――――第六章
       第十六話 昏黒の魔女






「セフィ。明日、出立するよ。本当に漸くで……いよいよだ」

 眼下に大海原を見渡せる岬の先端に、人目からひっそりと身を隠すように建立された小さな十字架がある。しばらく人の往来がなかった所為か自生する草草は寧ろ伸び伸びと育ち、それがこの寂れた地を秘されし場所へと変えていた。
 もしも平時ならば、物見遊山で海を眺めに来る者もいるかもしれないが、生憎と今の時勢は、魔物による王都襲撃の恐怖から脱することができていない為、また国としてもむやみやたらと城壁の外へ住民を出さないように制限を掛けている為、訪れるものはまずいない。

 ある意味、世俗から切り離されたと言っても良い場所に立ち尽くし、ユリウスは賜ったばかりの鋼鉄の剣を鞘より抜き放ち、眼前に掲げる。

「これで始められる。俺の……お前の、復讐を」

 鏡のように磨き抜かれた刃に映る自分の顔は、夕闇によって深い陰影に染められていたが、それであってもなお映える漆黒の双眸にはただただ狂気が迸っていて、酷薄に歪ませた口元で暗く嗤っていた。

「ああ、そうだ。アトラなら、きっと俺を許さないだろう。お前を殺した、この俺を」

 だからこそ、期待せずにはいられない。だからこそ、求めずにはいられない。
 しかし、魔族と化して立ち去ったアトラハシスの行方は杳として知れず、その目的も含めて正直ユリウスには皆目見当もつかなかった。

「魔族ならば魔王軍に組み込まれると考えるのが自然だが……いや、確かサマンオサ帝国だったか。あの国の中枢に魔物が入り込んでいるという情報もある。もしアトラがそれに参画するのなら……どうしようかな?」

 アリアハン王国が持つ情報は、淡々と現状の変化の仔細を捉えている。よってキナ臭い国の話など、宮廷騎士のレイヴィス経由でその都度齎されてきた。
 もちろん、こちらをそう誘導する為の措置ではあるだろうが、ユリウスとしてはその辺りは別にどうでもよいことである。前に進む為の参考程度になれば十分だからだ。

「いや、悩むことですらないか。必要なら、その都市全ての人間を殺し尽くして奴らの目論見を破綻させればいいだけだ。それであいつを引き摺り出せるなら、手段としては検討に値する」

 実際にそれを敢行すれば、旅路の大きな障害になることが目に見えていて、確実にアトラハシスと再会できる保証がない以上、ユリウスとしては選ぶ気もなかったが。
 だども、選択肢の一つとしては確かに並べられていた。

「いずれにせよ、俺にはあまり時間がないから急がなければならない。……ああ、わかっているさ。約束はちゃんと守るから。だけど途中で力及ばず死ぬ可能性だってある。それならそれで構わな……いや、駄目か。コーデリアに怒られてしまうな」

 まだ見ぬ強者と刃を交えて敗れること。それは偏に自身の力のなさに起因し、アトラハシスへの復讐を胸に刻んだ身としては、受け入れ難い結果である筈だ。
 ならば志半ばに倒れる滑稽さは、寧ろ自分には相応しい最期なのかもしれない。
 とても魅力的な結末で意識を惹かれて止まないが、だが、とユリウスは自制した。逃げ出す資格すら、既に自分にはないのだから。
 
「コーデリアは、俺に進めと言った。約束を違えでもしたら……背後から喉元を掻っ切られるな。あいつ、怒った時は無言で急所突きを放ってくるし、予備動作がない上に殺気も放たないから、実に厄介だ」

 過去に彼女を怒らせて全力で逃げ回った光景を思い返して、薄っすらと微笑む。
 この瞬間だけユリウスを包んでいた狂気が霧散していたのだが、吐いた言葉の意味を咀嚼し、脳裏に還すと途端にこれまでよりも深い闇が、その双眸に宿った。

「後ろなど振り返る必要はない。ただ前に進むだけだ。邪魔があれば全て斬る」

 両手で支える剣の鍔に額を添え、双眸を伏せて小さくいつもの祈りの言葉を口腔で呟く。

「……アトラ。もしその先で邂逅できたなら、その時は俺を――」

 それだけが、自分の求める終焉。狂おしいまでに欲してならない願いの形である。
 そこに至るまでにどれだけの血でこの身を穢そうとも、骸の山を築こうとも構わない。
 これは、この場所に最後まで残ってしまった自分があの瞬間に定めた、一人でやりきらなければならない使命なのだから。



『アリアハンの勇者』ユリウス=ブラムバルド。旅立ち前日の事だ。
 人々が、世界が待ち続け、ようやく上げられる人類の反撃の狼煙。
 しかしそれを牽引すべき当の本人の双眸に映る世界には、光など最初から一欠片も存在してはいなかった。










「セフィ……出てくるなら事前に言ってくれないと吃驚するじゃないか」
「お前だけが悪にされているのに腹が立ったからな」
「……良いんだよ。ユーリにはぼくに文句を言う資格があるからね」
「なら言い換える。単純に私がムカついたからだ」
「まったく……君らしいね」

 いつも自信に満ちていて豪気な口調で無理無茶無謀を平然と覆すセフィーナと、暴走しがちな彼女を窘めつつも最後はやはり笑って許容するアトラハシス。
 それはあるがままの二人の様子で、自分はずっとそれを近くで見続けてきた。忘れる筈もない。
 
――何だ、これは。

「姉さん……」
「む……ソニアか」
「ね、姉さんっ!?」
「うぐっ!?」

 呼ばれてかセフィーナは最愛の妹ソニアに向き直り、無言で正面から力強く抱きしめる。その表情がだらしなく緩むならばまだしも、どこか恍惚としているので、彼女にとっては嬉しいことなのだろう。
 思えばいつも妹のことを語るときはこうだった。
 凄まじく饒舌になって、言葉に尋常ならざる熱を籠めて力説する。その時のどこか血走った双眸には並々ならぬ情念が秘められていて、その迫力たるや話を聞くこと以外の選択肢を許さない、と言っているようなものだった。
 正気を無くしたかと思える程に普段と違う様子を呈する彼女に、自分が呆気に取られているとアトラハシスは、セフィーナは妹をとても大事にしているんだ、と実に綺麗で端的にまとめて説明してくれたものだ。

――何なんだ、これはっ。

 吃驚して小さく声を漏らすソニアと、彼女の髪に顔を埋めて呼吸を荒げているセフィーナ。
 そんな二人の横では、何故かアトラハシスがその場で蹲り、幽かな呻き声を挙げていた。常に余裕を湛えていた表情は、苦痛に耐えんと顰められている。

「……セ、セフィ。ソニアに抱きつくのは構わないんだけど、一応魔族体である君が寵愛者アマデウスに直接接触する際のダメージはこっちに来るんだよ。その辺り、少し勘定に入れて欲しいかな」
「麗しき姉妹の再会だ。男なら黙って耐えろ」
「……ちなみに、麗しき姉妹、の再会なのか、麗しき、姉妹の再会なのか、どっちなんだい?」
「下らんことを気にする奴だな。無論前者に決まっているだろうが」
「うわ、自分で断言したよ」

 それは暗に自分と妹は美しいと言っているようなもので。
 懇願に近い言葉だったが、思いっきり無碍に一蹴されても、彼女に対して悪感情を抱かないのかアトラハシスは苦笑を深めるばかりだ。
 思えば、いつもそうだった。
 アトラハシスは常にセフィーナを肯定し、受け容れる。
『理叡の魔女』として、宮廷内で周囲の妬みや嫉みといったドロドロとした汚泥の如き感情の渦に晒されるのを余儀なくされながらも、彼女が己を見失わなかったのは、日溜りのような帰るべき場所としてアトラハシスが待っていてくれるからだ、と本人が照れながらに言っていた。
 
 そして、嘗ての自分もそれに同意したものだ。示された感情が何なのか理解はできなかったが、それでも殺戮の中で生きていくしかない自分も、そこに殺伐とした渇きとは違う何か穏やかなものを感じていたのは確かなのだから。

――これは、これはっ!

「おねえ、ちゃん」
「おお、イーファか。おまえ、大きくなったなぁ」

 今までユリウスとアトラハシスの攻防を見ているだけの外野に徹していた魔族の面々の内、幼気な少女であるイーファが周囲に蔓延する空気に気付かずか、平坦な抑揚のまま両手を挙げてセフィーナに駆け寄ってきた。
 さながら迷子で離れ離れになっていた母娘の如く。
 パタパタと足音を立てて飛び込んできたイーファに破顔し、ソニアから離れたセフィーナはその小さき身体をしっかりと受け止め、抱え上げた。

「いやセフィ。ついさっき会ったばかりじゃないか」
「そうか? こうしていられる時間にも限りがあるからなあ」
「おねえ、ちゃん」
「ふ、可愛い奴め」

 変化が乏しいながらも、それでも少しは綻んだ表情を見せるイーファ。
 そんな少女を優しく撫でるセフィーナと、二人の様子を温かく見守るアトラハシス。
 目の前で展開している光景が、あまりにも嘗ての一時を想起させ、それが狂おしいまでに一致していることがユリウスの中で認識される。
 と、その瞬間。
 冷たく鋭く、刃の如く研ぎ澄ましてきた筈の意識の根底に、深々と亀裂が奔った。

「ぅ、ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」

 その絶叫は、疑念、混乱、恐怖、そして絶望。暗く冷たく鈍くざらついた数多の感情を内包していた。

 誰もが、まさかユリウスが、と信じられないものを見るように視線を集める中。
 ニッコリ笑ってセフィーナが近付いてくる。
 巨大な気配さえ背負っているかのような姿は、記憶の中のあの夜・・・と重なって、ユリウスの意識が大きく掻き揺らされた。

「久しぶりだな、ユーリ」
「う、ああぁ、ああああああああああっ……く、来るなっ!」
「何だ、人の顔を見てそんなに脅えるなど……失礼だろう?」

 傍目に映る光景では、単に少年に女性がゆっくりと歩み寄っているだけだ。
 しかし少年は明らかに怯懦に塗れていて。
 そんな姿をいったい誰が予想できようか。
 どれほどの死地であっても、どれだけ凶悪な数の魔物の群れと対峙しようとも、殺意を向けて突き進む以外を体現してこなかったユリウスが、見るからに怯え切っている。
 数歩後ずさり、及び腰にすらなっているユリウスの頭を撫でようとしたのか、手を伸ばしたセフィーナはその行き先を頭から胸元にスルリと移し、瞬間的に魔力を加速させた。

「せ、セ――」
「イオラ」
「っ!?」

 強烈な光の後に大音と圧力が迸り、至近距離で炸裂する爆風に曝されたユリウスは、勢い良く弾き飛ばされ後方の壁に叩きつけられた。
 背中を強打し、肺腑の空気を全て吐き出してしまったから、その場で蹲り何度も激しく咳き込む。
 しかしながらその様子は妙の一言で、その身に爆裂魔法を近距離で受けたにも関わらず、熱波に晒された様子は微塵もなく、ただ純粋な圧力で跳ね飛ばされただけだ。
 イオ系魔法の最も厄介な要素である熱波と圧力の相乗効果が発揮されるどころか、片方はユリウスに届いていなかったのである。

 そして――。

「ふむ……恐怖に脅えながらも的確に急所を狙ってくるか。出会った時と同じだな」

 ユリウスの手に握られていた剣は、いつの間にかセフィーナの首筋に細長い筋を刻んでいた。魔法を受ける刹那、ユリウスの意志を越えて反射的に身体が反応して攻撃を繰り出したのだろう。
 
 しかしセフィーナに痛みを感じている様子はなく、一つ撫でるとその傷跡さえ綺麗に消えていた。

「それにしても驚くべきは、相変わらずの魔法抵抗力だな。私に以前ほどの魔力が無いとは言え、中級魔法で吹き飛ばすだけが精一杯とはな」

 流石ユーリだ、と一つ優しく笑って称えるセフィーナ。
 攻撃された筈のユリウスは、そんなことなどまるで意に介していないのか、或いはそれどころですらないのか。
 震える瞳でセフィーナを見上げている。

「……な、んで」
「ん?」
「なんで……何で、何で何で、何で何で何で何でっ!?」

 動揺を隠そうともしないユリウスを、セフィーナはつまらないものを見たとでも言いたげに冷め切った視線で一瞥する。
 そして大仰に溜息を吐いた。

「そんなの、わかりきっているだろう? 恨み、だよ」
「っ!」
「痛かったぞぉ。なにせ左肩から下腹あたりまで、一刀両断だったからな。こう、ざっくりと」
「ぁ、ぁぁ……ああああああああああああああああああっ!!」

 セフィーナが左肩から右腰まで指でその軌跡をなぞるように動かすと、それの意味することを明確に理解しているユリウスが再び絶叫し、その手から剣がスルリと滑り落ちて甲高い音を立てて床に転がる。
 続いて力なく膝から崩れ落ちたかと思うと、途端に頭を掻き毟りながらその場に蹲り、何度も額を石床に打ち付け始めたではないか。

 頭部に被ったサークレットと石床がぶつかり合う、甲高い悲鳴が轟く中。
 尋常ならざるユリウスの様相に憐憫を向けながら、アトラハシスはセフィーナに非難染みた目線を送った。

「こらこらセフィ。思ってもないことを言ってユーリを苛めるんじゃない」
「謂れのない責め立てを受けたお前の代わりに、憂さを晴らしやっているんだぞ」
「……それは君の鬱憤だろう? ぼくは、ユーリにはぼくを糾弾する権利があると思っているよ」
「……ふん」

 今のセフィーナの反応はあまりに悪意に満ちていて、それは言わば、ユリウスの心の傷口に直接手を突っ込んで内部を掻き回した挙句、力任せに暴いたことと同義だ。
 アトラハシスの非難に、流石にやり過ぎたかとセフィーナは唇を尖らせてむくれてしまった。

 なんとも言えない雰囲気でその場に沈黙が落ちてしまった訳だが、それでもユリウスが額を打ち付けるのを止めることはない。よく見れば額が割れてしまったのか、鮮血が石床に撒き散らされているではないか。

 紅蓮の血潮を目の当たりにして、手当てを、とソニアが一歩ユリウスの方へ踏み出すも、その瞬間に近付いてきたミコトが腕を掴み、自分の側に引き寄せたものだから、ソニアはアトラハシス達から離されることになる。
 そしてそれを見通していたからか、アトラハシスもセフィーナも邪魔をするようなことなしなかった。

「ソニア!」
「ミコトっ!?」
「ごめん、色々言いたいことはあるだろうけど、今は」

 今のユリウスに比べれば遥かに冷静なソニアは、その手を振り解けなかった。
 自身の軽率さを悔やんでいたこともあってか、大切な旅仲間のミコト達がここに在る理由には直に思い至ったのである。

「正直、どういう状況か殆どわからないんだけど……あれが、ソニアの姉上殿とアリアハンの王子なの?」
「え、ええ」
「そうなんだ。それにしても……ユリウス! お前、何をやっている! 錯乱している場合じゃないだろ!!」

 ミコトの叫びに、ユリウスはその動きを止める。だが蹲ったままの体勢を崩すことはなく、どんな表情をしているのか誰にもわからない。
 だが、完全に戦意を喪失している様に、ミコトは苛立ちを覚えていた。

「おい、剣を取って立て! この状況はマズいぞ!」

 魔族の巣窟とされる迷宮の深層で、散々魔族は皆殺しだと息を巻いていた勇者が急に使い物にならなくなってしまった。
 動ける味方と言えるのは、己が従者のサクヤとイズモ、そしてソニアだけ。
 それは敵が終結する只中でそれは忌々しき状況だ。
 対して敵である魔族は、ソニアの知己らしきアリアハンの王子に彼女の姉。見知らぬ大男と全身をローブで覆い隠した者に、こんな場所に不似合いな幼気な少女。そして、イシスで敵対したティルト=シャルディンスである。
 ソニアの姉にしろ、裏切り者のティルトにしろ、既に死んだと聞かされていたが、どういう訳か生きて、魔族の集ったこの場にいるのだ。つまりは魔の眷属だということをミコトは疑わない。

 そして何より、数の上で不利である以上、戦闘継続は絶望的だ。離脱するにしても、果たしてそれを見逃してくれるかどうか。
 冷や汗が、背中をじんわりと撫でていく。

「君は、ソニアの仲間だね。ええと、確かジパングの国主、ミサナギ=シングウの妹姫、ミコト=シングウで良かったかな? そしてそちらの二人は、その従者のサクヤ=ミカドとイズモ=カミガキ……十三賢人“命”、ヒュウガ=ミカドに連なる者達だね」
「!」

 まさか素性を言い当てられて、ミコトの表情は強張る。ソニアの仲間という立場だけではなく、こちらの背景まで知っているような口振りだったからだ。

 素直に内心を面に出してしまったミコトに、アトラハシスは冷笑する。その笑みは、セフィーナやソニア、ユリウスに向けていた温かさなど一切ない侮蔑の類のものだった。

「どうして、という顔をしているね。決まっているじゃないか。ユーリに纏わりついている卑しい羽虫達の情報はある程度押さえているつもりだよ」
「出自が判れば、その者の抱える背景もある程度は読めるからな。そいつらが何を画策してユーリに近付いてきたか推測することができる……ジパング王族のお前が、『アリアハンの勇者』に何をさせようとしているかもな」
「っ!」

 敵意よりも非難の色合いが強い二つの双眸。
 この場の中心に在る二人に呑まれまいと、ミコトは一層の気迫を纏って睨み返した。

「といっても、もう一人のお仲間のヒイロ=バルマフウラについては、盗賊団“流星”に所属する以前の、その出自についての情報が全く出てこなかったんだよね」
「ああ。完全に不明だ。綺麗さっぱり痕跡がないから、ある日突然、この世界に現れたかと思える程だ」
「……ヒイロが?」

 呆然と零したソニアに、セフィーナは小さく首を振る。

「だがまあ、そんなことはどうでもいいな。ユーリに……いや、『アリアハンの勇者』の名に近付いてきた連中など、すべからく浅ましい恥知らずな不逞の輩に相違ない……あ、ソニア。お前だけは別だからな!!」
「……人類を裏切って魔族に堕した外道共に言われる筋合いはないっ!」

 ミコトの叫びも尤もなことだと内心で認めつつ、だが賛同はしない。
 その選択を採るまでに至った経緯や苦悩、それらを置き去りにした上辺だけの薄っぺらい非難など、所詮子供の戯言に過ぎないのである。
 そんな思いから、セフィーナは嘲笑を浮かべた。

「確かお前の姉は、魔族によって苛まれているのだったな。この世に蔓延る理不尽の責を全て魔族に求めるか……実に安直で浅慮、思考停止しているとしか言いようがない」
「なにをっ」
「……とは言え、そんなもの結局のところは見解と立場の相違に過ぎない。こちらとそちらとでは、相容れることなど永遠にあり得ん、よっ!」

 愛すべき妹との距離が随分と近いことへの嫉妬を隠しもしないセフィーナは、鋭くミコトを見据えていたが、不意に翻ってはアトラハシスの腕を引いて立ち位置を入れ替え、逆の腕で虚空を薙いだ。
 その刹那の後。
 小さな風切り音に継いで金属同士がぶつかり合うけたたましい甲音が発せられたかと思うと、彼女が翳した掌には一本の矢が握られていた。

「……どうやら、紛れ込んでいた鼠が集まり始めたようだな」

 つまらなそうに手のひらを一瞥して、メラ、と小さく呟いて矢を焼却させたセフィーナは、残った黒焦げの鏃を投げ棄てる。
 カランコロンと軽快に石床を転がって辿り着いた先には、いつの間に開かれていたのか、ミコト達が入ってきた扉とは反対方向の扉の前で銀色の弓矢を構えた金髪の聖殿騎士シゼル=ディストリーと、長大な槍の如き杖を構えた”魔姫”ユラ=シャルディンスが佇んでいた。

「ソニア殿。ご無事で良かった」
「し、シゼル様!? ど、どうして貴方がここに?」
「勿論、貴女の事が心配だったに決まっているじゃないですか。そして――」

 心底驚いているソニアに、これまでになく誠実に微笑んでシゼルは礼節に則った会釈をする。

「ご無沙汰しております、アトラハシス殿下。海戦以来ですね」
「君は……ディストリー卿のご子息か。ああ、そう言えば今のバハラタは聖殿騎士団パラディンの“白光”が防衛しているんだったか。それなら君がいても不思議ではないよね」

 青い生地の騎士装束に、白色の外套。世界中の重要拠点防衛を任務とする、いささか面倒な集団の副総領の姿を目の当たりにして、アトラハシスは嘆息した。

「愚かしくも大胆なことをしてくれたみたいですね。お陰様で我々の仕事が増えてしまいましたよ。まあ、暇に取り殺されて意識が弛緩するのも宜しくはないので結果としては良かったですが。単調な任務に刺激を与えてくれたこと、一応感謝しておきますよ」
「ふん。いけ好かない気障男め」

 敢えて聞こえるように苛立たし気に舌打ちするセフィーナ。
 それを耳にして、一瞬目を瞠ったシゼルだったが直に酷薄な笑みを浮かべる。

「これはこれは……セフィーナ殿の亡霊もご一緒でしたか。昇天できず未だに現世を彷徨っていたのですね。気付かずに申し訳ない」
「お前の言葉は相変わらず上っ面だけで、空々しいな。だがそれで思い出したぞ。お前には言っておかねばならない事があったんだ」
「はて、何でしょう? 他人の貴女に言われる文句など、まったく思いつきませんが」
「親同士が決めたことだろうともな、ソニアは貴様にはやらん!」

 ビシリとシゼルを指さしたセフィーナは高らかと宣言する。
 口元を歪めて、片眼鏡の奥で嘲りの色を載せるシゼルは、見掛けの紳士然とした佇まいとは裏腹に、その内面は酷く屈折して歪んでいた。
 ソニアは近しい人間の悪意に疎いところもあるので気付いていないようだったが、セフィーナはそれに昔から気付いていたのである。だからこそ、ソニアにこの男は相応しくはないと確信し、それを定めた両親を恨まずにはいられない。

「いや、セフィ。それじゃあソニアの父上殿みたいだよ?」
「昔から決めていたんだよ。ソニアを娶りたいのであれば、この私と戦って勝つことだとっ!」
「ね、ねえさん!?」
「いやいや、それじゃあソニアはずっと独り身に――」
「貴女は既に亡くなっているのだから、そんな権限はないでしょう。そもそもそんな亡者の戯言など聞く価値も無いですしね」
「ふん、生臭坊主め。お前のようなひねくれ者にくれてやるのは、罵倒だけで充分だ!」

 まあまあ、といきり立つセフィーナを宥めて、アトラハシスが改めてシゼルを向いた。

「何にせよ、シゼル君が来てくれて助かったよ。できればこの後、ソニアを連れて帰ってくれないかな?」
「アトラ!!」
「殿下!」

 セフィーナとソニアからの異口同音。
 しかしアトラハシスは取り合わず、水を向けられたシゼルは何を今更と嘲笑った。

「言われずともそうするつもりですよ。栄えある寵愛者を、これ以上魔族に近付けさせる訳には参りませんので」
「まあそちらの都合はどうでもいいんだ。ただ、ぼく達もこれからここを撤収する予定なんだけど、ソニアをどうバハラタに送っていこうかが目下の悩みどころだったんだよね。ぼくが直接ソニアをバハラタに送っていったら、彼女の立場が色々と危うくなるし」

 昼間のバハラタ市中にて、公会議の警戒時期に強化された街の結界を白昼堂々内側から破ったのはアトラハシスだ。
 時期が時期だけに活気と警戒に賑わった往来であった為、そこにソニアが帯同していたのを目撃した者も多くいることだろう。市中警護のイシス兵、ランシールの騎士達が目を光らせているのも容易に想像できた。
 そんな中、張本人に連れられて再びソニアがバハラタに戻りでもしたら、確実にその関係性を疑われる。
 そして、世間では死亡したことになっているアトラハシスが、魔族になっていたのだという事実が権力者達の間に知らしめられれば、世界を欺いたことになるアリアハン王国への糾弾は避けられぬだろう。
 結果として、『アリアハンの勇者』を最前線に立てることで魔に対しての抵抗意志を束ね、辛うじて保つことができている現在の世の秩序。その基盤に皹を入れかねない事態になり得るのだ。

 予想外の答えを返され怪訝を深めるシゼルをよそに、そんな世情を思ってアトラハシスは冷たく笑う。

「徹頭徹尾ぼくの自業自得なんだけどね。別に世界の協調関係が壊れようが構わないんだけど、人間なんて単純なものだからさ。旗色が変われば簡単に掌を返すのが目に見えているから、ソニアを世間の冷たい眼に晒させるのは本意じゃない」
「殿下……」

 由々しき内容をアトラハシスは軽い口調で綴っていたが、ソニア自身、改めて己の軽率さを自覚し、全身から血の気が引くのを実感していた。

「まあその点、君なら聖殿騎士団“白光”の副団長だから上手く言い包めれるだろう? 何より形式上ソニアの許嫁だからね。救出譚の結びにはお誂え向けだ。なんなら、魔族の巣窟からそこに巣食う魔物達を華麗に打倒し救い出した、という美談にしてくれても構わないよ。それなら君の経歴に華を添えられるだろう?」
「……その上からの物言いはつくづく不愉快ですね」
「そうだぞ! アトラ、私は断じて認めていないからな!」

 一人温度の違うセフィーナを無視して、アトラハシスはユリウスを横目で見やる。

「ユーリがもっと冷静で、現状において何が最善なのか判断できたのなら良かったと思うよ。特に今のユーリは“剣魔将”様に公衆の面前で敗れてしまった所為で、『アリアハンの勇者』という立場に翳りが生じている訳だし。世間が『アリアハンの勇者』に望むのは魔物の根絶でつまりは勝利のみだから、魔族に敗走したという土が着くなんて汚点を許容してはくれないからね」
(ユリウスが……敗れた?)

 初めて耳にする事態に瞠目し、徐にソニアはアトラハシスの言葉につられてユリウスを見てしまう。
 先程まで恐怖に支配されていただけに、恐る恐るになってしまっていたが、幸いかな、当のユリウスは項垂れたまま動く様子はなかった。

「…………」
「ユーリ。君のことだから、周りの事なんてどうでもいい、って突っぱねるんだろうけど、世間はそんなに生易しくはないよ。実際、糾弾は既に始まっているだろう? それを拗らせた果てに無責任な連中が君を迫害してくるのは眼に見えている。現にこの場にいる方々は、今の君の姿を見てどう思うだろうね?」
「『アリアハンの勇者』の真価は、結果によってのみ評価される。それが嘗てアリアハンが提唱し、世界が受容した結論です」
「身勝手な話だよねえ。当事者の人間性や尊厳を完全に無視した、無関係だからこそ言うことのできる酷薄な言葉だ」

 間髪入れずに答えたシゼルの言葉は、言わずもがな世間の代弁だ。
 そんな大局の声を心底馬鹿にするように、アトラハシスは小さく肩を竦める。

「だとしても、貴方にそれを言う資格はないでしょう。元アリアハン王子で魔族のアトラハシス殿下?」
「……ふふ、そちらからきたか」

 魔族という単語を殊更強調した糾弾の声は、ユラのものだ。
 既に臨戦態勢が出来ているのか、手にした『理力の杖』に十分な魔力を注ぎ込んでおり、そればかりかバイキルトやピオリム、スクルトと言った補助魔法をも自身に展開している。
 その隙の無さは、ある意味、今この場において最も冷静に状況を分析しているのが彼女とも言えた。

「この場にいる全員が魔族のようですね。窮地と言えば本当にそうなりますが……ミコト殿、先行していた貴女方は大丈夫でしたか?」
「ああ、何とか」

 確認に小さく頷いたユラは、その杖の鉤部分を、アトラハシスではなく後方に控えていた妹ティルトに向けた。

「久しぶりね、ティルト」
「姉上……」

 魔導士としての姉の姿しか知らないティルトは、ユラの戦者たる出で立ちに幾許か呆然としている。

「アズサに挨拶はしていったのに、私には無いなんて……寂しいじゃない。でもせめてお父様には一言残しておくべきだったわね」
「私の中の優先順位に従ったまでです」
「貴女らしい言い様ね」

 抑揚なく返されて、変わらずの様にユラは苦笑する。
 姉妹仲が悪いという訳ではないが、日に日に距離を置かれていたのは知っていた。
 妹の生来の特殊性と国家の現状。そして、彼女が何を為さんとしていたかを考えれば、色々と合点がいく。

「ティルト、貴女が何故あんな行動をとったのか、報告は全て受けました。本来であれば我々がやらなければならないことだったのですが……いえ、貴女の行動の結果、イシスは救われました。公表することも、表立って感謝することもできない立場だけど、姉として貴女のことは誇りに思うわ」
「……姉上」
「ですが、それより先については看過するつもりはありません。アトラハシス殿下。貴方が妹をそちら側に招いた、と受け取って宜しいでしょうか?」

 冷ややかな眼差しでユラはアトラハシスを見据える。
 その面には感情の昂ぶりによる怒りでも、妹の現状を知った上での悲しさも見えない。ただただ冷静に徹することに終始した、魔導士の鏡のような在り様だった。
 妹よりも数段感情の制御が上手い姉の姿に、アトラハシスは苦笑を零した。

「まるでぼくが彼女を悪の道に誘い込んだと言いたげな口振りだねえ……まあ否定はしないけれど、彼女を選んだのは『昂魔の魂印マナスティス』だよ」
「切っ掛けはそうであれ、それを掴んだのはティルトの意思。人間と敵対する位置に立った責はティルト自身にあります」

 それは言外にティルトの選択を認め、受け容れるということだろうか。
“魔姫”の存在をこれまで気にしたことのなかったアトラハシスであったが、その立場に見合う、清濁併せ呑む度量は備えているということを認識し、自身の内の印象を改めた。

「……それにしても、私事ではありますが、まさかこういう形でお会いすることになるとは夢にも思いませんでした」
「ぼくもだね。まあ今となっては……いや、半端な言葉は君にも失礼か。言い直そう。最初から甚だ迷惑な話だったよ」
「奇遇ですね。私も同じ感想です」

 お互いにこやかに毒を吐き合っている様相は、どこか冷たい。
 一見接点がないだろう二人の、意外で不透明過ぎる接点にソニアは首を傾げた。

「アトラ様は、ユラさんとお知り合いなのですか?」
「うーん、知り合いというか何というか。顔を合わせるのは今が初めてだし、単に情報としてお互い知っているだけかな。まあ、廃嫡された王族の使い道なんて何時の時代も決まっているだろう?」
「それって……あ」

 嫌そうにアトラハシスが顔を歪めて濁した言葉に気付いて、ソニアは思わずセフィーナを仰ぐ。
 その視線の先には、案の定機嫌を急転直下で悪くさせているセフィーナが、苛立たしさを隠しもせずユラを睨んでいたではないか。

 アリアハン王国の王位が先代国王から、王弟であった現国王に移譲された時点で、アトラハシスは既に王位継承権を剥奪されていた。それはザウリエ王がアトラハシス個人の自由を慮っての措置だったが、周囲がそれを見過ごす筈もなく。
 その後の扱いの方向で、アトラハシスは外交の材料として、イシスとの繋がりを強化する目的で新たな“魔姫”との婚姻の話が水面下で進められていたのである。勿論、当事者達の意思を全く無視して、だ。
 しかし貴族社会ではこれは特に不穏当なことではなく、ごく当たり前のことである。寧ろザウリエの気遣いこそが異端であり、良からぬ外野に付入る隙を与えかねない、と諫言されたことでもあった。

 ただ、それにしろこの場では実に相応しくない話題である。
 チラリと横目でセフィーナを見たアトラハシスは、彼女がむくれているのを察してソニアに釘を刺していた。

「ソニア。この話題はもう止めようか。既に立ち消えたことだし、今となっては気にすることでもない。そもそもこの話題はセフィに聞かせない方が良いよ。ほら、今にも嫉妬で“魔姫”殿に襲い掛かりそうだ」
「誰がするか!」
(君を情緒不安定にさせた原因でもあるからねえ)

 アリアハンから去る当時のセフィーナの精神状態は色々な理由があり非常によくなかった。
 それに加えての件であったが故に、ユラには何の罪もないが、全くないだけに実に迷惑な話だ、と内心で小さく呟く。

「ふう。何だか次から次へと色々な因縁が集まってきているけど……まさか形勢逆転とかは思っていないよね?」
「……っ!」

 アトラハシスに楽し気に問われ、ミコトは苦虫を噛み潰したように顔を顰める。

 確かに数の上では互角だ。しかし魔族の能力は単体ですら脅威である。決して油断できるものではない。

(あいつはもう……駄目だ)

 そして、ミコトは既にユリウスを戦力に数えてはいなかった。
 何故ならここまで人が集い、話が広がっているにも関わらず、未だにピクリとも動こうとしていないのだから。
 勝手なのを理解した上で、ミコトの中で彼への失望が強まる。

「そう血気に逸られても、君達と事を構える気はないよ。今はそんな下らないことよりも、楽しい昔話の最中なんだ。別に聞いていても構わないけど、部外者はしばらく黙っていてもらえないかな?」
「そんな都合を我々が斟酌するとでも?」

 挑発的にシゼルが答え、矢を番えようとする。
 が、それすらアトラハシスは気にした素振りを見せない。

「まあ待ちなよ。君達がどれだけ蚊帳の外であっても、黙って聞いている分には損をすることではないと思うよ。何せ、これはずっと鎖国中で秘され続けてきたアリアハンの内情に連なる話なのだから」
「…………」
「まったくだな。次から次へと人が来るから、すっかり話の腰が折れてしまったじゃないか……ソニア」
「な、なに?」

 チラリとセフィーナは横目でユリウスを確認する。
 彼女の声調で何かを察したのか、その肩がビクリと揺れたが、それでも動く様子は未だにない。
 しかし、それは当然だ。今のユリウスは千々に乱れていて、裡で擾乱する感情の波を収める術を知らないのだから。
 そうなるように・・・・・・・これまで接してきたのだから、セフィーナにはユリウスの混乱が手に取るようにわかった。

「私はな……竜種なんだよ。後天的ではあるが、な」

 威風堂々としたその佇まいと勇ましさに、場が一瞬停止する。
 そのあっけらかんとした様相には、ユリウスさえ顔を上げていた。
 そしてそんなセフィーナの発言は、アトラハシスの予想すら越えていたからか、彼は狼狽を露わにする。

「ちょ、ちょっと待ってセフィ。今の流れだとほら、アリアハン襲撃事件の裏側とか、勇者育成という名目であの国が何をやっていたとか、そういうのを暴露する場面だよ。いやそもそも、ユーリが必死になって守り通してきたその秘密を暴くのはぼくの役割じゃないか。それを当事者が公言しちゃったら、何だか勿体ぶっていたぼくが滑稽すぎるよ!?」
「別に今更後生大事に隠すような秘密でもないからな。それに、ソニアが聞きたいのはこのことだ。そして納得させるには、私が言うのが一番手っ取り早い」
「それはそうかもしれないけどさ、物事には段取りと言うものがあってだね」
「些細なことだ」

 にべもない。
 傍若無人なセフィーナの姿に、観念したアトラハシスはやれやれと肩を竦める。

「姉さん、は……後天的な、竜種?」
「そうだ。……私の中には、嘗て魔竜と呼ばれこの地で十勇傑に倒された、セフィルフリギアが眠っていたんだ」




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