――――異伝一
      第五話 邂逅の刻







 陽が昇り、見渡す世界に光が行き届いた時刻。朝の清々しい空気に羽を伸ばしてさえずる鳥達の斉唱が世界を明るく彩る。

 カザーブ村の敷居をぐるりと囲む、丸太で組まれた頑健な外壁たる砦柵さいさく。東西南北にあてがわれた門扉はその内外を隔絶していた。
 魔物という異形の、不倶戴天の脅威がこの世界を徘徊するようになって以来、外敵から護る門扉が無用心に開け放たれたままという事態は今までは無く、そしてそれはこれからも無いだろう。だがそれを監視し、外からの旅人や行商人達を村に招き入れる見張り役が、門の横にある検問小屋から席を外していたのは紛れも無く内から溢れ出てくるような喜びに触発されて、心をきつく縛っていたしがらみから開放された故であった。

 こうして無人となった北側の門。
 突如、門前に広がるなだらかな草原がざわざわと大きく揺らいだ。だがそれをもたらすような強い風は周囲に吹いてはいない。草原に立つ木々から伸びている枝葉は、ただのんびりと風になぶられている。そんな草原の中、とある一部分・・・・・・だけが動擾どうじょうしざわつく、明らかに自然とは異なる現象だった。
 不可視の何かに引寄せられるようにひしめいていた草叢は徐々に大きくはためき、やがて這い退くように円陣を描き、ぼんやりと淡い蒼の光を発する。そして終には、顕れた秘円をなぞるように草草は旋風に捲かれて胡蝶の如く舞い上がり、宙をはしり天に昇った。
 刹那、青空の果ての遥かな蒼穹より、その蒼よりも深く明るい輝く光の球体が地面に向かって高速で降りてくる。それが地面に近付くにつれて舞い上がった草の流れは更に擾乱じょうらんし、受け籠を織り成しては光を迎える。
 そして光が地に触れた瞬間。宙を舞い躍っていた草草は、束縛する力から開放されたのかフッと、まるで枯葉のようにひらひらと草海の上に降り散っていった。
 氷青の淡い光はゆっくりと消え失せて、やがてその内側から幾人もの人影が現れる。
 その先頭には、陽を反して艶やかに光る漆黒の髪を風に弄ばせたまま、瞑目し胸の前に翳した両手で何かの印を組んでいる少年が堂々泰然と佇んでいた。




 こうして、術者の記憶に在る場所ならば瞬く間に行き来する事ができる瞬間移動魔法…ルーラを用い、ノアニール地方に向かっていた『勇者』一行がカザーブ村に帰還した。




 着地した事を革靴の底から伝わる確かな感触で認め、黒髪の少年…ユリウスは一つ深く息を吐き、首を大きく回して今まで宙に浮いていたような妙な浮遊感を振り払う。そしてゆっくりと双眸を開いた。
 闇や影が一点に凝縮したような純色な黒、吸い込まれてしまいそうな程に深いその瞳には、感情の彩は微塵も感じられない。ただ固く閉じられた門扉と、そこを見張る小屋からの反応の無さを何の感慨も無く見上げた。
「お疲れさま。大丈夫か?」
 ユリウスの肩に軽く手を置いて、白銀髪の上に羽織っている上着と同系色の帽子を被った、物腰の柔らかそうな青年…盗賊ヒイロがいたわった。
「問題無い」
 それに振り向きもせずに、ただ首肯するユリウス。
 ルーラで移動する際についてまわる制約として、術者に同行する人数の多寡によって術者本人に掛かる精神力の負担は比例して増す。その細かな原理については今も昔もダーマの術者、学者達の興味を惹きつけて話題が尽きる事は無い。
 今現在、ユリウスの紡いだルーラによってノアニールから移動してきた人数は決して少なくは無い。だがそれをやってのけた術者本人は微塵も疲弊の様子は出さずに、あくまでも冷徹に平然としている。
 そんな強かなユリウスを見てヒイロは一つ苦笑を零した。
「……変ね。誰も出て来ないわ」
 立ち塞がる扉を見上げていたユリウスの背後から、いつまで経っても現れない村の自警団の人間に不安を覚えたのか、紅玉の双眸を細めてポツリと零すのは僧侶ソニア。
 風に攫われて舞い広がった浅葱の髪をうるさそうに抑えながら、帽子を深く被りなおしていた。
「どなたか、いませんか!!」
 その横で溌剌と、凛とした声を張り上げて呼びかけるのは武闘家ミコト。
 良く通る声ゆえに、囲いの中からまるで反応が無い事と、自身の声が山彦となって遠く無情に返って来る事が、内部で何かあったのではないかという危惧を抱かせていた。

 北側の門は、その先にあるノアニール村に向かう人間が十数年前より激減した事から、それを監督する人間もそう熱心ではない。案の定、どうやら今ここには誰もいない様子…つまり扉を開ける者がいないという事だ。
 とりあえず、これ以上ここにいても無意味だと感じた一行はそこから西門へ向かい、村に足を踏み入れた。




 そして、村の敷居を跨いだユリウス以外の面々は目を丸くした。

 以前にこの村を訪れた時に見たものは、村の中を往く人々の表情には何かに怯えているように常に影が掛かり、それが村全体を覆う雰囲気に暗澹たる蔭りを漂わせている景色だった。だが、それからだいたい十五日程経過した今、目の前に広がっている所には以前見たそれとは似ても似つかない、訪れた明るい兆しに誰もが朗らかに喜色と笑顔を浮かばせて喜んでいるものだった。
 一体自分達がいない間に何があったんだろうか。そう思いながら、周囲を見つめソニアは呟いた。
「何だか賑やかね。皆、凄く楽しいそうで嬉しそう……」
 生来感受性が高い為か、暖かな、嬉しそうな雰囲気に同調したのかソニアは目元を和らげている。やはり周りが楽しそうにしていると、自然と自分の心も弾んでくる。薄く微笑みを湛えたソニアは、そんな事を思い浮かべながら村の中の広場を無邪気に駆け回っている子供達を眺めていた。
「何かあったのかな?」
 傍らに立つミコトは、首を傾げながら視線をユリウスに向けてくる。それを受けて、ユリウスは嘆息と共に呟いた。
「そんな事、俺が知る訳が無いだろう。何があったにせよ俺には関係が無いから、興味は無い」
「……お前はなぁ、周りの雰囲気が前とこうも違うと何か感じる事は無いのか?」
 返ってきた余りに冷然な言葉に、半ば予想していたとは言えミコトは口にせずにはいられなかった。何処か諦念の篭められた溜息とともに発せられた言に、ユリウスは大きく肩を竦めた。
「無いな。そんな感傷など俺には無いし、必要も無い事だ」
「…………」
 はっきりと断言されてしまっては、ミコトとしてはもう言葉を繋ぐ事はできない。ただ不満気に眉を寄せ、唇を尖らせる。こちらが差し伸ばした手を冷たく振り払われたような気がしてならなかったからだ。
 そんな仲間達のやり取りを静観していたヒイロは、近くを歩いていた村人に、この村に何があったのかを聞いてみる事にした。
「あの、何かあったんですか? どうにも前とは雰囲気が違う気がしますが……」
「ああ! ようやく山賊共がいなくなったんだよ。これでやっと…殺された息子も浮かばれる」
「じゃあ、カンダタ達…やったんだな」
 言葉に解し、旧友達の勝利に思わず安堵の溜息を吐くヒイロ。その呟きを耳聡く聞きつけた村人が今度はヒイロに返していた。
「なんだぁ、兄ちゃん、カンダタさんの知り合いか? だったら伝えてくれよ。あの人がいてくれて、俺達カザーブの人間は皆、本当に感謝してるってな」
「ええ、わかりました」
「盗賊団“飛影”万歳ってな。実在するんだかわからねぇ、『勇者』なんかよりもよっぽどありがたいぜ」
「…………」
 心から笑う村人の言に、その場にいた誰もが同意して頷く訳にはいかず、何とも言い難いような曖昧な面持ちになる。だがその中で、当の『勇者』であるユリウスだけは、我関せずを決め込んで悠然と無感動に村の中に視線を泳がせている。その双眸に、半ばけなされた事に対しての不満や憤りといった感情などは孕んでいなかった。

 村人が去り、言葉が上手く繋げなくなった一同。神妙な顔付きで佇んだ彼らの背後に振り向き、さも何事も無かったかのように淡々とユリウスは言う。
「アルメイダ村長。村長は物資援助の話を誰につけようと考えているんだ?」
 漆黒の双眸の先にいるのは、ユリウス達と共にノアニール村からこのカザーブに同行していたアルメイダ。その老爺を見据えたまま、ユリウスはこの村にアルメイダを同行させる事になった経緯を思い浮かべた。



 村長にとって旧知であるミリア達と共にエルフの里に向けて旅立ったユリウス達が、ライトエルフの女王ティターニアから受け取った“目覚めの粉”によって、半永劫の眠りについていた村人達は次々に目を醒ました。彼らは深く長い夢を見ていたようで、やはり自分の身に何が起こっていたのか全く理解していなかった。
 だが十五年の永きに渡って手入れもされていない荒れ果てた家屋や村の中は、目覚めた彼らを混乱の渦中に突き落とすには充分すぎる力を持った現実だった。
 今の今まで眠っていた村人達にとって、事情を村人全員に語る余りに変わり果てた村長の姿は更なる混乱を招くものであった。が、以前からの村長の人柄の為、往々に村長の語る事実に聴き入る。自分達が住んでいる村が目覚めたらこうも荒れ果ててしまっているという現実と、嘗てと変わらない村長の真摯な眼差しを前にして、まさに夢から醒めた今の現実こそが夢であってくれと、そんな胸中を誰もが面に貼り付けていた。
 村長が長年掛けて蓄えていた保存の利く食料などで数日の餓えは凌げるだろうが、それは余りにも風前の灯であり根本の解決にはならない。荒れた家屋の修繕の為の材木や生命線である食料と水の確保の為に村人達は奔走し、復興の為に村人数名を連れて村長アルメイダ自ら隣村でノアニールよりも遥かに大きなカザーブに物資援助を請う事に決めたのである。その為、移動に費やす時間を安全に大幅に短縮する事ができる瞬間移動魔法という手段があり、丁度その術を用いカザーブ村に帰還する所であったユリウス達に同行を頼んで来たのだった。
 その術を行使する者であるユリウスとしては特に異論を唱える事は無く、同行する人数も魔法に影響を齎す程でも無い事から、ただ了承した。

 ユリウスがそれを言も無く了承したのは人助けでもなく、ましてや誰かが好き好みそうな善行でもない。ただ、一度の手間にどれだけの荷物が付こうが、その手間に影響が無いのであれば自分の気にするものでもない。偏に反駁する意思も持ち合わせてはいなかっただけの事であった。



 その言葉と視線の冷淡さに先程の緊縛が解けたのか、アルメイダは一つ咳払いをしてコクリと頷いた。
「この村は古くより北ロマリア地方の政治的拠点としての中心に在る村です。その広大な地を領有するのは、リンドブルム家と決まっております。現在ではリンドブルム公は病に伏せっておいでで、その実務を唯一人の跡取である御令嬢、クリューヌ嬢が執り仕切っているとの事」
「……あの女か」
 ほんの僅かに目を細めたユリウス。
 声調の低くなったそれは決して穏やかなものではない。面に感情の変化は載らないが、その醸す雰囲気でユリウスを見下ろしていたヒイロは何となしにそう思った。
「そういえば、あなた方がノアニールにいらっしゃったのは、彼女の意向を汲んでの事でしたな」
「態のいい厄介払いだ。他の目的の為に、邪魔になりそうな奴を大層なお題目をつけて他所にやったというだけの事だろう」
 冷たく切り捨てるユリウスに、アルメイダは逆に緩やかに皺を作って微笑んだ。
「それでも、わしはあなた方で良かった……。それは本心です」
「…………」
 それはミリアやノエルをノアニールに連れて来た事を言っているのだろうか。そんな事を考えるが、アルメイダの笑みの理由が理解できないユリウスは、ただ僅かに眉を寄せていた。
 ユリウスの微かな怪訝に答えを与えるように、アルメイダはゆっくりと綴る。
「個人的な感情よりも、より多くの守るべき者があるならば、それを行える地位に立つ者はそちらを優先させるだけのこと。クリューヌ嬢もこの村の為に、そうしたのでしょうな」
「…………」
 語られた言葉が脳裡に響いた瞬間。ユリウスは表情から一切の変化を消し、即座に顔を背けた。逃げるようにさえ見えるその行動とは裏腹に、その面、その双眸はいつものように物事の在りのままを捉える茫洋としたものだった。




 踵を返し、領主館へと一歩を踏み出そうとした時、不意に後ろから外套が引かれる。何事かと首をゆっくりと回してみると、今の今まで黙っていたエルフのミリアが何処か強張った顔付きでこちらを見上げていた。ちなみに、ミリアとノエルはそのエルフの血を引く者の証である尖った耳を隠す為に深くフードを被っていた。
「ねぇ、ユリウス」
「……何だ?」
「いつまでも立ち止まっていないで、どこでもいいからさっさと移動してくれないかしら? 私達はここの連中に一度捕まっているから、はっきり言って長居したくは無いの。正直こっちに向けられる視線とか話し声とかウザイしね」
「じゃあ帰ればいい」
 柳眉を寄せ、唇を尖らせて不満を零すミリア。それにユリウスは抑揚無く即答した。
 その少しも思考した様子の無い脊髄反射的に返ってきた言葉に、ミリアはアーモンドのような形の大きな眼をパチリと瞬かせたが、直にニヤリと口元で弧を描いて上目遣いに半眼で見上げる。
「あら、酷い事を言うのね。そうできない理由を判っていてそんな事を言っているのなら、一度その歪んだ性格を矯正した方がいいわ。何なら私がその捻くれた性根を叩き直してあげても良くてよ。丁度そういった書物を持っている人物を知っているから」
 挑発的な光を湛えた藍青の視線と相変わらずの辛辣な言葉に辟易したユリウスは、溜息を吐いて返した。
「……村長がノアニール村に帰る為には、キメラの翼という手段がある。故にわざわざあんたが付き添う必要など無いだろう。この村にいる事で不快が募るというのであれば、早々に立ち去った方が総てにおいて平穏だ」
「ガキのくせにベラベラと屁理屈を……。全く、可愛げがないわね」
「あんたにそう思われる理由など何処にも無いし、そんなものに意味も価値も無い」
 色々な感情が篭められているような深い嘆息と、華奢な肩を大仰に竦めて発せられたミリアの言を、ユリウスは至極無感動に切り捨てた。が、それすらをも予期していたのか軽くあしらうようにミリアは横を向き、ノエルを優しい眼差しで見つめたままその頭を撫でる。
「ノエル、あなたはこんな風にはならないでね」
「…………ミリア」
 ノアニールとエルフの里での件以来、事ある事にあからさまにユリウスを挑発…それもどこか楽しげに行うミリアの様子に、ノエルはユリウスに申し訳なく思いながらも、良く笑うようになったミリアに嬉しく思い、同時に少し羨ましくも感じる。そんな湧き出てくる自分の色々な感情が上手くまとめられないのか、ただ困ったような声を上げるしかなかった。





 その後、領主館に赴いたユリウス達はクリューヌと対面した。
 連絡も無い急な帰還であったにもかかわらず、ある種予期でもしていたかのようなクリューヌの落ち着き払った対応を、ユリウスは怪訝に思った。
 監視役でも放っていたのかという懸念が即座に思い浮かんだ上に、この眼前の怜悧な女性ならば実際にやりかねないとも考え至る。だが更なる深い思惟の海、押し寄せる猜疑の波に足を踏み入れそうになったが、止めた。
 結局のところ、何処の誰が影で動いていようが直接的に関与してこない限り気にした所で意味が無い。そんないつもの結論に落ち着いたのだ。

 ノアニールから連れて来た村長以下数名は別室でクリューヌと物資援助の細かな打ち合わせに入り、ミリアはこの屋敷には居たくない…正確にはクリューヌと顔を合わせたくない、からと言ってノエルを伴って早々に宿屋に下がった。
 ユリウス達一同は、クリューヌが一連の事を王にしたためる為の書状を用意する事や、件への報酬の用意するから留まって欲しい、と嘆願された事もあって今日のところはこの館に部屋を借りる事になった。館の使用人に案内されて、それぞれに用意された部屋に向かって廊下を歩く。窓から零れてくる幾分か高くなった陽の光は温かく廊下の先を照らし、窓の外の青空はこの村を充たす雰囲気のように清々しく澄み切っていた。
「元気そうで何よりじゃ」
 廊下を歩き、意味も無く窓の外に視線を巡らせていた時、どこかで聞いた事のある妙な言葉遣いの声が耳朶を打つ。無表情にその方向へユリウスは視線を送ると、同行者であるミコトに瓜二つの女性がこちらにゆっくりと歩み寄ってきていた。
「…………何だあんたは?」
 訝しみながら眉を寄せ、ユリウス。低く萎められた声色には警戒が覗く。羽織ったままの外套の下で、無意識のままにそっと剣の柄に手を添えた。
「な、何って……。ホント、相変わらずじゃの」
 無表情に発せられたユリウスの言に、近付いてきた女性…アズサは虚を突かれたように言葉を詰らせながら、引き攣った笑みを作る。そして浮かべる表情とは裏腹に自ずと腰に差してある剣の柄に手が行く彼女を見て、同じ顔をしたミコトが慌てて同じ声をあげた。
「あ、アズサ」
「久しぶり……っていっても二週間程じゃ、そうでもないわね」
 続いてクスリと微笑むソニアに、アズサは大袈裟に頭を振った。
「そんな事は無いぞ。その二週間が振り返るほどの暇もない位に濃密な時間だったならば、やはり懐かしく思うのは人の性というものじゃ。どこぞの誰か・・・・・・は、それが行過ぎてすっかり木瓜ボケておるようじゃが……、のぅ?」
 言いながらアズサはしっかりとユリウスを見つめる…というより睨みつける。
 見上げて来るアズサに敵意は感じなかったが、どうにも先程のミリアと似たような悪気を感じて、ユリウスは大きく肩を竦めた。
「……何の用だ。あんたが何処で何をしていようが俺には関係無い。故に、関わらないで貰おうか」
「つれない奴……」
 小さく嘆息してアズサは唇を尖らせる。何となく拗ねたような仕草の彼女に、ヒイロは一つ苦笑を零した。
「そうだアズサ、この村の様子じゃ“飛影”の皆もいるよね。ゼノスやカンダタ達は?」
「おお、彼らは奥の部屋におるぞ。そこの先の部屋が彼らの会議室になっておったようじゃしな。……それに色々顔ぶれが増えておるし」
 アズサが廊下の先を指差す横で、控えていた使用人の老人も肯定に頷く。双方の事情を知るアズサは意味ありげに口元を持ち上げており、それが何を意味しているのか判らないヒイロは、ただ不思議に首を傾げた。そしてユリウスの背中に視線を移す。
「へぇ……? ユリウス、会いに行ってもいいかな?」
 ヒイロの何気ない一言に、前を歩いていたユリウスはピタリと足を止める。そして怪訝に思っている様子を隠しもしないで、顔を顰めたまま振り返った。
「何で俺にそんな事を訊く? 行きたければ行けばいい。いちいち俺の許可を必要とする理由も無いだろう」
「そりゃまぁ……、ユリウスはこのパーティのリーダーだしね」
「そんなものになった覚えも、名乗ったつもりも無い。……準備が整えば直ちに俺は王都に戻る。この国で、これ以上の厄介事を押し付けられるのは御免だからな」
「じゃあ、それまでに集まればいいって事か。わかった」
 ユリウスの刺の含まれたような言葉を特に気にする事も無く、一つ頷いてヒイロは旧友がいるという部屋に向けて歩いていった。
「…………」
 どうにも的を射れなかった不消化な会話に、横を通り過ぎるヒイロの背を睨むように幾許か眉を寄せユリウスは視線を追従させる。だが射すようなそれも刹那の思考の間に消え去り、瞑目し小さく嘆息を零したまま外套を翻した。
 そして、その場に居た誰にも見向きもせずに颯爽と回廊を去って行った。




 廊下に残された女性達。突然に去って行ったユリウスの後姿を唖然と見送ったまま、暫しその場から動く事が出来なかった。薄い硝子を隔てて外から漏れ響いている鳥と虫と、村の子供達の明るい声が、やけに大きく響いてくる。
 唖然としていたミコトは、ようやく気を取り直してからこの場にいる二人に尋ねるように呟いた。
「なんだかミリアじゃないけど、あいつ性格悪くなってないか?」
「…………わからないわ」
 色々と思う事があるのか、ソニアは双眸と声色を伏せる。
「何か、素っ気無さに磨きがかかったのぅ。何から何まで温度が通っていないというか……ノアニールで何かあったのか?」
 彼女達が彼方あちらの地で体験した事象を知りようも無いアズサは、率直な疑問を口にする。それを受けたミコトは実に曖昧な表情を返していた。
「まあ、ね。……最後にエルフの女王に謁見してから、いやあの洞窟で魔族と対峙した時からかな?」
「…………そうね。あの時の様子は明らかに違っていたわね。はっきり言うとちょっと…恐い、かな」
 あの薄暗い洞窟の最下層。そこで醜悪な悪意を放つ異形と対峙した時のユリウスは、確かに平時とは違って内なる感情が面に出ていた。あの吐気をもよおす位に純粋で激しい憎悪と殺気を孕んだ眼光を思い出して、ソニアは小さく身震いする。
 そんなソニアの様子と、口々に語られる聞き逃すには余りにも物騒な単語にアズサは思わず狼狽した。
「ま、魔族!? ……おぬしら、一体何をして来たんじゃ?」
「いや、まぁ何て言えば良いんだろう……。色々な事が絡み合ってて、説明し辛い」
「う、うーむ。では女子は女子同士、茶菓子でも食しながらゆるりと色々聞かせてもらおうではないか」
「はは、そうだね」
 アズサの提案に、失笑しながらミコトは頷いた。
 目的の部屋の扉を開き、中に入るミコトとアズサ。二人に続いてその敷居を跨ごうとしたソニアはふと、足を止める。
「あ、でも……。どちらかといえば、何かを焦っているようにも見えるわ」
「焦るって…、ユリウスが?」
 そうかな、と天井を見上げながら思い浮かべるミコト。だが全くと言って良い程に想像が出来なかった。ミコトの中の印象としては、ユリウスはいつも冷酷過ぎるまでに怜悧冷静、感情など通っていないのではないかと疑う程に無感情。時としてその隠された内面を垣間見せる事もあるが、それらは常に自分としては歓迎できない闇を孕む。言わば兇刃…鋭すぎる故に自らをも切り刻む諸刃の剣。
 そんな事を思い浮かべてしまって、ミコトは小さく頭を振った。
「何となくだけど、そんな感じがするの……」
 ポツリと呟きながら込み上げて来る複雑な感情に僅かに伏せた双眸、その紅い視線は外に広がる蒼を仰いだ。風が吹いているのか、悠然と舞い散る木の葉が高く風に攫われていった。






 朝と昼の丁度境目ぐらいの時刻。ユリウスは領主館の裏庭に座す木の傍に腰を下ろしていた。
 虫の声が鳴り響く空、射すように痛い陽射しを避けるように影に隠れる。周りの明るさと相俟って木陰は暗い。その中で、ユリウスの漆黒の双眸だけが、周囲の光を反して、異様なまでに爛々と光っているようだった。
 人の往来があまり無さそうな場所、独り座すユリウスは鞘から抜き放った剣を手に一人語散る。
「……どうやら、もう限界のようだな」
 薄暗い中でも充分に陽光を反し、鋭い光を湛える白刃を眺め、小さく溜息を吐いた。
 手にしている確かな重みを感じる刀身に刃毀はこぼれは無く、歪んだ所も亀裂も無い。見た目はまだまだ鋭さを宿した鋼鉄の刃。だが、これにはもう終わり・・・が近付いている。自分だけはそれが判る。
「あの男に対して二回、魔族に対して一回。……それでも保った方か」
 他人には理解しようの無い、己にとって重大な意味を持つ言葉。それを自分に言い聞かせる確認事項のように淡々と呟いた。
 旅立ちに備えて貰ったこの剣に対して特に愛着など湧いてはいなかった。所詮は武器…人に造られた道具に過ぎない。剣としてある以上、その身にたわみと歪みを蓄積させながら敵を斬り裂く…純然に殺す事を成す為の術。それが剣の本質であり存在意義だ。その末路として本分を全うするのならば、それは剣にとって本望というものなのだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
 憎悪すべきモノに塗れた自分の思考を切り捨てた。そんな思考をした自分に忌々しさを感じ、自然と剣の柄を握る手に力が入る。ギシリと嘶いた鋼鉄の剣。掌を通して腕に、肩に伝わる確かな質量は酷く身に染みた慣れ親しんだ冷たい輝きを灯し、その輝きは自分の裡から微かな痺れをび起していた。
「何れにせよ、次にアレ・・を使えばこの剣に終わりが来るのは明々白々、か」
 度重なる“器”を超えた負荷を与えた結果。
 刀身が折れるでもない。武器として壊れるでもない。ただこの剣という存在が終るのだ。
 存在の根源を摩耗させ、内側から崩壊し、終には消滅する。
 その避けられない終わりへの順路が、まるで自分に対して何かを暗示しているように感じ、ユリウスは自嘲的な笑みを微かに浮かべ、一つ浅く溜息を吐く。そして取り留めの無い思考を区切り、立ち上がる。
 長い時間座っていた事によるものか、血の巡りの悪さに微かな眩暈を覚えつつも大きく頭を振り、耐える。外套についた草や土を払う事もせずに、降り頻る陽の下に歩み出た。熱を伴う不可視の圧力を黒髪や頭皮に感じながら、ゆっくりとその双眸を伏せる。
 そして、深い吐息と共に手にしている白刃を振り抜いた。
 空気を鋭く断つ音が、澄んだ空気に広がる。
 それに繋げるようにユリウスは、無駄の無い滑らかな動きで剣閃を翻す。
 一度、二度、三度。縦に、横に、斜めに。
 身に染み込んだ心地良いリズムと音に、自然と意識が鎮まり集約していき没頭する。周りの音、周りの世界からの乖離かいりを無意識的に感じていた。

――その時。乖離しかけていた意識が背後に何かを感じる。
 それは即座に身体に伝わり、ユリウスは無意識の反射でそちらに剣を突き出していた。
「うわぁ!」
「!?」
 誰かの悲鳴にも似た叫びが聞こえて、瞬間的にユリウスは剣を止める。剣閃を翻す事に没頭するあまり、背後への対応がつい普段のように近付く敵に対してのそれになっていた事に気が付く。
 だがそれでも取り乱す事無く、ゆっくりと開かれた双眸で見下ろす陽を反して白く煌く刀身の先には、地面に片膝を着いて唖然と眼を見開いている青年の姿があった。
 太陽の輝きを彷彿させる黄金髪の青年。その淀み無く澄んだ碧空の双眸が、驚愕と困惑の色を湛えながらこちらを見上げていた。





―――孤高に生きて『勇者』になった少年と、仲間と共に在って『勇者』を目指す青年と。
 これが二人の、初めての邂逅の刻だった。




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