――――異伝一
      第三話 闇の葬礼







 薄闇に満ちた静寂が支配する冷たい岩の回廊。その薄暗い坑道を、夜よりも深くくらい闇色のローブに身を包んだ者が歩いていた。
 足を動かす度に地面に届きそうなまでに長いその裾が、あちらこちらに転がっている大小さまざまな岩の面を掠め、大きく揺れる。
 地面を蹴る度に甲高く鳴る足音がごつごつした岩に反響して重奏を成し、遠くに収束している一点の闇に染み込むように余韻すらをも残さずに消える。それが後に続く深い静寂を一層際立たせ、この地の遥かな深遠さを脳裡に思い描かせるには充分だった。
 果ての無く続いている岩屋を支える組木にあつらわれた燭台には、緋色の炎がこの場所をおどろおどろしく照らしている。そこから齎される温かな光に誘われ、この闇の迷宮の中を彷徨っていた蛾が飛び寄って来ては、炎に呑まれ無残に焼き焦げる音を発してその骸を冷たい地面に落とした。落着した衝撃で粉微塵に散った残骸は、やがて地面に犇いている塵芥と同化して深闇に還っていった。
 顔の全てを覆うように深く被られたフードからは、その場所を歩む者の表情を窺う事は出来ない。暗がりの中で申し訳程度に灯る火の明りが余計にそれを助長させている。
 そんな折に聞こえてきた、何かが焼かれ落ちる音を耳にしてピタリと進む足を止めた。フードの下から、その場所を探すように視線は動き、闇の中で崩れ去っているあとを見止めた。暫し間、その形が失われていく様子を眺めていたが、やがてフードの陰と灯によって顔の線が浮き彫りになった面に貼り付いた影が動き、呆気なく潰えた命を見下ろしながらその者・・・は確かにゆらりと口の端を持ち上げる。
「平静を惜しむ者は甘美なる芳香ほうがに充たされた真理の門扉へは至らず、叡智の書壇に触れる事叶わず。望まず惜しまず、己が魂魄をからめ捕るただ一つの細緻な糸を振り解いた者だけが手にしたるは、深潭しんたんたる闇の輝き」
 ゆっくりと穏やかに、ひしめく闇と岩肌に静かに染み込んでいく声はまだ歳若い青年のものだが、その声色にはどこか超然とした雰囲気が秘められていた。在る物の根底にすら浸透していくかのようなその音の漣に、眼前の虚空を充たしていた闇は恐れ慄いたように息を潜め、揺れる。
「……怯懦きょうだに屈しないだけ、人よりも潔いね」
 地面に散らばった灰燼を見つめながら、どこか賞賛のようにさえ聞こえる言葉をはなむけに、踵を返した。
 空気を貪る赤い簇柱ぞくちゅうと、それから吐き出される煤煙が外と内を結ぶ風の流れに攫われて、闇の深奥へと消えていく。燈々と燃える炎が闇に霞んで黒に侵蝕され呑まれていく様子を、何の感慨も無く深くに被られたフードの奥から見つめていたその者・・・は大きく闇色のローブを翻した。




「やあ、久しぶり」
 坑道を潜り抜け、大きく開けた空間に足を踏み入れた闇色のローブを纏う者は穏やかに、この怖気がする場にそぐわない声調で発した。気安ささえ乗せられたそれを受け止め、開けた空洞…かつては採掘場であったであろう場所に無造作に置かれた木の椅子にドカリと座っていた大男が何事かと顔を上げる。
 乱雑に伸びた黒髪の下で餓えた獰猛な獣の如き危うい光を湛える双眸が来訪者を捉えると、口元を歪めて武骨な手で無精髭を撫で付けた。巨躯の肉体を支える筋肉は周囲の岩肌のように剛健堅固で、まさにいわおのような男であった。
 外見から想像できるものと何一つ違い無い野太い声で、大男は悠然に声を発した。
「大将じゃねぇか。何か用か? わざわざこんな煤埃臭ぇ穴蔵によ」
 大将と呼ばれたローブに身を包んだ青年は、暢気にわざとらしく肩を回している大男の素振りを見て、一つ呆れたように溜息を吐く。
「何って……、これでも一応心配になって来たんだよ。どうやら、今ここの外じゃ相当な戦力が集結しつつあるみたいだしね。察するに“飛影”はいよいよ詰めに掛かって来るのかな?」
「ケッ…」
 厭くまでも柔らかく、薄く微笑みながら丁寧な口調で綴るローブの青年の様子に寒気を覚えたのか、顔を逸らせて大男は悪態をつく。その様子が何処となく悪戯を咎められた子供のそれに見えて、思わずローブの青年は声を漏らして笑った。
「あはは。……首尾はどうだい?」
「こいつがご所望の物だ」
 一通り笑った後、一転して空気が凍るように冷然とした声で青年は言う。フードと前髪からなる帳の影の奥で、双眸が照明として備えてある蝋燭の灯を反して鋭く光った。柔軟さと酷薄さを同居させた冷然な眸。普段の穏やかな雰囲気と相俟って、その格差に戸惑いを覚える者も少なくは無いだろう。
 何とも掴み所の無い奴だ、と小さく零しながら大男は何時の間にか掌に収めていた木箱を青年に差し出した。
 造られて遥か長久の年月が経っているのだろう。角が朽ち欠けて丸みを帯びた小さな木箱は、その表面に幾筋にも刻み込まれた魔法紋字の羅列によって厳重に封印されてある。その物々しさはまるで神話や童話で語られる厄災を閉じ込めた箱そのものであった。注意深く見なければ、木面独特の筋が年月に煤けて色褪せた結果として生まれるまだら模様程度にしか捉えられないであろうそれは、高度な魔法的施工によるものだという事を裏付けていた。
 その箱の表面を恭しくそっと一撫でして、ローブの青年は呟いた。
「インパス」
 その言の葉が静まり返っていた場を揺らし、容を得た瞬間。
 箱に刻まれた紋様が慌しく喘ぐように点滅し、パリンと空気が割れる音を発したかと思う程に嘶いた後、静寂が訪れる。自然と内側から押し上げられ、ゆっくりと開かれる蓋の内側から零れ出てくるもやのような漆黒の純粋な闇は、この空洞の空気を勢い良く貪り始めた。
 溢れ出た闇が空気に広がる度に金属の板が弾かれたような、或いは玲瓏の澄んだ音色が流れるように感じる事が、この明らかに異質な現象に確かな現実味を与えているのだった。
「この闇…いや、負陰と混沌の波動。…………うん、間違い無いようだね」
 箱を支える腕そのものが既にだした闇に呑まれている。その様子に臆する事無く間近で見下ろしながら、フードの青年は満足気に微笑んだ。
 どこか恍惚とさえしているような声色と視線を、横で眺めていた大男は億劫そうに髪を掻き回しながら言った。
「お気に召したのなら良いが、始めにソレ・・を獲りに行った部下共が、ソレから零れている僅かな邪気にてられて変異しちまったんだ。おかげで宥めるのに余計な手間が掛かったんだぜ」
 瞑目して、掌から広がり纏わりついていくかのような躍動する闇に確かな力の流れを感じていた青年は、耳が捉えた声に意識を傾け、パタンと小さく神聖な闇を秘めた聖櫃の蓋を閉じた。
「……ああ、確かにこれから零れる魔の波動は凄まじい。そういう事象も考えられるね」
「予想できてたんなら、あらかじめ言って欲しかったもんだな。なら初めから俺様が獲りに行ったのによ」
 手ごたえの無い問答に気疲れしたのか溜息を吐きつつ言う大男。それに一つ眼を瞬かせた後、ローブの青年は苦笑を零した。
「あはは、ごめんごめん。他にもやる事があって、そこまで気が回らなかったんだよ。だけど、実質的に被害・・は無かったろう?」
「……まあな。どちらかと言えば力をつける結果になった訳だが、それを欲しがる奴等が増えだしてな。黙らせてはいるが、統制する身としては厄介な物を抱え込んじまった訳だ。できれば早々にお引き取り願いたい物だったぜ」
「それは……悪い事をしたね。謝るよ」
 双眸を伏せて青年は小さく頭を前に傾けた。

「で、結局ソレは何なんだ?」
 胡乱うろんな視線で青年と、その掌に収まっている木箱を見上げながら大男。
「これは“黒”の一欠片。翼の封印たる竜種の遺産に似て非なる物……」
「……はーん、いまいちピンと来ねぇな。“黒”ねぇ…“黄”に関係している物か?」
 直喩なのか隠喩なのか、その本質の判別がつかない大男にとって、何かをほのめかしているようなローブの青年の言葉に実体を感じられず理解はできなかった。ただその中で唯一引っかかった単語が脳裏を掠め、思わず口を衝いて外に出ていた。
「……君の口からそれを聞くとは思わなかったよ」
 間延びした口調の男の言葉に、フードの奥の双眸がピクリと動き細められる。追求の眸ではない。言葉通りに良く知っていたね、と視線がそう物語っていた。
「ま、そこらで小耳に挟んだ程度だから気にしないでくれや」
 聞き流してくれという意思表示でヒラヒラと手を扇ぎながら大男は首を傾けている。その様子に口元に手を当てて何かを考え込んでいた青年は、やがてその思考に一区切りが着いたのかゆっくりと顔を上げた。
「ふーん。じゃあ、そういう事にしておこうか。しかし…“黄”か。これの在った地でその噂を聞いたと言う事は……同種の物ゆえに一つの場に引き合ったと言う訳なのかな。だとすると、これの信憑性を認める為の確かな事実にはなる」
 手にしている木箱の内から脈を打っているように感じる何かに、それが確信へと変わっていた。
「……で、だ。これからどうすればいい? 一応、あんたの指示には従うぜ」
 得体の知れない物についての問答はこれまでだと言わんばかりに、話題を切り替える大男。
 特にそれに対して思う事は無く、ローブの青年は考える時の癖なのか顎に手を当てて悠然と天井を見上げた。
 今にも落ちてきそうな岩のはり。そこにここで蠢く者達の行く末を垣間見て案ずる。そしてゆっくりと大男を振り向いては答えた。
「そうだね……。とりあえず目的も達成した事だし、撤収でもするかい?」
「おいおい、消極的だなぁ」
 第一線で活動してきた身としては、青年の言葉は何とも呆気ないものだった。それにつられて自然と気概が削がれていく。
「別に執着があるって訳でもないだろう? 馬鹿正直に彼らと衝突して、無駄に手駒を散らす必要は無いよ。それに、たまには相手側にもを持たせてあげないと」
 宥めるように静かに綴る青年の言葉が何を言わんとしているのか察した大男は、不服そうな声をあげた。
「希望を与えるってのか? せっかく適度な混乱を起こしたってのによぉ」
「だからこそ、だよ。……絶望と混乱の中、足掻く事で燻り、潰えずに猛り、終には自ら立ち上がるまでに焔となった人の希望と意志。自分達を照らし支えている疑いようの無いそれが、実は大海に投じられた小瓶の中の灯火だと知ったら、どうなると思う?」
 再び天井を、いやその先の遥かな空。それすらをも越えた所を見透かしているように、青年は超然とした声色で、詩でもたしなむかのように厳かに語る。
「人間とは矛盾に満ちた不安定な存在だ。その不確かさ、不完全さ故にマナの性質を歪めるには適した存在でもあるからね。世界の調和の為・・・・・・・に、それを利用しない手は無いよ」
「相変わらず、えげつねぇ事を考えるな」
 ニタリと邪に嗤いながら、大男は青年を揶揄やゆる。
「効率を重視しているって言って欲しいね」
 気分を害するでもなく、クスクスと上品に笑うその様を見て大男の顔は微かに引き攣った。
「……あんたやっぱ恐ろしい奴だぜ」
「そう思うのなら、口の利き方を気をつけるべきだと思うよ。仮にも、ぼくは君の上役なんだから」
「大将よぉ、俺が敬語なんて使えると思うか? いや、使えると思っていやがるのですかね?」
 歪な笑みを頬に刻みながらの出鱈目な敬語に、ローブの青年は額に手を当てて大きく溜息を吐いた。
「……ごめん、今のは聞かなかった事にするね」
「コノヤロウ……」
「ただ君ももう少しその辺りの機微を解ってくれた方が、ぼくとしても好感が持てるんだけどね」
「解る必要は無ぇだろ? 何せ俺等は――」
「そうだったね」
 剣呑さを帯びた大男の言葉を遮るように、青年は静かに頷いた。続きを口にする必要など既に無意味だと思ったからだ。

「ま、とにかく部下達を撤収させればいいんだな。……なぁ、俺は残って乗り込んでくる連中の相手をしてもいいか?」
「何でまた? 君が負けるとは思わないけど……、わざわざそんな徒労を?」
 心底不思議そうな青年の顔に、してやったりと大男は口元を歪めた。
「なぁに、こんな埃臭ぇ穴蔵にご足労願うんだ。勢い勇んで敵の本拠地に乗り込んでくる連中としては、そこに親玉ボスがいなけりゃ気が萎えるだろ?」
 パチリと瞠目して、青年は頷いた。
「ふむ。自分達の勝利を実感するには、確かなかたき役も必要と言うわけか。……それは盲点だったね」
「……俺様は単に暴れてぇだけなんだが、いいだろ?」
 大男の眼は、これからの愉しみを想ってか愉悦に歪んだ光を爛々と滾らせている。
 その猛る様子に一つ苦笑を零して、ローブの青年は頷いた。
「うん、構わないよ。ただし、その場合わざと負けて貰う事になるけどいいのかい?」
「おうよ。その場合に潜めばいいからな。とりあえず暴れられれば俺は構わん」
「わかったよ。じゃあその火付けの役回り、君にやってもらうかな」
「へへ、任された」
 ニヤリと、獰猛な肉食獣の笑みを浮かべ立ち上がる大男。
 突如、その姿を形造っている輪郭が歪み、周囲の景色と溶けるように透けて完全に一体化する。だがそれも束の間。その大男が立っていた一点から粘度の高い靄のような闇が噴出しては、それが次第に何かを形成するように積み重なっていく。やがて広がった闇は人に似た輪郭をかたどるも、それは絶対的に人とは異なる存在だった。集約した闇の堆積が臨界を越えたのか、内側からほどばしる圧倒的な鼓動と存在感に圧され、闇は虚空に霧散して消えた。
 闇が去ったその場所には、刃の如く研ぎ澄まされた殺気と威圧感を周囲に放つ異形の魁偉かいいが佇んでいた。肌は深い青に変色し、剥き出しの筋肉は裡を流れる血潮の鼓動に応じて隆々と盛り上がっている。顔全てを覆い隠した覆面と、その奥から滾り零れる狂気の双眸は、死の危うさを湛えていた。
 姿形、取り巻く雰囲気が一変した大男を前にしても微塵も怯む事無く、ローブの青年は至極穏やかな眼差しで彼を見眺めていた。そして、ゆるりと綴りながら自分の背後に向けて視線と首を動かす。
「そうだね……君もここで彼の補佐をしてくれないかな?」
 広い空洞の中に限り無く漂う闇に灯された炎。その燭台の炎は何かが動いて生じた風にふっと揺らいだ。
 すると一つ瞬く刹那の間に、そこには闇が凝ったように濃密な影が浮かび上がっている。足音も立てずにゆらりと顕になってくるのは、所々引き裂かれ、黒ずんだ汚れが目につく煤けた山吹色のマントに全身を包んだ者。背格好だけを見るならば青年と呼ばれ始める年齢に差し掛かる位の男だろう。頭髪も口元も満遍無く布で覆われていて、唯一顕になっている部位と言えばもはや双眸くらいであるが、その剥き出しの両眼にはピリピリとした激しい何かが走っているようであった。
 大男が闖入してきた青年を物珍しげに眺め、闇色の青年に目線で問う。
「……その小僧はどうしたよ? 見る限り新顔だろ?」
「まあね。彼の憎悪と絶望はとてもきれいな輝きを放っていたから。あのまま野の木偶でく共に喰わせるのは惜しい。だから僕は彼に機会を与えた。そして、彼は見事にそれを掴んだんだ」
「だとよ。良かったなぁ、褒められてるぜ小僧」
「…………」
 全身を揺らしながら大男は盛大に嗤う。既に覆面でその表情は見て取れないが、明らかに狂気に歪んでいた。
 対する新参の青年は、瞬き一つせずにただ佇む。その双眸を伏せてしまえば、存在感さえ完全に消失してしまいそうな程に、彼は淡々と立っていた。
「彼の素質は中々のものだよ。君の足を引っ張るような事は無いから、宜しく頼むよ。……デスストーカー」
「あいよ」
 静と動で対照的な二人を見つめながら、闇色の青年はそのフードを脱いだ。そして今まで圧していたものを解き放つように、左右に何度か首を振る。その度に自由になった艶やかな翡翠の髪はさらさらと流れ、今までに醸していた雰囲気と違わない優しげな面持ち、髪と同色の双眸は何処か誇らしげに無言の青年を見た。
「初陣が茶番なのは申し訳ないけど、頑張るんだよ。キラーアーマー」
「…………」
 信頼を載せた翡翠の双眸を向けられて、直立していた青年は静かに眸を伏せる。すると先程の大男と同じようにその姿、輪郭がぼやけ、周囲に同化する。次の瞬間に湧き出した闇が容を形成し、禍々しく緋色の血で塗装されたような甲冑に身を包んだ騎士が降臨した。
 その兜の奥に宿る強い光は変わらなく鋭く。血色の鎧は燭台の灯に煉獄の如き輝きを放っていた。

 そんな二人の様子を、優しげに緩められた翡翠の双眸は満足げに見つめていた。






 かつては人々の活気に賑わい、常に熱き生の鼓動で満たされていたこの場所もここ数十年はひっそりと幽然に、静かに荒廃への途を歩んでいた。
 このカザーブ東に連なる山脈、その岩山に蟻の巣ように複雑に張り巡らされた坑道が閉鎖された理由には様々な説話が浮かび上がり、記憶の底に淘汰されていた。
 曰く、長い年月をかけて乱獲した結果として鉱脈が枯れてしまった事。曰く、毒性の強いガスが湧き出して坑夫や付近の住民に甚大な被害を齎した事。…といった至極現実的なものから、曰く、坑道の奥底に化物が棲みついてしまって近付く者を残らず喰い殺す事。曰く、異世界へ続く扉が開いて行方知れずになる人が続出した事。…など呆れる程に怪奇な迷妄地味たものまで玉石混淆であった。
 真実こそ、その地方、地域の風土記を見ればその疑問は蝋燭の火を吹き消すが如く呆気無く明らかになるのだが、人の世はいつもそんな取るに足らない迷妄と、矛盾に自己破綻を起こしている泡沫論の存在を許容し庇護している。
 現実味の無いそれらをさかなに人々は笑い、けなす。時として話題を盛り上げる為に、時として真実をより誇張する為に。そして、それらの存在の余地を許している最たるのは自分達の見たくないもの、認めたくないもの。そういった血生臭く、且つ惨憺たる現実を自分達の目と耳から切り離す手段として、日々の安寧には必要不可欠な存在であった。

 ここ数年、ロマリア王国に住まう人々を悩ませてきた賊徒のすみか。本拠地を海を越えた遠くの地、サマンオサに置く義賊盗賊団“飛影”の戦士達はこの地に襲撃を掛けていた。




「ねぇカンダタ」
 薄暗く足場の悪い坑道を歩きながら、ジーニアスは左手に持った角灯ランタンを先の闇を照らすように掲げ、隣を歩くカンダタに言った。それに首を動かさずに声だけでカンダタは返す。
「何だ?」
「何か変じゃないか? ここまで静かなんて……人の気配がまるでしない」
 霞む眼前の闇にどれだけ目を凝らして見ても、捉えられるのは坑道の先で犇く闇に申し訳程度に抗っている燭台のあかり。
 この地に広がっていた賊徒は、この廃鉱を巣窟としていた為か、所々に備えていた嘗ての活気の名残である燭台を照明として利用していた。だが燈る明かりだけでは見通しは悪く、こうして先頭に立つジーニアスが用意していた角灯で道を照らしているのだ。
 だいだいの温かみのある明かりによって彩られた坑道の中は、その雰囲気に反して恐ろしく静かで、自分達が岩を蹴る音、呼吸の音。燭台と角灯の火が空気を貪る音しか聞こえてこなかった。
「……そうだな」
 岩肌を縦横無尽に躍り舞う影を視界の端で捉えながら、ジーニアスの指摘は正しいとカンダタは頷いた。
 これまで何度も渡り合ってきた連中である。その数は国に籍を置く軍の一部隊以上の人数はいる、という情報が潜入させていた部下達から齎されていた。カザーブ村からこの鉱山に来るまでに二日を要したが、その間も見張りを置いて常に監視させている。その彼らが齎したのは、ただ嵐の前のような静けさを保っていると言う事で、誰かが逃げた或いは入り込んだという話は無い。それだけに、この静まり返った岩の回廊は無気味でもあった。
 完治した右手ききてには既に抜き身の三連の刃が明かりに艶やかに光る戦斧バトルアックスが握られている。仮にも敵陣に侵入している以上、どんな時も油断などできよう筈は無い。掌に圧し掛かる確かな重みが、薄闇に散逸していきそうな集中をしっかりと繋ぎとめていた。
「私達がシャンパーニに乗り込んだ時も似たようなもんじゃったがな」
 剣の柄に手を掛けたまま殿しんがりを歩き、目を細め注意深く薄闇に視線を走らせるアズサの何処か暢達な言葉をカンダタは敢えて聞き流す。
「ここは敵の本拠地じゃし、さぞ大層なもてなしの準備でもしてるんじゃろうな」
「はは……。強気だね、アズサさんは……」
 この寒気さえ齎す闇に少しも物怖じした様子の無いアズサの口調に、前を行くジーニアスは首を回して苦笑を浮かべていた。

 長く続く坑道の中。既に分岐は数回に分かれており、ただひたすらに最央部を目指して突き進んでいた。事前に密偵たちが調べ上げた見取り図を頭に叩き込んで居なければ、迷った挙句二度と陽の恩恵は受けられないであろう。尤も、迷宮脱出魔法を扱える自分にとっては余り意味の無い思考では在るが、そう思わずにはいられない程にこの鉱山の規模は大きく、そして深い。
「のぅ、ジーニアス殿」
 唐突に背後のアズサが呟いた。その呟きは外であるならば周囲の自然の音に攫われる程の物なのかもしれないが、この坑道に在ってそれは冷たい岩肌に反響して何処までも遠くに運ばれる。
 それを受けてジーニアスは周囲に配る注意を保ちつつ、チラリと後ろを見た。
「ん?」
「振り分けは、これで良かったのか?」
 灯によって影の明暗が揺らぎ、その中でアズサの緑灰の双眸が動く。視線は今この場に同在しているカンダタとジーニアスを示していた。
 一つ頷いてジーニアスはそれに答えた。
「そうだな……。先ず優先的に分けるべきは回復魔法ホイミ迷宮脱出魔法リレミトの使える僕とウィルだ。それにこの坑道…武器を振るうには動きの制限されるような場所にあって、徒手での近接戦闘の心得があるカンダタとヴェインも分散した方が懸命だろう。これらの点から後は連携を考えてウィルとヴェイン、僕とカンダタは組んだ方が戦略的には有利だからかな」
 仲間の戦いの姿勢を良く見て知り、それを的確に活かそうという試みが良く判る。
 確かな的を得ている言にアズサは感心したように頷いた。
「ならば私と魔剣士とは、逆の方が良かったのではないか? その方が“流星”の方々で組める分、実力も発揮しやすいじゃろうに」
 『魔剣士』が誰を指すのか一瞬判らなかったが、村にいた時、彼女がゼノスを呼ぶ時にそう言っていたのを思い出して、ああ、と頷く。そしてその当然の疑問に答えるべく足を進める速度を緩めた。
「それは、そうかもしれないけど。……共鳴する恐れがあるから」
「共鳴?」
 先頭を行くジーニアスに倣ってカンダタとアズサも自然と歩調が狭まる。
「そう。ゼノスの雷神の剣と、僕の烈炎ほのおの剣。これに秘められた『力』が共鳴によって暴発したら、この坑道もただじゃ済まないから。僕も大分これを扱えるようになったけど、万が一もある。自分の未熟で仲間を危険に晒す訳にはいかないからさ」
 背中に背負った紅蓮の剣の柄を撫でながらジーニアス。中々に物騒な発言に反してその剣に触れている様子、その碧空の双眸は何処か誇らしげでもある。
「成程のぅ……、納得した」
 どこか熱っぽい少年地味た横顔を見上げ、アズサは眸を伏せる。力のある剣・・・・・を持つ、という事がどういう事なのかを良く知る為か、自然と深く何度も頷いていた。
「でもアズサさんは凄いな。剣の腕じゃゼノスに匹敵してるんじゃないかな?」
「どうかのぅ……。シャンパーニでやり合った時はお互い手を抜いておったし――」
 笑みを含んだジーニアスの眼差しに、くすぐったくなってアズサは鼻の頭を指で擦る。
(私も“剣”を持っていなかったからな)
 脳裡でそんな事を思い浮かべながら、笑った。
「?」
「ま、いずれあやつとも決着はつけんとな」
「はは、そうなんだ。僕も、もっと修行しなくちゃな……」
 小さく息を撒くアズサにジーニアスは微笑んだ。
 ここに来る前に、村で一度彼女に手合わせを挑まれたが、その時は見事なまでに完敗だった。
 決して相手が女性だからと手を抜いた訳ではないが、その研ぎ澄まされた剣速と剣筋の前に自分の攻め手が完全に封じられてしまったのだった。男として女性に負けた事に当然悔しさも生まれたが、それ以上に自分の未熟を思い知らされ、より高みを目指すという向上心を改めて抱くきっかけにもなったのだ。
「しかし、お主は人を斬る事に躊躇いは無いのか?」
「えっ?」
 急に低く下げられた声調でそう言われて、何の事かと意外そうな顔をしてジーニアスは足を止める。そして刹那の瞑目を経て、どこか神妙な面持ちでアズサを真っ直ぐに見据えた。
「いや、こんなところに来てこんな事を言うのも今更じゃが、気になってな」
 今自分達がここにいる理由は人々を苦しめている賊徒を討つ、即ち人を殺す為に来ている。人類にとっての天敵であり異形の魔物とは違って、紛れも無く自分達と同じ姿をした人間が相手なのだ。掲げる旗の色と信念は何であれ、人類全ての共通の敵が存在する中で、同じ人間を討つと言うのは自分の心に生命倫理からの問い掛けが常についてまわる。その諮詢しじゅんから頭ごなしに非難する者もいれば、その問の無意味さを鼻で嗤う者も世の中には大勢いるのだ。
 この男はどうなのか、と興味をもってアズサはジーニアスを見つめ返した。
「躊躇いが無い、って事は無いさ。剣を振るって相手を倒した時、その重さに手が震える事だってある。返り血が人間の赤でも、魔物の青でも。だけど……」
「だけど?」
 己の利き手、つまり剣を持つ手を見下ろしながらジーニアスは呟いた。
「戦わなければ守れないものもある。守る為に戦う事が避けて通れない路なら僕はそれを厭わない。その力と術があるのに、何かが変わるのをただ待っていたり、誰かがそれをしてくれるって見て思っているだけってのは、結局何もしない事と同じだろう? そんなのは嫌だから」
 開いていた掌を力強く握り締めてジーニアスは頭を上げた。毅然と引き締められた表情、その眼差しは清々しく澄んでいる。
「苦しんでいる誰かがいる。その誰かを守る為に自分に何が出来るのか……。もし、それが自分に出来る事であるならば、僕は戦う。……この剣に賭けてね」
 それは長年、いやこれまでの人生と言っても良い。盗賊団“流星”の理念と正義は、その場所で生きてきた自分の信念にとってもそうであったのだ。
 角灯の光が黄金の髪を梳き、灯りが揺れる度に髪の明暗を際立たせる。それがまるで炎が燃えているようで意志の強かさが垣間見えた。
「君達が知っている『アリアハンの勇者』だって、そうなんだろう? 人を守る象徴である『勇者』なんだから」
 仲間であるカンダタ達が『勇者』と対立したという事は話には聞いていた。詳しい状況などは教えてはもらえなかったが、組織内部で起こったすれ違いの結果として、『勇者』が介入してきた事と、その件についてはもうケリが着いているという事も聞いている。
 自分よりも遥かに強いカンダタに深手を負わせ勝利したのが、自分よりも年下の少年である事に酷く驚いたのと同時に、勇者と呼ばれた男の息子・・・・・・・・・・・という限り無く同じような立場に在る見知らぬ相手に、子供地味た嫉妬も微かに覚えていた。
(僕は父さんのように、たくさんの人達を守れるようになりたい。いや、なるんだ)
 内心でそんな事を考えていると、ふと静寂が流れている事に気付いてジーニアスは首を傾げる。
 カンダタは苦々しく顔を歪め、アズサは眸を伏せていた。
「…………」
「…………」
 突然に押し黙った二人を見て、ジーニアスは怪訝に目を細めた。
「? どうしたんだよ、二人と――」
 言いかけて、ジーニアスは口を噤む。横でカンダタが通路の先に何かを感じたのか、戦士の表情で闇を見据えていたからだ。
「……おしゃべりは終わりだ。わかるな?」
「うむ。首の後ろがチリチリしておる。……この感じ、殺気じゃな」
 引き締められた声色。油断無いそれにアズサも遅れずに頷く。
「……」
「ジーニアス!」
「あ、うん。いくよ!!」
 強い口調で名前を呼ばれ、慌てて気をとり直しジーニアスは愛剣を強く握り締めた。





―――その日、長い間この地に住む人々を苦しめていた賊徒は壊滅した。




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