――――第五章
      第二八話 太陽は飛翔すはばたく







 魔王軍との戦いが終結し、既に十日が過ぎ去っていた。
 暦は双子から巨蟹の月へと移り変わらんとしている。その狭間を刻々進む今日という日は、イシスに住む人々にとって重大な意味を持つ日になるのを、街往く人々…いや、聖都を越えて砂の大地に住む全ての人々が実感していた。
 魔物という暗雲が立ち込める世界の中で、人心を暖かく見守る新たなる太陽が昇ろうとしていたのだ。

 聖王国イシス、第三六代ファラオの戴冠の日である。



 謁見の間はかつてない喧騒に満ちていた。
 その場所は本来ならば荘厳なる威厳を振り翳す為に、静謐に佇む事こそを是とする様相なのだが、今日だけは眼が眩むまで金銀宝石によって煌びやかに装飾されている。また、大広間の一角に配置された宮廷楽師達が奏でる優美な音色が風のように流れていて、平時から常備されている花壇には、より多く色取り取りの花々が生けられ鮮やかにその芳しい香りを一層強く周囲に漂わせていた。
 この日、これから正に行われんとしているのは戴冠の儀式。そしてこの儀式の進行を司るのはラー三司教の一人イスラフィルであり、彼女の補佐を残りの二司教が担う。その三人の指揮下で、数十名にも及ぶ神官が謁見の間に犇く人の波を掻き分けて忙しなく行き交っていた。
 古来からの慣習により、聖王国イシスにおいて歴代王の戴冠は、代々ラー教団三司教より選出される“霊療”の手によって行われる。他国においてその役割は存命中の先王の手、或いは国教に掲げる宗教組織の高位神官によって委ねられる事が通例であったが、ここイシスでは一貫して“霊療ネフティス”から“王裡アセト”へという形を執っていた。これは開国より神権統治を布く王の即位が、同時にラー教団大司教就任を兼ねている事からであり、国と教団という二つの大勢力の象徴を一極集中する事で支配力と求心力を束ねようとする政治的思惑の具象。人の世を平定する権限は神より齎されるものとして、太陽神ラーと代理人“ラーの化身”との結びつきをより強く磐石にする王権神授の理念に基いての事であった。
 もっとも、それは歴史上何度も行われた宗教改革、神政分離政策、そして全世界における宗教監査統制機構である“協会”の存在などの内外的要因もあって、ここイシスでは既に廃れた慣習に過ぎない。だが、その格式高い伝統の名残は形骸化してなお時間に押し潰される事無く、連綿と継がれ今日でも続く事に至っていた。
 このような背景もあってか、大広間の大半を占めている式典の参列者達はこの国の有力な貴族達だけでなく、ラー教団関係者達の姿も数多くある。貴族達の麗雅な衣装に対して神官達のそれは重厚だが質素で我を主張する事は無く、それらが混同して一同に会する様はある意味異様であったが、不思議な調和が確かにこの間に充満していた。

 その謁見の間の片隅に、式典開会を前に騒然としている場の雰囲気に気圧されながら佇む数名の人影がある。他の参集者達に比べ随分と歳若い顔ぶれが、着慣れない衣装に身を包んで居心地が悪そうにしている様は確かに浮いていて、否応無く周囲の奇異の眼を引き寄せてしまっていた。
 部屋の隅に陣取る一団から手近な場所で談笑していた貴族達の、無遠慮なまでに値踏みする尊大な視線に身を小さくしながら、その中の一人であるソニアが小さく声を発した。
「いいのかしら……戴冠の儀式に私達が参加しても」
 不安に揺れる紅の双眸を揺らしながら、薄青を基調とした露出の少ないドレスに身を包んでいるソニアは傍に立つミコトやヒイロに密やかに尋ねる。国家の厳粛なる式典に、一介の冒険者が参列するなど本来ならば絶対に在り得ない事であるのを、アリアハン宮廷司祭の身であるソニアは理解しているつもりだった。
 それ故に気弱になっているのだろう。そんな鷹揚になりきれない神経の細い少女の内心を慮ってヒイロは穏やかに言った。
「“双姫”直々の正式な招待だから周囲に気後れする必要は無いと思うけど……とはいえ、不必要に堂々としている訳にもいかないか。まあ招かれた者は招かれた者の領分は越えないよう大人しく見ている事にしておこうよ。戴冠の儀式に参加できるなんて貴重な体験だし、つまらない不興は蒙りたくない」
 気楽に言うヒイロは用意された貴族服とは趣向の異なる小洒落た礼服スーツをそつなく着こなし、その佇まいは本当に板についていた。白銀の髪の珍しさが余計にその凛然とした雰囲気を引き立て、周囲から幾つもの好奇を集めていたのだが、本人はまるでそれを気にしている様には見えない。周囲の視線に無頓着というか、肝が据わっているというかソニアとしては羨ましい限りだった。
「……それもそうね。戴冠式なんて私も初めて参加するから、何だかすごく緊張しちゃって」
 首を傾げて小さくはにかむソニアの表情は、無意識なのかやはり強張りが隠せていない。だがそれは彼女の生来からの素直な気質の所為なのだろう。
 そんな初々しい反応を好ましく思いながら、ヒイロは一つ笑みを零した。
「アリアハンではこういった式典は無かったのかい? 君は宮廷司祭だと言う事だし、年内行事で参加する機会はあったんじゃないかな?」
「……いいえ、時期的にそう言った式典は無かったわ。今年に入って行われた国を挙げての大々的な式典は、年始の大号令と“アリアハンの勇者”の叙任式があったのだけど、私はまだその時は神学校を卒業する前だったから、あくまでも一市民として城下で催されるお祭に参加しただけなの。それに宮廷司祭の任命式は王宮内の礼拝堂で、司祭達だけで行われるものだった上、司祭に就いてから二ヶ月もしない内にこの旅に参加する事を決めたから。“勇者”の出立式は最後の方に、供として顔を合わせた程度だったし……何だか改めて思い返せば、私って本当にそういった機会に恵まれていないな」
 今年に入ってからの自分史を思い浮かべて、ソニアは少し残念そうに苦笑を浮かべた。そのソニアの笑みは決して自嘲ではなく、自らを取り巻く環境の変遷があまりにも急激で、常識を逸脱するまでに奇抜だったので少し可笑しくなったのだ。確かに一年前まではただの一市民に過ぎなかった自分が、こうして故郷を発ち、世界有数の大国イシスの戴冠式に出席しているのだから、その目まぐるしさは驚異的とも言い換える事ができるだろう。
 事実、今の自らの立ち位置は尚も激流の中にあり、その時々の環境に馴染む暇さえ無い程に次から次へと押し寄せてくる新たなる現実の波が訪れ、慌しく築いた世界を掻き回す。それに呑まれまいと意識をしっかり保って日々を送るだけで精一杯なのがソニアの実情だった。
 だが同時に思う事もある。静穏を望む者はしばしば変化を恐れがちだが、しかし変化に揉まれる事は悪い事だけではない。自分のこれまで知らなかった新鮮な価値観を齎し、蓄積する。様々な刺激を受け、それに順応し自らの基盤に吸収する事こそが人間的な型枠を拡げるのだとソニアは最近考えるようになっていた。しかしそれは決して己の内に在る信仰の否定ではない。ただ在るがままに享受するだけではなく、自分の中で投影した信仰をどのように消化するのか。その過程を考える事も必要なのかもしれないと思うようになったのだ。……例えそれがたどたどしい足取りであっても。
 正にも負にも多様に傾く意識は、多分故郷に居たままで気付く事の無かったのだろう。その意識の改変もまた成長であり、足を止めずに前進できている事の証明になる。ただし、同時に先の見えないみらいに対しての不安を常に意識の底に残す懸念材料にも成り得るのだった。
 ヒイロの気遣いで少し落ち着きを取り戻したソニアは、身嗜みの一環だと従者サクヤの計らいで半ば強制的に身に着けさせられた首飾りや腕輪を所在無さ気に指先で玩んでいるミコトを見た。
「そういえば……ミコトはどうなの?」
「え? あ、いや……無い事も無いんだけど」
「?」
 性格的に装飾品で着飾るというのを余り善しとしていないミコトは、やはり馴染まない首飾りや腕輪に意識が取られてしまっていて、急に話を振られた事で大きく狼狽する。ただヒイロとソニアの会話自体は捉えていたようで、返答を模索して言葉を濁らせた。
 ミコトは深紫に銀糸が映える両肩や背が大胆に開いたスパンコールドレスを身に纏いながらも、両腕を組んで思惟に浸る姿はどこか鋭ささえ醸す麗雅さだ。普段両側で結われている髪を解いて艶やかな黒滝を背に流している事が一層凛とした雰囲気を際立てている。だが同時にその姿は、髪の長さに差はあるものの何も知らない人間が見ればこの国の重鎮である“剣姫”アズサと見紛うても仕方が無い程に瓜二つ。実際にこの場でも何度かアズサと間違えられていた為、逐一その事への訂正文句を連ねるのには些か辟易しているようだった。
 周囲に与える俊爽な印象とは裏腹に、ミコトは所在無く視線を泳がせてはどもる。何を言うべきか、と思惟に浸かる兆しが見て取れた。
 これまでそれなりに多くの時間を共有し、信頼という絆で結ばれた仲間達であっても、自分の事情に関連する全ての事柄を話した事は無く、あくまでも断片的な情報を吐露した記憶しかない。それは単純に、仲間を信頼していないから打ち明けられないという事ではなく、自分の都合に巻き込みたくないというミコトの本質的な情によるものだった。
 自分の出自を明らかにしようとも、肉親を苦しめている魔族を討つ目的の為、と言えば人の善い皆の事だから率先して協力してくれるとも思える。だがその目的達成の為には、巻き込みたくないと思いながらも“アリアハンの勇者”を完全に巻き込む事を前提とする手段しか想定していない。
 また、冒険者という根無し草に身をやつした自分が、こんなにも心穏やかな環を得られるとは出国当初思いもしなかった。それ故に手放したくは無いという思いが確かに芽生えてきている。しかし、それでもどのような侮蔑や非難に曝されようとも自らの責務を全うする気構えもまた、依然として己の裡に存在していた。
 これらの二律背反から結ぶところ、未だ自分の心中で折り合いがついていない大いなる矛盾による躊躇いが、言葉を継げなくさせた主だった原因といえるだろう。
 自らの思惟が完結し、やがて諦めたように一つ吐息を零してミコトは声に疲弊を滲ませた。
「……故郷くににいた頃、朔夜や弥生に何度も国の行事には強制参加させられていた。文化様式の関係で儀式形態はこちらと違っているから想像し難いと思うけど、長時間板間で正座させられるのは何の苦行なのかと子供心に思った程に過酷だったな」
「それは……」
 今一想像が及ばないが、実直なミコトがこうもあからさまに厭うているのだから、心底嫌だったのだろうとソニアは思う。
 その言質は常に礼節を重んじているミコトからは想像できなかったが、彼女が倭国ジパング出身で、しかもそれなりに高貴な家の出であるのは聞いていた事。そして僅かではあるがアッサラームより同行しているミコトの従者サクヤの容赦ない強かさを見ているから、寧ろ妙に素直に納得できてしまった。
 同じような事を思ったのか、横に立つヒイロが幾許か憐れんだ眼差しでミコトを見下ろしていた。
「……正直な話、私はこういった場が苦手だ。今回のように招かれる以外で参加する事は御免蒙りたいな」
「そんなユリウスみたいな事を……あ、いえ、あなたがそう言うなんて意外ね」
 素直に口から零れた言葉に、ソニアは慌てて言い換える。その様に、ヒイロやミコトは一斉に吹き出した。
 ちなみにユリウスも例に漏れずこの場にいた。彼は三人から少し離れた壁に背を預け、相変わらず周囲の会話には我関せずを貫いていた。一連のやりとりはユリウスにも確実に聞こえる筈の声量で織り成していたのだが、眉一つ、瞼一つ動かさない彫像染みた沈黙を護っているのは微塵も興味が無いからなのだろう。もっとも、聞こえていたとしてもユリウスが他人の揶揄…本人を目の前にした陰口などに逐一反応を示すとも到底思えなかったが。
「ところで、今日という日に何か特別な意味があるのか?」
「ん?」
 ミコトの何の変哲もない言葉に、ヒイロは首を傾げる。
「いや、復興作業も途中なのにこういう式典を開くなんて、さ。戴冠の儀式自体の重要性は解かるけど、状況が状況だし……他の全ての日程を凍結してまで敢行するという事は、外す事ができない何らかの理由があるのかと思ってさ」
 終戦より然程時間が経過していない為に城下の荒廃は未だ痛々しさに溢れかえっている。だというのに、宮中ではこうして絢爛豪華な宴に興じている現実……いくら国を挙げての祭典だとしてもその格差は明らかであり、寧ろ民を蔑ろにしているとさえ受取れる。
 イシスの頂点に立つフィレスティナを初めとする、双姫のユラやアズサ、執政官達が決してそれらを善しない人格であるのは承知していたからこそ、それでも行われたこの式典はそれ程までに重要な意味があるのか、今日という日でなければならない理由が存在しているのかとミコトは率直に疑問を覚えたのだ。
 真剣な顔付きで見上げてくる緑灰の視線を受けながら、ヒイロは琥珀色の双眸を伏せて思案の網を手繰る。そしてその隙間から次々と浮かび上がる泡沫を咀嚼しては、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「それは多分……今日は夏至だから、かな」
「夏至? 一年で太陽が最も長く空に在るっていう……今日がそうなのか?」
 予想だにしなかった単語の登場にミコトは眉を寄せて重ね言うと、ヒイロは淡々と首肯した。
「この国の価値観じゃ夏至は太陽の加護が最も強く得られる日、という事になるんだろう。事実、この国の歴史書を紐解いてみても、歴代の王達の戴冠は往々にして夏至の日に成されていたし、今でも教団として重要な祭儀はこの日に行われているよ」
「成程……太陽神ラーを信仰しているのなら、その関連性は頷けるか」
 太陽を尊び、その存在に憧憬を抱くまでに心服するからこそ、その存在についての諸事を知ろうとして観測するのは当然とも言える。その厭く無き探究心…いや、信仰心のままに太陽を拝み続け、やがて一年を通して夏至という日が太陽の威光が最たるものであると見出し、教団にとっての至上の日として特別に祀り上げる事となったという経緯が、このイシスにおける戴冠の儀のルーツと云われている。
 そして、ラー教ではない他宗教においても太陽は概ね羨望的価値観を集めているのは、それが輝けるもの、明日、希望など悲観とは真逆の心象を容易に想起させるからだろう。
 明ける空に尚強く輝く至高の光。それは人の、数多の生命の意識を陽に惹き付けて止まない導だった。
「往古、天球…つまり星の運行は世界の運命の在り方を映す鏡とも言われていた。だけどそれは単なる文学的な比喩表現には留まらないんだ。魔法学見地から見ても、星の動きに応じて場の属性エレメントが活性化される場合もあれば、逆に衰退するという観測事実がある。そしてその影響は世界に根を張るレイラインだけには限らず、生物や物質についても少なからず影を落としている。最も身近な星で簡単な例えを挙げるなら……月、だね。満月の夜には魔物の狂気が増幅して凶暴化するという事例もあるし、魔法儀式を行う際にも月齢に重きを置くのは大気中の霊素、元素の組成形態に微細な変化が生じると謳われている。また、海洋の潮汐は月の位置に関連するものだと言われ、女性特有の生理現象だって月の影響に左右されるとの生理学的説さえ囁かれているんだ」
 だが、ヒイロはここで敢えて月と言う例を出した。月に対する人の潜在的印象は彼自身が述べたように畏怖を最とする陰性の、太陽とは真逆のものだ。夜の象徴として闇を導く存在である月を何を思って喩えとして用いたのか、ヒイロの意図は知る由も無かったが、ただ滔々と語られる韻には言い知れぬ熱が篭っているようであった。
「そんな謂われがあるんだ……」
「……しかしお前、良くそんな事を知っているな」
 感嘆を零すソニアに反して、ミコトは感心半分呆れ半分で嘆息する。
 暦をしっかりと認識していれば、今日が夏至である事など少し考えれば思い至りそうな発想であったが、大体にして、旅暮らしに浸かってからというもの些かそういった認識に疎くなっていたのは紛れも無い事実だ。一つ所に留まらず、流れ行く日々に押し流されないように懸命に前へと進むからこそ、視野が狭くなってしまうのは仕方の無い事だと言えよう。
 ヒイロはイシスに滞在してからというもの、度々王城に併設された図書館に入り浸り知識を貪欲に吸い上げていた為に、このような事情を知る事に到っていた。
「天球の影響が世界の根幹に大きく働きかける以上、夏至という太陽が最も高く強い輝きを放つこの日をイシス王…即ち“ラーの化身”光臨の日に宛がうのは寧ろ当然の成り行きとも言えるだろうね。特に今回の場合……魔王軍との戦争終結、そして先王の崩御が公にされてからまだ時間がそう経っていない時期だからこそ、この儀式は人々の心に新たにして大きな光の楔を打つ為の重要な役割を果たすんだと思う」
 今日という日を迎える前。王女フィレスティナは先王崩御を民に向けて告白した。
 戦後復興に明け暮れる人々にその報は往々に悲嘆を齎したが、普通に歩く事さえ困難なまでに荒れ果てた市中を、“双姫”を従えてフィレスティナは自らの足で激励に廻り、砂漠が闇に閉ざされようとも今こうして太陽が昇っているように、どんなに長い夜であろうと朝は必ず来る、と民の一人一人に説いたのだ。そんな少女の健気な姿に心を打たれたのか、さしたる混乱は不思議と起きる事はなかった。
 この聖王国国王戴冠式を終了すると同時に、フィレスティナは正式に“ファラオ”を襲名する。そして国内外に数多抱えるラー教団の象徴として生涯その身を捧げる事になる。
 重かった。その重責はあまりにも暴虐で無慈悲に、悪辣で無遠慮に少女の双肩に圧し掛かる事だろう。堅信のまま神格化が齎すのは、崇められる者の人間性を否定する事であるのだから。
 信仰の荊に囚われず、それを推し量る事が出来るごく僅かな者達がフィレスティナに数多の同情を集める。母を亡くした少女の悲壮な決意に直接見えたソニア達も、事実このような色の方が強かった。
 しかし、目の前に定められた“路”から決して逃れる事ができないという事を、それが王を継ぐ者の歩むべき宿業であるという事をフィレスティナは誰よりも理解し、己が運命を享受していたのだ。
 ヒイロから見ればまだまだ幼いフィレスティナの決意に澱み無い敬意を送りながらも、あくまでも物事の本質を見据えた上で結んだ。
「まあ身も蓋もない言い方をすれば、人心掌握の為の政略の一環、という訳さ」
「……本当に身も蓋も無いな」
 深い含蓄に半ば感服していたからこそ、それをさらりと砕いたヒイロをミコトは半眼で睨み、やがて溜息を吐いた。



 眩い純金に、色とりどりに煌く宝石が無数に鏤められた豪奢な王冠が、司教の手で新たな王の頭上にかぶせられる。その瞬間を計っていたのか、謁見の間の天井に備えられていた天窓から燦然と輝く太陽の光が惜しみなくフィレスティナに注ぎ込んだ。その光景はまるで、上天からの祝福が光の滝となって王に与えられたかのようだ。
 気品ある白き衣を纏っていたフィレスティナの姿は今、神々しい光の衣を纏う“ラーの化身”。イシスに降り立った神の写し身だった。
 王の光臨によって謁見の間全体が震撼せんまでの大喝采が捲き起こる。誰もが心打たれる事象を前に惜しみない賛辞を声無く響かせていた。
 そんな中。場の空気に陶酔する事無く、毅然とした眼差しで参集者達を見据えたフィレスティナは厳かにゆっくりと踵を返し、“魔姫”と“剣姫”を両側に伴って光の中で輝く玉座に腰を下ろす。王の左右で凛と立つ双姫の手には “聖杖”と“聖剣”は燦然と煌いており、それらは叡智と剛、教団と国、神と人を両翼に担う者としての覚悟と矜持を、謁見の間に犇く者達にまざまざと知らしめていた。

 ここに、聖王国イシス第三六代ファラオが光誕した。








 王城での儀式を終え、直にフィレスティナ達は城内で完遂した即位式典を城外の治めるべき民達に知らしめる為に、馬車で城下を巡回する。
 荒れ果てている城下の主要街路を、王室親衛隊や近衛隊の騎士達に隙無く護衛された二頭牽きの馬車が威風堂々と歩むパレード。両翼に毅然と佇む双姫とは対照的にフィレスティナは澄ました笑顔で民と向き合っていた。馬車が通過する傍ら、沿道に集った群衆から天を衝かんばかりの喝采や歓声が捲き起こり、民は新たなる王を受け容れていた。
 パレードは黄昏時を越え日が落ちるまで続き、市井の人々を普く励す。それは立て続けに降りかかった暗澹からの脱却の兆しとして、人々の心に深く刻まれた事だろう。
 その後、フィレスティナ達は再び王城に戻り、困窮する中で許される限りの贅を尽くした祝賀会が催された。壮麗な音楽と豪勢な食事。王城の食料庫は民にも開放され、城内市中問わずあらゆる場所にて盛大な晩餐の席が設けられる。誰もが今この時だけは復興の騒を忘れ、ただただ久方ぶりに訪れた安息に慰められていた。



 行く先々の喧騒に巻き込まれないように、影に溶け込むようにして一人ユリウスは滞在している塔へと戻っていた。今は主役のフィレスティナを初めとした殆どの者達が謁見の間に戻り、祝賀の舞踏会に興じている事だろう。同行者達もそれに参じている筈であり、この場に居るのは自分を除いて皆無だった。
(……甚だ、茶番だったな)
 上質な布で仕立てられた黒一色の貴族服に身を包んだユリウスは、暗く静寂に沈んだ寝所の塔の扉を開きながらそう思う。闇に溶け込むような佇まいの内側で吐き捨てられたのは、今日行われた戴冠の儀式についての忌憚ない感想だ。
 フィレスティナが王冠を戴いた時の現象を、その場にいた人々は神の奇蹟だと安直に感動を催していた。だがユリウスにしてみれば、あれは奇蹟などではなく緻密に計算された過剰なまでの演出でしかなかった。恐らく王城の構造や戴冠式の進行予定は、太陽が空の頂上に到る時間に合わせて事細やかに隙無く計画されたのだろう。その手法を最初に見出し、体系として構築した者へ賞賛を贈るならばまだしも、通例化している儀式の完遂など、先人の足跡を同じく辿っているに過ぎない。そこに何の感慨も沸く筈もなかった。
(所詮は形式だけの光彩奪目。近付けば霧散する蜃気楼といったところか)
 冷然と酷薄な内心を溜息に練り込み、ユリウスは吐き棄てる。皮肉染みたそれは、口に出してしまえば確実に不敬で捕らえられるであろう暴言ではあったが、その程度の事をユリウスは気にしたりはしなかった。
 だが、虚栄を翳す儀式そのものに空虚さをひしひしと肌で感じながらも、ユリウスはそんな儀式であろうと真剣に臨んだフィレスティナや、それを受け容れたイシスという国そのものを否定するつもりはなかった。
 例え偽りであったとしても、それが切に求められる状況に陥った時。個人的感情のままの否などは無意味となり、それさえも是と謳いながら進むしかない事をユリウスは熟知していた。そしてフィレスティナが選び歩まんとする“路”はそれ程までに狭き路であり、一片の情思を浮かべる隙さえない極められたものである事も、だ。
 実のところユリウスは戴冠の儀式の間、謁見の間に立ち込める荘厳で雑多な空気に妙な既視感を覚えていた。それが何を所以とするものなのか、その正体も生じた理由もユリウスは明瞭に自覚する。それは嘗て、自分が魔王軍による第二次アリアハン王都襲撃を退け、その功績を以って正式に賜った“アリアハンの勇者”。即ち、虚栄と欺瞞に塗り固められた偶像。全てにおいてお膳立てされた盤上に立つ人形…滑稽極まりない自分の姿に相違なかった。
(同じ、か)
 ふと脳裡を過ぎった言葉にユリウスは小さく頭を振り、何を馬鹿な事を、と自らに否を唱える。
 同じではない、同じであってはならない。治めるべき民の為に自らの身を賭す“義”の為に王冠を継いだ少女と、あくまでも己が目的達成に拘泥する“利”の為に仮面を被った自分。正真正銘、正統を往くフィレスティナと、全てが虚構で象られた自分が同じ筈は無い。
(自分が同じだと思えるのは、あの――)
 掌で額を覆うと何時の間に噴き出していたのか、しっとりと汗ばんでいた。どこからか流れてくる夜風にそれがなぶられ、例えようの無い不快な悪寒を心身に深く刻み付ける。それはらしからぬ思考を浮かべてしまった己への戒めとして消化し、手をずらして視界を塞いだユリウスは自嘲的に口元を歪ませた。
「……我ながら、ここ最近の自分の思考方向には懐疑的にならざるを得ないな」
 自分の脳裡に刻み付けるように、ユリウスは小さく語散る。
 先日レイヴィスに指摘された事でもあるが、魔力エーテルの過剰消費を基底とする精神不調が訴える影響は未だ大きかった。思考行動でさえ本来進むべき短絡的で冷やかで、堅強な道筋を容易く外れてしまい、固めた筈の自我の在り方を無視できないまでにけたたましく掻き乱す。加えて魔法が使えない状態は尚も続いていて、一向に回復する気配すらない。
 厄介な、とユリウスは深く嘆息する。こんな状態に陥ったのはこれまででも初めてだった為、どう対応すべきなのか正直見当もつかない。魔法自体が使えない状態は懸念すべき事であったが、思考方向にまで影響を及ぼしているとなれば、これは最早放置しておけない忌々しき事態だった。
 平服よりも格段に重い正装が、裡から滾々と込み上げてくる億劫さをこの上なく助長し、それから逃れたくて掻き毟るよう襟元を乱暴に解して、天を見上げた。
 高く聳える遙か先は濃密な夜闇の霞が犇いていて、一欠片の光も無い。その冥漠さは仰視しているにもかかわらず、深淵を覗き見下ろしているかのような錯覚を誘う。
 そこには何かが蠢いている奇妙な存在感を感じるも、不思議と嫌悪は覚えない。周囲の闇から忍び寄る影に四肢が裂かれる幻痛に襲われながら、拡散され往く意識が発する雑音ノイズは現実を越え、昏き雲海に埋もれる嘗ての時間を手繰り寄せた。

 嘗て王都を襲撃した魔物軍を滅ぼし、守りたかった人を殺して継いだ人々を護る称号…“アリアハンの勇者”。忌まわしき拝命の時よりもう直ぐ一年になろうとしていた。
(セフィ、アトラ……)
 薄っぺらな欺瞞で拵えられた路こそ唯一で、他に選択肢など無かったが、そこを進むと決めたのは自分の意志だ。あの時・・・、“アリアハンの勇者”を拝命した直後の初任務を“アリアハンの勇者”として完遂した時点で自身の在り方を定めた。己に課した宿業の為に“アリアハンの勇者”という仮面を被り、これからの道程で何と見えようとも決して揺るがぬように自らの基盤を崩壊させて一振りの剱となった。
 それは悲壮の覚悟と呼ぶにはおこがましく実際はあまりにも稚拙な決意に過ぎなかったが、紛れも無く自身に刻んだ誓いだった。
 誓いの言葉を自らの中で再生した時。否応無しにあの情景・・・・が脳裡に甦って来て、ユリウスは瞑目し深々と嘆息を零す。
(……―――リア)
 瞼の裏にあの昏い雨の日の記憶が明滅し、意識が張り詰めた氷の如く冷絶な刃に研ぎ澄まされていくのを実感する。同時に自分の中の何かが乾いた音を立てて砕け散った気配を感じる。

 静まり返った室内で、どこからともなく深々と地面を打ち据える雨音が聞こえたような気がした。








―――十余日前。
 昼間は聖都の復興作業に駆られ、夜はその疲れを癒す為に人々は泥の様に眠り果てている。それは城下であれ、宮中であれ例外は無く、日付が既に変わった刻限において起きている人間は殆どいないのが現実だろう。
 夜の月明かりに曝されている塔の内、静寂は耳や肌に痛い程に染み渡っている。その中でユリウスは突如としてこの地に現れたレイヴィスと対峙していた。だがそこに長年に亘り互いを知る旧知の穏やかさは微塵も無い。
 研ぎ直されて危うく光る刃の如き油断無い姿勢のユリウスに反して、レイヴィスは両腕を腰に当てて楽に佇み、その気風も随分と暢達としていた。しかし一見して受取れる印象ほど、この青年に限ってそのまま当て嵌めてはならない事だとユリウスは自分の裡で警鐘を打ち鳴らす。全てを計算した上で垣間見せる隙の数々は、獲物をわざと自身の間合いに引き込む為に敢えて作られた謀計の隙なのだから。
 こんな事を思い馳せている時点で相手の企みに落ちている錯覚さえするが、それも強ち間違いでは無いとユリウスは認識する。夜光を背にするレイヴィスの、空の覇者たる鷹の如き威圧を放つ鋭い眼光がこうして自分を捉えている以上、油断などできなかった。
 もちろんこちらが気構えている事を相手に悟られるユリウスではなかったが、多少なりとも意識が引き締まっているのは紛れも無い事実。それをおくびに出さずユリウスは能面に綴る。
「ポルトガがエジンベアと事を構える、だと? ……唐突な話だな。お前お得意の寝惚けた冗談か?」
「おいおい……随分な言われようだな」
 傷付くぜ、とわざとらしく項垂れて見せたレイヴィスに、ユリウスは無表情のまま鼻で哂う。
「慨然たる事実だ。少なくとも、ポルトガとやり合うのがエジンベアだというのが現実味に欠けている。寧ろポルトガがロマリアに牙を剥けるならば、歴史的禍根を鑑みれば幾らでも納得がいくが」
 嘗てロマリアの一地方都市に過ぎなかったポルトガは、先の大航海時代開闢に大きく貢献し、その功績より限定的な領有権を得て市国となる。そして大陸の海の玄関口として繁栄し、外世界から入る数多の人や物により力を肥大させ、世界屈指の海軍船団を築き上げるに至った。後年“無敵艦隊”と畏れられる武力を背景に、やがて半島一つをまるまる領土とする独立国家に成り上がったのは約四百年程前の事だ。この独立はポルトガという新興国家の上昇志向が強かった事と、長い年月を生きてきたロマリアが逆に衰退期に差し掛かっていた事が重なり、更には周辺国家による数多の策謀が複雑に絡み合った結果として成された事だと言われている。
 結局、ポルトガの宗主国ロマリアに対して仕掛けた独立戦争はロマリア―ポルトガ間を縦断する山脈を境に国を別つ事で一応の決着が着き、現在とほぼ同様の版図に納まる事となった。
 しかし五十年程前。時のポルトガ王は野心溢れる人間で、自国の領土拡大を図り、国策として軍備増強に心血を注ぎ周辺国家に多大なる緊張を齎した。そしてその先に有ると信じて疑わなかった栄光への第一歩として、興国より因縁深いロマリアへと大軍を以って戦いを仕掛けたのだ。
 だが紆余曲折を経て結果的にポルトガの企ては頓挫してしまい、泥沼化したロマリアとポルトガの関係をイシスが仲裁を担う事で一応の均衡を取り戻していた。
 これが誰もが知る、語られる歴史である。
 そんな史実を思い浮かべて、まったくもってその通りだと言わんばかりにレイヴィスは大仰に頷いた。そして常識的にそう思い至るのが道理であったが、人の世が決してそれに囚われるだけのものでない事をレイヴィスは良く知っている。寧ろこの場合、ユリウスの方が思慮が足りなかったと言うべきだろう。
「エジンベアにポルトガとやり合う理由が無い、とお前は思っているようだが……その結論は性急で浅慮だ。時代が変われば、人も国も立場も変わる。立場が変われば考え方もまた変わり、理由なんてものは後付で幾らでも用意できる。ま、人の世なんてものは常に揺れ動く波のようなものさ。光の加減で多種多様に色を変えるそれを一括りにしようなんざ、その人間の傲慢に過ぎん」
 まだまだだな、とレイヴィスは指先を左右に動かしてユリウスに指摘する。
 言われて理解したのか、ユリウスはわざとらしく眼前で行われたそれに眉を寄せて口を噤んでいた。真一文字に引き締められた口元と鋭く半眼で見据える様は憮然としているようであり、半ば期待した通りの反応にレイヴィスは思わず失笑した。
「で、実際問題ポルトガを無視するとして、その上でお前は何処を目指す?」
「…………」
 その問に、ユリウスは瞑目して沈黙する。それが思惟に入った時の姿勢である事をレイヴィスは承知していた。
 そのまま暫くの間、口元に手を当ててユリウスは思案に暮れていた。その間、レイヴィスはユリウスを見下ろしたまま、だが口を開いて無粋な横槍は入れずに推移を見守っている。その辺りの機微こそが、両者の付き合いの長さを物語っていた。
 やがて思惟に目処を立てたユリウスは、双眸を開いてレイヴィスを見上げた。
「当初からの予定の一つだったダーマ神殿だ」
「ほぅ……何でまたダーマに?」
「古代の、そして最新の知識を探る為だ。魔法であれ技術であれ、魔族や魔物を駆逐するのに有益な情報は仕入れておきたい。その為に、先ずはイシス領バハラタを目指す事になるだろう」
「ふむ……バハラタねぇ」
 何かを考え込むようにレイヴィスは顎に手を添える。ユリウスはそんな彼を気にする事無く訥々と続けた。
「外洋を航行できる船舶はいずれ必ず必要になるが、現状は未だ手詰まりではない。ポルトガ行きを断念するならば船の入手には別の糸口を探すしかないが、それは後回しだ。そしてバハラタ…ひいてはダーマ神殿を目指す場合、必然的に進路は陸続きで東へ向う東方街道に変更する事を余儀なくされるが……ここで一つ問題がある。ポルトガの承諾無しに中央公路を往く術はあるのか?」
 それが当面の問題だ、とユリウスは締めくくる。
 中央公路とはアッサラーム以東の東方街道の事で、なだらかな平原地帯が続くロマリア側に反してアッサラーム以東は地形が激変する為にそう区別されている。だがしかし、この路を進もうとした時初めに当たる壁こそ聖王国イシス、アッサラームなどが存在する南大陸と中央大陸を縦に別つ中央山脈だった。
 東西を完全に分断する中央山脈は、ネクロゴンドの“透華の銀嶺クリスタル・グランデ”と並ぶ前人未到の山脈の一、“亢龍の臥床ドラゴンズ・ホール”。山肌は切り立った岩壁で且つ急勾配。龍の鱗ともたとえられる程に取り付く事を許さない。また海抜は世界最高とも言われ、山頂は吐息さえ凝結すると恐れられる極冷の世界。足で山を越えるという行為は、まず不可能であると数多の先人達の苦慮が物語っている。その為に人々は山越えに見切りをつけ、逆転の発想を以って山を開拓し掘り進めるという手段を選んだ。そしてアッサラーム側から山脈を直進に貫き、最短の距離で繋げてしまおうと計画され造られた隧道トンネルが正規の公路として約百五十年前から使用される事になった。
 当時、アッサラーム以東との交易は専ら船舶による海路が主流であり、それを用いる事が出来たのは商会ギルドの監察下であってもごく一部の富貴層に立つ人間達だけであった。しかしこのトンネルの出現で万人にも新たなる世界が開かれたと言えるだろう。
 やがて、トンネル建造を最初に提唱し、実際に中央山脈を国土に持つイシスを口説き落として実現を叶えたポルトガがトンネルの所有権を持ち、そこに併設された関所を管理するという役割を担うようになる。この既得権は五十年前の戦争でも失われる事は無く、現在に至っている。
 歴史的背景を鑑みて判然としているのは、ポルトガ行きを諦める時点でその通行許可の取得も破棄している事になる。仮に強行突破を敢行し、完遂できたとしてもユリウスが“アリアハンの勇者”という看板を背負っている以上、その時点でポルトガを完全に敵に回す事になり、それから発展するであろう国際問題は後の世に大きな蔭りを齎す事になるのは明々白々だ。国家間の摩擦を懸念するよりも自身の目的完遂を重要視する身としては余りにも利点が無い仮定だった。
 厭くまでも冷静に利己的に導き出したユリウスの結論に、レイヴィスは満足げに頷いた。
「山中を貫く中央公路を使うのは無理だな。可能な手段として、一つはアッサラームより出てるバハラタ行きの定期船だが……生憎と、先日アッサラームから出航したばかりであちらから戻ってくるのは最低一ヶ月後だ。お前としてもこれ以上足踏みしたくないだろうから、残る選択肢は一つだけ……“バーンの抜け道”を往くしかない」
「“バーンの抜け道”?」
 聞き慣れない単語にユリウスは眼を細めて反芻する。それにレイヴィスが思い出したように付け加えた。
「耳馴染の無い単語なのは仕方が無い。これは公にされていない符丁でな……現公路の南側にある渓谷の事だ。今の公路が完成する前から一応認識されてはいたんだが、何せ危険極まりない道でな。安全且つ確実な道の登場してからというもの、どの国家もそこを見向きもしようとしない。一応はイシス領ではあったがな」
「……打ち棄てられたという訳か。確かに好き好んで面倒なものを抱え込もうとする奴はいないだろうが」
「それだけじゃない。実際には国家首脳レベルでの暗黙の了解がある。二十数年前、永世中立を謳うダーマ神殿…というより“魔呪大帝”が持つ剪定権の行使で、その渓谷は第三級監察領域に指定された……要は天領として接収されたんだ」
「“魔呪大帝”の直轄地だと?」
 思わず瞠目したユリウスに、レイヴィスは真剣さを帯びた相貌で続ける。
「そうだ。その名を前にして、鼻で嗤って蹴り飛ばせるのは“聖芒天使”くらいなもの。……ま、響きは些か乱暴だが、実際は立ち入り禁止になっている訳ではない。通りたい奴は通れ。だがその過程で何があっても知らん、という姿勢だそうだ」
「……耳障りが悪い自由国境地帯、と言う訳か。自由だけに厄介そうだな」
「まあ確実に無法地帯ではあるな。その御陰で、東に行きたいっていう訳有りの奴らはありがたがって後を絶たないんだが」
 お前たちも今回はそれに倣え、とレイヴィス。その命令口調は些か癪に障ったが、考える限りそれ以外の手段も見つかりそうにないのでユリウスは黙殺する。ちなみにスルトマグナに同行してもらい、彼の移動魔法ルーラでダーマ神殿へ移動する、という選択肢は初めからユリウスの中では存在していなかった。
「進行予定の修正は避けられないだろうが、進めれるならば然程問題は無い。お前の言うとおり、これ以上の足止めは御免だからな。……ダーマに立ち寄った後、バハラタから航路でランシールに渡るつもりでいるが、バハラタ―ランシール間の航路はまだ生きているだろう?」
「勿論だ。真に世界最強を冠する海軍、ランシール聖殿騎士団パラディン水鋒師団“黒光”が常に護衛についているからな。“海魔将”テンタクルス、副将マーマンダイン亡き今の海棲軍ざこ共では手は出せないだろう。いざとなれば天閃師団“蒼光”と“神聖騎女ホーリーナイト”エレクシア=ヴォルヴァ殿が出て来る……そんな懸念は無意味だな」
「ならばそういう事だ。ランシール以降の展望については、その都度考える。状況も今より変化しているだろうしな」
 不確定な先を見据える鋭い眼光でレイヴィスを一瞥し、だが話はこれで終わりだと言わんばかりにユリウスは踵を返す。昼間の鍛錬で蓄積された疲労によって健常とは程遠い肉体がいいかげん休息を欲していたのだ。
 足早に去ろうとするその背を見送っていたレイヴィスは、口元に歪な笑み浮かべた。
「お前がダーマを念頭に入れておいて正直安心したぜ。少しあそこで力をつけて来い。本格的に魔王軍とやり合うにも、今のお前の体たらくでは心許無いからな」
「……何?」
 ピタリと足を止め、低く唸るように呟いてユリウスは振り返る。普段以上に無表情の面であったが、その双眸には余人には窺い知れない烈々とした意思が滾っていた。
 突き刺さる視線を涼しげに受け流しながらレイヴィスはその様をちらりと横目で捉え、塔内の採光用に備え付けられた天窓の方を見上げる。僅かな夜空を捉える群青の双眸が、月明かりの影響でも見間違いでもなく確かに紅蓮に変化していた。
「魔王軍の層は厚いぜ。魔王に近付けば近付く程、六魔将と言った強力な魔族が立ち塞がるだろう。ちなみに、今回お前が滅ぼした魔獣軍副将ライオンヘッドの力なんざ、獣魔将ラゴンヌの足元にも及ばんとの事だ。そして更に警戒すべきは印持ち…『魔王ルドラの使徒』共だ。連中は軍とは別の指揮系統で動いていると推測できる故に身軽で、目的が不明瞭ときている……解っているだろうが殿下もその一員だ」
 ロマリアで会っただろう、と妙にそこだけ強調してレイヴィスは言い放つ。
 冷たい空間に狂々と反響して届くそれに、ユリウスは小さく唾と息を飲み込んだ。ユリウス自身微かな確信を覚えていた事だが、こうして外部から明瞭に指摘されると自覚せざるを得ない。自分の中の全感覚が、ロマリア闘技場での魔族との戦闘中に割って入ってきた第三の魔族……それが、アトラハシスであると言っている。そして自分の中に未だ在る心の残滓が、それを否定したがっている事を。
 しかしながら、精神的不調和な状態の自分に釘を刺すという意味で、この男の機の読み方、狡猾さは相変わらず絶妙だった。
 内心苛立たしげに舌打ちし、ユリウスは氷の冷然さで再度レイヴィスに正対する。
「お前……何をどこまで知っている?」
「それ程ではない。単に、お前の知らない領域までだ」
「……戯言を」
 吐き捨てるユリウスに、レイヴィスは小さく肩を竦めて首を横に振った。
「お前は付け焼刃の知識に精通していても圧倒的に経験が足りないからな。たまには足踏みも良いだろう」
「何を悠長な事を……大体、一刻と急かしていたのはお前らだ」
「それはどちらかと言えば国のお偉いさん共であり、世界の方だ。が、王個人の考えは別のところにある。そんな事よりも、お前は世界の破滅が刻一刻…もしかすると今日明日にでも迫っている…………なんて妄言本気で信じている訳はないよな? そんな事を真に受取れる程、お前は幸せ者でも愚鈍でもないだろう?」
 下らない事を言うな、と言わんばかりにユリウスは眼光に鋭気を載せる。
 レイヴィスは暫しユリウスの様子を観察していたが、やがて深く嘆息を吐いて、自分が忍び込んできた入口の方へ歩を進める。やがてその扉に手をかけ、ユリウスを見ぬまま紡いだ。
「今だから言うが、お前の本来の出立予定は聖殿ランシールで“勇者”認定を終えてからだった。だがそれを後に据えて出立させたのは、隷従ダトニオイデス派の残党が、裏で動いている可能性があったからだ」
「……連中は、叛逆ディアルト派が完全に殲滅したのだろう?」
 声に些か緊張を載せたユリウスが返すも、レイヴィスは変わらずに鋼鉄の扉に向ったままでその表情は窺えない。だが、声調はこれまでのやりとりの中でも一度たりとも表れなかった静かなものだった。
「殲滅という表現には些か語弊がある。あの時・・・、実際に俺達が潰したのは厭くまでも首領格の一つとその実働部隊に過ぎない。大体は始末したが、アリアハン本土から逃れた連中は世界中に散って不穏の芽を人知れず育んでいるそうだ。ここが思想という形無き巨人の厄介なところで、然るべき頭を挿げ替えれば、奴らはまた動き出す」
「…………」
「アッサラーム以東はアリアハンの勢力も強くは無い。今後“アリアハンの勇者”の名を出す時は気をつけろ。その先に何が待ち構えているかなど、お前には改めて説明する必要は無いよな」
「……ああ」
 そうしてレイヴィスは立ち去っていった。








 どれだけ亡羊と立ち尽くしていたのだろうか。
 こうして深く蒼い闇に意識を広げ、自己という硬い外殻が剥がれ落ち、内側の柔らかい真綿を蝕まれて溶け消えて往く感覚はやはり心地良い。
 自壊の自涜に浸っていたユリウスは、しかしそれに浸り続ける訳にも行かず、小さく嘆息する。
 考える事は沢山あった。目的地の再選別とその行程については、先日レイヴィスと話した時点で修正がほぼ完結している。後は細かな点を煮詰めていくだけだ。些かレイヴィスに誘導されている気もするが、周囲の思惑が何処を向いていようが逐一気にするものでもない。重要なのは己が見据える路を踏み外れているか、否かだ。
 魔王軍との戦争を終え、フィレスティナが正式に王位を継承した以上、漸く本題に入る事ができる。当初はポルトガへの通行証を望んでいたが、想定外の事でポルトガへの道は断たれてしまった。それを計ったようなタイミングで言ってきたレイヴィスの事を思えば、やはり自分に向けられている監視の網は容赦無く細緻であると言えるだろう。
 既にイシスには一ヶ月以上も滞在してしまっていた。自身に課した目的を思えば、それは泥沼を漕ぎ歩いているような鈍足でしかない。自分には停滞を享受する事も、怠惰な安寧に溺れる事も許されていない為、弛緩しかけている意識をより引き締めて尖鋭化しなければならない。
 先日。丁度こんな時間に、この場所で。鍛錬の後で一人思惟に浸っていた時、“剣姫”アズサと一戦交える事になった。もっともそれは予め約束されたものではなく、アズサが不意を突いて急襲して来たから、それに反撃したに過ぎなかったが。
 その理由というのも、ティルトが魔族と化し再びアズサの前に姿を現した事への釈明…つまりティルトの魔族化を黙認していた事、それを止めようとしなかった自分への呵責だった。その行動は本人も認めていたが単純な八つ当たりであり、烈しく揺れ動いた心をぶつけ所が自分しか無かったからだという。
 アズサの気持ちの整理に利用された事に、ユリウスは何の感慨も沸かなかった。不条理な感情をぶつけられる事には慣れていた上、あの玄室で直接見た現象の果ては予測がついていたからだ。嘗て故郷の地で視た情景がそれを深く納得させたに過ぎなかったからだ。
 しかし、続いて激情のままアズサが発した事実にユリウスも黙っているわけには行かなかった。
 アズサ曰く、ティルトと共にアトラハシスがこのイシスの地に現れたというのだ。
 アトラハシス=オケアノス…アリアハン王都襲撃を境に行方知れずとなったアリアハン先王の第一王子。今の自分にとっては忌まわしき枷に過ぎないが、人の心というものを植えつけた愛しき邪悪の片割れ。国では公式に死亡を発表したが、自分は真実を…つまりはその生存を知っている。
 そのアトラハシスが“剣姫”アズサさえ恐れ憚らせる程の力を持って、何かしらの目的を遂行する為に大神殿に侵入し『黄金の女神像』を破壊した。目撃者であるアズサは、女神像の裡に封印されていた『闇のルビー』が奪われたと言っていたが、そんな物の存在などユリウスにとって見ればどうでもいい事だった。ただアトラハシスがこのイシスに現れたという事実の方が遙かに重要で、それだけで次へと駆り立てるには充分すぎる焔を生じたのだ。
 アリアハンを出立して十ヶ月…最後に言葉を交わしてから既に一年と四ヶ月近く時が過ぎていた。漸く指先に掠った行動の尾を、決して見逃す事などできなかった。
「アトラを、殺す…………それだけが、せめてもの――」
 それこそが自らに定めた意志だ。“アリアハンの勇者”という虚構の仮面を被った理由だ。……この手で殺したセフィーナとの、最期の約束を守る為に。

 闇獏とした庵の中。己の中で沸々と滾る昏い焔が、夜を蝕むように深々と宙に散った。




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