。
「偉大な功績を遺した先人の後背は、いつまでも人々の心にその影を残す……それはどの国でも、いつの時代でも同じものですね」
 そう言って話に加わってきたのは、これまで殿を守っていた銀縁の片眼鏡を身に着けた金髪の青年、シゼル=ディストリーだ。涼やかな眼差しと同色の、凛然とした青の騎士装束が今は夜闇で深い藍色に染まっている。流石に“白銀騎士シルバーナイト”の証明である誉れ高き白の外套は、隠密性が求められる今回の任務では身に着けてはいなかった。
 シゼルは“剣魔将”の侵入を察知したサラサ=ニルヴァナがイシス領事館を訪れた際、護衛として追従していた。そこで“魔姫”からの協力要請を受け、この追跡隊に志願したのだ。
 そんな彼がしみじみと紡いだ言葉は、まず間違いなくランシール海戦の英雄である亡父、ジョセフ=ディストリーのことを指しているのだろう。
 同じく十三賢人という世界に名立たる偉大な存在を親に持つ身として、彼の事情の幾許かを知っていたユラはただ緩やかに頭を下げた。
「ディストリー卿……いえ、この度はこちらの要請に応じていただき、感謝いたします。“風楯師団・白光”の副団長である卿にご同行頂けて心強いばかりです」
「勿体無いお言葉です。ルビス教団こちらとしても結局は打算ですし、私がこの追跡隊に志願させていただいた動機は、非常に個人的な理由ですので、そう畏まられると恐縮してしまいます」
「個人的、ですか?」
 ルビス教団の要人である司教サラサの護衛を一時的に外れてまで、この隊に加わる程の理由。
 それが何なのか気になったユラが目を瞬かせると、シゼルは頷く。
「はい。許嫁が魔の手勢に攫われたとあっては騎士として……いえ、男として街で安穏と過ごしているなど、どうしてできましょうか。それに、彼女を連れ去ったのが魔族に成り下がったアトラハシス殿下であることは、今後の彼女にどのような影を落とすかわかったものでは無いですからね」
 このシゼルという人物の素性と、芝居掛かった口調で大仰に語られた許嫁という単語。それらを耳にしてユラの脳裏に祖国で“癒しの乙女”と慕われた少女の姿が浮かんでくる。ジョセフ=ディストリーとディナ=ライズバードは同じ十三賢人の中でも親交が深かったと、双方の友人である父ナフタリが言っていたのを思い出したのだ。
 親子それぞれ共に同年代で、同じルビス教団に属しているのだから、そういった類の話が進んでいたとしても何ら不思議ではないだろう。
 こうして改めて考えれば、身の周りには今まで意識していなかった実に様々な繋がりが浮上してきて、逼迫した現状にありながらユラは形成される人の環の壮大さをまざまざと知らしめられる思いだった。
「軽蔑しましたか? 騎士団を預かる身の上でありながら、自らの都合を優先させたことを」
「……いいえ。既に秘めた決意をお持ちなら、それを否定することはしません。芽を摘むことで要らぬ不興を蒙り、任務遂行の弊害となる可能性を生じさせるくらいなら、いっそのこと清濁まとめて飲み干した方が全体に害はないですからね」
「はは、これは手厳しいですね」
「いえ、正直なところ、私もあまり人を責めらませんので」
 聞きようによってユラの言は突き放すような言い方であったが、彼女の本心としては確実にシゼルと同じ方向を向いていた。
“魔姫”としての任務の重要さを当然理解し、全力を尽くすつもりでいるが、ユラの中にもこの任務に際して、決して譲れない個人的な決意があるのだから。
(ソニア殿を攫ったのが、元アリアハン王国王太子アトラハシスだというのならば……あなた・・・もきっと、そこに――)
 聖都の大神殿襲撃後。親友のアズサが涙ながらに伝えてくれた事実は、今後決して意識から消えることはないだろう。それが結果として“アリアハンの勇者”に対する不和を産む要因となっていたが、ユラは構わなかった。
「魔姫殿?」
「……我らの落ち度が一因で公会議の開催が遅延するような事態になったものならば、フィレス様のお顔に泥を塗ることになります。そんなことを許容する訳にはいきませんので、お互いそれぞれの陣営の為に共闘する、ということで話を結びましょう」
 それぞれの胸の内はさておき、現実的にサマンオサ皇女救出作戦でもあるこの追跡行は、その裏側を見れば、それぞれが帰属する組織の利得追求の面が色濃い。
 バハラタという議場を提供するイシスと、会議を統括し進行するランシール。ラーとルビスの二つが主導する中で起きたゼニス教祭司長の失踪という事実は、このバハラタ地方で最も信徒数の多いフェレトリウス教団に付け入る隙を与えその弁舌は滑らかにさせる要因となる。
 そしてフェレトリウス教が勢い付けば、竜神信仰を抱えるロマリア王国に対して建国以来の敵愾心を常に燃やしている海運国家ポルトガ……つまりは彼の国に支えられしポセイドン教会も黙っている筈が無い。対抗意識を剥き出しにして騒ぎ立てるのは必至だった。
 更には、ロマリアとポルトガの軋轢を虎視眈々と観察しているのは、ポルトガと戦争中である大地神ガイアを擁する機工王国エジンベアであり、ポルトガとの繋がりを重んじているサマンオサ帝国とゼニス教団がその三国三教団の動きを注視しているのだ。
 こうも見事に各国と各宗教が別たれている現実は、公会議が恙無く開催されなければ紛糾するであろうことを容易に予測させる。それは少しでも世情を冷静に眺めることが出来る者ならば、往々にして到っている結論の一つだろう。
 謀略の泥濘を一望できる畔に到達した側の一人であるシゼルとユラは、疲れたような溜息を同時に零していた。
「何ていうか、ドロドロだねぇ。宗教も政治も大抵面倒臭いものなんだろうけど、指導者層の人間達が錯綜して互いの足を引っ張り合っているんじゃあ、会議どころじゃない。集った神様達もさぞ嘆いているだろうね」
 他人事のようにつまらなさそうに語るのは、ナディア=ネプトゥス。魔物蔓延る大海原を勇敢に駆け抜ける海賊船団“海皇三叉鎗トライデンド”を率いる鷹揚な女傑だ。
 海神の鑓、という海神に由来する名を冠した海賊団の主であるが、信仰とは無縁であるかのような佇まいに違和感が無いのは、その二つ名“氷虎”と共にナディアが無神論者であるということが広く伝わっている為だろう。
 その為、大海神を奉ずるポルトガの人間からは徹底的に疎まれているが、当の本人は全く気にしておらず。そしてこの場にいる者達の器は、その程度で琴線が掻き鳴らされる程に小さいものではなかった。
「政治を語るのも、神の教えを説くのも、結局は人間が自らの言葉に変換して行われること。そして人間が言葉を用いるのは、人間と語り合う為です。現在の世界のように宗教と国家が二人三脚の様相を呈している状況では、自らが奉ずる神の言葉は、それぞれの国家が示す意志と同義であり、相容れなければいがみ合いになるのは、人の世の条理というものです」
「……アンタ、神の使徒の癖に随分と生臭い言い方をするんだね。実は無神論者か何かかい?」
「それは心外ですね。心の底から身体の芯まで私は敬虔なルビス教徒ですよ。ちょっと他より冷静に現実を見なければならない立場にあるだけ、ですが。ただこういった考え方はニルヴァナ卿の好むところではありませんので、内緒の方向でお願いしますね。卿のお耳に入ったらどんなお咎めがあるか想像もしたくないですから」
 どこか神という存在を蔑ろにしているような言繰りだったが、飄々と臆面も無く告げたシゼルは自らの口元に指先を当て、閉口を示唆する仕草を呈している。
 実に宗教者らしからぬ現実的な物言いと、騎士団副団長とは思えぬ軽薄なおどけた態度。それらに毒気の抜かれたナディアは呆れたように、また感心したように肩を竦めていた。
「ま、別にアタシには関係が無いからどうでもいいさ。こっちとしてもノヴァの野郎に恩を売っておくことに越したことはないからねぇ。お互いの利得の為に邪魔にならない程度には足並みを揃えようじゃないか」
 そう言って勇猛さが溢れ出ている黒髪の女海賊は不敵に、美しい相貌で快活に笑う。
「……うーん、こうやって聞いていると腹黒い会話だなぁ。誰もが利己的で独善的に見えてくるよ」
「取り敢えず、ヒイロだけには言われたくないね」
「ああ。お前が言えたことではないな」
「は、ははは……」
 思わず本音を零してしまったヒイロであったが、ちょうど両隣に立ち構えていたナディアとカンダタの二人から同時に異口同音で突き放され、乾いた曖昧な苦笑を浮かべるのがやっとだった。

 ある意味、決戦前の僅かな憩いの時間であったが、それぞれの面々が自然に顔をつき合わせ、今後の対策を練るように言葉を交し合っていた。
 目的意識に多少の差異はあれど、いずれもこの任務に真摯に臨んでいることの表れであり、隊を率いるユラとしては願ってもないことだ。
“魔姫”として国の中枢に留まることの方が多いユラは、ここで率先して言葉を発して主導するのではなく、自らよりも世界を駆け回り、様々な局面に遭遇した経験を多く持つヒイロやカンダタ、ナディアの意見に耳を傾けていた。
 隣を見ればシゼルも同じく聞くことに徹している。世界に名立たる聖殿騎士団とはいえ、拠点防衛に特化した騎士団の副長である身にとって、これから行う隠密潜入行動は畑が違うのだ。それを理解し、口を噤むことこそが最善に到る路であるのがわかっているのだろう。
「カンダタ。アンタ、この遺跡には来たことがあるんだってね?」
「ああ、昔な」
「それなら内部構造とかは知っていると考えて良いんだね。スィが囚われていそうな場所まで、案内は任せるよ」
「元よりそのつもりだ。だが案内といってもこの遺跡の構造は単純だからな。もっとも、単純だからこそ厄介極まりないんだが……」
「どういうことだい?」
「入れば嫌でも解る」
 下手に説明して混乱を招くより、実際に見た方が理解に歪みが生じない。
 彼の地を知るカンダタはそう思って言葉少なく言い切っていた。ナディアは怪訝に眉を顰めたままであったが、追求はしなかった。
「隊列は……魔族の住処になっているという話なら、内部で魔物が徘徊している可能性があるな。少し変更しようか」
「ならば前衛は俺とナディアだろう。バルマフウラ、お前は中衛に回れ」
「そうだね。じゃあ後衛はユラさんとシゼルさんにお任せしよう」
「ナディアも、それで問題ないだろう?」
「誰に聞いているんだい? このアタシが魔物如きに恐れをなすとでも思ってるのかい?」
 目で問われ、相貌に不敵な笑みを載せて応える海賊提督。
 両腕を腰に当てて胸を張る姿は長身であることも相俟って実に堂々としていて、前線に立つことへの恐れや気負いなど微塵も感じられない。その身に携えられた深青の鞘がナディアに合わせて小さく揺れ、鍔に埋め込まれた幾つかの宝玉が光る。まるで、無粋なことを聞くな、という主の意志を代弁しているようであった。
 期待通りで予想通りの反応にカンダタは淡々と頷く。
「その点は全く心配していない。お前はノヴァと同じで、放っておいたら単独で敵陣に突っ込む向こう見ずだからな。なまじそれで戦端が有利に傾いてしまうだけに始末が悪い。首輪を着ける意味で、バルマフウラには全体を眺めれる位置にいてくれた方が安心できると言うものだ」
「あはは、ナディちゃんは昔から男勝りだからね。頼りにしてるよ」
 古くから良く知る人間であるが故に全くの遠慮が無い男二人の言葉に、ナディアは思いっきり顔を顰めていた。特に、注意を促す為に敢えて発せられた諫言より、苦笑を浮かべながら場違いに放られた銀髪の男の言は看過することができなかったのだ。
「ヒイロ! いい加減、アタシをちゃん付けで呼ぶのは止しなって言っているだろっ! 何で未だに子供扱いなんだい!?」
「?」
 今にも胸倉を掴みかかりそうな剣幕であったが、何を怒っているのか理解できないのかヒイロは不思議そうに首を傾げるだけだ。その邪気も衒いも無い反応がより一層、ナディアの神経を逆撫でする。
「アタシはもう二三だ! 親父の後を継いで“海皇三叉鎗”だって率いているんだ。この“氷虎”を子供扱いとは、随分と舐められたもんだね!」
「そんなことで喚き立てている時点で子供なんだが……」
 ナディアの怒る箇所が、義娘のリースと全く同じで妙な既知感を覚えたカンダタはボソリと零す。
「アンタは黙りな! だいたい首輪だって!? アタシは狂犬かっ!」
「凶暴さを鑑みれば鮫と言いたいところだ……成程。“氷虎”とはなかなか言い得て妙だな」
「何だって!!」
「あー、ナディちゃん……わざとじゃ無いんだよ。ただ君の場合は昔の印象があまりにも強いから、条件反射でそうなってしまうんだ。君は昔からお転婆だったし、豪傑で熱血漢で、同年代の誰よりも男らしかったからね。昔、俺が血塗れで倒れている時、血の匂いに誘われてやってきたアカイライの群れを棍棒片手に追い回していたあの勇姿は中々忘れられないな」
「……また随分な無茶をやらかして。リヴァイアの奴も肝を冷やしただろう」
 うんうん、と一人しみじみと納得するヒイロと、至極真っ当な見識から渋面を浮かべるカンダタ。そんな男達二人に、こめかみを引き攣らせたナディアは主に怒りで顔を紅潮させる。
「あ、アンタ等は……大体、昔の話なんて今はどうでもいいんだよっ! そもそもヒイロ! アンタが昔から何一つ変わっていなさ過ぎなんだ!!」
「ん、ナディちゃん。その紅い宝石は?」
 半ば八つ当たり気味に怒りの矛先はヒイロに向けられていたが、その自覚が無いヒイロは何となしにナディアを眺め、ふと胸元に僅かな夜光を反して煌く宝飾が下げられていることに気が付く。
 女性が首から提げる装飾品にしては大きすぎるが、細緻に彫られた竜が両翼を広げた彫像はまるで生きているかのように躍動に溢れていて、見事と言う他ない。
 そして何よりも目を惹き付けるのは、その中心に抱かれる澄み切った拳大の紅蓮の宝珠だ。守護者である竜の台座に収まる図は、まるで人がおいそれと触れることなど叶わぬ神聖ささえ感じられるではないか。
 純粋な赤に宿る存在感は、どんな夕暮れや朝焼けの色彩とも異なり、滴る鮮血のように鮮烈で、輝く太陽のように深く艶かしかった。
「……ああ、アンタってそういう奴だったね。しばらく振りだったけど、だんだん思い出せてきたよ」
 真面目な怒りがこうもあっさりと別の方へと反らされてしまい、恨みがましい眼でヒイロを睨み付けていたが、それこそ昔から変わらないヒイロの性質であることを思い出したナディアは是正を諦める。
 艶やかな黒髪を乱暴に掻きあげて嘆息した。
「蔵の中を漁ったら出てきたんだ。きっと親父の戦利品か何かなんだろうけど、これ程の代物だ。埃をかぶらせておくには勿体無いだろ? これを身に着けていると何だか調子が良いし――」
「綺麗だ」
「ねぇ……ぁあ!?」
「ヒ、ヒイロさん!?」
 無意識のままに口を吐いて出た感嘆と、これまでになく真剣なヒイロの琥珀の眼差し。両者を一身に浴びてナディアは固まり、その横で何故かユラは狼狽した。
 ヒイロはじっと正面に立つナディアの胸元の紅珠に目を奪われていて、微動だにしない。
 三者の間に生じた微妙な空気が夜風に梳かれる中。女性二人の変化に気付いたカンダタは呆れたようにその元凶を見据えた。
「唐突に何を言い出すんだ、お前は」
「ん? いや、あまりにも綺麗な宝珠だったから、思わず魅入ってしまっただけだよ」
「それだけか?」
「何が?」
 間髪入れずに聞き返してきたことから、他意はないのだろう。
 我を取り戻したナディアとユラは徐に視線を合わせ、居心地が悪そうにそれぞれあらぬ方向を見やる。シゼルは表面上平静を保っていたが、片眼鏡の奥の眼は確実に楽しげに笑っていた。
 敵地潜入を目前にするという現状にあって、街での日常で重ねられるような気負わないやり取り。一見すると油断しているようにも映るが、それは何があろうとも自然体で在れるだけの胆力の毅さを示していて、彼らが一流であることの何よりの証明である。
 が、そのまま放置する訳にもいかず。一つ咳払いして、年長のカンダタが弛緩し始めた空気を引き締めた。
「休憩はこれくらいにして、進むとしようか」
「そうだね。ここから先は敵陣だ。皆、気を引き締めよう」
 往々の眸に、戦いに赴く者特有の精強な気構えが燈ったのを見止め、ヒイロは力強く入口の扉を押し開けた。








「な、何よこれ……?」
 呆然と呟かれたミリアの声は、自らの吐息に掻き消される。
 自身の認識の許容を超えた存在と相見えた時。意識の根幹が揺らされてしばしば言葉を無くしてしまうのは、使い古された慣用句の一つであり、紛うことなき真理の一端を語る言葉である。そしてそれは人間固有の習性ではなく、思考活動を可能とする強固な“個”を持つ存在全てに等しく言えることであり、今のミリアは身をもって実感していた。
 広がる景色を知覚しようと大きく見開かれた藍青の眸に映るのは、空中に闇が霞の如き実体として漂う回廊だった。
 一切の光が存在しない地下深くの真闇、という訳ではなかったものの幽冥であり、まるで水底から空を見上げた時のように、熱の通わない青白い燐光が天井や壁を弱々しく揺蕩っている。
 ぼんやりとした光が周囲の闇に蝕まれ喘いでいる様は安堵よりも寧ろ不安を助長させ、床を視認できないまでに濃密な闇霞が足元に絡みつく現実と合わさり、重石となって進もうとする歩を阻んでいた。
 回廊の両脇には、不躾にも視界に割り込んでくる円柱の物体が、さながら神殿にて泰然と立ち並ぶ簇柱の如く荘厳に列挙していて、それらに宿る朧な光こそが、この回廊を飛び交うおどろおどろしい鬼火の源であるのだろう。
 闇を払うこともせず、ただ自らが潰えないように燈っているだけの無気力な光が、重々しく一定の間隔で明滅している。それは何らかの生物が、産声の挙げ時を待っているような不気味な胎動のようで、石床を絶えず振るわせている微かな振動と同調して、確かな脈動であることを強く知らしめる。
 立ち入った回廊に鏤められた尽くが心胆を凍えさせる要素であり、いつの間にか悪夢の迷宮に入り込んでしまったのか、と思えてしまうような異様さを醸し出していた。
 この世ならぬ光景を目の当たりにして、ミリアはただ立ち尽くす。
 周囲に漂う湿度の高い空気は腐食した鉄から染み出す生々しい汚臭を孕み、この場に立つ者達に等しく這い寄っていたのだが、ミリアはそれを払わんとするのも忘れ、視線を忙しなく彷徨わせるだけだった。
「なん、なのよ……何なのよっ、これは!!」
 押し寄せてくる闇への悲憤ではない。だが、ミリアは叫ばずにはいられなかった。
 目を凝らしてみれば、これまでと何ら変わらない無味乾燥とした変哲の無い構造であり、せいぜい回廊の殆どを面積を占有している柱が寒々しい光を発しながら立ち並んでいるだけだ。
 しかし、立ち込める闇と渾然と入り混じりながら趨勢の奪い合っている光の揺らめきこそが、無機的である筈の場所を妙に生々しく感じさせる元凶であるのは疑いようがない。
 そもそも、光を燈す柱そのものが一般的な石を削って造られたものではなく、透明度の高い何かを円筒状にくり貫いて造られたと思しき代物だった。よほど丹念に製造したのか、磨き抜かれた表面は鏡もかくやと思える程で、床から天井に届くまで聳える円柱には無視できない艶やかささえ感じられる。
 どの円柱もそれぞれの基底部に繋がれた無骨な管の束で連結されていて、何らかの一つの大きな装置として機能しているようだ。その証明として、透明な液体で満たされた諸々の内部には、黒ずんだ長大な何か・・が藻屑の如くプカプカと浮かび、全てが一様に同調して規則正しく揺らめいていた。
「……ふぅん。予想通りとはいえ、ここまで型通りだと逆に拍子抜けしてしまうわね」
 言葉を失っているミリアとは逆に、彼女よりも前で足を止めていたルティアは、無感動に視線を動かし回廊全体を確認していた。その声にも眼差しにも感情の色は載っておらず、携えたままの刃の如く冷静に、視界に現出した事実をあるがままに捉えているだけだ。
 周囲に立ち並ぶ円筒の中身をつまらなさそうに一瞥し、ルティアは深くフードを被り直す。この場に漂う不快な悪臭が髪や肌に触れるのを厭うたのだろう。
 蒼茫に染まった白妙の外套をたぐり寄せ、目元を除いてほぼ全身を覆い隠した姿はどこか幽鬼然としていて、場の景色に溶け消えてしまうのではないかと思えるまでに存在感が希薄だった。
 漂泊している闇に霞み消え行く様相は、実際には歩みを再開させ離れているからであったが、あまりにも自然に置き去りにしようとするルティアの背中に、我を取り戻したミリアは慌ててその外套の端を掴む。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
「放せ」
「いいから、待ちなさいよっ!!」
 外套を後ろから引っ張られたルティアは、後ろの重りを無視してそのまま数歩進んでいたのだが、思いの外抵抗を強めているミリアに埒が明かないと覚り、心底面倒臭そうに溜息を吐く。
 煩わしそうに眉を顰めて半身だけ振り返ると、勝気な中で不安げに揺れ動く心中を載せた双つの藍青と重なった。
「何? 臭いが酷くて鼻が曲がりそうだから、こんな所、さっさと通り抜けたいのだけど?」
「予想通りって、どういうこと!?」
 降り注ぐ倦厭の暁色を跳ね除けて詰め寄るミリアの相貌は青白く、決して周囲の色彩に染められただけではない。理解していないとはいえ、彼女の本能がこの場に蔓延る異常性を察しているのだろう。外套を掴む手が微かに震えているのが良い証拠だ。
 布地を通して伝わるそれを感じ取ってはいたが、かといってミリアを気遣うつもりも無かったので、ルティアは淡々と返した。
「事前調査の通り、という意味よ」
「事前調査ぁ? ……嘘を言いなさい。私の部屋に居座って昼夜寝食していただけでしょうに」
“魔呪大帝”ジュダ=グリムニルからこの山岳遺跡破壊の依頼を拝領したルティアは、だが直ぐに出発することは無かった。そもそもガルナを出立したのは今日という日が暮れてからであり、命じられて既に七日という時間が過ぎていた。更には、この遺跡まで“魔呪大帝”の側近四賢者の一人、氷青のキリエ=カカロン=フィンブルに送らせた程なのだ。
 物事を為すにはそれに適した機がある、とはルティアの言だったが、ミリアは毛筋ほども信用していなかった。
 ふてぶてしく他人の部屋に居座り、無遠慮にも寝台に寝転がって何かの本を読みながらの言葉に一体どれほどの説得力があろうか。自らの寝台を占拠されたミリアの遺憾からくる文句が今朝も当たり前のように発せられたのは無理からぬことだろう。
 心底を如実に表したミリアの胡乱な眼差しに、ルティアから投じられる視線の温度が急激に下がった。
「……私の行動をいちいち貴女に説明しなければならない理由はない」
「そもそも私がダーマの“大書架宮コクマー”にまで出張って何の情報も得られなかったのに、部屋でぐうたらしていただけの貴女が、何をもって調査とのたまうつもりなの?」
「…………」
“大書架宮”とはダーマに存在する九つの神殿の中の一つで、古今、世界中の全ての書物、その原書が保管されていると言われる大図書館である。“魔導の聖域”として、“知識の殿堂”として世界に名立たる学術都市としての側面を持つ地の、言わば知の中枢だ。
“魔呪大帝”からの指示に文句は言うが背く気の無いミリアは、一人何もしないで怠惰に過ごすルティアを捨て置き、ガルナから出向いてこの遺跡の調査を行っていたのだった。そこで四日間程篭り、寝る間も惜しんで様々な文献に目を通したにも拘らず、目ぼしい成果が得られなかったのは業腹であったが。
 これまで受けた屈辱の仕返しだと言わんばかりのミリアの言葉に、ルティアは苦虫を噛み潰したように顔を顰めさせる。それは図星を突かれた時のような反応であったが、彼女は特に反論を弄することをせず、ただ深々と溜息を吐いて踵を返した。
 そうして図らずも再び正対することになり、ミリアは思わず身構える。
「な、何よ!?」
「臭い物には蓋を……ヒャダルコ」
 失礼にも杖先を向けて臨戦態勢さえ執っているミリアを視界から外し、ルティアは虚空に手を翳して力秘めし言霊を紡いだ。
 小さく半円を描くように動いた掌の軌跡を、闇を掃って湧き出した鮮烈な白の煌きが追従し、やがて複雑な幾何紋様が描き出される。
 一つ瞬きすると、その光紋は煙のように闇に溶け消え、更にもう一つ重ねると、視界に映る床も天井も、壁もその両脇に整列していた円柱も。自分達を除いた回廊の全てが氷に覆われていた。
「!」
「……寒いけど、臭いよりはマシね」
 あれだけ鬱蒼としていた闇が何処かへと掃われ、今や完全に青と白の配色に支配されている。円柱の底から弱々しく発せられていた朧な光が、眩くさえ感じてしまう程だ。
 吐く息の白さが、回廊に満ちていた空気の澱みがどれ程のものだったのかを言無く物語る。
 この状況を造り出した張本人であるルティアは再び外套を引き寄せては身体を包み込み、剥き出しの膝同士を微かに擦らせて寒さに抗っていた。
(な、何なのこの女!?)
 静かなる迫力を滾らせた自然な佇まいに、ミリアは戦慄する。
 中級氷結魔法を用いて氷の壁を作ることそのものは、ミリアにも可能だ。当然、今ルティアがやってみせたように、自分達以外の全てを凍結させて氷の回廊を作る芸当など造作も無い。ただしその場合、妖精種由来の魔力の高さが仇となって、顕現させる氷の強度が石壁の硬度を上回り、回廊そのものを突き破って崩落させてしまう危険性の方が高いだろうが。
 潜在的な魔力が高すぎるが故に、魔力操作の緻密さに課題を抱えるミリアが驚いたのは、ルティアが紡いだ魔法の丁寧さだった。回廊、天井、材質不明の円柱。それらの表面だけに正確に、均一に氷を張り巡らせている。言わば回廊全体を氷という塗料を塗布し、空間そのものを凍結させたようなものなのだ。
 言葉で紡ぐなら簡単だが、それを実現させる為に必要とされる繊細な制御と魔力量。そして真言詠唱を破棄して、発動呪文だけで完遂してみせた技術。
 今の今まで“自称賢者”としてしか見ていなかった、小生意気で怠惰な白髪女の姿が大きく見えた。実際、二人の身長差は頭一つ分はあったが、それは些細なことだろう。
「それで、何が聞きたいの?」
 瞠目しているミリアを半眼で見下ろして、ルティアは面倒臭そうに問うてきた。
 気だるげな声に促されて当初の疑問が蘇って来たのか、ミリアは一面に広がる異様を思って僅かに身を強張らせる。
「こ、こは……何なのよ。こんなの、明らかに自然なものじゃない!」
 ミリアが怯えているのは一目瞭然であったが、その様子はどこか普通ではなく、明らかに本能的な懼れが滲み出ていた。本人も気付いていない、妖精種としての直感がそうさせているのだろう。
 妖精種の起源と根幹を知るルティアから見て、相貌から血の気が失せさせた彼女の動揺が手に取るようにわかった。
「これらが何なのか、ね。見ての通り全てが魔晶石で造られた魔導器よ」
「魔晶石!? 嘘よ……そんな、魔晶石をここまで精緻に加工する技術なんて、ある訳がないでしょう!? ホビットの技術を以ってしても不可能よ!」
「そうね。そもそも現在とは技術体系の異なる文明期の遺産だし……グリムニルも言っていたでしょう? ここは、古代文明期の遺産が残る場所だと」
「そ、そうは言っても……」
「中身は、人間と魔物が融合……いえ、魔物化している過程にある人間ね」
「に、人間!?」
 静謐に揺らいでいる物体は、汚れか何かなのか表面全てが黒い苔に覆われている。いずれも四肢の何処かが欠け落ちていて、人間の形質から大きく逸脱した歪な形状をしている為、人間だと指摘されたところで易々と信じることも、納得することもできないだろう。
 そんな思いのまま水晶柱を凝視するミリアに、ルティアは無感情に続けた。
「別に驚くことでもないでしょう? マナから編まれた全ての存在は、等しくその可能性・・・・・を内包している。人間種は勿論のこと、妖精種、竜種だって例外ではない。……もっとも、知的生命体が変質し辛いのは、個々人の顕在意識が強固な為。意識の顕在深度、とでも言えば良いのかしらね。この深度の程度はマナへの親和性と密接に関係していて、顕在深度が浅く“個”の弱い動物種や植物種はマナに浸蝕され易い。それ故に率先して変容の波に呑まれ、魔物に変質してしまう」
「…………」
「マナの大転換期には必ず負陰の魔物や正陽の聖獣が現れるけど、それらはどこからともなく現れるんじゃない。ただそこにあるものが、世界の“色”に合わせて変化するだけ。今の世界の状況が、それを何よりも明確に証明しているわね」
 嘗て世界に魔王バラモスが降臨した際。その勢力を爆発的に増大させたのは、魔王の瘴気に中てられて変異した現生生物が彼の者に付き従ったからである。
 そう語られる世情とルティアの言に矛盾は無い。そんな現実を頭の中で思い浮かべたミリアは、だが小さく頭を振って水晶の柱を示した。
「じゃ、じゃあこれらは一体何だって言うのよ! 明らかに人為的な仕業でしょう!」
「ここにあるのは、自我意識を封じた人間を魔物の体液……主に血液に漬けることで、体組織の深くにまで負陰のマナを浸透させ、容器の中に満たされた血液中より純粋な負陰のマナを抽出して結晶化させる、その過程に在るものね。所謂、再結晶という手法なのだけど」
「ま、魔物の体液なんて保存できるものなの!? あいつら、死ねば遺骸なんて残さないじゃない!」
 水晶柱を徐に見上げたルティアに引き摺られてミリアも視線を動かすと、容器の中を漂う黒ずんだ人間だった者と視線らしきものが合い、小さく悲鳴を挙げてしまった。
「いくつか例外はあるけれど、血液に関しては残せる。というより、血液という物質は体組織の中で最も多くのマナを内包できる性質を持っているの。まあ物質マテリアル非物質アストラルの平衡を維持する調律子なのだから自明よね」
 血液が足りず意識が朦朧とする貧血という事象も、物質と非物質との間での平衡が乱れて陥る状態の一つだ。また古来より用いられる、血という単語を包含する諺には精神面、身体面両方に関わるものも多い。
「そもそも前提として死骸を残せないのは魔物に限らず、人間だって妖精だって同じことよ。魔物はただ朽ちていく速さが違うだけ。そして死骸が残らないのは、この世界のあらゆる存在が、物質非物質問わず、常に世界を流れている流脈レイラインと自らの裡にある流脈との間でマナを交換しているから。受け取り、差し出す……収束とは別の領域で行われている、まあ呼吸のようなものね。それで生命活動を止めた生体は、マナの循環機能が停止することによって内から外にマナを吐き出すことができず、その上、外から流入してくるマナは絶えることはない。その為、蓄積されたマナを開放できず、やがて器の許容量を越えて崩壊するからなのよ」
 周囲を一瞥していたルティアは、小さく肩を竦めてミリアに視線を戻した。
「これらは“剥心融魂フューリー”でも“偽躯魄合フュージョン”でもない、全く別の魔物化の路ね。一番近いのは“堕天誓約カヴナント”だけど、あくまでも似て非なる“転生”ね」
「……貴女は、どうしてそんなことまで知っているのよ? いえ、何もかも知り過ぎているわ」
 魔物の製造にしても。この遺跡のことにしても。知の最先端を行く、ダーマですら聞けない理の数々。
 それだけではなく、先程ユリウス達と邂逅した時もそうだ。世間では知られていないような“龍魔将”とやらの事柄にまで、ルティアは深く精通していた。
 暁色の眼差しが饒舌に語るそれらは、往々にして自分の師である“魔呪大帝”さえ教えてはくれなかった事で……いや、あの師は訊けば答えてくれるが、尋ねなければ決して教えてはくれないだろう。そして何より、敢えて言わなかったということの方が遥かに納得がいくが。
 兎も角として、訥々と澱みなく語るルティアを眺めながら、ミリアは面に感心よりも怪訝と警戒の色を色濃く載せていた。
 ミリアから探るような視線が発せられるのを察し、ルティアは暗く皮肉気に笑う。
「知識だけならば『悟りの書』でいくらでも閲覧はできる。もっとも、実体験の伴わない知が世の中でどれだけ役に立つかなんて、私にはわからないけど」
「こ、この……中の人間は、もう――」
「勿論生きているわよ。溶媒中の負陰のマナは、核となった人間の体内で結晶化するからね。生きてなければ循環を経ての再結晶なんて出来ない訳だし、人間ではなく動植物を媒介にしたのならば、顕在深度の浅さの所為で即座に周囲の色彩に染められてしまう……人として生きているか、と問われると私にはちょっと答えられないわ」
 語尾が擦れて消えかかっていたミリアの問い掛けに答えると、ルティアは深く長く溜息を吐いて踵を返す。そしてそのまま、しっかりとした足どりで氷結した床を歩き始めた。
「ちょ、ちょっと!?」
「尋ねられれば答えてしまうのが、『悟りの書』に接続している者の業とはいえ……こんな無意味な講釈をしている状況ではなかったわ。私もまだ未熟ね」
 歩を緩めず、ただ回廊の先だけを見据えてルティアは呟く。顰められた表情で、声に憮然とした色彩が載っていたのは、彼女としても不本意なのだろう。
「どうせこの遺跡は潰すつもりだし、こんなもの残しておく必要も理由も無いから破壊したいところだけど、それだと中身がぶちまけられて酷い臭いが身体に付いてしまうわね。それはちょっと遠慮したいわ」
「……き、気持ちはわかるけど、そんな悠長なことを言っている場合ではなくて――っ!?」
 水晶柱を破壊すれば、中身である魔物の体液が回廊中に広がることになるのは明白だ。
 透明な液体が魔物の血潮と聞かされた今となっては、それが現実のものとなった場合の嫌な想像が脳裏を過ぎり、ミリアは思いっきり頬を引き攣らせる。
 が、突然に言葉を切り、ミリアは周囲をきょろきょろと見回し始めた。
 一見すれば挙動不審にしか見えない彼女を、ルティアは冷めた眼差しで怪訝そうに見下ろした。
「……何?」
「あっち! 奥から今、誰かの声がしたわ!」
 言われて耳に手を当て、音を拾おうとしても、ルティアにはただ周囲の水晶柱に接続している魔導器の駆動音しか聞こえない。
 聴覚が人間よりも遥かに優れている辺り、流石はエルフ族といったところかとルティアが認識を新たにしていると、ミリアはルティアを追い越し、更に前へと駆けていった。
 今まで萎縮しきっていたのが嘘かのように、率先して敵地の奥に勇み進む臙脂の外套の端を見つめたまま、ルティアは小さく溜息を吐いた。








「やあ。久しぶりだね、ユーリ」
 扉を開いた先に、その存在を見出した瞬間。
 記憶の中と変わらぬその声が、穏やかに耳朶を打った瞬間。
 視界が血色に染まり、声無き絶叫を挙げたユリウスは自らに纏わり付くしがらみ一切をかなぐり捨て、駆け出していた。
 その手に、冷徹な白刃を煌かせ。その身に、おぞましき殺意を滾らせて。
 細められた漆黒の双眸は広間の中央に立つ翡翠の青年だけを捉えていて、限界まで引き絞った矢を射るが如く、そこに向けて狂奔する意識の濁流が身体を突き動かし、踏み割らん勢いで石畳を強く蹴り付ける。
 総身に漲る闘氣の躍動により瞬時に最高速に至ったユリウスは、彼我との間に隔てられた距離を一呼吸の間に踏破し、アトラハシスの頭上目掛けて跳躍する。その最中、流れ往く視界の端にソニアや以前見た顔、見知らぬ者達が居るのを捉えられたが、そんなものなど直ぐに意識の外へと消え失せていた。
 そう。この瞬間、この場において己のいしが捉える標的はただ一人。こうして自身を害する刃が降り掛からんとしているのにもかかわらず、何の構えも取らず茫洋と佇む、嘗ての――。
 高くに掲げられし鋼鉄の刃は、部屋に備えられた燈明を受け止めて煌きを増し、腕を通して伝わるユリウスの殺気と絡み合って禍々しき虐滅の兇刃と化す。
 アトラハシスの身長の優に倍近くの高さまで至ったユリウスは、空中で高々と振り被った剣を両手で握り締める。そして絶妙な平衡感覚を以って全身を車輪のように回転させ、落下する自重に遠心力を上乗せした一撃を、虚空を掴まんと徐に右手を掲げようとしていたアトラハシスに叩き付けた。

 石造りの閉塞した空間に、爆砕音のような剣戟が戛然と轟く。
 けたたましき音韻は、硬い石板に覆われた部屋の中を縦横無尽に駆け回り、その鋭利な波長で場にある尽くを痛烈に打ち据えていた。
「っ!?」
 ジリジリと耳の中を圧す余韻が残る中。小さく息を呑んだユリウスに返ってきたのは、まるで掌の感覚が無くなってしまったと錯覚してしまう痺れだった。
 刀身から腕に浸潤してくる痛痒は、単調であるが故に神経を酷烈に掻き毟る。その反動が肉を斬り、骨を断った時に生ずる慣れきった感触を伴ったものならば、ユリウスは無反応の面を維持できたのだろうが、実際は剣と剣、或いは金属同士がぶつかり合った際に生じる硬質で無機的な手応えであった。
 充実した闘氣の加護によって強化された大上段からの斬撃は、今のユリウスに繰り出せる全霊を込めた打ち込みである。巨岩さえ叩き斬らんとするそれは、無手のまま佇んでいたアトラハシスに……その彼の前に割り込んだ、虚空より生じた何か・・によって完全に阻まれていた。しかも、こちらの身体を剣を振り下ろした体勢のまま空中に縫い付ける、という結果さえ附帯して。
 身に起きた現実には、ユリウスとて瞠目は禁じえない。
 眼下に立つアトラハシスの挙げし右手には、一瞬のうちに集められたのか無数の闇の粒子が棒状に漂っていた。灯明に寄り集う羽虫の如く絶えず忙しなく蠢いているそれは、その裡にある存在を護っているようだ。
 今のユリウスの一撃で闇の一部分が微かに剥がれ、隙間から数基の骸がお互いを喰らい合うように折り重なったおぞましい意匠の刀身が露になる。それは好悪問わず見る者の意識を惹き付け、そのまま奈落の底に引きずり込まんとする、死を想起させる髑髏の大剣だった。煉獄の縮図のような広刃を構成する一つの骸骨が、空虚な眼窩でユリウスを捉えニタリと邪悪な笑みを浮かべている。
 子供の背丈ほどもある肉厚なそれを片腕・・で易々と掲げ、且つこちらの渾身の一撃を受け止めて余裕さえ見せ付けるアトラハシス。その姿は以前と何ら変わらぬ優男のままで、ユリウスの知る屈強とは無縁の姿だった。にもかかわらず、人体構造の限界や物理法則さえをも凌駕していると思しき尋常ならざる膂力……魔族化による能力の変貌をまざまざと見せ付けられて、ユリウスは内心で舌を打つ。
 苛立ったユリウスの心理を嘲笑うかのように、アトラハシスは相変わらず落ち着いた表情で状況を眺めていて、昔と何一つ変わらない穏やかな光を翡翠の双眸に載せた。
「いきなり手荒な挨拶だねぇ。だいたい一年半振りの――」
「イオラ」
 交錯する剣と剣を挟んで、にっこりと微笑んだアトラハシスが言葉を紡いだ瞬間。視界と意識が狭窄したユリウスは即座に魔力を集約させ、間髪入れず零距離で中級爆裂魔法を解き放った。
 酷烈な宣言と共に、瞬時に両者の狭間に夥しい量の光の粒が集積し、弾ける。
 その途端、圧倒的な光の瀑布が四方八方に迸り、一般的な聖堂と同程度の広さを有した部屋の隅々まで駆け抜けた。
 続いて鼓膜を痛烈に打ち据える大音響が生じ、すぐさま床、壁、天井、そして立つ者全てを震撼させる不可視の衝撃が肌を焼く熱波を引き連れ押し寄せて、終には粉々に砕かれた床石や土塊が塵煙となって部屋の中心に濛々と立ち昇った。



「ちっ!」
 視界を歪める焦熱の爆風に圧し飛ばされて、ユリウスは爆心から入口付近まで後退を余儀無くされる。咄嗟に外套をたくし上げて顔面を防御した為、赤熱に視野を灼かれることはなかったが、魔法耐性を高めた素材で作られた外套や衣服はあちこちが焦げてしまっていた。いかに使役者とはいえ、ほぼ零距離で爆裂魔法を紡ぎ、誰よりも近い場所で無差別に広がる熾烈な爆圧に晒されたのだから当然の結果なのだが、ユリウス自身はその魔法抵抗力の高さもあって実害を被ることは無かった。
 今の爆撃は刹那の判断によって下された反射的な行動であったが、思考を介していないが故に自らが被害を受けることなど全く考慮されてはいない。あるのはただ、眼前の者を殲滅せんとする激動の意志だけだ。
 勢い良く床を滑りながらも決して剣を手放さず、次なる攻勢にすぐさま移れるよう体勢を正していたのは、戦う者としての気構えを超えた執念であり、その意のまま戦慄きが収まらない石床を強く踏みしめる。険しく細められた漆黒の双眸が、僅かな変化さえ逃さんと視界を覆う煙の先を凝視していた。
「め、目の前でイオラを撃つなんて酷いじゃないかっ。びっくりしたよ!」
 程なくして、ゴホゴホとわざとらしく咳き込んでいるアトラハシスの影が煙幕に薄っすらと映しだされた。
 悲鳴染みた叫び声で非難を挙げてはいたものの、そこに切迫した色は無い。ましてや爆裂魔法の直撃を受けた影響など、全く感じられなかった。
 その事実にユリウスは歯噛みし、再度疾駆する。
「あのね、屋内で爆裂魔法そんなものを使うのはどうかと思うよ。もっと周りの状況を見て――」
「ギラ!」
 未だ煙に包まれて視界が失われているにも拘らず、それでも悠長に紡いでいるアトラハシス。
 その風体通りの柔和な言葉を聞く気は無いのか、雷速の集中で既に魔力を掻き集めていたユリウスは前方に左手を翳して閃熱魔法を放った。
 収束された魔力の光が赤色に転じては、眩き紅蓮の輝きを放つ熱線が幾条も奔り、煙の幕に浮かんだアトラハシスの影に向けて殺到する。勿論、その射線軸上に誰もいないことなど織り込み済みだ。
 勢い良く煙幕を貫通した光帯の数本が、部屋の反対側の壁に突き刺さり、まるで岩壁を掘削するかのような破砕音を響かせる。
「うわああああああっ!?」
 いくつもの熱線が自らを掠めた為か、煙の先から再度アトラハシスの絶叫が響いたが、やはりどこか逼迫さに欠けたものだった。
 しかし今度はなすがままではなく、アトラハシスは手にしていた髑髏の剣で迫ってくる熱線を薙ぎ払う。するとどういう訳か、拍手を打ったかのような小気味良い音が断続的に響き、光矢が次々と消失していくではないか。
 掌の先で、顕現した魔法とのラインを維持し制御していたユリウスは、目の前の事象に眉を顰め、再び同じ魔法を追撃に紡いだ。
「ギラ。ギラ。ギラ。ギラ」
「ち、ちょっとユーリ。流石に、危ないって!」
 上下左右、逃げ場を奪うあらゆる方位から幾条もの熱線が襲い来て、アトラハシスは慌てふためくように声を荒げる。だが実際は優雅に舞踏するように身体を動かし、剣を舞わせて確実に魔法を迎撃していた。
(……そういうことか)
 真正面から攻撃魔法が叩き斬られる様を眺めながら、表情を動かさないユリウスは思考を加速させる。
 アトラハシスの言動の不一致はともかくとして、髑髏の剣で魔法に接触すると、魔法の構成骨子である魔力……つまりは励起した霊素の収束加速が強制的に解除され、魔法現象そのものが破壊される。少なくとも目の前の現実からはそう読み取れる。
 有効範囲がどれ程のものかは知らないが、魔法を用いる者にとって厄介な性質だと思い至ったユリウスは、すぐさま戦術を切り替えた。
 意識の天秤を魔力から闘氣に傾けるだけであっという間に収斂される自らの異質。それを最大限に利用して床を蹴り、消え往く熱線の余波が残っている内に跳躍し、今度は左手にも鞘から抜き払った鋼鉄の剣を携えて、双剣を以ってして煙中で踊る影に急襲した。
 身体の前で交差させた二本の腕を開放し、充分に力の篭った二連の斬撃が宙を疾る。
 煙の壁を引き裂き、その奥を薙ぎ払わんとする二つの剣閃は周囲の空気を巻き込んで肉薄するも、接近に気付いたアトラハシスが楯のように掲げた剣と激突。甲高く澄んだ乾音を掻き鳴らす。
「くっ!」
「まだまだ、それじゃあ弱いな」
 しかし、骸の牙城を切り崩すには些か弱すぎたようだ。アトラハシスに言われるまでも無く、単純に威力が足りないからだ。
 圧し戻される感覚にそれを悟ったユリウスは、だが攻撃の手を緩めない。ただただ懐裡で激しく脈動し、破裂せんばかりに昂ぶる破壊の意志に従うだけだ。
 半歩退いて即座に小さく跳び上がり、全身を捻転させ左右の剣を同時に袈裟に切り下す。
 それはアトラハシスに見事に対応され鍔迫り合いとなったが、阻まれるのを前提としていたユリウスは即座に右腕だけを引き、刺突を繰り出す。加えて上半身の筋肉の反動を利用してそのまま斬撃に転じさせ、がら空きとなった部位に向けて左の剣を閃かせる――煌く円弧を曳いて次々と奔る剣撃は、宙を奔る度に一段と加速していき、止まることを知らなかった。
 間断無く繰り出される斬撃は、凡そ剣技の理に語られるであろうあらゆる型に亘るもので、それは刃の嵐と形容するに相応しい乱舞だった。
 何度も何度も宙を翻る剣風が幾つも重なり合い、停滞した煙中の空気を擾乱させる。結び合った峻烈な気流は肥大し、やがて内側から塵煙そのものを吹き飛ばしては、中心で交錯するユリウスとアトラハシスの姿を周囲に露にさせた。



 爆裂魔法で半球状に抉れた床の窪みの中央で交差する、二人の視線。
 片や眼前に在る怨敵を虐滅せんと滾る漆黒。そして片や、久方ぶりに顔を合わせる旧友に向ける柔らかな翡翠。
 間近でぶつかり合う双眸に宿る熱の不調和さを、刃同士が擦り合う耳障りな音が代弁する。
「ふぅ、ようやく落ち着いたか。改めて……久しぶりだね、ユーリ」
「黙れ」
「つれないなぁ……もっと素直に、この再会の喜びを分かち合おうよ。あ、でも久しぶりといっても、この前ロマリアで会ったばかりだったか。いや、あの時は君と語り合うより仲間の救出を優先させて貰った訳だから、数えない方がいいのかな?」
「語ることなど無い」
 あまりにも邪険に返して取り付く島のないユリウスにアトラハシスは苦笑し、思わず空いている手の指先で頬を掻く。
 視線で射殺さんばかりに睨んでくるユリウスの憤る理由がわからないのか、しげしげと眼前の彼を眺め、脳裏に浮かぶ過去の姿と比べては、はて、と小首を傾げた。
「うーん、少し背が伸びたかな? まあそうだよね。今の君は成長期にあるんだし……きちんと食事はしているかい? 睡眠は充分に摂れているかい? まさかとは思うけど、まだ自分にラリホーなんて掛けて無理矢理睡眠状態にするような真似をしているの? だったらもう止めるんだ。あれは本当に身体に良くないからね。おや、そう言えば髪が随分と伸びているけど、そのままにしているのだと少しだらしがないなぁ。どんな時でも、身だしなみはきちんとしなきゃ駄目だ、って言った筈だろう? まったく、君は自分に対してとことん無頓着だから、旅に出たら出たらで一般常識や生活面とかで色々と苦労するね、ってセフィと言っていたっけ」
「煩い。お前はここで死ね」
 朗らかに昔語りを始めそうな気配に、眼光に燈す殺気を強めて忌々しそうにユリウスが吐き棄てる。すると、アトラハシスは心底驚いたように目を見開いた。
「うわっ、ユーリがそんな汚い言葉を吐くなんて信じられな……いや、待てよ。語彙が増えたということで、これはこれで喜ぶべきことなのかな? うーん、判断に迷うところだなぁ」
「今更お前の戯言に付きあう気はない」
「戯言、って酷いじゃないか。昔は仔犬のようにあんなに眼を輝かせて人の話を聞いていたのにね。そんな君があまりにも無垢だったから、セフィなんて悪ふざけが高じて小難しい魔法理論を語り聞かせるし、君は君でひたすら頷いていただけだし、いつの間にか茶会の席が講義の場に変わってしまったのは、良い思い出だよね」
「…………」
 うんうん、と一人頷いて過去を懐かしむアトラハシス。
 暢達とした様子の彼の顔面に向けて、ユリウスは口元を結んだまま一歩上体を反らし、今までにない速さで突きを繰り出した。
 闇色の外套の切れ端が宙を舞う。
「む、無言でいきなり突いてくるなんて、危ないじゃないか!」
 一歩跳び退いていたアトラハシスは大きく眼を見開き、悲鳴染みた声を挙げていた。片手で胸元を押さえているのは、驚きのあまり心臓の鼓動が強まった為だろう。
 一見すると幸運の賜物のような結末を呈してはいたが、実際のアトラハシスの反応速度は、ユリウスがそうしてくるのが予めわかっていたかのように思える程、鋭敏だった。
 そう。ユリウスの目から見ても、刺突を放とうと腕を引いた時には既にアトラハシスは回避行動を取っていたのだ。
 こちらの行動が読まれ、戦闘に入ってから一度もまともに攻撃が通っていない現実に、ユリウスの裡で焦燥が募る。
「いいかい。奇襲は確かに戦術の一つだけど、大小に関わらず戦には戦における礼儀というものがあって――」
「戦場で無駄口を叩くな。黙って斬られろ。そして……死ねっ!」
 激昂のままに剣を振るい、波濤の如き手数で攻め立てるユリウスに対し、アトラハシスは受けるか逸らすか、躱すかの防戦一方だった。
 しかしその双眸に焦りの色は無く、陽だまりの如き穏やかさを湛えているだけだ。わざとらしく行動の一つ一つに連ねている叫び声がそれを助長させる。
 逆に暖かな眼差しが注がれていることを自覚してか、怒涛の攻勢を繰り出すユリウスの方が徐々に苦渋を色濃くさせていた。
 そんな中、大きく跳び退いて間合いを広げたアトラハシスは、深々と嘆息を零した。
「ふぅ。ぼくはこうして君とまた言葉を交わせるのが嬉しいのに、君は聞く耳持ってくれない、か。悲しいなぁ、何をそんなに怒っているのかは知らないけど……でも、それもまた良しかな? うん、憤怒であったとしても、そうやって表に出されるのは君の感情・・・・に他ならないからね」
「黙れと言っているっ。ニフラム!!」
 逃しはしないという意思のまま追撃に踏み出したユリウスは、左の剣を手放して一喝と共に右の剣を骸骨の剣に叩き付ける。そして遅滞無く空となった左手をアトラハシスの眼前に翳し、眩いばかりの光輝を撃った。
 地中深くの閉ざされた空間に、爆裂光とは種を異にする圧倒的な量の光が満ち、ただそれだけで立つ者達の視界を制圧する。
 だが掌を日除け代わりに構えたアトラハシスは、目元を覆い隠して防御しながら声調を落とした。
「何の真似だい? こんな魔法が、今のぼくに効かないなんて解りきっているだろう?」
 ニフラムは魔物、魔族の構成要素である負陰のマナを打ち拉ぐ、陽なる魔力そのものの奔流である浄光の魔法だ。脆弱な魔物ならば、ただそれだけで光の中に消し去る効果を持つが、その効力の強度は術者自身の存在属性の傾度に比例する。
 仮に陽の極致に在るソニアがそれを用いれば、たとえ魔物の上位種である魔族にさえも甚大なる被害を与えることも可能ではあったが、ユリウスは陽でも陰でもない中庸に在る。故に効果の有無を問われれば、答えは無の一択だ。
 ユリウスが紡いだニフラムでは、魔族であるアトラハシスに届くことはない。せいぜい強烈な光を発しただけの、単純な目晦まし程度でしかない。
 予てからユリウスの性質を知り抜いているからこそ、アトラハシスはこの局面でニフラムなどを用いた選択に怪訝と、若干の落胆を見せていた。
 そして、それこそがユリウスの狙ったものだった。
「ベギラマ」
「へっ――!?」
 その呪文を聴覚で捉え、認識した瞬間。白の世界を食い破って突き出た赤き閃光が、真っ直ぐにアトラハシスに向かって飛翔する。
 先程のギラに比べて数は圧倒的に劣るが、太さも明るさも数段上回る熱線。ほぼ零距離で解き放たれた灼熱の光槍は、砂同士を擦り合わせたかのようなくぐもった音を掻き鳴らし、完全に油断していたアトラハシスの腹部に深々と突き刺さる。そして衰えぬ勢いのまま後方へと押し飛ばし、やがて彼を背中から壁に叩き付け、磔にした。
 剣こそ手放してはいなかったが、壁の半ばに宙吊りにされた翡翠の君子は、力なく項垂れたままピクリとも動かない。
 その様子を視認し、足元に転がる剣を拾ったユリウスは床を蹴って後退する。
 つい先刻。白妙の女賢者ルティアと邂逅した際に思い付いた、光をより眩い光で隠蔽する虚を突く戦術であったが、どうやら成功したようだ。
 霊素減衰率を考慮して魔法は極力至近距離で放つことを心掛け、更にはアトラハシスの手に収まる髑髏の剣に接触させまいと、剣そのものを振るわせないようにしていたのだが、ようやく一撃を通すことができた。
 胸元から腹部に掛けて杭の如く打ち込まれた特大の赤き光輝が、尚もアトラハシスの身体を穿っていることに、唇を歪めてユリウスは、嗤った。




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