――――異伝二
      第一話 潮騒に揺られて







 目の前の世界の、何もかもが燃えている。
 燦然と煌く灼熱の閃光は真夏に輝く太陽のようで、だが静穏とは程遠い暴虐な熱波を解き放っては容赦無く視界を焼き尽くす。
 轟々と聴覚を蹂躙する凄絶な破砕音が空気を裂帛し、艶かしく這い回る焔の舌鞭を以って無惨な姿で転がる人間を、焼け崩れ落ちた石柱を、炎幕に薄っすらと浮かび上がる破壊者達の陰影さえをも絡め取り呑み下していた。
 崩滅を喚ぶ狂騒が奏で流れる光暈こううんの舞台。そこは、生も死も全てが紅蓮に染まる壮絶な現世の煉獄だった――。





 光が亡びた世界に広がるのは、寄せては返す単調な音色。彩りも艶やかさも無い、実に無機質な韻の旋律だけだ。だがそれ故に静寂は緩慢に暢達とその翼を引き延ばし、まどろみに誘う羽根を世界に撒き散らす。
 安らかな眠りの苑を飛び交うのは、夜を宿した黒き羽。悠然と風に舞い、しっとりと大地に染み渡る漆黒の雪。真夜中の世界は、得てして黒雪が堆積して形成された凍土の情景を想起させて止まなかった。
 寒々しささえ感じる事を忘れる程に静まり返った常闇の中。
 眼下に広がる黒よりも昏く深い無窮の闇が揺蕩う様相は、その裡に真理の深淵を覗かせるようで不思議と意識が惹き付けられる。その意のまま、ささやかに波打つ闇の先を見つめていると妙な昂揚と共に背徳が胸中と思考を艶やかに浸蝕する。それはとても甘美な響きで染み渡り、同時にどうしようもなく魯鈍な疼きを生じさせた。
 惹かれる意識のまま身を投じ自涜の快楽のまま意識を溶かしてしまえば、何もかもを忘れてしまえそうな根源的な安楽を得られるのでは無いかという想像が湧き出して止まる事がない。
 夜の海は、人間の深奥に秘めた退廃的な情緒を存分に刺激していた。

 だが、唐突にその闇色の静謐は壊れる。
 広がる虚空の一点に微かな、だが力強い輝きが燈ったのだ。

 徐々に明け往く薄群青の空と、波間に眩い白輝を鏤めた濃藍の海。それはやがて暁色に変わり往く狭間の、光と闇の刹那の輯睦しゅうぼくが齎す荘厳な一枚絵。
 遥か彼方に引かれた水平線は暁の光によって深青から白蓮に遷移し、その前を冷涼で何処かねっとりとした風韻が、己を阻むものは無いと主張するよう気侭に流れる。
 果てしなき大海原…絶勝の世界は今、長い夜を越え新たなる朝を迎えようとしていた。



「……夜明け、か」
 凪特有の穏やかな波に揺られて、そこに浮かぶ一隻の船はある種の揺籃と化す。
 絶えず流れる風と海と大地からなる世界の子守唄は、未だまどろみを受け容れている者達を柔らかく緊縛したまま、易々と解放してくれそうには無い。
 だがそんな中。未だ深い藍色の中で視界さえ不明瞭な甲板の上にて、水平線の遥か先を見据えた碧空の眼差しがあった。
 船縁に立ち、空色の上着に羽織った紫紺の外套が軽やかに輝く風に靡いている。徐々に勢力を増す朝の光を全身で受け止める黄金髪の青年…ジーニアス=エレインは身体中の筋肉をゆっくりと伸ばした。睡眠の際に凝り固まった筋が伸びきると意識が一瞬だけ遠退いて、それは精神が肉体という檻から解放され、ありとあらゆる束縛からの自由を得たような錯覚を齎した。
 ささやかだが確かな力を秘めた波動に身を委ねながら大きく吸い込んだ潮風が、鼻腔に絡みつきながら肺腑に染み渡る。風に溶け込んでいた少しざらついた空気が、意識の覚醒を一層強めた。
「んん、気持ちの良い潮風だなぁ」
 暁色の空を反す黄昏の髪の奥から覗く爽やかな眼差しは、穏やかな波間に世界の目覚めの息吹を垣間見ていた。
 船旅をするようになってからというもの、ジーニアスは早朝、この水平線上にゆっくりと姿を現す太陽を眺める時間が好きだった。朝の新鮮で清涼な空気は人の淀んだ意識を綺麗に洗い流し、うららかな光が先へ進む為の前向きな意志を健やかに育む。
 長い夜をこの混迷の時代と喩えるならば、漸く訪れた朝はいつか来るべき平和の姿。誰もが望んでいる世界の来るべき姿の体現とも言い換えても良いだろう。それを誰よりも先に見る事ができると思うと少し得をした気分になる上、夜明けに先駆けて闇を駆逐し、朝を齎した者達の背を見つめると言う事に繋がる。
 そう感じるのは決して己が認識だけの傲慢でも不遜でもない。これまで見た世界の現状がその想いを支えている。そしてそれは、どんなに深い夜が続いていたとしても、朝は必ず来るという事実でより洗練されるのだ。
 だがしかし、少なくともジーニアスは自らの懐裡に根付いた好尚のまま誰よりも早く起きて空を見上げている訳ではない。その行動の本源には、ジーニアスが夜に熟睡できないという事実にあった。昼夜逆転とまではいかず今でこそ日常生活に支障が出ないまでになっていたが、恐ろしく寝つきが良い分、目覚めも早い。
 そしてその原因とは、彼が所属する盗賊団“流星”の活動の殆どが太陰神ゼニスの加護を得られるとされる夜に敢行していた事もあり、その大元は幼少期…父サイモンが国を追われ、その家系を根絶やしにせんとする帝国軍の襲撃を受けたのが深夜であった事に由来する。

―――ジーニアス=エレイン。サマンオサ帝国が世界に誇った“勇者”サイモンの長子。
 今でこそ家名は没落し、家が代々積上げてきた地位も名誉も失ってしまったが、本来エレイン家はサマンオサ帝国において上流貴族に属し、その階級は帝国五等爵…公侯伯子男の中でも第一位の公爵を冠する。即ち、皇帝家を直接支えるサマンオサ四公爵の一翼であり、サマンオサ大陸東部地方という広大な領地を治める大貴族であった。
 興国より連綿と続く崇貴な血統は、歴代皇帝の右腕という輝かしい地位と名誉を欲しいままにし、文武に傑出した人材を輩出しては帝国史に幾度と無くその名を載せ、数多の吟遊詩人や歴史研究家達を賑せたものだ。
 しかし、盛者必衰の理を具象するに至った直接とも言うべき原因は、時を遡る事十年。“始まりの英雄”と称された“アリアハンの勇者”オルテガ=ブラムバルドの訃報と共に語られた、“サマンオサの勇者”サイモン=エレインの消息不明。今では同国人や心無い世界の端々から忌わしく謳われている事実にあると言っても良いだろう。
 十年前当時。世界に名立たる二人の“勇者”を旗頭として魔王軍と雌雄を決する為に、“勇者”を補佐すべく世界同盟は各国より英雄達を集めて同盟史上初となる連合軍を結成した。そしてその連合軍が臨んだ一大決戦とは、敵の本拠地と断定された旧ネクロゴンド王国首都を中心に北と南からの二方同時攻勢によって陥落させんとする史上最大規模の戦争であった。
 これは魔王降臨から二十年の永きに亘る魔王軍の侵略に対して人間達がようやく報えた一矢で、なだらかな丘陵地帯が続く首都南方より数を以って攻め入る連合軍を配置しての陽動と、地形が険しくそれ故に敵の警戒も甘くなるであろうと予測された北側より少数精鋭である二人の勇者による急襲を以って織り成される。対方向よりの襲撃によって魔王軍を攪乱し、その深奥に立つ魔王の胸を穿たんと、当時の人間達が放つ事の出来た最後の手札だったと言っても良いだろう。
 オルテガとサイモンはそれぞれ気質、思想、環境…様々な点で異なった価値観を持つ人物であったが、互いに互いの事を認め合った親友であった。そしてその二人が並び立てば出来ない事などこの世界には存在しないと他に言わしめるまでに、二人の間に結ばれた信頼という名の絆は堅強。だからこそ敵地北方より攻め入る勇者達がたった二人であったにも関わらず、多大なる期待を寄せられ、逆に周囲に安心を齎す事になったのだ。
 しかし結局、その作戦は功を奏する事は無かった。
 作戦の要とされていたのは、決戦前に別行動を執っていた勇者達が合流だ。だが終ぞ二人は落ち合う事は無く、それでも退く事はできないと単身挑んだオルテガはネクロゴンド火山に消えた。それに続くように魔王軍の大軍と激突した連合軍が大敗を喫し、完全に瓦解したからだ。
 敗走した人間達の魔物に対しての敵愾心は瞬く間に消沈する反面、そんな事態を招いた事への責任の追及には恐ろしく迅速に動いた。そして矢面の最先鋒に立たされたのが、“アリアハンの勇者”オルテガと合流する事の無かった“サマンオサの勇者”サイモン=エレイン。
 勝利の為の布石として当時別行動を執っていたと言われているものの、その真相の一切は闇の中。逃亡者と汚名を着せられようが、そこに弁明の余地など微塵も無かった。
 やがてサイモンが籍を置いていたサマンオサ帝国は、国名の威信を失墜させたとして勇者サイモンに叛逆者の烙印を押し、その家を取り潰しありとあらゆる既得権益を剥奪した上で逆賊一家全員を討伐せんと、軍を差し向けたのも、荒む人の情理の面からすれば無理からぬ事とも言えるだろう。

 軍の襲撃は、太陰神ゼニスから見放された新月の日。
 鈍色の天蓋が空を覆う不気味な夜。帝都郊外に居を構えていた館の窓を、嵐の前兆とも言える粗暴な風がけたたましく打ち鳴らす。それは夜に潜む悪意の影が獰猛な獣の如き唸り声を挙げているようで、とかく不安を感じずにはいられない夜だった。
 当時、十三賢人に列せられたばかりの“賢者”である母サラは、叛逆者の烙印を押された事から続いて動く世間の情動を予期していたのか、館に勤めていた全ての使用人達に速やかな退去、或いは帝都脱出を喚起していた。
 唐突の女主人の険しい言に、慌てふためく使用人達は廊下を駆け回りながら邸内の灯りを消し、公務上の重要な書類を処分し、脱出の準備に駆られる。
 その頃まだ九歳の少年でしか無かったジーニアスは状況が飲み込めず、殺気だった周囲の人間達に怯え、二つ年下の妹ジェシカと身を寄せ合いながら部屋の隅で震えているだけだった。
 貴婦人の華やかなドレスから怜悧な賢者の衣へと着替え、颯爽と脱出の支度を終えた母にジーニアスは丈夫な外套を纏わされ、その上から先日父から継承させられた『魔剣・烈炎の剣』を背負わされる。成長途上の未発達な身体には、その剣は余りにも大きく、重い。ジーニアスにしても貴族の嗜みとして剣と魔法の手解きを受けていたが、背中にどっしりと座した剣の存在感は不安と焦燥を深々と呼び起こした。
 尊敬している偉大な父が長年仕えてきたのに、どうして国は攻めてくるのか。世間に流れている根も葉もない噂など、どうして信じているのか。子供であったが故に理解が追いつけず、反転する現実への惑乱は当然あった。何かの間違いだと強く感じていた。だが賢しき母の言う事がこれまで一度も間違った事が無いという事実の前には、その思いも儚く潰える。
 やがてこの邸宅に城の兵士達が攻め込んで来る。他ならぬ自分達の命を狙って。
 実戦経験の無いジーニアスは無力に過ぎず、兵士達と戦う事など勿論出来る筈も無い。唐突に訪れた急激過ぎる変化の波濤は、貴族の嫡男として何不自由無く幸福を送っていた少年にとって世界の終わりをまざまざと予感させる。そして恐怖に怯えた表情を浮かべる妹の手の冷たさが、この予感が現実のものになるのだという真実味を帯びていた。

 急襲は突然だった。
 大火の原因が小さな灯火でも足り得るように、平穏の崩壊のきっかけもまた些細なものだ。何かしらの魔導器なのか、窓を割って投げ入れられた物体がいきなり炸裂し、屋内で火と爆風を噴いて暴れまわったのだ。
 暴虐の熱波と圧力に曝され一斉に捲き起こる悲鳴を皮切りに、堰を切ったように扉を打ち破り兵士達が雪崩れ込んで来た。途端に響き渡るのは獣染みた咆哮や怒号、狂ったように挙げられる絶叫、断末魔……平和が一瞬で蹂躙される。
 轟々と唸りを上げて広がる炎に、焼け落ちる壁や天井。
 豪奢な調度品や貴重な金銀財宝は簒奪され、代わりに嗜虐の刃が降り頻る。
 次々と殺されていく侍従や使用人達。飛び散る血潮に昂揚し、獣欲を迸らせながら殺戮に哂う兵士達。
 それは神話の煉獄にいるような錯覚を感じさせる阿鼻叫喚の光景だった。
 兵士達を攪乱する為に囮となった母と逸れ、乳母と共に泣きじゃくる妹の手を引きながら崩れ落ちる家の中を必死に逃げた。
 だがやがて追い詰められ、その乳母も眼の前で殺され、血染めの鎧に身を包んだ兵士の一人に妹が捕まってしまった。泣き叫ぶ妹を囲み、下卑た笑みを浮かべる兵士達が一斉に刃を振り降ろさんとした時。
 ジーニアスの中で何かが弾け、世界の燃焼は加速した。
 魂の底から吼えた咆哮に、背負っていた自分の背丈には大きすぎる一振りの剣が覚醒する。剣は周囲の煉獄さえをも呑み込む太陽の輝きを発し、ジーニアスの狂奔する意識に導かれて擾乱する。暴れまわる烈炎プロミネンスは、兵士達の暴力など微風かと思える程の圧倒的な力を以って、妹と自分を除くその場にいた全ての敵を灼き尽くした――。

「……久しぶりに昔の夢をみちゃったな」
 どうりで今日は寝覚めが悪い筈だ、とジーニアスは澱んだ胸中を吐き出すように深々と溜息を吐く。苛烈な時間であった過去の幻視は知らず心身を強張らせ、それ故にか自分でも知らない内に拳を固く握り締めていた。
 もう随分と時が経過している所為もあるが、あの襲撃の後の事をジーニアスは良く覚えていなかった。カンダタをはじめとする“流星”の仲間達が事前に帝国軍の動きを察知して救出に来なければ、間違いなくあの焼け落ちる邸宅で殺されていたという事実を後日に聞かされ、九死に一生を得たのだという認識を仲間に対しての深い感謝と共に抱いていた。
 ただ色を失いつつある古い記憶ではあるものの、それでも褪せる事無く寧ろ生々しい精彩を放って残り続けているものもある。
 兵士達の赤い返り血を全身に浴びて、自らのした事の意味と大きさに打ち震える自分。
 帝都を見下ろす崖の上で、妹に抱きかかえられたまま発する慟哭が、月の無い真黒の空に舞い冷たく乾いた風に攫われた情景。
 自責によって崩れかける自我の嘆きさえせせら笑うように、闇の中で煌々と燃え輝く館の姿。
 それらが酷烈なまでに深く意識に焼き付いていた。
 無意識に瞼を落としていたジーニアスはゆっくりと開眼し、身体の前で両手を握っては開き、その緩慢とした動きを見つめる。
「守るとは、牙を剥く敵を殺す事……か」
 誰にでもなく、ポツリと零す。
 先日、父の盟友“アリアハンの勇者”オルテガの息子ユリウスから突きつけられた、冷然とした現実。それはわかりやすい真実の形だ。
 彼の言葉の真意を意識した事がない、という訳ではなかった。ジーニアスとて、行動の本質は充分に理解しているつもりだ。だが淡々とそれを綴るユリウスという少年には、行動の起源となるべき想い…感情があまりにも見られなかった。
 何かを成さんとする想いが無ければ、それに続く筈の行動は伽藍で空ろなものに過ぎない。力を振い敵を倒す事に、意味を与えなければそれは只の殺戮に過ぎない……行動への命題付与が浅ましい自己弁護とどれだけ言われようと、心を持つからこそ人間は人間で在る事ができる。人間とはそんな前提を尊ぶ存在だからこそ、そのあらゆる行動には心が宿り、世界に真摯に意義を呈する資格を得る。
 そう信じているからこそ、ユリウスの言葉に譲る事ができず頑なに反発した。認めてしまえば、それは嘗て屋敷に押し入って無情な虐殺を広げた兵士達を肯定する気がして、心が受け入れる事を拒絶したのだ。
 結局のところ、“勇者”と呼ばれる少年ユリウスと自分の決定的な違いは、想い…感情をその行動に孕んでいるか否か。そのようにジーニアスは考えている。勿論、自身にしろ彼にしろ、現在を築く為に培った過去が同じではない。その為、子供染みた一義的な糾弾などするつもりは無かったが、ユリウスの価値観を受け入れるか否かは甚だ別問題だった。
(情が先か理が先か……これに明確な答えなんて無いんだろうか?)
 或いはこの永劫の葛藤こそが、剣を持つ者が背負う業と咎そのものか。感情による諮詢で自分の裡の澱みが瘤と化し、未消化なまま深い陰影を落とす。
 時を置いた今でこそ、あの時の兵士達は上からの命令を忠実に実行したに過ぎないと理性で判断できるが、血の色彩と芳香に酩酊して嗤う者達の姿が記憶の坩堝にとぐろを巻き、否定の感情を誘って享受させない。しかしどう取り繕おうとも、窮地に陥った妹を守りたいとの激情のまま魔剣を暴走させ、あの場にいた兵士達を皆殺しにしたのは紛れもなく自分だ。もはや己には、内なる感情のまま彼らを咎める事などできないだろう。
 感情のままに動いた末の咎は、今この背に負っている。血刃を握り歩み続ける以上、それは片時も忘れてはならない厳かなる戒めだった。

 明ける空に反して、ジーニアスの思惟は少しずつ暗く沈んでいった。



 穏やかな凪の音がざわめく意識を緩やかに宥める。虚ろな眼差しで波間の眩い水飛沫を眺めていたジーニアスは、背後にある船室の扉の奥から近付く気配に引き戻される。
「やば……もう夜明けっ!?」
 続いて耳に飛び込んできた声は明るく良く通る声質だ。だがそれは溌剌さの角が立つあまり淑やかとは程遠く、早朝の静かな刻限には余り適切ではない。そしてそんな声を発するのは今の自分の仲間には一人しかいない事を改めて思い返すまでもなく熟知していたジーニアスは、内心で鬱悶とする感情を押し殺し、普段の柔和な表情を浮かべて振り返る。
「おはよう、リース」
「げ、ジーニ……いたの?」
「ああ。今日も清々しい天気だよ」
 薄藍から徐々に明け往く空。充ち広がっていく蒼穹の光輝を背負い、両腕を組んで仁王立ちしているジーニアスの姿を見止めて、きょろきょろと周囲を見回していた魔導士リースはバツが悪そうに一歩後退した。
「……お前、また夜更かししたな?」
「う……い、いやぁ魔導書を読んでたら熱中しちゃって。……つい」
 咎めるような視線と声に、リースは背を縮込ませる。
“流星”の本拠地で生活していた頃や陸上での旅路と異なり、船旅になってからというもの船上で出来る事はたかが知れている為かリースは度々夜更かしして読書をしている事をジーニアスは知っていた。もっとも、それが他人であったのならばジーニアスとて目くじらを立てる事は無いのだが、やはり身内である以上、旅路という不安定な地盤の生活で健康を害されては困るという気持ちがあるのか、苦言を呈せずにはいられなかったのだろう。
 顔に焦燥を貼り付けて、慌てながら必死にわたふたと身振り手振りで弁解するリースの姿を見て、怒気が失せたジーニアスは呆れたように溜息を吐き、額に手を当てた。
「……お前も年頃の女の子なんだから、身嗜みの一つくらい気に掛けてくれよ。ジェシカはいつも気にしていたぞ」
「うるさいなぁ……私はジェシカみたいに上品じゃないもん。大体、ジーニ相手にそんな事を気にしても仕方ないじゃない!」
「? まぁ、兄妹だしそういうものか」
 憮然と唇を尖らせるリースに、何となく腑に落ちないものを感じつつもジーニアスはあっけらかんと頷いた。
 仲間の少女魔導士リースはカンダタの義理の娘で、彼は盗賊団“流星”の活動で家を空ける事が多かった所為もあって自然とその面倒はジーニアスの家族が見るようになった。それは既に十年に近い年月を重ねた事実で、そんな事情が基底に存在する故に、リースはジーニアスにとって殆どもう一人の妹のようなものだった。それも、聞き分けの良いジェシカに比べるとお転婆で、手間のかかる、という接頭語が度々付随されるやんちゃな妹だ。
 それはジーニアスからの視点ではあったが、対するリースにとって見てもジーニアスは兄に他ならなかった。優しいのは間違いないが、温厚そうな見かけによらず割と礼節や躾に口うるさく、だが血筋に拘る事無く実妹のジェシカと区別する事無い、面倒見の良い兄だ。
 両者が兄妹として良い関係を築いているかと言えば肯定であり、そこに疑いようはない。だが反面、それ以上にも以下にも感情が動かない事は事実であり、蓋然という認識が二人の間に根付いている故の磐石さだった。
 徹夜明けでそろそろ眠気がこみ上げて来たのか、小さく欠伸を噛み殺してリースは凝った両腕を頭上に投げ出し、背筋をピンと伸ばす。言いようの無い解放感に総身を震えさせた後、呆れたような眼差しをジーニアスに向けた。
「相変わらずジーニって朝は早いんだね。でも毎朝毎朝早起きして体操してるなんて……ちょっと爺臭いよ」
「ほっといてくれ」
 遠慮の無さにジーニアスは思わず項垂れる。自分でも薄々感付いていた事実である事もあって、改めて他から言われるとさり気なく傷付くと言うものだ。
 先程までの仕返しと言わんばかりに、少しも物着せぬままリースは続ける。
「だいたい、早く寝て早く起きるにしても、ジーニのはちょっと極端過ぎだよ。赤ん坊じゃないんだからさー」
「良いじゃないか……早寝早起きは健康な証拠だ」
「それもどうかと思うけどねー」
 小さく肩を竦めて踵を返すリースに、何となく言い負けした気分に陥ったジーニアスは深々と吐息を零した。
「……そろそろヴェインも起きてくる頃だから、部屋に戻れよ。目を真っ赤に充血させて、目元を腫らした顔なんて人に見せるものじゃないぞ。大体、徹夜明けで足元がふらふらしているのに甲板に出てくるのは止めろと前にも言ったよな。それで海に落ちでもしたら、目も当てられない」
「し、失礼な事言わないでよっ!」
 他の人間に綴るには失礼極まりない発言だろうが、身内故の遠慮の無さはジーニアスの方も健在だ。あまりにあんまりな言いようにリースは顔を紅くして叫ぶ。まどろみを未だ満喫している者からしてみれば甚だ迷惑な事であったが、幸いにもこの場では意味が無かった。ただ急激に冷たい空気を肺腑に入れた所為で、胸に生じた傷みにリースは威勢を潜める。
「うう、やっぱり明け方は冷えるなぁ……じゃあジーニ、私眠るからね」
「ああ、夕方まで寝ててもいいぞ。絶対に起こさないからな。当然食事も無しだ」
「そんなに寝ないわよ! ジーニじゃないんだからっ!!」
 最後に否定を叫んで勢い良く扉を閉めて船室に戻る。それでも扉の先から聞こえてくる足音は、彼女の感情が荒々しかった事を意味しているのだろう。
 未だ微かに音を乗せている扉を暫し茫洋と見つめた後、ジーニアスは一つ薄らと微笑んで、水平線に既に顔を乗せていた太陽を遠く見据える。

 ジーニアスには、特に功績を挙げて名を世界に知らしめたいという心があるという訳ではない。単に争いを無くしたい、不条理な不幸に塗れて人々が苦しむ姿を見ていられないだけだった。それは愚にも付かない子供染みた理想主義に過ぎなかったが、それを為さんと目指す想いは常に自らの裡に燈り続け、決して消える事は無い。
 今の自分の根幹が築かれた経緯には、嘗ての国を追われた経験が有るのは間違いないだろう。そして、何かを護る為には戦う事は避けられない。血に汚れる事を厭うなど許されない覚悟の根源も、そこに由来する。
 自分の基幹部分に萌した芽は朱く、紅く。血潮を超えて太陽の燈の如く、どんな時も燦爛と煌いている。
 だからこそ輝ける明日を欲し、新しい朝を迎える為に今の旅に出た。この路の先には、新たなる未来へと向い羽ばたく翼があるのだと信じて。

「さぁて、そろそろ朝食の支度でもしようかな。下拵え位しておかないとヴェインに悪いし」
 このパーティの中で調理は武闘家のヴェインが専ら担当していた。自分も料理はこなせるが、彼の腕前には敵わないと認めている。水面下で密かに対抗心を燃やしているが、できるならば美味しいものを食べたいという誘惑もあり、現在はヴェインの補佐に収まっている。暫くこの役回りは動かないだろう。
 シャンパーニから出立前にカンダタの親心から大量に渡された黒胡椒の量も、随分と少なくなってきていた事を思い返す。これから寄港するポルトガで仕入れるのはどうだろうかと考えが過ぎった。
 黒胡椒は遙か東の大陸の、バハラタ地方を原産としている。その貿易を主に取り扱うのはアッサラームの商会ギルドの一翼、マグダリア商会だ。交易王の指示の下、陸路で齎されるそれにはギルドの査定を介している為に関税が掛けられ、その上でロマリア、ポルトガへと流通している。その為、ポルトガでは胡椒の一粒は黄金の一粒と、人々に比喩されるまでに価格が高騰し、一般市民には手が出ない高価な物になってしまっているのが現状だった。
 市場の情状を思い返し、高嶺の花か、と即座に考えを改めたジーニアスは献立を頭の中で練り直しながら船内に入っていった。








 海を渡る船の旅路とは、基本的に潮や風の流れに任せる移動手段であり、その乗り手である人間ができる事はさほど多くは無い。せいぜい潮の流れを読んで舵を繰るか、或いは風の向きに合わせて帆を張るか。船体の大小の差で作業の変動はあれど、基本的な行動に差は無いだろう。
 だがしかし、その現実は旅路を怠惰に過ごせる様な事態を招く事には繋がらない。航海とは、言葉で簡単に語りつくせる程生易しい世界ではなかった。
 大海原の上を往く風は優しく海面を撫でる事もあれば、時に荒々しく掻き回す。風靡の色彩によってその様を変える海の表情には、全てを包み込む大らかで静穏な母の如き面影と、全てを豪胆に打ち砕く怒れる父の形相が同居しているのだ。その顔色を窺いひっそりと寄り添う事ができるものの、一度損ねればどれ程洗練された技術の粋を以って抗ってみても敢え無く圧壊されるだけ。
 自然という大いなる流れの前に、人の力など微々たるもの。往古よりこれに同種の、人の世の無常を詠んだ言葉は多々存在しているが、それは人が何よりも早くに到達した世界の確切たる理なのかもしれない。



 蒼天に惜しげもなく白輝を放つ太陽が天頂に到達する頃。
 肌に心地良い涼やかな風が深藍の海面を煌かせながら優美に奔り、そのまま空に飛び発たつのだと言わんばかりに大きく広げられたつばさに吸い込まれている。それは宛ら、何処までも澄み切った遙かなる大空を往く、行雲の暢達さを想起させた。
 境界の朧な混濁した蒼の虚空と波打ちに際に散華する白漣の唱。その旋律を傍らに、決して遅くは無い速度でジーニアス達の駆る小型の帆船は南への航路を順風に邁進していた。
「もうすぐポルトガかぁ……久々の地面だよね! どれくらい滞在する予定なの?」
 見渡す限り一面は相変わらず変化の無い紺碧の海。だがそれでも着実に目的としている海運国家ポルトガの港に近付いている。
 目的地に到達する前というのはある種の達成感が裡から滲み出てくるようで、衝動的に身体を突き動かすまでの昂揚を齎す。その念に例外なく囚われ、近付いているであろう港を何とか目視できないかと小さく飛び跳ねて船縁から身を乗り出そうとしているリースを、後ろから両手でその肩を押さえ込んでジーニアスは制する。もう何度目かになる注意に、いい加減うんざりしたような表情を浮かべていた。
「休息は勿論、物資の補給や船体の修繕もしておきたいから二週間位は滞在する予定だけど……」
「妥当なところですね。今後の航路を検討しなければなりませんし、世界の最新の情勢を知る必要もあります」
 語尾を濁してジーニアスが視線を動かすと、そこには追い風を受ける帆の張り具合を見上げながら、両腕を組んだ“賢者”ウィルが頷いていた。普段羽織っている重厚な蒼き賢者の外套は纏ってはおらず、平素で楽な格好なのだがそれでも嫌味の無い気品を漂わせているのは一挙一動に躾けられた礼節と教養が彼にはあるからだろう。
 トレードマークである黒の三角帽子を今は被っていないリースは、その紅い髪を潮風に梳かせながら未だに両肩を抑えるジーニアスを煩そうに引き剥がしウィルの下に駆けて行く。そして頭一つ以上身長差があるウィルを見上げ、意外そうに眼を瞬かせた。
「そんな世間の情勢なんて、ウィルの『悟りの書』でわかるんじゃないの? 『悟りの書』って、マナの流脈レイラインから必要な情報を直接吸い上げる事ができるんでしょ?」
「その認識は誤りですよ。『悟りの書』はそれ程まで所持者に都合の良い道具ではありません。厭くまでも『悟りの書』で閲覧できるのは世界の根源的記憶であり、世界とは人間の社会だけに非ず……そしてその閲覧領域とて、所持者の同調深度によって差異がありますから」
 不便な点も多々あるのです、とウィルは懇切丁寧にリースの誤認を正す。正確ではない知識を闇雲に広げる事を好まないのは、やはり“賢者”か或いは研究者としての気質なのだろう。
『悟りの書』の性質は所持者以外に理解を得る事が難しいという事は既に世に根付いた通説であり、やはり説明を受けても納得できていない表情をリースは浮かべている。そんな彼女に向かって突然、宙を泳いで真っ赤な林檎が飛び込んできた。
 小さな悲鳴を挙げて唐突なそれを慌てて掴んだリースは、何事かと飛来した方角へと顔を向ける。そこには普段と変わらず武闘着を着込んだ“武闘家”ヴェインが籠一杯に乗った林檎をジーニアスやウィルに同じように放っていた。
「船旅をしていると、世界情勢から隔絶されてしまうのは避けては通れない。シャンパーニで得た最新の情報の中で最も大きな動きは、聖王国イシスが魔王軍と交戦するのではないかという事だったが……その後はどうなったのだろうか?」
「うん、確かに気になるよね。イシスは大国だから仮に戦争に突入した場合、その勝敗の行方は世界の趨勢を揺るがす」
 冷静な眼差しで呈したヴェインの懸念に、両手で包み込んだ林檎を見つめていたジーニアスも同意して頷く。
 嫌な予感、不穏な噂と言うものは、どういう訳か的を射る事が多いのは世の常だ。そして自分にはどうしようもない事とはいえ、不安を感じてしまうのは人の性なのだろう。
「ポルトガに着いてからの情報収集は綿密に行った方が良いでしょうね。いい加減な噂に躍らされる愚は冒したくありません。私達の目的は途方も無いですから、情報を精査して余事象は避けた方が賢明です」
「現状、頼みの綱はウィルの『山彦の笛』だけだもんねぇ……まずはランシールなんでしょ?」
「ええ。“翼の封印たる竜種の遺産ドラゴン・オーブ”の一つ、『希求されし衆望の青ブルーオーブ』は、ルビス教の聖地“地球の臍”に安置されていると往古より伝えられています。唯一場所が明示されている“青”をまずは何としても手に入れておきたい」
 今現在、ジーニアス達の船旅の目的地は遙か南方に浮かぶルビス教国ランシールだった。ランシールは海運国家ポルトガから南下し、最短の航路を辿った上で少なく見積もって三ヶ月はかかる程の距離である。その間、補給の為に何度か接岸を余儀なくされるだろうが、現在向かっているポルトガ程の大都市は地理的に無い筈なので、心許ないといえば嘘ではなかった。
「その為にも滞在時間は有意義に使おうよ。久々の地面だし、充分に骨を休めるのも悪くないと思う」
「遊びに行っても良いの!?」
 ジーニアスの提言に、船縁に背を預けていたリースは目を輝かせて破顔する。そんなわかりやす過ぎる変貌を目の当たりにして疲労感が増した気がしたが、ジーニアスはしっかりと釘を刺した。
「……やる事をやってからな」
「わかってるって!」
 小さく飛び跳ね、その場でくるくる回って何をしようかと考えを巡らせはじめたリースを横目に、本当かよ、と口腔で小さく呟きジーニアスは額に手を当てた。
 確かに船旅と言う閉塞された環境が長く続けば、本人の知らない処でストレスは蓄積されるものだ。特にこんな危険な旅路の上、リースはまだ齢十五の少女だ。成長途上で柔軟に広がる心に対し、この船は狭すぎるのだろう。
 つくづく妹には甘いかな、とジーニアスは自嘲しながらも、小さく笑みを零して未だ見ぬ新天地に想いを馳せているリースを眺めていた。



 熾烈を極める蒼の領域を漕ぎ進むジーニアス達の小型帆船は、盗賊団“流星”が所有している船舶の内の一隻で、その出所は海賊船団“海皇三叉鎗トライデント”から寄贈されたものである。
 海と共に生きる者達にとっての守護神である大海神ポセイドン。その存在の象徴とも言える神器『海神の鎗』の名を恐れ多くも冠する海賊船団は、世界の海を駆ける者の間で知らない者などなく、畏怖と敬意を同時に受ける対象だった。
 そんな彼らが、自らの生命線とも言える船舶技術を他組織に提供しているのは、盗賊団“流星”現首領ノヴァ=ブラズニルと、海賊船団“海皇三叉鎗”現提督のナディア=ネプトゥスの間で交わされた協定により、同盟関係を結んでいるからだ。そしてその関係は公にはされていないものの、両組織は突如として世界同盟から脱退して鎖国政策を徹底しているサマンオサ帝国へ反旗を掲げていた。
 同じ色の旗を掲げる為の土台を築いたのは、彼らの前の世代…盗賊団“流星”の前身、サマンオサ帝国遊撃騎士団“流星”団長のクエーサー=ブラズニルと前提督リヴァイア=ネプトゥスが親友同士であった事に起因する。
 元々ブラズニル家はサマンオサ四公爵の一翼を担っていた筆頭貴族で、帝国南部地方という国内屈指の広大な領土を治めていた。“海皇三叉鎗”とブラズニル家はその頃からの付き合いであり、エレイン家とも古くから交流があったのだ。しかし“勇者”サイモンを叛逆者に断じた事を発端とする政変が悪化の一途を辿る国から遂には離反した。その際、彼の指揮下であった遊撃騎士団“流星”は姿を変え、反帝国を掲げる盗賊団“流星”が発足した。
“海皇三叉鎗”が独自に建造した船舶は、世界最高水準とされるポルトガの造船技術を以ってして建造された船舶と比べても性能に遜色は無い。寧ろその設計思想より、船速と少人数での運用の面に限定するならば優れていると言ってもいいだろう。更にジーニアス達が駆る帆船には、ジーニアス自身が紡ぐ魔物避けの魔法トヘロスを、船体に幾つも埋め込まれた魔晶石とそれらを包含連結する魔方陣によって増幅する機構を備えており、強化された結界でここ近年、航海における新たにして最大の脅威と認知されるようになった魔物を遠ざけていた。
 今の時勢、陸であろうが海であろうが、魔物は何処にでも存在する。それは動かない現実だ。魔物という存在を原生生物、或いは物質を“魔”に変異させた存在として定義する以上、世界のあらゆる場所には魔物を出現させる確固たる因子を先天的に秘めている事になる。そしてそれに場所という些細な例外など無かった。
 加えて言うなれば、海棲の魔物は陸上のものより凶暴性に富むものや大型のものが多く、決まってそれらは単独ではなく群れを形成して、横柄に自分達の頭上を往く旅人達に襲い掛かってくるのだ。その中でも律儀に甲板に這い上がり、その場に犇いている個人個人を襲って来るならば迎撃は容易い。だがそのような状況は普遍的ではなく稀であり、大抵は船を包囲してから船体に直接攻撃を仕掛けてくる。
 現在、船乗り達の間で最も恐れられているのは、乗員に気付かれる事無く海中から船底を狙って来る魔物だ。最悪の結末としては、知らぬまま自分達は足場を失い、魔物の領域である海中に引きずり込まれ、何の抵抗もできぬまま大勢の魔物に蹂躙される事だろう。
 大いなる海原を往かんとするならば、魔物に対しての策を事前に、入念に施しておくのは今や必須事項であった。



 甲板上に泰然と立つ帆檣はんしょうに埋め込まれた魔水晶に向けて、ジーニアスは魔物除けの結界魔法トヘロスを紡ぐ。幾重もの清廉な光の帯が掌から発せられ、それは湯水を注ぎ込む如く水晶に吸い込まれて石は澄んだ青の光を灯した。
 これでまた暫くは船体の結界が持続して、少なくとも魔物に襲われる事態は回避できたと言えよう。自分に課せられた大切な役割を完遂し、充足感と共に軽い疲労からジーニアスは深く吐息を零す。魔水晶と魔方陣を連結させて増大化しているとはいえ、巨大な船体を覆う程の結界の更新作業は見た目以上に重労働なのだ。
 傍に積んであった生活雑貨を入れた木箱の一つに腰を下ろし、ジーニアスは再度深呼吸して額の汗を拭う。連続的に魔力を消耗する事によって逆に精神面アストラルサイドが鍛えられるとはいえ、不得手の克服はまだまだ先の長い道のりだった。
 向上の意識を自分の中で密かに熾していると、先程まで積荷の目録を片手にヴェインと確認作業を行っていたウィルがいつの間にか歩み寄っていた。
「そういえばジーニアスはポルトガは初めてですか?」
「ん……いや小さい頃、一度行った事があるよ」
「そうなの?」
 風向きの所為で会話が聞こえたのか、視界の外からリースが割り込んでくる。
 ジーニアスは記憶を手繰り寄せようとして、小さく頭を振った。
「でも本当に小さい時の事だから……もう殆ど記憶に残って無いからルーラでも行けないんだ」
「へぇー、何しに行ったの?」
「父さんと一緒に知人の家に招かれたんだよ……そうだなぁ。せっかく訪れるんだから挨拶に伺おうかな」
「ふーん、ねぇ誰なの? 私の知っている人?」
「……お前、さっきから遠慮無さすぎだな」
 好奇心からか次から次へと詰問を繰り出すリースに、若干憮然としたようにジーニアスが声調を低めると、彼女は実にあっけらかんと返した。
「だって興味あるもん。サイモン様が直々に他国に出張るなんて、ちょっとした国交じゃない!」
「それは確かに」
「非公式なんだろうが、正論ではあるな」
 リースに感化された訳ではないだろうが、ウィルやヴェインまでもが彼女に同調を示し、大げさな、と口から出かけたジーニアスだが、事実当時の父の立場と訪ねた相手の事を思えば強ち間違いでもない。そう思い直してジーニアスは浅く呼吸を整えた。
「父さんの弟子だったカルロスさんだよ。カルロス=ガルディニア王て……あ」
「……カルロス?」
「カルロス?」
「……もしや、王弟カルロス公の事ですか?」
「え、あ……ああ、うん。まあね」
 初めて聞く固有名詞にリースは首を傾げ、ヴェインは耳に残るものがあったのか目を細める。そしてウィルによって明示されて、逆にジーニアスは狼狽する。話題の彼の者の事情を思い出し、些か軽率だったかとの悔悟の念が胸中に生じたのだ。
 何か言葉を続けなければとジーニアスが言い淀んでいると、そんなジーニアスの心情など露知らず、リースが目を輝かせて最も顕著な反応を見せた。胸倉を掴みかからん勢いで身を乗り出して、ジーニアスに詰め寄る。
「ちょっと、マジ!? ポルトガの王様の弟と知り合いなの!?」
「あ、いや……うん。そう――」
「水臭いじゃない! 王族と知り合いならもっと早く言ってよねっ!! 知人が来たって知ったら、きっと豪勢なお出迎えがあるかもっ!」
「……言うんじゃなかった」
 どんな想像を繰り広げているのか、夢見心地に表情を蕩けさせるリースを前に心底後悔してジーニアスは項垂れた。リースの性格ならばこんな嬉々とした反応を示すだろうと直ぐに思い至ったのに、と内心で臍を噛み締める。
 鈍重な空気を纏うジーニアスに苦笑を零し、ウィルは助け舟を出さんとリースを宥めた。
「まあまあリース。ポルトガ王弟カルロス公がサマンオサ帝国に留学し、ジーニアスの父君、エレイン公爵に師事していたのは割と周知の事なんですよ」
「そなの?」
「そうなの?」
「……お前は知らなかったのか」
 リースに続いてジーニアスまでもが意外そうな顔をして同時にウィルを仰ぐものだから、傍から見ていたヴェインは呆れたような溜息を吐かずにはいられない。
 気恥ずかしさに思わず背を縮込ませてしまったジーニアスを見下ろしたまま、そういえば、とヴェインは小さく頷く。
「王弟カルロス公と言えば、魔竜討伐の十勇傑の一人だな」
 漸く名前と記憶が繋がったのか、一人納得するヴェインにリースが目を瞬かせる。
「何それ? また何か妙な称号がでてきたね!」
「仮にも偉大な功績を遺した人物に対して贈られた呼称を、妙とかで片付けるなよ」
「だって知らないんだもん。仕方ないじゃない!」
「威張るんじゃない」
 えへん、との擬音を発するように両手を腰に掛けて胸を反らせるリースと、最早諦観の心境で毒吐くジーニアス。二者二様を微笑ましく眺めながらウィルは連ねた。
「魔竜というのはですね、今より二十年程前にバハラタ北の森林地帯に降り立った竜種の事です」
「え、竜って実在するの? そりゃあ御伽噺や伝説とかで良く出てくるから、元になるモチーフはあるんだろうけど……ほんとに?」
 半信半疑で疑問符を幾つも浮かべるリースに、ウィルはしっかりと首肯する。
「バハラタを擁する中央大陸北部の山脈は“亢龍の臥床ドラゴンズ・ホール”と呼ばれる程、その存在が数多囁かれている土地です。昔から竜種の存在を示唆する化石や痕跡が多々発見されていますし、バハラタ地方の土着信仰でも竜は神の使いとして神聖に厳粛に崇められています。これは余談ですが、バハラタはイシス統治下でラー教圏内にありながら主として信奉しているのは風の竜神フェレトリウスなんですよ」
「あの辺りは近くにダーマもあり、宗教分布の観点から見て複雑な場所なんだ」
 自治都市バハラタは聖王国イシスに帰属しているものの、ラー教の信仰は薄かった。その理由として挙げられるのは土着信仰として竜が厳かに崇められている事に加え、宗教として明確な団体を形成している訳ではないが世界樹…豊饒神ユグドラシルを大々的に崇めているダーマ神殿が近隣に存在し、更にはバハラタ港から南に拓かれている航路の先にはルビス教団総本山、聖殿ランシールが居を構えている。
 中央大陸南部地方は大宗教が幾つも顔を並べる静かなる邂逅の地で、歴史的に“協会”が発足される原因ともなった宗教戦争の舞台となった土地でもあった。
「ねぇねぇ。竜って神聖な存在って言われるのに、何でバハラタに現れた竜は竜なんて呼ばれてるの? 矛盾してない?」
 いたく興味を擽られたリースの無垢なる疑問に、ウィルはそっと笑みを消す。
「……そうです。遙か古に世界から去っていった上位種である竜が現れたという事。それは本来、世界に対しての警告…真摯に受け止めるべきだったのです。ただやはり時期が悪かった。いえ、あの時期だからこそ竜は彼の地に降り立ったのでしょうが……」
「え、どういう事?」
 視線をリースから外し、ウィルは言葉を濁して遠く水平線を睨む。静謐に真摯に海を見据える姿は、どこか悔恨の念を漂わせていた。
 突然黙ったウィルにリースが困惑を浮かべていると、ヴェインが途切れた話題の糸を掬った。
「簡単な事だ。魔王がこの世界に降臨し、魔物が現れ始めたのは凡そ二十年前。魔竜が降り立った時期とほぼ一致している」
「あ! もしかして魔物の仲間か何かと思われちゃったの?」
「そうです……それ程までに世界は突如として現れた異形への疑念が深く、余裕がなかった」
 傷みに耐え、搾り出すようにウィルは紡ぐ。
「手に届く場所に現れた異形に対し、当時権勢は既に廃れつつありましたが世界同盟の盟主アリアハン王国、そしてその次席であったサマンオサ帝国の両国を中心に魔竜を討伐せんとの動きが起こりました。その号令に国境を超え、人種を超え、国是や身分、名声をも越えて様々な境遇の勇士達がバハラタに集ったのです。その中でも特に秀でた能力を持っていた者、功績を残した者達を総じて十勇傑と呼んだ……当時、魔物に怯える市井の人々に対してその恐怖心を逸らす為の喧伝でもあったのです」
「十勇傑かぁ……何か凄そうだね。どんな人達がいたの?」
「リースも知っている名があると思うが――
“剣聖”の子にして、魔王軍よりアリアハン王国を救った始まりの英雄。“アリアハンの勇者”オルテガ=ブラムバルド。
 ルビス教団にて“神の寵愛を受けし者アマデウス”と呼ばれたアリアハンの武僧、ルカス=ライズバード。
 聖殿ランシールより遣わされた、精霊神より齎されし黙示を語る盲目の預言者サラサ。
 魔王軍侵攻を打ち破ったサマンオサ帝国屈指の星天騎士団を統べる勇将。“サマンオサの勇者”サイモン=エレイン。
 星天騎士団と肩を並べる帝国遊撃騎士団“流星”団長、“天鷲”クエーサー=ブラズニル。
 当時サマンオサ帝国に留学し、サイモン公に師事していた、海運国家ポルトガの王子カルロス=ガルディニア。
 七つの海を股に駆ける私掠海賊船団“海皇三叉鎗”提督、リヴァイア=ネプトゥス。
 機工王国エジンベアを中心に栄える大地神ガイア教の宣教師だった少女神官、アトレイシア=F=セトラ。
 聖王国イシス、ラー教団神官戦士“剣姫”セクメト卿の甥、ネフェルテム=メンフィス。
 そして、ダーマ大神官ラジエル様が一子、魔導師ファウスト=ベニヤミン。
 ――以上だ」
「へぇ〜何だか錚々たる顔ぶれだけど……なんで“十三賢人”に数えられている人達は入っていないの? 凄い人間の代名詞と言ったらやっぱり“十三賢人”だと思うけどなぁ」
「お前な……エジンベアの少女神官アトレイシアは、後に“十三賢人”の一人に数えられる“双天使・督”だぞ。母さんに教えられただろ?」
 ジーニアスの冷静な指摘に、リースは気が付く。そして十三賢人の一人アトレイシアは今現在では公式に故人となっているという事を思い出した。
 世に流れる事実を脳裏に浮かべながら、“賢者”であるウィルが同調した。
「当時十七歳の彼女はまだ修行中の僧侶だったんです。魔竜討伐後、その素質を“慧法王”様に見初められてダーマに留まる事になり、直ぐに“賢者”になった」
「と、当時十七歳っ!? じゃあそれから“賢者”に転職して亡くなるまでの十年の間に“十三賢人”の一人になったの? どんな早さなのよっ!」
「正確には三年…彼女が二十歳になった時に拝命したそうです」
 全身で驚嘆を表するリースであったが、それは寧ろ当然の反応だと言えるだろう。賢者認定機関ガルナより正式に“賢者”の職が与えられるのは『悟りの書』を得る事が出来た者であり、“賢者”を志望する者達はその試練に満を持して挑まん為に、日夜ダーマ神殿にて己の研鑽に勤しんでいるのだ。
 努力と素質の天秤が等しく均された者でも就ける保障の全く無い“賢者”という存在。それ程までに極められた場所にあっさり到達したのだから、アトレイシアという故人には敬服してしまう。
 同じ“賢者”と言う点で、その類まれな部類に入るであろうウィルにしても、“賢者”になったのはこの旅路をはじめる直前だったと聞いている。リースは目を丸くしてウィルが続ける言葉を待った。
「確かに彼女の昇格の速さは異例中の異例でしたね。ですが彼女にはそれを納得させるだけの天賦の才があった。エジンベアの大貴族セトラ家は、代々高名な魔導士を輩出してきた名家…血統に連なる資質に疑いは無いでしょう。仮に彼女が今も生きていたのならば、次期“首座賢者”候補筆頭なのは間違いないでしょう」
「……世の中には凄い人がいるのねぇ。血筋がどうとかってとこは何か納得がいかないけどなぁ」
 最早リースは万感を超えて呆然と吐息を零すだけだ。
「だけど、十勇傑の中で最年少と言えばカルロスさんだよ。二十年前といえば確か今のリースと同い年ぐらいだったからな」
「ええっ!?」
 逐一素直な驚きを見せるリースの頭に手を置いて、ジーニアスはウィルを仰いだ。
「気になったんだけど……魔竜討伐には十三賢人はおろか、“賢者”達も関わってはいないんだったね。ダーマは近傍だから真っ先に動くと思うんだけど」
「“賢者”達を統率するのは“魔呪大帝”様。御方の勅旨にて、当時の“賢者”達は魔竜に対して一切の不干渉を定められました。当然反発はありましたが、詔勅に背こうとした者達は悉く『悟りの書』を一時的に閉ざされたのです」
「え、何で? 魔竜って悪い奴だったんでしょ?」
 ウィルはゆっくりと首を横に振る。
「違います。魔物と同種の存在だと一方的に危険視して戦いを仕掛けたのは……人間側です。“魔呪大帝”様は知っていたんですよ。その竜が、魔王という存在の出現とそれに伴う危機を予見し、人々に自衛の策を与える為に遙かなる竜の次元より舞い降りたという事を」
「じゃあ何もしていない竜に、人間達から襲い掛かったっていうの!? 酷い……」
「当然そう思いたくなるだろうが、……状況はもっと混沌としていた」
「へ?」
「竜という存在に誘われたのは人間だけではなかったんだ。竜という存在が齎す強大な力の波動は大勢の魔物をも引き寄せてしまった。十勇傑達が直接戦ったのは、主に魔物だったと言っても過言はないだろう」
 最早言葉だけで想像が像を結ばない混沌とした状況に、リースは白旗を上げた。
「……結局、その竜はどうなったの?」
「オルテガ、サイモン、リヴァイアの手にかかって滅びました。十勇傑達の中でも魔竜に傷を付ける事ができたのはその三人だけ。何故なら、彼らは星辰六芒剣の一振りを携えていたからです」
「星辰六芒剣……僕の『烈炎の剣』もその一振りなんだよね。まあ、これは元々父さんが使ってたものなんだけど。確かオルテガさんが『聖剣・奇蹟の剣』でリヴァイアさんが『魔剣・吹雪の剣』だったね」
 今は腰に佩いている愛剣の柄に触れながら、誰にでもなく一人呟く。『奇蹟の剣』はオルテガと共に失われ、『吹雪の剣』は自分と同じように次代に継承され、今はナディア=ネプトゥスの手にある。
 自分の運命を予感して継承させたのか、今ではもう決して知る事の出来ない父の真意。それを考えると柄から掌に大いなる熱が移り、一層剣の重みが増したような気がした。
「はいはい! どうしてその剣じゃないと駄目だったの? 市場に流通している『斬竜剣ドラゴンキラー』とかで攻撃すれば、誰でも討てたんじゃない?」
 ドラゴンキラーという名で世界に知られるその武器は、竜に対して特別な効果を秘めている……という訳ではない。あくまでも鋼鉄よりも硬いとされる竜鱗をも貫けるという、威力の大きさを誇張して伝えんが為の文句の類だ。素材に竜の牙や骨を用いて強化した『殺竜剣ドラゴンスレイヤー』という剣もあるが、世界に数本しか無いとされ、その存在は眉唾として商人盗賊の間で囁かれるだけだ。
「いいえ。ドラゴンキラーが通じるのはせいぜい下級竜種……魔物化してしまう程度の存在だけ。それ程までに魔竜と恐れられた竜種は高位の存在だった」
 その竜を悼んでか、ウィルは遠い眼差しで空を見上げる。“賢者”としてより世界の根源に近いところに立つ為か、竜を憐れに思ったのだろうか。
 ジーニアスが測りかねていると、いつの間にかウィルは自分をまっすぐに捉えていた。
「竜討伐の騒動が終結した後、特に働きの良かった三人、オルテガ、サイモン、リヴァイア。その内、海賊という理由でリヴァイアを候補から外し、オルテガとサイモンの二人に同盟は聖殿ランシールに申請し、“勇者”の称号を与えた。各国独自に定めるものではない世界の“勇者”の名を」
 その言葉にジーニアスは心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥った。
 ランシールで認定された“勇者”の名があってこそ、オルテガにしろサイモンにしろ各国を自由に渡り歩く事ができ、様々な援助を受けつつ衰退の途を辿っていた同盟を纏めて連合軍を結成させるに至ったのだ。
 ちなみに、現在“アリアハンの勇者”であるユリウスが地道に各国を渡り歩き功績を残さなければ認められないのは、その称号がアリアハン単一で定められたものに過ぎないからだ。言うなれば、称号の格の差というものだろう。
「それが、父さん達が得ていた“勇者”の称号のルーツか……」
 愕然と呟くジーニアスに、そうです、とウィルは厳かに頷く。
「……その後、十勇傑の方々も様々な不幸に見舞われ、十年前の連合軍に参加した者達もただ一人を除いて全滅しました。そしてその唯一生き残った者こそ、指揮官であった件の王弟カルロス公……敗戦の責任を取らされ王位継承権を剥奪された、元王太子です」
 冷然とした菫色の眼差しでウィルは締めくくる。その重々しい余韻に、誰もが言葉を継げず。ただ潮風と波の音だけが場を支配していた。



 遙か水平線の彼方に、うっすらと影が浮びあがる。
 それは徐々に両手を広げていき、幾隻もの船の輪郭が明瞭になってくる。
 海運国家ポルトガはもう、間近だった。








 青天の下。忙しなく人が行き交う街並みの中を、ゆるりと進む二つの人影があった。
 一つは細身で長身の青年。陽に梳けて金色に煌く薄茶髪が肩にかかり、纏った漆黒の外套に良く映える。そしてもう一つが、男の半分にも満たない背丈の少女。珍しい薄桃の髪を黒衣の上から無造作のまま背に流し、緋色の双眸で無感情に周囲の街並みを見回している。
「……ここが、ポルトガ?」
「ああ。……しかし相変わらず無駄に人間が多いな、ここは」
 周囲に目を走らせながら忌々しそうに零す男には反応を見せず、少女はその儚い声色と違わず淡々と問うた。
「ここで、……おしご、と?」
「そうだ。いずれ始まる祭の為の大切な下準備さ」
「……おまつり」
 皮肉気に男が口元を歪ませて頷くのを見上げ、少女もまた殆ど無表情であったが本当に幽かな笑みを浮かべていた。




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