――――異伝二
      第四話 波濤の源







「ふむ、ジーニアス君には伝えたのか……いや、あの子の危うさに最初に気付いたのはお前だ。その判断を今更疑う事はしないさ」
 すっかり日が落ちて、夜闇と静謐が地に等しく降り積もった頃。
 馬から人間の姿に回帰した元王弟カルロスは十数枚にも及ぶ書面に目を通していた。白き紙面を埋め尽くさんばかりに文字が書き綴られたそれは、彼の妻であるサブリナから宛てられた手紙で、彼らにとっての日常会話と等しい意思疎通手段である文通だった。
 このように手間がかかり近くて遠い以心伝心に行き着いたのは、カルロスが人間である刻限にサブリナは猫の姿をとっている為、または逆の場合も然りで互いに言葉を交わす事ができない事実に起因する。しかしそんな中、二人にとって僥倖だったのは動物の姿をとっている相手がこちらの話す人語を解している点で、それを生かそうと思案を広げた時、自然とその術が導かれていたのだ。
 お互い目の前で相手からの手紙を読み、それについて話を振れば相槌ならば幾らでも打てる。それだけ二人の間では充分な意思疎通が叶うのだから、長年連れ添った相手の気質を知り抜いている息の合った夫婦である証明だった。
 カルロスの人間時の生活は、人の姿に戻った時にまず真っ先に所定の場所に置いてある妻からの手紙に目を通す事から始まる。妻サブリナが昼間、太陽の当たる時間に何を思いどんな時間を過ごしたのか知りたいが為だ。それは人間でいられる時間が夜という限られた環境で生きるカルロスにとっては世間を知るには必要な情報源であったし、何より精神に充足を齎す妻との対話の源にもなる。
 勿論、太陽の下を人として過ごせるサブリナを羨む気持ちも少なからずあったが、それ以上に妻が楽しそうに日々を送っている事を素直に喜ぶ気持ちの方が遥かに強い。もっとも、それに自分が寄り添えない事への寂寥を感じるのは人の情理としては当然と言えるだろう。
 自由奔放で本当の猫のような性格のサブリナに散々振り回された過去と比べ、今の静穏さは些か物足りなく感じる事もあったが、それもまた良し、と年々思うようになってきたのはカルロスの今を見つめる意識が充溢しているからだろう。馬になってからというもの、その身の通りに随分とのんびりとした気性になったとカルロスは自負しているが、その根源にはこんな現状に陥ってからの十余年。どんな姿形になろうとも、決して人間らしさを失ってはいない事が存在し、その事実は二人が築き上げてきた生活の円環が順風に廻っている事を意味していた。
 十年来の住処となったこの古き館には部屋数は多くあり、書斎として使っている自室で安楽椅子に腰を下ろし、自ら淹れた紅茶に舌鼓を打ちながら読んでいる手紙には、サブリナが昼間に体験した出来事…今日の場合、十数年ぶりに再開した恩師の子息ジーニアスに懇意の造船所を紹介した事と、その顛末。サブリナがジーニアスとどんな言葉を交わしたのか、一字一句漏れなく克明に記されていた。
「おいおい、知らなくて良い事をわざわざ告げる必要は無いだろう……酷な事をする」
 そんな手記に目を通しながら、ある一文を読んでカルロスは思わず苦笑を浮かべる。
 丁度カルロスが目で追っていた部位には、ジーニアスの母サラによる過去の所業の数々が記され、それを聞いたジーニアスが酷く打ち拉がれる様が妙に現実味を持って記されていた。
「全く……昨日話した印象から察するに、彼は恐らく師と同じで真面目な性格なんだろう。お前の突拍子も無いペースに巻き込んだら可哀想だ。きっと、お前の破天荒さには面食らった事だろうな」
 その光景を想起して肩を笑わせるカルロスに、机の上に置いた皿に注がれたミルクを舐めていた白猫は立ち上がり、牙や爪を剥き出しにして小さく唸る。どういう意味だ、と食って掛かりそうなまでに逆立った尻尾や鋭い眼光が、彼女の気勢が荒立っているのを如実に物語っていた。
 そんな妻を穏やかに見下ろしながら、カルロスは宥めるように白い毛並みを撫でる。
「……果たして今の私の真意を知れば、あの子はどう思うだろうな?」
 ポツリと呟かれたそれは、サブリナへの問い掛けではなかった。
 手紙の束を書机に置き、一人語散りながらカルロスは窓辺に歩み寄って闇に没した世界を見据える。だがどれだけ目を凝らしてみても硝子に映るのは人間である自分自身の姿だけ。明るい室内から夜闇の先を覗く事は決して叶わず、鏡の如く反される闇に佇む自分の姿は、自身の懐裡を映しているのではないかと背徳的な情緒をむず痒さと共に湧き上がらせてくる。
(十数年経った今でも変わる事の無い、師への敬念がそうさせているのだろうか? 或るいは、他のもっと別な要因か……)
 そう自分の中で問いかけを繰り返し、カルロスは口元に自嘲を浮かべる。答えなど既に解かっていた。
 久方振りに再会した記憶の中の少年は逞しく今を生きる青年へと成長し、その魂からは師と同じ清涼な香り発していた。愚直なまでに直向で、それ故の危うさを秘めた双眸の輝きも、若さ故の熱さによるものなのだろう。
 その何れも、過ぎ行く時の流れに置き去りにしてきた自分にとって、燦然と輝く太陽を目視した時のような眩さをジーニアスと会って感じていたのだ。
「……軽蔑か、或いは失望か。師の精神を継いでいるのならば――」
「だからこそ、彼は我々の旗頭に足り得る」
 突如として扉が開かれる音がして、第三の声が明瞭に響いた。
 そこには外に犇く夜闇を纏ったかのような暗色の外套で全身を包み、すっぽりと覆ったフードから赤い髪を揺らしている青年が部屋に立ち入っている所だった。
「真の意味で人の心を掴むのは、祭り上げられ、予め用意されていた場所に着く者に非ず。逆巻く苦難を這い上がり、自らの手と意志で暁の地平に到達する者のみである」
「我が祖先、エルンストの言葉か……サイアス」
 紡がれたその言葉は、嘗てポルトガ開祖が宗主国ロマリアを皮肉っての言だと歴史書には綴られている。
 そんな文句をこの場で発し、カルロスにその名を呼ばれた紅の来訪者は覆っているフードを外す。現れたのは王付の参謀であるサイアス=カリエンテであった。
 鏡と化した窓に新たに浮かんだ姿を見止めたまま、カルロスはこれまでの情動を相貌の奥にへと押し込んだ。
 その途端、部屋の中に流れていた穏やかな雰囲気は一転して水を打ったように静まり返り、凛然とした緊張感に包まれる。肌に痛い静謐が流れる状況は、ある意味王への謁見のそれであった。
「定時報告の刻限は過ぎている。お前が時間に遅れるとは珍しいな」
「申し訳ありません、カルロス様」
 人の上に立つ者の資質とも言うべき冷静な威厳がカルロスから発せられていた。それは彼の実兄であるリカルドには到底発せられない引き締まった覇気と言い換えて然るべきもので、それを真正面から受けたサイアスはそれに傅くが如く深々と頭を垂れる。
「宮廷に何か変化でもあったか?」
「万物は常に流転し、変化なきものなどありません。それは深遠なる自然であれ、浅昧なる人の現でも同じ……ここ・・の監視の数もそれなりに増えておりました。もっとも、杞憂とは思いましたがここに来る途中に全て無力化しておきましたので、何ら心配は無いでしょう」
 臣下の者が王族の者に答えるには随分と芝居掛かった不遜な言いようであったが、カルロスは既に王族ではなく、且つカルロス自身がその程度の事など気にする程に狭量でも無かった。寧ろ余計に多い言質から臣下の不敵な余裕さを感じとり、頼もしさからカルロスは声韻に賛嘆を織り込ませる。
「流石だな。だが、この時局に来て我等への監視網が強くなったという事は……やはりジーニアス君か?」
「いいえ。貴方達の監視はカルデモンド卿の管轄ですが、この度の監視網の強化は単に外部の人間が貴方を訪ねた……その点からの警戒によるものです。元々ジーニアス殿らは偽装を施していたので、それに便乗して私が捏造を重ね、全ての公的記録を改竄しておきました。今しばらくは他の者達に気取られる事はないでしょう」
 公文書は厳重な管理の下に保管されており、それを持ち出し且つ手を加えるなど法治国家としては罰せられて然るべき犯罪だ。だがそれを官職にありながら完遂させ、尚且つ確信のままに臆面も無く言う所がこの胆力ある参謀らしい姿である。
 ある意味開き直りにしか思えないその潔さ、何処までも恐れ知らずな様は見ていて気持ちの良いものであった。比較的穏健になったと自認しているカルロスでさえも思わず苦笑を零すしかない。
「実に手際が良い事だ。……しかし宮廷内での緊張が増したのならば、お前がここにいる事を悟られる危惧は?」
「ありません。私は今、自室で執務中です」
 人払いはしてあります、と抑揚無く泰然と告げる。
 それは単なる確認に過ぎなかったのか、カルロスは深く掘り下げずその流れを頷いて閉ざした。
「サブリナ。ジーニアス君達の船の修繕を急がせるように明日伝えてくれ。この地には、彼が安全に滞在できるだけの保障は無いのだから」
 そう言ってサブリナに視線をやると、今更何を言っているのだ、とでも言わんばかりに白猫は前脚を器用に使って紙の束を捲り、その中に記されている一文を示している。そこには彼女が技師達に、軍艦整備などの雑務・・よりも優先して取り掛かれ、と命じている様子が記されていた。
「……まったく、お前の周到さには負けるよ」
 手紙の側で顎を上げて得意気に胸を反らす猫。そんな姿を見てカルロスは痛快さに笑みを深めた。

「本音を言わせて頂くと、この時期、貴方とエレインが接触する事は好ましくない事態なんですがね」
 猫を腕に抱き上げたカルロスの周囲に緩やかな空気が漂い始めるのに、サイアスはしっかりと釘を刺した。逸れそうになる話の流れを要所要所でしっかりと正すのは、参謀として必須の素養の一つである。
 冷然とした声に白猫は冷や水を浴びせられたかのように不満げな鳴き声を上げるが、カルロスは眉一つ動かさずサイアスを見据えていた。そこに若干不愉快そうな色が滲んでいたのは、恐らく恩師の息子を慮っての事だろう。
「……ジーニアス君はこの地の事情、そして私達が成さんとする事を知らないんだ。そう彼を責めてやるべきではない」
「勿論、そんなつもりはないですよ」
 一つ吐息を零しつつ、緩やかにジーニアスの弁護をしながらカルロスが再び椅子の背に身を預けると、サイアスも意外な事にあっさりと同意に頷く。サイアスにしてみれば今のやり取りは、肯定でも否定でもどちらでも構わない、話題を先に進める為にけし掛けた切欠に過ぎなかったのだ。
 カルロスの双眸に再び鋭さが燈るのを見止め、サイアスは内心で満足気に嘆息を零した。
「サブリナがそれとなく聞いた限りでは、ジーニアス君達はこのポルトガに長く留まる予定は無いとの事だ」
「そのようですね。港務局に提出された書類によりますと、寄港目的はあくまでも補給であり、この時期だったのは本当に偶然なのでしょう」
「何故彼が旅に出たのか、その辺りの詳しい事情は聞いてみない事にはわからないが……あの子の性格からして物見遊山という事では無い筈だ」
 掛け値無しの信頼とも言うべき調子で豪語するカルロスに、サイアスは小さく眼を見開いた。
「断言しましたね。何を以ってそう言い切るのですか?」
「他ならぬ師の子供だ。そしてサラ殿がそう怠惰に育てる筈も無いだろう。今ではクエーサー殿が築いた盗賊団“流星”の一員として、仲間を守る為に剣を取り戦っているそうだ……サイモン殿の志と良く似ている」
「……その辺りの根拠は、貴方の経験を信じさせて頂きますよ」
「手厳しいな」
 師弟関係に起因する身内贔屓な点もあるが、しみじみと語る主君に対しサイアスは皮肉にも聞こえる言葉を返した。それは些か立ち入り過ぎる手厳しい意見であったが、幸いにもカルロスに気分を害した様子は無い。
 カルロスにしてみればサイアスが本気で言っているのではない事を判っていた事であり、相手の立場や肩書きに物怖じせず慇懃なまでに歯に衣着せぬ言葉を口にできる事で寧ろ信頼できる。そんな認識の下、兄とは違う理由でカルロスはこの不敵な参謀を気に入っていたのだ。
 そう考えていると思考に実兄の事がよぎり、憂いからかカルロスは瞳を半ば程伏せた。
「……兄上は、サマンオサの糾合する新たな合従連衡に組みそうとしているのだな?」
 既に袂を別った兄の思惑など図りようも無い。だが、そうなるという予感はあった。
 物静かに改めて尋ねられて、サイアスは申し訳なさそうに頭を垂れる。
「陛下は本日謁見したサマンオサ帝国の勅使にその旨を伝えようとしました。その場での即決即断は何とか阻みましたが、それも何時まで保つか……国内で何かしらの大きな動きがあった場合、親サマンオサ派の動きは一気に加速すると予想できます」
「そうなればそれに乗じて締結、か。カルデモンドに言い包められているのは多分に有るが、兄は恐らくその意見を変えはしないだろうな」
 掌で顔を覆ったカルロスは一旦言葉を呑み込み、深々と溜息を吐く。
「……その采配が世界にどのような結末を導く事になるのか、何故兄上にはわからないのだろうか?」
 目頭を指で抓みながら疲れたように吐露するカルロスに、声調を低めたサイアスは遠慮がちに綴った。
「王は気位の高い方です。元々世界を牽引するアリアハンに対しては否定的でありましたし、十年前、全てを託したオルテガ殿の敗北が決定的と言えるでしょうね」
 サイアスは気位が高い、と表したが、カルロスにしてみればそれは随分と取り繕った言い回しだと思う。兄王は元来気弱で決断力に乏しく、凡そ政治には向いていない性格だった。この国の政務の殆どを宰相に委ね、自身は自らの趣味に没頭している事実からもそれは疑いようは無い。宰相の巧妙な弁舌によって誘導されている事を差し引いても、だ。
 しかし、カルロスに兄王を表立って非難する事はできなかった。自分もまた、自らの意志でポルトガ王族としての責務を放り出し、長きに亘りサイモンの下に留学していたのだから、糾弾できよう筈も無い。十年前の王籍剥奪を大人しく受領したのは、兄に対しての申し訳なさが少なからず秘められていた。
 だが、とカルロスは内心で思考を切り替え、このポルトガとアリアハン二国の因果に思いを馳せた。
 共に世界同盟を構成する国家群に在りながら、遥かなる隔たりを有しているアリアハンとポルトガの関係は決して良いものではなかった。だがしかし、アリアハンとポルトガが互いに反目しあっていると言う訳でもなかった。
 と言うのもアリアハン側の見地からすれば、特にポルトガを眼の敵にするつもりは無く、寧ろ島大陸という本国の事情を鑑みて、ポルトガの海運産業の手腕を取り入れようと彼の国に歩み寄りの姿勢さえ見せていた。にも関わらず、大きな環に組みしながらも個々の交流は殆ど絶無と言って差し支えない現状。その原因は偏にポルトガ側からの一義的な拒絶…アリアハンに対しての敵愾心を剥き出しにしている事にあった。
 その根底を語るには、ポルトガ興国より続くロマリアとの因縁。数え切れない程に繰り返されてきた大小様々な諍いの内の一つの戦役を省みなければならない。
 それは今より半世紀以上も昔の、アリアハン統督暦四七八年。ポルトガは隣国であり嘗ての宗主国であるロマリアに突如として侵攻した。
 その当時、兼ねてより培われた向上意識のまま切磋琢磨を怠らなかったポルトガ軍の勢力は、永年の泰平によって力が弛緩したロマリア軍を既に凌駕していたと云われる。そんな背景がある事でポルトガは自ら均衡を破り、些か力任せな外交に打って出た。一般的に言うところの侵略戦争を仕掛けたのだ。
 その後、凡そ二五年の長きに亘り続けられた戦争の初期にかけて、ポルトガは破竹の勢いでロマリアの要地を次々に占領していき、一時的には王都ロマリアの喉元に刃を突き立てれる程深くにまで侵攻を進めた。そしてそのままロマリア全土を掌握し、勝利をもぎ取るものだと周辺国家は確信と共に緊張を覚えたものだ。
 だが結局、それ以降の進軍は無かった。そればかりかポルトガは次々に戦線を退いていき、苦心して得た領土をまた奪い返され続ける。
 戦争は時を重ねながら規模を縮小させ、遂には第三者である聖王国イシスが仲介する事で互いに停戦条約を締結し、統督暦五〇三年。長く両国民を疲弊させた戦いは終焉を迎えた。領土は両国が争いを起こす以前の状態…つまりは現在の版図に落ち着き、双方を結ぶ国境の管理を仲立ちしたイシスが請け負う事で血生臭い日々から解放されたのだ。
 その戦争の記録、特にポルトガで編纂される歴史書には主戦場の、侵攻に合わせたかのようなタイミングの天の気紛れ、地勢に恵まれなかった事こそ最大の敗因と語られている。それは事実の一端に相違ないのだろうが、実際のところ真実からは程遠い。
 そもそもロマリアに王手チェックを掛けておきながら、そのまま王の駒を奪えなかった事がこの戦役の転機と言えるだろう。そしてその転換点は、最も戦線が激しかったとされる戦役初期から中期への過渡期。そこにロマリアの陣営で参戦したとある少数の傭兵団・・・・・・・・・によって齎されたものだと、当時を生きた者達は口を揃えてその名を挙げる。
 ポルトガにとっての最大最悪の障害、と実しやかに囁かれる件の傭兵団を率いていたのは、その戦争後に“剣聖”と謳われる事になる剣士イリオス=ブラムバルド。そしてその盟友である後の十三賢人“智導師”、駆け出しの“賢者”バウル=ディスレビの名があった。
 突如として現れ、鬼神の如き活躍で瞬く間に戦況を転覆させた彼らは生きた伝説となり、その後、風の如く去っていった両雄は流れ流れて遠きアリアハン王国に帰依する事になる。そして現在に到るまでその国に泰然と根を下ろしているのだ。ポルトガとしては自分達を貶めた元凶を匿うアリアハンに対して悪感情や敵愾心を示す事は無理からぬ事だろう。
 しかしながら、そのような背景がありながらも何故オルテガは十年前、ポルトガの協力を得られたかと問われれば、解は一つしかない。偏に魔物、魔王という存在があまりにも痛烈で、強大であったからである。
 打算は大いにあっただろうが、ポルトガもまた、オルテガ達に命運を託した者の一人である事に変わり無かったのだ。
 そして、その結末により――。
「カルロス様は長きに亘りサイモン殿の下に留学されておいででしたから実感は無いのでしょうが、この地でのアリアハン…ひいてはブラムバルドへの風当たりは今でも酷いものです。その為、数ヶ月前に彼の国から出立された新たな“アリアハンの勇者”への一切の協力を拒み、入国さえ許さないのですから」
「……確かに、兄は父王よりアリアハンへの怨み辛みを聞かされながら育ったと聞いている。だがそれを基底にして世界に意に反しようとは――」
“世界の勇者”であるオルテガが没した直後。そこから派生する混迷を抑えんが為に、アリアハン王国より次の“アリアハンの勇者”として彼の息子、ユリウス=ブラムバルドが魔王討伐の出立表明を挙げている。各国はその旅立ちに合わせて全面的な助力を提供するという事を協定として結んでいたのにも関わらず、今のポルトガは完全に反故にする姿勢を見せていたのだ。
 実際、表明より十年が経ち、世情が幾許か表面的に安定してしまったが為に、その意義を見失いつつあったのも事実であるが。
「何れにせよ、サマンオサとの締結は避けられません。そして、それを機に緩やかに世界は歪み始めるでしょう。近い将来、アリアハンを主導とする現世界同盟に反する枠組みが結成されるのは想像に難くない」
 カルロスが小さく憤慨するのを聞いて、それを宥めるようにサイアスは殊更ゆっくりと連ねる。
「今の世界を形作る均衡と調和は崩され、やがて混迷に狂奔する世界では国家という型はその力を弱めて形骸化し、それに取って代わろうと数多の宗教団体、商会ギルドを始めとする諸ギルドが割拠するでしょう。その果てに意志の異なる隣人が互いを憎み合い、呪い合い、討ち合う。そして疑心暗鬼の泥濘に堕ちた最中に魔王に攻められ、世界は何ら抵抗する事無く瓦解する――」
「…………」
 まさしくそれは人間世界の終焉か。
 国家、ギルド、宗教。この人の世を平定する上で大きな環となっているこれら組織が三者三様の特色を持ちながらも、それぞれが絶妙な勢力バランスを保つ事によって世界は滞りなく廻って来た。しかしそれが崩されると言う事は、連鎖的に総体としての世界そのものの存亡が危ういとサイアスは呈する。
 若いながらもその視野の広さにはこれまで助けられてきたカルロスとしては、破滅の規模に固唾を呑むばかりだった。
「安直ではありますが、世界崩壊のシナリオを描くのならそんなところですね。事実それは十年前に起こりかけた……“アリアハンの勇者”オルテガ殿の敗北。そして、貴方も参加したテドンにおける敗戦によって」
「……耳に痛いな」
 小さく膝の腕で握り拳を作り、打ち震わせるカルロスに敢えて気付かない振りをしてサイアスは続ける。
「ですがその当時は、オルテガ殿のご子息を人身御供に掲げる事によって仮初の安定を得る事ができました。その後のランシール海戦、アリアハン王都襲撃事件。そしてつい先日、ロマリアでの魔物暴走事件……予め用意された名声も相俟って、の活躍はここ最近良く音に聞きます」
 このポルトガでも、と意味深に付け足す。それは何者かが意図的にその情報を流しているのだとカルロスは察し、眉間に皺を寄せて硬質な表情を造った。
「ブラムバルド、か。オルテガ殿は、尊敬に値する気高き武人であったが……果たしてその子はどのような人となりなのだろうな」
「……どうであれ、彼の者の名声はその背後に座すアリアハンの意思があまりにも大きい。噂そのままの存在、という事はないでしょうね」
「お前は、“アリアハンの勇者”は操られし虚像である、と?」
「全てがそうとは申しません。ただ“アリアハンの勇者”は何処まで行ってもアリアハン・・・・・の勇者でしか無いと言う事です」
 はっきりと断言したサイアスに、カルロスは深く長く息を吐いた。
「……我々の目的の為には“勇者”という旗頭は是が非でも欲しいところだが」
 言葉を濁したカルロスが暗にして示すのは、国家単位で定める称号ではなく、その枠組みすら超越した標札だ。
 嘗てのサイモン殿、オルテガ殿のように、とカルロスは口腔内で呟く。
「ですので、“アリアハンの勇者”ユリウス=ブラムバルドは我等の旗頭に足り得ない。彼を取り込む選択肢は初めから無い方が無難でしょう」
「かといって代わりにジーニアス君にそれを求めるのも、な」
 サイアスはこの部屋に立ち入るなりそう告げている。それはつまり、その事を推挙しているのだろう。しかし、カルロスにはその気がどうしても起きなかった。
「恩師のご子息を巻き込みたくないというお気持ち、わからなくはないです。ですがその躊躇は、貴方の個人的な感傷によるものであり、大儀を為さんとするのならば不要なもの……僭越ですが、破棄していただく事を進言いたします」
「……わかっている。例え私個人の心が潰されようとも、世界を破滅から守る為にはやれる事は全てやっておく必要があるのは。……この十年、私はその為に生きてきた」
 膝の上で両手を組み、その上に顎を乗せて考え込んだカルロスを、冷徹なまでの眼差しサイアスは見据えた。
「サマンオサ皇帝グロリアーノは既に魔性の側である……十年前、サイモン公のご家族を助けようと貴方が単身サマンオサに乗り込んで得た真実」
「……残念ながら物証がないがな。公然にそれを知らしめる為の何かがあればいいのだが」
 十年前の戦に敗れ、国に立ち戻ってから直ぐにカルロスは遠きサマンオサに向かった。それは敗戦後の世論の動きが見え、それによって恩師の家族が窮地に立たされるであろうという予感がそうさせたのだ。だが、帝都に着いた頃には既に時遅く――。
「……どの道、反魔王組織を造り上げるのならば、魔王の傀儡であるサマンオサ帝国との衝突は必至。その場合、ジーニアス殿の背後にある盗賊団“流星”、そして“海皇三叉鎗トライデント”という二つの巨大組織との提携は必須です」
 カルロスが嘗ての悔悟に思考を混濁させていると、一際冷然とした声でサイアスが発した。それはどこかこちらの心を読んだかのようであり、意識を今に留めるには効を奏する機微だった。
「……しかし、それはこちらの一方的な言い分だ」
 その呟きは殆ど口腔内で発せられたもので、手狭な書斎には重苦しい沈黙が満ちる。
 何時しかカルロスとサブリナ、サイアス三者の呼吸の音だけが深々と響いていた。
「少なくとも彼の来訪によって、水面には確かな波が立ち始めています。局面は、望む望まざるに関わらず動き出す事でしょう……決断の時は、近いですよ」
 未だに決めかねているカルロスに告げるサイアスの冷酷な声色は、どこか有無を言わせない高みからの威圧が込められているようだった。
「“曙光の軍勢”……反魔王の意志の下に集い、嘗てテドンで散った同胞達。その意志を再興する事こそ、唯一生き残ってしまった私達の使命であり、贖罪だ」
 そう言うカルロスの声は、心なしかどこか震えているようだった。








―――時間は寄せては返す波のように単調に、それだけに足早に駆け抜けていく。
 ジーニアス達が過酷な海の旅路からほんの一時の休息を求め、ポルトガの大地を踏みしめてから既に半月が過ぎようとしていた。

 降り立って間も無く再会したサブリナ達によって紹介された造船所で船の修繕に入ってからというもの、外洋を越えてきた事で相当の潜在的な痛みを宿していた船体も、日に日に活力を取り戻すかのように真新しい佇まいになり、その新鮮な威容は自然と次なる旅立ちへの意欲を掻き立てる。
 造船所の中に移された自分達の船の、木材や金属などをはじめとする資材があちこちに置かれた窮屈な甲板の上で、ジーニアスとウィル。そして修繕を担当している技師数名が険を面に話し込んでいると、船橋の辺りが騒がしくなった。
「やっほー、作業は進んでいるかい?」
 何事かと怪訝にジーニアスが視線を向けてみると、それに現れたのは元ポルトガ王太子妃サブリナ。この場の重く慎重な空気を軽々と蹴り飛ばす気楽な声だった。
「サブリナさん」
 サブリナが近付いてくるのに合わせて会釈するジーニアスやウィルに反して、技師達は自らの頭を掻いたり両腕を組んだり、果てはあからさまに呆れたように嘆息したり……と、およそ敬念とは程遠く、逆に慣れ親しんだ姿勢で迎えた。それを許しているのは彼女の人柄や人望に拠るところなのは一見して直ぐに判る。
 この造船所に通うようになってまだまだ日が浅いジーニアスであったが、彼らの人間関係が表面的な肩書きに囚われるものではない深度に堅強な繋がりが存在するのをまざまざと知る事となった。
「お嬢、真昼間から顔出して良いんすか?」
「そうっスよ。こんな所を見つかったら憲兵にパクられますよ」
「……何よ、人をそんな酔っ払いや犯罪者みたいな言い方して」
「いやぁ、お嬢の立場からすると家で大人しくしてないと怪しまれるじゃないすか」
 無遠慮を通り越して洒落にならない周囲の反応に、頬を膨らませて不満を顕すだけに留めているサブリナは小さく肩を竦めた。
「別に問題無いんじゃない? 元々私達に向けられている監視の網なんてザルよザル。あれで私達を監視しているつもりなんだから、随分と舐められたものよねぇ」
「……そりゃ、お嬢やカルロスの旦那を相手にするんなら国中の兵掻き集めても持て余すでしょうが」
「世間も廃籍組にはなるべく関わらないようにってのが暗黙の了解みたいだしねー。だから、そんなの逐一気にしても仕方ないから、監視なんて初めから無いものと考えているのよ。その方が精神的に楽よ」
 あっけらかんと勇ましく豪語するサブリナに、技師達の棟梁は大声を張り上げた。
「はははっ! お嬢にかかっちゃ、この国の監視方も単なる税金泥棒かぁ」
 腹を抱えて豪快に笑う棟梁に、他の者達も継いで笑い声を上げる。
 不謹慎極まりない話題に盛り上がる周囲を冷めた目で一瞥したサブリナは、疲れたように嘆息した。
「……こらこら。これでも私は元ポルトガ王太子妃よ。そういう微妙に返答に困るような発言は謹んでよね」
「柄にもない事を主張せんで下さいよ。大体、言い出したのはお嬢じゃないですか」
「うんうん。って接頭語を自分で言ってますしねー」
「くぅ……あんたらねぇ。悔しいけど、言い返せないじゃない!」
 見も蓋もあったものでは無い不毛な会話に、余所者であるジーニアスは立ち入る事はしない。いや、寧ろできなかったと言うのが本音である。ここ近日、日常茶飯事的に繰り返されているやり取りであるが、ジーニアスとしてはどうにも慣れる事は無く、その過激さに肝を冷やすばかりだった。
 会話が途切れたのを見計らって漸くジーニアスは口を開く。
「……サブリナさん」
「あらぁジーニアスくん。元気にしてる?」
「……いえ、毎日こうしてお会いしてるじゃないですか」
 疲れたような悄然とした声色に、サブリナは漸く気が付く。わざとらしくもあるそれが素か演技かどうかはジーニアスの知る所ではないが、脱力から項垂れそうになる思いだった。もっとも、それをあからさまに態度に示すほどジーニアスは子供ではなかったが。
 サブリナはこの造船所を紹介してくれてからというものほぼ毎日ここに足を運び、作業の経過を眺めていく。それは今の時間帯を馬で過ごしているカルロスに知らせる為の観察であったのだが、ジーニアスに真意は判らない。
 覇気の無いジーニアスの言葉など耳に届いていないのか、まるで気にする様子無くサブリナは船を見回していた。
「作業は順調そうねー。他の予定を全部後回しにしている甲斐があるってものだねっ」
「……ええ。まあ」
 そこは素直に頷いて良いものなのか、ジーニアスに判断できる筈も無い。
 返答に窮していると、側に佇んでいた技師の一人がジーニアスの肩に腕を回し朗らかに声を張り上げた。
「こっちこそこんな面白い船を紹介してくれて、お嬢には頭が上がらないっすよ!!」
「そうそう。何の色気も無い軍艦弄り回すのには、もうウンザリだったからなっ!」
 それに続いて何処からともなく挙げられる喚声を、サブリナは半眼で睨み据えた。
「……あのさぁ、前々から言っときたかったんだけど、私はとっくの昔にギリアムを勘当されているんだから、お嬢・・はもう止めてよね」
「何言ってるんすか。お嬢は何処までいってもお嬢ですって!」
「そうそう。今更お姫様って柄じゃないでしょう!」
「姐御ってのも微妙にイメージが違うしねぇ」
親分ボスが一番しっくりくるんだがな」
「……何だかなぁ」
 不毛な呼称が飛び交うのを聞き、諦念から深々と溜息を吐いて肩を竦めるサブリナ。
 そんな彼女の周囲に集まる朗らかな笑い声に、どこか遠い過去を幻視するように見つめていたジーニアスはポツリと呟いた。
「……何か、雰囲気が“流星”や“海皇三叉鎗”にいるみたいな感じがするな」
 それは独白に近いものであったが、耳馴染みのある単語が飛び込んできた事もあって、サブリナは耳聡く興味深そうにジーニアスに詰め寄った。
「そういえば、“海皇三叉鎗”の今の頭領ってナディアちゃんでしょ?」
「ええ……あれ? サブリナさんってナディアの事を知っているんですか?」
 自分で言いながら意外な事に気が付いてジーニアスは眼を瞬かせる。サブリナは頭の後ろに両手を組んで、空を見上げていた。
「ん……まあ昔、ギリアムの時に色々とね。ノヴァくんとかゼノスくんとかと一緒に、礼儀知らずなあの悪ガキ共に色々世間の厳しさってのを躾けてやったりしたわねぇ」
「お、穏やかじゃないですね……」
 サブリナの実家である商会ギルドの四商会ギリアムは、同じ四商家のマグダリア商会に近い事業展開を執っていた。マグダリアの場合は、あくまでも各地の交易網を肥大、物流の活性化を促す事を主眼とし、その為に種々多々に亘る商売を手広く行なっているが、ギリアム商会はどちらかと言えばマグダリアよりも生産側に近い立場にあり、中でも武器防具や兵器の取り扱い特化していた。また、商会傘下に冒険者ギルドと盗賊ギルドの中間色に当たる傭兵ギルドを独自に設立し、大望を胸に野を往くならず者達に主要交易路の護衛をはじめとする様々な傭兵家業を斡旋していたりもするのだ。
 川の流れそのものがマグダリア商会であるならば、その川の外堀を整え固める役回りを担うのがギリアム商会。そう商人達から喩えられる程に、双方の商会は近しい間柄にある。しかし、特化している物が物だけに色々と血生臭い話題も絶える事のないギリアムは、何時しか心無い者達からは“死の商人”という不名誉甚だしい渾名を与えられもした。
 もっともその大半は、魔物台頭後の世界で需要が上昇傾向にある武具の流通を早め、自衛の手段を齎すという事で莫大な利益を上げている彼らに対しての妬みに拠るところがあまりにも大きかったが。
“十三賢人”である母サラによって一般常識より多少は逸脱した事情を知るジーニアスにしても、おいそれとその事を口にする事はしなかった。サブリナは今となっては家から勘当された身であり、失礼に当たるのではないかと思っていたからだ。
 思惟に埋没しかけていると、サブリナの鳶色の眸が不思議そうにこちらを覗き込んでいた。
「何か深刻そうな顔して話し込んでたけど、どしたの?」
「あ、いえ……船体の事でちょっと」
「もしかして船のどこかがやばいとか?」
 刻々と飛躍する話題には未だに慣れないジーニアスは戸惑いつつも続けた。
「船体の修繕は順調でもうじき終了なんですけど、更に改造しないかと提案されて答えあぐねていたんですよ」
「改造〜? どんな?」
 興味深々という心境を面に貼り付け、眼を輝かせる彼女にジーニアスは数歩引き下がる。押しが弱い事はいい加減自覚していた事であったが、このサブリナには何となく逆らえない気がした。サブリナの破天荒さからくる押しが強過ぎると言う点を鑑みても、それは一入だ。
「い、いまいち僕もわからないんですけど……船尾両側面に推進装置を付けるとかどうとか」
「推進、装置?」
 疑問符を浮かべつつ首を傾げるサブリナに、ジーニアスは同じ想いを抱いて頷こうとした。だがそれを遮ったのは、周囲で他の技師達に忙しなく指示を与えている棟梁の方であった。
「おう。お嬢なら知ってるでしょうが、ポルトガ軍艦には、帆で受けた風力を船尾の底に取り付けた推進装置へ機械式に伝達する事で動作性能を向上させる機能を備えられているんだ」
「ああっ、後方噴射するアレね! そういえば確か試験的に付けてみたら走行中に船体強度が保たなくて、派手にぶっ壊れてたわねー。十隻中八隻が沈んだんだっけ?」
 妙に生々しい数字を挙げながら物騒極まりない納得を示すサブリナに、ジーニアスは沈痛な表情で首肯した。
「……そんな話を聞かされて、はいお願いします、なんて言えなかったんです」
「だから、船体構造と強度を見直して、計算しなおしているから大丈夫だって言っているだろ。大体、あんたらの船には船全体に魔力を行き渡らせる魔導器が積んであるだろうが。それの伝導効率を考えると少し無駄があってだな、その流れをちょちょいと弄くって推進力に回そうって話しなのさ。機械的じゃない分、余計な伝達装置なんて必要ないし船体負荷は少ない。施工にもそんなに時間が掛からんって言っているだろ」
「面白そうじゃない! 私が許可するからやってみなよっ!!」
「ちょ……勝手に決めないで下さい!」
 圧され気味だったジーニアスだが、朗らかに笑うサブリナを全力で阻んだ。幾らなんでも無責任で強引過ぎるし、船は仲間全員での所有であって、個人の一存で決めて良い問題ではないと思っていたからだ。隣のウィルに助け舟を求めるも、彼は相変わらず菫の視線を書面に落としていて、この騒ぎにも気付いた様子は無い。
 孤立無援のまま尚も拒み続ける頑ななジーニアスに、サブリナは不満げに唇を尖らせた。
「だってこの船、“海皇三叉鎗”製の船艇でしょ? あの連中が作った船って第一に速さを追求しているし、それだけに高速機動時の安定性に関して言えばポルトガ軍艦の比じゃないのよ。海賊なんて商売やってんだから、“船足は神速を尊ぶもんだ”ってリヴァイアさんいつも言ってたし」
「だからこそ弄り甲斐があるってもんなんだぜ! お嬢に免じて改造費用は無しにしといてやるからよ!」
「いえ、そう言う問題では……」
「煮え切らないなぁ……男の子なんだからハッキリしなさいっ!」
「お嬢に逆らって五体満足でこの場から立ち去れるなんて思わなねぇ方が賢明だぜ!」
 憎らしいくらいに生き生きとして、輝けるまでに邪な笑顔を向けてくるサブリナと技師達に、ジーニアスは更に三歩程後ずさる。耳の奥で警鐘が鳴らされているのはきっと間違いないだろう。後半に到っては何というか殆どもう脅しに近いとさえ思った程だ。
(こ、この距離でルーラを使っても二人をまき込んだまま移動するだけだから逃げ切れないよな。アストロンなんて使ったら認めるようなものだし……考えろ、考えるんだ。この急場から相手に気取られる事無く離脱できる起死回生の方法をっ)
 そもそも戦闘中でもないのに何で自分はこんな背水に追い込まれているのだと疑問が浮かぶも、それに浸る事さえ許さないと云わんばかりに前方より押し寄せてくる強迫観念。今すぐこの場から逃げ出す術を構築しようと試みたが、現実的はそれ程生易しいものではなく。
 何時の間にか額から頬を伝い、顎線をなぞって冷や汗が落ちた。それを自覚すると急に喉が渇いきて唾を飲み込んだものの、浅い痛みと共にむず痒さがこみ上げてきて落ち着かない。追い詰められている所為で、考えが全くと言って良いほど纏まらなかった。
(駄目、だ……思いつかないっ!)
 ジーニアスの表面張力的な抵抗も遂に打ち破られんとしていた時。手渡されていた設計図面やら何かの計算書やらを食い入るように読み漁って黙していたウィルが、パタンと音を立ててその冊子を閉じる。
 周囲は何事かと、ジーニアスは九死に一生を得た思いで一斉に視線をウィルに集中させた。
「お願いしましょう、ジーニアス」
「そうか、そうだよね……って、ええっ!?」
 素っ頓狂な声を上げ、信じられない表情でジーニアスはウィルを仰ぐ。愕然と大きく見開かれた碧空には、何を言っているんだと言外に物語っていた。
「まだ試作段階で碌な性能実験さえしていないんだよ!? 安全性が全く保障されていないんだよっ!?」
「その分無料で実装してくれると仰ってます。私達の旅程を鑑みますとその期間は長いと考えられますし、それに伴い資金の面でもこの先色々と入用になりますので、あまり大きな出費は可能な限り避けなければなりません」
「いや、それはわかるけど……」
 旅において金銭の工面は切実な問題だけに理解は出来る。押し黙ったジーニアスを見止めて、ウィルは滔々と続けた。
「この船の欠点を挙げるならば、それは初動における速度なんです。今提示されている機構を用いればそれは改善される事でしょう……貴方自身の“エレイン”という問題もありますが、どんな状況に陥ろうとも緊急脱出の術は身につけておいた方が良い」
「……まあ、確かにそれは言えるけど」
「そもそもこの推進装置は螺旋推進器スクリューと言いまして、その構造はですね――」
「は、はぁ……」
 細かな理論の講釈を始めてしまったウィルに、困ったような顔を浮かべつつジーニアスは付き合う。
 ジーニアス自身、その手の議論が嫌いという訳ではないが、“賢者”たるウィルを介したその場合、その敷居があまりにも高くなり、難解な専門用語が跳梁跋扈する為に殆どついていけない事になってしまう。仮にパーティ内でそんな状況が巡ってきた場合、ヴェインやリースは何か適当な理由を付けて早々に離脱し、自分しかその話を聞く者がいなくなってしまうのだ。議論が自分の興味がある分野の事ならば良いのだが、そうでない時となるとその消耗は相当なものだろう。
 勿論ウィルは善意でしてくれる事であるので無碍に断ち切る訳にもいかず、パーティ内での信頼に皹が入らぬように気を使うのも、リーダーとしての務めとしてジーニアスなりに臨んでいる事であった……もっとも今回の場合、上手く言いくるめられている気もしないではなかったが。
 そんな二人から巻き添えを食らわぬよう、一転して静かに離れたサブリナに、先程から話していた棟梁が神妙な表情を浮かべて声を掛ける。
「……お嬢、そういえば一つ報告したい事があって」
「なーに?」
「この前、このポルトガにマユラお嬢さんが来てましたよ」
 その名を聞いて途端にサブリナは顔を顰める。それはどこか不愉快な名を聞いたと云わんばかりだ。
 内なる感情の荒だたしさから派生する棘を隠す事無く、サブリナは棟梁を半眼で見上げた。
「……何しに? あいつの管轄はアッサラームでしょ。何でポルトガを徘徊してんの?」
「実際に見かけた部下の話じゃ、何でも王城に行っていたって」
「あいつが城に? ……何かあるわね」
 口元に手を当て、昏い輝きを眸に走らせる。それは普段のサブリナを知る者からすれば別人のような鋭利さが滲み出ていた。
「そうそう。確かマグダリアの坊ちゃんも一緒だったって話でしたぜ」
「うげ……関わりたくない商会のあそこかぁ。まーた物騒な取引に首を突っ込んでいるんじゃないでしょうね」
「どうでしょうかねぇ。何せお嬢の妹君ですから勇敢というか何と言うか」
「それってどーゆー意味かなぁ?」
 淑女らしからぬ言繰りで、心底嫌そうに口元を引き攣らせたまま満面の笑みを浮かべるサブリナは、どこか迫力があった。
 思わずたじろいだ棟梁も、先程のジーニアスと変わらぬ様相で数歩後ずさる。
「父上は?」
「会長はバーグの方に掛かりっきりです。ここ一年近く、ポルトガはおろかアッサラームにさえ帰っていないようですぜ」
「“フロンティア・バーグ”、か。まだ頓挫してなかったんだ?」
「いやいや。今、商会ギルド全体で盛り上がっている一大事業じゃないですか」
「こんな時代に危険な海を越えて熱心な事だ、って言っているの。……でもまあ、何ていうか纏まりの無い家族よねぇ。これって所謂一家離散って奴かな?」
「お嬢が言うと、全然洒落に聞こえませんって!」
「かもねー」
 狼狽を露にする棟梁を見て満足したサブリナは、ウィルの講釈によって段々と顔色が悪くなっていたジーニアスに向かって歩み寄る。そして両の掌を力強く叩いた。
「はい、講義はここで終わり!」
「サブリナさん!?」
 言いながらサブリナは腰に佩いていた鞘より剣を抜き放つ。躍り出たのは緩やかな曲線を描く片刃の刀身。特殊な染料で薄緋色に染められし刃は、一見して通常の剣とは異なる存在である事を周囲に見せ付ける。
 独特な紋様と形状に仕上げられた刀身を振った時、艶やかな光と音によって対峙する者の精神に働きかけ幻惑を誘う事から、何時しか『妖刀・誘惑の剣』と呼ばれるようになったサブリナの愛剣だ。
 嘗て年少のサブリナを王室近衛隊インペリアルガードにまで至らしめた立役者でもある剣の切っ先は、静かにジーニアスに突きつけた。
「さあジーニアスくん。稽古の時間だぞ。覚悟はいい?」
「は、はい……って、皆もういないっ!?」
 準備ではなく覚悟と問うところが何ともサブリナらしい言い回しであったが、ジーニアスにそれを納得する暇など無かった。既にウィルはおろか忙しなく動き回っていた技師達も自分達から遠く離れ、何時の間に撤収していたのか、甲板のあちこちに散らばっていた資材は失せ、動き回るには充分過ぎる空間が出来ていた。その上、被害の被らない程度に距離を開けた所に輪を描くように人垣が出来上がっている始末。挙句の果てにサブリナやジーニアスの名前を叫び、捲し立てる様に歓声が巻き上がってさえいた。
 周囲の熱気やサブリナの気迫に圧され、慌てて背負っていた剣を引き抜いたジーニアスは構える。
 しかしこの状況。既に見世物状態になっていると言っても強ち間違いではないのだろう。悲しいかなそれを認めてしまえば非常に泣きたくなる気分がこみ上げて来たが、悲観に浸る事などしていられなかった。
 サブリナは限り有る自身の時間を自分の為に割いてくれているのだ。故に、全力でそれに応じる事こそ彼女への恩に対して最大に報いる事なのだろう。
 訓練の度に自らにそう言い聞かせ、ジーニアスは力強く『魔剣・烈炎の剣』の柄を握った。
「お手柔らかに……お願いします」
 それは一種の礼儀だったのだが、しかしサブリナは本当に容赦が無い女性だった。
「男の子なんだから、情けない事言わないのっ!」
 力強く甲板を蹴り、跳躍して剣を振り下ろしてくるサブリナに向かいジーニアスは駆け出した。








 ゆっくりと茜の空を往く雲が鈍色で染めらゆく様を波止場から見上げながら、ジーニアスはぼんやりと物思いに耽っていた。
「……今日も散々だったな」
 誰に向けてでもなしに小さく語散り、悄然とした面持ちで深々と嘆息する。
 今日という日の訓練の結果は、これまでの例に漏れずサブリナに完敗という結果になった。
 集中を高める為に互いに真剣で応酬し、宛ら実戦に近い鍛錬であった為に大小様々な傷を負いはしたものの、既に訓練で負った傷は魔法で治療している為問題は無い。だが回復魔法は身体の痛みを癒しはするが、打ちひしがれた心の傷みを和らげてはくれないのだ。ジーニアスの気落ちはそんな所に起因している。
 自分達の船が造船所に預けてからというもの、ジーニアスは昼の刻限においてはサブリナ、夜はカルロスという二者に剣の指導をしてもらう事が日常となっていた。
 その提案はカルロスから持ち掛けられたものだったが、自分を気に掛けてくれている事を嬉しく感じ、何より恩人と時間を共に過ごせる事をジーニアスは素直に喜んだものだ。しかし、実際に訓練が始まってからというもの、そんな微温湯のような想いに浸かる気持ちの緩みは即座に払拭しなければならなかった。
 やはりとも言うべきか、父に師事していたカルロスはもとより、若くして昇りつめたサブリナの剣腕は凄まじいの一言に尽きる。年月と共に尚も重ねられている技術の秀麗さは正に圧巻。それ程までの二人は、だがどれだけジーニアスと実力差が開いていようとも鍛錬に臨む姿勢に一切の容赦が無かった。
 恩師の息子だからといって甘やかすのではなく、二人は寧ろ粛然とした厳しさを以って勤しんでいた。それは二人がジーニアスを鍛える事に真摯に取り組んでくれている事の証明であり、ジーニアスにとってはありがたい事だった。そんな情理を汲み取れる程度にはジーニアスも弁えていた故に、高みから振り下ろされる現実は未熟な己の双肩を痛烈に打ち据えるのだった。
「遠い、な……」
 自分よりも遥か先を往く彼らに少しでも着いて行ける様になったのは確かな上達の兆しであったが、それはあからさまに手加減された上での事なのでやはり表情が晴れる事は無い。鍛錬に重ねた年月という壁は絶対的なもので、越える事などできないのか。先人は常に先を往くものなのか。そんな答えの見えない問いがジーニアスの意識を掻き回してしまっていた。
(いや……あまり思いつめるな、ってサブリナさんにこの前言われたばかりじゃないか)
 そう自らに強く言い聞かせる。だがそれは長年付き合ってきた自分の性格の一端であるが故にそう易々と変わるものではない。自覚して省りみ、歯止めを掛けれるだけまだ良い傾向と言えるだろう。
 しかしながら、それでもジーニアスが先程から晴れない鬱劫とした感情に囚われていたのは、その根底にある一つの事実が存在しているからだった。
 サブリナやカルロスと訓練するようになってジーニアスは気付いたのだが、完全に上手の者と剣を交える時。対峙する者の背後に、否応無くカザーブ村で相対した少年の姿が重なるようになっていた。
 闇黒の冷徹な眼光と光さえ裂く剣閃より紡がれる言葉無き意志の奔流は、大きく隔れた力の差をまざまざと思い知らしめ、ジーニアス自身の在り方についての是非を問い掛けてくる。
 その峻烈な詰問を前にして、ジーニアスも圧されるばかりではなかった。彼自身、実戦経験はそれなりに積んでいるという自負があり、更には盗賊団“流星”随一の剣の使い手である“紫狼”ゼノス=アークハイムの剣を近くで見てきた。そして何より仲間達と力を合わせて歩んできた道程が自分を支えている以上、そう易々と屈する訳にはいられなかったのだ。……たとえその想いが、根底にある自らとは真逆の路を往く少年への純然な対抗心の上層に固められたものだとしても。
 だが反発ばかりでは先は見込めず、当然認識もしなければならなかった。高い壁もまた、常に高さを積み重ねている事を。自分自身の認識だけで、自らの成長を実感するのは愚かな事でしかないのだと。
(……落ち込んでいる暇があるのなら、無心で鍛錬に打ち込めば良いだけ、か)
 それは能天気とも、問題の解決を先延ばしにしているとも言える結論であったが、確実に前に進もうとする意識の顕れだった。
 いつしか時間は流れに流れて黄昏が空と海に染み渡る刻限に移っていた。海より地に吹き抜けていく風には徐々に夜の到来を思わせる冷たさが孕む。
 サブリナは訓練が終わると早々に王都北東区画にある自宅に戻り、造船所の技師達も僅かを残して家路に着いていた。滞在中は仲間達それぞれに自由行動を許していたから、ウィルもまた己の時間を過ごしている事だろう。
 潮風と波音に心身を委ね、時間を掛けて漸く思考が前向きな方角に落ち着いたのを自覚し、ジーニアスは今日の反省を終えて気分を改める為に意気込んで深呼吸する。
「よしっ。じゃあ早速宿に戻って素振りでもしようか……ん?」
 茫洋とした表情で落ち往く陽を眺めていると、ふと同じ波止場に人影がある事に気がついた。夕餉を迎える為に疎らになりつつあるものの、ここは人の往来もそれなりにある為に人影自体珍しくも無い。だがそれでもジーニアスの眼を引いたのは、その影がこの場にはあまりにも不調和な子供のものであったからだ。
(こんな所に……子供? 独りで?)
 逆光でその表情は見れなかったが、黄昏の輝きの中で一際目立つ漆黒の衣服に夕陽を浴びて深い茜色に染まった髪。年の頃を鑑みると些か奇抜な風体であったが、多様な人種の集まる港町特有のだと思えばそう不可思議でもない。故にジーニアスは近所の子供だろうかと思い至った時。波際をゆっくりと歩いていたその子供は、波止場にある一隻の船の、その身よりも遥か高きに座す船首像に向かって跳躍した。
「……は?」
 少女の危険極まりない唐突な行動に、傍観者だったジーニアスは面食らう。場所が場所だけに足を踏み外せば少女の身長の倍以上の高さがある海面に向かって真っ逆さまに落ちていくのは明らかだった。
 その行動は傍から見ていて決して生きた心地がするものではなく、そんな危険極まりない行為を黙って見過ごせるほど程ジーニアスは冷徹では無い。一言注意した方が良いと判断して足早に歩み寄る。だが外野の穏やかならぬ心象は届かないのか、当事者である少女は相変わらずただ一心にその場で鳥を模った像に向かって跳躍を繰り返していた。
 そんなに鳥の像が欲しいのだろうか。歩みながらジーニアスがそう考えると、不意に昔。妹ジェシカが館の庭園で木の枝に帽子を引っ掛けてしまい、それを取ろうとして何度も跳ねる姿が甦ってきた。確かあの時は、妹の背丈に対して枝の高さはどう足掻いても届かないものだったので結局自分が木をよじ登って取ったのだが、もどかしそうに顔を真っ赤にしていた妹の姿が強く記憶に残っている。
 状況は全く似ていないが、何故かあの時の妹と同じような必死さを眼前の少女から感じ取り、ジーニアスは溢れてきた懐かしさに思わず双眸を緩めた。
 その時、一陣の風が駆け抜ける。それは思いの他強く粗暴なもので、係留された船達を大きく揺らした。それは当然、滞空の最中にある子供など簡単に押し流し――。
「危ないっ!」
 そう叫ぶ頃にはジーニアスは既にその場を駆け出していた。
 力強く石畳を蹴って一気に距離を詰める。海に投げ出された少女の身体をひったくるように脇に抱え、石畳の上に滑り込んだ。その際、身体のあちこちを強かに打ち付けたが、ジーニアスはそれを無視する。少女に怪我が有るか無いかの方が切実な問題だったのだ。
「っ……君、怪我は無いかい?」
「……け、が?」
 腕から降ろされた少女は今自分の身に何があったのか理解していないのか、きょとんとした表情で突然に現れたジーニアスを見上げている。
「けが……ない。へいき」
 改めて自分の姿を見回して、緋の少女はそう言う。鈍いというか、どうにも反応のテンポがずれているような感覚をジーニアスは覚えた。
 だが何にしても少女は怪我一つ負っていなかった。自分は所々擦り剥いてはいたものの、そんな事は気にならない。ただ深く安堵の吐息を零す。
「良かった……でも君、こんな場所で遊んでいるなんて感心しないな。親御さんはどうしたんだい?」
「おや……いない。わたし、かおしらない」
「! あ、その……ごめんね」
 こんな場所で子供を放置する事に憤りを感じたものの、それでも他人の家の流儀に口を挟むつもりも無かったので、簡単な注意で済ますつもりだったのだが、思いの外重い答えが返ってきてジーニアスは声を詰まらせる。だが少女は表情を変えず、ゆっくりと首を傾げるだけだった。
「どうして?」
「どうして、って……」
 単調に、本当に不思議そうに問い返してくるものだから、ジーニアスは思わず瞠目してしまう。その言動は中々に不思議な少女だった。
「僕はジーニアスって言うんだ。君の名前は?」
「……イーファ」
 少し考え込むかのような沈黙の後、緋色の少女…イーファは静かに名乗る。
「イーファ、か。変わった響きだけど、綺麗な名前だね」
「…………」
 柔らかく微笑んでそう言うも、イーファは何の感情も載せず、ただ無垢のままにジーニアスの顔を見上げているだけ。
 ジーニアスは深く考えず会話を試みた。
「イーファは何処から来たんだい?」
「わから、ない」
「え……じゃあ、どうしてこんなところに?」
「おしごと、のあいだ……すきにしろ、っていわれた」
「ああ、連れの人がいるんだね。その人は今どこに?」
「しら、ない」
(こ、困ったな……)
 どうにも問答に手ごたえを感じないジーニアスは内心で頭を抱え、それでも挫けず話を進めようと努める。
「と、とりあえず……さ。これから兵士達の詰所に行ってみようか? もしかしたら迷子の届出があるかもしれない」
 それは少女の身を案じての提案だったのだが、兵士、という単語にイーファは初めて眉間を僅かながらに寄せた。それは注意深く視ていなければ気付かないほど些細な変化であった。
「へいし、イヤ。へいし、きらい」
「嫌いって……イーファ、君ね」
 幾分か硬さを孕んで発せられた言にジーニアスが溜息を吐くと、イーファは身を翻して海を見つめた。
「……うみ」
「ん、海?」
「うみ……きらきら。きれい」
 風に揺れて生まれる波に、黄金の光が反射して煌びやかに世界を彩っていた。確かに、眩いばかりに輝けるその光景は綺麗の一言に尽きる。
 先程までは暗澹たる意識のままぼんやりと眺めていただけだったので気付かなかったが、その情景を前にしてジーニアスは改めて感嘆を零した。
「そうだね。イーファは海が好きなの?」
「わから、ない。けど……うん」
 声にも表情にも抑揚は無い。だがジーニアスにはそれが弾んでいるような気がしていた。
「だからあんな事をしていたの?」
「……おふね、みてた」
「船を見てたんだ」
「おふね、のりたかった」
「そうなんだ」
 イーファはゆっくりと首肯する。船を見上げながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ様子に、ああ、とジーニアスは内心で頷いた。
 つくづく感情が面に載らない少女だったが、それでも性根は普通の子供と何ら変わり無い。行動が随分と直線的で大胆であったものの、それは船に乗りたいという純粋な好奇心に突き動かされての事だったのだろう。
「乗ってみるかい?」
 殆ど何も考えずに口を突いて出た言葉。それ故にそれは一切の他意無き本心だった。
「……え?」
 数呼吸置いた後、イーファはジーニアスを見上げる。表情の動きはやはり少ない。だがジーニアスにはそれが驚きを顕しているのが理解できた。
「今すぐには無理だけど、あと二、三日もすれば僕達の船の改修が終わるから海に出せるんだ。だから、その時にでも乗ってみたいのなら乗せてあげるよ」
 近くに居を構える造船所を指差し、ジーニアスは屈んでイーファに視線を合わせた。小さく見開かれた瞳が本当に幽かに揺れる。
「ほん……、とう?」
「約束するよ。但し、動かすのは湾内に限られるけどね」
「う、ん。やく……そく」
 淡々と頷いたイーファは、一層熱心な様子で船を見上げる。
 その様子を穏やかに見下ろしていたジーニアスは、ふとこの無表情な少女の笑った顔が見てみたいと思った。

 それは粗暴な風韻にならば簡単に押し流されてしまう程ささやかな、小さな儚い約束だった。
 



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