――――第六章
       第十四話 揺曳する境涯







「で、殿下! ユリウスっ!!」
 ソニアは目の前で展開されていく戦闘に、悲鳴染みた叫び声を挙げるのが精一杯だった。



――侵入者の存在を許さないこの遺跡は蟻塚状に入り組んでいて、全容を知るのは建造に携わった者か、或いは長くこの遺跡を使用している者達に限られる。その枠から外れし者にとっては不帰かえらずの迷宮に他ならない。
 例外を除き、遺跡内のどこへ行くにも必ず経由する事になる大広間をアトラハシスは再会の場所に選んだ。そしてソニアも、彼から持ちかけられた別室で待つという提案を断り、半ば無理を言って同席していた。
 いや正確には、この大広間に集っているのはアトラハシスやソニアだけではない。周囲を見ればイシスで面識を持ち、ソニアが手ずから治療した事のあるティルト=シャルディンスの姿がある。他にも見るからに粗野な風貌の熊のような大男や、全身をローブで覆い隠した性別不詳の幽鬼の如き気風を発する者。そしてこんな鬱屈した場に相応しくない幼気いたいけな少女、イーファの姿があった。
 バハラタでアトラハシスと再会した際。彼やイーファと共にいた魔導士風の青年はこの場にはいなかったが、翡翠の君から紹介された限り、この大広間に集った全員が彼の仲間であり魔族であるという。
 つまり一堂に会している面々は、“魔王討伐”という使命を帯びた者の一人であるソニアにしてみれば、何れもいつかは打倒しなければならない者達なのだ。
 しかしながら、そんな彼らが集結している中で何の行動も起こせず、また、何もされないまま同じ空間に留まっている事に、ソニアは針のむしろにも似た居心地の悪さを感じていた。

 そんな状況が、どれだけ続いたのだろうか。
 突然乱暴に大広間の入口が開かれたかと思うと、そこから険しい表情のユリウスが躍り出て、次の瞬間にはアトラハシスに切り掛かっていた。更には明らかに殺害を目的とした威力の攻撃魔法を至近距離で何度も紡ぎ、双剣を翻して息を吐かせぬ怒涛の連続攻撃を繰り出しているではないか。
 それら一挙一動に迸る殺戮の意志。傍から見ても瞭然であるユリウスの鬼気迫る姿にソニアは戦慄した。それをより確かなものとしていたのは、こと戦闘において冷静沈着を地で行くユリウスが、激情を露に罵りながらアトラハシスを殺そうとしている現実だろう。
 両者の間に流れていた嘗ての時間の一端を知る者として、その念は一入だ。
 ソニアがただ愕然としている最中。ほぼ零距離でユリウスが放った中級閃熱魔法ベギラマによって、アトラハシスが大部屋の壁に磔にされてしまった――。



「な……何をしているの!?」
 気付けばソニアは反射的に跳び出していた。
 身体の中心に突き立った烈日の光杭を支点に、壁に縫い付けられたアトラハシスは力なく四肢を宙に投げ出している。禍々しい剣を握ったままピクリとも動かず、項垂れたままの姿には生気が全く感じられない。
 今の今まで突然な展開に微動だにできなかったが、宙吊りにされた翡翠の君の姿に我を取り戻し、いてもたってもいられなくなったのだ。
 困惑に染まった悲痛な叫び声を挙げ、ソニアは両腕をいっぱいに広げてユリウスの前に阻み立つ。
「ま、待って。ユリウスっ!」
「……」
「お願い! 止まってっ!!」
 ソニアの必死の制止を受けても、ユリウスが足を止める様子はない。
 一歩一歩ゆっくり近付いてくるその表情は、俯いたままで見る事が叶わなかったが、歩を動かす度に身体を左右によろよろと傾かせる足取りは、どこか酩酊しているようだ。
 風にたなびく柳の如き姿に、弱々しい儚さを抱いてしまうのは仕方のない事だろう。
 だが、そんな印象も一瞬で転じる。
 近付いて来るほどに、ユリウスから発せられる烈気の濃度は確実に増していたのだ。床に転がった剣を拾い、再び双剣を携えた事も相俟って、呼吸をするだけで肺腑に痛みを感じるまでに空気を硬質に、張り詰めさせている。
「ソニア。邪魔だ。退け」
「っ!?」
 水を打ったように静まり返った場に響いたのは、既に文の態を為していない単語の羅列。実に単純明快な意思表示だ。
 抑揚のないあまりに冷たい声韻と、簾の如く垂れた黒髪の隙間から放たれる鋭い眼光。それらが狙い違わず自らを捉えていると覚った瞬間、ソニアはまるで氷の手で心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚に襲われる。
「あ……あ、ああぁぁぁ」
 ゾクリとした悪寒に全身が粟立ち、力が根こそぎ奪い去られる。怖気に震える四肢では圧し掛かってくる途轍もない重圧に耐える事ができず、ソニアは呆気なく床にへたり込んでしまった。
 殺気――精神を凍て付かせる暗き意志の奔流は、相対する者の心の深くに無理矢理入り込み、恐怖という感情を執拗に擽っては、見えざる呪縛として心身を締め付ける。それはあたかも無形の漠然としたものが、確固たる形相を得る事で影響力を肥大させるように。恐怖もまた、それを齎す根源を認識する事で勢いが格段と増す。
 既に揺れる眼でユリウスを見上げる事しかできなくなったソニアは、唐突に理解させられた。刃の殺意を解き放ったユリウスと対峙する者は、常にこの重圧と、足元が切り崩されるような虚脱と向き合わねばならない事を。
 今この時、この瞬間。ユリウスが放つ殺気を真正面から浴びせられたソニアは恐怖した。
 例え同じ道程を歩む仲間だという認識があっても。幾度となく魔物の殺気が飛び交う戦場を潜り抜けてきた身であったとしても。
 苛烈な斬撃とも思える無情の迫力は、短くはない時間の共有によって形成された親和の情を、いとも簡単に破却する。その証明か、ソニアを淡々と見下ろす黒曜石の双眸はその奥に在るであろう感情を全く見せず、凡そ人間と相見える際のそれではない。ただ現状の景色を映し返しているだけだ。
 きりきりと心身に喰い込んでくる不可視の縛鎖に抗う事ができず、ソニアは無意識に自らの身体を強く抱きしめていた。
 どちらかと言えば理性よりも感情の方に傾いた性格であると自認しているだけに、こんな無機質な視線に晒されるくらいならば、いつかのように怒気を真正面からぶつけられた方がまだ良かった、と意識の隅で思いながら。
 仲間に対してそう思う事の罪深さに傷みを覚えるも、そう思えずにはいられない程に今のユリウスが怖くて、恐ろしくて仕方がなかった。
「もう一度言う。ソニア、邪魔だ。退け」
 重々しく靴音を鳴らして、ユリウスが一歩近付いた。
 それだけでソニアの視界がぐにゃりと歪み、意識が途絶えそうになる。
 だが――。
「……ま、待っ……て」
 いつものソニアならば、ここで声など決して挙げられなかっただろう。苛まれズタズタにされた精神は真っ先に意識を手放していても何ら不思議ではないのだ。
 凍り付いた仮面より投じられる視線に心臓が逸り、皮膚の下で脈打つ血流が先程から警鐘となって逃げろ逃げろと鳴り響いている。
 しかしそれでもソニアは腹の底に力を込め、苦悶に満ちた顔を上げ何とか声を絞り出した。
「ユリ、ウス……あ、あなた自分が何をしているのか、わかっているの!? アトラ様、なのよ! あなたにとって……兄とお呼びできる方、なんでしょうっ!?」
 眼を閉じ耳を閉じ、やり過したいたいという衝動を押し殺したのは、偏に彼女の意地。同じ“魔王討伐”の途にある仲間としての義務ではなく、嘗ての時間を聞き及んでいる者としての想いだった。

 ソニアは、いつも一緒の義姉と王太子が形成する和やかな空気が好きだった。その環を外から眺めているだけでも心が温かくなり、そこに加われたのならばどれだけ幸せな気持ちに満たされるのだろうか。いつもそんな憧憬を抱いていた。
 木漏れ日の中にいるような温かな日々。嘗てその夢想が昂じて、胸に生じた気持ちがアトラハシスに対しての恋慕なのではないのかと錯覚し、義姉の事を思って一人懊悩した時期もあった。今でこそその正体を覚り、決して語られる事なく閉じた若き日の恋心だったが、その時の淡い喪失でさえソニアにとっては大切な思い出だ。
 だからこそ、その記憶に直結する大好きな二人が口を揃えて楽しそうに語らい、その環に易々と入っていける“アリアハンの次代勇者”を羨ましく、妬ましく思った事もある。“勇者”にまつわる逸話や美談を何の疑いもなく信じていただけにその想いは一入だろう。
 過去に三者の間で紡がれていたという穏やかな時の残影を想うと、アトラハシスとユリウスが争っている姿など見たくはない。それこそが、怯えたまま退き下がる訳にはいかないソニアの理由だった。

 半ば悲鳴となって口を衝いた言葉と、その双眸に燃える意志。それは恐怖により余計な情思が弾かれたが故の、彼女の偽らざる本心だ。それに――。
(きっと……ユリウスは、知らない。殿下と直にを交える事が、どういう事なのかを)
 既にユリウスはアトラハシスと十を超える数だけ切り結び、とかく彼の王子を害さんと猛っていた。その事実は、再会したアトラハシスより齎された、切望して止まなかった真実の断章を強く想起させる。
 つい先刻、自らの心を打ちのめした現実を思うからこそ、ソニアは切実にユリウスを止めなければならない想いに駈られるのだった。
 怯懦に塗れながらも必死に自らの想いを伝えんとする姿勢は愚直で、何よりも純真で。透き通った感情の波が周囲の者の情に強く働きかけていた。現にこの場において完全な傍観者に徹している筈のティルトやオルドファスでさえ、固唾を呑んで一連の事態の行く末を見つめているではないか。
 だが、一番届いて欲しいと思った相手より返ってきたのは、燈明を反して冷たく輝く切先だった。
「それがどうした? 確かに、そんな時期があったのは事実だが所詮は過ぎ去った時間にすぎない。今となっては取るに足らないどうでもいい事……そいつは、ただの魔族だ」
「ち、ちが――」
「違う? 何を考えて違うとのたまう? 自分の立場を顧みて、魔族を庇う為に身を挺するその行動が何を意味しているのか、理解しているのか?」
 アトラハシスが魔族であるのは、再会して最初に彼自身が認めた、決して覆らない事実だった。そしてその魔族を、正式に魔王討伐隊の一人として名を連ねている自分が庇うという構図が、どのような矛盾を生じさせているのか。
 冷酷に手向けられたユリウスの指摘は、ソニアも痛いほどに理解していた。しかし結局のところ、単純に人間か魔族かなどという括りで語る問題ではなかったのだ。
 行方知れずになって既に一年と数ヶ月。若い身空には充分に長いと感じるだけの時が流れていたが、再び見えたその柔和な佇まいは記憶と何ら変わる事のない、穏やかで暖かな木漏れ日そのものだった。
 再逢にじんわりの胸の奥底が熱を帯びるのをソニアには止められよう筈もなく、その事を一体誰が咎められようか。
 アトラハシスがどんな姿になったのだとしても、ソニアにとって彼は大好きな義姉セフィーナの大事な人であり、また自分自身にとっても大切な人に他ならない。その大切な人が目の前で傷付けられるのを見たくない、護りたいと思うのは、情ある人間ならば当然の事だろう。
「アトラ様は……アトラ様よ。昔と何も、変わっていらっしゃらないわ」
 涙を浮べたまま、ソニアは今まで衰弱していた者とは思えない気丈さで告げていた。
 すると間も置かず、自分を見下ろしてくる無の双眸に冷たい輝きが宿る。
「昔と何も変わらない? ……昔のアトラに、俺の打ち込みを片手で受け止める事などできない。殺す気で撃った攻撃魔法を掻き消す事などできない。今見た全ての現実が、奴が既に昔とは別の存在に変わったという事を証明している」
「違う、そんな事じゃない! 私が言っているのは、アトラ様のお心の事――」
「何を聞こうが認めない、と言った顔だな。だがそんな感情論など、現実を直視したくないからこその甘えでしかない。お前が何を言おうが、そいつは人の理から外れた魔族である事実は変わらない」
 得てして現実と世間は冷酷で、逐次それぞれの心情を汲んでくれる訳でもない。いや、情があるからこそ取入る隙あらばすり寄り、糾弾できる隙あらば殺到するのが人間の変わらぬ業である事は、“アリアハンの勇者”であるユリウスだからこそ身を以って知っている事実なのだろう。
 しかし立場が変われば見方も変わるように、ソニアにそれを解する様子はなかった。より正確には、彼女の中で昂ぶる感情が頑なに理解を阻んでいるからであった。
「……いや、いい。お前がそいつを庇いだてする理由はお前だけのもので、関係の無い俺が口を挟む事ではなかったな」
 意外な事にユリウスは自らの言葉をあっさりと引き戻した。その唐突な翻意にソニアは呆気に取られて目を見開くが、既に彼の視線はその手に持つ剣へ注がれている。
「何があろうとも、そいつは敵だ。俺が、殺さなければならない……魔族だ」
 冷淡に語る表情や口調は平素と変わらないものだったが、刃に映る自身の顔を覗きながら吐き棄てる様は、寧ろ一語一語、自らに言い聞かせているようでもあった。
 冷徹さの中に見出した儚い姿を目にした途端、ソニアの心の鼓動が一段と強く跳ねる。
 もしかすると、他ならぬユリウスがその事に苦悶を抱いているのではないか――そんな一方的な想いが胸中を駆け抜け、その際に生じた大きい感情の波が、身を竦ませていた恐怖の鎖を押し流していた。
「だ、め……駄目よっ。そんな悲しい事、させない。させる訳にはいか、ない!」
 蹲っていたソニアは、アトラハシスから渡されていた棒状の包みを強く握り締めて床に突き立てる。
(……姉さん。私に、勇気をっ!)
 胸の内で小さく祈り、悲壮な決意を載せた面持ちで顔を上げたソニアは、やがて包みを支えによろめきながらも立ち上がっていた。そして再び両腕を広げて仁王立ち、全身を以ってユリウスの進行を阻もうとする。
 身体の内側に満ちていく温かな感覚に、何時しか恐怖に震えていた心が凪いでいた。








「バコタの奴が引き取ってきた積荷の中にお前の顔を見つけた時は、流石の俺も目を疑った。まったく……随分と馬鹿な事をやらかしたものだな」
 暗がりの回廊に敷設された牢獄の前に立ち、中を見下ろしたシルヴァンス=グランデュオは気だるげな表情を浮かべていた。
 牢獄といっても、回廊の両側の石壁を剥いで岩盤をくり貫き、鉄の棒を石床と天井にそれぞれ力任せに突き刺して仕切りにしただけの簡素なものだ。薄暗い内外を別つ鉄格子をはじめとして、無理矢理造ったような粗雑さが散見される事から、後で必要に迫られて急造したのだろう。
 回廊に満ちる鬱蒼とした闇と、牢獄という場所が持つ陰湿な雰囲気。そしてそれらに溶け込むような色合いの外套もあって、シルヴァンスの相貌に張り付いた影はより深みを増しているようだった。
「バハラタで大人しくしていれば、この世の薄汚い裏側なんぞを見る事もなかったろうに……正義感が強いのは結構な事だが、それを御する為の思慮深さも養わなければ、それはただの愚昧に過ぎんぞ」
 呆れているのが明らかな不躾た言の葉に、影の中に佇む人影の肩が小さく揺れ動く。
「……どういうつもりですの?」
 それは歳若い女性の声だった。平時ならば耳心地良く聞こえるであろう可憐な声韻であったが、まるで地の底から轟いてくるような迫力には、必死で内側に抑え込んでいる怒りが滲み出ている。微かに震えている肩は、押し殺そうとしている感情の処理が捗っていない証明だ。
わたくしを捕らえ、貴方は一体何を企んでいますの!? いいえ、そんな事よりも、あのような子供達をこんな牢獄に閉じ込めてっ!!」
 憤慨しながら女性の視線が示したのは、回廊を挟んで丁度向かい側に同じように広がっている監獄だった。その房の中は女性が単独で閉じ込められている場所よりも広々としていたが、反して灯明の明るさが行き届いていない為、酷く暗く感じられる。
 ささやかな灯火の光で浮かび上がるのは、幾つもの細く小さな影。それらは十を優に超えるほどの子供達の姿であった。年の頃は下は五、六歳と思える幼子で、上は自らに近い十代半ばほどだろう。髪の色や肌の色、顔の造りは多様で、世界各地から集められたのだと容易に想像できる。男児も女児もいたが、いずれも充分な栄養を得れていないのか痩せ細り、若さ特有の溌剌さ微塵も感じられない。
 牢獄の子供達の殆どが膝を抱えて蹲っていたが、中には力なく横たわった姿もある。いずれも弱々しい呼吸を辛うじて繰り返している事から、不幸中の幸いか死に到っている者はいないようだった。
 とは言え、何の罪もない子供を牢獄に捕らえているという事実は筆舌に尽くしがたき悪しき行いである。
 自らも同じ境遇の女性がそんな非難の視線をシルヴァンスに投げつけると、それに気付いた彼は、ああ、と一つ頷いて死んだように静まりかえった監獄を睥睨した。
「お前も嗅ぎ付けた通り、ここは“とある商会”が世界中から集めている奴隷の一時的な保管場所でな。この地を中継基地して別の場所に移送されるんだ」
「そんな事、今更説明されずともわかっていますわ!!」
「だろうな。奴隷貿易の是非なんぞ、今更お前に説明する気は無い。……だが、お前をこうして拘束したのは安全を慮っての事だ。何をどう曲解しているかは知らないが、な」
「安全、ですって!?」
 冗談ではない、と女性は頭を振った。その際、薄闇の領域から光の圏内に入った為、影に隠れていた女性の面が露になる。
 華やかな印象を与える美しい女性だった。はためいた金色の髪が頭を動かした拍子に優雅に靡き、緩やかな螺旋を描いた髪の束が頬を掠めて弾んでいる。
 麗雅さから最もかけ離れた牢獄という場に在りながらも、その佇まいには淑女然とした生来の気品が少しも損なわれておらず。しかし深窓の令嬢で括るには収まりきらない勝気な強い眼差しは、シルヴァンスを鋭く睨み上げていた。
 だがシルヴァンスはそれが女性の虚勢である事を看破する。美貌とも言える顔立ちには疲労が色濃く滲んでいて、眸の奥で揺れる不安と焦燥を隠しきれていなかったからだ。
 自らを隠す術の未熟さは、若さ故の経験不足であるのは否めない。だが現実的に彼女を追い詰めているのは牢獄の所為だろう、と一人納得する。
 実際、両手両足を満足に伸ばす事も許さない独房は狭く、肉体に不必要な緊張を与えて精神に並ならぬ窮屈さを強いていた。そして暗く閉塞した場所から何時出れるかわからない状況は不安を煽りに煽り、心に蓄積される抑圧によってやがて平静が保てなくなるのだ。
 その果てに訪れるのは意識を闇に閉ざすか、狂うか。いずれにせよ碌でもない結末にしかならない。
 しかしながら、それでもまだ女性が正気でがなり立てる事ができていたのは、特別な計らいで手持ちの燭台を与えられ、何よりもシルヴァンス自身が彼女にとって知己であるからに他ならなかった。
「この遺跡に放っている魔物は野を徘徊している愚図と比べて些か特殊で、魔法耐性が高い。魔族に比較すれば所詮は魔物の範疇を出ないが、それでもお前の実力程度ではどうにもならん」
「ば、馬鹿にしないでくれます!? 私とてイオ系魔法ならば全て修めておりますわ!」
「ああ、そうだとも。爆裂系魔法の適正に関して、お前の素質が優れたものであると評価したのは俺自身だからな。だが、今言っているのはそういう類の問題じゃない。公平な判断を下せばこそ、お前の実力程度ではどうにもならん結実に落ち着くんだ」
 燭台からの光でぼんやりと煌く薄茶の髪をかき上げて、つまらなそうにシルヴァンスは綴る。
 その度に女性からの視線に剣呑さが増していたが、シルヴァンスは気にも留めない。
「そう目くじらを立てるな。こんな閉塞した空間でお得意の爆裂魔法を放とうものならば、寧ろ自滅にしかならんだろうが。そんな事にも考えが及んでいないのならば、流石に浅慮と言わざるを得んぞ」
「……こ、こんな屈辱を受けたのは、初めてですわっ!」
 要するにお前は未熟だ、と面と向かって言われたのだ。女性がこれまでの人生で培ってきた努力とそれに伴う苦悩の時間を思えば、到底それを受け容れる訳にはいかず。例え、それを冷徹に言い放った眼前の男が彼女にとって――。
「若いな。いや、そんなものを感じれるだけ幸せという事か」
 悔しさに歯噛みして紅潮した女性を見下ろしたシルヴァンスは、くつくつと小さく肩を揺らす。
 見え透いた挑発であったが、囚われた女性の双眸が瞋恚に燃え上がった。
「グランデュオ! 貴方は長年帝国の宮廷魔導師として仕え、父上や兄上姉上方が信頼を寄せていた筈です。私も、貴方を師と仰ぎ信じておりましたっ! それなのにっ……その想いを、裏切るというのですかっ!?」
「光栄に痛み入る話だな。確かに、バラモスが出現してネクロゴンドが陥落した後、サマンオサに拾ってもらった事には感謝している。そして俺は俺なりのやり方で恩義を返してきたつもりだ……だがな、裏切るとは心外だぞ、スフィーダ皇女」
「何ですって!?」
 思わず身を乗り出して鉄格子を掴み眦を吊り上げるサマンオサ帝国第四皇女、スフィーダ。
 サマンオサ皇族で最も激しい気性と行動力を併せ持った美姫は、だが黒衣の術師の冷め切った眼差しに気勢を削がれる事となった。
「皇女よ。人間には誰しも優先順位というものを抱えている。お前とてそうだろう? ゼニス教団祭司という対外的な自分の立場よりも、自らの中の正義に従い、こんなところにまで潜り込んで来る程だからな」
「っ!」
 図星を突かれたのか、スフィーダは苦々しく表情を歪める。
「俺には、何に変えても果たさなければならない願いがある。それが俺の中の優先順位で常に頂点に君臨している以上、それ以外の事など棄てるのに何の痛痒も湧かん瑣末に過ぎないのさ」
「こ、ここでの悪魔の所業も、その為の手段だと言うつもりですの!?」
「そうだ。どれだけ外道の極みであったとしても……それが例え、人類全てを敵に回す事態を引き起こす事になろうとも、やらねばならない事がある。俺にも、奴にもな」
 反論に窮した子供染みた糾弾であったが、それを受け止めたシルヴァンスの双眸はどこまでも澄んでいて、とても生命を弄ぶ研究に従事している者の眼差しではなかった。
 いつものように軽薄な様相で飄々と煙に撒くと思っていたスフィーダは、真摯な受け答えに逆に狼狽してしまった。

「それはそれとしてだ。お前は今、ここでの研究を悪魔の所業と言ったな?」
 自らの放った言葉が切欠であったが、脳裡に思い浮かんだ人物と共にその周辺事情も滾々と湧いてきて、シルヴァンスは意味深にニヤリと笑みを刻む。
「お前も一国の王族だから、後学の為にも教えておいてやる。ここでの研究成果は、とある国・・・・とある存在・・・・・を造り上げる為に大きく貢献しているんだ。そしてその過程で得られた結果をこちらでも再検討する事によって、研究を更なる高みへと導く事になった……言ってみれば持ちつ持たれつの関係だな。お前の言う悪魔の所業とやらも、実は世の中を維持する為に使われているんだぞ」
「何を言うかと思えば……言うに事欠いて、外道の所業が人の世の為に? そのような世迷言を信じるとでも?」
「ま、普通の反応だな。だがお前が信じようが信じまいがどうでもいいんだ。現実がそれを証明している」
「……どういう事ですの?」
 饒舌に連ねるシルヴァンスの意図が読めず、スフィーダの眼差しは自然と怪訝に染まる。
「ここでの研究は全て“人工賢者創造計画”に連なるものでな。その被験者のとある存在・・・・・というのは……人間世界を護るとかいうお題目の為に、健気にも魔物を殺し廻っている“アリアハンの勇者”なのさ」
「な……ん、ですって!? ゆ、“勇者”が……そんなっ」
 スフィーダは頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃に襲われ、目を見開いた。
 アリアハン王国と同じく“勇者”を奉ずる国に生きる者の一人として、スフィーダにとって“勇者”とは、正しい心と義勇を併せ持つ、正義の象徴的な存在である。
 そして彼女の中でその称号は、今では自国領内でその名を口にするのも禁じられているサイモン=エレインの事に他ならない。勿論、彼の者と双璧をなしたと云われるオルテガ=ブラムバルドの事も、サイモンに並ぶとされる“勇者”の一人として敬意を抱いているつもりだ。
 いくら王城から自由に出れず、情報を制限される身であったとしても、スフィーダとて遠きアリアハン王国で先の“勇者”の一人であるオルテガの子息がその称号を継ぎ、魔王討伐の旅路に出た事は耳にしていた。
 だからこそ、本来ならば自国であるサマンオサも“勇者”を立て世界平和の為に尽力しなければならない、と常々父王に訴えていたのだったが、これまで一度として聞き入れられた事などなく。逆に迂闊な言動は控えるようにと窘められ、見張り役まで付けられる始末だった。
「蛇の道は蛇。毒を以って毒を制する、という考え方の一種だ。人外の存在を相手にするならば、文字通り人から外れた理に活路を見出さんとするのは自然な流れだろう。いや、そうしなければ抵抗すらできないだろうからな」
「そんな事は――」
 ない、と続けようとしたスフィーダの言葉を遮るように、シルヴァンスの掌が掲げられる。
「言っておくが、バラモスというのは種からして人間とは異なる真正の化け物だぞ。そんなものを相手に、どう立ち向かうつもりだ? まさか、世界同盟の力を結集すればまだ巻き返す事ができるとでも考えているのか?」
「そ、そうですわ。世界中の国々が今一度手を取り合って力を合わせればっ!」
「仲間と一緒に努力を重ね、友情や絆を深め、やがて勝利を掴む……か。成程、確かに人間らしい考え方だ。だがな、昔から使い古された身の毛のよだつ人間賛歌なんざ、綺麗に編纂された英雄譚の中だけの話だ。そう在ればいいと願うが故の妄想、叶わぬ事がわかっているが為の虚言に過ぎない」
 皮肉に口元を歪ませながらシルヴァンスは訥々と続ける。
「“曙光の軍勢”の顛末を思い出せ。同盟史上かつてないほどの人類の群であっても、テドンで大敗を喫しただろうが。そして、それを造り上げたオルテガやサイモンに到っては魔王と直接対峙すらしていない」
「そ、それはっ……」
「それなりの力が寄せ集まったところで、所詮は烏合の衆に過ぎない。そもそも“曙光の軍勢”が瓦解した最大の要因は、圧倒的な力を見せたバラモスに対しての恐怖だ。そのたった一つの感情によって軍勢を軍勢たらしめていた秩序が崩壊した」
 打倒魔王軍を胸に国という垣根を越えて数多の勇士が集い、そして敗退した事実は、世界に無視できない傷跡を刻み込んでいた。それこそ、自ら立ち上がろうとする気概そのものを挫くまでに。
「いいか? それほどまでに人間の意思を統一するというのは至難を極める……いや、俺個人としては人間に感情がある限り不可能だと考えている」
 どこか侮蔑の嘲笑を浮かべているようなシルヴァンスの口調であったが、スフィーダは国で帝王学を学んでいる身として、民の意を束ねる事が如何に難しいかを理解していた。だから咄嗟に反論する事が出来なかった。
「感情ある人間ならば、誰しもが胸に優先順位を秘め、願いや希望、妄執を持っている。それは国を動かす者、戦いに赴く者。日常を謳歌する者……我々も例外ではない。無数の独自をただ一つの意志の下に抑え込む事が困難であると知っていたからこそ、バラモスはこの世界・・・・に侵攻した時、まず最初にネクロゴンドを落とした。世界に僅かな亀裂を入れる為にな」
 魔王バラモスに侵攻される以前のネクロゴンド王国は、世界同盟に名は連ねど、一度として他国と歩調を合わせた事のない孤高の姿勢を貫いていた。保有する国力はネクロゴンド自身を除いた同盟総力に匹敵するとまで実しやかに囁かれ、秘されし国としての文化風習、技術知識は永きに亘り同盟諸国の関心と警戒を強く惹いていた。
 その為、魔王降臨によってネクロゴンドが崩壊すると、国外へと逃れようとする遺臣達の身柄獲得に同盟諸国は水面下で躍起になった。決して表沙汰にはならないが、武力衝突一歩手前まで発展した交渉があったほどなのだ。
 そしてそんな背景の事情により、当事者の一人であるシルヴァンス=グランデュオは紆余曲折を経てサマンオサ帝国に身柄を置く事となった。今より、二十年近く昔の話である。
 徐に天井を見上げたシルヴァンスは、過去を思い返してか深く溜息を吐いていた。
「魔物共の世界への侵略は、散漫に見えて実は人間国家間の繋がりを断つ事を第一に張り巡らされている。地と海の路を分断し、他との接触を阻むように魔物を派兵して、人間達を狭い仮初の安全な囲いの中に追い遣っている。……まあ、世界のあちこちで篭城戦を強いているようなものだ」
 国全体を統括する国家といえど、自らの膝元の安全を確保する事で手一杯な現状は未だに覆されてはいない。事実今では地方都市単位での各個抵抗が主流となっている。
 その為、大都市から離れた場所では、魔物の襲撃に耐え切れず滅びた集落がそれこそ数え切れないほどにある。それが魔物に対する恐怖心を高める事の一助となっているのは疑いようがなかった。
 皮肉に歪んだ声調で朗々と連なるシルヴァンスの言葉を聞きながら、スフィーダは悔しげに俯いていた。
 厭世的な彼の性質を見ないにしても、シルヴァンスが連ねる事柄はいちいちもっともで、異論を挟む余地が無い。
 現実に世界は既に匙を投げ捨て、自ら立つ事を止めている。“アリアハンの勇者”という旗を立て、安全に囲まれた塀の中から声援を送りながらも無関係を貫いているのだから。
「外法によって仕立て上げられた存在が牙剥くべき本当の敵は、魔物か……或いは人間か。果たしてどちらなのだろうな?」
 下唇を噛み締めて小さく全身を打ち震えさせているのは、スフィーダ自身が直ぐに反論ができなかった事への慙愧。或いは自分の信じる“勇者”という存在を穢された事への苛立ちからか。
 牢獄の中で俯いた彼女の心情はシルヴァンスには判然としなかったが、漸くその烈しい気性が凪いだのを覚り、小さく口の端を持ち上げる。
「さて、皇女よ。俺は下に戻るが、お前はここで大人しくして――――誰だ?」
 そして、牢獄を後にしようとした途端。突然踵を返し、シルヴァンスは薄暗い回廊の先に向けて凄まじい烈気を放った。
「ぐ、グランデュオ!?」
 突然の事に面食らったスフィーダに答えず、シルヴァンスは満ち広がる闇の先を凝視したまま。いや、徐に翳していた掌に魔力を収束し、眩いばかりの輝きを発しているではないか。
 それは魔法を放たんとする前兆。シルヴァンスは一刹那のうちに、その恐るべき練度で魔法を発動の最終段階まで組み上げていたのだ。
 次いで一言宣告するだけで、言霊は灼熱の破壊の事象として世界に顕現する。
 闇を打ち払い広がる金赤色の光輝はけたたましく明滅を繰り返し、内に編まれた暴虐の力を解放するのを今か今かと待ち構えていた。
「盗み聞きとは良い趣味をしている。レムオルで姿を晦ませているようだが、それで隠れているつもりか?」
 虚空に伝わる鋭い声は、石壁や床、闇に埋もれた天井のあちこちに反響して、その余韻を広げていく。
 やがて、空気が硬質化したかのような重苦しい沈黙に耐えかねたのか、ふぅ、と溜息が闇から零れ落ちた。
「お取り込み中だったから素通りしようと思っていたのだけど……仕方ないわね」
 余談許さぬ韻に返ってきたのは、涼やかな声だった。回廊に満ちる逼迫した空気をまるで気にしていないのか、暢達な声韻は朗々と響き、辺りに犇いた闇を揺らしてその奥より二つの人影を浮かび上がらせる。
 現れたのは、どこか不貞腐れているように厳しい眼差しの光闇の妖精ミリアと、薄っすらと不敵な微笑みを湛えた白妙の賢者、ルティアであった。








――時間を少し遡る。
 話し声が聞こえたというミリアに先導される事、四区画。この世ならざる光景の回廊は、いつしか全く別の様相に変わっていた。
「これはまた……随分と辛気臭い場所ねぇ」
 辿り着いた場所の全容を瞥見したルティアは、辟易したように呟く。
 地上から既にかなりの深さに到達しているため空気は澱み、肌寒いほどに冷たい。加えて前の回廊に敷設されていた施設の事も考えると、鬱屈した気分になるのは仕方のない事だ。
 そんな中。ただでさえ闇が充満している通路が、先のただ一点に向かって収束している様は、奈落の底に誘っているかのように不気味で言いようのない不安を煽り立てる。あちこちに備えられた燭台の光がその役割を殆ど果たせず、寧ろ蔓延る黒に埋没しかけている現実がその印象を殊更強くしていた。
「こんな場所にあるのだから、さぞ後ろ暗い事情があるのでしょうね」
 暗がりにひっそりと佇むくろがねの列柱は、その華奢な佇まいとは裏腹にしっかりと床に突き立ち、今にも落ちてきそうな天井を支えている。
 気をしっかり持たねば意識が闇に塗り潰されてしまいそうになる監獄。その寒々しさはこれまでの異様さに比べれば遥かに現実味があったが、如何せん明るさに欠ける分、重苦しい事この上ない。
 鉄格子の先でぐったりとした子供達は、いずれも寒村で糊口を減らす為に身売りされたか、魔物によって滅ぼされた村落の生き残りか。こちら・・・の世情に疎いルティアであっても、彼らがこんな場所にいる経緯を想像する事は容易かった。
 しかし、かといって同情するでもなく。
 ルティアは往々に共通する唯一の点……それぞれの首に巻かれた、何らかの紋様が記された革の首輪を注視していた。
「……垣根を越えたところで、人間のやる事に大した差なんてないのね」
 感情を窺わせない冷め切った相貌で牢獄の内部を見つめていたルティアは、寂寥と諦念を一瞬だけ零し、そのまま肩越しに後背を見やる。
「……」
「あら、だんまり? さっきまでの威勢はどこに行ったのかしら?」
「……誰の所為だと思っているのよ?」
 その挑発染みた言繰りに、間髪入れず恨み節が返ってくる。
 臙脂のフードを深く被り、胸の前で『嵐杖・天罰の杖』を握り締めたエルフ、ミリアが剣呑な眼差しでルティアを睨み上げていた。
 先駆けした筈のミリアがルティアの影に身を潜めるようにしているのは、この監獄の回廊に立ち入る直前に異種族の子供達が大勢いる気配を察知したからである。人界で生活するようになってからの十数年で大分慣れてきたとはいえ、やはり見知らぬ大勢の人前に姿を晒すのには抵抗があるのだ。
 そして何よりも今、ミリアの機嫌は最高潮に悪かった。直前の回廊に並べられていた円柱の中にノエルと同じ年頃で似た容姿の少年が放り込まれ、苦悶を浮かべた表情のまま水中を漂う姿を目の当たりにしてしまったからである。
 一瞬で沸点を超えて魔法を解き放ちそうになったミリアであったが、その刹那に魔呪封印魔法マホトーンをルティアによって施され魔法が使えない状態に陥っていた。
 そんな事実が彼女の尖った神経を更にささくれ立たせているのは間違いない。
 ちなみにルティアはというと、そんなミリアに気を使うつもりなど毛頭なかった。背に突き刺さる視線にもどこ吹く風で、軽やかな歩調で進みながら周囲を眺めている。
 監房内部の床一面に描かれた幾何学陣と紋様が、ぼんやりとした光を湛えていた。
「この子達は……ラリホーで眠らされているのか。ここはふるい、という事なのね」
「篩?」
「簡単な選別よ。ある一定量の魔力で睡眠魔法を掛ける事で、それに耐えれる者と耐えられない者を見極めているの。耐えられない者は魔法抵抗力が低い、つまりマナへの親和性が潜在的に低いという事だから、その者達を再結晶の核としているのでしょうね」
 澱みなく紡ぐルティアの言は確信に満ちていた。
 容器に満ちた魔物の体液から負陰のマナを抽出し、触媒となった人間の体内に集める事で結晶化させる再結晶という手法。その肝となるのが、触媒自身が有するマナへの親和性だ。
 親和性とはマナとの同調度を示し、無色透明なマナを自らの色に染め上げる度合いである。これが高ければ高い存在ほど、世界に満ちる無色のマナを己が裡に取り込み、自らの色に染め上げて糧とする事ができる。その結果、魔力エーテル闘氣フォースに対する抵抗力の増強や、扱いに秀でる特徴を示すようになる。
 逆に低い者は、万物に共通する性質であるマナの循環効率が悪いため、外界のマナをそのままの色で取り込んでしまい、内外の異色間で軋轢が生じる。その状態は空孔のような歪みを抱えた安定とは程遠いもので、魔力、闘氣を介する事象の影響を強く受ける事になるのだ。
 そんな理屈の元、外界のマナをあるがままの形質で残したいのならば、この特性を利用して親和性の低い存在の内側に保管してしまえばいい。暴論ではあるが、これが再結晶という手段の基幹理論だった。
 しかし、実際に再結晶が行なわれている様子を目の当たりにしたならば、おいそれと頷ける気分ではなかった。つまり今ここで寝入っている子供達はいずれも魔法に囚われる程度に親和性が低く、あの円柱の中に放り込まれるという事なのだから。
 先程見えたノエルに似た子供の苦悶の姿が脳裏に蘇り、ミリアははらわたが煮えくり返るのを感じていた。
「……どうするのよ? ラリホーの魔法陣なら、ザメハで解除はできないの? 陣そのものにマホトーンをかけて魔力を遮断させるとかは?」
「無理ね」
「ず、随分とはっきり言うわね」
 これまで散々歯に衣着せぬ態度をとってきたのだから強気に肯定でもするのかと思ったが、牢獄内部の天井、壁、床に刻まれた紋様を一瞥してきっぱりと否定したルティアにミリアはうろたえてしまった。
 そんな彼女を冷めた眼差しで眺め見たルティアは淡々と続ける。
「残念ながら、そこの魔法陣はレイライン上に設置された事もあってある意味“連環級エヴィヒカイト”に至っている。物理的に破壊しようものならば、反作用で酷い目に遭うだろうし、直接的な魔法干渉ができるとしたら、この場では精々あなたくらいなのでしょうけど……そもそも意味が無いわ」
「い、意味が無いですって!?」
 誰の所為で魔法が使えないのか、とミリアは詰め寄るもルティアは応じない。
「魔法陣の解除なんてしなくても、この手のものは物理的に陣の有効範囲外に連れ出せば自ずと解ける。魔法陣の影響はどうやらこの通路まで届いていないみたいよ」
「それなら早く――きゃあっ!?」
 聞くや否や牢獄の扉に手を掛けたミリアであったが、唐突に後ろから引っ張られ身を仰け反らせた。
 頭と首に生じた予想外の痛みに小さな悲鳴を挙げ、ミリアの思考は一瞬停止してしまったが、実際には何て事もない。今まさに駆け出したミリアの青藍の髪を、ルティアが無造作に引っ張っただけの事だ。
 数瞬遅れて何をされたのか覚ったミリアが、何をするのだ、と眦を吊り上げて激昂するも、当のルティアは少しも悪びれず、これみよがしに溜息さえ吐いていた。
「……少しは落ち着きなさい。ここ、魔物がいるのを忘れていない?」
「……え?」
「魔族の巣穴の中で何を呑気な……よく気配を探りなさい」
 指摘されてギクリと肩を震わせたミリアは、慌てて周囲に意識を集中させる。
 すぐさま妖精種由来の優れた聴覚が、深々と広がる静寂の中に自分達の心臓の鼓動、牢獄内の子供達の呼吸の音をしっかりと捉えた。そして、それらに紛れるように細々と空気を貪りながら、必死で自らを抑えつけている異質な拍動も。
 耳に飛び込んできた違和感に、ミリアはその源である天井を見上げる。薄暗い上に濃密な闇が犇いている所為で、天井そのものを目視する事はできそうにない。だがそこには確かに生ある者の気配が蠢いていた。
 警戒を失念していた訳ではなかったが、滾る怒りに些か疎かになっていたのは否めない。しかしそれであっても、身近に潜んでいた醜悪な気配を見過ごしていた事に、ミリアは愕然とする。
「ど、どうして襲ってこないの!?」
 魔物とは言わば破壊衝動の塊だ。その対象は主に人間だが、エルフとて例外ではない。
 ミリアの疑問はもっともであったが、背中でそれを拾ったルティアはどうでも良さそうに肩を竦めた。
「さあ? 貴女の怒気に恐れをなしているんじゃないの?」
「ふざけないで!」
「魔物、といっても元は野生生物だからね。私に牙を剥けば殺される、というのが本能的にわかっているんでしょう」
 なんとも強気で倣岸不遜な言い方であったが、天井の闇を仰いだルティアの平静な表情が、ただの事実である事を物語っていた。
 そんなあまりにも落ち着いた様子に、狼狽している自分が滑稽に思えてしまい、それを認めるのが癪だったのでミリアは自然と悪態を吐いてしまう。
「……はっ、大した自信じゃない。それならこの牢獄はどうして無事なの? まさかこの鉄格子には魔物除けの細工が施されているとでも言うつもり?」
「目敏いわね。どうやらそうみたいよ」
 つまり子供達を救い出すためには、単純に鉄格子を破壊して魔法陣の外に連れ出せば良い、という事にはならない。牢獄の中では覚めない眠りの蔓に囚われ、一歩でも回廊に出れば魔物に襲われる危険性と向き合わなければならないのだ。
 進む事も退く事もできない状況に、ミリアは思わず地団駄を踏んでいた。
「お手上げじゃない! どうすればいいのよ!?」
「お手上げも何も、私はどうするつもりもないけど?」
「見捨てるつもりなの!?」
 牢獄内の床を眺めながら訥々と語っていたルティアが冷然とした視線をミリアに向ける。
「そんな疑問が発せられる事の方が私にとっては疑問ね。貴女はここに何をしに来たの?」
「そ、それは……」
 二人が受けたのは、この遺跡の破壊である。主にそれはルティアだったが、ミリアも師であるジュダに補佐として放り出された以上、目的は同じである。
 最優先すべきはこの遺跡の破壊。“人工賢者創造計画”に端を発する研究成果全ての滅却なのだ。
 口を噤んだミリアが漸くその事を思い出したのだとして、ルティアは闇の先へと歩を進める。
「今ここにいる理由を考えたら自明な事。余計な荷物を持つ余裕なんて私にはないわよ。これでも一応、身の程は弁えているつもりだから……それに、あの子達を助けなければならない理由なんて、私にはないしね」
「あなたは理由が無いから助けないというの!?」
「助ける、なんて行動は助けようとする側のエゴの押し付けよ。全てがそうだとは言わないけど、他人の介入を快く思わない考えの人もいる訳だし。相手が助けを求める明確な意思表示をしたならばまだしも、一方的に干渉しようとは思わないわ」
 我ながら実に穿った見識だと自覚しながらも、ルティアは改めようとは微塵も思わない。そう結論付けるに至ったこれまでの経験が、ルティアの意志を頑ななものにしていた。
 そしてそれを意識する事は、過去の記憶を脳裏で蘇らせてしまう事と同義で、自然と眉が顰められてしまう。
「そもそも手を引かれる側の人間に限って、状況が悪くなれば引かれている立場というものを逆手にこちらを非難して喚き散らしてくる。人間ってどこまでも身勝手で、いつも反吐がでそうな文句ばかり言う生き物だから……必要以上に関わりたくないのが本音ね」
 不機嫌さからなのか、ルティアの声調は低く、冷たい。頬に触れてくる髪の一房を後ろに払った様子は、苛立たしさを隠すつもりがないようだ。
 硬質な足音を発てて歩いていたルティアは不意に立ち止まり、半身だけ振り返って何かしらの感情が篭った眸でミリアを見下ろす。
「私が理屈ではなく心から助けたいと思い、私のエゴを押し付けたいと思う相手は……この世界で、ただ一人だけでいい」
 連ねる度に冷たさを増していく独白を、ミリアは呆然とした表情で聞いていた。
 大胆不敵で傍若無人。どこまでも我が道を往く白妙の女は、誰の意志にも左右される事なく、どこまでも自分の倫理に従っている。
 そしてそんなルティアにとっての例外である人物が誰なのか、つい先程のやり取りを思い返してミリアには何となく察しついてしまい、胸の内に言い様のない靄がかかった。
 そもそもミリアとて、牢獄の中にいたのが人間の大人だったならば助けようとは思わなかっただろう。過去に人攫いに捕らえられそうになった心の傷が確かに残っているのだ。長命のエルフ族であるために、その記憶は中々薄くなってはくれない。
 子供達を助けようとミリアを駆り立てているのは、全て自分にとって特別な存在であるノエルを想起させる容貌が故であった。
 しかし自分の事を棚上げするにしても、ルティアの考えはミリアにして苛烈と思わせた。特に人間に対して抱いている心情は、自分よりも遥かに黒く、憎悪よりも怨讐に近いとさえ感じてしまう。
「……ふん。見かけ通りに冷め切った女ね」
「直ぐに熱くなって取り返しのつかない事をするよりはマシだと自負しているわ」
「ああ言えばこう言ってきて……まったく、口の減らないガ――」
「レムオル」
「ち、ちょっと――んぐっ!?」
 突然透明化魔法を使用したかと思うと、ルティアは足を止め、その手でミリアの口を塞いでいた。
 先程ミリアが聞いたという男女の話し声が、ここに来てルティアの耳にも届いたからだ。
 その事を逐一ミリアに説明するのも億劫だったのか、ルティアはただ行動のみで示し、自分達の隠蔽を図る。勿論、抗議の意を迸らせる存在を意図的に意識から外して。
 そうしてルティアとミリアの姿は闇に溶け消え、回廊には静寂と、ミリアの発した怒りの残滓だけが残された――。



「出て来いと言われて出てくるなんて、私って素直だと思わない?」
「その小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべている時点で思わないわよ」
「酷いわねぇ。見つかったら面倒だから、気を利かせて素通りしてあげようと思っての事なのに」
「……ふん。バレたのだって、どうせあなたの声や図体や態度が大き過ぎたからでしょうが」
「あの場で姿を現さなかったら、多分攻撃されていたわよ。こんな狭い場所でギラを馬鹿正直に喰らってやる理由もないし、レムオルをかけている間は極端に魔法抵抗力が低くなるから、今の私には初級魔法でも甚大な被害を受けてしまう。危険な橋は渡りたくないのよね」
「あ、あなたね。その攻撃しようとしている奴の前で、馬鹿正直に自分の不利を暴露するなんて、何を考えているの!?」
「あら、そういえばそうね」
 シルヴァンスとスフィーダの前に姿を現したルティアは、今まさに攻撃魔法を解き放たれんとしている状況にあって、相変わらず余裕の笑みを湛えていた。
 ミリアはミリアで辛辣な口調で返していたが、あっけらかんとした佇まいで自らの不利を惜しげもなく曝すルティアに、動揺を隠せないでいる。
 場も弁えずどこか緩やかな雰囲気で互いを罵りあう闖入者達に、牢獄の中のスフィーダは呆気に取られ、魔法を解除したシルヴァンスは翳した掌をそのまま額に当てて疲れたように嘆息した。一瞬だけミリアの姿を見て目を瞠ったが、直ぐに平静を装ったため、それに気付く者はいない。
「……色々と鼠が入り込んだとアトラの奴が言っていたが、まさかこんなところにまで潜り込んでくるとはな」
 呆れるような、感心するような、どちらとも言えない言い方だ。
 しかしルティアはそんな苦言を聞き流し、ちらりと横目で左右の牢獄の中を検める。
「ここでも子供達は眠らされているのか。関与するつもりがないとは言え、このまま素通りしたら、何だか私が悪い事をしている気分になって滅入るわね」
 言葉に反して声には少しの後ろめたさも感じられなかったが、ルティアはいつの間にか抜き放っていた細剣『隼の剣』を閃かせる。
 暗闇の中に二条の光が奔ったかと思うと、左右の牢獄に掛けられた無骨な錠前が綺麗に分断され、ほぼ同時にゴトリと鈍い音を発てて床に転がっていた。
 ルティアはそのまま剣の切先を、未だに構えすらしないシルヴァンスに向ける。
 ぶつかり合った二つの視線は、いつしか両者の相貌に仄暗い笑みを引き出していた。
「逃げたければどうぞご自由に。あの子達をどうにかしたいのなら、牢獄から引き摺り出せば自ずと眼が覚めるでしょう。だけど、中から出れば魔物に襲われる可能性があるわ。現状を維持するならば魔物に対しての安全は保障されるけど、意識は断たれて自由が利かず、状況に流されるまま」
 好きな方を選ぶ事ね、とルティアは誰にでもなく虚空に投じる。別にルティアとしては放置しても良かったのだが、連れに駄々を捏ねられるのも鬱陶しいので、この提案はそれを回避する為の打算に過ぎなかった。
 しかしそれでも、ルティアの思惑をどう捉えるかは、捉える者に依る。
 周囲に満ちていく不穏な空気に、いつの間にか傍観者の側に弾き出されてしまったスフィーダは、今の言葉が自らに向けられたものだと察し、やるべき事を思って双眸に強い意志が再び燈らせた。勿論突然に現れたルティアやミリアへの不審は拭えなかったが、身動きが取れない現状よりは遥かにマシだと自分に言い聞かせて。
 何時しか、信用も信頼も全く介在しない協調体制が築かれる。
「おいおい、あんた。いきなり出てきて余計な事をしないでくれるか?」
 シルヴァンスとしては、魔物からスフィーダを保護するために牢獄に入れていたのだから、ルティアの行動は余計以外の何者でもないだろう。
 だがそんな諫言をルティアが受け取る筈もない。
「こっちはこっちの事情で動いているの。そちらの都合なんて一々斟酌なんてしていられないわ。……特に、澱んだマナの匂いを撒き散らしている相手の都合なんて、ね」
「随分と鼻が利く女だな」
 少しも動じた様子のないシルヴァンスが目線だけを横に動かすと、途端にルティアがその場から飛び退く。
 次の瞬間。死角である天井から影を纏った何かが飛び出し、落着。そのままルティアが立っていた場所の石床を打ち砕いていた。
 濛々と立ち上る煙の中、のっそりと影が蠢く。姿形は明瞭ではないが、影が動くと周囲に生物的な存在感が撒き散らされる。重圧さえ轟かせるそれが生物であるのは瞭然で、この回廊で結び付く可能性は一つしかない。魔物だ。
 突然の事態の変化にミリアもスフィーダも蹈鞴踏んでいたが、鮮やかに急襲を回避したルティアは着地後、躊躇いなく前に踏み出し、手にした剣で襲撃してきた影を煙ごと袈裟に切り裂く。更にもう一歩前進し、素早く引き戻していた剣を真正面から突き出して追撃を放った。
 それは大空より地上の獲物を討つ隼の如き動作。一呼吸の間に放たれた瞬閃の二連撃。
 煙中で次の動作に移ろうとしていた魔物は、風を凌駕せんとする刺突に急所である首を貫かれ、あわや動きを止める事となった。せめてもの抵抗として悲鳴ならぬ悲鳴を挙げながら自らに埋まる刃を抜こうともがくが、ルティアが容赦なく刃を返した事でそれも叶わず。
 結局断末魔さえ挙げられず、血潮を床に撒き散らして魔物はそのまま絶命した。
 あまりにも呆気ない終焉を迎えた魔物の骸を冷徹な眼で見据えていたルティアはゆっくりと剣を振り払い、刃に塗れた青き血を取り除く。
「……いきなりなんて無粋じゃない」
「そう言うな。土足で他人の家に上がりこんだ挙句、器物を破壊するような真似をしでかしたお転婆なお嬢さんに灸を据えてやろうと思ったんだが……なかなかどうして。大した反応じゃないか」
 口元を歪ませて嗤うシルヴァンスに、ルティアの相貌に危うげな冷笑が浮かぶ。
「あなた! こんな子供をっ」
 緊迫感が膨れ上がる両者の間に割って入ったのは、ルティアの背後で佇んでいたミリアの叫びだ。一瞬のうちに開かれ閉じられた戦端に、身構えるしかできなかった彼女であったが、優れた感覚が元凶の正体を容易く看破する。
 煙が晴れ、石床の破片に埋もれていたのは予想するまでもなく魔物の死骸だった。いや魔物である事は疑いようがないが、一概にそう言い切ってしまうにはあまりにも違和感がある、人間の子供程の体躯の何か・・であった。
 顔を顰めて背後から責め立ててくるミリアに、ルティアは向き直る。
「子供? よく見なさい。こんな魔物の出来損ない……あなたは子供と呼ぶの?」
 既に動かぬ魔物の顔はその骨格が歪に拉げていて、片方の眼窩から血走って青く染まった眼球が半ばほど飛び出ていた。耳元まで裂けた口から覗くナイフのように鋭利な歯。顔の半分は不自然に紫色の体毛に覆われていて、側頭部からは角らしき突起が生えている。
 そんな異貌を真正面から見る事になったミリアは、そのおぞましさに数歩後ずさり、口元を手で押さえ胃からせり上げてくる不快感を留めるのに必死だった。
 錠の外された牢獄の中で、目の前で起きた戦闘……いや、魔物の正体にスフィーダも絶句している。
「姿形から考えると、ベビーサタンの変容体ね。変異が中途半端に終わった所為で、こんな醜い姿になってしまったようだけど」
 そう言い切ってルティアは小さくニフラムと唱え、魔物の死骸を光の中に消滅させる。骸は肉片一つ残さず掻き消え、砕け散った石片と血液だけがおどろおどろしく周囲にこびり付いていた。
「ほう、出来損ないと解りながらも変容体を躊躇いもなく斬り殺したか」
「生憎と、牙を剥いてきた敵には容赦しない事にしているの」
「そいつは殊勝な心掛けだ。今の時代、中途半端に掛けた情が一瞬後に覆されるのも良くある事だからな。そういった冷徹さは好ましくはある……なあ、あんた。どういうつもりでこんな場所まで来たかは知らないが、俺達はもうじきここを撤収するつもりなんだ。お互い、被害を被る前にお開きといかないか?」
「それは魅力的な提案ね。個人的にはそうしたいところだけど……こちらも仕事で遠路遥々来た訳だし、ね。それなりの成果の一つでも見せないと、依頼主に何を言われるかわかったものではないのよ」
 勿論、家主とは“魔呪大帝”であり、成果とはこの遺跡の完全消滅の報に他ならなかったが。
 うっすらとした好戦的な笑みを崩さないルティアの不敵な言い様に、物騒さを感じ取ったシルヴァンスは深く溜息を零す。
「……ま、ここが何なのか理解しているのならば、素直に帰る筈もないか」
 諦念に瞼を落としたシルヴァンスが小さく肩を竦め、パチンと一つ指を鳴らす。すると牢獄の中で起きていた一人の少年の首輪の文字が輝き、その効力を発揮した。
 一瞬でその子供はシルヴァンスの前に現れていて、首輪が強制転移魔法バシルーラを応用して作られた魔導器である事をルティアに知らしめる。
「まあ折角お越し頂いたんだ。余興と呼ぶには些か不躾だが、せめて存分に堪能するといい」
 状況が呑み込めていない子供の頭に優しく手を載せ、シルヴァンスはいつの間にか取り出した一枚の青銅色のメダルを少年の額に乗せる。
 変化は、直ぐに起こった。
 子供の拳大のメダルが青と黒が入り混じったおどろおどろしい光を発したかと思うと、布地に浸透する水の如く少年の皮膚に染み込んでいく。
 本能的な拒絶か。自らの中に異物が入り込んでいく感触に恐慌をきたし、少年は混乱の絶頂に至る。
「い、いやだああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁァァァ……ギギギギ」
 少年が白目を剥き、口泡を飛ばし、その身体に異変が生じる。不自然に痙攣した両腕が体躯に不釣合いなまでに肥大し、皮膚という皮膚が青緑に変色していく。バキバキと耳に残る厭な音を発しながら背中から幾つもの禍々しい角や棘が生え、そのまま巨大な皮膜の翼となった。
 人間が人間でなくなる光景は、もはや悪夢という他なかった。
「こ、これは……魔物化、したというのっ!?」
「うっ……」
 眼を瞑って顔を逸らせるスフィーダに同調したのか、若干ミリアも泣きそうになっている。
 常識とはかけ離れた現実を前にしたのだから無理もない事だろう。
「ふむ、変容速度と安定がいまいち、か。予定ではもっとスムーズに変異する筈だったが……まあ澱みきった霊穴で精製できる物としては妥当なところかね」
 成果をじっくりと検分するシルヴァンス。その双眸に一切の感情は載っていない。
「アぎ……ギギた、タズげ、デ……」
 既に魔物となってしまった子供の眸から、一滴の涙が零れ落ちる。床に弾かれたのは、赤と青が入り混じったおどろおどろしい色だった。
「な、んなのよ……何よ、これは!?」
 悲叫するミリアの声を背に、相貌から感情を消したルティアは子供だった魔物とシルヴァンスを交互に見比べる。
「『幻魔石モンスターメダル』……あの回廊に並んでいた悪趣味な標本が造り出す物。埋め込まれた対象を強制的にメダルの種類に応じた魔物に“転生”させる、性質の悪い玩具よ」
「……これは驚いた。随分と博識なお嬢さんじゃないか。どこでそんな情報を仕入れたんだ? 表の世界ではまだ語られていない筈なんだが」
「“賢者”ならばその作成方法を引き出せるのも自明、か。考えてもみれば、“転生”や“転職”に関する智が格納された第五篇“完美ティファレト”に接続できるならば当然よね」
 ここで初めてシルヴァンスが動揺を表情に載せる。
「……本当に何者だ? 見ない顔だが」
「何者ですって? 智を与えられる事に慣れているのなら、貴方の持つ『悟りの書』に訊いてみればいいでしょう。果たして、どんな答えが開示されるのでしょうね?」
 ゆっくりと細められたその双眸の暁の輝きは、闇の中にあってどこ何処までも大胆に、どこまでも不敵に強く輝いていた。








 空気が凍るとは、こういう状況の事をいうのだろうか。
「――――っ!?」
 ソニアが再度ユリウスの正面に立った瞬間。誰かが息を呑む気配が部屋の中に深々と伝わる。
 そして同時に小気味良い乾いた金属音が高らかに轟き、ソニアの身を襲っていた圧力が唐突に霧消した。
「え?」
 今の今まで押し潰されそうになっていた当人であるソニアが何事かと目を凝らせば、大きく眼を見開いたユリウスが呆然とした相貌で、虚空を掴んだまま立ち尽くしているではないか。
 その足元には床に弾かれ、小さく戦慄いている剣が転がっている。今の甲高い乾音は、ユリウスがその手から剣を取り落とした際に生じたものなのだろう。
 だが敵陣の、しかも戦闘中に自失から武器を手放すような失態を犯し、それを正す素振りさえ見せず硬直したままのユリウスの姿に、ソニアもまた信じられないものを見たかのように目を瞠る。いや、ソニアだけでなく、嘗てこれ程までに動揺を露にしたユリウスを知らない者達にとっても異様だった。
「な、ぜ……何故、お前が……それを、持ってい、る!?」
 床に転がった剣が、厭に耳に残る残響を場に刻んでいる。
 その僅かな余韻にさえ掻き消されてしまいそうな薄弱な声韻。途切れ途切れに呟くユリウスの声は既に擦り切れているようで、微かに震える漆黒の眸はソニアが持つ包みの中身……立ち上がった際に布が剥がれて露になっていた、古ぼけた木製の杖に注がれていた。
 猛獣の爪牙のような鋭い形状の木片に、細長い枝を取り付けただけの簡素な木杖。しかし、埋め込まれた青い宝玉と杖そのものが発している厳かで神聖な雰囲気は、初見で得られる粗末な印象を払拭する。
 ソニアが手にしているのは、『賢者の杖』という選ばれた者しか手にできない由緒正しい魔導器だった。
 威風堂々と佇むそれから、ユリウスは視線を外せない。
「……ぜ、お前が…………てい、る?」
 ユリウスはよろよろと数歩後退し、空いた掌で顔を覆う。指の隙間から覗く眼は、眼球が零れ落ちんばかりに見開かれていて、漆黒の眸は忙しなく左右に揺れていた。
 口腔から肺腑に落ちる空気の量が紡ごうとする声量を凌駕していて、尚もユリウスはまともに声を発せていない。
 かつてないほどに動揺を示したユリウスの変貌に、ソニアは不可解さを覚えるのと同時に、例えようのない不安が増大するのを感じていた。
「ユリ……ウス?」
「なぜ……お前がっ、その杖を持っているっっ!!」
「ひっ!?」
 突然転じた烈々とした形相と、耳を劈かんばかりに轟く怒号。そして再びソニアの身だけに降り掛かってきた熾烈な圧迫感。それらの何れもが、先程の比ではなかった。
 近寄れば斬られる。触れようとすれば斬られる。目を合わせれば斬られる。口を開けば斬られる――ただ死という事象を髣髴させるだけのわかり易い殺気ではなく、最早何をしても斬滅は免れないのだと、抵抗する気力さえ奪い去るおぞましいまでの気魄。
 ユリウスの激情と絡み合って飛ばされたそれを、他人の情感に敏感なソニアは誰よりも多く拾ってしまい、杖を握った事で得られた僅かばかりの勇気など完全に蹴散らされてしまった。
 自らの人生においてここまで明瞭な怒気を向けられた経験が無いだけに、思考は真っ白になって停止してしまい、無意識に堰を切って溢れ出した涙が双眸から溢れ、頬を伝って落下する。
(怖い……怖い、怖い……怖いこわいこわいっ!!)
「何処で知ったっ? 誰に訊いたっ? 何を見たっ?」
 ユリウスが前に進む。足元に転がっていた土塊が床の砕片共々踏み躙られた様は、彼の気勢の激しさを物語っているようだ。
 しかし再度床に崩れ落ちていたソニアは、既に身動き一つとる事もできない。ただユリウスが近付いて来るのを、喘ぎながら涙で濡れた眼で見ているだけだった。
「あ、あああ、ぁぁぁぁぁ……」
 何が怒気があればマシだった、とソニアは恐慌に陥らんとする意識の片隅で思う。
 ユリウスの漆黒の双眸は無情に、鏡のように現実を映し返しているのではない。絶対的に内外を隔てる強固な理性で、徹底して自らの感情を抑え付けていたのだ。
 そして今、鏡面に奔った亀裂より零れてくる憤怒という感情。こんなにも烈しく、こんなにも恐ろしいものが荒れ狂い、自分を見つめている。純然どころか様々な色調の黒が渾然と交じり合って層を成している混沌の眼差しが、ソニアにはたまらなく怖かった。
 眼前に到ったユリウスはソニアの襟元を乱暴に掴み上げ、無理矢理に立ち上がらせる。既に何の抵抗もできないソニアの目線を自らと同じ高さに合わせ、真っ直ぐに濡れた紅の眸を睨み据えてはその首筋に剣を添わせた。
「ぁ、ぁ……っ!」
「言えっ! 答えろっっ!!」
 互いの眸を覗き込めるまでに引き寄せられた至近距離で、ユリウスの凄絶な剣幕に射竦められたソニアはただ半開きの唇を震わせるだけで、最早声を発する事などできない。
 漆黒の双眸は光の傾きの所為か蒼く揺らめいていて、それが余計に恐怖を助長させる。
 滂沱として零れる涙を止める事もできず、ユリウスにズタズタにされた彼女の意識は、今にも焼き切れようとしていた。
「どこで、それをっ……手に入れたっっ!?」
 烈しく吼え、鬼気として迫ってくるユリウスが、ソニアには今までに見えた魔物、どんな魔族よりも恐ろしく見えた。




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