――――第六章
       第十五話 暴かれし徒口







「そんなの、ぼくが渡したに決まっているじゃないか」

 呆れたような声色は、頭上より聞こえてきた。

 ユリウスの絶叫が木霊する大広間に、パリンと薄氷を打ち破ったかのような小気味良い音が響きわたったかと思うと、静かに何かが床の上に着く音が生じる。
 壁に縫い付けられていた筈のアトラハシスが、羽毛の如き軽やかで降り立ったのだ。
 その周囲にちらちらと散華している赤色の光の残滓が、今の今まで彼を磔にしていた光杭であるのは一目瞭然。悠然とした仕草で、漆黒の外套に付着した埃や煤を払うアトラハシスの姿からは、中級閃熱魔法ベギラマの直撃を受けた影響など微塵も感じられない。

 結局、ユリウスの奇襲は翡翠の君が纏う外套を少しばかり焦がした程度で、当人には届いていなかった。

「闇に紛れる、なんて事は良くあるけど、光に隠れる、か。やれやれ、想定外の連携だから油断しちゃったよ。相変わらず、戦術面に関しての発想は見事だよねぇ」
「……アトラっ!」
「おっと」

 てらいない感想を愉しげに綴るアトラハシスの暢達な佇まいを目の当たりにして、ユリウスはソニアを突き飛ばし、足元に転がっていた剣を拾う。そして一気に間合いを詰めてアトラハシスに上段から斬りかかった。

 だがアトラハシスも、そんなユリウスの行動を予見してか、肉厚な大剣を軽やかに翻し、迎撃する。

 一度二度、三度。閃く度に加速が高まり、四度五度六度。

 息を吐かせぬ速度で刃が跳ね、乾いた甲高い剣戟が間断なく、沈黙が落とされた場に幾度も轟く。
 やがて二十を数えるやいなや停止し、交錯した刃を挟んでユリウスとアトラハシスの目線が絡み合った。

「……どういう、つもりだ?」
「ん、何がだい?」
「何故、その杖をそいつに渡したっ?」

 叫びと共に刃を押し込むユリウスであったが、アトラハシスの身体は少しも動かない。
 過去に膂力で彼に後れを取ったことのない歴然たる事実がユリウスを一層苛立たせ、漆黒の双眸の中で狂奔する憎悪の焔が、その危うい輝きを昂ぶらせる。

 目の前で膨れ上がる怒気を宥めすかすように、アトラハシスはニコリと微笑んだ。

「君も知っての通り、『賢者の杖それ』は念じて振るえば中級回復魔法ベホイミを発現する魔導器だからね。危険な旅路に在るなら、色々と役立つ手段は揃えておくに越したことはないじゃないか。それに、ソニアが持っていた方がセフィも喜ぶし」
「……どこで、それを用意した?」

 既に視線だけで人を殺せそうな程の殺気をアトラハシスに向けながら、ユリウスは詰問を繰り返す。
 声色が激昂から一転して低く静かになっていたのは、アトラハシスの真意を量らんとしているからなのか。

 そんなユリウスの内心など見透かしているかのように、アトラハシスは悪戯っぽく笑みを浮かべ、ちらりと目線だけを横に動かす。
 その先には、ユリウスの背後でへたり込んだままのソニアがいた。

「言っても良いのかい? 今ここ・・・で」
「!」

 そうアトラハシスが口にした瞬間。
 密室内の気温が一気に下がったのかと思える程に、空気が硬質化してその場にいる者達の身に降り注いだ。

 唐突な変遷を招いた元凶は、勿論部屋の中央に立つユリウスだ。
 普段から無感情無表情を地で行くユリウスが、眉間に深く皺を刻み込み、口元を歪に引き攣らせている。
 その変化たるや、今の今まで剥き出しだった憎悪が一転して、泣き叫ばんとするのを必死に堪えているかのようだった。

 誰の眼からも明らかなまでの変化に、半ば蚊帳の外に放り出されてしまった形のソニアは、ユリウスとアトラハシスとの間でしか立ち入れない領域での応酬の結果、ユリウスが不利に立たされてしまったのだと感じ取っていた。

 そんなソニアの直感を後押すかのように、慄然と表情を強張らせたユリウスは唇を噛んで俯き、荒々しく息を吐き出す。

「――ぜだ!?」

 交錯する剣に全ての体重を乗せ、前掛かりに項垂れたユリウスは叫ぶ。

「何故、そいつに杖を渡したっ! お前は、何を考えているっっ!?」

 先程と同じ問い掛け。
 だがその内側に込められた意味は全く違う。この場でそれを知るのは、刃を交わした二人だけ。
 総身から発する烈気も、張り裂けそうに震える怒声も。ユリウスの激情を露呈していたが、その姿だけはどこか嘆きのあまり何かに縋っているようにも見えていた。

「何故って……決まっているじゃないか」

 懇願にも近い響きのユリウスに、ふっ、と柔らかく微笑んで、アトラハシスは刃の交点に顔を寄せる。

「君の為だよ、ユーリ」
「!?」

 囁かれて思わず顔を上げたユリウスは、目前にあるアトラハシスの眼差しが、嘗て向けられていたのと変わらない、慈しむようなものだったのに気付いて、慌てて後退する。
 激しい動悸が全身を打ち震わせ、それを落ち着かせようとして逆に呼吸が乱れた。

「ユーリ。さっきから思っていたけど、君さ……弱くなったかい?」

 明らかに余裕がなくなっているユリウスの姿に、アトラハシスは苦笑を零す。

「何っ」
「いや、弱くなったでは語弊があるかな。うーん、どちらかと言えば……そうだね。実力を出し切れていない、かな? うん、そんな感じがするよ」
「好き放題……言ってくれるな」
「まあ根拠の無い話じゃないからね。昔の君を知るからこその、ちゃんとした事実に基いての推察なんだけど――」
「侮るな!」

 一人納得して頷くアトラハシスにユリウスは即座に斬り掛かったが、まるで自ら反応したのか、禍々しい剣による瞬時の防御に阻まれて弾き返されてしまう。
 だがそれでも着地と同時に再び前に踏み出し、ユリウスはアトラハシスの周囲を動き回って撹乱によるフェイントを織り交ぜた二連の剣撃を幾つも繰り出すも、尽く受け流されて無効化されるだけ。

 しかもその間、アトラハシスから攻撃が放たれることは一度も無く。
 その事実を認識して、ユリウスは忌々しげに表情を歪めた。

「確かにぼくの身体能力は魔族になって飛躍的に向上した。魔力の質も量も、人間という種の領域から脱して、一つ階梯を昇ったのだと自負している。だけどね……戦闘技術に関してならば話は別だ。ぼくの剣の腕なんて、君も知っての通り素人同然だよ」

 技術は磨けば磨くほど光るもの。そして物心つく前から実戦に身を置き、ただひたすらに戦闘技術の向上のみを求められてきたユリウスに比べ、温かな王室で育ってきた自らに敵う道理は無い。

 臆面も無くそう連ねるアトラハシスに対し、ユリウスの面は険しくなる一方だ。
 自らを卑下し相手を称賛したところで、現実的にユリウスはアトラハシスの防御に攻めあぐねているのだから仕方がないだろう。

「納得いかない、という顔をしているね。でもさ、そもそもどうしてぼくは、君と剣を合わせられるんだい?」
「っ!」
「君の腕ならば、ぼくの放つ剣撃なんて受け流すどころか、簡単に躱して逆撃を叩き込むことだってできる筈だ。なのに、君はそれをしない。最初から、ずっとね」

 単純に剣における技量では彼我の間には雲泥の差がある。それこそ、ユリウスの練達の域にある剣技ならば、アトラハシスと剣同士で打ち合うなどという過程を経ずに、そのままその身体に一撃を容易に叩き込めて然るべきなのだ。

 だが、そうならない。
 偏にそれは、アトラハシスが当てられる程度にユリウスは力を抑えている、ということになる。それが意識してか無意識にかは、本人すら気付いていないが。

 何度目かの交錯の後。緩急をつけ、相手の呼吸が僅かに変化する刹那を狙って放った一撃をも容易く捌かれ、思わず目を剥いたユリウスであったが、言われて気付いたのか視線を逸らせる。

 目線を逸らして無意識に下唇を噛んでいるユリウスを見て、アトラハシスは薄っすらと微笑んだ。

「ふふふ……予め蒔いておいた種は、充分に根を張り巡らせたということか」
「……何だと?」
「ヒャダルコ」
「!?」

 投じられた言の葉に引き寄せられ、突如として床から氷柱が突き立った。
 それはユリウスの四方を囲うよう連なり、更には隣接する氷と繋がってはユリウスの四肢を完全に拘束し、氷牢と化す。

 瞬く間にユリウスの行動を封じたアトラハシスはゆるりと踵を返し、崩れ落ちたままのソニアに向き直った。

「で、ん……か」
「こんなに震えてしまって……ごめんね、ソニア。君には怖い思いをさせてしまったよ」

 ソニアの傍に歩み寄り、申し分けなさそうに表情を曇らせたアトラハシスは、縋るように見上げてくる彼女の目元に溜まった涙を指の腹で掬い、そのまま頭を一つ撫でる。
 まるで泣きじゃくる子供をあやすような仕草であったが、それでも気心を許した相手による行動は思いやりとして作用し、精神に冷たく圧し掛かっていた負荷を引き剥がした。

 紅の眸は未だ揺れていたものの、ソニアは見る間に落ち着きを取り戻していき、それを見止めたアトラハシスは投げ出されていた『賢者の杖』を再び彼女にしっかりと握らせる。

「本当にごめんよ。セフィの杖を手にした君の姿を見てユーリが激昂することは、ぼくは最初からわかっていたんだ。ただどうしてもそれを直接確かめたかったから、今までやられた振りをしていた」

 心底申し訳なさそうに、アトラハシスは表情を曇らせる。

「勿論、本当にユーリが君に手を下そうとしたからこそ、こうして止めた訳だけど」
「それって……」

 つまりあの瞬間、ユリウスは完全に自分を殺そうとしていたという事だ。それを理解して足元が崩れるのをソニアは感じる。

 膝が震え、よろけてしまったソニアをアトラハシスはそっと支えた。

「ぼくを恨んでくれても構わないよ。だけど、これだけは知っておいて欲しい。ユーリにも、そうしなければならない理由があった。他ならぬ君に、知られたくない事実があった……そうでもなければユーリが君に危害を加えることなんて、まず無いことだからね」

 そうしてゆっくりとアトラハシスは、氷柱に阻まれ身動きの取れないユリウスを仰ぐ。
 静かに立ち上がり、ごく自然な足取りでソニアを後背に庇った様子は、童話で言うところの邪悪の手から姫君を護らんとする騎士のようであったが、それは寧ろ納得のいく光景だ。

「そうだろう? 君はセフィの願いを無碍になんてできないからね」
「黙れっ!」

 氷の軛から脱しようと身を捩じらせるユリウスであったが、両肘と両手首、両膝や胴といった関節を狙って固定された挙句、宙に押し上げられてしまった為、身動きができていないようだ。それでも無理を押し通そうとするならば、骨折は免れない。

 その姿を見て、ふとアトラハシスは、ルビス経典に記された、磔にされた聖女の逸話を思い出した。

 遥か昔、戦乱が続き荒廃した世において、無辜なる人々の救済を願った清らかなる乙女は、自らの危険を顧みず西へ東へと奔走し、剣を置いて相手を見据えた対話によって相互理解を深め、平和の環を広げようという、子供でも夢想だとわかる理想論を説いて廻った。
 切実で真摯に語る彼女の姿に感銘を受け、多くの人々が彼女に賛同し始めたが、それは当時の為政者にとっては邪魔以外の何者でもない。
 やがて乙女は捕らえられ、人心を惑わす邪教の使いとして火刑に処され、この世を去った……それが現ルビス教団を指揮する“神聖騎女”エレクシア=ヴォルヴァ当人であることを知る者は、存外に少ない。
 ただ古の聖女の姿を偶像として、エレクシアに重ねているだけでしかないのが殆どである。

 この場面でそんなことを思った理由も、アトラハシスは充分理解していた。

「確かめたかったのは、君の理性の強度と感情の在り処。理性で無理矢理にでも自分を抑えつけなければならないまでに、君の感情は育っていた。君に植え付けた仮初の感情の種子が、君自身という個を魂魄にまで根付かせるようになったのは、ぼくとしても嬉しい限りだよ。これなら……暴ける」

 ユリウスの立場も、嘗てのエレクシアに似ている、とアトラハシスは常々思っていた。
 魔物によって己が破滅を意識させられた世界で、英雄オルテガという勇者の再来を望んだ人々によって、ユリウスは偶像そのものになるように強制され、ある意味でそれは成されたといってもいい。

 だがその事実は、ユリウスの行く末に破滅しかないことを意味していて、実質的にどういった結末になるのかさえ知っているアトラハシスには、胸を裂くような思いを抱いていた。

(……条件は満たされている。だから、君との約束は一旦破棄するよ。コーデリア)

 一瞬だけ双眸を伏せ、胸中に湧いた激痛に耐えたアトラハシスはソニアを見やった。

「ソニア。君に渡した杖はセフィの物で間違いないけど、それは王都アリアハンから丁度南にある、岬に建てられた墓に納められていたものなんだ」
「え……だ、誰の、ですか?」
「止めろ!!」

 アトラハシスの意図に気付いてユリウスが身じろぐが、魔族の魔力で編まれた氷牢は微塵も動かない。

「勿論、セフィの墓さ。ユーリとバウル老師、そしてコーデリアによって秘密裏に葬られた、ね」
「だ、まれっ! イオラ!」

 ユリウスは自分自身に向けて爆裂魔法を放ち、氷牢を粉々に粉砕する。自分自身もダメージを負ったが、今のユリウスはそんな事を気にもしていない。

 噴煙を掻き分け、突進してくるユリウスに対し、アトラハシスは容赦がなかった。

「バシルーラ。ボミオス。ルカニ。ラリホー。マホトーン。マヌーサ、メダパニ――」
「!」

 相手の行動を阻害することを目的とした魔法の百花繚乱。
 アトラハシス自身、ユリウスの魔法抵抗力の高さを理解しているからこそ、いずれの効果なども全く期待していなかったが、それでも多少の足止めにはなると狙っての行動だ。
 そんなアトラハシスの期待通りに、後方に吹き飛ばされたユリウスはすぐさま体勢を整えたものの、身体中の筋から力が抜け、意識が倦怠から暗黒に落とされようとしている。
 だけれども、ユリウスは前進を止めなかった。

 そんな鬼気迫る様子を見て、アトラハシスは目を細める。

「君は……やはりその露見を恐れるか。自分自身を傷付けることも厭わないほどに」
「ど……どういう事なの? だって姉さんは、あの時ちゃんと」
「ユーリが王都に運んだセフィの遺体は、その時には既にすり替えられていたんだ。魔王軍による王都襲撃の際に亡くなった、どこかの誰かの遺体とね」
「そ、そんな筈ありません! 私が、姉さんと他人を間違えるなんてっ。お父様やお母様だって確認しています!」
「バウル老師が、その誰かの遺体にモシャスを掛けていた。実力的に君はおろか、ディナ殿だって気付ける道理はないよ」
「止、めろと……言っているっ!」

 ヨロヨロと覚束ない足取りで、だが真っ直ぐにアトラハシスを見据えたユリウスの双眸には余裕が全くなく、弱々しく揺れている必死の姿がアトラハシスの言葉を何よりも明確に肯定していた。

「ソニアには知る権利があるんだ。君の都合は取り合わないよ。バギマ」
「く、このっ」

 足元より立ち上る暴風の壁に阻まれて、ユリウスはやはり動けない。

「う、うそ……でしょう? な、なんで……なんでそんなっ!」
「ソニア。君は自分の感情を抑えて、最後までこの話を聞かなければならない義務がある。君の求める真実に直結する話だからね」
「でも、だからといって、死者を冒涜する真似なんてっ!!」
「こうやってユーリが頑なに話を逸らせ、知られる位ならば自分に憎しみを向けさせた方が良いと断じたその理由。セフィの遺体をそのまま王都に持ち帰れなかったのは、彼女の正体に関係があるからだ」
「しょう、たい?」
「ソニア……セフィは――」
「黙れええぇぇぇぇえっ!!」

 ユリウスは絶叫した。










 規則正しく配置された回廊と小部屋が延々と続いているかのような山岳遺跡だが、それは全体から見てほんの一部分に過ぎない。
 単純な格子構造の上階層を越えて更なる深奥に踏み入れば、中継となる小部屋の無い、回廊が薄闇の先まで続いていた。
 どこまでも伸びる回廊には、分岐点となる分かれ道が幾つも顔を出し、選択によってはそのまま行き止まりの小路に辿り着いてしまうということもある。言うなれば蟻塚の如くに複雑に入り組んだ迷宮だ。
 空間的に限られた規模を最大限に活用した遺跡は、その特異な構造に加えて、漂う薄闇と朧な灯火という光と闇の緩急によって違和感を無意識下に蓄積させ、やがて立ち入る者達の距離、方向感覚、時間感覚を奪う。
 つくづく招かれざる者を拒まんとする理念に基いて築かれた遺跡であった。
 その中を迷わず進めるのは、一度以上この地に足を踏み入れた事のある確固たる証拠となるだろう。
 この遺跡の内部構造を把握している様子のカンダタに先導されて進む事、数刻。
 ヒイロ達は、床も天井も等しく凍りついた不気味な回廊を越えて、監獄として用いられている区画に侵入を果たしていた。



「ったく、何だったんだい。あの趣味の悪過ぎる回廊は」
「床も壁も天井も氷付けだったのは気になるところですね。あれは確実に氷結ヒャド系魔法の行使によるものですが……あれ程、緻密に操れるとなると、相当な力量の術者がいるという事です」

 ナディアが顔を顰めて発した愚痴にシゼルは頷く。
 先刻、この回廊を通り抜けたルティアやミリアと比べて平常なのは、単純な話、あの回廊で行われていた事の技術水準が彼らの常識の範疇を超えていて理解できないからだ。
 せいぜい趣味の悪いオブジェが並んでいる程度の認識だからこそ、それぞれ心に受ける衝撃が緩和されていたのである。
 
「この区画は既に監獄のようですね」
「ここにいる子供達全てが、“幽霊船”によって運ばれていた“積荷”、という事か」

 鉄格子の先を見眺めて顔を顰めたユラに、ヒイロは続ける。
 
「あの床の魔法陣は何だろう? ユラさん、わかりますか?」
「発せられる魔力の形跡から、強制睡眠魔法だとわかるのですが……ただ」
「ただ?」
「すみません、解除は不可能です。私の能力を大きく超えた力で編まれているようでして、干渉はできそうにありません」
「ユラさんでも?」

“魔姫”ユラ=シャルディンスの魔力量は、殆どが国民が大なり小なり魔力を操れるイシスの中でも五指に入り、父である十三賢人ナフタリに匹敵する。
 つまり、そんなユラでさえ白旗を揚げたのだから、この場で魔方陣の解除は不可能だという事だ。
 
「ただ、設置型のようですので、恐らく子供達をあの陣から出してやれば、目が覚めるかと思います」

 ユラの説明を聞きながら、ふむ、と頷いたヒイロは、後ろに続くナディアに視線を移した。

「そもそもどうしてスフィーダ皇女は幽霊船の積荷に紛れ込んだんだい?」
「ああ、スィは言ってみれば誰かさんみたく正義感の塊でね。“幽霊船”が奴隷貿易の要で、現在のバハラタ近海を航行しているとかの情報をどこかで耳にして、見過ごせなかったんだろ」
「いや、仮にも皇女がそんな無謀……いや勇ましい事を」
「無理矢理取り繕わなくていいよ。スィは単純だから。全部ジーニアスの影響かね? いや、後先考えなくて猪突猛進とかの面を考えれば、ジーニアスの方がまだおとなしい方なのか?」
「う、うーん、ジーニアスは確かに感情に流されやすい子だけど、短慮ではないと思うけど」

 皇女という身分らしからぬ人物像に、ヒイロは微妙な表情を浮かべてしまう。
 そんな折、視界に口元に手を当てて何かを思案しているシゼルが入り込み、ヒイロは問うた。

「シゼル殿。何か気になる事でもありましたか?」
「いえ、スフィーダ皇女はどうやって幽霊船の情報を手に入れたのでしょうか?」
「……というと?」
「状況を整理しますと、皇女はバハラタから離れた場所に接岸していたという“幽霊船”に乗り込み、積荷に紛れた上でこの遺跡に搬送された、という事ですが疑問が幾つか残ります」

 掌で片眼鏡の位置を直して、シゼルは続ける。

「皇女は常に帝国騎士達によって護衛されていました。加えて現在のバハラタは厳戒態勢でイシスの方々と聖殿騎士団……拠点防衛を任とする我ら“白光”が固めています。皇女が失踪してから騎士達に発覚するまでの数日間、警備の隙間を掻い潜って街を出たことになりますが、皇女にそのような隠密行動を可能とする技術はありますか?」
「無いね。アイツは無駄に正々堂々としている。影でコソコソするのは性に合わない。何をやるにしても派手だから、まず目立つ。とりあえず外見は良いしね」

 まるで中身が伴っていないとでも言うような口振りであったが、シゼルはそれを聞かなかった事にする。

「左様ですか。警備の抜け道を狙って進み、その上で“幽霊船”の停泊場所に辿り着いたという訳ですね。バハラタに到着してから失踪し、それが他の者に発覚するまでの間に、その情報を仕入れ、件の幽霊船の停泊場所を割り出し、乗り込む。海上でナディア殿達が戦闘した経緯を思えば、どう考えても時間が足りない」
「……何が言いたいんだ?」
「何者かの意図が介在している、と考えれば自然です。サマンオサ帝国皇女の失踪で誰が得をするのかを考えていけば答えが見つかるかもしれませんが……結局は邪推の域を出ません。これ以上は私の判断で軽々しく口にして良い問題ではありませんがね」

 ここまで疑惑を呈しておきながら、それを即座に引っ込めて自分の中にしまい込んだことに、ナディアは露骨に胡乱な顔をした。

「……アンタ、性格が悪いって言われたことは無いかい?」
「面と向かっては無いですね。影では色々言われているみたいですが、まあ直接言われないのであれば、特に気にすることではありません。陰口は影で叩いてこそものですから」
「羨ましい性格をしているな、オイ」

 あまり場に適した雰囲気とは言えない若者達のやり取りを背に、罠や魔物の気配を慎重に探りながら一行を先導していたカンダタは、血の匂いが充満した監獄の最奥らしき壁と、そこに人影が佇んでいるのを見止め、思わず足を止めてしまう。

「誰っ!?」

 奥から響いてきた甲高い誰何に、ギクリと顔を強張らせ、手灯を翳してまじまじと確認するあたり、信じられないものを見た時のような反応だ。
 付き合いの長いヒイロがその変化を珍しく思いつつも、カンダタに倣って闇の先へと視線を投じる。
 不躾な燈明に照らされて、影より浮き彫りになったのは臙脂の外套、そして藍青の髪。スラリと宙に伸びた耳と大きな藍色の眼……ルティアと共に潜入していたミリアであった。

「! あ、あんたは……」
「何よ……!?」

 目の前で厳つい大男が自分を見て唖然としている。
 全く身に覚えがなく、警戒のまま思わず一蹴しようとしたミリアであったが、カンダタの相貌が記憶の中の誰かの面影に重なり、同じく目を見開いた。
 
「確か……ミ、ミリア、の嬢ちゃんか!?」
「さ、騒がしいクソガキ!? 嘘?」

 両者は同時にそう叫ぶ。
 固まってしまった二人の間に立ち、一行の中で両者を知る唯一のヒイロは、カンダタとミリアの顔を交互に見やり首を傾げた。

「ええと、カンダタ。ミリアと知り合いなの?」
「あ、ああ……」

 驚きが抜けない様相でカンダタは頷く。
 ミリアとカンダタは互いに面識があった。その機会を得たのは十五年前、しかも今現在、魔族の住処とされているこの遺跡でだ。
 
 十五年前当時。“アリアハンの勇者”オルテガに追従してダーマに向かっていたミリアは、丁度その頃、この地方を騒がせていた神隠し事件に巻き込まれ、一時的にこの遺跡に誘拐されてしまった。
 それを助け出したのがオルテガと、当時、人攫いの一団に属していたカンダタであった。
 オルテガと出会い、その心意気に改心したカンダタはオルテガに同道を願いでる。
 結局、バハラタからダーマというごく短い間であったが、ミリアはカンダタとも旅路を同じくした経験を持つのだった。
 
「ちょっと見ない間に、随分と様変わりしたじゃない。一瞬、誰だかわからなかったわ」

 長命種であるエルフ特有の時間感覚の齟齬にカンダタは苦笑を零す。

「あんたが十五年前と変わっていないんだ。いや、エルフならば当然か。ノエルの坊やは大きくなったか?」
「お陰さまでね。認めるのは癪だけど、昔話を聞かせてあげたらあなたにも会いたいって言っていたわ」
「そうか。機会があれば紹介してくれると嬉しい」
「機会があれば、ね」

 ミリアは小さく肩を竦める。その仕草に、他の人間に向けるような敵意や嫌味はない。
 実のところ、ダーマへの道中。泣き出した赤子のノエルをあやすのが一番上手かったのが他ならぬカンダタであり、頻繁にノエルの面倒を見ていたのだ。
 近付いただけで泣き喚かれていたオルテガや、ただうろたえる事しかできなかったミリアとしては、無邪気に笑って懐かれるカンダタの姿に、何度も悔しい思いをさせられていた。
 そんなくすぐったい過去の時間を思い出したからだ。
 
 過ぎ去った時間に頬が緩んだ二人であったが、現状を思い返して直ぐに表情を引き締める。

「何故あんたがこんな所に? ずっと”魔呪大帝”の庇護下のガルナにいると思っていたんだが」
「ただ飯は食べれない、ってことで、ジュダの命令を受けた奴の監視よ。もうここにはいないけどね」

 詰まらなそうにミリアは鼻を鳴らす。
 実際はルティアが受けた任務に協力するよう言われて放り出されたのだが、ミリアの中ではそういう事で落ち着いていた。
 しかし世界最高峰の賢者の名は、ミリア以外の者に例えようのない衝撃を与える。

「なぜ“魔呪大帝”がこんな遺跡に?」
「……ここは、相当危険な場所のようよ。見たでしょう? ここに来る前の回廊にあった反吐が出る物体を」
「……あの氷の回廊か?」

 怪訝に眉を寄せるだけで、それらの眸に生理的な嫌悪の色は見られない。薄気味悪さぐらいは感じているだろうが、それよりも先に感情が至っていない。
 その様を見てミリアは何となく察しが着いた。あれらが何なのか、理解できていない、と。

「……いえ、もしかしたら、あんなものを知っている事の方が異常なのかもね」
「ミリア?」

 ポツリと零されたそれは、言い当てたルティアに向けて放たれているようであった。

 次の言葉を発しづらい空気が場に染み渡ったかと思うと、周囲の牢獄の中を注意深く観察していたナディアが、ミリアの横にいる人物に気付いて目を見開く。

「スィ!!」
「な、ナディア!?」
「アンタ、いったいどれだけの人間に迷惑を掛ければ気がすむんだいっ!?」
「だ、出し抜けに無礼ですわよ!」
「アンタが軽率な行動を取れば、ノヴァの野郎にも迷惑が掛かる。それは判っているだろう?」

 苦虫を噛みつぶしたようにスフィーダはそっぽ向いた。

「……先程、その手の説教は受けましたわ」
「先程? 誰に?」
「……グランデュオに」
「はぁ? あの気障な魔導士が、こんなところで何をしているんだい!?」
「あの男は魔族と通じていたのです! ここであの子供達に非道な行いを――」
「止めなさい!」
「!」

 ミリアの鋭い制止に、ビクリとスフィーダの肩が揺れる。

「それ以上は口外無用よ。貴女も魔導士の端くれなら、あんなものが存在していることが広まることが、世界を脅かすことになるのはわかるでしょう? ……ここは、開いてはいけない箱の中だという事を」
「……そう、ですわね」
「何の事だい?」
「……」

 怪訝に眉を顰めるナディアであったが、意気消沈して口を噤んでしまったスフィーダの顔を見て、ただならぬ何かを目の当たりにしたのだ、と追求を止める。
 勝気でどこまでも正義感が強い皇女の心をへし折った何かに興味は惹かれたが、好奇心を先行させている場合ではないのだ。

「じゃあさ、グランデュオの奴はどこに?」
「グランデュオならば、その氷壁の先ですわ」

 ミリアとスフィーダは回廊に張られた氷壁を背にしていた。
 回廊の広さに合わせて正確に張られた為か、透明で分厚い氷が完全に行く手を塞いでいて、ここより先に進むことを拒んでいるかのようだ。

 文字通りの壁を砕いて進む事は困難である。それだけは一目見て誰もが理解していた。

「アンタが張った……は無いね。アンタにこんな緻密な魔力制御なんてできないし」
「大きなお世話ですわ!」
「ミリアの嬢ちゃんか?」
「……いいえ。ジュダの命令を受けた奴よ。名前は……忘れたわ」

 小さく被りを振って納得するナディアに詰め寄るスフィーダ。
 そんな両者の言い合いを聞き流してカンダタがミリアに問うと、彼女は否定に首を横に振った。

 この氷壁は、回廊の先に撤退したシルヴァンスを追う為、監獄に閉じ込められた子供達やスフィーダを見向きもせず進もうとしたルティアが張ったものだった。
 まるで足手纏いだから着いてくるな、と言われたようでミリアとしては面白くない。そして同時に、異種族であれ、大事なノエルを想起させる年頃の子供達をこんな地獄にそのままにしておく事などできそうにない、という葛藤を抱えたミリアの内心を見透かしたかのような行動であった為、それもまた面白くない。

 ルティアが去った事により活発になった魔物にミリアが八つ当たりをして、多少なりとも魔法を嗜むスフィーダに、格の違いをまざまざと見せ付けて震え上がらせたのは余談である。

「あの気障魔導士や、ここを住処としている魔族も気になるけど、まずはここから脱出するかい?」
「そうだな。子供達をこのままにしては置けない」
「眠らされている子供達は、牢獄の外に連れ出せば目を醒ましますわ」

 ナディアがカンダタに意見を求め、先程ルティアによって提示された情報をスフィーダは連ねる。
 
「とはいえ、一度に脱出となると手段がねぇ。カンダタ。アンタ、『思い出の鈴』は持っているかい?」
「あるにはあるが、全員分は無理だ」
「うーん……この人数じゃあ、スィのリレミトだと制御が不安だし。この山脈の奥地に放り出されるのは勘弁願いたいね」
「何度も何度も失礼ですわよ!」

 いきり立つスフィーダと豪快に笑うナディアのやり取りを背にしながら、カンダタは改めてミリアに向かう。

「ミリアの嬢ちゃん」
「なに?」
「脱出に手を貸してはくれないか?」
「…………」

 顔を顰め、両腕を組んでミリアは黙する。
 極めて珍しい妖精種として、かつて心無い人間種にされてきた仕打ちを思えば、そう簡単に頷けるものではない。

 そう考えたカンダタは、愚直なまでに真摯に深々と頭を下げた。

「あんたが人間に対して良い感情を持っていないのは知っているつもりだ。だが、それでもどうか……頼む」
「ふん……まあ良いでしょう。こんな陰気な場所に子供を放置しておくのは、何だか胸糞が悪いしね」

 自他共に認める親友の息子ノエルの保護者なのだ。その自分が、種族を異にすれど、同じ年頃の子供を見棄てるなど、あり得ない。寝覚めが悪いにも程がある。
 そんな自負から長く深く溜息を吐いたミリアは立ち上がり、臙脂の外套を翻した。
 そして”嵐杖・天罰の杖”の石突を勢いよく床に突き立て、迷宮脱出魔法リレミトによる同行者の人数範囲を広げるべく陣の構成作業に入る。

 迸る魔力光は先程ユラが白旗を挙げた、牢内の魔法陣に比肩する程で、圧倒的な力の波動は初見の者達を驚愕の谷底に叩き落すには十分だ。
 現状ではナディアやシゼルがそうである。ユラは先日のイシス戦役で目の当たりにしているし、ダーマ在籍中に”ガルナの塔を頻繁に破壊する奇跡の妖精”という、本人的には嬉しくないだろう伝説を聞き及んでいたので、今更だった。

 それぞれが胸中をざわめかせながらも、周囲を警戒しつつ子供達を解放して脱出の準備を進める中。
 その輪に加わらず、氷壁の下に蹲って床を調べていたのはヒイロだ。

「ねえミリア」
「……何よ」
「この氷の壁を張った人の特徴は?」

 床に落ちていた一本の糸くずらしき物を掬い上げて、ヒイロはそれを凝視している。
 魔法陣の形成に精神を集中させているミリアからは、その様子はわからない。だが言葉によって想起させられた人物を思うと、途端に不機嫌さが込み上げてくる。

「生意気で、鼻持ちならなくて、いけ好かない女よ」
「それは特徴じゃなくてあんたの印象だ。ヒイロ、そんなことを訊いてどうする?」
「その女性の髪ってさ……俺よりも白かった? 目は、ソニアよりも鮮やかな赤だった?」

 会話に入ってきたカンダタに問われて、ヒイロは立ち上がる。
 その手にあるものは、触れれば切れてしまいそうなまでに繊細な絹糸……いや、明らかに生体の一部である穢れない白の毛髪だ。
 言いながら確信に満ちたその口元は、どこか酷薄に歪んでいた。

 まるで見た事があるように的確にルティアの容姿の特徴を当てたヒイロに、ミリアは目を見開く。

「え、ええ……そうだけど。あの女の事、知っているの?」
「カンダタ。ここから二手に分かれよう」

 ミリアの疑問には答えない姿と言動に違和感を覚えてか、カンダタは表情を厳しくする。

「こんな所で隊を割るだと? どういう意図だ?」
「先に潜入したユリウス達のことが気になるからね。ユラさんやシゼルさんにしても、それぞれに個人的な理由を持っているようだし」
「!」
「……」
「スフィーダ皇女を救助できた時点で、ある意味、現時点で潜入行の目的の一つは果たしている。ミリアが協力してくれるなら、『思い出の鈴』の随行限界人数の問題も解決だ。ここにいる子供らを連れて脱出することは容易だろう。それよりも、抵抗力の乏しい彼らをこれ以上濃厚で澱んだマナに満たされた地に留まらせるのは危険だ。同時に連環級エヴィヒカイトで編まれた陣に触れさせておくのは更に悪い。脱出後の護衛と言う点では君とナディちゃん、スフィーダ皇女がいれば、ここ近隣に生息する魔物に遅れは取らない筈だ」
「そ、そうだが、お前は?」
「……連れ・・と、合流しないとね」

 雰囲気をガラリと変えながら一気に捲し立てたヒイロに圧されながら、カンダタは問い返すも、ヒイロは掌の中で握り締めた白き髪の毛に視線を落としたままだ。

 ミリアが構築している魔力光の輝きが本来の回廊の薄暗さを浸潤していたが、その明るさが、帽子の下の前髪に隠されたヒイロの額が微かに月色の光を湛えていたことを隠してしまい、終ぞその変化に誰も気付くことはなかった。










 絶叫したユリウスの選択は、爆裂魔法をアトラハシスに解き放ち、その口を封じることだった。そして、アトラハシスに庇われる位置で話を聞いていたソニアのことなど、既に意識から完全に流れ消えている。

 ミコトがサクヤとイズモを伴ってこの大広間に立ち入って来たのは、まさにその瞬間だった。

「ユリウス! お前、何てことを……っ」

 ユリウスが中級爆裂魔法を紡いだ刹那。そこには確かにソニアと、彼女を庇うように立つ翡翠の青年がいた。
 ミコト自身認識したのは一瞬の出来事だったが、優れた動体視力は視界に捉えた事実の揺るぎなさを肯定する。
 故にミコトには、ユリウスがソニアに向かって攻撃魔法を放った、という現実だけが残った。

「ユリウス! お前、何を考えている!? あそこにはソニアがいるんだぞっ!」

 激高したミコトは大股にユリウスに近付いて、その頬を全力で殴りつける。
 殴られた側のユリウスはあまりに前に集中していた為か、ミコトの接近にまるで気付いておらず、受け身すら取ることができずになすがまま床を転がった。

 それでもまだ気が収まらないのか、ミコトが更に一歩前に出だす。

「そもそも一体どういうつもりだ! 私達に睡眠魔法をかけて、一人で独断先行するとは!」
「煩い……俺の邪魔をするな。失せろ」

 手の甲で口元に滲んだ血を拭い、起き上がりながらミコトを睨むユリウス。
 その眼には既に殺気すら浮かんでいて、最早敵対者…魔物に向けるものと同じだ。
 平時であればミコトすら一瞬怯ませるものであったが、生憎と今はミコト自身も冷静ではない。
 この遺跡に立ち入ってから向けられた敵意の他にも、先程少しだけ見えたルティアなる白妙の女性による煽りも併せて、溜まりに溜まった鬱憤を抑えきれそうになかったのである。

「私達はソニアを助けに来たんだろう! 目的を違えるなっ!」
「貴様らの目的など、俺には関係ない」
「ふざけるな! ソニアを攫った魔族とお前にどんな因縁があろうとも、それこそこの際どうでもいい事だ! 今何をすべきかを見誤った挙句、自分勝手に行動する事が周りの人間にどれだけの迷惑を掛けているか、お前は考えた事があるのか!?」
「はっ、人を利用しようと手薬煉引いている輩が道義を説くか! 笑わせるな! 貴様らの都合など、最初からどうでもいいと言っているだろう!!」

 立ち上がり、互いに真正面に睨み据えるユリウスとミコト。ともに感情的になっている所為か、既に一触即発の様相だ。
 こうなったのも全てはユリウスが打算で紡いだ結果であり、言うなれば自業自得である。

 しかし、それを認めたところで既にユリウスにはどうでもいい事実に過ぎなかった。
 
「この場において、何を犠牲にしてでも奴だけは討たなければならない。それだけが俺の望みだ! それだけが、この旅路の目的だ!」

 アトラハシスを討つことだけを目的とした内心を叫ぶユリウス。
 初めて明確に告げられたその口調には、魔王討伐という大義への使命感など皆無。
 いつものように冷静なユリウスであれば、まだ言葉を選んでいたかもしれない。が、局面は最早これまでに重ねてきた時間を凌駕していて、取るに足らないことだった。
 なぜなら目の前に、旅路の終着点と定めたアトラハシスが存在しているのだから。

 冷徹に冷厳に。徹底して理性で抑え付けてきた感情も、一度堰を切ってしまえば、強大な波濤となって一気に溢れ出すしかない。

「貴様等の都合に、これ以上俺を巻き込むな! 俺のっ――」

 無意識の行動か、ユリウスは言いながら右手で左胸を抑える。

「俺の残りの時間を奪うな!!」
「お前……何を言って」

 そのあまりの剣幕と意味深な言葉に圧されて、流石のミコトも一瞬怯む。
 いや、ミコトだけではない。
 彼女の従者達は勿論のこと、アトラハシスの仲間と思しき魔族の者達も併せて、この部屋にいる一同全てがユリウスから発せられる烈気に息を呑まされている。

 動いているのは、激情によって動悸が早められたユリウスと、そのユリウスの放った爆裂魔法によって生じた煙と炎の紗幕だけが空気を掻き揺らしていた。

「おいおい、感心しないなぁ。仲間割れなんてやっている状況じゃないだろう?」
「黙れ! イオラ。イオラ。イオラ。イオ―――」

 そんな中、爆炎の先からあっけらかんとした声が響き、ユリウスは即座に魔法を紡ぎ解き放つ。
 一つ閃く度に熾烈な破壊を齎す輝きは、今のユリウスの意気を代弁するかの如く暴虐そのもので、次から次へと放たれる光弾は収まる気配を見せていない。
 ただアトラハシスを黙らせる為だけに、範囲攻撃である筈の爆裂魔法の効力を凝縮させ、極めて狭い箇所だけを穿つように操作されている。
 練り上げた魔力にものを言わせただけの力業であるが、屋内において予期せぬ二次災害を防ぐ意味でその選択は正しい。
 だが狭められた爆破範囲の中に仲間であるソニアも含まれていて、そのことを完全に度外視していることだけが、ユリウスの大いなる過ちだった。

「いい加減にしろ!」

 一喝と共にミコトが横からユリウスの腕を掴むと、その瞬間に解き放たれた光球が炸裂する。
 強力な衝撃波と共に生じた大音と圧力で幾許か弾かれたものの、ユリウスもミコトも倒れてはいない。

 一見すれば魔法の制御に失敗した末の暴発だが、ユリウスが高度に魔力を練り上げて紡がれる魔法は、ただ手元を狂わされただけで瓦解するようなヤワな代物ではない。
 ユリウス自身、一対大多数の乱戦の最中でも、恙なく行使できるように訓練を重ねてきたのだ。
 だからこそ、一瞬だけユリウスは静止し、今度はそのミコトに向けて手のひらを翳した。

 瞬く間に集まる霊素の光が、死を伴う冷たき輝きと圧力を発する。
 
 依然話を聞かず、感情のままに暴れるユリウスに苛立たし気に表情を歪めたミコトが、再び砲門と化したその手首を掴むと、今度は輝きが消え失せたではないか。

 この現象は、激情によって荒れ狂うミコトの闘氣が一時的に”破魔の神氣”を発現し、ユリウスが掻き集めた魔力を塗り潰したのである。
 無論ユリウスは、ミコトがそんな特異な能力を持っていることなど知らない。
 だが、未知の事象を前に危険を感じたユリウスは魔法を紡ぐことを止め、手にした剣を構えようとする。
 明確な敵意を向けられ、流石にミコトも反射的に身構え、瞬時に反応する為に両脚に力を籠めた。

 最早ユリウスの敵意の矛先は、ただ己の前に立ち塞がる者へと変わりつつあった。

「あのさあ君達。敢えてもう一度言うよ。仲間割れなんてしている状況かい?」
「そんな事となどどうでもいいっ!」

 呆れたような声が再び響き、ユリウスはまたも激昂する。

「こらこら。仲間の事をそんな事だなんて、ソニアの前で言うことじゃないよ」
「どうでもいいと言っている!」
「そうやって頑なに吠えていると、何だかまるで仲間という言葉そのものを拒絶しているように見えるな」
「黙れ! この場において、お前を殺すこと以外全てが瑣末に過ぎない!」

 それはユリウスの本心であったが、それ以上にどうしようもなく追い詰められた者の悲鳴にも聞こえた。

 だが、その瞬間。
 明らかに噴煙の先から発せられる気配が変わった。

「……瑣末とまで言い切ったか。確かに、“アリアハンの勇者”の名に引き寄せられて群がってくる者達は、君にとってはその程度の価値なのかもしれない。だけど、それで全てを括るのは感心しないな」
「くどい!」
「コーデリアはどうなる?」
「!」

 アトラハシスの若干険の篭った声韻にユリウスは立ち止まる。

「……お、お前には」
「関係ない、とは言わせないよ。コーデリアはぼくの従兄妹エルティーナの守護役だった訳だし、何よりも正式に君の供に任命された唯一の存在じゃないか」
「っ!」
「少なくとも、コーデリアは君にとって君の痛みを分かち合える唯一の友人だ。共に過ごした時間を考えるなら、幼馴染と言っても過言じゃない。君が頑なに仲間という存在を否定するならば、彼女自身をも否定することになるよ」
「……だとしても。いや、だからこそ俺には、そんなもの認める訳には、いかないっ!」

 内側から生じる傷みに耐えるかのように、ユリウスは表情を歪ませている。
 それは、血を吐くような思いで綴られているようで。潰さんまでに剣の柄を握り締め、剣身が小さく悲鳴を挙げていた。

 激昂するユリウスの姿を煙の奥から捉えてか、アトラハシスは悲しげに呟く。

「ふぅ……相変わらず頑固だね。そうやって彼女の技を用いている以上、何の説得力もないのに」
「殿下?」
「ユーリが今用いている双剣技はね、元々コーデリアの技なんだ。ユーリは昔から目敏くて、他人の技を見ては模倣し自分のものにする事に長けていたけど、最も間近で長い時間見てきたのは、彼女だ。そんなコーデリアを、認めないとは……君らを知るぼくとしては悲しい事だね」
「黙れ……黙れ黙れっ!」

 姿が未だ覆われているが、ソニアの声から無事であると察してミコトは一瞬気を緩める。
 そんな他の者達の変化を気配から察しながらも、今のユリウスにとっては全てが煩わしかった。

「黙れ、黙れ黙れっ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れっ!!」

 あらゆる言葉や他者の意志を拒むように頭を振り、手にしている刃を未だ煙の先にいるアトラハシスに向けて突き付ける。

「何もかもっ、お前の所為だろう!」

 恐らくは、あの日から内に留め、決して外に出すことのなかった本心。
 どうしようもなく言ってやりたくて堪らなかったが、決して届くことはないと諦めていた情動の波。
 原始的で、だどもユリウスの心の内でずっと燻っていた恨みの言葉だ。

「お前が……お前が、魔族になど堕さなければ……セフィが、あんなことにはっ――」

 どうしようもなく切実で、どうしようもなく逼迫した叫び。
 灼き切れる寸前の断末魔にも近い余韻が、石室の中を飛び交う中。
 薄っすらと視界を遮っていた煙の幕が、晴れる。

『私が、どうした?』

 冷厳とした声と共に煙幕の奥より現れたのは、漆黒の衣をはためかせ、美しい紫銀の髪を揺らめかせる女性。
 在りし日と変わらない紅蓮の眼差しを湛えた、賢者セフィーナ=アルフェリアだった。




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