――――第六章
       第十七話 軋る偽飾いつわり






 本来であれば白亜に近い石造りの回廊も、今となっては床や壁、天井にすら青き血潮がこびり付いている。
 それらは全て、魔物が断末魔に残した血液だ。肉片は全て時と共に風化して掻き消えており、この場であった陰惨な真実をひた隠しにしているかのようである。
 しかしそれであっても、薄っすらと灯る燭台の火が、この場の空気を酷く重く、おどろおどろしいものに換えていた。

 牢獄の部屋でミリアと別れたルティアは、やかましい妖精が後を追って来ないように随所随所に氷壁を張り巡らせ、独り奥へ奥へと進む。
 在野の魔物であればルティアに対して敵意を向け続けることはできないのだが、発生原理を異にする者共との度重なる戦闘の末。すべてを殲滅してシルヴァンスの元に辿り着いた。

 人間から魔物への変異の様子を目の当たりにしても眉一つ動かさず、躊躇なくそれらを斬り捨てたルティアの冷徹さに内心で戦慄しながらも、それをおくびも見せずにシルヴァンスは佇み、辺りの血潮に視線を投げかけている。

「まったく……今日は厄日だな。ここ暫くの成果が全て無駄になってしまったじゃないか」
「そんなに惜しむことかしら? 『幻魔石モンスターメダル』とはいっても、所詮精度は“ブロンズ”程度。それなら野にある魔物をメダパニで操った方がまだ実利を見込めるというものよ」
「……少しは悪びれて欲しいものだな。まったく、『幻魔石』の情報なんざ、一体何処で漏れたんだか」

 やれやれ、と小さく肩を竦めるシルヴァンス。
 実際、このことについて理解しているのは己が回りにどれだけいるだろうか。精々がアトラハシスとその相棒のセフィーナ辺りだけなのだろうが、その重要度を理解しているが故に率先して吹聴するような連中ではない。

「別に身内から漏れた、とは限らないわね」
「違いない」

 シルヴァンスは『幻魔石』の知識を『悟りの所』より引き出したが、所詮開示許可が下りたものでしかないのだ。
 つまり、知ろうと思えばやり方はいくらでもある。

 投げやりに両手を挙げて降参の意を示したシルヴァンスに、ルティアは手にした隼の剣の切っ先を向けた。

「そちらの事情に興味はないけれど、あなたは色々と識っていそうね。もし“アリアハンの勇者”について知っていることがあるなら聞かせて欲しいわ」
「“アリアハンの勇者”? 何故そんなことを訊く? お前はアレの関係者か?」
「ほら、恋する乙女としては気になる男性の事って、色々と知っておきたいじゃない。例えそれがどんな些細な事であってもね」
「ほう、それは随分ロマンチストなことだな。しかし、寝言は寝てから言うものだ。お前が何処の誰だかは知らんが、そんな可愛げなぞ微塵も感じられんぞ」

 胡乱げに眉を顰めたシルヴァンスの冷徹な切り返しに、酷い人ねえ、とルティアは小さく唇を歪める。

「“人工賢者創造計画”……いいえ、まだ入り口に過ぎないとはいえ“進化の秘法”なんて迷惑なものを施されているんじゃ、彼にどんな影響が出ているかわからないでしょう? ただでさえ忌々しい汚物に穢されていて悪影響が出ているというのに」
「……成程。その単語が出てくる以上、お前も“賢者”ということか」
「さあ? 少なくとも私は自分で自分を、賢しき者、なんて言うつもりはない。何だかそういうのって滑稽に聞こえて厭なのよね」

 全くもってその通りだ、とシルヴァンスは嗤った。
 実際に“賢者”の職に就いている者達は、誰しも同じ感想と自覚を抱いていることだろう。
“賢者”に転職し、『悟りの書』という叡智の源泉に触れた瞬間に思い知らされるのだ。自分達が、実は何一つ世界のことなどわかっていない愚者に過ぎないという現実を。
 だからこそ、一般に語られる“賢者”像など、“賢者”当人からすれば唾棄すべきものでしかないのである。

「全ての“賢者”が共感する物言いだが……まあいい。妖精の姫君が一緒と言うのならば、お前は“魔呪大帝”様の関係者と見て間違いないからな。そう考えると、お前がここにいる理由はせいぜいこの遺跡を消滅させて来い、ってところか?」
「あら? あのエルフってそんなに有名なの?」
「そんなことも知らないのか……ガルナに出入りする“賢者”なら、誰もが知っているぞ。“魔呪大帝”様の寵愛を受けし、光闇の妖精ってな。まあダーマじゃ、エルフ自体の珍しさに眩んで真実が見えていないようだが」
「ふーん。別にあのエルフのことなんてどうでもいいのだけど。それよりも」

 さっさと続きを話せ、と目線と切っ先で静かに脅してくるルティアに、シルヴァンスは小さく嘆息した。
 目の前の小娘は、自分の知る“賢者”とは別種の何かを持っている。
 それはただの直感に過ぎなかったが、より本能的な部分からの警鐘であった為、敵対してはならないとシルヴァンスは極力戦闘意思を廃絶させることに努めていた。勿論、そんな内心の焦りなど微塵も出さなかったが。

「“アリアハンの勇者”か。アレの訓練カリキュラムの基礎部分は狂人ディナが考案したものだが、その前提としてアレに投与し続けていた『進化の種』は、あの国にある政治派閥の一つが率先して行なってきたことだ。そして、その首魁は“智魔将”エビルマージと繋がっている……間接的にではあるが“アリアハンの勇者”は最初から魔王軍の監督下に置かれていた、とも言えるな。本人と周囲がそれをどう捉えているかは知らんがね」
「……となると、ユリウスが“人工賢者創造計画”の被験者だと知られれば」
「興味を示す奴らは多いだろう。特にオルテガを輩出してからというもの世界同盟の中でアリアハンの発言力は上がりっ放しで、それを由としない国はいくらでもあるからな。特にポルトガ、エジンベア辺りは特に熱心に耳を傾けるだろうぜ。一応協調路線を取っているロマリア、イシスもどうなることやら」

 言いながら、間違いなく亀裂が生じる、とシルヴァンスは確信している。
 人の情理に則れば、人間同士で諍いをしている場合でないのだが、国家としてその先の世での利得が絡めばそう単純な話ではない。
 それは他国に黙殺を強いるまでに、アリアハンの強硬姿勢が際立っている、ということの裏返しであった。

「真っ当に考えれば、“アリアハンの勇者”なんぞに、他国を傅かせる正当性など欠片もない。アレが持ち上げられているのは、“オルテガの息子”という血潮の神話に盲目になっているからだ。だがそんな夢は、いずれ必ず醒めるものだ」
「……」
「正統な“勇者”とは、ランシールで“勇者の試練”を越えてこそ、だ。オルテガもサイモンも、“魔竜討伐”という功績を経た上でそれを成し遂げたからこそすんなりと受け容れられたんだ。だが今の“アリアハンの勇者”はそうじゃない。限られた情報と、過度の危難を刷り込まれた世情、そして誇張されて築き上げられた英雄像が、それを許容させているに過ぎない」

 現実問題、世界が滅亡の一歩手前まで追い詰められているか、と問われれば答えは否だ。
 世界はまだまだ反抗する余力を残しており、魔王軍は魔王軍で、人界侵略の手段として実にまどろっこしい方策を執っている。
 魔王軍の真の目的からすれば当然の選択なのだが、逆に人の中で世情と現実の乖離の幅を認識している者は、実はあまり多くはない。
 それこそが、世界各国が民衆に布いた見えざる統治の帳である。

「そういえば、此方は随分と情報統制に注力しているのね。幾つか街を見たけれど、腹立たしいくらい平和ボケに浸かった場所ばかりで、一々イライラさせられたわ」
「混乱を抑える為に、余計な知識を与えない、というのが世界同盟の決定らしいからな」
「……極端な統治ねえ」

 人と人、街と街、国と国の連携は現在魔物の妨害によって断たれつつあると言われているが、実際のところそんなことはない。魔物は所詮殺せる存在でしかないのだから、人々が本気で臨めば現状を打破できるのだ。
 しかし、限られた組織の者達を除いて、それを率先して行おうという者はいない。国家が制度として外へ意識を向けることに制限を掛けているからである。

 どういう合意の下に成された施策かは知らないが、効果は覿面だったと思うシルヴァンス。何故なら、その成果としてつい先日まで魔物達を統べる“魔王”の名すら、民衆は知らなかったのだから。

「まあ下手に知識を与えて恐慌でも起こされるのは、統治者として良くはないんでしょうね。そういう時局に限って、他人を煽動して混乱を起こそうとする迷惑千万な連中も沸いて出てくるし」
「その極端さが、世界に“アリアハンの勇者”を許容させているんだよ」

 理解する気がないルティアは、うんざりしたように肩を竦める。

「限られた情報でしか知らないからこそ、偶像の評価なんぞ結果が伴わなければ瞬時に反転する。まあ当然だが、寧ろ実態を知らないからこそ、その度合いは強い」
「……でしょうね。付け入る隙があれば率先して叩くのが、対岸の火を見る人間だもの。腹立たしい限りにね」
「今、その“アリアハンの勇者”を迎えている奴は、そのことを世間に公表するつもりで色々と手を廻していたな。そろそろランシールで“勇者の試練”が執り行われる時期でもあるから、既に舞台は整っている。そう遠くない内に“アリアハンの勇者”は社会的に抹殺されるだろうぜ……本人は呪われた宿命から解き放つ、と言って憚らないがな」
「……ふーん」
「いつの時代も、人類の期待を背負って動いている奴らの首を後ろから掻っ切るのは、背負われている側の大衆だからな。少しだけ大衆心理に向けて真実を囁いてやれば、茨の首輪は呆気なくその首を落とすだろうぜ」

 シルヴァンスの語るものは随分と穿った見方ではあるが、人間社会にはそう言った側面は確かに存在し、しかもその影響度は思いのほか大きい。
 むしろルティアとしても、彼の地の偏った思想が定着した人間達を信用していないからこそ、同意できるものだと感じた。

「とまあ、俺が知っている“アリアハンの勇者”なんぞ、こんなものだ。上にいる連中なら、直接接触のあった奴等だから、もっと色々なことを知っていると思うぜ」
「そう。後で尋問にでも行こうかしらね」

 選ぶ言葉がいちいち物騒で穏やかではない。目の前の女賢者はどこまでも大胆不敵で、勝気なようだ。そのくせ、剣士としても一流なのか佇まいに全く隙がないときている。
 そんな相手と一対一の状況は、白兵戦は領分ではないシルヴァンスとしては、あまりに歓迎し難い事態であった。

 しかし。

「ふ……どうにもあんたは特種な“賢者”のようだな。わざわざ霊素質物理変換マテリアライズまで使用しているところを見れば……アレフガルド側の人間か?」
「!」

 まさか言い当てられるとは思っていなかったのか、思わず息を呑んで目を見開いてしまうルティア。
 これまで取り付く島のなかった氷の様相に皹を入れることができ、してやったりとシルヴァンスは笑った。

「……意外ね。こちらの世界の“賢者”共に、アレフガルドの名前が知られているなんて。確か人界保全の名目とかで、グリムニルが彼方について一切の情報規制をしている筈だけど」
「忠誠心なんぞ欠片もないが、これでも形式上魔王軍に所属しているからな」
「?」

 いまいち要領を得なかったのか、怪訝を載せたルティアに、シルヴァンスは滾々と続ける。
 それは言わば、出来が良すぎて教え甲斐に欠ける生徒にようやく見いだせた教導の機会であり、それ故にその弁舌は滑らかだった。

「ああ、それはいけない傾向だ。『悟りの書』ばかりに頼っていると、世情の事に疎くなるぞ。アレには結局、人の情理を載せてはいないからな。適度に真理と情理のバランスを保つことが、最も自分にメリットを引き寄せるものだぞ」
「成程……耳に痛い忠告ね。素直に受け取っておくわ」

 単純な話、本ばかり読んで知識を蓄えようとも実体験が伴っていない故の、言うなれば世間知らずということだ。
『悟りの書』はあらゆる知識と真理を垣間見せてくれるが、それを事象として現実に顕現する為には、経験が不可欠。だからこそ世の“賢者”達の殆どが活動的で、魔王軍にすら組する者も存在するのである。

「あんたがアレフガルドでどんな立ち位置にいるかは知らないが、世界の垣根を越えてまでご苦労なことだ。彼方と此方ではマナの存在法則に微妙な差異がある。精神体に小細工を用いて順応性を繕ったところで、大憲章マグナカルタからの矯正力からは逃れられまい。微小なれど、常にダメージを受け続けていると見立てるが」
「……流石は、最低でも“第五篇ティファレト”の階位に立つ“賢者”といったところかしら。その圧力、戦慄を禁じ得ないわねえ」
「……そういう台詞を吐くには、それに見合った苦悶か焦燥が必要だ。そんな余裕塗れで薄ら笑いを浮かべながらの取って付けたような言葉に、説得力などないぞ」
「あらそう? ま、そちらの親切な指摘については、既に対策済みとだけ答えておくわ」

 不敵に笑うルティアの姿に、頭を抱えてシルヴァンスは溜息を吐いた。

「しかし妙でもあるな。今のあちら側に“賢者”が存在……できるのか? 彼の地のレイラインは既に使い物にならなくなっていると聞いたことがあるが」
「場所にもよるわね。少なくとも、アレフガルド大陸に関してはもうダメよ。閲覧領域が奪われてから永きに亘る徹底制限で既に汚染されてしまったからね。だからこそ、それ以上の汚染の拡大を防ぐ為に大陸ごと封印したらしいけど」
「それが『闇の衣』か。……しかし驚いたな。答えてくれるとは思わなかったぞ」
「別に彼方側の世界構造を漏らしたところで私に不利益はないからね。それにこちらとしても、教えてくれたことへの駄賃は払うつもりよ」

 成程、とシルヴァンスは頷く。
 どうやら眼前の女とは敵対関係ではないらしい。
 たまたま道端で遭遇した相手が、都合よくこちらの欲しい情報を持っているかもしれない、程度のものなのだろう。
 よってどんな情報を話そうが、互いに不利益を被る訳でもない。そればかりか何ら関係がないからこそ、こちらにとって有益な情報を引き出せるのでは、と瞬時に考え至った。

「それはありがたいな。ならばついでにもう一つ……ドラゴンオーブの“銀”を破壊できる『聖剣・光輝の剣』は、そちら側にあるのか?」
「『光輝の剣』?」
「ああ。随分昔にアレフガルドに流れたのは確認している。あれは元々、ネクロゴンド王国に保管されていたものだからな。過去に『ギアガ』が開闢した際のドサクサで持ち出されたという記録がある」

 その問いが来るとは夢にも思わなかったのか、ルティアは一瞬だけ目を丸くした後、表情を引き締めた。

「……あるわ。適合者も既に存在している」
「誰だ?」
「さてね。これまでの情報では、これ以上は無理ね」

 シルヴァンスは確信する。
 今のルティアの反応を見るに、十中八九その使い手は知己であるということだ。そして彼女にはその知己を売る気はない、という想いがあるのだろう。
 だが、それで十分だった。
 元々問い掛け自体が全く回答を期待していないもので、そもそも砂漠の上の一粒を探るような作業に途方に暮れていた想いから来たものなのだ。
 緩やかな風化を余儀なくされていた今を思えば、大き過ぎる収穫である。

「……てっきり、知らない、で一蹴されると思っていたんだが」
「それで納得できるほど純粋じゃないでしょ? どうにも“銀”に対して並みならぬ執着を感じたからねえ」
「……」
「神凰ラーミアを封じた竜の魂を砕きたいのならば、相応の準備が必要となる。星辰六芒剣ガイアクリーヴァ然り、大憲章然り。アレ等は全て、竜の魂魄を害する性質を持っている。それら抜きで実行に移したいのならば、周辺一帯をマナごと消去して、世界を破壊する意気で掛からなければ砕くことなんて夢のまた夢」

 それはつまり、他にも手段があるという事だ。しかしそれが実現不可能に限りなく近い事実を、“賢者”たるシルヴァンスは即座に弾き出す。
 口を噤んだシルヴァンスの双眸は、常に気だるさを乗せていたものとは異なり、いつしか真剣な色に染まっていた。

「待て。大憲章、だと? アレも竜を縛るモノなのか?」
「ああ、グリムニルはその辺りの事を封鎖していたんだったわね……まあ、別に暴露してもいいか。その通りよ。貴方も“賢者”なら、自分が何をさせられているか・・・・・・・・・・を自覚した方が良い」
「……それは、“賢者”の絶対数が常に百八人であることに関係していると?」
「そう。往古より“賢者”の席は常に百八。欠員が出た場合、自動的に誰かがそこに当て嵌められる。求められるのは当人の努力や能力なんかじゃない。『悟りの書』を下支えできるか否か、魂魄の許容量のみ」

 一応、“賢者”である我が身を思えば、その言葉の一つ一つが興味深い。
 とはいえ、それが真実ならば賢者認定機関ガルナの標榜していることが、この上なく滑稽になってしまう。勿論、過程の努力の積み重ねは何よりも尊ばれることであるが、最初から結果が決まっているとなると、“賢者”の高みを目指そうとしている者達の意気を勢いよく挫くことになりかねない。
 それはその一部であり、知識の殿堂としての権威を誇るダーマ神殿としても秘匿しておきたい事実だろう。

「“賢者”とは、神韻級の超魔法パルプンテの永続稼働型極大魔法陣を維持する為に用意された支柱のようなもの。そして往々に支えられし『大憲章』はこの惑星を覆い尽くし、世界にレイラインを固着させ続けている」
「パ、パルプンテなのか!? それに、レイラインを固着だと? 現在が昔と比べて希薄化していることに関与しているということか?」
「……レイラインとは記憶の流れ。即ち、まどろみの波合で揺らめく夢の群像。それを維持して夢幻の泥濘に永劫に堕とし続けなければ、彼の竜が目覚め世界が滅ぶ。グリムニル達が『大憲章』を張った理由はそれを永遠に先送りする為であり、逆にマナが希薄化しているということは、地の底に潜みし偉大なる竜の眠りが浅くなっているということよ」

 ルティアの語る内容があまりに飛躍してきたことに、怪訝を浮かべたシルヴァンスは肩を竦めた。

「滅ぶとはまた大仰なことだな。そこまで厳重に封印されるような大物なら、どこかに逸話でも残っていそうなものだが、聞いたことがないぞ」
「それは当然。スケールが違い過ぎる。この地上に生きとし生ける全ての者は、想像すら付かないでしょうね。自分達が何処・・に立って生きているのかなんて」
「……何処に、立つ?」

 想像が追い付かない。そして同時に、これ以上聞いてはならない、とシルヴァンスの中の何かが警鐘を鳴らす。
 そう自覚した瞬間。ゾワリと総毛立つ感覚に襲われ、シルヴァンスは思わず額を抑えた。

「……あら。今のは禁則事項に抵触したようね。しっかりグリムニルに睨まれてしまったわ」
「あの方なら……本当に視ていらっしゃるかもしれんな」
「と言うより、今普通に睨まれているわよ。まったく、『悟りの書』を通してリアルタイムで世界の情報を集積できるなんて、耳聡いどころの話じゃないわよねえ」
「ぐっ……」

 その言葉が真実ならば、ルティアの揶揄もしっかり聞かれているということだろう。
 いずこかより齎される不可視の圧力に、思わず膝を着いたシルヴァンスは、額に滲んだ脂汗を乱暴に拭って立ち上がった。

 その様子を見て感心したように目を丸くしたルティアは、そうだ、と続ける。

「グリムニルに聞けば暇つぶしに教えてくれるかもしれないわね。関係ないのだから教えてくれないかもしれないけど……その辺り、本人に直接尋ねるしかないわ」
「そ、んな畏れ多いことができれば、どれだけ楽か……」
「それなら自力で求めるしかない。その智を得るには、最低でも“第八篇ビナー”に到達する必要がある」
「……最低で“第八篇”だと!? おいおい、首座賢者共をも超える領域だろうが!」

 この世界に存在する者で、這い上がることのできる頂点。
 ダーマで三大派閥を作り出した近代開祖とも言われる化け物達。すなわち智導師バウル、叡霊仙ゼブルン、慧法王ラジエルの三者である。
 シルヴァンス=グランデュオ……いや、十三賢人の一人、アシェル=アルタイルを以てしても未だその後塵さえ掴むことが叶わない境地。
 自身の目的を果たす為には、その階梯を登り詰めないといけない、ということを理解する。そして同時に、未だに“第五篇”で留まっている自身への失望を強く実感した。

「少なくとも、今身体を襲っている圧に常時耐えるのは前提条件よ。“第六篇”以上は監査も厳しいからね。ああ、これは余談だけど、現在この世界で知っていそうな人間は、恐らく二人だけ。つまりそれだけ深く『悟りの書』に染まっているということね」
「そんな奴らが、現存するのか?」
「ええ。智導師と神聖騎女の二人。グリムニルに聞くよりは、敷居が低いかしら」

 対象として頂点の存在を挙げられてしまえば、それ以外が低くなってしまうのは道理だが、冗談じゃない、とシルヴァンスは思う。
 連ねられた存在の一人は、首座賢者の中でも一つ頭抜けた存在で、神装器アルマデウス『四神鍵』の所有を認められた真正の怪物。そしてもう一人は、魔王軍より敵対禁止と釘を刺されている超越者の一人なのだ。

「これまでの駄賃で私が言えるのはここまでね。勿論、あなたの研究成果を台無しにした事への慰謝料的なものも含んではいるけれど。これ以上となると、今のあなたに払えるとは思えないわ」
「……」

 今、全身を圧し潰さんと降り注いでいる圧力が、『悟りの書』を持つ者にのみ齎されるものであるならば、眼前の女賢者にも掛かって然るべきである。
 だが実に涼しい顔をしている様からは圧など微塵も気にしていないようで、つまりはより高い階梯に至っているということなのだろうか。
 少なくともこの小生意気な小娘の言動からは、首座賢者達を見下ろせる場所に立っていることが推察できる。
 それはつまり、この世界に君臨する絶対的な三柱。世間を騒がす魔王バラモスなど歯牙にもかけない真なる超越者……魔呪大帝、聖芒天使、金光皇竜。
 世界を異にするとは言え、その領域に入り込んでいるということなのだろうか。

 積み重なる想定外に、シルヴァンスは一瞬だけ眩暈がした。

 そんな折、回廊の中の闇が凝り固まったかと思うほどの自然さで新たな気配がこの場に生じ、ルティアもシルヴァンスもそちらに視線を動かす。
 ゆっくりとした歩調で石畳を叩き、出だしたるは刃の如き存在感を放つ髑髏の面。

「グランデュオ」
「剣魔将!? なぜここに?」
「いささか厄介な鼠が入り込んでいたからな。追い払いはしたが、まだどこかに潜みこちらの隙を窺っている可能性もある。アレは神出鬼没にして大胆不敵。目的の為ならばどれだけ周囲が損壊しようが考慮しない。故に貴公には早急に撤退を進めて欲しい」

 予期せぬ侵入者と言う点では今まさに目の前にいるのだが、当の本人はこれまでとは打って変わって、警戒心を剥き出しにして剣を構え、剣魔将の一挙手一投足を注視しているではないか。

 その豹変ぶりに内心目を瞠りながら、また別種の面倒事が舞い込んできたのかとシルヴァンスは小さく肩を竦めた。

「まだこいつと幾つか情報交換でもしたいと思っていたんだがな」
「それは済まない。だが事は一刻を争う。機会を改めて欲しい」

 そんな機会が次にあるとは、とても思うことはできないシルヴァンスは素直に頷けない。
 よって互いの思惑が交錯し、ソードイドとシルヴァンスの視線が厳しさと緊張を織り交ぜながら絡み合う。
 沈黙は数瞬。最初に音をあげたのは、シルヴァンスだった。

「……了解した。今は手段と担い手の存在があるという事で良しとしておこうか」

 無理矢理剣魔将を排してでもこの機会を維持しようかとも思ったが、止める。
 剣魔将程の使い手ともなれば、その闘氣術の極致を前に恐らく魔法の一切は通じない。そうならざるを得ない原理を知っているが故に、自身の敗北を明確に理解したのである。
 十三賢人の頂きに立つ自身ですら、この僅かな邂逅の間にそれを知らしめられたのだ。それ程までにこの剣魔将は正体不明で、底が見えない。
 きっと目の前の白妙の賢者の変貌も、それを察してのことだろう。

 剣魔将を一瞥し、外套を翻すシルヴァンス。
 その去り際に、ふと足を止めて言葉を投じた。

「剣魔将」
「何だ?」
「上でアトラハシスが客人を迎えているところだ。奴の嫁さんの顕現が感知できるところを見ると、随分な熱の入れようだ。面倒なことになる前に、対処することをお勧めする」
「……そうか。ではこれから対応しよう」










 意識の端でシルヴァンスの気配が完全に去ったことを確認しても、ルティアは半眼で剣魔将を睨み据えていた。

「お前……誰だ? その印は……何だ? 私が知らない印があるというのか?」

 その声色は限りなく低められ、感情の色は完全に失している。
 ルティアが完全に相対者のことを敵か、それに類する者と断じている証だ。
 声から、全身から、そして構えた剣の切っ先から殺意を惜しみなく放出している。もしもこの場にミリアが居れば瞬時に卒倒する程で、ある意味ユリウスよりも研ぎ澄まされていた。

 しかし全く意に介した様子のない剣魔将は剣を抜く様子もなく、事もあろうか丁寧に膝を折り、その場に跪いたではないか。

「まずは、ご尊顔を拝謁する機会を賜り、恭悦至極に存じます」
「……いきなり、何だ? 私は“魔王の使徒”に頭を下げられるような覚えはない」
「貴女をお待ちしておりました……“白雪姫クロウカシス”様」

 剣魔将が発したその名を耳にした瞬間。
 ルティアの表情は強張り、放っていた殺気が質量を得たかのように、狭い回廊の中に途轍もない重圧となって犇めいた。

「! その呼び名を知るということは……此方で選ばれた使徒ではないな」
「最初に申し上げますと、『諸刃の剣コレ』はアレフガルド界で貴女がお生まれになる前より、既に此方側で私と共に在ります。知らぬのも致し方ないことでしょう」
「そういう話ではない。私には全ての印の存在が――」
「嘗て我が師が『魔王ルドラ』様に頼み込み、この印に纏わる記録と軌跡の全てを切り離していただいたと申しておりました。故に私は“魔王の使徒”でありながら“魔王の使徒”ではない。だからこそ、貴女の検索にも浮上しないのです」

 どれだけの殺気をぶつけても意に介した様子もなく、寧ろこちらに冷静さを取り戻させるかのような丁寧な口上に、無駄を悟ったルティアはその膨大な殺気を収めた。

「そんなものが……我が師? あの人・・・に直接頼める存在?」
「剣帝エヌマエリス。我が師の名にございます」
「エヌマの弟子だと言うのっ!? まさか、そんな存在、聞いたことがない」
「繰り返しますが、貴女がお生まれになる遥か前の出来事です」

 今度は完全に意表を突かれたのか、年相応らしい反応を見せたルティアに、一瞬だけ剣魔将は髑髏の面の下で苦笑を零した。それはどこか孫の反応を愉しむ老爺のように。
 が、次の瞬間。刹那の柔和さをしまい込み、気を引き締めた実直な声色で厳かに告げた。

「貴女がここに来る事は予め我が師、ならび“魔呪大帝”様より伝えられております」
「エヌマが? ……まさか、此方に来ているの!?」

 眼を見開くルティアにソードイドは首肯する。

「今は“魔呪大帝”様とご会談の最中です」
「……グリムニルめ。態の良い厄介払いだったということか」

 つまり至高の賢者はエヌマエリスと会う為に、適当な理由を付けて自分を追い払ったという事だ。
 眉を顰め、虚空を冷たく半眼で睨み据えてルティアは語散る。

「師たっての願いでした。どうか、その心中をお察しください」
「……この件にバラモスは関与していないわね?」
「はい。ここでの事はバラモスの耳に入る事はありません。使徒達の行動を監視するためにエビルマージがこそこそと嗅ぎ回っているようですが、この場においては問題ないでしょう。私が事前に全ての眼と耳を払っておきました」
「形だけとはいえ、自分の配下の魔将にそうまで言われるなんて……彼も可哀相に。忠誠心が篤い生真面目な部下だとは聞いていたけれど」
「あの方の評価ではそうでしょう。ただ単純な話、私が仕えるのは五帝が一“双魔帝”ではなく、三皇の“剣帝”唯一人というだけのことです」

 それはつまり、“魔王の使徒”を直接束ねる“導魔”にすら真の意味で従うつもりがない、ということだ。
“導魔”セリカシェルの恐ろしさを身を以て知っているルティアは、信じられないものを見るような目で、未だに跪いた白亜の剣士を見下ろした。

「信用なりませんか?」
「幾つか質問がある。それを聞いて判断する」
「お答えできる事でしたら、何なりと」
「何故エヌマが此方に来た? 確か使徒に発せられた命令は、此方に散らばっている“黒の欠片”採集の筈。その管轄はセリカではなかったの?」

 先日アッサラームで遭遇したのは、恐らく使徒達から途中経過の報告を受け、それまでに集めていた物を回収する為に此方に来たからだとルティアは踏んでいる。
 そのついでに殺されかけたのだから堪ったものではない。内心ルティアはそう吐き捨てる……そこに巻き込まれてしまったユリウスからすれば、更に迷惑極まりなかっただろうが。

「彼方に異常があったそうで。その対処の為に、“導魔”様が彼方にご帰還されました」
「異常? そういえばグリムニルが、貴奴の封印に揺らぎが生じて、その対応にセリカが着いたって言っていたわね……」
「既にお耳に入れておられましたか。流石です」
「グリムニルがマリアから聞いただけの話よ。それにしても――誰が干渉なんて迷惑なことをしたの?」

 目を細めたルティアは剣を持つのとは逆の手で口元を覆い、その可能性について思考を加速させる。

(祭器無しで奴に直接干渉できるとしたら……ジュリアか。或いは――)
「“神子”が接続を試みた、との事でしたが」
「クレスディアラ……“賢者の石ティンクトゥルス”の予備石の仕業か」

 舌打ちしてルティアはその結論を吐き捨てる。
 人類最後の砦と謳う城塞都市。その最奥に設置された祭壇に囚われし、人ならざる人。
 彼の者の生い立ちには同情するが、如何せん組みする組織の印象がルティアにとっては悪すぎて、そんな気など直ぐに失せてしまうのが現実だ。

「セリカシェル様は、現在、〈精霊の塔〉の再封印に入っておられます。暫くは、彼の忌み地より動くことはできないでしょう。よって我が師がその名代として此方へと参じたのです」
「そういうことね。確かにエヌマなら、“黒の欠片”の波動も捻じ伏せれるでしょうけど……彼方の現状を私に伝えるエヌマの真意は?」
「師は仰いました。直接お会いしてしまったならば、セリカシェル様に義理立てして貴女を連れて帰らねばならなくなる、と。ですがそうでない場合に関しては、自由にさせたいとのお考えで」
「……そう」
「貴女が自由に振舞うためには、相応の情報が必要不可欠。故に師は私に申し付けました。貴女にお会いしたならば彼方の現状を説明せよ、と」
「……仮にも組織の上に立つ者が、個人の感情を優先させるのは、どうなのかしらね」
「それが師という存在です」

 剣魔将の誇らしげな声韻に、ルティアも成程と頷く。
 彼方で“魔王の剣”と恐れられる冠絶の剣士はどこまでも誇り高く、歪みも曇りもない霊験あらたかな剱のような存在だ。
 その者がそうと決めたならば、どんな障害があれど抱いた志を貫き通すのだろう。“剣帝”エヌマエリスとはそういう男だった。
 そして、その弟子を自称する正体不明の剣士もまた、おどろおどろしい外装とは裏腹に、清廉な精神性を受け継いでいるのだろう。交わす言葉の一つ一つから、邪さとは無縁な誠実さをルティアは感じていた。

「適度に情報を流してくれた事には感謝するわ。それで、そちらからの要求は?」
「貴女はこの施設を破却する為に参られた、との事でしたね」
「ええ。結局は茶番だったみたいだけど」

 小さく肩を竦めるルティア。
 今頃、この地上で最も高きにある塔の天頂で、何を話しているのやら、と邪推を禁じ得ない。わざわざ魔王軍の最高幹部の一人“剣帝”が会談を申し込んだというのならば、今後の計画に何かしらの変化があったとみて間違いないが。
 なればこそ、こちらも急がなければとルティアは一人意気込む。

「破却についてはこちらで行いますので、貴女は早急にこの遺跡より離脱して下さい」
「……どういう意味? さっきは待っていたと言っていた気がするけど」
「状況が変わりました。現在、この遺跡の中には白翠アルベドが侵入しております。今し方追い払いはしましたが、まだどこかに潜伏していると思われます。十中八九、貴女を狙っていると」
「! そうか……やはり奴か」

 ソードイドの言葉に、ルティアは双眸に憎悪を滾らせる。
 過日、アッサラームの夜の海岸で一瞬だけ見えたあの男。随分と雰囲気が異なっていたが、顔を見間違える筈もない。
“賢者の石”の一角、風を司る“白翠”はルティアにとって根源的な憎しみを呼び起こす元凶なのだから。

“白翠”の名が出された以上、剣魔将が危険視するのも頷ける。とは言えルティアもルティアで、周りの声の言いなりに動くつもりは毛頭なかった。
 忠告こそ胸に留めるが、実際にどう行動するかの選択は、自分自身だけに許されている不可侵の権利なのだから。
 忌むべき怨敵の名前が出たからこそ、強くそう思う。

「では最後。これは本当に興味本位だけど……貴方は、誰なの?」
「私は、貴女と同郷の者です」
「……ザハンの?」

 まさかそこでその地名が出てくるとは思わなかったルティアは目を見開く。

「嘗て、何も知らない子供だった時分。私は貴女の生家である孤児院にお世話になっておりました」
「……今更だけど、既に私はアタラクシア家とは何も関係がないわよ。この姓も便宜上名乗っているだけだし」
「貴女の事情は聞かされております。……ヨシュアと名付けられていた私は、嘗て彼の地に封印されていた“あの方達”を解放しました」
「! あ、貴方が?」

 淡々とした口調であった為、それは何気ない響きで伝えられた。
 だがそれの意味するところは、今の世界の混迷そのものの起源点であるということだ。

 つまり、数千年にも及ぶ封印から『魔王』を解き放ち、その影響でマナのバランスが崩れて世界に魔物が蔓延ることになったのである。

「禁を破ったことが切欠で故郷を追放された訳ですが、幸いにも私は、あの方達に連れられ世界中を旅する機会を得ました。師に剣をお教えいただいたのはその時です」
「それがなぜ、此方に?」
「所謂独り立ち、という奴です。ヨシュアという名前は故郷を捨てた時に決別し、今の私は、師より頂いた名を基に確立されております」
「ふうん、そういう事か。まあエヌマの弟子なら覚えておいて損はないわね。それで、貴方の今の名前は?」
「……私の名は――――」

 そう言ってソードイドは髑髏の仮面に手を掛けた。












「え、どういう……事? 魔竜が、姉さんの中に?」
「……私は、“魔竜討伐”の際の戦闘で巻き込まれて死んだ孤児、だったそうだ」

 呆然と聞き返すソニアに、セフィーナは両腕を組みながら淡々と連ねる。

「『奇跡の剣』、『烈炎の剣』、『吹雪の剣』。“星辰六芒剣”に討たれて消滅する寸前。自らが引き起こした惨劇に巻き込まれ命を落とした私を哀れみ、魔竜は残りの魂魄を消え掛けていた私の魂と融合させ、肉体に繋ぎ止めた」
「竜種は、魂魄だけでも己の意思で動く事が可能な種族だからね。融魂、という言葉は実は彼らの為に在る言葉なんだよ」
「それでまあ紆余曲折を経てライズバードの家に引き取られ、現在に至る訳だ」
「……いやいやセフィ。それはいくらなんでも端折り過ぎじゃないかな」

 アトラハシスも間髪入れずに注釈を入れてくるが、セフィーナがあまりにも間をすっ飛ばした為に、異を唱える。

「うーん、その辺のことなど、ありきたりな話だからなあ。魔理四天によって魔呪大帝の前に連れていかれた私は、丁度その場に連行されていたディナに預けられて養子になった訳だが……あ、ソニアに会った瞬間、私の前に天使が現れた、と思ったのは間違いないが」
「あ、その辺りはいいや。いい加減聞き飽きたし」
「おい……なんか扱いがぞんざいだぞ!」

 当事者であるユリウスや、周りの傍聴人の理解を置き去りにして、アトラハシスとセフィーナは交代で真実を連ねている。
 周囲から一切の声が静まり聞くことに徹していて、完全に二人の独壇場と化していたが、ユリウスはそれすら耳に入っていないのか、ただ茫然とアトラハシスとセフィーナの姿を震える瞳で映しているだけだった。

 そう。このあたりの事情などユリウスは知る由もない。
 彼が知っているのは、ライズバード家に引き取られて数年後。セフィーナがアトラハシスの守護役兼教師に選ばれた後に、ふとしたことからユリウスの訓練の場に迷い込んで、攻撃されてからなのだ。
 初対面で二人まとめて殺されかけたのは、出会いのシーンとしてはあまりに刺激的なものだったが、今となってはとても懐かしくくすぐったい思い出である。
 冷然とした雰囲気を解き放っている現在の姿とは裏腹に、セフィーナは内心でクスリと笑った。

「さて、ソニア。ユーリが頑なに私が竜種であることを隠していた訳だが、何故かはわからないだろう?」
「え、ええ」
「ユーリが殺したというセフィの遺体は、半分、竜化したままだった。……何も知らない人間が見れば、それこそ魔物と見紛われる程に」
「ユーリは、私の王宮内での立場……特に宮廷魔導士達から向けられる妬みや嫉みを知っていた。いや、その感情自体を理解していなくても、敵意に近い視線が向けられていた事を知っていた。ユーリはそういったものにこそ敏感だからな」
「じ、じゃあユリウスは姉さんの名誉を護る為に?」
「そういうことになる。善悪の区別がつかず、感情の斟酌もできない。そんなユーリの選択だ」

 言いながらセフィーナは微笑み、慈しみを載せた眼差しでユリウスを捉える。
 だが視線に気付いたユリウスはただ目を瞬かせるだけで、そこにどんな感情が内包されているのか、見当どころか推測することすらできなかった。

 しかしそれは当然である。
 そうなるように・・・・・・・ユリウスに感情を仕込んだのだから。
 全ては、ユリウスの根本を蝕んでいる基点・・を危険視してのことである。

「ユーリがソニアからその事実をひた隠しにしてきたのは、セフィが君を大事にしているという事実を知っていて、親友だけど何一つ伝えることできなかったコーデリアの後悔を聞いた上での判断だろうとぼくは予想している」
「あー、それについては同感だ。ユーリは基本、コーデリアの意見は汲むからなあ」
「…………」

 そこまで言われてしまえば、さしものソニアも何も言えなくなってしまう。
 全ては姉の名誉の為であり、そこに親友の悔悟も合わさっていたとなれば、これまで散々荒ぶる感情をぶつけてきたと身としては、今後どう向き合えば良いのだろうか。
 ソニアの混乱は深まる。

 と、その時。片眼鏡の佇まいを正したシゼルが、冷静な眼差しで一歩前へと進み出た。

「成程。セフィーナ殿の正体については把握しました。俄かには信じがたいですが、現状の様子を踏まえれば事実なのでしょう」
「そう言いながら、まだ聞きたいことがありそうだね」
「当然です。第二次アリアハン襲撃事件は、事の始まりから顛末まで、どうにも造られた感がありましたので。せっかくの機会ですので、洗いざらい暴露して頂きたい」
「……相変わらず、図々しい奴だな」

 少しの遠慮もない催促に、彼に良い感情を持ち得ないセフィーナは頬を引き攣らせる。
 シゼルに対してはアトラハシスが対応した方が話が進むのだと、二人の間で共通認識ができているのかセフィーナは黙り込み、代わりにアトラハシスが矢面に立った。

「何てことはないよ。公表されていなけれど、あの事件はそのまま世界の危機だったんだ。魔竜セフィルフリギアの復活によって、ね」
「……どういう事ですか?」
「セフィルフリギアは、セフィの魂と融合したとは言え消滅した訳ではないんだ。眠りについていた、というのが正しい表現で、その竜は……人間を憎悪していたんだ」
「妙な話ですね。伝え聞いた話では、魔物の存在を知らせる為に、魔竜は自ら望んで人に討たれたのでしょう? それは自己犠牲以外の何者でもない崇敬に値する在り方だ。それ程の慈悲深き方がどうして今更人間を憎悪するのです?」
「……自己犠牲など、この上ない自己満足で身勝手だと私は思うがな」

 消え入りそうな声量で、セフィ―ナは吐き捨てている。
 その背で彼女の様子を察しながら、アトラハシスは続けた。

「確かに、魔王バラモスの存在を知らしめ、世界に警鐘を鳴らす為に自ら魔王の尖兵を騙り、魔竜は十勇傑と対峙した。そしてオルテガ、サイモン、リヴァイアの三人に未来を護る事を託して、その生涯を閉じる――――筈だった」
「筈、だった?」

 一旦言葉を切り、数多の感情を呑み込んで自らの裡で消化し、アトラハシスは続けようとする。
 だが、ここにきて自身の中で感情の整理をつけたのか、セフィーナはソニアだけを見つめて再び口を開いた。

「話はそこでは終わらない。母を追ってきたセフィルフリギアの仔、ストレリキアを人間達はこともあろうか鹵獲し、この遺跡の研究施設に搬送したんだ」
「何だと!?」
「竜の生態を知る事は、やがてくる脅威に対抗する為に必要な手段である。そんな身勝手な名目の下で様々な実験が行われ、その果てに仔竜の肉体は死滅する。そして、その魂魄は魔水晶の中に保管されたんだ」
「滑稽な話だ。人間の存続を想って自らを悪とした竜が、余計な危機感を煽った挙句、自らの仔を死なせてしまったのだから」

 悪態を吐いているセフィーナではあるが、本心は逆なのだろう。切なげに傷みに耐える表情がそれを物語っている。
 誰しも、そこに言葉を刺し入れることができなかった。

「何も無ければ、この話は語られぬ話としてそのまま闇に葬られることになっただろう。だが、そうはならなかった。……ランシール海戦の折、私は、スルトマグナと出会ってしまったからな」
「スルト!? どういう、事ですか?」

 まさかここで姉弟弟子の名前が出てくるとは思ってもいなかったユラは、声を張り上げる。
 そんなユラを冷ややかに見据えながら、セフィーナは続けた。

「スルトマグナは、ここの主席研究者であったファウスト=ベニヤミンとダークエルフの女との間に産まれたハーフエルフだ。そして胎児の段階で、仔竜ストレリキアの魂を移植された」
「なんてことをっ!」
「あの利発で小生意気で猜疑心が強いスルトマグナが私に懐いたのは、魂魄レベルでの母子だからという事になる。まったく失礼な話だよ。あんなに大きな子供がいる年齢に見えるのか!」

 不服そうに地団駄を踏むセフィーナをよそに、面々は明かされた真実の衝撃に耐えかねていた。
『焔の申し子』と呼ばれ、天才中の天才と謳われる少年魔導師は、その突出した才覚を以てして、この混迷の時代に現れた『アリアハンの勇者』に並ぶ人類の希望とされている。
 しかしその稀有な存在の真実は、人の罪業によって産み出された血塗られた存在、ということだ。

 この場には『焔の申し子』と接点を持つ者が意外にも揃っていて、衝撃を受ける者が多かった。
 ソニアやミコト達はつい先日イシスで共闘し、シゼルもまた、嘗てのランシール海戦の際に協力している。その中でも特にユラは、スルトマグナ当人とはダーマ留学時代に轡を並べていたのだから、その衝撃は計り知れないものだった。現に、口元を抑えて思考を宥めることに没頭している。

 一同の黙り込み様を見廻して、セフィーナはバツが悪そうにアトラハシスを仰いだ。

「……あー、本人の許可無く暴露してしまったが、良かったか?」
「うーん、散々ユーリが守ってきた秘密を暴露しているんだから、今更な気がするね。どの路、君の真実に触れる以上、避けては通れないんだし」
「まあ、恨まれるのも由とするか……ともあれ、私を通してそれを見ていたセフィルフリギアは、全ての顛末を知ることとなった。自らの選択の結果、自分の仔が惨殺されたいう事実を、だ」

 ちらりとセフィーナはユリウスを見たが、ユリウスは聞いているのかいないのか、呆然とした表情を浮かべるだけでやはり動く素振りは見られない。

「それを自覚した瞬間から、セフィルフリギアの魂魄は表に出ようと私の意識を蝕み始めた。当然、人間に対して復讐する為だ……経緯だけ見れば身勝手な話だがな。凄かったぞ。常時世界に対する憎悪をまき散らしてくるんだが、魂魄のみで活動のできる竜のそれは、負陰のマナの濃度が人間の比ではない。恨み言一つ零れるだけで神経は焼かれて意識は混濁し、体の感覚さえわからなくなる。生きたまま内側から喰われるというのは、あんな感じなんだろうな」
「姉さん……」

 自分が自分でなくなる感覚に苛まれる姉の苦しみを、ソニアは想像することすらできない。
 そして、どれだけアトラハシスが姉の支えになっていたかもだ。
 そんな不安定極まりない時期に“魔姫”との婚姻の話が浮上すれば、セフィーナがどれだけ絶望してしまうか、考えるのがソニアは恐ろしくなった。

「セフィはね、ソニアの前では強い姉でいようって決めていたんだよ。だからこそそう振舞っていた。セフィを頑張らせていたのは君なんだよ、ソニア」
「わたしが?」

 目を瞬かせるソニアに、アトラハシスは優しく微笑む。

「ぼくは、魔族に『転生』した瞬間。『破壊の剣』を用いてセフィとセフィルフリギアの魂魄融合の因果を切り離した。そして『昂魔の魂印』の核に据えてぼくと融魂することで、こうして顕現できるようになったんだ」
「……私は、アトラが堕天誓約カヴナントが完遂した瞬間に救われた。そしてその後は……ユーリ。お前がその残骸を殺すことでアリアハン大陸を、ひいては世界を救ったことになる」
「それはおかしいですね。魔竜に通常の武器による攻撃は効かないと記録にはありましたが」

 そう。魔竜を滅ぼす手段は限られている。それを確保しているのはごく一握りであり、アリアハンには存在していない。
 天敵がいないからこそ、魔竜は高ぶる憎悪のままに人類を駆逐してアリアハンを、そこを足掛かりに世界を滅ぼさんと羽ばたいても、何ら不思議ではなかったのである。

「その通りだ。本来竜種の王族である白燐光竜セフィルフリギアを滅ぼす事など、人間にはできない。それが可能なのは、せいぜい星辰六芒剣を以ってするかだけだと考えられていた。しかしユーリには魔法剣……いや、“魂魄マナの剣”という直接魂魄を切り裂ける術を持っていた」
「魂魄の剣?」
「あれは単に魔法を剣に込めているだけの事象ではない。霊素と元素の共振励起によって引き起こされる、この世界を緊縛する『大憲章』をも破断する崩壊の力だ。私の記憶を介してその現存を知っていたセフィルフリギアは、自らの復讐の邪魔になりそうなユーリを真っ先に排除しようとした」

 一旦言葉を溜め、万感を込めてセフィーナが綴る。

「……街を護れと市民達に追い出され、単身城壁の外で戦い続ける羽目になった挙句、丁度私の竜化を目撃してしまったユーリを、な」
「っ!」

 甦る戦火の記憶に、ソニアは思わず唾を飲み込む。

 あの時、市中は混迷を極めていた。
 どういう意図が横から働いたのか定かではないが、兵の指揮系統は乱れに乱れ、王都に侵入した魔物の牙から逃れようと市民はそれぞれ自分本位に奔走する。
 統制が効かず、混乱が加速する折。迎撃に走り回っていた『アリアハンの勇者』の姿があれば、助けを求める人々の意識が彼に向かうことは自明で。
 魔物を殺せと、街を護れと、碌な情報すら集まっていない状況でありながら、敵の統率者を斃せと、そこにいるのかすら何の確証がないのにもかかわらず、市民や兵達に背中を強く押される形で、ユリウスは城壁外に戦場を移さざるを得なかったのである。

「あの時、そんなことが……ですが、それではまるで」

 つい先日。魔物と戦争を行ったイシスでは民は兵を、兵を民と協力体制を築いて、その苦難を乗り越えていた。ソニア自身、それに手を貸すことができて、人同士の繋がりの強さを実感しただけに、嘗ての自国でそんなことがあった事実が信じられない。

 当時、ソニアは実家の大聖堂に避難してくる者達の治療に駆り出され、外の状況を知る余裕すらなかった。勿論、国を護る任に就く兵士達や騎士団を信じて、目の前のことに集中していたのだが。

 しかし実態は、ユリウスに独り死地へ向かえと強要していただけだ。
 そしてそれを行った者達の誰一人として、そのことに後ろめたさなど感じていない。全ては、“オルテガの息子”にして“アリアハンの勇者”ならばこの局面を打開してくれる、という身勝手な希望を寄せられた果てのことである。

 戦場の荒んだ気に触れ、狂奔する魔物の群れの中に単身放り出されたユリウスは、どんな気持ちだったのだろうか。そしてその果てに、救国の英雄だと囃し立てられることに、どんな想いを抱いていたのだろうか。
 ソニアにはわからない。
 当事者であるユリウス自身が、何一つ発していないのだから、この世界の誰も知りようがないことだった。

「勿論、当時のアリアハンの指揮系統が混乱を極めていたのは、反乱分子の働きによるもの……ユーリが単身城壁外に放逐されたのも、大衆を煽動する工作員の仕業だ。外に潜ませていた暗殺者共と連携した上でな」
「まさか……自国が抱える勇者を、殺そうとしたのですか?」
「アリアハンの台頭を好ましく思わない連中など、吐いて棄てる程いるということさ。反乱分子に対して諸外国からの介入もあったと聞くからな。無論、魔王軍にしてもそうだ」
「なぜ……そんなことが」
「何故も何も、第二次アリアハン王都襲撃事件は、そもそもが“アリアハンの次代勇者”を抹殺する為に引き起こされたものだからな」

 なんてことがないように淡々と連ねるセフィーナに、その場は凍り付く。

「簡単な話だろう。魔王軍としては、ランシール海戦で没した海魔将の報復。他国にしてみれば、過失による勇者の死亡によってのアリアハンの失墜。理由なんて数え上げればキリがないぞ。そこに私の、セフィルフリギアの件が重なったに過ぎない」
「挙句の果てに、生き抜いたユーリに、なおも世界は“アリアハンの勇者”として戦えと強要している……滑稽すぎるだろう。そんなことでしか維持できない世界なんて、一度滅んでしまえば良いとぼくは思うけどね」

 そして今。当のユリウスはというと、未だ立ち上がれず、ただ愕然と前を見ているだけだ。
 その面には普段の怜悧さも、数多の魔物や人間を切り殺してきた冷徹さも見ることができない。
 ただ年相応に、信じられない現実を前にして打ちひしがれる子供のようだ。

「そして……ユ―リ。事件の結末はお前が知る通り。暴走させた魔法剣ライデインで、魔竜を無へと還したんだ」

 そう締めくくるセフィーナに、誰もが口を噤まざるを得なかった。
 荒唐無稽な陰謀論だと否定することもできたが、この場にいる面々は、世界各国にある名だたる組織の中でも相応の立場に立つ者達でもあり、その内部で政治的な様々な思惑を耳にしたことがあるから、言葉を継げなかったのである。

 そしてそんな体たらくは、今話した内容の全てを無言で肯定しているようで。
 そんな醜態を晒している面々に、セフィーナとアトラハシスは絶対零度の視線を投げかけていた。

「……えない」
「ユリ、ウス?」

 とっぷりと落ちた沈黙を、掠れる声が打ち壊す。
 弱弱しく震える声韻は、今の今まで呆然としていたユリウスのものだ。

「……あり得ない。そんなこと、ある筈がない」
「何がだ? 緩やかな亡びを望む世界が、お前を殺そうとしたことか? 『金枝篇』を基にしたお前の訓練カリキュラムが、実は智魔将の肝煎りであったことか?」
「生きて、いた? 竜の、魂魄? なんだ、それ」

 さりげなくセフィーナは聞き捨てならない事実を織り交ぜていたが、そんなこと、ユリウスにとっては気にする価値すらない。
 ユリウスにとって、誰が自分を疎ましく思っていようが、訓練の背後にどんな思惑が働いていようがどうでもよかったのである。
 暗殺者に命を狙われていることなど昔からだったし、何を画策されようが全て斬り払えば良いだけで、実際にそうしてきたからだ。

 だがしかし。
 各人、各陣営の思惑よりも、ユリウスの思考を掻き揺らしてならなかったのは、ただ一つの事実だけだ。

「なんで、あの時、自分を殺せって……アトラを止めろって」

 その言葉が、今の自分の根幹だった。それだけが全ての原動力だった。それを果すことができるのは自分しかおらず、その為に全部投げ出してきたのだ。

 しかしそんなユリウスの決意の根源があまりにも心外なのか、苛立たしげにセフィーナは顔を顰める。

「……罷り間違っても、私がアトラを害せと言うと、お前は思うのか?」
「え……?」
「だとしたら、失望した。お前は過去、何を見てきた?」

 低く顰められた声と表情。明らかに不機嫌なセフィ―ナの様子を見て、ビクリと肩を揺らしたユリウスは、自分の中にある記憶を引きずり出し、自問する。
 が、答えは直ぐに出てきた。

――言う筈が無い。

 どんなことが起きたとしても、セフィーナとアトラハシスの間に結ばれた絆は絶対である。
 然るにセフィーナがアトラハシスを傷付けることを求めるなど、あり得る筈がないのだ。
 自分はそれを誰よりも近くで見てきた。誰よりもそれを知っている筈だった。
 自問するまでもなく明確な解を自身は既に得ているというのに、なぜこんな記憶の錯誤が起きているのか、ユリウス自身まるで理解できない。

 だが、そうだというならば、そこを起点に連なってきた今は、なんだというのだろうか。
 セフィーナを斬り殺し、アトラハシスを止めろと言われ、その為に――。
 その先に意識が動くと、ドクンと一つ心臓が高鳴り、視界から色彩が亡失していく。

「セフィは、死んで……いなかった?」

 呆然と力なく、ユリウスは発する。
 いつしか甲高い耳鳴りが鳴り響いては意識を苛み、呼吸が俄然早くなって全身が小刻みに震えた。

「人間としては疑問だがな。さっきまで散々お前に痛めつけられた訳だが」

 先程アトラハシスと散々剣で打ち合ったが、その剣そのものがセフィーナであるというならば、それはセフィーナを傷付けていたということになる。
 その事実を自覚して、ユリウスは力なく頭を抱えた。

「……けるな」
「ユリウス?」
「ふざけるなっ! ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなっ! 今更、そんな事を聞かされて、納得できるものかっ!!」
「お前の納得はいらないぞ。全てはあるがままの事実なのだから。受け容れろ」
「冗談じゃない! じゃあ俺は……何の為にここまで来たんだ!? 何の為に……あいつを、この手でっ」

 ゆっくりと手を下ろし、絶望に染まった眼でユリウスは両の手を見つめる。

「コーデリアを、殺してまでっ!!」




back  top  next