――――異伝一
      第四話 光の照らすもの







 二年数ヶ月の長きに渡り北ロマリア大陸、カザーブ地方を残虐非道なまでに荒らしまわっていた一大山賊団は、盗賊団“飛影”の戦士達によって壊滅された。山賊団の根城とされている東カザーブ山脈にある旧鉱山に“飛影”の面々は奇襲を掛け、その最奧にいた山賊団の頭目を見事に討ち取ったのだ。
 魔物が蔓延る世にあって、同じ姿形をした人間に命を脅かされる事の絶望と恐怖。呪縛のように人々の心を蝕んできた闇の手から開放された人々にとって、魔物が蔓延る今の時勢は平和とは程遠いものの、自分達の日常にとって微かな黎明が差し込んだのは先ず疑いようが無い。
 暗闇に霞みつつあった甦る希望の光。それを齎した“飛影”の面々に村人達は言い切れぬ感謝と歓喜に喝采を送り、そんな村人達の笑顔が彼らに達成感と充足感を充たしてくれる。故郷を追われた経験から誰もがその傷みを知っている盗賊団“飛影”…即ちサマンオサ帝国と相対している盗賊団“流星”。彼らにとって守るべき場所を守る事が出来た、という結果はこの上なく誇らしい事であり、未来に向けての意志の燈の隆盛でもあった。
 日常を脅かしていた影、それが人の形である事がどれほどに絶望を齎していたのか。それが取り払われてから村を覆う雰囲気はそれを物語り、笑顔と喜びに充ちた空気は朗らかに、愉しげである。
 今、確かにここには、光が溢れていた。




 カザーブ村の中央にある大池、その中央にある浮島にはこの時期色とりどりの花が咲き誇る。その色鮮やかさと風に運ばれる香りは、大池の周囲にまで広がっては本格的な夏の到来をこの地に住まう人々に彷彿させるのだ。その浮島に掛けられた木の橋が水面に影を作り、陽射しによって暖められた場所から逃れ、涼を得ようと魚の群れが集まっているのが水面の揺らぎと影の動きに見て取れた。
 青い水面に射す陽を反しきらきらと眩く様子は銀細工のように煌びやかで、地に咲く太陽を一身に浴びている赤、紫、黄色の花々はその美しさをより一層引き立てるように慎ましく陽に透けていた。
 生命の躍動を感じさせる花を踏み潰さないように、その横の緑翆の草叢に寝転がってジーニアスは蒼穹の空を見上げていた。紅蓮の剣を納めた鞘を枕代わりに、さらに両手を頭の後ろで組んで、碧空の双眸は空をゆっくりと気侭に泳ぐ白い雲を追っていた。
(良い天気だなぁ……)
 陽射しは強いと感じるも、黄金の前髪がひさしの代わりを果していて、それ程気にはならない。ここでもし瞼を閉じてしまえば、全身に降り頻る朗らかな陽気によって眠りの園に落ちてしまうのは想像に易い。
 それも悪くは無いかな、と微かに細めた双眸の奥で考える。すると自然と欠伸が浮かんで来て、大きく息を吸って身体の筋肉を伸縮させた。鼻腔を擽る甘い花の香りが脳髄をまどろみに侵そうしていた。
 瞼が急に重くなり閉じられようとしたその時、フッと肌に感じていた朗らかな感触から切り離された感じがした。半ば閉じられていた瞼の裏からそれを確認する。透けていた明りが消えて薄暗くなっている。それに、ああこれは誰かの影か、と思いを巡らせていると切り離されつつあった聴覚にその誰かの声が飛び込んできた。
「……ジーニ、何やってんの?」
 溜息混じりの高い声色。昔から良く耳にしている馴染みのある声だ。
 二重三重にぼやけた視界には、空の蒼を背景に薄く影掛かった少女の姿が捉えられる。面に掛かる影を一際濃くしている黒の三角帽子が、その少女が誰なのか核心へと至らしめた。
 とりあえず、今自分に声を掛けてきているのが誰か判って、まどろんだ意識は溜息を吐く。いっその事このまま気付かなかった事にして魅惑的な眠りの湖に落ちてしまおうかと思考が傾いた。が、誘惑に負けた後の、その後に来るであろうと予想できる騒がしさを思い描き、諦念に瞼を力強く開いた。
「…………リースか。何って、ただ空を見ていただけさ。余りにも陽射しが気持ち良いから、もう少しで眠るところだったかな」
 上半身を起こしながら、肩や首を大きく回すと急に脱力感と倦怠感に襲われた。衣服からパラパラと零れた下敷きにしていた草が空気を滑走して、風に攫われて行った。
 何とも間延びしたような返答と仕草に半眼になりながら、リースは小さく肩を竦める。
「ああ、いつもの痴呆癖ね」
「……おい、それはいくらなんでも酷いぞ」
 酷く納得した様子の容赦の無いリースの一言には、さすがのジーニアスも眉を顰めた。
「だいたいな――」
「あ、ヴェインとクリューヌさんだ。どこ行くんだろ?」
 目上の人間に対しての言葉使いについて言おうとしていたが、唐突にリースが別の方向を振り向いた。視線の先で仲間のヴェインと、現在この村での滞在で世話になっているクリューヌが二人で村にある教会に入って行くところを捉えたからだ。
 既にリースの意識と興味はそちらに向かっており、横で説教をくどくどと綴っているジーニアスの言葉など耳には届いていなかった。
「聞いてるのか、リース!」





 棒木を束ね、石を重ねてあつらわれただけの簡素な墓標の群れ。カザーブ村に唯一つある教会の裏手に広がる墓地には、大小新古様々な墓標が群立していた。
 死者の入寂に迷いを齎さないように、その旅立ちの場所は華々しく飾られる。華やかに送り出された魂魄は、遥か天に住まうという竜の神の御許に到る為の永い旅路を歩み始め、苦難を越えて竜のちょうを得る事が出来た魂は再び新たな器を得て此方に甦る。
 ロマリア王国全域で信仰されているフェレトリウス教では、生前を此岸しがんの旅路、死後を彼岸の旅路として魂と精神と肉体は一つに結び、永劫の旅の螺旋の中をまろび歩み続けるものと謳っている。
 そして古来より、竜とは希望の風を運び齎す者として崇められ、竜神たる大空神は風の神として旅の安全を守る神という側面も兼ねるようになった。広い世界を行く旅人…冒険者や行商人には竜を模した御守を持ち歩くものも少なくは無い。それは偏に古より続く風習が根強く残り、人々に尚も支持されている事に他ならない。
 死生観と旅というものの価値観を同じ起源にしている為か、死後の旅の始点となる墓碑には、少しでも竜の恩寵を得ようとその竜印が刻まれた華やかな物が用意されるのが、この国において通常の埋葬の形である。だが眼前に広がるそれらは華やかさとはまるで無縁無彩の、墓碑というには余りにも相応しくないであろう石や棒。それが墓地の幽々閑散とした雰囲気を更に重々しくする。
 味気無い木や石のそれらの数は多く、墓地にあてがわれている場所を占め尽くす程。それら一つ一つの下には人間一人一人が醒めない永遠の眠りに落ちているのだと考えると、墓参に訪れている者としては自然と寂寥感と愁嘆に胸が圧迫されてしまうだろう。
 ここ二年と数ヶ月。賊徒や魔物の被害にあって無残に命を落した者は少なくない。そして故人に縁のある残された者はその比ではなかった。

 とある墓碑…他の周りの物と比べて幾分か華やかに厳かに拵えられた墓石の前で、衣服が土埃に汚れるのを厭わずに膝を着くクリューヌ。両手に大事そうに抱えていた白と黄色の花束をそっと墓前に捧げた。
「これでようやく、犠牲になった方々へ報告ができます……」
 両手を組んで瞑目し、神にではなく故人に黙祷を捧げるクリューヌ。その背後に立ち、墓碑に標されてある名を見てヴェインは苦々しく目を細めていた。
「クリューヌ。……この墓が、エリオットの?」
「……そうです」
 いつも人前で見せる毅然とした様相でも声色でも無く、弱弱しく発せられるそれはただ悲哀に震えていた。
 眼前で震えている細い肩に触れようとヴェインは手を差し伸ばすも、止める。変わりに力強く拳を握り締めて引いた。力の行き場が無いのか握った拳が打ち震えるのを何とか意識で押さえつけながら、ヴェインはきつく目を閉じて深深と頭を下げる。険しく顰められた表情、深くに皺の刻まれた眉間には悔悟かいごと悲愁が浮かんでいた。
「……すまないエリオット。知らなかったとは言え、遅くなったな。……仇は、取った」
 その呟きに応えるように、墓地にこの時期にしては冷たい風が吹き抜けていった。

「エリオット…弟は山賊に襲われて村を追われた人々をカザーブに迎え入れようと、助ける為に単身……」
 感情が昂ぶって抑えられないのか、言葉が絶え絶えで続かない。眼下で跪く背中から小さく嗚咽が聞こえてきた。
 泣いている。問うまでも無くそれを察したヴェインは、ただ黙って独白のように綴っているクリューヌの言葉に聞き入る。
「……魔物なら、まだ気持ちの整理はつけ易かった。ですが――」
「あいつは昔からそういう奴だったからな。困っている奴が居れば、真っ先に掛け寄って手を差し伸べる。だが自分が傷つくのは少しも顧みないお人好し……」
 自分もそれに救われた事がある。そう思い返しながら眸を伏せると、記憶の中にある人懐こい朗らかな笑顔が浮かんでは消えた。そして何となく、今ともに旅をしているジーニアスに似ているな、と思った。
「……あの子は次期領主だから、その責務を果そうと」
「違うな。あいつはただ放って置けなかっただけだろう。無理に言い換えなくて良い。……ここにはお前と俺しか居ないからな」
 人の上に立つ、人を導く立場に在る者は常に全体を考えて、先を見据えて行動せねばならない。それを考えると故人の行動はそれにもとる事になってしまう。少しでも弟の名誉を慮って着飾るクリューヌの声と心がヴェインには痛々しすぎて、少し強い口調になってしまった。
「……ごめんなさい」
 ビクリと震える肩が、とても小さくか細く見えて行き場の無いやるせなさが伝わってくる。それを見つめて、ヴェインは双眸を静かに伏せた。
「謝るな。寧ろ謝らなければならないのは、俺の方だ。肝心な時に居ないで、あいつに受けた恩を返す事も出来ず、……お前が最も辛い時、傍に居てやれなかった」
「……だけど、こうしてあなたは戻ってきてくれました。……弟の、仇を取ってくれました」
 少しクリューヌの声色が上がった。
「この時期、というのは偶然だが」
「偶然もまた必然の内の一つ、ですよ」
「……信仰はもう捨てたのか?」
「…………はい」
 そうか、とこれ以上追求するつもりも無いヴェインはゆっくりと頷いた。
「ヴェイン……、あなたはこれからもあの方達と旅を?」
 すっと立ち上がり、振り返り見上げながらクリューヌ。開かれた瑪瑙の眸は複雑な感情を載せそれに揺れている。目尻には微かに涙の痕が残っていた。
 気丈な彼女の性質からそれには触れない方が良いと判断して、ヴェインは素っ気無く返した。
「ああ。それが今の俺の仕事だからな」
「行かないで、とは言いません。ただ……」
「…………」
「ヴェイン……、私を置いていなくなりませんよね? 私を置いて死にませんよね?」
 かつてここまで弱弱しい様子を見た事があっただろうか。そう自問し、ヴェインは瞑目して一つ息を吐く。そして不安げに見上げてくるクリューヌの肩にそっと手を置いた。
「当たり前だ。生憎と、俺は魔物などに殺される予定は無いんでな」
「……信じて、いいの?」
 クリューヌは震える両の手で肩に置かれた手を取り、包み込む。それにヴェインは少し力を入れて答えた。
「ああ、約束する。この親友の墓前に誓ってな」
 その時、再び群立する墓標の間を縫って風が流れた。
 だが今度のそれは、夏の陽気に励まされ彩られた暖かなものだった。





 領主の屋敷の一室。そこにはカンダタとゼノス、そしてウィルが卓を挟んで対面していた。
 部屋に座すソファはこの地にしては高価な調度品。その確かな反発に体を預けながら真剣な眼差しでウィルは語っていた。
 自分達が旅に至る経緯、その目的。そしてこれから何を目指して動くのか。
 一通り話終えて、ウィルは既に温くなってしまった紅茶を喉に通し潤す。
 二人の良く知る知己達を、敢えて危険に旅立たせた身としては、カップ片手に緩やかに話せる事ではない。それ故に休み無く、緊張さえ孕みながら話続けたのだ。喉を通るそこはかとなく冷たさを帯びた紅茶は今自分が最も欲していた物で、その滑らかさに緊張がほぐれるのをウィルは感じずにはいられなかった。
 語られた事を咀嚼、吟味しながら難しい顔をして沈黙していた二人は、それぞれの思惟を終えたのか同時にフゥと溜息を吐いて背凭れに体重を預けた。
「……ふむ。そういう理由と目的があいつの旅にはあるのか」
「はい。世界の為に、いずれ必要となる事です」
 カンダタの言に、ウィルはしっかりと頷いた。
「世界の為、か……。危険とは裏腹に、あいつは逆に喜んだろうな」
 ジーニアスが父サイモンのように、人を守る『勇者』に憧れて、それになろうと努力しているのは“流星”の人間ならば誰もが知っている。その姿勢をあまり歓迎していないのが他ならぬジーニアスの母親である事も、だ。そんなジーニアスにとって、使命感を帯びた何かをする事がどれだけ心弾ませるのか想像に易い。また、同時にその危険性も予期するには充分だった。
「だが、それはあいつでなければならなかったのか? 正直な話、あいつよりも腕のたつ奴や指揮、智謀に優れる奴は世界にはたくさん居るだろう」
「ましてや、『サイモンの息子』。そんな肩書きは理由にはならないな」
 ゼノスとカンダタは口を揃えて言う。同じような思惑をしているのか、ウィルにはその表情に貼り付いている色は同じように見えていた。
 ジーニアスを良く知るゼノスとしては、容赦の無さは単純な心配の顕れなのだ。そしてそれ以上に、カンダタとしては複雑な思いを抱いていた。
 自分にとって掛け替えの無い親友だったオルテガ。その『オルテガの息子』という肩書きでああ・・ならざるを得なかった少年を、その剱のように鋭く漆黒の眸を思い起こすと、最後に見たオルテガの背中に重なる。自分の生き方に深く影響を残した同じ親友であるサイモン。その父に、その生き方に憧れるジーニアス。ともすればその行き着く所は……。
 それを思いカンダタはきつく目を瞑った。
 二人がジーニアスを案ずる心がその表情と言葉からヒシヒシと伝わってくる。だからこそウィルは正直に答えた。
「私はただ、悟りの書の導きに従うだけ。……ですがここ数ヶ月彼と旅をして、ジーニアスならばきっと為す事が出来るだろうと、確信を持っています」
 その菫色の双眸には確かな信頼が宿っていた。そう二人に思わせるだけの何かを秘めていた。それが悟りを開いた物のみが持ち得る物なのか知る由もないが、ただ迷い無い真摯なそれを見てカンダタとゼノスはホッと溜息を吐く。
「……ダーマの賢者にそう言って貰えりゃ、あいつも本望だろうよ」
「これからもあいつと、リースの事を頼む。路を間違えないように、導いてやってくれ」
「お二方の気持ちはわかっています。それに私も彼らとは仲間です。仲間を助けようと思うのは、当然の事でしょう?」
 以前ここで言ったジーニアスの言葉を復唱するウィルに、二人は緩やかに笑った。

「こいつは個人的な事なんだが……一つ訊きたい」
 唐突に、一つ咳払いしてゼノス。その声色のあまりの静けさと、それに伴う不可視の圧力に自然と気が引き締まり、えもいわれぬ警戒にウィルは目を細めた。
「……何でしょう?」
「“叡霊仙”は未だに行方不明なのか? ダーマではその足取りを掴めていないのか?」
「ゼノス……!」
「! 何故それを?」
 恐ろしく淡々とした声調と綴られた内容に、カンダタは眼を剥いて息を呑む。対面してその視線を真正面から受けているウィルも、小さく眼を見開いていた。
 少なからず己の言に驚愕している二人を見てゼノスは苦笑を零す。そして一つ溜息を吐いて髪の毛を無造作に掻き回した。
「俺の名前を考えりゃすぐ判る事だがな」
「アークハイム。……成程、そう言う事ですか」
 無言で首肯するゼノスを見止め、ウィルはソファから微かに浮いた腰を再び下ろし瞑目する。指摘された事柄を吟味し、脳裡に自分が知り得るその事・・・の詳細を展開した。が自分の知るどれもが、彼の求めている物にはなり得ない為、誰にも気付かれない程に小さく頭を横に振る。
「……申し訳ありません。あの方は十三賢人“智導師”、“慧法王”に並ぶダーマ三学の頂点に立つ首座賢者アークウィザードの一人です。“叡霊仙”派の方々は失踪したあの方の捜索を未だ続けているという噂話は聞いておりますが、何分学派を異にする上、私のような下位の者ビショップには判りかねます」
 正直な話面識もありませんしね、と付け加える。
「そういやダーマの賢者にも色々面倒な上下の序列があったな」
 おおきな組織を束ねる場所に立つ者の一人としてその知識を得ているのか、ゼノスは天井を見上げる。疲れたように呟かれる溜息混じりのそれに、ウィルは無言で頷いた。

 世界最高魔導府ダーマ神殿、その体系は世間的に知られているよりも遥かに複雑だった。
 ダーマの地を訪れ、その門を叩こうとする者は先ず三学の何いずれかの体制を選択し、それに組み込まれ、それぞれの規律の中で己を高めていく事になる。大局的にその傾向を見れば、神学を修めようとするならば“慧法王”派、魔法の路を極めようと志すならば“叡霊仙”派、世の真諦しんたいを追求し広めようと為すならば“智導師”派といったような風潮があるが、それが全てではない。当然、魔法とは無縁無関心で、ただ己が心技体を高めようとする者もそれぞれの学派には多く存在している。
 それぞれの学派の首座に在る“智導師”、“慧法王”、“叡霊仙”と数名の幹部による合議によってダーマ神殿は運営されており、同時に互いが互いの学派を牽制しあい、何れかの学派の力が特出せぬように規律と調和を保つ。いかなる面から見ても角を立たせないように、ダーマ神殿の永世的中立の立場を世界で樹立、保持していく為にこの組織体制は存在していた。
 また、転職の神殿という別称が世界で広く認知されているだけに、新たに進むべき道を模索する為に訪れる者も少なくない。そしてそれ故に生じる漫然とした意識と不確かさを廃する為の、整然とした路を指し示そうとする策としても、この学派体制は功を奏していた。もっとも同時に、より俗事的に乱暴に、いわば学派とは銘柄ブランド。と軽口に言われても差し支えが無いような認識もさており、現実にそう言った側面がある以上神殿側も否定してはいなかった。
 それとは別に、その地にはダーマ神殿とは異なる体系でより密接な関係にある、賢者認定機関ガルナというものがある。
 ダーマでの過程を修了し神殿に認定された者の中では、より高みへ至る為に四方塔の一であるガルナの塔にて、賢者の試練に挑戦する者も多く存在している。だが、その賢者の試練というものの内容は公にはされておらず、試練を受けた者全てが等しく賢者になれる訳ではない。その試練によって命を落す者も数多く存在する。
 賢者認定機関はその試練の監査と水先案内人であり、同時にその採決にはダーマを指導する首座賢者達も異を唱える事はできない。
 試練を受ける者に対して、それを乗り越えられる者の割合は非常に少ない。そうしてごく僅かに生まれた賢者達には力量に応じての階位と大小様々な特権が授けられる。それは各国家のまつりごと、世界に音の聞こえる大宗教においての権限、当然ダーマ神殿における合議への大きな発言権も然りである。
 こうした超法規的な特権が認められる中、それぞれがその待遇に不服を唱える者が現れる以上に、賢者達が齎す功績は多大な恩恵を運んでくる事から各国もそれを容認し、利用する。そんな彼らを輩出するダーマという地をおもんぱかり、彼の地を政治的野心から切り離して永世的中立地帯として認める。言わば持ちつ持たれつの共存体制が古より執られて来た。
 十三賢人とはその最たる者達であり、その頂点に君臨するのが、十三賢人筆頭“魔呪大帝スペルエンペラー”である。

 嘗て歩んだ試練、そして己が宿命とも言えるこの旅路に赴く際に助言をくれた遥かな人物を脳裡に思い描き、ウィルは小さく呟く。
「“魔呪大帝”様ならば、ご存知でしょうが……」
 口元に手を当てて発せられるくぐもった小さな言葉。それを聞きとめカンダタは僅かに眉を細めた。
「大賢者ジュダ=グリムニルか。……それは無理だな。大賢者は世情には基本的に関与したりしない」
「カンダタ殿はジュダ様に面識がおありなのですか?」
「ああ。一度だけ、オルテガ達とダーマを訪れた際に会った事がある」
 確かに自分にとって雲の上の存在であっても、世界に名立たる称号を得た者ならば面会もそう難しい事ではないだろう。そう考え、成程とウィルは頷いた。
 ゼノスはカンダタがオルテガと複数形を使った事に違和感を感じながらも、それには触れない。そして自分の問に光明の見込みが無い以上この話題は早急に切り上げるべきだと思い、断つ。
「……そか。ま、この話は忘れてくれ。一応“流星”で知っているのはここにいるカンダタと、同じ十三賢人であるジーニアスの母親、そして首領のノヴァだけだからな」
 小さく肩を竦めた後、ソファの背凭れに体を預け、すっかり冷めてしまった紅茶のカップを口につける。
 本人は終始隠しているつもりであっただろうが、ゼノスの双眸にははっきりと憎悪にも似た黒い炎の感情が確かに燃え滾っていた。
 その暢達な仕草で霞みがちになるが、ウィルはそれを感じて、ただ無言でしっかりと頷いていた。





 本人達にしか聞こえない声で話しているのか、墓地で佇む二人の会話は聞こえては来なかった。
 生と死の世界を隔てる境界のように墓地を囲む木の柵、そしてそれを生の世界の側から支えるように広がっている翆緑の茂み。その陰から、墓地の中の様子を窺うべくリースはひょっこりと頭を出した。
 誰の物かは判らないが、とある墓地の前で佇んだヴェインとクリューヌ。二人の間に流れるある種の濃密な雰囲気にリースはニヤリと目尻と口元を持ち上げる。そして自分の背後で、茂みに隠れるように身体を低くしたまま顔を顰めているジーニアスを振り向いた。
「……なーんか、良い雰囲気ねぇ」
「こらこら。何覗いてるんだよ」
 咎めるジーニアスの言葉は既にリースには届いていない。何故か自然と声を弾ませているリースに、解し難いとでも言うようにジーニアスは小さく溜息を吐いた。
「ねぇねぇ。ジーニはあの二人、どう思う?」
「はぁ!? どうって、同郷の知り合いなんじゃないのか?」
 ふられた不明瞭な言葉にジーニアスは思わず素っ頓狂な声をあげる。茂みと柵の隙間から墓地の中の様子をチラリと盗み見、これまでのヴェイン達の様子を考えてもいまいちリースが何を言いたいのか判らない。とりあえず首を傾げながら、自分の思った事を当り障りの無い言葉で綴った。
「……そうじゃなくって」
 それに何故か呆れたような大きい溜息と視線が返って来た。
 ますます意味が解らない。顔に疑問符を数個貼り付けたままジーニアスは訝しそうに眉を寄せる。
「そうじゃないって……じゃあ、どうなんだよ」
「…………も、いいよ。ジーニに聞いたあたしが馬鹿だった」
 小さく鼻で笑って、肩を竦めて頭を左右に振るリースの様子に、馬鹿にされたのかと思ったジーニアスは語調を強めて叫ぶ。
「おい!」
「覗き見は、あまり感心できる趣味とは言えないな。二人とも」
 ふと、唐突に二人の居た場所に影が掛かった。それに追従して頭上より降って来た言葉。極めて感情の起伏が感じられないそれに、ジーニアスとリースはハッとなって顔を上げる。
 蒼穹の空を行く太陽の光が強かに眼に焼きついた。眩いその中で逆光に表情を忍ばせながら無感情に見下ろしてくる眸はどこか冷たい。
 地に屈み込むように身を伏せていたジーニアスとリースにとって、見下ろしてくるヴェインの姿は、その長身から巨木が聳え立っているように感じてしまう。二人の背中を同時に這う冷たい汗は、彼によって生まれた日陰によるものではない事は確かなようだ。
 二人、という事は自分も含まれてしまっているのかと思いジーニアスは極力狼狽しながら、見つかる筈が無いと考えていたリースは驚愕に唖然としながら、それぞれの視線を見下ろしてくるそれに合わせる。
「ヴェ、ヴェイン……」
「バレてたの!?」
「バレるも何も、気配ですぐわかる」
「わ、悪気は無かったのよ。他意も無いし、ただ何をしているのかなー…って」
 慌てて弁明を図るリースに、ヴェインは小さく溜息を吐いた。
「まぁ、別に聞かれてマズイ事など無かったが。……リース」
「は、はい!?」
 改めて名指しで呼ばれ思わずリースは縮こまらせる。その様子から、まるで見知らぬ場所に放り込まれた猫のようだなと思いつつ、うろたえているからには悪気…この場合は野次馬根性があったのか、とジーニアスは他人事のように考えていた。
 ジーニアスが色々と下世話な詮索を広げている間に、淡々とヴェインは言っていた。
「隠れるつもりがあるなら、今度からはその帽子を脱いでおくべきだ」
「あ……」
 指摘されてパチリとリースは眼を見開く。言われた事を頭で理解したのか頭上で陽を反し、強かに存在を主張している黒の三角帽子に慌てて手をやった。
「いや、ヴェイン……。そういう問題なのか?」
 真剣に戯れる様子の無い真顔で見下ろすヴェインと、瞠目しているリースの二人を交互に見眺めながら、どこか論点が違うような気がしてジーニアスは大きく首を傾げていた。

「楽しそうですね。……ジーニアス殿」
「あ、クリューヌさん」
 ヴェインの横にクリューヌがゆっくりと歩いてくる。その様子はこれまで見てきたものと変わらない、凛々しい淑女然としたものだった。
「貴方にも、御礼を言わねばなりませんね」
「礼?」
 薄く微笑みながらのそれに、ジーニアスは何の事かと眉を寄せる。彼女に感謝されるような事をしただろうか、そう自問して思い巡らせてみるも答えは出なかった。
 こちらの内心を読んでいるかのように、小さくクリューヌはクスリと笑みを浮かべ頷く。
「貴方が…貴方達がいらした事で、時局は動きました。貴方はこの地に住まう我々にとって、光を齎してくれた者といっても過言ではありません」
 言われた事にパチリと眼を見開いて瞠目する。そして照れたように頬を紅潮させ、慌てた様子でジーニアスは両手を左右に振る。自分はそんな大層な事などしていない、そんな思いからか言われた言葉にただただ恐縮する想いだった。
「そんな! そうじゃないですよ。カンダタやゼノス達、何よりもヴェインやこの村の人々が自分達の故郷を守りたいという意志が、村を守ったんです。僕は、その手伝いをしただけです」
「それでも、お礼は言わせてください」
「はぁ……」
「本当に……、ありがとうございました」
 こうやって真っ直ぐに感謝を向けられるのは、いつになっても慣れない。自分はただ思うように、自分の心に従って行動しただけなのだから。だからこそ、このように改めて言われると畏れ多くもあるし、何よりも気恥ずかしくなってしまう。
 深深と頭を下げる彼女を見下ろしたまま、困ったようにジーニアスは曖昧な笑みを浮かべていた。
 その横でリースはジーニアスを見上げながら、またか、と思いヤレヤレと大きく溜息を吐き、ヴェインは誰にも気付かれないくらいに口元に笑みを浮かべて二人を見つめていた。




 夏の陽気の下、和やかな空気が流れ始めていた。そこにフッと風が吹き入る。温かくもあり、冷たくもある不思議な風。そんな一陣の風に乗って、静かな声が辺りに響いた。
「クリューヌ=リンドブルム殿ですね?」
「え?」
 名を呼ばれたクリューヌは弾かれて顔を上げる。今までに聞いた事の無い声だ、と瞬時に思いを巡らせて、その主の方を仰いだ。するとそこ…今の今まで誰もいなかった筈の所には見知らぬ女性が佇んでいた。その余りの突然さに、隣に立つヴェインですら瞠目していた。
 白妙の外套に身を包んだ女性。歳の頃自分より下だろうと思うも、珍しいというよりは初めて見る暁色の双眸には感情は載せておらず、それが自分よりも遥かに老成した存在であるかのような印象を植え付けていた。そして何よりも彼女の容姿で眼を惹くのはその頭髪。風に梳かれ麗かに靡いている純白の髪。人が年月を重ねる事によって自然に至る白ではなく、明らかに異質な雪よりも透る純白。
 やはり会った覚えなど無い。そう思いながらクリューヌは落ち着きを取り繕って返した。
「失礼ですが、あなたは?」
「……間も無く、ユリウスがこの村に戻ります」
 白妙の女性はクリューヌの問には答えず、言った。
「まぁ『勇者』様が……。ですが、どうしてあなたがそれを?」
「伝えるべき事はそれだけです。では……」
 相手側からの一切の問に答えずに、ただ用件だけを伝え、一つ丁寧に会釈をして白妙の外套を纏った女性…ルティアは踵を返した。
「あ、ちょっと……!」
 突然の来訪者の、不可視の緊縛が解けたジーニアスは大きく目を瞬かせる。今まさに立ち去らんとしている、その流れるような白の動きに目を奪われ、不思議な感覚を覚えていた。それが何なのか、何故自分はこんな事を考えているのか。それを自認した時には既に身体が勝手に動いていた。
 立ち去ろうとするルティアの二の腕をジーニアスはしっかりと掴む。
 掌の中の腕、その細さとやわらかさ。確かな人の温もりを感じるというのに、何処か氷の彫像に触れている痛みを覚える。それが自分の在る姿を改めて思い起こさせた。
「…………何か?」
「あ、いや……その……」
 足を止め、首だけを振り向かせてルティア。特に腕を振り払おうとする仕草の無いその表情、自分を見上げてくる神秘的な暁色の双眸には感情は載せておらず、別に叱咤されている訳でもないのにジーニアスの中に後ろめたい罪悪が浮かんだ。そんな自身の狼狽振りを克明に顕すが如く言葉はしどろもどろになり、上手くまとまらない。
(何をしているんだ、僕は)
 何とか意識だけは確かであったが、その意識が自問してもわからない。わかりよう筈はなかった。殆ど無意識で、引寄せられるようにとった行動だ。感情さえも越えた処の衝動に、理由は見つかる筈も無かったからだ。
 腕をとったまま固まってしまったジーニアスとは裏腹に、ルティアは見上げたままポツリと呟く。
「混沌と秩序が入り乱れた原初の刻。そこに在った三つの始原。その一つ、太陽の如き輝きを放つ者はただそこに在るだけで闇を裂き、また一つ、月の如き静けさを纏う者は星星の煌きを連れ添っては光を導く」
「…………」
 理解できない謎めいた言葉。だけどその一句一句聞き逃す事の出来ない大切な言葉。直感でそう感じ、耳で捉えられ、頭で訳される不思議な言葉の羅列にジーニアスは瞬きするのも忘れてただ聞き入る。
「最後に残される一つは大地。変わり行く光と闇の流れ、充ち往く天とその流転を見上げたまま、まろばない光は唯独り闇の中に佇む」
 僅かに双眸を伏せた最後の一句。ほんの僅かな哀愁を垣間見せたルティアのその様を見下ろして、ジーニアスの心は何故かズキリと傷んだ。今までに感じた事の無い程に鋭く、そして深い傷みだった。
「何を、言っているんです?」
「光を齎す事が闇を裂く事と同義ならば、その光と闇はいったい何によってどのように生まれ流れているのかしら? …………そしてあなたは、どの光芒になるのかしら?」
「え……」
「失礼します」
 ゆるりと薄く、惹き込まれるような笑みを浮かべルティアはそっと束縛する腕を解く。そして固まったままの者達に小さく会釈をしてその場を立ち去っていった。
 風に靡いている気の遠くなるようなまでに白い髪を見つめたまま、ジーニアスはあの純白の色は、人が手に触れてはいけないようなもっと高嶺の、もっと神聖な…そんな感じを胸に抱いていた。

 狐に突付かれたような、幻でも見ていたかのような感覚に絶句したままの一同。それでも徐々にその緊縛は解かれ今あった現実ならざる現実に思いを馳せる。
 一つ溜息を吐いたリースは、腕を伸ばしたままの体勢で静止しているジーニアスを見止め、怪訝な顔した。
「ジーニ、どしたの?」
「…………」
 返事は無い。
「ジーニ?」
「…………」
 また、返事が無い。
 この男なら立ったままでも眠りかねないし、意図的に無視しているのならば、酷い奴だ。そんな本人には失礼な事を思うとリースの気概は自然と憤然となった。肩を大きく揺らして息を吸い込む。そして呆けたままのジーニアスの耳元で一気に爆発させた。
「ジーニっ!!」
「えあぁあ!? あ、いや……何でもない」
 手ごたえの無い反応にリースはどっと疲れたように肩を落とし、これ見よがしに盛大に嘆息した。肩から力が抜ける感覚を覚えながらも、ふと思う事があったのか、リースは茶化すように好奇な視線でジーニアスを見上げる。ニヤリと歪められた口元には、からかうように悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「なぁに、ジーニってば見とれてたの〜?」
「いや、そう言う訳じゃ……」
「……今の人、綺麗だったけど髪の毛真っ白だったよ。……何だか薄気味悪いし」
 空を見上げながら発せられたその一言。本人にとってそれは悪気のない一言だったのだろうが、それにジーニアスは何故かカッとなった。
「こらリース! お前、見ず知らずの人に何て事言うんだっ!」
「わわっ! ……何よ、突然怒鳴らないでよ」
「今のはお前が悪い――」
 うろたえているリースを見下ろしながら、だが尚も叱ろうとするジーニアスを第三者の声が遮った。
「成程なぁ……。ジーニアスはああ・・ゆうのが好みなのか」
「いや、好みって言うか…ただ綺麗だったなぁ……ってええ!?」
「ほぅ……」
 つられて言い、何処か恍惚としたように頭を掻くジーニアス。そして自分の言動に気付いてハッとなった。
 横を見るといつの間にそこにいたのか、ゼノスが愉しそうにニヤニヤしながら半眼で自分を見てくる。隣に立つリースはいきなり現れたゼノスに驚いた顔で絶句していた。
「ぜ、ゼノス!? 何を言わせるんだ……」
「ゼノ兄、何時の間に……」
 驚く二人の疑問を無視して、ゼノスは軽くジーニアスの肩を叩く。そして盛大に口元を歪めた。
「お前の趣味ってのがいまいちわからなかったからな。ふっ、こいつは良い収穫だ」
「何が収穫だ何が……」
「へェェェ……。ジーニはあーゆうのが好みなんだ。…………ジェシカも大変ねぇ」
 故郷のその人物を思ってか、リースは疲れたように言う。それにジーニアスは至極不思議そうに顔を傾げた。
「? 何でそこでジェシカの名前が出るんだよ」
「えっ!?」
「僕の好みの問題で、どうしてジェシカが苦労するんだ?」
 パチリと大きく開いていた眼を瞬かせた後、リースは爪先立ちでゼノスにのみ聞こえるように話す。口元を手で覆いコソコソする様相に、ゼノスは少し身体を屈めた。
「……ゼノ兄、まさかジーニって気付いてないの? ジェシカのジーニを見るあつーい視線に」
「……だな。まぁ気付いていたらいたで、それは問題かもしれんが」
「うわ、ヤダ……。ゼノ兄ってば何言ってんのよ、卑猥〜!!」
「……おい」
 すっかり蚊帳の外にされてしまったジーニアスは剣呑な双眸で、いまだ隠し事でもするかのような二人を見据える。が、当然のようにジーニアスの言葉を二人は聞き流していた。
「ま、お子様には早いって事だな」
「お子様って言うな!」
「おい、二人共。一体何の事を言っているんだよ!」
「なに、気にすんな。白髪が珍しいって訳でもないだろ。ノヴァだって似たようなもんだしな」
 そろそろ業を煮やしそうなジーニアスを見止めて、ゼノスは笑いながらその肩を叩いた。
「そうねぇ。あ、ヒイロ様もそれっぽいしね」
「だからっ! 何のっっ!! 事だっっっ!!!」
 二人が一体何を言っているのか理解できないジーニアスは、流れ往く話題にせめてもの抵抗として力の限り叫んでいた。

 蒼穹に響く絶叫と、明らかに二人に弄ばれているジーニアスの背中を眺めながら、クリューヌはクスリと微笑んだ。
「楽しそうなお仲間ですね」
「まあな。おかげで退屈はしない」
 言われた事にヴェインは穏やかな笑みを浮かべ、眩い陽射しの中で流れる暖かな風に身を委ねたまま静かに双眸を伏せた。






 ロマリア大陸東方に広がる森林地帯を縦断し、大陸を隔てている大きな河。この辺りは完全に人間の手が及んでいない未開の地で、つまりは人の知らざる世界が広がっている事になる。大地が何か圧倒的な大きな力に抉られたように別け隔てられた地。その爪跡を外海から海水が流れ入り、遥かな大河として両の地を乖離かいりさせている。
 崖のように切り立つ山肌に、沿うように広がる森。そのどれもが樹齢何百年とも思わせる程の大樹で、地中に収まりきらない根は這い回るように地面に犇めいている。その中で、腰下ろすには丁度良い凹凸を為している所にポツンと座り、闇色のローブに包まれた翡翠の青年はぼんやりと遥かな対岸を見据えていた。
 どれだけ目を凝らしてみても、前方に広がる対岸は薄っすらと霞掛かっているように朧で、はっきりと視界に捉える事が出来ない。距離感すらあやふやで大河の全容を掴みきれなかった。
(秘されし地、とは良く言ったものだね)
 翡翠の青年は自嘲的な笑みを浮かべ、双眸を伏せる。そして膝の上に置いた両手、その上に乗せられていた小さな木箱から発せられる闇と音に感覚を傾けた。
 深く鬱蒼とした木々の枝葉が天を覆うように生い茂る。黒いまでに深く重い色に染まった翆緑の葉は風にざわついて騒然としている。その自然の音の中で明らかに無機的に、単調にリズムを刻んで玲瓏のような小気味良い音を発している闇。まるでオルゴールのようだなと思い、それに聞き入りながらゆっくりと翡翠の双眸を開いた。
「……ご苦労様、二人とも」
「おうよ」
「…………」
 背後から野太い声が掛けられる。どこか弾んでさえいるそれに一つ苦笑を零し、翡翠の青年は振り返った。
 そこには剛質な筋肉の鎧とそれを覆う深青の肌の巨漢…デスストーカーと、空の明りに鈍く光る血色の鎧騎士…キラーアーマーが暢達に歩み寄ってきていた。
「どうだった?」
「愉しかったぜぇ。ま、わざとやられるってのはストレスが溜まるがな」
「そう」
 ケラケラと嗤う巨躯の男に翡翠の青年は一つ頷く。
「まぁ何にしてもここでの用は終り、か。振り返ってみるとえらく呆気無い結末だがな」
「それだけ“飛影かれら”…盗賊団“流星”の力が強いというだけの事だよ」
「たしかに、サマンオサの連中と真っ向からやりあってるだけあるか。しかしまぁ…寂しいもんだ。築き上げたものがこうもあっさり崩れるってのはなぁ」
 デスストーカーは覆面の上から顔を撫でていた。覆面で覆われている為、何処を撫でているか判断つかないが、手の動きから顎辺りなのか、と一人思う。チラリと横目で、遠い眼で空を見ている彼の様子を捉え翡翠の青年は今の彼の胸中を当てて見せた。
「寂寥感と言う奴かい? ……だけどそれは、些細な事。生まれた者はいずれ皆死に、培った文明という塔は時によって瓦礫と灰燼と帰す。創造と破壊、盛隆と衰退…この世界が生まれてより連綿と続く歴史、永劫の連鎖の一つに過ぎない。そこに感傷を求めても、見つかるのはただ虚しさだけさ」
「退廃の極みだな。まぁ、それ自体否定はしないが。……部下どもはどうした?」
「心配する事は無いよ。ちゃんと向こうに転送バシルーラしておいた。あちら・・・はまだ流れが健在だから大丈夫だよ」
 答えにデスストーカーは一つ溜息を吐いた。
「そ、か。……ま、何にしてもあんたの撤収って意見は正解だった訳だ。部下共もそろそろ限界・・の筈だったからよ」
「そうだね。ぼくが見た限りでは、既に上辺の欺瞞に綻びが生じていた。人の形・・・を留めておくのも限界のようだったからね」
屍術師ゾンビマスターの見解じゃ、もうしばらくは保つ筈だったんだがなぁ」
「まぁ、彼らは正規の手段を踏んだわけではないしね。それに……」
「それに?」
 言葉を溜めた青年に、覆面の下で大男は目を細めた。
「世に負陰と混沌が高まれば魔の力も増すだろう。それだけ君等の活動が実を結んでいたという事だよ。まぁ、砂塵の果て・・・・・で暗躍している屍術師殿も、今はそれどころでは無いらしいから相談には乗れないしね」
「なんだ、あっちはあっちで全面衝突でもする気なのか?」
「そうらしいよ。何回か僕に助勢を打診してきた」
「呑むのか?」
 大男の言に、翡翠の青年はパチリと大きく目を見開く。その様はまるで、心外だよ、とでも言う如く、大男の言葉の内容に唾棄だきするような感情に満ち溢れていた。
「まさか。それで駄目なら、屍術師殿も所詮はその程度の器だという事。それに僕は屍術師殿の上役…智魔将エビルマージ閣下を嫌悪しているからね。アレの手勢なんて、寧ろ僕がこの手で八つ裂きにしたい気持ちだよ」
「あー、あのババァな。わかる、わかるぜその気持ち!!」
 中々に物騒で辛辣な青年に、巌の両腕を組んでデスストーカーは同意するように何度も頷いていた。

 先程からずっと大河の先を見ている自分の上役に、デスストーカーは首を傾げる。
「前から思ってたけどよ、あっちの大陸って何なんだ?」
「さぁ?」
 返ってきた答えは余りに手応えの無い物だった為、思わず肩の力が抜ける。
「さぁ…って、あんたでもわからんのか?」
「まあね。ぼくだって全てを知る者では無い。判るとすれば、とてつもない何か・・が彼の地には在ると言うこと位かな」
「なんだよ、そのとてつもない何かってのは?」
 興味有り気にデスストーカーの声は早くなる。それに翡翠の青年はゆっくりと頭を振った。
「それはわからない。ただ、あの大陸には結界が張られている。それも極めて強力な」
「結界?」
「ぼくの見立てでは、レムオルとトヘロスとマヌーサ。そのどれもが神韻セイクリッド級で、彼の大陸全てを覆っているとみて間違いないね」
「おいおいおい。んな物騒な……。近付く術は無いってか?」
「うん。無理だね。ぼく達が魔族である以上、彼の地には絶対に近づけない。負陰の極地に立つぼく達が、正陽の敷居を跨ぐ事が出来ないのも道理」
「なるほどなぁ」
 納得したのかしていないのか、捉えがたい返事を零すデスストーカーに小さく嘆息して、翡翠の青年は立ち上がる。ローブの中に聖櫃をしまい込み、衣服についた土埃を丁寧に払った。
「さて、実りの無い議論もここまでにして、そろそろ行こうか」
「戻るのか?」
「そうなるね。……いや、その前に少し寄り道したい所があるけど、いいかな?」
「俺は構わんが、……寄り道って何処だ?」
 デスストーカーの横でキラーアーマーの鎧が擦りあって小さく嘶く。頷いている様子のそれを見止め、翡翠の青年はクスリと微笑む。
「…………なに、君らには道化を演じて貰ったからね。その溜まったストレスを解消してもらおうと思って」
「ほう! そりゃあ、気が利いてんなぁ。で、具体的には?」
「…………」
 その巨躯には似合わず、愉しげに声を弾ませる偉丈夫。それに一つ苦笑を漏らした後、青年は風に靡いていた翡翠の髪を闇色のフードで覆い隠す。
 枝葉の間を縫って降って来る陽射しに、深くに被られたそれの下で翡翠の双眸が妖しく光を湛えていた。




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