――――異伝一
      第六話 ふたり







 どうして今、自分の心はこんなにも猛り荒ぶっているのだろう。例えるならば、嵐の大海の中で轟然と暴れ回る怒涛のように。例えるならば、大火の平原の中でうねりを上げながら煌々と空をく炎壁のように。
 ジーニアスは自分の胸中で渦巻いている何かに対し、そう思わずにはいられなかった。
 眼前に鈍色の剣を携えて、無表情に自分を見据えてくる少年がいる。風に梳かれる漆黒の髪が陽を反し、巡り来る黒と白の漣が不可解な威圧を与えてくる。余りにも無機的な表情と色彩が、生来持ち得る本能に何かを植え付けて来るようであった。
 揺れる事無く真っ直ぐに射してくる黒曜の双眸からは、感情を微塵も感じられない。ただ在るがままに眼前を反す鏡のように、淡々と冷涼にこちらを映している。
 その深遠さに呑み込まれそうになるも、ジーニアスは自らに激を入れて愛剣を握る手に力を篭めた。




「はっ!!」
 こちらの動作に合わせてゆるりと剣を構えた黒髪の少年…ユリウスに向かってジーニアスは疾走し、上段から紅蓮の弧を描いた。対するユリウスも振り下ろされる刀身に向けて、鈍色の刀身を閃かせる。
 剣戟の疼きが二人の腕と肩をはしった。
「「っ!」」
 ぶつかり合う灰銀と紅蓮の刀身。空気を裂帛れっぱくする金属音。小さく飛び散る瞬閃の火花。
 斜め十字に交差した互いの刀身を越えて、二つの視線が絡み合う。
 拮抗を保っているのか、互いの身を削り合う刃と刃の摩擦に刀身全体が微かに嘶いた。
 何度か剣閃を重ねながら、体格的に腕力そのものは自分の方が上である、とジーニアスは何となしに思っていた。だが、閃く剣速はユリウスの方が僅かに上で、剣を操るその技術は完全に相手の方が上。その恐ろしいまでに精巧な軌跡をなぞる筋に思わず魅入りそうになる。
 実際にこの状況で魅入る訳は無いが、こうやって数多の剣戟を繰り出す中でも一閃一閃の怜悧さは際立ち、その一つが鮮やかな円弧を描いてこちらに真上から降り注いでくる。それをジーニアスは切り上げる斬撃で迎え撃った。
 力で圧倒しているならば、その前にどんな技や速さで立ち塞がろうとも一蹴できよう。所詮技や速さは、力の不足を補う為のものでしかないのだ。だが今の自分にそれは叶わず、技や速さは相手に分が有る。
(完全に、剣の腕は僕より上…かっ!)
 それを認めたくない、という思いが心を過ぎるがそれをジーニアスは即座に消し去った。
 相手の実力そのものを否定する事に意味など無く、認識する事にこそ意義がある。やがてそれは自分にとっての礎になる、という事は剣を、いや戦いというものを教えてくれた父や仲間の皆が口を揃えて言っていた事だ。だから相手の実力の高さに嫉妬するなど以ての外だ。
 ただ負けられないという、烈烈たる不屈の闘志が腹の底の辺りから沸々と湧いてきていた。

 そんなジーニアスの僅かな思考。その内面の動きが剣閃の中に顕れたのを感じ取ったユリウスは、微妙に甘くなった相手の剣撃を利用してほんの一瞬だけ柄を握る手から力を抜き、再び篭める。その刹那の緩急によって、勢い余って身体のバランスを崩してしまったジーニアスは、よろめきながらも慌てて背後に飛び退いた。
 しかしそれを見逃す程ユリウスは悠長でも、愚鈍でも無く更に前へと踏み込んでいた。
「くっ……」
 追撃の切り上げの一閃に、何とか地面を横転してジーニアスは回避する。
 幾許か距離をとって、紅蓮の剣を大地に突いて立ち上がる。自分の中で逸る気を宥めながら、これまでの流れを思い返していた。





―――朝と昼の丁度境目ぐらいの時刻。
 心地良く降り頻る太陽の熱を全身に浴びながらジーニアスは村の中を歩いていた。目的は日課としている剣の鍛錬をする為に、村の中で人目につかない広場を探してだ。
 既にこの村に留まって数日経っているが、人目に付かないという場所はそう有るものではない。刃物…つまり凶器を振り回す訳だから周囲に危害が及ばないように人から離れた場所でするのは暗黙の了解として、背中に背負った自分の愛剣を使う場合は万が一もあるので、それ以上に周囲に気を配らねばならない。
 そんな理由でジーニアスは、時々によって人の往来が変わる村の中、鍛錬に適した場所を探して歩いていた。

 仲間達に会いに来たと言う事と、その手伝いをすると言う事。
 自分達の背負う旅を一時的に留めてまでカザーブ村を訪れた理由はそうであって、そしてその目的は既に果している。故に旅の再開をするべきなのだが、未だにこの村に留まっているのは本当に個人的な理由…我侭と言ってもいい。
 嘗ての仲間であった銀髪の参謀と、その彼が旅路を共にしている『勇者』という存在に会ってみたい。言葉を交わしてみたい。ただそれだけだった。
 リースは義理の父親であるカンダタとまだ一緒にいれて嬉しいのか、申し出に異を唱える事は無かった。ヴェインも特に咎める様子も無く承諾してくれた。久々に帰った故郷という事で旧友や知人と積もる話でもあるのだろう。もっぱら旅の計画を練る役割を担っているウィルは、これからまた続く船旅に備えて、物資の搬入も考えなければ、と言って快く認めてくれていた。
 個人の都合で迷惑をかけてしまって皆には申し訳ないと思う反面、これから会える人物への過度の期待が高まっている事を自覚してジーニアスは一つ苦笑を零した。
「ユリウス=ブラムバルド君…あのオルテガさんの息子か。どんな人なんだろうか……会えるのが楽しみだな」
 自分がずっと目指している遥かな『勇者』に在る少年。その父の清廉潔白な姿勢は今でも脳裡に鮮明に灼きついている。やはりそんな彼の息子と言うからには父と同じような気質なのだろう。それが自分の酷く身勝手な想像だとしても、ジーニアスはそう思わずにいられなかった。
「あの人の言う事じゃ、もうすぐこの村に来るんだったよなぁ」
 先日会った純白の女性。彼女の言はもうすぐこの地に『勇者』というほまれを背負った少年が訪れる。何の確証も信憑性もない話だが、ジーニアスはあの女性の言葉には確かなものがあると信じていた。
(……まぁそれはさておき、今の時間なら領主館の裏庭が空いているかな?)
 そう内心で呟いて頭を切り替え、ジーニアスはその方向に向けて踵を返した。




 庭先に足を踏み入れた時、そこには既に先客がいた。
 旅装の黒髪の剣士。遠目から見るにその容貌は少年と言ってもいい年齢だろう。全ての村人の顔を覚えていると言う訳ではないが、どうにも村では見た事の無い人物のようだ。
 漆黒の少年は何かを振り払うように一心不乱に剣を閃かせている。その剣筋の鋭さは短く澄んだ風切り音で良く判る。傍目から見ていてもあの少年が凄腕の剣士である、という事は理解できた。
(さて…別の場所を探すべきか、どうすべきかな)
 領主館の裏庭はかなりの広さがある。後から聞いた話ではあるが、ジーニアス達がこの村を訪れる以前にこの場でカンダタとゼノスが闘った時、“飛影”の面々や村の若者達がこぞってここに見物に集まったがまだ余裕があったとの事だ。
 この場所にはそれだけの広さがあるし、あそこで素振りをしている彼の邪魔をしないようにすれば良いか、と判断して、気配を抑えてその側を通り過ぎようとした時――。
「うわっ!?」
「!」
 それ程長い思案では無かった筈だというのに何時の間にか間合いが詰められ、疾風のように繰り出された刺突に反射的に慌てて飛び退くジーニアス。予想外の事で体勢を崩し、尻餅こそ着かなかったが片膝を地面に着いて何とか踏み止まった。
 唖然と眼を見開いたまま何事かと見上げるそこには、陽を反し眩く輝く刀身と、それをこちらに突き出した形で静止した少年の姿があった。
 白い程に艶やかに光る漆黒髪の少年。その感情の通っていないような深い闇色の双眸が、無感情に冷然とこちらを見下ろしていた。

「びっくりした……。何するんだよ、突然」
 ジーニアスの瞠目して絞られた碧空の瞳には、突然に攻撃された事への仄かな憤りと、回避できた事への微かな安堵と、そして何よりもいつの間に間合いが詰められたのか、という驚愕が入り乱れていた。激しく動擾する心臓の鼓動で呼吸が散逸し、擦れがちなってしまった声がその内なる感情を顕著に物語る。
 その声を受けて、眼前に立つ少年はパチリと一つ眼を瞬かせ、頭を垂れた。
「……すまない、考え事をしていた。今のはこちらの落ち度だ。悪かったな」
 本当に謝罪する気があるのかと思える程に少年の声に抑揚は無く、その双眸は微塵も揺らいではいない。その余りに人間味から切り離された冷静振りに、逆にジーニアスが狼狽してしまった。
「あ、いや……」
 そこでジーニアスは自分を見下ろしてくる少年をつぶさに観察する。
 眩い陽を反して真逆に染まる漆黒の髪、艶やかなそれと色彩を同じくする双眸。羽織った濃紺の外套が少年の雰囲気を歳相応のそれから切り離すように清冽せいれつに引き締めている。こちらに向けられた鏡のような刀身の切っ先は、怖気がする程に鋭く、それは降り注ぐ視線と絡み合って剣呑な威圧さえ感じる。
「え…っと、君。もしかしてユリウス=ブラムバルド君?」
 少年の様相はカンダタ達から聞いていた『勇者』の容姿と一致する。ただ一目見てその双眸の奥に宿るくらい闇を感じ、ジーニアスは怪訝と危惧を抱いた。
 対して漆黒の少年…ユリウスは、ジーニアスの思索など微塵も気にも止めていないように、ただ淡々と抑揚無く頷く。
「初対面のあんたに対して名乗った覚えは無いが、そうだ」
「そうなんだ。はじめまして」
 立ち上がりながら衣服についた草を払い、ジーニアスは真っ直ぐに対面してから手を差し出した。緩やかに出されたそれにユリウスはただ無表情で手を交わし、握り返す。
「あ、名乗るのが未だだったか。僕はジーニアス。ジーニアス=エレイン」
 その名前を聞いて、ユリウスは他人に気取られない位僅かに目を細めた。当然、初対面のジーニアスにその変化が判る筈も無く。
「エレイン? ……あんた、サマンオサのサイモンの縁者か?」
「ああ。サイモンは僕の父さんさ」
 ユリウスの指摘に、ジーニアスは朗らかに笑った。
「…………」
「そうだ、ユリウス君。ちょっといいかい?」
「……何だ?」
 何故か押し黙っていたユリウスが視線を合わせてきたのを見止めて、ジーニアスは深深と腰を折って頭を下げた。そんな突然の不可解な行動に、ユリウスは訝しそうに眉を顰める。
「何の真似だ?」
「オルテガさんには色々世話になったからね。お礼を言っておこうと思って」
「……オルテガに受けた恩への礼を、何故俺に言う?」
 言葉を受けて、今度は明らかにユリウスは目を細めた。何処か不機嫌そうにも見える相貌は冷たい。
「それは、君はオルテガさんの息子だから」
「そんな事なら、本人の前で言え。……ああ、だがアリアハンにある墓の下には誰もいない。あれは中身の無い単なる石碑だ。オルテガはネクロゴンドの火山に消えたという事だから、骸が在るとは思えないがな」
 寒気がする位に冷酷に、とんでもない事を語るユリウスにジーニアスは瞠目した。
「! 君は、何て事を……。自分の父親の事なのに」
「以前、あんたのお仲間にも言ったが、俺にはオルテガが実父と言う実感も認識も無い。あの男が何かした事に対して謝恩謝辞やら罵詈雑言を並べられても、俺にとっては迷惑なだけだ」
 サマンオサのサイモンといえば、“流星”とも深い繋がりがあるのは、他国でも有名な話だ。となれば今では形態こそ変わったといえ“流星”との関わりがある盗賊団“飛影”の首領、カンダタとも知己であろうと考えて、ユリウスは話の引き合いに出したのだ。
 相手側の事情を知らないユリウスの話は的を射ていたが、それが向けられた当のジーニアスはそれを気に止める事無く、ただ余りに酷薄に語られた死者を嘲笑し冒涜するような言葉に衝撃を受けていた。
「し、知らないからってそんな言い方は無いだろう! オルテガさんは、息子の…君の事をあんなに楽しそうに語っていたんだぞっ!!」
「……だから何だ? そんな届かない言葉に一体何の価値が在ると言うんだ」
「価値があるとないとか、そう言う事を言っているんじゃないっ! 君は……」
 思わず握った手が憤りに打ち震える。嘗て話したオルテガの、父として子を想う言葉と顔が記憶の中から浮き上がっては巡っていた。
 一方ユリウスは、他人事であからさまに憤然としているジーニアスを見据えたまま、理解できないと大きく肩を竦めた。
「あんたもあの男カンダタと同じ口か……、はなはだ迷惑な話だ」
「なっ……」
「……オルテガの行動に恩義を感じているのなら、アリアハンにでも行って直接母や祖父にそれを言ってくれ。あの二人なら、あんたの期待する言葉を返してくれるだろう」
「…………!」
 温度の亡くした冷酷な双眸と仮面のように固まった顔を見て、ジーニアスは戦慄を覚えていた。



 訥々とつとつと並べられる言葉。人間の情と言うものが絶無の、常識では考えられない凍てついた言葉。
 それをにべも無く発するのが『勇者』という立場にある少年。人を守る最先鋒の、人に希望を齎すという『勇者』の言葉……。
 信じられない、いや信じたくなかった。
 自分が憧れて止まない存在。『勇者』という気高く清廉な地平。嘗て見た父や、オルテガといった『勇者』であった男達。そんな彼らと同じ地に立つ少年の言葉とその意思が、どうしても認める事ができなかった。
 だからなのかも知れない。こんな事を口にしていたのは。



「……ユリウス君。どうだろう、一つ手合わせ願えないだろうか?」
 憮然とした様子を隠し切れないジーニアスは、低く強張った声色で真っ直ぐにユリウスへ投げ掛ける。咎めるように睨んでくる視線を受けて、ユリウスは億劫したように溜息を吐いた。
「唐突だな……。俺の言葉が癪にでも障ったのか?」
「……どうかな?」
「別に、構わない。こちらとしても特に断る理由は無い」
 ジーニアスからの反論は無い。それはつまり肯定を意味する。碧空の双眸に浮かぶ激情の焔を垣間見て、ユリウスは嘆息した―――。






 領主館のとある一室。その部屋には、ヒイロとゼノスとカンダタの三人だけが卓を囲んでいた。
 椅子に腰を掛けて久方振り…といっても数週間だが再会にグラスを傾けている。葡萄酒の甘く芳しい香りが部屋の空気に溶けて充満する。その中で心身共に安らいでゆく時間を愉しみながら、三人は談笑していた。
 嘗て共に戦ったジーニアスが故郷を旅立ち、今この村を訪れていると聞いた時、ヒイロは驚嘆していた。自分が彼ら“流星”に協力していた時。ジーニアスはまだまだ駆け出しではあったが、ひたむきで頑なな少年だった筈だ。彼の憧れる父、『勇者』サイモンのようになりたくて努力し、歳相応に自分の在り方について悩んでいた時には相談に乗った事もあった。
(でもまぁ…確かあの時でさえ、今のユリウスよりは年上だったか)
 そんな彼が仲間を率いて今の世界を旅しているという。やはり、二年という月日は成長期にあってとても大きく尊い時間なんだと、ヒイロはしみじみに感じていた。
(…っと、ミコトの言じゃないけど少し年寄り臭いか)
 仲間のミコトに以前レーベ村で言われた事を思い浮かべて内心で苦笑を浮かべる。
 今、ジーニアスは日課である剣の鍛錬で外に出払っていると言う事だった。だから、ここに戻ってきたら挨拶しようと考え、久々の邂逅が愉しみになる。
 巡る懐古に浸っていると、聴覚が外からの甲高い音を捉える。平穏な村ではあまり聞く事の無いそれを怪訝に思い、ヒイロは耳を澄ませた。
「……ん? 剣戟の音だ」
 ポツリと零したヒイロの言に、笑っていたゼノスやカンダタは何事かと視線を送る。
「あ? 相変わらず耳聡いなお前は」
「まあ、それは職業柄という奴さ。……どうやら裏庭の方からだ」
 ゼノスの皮肉を軽く流してヒイロ。
「裏庭ねぇ。そこの廊下からなら見えるんじゃねぇか?」
「確かめに行ってみるか。誰がやっているにせよ、あまり大きな騒ぎにしたくは無い」
 その方向を指差すゼノスに従って、カンダタは立ち上がった。
 カンダタの言葉に、以前自分達が闘った時を思い浮かべ首肯するゼノス。そんな二人に続いて、ヒイロもゆっくりと席を立った。

 屋敷の二階の窓から見渡せる裏庭。村の北限に位置している館の更に北にはかなりの空き地と、先には外壁しかない。その為、村の中からの視線は届きにくいが、剣戟という鈴を高く鳴らすような音は良く通る。
 短く刈り込まれた芝生の上で躍る二つの影を見下ろして、窓枠に身体を預けてゼノスは呟いた。
「何だ。ジーニアスと勇者クンがやりあってんのか」
「へぇ…、どっちが勝つと思う?」
 その横から外を覗きながら、ヒイロ。興味があるようなその声色にゼノスは一つ笑い、二人を見下ろしている目を細めた。
「……純粋に今の実力を考えたら勇者クンの勝ちだな。あの勇者クンはカンダタに勝ったんだ。ならジーニアスには荷が勝ち過ぎてるだろうよ」
 ゼノスの戦士としての一流の洞察眼と判断に、カンダタは苦々しく顔を顰め、ヒイロは一つ頷く。
「確かに……、この二年でジーニアスがどれだけ成長したのかは判らないけど、ユリウス相手では分が悪いな。だけどジーニアスにはアレがある。魔剣・烈炎ほのおの剣…アレで上手く立ち回れば、どう転ぶかはわからないかな」
 これまで旅路を共にしたヒイロは、今まで実際に見た戦闘においてユリウスが全力で戦った事は未だ無いと思っていた。つい先日訪れたあの地下洞窟においては、自分は自分の戦闘に勤しんでいた為、ユリウスの戦いをしっかりと見る事は叶わなかったが……。ともかく、今眼下で繰り広げられている剣閃の連なりを見るに、やはり総合的にユリウスの有利は変わらないとヒイロは考える。だが、一対一という不測の事態が起こりにくいこの状況下において、ジーニアスにはそれを覆す術があるという事もヒイロは知っていた。
 だからこそ、どちらに肩入れする訳でもなく中庸に言ったのだ。
「ただの喧嘩で発動させるとは思わんがなぁ……」
「しかし、何でまたこんな事に?」
 外を見つめたまま、ヒイロは首を傾げる。その嘆息交じりの困惑した様子を背に、ゼノスは耳を澄ませた。

 夏の空の風に乗って、激しい剣戟と共に二人の間で交わされている応酬が自然と聞こえてくる。
「……どうやら意地の張り合い、ただのガキの喧嘩だな」
「ジーニアスは頑なだからね。でも、ユリウスの方は珍しいな……」
 ゼノスの呟きに、同じく風に乗って流れてきた問答を聞いていたヒイロは苦笑を漏らす。ジーニアスの性質は昔と変わらなくて安堵するも、対してユリウスの方は普段とどうにも様子が違うようにも感じる。
「……だが、あの二人にとってそれは必要な事なのかも知れない」
「カンダタ?」
 ヒイロとゼノスの言葉を継ぐようにカンダタは静かに言った。思いのほか厳しい声調のそれに、ヒイロとゼノスは同時にカンダタに視線をやるも、何を思っているのか当のカンダタから内心を窺う事は出来ない。
 この三人の中で唯一、今眼下で対峙しているユリウスとジーニアス、そして二人の父であるオルテガとサイモンを良く知る人物として思う事が有るのだろうか。
 色々な思索を脳裡に廻らせながらも表に出す事は無く、ヒイロは再び二人の戦場に琥珀の視線を戻した。






 どうして今、自分はこんな状況に立っているのだろう。実際に今に至るまでの事の成り行きは把握しているものの、対峙している相手の感情から来ているであろう思惑の流れが理解できない。
 ユリウスは幾重にも閃く剣戟の嵐中に身を投じながらも、そう思わずにはいられなかった。
 眼前に紅蓮の剣を構えて、激情に自分を睨んでくる青年がいる。風に靡く黄金の髪が陽に煌き、それがまるで手にしている炎を模った奇妙な刀身から発せられる金赤色の猛りのように見えた。紫紺の外套が風にはためき、その暗さが返って炎の赤を増長させている。
 瞋恚しんいに細められ凝視してくる碧空の双眸には、幾つもの激しい感情が滾っていた。同時にその双眸の深奥には滾る感情の根源として在る、前へ進む意志たる勇気、矜持、献身といった光が息付いている気がした。
 その清潔な輝きに眼が眩みそうになるも、ユリウスは冷静に双眸を伏せて、開眼した。

 間合いを詰めて振り下ろされていたジーニアスの剣に、それ以上の剣速をもって抗した。
 一度剣を重ねた時から、相手の方が腕力で勝っているなど既に承知していた。相手の方が長身で、体格も良い。体格の良し悪しは戦う者にとってあらゆる武器においての破壊力を支持し、その制御に影響する。体格に見合った武具の方がそうでない物より扱いやすいのは自明で、武器も含めた道具が人が使う為に生み出されている以上、それは必然だ。
 そこから派生する速さや技においても、以前闘ったアズサやカンダタの方が眼前のジーニアスよりも数段上だ。お互いにこの剣戟に闘気フォースを篭めている訳では無いし、相手を弱いと感じている訳ではないが、特に注意する必要も無い。別に手合いに勝敗を求めている訳ではないが、問題なく勝てる。ユリウスはそう冷徹に判断する。
(動きが、甘い)
 両手剣と片手剣という武器の性質の差はあれど、はっきり言ってしまえばジーニアスには隙が多いと感じていた。致命な斬撃を入れる余地を、ユリウスは何度も見つけていたからだ。
 ジーニアスが後ろに大きく剣を振り被った瞬間を狙って、ユリウスは前に踏み出した。加速に乗った剣と、慌てて繰り出された乗れなかった剣。それらがぶつかり生ずる結果はただ一つ。ジーニアスは押され、弾かれるように後退した。



 眼前に立つ青年…ジーニアス=エレイン。サマンオサ帝国に称えられた英雄、『勇者』サイモンの息子。
 嘗てオルテガと双璧を成して、魔王軍に対しての人類最後の砦と謳われていた『サマンオサの勇者』。その名は幾度となく聞かされた覚えがある。そして何よりも、先程その父の名と連ねた時の彼の誇らしげな姿に不可解な眩暈を感じた。
 今となっては、どうでもいいと言う感想しか抱かない己が父オルテガに対して、自分にも嘗てはジーニアスと似たような気持ちというものは有ったのだろうか……。ふと、そんな事を考えてしまった。
(! ……下らない)
 即座にその思考を一蹴し、踏み躙る。
(既に俺にはそれを感じるような心など、既に無い。今では微かに残った塵屑のような残滓、それすらも忌々しく疎ましく感じているというのに、俺は一体何を考えていんだ……)
 己に侮蔑と罵声を浴びせつつも、やはり不可解だった。何故自分はこんな事を考えてしまっているのか。
 他の人間…例えるならば、オルテガと旅路を共にしたというカンダタやミリアから何かを言われた所で、気にする気など起きはしない。所詮は他人事。所詮は他人の価値観。
(わからない……)
 無意味な『オルテガの息子』という立場にこだわる気など無い。滑稽な道化にも等しい『勇者』という称号に縋りつく気も微塵も無い。
 ならば何故、眼前のこいつに言われると、こうも思考が乱れてしまうのだろうか……。



(……不愉快だ)
 剣を繰り出しながら、眉を顰めてユリウスは舌打ちした。
 すると、こちらの思考を知る筈も無いジーニアスは剣を真横に振り抜きながら叫んだ。
「君の戦う理由は…君は一体何の為に戦っているんだ! 『勇者』として何を胸に、抱いてっ!」
 切り返し、連続して来る剣戟に真摯な問い掛け。愚直なまでにありきたりな言葉。
 それにユリウスは左に剣を切り上げながら、表情を消しめつけた。
「目的の為。……そして剱として在る以上、立ち塞がる者、切り裂く敵にある魔物、魔族、魔王…それらを殺し滅する為だ」
「それが君の……、それがアリアハンの『勇者』なのかっ!?」
 ジーニアスの飛び上がって空中から袈裟に切り下ろす一閃をユリウスは受け流し、地を蹴って後方に跳躍して距離を開ける。そして足を止め、一定の間合いを保ったまま構え見据える視線には、何処か億劫とした憔悴が載せられていた。
 左右に頭を振って、溜息を吐きながらユリウス。
「下らないな」
「!?」
「あんたが『勇者』という称号にどんな幻想を抱いているのか、そんな事は知った事ではない。俺にとって『勇者』などという称号など、ただ価値の無い業に過ぎない。上辺だけの伽藍堂がらんどうなそれにどんな意味を見出すかなど、それを定義する人間によって千差万別だ。……脅威に畏れている者達にとって、それは救いの主に見えるのかもしれない。混迷を望む者達にとって、それは厄介者の何者でもないのかもしれない。平穏に在る者達にとって、それは何の価値も無い存在なのかもしれない。だがそれらに共通して在るのは、それが自分達とは違うもの・・・・・・・・・であるという認識。そういう連中にしてみれば、そんな称号を持つ者は人間ですらないのかもしれないな」
 饒舌に吐き捨てるように言いながら、事実そうだとユリウスは考えていた。
 故郷たる国、アリアハン。あの『勇者』を奉ずる国で生まれ育ってきて、これまで一体どれだけの他人が自分を人間扱い・・・・してくれただろうか。いや、一人の個人として見てくれただろうか
 そう自問する。だが、答えなど考えるまでも無く自分の中の深い部分に在り続けている。
(二人、だけだった)
 脳裡に浮かぶのは、紫銀の女性と翡翠の青年。その二人だけが自分を自分と認めて対等に接してくれた。
 だが、それも既に無いあの地。もはや故郷と呼ぶには余りに接点も執着も、未練も無い。
(……下らない)
 ここでつまらない方向に逸れた思考を、ユリウスは脳裡で切り刻んで、そこに溜まった不快な汚泥を吐き出すように深く深く嘆息した。





 自分が『勇者』という称号に抱くのは“他”を守る事への矜持と意義の崇高さ。
 それは、その意志によって人々を守り笑顔をもたらしていた父のようになりたいと、目指そうと決意した時からずっと思い描いてきた事だ。だが余りに“他”を切り離している…悪く言えば蔑ろにしているようなユリウスの冷たい言葉に、清廉な場所が踏み躙られた気がして、ジーニアスは自分の奥で沸々と純粋な怒りが湧くのを感じていた。
 それが自分の感情を押し付けている事だと、まだ少し残っていた冷静な部分が気付いていても。相手のそれもまた一つの正論だと心の何処かで認めていても、退く事はできなかった。
「他を切り払うだけが、君の理由か……。君には大事なものが、守りたいものが無いというのかっ!?」
 お互いに睨みあったまま動く素振りは見せない。ただ剣を手にしたまま、己の意思をぶつけ合う。
 裂帛のジーニアスの叫びに、大きく目を見開いたユリウスは擦れる声で返した。
「……大事なもの? 守りたいもの……、だと?」
「そうだ!」
 碧空の奥にある光が一層強く輝く。それは揺らがないそれを持っている者の眼。その先にあるものを知らない者の眼。それ故に、前を見続ける事を止めない者の眼は愚直で、それでいて輝かしく美しい。
 その双眸と言葉を目の当りにし、ユリウスは頭部を鈍器で殴られたような不可解な衝撃を受け、瞠目した。
(……コイツハ、何ヲ、言ッテイル?)
 耳鳴りがした。甲高く聴覚をつんざき、脳髄を滅茶苦茶に掻き揺らす。それは身体の内側から不快な熱を込み上がらせ、雷鳴のように全身の神経を駆け巡る痺れとなり、やがて意識を侵蝕して深奥の魂を灼いた。
「まもる……、まもるマモル。守る、護る…守る護る護る守る…………っくくく。ぁははは……」
「!?」
 突然、肩を揺らして哄笑を始めたユリウスを前に、その先程までとは一線を画す異様さと危惧を覚えてジーニアスは数歩退く。だがユリウスから溢れ出したように周囲に広がる濃密な圧力を伴う寒気…尋常ではない殺気にただ眼を見張っていた。
 頭を垂れていたユリウスはゆっくりと顔を上げ、昏すぎる闇をほど走らせた剣呑な瞳をヌラリと向けて言う。
「……なぁ、“守る”って何なんだ? “守りたいもの”って何なんだ? 何を、どうする事が守るという事なんだ?」
「簡単だ。君だって手にしている剣は、確かな守る為の力だ。それで胸の中に在る大切な誰か、大切な何かを守りたいと想うだけで守る意志は築き上げられる。意志があるなら前へ進める」
 その地面から響くように低く発せられる擦れた言葉には、今までに無く抑揚頓挫が顕れていたが返ってそれは冷酷に、無情に響く。気圧されながらもジーニアスは真摯に返していた。
 それに、侮蔑を篭めてユリウスは鼻で嘲笑する。
「剣が…守る為の力? 胸の中に在る大切な誰か!? ……はっ!!」
「何がおかしいんだ!? 奇麗事を並べるつもりは無いけど、武器を持つ人によって、振るう人の心によって力に意味は与えられる。無慈悲な暴力とは違うんだ!」
「世迷言を……。剣の…武器の本質など、相容れない命を刈り取る為の手段であり、その意志の具現だっ! 殺す意志を手にしておきながら、守る意思などまかり通る筈が無い!!」
 その場に佇んだままユリウスは剣で風を薙いだ。その断裂音が鋭く響き、陽を反した刀身の光の軌跡が周囲の色彩の中で無心に浮かぶ。いつでも切りかかりそうな緊張が二人の間を駆け抜ける。
「そんな事は――」
「守る、か。たしかに響きは良いな。守っているうちは自分が何をしているのかかえりみる必要も無い満足感に満たされて、それは心地良いだろうな」
 聞きたくも無い忌々しい言葉を何の臆面も無く発するジーニアスを遮って、苛立たしげにユリウスは綴る。
「守る為、か。それはそう望まれたから守るのか? それとも一方的にただ自分の正しさ、自分の考えを押し通す為に守るのか?」
 ハッとしてジーニアスは顔を強張らせるも、ユリウスは反論の暇を与えない。衝撃を受けている碧空の双眸を見透かし、冷笑に肩を揺らしながらユリウスは続ける。
「守る。ああ、守れるだろうな。誰かを、何かを守ろうとする行動。それを行っている自分の自尊心と虚栄心は守れるだろうな」
「!」
「外敵から己の身を守る、誰かを守る、何かを守る。その術で最も効率的なのはその外敵を殺す事。立ち塞がる敵を駆逐する事。脅かす何かを殲滅する事。だが、やっている事は結局のところ殺戮であり破壊だ。守るなんて言葉は、ただ血に染まっている自分の手から目を逸らす為だけの欺瞞に過ぎない。殺戮の結果として生まれる罪悪から逃れる為の免罪符に過ぎない!」
 嘲りに充ち満ちた漆黒の眼は眼前に立つジーニアス個人にではなく、その場に在る総ての者・・・・・・・・・に向けられているようであった。
 大体何故自分はこんな事を喋っているのだろうか。他人が何を思い、何を信じていようが自分には全くと言って良い程に関係の無い事ではないか。言葉を綴りながらユリウスはそう思う。原因が不可解なだけに余計に不愉快だった。
 次から次へと裡から込み上げ、溢れ出しそうな何かを抑えた、どこか切迫した響きを醸すユリウスの声に、自分の中の何かを否定された気がして、憤りに顔を紅潮させジーニアスは叫んでいた。
「それは、君の理屈だっ!!」
 その瞬間、ジーニアスの感情と叫びに呼応するように、紅蓮の刀身に埋め込まれた蒼い秘石が煌いた。
 一つ、真横に剣を振り抜く。すると空を切った刀身が燃え盛る紅炎を纏う。
 一つ、袈裟に剣を振り抜く。すると紅蓮の刀身の延長上、沿うように一直線に炎が疾る。爛々と燃える炎の刃は、空気を貪り光芒の如く直進して地面を抉った。
 そして一つ、逆袈裟に振り抜く。剣としての間合いとその常識を超越して伸びる烈炎は、その先で構えていたユリウスに向かって疾風の如く閃いた。

「!」
 突然に迫り来る炎波の刃。明らかに自然とは異なる現象の炎に抗すべく、ユリウスは手の中の剣で迎え撃つ。が、鈍色の刃と炎の刃が接する刹那。
(なっ…!?)
 予期していた手応えは無く、炎は鈍色の刃を素通りして轟々と風を灼きながら殺到する。
 それに直感的な己の反射神経だけで瞬間に身を翻して直撃は何とか避けるも、炎は左の二の腕を浅く掠めた。
(斬られた!?)
 斬撃による鋭い痛みと、炎に焼かれ裂ける痛みが同時に腕全体を駆け巡った。斬られた瞬間に傷口が焼かれた為か、出血そのものは少ない。
 患部にそっと触れてユリウスは怪訝と驚愕に眼を細めた。確かにこの痛みは斬撃のそれだった。
(……炎が伸びたように見えたが、あの炎そのものが不形の刃と認識するべきか。だが、こちらの剣を素通りして生身の腕を直接切ったのは…………あの剣は、魔導器のような物なのか)
 怒れる眸のジーニアスが両手に構えた剣は、その内の感情を反映すべく尚も激しく燃える炎を纏っている。金赤に輝く燈は清冽な意志と光の奔流だった。
 それをユリウスは嫌悪に、忌々しげに睨みつける――。



『――二人は、俺が…守るから――』

――その瞬間、脳裡に響いてきた言葉は精神を切り裂いた。
 精神の傷みは、傷口に熱湯を浴びせられたような幻痛となって全身を侵す。
(……剱の聖隷)
 自戒と自壊の言葉を一つ内心で発し、心を絶殺する。
 狂叫したくなる衝動をぎ落とし、ざわついた感情を抹消する。



「君は、どうしてそこまでっ!」
 ジーニアスが再び炎の剣を振り被る。叫呼と共に燃え昂ぶる炎は空気を焼き、その内なる意志を体現する。
 迫り来る焔尖に対抗するのであれば、手段は一つ。即座に手段を組み上げたユリウスは一つ溜息を吐いて、柄を握る手に力と雷速の集中を篭めた。
「空貪りて猛る炎よ。猛り昇りて力の刃とならん。メラ!」
 大上段から降り落ちる炎を受け止めるように、高々と掲げられたユリウスの鋼鉄の剣。鏡のように磨き抜かれた刀身が陽を反して煌いたかと思うと、次の瞬間、無限に広がる青空をも呑み込むような深い蒼の炎が刀身を塗り替えた。
 そして激突――。
 在る筈の無い手応えが掌に痺れとなって伝わり、ジーニアスは瞠目した。
「えっ!?」
 紅蓮の炎が、蒼穹の炎に受け止められている。赤と青の決して交わる事の無い炎は、互いに互いを焼き尽くさんと、バチバチと破裂音を上げながらその身を削り合っている。
「隙だらけだ」
 剣を振り下ろした体勢のまま唖然と眼を見開いているジーニアスに向けて、ユリウスは無感情に冷然と言葉を零し、疾駆しながら蒼刃を横に薙いだ。その虚を突いた容赦の無い一撃で紅蓮の剣はジーニアスの手を離れ、弧を描いて宙を滑り傍の地面に突き刺さる。剣に纏われていた紅炎は、ジーニアスの手を離れた瞬間に消失し、今はただ紅蓮の刀身が眩く輝く陽を受け止めていた。
 今目の前で起こった事象が信じられないのか、ジーニアスは呆けた表情でそれを追いかける。そして地に縫われた剣を手にしようと一歩を踏み出すが、間髪入れずにユリウスの剣が顔の直前に突き出されていた。
「!!」
「思いだけで、言葉だけで一体何が守れる。守る為には“力”は必要不可欠。だがその“力”を得る事は、敵を征する…即ち殺しの力を高める事に他ならない。そして、守る為に得たその“力”が、必ずしも守る為・・・に振るえるとは限らない」
 頬や背筋を流れる冷たい汗にジーニアスは悪寒を覚えながら、視線だけをユリウスに移していた。
「……終わりか」
 ふと、溜息を吐くようにユリウスが呟いた瞬間。刀身が纏っていた蒼炎が一際大きく揺らいでは、今まで保っていた均衡を破って暴れ燃える。蒼の焔が煌々と宙を焦す中、やがて礎であった刀身すらをも呑み込んでは焼き尽くし、空気に溶けていった。
 残されたのはユリウスが手に握る柄と鍔だけ。刀身は今の今まで本当にそこに在ったのかと疑問に思える程に、焼滅している。剣という存在そのものが残滓も残さずに消え失せてしまっていた。




 もはや武器としてその存在意義を失ってしまった剣の柄を腰の鞘に納め、ユリウスはこれ以上の問答も手合いも無駄だと言わんばかりに肩を竦め、颯爽と立ち去る。
 蒼い炎が空気に溶け、刀身も空に解けていったという理解を超えた現象を目の当りにして、ジーニアスはただ固まる。思考が理解を試みるも、それさえも覚束無い。
「…………君は」
 唖然としてジーニアスが何とか発した言葉。だがそれ以上は繋げなかった。
 ここを立ち去っていたユリウスがピタリと足を止めて、頭だけで振り返ったからだ。その漆黒の双眸は超然としていて、もはや人のあらゆる感情など破棄したように微塵も載せられてはいない。先程まで彼が手にしていた剱の如く鋭利で冷酷に陽光を反していた。
「あんたは人を……殺した事があるか?」
「!?」
 淡々と発せられた質問にジーニアスは固唾を呑み込む。確かにそう問われた場合、自分の答えは「ある」の一言だ。故郷を守る為、故郷の人々を守る為に暴虐を尽くす帝国の兵士達、横行する賊徒の生命を確かに奪ってきた。でも後悔はしていない。それが自分の信念の燈の下に動いた結果であり、それによって多くの笑顔を守れたという事実と実感が自分を支えているからだ。
 唐突に来た質問にジーニアスは怪訝に思うも、相手の感情が微塵も見えて来ない以上、探りようが無い。
 思考の間、その場を支配する沈黙。流れている風に草木が靡いている清音をどこか遠くの出来事のように耳に捉える。
「ああ、悪かった。“流星”の一員には愚問だったな」
 ユリウスは小さく溜息を吐いた。そして瞼を僅かに伏せ、剣を握っていた右の掌を見つめる。
「…………俺が初めて殺した人間・・は、一番…守りたかった、守ろうと思った人だ」
「なっ……!」
 発せられた言の葉に絶句する。『勇者』という身に在りながら、最も守りたかった人をその手に掛けたというのか。『勇者』という存在を『守る者』と信じ思っているジーニアスにとって、その絶対の矛盾が思考に混乱をきたす。
 ジーニアスはただ瞠目して言葉を発せずにいる。それに追い討ちを掛けるように、ユリウスは自然の静謐を壊さぬよう小声で言った。
「先程の問の答え。大事なもの、守りたいものなど……もう、無い。いや、……俺がこんな言葉を吐く事自体罪であり、おこがましいにも程があるか」
「…………」
「……志を持って目指すのも、それを誇示するのも人としては必要な事なのかも知れない。だが、その先にあるものを…その結果として何があるのかも、少しは考えるんだな」




 ジーニアスを見据えるユリウスの無表情は、恐ろしいまで人間のそれから乖離かいりした仮面のようなもの。だが漆黒の双眸の奥にひしめく闇と、その暗幕から微かに零れる寂寥に充ちた空虚さは、蒼茫とした彩に染まっていた。




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