――――異伝一
      第七話 愚因の芳名







 見渡す限りに広がる草原の中に、独り佇んでいた。
 何処までも緩やかに、遥か地平の彼方にまで続いているようなこの場所は、いつか昔見た事があるようで、記憶の裡にその痕跡は微塵も無い。水平に、ただ果てし無く一直線に走る空と大地の境界に、胸の内で何かがざわついているかと思えば、冷め切った思考は何の興味も示さない。
 周囲には穏やかな風が吹いているのか、草叢が気持ち良さそうに靡いている。だが流れる風の音も、梳かれる草の囁きも聞こえてはこない。ただ揺れているという事実が視覚に捉えられ、それがこの草原に無限に広がっていた。
(ここは……何も、無い)
 明らかに異様なこの世界で、ただ一つハッキリしている事があるとすれば、一面に広がる草海も大地も、そして空も。この世界を構成する全ての要素が黒と白と、灰色で塗り固められたいろどりのない世界であると言う事だ。

 身動きができないように自分はそこで鎖に繋がれていた。
 腕も、脚も、首も、身体も……縛する鎖の端点など鋼のそれに埋もれて見る事が出来ない程に、雁字搦めに自分を拘束している。その重苦を背に一歩踏み出す度に、纏わりつく重みに大腿が悲鳴を上げ、一歩駆け出す度に、膝が崩れ全身が大地に縫い付けられる。
 土の香りも温かみも感じない大地にかばねのように力無く横たわっていると、やがて指一本動かす事すら億劫になり、鎖に埋もれている自由の無い自分がこの上なく滑稽に思えてくる。
 薄灰色の空の中で一際眩く冷たく輝いている白い太陽が、無情に嘲笑うようにこちらを見下ろしていた。
(ここには過去も、未来も無い。ただ現在いまが、自分が何の意味も無く在り続けるだけ……)
 重い身体を何とか動かして仰向けになる。そして虚構に塗り固められた世界の中でも、本来の色彩のままである漆黒の双眸で無為に広がる空を見上げた。悠然と広がる決して変わる事の無い鈍色の静謐を醸す大空は、朗らかな空虚に満ちている。
 だからこそここは心地良いのか、と胸中に生じた矛盾する漣に小さく嘆息した。
(どうして……俺は、こんな処にいるんだ?)

 どれだけの時をそうしていたのだろうか。
 自分の中から時間という概念が既に消失してしまっているのか、ただ在り続けている。既に音は感じなくなり、視覚的な変化が無い以上、それも何の意味も成さない。動けない身体からは感覚が薄れていき、やがて意識だけがこの無彩の世界に解けて広がりをみせようとしていた。
(……な、に?)
 突如、地鳴りがしたかと思うと濃灰色の草原や土が轟然とせり上がり、地は高く壁のように聳え立った。
 そして泰然と構えていたそれは激しく揺れ、小さな砂土を周囲に撒き散らしながら瞬く間に土崩する。その圧倒的な圧力と質量を解き放った内からは、やはり灰色で塗り固められた石の十字架が姿を現した。否、十字架だけではない。良く見ると今自分の身体に巻き付いているものと同じような鎖、そしてそれによって咎人の如く十字架にはりつけにされている人の姿があった。
 両腕と腰周り、そして両足を括られて冷たい石の十字に縫い付けられている。その分自由な上体は、ダラリと力無く前に項垂れるような体勢になっており、当然俯く形になっている為に顔を見る事は出来ない。長く癖の無い暗色の髪が背中から、首筋から零れ落ちて所在無く風に嬲られていた。
(!?)
 その磔の人物は全身に冷たく輝く剣を無数に突き立てられていた。咎人の処刑の如く腕に、腿に、腹に、胸に……。無情なまでに惨たらしく肢体を埋め尽くしている剣の根元は、禍々しい黒一色に塗り固められていた。まるでその身に立つ剣そのものが、黒を養分に咲き誇る花のように真っ直ぐに生えている。
 剣の温床となっているその人物。髪の毛や肌の色という個を判別する上での最も基本的な要因…色彩は既に黒塗れで判断ができなくとも、剣花の間から見える外観の線はその人物が女性である事を示していた。
 突如、その磔の女性はゆっくりと顔を上げる。だがその表情も黒と蔭に塗れて見る事は出来ない。ただ言葉を発しているように唇が動く黒の蠢動しゅんどうだけが酷く明瞭に見る事が出来た。
(何だ……?)
 そう怪訝に思った瞬間、フッと自分の身体が軽くなる。怪訝に改めて自分の身体を見てみると、今の今まで全身を拘束していた鎖が影も形も見当たらない。突然に消失したそれに戸惑いを覚えながら、握っては開き虚空を掴んでいる自らの掌を食い入るように見つめていた。
 その間も磔の女性は必死で何かを叫ぶように、鎖同士を擦らせて金属の嘶きを周囲に広げている。もがく度に、喘ぐ度にギシギシと悲鳴を上げる金属の小さな火花に反して、女性の声はまるで聞こえてはこない。
(…………)
 何故かは解らない。ただ無意識的に、発せられているであろう言葉を耳にしなければならないという強制力を感じ、磔の女性に引寄せられるように近付き耳をそばだててみる。

『二人は、俺が守るから』

 麻痺しかけていた聴覚にはっきりと届いたのは、女性のものではなく男性の…少年の声だった。
「!?」
 弾かれたように大きく目を見開いて顔を上げる。すると相手の吐息が額を掠める程に眼前にあったのは、良く見知った端正な女性の顔。先程まで黒に塗れて表情など見えなかったというのに、今は無彩の世界の中でさえ綺麗に微笑んでいる。口元から、目尻から一筋の黒を艶かしく垂らしたまま。
『二人は、俺が守るから』
 優しく見下ろしながらの女性の口から紡がれるのは、少年の声。
 不可視の圧力を伴う言葉に思わずあとずさる。だが地面を擦るように下げた踵はすぐに何かにぶつかって、後退を阻まれた。何事かと振り返って見てみれば、その先にはたった今眼前にあったそれと同じ石の十字架。その肢体から無数の剣花を咲かせたまま優しく微笑む女性の姿。
 いや、背後だけではなかった。この草原だと思っていた場所全てに、今自分が立っている場所を囲むように延々と円のように螺旋のように永劫に続いている。
 逃げる事すら許されない、冷たい剣と十字に囲まれた魂の監獄。
 そして発せられる断罪の宣告は、聞きたくない忌々しい声。愚かで幼稚な、それこそ切り刻みたい己の言葉。

『二人は、俺が守るから』
『二人は、俺が守るから』
『二人は、俺が守るから』
『二人は、俺が守るから』
『守るから。守るから』
『守るから。守るから』
『守るから。守るから』
『守るから守るから守るから守るから』
『守るから守るから守るから守るから』
『守るマモルマモル護るマモルマモルマモルマモル守るマモルマモル護るマモルマモルマモルマモル守るマモルマモル護るマモルマモルマモルマモル守るマモルマモル護るマモルマモルマモルマモル――』

(や、めっ……)
 せせら笑うように自分を取り囲むいばらの音色。輻輳ふくそうし方々からバラバラに届く波紋は次第に重なり、やがて調律された一つの重奏になって世界全てを侵すように響き渡る。
 魂を灼かれるような傷みを齎す世界の鳴動に、頭を両手で抱え脳髄に響く声を遮るように、抗うように狂ったような絶叫を上げた。
「や…、めろぉぉぉぉぉぉっっっーーーー!!」
 するとその世界はパリンと一際大きな澄んだ音を立てて砕けた。
 空も、大地も、自分を囲んでいた十字架も、それに磔られていた女性も何もかも。窓枠に填められた硝子が割れ散るように簡単に呆気なく。一枚絵に無数のひびが走りガラガラと崩れ、その奥に息を潜め隠れていた深遠の白き闇に呑まれていく。
 白に呑まれた世界の残滓は形を留める事も無く、粉微塵に崩れ掻き消えて、訪れるのはただ虚無。
 己の立っていた地も消え失せて、奇妙な浮遊感に身動ぎしながらゆっくりと全身を呑み込む深い闇に堕ちて行き、肉体と精神は乖離して無に回帰する魂は抗う事をやめた。

 ズタズタに引き裂かれた意識の残骸。その閉ざされ往く意識の中、白い闇の中で誰かが哀しげに囁いた気がした―――。





「!!」
 ユリウスは弾かれるように眼を見開いた。
 寝台に横たわる自分の体の上には、添うように在る剣と鞘が静かに佇んでいる。いつでも抜き放たれるように左手で鞘を固定し右手は柄に添えられたまま、左胸の心臓の鼓動に合わせて上下していた。
 霞掛かった思考を正す為に小さく頭を振りながら、ユリウスはゆっくりと気だるそうに身体を起こす。片手で髪の毛を乱雑に掻き回し、空いていたもう片手で左の胸元の衣服をきつく握り締めた。呼吸が浅く疎らで、嫌な汗が頬と背筋をのっそりと這いずり回っているようだった。
 部屋のカーテンは外からの光に薄っすらと透けている。だが薄暗い青のそれは時刻がまだまだ早朝の、日の出前である事を示していた。同室の、隣の寝台で寝ているヒイロには今の自分に気付かれた様子は無い。ただ規則正しい寝息が簡素な佇まいの部屋に響き渡っている。
 それに微かな安堵を覚えながら、ユリウスは呟いた。
「……ラリホーが解けた、のか」
 掌で顔を覆ったまま数回空気を貪って、すっかり眠りの園から追い出されてしまったユリウスは観念したように寝台から降りた。




 外はまだ薄暗く、これから陽が昇るという早朝の時間帯だった。朝露を含んだ空気は肌寒さを覚えるほどに冷たく澄んでおり、しっとりとした清々しさをあまねく深い蒼の下に広げている。
 宿の裏、冷え切った井戸水を桶に汲み、ユリウスはそれを頭から一気に被る。夜の時間に冷やされたそれは、夏の時期にあっても充分に冷たく、その射すように酷薄な水の叱咤が覚束無かった思考を一気に引き締めた。
 旅立ちの時から見て幾分か伸びてきた前髪。水が滴っている黒髪は重々しく視界を覆う。用意していた乾いたタオルで乱雑に顔と頭を拭い去り、頭巾のように頭に被ったまま水を張った桶に映る表情の無い自分の顔を見下ろした。
『君は一体何の為に戦っているんだ!』
 空から吹いてきた風に水面が揺れると、そこから誰かの声が発せられた気がする。それは得も言えぬ不可解な何かを裡に生じさせ、ユリウスは深く眉間に皺を刻んだ。
「何だ……?」
 水鏡の中で不貞腐れた自分を見下ろしながら、己がこうも不愉快な気分になっている事の原因を探る。即座に脳裡に形を成したのは太陽のような黄金髪の青年。そして、愚直なまでに真っ直ぐな碧空の視線から紡がれた言葉。
『君には……守りたいものが無いというのかっ!?』
 烈火の如く激昂している彼の声が、今も耳の奥に疼いているようだった。
「あいつの所為か、……っ!?」
 ポツリと無意識的に言葉が零れる。そして、それに気が付いてユリウスはハッとした。
(何を馬鹿な事を……、どうかしている。他人の所為にする事に意味など無いだろうに……)
 他人が何をどう思おうが、それはその他人の価値観が生み出した結晶であって、自分にとってはどうでも良い事ではないか。それを逆手に己の不興の原因を他人になすり付けるなど、愚かにも程がある。
 忌々しそうに髪を掻き回しながらそう考え、はたと思う。
(先程見た夢……あれは自分の望みの具現なのかも知れないな)
 苦悶の表情一つ、苦痛の呻き声一つあげてくれれば、それは罪悪となって自分を苛み続ける筈だった。
 死に至らしめる白刃を自分の身体に突き立てられた時、人間だろうが魔物だろうが苦悶を全面に浮かべ、呪のように耳に残る断末魔を零す。それはこれまでも、そしてこれからも幾多の屍に飾られた路を突き進む自分にとって確かな真実。だのに、ただ一人だけ…彼女だけは違った。
 その違いが脳裡にいつまでも焼きついているから、わからなくなる。自分が正しいのか間違っているのか。善悪の区別すらつかず、ただそのどちらかの答えを求めて葛藤し、慟哭する。だが結局はそれに答えは見出す事は出来ず、到る事は出来ず両者の狭間で摩耗する精神は徐々に崩れていく。
(それでいい……。いや、今となっては寧ろそれでなければならない)
 最期に交わした誓を果すには、こんな事を感じている邪魔な心や感情を滅さなければならない。揺らぐような余計なものなど、自分の裡から塵一つ遺さずに排除せねばならない。

 これから先、どれだけの生命を奪う事になろうとも、どんな姿形の敵と相対しようとも折れる事の無いいしが必要だから。

 常備している小振りの聖なるナイフを取り出し、その聖銀の刀身を素手で握り締める。力を篭めるとプツリと小気味良く拳の中で何かが切れる感触がして、火の中にくべたように熱を帯びた。
「…………つるぎの聖隷」
 刃から紅い雫を零すナイフを握り締めたまま、ユリウスは水の張られた桶に映る自身の顔に拳を入れる。傷口に染み込む鋭い痛みが思考を更に怜悧にしていき、ここでようやく無駄な感傷を続けている己を排する事ができ、小さく嘆息した。





 今現在、王都ロマリアの城下街の一角にある宿屋に宿泊していた。
 カザーブ村でしたためて貰った書状や報酬を受け取り、移動魔法ルーラで王都に帰還したのだった。
 このロマリアの地を初めて踏み締めた時に降りかかってきた厄介事…王家の恥の尻拭いとも言うべき、国宝“金の冠の奪還”。手に入れたそれをロマリア王に返還してようやく次に進む事が出来る。これまでの道中を考えれば、それへの遠回りの終了を目前に溜息の一つでも零したくなった。
 空が明るみを抱く度に、鳥達は目覚めと日の出の唄を歌い始める。悠大な空に高らかと響くそれを無感動に耳にしていると、背後から複数の人の気配を感じた。
「あれ、早いな。……おはよう」
「…………ああ」
 早朝だというのに平時と変わらない溌剌とした声を出すのは、武闘家ミコト。どうやら今よりも更に早い時間に起きて鍛錬していたようで、健やかな汗と共に白磁の頬は上気して赤みが指している。
「お主も鍛錬か?」
「……いや、そう言う訳ではない。ただ単に目が醒めただけだ」
 ミコトの横に立つのは剣士アズサ。普段数本の剣を携えている彼女は、今は一振りの片手剣を手にしていた。
 アズサはカザーブから自分に同行を申し込んで来たのだが、ユリウスとしては特に反する意思を持ち合わせていない為に了承したのだった。
 彼女が何を目的としているのか知らないし、知るつもりも無い。同行者達がどんな思惑を持っているかなど、それは今更な話なので気に止める必要性など無いと考えていたからだ。
(……そういえば、あいつも今はこの街にいるんだったな)
 眉間を流れてきた冷たい雫を手の甲で拭いながらユリウスは思い出す。あいつが指し示す人物とは、先日会って剣を交えた黄金髪の剣士、ジーニアス=エレインの事だ。
 このロマリアにルーラで移動する際、先日会ったジーニアス達も同行させて欲しいと言ってきた…正確には、彼の供である賢者ウィルが、であるが。理由としては王都ロマリアへの足懸りを作っておきたいという事である。確かに一度その地に行った事があるならばルーラによって遥かな距離も一瞬で移動できる。都市間の移動の日数と手間を考えるならば有用な判断ではあり、旅の安全を図る参謀として在るのであれば当然とも言えるだろう。
 その申し出を受けた時、例えそれが利用されるという事が判っていても、ユリウスには断る理由は見当たらなかった。荷物がどれだけ増えようが、一度の手間が変らなければ特に気にする必要も無い事。ノアニールからカザーブへと飛んだ時もそうであったように、カザーブからロマリアへ飛ぶのも同じ事だったからだ。
 ……ただユリウスがそう言った時、ジーニアスや彼の仲間である魔法使いの少女リースが、やはりというべきか不愉快そうに顔を顰めていたのだが、当然それを気にするユリウスではなかった。

 まだ早朝という事もあってか、ミコトは普段頭の両側で結っている髪を解いて垂らしている。その状態でアズサと並ぶと、ミコトの方が髪が長い位で本当に双子のように顔の造りも、髪と眸の色もそっくりだった。とはいっても、ユリウスにしてみればそれ以上でも以下でもなく、眼前の認識以外、他の感慨など当然沸いてこない。
 ただ何となく良く似た二人をぼんやりと視界に捉えたまま、ユリウスは無感動にそんな事を考えていた。身長差もあり、無言でミコトやアズサを見下ろしたままの姿勢である。するとその視線に見定められているかのような何かを感じたのか、少し居心地を悪くしながら、片割れのアズサが眉を顰めて唇を尖らせて言った。
「何じゃ、ジロジロと人の顔を見たまま黙りおって……。もしやお主、何か善からぬ事を考えておるのか!?」
 一人言いながら何かを納得し、途端に何故か自分の両腕を抱くように身構えるアズサに、ユリウスは不可解などっと押し寄せる疲れを感じ、盛大に溜息を吐いた。そう言えば同行を申し出てきた時、自分に向かって「ライバル決定じゃ」などと訳の解らない事を高らかと宣言してきたのを思い出して、余計に肩が重くなる気がした。
「お前が何を言いたいのか全く理解は出来ないが……、寝言は寝ている時に言うものだ。それともお前は、覚醒したまま寝言を吐ける珍妙な癖でも持っているのか?」
「きっ、貴様……」
 酷くウンザリしたように綴られたユリウスの痛烈な物言いに、頬をひくつかせて戦慄いているアズサの両肩を押さえ、ミコトは宥めた。
「アズサ、落ち着いて。ユリウスの厭味にいちいち腹を立てていたらキリが無い」
「いつも真っ先に腹を立てて、いきり立つお前が何を言っているんだか……」
「お前っ……!」
 間髪入れずに続いた、肩を竦めながらの呆れを含んだ嘆息と言葉に、カッと頬を赤くしてミコトは剣呑な視線でユリウスを射抜く。
 そんな鋭い剣幕の二人の表情はやはり良く似ている。強かな二人を前にしたまま、ざわついた空気に不穏な何かを感じて、近くの木から逃げるように一斉に飛び立っていった鳥達の後姿を、ユリウスは悠然と目で追いかけていた。
「…………のぅミコト。一度こやつを懲らしめぬか?」
「…………いいね。私も丁度そう思っていたんだ」
 眼前でヒソヒソと繰り広げられている、良く似た二人の密談を意図的に無視しながら……。






「よくぞ、よくぞ見事に使命を果たした。此度の功績を以ってそなたを真の勇者と認めようぞっ!」
 一際高らかと響いたロマリア王クラウディアスの声に続き、盛大な拍手喝采がこの場に上がった。
 ここはロマリア王国王宮、謁見の間。荘厳さと静寂が相応しい場は、今や騒然と捲き上がる喧騒に支配されている。この場に召集された人間達…主に文官、騎士兵士達の天井を割らんばかりの喚声は、玉座に座す王の眼下に恭しくひざまずいている『アリアハンの勇者』に向けられている。この賞賛の大きさは、此処より遠く離れたアリアハンの地より出だした『勇者』が、世界屈指の版図を誇るロマリア王国においても、その大いなる名声を得た事を示していた。
 そして、その栄誉を得た『勇者』を足元に跪かせている王。誰が見ても判りやすい身分体制上の構図は、折れかけた王旗の修復という威信回復の意味を暗黙の内に隠して持っている。分不相応に王の禿頭とくとうに座する黄金の冠は、本来在るべき場所に帰還した事を喜ぶかのように、射し入る陽日に燦然と輝いていた。
 その雅な金色の光が床に敷かれた真紅の絨毯の上を駆ける様子を満足げに見下ろしながら、王が先程から鷹揚と労いの言葉を語っていたのだが、頭を下げたまま固く目を閉じていたユリウスの耳に届く事はなかった。ユリウスとしては何の価値も無い美辞麗句など、記憶に留めておくつもりすら初めから無かったからだ。
「身に余る栄誉を賜り、光栄に痛み入る思いです」
 爆音の如き喝采が鎮まるのを推し計らい、何事も無かったかのようにユリウスは静かに返した。
 今この場には玉座に座す王と王妃。その周囲を固める大臣と近衛兵士。周囲で一糸乱れなく直立不動で整列している騎士兵士達。そんな彼らに見守られる中に在って恭しく片膝をつくユリウスの背後に、一列にソニア、ミコト、ヒイロ…つまりは以前謁見した者達がその時のように並んで頭を垂れていた。因みにアズサは、こういう堅苦しい場所は性に合わないと登城を辞退しており、本人が固辞している以上強請する意志などユリウスは持ち合わせてはいなかった為、この場にはいない。尤も、アズサの素性を知る者がユリウス達の中には居なかった為、登城拒否について深く追求する者もいなかったのだが……。
「では予てよりのアリアハンとの決事の通り、そなたには資金援助と国内にある各関所の通行証を用意させよう。これでそなたの行く道に、もはやこの国での障害は無いと思え。他に何か用立てるものはあるか? 希望があるならば何なりと言ってみるがいい」
 玉座から泰然とこちらを見下ろし尊大に放つ王。それを受けてユリウスはしばし黙した。



(……甚だ、茶番だな。まぁ仮にそうでないにしても、今更どうでもいい話か)
 これまでのやり取りを思い返して、内心で嘆息しながら一人語散る。
 眼前の王は権威の象徴たる金の冠が戻った事で、他国の人間に対して威勢を誇示しようとしているのだろうか。仮にそうだとするならば既にこれは喜劇に過ぎない。国宝を自国の民に盗まれた挙句、その奪還を他国の民に委ねた時点で、この王家の威信など地に堕して埋もれている。
 難関な問題を丁度訪れた『勇者』に託したという王の慧眼と英断を褒め称える声も周囲から聞こえるが、その慧眼と英断の末に厄介事を押し付けられた側としては迷惑な事この上ない。
(手を汚したのは自分こちら、傷を負ったのも自分。頭上に帰った金色の宝冠が、それを巡る者達の赤に血塗られ、洗われた生臭い腐鉄で拵えられた物だというのに何故気付かないのか……)
 それへの闘争の結果、自分は沢山の血を流し、また他にそれを流させた。それ自体に後悔など微塵も無い。殺し合いの中で相手を慮る感情や思考など自分は持ち合わせていないし、持ってはならない事だからだ。
 だが冠奪還の有無にのみ終始し、表面的な事しか気に留めていないような王を見ていると、彼に対して、鋭敏に働く思考は次々に侮蔑や罵倒の言葉を自然に紡ぎ出してしまう。それらの総てを口外したら朝から黒の靄のように胸中に渦巻いている気分が少しは晴れるだろうが、実際にそれをするとより面倒な事になるのが目に見えていた。高らかと公言した言葉を、この器の小さい王ならばあっさりと撤回するだろう。現に一度掌を返されているのだから、それは確信に近い思いだった。
(沈黙は金なり、とは良く言ったものだな)
 昔誰かに聞いたことわざを思い出し、内心で盛大に溜息を吐く。

(……いや、魔王討伐という行為自体、他にとってはその程度の価値なのかもしれないな)
 ふと、そんな事を考える。
 周囲が、世界が求めているのは魔物、魔王の殺害と言う結果であって、それに至る過程ではない。そこにどれだけの血が流れようが、それが痛みを伴う自分達の物でなければさして気になるものでもないのだろう。自分達に直接的な被害が無ければ、無くしたものが無ければ何の傷みも抱く事が無い。自分達に降り掛からない火の粉はただの風塵と同義。その存在を黙認し、都合良く見て見ぬ振りをするだけ。
 希望的観測で仮に魔王を殺せたとして、その結果として魔物の減少、究極的に魔物が完全に世界から姿を消せば、やがてその存在自体が人々の記憶から淘汰され往くのだろう。
 忌まわしい事を、光の当たらない闇の奥に封滅し、忘却に葬る事で己が心の安寧を得る為に。
 これまで永年の時に積み重ねられてきた、人の歴史そのままに。
(流石にこれは愚案の極みか……。だが何にしても、周囲の心象や素性、思惑など俺には関係が無い。所詮は他人事に過ぎない)
 下らない打算、馬鹿げた思考を切り刻んでは思惟の大海に投げ棄てた。



 こちらの内の逡巡を知る由も無い王に対して、何事も無かったかのように凛然とした相貌でユリウスは顔を上げた。
「海運国家ポルトガへと渡る手段はおありでしょうか?」
「ポルトガとな? それは何故じゃ?」
 青天の霹靂であったのか、目を細めた王にユリウスは淡々と答える。
「私はこの先、旅を進める上では陸路だけでは限界があると考えております。陛下もご存知のとおり、魔王の居城はネクロゴンド大陸を統治していた旧ネクロゴンド城とされています。彼の地に至る為には地理的にも世情的にも、やはり船は必要不可欠になると思われるからです」
「うーっむ……事情はわかった。だが、今現在では難しいと言わざるを得ぬな」
 語られた世界事情に、自身の白い顎鬚を弄びながら王は低く唸る。難しそうに顔を顰めているその様子に更なる厄介な事が秘められているのか、ユリウスは訝しんで僅かに声を潜めた。
「と申されますと?」
「……ウォルフ」
 王の意を受け頷いた大臣が、酷く落ち着いた口調で切り出した。
「我がロマリア王国と海運国家ポルトガは、現在国交を断っております。先代の王が当時のポルトガ王と険悪な間柄でして、国境を挟んで争った事もある……と。その背景は歴史を振り返ってみれば自明で、彼の国ポルトガは嘗てのロマリア王国の一領土に過ぎなかったポルトガ市を基幹としております。それ故に彼の国は独立心が強く、常に我が国を目の敵にしている。最も近くに位置しておきながら、その実は遠い国なのです」
 王よりも実質的にこの国を動かし、多岐に渡る問題と直面している大臣の口から、その理由がこうもすらすらと出るという事は、現行で国として問題視されている事の一つなのだろう。
 国家間の体裁の取り方など自分の知った事ではなかったが、かといって一旅人にどうこう出来る問題でもないだろう。
「つまり、この国から彼の国へ渡る手段は皆無と」
 確認するようにユリウスが呟くと、王が億劫そうに言った。
「いや、そうではない。当時その戦役を収める為に、イシスが仲介役を果たしてな。関所は我が領土にあるが、ポルトガへ渡るにはイシス政府が発行する通行証が必要なのじゃよ」
 王の言葉に、即座にユリウスは脳裡にここ周辺の地図を広げる。そして、その国についての情報を紡ぎだした。
 太陽神ラーを国教とする聖王国イシスは、ここロマリアから内海に沿って南東に迂回した先、イシス大砂漠の奥地に首都を擁する宗教国家だ。その領土はロマリアには及ばないものの広く、その辿ってきた歴史は現在知られている世界史の中で最も古くから名を載せている。当然、陸続きである周辺国家に対して相応の影響力もあるのだろう。
 やはり面倒だな、と思いながら小さく嘆息しユリウスは言った。
「……領土問題が複雑というわけですか」
「うむ、島国であるアリアハンでは起こり得ぬ問題じゃろうな。……イシスか。ウォルフよ」
「は」
「イシスへの紹介状と馬車を用意してやれ。徒歩であの辺境の地に行くには時間が掛かりすぎるであろう」
「確かに……。そのように計らいます」
 さり気無く他国を貶めている王に大臣は内心で溜息を吐いていた。このような他国人に対しての謁見という公の言葉は、最悪外交問題に発展する事も無きにしも非ず。常日頃から発言には気を使えと諌言を言っているのだが、どうにも今日という日は金の冠が戻った事で、気が大きくなっているようだ。
 色々と浮かぶ危惧に、その僅かな間が言葉に顕れていた。
 ユリウスの背後で整列し跪いているミコトは、公前で堂々と他国を軽んじている王に眉を寄せていたが、それは幸いにして誰にも気付かれる事は無く。
「馬車と物資、そして国内の通行証にイシスへの紹介状。こんなところか?」
「お気遣い痛み入ります。陛下、大臣閣下」
 確認してくる王に、ただ静かにユリウスは颯爽と一礼をした。





 この後、初めてこの地を訪れた時のように、酔狂としか言いようが無い前代未聞の王権交代劇をユリウスは王に何度も勧められる。それを断固固辞し通し、その危機を回避したユリウスであった。が、ある意味逞しいとも言える王の矛先を変えた「円形闘技場コロシアムを案内しよう」という言葉に、もはや抗う気力も萎えてしまった。
 要は自分の所有する物の自慢をしたいのだろう。貴族や収集家達は、自分の所有物を他人に見せて喜ぶ性質がある、とは聞いていたが、まさかこんな時にとは思わなかったので、ユリウスは肩にその辺に飾られている雄大な石の彫像を乗せられた気分だった。
 確かに国書を用意するには相応の手続きと時間を有するという事は判るが、その空いた時間を王の道楽につき合う事で失うのは非常に惜しい事。その間に剣や魔法の修練をした方が遥かに自分にとって有益だったと思い、溜息を吐かずにはいられなかった。

 こうしてユリウスはあくまでも名目は護衛だったが、半ば強制的に円形闘技場へ一人連行されたのであった。




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