――――異伝二
      第二話 汀渚の都







―――海運国家ポルトガ。
 世界同盟共通年号、アリアハン統督暦九八年。現在より四百三十という年月を遡った当時、同盟内において最大の版図を有し盟主アリアハンの右手に座していたロマリア王国から、辺境の一都市に過ぎなかったポルトガ市が大航海時代開闢の恩恵で空前の発展を遂げ、限定的な自治権を得て一つの国として旗を揚げた。
 市国ポルトガ建国の背景には、首都であるロマリアから遠く離れ大陸西部においての政治機能の中枢として栄えていた事。海の玄関口としてエジンベア、サマンオサと独自に交易を行っていた事。そして古き慣習に囚われず、新しき風を受け入れるだけの寛容さを持っていた事が現在では要因とされている。
 そもそも海運国家ポルトガの前進、市国ポルトガの自治権を宗主国ロマリアより勝ち得た初代国王エルンスト=ガルディニアは、ロマリア海軍を指揮する将軍であった半面、果敢に外海を越えて近隣の都市村落を襲撃し、その勢力を広げていた海賊でもあった。だが彼は俗なる無法者として闇雲に略奪を繰り返したのではなく、その活動は当時ロマリアの隙を突かんと諸外国勢力の鎗先を真っ先に受けていたポルトガ市を守らんが為に行った抵抗が発端と言われている。その活動を支える為に彼は可能性を求め、研鑽を重ね、力を切実に欲した。
 彼の代から受け継がれた強国への飽くなき理念は彼らが持つ文化を洗練し、研磨し続けた。その結果、永年の泰平に停滞を続けていたロマリアに追随、やがて凌駕するまでの武力を得るに至り、領土拡大とその存在を周辺国に確然と知らしめる為の戦いに赴く。そして市国ポルトガにとっての聖戦は、ロマリア大陸を縦断し東西に隔てる山脈を境に国を別つ、という半島全てを手中に収める最高の結果を齎したのだ。
 その時、最も注目されたのはポルトガ人が誇る精巧な造船技術であり、その運用術だ。これまでの造船史を覆す斬新な発想を惜しみなく取り入れた艦隊は後年“無敵”とまで称され、ロマリアが自国領内で起こった内乱に対し、譲歩によって剣を収めたのは、その力を恐れての事だと謳われている。
 それからロマリアとポルトガの永きに亘る因縁が始まった。
 独立戦争の後。盟主アリアハンの監視の力が強かった事もあって、近代に到るまで表立った戦争に発展する事は無かった。だがその軋みは両国家の政策の端々に反映され、盟主と、次席に成り代わったサマンオサ帝国を大いに悩ませたものだ。直接的に諌める立場にあった近隣の聖王国イシスは往古よりの姿勢を崩す事無く中庸のまま慎ましく見守り、海を隔てた機工王国エジンベアは不気味な沈黙を保って両者の確執を見つめ続けていた。





 蒼穹だった空の色彩が鮮やかな茜色に染まりつつある。ふくよかな白雲は今も悠然と浮かびながら、その身に深い陰影を走らせていた。全てが黄昏に呑まれ往く中で暢達に流れるその様は、時間と言う忙しなく世を縛り付ける柵を一瞬だが忘れさせる。
 光の眩さを反して白に輝く城壁が、安全な世界とそうでない世界を判り易く隔てている。精巧に削られ、整然と並べられ高く積みあがった一面の岩壁に大きく口を開けるが如く据えられた巨きな門扉は、物々しい装備に身を固めた兵士達によって遮られ、ここに至った者達を一人一人厳粛に等しく検分していた。それは入念と言うには些か度を越えているものの、だがこれから夜という刻限を迎えようとするにも関わらず、一向に人が減る気配すら見せず寧ろ自然に長蛇の列が形成される事実は、この地が昼夜問わず多くの人々を誘う大都市としての矜持を持っていると言う事を物語る。
 事実、ここ海運国家ポルトガは絶えず人が入り乱れる陸の限界、大海原という新たな世界の入口であった。
 海や陸から絶えず左右に流れ込んで出だしたる人波と、常に吹き付ける潮風からの保護として塗布された色鮮やかな家屋が立ち並んで形成される街の景観。
 その中で無機的な岩の原色そのままに建立されたポルトガ王城は逆に人目を強く惹きつける。王城は海岸に沿って建造された市街よりも突出して海に近い所に在り、その周囲は海水が満ちる深い堀に囲まれて城下と一線を隔していた。さながらそれは離れ小島に建つ孤城の威容であり、気位の高さがひしひしと感じられた。
 王都はそもそも港湾都市として栄えていた地であり、都市の設計思想の基となった大自然の造形による天然の地勢を長い年月に亘って新技術を惜しみなく投入し続け育て上げてきた水陸の結節点だ。
 進歩の矢尻を足元に見下ろす王城前に広がるのは、常に時代の最先端を往く水域。そこには埠頭をはじめとするありとあらゆる港湾施設が並べ連ねており、この国に船舶を以って立ち入る者は全てその場所に停泊する事になっている。そして当然とも言うべく、来訪者達が独断で街に降りられないように兵士達による厳重な検問があり、乗組員数、またその身元証明。渡来目的、停泊期間……等を掌握、管理する為の港務局が王城に併設されていた。その為ポルトガ王城は常に人の出入りが多い開かれた城であり、自身の立つ地に根付いた統治を執っていると言えよう。

 夕暮れを背に、一堂に介した船舶から無数の帆が立ち並ぶ様は壮観の一言に尽きた。
 空の眩い輝きは、船体や帆の影によってより強調されて金色に染まっている。そしてそれを逆の目線から眺めれば、無数に係留された船舶が王城前に一同に停泊する様相に一変し、覇王の足元に平伏した世界、と大胆な表題が付けられる絵画もある程だ。
 その鮮烈な光景を真正面から受けるのは、今し方王城の正門から姿を現したジーニアスとウィル。二人は通例に漏れず、王城にある港務局で停泊申請や入国手続きを済ませに訪れていた。
「思ったより時間がかかったな……全く、慣れない事をしたから結構疲れたよ」
 長時間に及ぶ書類との格闘や役人達との問答を完遂したジーニアスは、小さく呻いて全身を大きく伸ばす。表情に浮かぶ憔悴はどちらかと言えば精神疲弊の割合が強かったのだが、それは閉塞した空間、それもある一定の緊張感を保ち続けている役場という領域に馴染めなかったからだろう。
 陸地の旅路で関所越えをする際も同種の問答や通行証の呈示を求められるものの、たった今終えたばかりの通過儀礼はその比ではなかった。
 ポルトガは出入国審査が非常に厳しい事で昔から有名な国だった。その基盤には興国から独立を勝ち取る為に培われた堅強な意志統一…何よりも規律を遵守する姿勢があると言える。また、陸だけでなく海の側にも開いた戸口を徹底して管理しなければ、何時自国内に不穏な分子を招く事になるかもしれないのは自明。審査に対しての厳粛さは、どれだけ頑なになろうとも不足する事はないのだ。
 役人の無感情で淡々とした詰問が耳の奥に未だ残っているのか、げんなりした様子のまま歩くジーニアスの隣をこちらは対照的に慣れたものだという静かな面持ちでウィルは進む。
「予想通りでしたね。この国の規範への堅実さは相変わらず……それを誠実とするか、融通が利かないとするか、判断に迷うところですね」
 いつも通り丁寧な口調を崩してはいないが、韻の端々にどことなく棘が立っている気がしてならない。平坦な言繰りに抑揚が全く無いのを聞きとめたジーニアスは、若干表情を強張らせていた。
「あ、はは……でも陸海共に開かれているなら慎重になるのは仕方が無い事だと思うけど」
「確かにそうです。開かれた場所というものは、善悪問わず無作為に欲望を集めてしまうものですから……それを統制する為に築かれたこの慎重さこそがポルトガをこれ程までに育て上げたのでしょう」
 ぴたりと足を止め、ウィルは半身を翻して冷静な眼差しでその先に佇むポルトガ城を見つめる。
「もっとも、その姿勢を貫く余り外界の全てを頑なに拒絶するようになってしまえば、それはその国の斜陽に他なりませんが」
「それって……暗にエジンベアの事を言っているのかい?」
 ポルトガ以上に入国審査が厳しい国があるかを問われれば、世界の事情を知る者ならば口を揃えて肯定するだろう。そしてそれに続いて挙げられる国名こそが、ジーニアスの発したエジンベアという国だった。
 ここポルトガより北西の海に浮かぶ島国、機工王国エジンベア。エジンベアは世界同盟成立以前にロマリアと北西大陸の覇権を掛けて永く争っていた国で、その版図は海を越え現在のロマリア領であるシャンパーニ近傍からポルトガ半島、また正対するスー大陸までをもその支配下においていた。更には商会ギルドが用いている世界中に張り巡らされた海路の元型を築いたのも、紀元前に行われていたこの国の侵略政策の恩恵が大きい。
 だが世界同盟設立と同時に国力が衰退し、その領土の数々も手放さなければならなかった。その歴史的背景が起源か否かは議論の余地があるが、高い虚栄心と自尊心は今も連綿と継承され他国の人間を軽侮する傾向が強く、王都に到っては同国人以外の立ち入りを完全に拒んでいる現実だった。
 逆光の眩さに顔を顰めたジーニアスの呟きに、ウィルは冷然と首肯する。
「あの国も聖王国イシスとは事情が異なりますが、古き慣習に囚われ嘗ての栄光に縋り付いています。ここポルトガに対しても建国時に多少なりとも援助したとして、未だにその事を笠に着ているんです」
「へぇ……それは聞いた事が無かったな。ポルトガとエジンベアとサマンオサの三国は同盟の中でも特に友好的で親密な関係を結んでいた筈だけど」
「あくまでも表面的に、です。どちらかと言えばポルトガは、サマンオサ帝国との関係を重んじていますからね。その背景があるからこそ、王弟カルロス公がサイモン公の下に留学する事もできたのです」
「そうだったんだ……でも改めて考えれば、王族が他国の将軍の下に留学するってのも普通では考えられない事だよなぁ」
「それだけサイモン殿に国境を越えて人を惹き付けるカリスマがあったという事でしょうね」
 思わぬ所で垣間見た父の残影に感嘆を零すジーニアス。少年のような色彩を載せた彼に穏やかに頷いた後、コホンと咳払いしたウィルは眼を細めて周囲を絶えず行き交う人々を遠く眺める。
「逆にポルトガとエジンベアの両国家は、建国後の利得を目論んだ権謀が禍根となり、今に到るまでのわだかまりを水面下で生じさせています。目立った内政干渉こそ無いようですが、両者の在り様はその環に組みする人間の態度に表面化されている……エジンベアはポルトガを宛ら属国か何かと考えているようですね」
「……それは、穏やかじゃないな」
「ええ……恥じ入るばかりです。ですが、それこそが些細ながらも人の間で必ず生ずる歪み。世界が開かれていて、自分と他人を別つがある以上、決して潰える事はないのです」
 冷笑さえ浮かべているウィルの言は酷薄にも聞こえたが、それは人の世界に君臨する確かな摂理の権化なのだろう。“賢者”という職に就く者の言葉故に、冷酷という以上に揺ぎ無い真摯さが色濃く浮かび、否定の立ち入る隙間の無い納得をジーニアスの胸中に齎していた。
 耳の奥に反響する言の葉を噛み締め、僅かに顔を曇らせていたジーニアスは静かに瞼を伏せる。
「個を重んじる故に生じる軋み、か。貧富、人種、身分、能力……確かに差を数え上げていけばキリが無い。それが人の世界から決して切り離せないものだって事は解っているけど」
 閉ざされた視界の闇の中。だがそれでも海鳥の鳴声は遠く響き、肌や髪を優しく撫でる潮風と共に確かな温かさを齎す光の鼓動が感じられた。
「いつか、そういった柵の無い……優しい世界になって欲しいとよく思うよ」
「ジーニアス、それは……」
 眉を顰めたウィルが何かを言い連ねようとするのをジーニアスは頭を振って遮る。彼が何を言わんとしたのか察する事は出来ていた。そして何より、自分で口にした事の意味を十分に理解していた。故に自らを落ち着かせるように胸に手を当て、焦らず驕らずゆっくりと碧空の双眸を開く。
「勿論、それが非現実的で青臭い夢想なのは解っているつもりさ。でも、そのいつか・・・を求める心が自分の中にある以上、それに近付く為の努力や行動を怠ってはいけないと思う。少なくとも僕は、こんな時代だからこそ目先の利害ばかりに囚われず、人同士の見えない繋がりの強さを信じるべきだと思うんだ」
 その意志を支える背景にはこれまで自分を護ってくれた組織があり、家族や仲間といった確かな繋がりがある。昔も今も。変わらずに自分の背に添えて押してくれる数多の掌を実感していた。
「……なんて、甘っちょろい理想に過ぎないかな?」
「いいえ。剛毅朴訥、仁に近し……実に貴方らしい言葉だと思います」
 聞き慣れない諺を零して微笑むウィルに、それが好意的なものだと気付いたジーニアスは、流石に照れ臭かったのか曖昧に返し、若干逃げるように歩調を早めた。

 ジーニアスは元々、仲間四人揃って登城し入国手続きを済ませようとしたのだが、順番待ちの人々が織り成す長蛇の列に根負けしてリースは先に宿に向かってしまった。恐らくその心中には、新天地である活気に満ちた街への好奇心もあったのだろう。勿論、見知らぬ地で世間知らずな少女一人を行かせる訳にもいかず、ジーニアスはパーティのリーダーとして後学の為にもこのような作業を体験しておいた方が良いというウィルの助言で、結局ヴェインが同行したのだった。
 果たしてリースが大人しく宿屋で体を休めているかどうかは甚だ疑問ではあった。きっとリースの事だから、街を見物に行きたい、と駄々を捏ねてヴェインを困らせている様子がジーニアスには容易に想像できてしまった。
 厄介事を押し付ける形になってしまったヴェインへの申し訳さが、人の群れを避けて進むジーニアスの歩調に自然と拍車をかける。器用に人の波を潜り抜けながら足早に宿を目指していた。
 そんな折、不意に後ろを着いて来ていたウィルが発した。
「ところで、ジーニアスはカルロス公のお宅に挨拶に行かれるのですか?」
「そうだね。今回の滞在中に一度は伺っておきたいと考えてはいるけど……明日からの予定を思えば、いつになる事やら」
 ジーニアスの考えでは、明日からはまず長旅を越えた自分達の船を修繕する為に、この都市に数多ある造船所を何軒か尋ね回る予定だった。海運国家というだけあってその数は並大抵のものではない。その行程は一日二日で、しかも一人では到底廻りきれるものでもないのでウィルやヴェインと手分けして、ついでにリースのお守りも併せて敢行しようかと画策していた。
「それならこれから伺ってはいかがですか?」
 時刻は既に夕暮れ時に差し掛かっている。これから程なくして陽は完全に落ち、夜の世界が広がるだろう。
 礼節や常識を重んじる気質のウィルの意外な提言に、ジーニアスは眼を瞬かせる。
「いや……いくら知人でも遅くに失礼じゃないか?」
「他国の人々にはあまり知られていませんが、実は海に関わる仕事で生計を立てていない限り、この地の慣習では寝静まるまでまだ先は長いんですよ」
 周囲の忙しない様子を眺めながら、ウィルは穏やかに連ねた。
 大空のあちこちから聞こえてくる海鳥の斉唱は、何時しか緩やかな漣の音に据え変えられていた。刻々と朱が空に強みを増していたのだが、しかしこの地の人々に夕餉の帰途に着く気配はあまり見られない。否、その姿は決して少なくないのであろうが、それ以上に街路を往く人々の方が数において勝っているのだ。
 何処からとも無く、明朗な喧騒と海の幸を焼いた香ばしい匂いが漂っていた。
「商業の盛んな地として陸のアッサラーム、海のポルトガ…という風に、この国は二大交易都市としてもその名を馳せています。その為、夜遅くにまで様々な露店が商売に精を出しているんですよ。当然それを見に来る人々も後を絶ちませんし、治安維持の兵士達も駐在しています」
「そうなんだ……でも、これ以上ヴェインばかりに負担を掛けるのは忍びない」
「それならお任せ下さい。市街に美味しい海鮮料理を提供する店を存じています。三人でそちらに行きがてら、夜の市場を見て廻ってきますよ。宝珠オーブ探索の為に確認すべき事もありますから、ね」
 ウィルがこのポルトガの諸事を熟知している様子を思い返し、ジーニアスは考え込む。
 自分達の旅路の至上目的である宝珠探索には、ウィルが持つ魔導器『山彦の笛』が必要不可欠だ。そしてそれを操れるのは所持者であるウィルのみであり、彼はその笛を奏でるのをロマリアの一件以来、概ね夜に行っていた。
 また、きっと現在進行形で機嫌を損ねているであろうリースにしても、珍しい料理で腹を満たして散策に興じれば今日のところは収まる事だろう。明日以降は実際になってみない事には対処しようが無い為、考えない事にしておく。
 口元に手を当てて思考に耽っていたジーニアスは、申し訳なさそうにウィルに仰いだ。
「何から何まで任せっぱなしで悪い気もするけど……じゃあ、お願いしてもいいかな?」
 わかりました、と手を胸に添えて芝居がかった恭しい仕草で応じたウィルは、ふと柔和な面影を潜めさせ怜悧な眼差しを返してきた。
「ジーニアスの方も気をつけて下さい。この国においてのカルロス公の立場は、決して良いとは言えないので」
「……一応、わかっているつもりだけどね」
 十年前に世界に流れた“勇者”の悲報。それを逆説に示すのが、世界を裏切った男サイモン=エレインの名だ。“裏切り者”としてエレインの名が今では世間で冷たい風曝しに合うものだが、カルロス=ガルディニアの名もまた、ここポルトガでは虐げられる側の立場にある。
 そもそも王籍の剥奪とは、本来国法での裁く事が出来ない王族を対象とした誅罰の形式であり、王族が得られるありとあらゆる加護の消却…封建社会を形成する身分制度における最上層からの放逐だ。その断罪の末に、王弟カルロスは野に身をやつす事となった。
 国々の法によって身分の境界に差異はあるが、海運国家の民の殆どの者が海に関わる仕事に従事し、それに属する者の社会的地位は高いと言える。だがカルロスが落ち着いた地は農奴という自由を制限された農民であり、ここポルトガの国法では、王都より遠く離れた辺境を開墾する賦役ふえきの義務を課せられている。また農奴は一般的な市民権すら得る事が出来ず、限られた自由というのもせいぜい家族、住居及び家具、賦役に必要な道具を所有する事のみであり、日々の糧を稼ぐ為の職業を選択する事も住処を移転する事もできない束縛された身分だった。
 海に寄り添い生きる者達を自由と光に祝福された者と評するならば、農奴達は誰からも省みられる事の無い日陰に生きる者の分類に属すると言えるだろう。
 王籍剥奪によって罰を下されたカルロスは既に罪人では無いにしろ、一度張られた咎印に対して世間の情理から誹謗や淘汰は当然のようにあり、今は王都北東に位置する郊外でひっそりと暮らしているとの事だった。
「大丈夫、目立つような事はしないよ」
 カルロスの身の上が痛ましいまでに理解できるだけに、ジーニアスは改めて自らを戒めてウィルにしっかりと頷き返す。そして港湾地帯と市街、旧市街とを別つ三叉路を北東へと向かって走って行った。

 だが、宮廷を追われたカルロスを訪ねるという行動自体がこの国においてどれ程までに異端で眼を惹く事になるなのか、この時ジーニアスは知る由もなかった。








 王都ポルトガには全容を囲う外壁と、市街と旧市街を隔てる内壁が聳えていた。そしてその新旧という時代を別つ隔たりを境に、広がっているのはまさに別世界だった。
 現在の市街地中心において、色鮮やかな家屋は密集して建てられ生活の灯が活気に煌々と輝いているのに対し、旧き街並みは本当に同じ都市の一部なのかと疑ってしまう程の静寂に支配されているのだ。
 ここ旧市街は元々市国時代において栄華の中心地であり、海運国家としての旗を新たに立ち上げた時に打ち棄てられたという過去を持つ。その最たる理由は、王国として出発する際、海の恩恵にあやかろうとより海に近き場所に王城を建造した事であり、それに追従するように都市開発が進み、やがて政治機能の全てが新しき方へと移っていったからだ。
 国の歴史が長ければそれだけ遷都は繰り返され、その度に古き場所は流れ続ける時間の波に取り残されるのは世の摂理。古き慣習に固執せず、常に新しき風を迎え入れんとするのは、ポルトガという国の性質が色濃く表出した結果だと言えるだろう。
 今となっては旧市街は政の中心から遠く離れた僻地であり、王の膝元にありながら蚊帳の外と揶揄され、王都に住む人々からは省みられる事のない地帯だった。

 海運国家ポルトガが造船技術の秀でた国であるのは頻繁に音に聞く事であるが、その主要産業も海を基にしているのは周知の事実だった。海の玄関口という比喩を良く宛がわれるように、水産業とその流通を司る海運貿易、商業が街の活気の源となっている。
 とはいえ、それは陸産業を放棄するという事には非ず。牧畜や農耕を生業とする者も少数派ではあるが確かに存在していた。ただ、元来国による支援を以って大々的に取り組んでいる訳ではないので水産業との就労比率を眺めてみると雲泥の差があったが、より内陸に登ればそれらを主とする村落も古くから点在しているのだ。
 しかしその常識も、近年崩壊の兆候が見え隠れしていた。直接の原因子に挙げられるのは、最早世界共通の脅威と言うべきである魔物の台頭によるものである。
 海に棲息する魔物は陸のものより相対的に巨大なものが多く、決まってそれらは群れを形成して行動する。何らかの意思に従うまま人間を襲う魔物の跋扈によって、古来より各国家間で結ばれていた貿易網が寸断されてしまい、農産物の殆どを輸入に頼っていたポルトガは大きな打撃を受ける事になった。勿論、それだけでポルトガの経済が破綻する程に脆弱ではなかった。交易路とて古くからの海にのみ特化していた訳ではなく、大陸を東西に走る由緒正しき街道も泰然と構えていた。しかし興国より続く隣国ロマリアとの確執は外交における立ち位置を明確にさせ、更には物流量において陸路とは比べ物にならない程に大量の運搬が可能である海路の封鎖が、市井の人々には窺い知る事の出来ない領域での危機を首脳達に予感させていた。
 そんな現状を少しでも打開しようと、ポルトガは自給率を高めんと旧市街の再開発を政策として数年前に打ち出した。海の都である王都に、最低限度とも言える一区画を陸産業の為に割り当てたのは、国策として発布した農業推進政策を実行せんとする先導者としての姿勢と言えるだろう。そしてその区画に選ばれたのは王都北東に位置する、王城から最も離れた旧市街に白羽の矢が立った。
 放棄されて久しい廃屋を完全に破壊し、瓦礫廃材の撤去、整地。そして均した土地の再利用として田畑を開墾し、農作物を育成する。更には重要な労働力足り得る馬などの家畜を飼育するなど……これがポルトガの発布した政策の概要である。
 だがここで一つ問題が生じた。産業の基盤となるべき労働者のうち、海に従事する者達がこぞってその地位や就業を手放すのを嫌ったのだ。この国で海に従事する市民の数は多く、またその格も高い。一度手にしたそれを手放す事を厭うのは、人の情理の面から考えても当然だったと言える。
 そして加えるならば約一年前。ここより遥か彼方のアリアハン―ランシール海戦において、海棲魔物の主である海魔将テンタクルスが討たれた事によって海路が多少の復興を見せた事が、固執する意思を堅固に補強してしまった。
 絡み合う様々な要素を加味した上で、結局この旧市街の再開発は古くから国内辺境の開拓を課せられていた農奴達の手に委ねられる事となった。彼らに半ば強制的に課せられた日々の生業は重く、言わば戦勝国が敗国の民に強いる重労働にも似た様相だろう。
 だが彼らに拒否を唱える事は許されておらず。また農奴とは何らかの形でポルトガという環から弾き出されてしまった者達であり、彼らが身を寄せあって日常を営む場所を日に当たらない地と蔑み、視界の内側より排さんとする市民の意識が新旧の深すぎる溝を形成した。
 王都に刻まれた隔たりは高く、深く。あからさま過ぎる二面性を現在も世界に呈しているのだった。

 既に人が住まぬ家屋が軒を並べ、長きに亘る風雨に曝されて何れの壁も欠け落ちて基礎が露になっている。丁寧に石を敷き詰めて舗装されていたであろう街路は割れ砕け、剥き出しの地面が顔を覗かせていた。また路地裏に至っては崩れた瓦礫が積み重なってその先を塞いでいる有様で、長い間放置されていたのであろう事が一目瞭然だった。
 仮に世界が未だ平和の恩恵を享受していたのであれば、海路が寸断さえされていなければ、この旧市街は荒れ果てた人住まぬ都のままだっただろう。しかし現実は異なり、周囲の景観より嘗て家屋が建っていたであろう場所は小奇麗に整地され、耕された大地が生の息吹を感じさせる。常に鼻腔に絡みつく潮風も、この場所では余り感じる事がなかった。それはここを日夜再開拓に勤しんでいる農奴達の、少しずつではあるが一歩一歩着実な努力が結実している証明である。
 しかし開拓が進むにつれて街の景観が退化するという二律背反は拭いようがなく、初めてここに足を踏み入れた者ならば例外なく困惑し眉を顰めるものだ。
 影で努力を重ねる者達の存在はさて置き、破壊途中の建物が並ぶ様は貧民街というよりは寧ろ都市の廃墟と言えた。そのような侘しい場所を伸びる薄暗い路地を歩みながら、先程まで活気に満ち溢れた場所を見て来ただけに、その明らかな差にジーニアスは内心驚きを隠せなかった。ポルトガという国家の象徴とも言える首都の一部にあって、この陰鬱で閉鎖的な雰囲気こそがどんな国にでも必ずある裏表の内、陰を支える側面…先刻ウィルと話題にしたの顕現なのだと考えずにはいられなかった。
 既に日は没し始めていた為か家路に着く者達の姿が幾らかあり、すれ違う度に異端であるジーニアスの姿を物珍しそうに盗み見ていた。
 閉じた世界に住む者は、得てして閉鎖した環の内側に意識を取られがちで外から来る異物に対して排他的であるが、それを裏付けるかのような無遠慮に探る数多の視線に、ジーニアスは多少居心地の悪さを覚えながら漸く目当ての場所に辿り着く。
 この旧市街地区でも特に外れの位置にポツンと佇む、静謐と不気味さを同居させた館だった。
「ここ……の筈だよな?」
 登城した時。不審を受けながらも役人に書いてもらったカルロスの住処を記した簡略地図と眼前の動かぬ現実を何度も見比べ、ジーニアスは不安げに一人語散る。
 その昔ここに住んでいた者がそれなりに有力者だったのか。この地区に群立する他の家屋と比べれば随分としっかりとした造りであったが、如何せん経年を残酷なまでに感じさせるまでの風体であり、その姿を廃屋と評しても強ち過言では無いだろう。
 カルロスの事情を聴いて予め想定していたが、聞きしに勝る現実に幽然と聳える門扉の前でジーニアスは呆然と立ち尽くしていた。
「失礼だが、どなたかな?」
「っ!?」
 不意に声を掛けられてジーニアスは我に返る。他人の家の真正面で直立不動なのは確かに失礼で、且つ不審極まりない行為だろう。たとえこの家の者でなくても問い質したくなるのは寧ろ自然だ。
 しかし声を掛けて来た男性はいつの間に背後に近付いて来たのか、ジーニアスはその接近をまるで感じる事が出来なかった。生来の穏健な気質もあるが、ジーニアスとてこれまでに数多くの死線を潜り抜けてきた戦士であり、誰かが近付く気配には敏感に反応する事が出来る。しかもここは街中で、隠す意味を余り成さない状況であればそれは尚更だ。
 その自負が油断を招いた訳ではないが、男の存在に声を掛けられるまで気付かなかった事実に狼狽を隠せなかった。しかし、自らの心情を超えて非礼は拭えない事実である事を自覚し、ジーニアスは謝罪しようと慎重に声の主を仰ぐ。
 そして、息を呑んだ。
「あ、あなたは……」
 見開かれた碧空の前にはジーニアスよりも背丈があり、鍛えられた体格の青年が立っていた。その出で立ちは歴戦の戦士のような風体であるものの、それだけには止まらない深い知性と誠実さを感じさせる蒼いまでに艶やかな黒髪と同色の瞳。整った鼻梁から形成される面持ちは精悍で確かな存在感を主張する。そして何より、表情に浮かぶ労苦の色が青年の容貌に落ち着いた雰囲気を飾り付けていた。齢にして三十半ばを越えたあたりだろう。
 纏っている服装はポルトガで一般的な平服よりも多少みすぼらしいものであるが、それさえ逆に呑み込んでしまう程の気品がある。高潔とも言うべきか、例えるならば仲間の賢者ウィルがそうであるように貴族然とした教養がその身から発せられている印象を受けた。
 凝視とも言える無遠慮な眼差しを訝しんで男は眉を顰めるが、それでもジーニアスは視線を外せなかった。青年の容貌は幼き頃、兄のように接してくれた人物の面影を鮮明に甦らせ、確信へと至らしめるには十分すぎる要因だったのだ。
 十余年の時を越えて、過去と現在が完全に重なるのに時間は掛からなかった。
「カルロスさん……カルロスさんですよねっ!?」
「……いかにも。私はカルロスだが、君は――」
「僕です。ジーニアス=エレインです!」
 カルロスと呼ばれた青年も薄々既視感を覚えていたのか、ジーニアスの名に驚いたように目を見開く。
「ジーニアス君、なのか!? あの少年が……いや、とにかく中に入ってくれ」
 驚愕していたカルロスはハッとして周囲を見回し、警戒を載せた表情でジーニアスを促す。その様子に、自分の立ち位置を自覚しなおしたジーニアスは小さく会釈をして、導かれるまま館内へと足を踏み入れた。



 館はその廃れた外観に反して、内側はそれなりに整えられていた。元王族の住処としては余りにも質素であるが、それでも素朴な温かみのある家具が並べられ、隅々まで手入れが行き届いた確かな生活感があった。
「慌しくしてしまって悪かったな」
「いえ、こちらこそすいません。軽率でした」
 館主人の後ろを行くジーニアスは悄然に顔を顰めて深々と頭を下げる。
 カルロスの名前がポルトガで忌まわれているように、ジーニアスも自分の姓をあまり大っぴらに名乗れるものではない。その為、当然先刻訪れた港務局の手続きにおいても偽名を用いていた。例えポルトガがどちらかと言えば親サマンオサの立場にあるとはいえ、それをする事に良心の呵責は感じていたが、不要な諍いを避ける為には必要な事だと“流星”の本拠地を発つ時、最近ではシャンパーニの搭で仲間のカンダタに厳に戒められた事だった。
 意識が昂ぶるとどうにも近視眼的な行動を取ってしまう。そんな自身の改善点を再認識しながら、ジーニアスは謝罪を告げた。カルロスは特に意に介した様子は無く、朗らかに笑ってジーニアスを制した。
「私は今、カルロス=レインジェイルと名乗っている。流石に王家より除籍された身でガルディニア姓を名乗る訳にもいかないからな。覚えておいてくれれば助かるよ」
「では僕もジーニアス=イサカルと。仲間内ではそのままエレインなんですけど……あ、でもカルロスさんなら全然問題無いか。さっきだって思いっきり普通に名乗っちゃったし」
 先刻王城で済ませてきた手続きに用いた仮初の名前…イサカルとは、ジーニアスの母であるサラの洗礼名だ。元々太陰神ゼニス教の信徒だったサラが“賢者”に転職後、父サイモンと結婚して尚もその名を連ねていたのだが、世間的に洗礼名を認知している者は少なかった。それは“十三賢人”という偉大な称号や、“勇者”サイモンの妻という肩書きの方が表に浸透していた為であり、今に至っては都合が良かった。
 この旅路を始める前、周囲の忠言で偽名を考えていた時。何かの薬の成分表を眺めながら母が自らの洗礼名を貸してくれた。もっとも、いくら実の息子とはいえ、まるで物を他人に貸すように自らの洗礼名を易々と貸し与えるのは、教義的にどうなのかともジーニアスは思ったが、ばれなければ問題無いと一笑する母の豪胆さには、呆れを通り越して寧ろ羨ましくなってしまった程だ。
 そんな経緯を思い出してしまい、ジーニアスは苦笑を浮かべる。
「お互い、世渡りには苦労する立場になってしまったものだな」
「そうですね。昔は、こうなるなんて思ってもみませんでしたよ」
 本当に強くそう思う。何も知らなかった子供の頃は、その時に送っていた幸せな平穏が変わりなく続くものだと信じていた。それがこうも様変わりするなど、一体誰に想像ができようか。正の意味でも負の意味でも深くなる感慨にジーニアスは嘆息を零す。
 それをそのまま伝えると、確かに、とカルロスもまた同じように頷いた。
 挨拶もそこそこに、客間に通されたジーニアスは元王族自らの手で茶を出され、ひたすら恐縮する思いをまずは味わった。
 カルロスは嗜好が合うかどうかを気にしている様子であったが、勿論、面と向かって非を唱える度量をジーニアスは残念ながら持ち合わせていない。出されたものが舌に合うかどうかはともかくとして、淹れられた紅茶は紅玉ルビーの如く透んだ鮮やかさと、清々しい香りを湯気と共に広げていた。
 それだけで緊張が解されるのを感じていたが、農奴という身上のカルロスがこれだけのものをどうやって入手したのか素朴な疑問が湧いて来る。それをジーニアスがそれを口にすると、カルロスは笑って昔取った杵柄だよ、と曖昧に濁していた。
 古びたソファに腰掛けたカルロスは、正対に座したジーニアスを感慨深げにまじまじと見つめる。
「……立派になったな、ジーニアス君。見違えたぞ。最後にこうして直接会ったのは、私とサブリナの結婚式だからもう十年以上も前の事になるのか……光陰矢の如しとは良く言うが、まさか自分がそれを痛切に実感する日が来るとは思わなかった」
「い、いえ」
 こうして真正面に感嘆を零されればジーニアスではなくとも照れを感じてしまうのが人情というものだろう。非日常の生活を送っている身であっても、知人の些細な言葉で一喜一憂する事が出来るまでに一般的な情緒をジーニアスは持ち合わせていた。
「今はどうしているんだ? 風の噂では、クエーサー将軍の遺児ノヴァ殿が率いる盗賊団“流星”に匿われていたと聞いたが」
「父さんが叛逆者にされた後。国軍の襲撃があったあの夜……助けてくれたのが“流星”や“海皇三叉鎗トライデント”の皆なんですよ。今は僕の家族もその一員としてお世話になっています」
「……そうか。噂を聞きながらも力になってやれず、申し訳無く思う。私が師に受けた恩は語り尽せるものではない。にも拘らずその恩義を忘れのうのうと日々を送っていた以上、君達に何と恥知らずな者だと思われても言葉は返せない」
「そんなっ、やめてください! カルロスさんの方だって、あの時期は大変だったじゃないですか。母さんも気にしていませんよ」
 サイモン失踪が本国サマンオサに伝えられた時期と、魔王軍との戦いに敗れ、カルロスが帰還した時期は重なる。つまり、サイモン一家が叛逆者として追われていた時、カルロスもまた母国によってその身分を剥奪されていたのだ。
 それを知っているジーニアスに、カルロスを責めようと言う気持ちなど微塵も沸く筈が無かった。
 態度からその気持ちが伝わったのか、カルロスは深深と頭を下げる。
「そう言って貰えると助かる。ときに……サラ殿は変わりなく健勝か? 君の妹の……ジェシカちゃんも元気にしているか?」
「はい。二人とも元気過ぎるくらい元気ですよ」
「そうか。それはなによりだ」
 和やかな雰囲気が流れる中で自ら名乗る名前の所以をカルロスに話してみると、実にあの方らしいな、とカルロスは妙に神妙な面持ちで深く納得していた。
 カルロスと話していると平和だった嘗ての懐かしさが次々とこみ上げて来る。それに誘発されて、既に数ヶ月は顔を合わせていない母と妹の姿が脳裡に浮かんでいた。どんなに離れていても、あの二人に何かあるとは考え付かない。それ二人の能力から来るものでもあるし、彼女達の周囲にいる仲間達への信頼もある。目に見えない絆の強さを信じているからに他ならなかった。
 永く隔たれた時を埋めるが如く、楽しいやり取りが暫し続いた。その中で父の名が一度も挙がらなかったのはカルロスなりの気遣いなのだろうか。
(そう考えると、ちょっと恐縮しちゃうよなぁ……)
 カルロスにしてみれば、自分よりも時間を共有し恩のある父の事を話題に出して過去の郷愁に浸りたいという気持ちもあるだろう。現に会話の端々で引き合いに出さないよう意図的に流れを調整している節が何度も見られ、それを見出す度に申し訳ない気分になる。そして同時に、自分と偉大な父とを重ねられない事にどこかほっとしている自分が存在していた。それ程までに父が背負った“勇者”という称号には重い意味があるのだ。
 偉大な功績を残した父がいれば、その子も父と同じ道を歩むものだと、当事者以外の人間達は当然のように思うものだ。だがそれは否応なく先人と比較され続ける宿命を負う事になり、その過程で子の方が重圧に耐え切れず潰れてしまう事もある。その為、父と子をしっかりと別個の者だと認識してくれるという事は、未だ駆け出しで手探りのままその背中を追う身としては、ジーニアスは自分が周囲の人間に恵まれていると覚えずにはいられない。以前出会った“勇者”の称号を持つ少年の姿を思う度に、そう感じずにはいられなかった。
 それから他愛ない過去の一時を懐かしんでいると瞬く間に四刻が経過した。部屋の中の灯りが漏れ出る窓の隙間から外を覗くと、三日月が星々を連れ添ってゆっくりと夜空に昇っていた。その様子から時間の経過を察したカルロスは改めて咳払いする。
「ああ、すまない。次から次へと質問攻めにしてしまったな。私とした事が、懐かしさの余り久々に心が躍ってしまったよ」
「いえ、僕の方こそカルロスさんとこうしてまたお話ができて嬉しいです」
「そう言って貰えると助かる。何か不便な事があったら、遠慮なく言ってくれ。今となっては我が家を訪れる者も殆ど無い状況だからな。あまりそういう事に気を使わない生活に慣れてしまっていたところだ」
 上手くいかないものだよ、とカルロスは軽やかに笑う。だがそれを耳にしたジーニアスは笑みを潜め、その面に翳りを貼り付けた。
 それはカルロスの身辺を慮っての事か。安易に言葉を継がず、周囲に遠慮がちに眼を這わせているジーニアスを見て、カルロスはその内心を察して気にするでもなしに微笑んだ。
「何、ここの生活も慣れればそれ程悪くは無い。無駄に広くて堅苦しい礼節に縛られた宮廷に比べれば、どうにも私にはこちらの方が性にあっていたようだ。住めば都、とは先人も上手い事を言ったものだな」
 陽気に笑いながらカルロスは肩を竦める。そこには自嘲も皮肉も無い。在るのは嘗ての良き時代に縋りつき今に対しての悲嘆ではなく、現実を受け入れ一歩一歩邁進している充足の輝きがあった。
 屈託の無いそれを見て、自分の反応がどれ程浅慮だったかを覚ったジーニアスは思わず身を小さくし、藁を掴むような気持ちで少し冷めてしまった紅茶を啜る。
 その時、僅かに開いていた居間の扉の先から一匹の猫が鳴声を挙げて滑り込んできた。白き毛並が上品な猫はしなやかな動作でカルロスに駆け寄り、軽々とその膝の上に身を納める。そして、突然の闖入者に呆気に取られたジーニアスを宝石のような琥珀の眼で検分するように見つめていた。
「ね、猫……?」
「ああ……君も久しぶりだと思うが、我が妻のサブリナだ」
 相好を崩したカルロスは、まるで愛しい相手を見る眼差しで膝で丸くなる猫の背を一撫でする。サブリナという名で呼ばれた猫は心地良さそうに、甘えるような鳴声で応えた。
「は? ……サ、サブリナさん?」
 突然の紹介を受けて目を白黒させるジーニアス。カルロスの表情に冗談の色は無い。
 カルロスにはサブリナという妻があり、ジーニアスにしても面識はある。そしてその女性には、この館に入って一度も顔を合わせていないのは確然たる事実であった。カルロスが王籍を剥奪された時、既に王太子妃であったサブリナも追従して宮廷を追われている以上、この館に住んでいるのは間違いないだろう。ならば今、ここに居ないのは当のサブリナがどこかに外出しているものだとジーニアスは思い込んでいた。
 真顔で言葉を連ねるカルロスの真意を図りかねたジーニアスは、思考が全く整理できぬまま困惑を面に載せるしかない。ジーニアスの記憶の中のカルロスは生真面目で、面白半分に冗談を言うような人物でなかったと刷り込まれていた為、その現実との差に思考が追いつかなかった。
 だが何にしても、一人と一匹の間に流れる雰囲気は確かに通じ合った者達が発する穏やかなそれだった。
「え、ええっと……その。ど、どういう事ですか?」
 哀れになるくらい動揺したジーニアスに、悪ふざけが過ぎたとカルロスは笑みを潜めた。
「はは……いや、すまない。君を混乱させるつもりは無かったんだ。ただ、私やサブリナを囲う環境の変化は劇的だったと言う事さ」
「は、はあ……」
 環境の変化とは社会的な面…つまりは王籍剥奪の事を指しているのだとジーニアスは思ったが、劇的と冠する意思の裏側にはどうにもそれ以上の事があったと言外に言っているように思えてならない。
 未だ混乱が抜け切らぬジーニアスを寧ろ微笑ましく眺め、カルロスはソファの背凭れに身を預けて眼を細めて虚空を見つめた。
「……大体十年くらい前からなんだが、夜の間は彼女が猫の姿をとり私は人間の姿をとる。だが逆に昼の刻限はサブリナが人間の姿に戻り、私は馬の姿に変化するんだ」
 今ではすっかり慣れてしまったがね、とカルロスは何て事の無いように語る。逆にそれを聞かされたジーニアスは愕然とし、思わず立ち上がってしまった。
「まさか……そんな事が!?」
「こんな素っ頓狂な話を信じられないのは無理も無いが、紛れも無く現実さ」
 宥めるように見上げてくるカルロスの眼差しは落ち着いていて、そこに嘘の光など見られなかった。
「で、でもどうしてそんな事に?」
「魔法的側面からの作用による変異現象……と、専門家は言っていたな」
「魔法的……十年前というと、まさか魔物の呪いっ!?」
 カルロスが十年前の魔王軍との決戦において、要塞都市テドンに布陣した連合軍の将の一人であるのは有名な話で、ジーニアス自身も知っていた。だがその結果こそ知れど、事の顛末の仔細は聞かされていない。
 その為、自分が唯一知る結末の敗北という言葉から想起できたその可能性は、ある意味ジーニアスの希望だったと言えよう。魔物という存在を矛先に挙げる事で、この擾乱する感情を処理する事ができる……安直な結末に落ち着きたがる若さの顕れだ。
 だがカルロスは、そんなジーニアスの希望を打ち砕かんと首を横に振る。
「……呪いには違いないな。だがそれは魔物によるものではなく、数多の仲間を差し置いて唯一生き残ってしまった私達に対しての同胞達の怨嗟……私やサブリナはそう考えているよ」
「そんな……」
 十年前の連合軍の大敗。その唯一の生存者がカルロスとサブリナだった。帰国した二人は、亡くなった者の遺族達からの遣り切れない数多の感情に曝される事になり、果ては国家の威信を貶めたという罪業を背負わされ、宮廷を追われる事となった。
 それは、望まれて戦いに赴くも結局戻る事無く、果ては国から逆賊と貶められた父の姿と重なる。
 ジーニアスはカルロスの境遇が痛いほど良く解った故に、自らの痛みのように下唇を噛み締めて顔を歪める。そんな姿を見上げ、カルロスはゆっくりと頭を振った。
「いいんだよ、ジーニアス君。……何も出来ずにたくさんの将兵達の命を失い、のうのうと私だけ生き残ってしまったのは事実だ。これは贖罪でもある」
「ですが……ですが、それではあまりにもっ――」
 どうしようもない遣り切れなさがジーニアスの胸中で渦巻き、思考を大きく波立たせていた。
「私は全てを失ったという訳ではないよ。私にはサブリナがいる。こんな現状に翻弄されてしまっているが、これも運命だと私もサブリナも二人で受け容れる事にしたんだ」
 言いながら穏やかな眼差しを、隣に行儀良く座る猫に向ける。
 その姿は、まだ三十台半ばの若さで既に余生を生きているようにしか見えない。そんな二人を前に、ジーニアスはかける言葉を見出せず苦々しく顔を顰めた。
 悲痛な表情を浮かべるジーニアス。愚直なまでに直情的と言える様相であるが、カルロスはその若き故の輝きに眩さを感じた。
「ありがとうジーニアス君……私が不甲斐無いばかりに、若い君達に苦労をかけてすまないと思っている」
 両膝に腕を立て、深々とカルロスは頭を下げる。
 そんな事は無い、とジーニアスは軽々しく言えなかった。安易な気休めなど、敗戦から今に到るまでの全てを受け止めているカルロスの誇りに傷を付ける事にしかならない。そんな気がして言葉を紡ぐ事ができなかった。
 ジーニアスはただ黙って、カルロスの謝罪と悔悟の言葉を聞くだけだった。




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