――――異伝二
      第三話 漣の深意







 明くる日の早朝。
 パーティの中でも起床が早いジーニアスとヴェインの二人は、沿岸特有の濃密な靄が漂う波止場を潜り抜け、係留している自分達の船に乗り込んでいた。航海中に消費して中身が空となった木箱や樽を船外へと降ろし、ウィル達が昨晩中に借り受けておいた荷馬車に積んでいたのだ。
 力仕事、且つそれが早朝からのものとなればパーティ内では自然とその役割分担は固定される。そして殆どその手の仕事はジーニアスとヴェインが担う事になり、その流れから二人が早朝鍛錬に汗を流し、果ては食事当番になっていったのは当人達には甚だ不本意であろうが自然な成り行きだった。
 また、ウィルやリースは朝に弱い事を隠しもせず寧ろ高らかと宣言していたが、朝に強い二人にしてみれば、それは夜遅くまで魔導書を読み耽っている事が原因だと苦言を呈さざるを得ない。長時間身動きせず黙々と文字の羅列に没頭できる集中力の高さは賞賛に値するものの、パーティ内で生活サイクルを二分するのは如何なものなのか、と言うのがジーニアスとヴェインの共通した意見だ。
 行動範囲が極端に狭められる船旅ならそれが日常でも良かったのだが、陸地に上がったからにはそれを見て見ぬ振りはできないだろう。郷に入れば郷に従えとの諺があるように、その地にはその地の呼吸や歩調があり、それを無視して輪に立ち入る事などできない。それこそが人の社会であるのだ……という御託を並べて魔導士組を是正しようとした二人だったが、その試みは見事に失敗に終わってしまい、半ば諦観の心持ちでジーニアスとヴェインは今日にすべき事の準備の為に、早朝から肉体労働に勤しんでいるのであった。

 今日はこれまでの長い航海で痛んだ船体を補修する為に、専門の技師を訪ね歩く予定だ。もっとも、それが順調にはいかないであろうとジーニアスは予感していた。
 ポルトガは造船業において世界の殆どの需要を一手に担う国家である故に、この地に存在する造船所の数は並大抵のものではない。同業種の者達が同じ盤上に並び立つ事で競争心を煽り、互いを常に意識させる事で弛まない切磋琢磨の姿勢を確立し技術水準の底上げを計る…ポルトガという国の原理である向上意識がそこには顕著に存在しているのだ。
 その為か船を扱う技師の主義、趣向等は実に様々な方角に向かって伸びている。航海の安全性を重視する者もあれば、船速を極めんとする者もあり、より多くの積載を目指し実用性を追及する者達もある。この国では船と名の付くあらゆるものが製造され、大型の軍艦や貿易船からカヌーやボート。果ては工芸品のボトルシップや模型船まで、玉石混交と言える程に自由気ままに己が信じる路の模索を貫いていた。
 ジーニアス達が技師の探索を困難だと評している理由の一つはこの地に居を構える造船所の多さであるが、もう一つの理由は彼ら自身が駆る船舶にあった。
 彼らの船には過分とも言えるまでの偽装が施されていたが、根本的には海賊船団“海皇三叉鎗トライデント”の船に相違無い。基底から異なる設計思想より産み出された構造や特性が、一般的なポルトガ製の船舶と大きな隔たりを抱えていた。その為、異国情緒溢れる奇抜な風体は、否応無く人目を惹き付けてしまうのは避けられない事実だろう。もっとも、深く被った仮面が巧妙であるが故にこの船が“海皇三叉鎗”所有のものだと判別できる者は少ないと考えられる。現に入港審査の段階で、これまで幾百隻もの船を検分した経験を持つ熟練の兵士でさえも、珍しい型の船だな、と感嘆を漏らして物珍しげに見上げていただけだった。
 だが、実際に造り手である技師の眼に掛かれば船の出所を看破される可能性は否定できない。そして仮に見破られたとして、直結して自分の正体に気付かれる事はないだろうが、それでもかなりの肉薄を許す事になるという事は容易に想定できる。少なくとも自分達の背後に見え隠れする組織の影には気が付くだろう。いや、寧ろそれを常に念頭において行動し注意を怠らない事が、このポルトガに滞在する間での求められる心構えだった。



「これで最後……っと」
 小さな掛け声と共に、両手でようやく抱え込める大きさの樽を慎重に荷台に放り込む。
 それで全ての積み込みが終わりだったのか、ジーニアスは額に浮き出た汗を袖口で拭って深く一呼吸した。夜の冷たさを未だ宿した空気は肺腑に心地良く染み渡り、朝起きて直ぐの重労働でそれなりに疲労感を訴えていた身体に清涼な刺激を与え、緩やかに落ち着きへと導いていく。
「やっぱり朝の潮風は気持ちが良いなぁ」
 朝陽と共に訪れる爽快感に浸っていたジーニアスの横を、同じか或いはそれ以上の作業をこなしていたヴェインが涼しげな表情で通り抜ける。呼吸の乱れ、汗一つ掻いていない佇まいで淡々と荷車を牽く馬のたてがみを梳く姿は、今の今まで行っていた事など文字通り朝飯前の些事でしかないように見えてならない。それに比べると、疲労を顕にしている自身の体力の無さが浮き彫りにされているようで、自分の不甲斐無さに恥かしささえ浮かんでくる。
 実際問題、ジーニアスの身体能力は決して貧弱などではなかった。寧ろ盗賊団“流星”の苛烈な任務を堅実にこなしてきた事もあって常識的には充分に優れている範疇に数えられる。しかし常識で測れるからこそ、より優れた者が直ぐ近くに、ましてや旅路を同じくする仲間がそうであるならば否応無しに意識してしまうものだ。それはごく普遍的な人間性の体現であり、今ジーニアスが感じている裡から沸々と込み上げてくる感傷は殆ど劣等感に起因するものであった。そしてそれ故に厭味の無い余裕さを醸すヴェインに同じ男として羨望を感じ、更には自らへの落胆を覚えていた。
 自己嫌悪という程ではないにしろ気分が陰鬱な方向へと傾いてしまったジーニアスも、この気落ちが果肉の無い果実のような伽藍堂なものに過ぎないと理解はしていた。正式な“武闘家”の職に就いて長い年月を鍛錬漬けの日々で過ごしているヴェインと、正式な“職”ではないが剣士としての路を歩み続けているジーニアスとでは根本的な鍛え方や質そのもの、何よりも経験が違う。それは平時より扱い、鍛える筋肉の部位や身体の使い方の差によるものでもあるし、魔力と闘氣の両方を扱えるか否か、またその深度。闘氣の二大指向性である装飾アクセサリ型と縫衣ドレス型の適正といった影響もある。そしてそれらは結局のところ個人差という単純明快な事実に帰結し、どの道どうこう悩んだ所で有意義からは程遠いものなのだ。
 ヴェイン本人の耳に入れば、気にするな、の一言で一蹴されてしまう程度の感傷ではあるものの、心の問題であるが故に易々と整頓する事はかなわない。しかし、それでも自らを顧みる為の切欠としては充分だった。
 自らの感情を無理やりに方向転換させようとしたジーニアスはおもむろに荷台に視線をやり、思いっ切り渋面を浮かべた。
「これは……やっぱり不味いよな」
 荷台は思ったよりも狭かった所為か、それとも自分が考え無しに次々と放り込んでいった所為か、樽やら木箱やらが無理やり押し込まれたまま絶妙なバランスで静止を保っている状態だった。ある意味芸術的ともいえる造形は少しでも強い衝撃があればきっと容易く崩れ去るだろう。その悲惨な結末を想起して、思わず双肩の重荷が増したように感じたのはきっと錯覚では無い筈だ。
(……まったく、何をやっているんだよ)
 内心で自らを罵倒しながらジーニアスは深く嘆息した。
 何故こんな惨憺たる状況に陥ったのか、自分でもわからない。改めてそう断言できる程に、意識が外界から離れ内側に向いていたのか。その自問にジーニアスは肯定する以外の答えを持ち合わせてはいなかった。
 意識の奥に蠢く何か・・が、今すべき事への集中を大きく阻害しているのは既に自分でも理解していた。その意識に深く痕を残す何かとは、無論昨日の晩に十数年ぶりに再会したカルロスの話である。
 カルロスやサブリナ…二人は幼い自分の記憶に鮮明に残る程の恩人だった。父の下での修行が目的でポルトガより留学しているカルロスにしろ、そのカルロスに付き添ってきた恋人のサブリナにしろ、二人は幼く狭い世界で生きてきた自分に良い意味での外の刺激を齎してくれた人物だ。紛れも無く自分の中で特別・・という枠に括られるべき者達であった。
 その二人が直面している苦境に対し、自分は何もする事ができない。たとえ当人達がそれを苦難と考えてなくとも、原因たる問題を解決する為に何かしてあげたいと思うのが人情というものだ。だが現実は、カルロス達の事情を聞いたところで結局自分には手を出す事ができない、という自明な結末へ落ち着くだけで、やりきれなさに眼前の事への意識を霧散させられている始末だった。
 完結した物事の結果を何時までも引き摺るのは思慮深さにまつわる弊害の一つであり、それが良くない兆候であると解ってはいたものの、気持ちの整理が未だつけられそうにないとジーニアスは深々と溜息を吐いた。
「らしくないな。どうかしたのか?」
「え?」
 それは唐突に紡がれた言葉だった。
 驚いて背後を振り向いてみると、馬の様子を見に行っていたヴェインが戻り荷台を見上げていた。その惨状を目の当たりにしても眉一つ動かさず、平静を保ったままだ。
「さっきから浮かない顔をしていると思っていたが……昨日は、カルロス公に予定通り会えたんだろう?」
「え、ああ……うん。まあ、ね」
 抑揚無く頷いてみせると、ヴェインが不思議そうな表情を浮かべて問うてきた。
「何かあったのか? さっきから心ここに在らずといった風だぞ」
 無関心そうな割には良く見ている。いや、それとも自分がわかり易過ぎるのか。ジーニアスはそう思って問い返してみた。
「……そんなに、わかりやすいかな?」
「隠しているつもりなのか?」
「うぐっ」
 躊躇も遠慮もなく、ごく自然に指摘しヴェインは尚も淡々と連ねる。
「この惨状を前にすれば、お前がいつもの調子ではないの誰にだって一目瞭然だ」
「は、はは……」
 乾いた笑みを貼り付けて、ジーニアスはがっくりと肩を落とした。
 冷静沈着で普段から殆ど感情を動かす事の無いヴェインは、周囲に冷めた印象を齎す。それを裏付けるように平時から無表情を貫いているのだが、それは甚だしい誤認だった。ヴェインという人間は常に冷静に周りを見るように意識的に努めているだけで、決して無感情などではない。笑うところでは笑い、怒るところではしっかり怒る。真っ当な感情を持ちながら単にその振れ幅が大きくなく、また表情にそれが顕れ難いだけなのだ。
 そんなヴェインだからこそ仲間の細かな変化に良く気がつき、それぞれの軌道修正を図る事ができる。それはジーニアスからすれば歴然とした大人の在り方で、密かに見習うべき姿だと思っていた。
 それ故にか、彼には自分の不調和など既に看破されていたのか、と色々な想いを込めてジーニアスは吐息を深める。観念したのか、訥々と昨日の夜に見知った事を語った。
 十余年振りに再会したカルロス達の身に降り掛かっていた現実は、途方も無い事だった。何も知らない人間にすれば荒唐無稽も良いところだが、カルロスという人間が嘘を吐くような人格ではない事を知っているジーニアスは決してそれを疑わなかった……流石に聞かされた当初は当惑したものだが。
 昨夜の内に詳しい話はしていなかったので、今は掻い摘んでその辺りの事をヴェインに伝える。眼を見開いて驚いた様子を浮かべたり、真剣な鋭い表情で頷いたりしていたが、やがて全てを聞き終えたヴェインは納得したように小さく嘆息した。
「きっと波乱万丈という言葉で片付けられない事も色々あったんだろうが……何にせよ、お二方は生きていた。それだけでも充分喜ぶべき事じゃないか?」
「え?」
 パチリとジーニアスは眼を瞬かせていると、ヴェインは軽やかに惨憺たる様の荷台に跳び乗っていた。ギシリと荷台が大きく揺れたが幸い荷物が崩れる事は無く。
 乱雑に積まれた木箱を一つジーニアスに手渡し、整頓を始める。
「こんな時代だ。自分の身にも言える事だが、どこで何があるかわかったものではない。そんな中、生きて再会する事ができた……カルロス公の身上を慮れば、それだけでも重畳というものだ」
 十年前のテドン決戦での死傷者は、千を越るとも言われている。殆ど全滅という惨状の中でカルロスとサブリナが生還したのは奇跡としか言い様が無いだろう。ましてやその後の経緯を思うのであれば、ヴェインの言う通りだった。
 目の醒めるような思いだったが、同時にそれをヴェインに言わせてしまった事への悔悟が浮かんで来た。少し前に訪れたロマリア王国カザーブ村にて、彼が幼馴染の墓前に立つ所をリースと目撃してしまったのは記憶に新しい。その時のヴェインとクリューヌの姿を思うのならば、自分の悩みは甚だ贅沢というものなのかもしれない。
「……ごめん」
 抱えた木箱に視線を落として消沈した声を出すジーニアスを、ヴェインは怪訝に見下ろした。
「どうした急に?」
「いや……ちょっと無神経だったかなって」
「……気にするな」
 悄然と頭を下げるジーニアス。それがもう会えない幼馴染のエリオットの事を暗に言っているのだと察し、ヴェインは緩やかに相好を崩した。その事を意識して言葉を放った訳ではないのだが、自分では既に受け入れた事をそう慮ってくれたのは素直に嬉しく感じた。
 沈黙が落ちた周囲の空気に、遠くから漣の音と海鳥の声が混ざっていた。圧迫とは違う空気の重さを感じたがそれはどこか悲嘆に似た気配を醸しており、今それに浸るつもりは無かったのでヴェインは傍らに佇む自分達の船を見上げた。
「他人の傷みに対して真正面から向き合い、真剣に悩んでやれるのはお前の美徳だ。他人事だ、と気にしないで済ませばそれはとても楽な事だからな」
「……そう、なのかな?」
 仮に道端ですれ違いに全く見知らぬ誰かが急に蹲ったとしたら、自分は真っ先に駆け寄り声を掛けてみるだろう。それが体調の悪化に起因するものならば医者を求めて奔走さえ厭わない。仮に空腹によるものならば自分の道具袋を漁って見て、無ければ買いに行くだろう。
 こんな自分の性質をノヴァやゼノスは、自分から苦労を背負い込む馬鹿正直なお人好し、と良く評していた。客観的に考えれば、それは確かに的を射た表現だ。しかしどんな事があるにせよ、結論としては至極単純。単によそよそしく素通りする事が、見て見ぬ振りをする事ができないだけなのだ。損得を計る打算の前に、まず身体が動いてしまう。それがジーニアスがジーニアスたる所以だ。
 自分にとっての普通を美徳と評されるのは、いまいちピンとこなかった。
 ジーニアスもヴェインに倣って船を見上げる。
 未だに濃い靄に霞んで明瞭には見えないが、高く聳える帆檣はんしょうに掛けられている帆は今は収められていて、逆光の中で無骨に立つその様は宛ら磔刑に用いる十字架のように見えた。もっとも十字架に手を添えて祈る習慣はジーニアスには無かったので、そこに救いを見出す事はなかったが。ただ、孤高に立つ姿には言い知れぬ侘しさが漂っているような気がしてならなかった。
「お前一人で何をしていいのかわからないのなら、他の二人も交えて皆で考えればいい……その為の仲間だろう?」
 澱みなく紡がれる言の葉。その韻は静かに、だが確かな存在感と重みを持って紡がれていた。
「!?」
「旧い知人の事だから頑なになる気持ちはわかるが、それこそリース風に言えば水臭いという奴だ」
 至極当然のようにヴェインは締めくくる。その声に一切の躊躇いは無い。その潔さに、はっとしてジーニアスは車上を仰ぐ。
 ヴェインに言われた通り、カルロスやサブリナは昔からの恩人だったので、その異変に対して自分が何かしなくては、と少し意固地になっていた。それは自分の普通を徹す為のエゴに近い感情でもある。
 エゴを徹せた時、心は満足という感情に満たされる。だが逆に徹せなかった時、心に生じる翳りは行き場を無くして鬱積する。それを首尾良く消化できるのならばまだ良いが、消化不良から顕れる心の歪みは感情という波となって大きく意識を動かし、それはやがて内側から外へと波及して現実を揺さぶるのだ。ジーニアスの不調は正にそれを根源としていた。
「そう、か……そうだよな」
 一人で駄目ならば二人、三人或いは四人。仲間とは互いを助け合い、補い合う明瞭な信頼で結ばれし環だ。そんな繋がりを信じ、重んじてきたからこそ一人で抱え込むよりも打ち明けて皆で悩めば良かったのだ。
 胸の奥に疼いていた澱みなど、至極単純な事で払拭できた。わかりきっていた、そんな自身の基盤さえ見失っていた事にジーニアスは己の視野の狭さを恥じる。そして、ありのままの本心で目を覚まさせてくれたヴェインに深く感謝を覚えるのだった。








 積荷の整頓を終えて、二人は雄大な帆船を見上げていた。未だ周囲に漂う靄は消えることは無かったが、それでもその雄姿はしっかりと見て取れる。
「僕達の船は“海皇三叉鎗”製だけど、診てくれる造船所はあるんだろうか?」
「…………」
 やはりその不安は拭えない。どう取り繕おうが自分達はこの地にとって異端である事に変わりは無いのだ。
 それがわかっているだけに、ヴェインは口を閉ざしたままだった。彼は浅はかな気休めは決して言わない。この場合、行ってみなければ解らないというのが無言の真意なのだろう。
「ウィルは港湾地帯の東地区を尋ねるって言っていたけど、どうなんだろう?」
「あいつだって全く根拠が無いと言う訳では無いさ」
 先程ジーニアスが、ウィルがどうしてポルトガの事情に精通しているのかヴェインに何気なく聞いてみたところ、エジンベア出身だという答えが返ってきて随分驚いたものだ。
 昨日、彼と話した時は随分とエジンベアに対して批判的な手厳しい意見を口にしていたものだから、てっきり国同士の交流が芳しくない地方の出自だと思っていた。
(寧ろ、出身国だからこそ厭うのかな)
 そう思うと多少なりとも共感を覚える。ジーニアスとて、今のサマンオサ帝国は厭う…いや、憎むべき対象でしかないのだ。もっとも、その対象は帝国に組する全ての人間……と言う訳では無かったが。
「何にせよ……百聞は一見に如かず、か」
「んー、まあ多分問題ないと思うわよ」
 ジーニアスは自らに言い聞かせるように呟く。しかしそれよりも早く明瞭に、音として意義を持った解が全く別の方向から耳に飛び込んで来た。
東地区あっちの人ってどちらかと言えば職人気質の改造狂ばかり集まっているからね。普段から色気の無い軍艦ばかり弄くっているものだから、ポルトガ製以外の船を見たらこぞって皆、興奮のあまり狂喜乱舞しちゃうと思うよ」
「へ、へぇ……そうなんだ」
「……おい」
 明るむ空の眩さに目を細めながらも、納得に頷くジーニアスに向けてヴェインが困ったような韻を発していた。
「でも素敵な船よねぇ。ポルトガ船には無い力強さを感じるわ……私も乗ってみたいなぁ」
「うーん……乗る分には問題ない、かな? ただ動かすとなるとそれなりに制限があるけど」
「……」
「それもそうよねぇ。こんな時間じゃ湾内ぐらいしか動かせないもんね。しかも、下手に目立てば不審船って事で警備兵に砲撃されちゃうし」
「ははは、それは勘弁してほしいな」
「…………」
 湾内に限り、係留を解いて移動するのは自由とされている。もっともその自由に胡坐を掻いて、他の船舶や施設を破壊でもすれば厳しい処罰の対象になる。勿論そのまま湾外へと脱出しようとするのであれば、軍艦や埠頭に備えられている大砲で狙い撃ちにされて海の藻屑になるのは必至だ。
 何はともあれ、まだ本格的に港が稼動していない今の時間帯ならば湾内を動かす分には問題はないだろう。操船に関しても、容易に船体を制御できるように設計されている為か動かし方はパーティ全員が知っている事であり、船の特性を遺憾なく発揮する為の操舵技術に一番センスが秘められていたのは意外な事にリースだったりするのだ。
 それはまあ余談だが、今はそんな背景を気にするよりもしなければならない事がヴェインにはあった。
「おい、ジーニアス」
「ん?」
「お前、さっきから――」
「よし! じゃあ、お姉さんが腕の良い技師を紹介しちゃうわ! だからそこまでこの船で行きましょう!!」
「ありがとうござ…い、ま……ってえええ!?」
 お姉さん、という単語を耳にして漸くジーニアスは、今の今までヴェインではなく、誰とも知れぬ第三者と言葉を交わしていた事に気が付き、思わず飛び退く。
 その様子を間近で見ていたヴェインは深々と嘆息するしかない。きっとまだ先程の意識のしこりが残っているのだろうと判断されても、最早ジーニアスに言い逃れはできなかった。
 瞠目する碧空の前にはすっぽりと全身を薄褐色の外套で覆った人物が立っていた。声から女性であるのは直ぐに判断できたが、表情を完全に隠し切っている姿は不審者でしかない。まだ早朝の周囲に人影は疎らで、充満した靄によって視界が程好く遮られていたので誰一人としてその人物に異様さを感じてはいないのだろう。
「ど、どちら様ですか?」
「何で弱気なんだ?」
 完全に気後れしてしまったジーニアス。それを横目に呆れたように呟くヴェインはやはり冷静だった。
「酷いなぁ。昨日の夜、人目を忍んで会ったばかりじゃない……忘れちゃっ、た?」
「へ?」
 上目遣いに覗き込む姿勢で、正体不明の女が妙に声調をか細くして発した言にジーニアスは情けない声を零す。
 韻を潤ませて艶っぽく紡がれたのは、何というか色々と誤解を招きかねない微妙な発言だ。この手の艶かしい話題に興味津々な年頃のリースがこの場にいれば間違いなく喰らい付いたであろうが、いない事をジーニアスは心底安堵する。そもそも実際に昨日ポルトガに着いたばかりの自分には何の事か全く身に覚えが無いので眼を白黒させるだけ。隣に立つヴェインからの視線が痛く感じられたのはきっと気が動転している所為だろう。
 額に冷や汗を流してすっかり狼狽うろたえてしまったジーニアスを見て、その様子にからからと笑い声を上げた人影はフードを少し持ち上げて見せた。すると内側から緩やかに波打つ亜麻色の髪が零れ、女性の表情が露になる。すらりと整った鼻梁に意思の強そうな柳眉、そして豊かな感情を秘めた鳶色の双眸。美人と形容されるに足る女性は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「私よ、私。覚えてないかなー、ジーニアスくん?」
「さ、サブリナさん!? ……お、お久しぶりですっ!」
 ジーニアスは呆然としていたが、やがてはっとして背筋を伸ばし、深々と頭を下げる。
「やあねえ、そんなに畏まっちゃって……そんな事より、大声出すの禁止ね」
 サブリナと呼ばれた女性はにっこりと笑みを崩さぬまま、人差し指でジーニアスの額を軽く弾いた。それは暢達とした仕草であったものの、その実、有無を言わせない妙な迫力にジーニアスはコクコクと頷くだけだった。
 確かに、追放された元王弟妃で農奴であるサブリナがここに姿を現すのは、色々と面倒を招きかねない事であり、不用意なジーニアスの発言は責められて然るべきだろう。もっとも、サブリナがこんな所に現れるなど予想できるものでもないので、反論の余地は幾らかあったが。
 弾かれた部位を擦っていたジーニアスは声を萎めるように口元に手を沿え、サブリナに問うた。
「……こんな所に顔を出して、大丈夫なんですか?」
「んー、まあ大丈夫でしょ。現に誰も気付いていないし」
「そりゃまあ、これだけ靄に覆われてれば誰が誰かだなんて判らないと思いますが……」
「バレた時の事は、バレた時に考えれば良いじゃない!」
 サブリナはあっけらかんと、そして実に頼もしそうに笑った。








 サブリナ=レインジェイルは元々ポルトガに居を据える大貴族ギリアム家の令嬢で、そのギリアム家は遠きアッサラーム商会ギルドを動かす四大商家の一翼であった。つまるところ王弟カルロスは王族でありながら商家の娘を選んだと言う事になり、貴族の常識の中では異端とされていた。もっとも、ギリアム家自体がポルトガでも指折りの大貴族でもあるから、婚姻自体にさほど障害があった訳ではなく、単に風習を重んじる旧き思考からの風当たりが強かったという程度だが。
 そして長女であるサブリナには家督を継承する気は無く、半ば逆勘当のまま家を飛び出して宮廷騎士団に入隊し、自らの腕だけでポルトガ騎士団の俊英が揃う王室近衛隊インペリアルガードに抜擢されるまでに到った天賦の剣士だった。更にその果てに王太子妃という地位まで獲得したのだから、彼女の自立心や向上心の高さは正にポルトガの気風そのもので、あらゆる意味でもたくましい女性だと言えるだろう。
 家柄には拘らず、何事にも明朗快活に接する性分だからこそ彼女は人々には慕われていた。例えそれが家出同然に飛び出したとあっても、実家が営む商会の人間にも好かれていたのだ。実際彼女を邪険にする者がいるとすれば、それは彼女の実父と実妹くらいなものだった。
 どんな逆境でも絶望せず、不遇に陥ったところで笑って跳ね飛ばす豪胆な気概の彼女は、例え現在の身上であろうとも自分の歩む姿勢を変える事は無い。そしてそんな彼女とカルロスの紹介でジーニアス達は今、自分達の船を修繕してくれる技師に会う為に湾内を移動していた。
 この話が決まったのは殆どその場の勢いであり、早朝から地道に荷物を移した荷車を馬ごと船上に乗せるという所業までやらかしてそのまま出発したものだから、この場にいないウィルやリースは未だに夢の中。些か強引で急展開過ぎる推移にジーニアスはおろかヴェインですら流されるままだった。

 よほど異国の船が珍しかったのか、サブリナは船内を子供のように駆け回っていた。目に付いた扉を次々に開け放っては中を覗き込み、何かの納得に頷く事もしばしば。流石に主無き部屋を勝手に物色させるわけにも行かず、箪笥や樽、壺の中身まで調べようとする彼女をジーニアスは全力で止めていたが。
 サブリナを宥めつつ、見物を終えて甲板に出る。サブリナが手近な木箱の上に腰を落ち着けたところでジーニアスは開口する。
「何から何まで、本当にすいません」
「ん、気にしなくていいよー。私もカルロスもしたい事をしているだけだから」
 二人が紹介してくれるのは、彼女が懇意にしている技師が運営するギリアム商会傘下の造船所である。しかしその造船所は職人気質の強すぎる人材ばかりが揃えられており、商会と繋がりがある造船所の中では異端視され不遇の憂き地位に甘んじていた。だがそんな毛色の違う空気がサブリナと同調した事から双方の接点が生まれ、現在のサブリナの身上でさえも気にする事の無い堅強な信頼の絆が結ばれたのだ。
 そんな経緯もありその造船所は、何であろうとも有事の際はサブリナの方を優先する。しかもそこに勤める技師達の腕前は、割と型破りで斬新な発想をするサブリナの要求に十二分に応えられるだけの技術があるのだから、ジーニアスとしてはこれ以上の好条件は無かっただろう。
 思わぬところで、難航するかと想定していた課題の一つが解決しそうだった。それを齎してくれたサブリナ達の厚意には素直に感謝の念が尽きる事はない。
「それでも、お礼は言わせて下さい」
 改めて深々と頭を下げるジーニアスに、サブリナは困ったように鼻の頭を指先で掻いた。
「……ほんと、君は真面目だねぇ。そういうところはサイモン様にそっくり」
「はぁ。そうでしょうか?」
 生真面目。質実剛健。品行方正。文武両道……これらは世間が父に与えた評価の文句だ。それらと同義の言葉は古くから父を知る者達に言われてきた事だったが、その何れかを少しでも自分が引継いでいるかどうかは甚だ疑問で判然としなかった。
 そんなジーニアスの内心を他所に、呆れながらも笑みを崩さないサブリナの姿からはどこか昔の事を懐かしむ色彩が滲み出ていた。
「……そういえばサブリナさんって、猫の時の記憶ってあるんですか?」
 ふと、ジーニアスは何と無しに思った事を口にしてみる。本来ならば些か直接的な事を聞くのは失礼に当たるのかもしれないが、どうにも昨日訪れた時の様子が克明に伝わっているのをサブリナの言動からひしひしと感じていた。確かにあの時、あの場所でカルロスにサブリナも紹介されたが、当の本人は猫の姿をしていた筈だ。
 そんなジーニアスのささやかな疑問にも特に気分を害した様子を見せず、サブリナはパチリと片目を瞑って見せる。
「勿論よー。人の言葉も猫の言葉も理解できるし、お茶だって飲める。鍵盤楽器だって弾けちゃうわ……まあ言葉が話せないから意思疎通が上手くいかなかったり、手で物を持てないから食事の作法マナーが悪かったり、二足歩行ができないって事が不便といえば不便よねぇ。流石に十年も猫やってれば慣れたけど」
「……すごく、現状を満喫しているみたいに聞こえるんですが」
「まあね。手の届かない事に対して私達が何をしようが、結局はなるようにしかならないんだし。だったら今を楽しまなきゃ損でしょ? せっかく生きているんだから……悲観に浸って立ち止まる位なら、少しでも足場を良くする為にせっせと動き回るのが私の持論なの」
「は、はあ……」
 それは何処までも前向きな姿勢だった。好ましくある考え方だが、それをそのまま受け入れるにはサブリナ達の現状は余りにも苛烈すぎる。そう思うからこそジーニアスは言葉を継げず、曖昧に相槌を打つだけ。
 そんな心の内を読んだかのように、サブリナはおどけるように小さく肩を竦めて見せた。
「カルロスは知っての通り堅物だし、真面目過ぎるのよねぇ。でもまあその堅さも、馬になるようになってからは大分砕けてきたんだけど。そう考えると、今の生活って悪い事ばかりじゃないのよ」
「……そうなんですか?」
「ええ。王籍剥奪もそう……人々を上から眺めるんじゃなくて、地に足を着いて世界を見上げてみると違った景色に見えるって地味に感動してたわ」
 ここまで平然としていると、昨晩自分が聞いた事はきっと何かの間違えだったのではないかと思えてしまう。もしかするとカルロスは自分に冗談を言ったのではないかとの考えも浮かんでくるが、実際にはそれこそ思い違いだ。 
 何にしても、サブリナには自分の想像していた悲壮さは微塵も感じられなかった。
「現状をしっかりと受け止められるなんて……凄いですね」
「そりゃあはじめは苦労のしっぱなしだったけどね。言葉を聞く分には問題なかったんだけど、返事が出来なくて……意思の疎通なんて今でも文通なんだよ」
 言葉とは裏腹に、何て事の無いように語るサブリナ。
 今まで自分を取り巻く当たり前の環境から突然その身一つで放逐される。大抵の者は途方に暮れるだろう。ましてやより甘い汁を啜れる上流階級の者ならば、その喪失感は想像を絶するというものだ。それでも自分を見失わず、しっかりと前に進んでいけるのは、二人が心身共に強い人間である証明だった。
 万感の思いで吐露するジーニアスに、先程とは異なる人の悪い笑みをサブリナは突然浮かべる。
「そうだ! ジーニアスくんも動物の生活を体験してみる? 結構楽しいよ!!」
「慎んでお断りします」
 名案だと言わんばかりに両手を軽やかに叩き、花が咲いたような笑顔で提案するサブリナに対しジーニアスは脊髄反射的に即答した。割と優柔不断のきらいがある彼にしては珍しい位に鋭敏な反応だった。
「あらぁ、つまらないわね」
「いえ……そもそも、そう簡単になれるものでもないでしょう」
 子供のように頬を膨らませるサブリナに、ジーニアスは内心で思わず頭を抱えた。彼女の提案は言うに事欠いてあまりにも冗談では済まされない事だったからだ。あまつさえ、その当人からの言となればジーニアスにはどう返して良いのか残念ながら思いつかない。そもそもサブリナがこういう女性だったかと先程から思い返してはいたものの、十数年前の記憶は疎らで正確には思い出す事は叶わず、ただ底抜けに明るい人だった、という印象だけは朧ながら甦ってきていた。
「そんな事無いわよ。カルロスがサマンオサに留学していた時、私も良くあなたの家にお邪魔させてもらったけど、サラさんと『変化の杖』とかモシャスとかで色々遊んだのは懐かしい記憶だわ」
「……は?」
 何気ないサブリナの発言に、ジーニアスが額を押さえたままの格好で硬直した。一瞬、何か聞き捨てなら無い言葉を聞いた気がするのだが、如何せん脳がそれ以上理解するのを拒んだ為に思考は停止する。
「そうそう。サラさんってば、お昼寝しているジーニアスくんやジェシカちゃんにこっそり変化魔法を掛けて、子犬や子猫に変えてたりして可愛がっていたわねぇ……ちっちゃな身体を丸くさせて身を寄せ合って眠る姿なんてもう可愛かったなぁ」
「……か、母さん。何、て事を」
 恍惚とその光景を思い浮かべるサブリナを他所に、ジーニアスの全身には厭な汗が流れていた。戦慄の為か唇や指先が思わずガタガタと震え、表情は思いっきり引き攣ったままだ。首筋が妙に寒々しい風に曝されているような気がした。
 驚愕するジーニアスに、サブリナの回想はまだ終わらない。
「そういえば、その時丁度訪問されたスフィーダ皇女なんて、ジーニアスくんが子犬になったって聞いて顔を輝かせて喜んでいたわねぇ。滞在中ずっと君を抱えたまま屋敷の中を走り回っていたわよ……あ、猫になっていたジェシカちゃんをこっそり踏んだり蹴ったりしていたわ」
「……それで暫く犬扱いだったのか」
 幼少の頃の記憶にひっかかっていた疑問に対し、まさかこんな所で解を得ようとは誰が想像できようか。
 スフィーダ皇女とはサマンオサ帝国の数人いる皇子皇女の一人で、当時四大公爵の嫡男であったジーニアスとは幼少より交流のあった、所謂幼馴染と呼べる間柄であった。今でこそその立場に対しての畏敬を理解できるが、幼少期はまだ世間というものを認識していなかったとはいえ、同い年の女の子に事あるごとにやたらと犬や猫にそうするように頭を撫で回されたのは苦い記憶ではある。しかも相手に悪気が無かったのが余計に性質が悪い。
 勝気でわがままで何処までも自分を引っ張りまわした幼馴染の顔を思い出して、ジーニアスは意気消沈した。
「……そもそも、何で起きなかったんだよ僕」
「そりゃあ、ラリホー掛けられてたし。寝付かせるには便利だって事で、サラさん良く使っていたわよ」
「何て事してくれたんだよ母さんっ!!」
 心の底からジーニアスは叫んだ。
 強制催眠魔法ラリホーとは、対象に意図的な意識障害を起こし、擬似的な睡眠状態へ落とし込む魔法である。苦い記憶の中の当時は、今から凡そ十三年であるから自分は六歳の年の頃であろう。ましてや妹は五つにも満ちていない。そんな幼少期にそんな魔法を頻繁に使えば、その先どんな障害が残るかわかったものではない。まあ今は五体満足に過ごせている訳だから問題は無かったのだと言えるものの、それは結果論でありジーニアスとしては納得する訳にはいかなかった。
 耳の奥で、盗賊団“流星”団員を新薬の実験台にする無邪気な母の高笑いが聞こえてくるようだった。
「楽しい時間だったよねぇ」
「……そうですね」
「でも戻らない」
「……はい」
 色々と真実を聞かされた今。聞かなかった方が思い出は綺麗なままだったと声を大にして言いたかったが、それは呑み込む。しみじみと語るサブリナの声調が潤んだようにしっとりと聞こえ、ジーニアスとしても神妙に頷くしかなかったのである。
 だが、言っている事は確かにその通りだとも思う。一度進んだ時計の針を戻す事は誰にも出来ないのだ。だからこそ生きている一瞬一瞬は尊いもので、大切に刻んでいかなければならない。その中で後悔する事も、迷う事もあるが、それすらも人生という総体的観点から見れば大きな財産となる。
 不意に旅立ち前に母に言われた言葉が脳裏を過ぎった。その時は少し大袈裟だなと思っていたが、こうして過去を共有した旧知の人間と会話していると否応無く実感が沸いてくる。
「どんなに願っていたって、求めていたって過去に帰る事はできないんだ。だからこそ私達は、一歩一歩今を進んでいくしかない。自分の心のまま、正しいと思える方角へ向かって、ね」
「……そうですね」
 遠く漣のようにしっとりと届くその言葉に、ジーニアスは感慨深く頷いていた。
 張り詰めた様子で水平線を眺めるその横顔をチラリと捉えていたサブリナは、でも、と続ける。
「頑な過ぎるのも問題なのよね」
「え?」
 唐突なそれにジーニアスは目を瞬かせる。驚いて振り向くと、サブリナは船縁に背を預けて雄大に広がる空と風を眺めていた。
「ただ闇雲に全力で走り続けたって、それが本当に前へ進んでいるのかなんてわからない。現実なんて目に見えない波が絶えず押し寄せてくるようなものだから、気付かない内に全く別の方向に向かわされているかもしれない」
「……」
 ジーニアスもつられて空を見上げると、とっぷりと浮かんだ白雲が風に吹かれて悠々と、だが行く宛ての無い路を彷徨う寂しさに酷く孤独に見えた。
「自分の歩いている路に確信を持っている人って、本当に一握りしかいないの。多くの人は無意識に不安を抱いていて、そんな暗澹からの揺らぎを見ないようにする事で拓かれた路を錯視する」
 潮風に梳かれて顔に掛かってきた前髪を掻き上げて、サブリナは港湾地帯の端に建設されている高く細長い構造物に視線を動かした。澄んだ青の中で浮き彫りになる白は、世界から隔絶されている印象をまざまざと齎す。
「船舶が航路を往く時、陸との位置関係を計る為に灯台という目印が必要でしょ? 同じように人には進むべき路を示す道標…理想という志が要るの。君には、そんな燈はある?」
「はい。僕は父のような在り方を目指しています」
 囁くようなサブリナの問いに、ジーニアスは間を置かず決然と返す。碧空の双眸には強い光が宿っていた。
 それは刹那の輝きの如く瞳の奥へと姿を隠す。だがそれを見逃さず目を細めて捉えていたサブリナは感情を載せない声で続けた。
「サイモン様のように、か。成程……で、どうすればなれる?」
「それは……」
 意味深に、間髪入れずに返ってきた鋭い問にジーニアスは思わず視線を逸らし、口を噤んだ。
 あまりにも直接的な、それ故に深遠な問いへの解など、答えられる筈も無い。それは今、闇の中を手探りで見つけようとしている事であり、簡単に導けて良いものでも無いのだ。
 優麗に穏やかに流れる波の音。耳に飛び込んでくる音色に意識を蕩揺わせながら、ジーニアスは自らを省みる。
 ジーニアスにとってのは父のような“勇者”になる事、或いはそれを目指す過程そのものだ。それは単純に、偉大な父に憧れる無邪気な子供の姿という微笑ましい一枚絵で飾られるような事で、事実昔馴染みならば全員が知っている事だった。
 しかしそれは幼き日の無垢なる幻想である事を、ジーニアスは年月を重ね、世界を知る度に理解していった。父の背を追い、いつか父と同じように“勇者”と呼ばれる“護る者”になりたいと言う気持ち…“勇者”を目指すという志が、その本質としては世界にその名実を認めさせんとする功名心として映る現実。望まぬまま祀り上げられたのではなく、自分の意志としてその地平に向かうのであれば本義としてその希求は野心に他ならない事を。
 無論ジーニアス自身に名声を求めて躍起になっているつもりは無い。目指している“勇者”像は嘗ての父がそうであったように、何者にも決して屈せず、弱きを助け強きを挫くその姿勢。自らを賭してでも誰かを守らんとする清廉な精神、魂の在り方だと捉えている。そして自らもかく在りたいと願い、近付く為に日々努力を重ねているつもりだった。
 裡の深意はともあれ周囲に対して“勇者”になりたい、という類の大言を吐くのであれば、それがどんな事を意味しているのか本質を自覚しておく必要がある。そんな意識の下に、自分の心のままに選んだ路を行くのであれば、心が暴走しないように自らへの戒めを常に厳にしなければならない……そう決めていたのだ。特に、自分の理想にある“勇者”の形、“護る者”とは真逆の路を往く“斃す者”である少年と出会って、その想いはより一層強化されたと言ってもいい。
 だがやはりとも言うべきか。自分の中の欠片を幾ら繋いだところで、サブリナの深慮遠謀な問いに対しての答えなど導ける筈も無かった。
 返答に窮して顔を顰めるジーニアスを注視しながら、やがてサブリナは一つ頷く。それはどうにもジーニアスが期待通りの反応を示した事への満足を醸す様子でさえあった。
「人間ってどう足掻いても迷う生き物だから、ね。どんなに一心不乱に前を見続けていたしても、周囲からの予想もしない刺激によって簡単にブレてしまう。……それを少しでも抑える為に重要となるのは、誰かを、そして自分自身を信じれる力。掲げたりそうが折れないように支え続ける事よ」
「信じる……力」
 半ば呆然と鸚鵡返すジーニアスに、サブリナは頷く。
「それを持つ事ができればきっと君も気付く……目に映る世界は自分の想い一つでどんな色にも変わるって事を」
 現状を良く捉えるか、悪く捉えるか。それは意識の持ちようでどちらにも傾く。それこそが、二人がこれ程までに激動する現実を受け容れる為に導き出した教訓なのだろうか。
「……そうやって、あなた達は現実を受け容れる事ができた」
 ゆっくりと流れる景色の中を一陣、強い風が甲板を撫でて再び空に帰っていった。この果ての無い大空の裡には、一体どれだけの相容れない風の波束が流れているのか想像に難い。だがそれでも天に広がる空はいつも変わらずに大らかで、どんな荒々しい風雨であろうともそのままに受け容れるだけの器を地に犇く者達に見せ付けていた。
 粗暴に煽られて乱れた髪を鬱陶しそうに押さえて、サブリナは連ねる。
「でも、頑なさも度が過ぎれば逆効果。研ぎ過ぎた刃が脆いように、ただ我武者羅に走り続けたって、いつか疲労に足が縺れて転ぶ時は必ず来るでしょ? 現実って奴は性悪だから、そんな時を見極めて死角を突いてくる。それに抗いきれず呑み込まれてしまわない為にも、仮にその時がいつ、どのような形で訪れるのだとしても、余裕を持って受け止めれるだけの寛容さを心身に持つ事は必要ね」
「心の余裕、ですか?」
「ええ。堅強にして柔軟な精神そのものとも言えるそれは、感情を宥め冷静さを育むわ。そしてその冷静さは感情と思考との織り合いを付け、適切な行動を導き出す。どれが欠けても駄目。三者三様のバランスを保つ事が出来るようになれば、君も一皮剥けるかもねー」
 言いながらサブリナは立ち上がり、両腕を空に投げ出して全身の筋肉を伸ばした。気持ち良さそうに全身で潮風を受け止めた後、ピシリと指先をジーニアスの眼前に突き付ける。
「だから、どんな事であろうとも思いつめて自分の心に溜め込むのだけは止めなさい」
「!!」
「それって総じて碌でもない事にしかならないし、その碌でもない事は結局自分自身に返ってきちゃうから……きっと、その整頓ができない人って転んだ時、中々一人で立ち上がる事って出来ないと思うな」
 そうはっきりと言われてしまい、ジーニアスは思わず固唾を呑んだ。
 確かについ先程まで、自分はカルロス達の呪いを何とかしたいという考えに埋没するあまり、今を疎かにしていた節がある。ヴェインに言われて脱却する事ができたから良かったものの、もしも独りであったならばそれは迷宮に飛び入ったように後々まで尾を引いていた事だろう。
 サブリナにはそんな事は当然のように看破されていたのかと思うと、ただ恥じ入るばかりだ。そもそも父と肩を並べて戦列に立った経験もあるサブリナからして見れば、自分など未熟者もいいところだろう。大言を吐くのは幼稚な虚勢も甚だしいのかもしれない。
 そう考えると引き下がる以外の選択は自分には無いのかもしれない。だがそれでも。自分自身の路を歩むと決めている今、これまでの道程を省みて返すべき答えを既に導いたジーニアスは表情を引き締める。
「サブリナさん。僕は一人では有りません。路を踏み外しそうになった時、躓いて立ち上がれなくなった時。迷って抜け出せなくなった時、叱咤し、手を差し伸べてくれる大切な仲間がいます。それに甘えるのは、別に恥ずかしい事じゃないって事をついさっき改めて学んだばかりですし……」
 言いながらジーニアスは操舵室の方角を見やる。今その中で船を操っているヴェインに視線を移したのだ。
 決意の毅さを物語る真摯な表情でジーニアスはサブリナを見据える。
「僕は……一人じゃない。そう信じています」
 すると堅い表情をしていたサブリナは破顔し、ジーニアスの頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「……やれやれ、カルロスの心配も杞憂だったかな?」
「か、カルロスさんが?」
「うん、昨日ちょっと気になったからって、ね……私達の事情を聞いた時もそうだけど、潜在的にどうにも力み過ぎて肩肘張っているように見えたから。ま、君の様子なら大丈夫かな?」
 両腕を組んでサブリナはジーニアスの姿を眺める。
「仲間を信じるという事は、前提として仲間を受け容れれるだけの心の余裕があって初めて輝くもの。一方的に信じすぎるのは単なる依存、頑なに認識から外すのは孤高。そのどちらも行く末は惨憺たるものだから、周りの足並みを量れるだけの余裕を忘れないでね」
「……はい。肝に銘じておきます」
「素直でよろしい」
 ジーニアスは本心から頷く。少なくともこの先、自らの想いのまま暴走するような事への衝立にはなったと思うからだ。
 そんな事を思っていると、サブリナは感嘆を零しながらジーニアスを遠い眼差しで見つめていた。それはきっと自分を超えて、戻らない時間の彼方を垣間見ているのだろう。
「でも“勇者”かぁ……ま、男の子なんだから、父親の背中を追おうとするのは当たり前。……高くて遠すぎる気もするけどねぇ」
「それでこそ追い駆けかけ甲斐があるというものですよ」
「流石は男の子ねっ!」
 澱みなく朗らかに返したジーニアスに、サブリナは満面の笑みを浮かべて勢い良くその背中を何度も叩いた。小気味良い乾いた音が甲板上に響いたかと思うと、ジーニアスは途端に何度も咳き込む。余程力一杯叩かれたのか、思わず涙目になってしまった。
「良し! じゃあ、後で船を預けたらカルロスの馬面でも拝みに行こうよっ!!」
「はい……って、え。ええっ!?」
 サブリナの勢いにつられて返事をしてしまったが、その提案を反芻して脱力のあまり膝が崩れ落ちそうになるのをジーニアスは全力で耐えた。これには我ながら賞賛に値すると密かに自分を褒めてやりたかったが、そんな思考もやはりどこかたどたどしい。
 真面目な話をしているかと思ったら、次の瞬間にはこれである。先程から薄々感付いていたが、サブリナの超が付くマイペース振りはどこか母に通じる所があり、まさか母から伝染しているんじゃないかと軽く危惧を覚えるばかりだ。
「……一応聞いておきますけど、カルロスさんもやっぱり記憶が?」
「ばっちり残ってるわ! 牧草はやっぱり不味いってこの前愚痴っていたわねー。牧草の種類によっての味の差について評論を色々と手紙に書き殴っていたけど、理解できないから破り捨てたっけ」
「カルロスさん……」
 自信満々に胸を反らして拳の親指を真っ直ぐに立てるサブリナの姿に、ジーニアスは遂に崩れ落ちる。幼き日に築いた誠実な人物像が既に木っ端微塵に粉砕されて、ジーニアスは本気で泣きたくなった。








 空の端から黄昏が徐々に侵食し、それが海面にも波及する夕刻。ポルトガ王宮では本日最後の謁見の儀が執り行われていた。
 王宮の謁見の間は大国であるロマリア、イシスに比べると内装や規模がどうしても見劣りしてしまうのは否めない。だがそれは城の大きさや構造そのものの問題であり、発端は城を建造した場所の地盤や地形にあった。また、ポルトガの統治機能…政府機関である港務局や検問所が入国者への徹底した審査、目的把握に充分過ぎる効を奏しているからであり、改めて国王自ら質す必要性は無いのだ。
 その為、謁見の間には玉座が広々とした空間にポツンと座しているだけで、部屋を飾る装飾品や調度品の類は一切無い。王がその手のものに興味を示さない事実は傍に置くとして、現実問題、潮風が常に吹き入るこの都市において貴金属で部屋を飾り立てるのは単に腐食を招く事でしかなく、貴金属の劣化は権威の腐敗を想起させるものとしてこの国では意図的に排されていたのだった。
 採光用の天窓すらない閉塞した空間の空気は、蜀台に灯された明かりだけで厳かに深々と仕立てられているだけだ。それは酷く息苦しく陰気な印象を受けるものだが、このような配置には来訪者の意識に心理的な重圧や緊張を与えるのに適している。この場における双方の立場を明確に知らしめる為、または謁見の時間を極力削ぐ為に施された見えざる意図でもあったのだ。
 この場で唯一、周囲が薄暗い故に輝きを増している金銀宝石が惜しみなく鏤められた豪奢な玉座に座すのは、このポルトガ広しと言えども一人しか存在していない。そして今、その座には小さな王冠を被り、重厚な王衣に身を包んだ恰幅の良い男が着いていた。その男こそ現ポルトガ国王、リカルド=オゼル=ガルディニア。
 齢五十を漸く越えたばかりの壮年の男は頬杖を着いて、気だるげに眼下に跪く謁見者の青年を睥睨していた。
 歓迎とは程遠い無関心がありありと載せられた視線の先。絨毯の上に恭しく膝を着く謁見者…まだ年若い青年は上品な黒の外套を身に纏っていて、その上に光の加減で金色にも見える薄茶の髪が鮮やかに垂れていた。青年の容貌は王と比べて随分と若いものの、この厳粛な場においての礼節は非の打ち所が無い。
「国王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく――」
「上辺の挨拶など良い」
 粛々と紡がれる青年の言葉を遮るように、温度の無い高圧的な物言いが謁見の間に響き渡った。だがそれは王自身のものではない。王は背凭れに身体を預けたまま、不機嫌そうに眼光を強めているだけだ。
 砂を擦り合せたかのように厳しく響く声は、王の右手側に立つ老年の男から発せられたものだった。
 老域に達しながらも曲がる事無く真っ直ぐに伸びる背。頬や眉間に幾重もの年月や経験を刻み、培った老獪さを鋭利な眼差しに載せた禿頭の老爺は傲然さを遠慮無く放っている。貴族社会の風習から王の右隣に立つ事実はこの男の地位が極めて高いものだ謳っていたが、事実彼はこの国の宰相位にあり実質的にポルトガの政務を動かす要だった。名をヘルマン=カルデモンド卿という。
 また王を挟んで反対側には、王や宰相と並べると一層際立つ若さの青年が不動のまま佇んでいた。慣習的に権謀術数渦巻く中でそこに立つのは年若さ故に不釣合いな筈であるものの、場に列する姿が板に着いているのは彼が有能の人物であると物語る。彼もまたこの国を廻す上で欠く事のできない歯車の一つである王直属の参謀官サイアス=カリエンテ卿だ。彼もやはり感情を載せず、淡々とした様子で場の推移を見つめていた。
「シルヴァンス殿。陛下は御多忙であらせられる。用件を速やかに言うがよろしい」
 跪いているシルヴァンスと呼ばれた青年に、宰相ヘルマンが冷然と言い下した。無駄話に付き合う気は無いと言外に言っているのだ。
 このポルトガにおいての謁見の儀で王自身が言葉を発する事は多くない。王自身が参席するのは務めであれ、言葉は殆ど宰相と謁見者の間で交わされるものであり、傍聴者に近い立ち位置にある。
 場の空気と重々しい声調からそれは抗い難い命令に近い響きであったが、そんな重圧などものともせずシルヴァンスは頭を垂れたまま口を開く。
「御意……此度、御前にまかりこしたのは、以前より打診していた件についての御回答を受領せんが為」
「……ふん、その事か」
 ここで初めてリカルドは言葉を発する。肘掛に身体を預けていたがそれを正し、泰然と背凭れに寄りかかった。
 未だ頭を上げる事を許されていないシルヴァンスは、衣擦り音から漸く王が耳を傾ける気になったのだと察し、臆する事無く続ける。
「聞けば、隣国エジンベアとの政治的緊張が高まっているご様子。このまま放置されてはやがて戦争に発展するのではと危惧さえある……魔物が徘徊する世において、人間同士で争おうなど実に悲しき事だと我が皇帝陛下は嘆いておりました。貴国とは過去はもとより、これからも未来永劫共に手を取り合う良い関係を築いておきたいと陛下はお考えなさっております」
「ほぅ……流石は賢帝。既にこちらの内情も耳にしておられたか」
「我が陛下の御炯眼に見通せぬ事象など存在しません」
 それは褒め言葉というよりは皮肉だろう。内情を知られているという事は、内部に間者スパイが入り込んでいる事なのだ。王の立場からすれば決して看過できない事ではあるが、サマンオサ帝国との国力の差を鑑みて、その勅使であるシルヴァンスを糾弾した所で意味は無い。代わりに右手に立つ宰相に何をやっているのだ、という叱責の意を込めた一瞥をくれて、再び眼下の青年に戻した。
「仮にエジンベアと戦が現実のものとなってしまった場合を想定し、帝国精鋭の一個師団を派遣する用意を整えております。無論、指揮権は陛下に献上するという事で……もっとも、英名を馳せている貴国の海軍を以ってすれば全てが杞憂に終わる事かとも存じますが」
「愚問よ。歴史の長さだけが取柄の愚者如き、我が“無敵艦隊”を以ってすれば蹴散らすなど造作も無い」
「頼もしきお言葉。“無敵艦隊”の常勝無敗の神話は陛下の御威光と共に我が方にも轟いております」
 その少々大袈裟な讃辞の言葉に気を良くしたのか、王はふふん、と鼻を鳴らす。
「いずれにせよ、貴国との関係はこちらとしても望むものである……サイアス、そちはどう思う?」
 宰相を超えて、王は身を乗り出して左手側に静謐に佇んだ赤毛の青年に意見を求める。王はこの若く有能な参謀をいたく気に入っていた。
「……全ては陛下の御心のままに」
「そうか! やはり、そなたもそう思うか!」
「……っ」
 サイアスの同意を得られた事に気分を昂揚させ、自らの判断に満足するように王は何度も頷いている。まるで親に褒められた子供のような姿であったが、そんな王の様子を目の当たりにしたヘルマンは、周囲…取り分け王に気取られぬようサイアスを睨めつけた。
 恫喝染みたそれを当のサイアスは表情を少しも動かす事無く受け流し、王に告げる。
「ただ、この場でのご裁可はどうか思い留まり下さい」
「何故だ?」
 その控え目な上申に王が問い返すよりも先にヘルマンが声を強張らせる。それはサイアスの意見に対する反意であるのは明らかだった。そして王自身も困惑を載せてサイアスを見上げている。
 王と宰相双方の視線を受けるも、参謀は敢然と連ねた。
「以前より提示されていた彼の国との二国間協定を妥結するとなりますと、現世界同盟からの脱退を意味します。そしてその行動は、同盟主であるアリアハンの対応が追い着かぬまでに迅速に行なう必要がございましょう。ですが議会に対しての根回し、及び国民への公布。兵達への緘口など、準備は進めていたとは言え足並みが未だ揃ってはおりません」
「む……」
「陛下の英断を以ってして、国として栄光への一大転機になる事は疑いようが無いでしょう。故に、どうか慎重なる行動を執らん事を具申致します」
 言ってサイアスは恭しく頭を垂れる。
 それはどこか白々しささえ醸していたが、王が無碍にする事は無いのを理解してヘルマンは内心で小さく舌打ちする。
 宰相よりも参謀を見ていた王は頷いた。
「そなたがそこまで言うのであれば……よし! シルヴァンスと申したか……聞いての通りだ。こちらの用意が整うまで、城下の大使館に留まるがいい」
「……仰せのままに」
 ゆっくりと顔を上げたシルヴァンスは壇上に立つ三者を見据え、品の良い笑みを貼り付けた。その瞳の奥に昏き光を煌々と滾らせて。








「……“無敵”だか何だか知らないが、自画自賛で驕り昂ぶっている奴の結末は、獅子身中の虫に内側から食い破られるってのが相場なんだがな。ま、それでこの国がどう傾こうがこちらの知った事ではないか」
 シルヴァンスは酷薄に吐き棄てながら軽やかに大通りを横切り、数多の船舶が係留している埠頭区画に歩みを進める。視界一面に広がる黄昏の海、波止場に停泊している異国情緒溢れる船の数々。壮麗な平伏模様であったが、この国を治めてきた者達は、足元に傅くその光景を見て自らの力が高きあるという事を幻視するのだろう。
 現状認識が疎かな、実に愚昧で滑稽甚だしい事だ、とシルヴァンスは冷笑を浮かべる。
「しかし、今更揉める事かね……随分前から打診していただろうに」
 謁見の時間を思い返してシルヴァンスは小さく語散る。
 半年以上も前より外交で進めてきた事への解を今更渋るのは、怠慢にしか見えない。しかも予め定めていた時期に従って訪れた使者を前にして二の足を踏むなど、常識では考えられない事だった。たとえ最終的な決定権を持つ王自身が政治に無関心とはいえ、だ。
(甚だ暢気な…………いや)
 嘲りが浮かんだものの、シルヴァンスは思い直す。
 周囲の、特に港に犇く軍艦の兵装の物々しさを監察すれば、只ならぬ緊張の気配はひしひしと伝わってくる。隣国エジンベアとの不和もあるのだろうが、王自身の余裕を鑑みるとそこにはその先の何かを見据えているように思えてならない。
(……合従連衡の意向は少なからず浸透している、か。あの参謀、わざとらしい一芝居をうって流れを断ったのか?)
 あの場で話が決着していれば、事態は川の流れの如くこちらの思うがままスムーズに運べた。だが実際は青年参謀の余計な緩衝を入れられてしまい、先送りになってしまった。
 手間を掛けさせてくれた参謀には憤りを覚えるも、だが局面は相変わらずこちらの望む方に傾いている。単に数歩だけ歩む速度が遅くなったという程度の誤差だとシルヴァンスは決する。
「しかし、どこの国にも不協和音ってのはあるのかね。こちらとしては御し易くて良い事だが……見苦しい事この上ない」
 このポルトガの場合、宰相ヘルマンと参謀サイアスの事を指しているのだろう。王自身はまるで気付いている様子は無かったが、ほぼ一方的に年老いた宰相が若き参謀に対して敵意を剥き出しにしている。恐らくはいずれ自らの地位に取って代わられる事を恐れての事だろう。
 それはこの上なく人間的な嫉妬であり、根の深さも当人以外には計り知れない。だが蚊帳の外であるシルヴァンスにとっては甚だどうでもいい事であり、その柳に風という滑稽な様を思い返して口腔から嘲笑を漏らす。
 眩い空と海を見据える細められた双眸には、血に飢えた猛禽の如く嗜虐的な輝きが宿った。
「世界を分つ種は既に幾つも蒔かれている。後は世界を揺らす事で生長に必要な因子を注ぎ込み、一斉萌芽の刻を待つだけ」
 全てが順調だった。全ての国も、人もこちらの深遠なる計画の下で予定調和に動いている。一度堰が外れた河川の洪水は、全てを押し流し尽くすまで止まる事はない。
 やがて導く変革の騒乱を想起して、シルヴァンスは翳のある皮肉気な笑みを刻んで平穏な海原を眺めていたが、ふと視界の中のある一点に視線を奪われた。
「ん?」
 そこには波止場の淵に立ち、熱心に船を見上げている少女の姿があった。
 潮風に靡く腰元まで伸びた薄桃色の髪、そしてあどけない少女が纏うには著しく違和感が映える漆黒の衣服。強い風が吹けば呆気なく掻き消えてしまいそうな儚さを醸した、紛れも無くシルヴァンスの連れの少女だ。
「イーファ。そんな所で何をやっているんだ?」
 近付きながら声を掛けると、イーファと呼ばれた少女は無感情にシルヴァンスの姿を一瞥した。だがその問いに答える事は無く、瞼を半ほど閉じた眠たげな印象を髣髴させる眸で虚空を見上げ、淡々と腕を伸ばす。
 虚ろな視線に示された先にあったのは係留されている一隻の船だった。
「シルヴァ……これ、なに?」
「ああ、船っていう乗り物ガラクタさ。水の上を動く為の原始的な移動手段…といっても、動力を蒸気機関でも魔導器でもなく風や人力に頼っている時点で時代遅れも甚だしい代物だが、それ故に扱い易い。こんなにあるのは、これだけが国の取り得だからな」
 辛辣にシルヴァンスが言葉を並べてみても、イーファはそれを理解しているのか定かではない表情を浮かべている。もっとも、少しも表情が動いていないので、どう感じているかはシルヴァンスでさえ判断できなかったが。
「ふね……のり、もの」
 疑問に思っていた事への解に繋がる固有名詞を、消え入りそうな微かな声で小さくイーファは復唱する。
「何だ、気になるのか?」
 先程よりも一層熱心に船体を見上げる少女の背に、シルヴァンスは何と無しに聞いてみる。イーファは相変わらず面を動かす事無く淡々と首肯した。
「……おおきい。おうちより、ひろい?」
「そうだな。船の種類や用途にもよるが」
「のり、たい」
「駄目だ」
「……けち」
「けちで結構。お前に下らない事を教えるな、とあいつに口酸っぱく言われてるんだよ」
 不服そうに色彩を亡くして見上げてくる少女の面影に、思わず穏やかに苦言を呈してきた翡翠の青年の言葉が甦ってシルヴァンスはつまらなさそうに顔を顰める。
「…………」
 眉一つ、瞼一つ動かさぬまま、ただ沈黙を守ってイーファはシルヴァンスを見上げ続ける。それは無垢なるが故の無言の重圧だったのだが、耐えかねたのかシルヴァンスは諦念に嘆息して肩を竦める。
「そう睨むなよ。機会があったら考えとく……が、期待はするなよ」
「……う、ん」
 イーファはやはり表情を変えず、小さく頷く。
 淡く囁く漣にさえ掻き消されてしまいそうな声は、夜が近付き粗暴さを増した潮風に攫われる。
 次の瞬間には、まるで最初から誰もいなかったかのように、二人の姿はその場から忽然と消え失せていた。
 夜の到来を知らせる冷たき潮騒と、それに煽られる帆の音だけが人影の無い埠頭を深々とざわめかせていた。




back  top  next