――――異伝一
      第八話 平和の業







 真昼の太陽が、遮るものの無い蒼く澄んだ空の道を暢達に登り行く中。大地から天路をくように発せられた熱狂的な歓声の波濤は、不可視の圧力を伴ってこの場所に渦巻く活気を体現していた。
 円形に広がる白砂が敷きならされている闘技場の、丁度両極に位置する場所に物々しい鉄格子で閉ざされた通路がある。その薄暗い先からは時折おどろおどろしい咆哮と、醜悪な気配が零れ出ていた。だがそれらも、白地の舞台を高みから囲み見下ろす、観客席から発せられる圧倒的な轟音と思念によって掻き消されていた。
 王都を彩る王城に並び、ロマリア景観最大の見物と人々に謳われている円形闘技場コロシアム。古代の建築様式が齎すその魁偉は、重ねた年月とともに様々な人の織り成す感情と浪漫を悠然と見続けてきた。だが壮麗に厳かさに神秘性さえ感じさせる智とわざと文化の結晶の、内側で行われている催事の実態は何とも人間的で血生臭い国営の娯楽施設…合法で行われている格闘賭博。
 嘗ては罪人や奴隷剣闘士同士を、その罪科や重苦の免除放免を餌として殺し合わせ、観客は舞い上がる血飛沫に酔いしれていた。それら闘う者達が人間から周辺で鹵獲ろかくしてきた魔物という異形の形になっていったのは世の流れとも言うべきか。或いは、人の形をしていないからこそより罪悪無く、より熱中して観戦ができるからであろうか。

 そして今、闘技場の観客席の中に在るより雅な貴賓席、その最たる見晴らしの良い王族専用の主賓室にて。
 手すりに身を乗り出して、眼下で行われている魔物同士の殺戮に子供のように大はしゃぎで唾を飛ばして歓声を上げている王。国家を統治するその人の背中を冷めた視線で一瞥した後、ぐるりと視界一面を埋め尽くさんばかりに犇いている人間の猛烈な盛り上がりに飛び交う歓声と思念に眩暈を覚えながら、ユリウスは部屋の最奥の壁に背を預けた。
 闘技場に響く怒涛のような音に、石壁がピリピリと振動しており、外套と衣服越しに伝わるそれがこの上なく耳障りになる。
(……下らない)
 ユリウスは盛大に嘆息する。空の明るさに反して屋内は暗く、渋面が明るみにならないのは幸いだった。
 するとそう思った直後、隣から何処かで聞いた事がある軽快な言葉が掛かってきた。
「よぅ、随分と不機嫌そうな顔をしているな青少年」
 薄暗い部屋、その更なる影から凝ったように現れたのはアリアハンの宮廷騎士レイヴィスだった。
「……こんな下らない酔狂に付き合わされれば、な。お前こそ、まだこんな国にいたのか」
 眼前に統治者たる王が居ると言うにも関わらず、憮然とした様子を隠さないユリウスに、ははは、とレイヴィスは大いに失笑する。
「そりゃあお前。勅命を受けたお前を見届ける義務があるだろ? この国に『勇者』への協力の旨を伝えた身としては――」
「嘘を言え。お前がこの国に訪れる以前から、アリアハンはロマリアに接触していた筈だ。そうでなければあんな時間的に都合良く面倒事を押し付けられたりはしない。……鎖国体制と言ってもあくまでもそれは民間での話だろう?」
 皆まで言わせず、レイヴィスの言葉を遮ってユリウスは言い放つ。その有無を言わせない冷然とした視線と口調に、誤魔化しは無駄とさとったレイヴィスは大仰に肩を竦めて見せた。
「……やれやれだ。こうもあっさりとばれるとはねぇ」
「言っておく。アリアハン…いや、王が裏で何を画策していようが俺には関係が無い」
「裏の集大成であるお前がそれを言うか? ……ま、お前はそれでいいさ。アリアハン王国がお前に望むのは『アリアハンの勇者』が世界共通の脅威である『魔王』を討つ、という事実にあるらしいからな。お前はお前の思う通りにやればいい。その結果を王は望んでいる」
「…………」
 柔和に、何処か掴み所の無い笑みを口元に浮かべるレイヴィスに、ユリウスは大きく舌打ちをした。

 二人の間に沈黙が流れた。
 だが周囲の喧騒は、闘技場内で行われている魔物同士の殺戮が盛り上がる度に大きくなる。その場所から見渡せる周囲を一巡し、最後に横目でユリウスを見下ろして、レイヴィスは冷笑を湛えたまま試すように言った。
「退屈そうだな。あの殺意と敵意の中に飛び込んで、襲ってくる全ての魔物を殺したいのか?」
「……何が言いたい?」
 ユリウスは肯定も否定せずに、ただ半眼でレイヴィスを見上げながら抑揚無く問い返す。
 改めて他人に言われるまでも無く、自分が殺し合いの場の中に飛び込み、切先のような敵意と殺意を向けられたのであるならば、間違いなく全ての敵を切り伏せるだろう事を自覚していたから。揺らぐ事の無い黒曜の双眸が、裡の変わらない意志を示すように、ただ部屋に射る微かな光を反していた。
 そんなこちらの考えすら見透かしているようなレイヴィスは、青銀の双眸に何かしらの彩を載せて穏やかに言う。
「少しはゆとりを持ったらどうだ? そのままだと、何れ自分の身も滅ぼすぞ」
「どの口がそんな戯言を言うんだか……。そもそも、そんな事俺には関係が無いな」
「そんな事、ね。やれやれ……、自分の事だろうが」
 横目で、半眼で睨み据えるユリウス。表情無く余りに淡々と吐き棄てられた冷たい言葉に、レイヴィスは苦笑する。そして小さく肩を竦めて寄り掛かっていた壁から離れた。
「……しかしあれだな。人間って奴は、実に都合良く出来ている」
 突然に鷹揚と語り始めたレイヴィスに、ユリウスは何事かと訝しげに目線だけをその背中に送る。
「もし魔物が、自分達にとって本当に太刀打ちできない絶対の存在であるのならば、その脅威の帳の下で自分達の納得の行くような理由を考えて適応し生きる事だろう。だが、なまじ魔物は殺す事が出来る存在だ。例えそれが己の手ではなく他から聞き及んだ事だとしても、一度そう認識してしまっているが故にこんな馬鹿げた茶番が成立している」
 この場に犇いている人間全てを嘲笑うかのように、冷笑を湛えたレイヴィスは続けた。
「見てみろよユリウス。この光景を」
 楽団員に対峙する指揮者の如く両腕を広げ、堂々優雅な足取りで半身を翻す。指先が描く半円の軌跡は、その遥か先で視界を埋め尽くさんばかりに広がる観客達をなぞっていた。
 暗がりの最奧にいるユリウスは、逆光でレイヴィスがどんな表情をしているのか判別する事は出来なかったが、言葉はどこか嘲りに充ち、口元が歪んでいるように見えた。
「この王都に住む人間の殆どは、直接的な魔物の恐怖を知らない。知らないからこそ、己が無知であるという事にすら気付かない。そんな人々は変り映えの無い日常に酔いしれは飽き、物足りなさを感じては激を求めこぞってここに来る。日常では決して見る事のできない魔物同士の殺戮…降りしきる青い血の散華を見て悦び、あんなふうに歓声をあげてやがる」
「…………」
「平和が齎す最大にして最悪の恩恵ってのを知っているか?」
「さあな。興味が無い」
 言葉通りに興味が無いのか、極めて単調にユリウスは返す。
「それはな……、その微温湯のような怠惰な平和に浸かりきった連中が、己は無辜むこの民であると信じて疑わない事だ。……この現状を見て、傑作だとは思わないか? やれ平和だ。やれ安寧だなど強く拳を振り翳して主張し謳っている割りには、血と闘争と殺戮への欲望がまるで抑えきれていない。国家元首の王が率先してこれに興じていやがるから、笑える」
 一体何処の誰が無辜なんだろうな、と観覧席の最前…柵に身を乗り出して大きく声援を送っている王を顎で指し示しながらレイヴィスは哄笑し、盛大に皮肉った。
「人間とは、自分の痛みに恐ろしく敏感だが、他の痛みに対しては限り無く鈍感でいられる。つまりはそういう事だろう。……故に他人が何を思い、何を考えて行動しようが俺には関係の無い事だ」
 素っ気無く吐き棄てるユリウスに、ははっ、と肩を揺らしてレイヴィスは嗤う。
「ま、そうだな。往々が感じる平和なんてその所詮は程度の価値さ。それに慣れてしまえば改めて意識などせず、有難味など感じる事はない。それが当然で常であると無自覚に傲慢に思い込むからな。そして、そうした傲然にして盲目な連中は亡くして初めて気付く。自分達が平和と信じてきた日常は、虚構で塗り固められた喜劇に過ぎないという事を」
 饒舌に愉しげに語るレイヴィス。それにユリウスは特に感慨も沸かなかったが、彼が言いたい事はもっともであり、理解はできると思った。だが、それだけである。それ以上に思考は動かなかった。
「その先の世界の行く末は簡単だ。足元から崩れ去った安寧は恐慌を巻き起こし、絶望に駆られた連中は、眼前に迫った不安を他者に向け、壊す事で視界から反らそうとする。……どこぞの山賊共が良い例だな。崩れ去る砂上の楼閣は呆気なく風に吹かれ消え、後に残った砂塵の荒地には無辜を驕っていた諸人もろびとが、餓えと乾きと悲嘆と怨恨を抱いたまま空を見上げて涙する」
 芝居がかった仕草と口調は全てを嘲笑うかのようであった。淡緑の髪を掻き揚げながらレイヴィスは続ける。
「無辜の民を驕った者達の辿るべくして行き着く末路だな。そんな連中が望んでいる、『勇者』によって示される屍山のいただきから見渡せる世界は、果たして平和と言えるのか? 果たしてそれは望まれた綺麗な世界と言えるのか?」
「…………」
「そしてユリウス…屍にお膳立てされた血路を進むお前に、その世界はどう映る?」
 爛々とした視線を向けてくるレイヴィスの双眸は、何時の間にか赤金色だった。その変化に一瞬目の錯覚か何かと思いユリウスは眉を寄せるが、その瞬間には当のレイヴィスは静かに瞼を閉じていたから判らない。
 こちらの逡巡を知る事もなくレイヴィスは高らかに言う。
「この場所はそんな世界の縮図。それを形作る愚かなるもの、その尊き輝きを放つ其のものの名は――」
 そこでレイヴィスは言葉を区切った。そしてゆっくりと殺し合いが行われている広場に視線を移した。その様子を無感動に眺めていたユリウスも、ただ誘われるままに双眸を動かす。
 すると、まるで示しを合わせたかのような絶妙なタイミングで、高らかと魔物の咆哮と人間の悲鳴が天に響いた―――。






―――時間を少し遡る。太陽がまだ昇りきらない昼前という時間帯。
 ロマリア王国の王都ロマリアは、これまで旅して世界を見て回って来た中で最大とも言える規模を誇る都だった。この国が培ってきた長い歴史を物語る壮古な佇まいの街並や、格式高い文化を体現する均一に敷き並べられた石畳は街の空気に整えられた優美さという花を添えている。
 大通りや広場のいたる所には、農業大国たる由縁として色取り取りの果実や野菜、東西交易の中継地点として様々な異国の物資を並べている露店が立ち並び、道行く人々の視線と興味を惹きつけていた。
「すっごーい! こんな大きな街、あたし見た事が無いよっ!!」
 高くから威圧してくる美しい街並みや、行き来する人の波に呑まれないようにしながら、リースは頬を紅潮させ、喜色に目を輝かせて周囲を見回していた。往来の真ん中で両腕をいっぱいに広げ、上ばかりを見てクルクルと舞踏のように身体を翻している様子に、街往く人々は当たらないように迷惑そうな色を眸に貼り付けながら避け、道の脇で立ち止まっている人々はヒソヒソとこちらを横目で捉えながら何かを囁いている。
 そんな周囲の奇異な目を集めているリースに内心で冷や汗を掻き、ジーニアスは諦念の篭めた溜息を吐いた。
「……リース、あんまりはしゃぐなよ。そんな、お上りの田舎者丸出しで」
「ジーニっ! うるさい!!」
 物心ついた頃から、“流星”の一員としてサマンオサ帝国領の辺境地帯を転々と回り生活してきたリースにとって、生まれて初めてと言っても良い大都市の喧騒と雄大さに、その反応は非常に判りやすいものであった。だから思わず零してしまったジーニアスの言葉は、どうやらリースにとっての禁句だったようで、途端に頬を膨らませ剣呑な眼つきで睨んでくる少女に、ジーニアスは小さく肩を竦めた。



『アリアハンの勇者』一行が移動魔法ルーラで王都に戻るのに、便乗させて貰ってまで自分達がこの平和の地に来たのは、偏に今後の船旅に必要となる物資の調達の為だった。
 自分達の旅の計画では、今シャンパーニの塔の近くに停泊させている船で大陸沿いに南下し、世界一の造船技術を持つと自他共に認知している海運国家ポルトガに入港する。そこでこれまでの旅で傷んだ船の修理をして、更なる船旅に備えようと考えていた。だけど、今船に積み込んだままの物資でポルトガまで持つかどうかと自問すれば、答えは否定の一言だ。どう切り詰めても計算上、生命線たる水や食料が足りなくなる。ならばいっその事、改めてこの地で買い付けた方が危険な旅で緊張を強いる精神に、微かなゆとりさえ与えられる事ができるだろう。そんな打算も、カザーブ村を訪れると決めた時に抱いていたのだ。
 だが実際に訪れたカザーブ村では山の上という事もあり、それだけの余裕は無かった。それは今にしてみれば当然だと思う。何せ、ほんの少し前まで同じ人間の賊徒に生活や生命を脅かされていたのだから、物質的にも精神的にも余裕が無いのは頷ける。それにノアニール村の人々の方が切実に彼の村に物資援助を要求してきたという事もあって、彼らを差し置いてまで自分達の入用を済ます意思など沸かなかった。
 ともなれば、ロマリア半島の海近くに在る王都に行った方が、より新鮮な食料や様々な物資を得る事ができるだろうと考えて急遽予定を変更した。ここで物資を揃えてしまえば、後は船まで自分やウィルの…リースはまだ使えないが、ルーラで一瞬にして戻る事ができる。有益にして有用な判断だった。
(だけど、人を荷物扱いする事は無いだろうに……)
 こちらの要望を、実際に移動魔法を使役するユリウスに伝えた時の…本来ならばリーダーである自分がすべきなのだが、先日の、明確な勝敗が出た訳ではないのに妙な敗北気分を味わって、何となく気まずいからウィルに伝えて貰った時の、ユリウスの冷然とした言葉を思い出すと無性に腹立たしくなってくるのは、やはり初対面時の事が尾を引いている為だろうか。……あの後、彼に同行しているヒイロがフォローしてきてはいたが。
(でも、実際にこうしてここにいる以上、不満を持ったとしても面に出してしまったのは、やっぱり失礼だったかな……)



 幾分か冷静になった思考はそう結論を弾き出し、ジーニアスは深深と溜息を吐く。そして、改めて周囲の喧騒に視線を送った。
 明るい街並みには人々の笑顔が満ちている。そこには何の憂いも翳りも見出す事は出来ず、この地に住む人々は平和を享受し、城壁の外側の情勢など本当に知らないのではないかと思えてしまう。確かに何も知らずに朗らかに笑って過ごせるのならばそれはとても尊い事だし、素晴らしい事だと思う。だけど現実に、世界はそれ程に優しくないと言う事も、旅人として外の世界を渡る身である自分達は良く知っている。
 同じロマリア国内のカザーブ村での悲嘆すら、王都に住む人々にとっては何処か遠い国の出来事のように捉えてているのだろうか。或いは知らないのだろうか。そう考えると、何だかやりきれなくなった。
「平和、か」
 ジーニアスにとっての平和の記憶といえば、故郷の記憶に他ならない。今では嘗ての栄華も見る影も無くなってしまったサマンオサ帝国ではあるが、その地を治めていた皇帝が温和な賢帝として在った時代。類まれなる国力で臣民の生活も心も豊な時間が流れていた。その時の、優しい両親と可愛い妹と…家族で過ごした温かい時間は自分の心の中に大切にしまってある貴い思い出である。どれだけ時や距離が離れようとも決して色褪せる事は無い。
 あれから約十年。『勇者サイモンの家族』として帝都を追われ、地方を転々とする生活を余儀なくされたが、周囲には家族と呼ぶにも等しい仲間達が集まって生きてきた為、それ程に苦い記憶というのも抱いてはいなかった。
(平和とは自分にとっての日常が、絶えず穏やかに流れ続ける事なんだろうか。……だとするならそれは、それを体感する人によっていくらでも変わるし、一概に括る事など出来はしない、か)
 自分の平和の定義と、この地の平和の定義が異なると言う事をジーニアスはまざまざと見せ付けられたような気分だった。
「平和って……難しいな」
 街往く人々を茫洋と眺めながら、ジーニアスは本心でそう思った。



 すぐ近くでは、リースの溌剌とした声が聞こえてくる。そちらにつられて視線を移してみると、両脇に新鮮な果物や物資の入った麻袋を抱えているヴェインを力強く引っ張っていくリースの姿があった。
「ねぇ、ヴェインはここに来た事があるんでしょ? だったら案内してよ!!」
 瞳の中に星でも宿っているのではないかと思ってしまう程に、リースはキラキラと瞳を輝かせている。間違いなくそれに圧倒されているであろうヴェインは、どこか諦めたような憔悴した表情で引きずられている。
 嫌ならはっきり言えばいいのに、とジーニアスは思うも、このパーティの“妹”であるリースに対して遠慮なくきつい物言いができるのはジーニアス以外にはいない。故にそのジーニアスが傍観に徹した以上、暴走気味のリースを止める事ができる人物はこの場にはいなかった。
「……ああ」
 疲弊しきったヴェインの呟きに、ジーニアスは何となく同情してみたりした。

 ヴェインはその長身の為、人ごみの中で姿を見失う事は無かった。リースは人の波を掻き分けるようにヴェインを引っ張っていき、そんな二人を微笑ましく眺めていたウィルは、城の方角から通りを歩いてくる数名の人影を見止めて、隣を歩くジーニアスに言った。
「ジーニアス」
「ん? 何、ウィル」
 ウィルの視線を追って、ジーニアスもその方角を見る。するとジーニアスにとっては良く見知った人物が捉えられる。その人物達は、丁度自分達の向かう先…王都ロマリア最大にして優美な彫刻が飾られている噴水広場に向けて歩いていた。
「あれって……ヒイロ達じゃないか。ん? 確か彼らは王に謁見しているんじゃ……」
「…………さあ?」
 視線で尋ねられたが、わからない、とウィルは頭を横に振っていた。






 王の興味は『勇者』であるユリウスだけに向けられていたので、強制連行されたユリウス以外の面々は、暫しの自由を送る事になった。王の気が変らない内に、と逃げるように颯爽と謁見の間、そして城を辞した三人は城門近くの教会の長椅子ベンチで退屈そうに空を眺めていたアズサと合流して、これからどうするか話し合いながら通りを歩いていた。
 雄々しく剣を天に掲げる精悍な英雄の周りに、愛おしそうに英雄を見上げる数人の美しき女神達。そして英雄の足元に力無く地に伏した巨大な翼竜。古代の英雄譚の一風景を模した彫刻が強烈な存在感を放っている噴水広場に、四人が差し掛かった時。
「あ! ヒイロ様だっ」
 喧騒の中に在ってより高く響く声にヒイロは何事かと瞠目した。周りのソニアやミコトは、仲間の名前が“様”付けで呼ばれた事にただ目を丸くして、呼ばれた当人を見上げる。するとヒイロはこの縦横に往く人込みの中から、自分に声を掛けて来た人物を探し出しており、やがてそれは大通りの先を捉える事で終止した。
 人込みを掻き分けるように駆け寄ってくる、ヒョコヒョコと揺れる黒い三角帽子。その後に続いてくる黄金髪の青年。両者の後を歩いてくる二人の青年を見止めて、ヒイロは微笑んだ。
「やぁ、リースにジーニアス。それにウィルさんにヴェインさんだったね」
 ヒイロが帽子を取って丁寧に会釈すると、ウィルとヴェインもそれに応じていた。ユリウスがルーラを使う際に顔を合わせてはいたが、実際に会話と言う会話を交わした事が無いからお互い少し余所余所しくなる。
 そんな考えを歯牙にも掛けないリースは笑顔を浮かべながら尋ねた。
「ヒイロ様も散策ですか? ここの王様に謁見していたんじゃないんですか?」
「いや、まぁ……そうなんだけどね」
 子供らしく次々に思った事を率直に口にするリースに、ジーニアスは少し感謝を覚えながらヒイロ達を見た。
 以前良く世話になった銀髪の参謀である盗賊ヒイロに、ほんの数日前に共に剣を並べた事のある剣士アズサ。そのアズサに双子のようにそっくりな武闘家ミコトに、何処か自分の妹を彷彿させる雰囲気を持つ僧侶ソニア。
『アリアハンの勇者』率いる魔王討伐隊。そしてその中心人物である漆黒の少年、勇者ユリウスがそこにいない事をジーニアスは怪訝に思った。
「ヒイロ。……ユリウス君は?」
「…………ユリウスは王に連行されたよ」
 何ともいえない曖昧な苦笑を顔に貼り付けながら、何処か遠い目で言うヒイロ。その静謐に細められた琥珀の双眸は、この場所からでもその雄大な佇まいを見る事ができる闘技場にへと向けられているのだが、それを理解できるのは謁見時にいたソニアとミコトだけで、他の人間は不思議そうに首を傾げるばかり。
「れ、連行って……」
 尋ねたジーニアスは、返って来たその物々しい言い様に頬を引き攣らせる。それを見てヒイロは笑みを零した。
「円形闘技場に連れていかれたのさ。王の護衛という名目上ではあるけど、単に自慢したいだけなのかもしれない……」
 謁見の間で見た王の子供のような笑みを思い浮かべて、ヒイロは指先で頬を掻く。やはり何の事か判らないジーニアスはパチパチと目を瞬かせている。
「……何でまた、そんな事に?」
「うーん……、王になるのを断固拒否したからかな?」
「へ?」
「アレを拒否できたのか……」
 ジーニアスが間の抜けた声を零すのと同時に、ヴェインが小さく呟いた。
「ヴェインは何の事か知っているの?」
「……ああ。ここの王は自分が気に入った人間に、王位を譲渡するんだ」
 思わず絶句するジーニアス。そんな馬鹿な話、聞いた事が無い。ヴェインの言葉を聞く限り、それは国王としての責務を放棄すると言う事に他ならない。それも後任を自分の好みで適当に選んでいる、などと理解の範疇を越えていた。
「そ、そんな無茶苦茶な……」
「実際に無茶苦茶なやり取りだったよ。ユリウスも断りながら相当腹に据えかねていたね、あれは……」
 疲れたように嘆息しているのはヒイロだけではない。ミコトはその時の様子を思い出してあからさまに不愉快に顔を歪めている。
 サマンオサ出身と言う事で、まつりごとを自分の食い物にする事を許せないジーニアスは、だんだんと思考に苛立ちが芽生えるのを自覚していた。徐々に眉間に皺が深まり、眉を顰める表情にそれを察したのか誤解する前にヴェインが釘を打つ。
「実際のところ、王の職務放棄と言う訳ではなくてな。言ってみれば王の道楽のようなもので、国民にとって見れば一種の祭典なんだ。要は王権交代劇という節目を口実に騒ぎたいんだろう。事自体、年に数回ある事で王権交代そのものの期間は十日程度だ。実際の政治には何の影響も無い上、祭りと言う事で経済の回転を早める切欠にもなるから、誰も文句は言わないんだ」
 実際に王に祭り上げられた奴にとっては迷惑な事この上ないだろうがな、とヴェインは空を見上げながら言った。その様子はまるで、知人の誰かが経験させられたのを知っているようであった。
「詳しいんだね」
「ロマリア国民はほぼ全員が知っている。……他国の人間に平和ボケと嘲笑されても仕方が無い風潮ではあるがな」
「ははは……」
 一瞬脳裡を掠め、口から出掛かった言葉をヴェインに言われて、ジーニアスはそれを苦笑で誤魔化した。





 人々の憩いの場である噴水広場には、温かい陽射しが降り注いでいた。
 その後、昼も良い時間帯になったので、約一名を欠く二パーティの面々は噴水広場の脇で営業している大衆食堂で昼食を摂った。男は男四人で、女は女四人同士でさまざまな話題に花を咲かせている。同じ旅人という身空が、共通した苦労話や醍醐味などを語り合って穏やかな時間を過ごした。
 仕事に、家事に日々変わりなく勤しむ人々にとって今日という日は休日ではない。太陽がより高くなればそれら日常に傾ける意識に熱が入り、各々の日常を全うする。その為、幾許か噴水広場の喧騒が収まり、道往く人々の姿が午前に比べて少なくなったのを見計らって一行は、舞い散る白い水飛沫が風に攫われて涼やかにある噴水の淵縁、その付近に備えられている長椅子に腰を下ろして余暇を愉しんでいた。
 太陽が南中しかけ、陽射しも少し強くなってきた頃。噴水の淵縁に腰を下ろしていたウィルが、おもむろに懐から何かを取り出した。
 それは、丁度両手を並べて掌に収まるくらいの大きさ、焼土色の特徴ある形をした笛だった。その特異な形状は、一般に広く伝わっているような棒状のそれではなく、長卵型の陶器にただ適当に穴を空けただけのような粗末な物。それで本当に音が出せるのか疑問が湧いて来る。実際にその笛を見た周りは、そんな風に考えていた。
 実際にそれを初めて見て、不思議そうに目を丸くしているのはソニアやミコト、ヒイロとアズサといった馴染みの薄い面々。逆にジーニアス達にとってはそれは至極見慣れたもので、それが紡ぐ音色にしてもそうだ。何故なら、その音色こそが自分達の旅の行く先を指し示し導く、福音の音なのだから。
 賢者ウィルはそれを手にしたまま深い集中に入ったのか、その菫色の双眸を伏せた。その様子は、よくソニアが魔力エーテルを収束する為に行う瞑想の、ミコトが闘気フォースを練る為に行う集気法のように見える。だからこそウィルの集中の妨げにならないようにと、ヒイロは隣に座るジーニアスに小声で耳打った。
「ジーニアス。ウィルさんはどうしたんだい?」
「ああ……うん。まぁ、見てい…いや、この場合聞いていてよ、か」
「?」
 何処か誤魔化すように曖昧に返されて、ヒイロはただ首を傾げるばかり。
 周囲が興味津々と言った視線を一人の賢者に集める中。風に梳かれて優麗に靡く空色の髪と、それを括る金のサークレットと宝玉が太陽を反して一際鮮やかに映えた。そして、ウィルは静かにそれを口に宛がう。

 夏の温かい風に乗って、何処までも遠くに染み渡るように不思議で優美な旋律が空に広がった。

「綺麗な音色……」
 両目を閉じて、静謐を壊さぬように慎ましく奏でられている神韻の旋律に、ソニアは酔いしれるように聴き入っていた。
 世界に分け隔てなく広がって、そこにある全てに優しく浸透していく。静かに、厳かに昇る諧調はまるで朝陽の、夕陽のようだなと何と無しに思った。
 今まで宮廷に仕えた事のある身として、壮麗にして重厚な宮廷音楽を何度か耳にした事もある。だが今耳に届いている音色はそれに決して劣らない、何処までも透明で貴く澄み切った神聖なものさえ感じていた。

 完全に世界に染み込んだのか旋律は徐々に弱まり、潰えた。
 ただその深い余韻は胸の内に今も残っている。恍惚と聴き入っていた誰もが双眸を伏せて、まだそれを聴いていたいと言う想いに駈られる。その現れか、未だに場にいた誰しもが双眸を伏せて名残惜しく意識を委ねていた――。
「ぐっ!?」
 その時、小さな呻き声と共にドサリと何かが地に崩れ落ちる音がした。夢心地の旋律に身を委ねていた面々が、その現実味ある音に引き戻されて何事かと目を開ける。すると、地面に蹲って両手で頭を押えているヒイロの姿が視界に飛び込んできた。
 何かに耐えるように険しく閉じられた両眼。身体の不調を代弁する額や頬を流れる脂汗。激痛を感じているのか低く零れる苦悶の喘ぎ声。被っていた帽子は、頭を押えた手の力強さに掴まれて殆どが脱げ掛かっている。顕になった白銀の髪が、太陽に透けて眼を向けられない程に眩く輝いているように見える。

『――白翠アルベド! 月の紋章…白翠!!――』

「っ!?」
 何かに呼ばれたような気がして弾かれたようにヒイロは顔を上げる。
 宙を往く琥珀の視線は弱弱しく周囲を探るだけ。その双眸は虚ろで生彩が無く、光を宿してはいない。ただ、何かを切実に探し求めるように縦々横々に彷徨っていた。
「ヒ、ヒイロ?」
 普段から達観で飄々としていて、どんな状況下にあっても余裕を消す事の無い仲間の、こんなにも取り乱した姿に誰もが眼を見張った。崩れ落ちたヒイロの傍に膝をついて、心配そうな顔をしてソニアが言う。
 それに我を取り戻したのか、ヒイロは何とか笑みを浮かべてソニアに返した。
「……大丈夫、ちょっと眩暈がしただけさ」
 だが弱弱しい微笑みからは、疲労が滲み出ている。未だに立ち上がる事すら出来ず、地面にへたり込んだまま病的なまでに蒼白となった顔でそう言われても、ただの虚勢にしか聞こえない。そんな様子で浮かべられた微笑は本当に余裕が無い憔悴しきった姿を浮き彫りにするだけだった。
「凄い汗……、本当に大丈夫なの?」
「ああ……」
 気だるそうにヒイロは頷いて、大きく深く溜息を吐いた。

 清澄した空間に反響してくる音は無い。研ぎ澄まされた魔力を感知する感覚でそう判断を下す。ウィルはゆっくりと口から笛を離し、双眸を開いた。
「ジーニアス、どうやらこの地には無いようですね。……どうしたんです?」
「あ、いや……。良く判らないけど、笛の音を聞いてからヒイロの調子がおかしくなったみたいで」
 周りの喧騒から完全に隔絶する程に深い集中状態だったのか、ここで初めて周囲の慌しさに気がついたウィルはジーニアスに問う。そして狼狽うろたえながら返ってきた碧空の視線と言葉に瞠目し、即座にヒイロの傍に駆け寄って様子を窺った。
「!? 大丈夫ですか?」
「あ、はい。もう、大丈夫です」
 ヒイロは噴水の淵縁に腰を下ろして、濡れた手拭でこびり付いた汗を拭いている。散漫だった呼吸も幾分か落ち着いていたが、たどたどしい口調で未だ尾を引いているようだ。
 その様子を見止めてウィルは申し訳無さそうに深深と腰を折る。
「いえ、この笛の音色は魔力波を伴いますですので、本当にごく稀に気分を害してしまう人がいるのです。……迂闊でした。私の配慮不足です。本当に、申し訳ありません」
「気にしないで下さい。……自分でもこんな風になっているのが不思議なんです。あなたの所為ではありません」
「……そうですか。そう言って頂けるなら、救われます」
 特に責め立てる意思の無い、穏やかなヒイロの言葉にウィルは再び頭を深く垂れる。ただその足元の石畳に向けられた双眸に、鋭い光が一瞬覗いては、誰の目に止まる事無く消えさっていた。






―――総ての燭台の灯が消えた闇の底で。光から隔絶された地下の闇中において、目が闇に慣れると言う事はまず無い。だが、ひんやりとした石の回廊の中を何の障害も感じずに、闇の中を進む歩みに微塵も躊躇いを感じさせない男が二人。
 ピシャリ、ピシャリと歩を進める度に反響して返る水音は、決して水そのもののそれではない。もっと粘度が高く、生温かい。鼻を口腔を適度に灼く芳醇な葡萄酒のように紅い血液。靴先に当たった何か硬質なもの。それに足をかけて全体重を掛けると、グシャリという生々しい音を立てて砕け散った。
 その破砕音と立ち上る臭気が何処から入る風に流れ広がると、闇の奥で蠢く何かが歓声のように唸り声をあげる。それは瞬く間に闇全体に侵蝕し鳴動する。闇そのものが一つの生き物のように、ねっとりとした濃密な気配を纏っていた。
「ハッ! 随分と陳腐な檻だな、オイ」
 気の抜けたように呆れながらの声。それに続く空を切る音。そして最後に続いたのは、断ち切られた鉄格子が石床に転がる甲高い音。それを聞きとめて、監獄の奥から幾つもの紅い円光が浮かび上がる。外から反すべき光が無いのにも関わらず、だ。有機的なそれは生物の本能に恐怖を植え付ける。
 男達はその奥に少しも臆する事無く堂々と入って行く。そして奥の、何かを拘束していた刺付きの鉄鎖を手にした斧や剣で次々と断ち割って開放してやる。呪縛から解き放たれた何かは訪れた自由に狂喜の咆哮をあげていた。
 一斉に沸き上がる咆哮。それを聞きながらニヤリと闇の中で斧を手にした大男は嗤う。巌のような体躯を誇る男の横で、剣を携えた山吹のローブに身を包んだ青年が解き放った者達全てに向けて何かを一斉に振り撒く。ほんの一瞬だけ微かに射た光に、それは金色の煌きをもって闇に蠢く者達に染み込んでいった。すると狂喜に充ちていた真紅の眼光が狂乱の闇紅に変り、殺意は破壊衝動へと昇華され渦を巻いて嵐となる。それは石で出来た壁や天井を貫いてその上に座す大気を震撼させた。
「おーし。お前等、活劇ショーの始まりだ! 派手に暴れてこいや!!」
 大男は闇の中の一点に向けて斧を振り翳す。その深闇の先からは、石壁を戛然かつぜんと響く歪な叫声が聴覚を圧していた。
 圧倒的に濃密な気配を纏って闇は蠢き、大波となって闇の中で示された方角に向かう。それはまるで絶える気配を見せずに、大きな濁流の如き勢いだった。
「…………」
「どーした小僧? 気が乗らんのか?」
 大男は、先程から黙っているローブの青年に怪訝な面を向けた。とはいっても、大男はこの青年の声など今まで一度も聞いた事が無いのだが……。
「…………」
 それを言葉なく示すように、青年は感情を消していた面を憮然とした色に染める。闇の中でそれを見止めて、男は肩を揺らして大いに笑う。
「はっ! まぁせっかく貰った機会だ。せいぜい憂さ晴らししようぜ!」
 深闇の中で泰山のような存在感を放つ大男は、邪に口角を歪ませて哄笑をあげた。




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