――――異伝一
      第十話 誰が為に







 どれだけの時間が経ったのか。どれだけの敵を屠ったのか。どれだけの攻撃を喰らったのか。
 剣も、外套も、衣服も、髪も、頬も、殆どを飛散してきた黒に塗れていたユリウスには、もうそんな事はどうでも良かった。殺気を滾らせて攻撃を仕掛けてくる者は敵。そして自分のすべき事は敵を切り払うだけ。ただそれだけの認識で充分だったからだ。
「意識をついなす静寂しじまの漣よ。淡き銀燭の光と化して、蠢く者達に安息なる一時を。ラリホー!」
 翳した掌から放射状に、煌きながら視界を覆う淡い白銀色の面紗ヴェールが広がった。それはユリウスの周囲に犇いていた魔物の群れに優しく降り注いでは、包み込むようにその異形の身体に染み込んでいく。それがゆっくりと深くに浸透していくと、突如として魔物が意識を無くして次々と力無く地に伏していった。
 重低音の、擦弦楽器が発するような音のいびきを上げて眠る魔物達。その傍らで眠りの魔手から逃れた他の魔物は、同胞の身体を乗り越えて獲物であるユリウスに尚も牙を向けて飛び掛ってくる。それらを極限の集中の只中にあったユリウスは的確に動きを読んで冷徹に対処し、魔物を苦難なく退けていた。
 だがそうした中。数体の魔物を屠った後、剣を持った掌に嫌な感触が走る。それを改めて認識しようと剣に視線を落とした時。青く染まったスラリとした刀身に、刺々しい破砕音を発しながら縦横に亀裂が生じ、それは瞬く間も無く半ばから折れた。幾十もの魔物を切り殺してきた為、その刀身に掛けられた過負荷に耐え切れず限界が来たのだった。
「……ちっ!」
 無表情でその剣の行く末を看取ったユリウスは、小さく舌打ちをして折れた剣を足元に投げ捨てる。そして即座に背中に背負った槍を引き抜き、地を力強く蹴った。

 ユリウスは大局的に剣を扱うが、それは決して他の武器が扱えないからという理由ではなかった。体格からくる膂力りょりょくにおいて余りに重量のある代物こそ扱う事は出来ないが、振るえる範囲の重量であるならば近接戦闘用の武器は何の遜色も無く一通り扱える。戦闘行為において常に同一種の武器を持てると限らない以上、いかなる困難な状況で、いかなる不利な状態での戦闘をも潜り抜ける為に、あらゆる武具の修練を積んできたのだ。
 これまで剣を振るってきたのは、旅立ちの際に貰った剣が思いの他良い業物であったと言う事と、単に武器の中では最も扱い慣れていて得意である、と言うだけの話だった。もっとも、その裏には魔法剣という術を用いる為、という思惑も潜在してはいたが……。
 カザーブ村で入手した鋼鉄の槍は、この王都で再び買い付けた鋼鉄の剣よりも性能が優れた物だった。だからこそ、この場面で武器を槍に変える事への躊躇いは、ユリウスの中には微塵も存在して無かった。

 外套を大きく翻してユリウスは槍を薙いで、薙いで、薙いで魔物の波を掻き分けて進んだ。その間に迫って来た魔物に繰り出す攻撃は、どれも軽傷なり深手を負わせるだけで絶命させるには至らない。先程までの一撃必殺とはうって変わって、ただ敵の接近を妨げる程度の牽制にユリウスの攻勢は転じていた。剣と槍の間合いの差が、それを後押ししていたからだ。
 先刻放った催眠魔法の効果が持続している為か、一度に多数の魔物を相手にする必要は無い。その利もあってユリウスは漸く闘技場の中心と言うべき場所に到達する。と、一息つく間も無くユリウスは手にしていた槍を大地に深深と突き立てる。そして、すかさず周囲に視線を走らせた。
 包囲網を組みながらジリジリとにじり寄ってくる魔物の群れ。この逼迫ひっぱくした膠着状態は一度何かの切欠があれば、即座に崩壊するだろう。そして決壊した濁流の如き勢いを持って一斉に襲い掛かり、その敵を確実に呑み殺すのは想像に易い。
 だがユリウスはちらつく死の影を前にしても泰然と、冷徹な視線で周囲を窺っていた。まるでこのあからさまな危機的な均衡も、ただの予定調和に過ぎないかのような冷然とした相貌だった。
 それを示すようにユリウスは口の端を僅かに持ち上げて、大地に突き立てた青に染まった鋼鉄の槍の柄に手を添える。ユリウスが放つ濃密な殺気が膨れ上がり、周囲に充満した。
 そのぐにゃりと歪曲したかのような空気の変質に、魔物の群れが一挙に動いた。
 大波の如き連なりを以って、円はただ一点に絞り迫る。その殺気の円環には逃げる隙も暇も無い。だが、もとよりユリウスに逃げる意志など存在していなかった。ただ淡々と、打開の意志を具現する力ある言葉を発する。
「混濁たる空蝉に彷徨う無垢なる流れよ。真なる理の交響にて、在るがままに還れ。トヘロス!」
 発動呪文と共にユリウスを中心に、淡白い陽なる光の天球が水面に広がる波紋の如く魔物の群れに向かって圧し広がる。ユリウスを害しようと接近しすぎた魔物の群れは、その聖なる光の檻に頭から飛び込み、耳障りな断末魔と体液、死臭を撒き散らしながら崩れ落ち、次々と消滅していった。
 魔物が消え往く様子を、ユリウスは黙って静観する程悠長ではない。それは自分が今放った魔法がどのような結末を齎すのか熟知していたからだ。だからこそユリウスは、光牢より無事に逃れるであろう魔物達に向けての追撃を企てる。
 両腕をいっぱいに開き、予定通り生き残り、蹈鞴たたら踏んでいる魔物の群れに向かってそれぞれの掌を翳した。
「靜空に鎮まりし光の粒子。猛り震天の咆哮をあげ、狂威の瀑布とならん。吼えろ、光の怒号を! イオラ!」
 半円が二つ。それぞれに真逆の方向に展開した熱風と光の奔流は、ユリウスの周囲に存在していた魔物の全てに襲い掛かる。爆炎と熱波は次々と魔物達を圧倒し、その直撃を受けた魔物は元の形を維持できず崩れ落ちては塵になり、続く爆風によって流され空気に消えていった。

 辛うじて爆裂の直撃を免れ、半身を焼かれた魔物が依然として襲い掛かってくるが、ユリウスは地から引き抜いた槍で、魔法で、自分が持ち得る術の全てを最大限に駆使し、それらを迎え撃った。
 最後に残っていた、光の爆波によって右半身が炭化している暴れ猿に向けて鋼鉄の槍を投擲する。それは矢の如く一直線に魔物の左胸に吸い込まれ、心臓を貫通した。絶命した巨体は、断末魔の絶叫と、激しい粉塵と広がる血潮を派手に舞い上がらせて、仰向けに倒れ伏した。
 動かぬ骸から無造作に槍を抜き去り、真横に薙ぐ。その軌跡に沿って弧月に血飛沫が飛ぶが、その余韻を壊すものは既にここには無く。
 蒼茫たる大地にただ独り立ち、ユリウスは茫然と空を見上げる。

 そして、静寂が訪れた―――。






「概ね片付いた、か」
 流石に絶え間無い連戦で疲労を隠す事が出来ないヒイロは、所々に返り血が付着した帽子を脱ぎ取り、吹き乱れる風に優麗な銀髪を晒して、頭皮から吹き出していた汗を払う。心無くも冷たいそれは疲弊しきった身体にとても心地良く、微かな眩暈が強張った意識と全身の筋肉を解していくようだった。
「くそっ! 何で……、何でこんなっ!!」
 その横で剣を手にした腕を払って、地面に転がっていた石を蹴るジーニアス。足蹴にされた小さな石ころは呆気なく跳び、大きな瓦礫の山にぶつかって、虚しくその狭間に消えた。カランカランと瓦礫の山と廃墟となった街並みに虚しく響く音の残滓がジーニアス…いや、この場にいた誰しものやりきれない思いを代弁しているようだった。
 悄然とした様子を隠し切れない面々は、ただ黙して各々が武器に着いた魔物の返り血を拭って、その思いを抑える事で精一杯だったのだ。




 街を人を無差別に狂牙を振るっていた魔物の群れはおおよそ全て討ち倒した。
 だが後に残ったのは、見るも無残な残骸。激しい戦火にでもあったかのような凄惨を極めた惨憺たる有り様だった。崩落した建物が積み重なって出来た瓦礫の山、そこから立ち昇る火と黒煙と何か・・が焼け爛れた臭い。寒々しく流れる風に運ばれてくる、行方を晦ました人とそれを求める人の悲嘆の声……。
 歴史ある美しい街並みは一転して、戦火や災害に焼き払われたかのような惨劇の跡と化していた。
 慌しく消火活動と救出作業に奔走している、市中警護を任とした兵士達。だが、その絶対数が被害の規模に比べて圧倒的に足りていない。王宮に居るであろう騎士団が未だこの場に到着していなかったからだ。
 通りの隅で、青い血溜まりの中でまだ息がありビクビクと痙攣している魔物の身体に、怯えた顔で数人の兵士が引けた腰で取り囲みながら恐る恐る止めを刺している。そのあからさまな実戦経験の無さは、街を、国を護るべく存在としては余りに頼りなく、その対応のお粗末さが被害の拡大を抑える事に至らなかったのは事実の一つでもある。彼方此方から上がる悲鳴のように震える彼らの喚声に秘められたるは、嘆きよりも、今更ながらに現実を知り何も出来ない不甲斐無い自分達に向けられた、悔しさだったのかもしれない。
 率先して魔物との戦いの場に立ったミコトやアズサ、ジーニアスやヴェイン。彼らは疲弊した身体を休ませようと周囲の瓦礫に腰を下ろして、苦々しく顔を顰めたまま周囲の惨状を目に焼き付けている。回復魔法の担い手であるソニアやウィル、薬草や傷薬の道具類を抱えて右往左往するリースはこの混乱で負傷を負った怪我人の治療救護で手一杯な様子だ。よくよく周りを見てみると、兵士の姿に紛れて教会からの修道女や神官達も駆けつけており、共に回復魔法の優しい光を紡ぎだしていた。
(長い泰平に過ごす事は、平和に堕するという事は、かくも脆いものなのか……)
 右に左に流れる人の姿を眺めながら、ヒイロは他人事のようにそう思う。そして、愁嘆が篭められた琥珀の双眸を周囲に走らせた。




――その時、闘技場の内部から爆音と震動が伝わってきた。それによって瓦礫の一部が瓦解し、粉塵と土砂と悲鳴が再び巻き上がる。




「な、何じゃ?」
 警戒に声を荒立てるアズサ。納めていた剣の柄に再び手を添えて立ち上がる。
「今のは……、魔法によるものよ。多分、爆裂魔法イオ系統のものだと思う」
 ビリビリと空気を震撼させる爆音は、自然には決して起きないもの。それに気付いた魔法を知る者としてソニアは呟く。既に幾度も回復魔法を紡いでいる所為か、疲労がその表情に顕れ始めていた。
「魔法……爆心はどこじゃ?」
「……音と風の流れから察するに、闘技場の中だろうね」
 微かに揺らいだ周囲の煙を注視してヒイロ。即座に遠視技能である鷹の眼で周囲を大空から見回すも、街中での爆発ではないようだった。
「……ユリウスならイオラを使えた筈だし。今のは…彼、なのかもしれない」
「……いったい、中では何が?」
 眼を半ば伏せて顔を俯けてソニア。アリアハンの宮廷魔術師とて、件の中級爆裂魔法を扱える者はそうそういない。だがあのエルフの地下洞窟での戦いの際、確かにユリウスは使用していた。その事を思い出していた。
 ヒイロとアズサ、ソニアの会話を疲れた頭で聴きながら、ミコトは腰を下ろしていた瓦礫から立ち上がる。そして衣服についた埃を払い、右腕に装備した鉄の爪を握りなおし調節していた。
「ソニアは怪我人の手当てを。ヒイロとアズサはここで周囲を警戒をしていて。……私が中を見てくる」
「ミコト……」
「……危険じゃぞ」
「今更さ」
 一つ苦笑を零して、ミコトは颯爽と駆け出した。

「…………」
「あっ、ジーニ!?」
 黙したままヒイロ達の一連のやり取りを、何ともいえない表情で聴いていたジーニアスは、意を決したように表情を引き締めて、決然とした光を双眸にミコトを追って闘技場に向かって走り出す。その背中に、後ろから慌てて掛けられたリースの声はもはや届いていなかった。






―――青の静謐を壊す醜悪な気配が、周囲に満ちた。間違いなく、これまで斬り殺してきた魔物とは比べ物にならない程の威圧感と殺気を伴っている。
「おいおい、何だってんだよこの様は」
 この騒ぎの始まりの幕。魔物の群れが次から次へと出だしていた闇の先から、呆れを含んだ野太い声があがった。やがて、その声の主が悠然と太陽の明るみの下に歩み出てくる。
 隆々たる筋肉の鎧に覆われた大男。だが陽に照る深青の肌は間違いなく人間のそれではない。濃緑の覆面に覆われている為に表情は判らないが、それに大きく空けられた孔からギロリと周囲を見回す眼差しは一部の隙も無く、獲物を探る猛禽類の如き鋭い光で油断無く周囲に捉えていた。
 威迫の視線と激烈な存在感。それらによって肌にピリピリと刺すような感覚が齎される。これは以前、エルフの森の地下洞窟で相対した影の魔族に似て非なる気配。紛れも無くの気配。
「魔族、か」
 現れた敵を見据えたまま、少しも臆する事無く悠然と槍を下段に構え、ユリウスは無意識的に口元を歪ませた。敵を目にしただけで裡を流れる血潮が殺せ、殺せと囁き煽っている。柄を掴む手に沸々と活力が湧いた。
 槍の切先のように鋭くなった黒の視線の先。泰然と立ち構えていた大男に続いて、その横から現れた血色の鎧騎士が白砂を踏んだ。その禍々しい真紅の鎧…人間の血を貪り、染められたような姿は青と白の地に在ってその存在を痛烈に主張していた。鎧と色を同じくした大円の大楯と長剣を手に、金擦り音を立てながら歩いてくる。
「!」
 甲冑の内側は深い闇に包まれて覗く事は出来ないが、その騎士と一瞬だけ目線が合うと、その兜の下に剣呑な光が迸った気がした。
「あれだけいやがったのに、随分キレイサッパリやられたなぁ……って、おい! 小僧!?」
「ォォォォ!!」
 甲冑の嘶く金属音が青天に響く。それは騎士のあげた咆哮だった。
 大男の静止を聞かずに、手にしていた禍々しい意匠の長剣を掲げ、ユリウスに向かって疾駆する。騎士に漲っている殺気は、先程まで相手にしていた魔物とは比べ物にならない程に尋常ではなく、吐気を催してしまうような壮絶な圧力を放っていた。
 鎧の重量など感じさせず疾風の如く間合いを詰め、跳躍し上段から斬り掛かってきた血色の騎士…キラーアーマーに、ユリウスは鋼鉄の槍で迎え撃つ。
 振り下ろされた剣にユリウスは槍の鋒先をぶつけ、柄を滑らせ勢いを削ぐ事で繰り出された斬撃を完全に捌いた。そして間を置かずに即座に反撃に出る。捌いた体勢から槍を真横に大きく右に薙ぎ、素早く引き戻しては真っ直ぐに柄底の鉄刺で突きを繰り出す。更に一呼吸も吐かずに前方に強く踏み出して、円弧を描くように地面すれすれから鋒先を天に向けて真上に薙ぐ。鈴のように澄み切った音を発し、空気を引き裂いた。
「っ!」
 息を吐かせぬ程に高速で繰り出されたユリウスの三連撃を、キラーアーマーは後方に高々と跳躍して躱し、左腕の大楯で受け止め、剣の腹で弾いた。その見事なまでの回避行動をとったキラーアーマーは、着地と同時に剣を再び構え、切先を向ける。
 だが剣と槍の制空権の差に慎重を期したのか、着地の位置は一旦間合いを取って後方に下がっていた。それでも佇まいに油断は微塵も無く、こちらに隙が有れば即座に切り込んでくるだろう。
 今の激突で互いにそれが解ったのか、睨み据えたまま膠着を保つ。
 その横で、覆面の大男…デスストーカーは双眸に恫喝どうかつするかのような凄味と殺気を孕ませ、言った。
魔物こいつらを殺したのは、お前の仕業か。……ボウズ、何者だ?」
 顎で周囲の青海を指す。つい先程殲滅した魔物の群れの事を指しているのだろう。声色に怒気が滲み出ている事から、自分には持ち得ない仲間意識なるものでも持っているというのか。
 そう考えて僅かに目を細め、ユリウスは小さく呟いた。
「お前等の、……敵だ」
 抑揚無く、無表情で刃の如き鋭さを醸すユリウスは腰を低く落として槍を構え、駆け出す。それに抗してキラーアーマーも鎧を擦り鳴らして疾走し、二つの刃は真正面から激突した―――。





「ふむ……。あの新手の二人、あれは確実に魔族だな」
 白砂が円に敷き詰められた戦場の周囲を高く囲む、回廊状の観客席の一角。
 無残に破壊され尽くした座席の残滓が廃墟のように寒々しく連なる中、自らの立つ周囲に魔物の青い骸山を築き上げて、レイヴィスは澄み切った破壊の重奏が奏でられている、蒼茫の円心を見下ろしていた。
 その身に纏う、この地とは異邦の紋章が刻まれた白銀の鎧には、小さな掠り傷が幾つかある程度で返り血は少しも浴びてはおらず、その射し入る夏の陽射しを照り返し清廉な輝きを灯したままだ。外より流れる風に、青々と茂る草叢のような淡緑の髪を靡かせ、その下の双眸は灼熱の溶岩のように煌々と赤金に輝いて、冷徹に眼下の戦場を見下ろしている。
 剣を小脇に挟んで、考え込む仕草で腕を組み、指で顎を摘むように手を添えながら抑揚無く呟いた。
「となると、この騒ぎを起こしたのは連中の仕業か。まぁ、鹵獲されていたとしても野生の魔物ザコに牢から逃れるだけの知性は無いから当然、か」
 深い思案をするように目を細めるレイヴィス。その周りでは、もう決して動く事の無い骸の山が、次々と崩れ虚空に消滅していった。そんな様子を気に止める事も無く、レイヴィスは静かに顎に当てていた手をこめかみに移し、更に鋭く目を細めて眼下をうかがった。
「さて、連中を彩っている・・・・・マナは…………成程、こいつは厄介だな。連中は『偽躯魄合フュージョン』やら他のと違って、よりにもよって『堕天誓約カヴナント』で魔族化した奴等か。ならば面倒な代物・・・・・も当然持っているだろうし。やれやれ……愉しめそうだ」
 赤金よりも更にあかい瞳孔を引き絞り、口元で弧を描いて舌なめずりする。
 その時、眼下に視線を落としたままのレイヴィスの背後で、息を潜めて機を窺っていた蝙蝠男が死角から飛び掛ってきた。だがレイヴィスは振り向きもせずに、その凶爪が鎧に触れる前に流水の動きで真横に躱し、逆に隙の出来た蝙蝠男の背に刀身を叩きつけ、粉砕した。元の形が何であったのか判別が不可能な程に、肉塊と血の雨となった魔物の残骸は、水滴が石床に打ち付けるよりも鈍重で生々しい音を立てて、青々と散った。
「これまでの経過を考えるとユリウスの方が若干不利だが、あいつが“魔”相手に退く訳が無いだろうしな」
 小さく嘆息するレイヴィスは、無造作に髪を掻き回す。
「ん?」
 ふと、回廊の壁と床に反響して足音と気配が運ばれてきた。それは魔物とは異なるものだった。
 今更応援でも来たのかと、レイヴィスは億劫そうにその方向へ視線を動かした。





「……なんだよ、あれは」
 大きく緑灰の双眸を見開き、立ち竦んだまま声を震わせるミコト。
 闘技場の観客席の一角。混乱の中心地とされる場所に勢い勇んで乗り込んできたミコトは、視界に飛び込んできたものに愕然としていた。
 観客席である円周の回廊部は場外の喧騒と異なり、水を打ったように静まり返っていた。
 それが逆に嵐の去った後の惨状そのままに、この場であった惨劇の苛烈さを否応無く感じさせる。観客席だったあらゆる場所には、破壊された石壁や長椅子、肉片や布切れが散乱し、青や赤の斑模様が広がっている。紛れも無くそれは魔物と、人間のものだった。立ち昇る濃密な臭気と、内から込み上げる不快感に息が詰りそうになるも、まだ魔物が潜んでいるかも知れないから、とミコトは自らに鞭を打って警戒に構え、辺りを見回す。
 そして聞きつけ、見つけたのだ。静寂のしとねを破るように響く裂帛の金属音と、その澄み切った音色を織り成す、眼下で円の如きに広がる青海の中で戦っている者達を。
 異形たる青の返り血が既に全身を侵蝕しており、空からの眩い陽を受けては底冷えする深い氷青の光を反して煌いていた。その中で一際目立つ漆黒の髪が、異様なまでに不気味に白く照り映えて、剣戟に捲かれる風に慌しく靡く。
 そのユリウスに対するは、この騒ぎの間でも数体たおした、さまよう鎧と呼ばれる魔物と同系統の存在。人の鮮血のように真紅な鎧は、蒼茫の地にあって恐ろしく鮮烈に、禍々しく自己を主張している。
 遠巻きに見る限りユリウスは槍で、対峙している魔物は剣で。凄まじい速度で打ち合っていた。二人の側に立つもう一体の、山のような大男もまた魔物なのだろう。だが悠然と仁王立ちしたまま動く気配を微塵もさせずに、眼前の二人の戦いを傍観していた。
「あれが、『アリアハンの勇者』……」
 すぐ後ろに立っていたジーニアスも、絶句しているミコトの前方…その遥か先の青の地で戦うユリウスの姿を見止め、信じられないものを見たように愕然と瞠目して、擦れる声を零していた。




「そんな所で呆けていたら、危ないぜ」
 眼下の地を食い入るように見入っている二人の横から、惨憺たる場にそぐわない暢達な声が掛けられた。
 それに二人は慌てて振り向く。周囲に誰かが近付いて来る気配も、その足音も感じなかったからだ。現れたのはアリアハン宮廷騎士レイヴィス。いつものように、大胆不敵で穏やかな相貌で歩いてくる。
 レイヴィスは振り向いた二人の顔を見止めて、眼を細めた。
「これはミコト嬢。それに……、君は?」
「……ジーニアス=エレインです」
 言葉と視線で問われ、慌ててジーニアスは名乗る。それに刹那、レイヴィスは目を細めていたが、すぐに納得のいったような顔をして口角を持ち上げた。
「エレイン? ……成程、サイモン殿のご子息か。……それで、二人ともどうしたんだ? 逢引するにしても、こんな色気の無い場所は相応しいとは思わないがな」
 揶揄するような物言いに、ミコトは眉を顰めた。
「どうしたって、魔物がこの建物から街に溢れ出てきて……。その原因を探ろうと……」
「……流石にこれだけの規模の建造物だ。出入り口が一つという訳じゃないから、それなりに逃してしまったか。やれやれだ、どうにも面倒をかけてしまったようだな」
「…………」
 小さく肩を竦めるレイヴィスの言い方に、外で起きた数々の悲劇を思い出して少しジーニアスは眉を顰める。だがそれは直に消えた。言葉から眼前の戦士も魔物と戦っていたのだと察したからだ。
「ユリウス君と貴方のたった二人で、ここの魔物を相手にしていたんですか?」
「んー、まぁ殆どユリウスの仕事だな。俺はそこをよじ登って来た奴等を適当に掃除していただけだしな……」
 ジーニアスの問に、レイヴィスは顎で手すりとその囲い壁を指し示す。
 内外を隔てる為の鉄の手すりが無残に拉げている様子は、何故だかとても滑稽に見えて、何処か哀れみの情緒さえ誘う。
「……彼一人で、一体どれだけの数を相手に――」
「というより、あいつ一人だからこそ、多数を相手にしたんだよ」
 寧ろ自分への問のように発せられた、消え入りそうになるジーニアスの呟きを遮って、レイヴィスは抜き身の剣を持っていない方の手でグルリと周囲を指し、言う。その声調には何処か冷たいものが篭められていた。
「……それは、どういう事ですか?」
 唐突に返ってきたその言葉に碧空の双眸を細め、怪訝な面持ちになるジーニアス。隠す様子の無いそれを見てレイヴィスは失笑した。
「言葉通りさ。あいつの本来の戦闘スタイルは、魔法も武器も、自分が持ち得る最善を駆使して単独で戦い抜く事であり、それに特化している。そこに集団で連携して戦うなんて言葉…いや、意識は存在しないだろう。何せ一年前の海戦も……っと、それは今は関係無い話か」
「な……、なんだよそれは……。そんな、私達は……仲間は必要無いって言うのか!?」
 話を打ち切ったレイヴィスを訝しむ事無く、語られた言葉は隣に立つミコトを打ちのめしていた。愕然としたミコトは、苦虫を噛み潰したような渋面を浮かべ、唇を噛んでいた。
「事実をどう捉え、思うかは君らの自由だ。だが、あいつにとって回りに人間がいるのは、己の戦術を狭めなければならない状況ではあるな」
「何で、何でそんな……っ!」
 ミコトの言葉は続かなかった。信じ難い事実を聞かされて、乱れた思考に整理がつかない。哀しそうに震え切迫した声色はミコト自身の動揺の顕れだった。だがレイヴィスの冷然とした声は、そんなやりきれない震えさえも無慈悲に断つ。
「決まってるさ。『勇者』だからだ」
「!?」
「……な、に?」
 瞠目するジーニアスの横で、ミコトは大きく息を呑み込んだ。
「『勇者』とは死と困難を恐れずに突き進む者。『勇者』とは勇猛果敢に脅威の魔物を駆逐する者。『勇者』とは全て背負いながらも一人で成す気高き者……。アリアハンで抱かれている何とも愚昧としか言いようがない偶像。それは君らにも聞き覚えがあるんじゃないか?」
「っ!!」
 息が詰った。言葉を出せなかった。四肢が動かず、身体が凍ったように思えた。
「『勇者』ならばより遥か清廉なる高みへと。『勇者』ならばより光輝に充ちた地平へと。その者が邪悪の化身などに遅れをとる訳がない。その者が歪んだ生命と意志などに敗れ去る訳がない……。不可視の闇の恐怖から逃れる為に甘美な妄執に囚われる事を良しとし、ただ虚像が放つ威光を盲信する事に耽溺たんできした、何とも身勝手で傲慢な妄念だ。だが、そんなアリアハンでの魯鈍ろどんな偶像崇拝の風潮は異常ではあるが、世界の所々の国でも程度の差はあれど似たようなもの。特に、魔物の脅威というものを少なからず知っている場所では、な」
 訥々と、嘲笑うかのように大仰な口調で饒舌に綴るレイヴィスの言葉は、ジーニアスの根幹を強かに揺るがしていた。目まぐるしく思考の波が濁流に落ちる中、カザーブで対峙した時のユリウスの言葉が駆け巡る。二人の言葉が脳裡で鐘を狂打し掻き鳴らしているようで、その痛みに思わずジーニアスは俯いて掌を握り締める。余りに力が篭ったのか、震えが止まらなかった。
「『勇者』たる者、万能で在れ。『勇者』たる者、完璧で在れ……。あいつをああ・・したのは、英雄オルテガ殿の再来を。魔を打つ勇者の再臨を望んだ世界の意志でもある」
 完全に黙ってしまったジーニアスの横で、何処か郷愁さえ浮かべて空を見上げているレイヴィスの双眸に、言葉とは別の何かが秘められているのを感じミコトは不思議に思った。
「あなたは……、随分とユリウスについて詳しいんだな」
「俺は監察者。……といっても、王命だけでそれをやっている訳ではないんでな」
 どこか胡乱げに見上げてくるミコトに、レイヴィスは至極穏やかで酷薄な笑みを浮かべた。

「さて、無駄話はこれ位にして。ミコト嬢にジーニアス君。一つ頼まれてくれないかな?」
「……何を? 今はそれよりも――」
 ユリウスに加勢しなければ、とミコトが発する前にレイヴィスは遮って言う。
「さっさと逃げれば良いものを、あっちの小部屋には王が数名の兵士を連れて立て篭もっている。概ねそこら辺にいる魔物は殺したが、どこかにまだ潜んでいるかも知れない。あそこに居られたままじゃ正直な話、邪魔以外の何者でもないんだ。君等は王を闘技場外へ連れ出してくれ」
 指先でその場所を指しながらレイヴィス。呆れているような雰囲気ではあったが、そこには冷ややかさしかなく、どこか拒否を許さない口調だった。この騎士の声色から、今まで確かにそこにあった緩やかな感じが消えた為だろうか。そう思い、反駁する意思さえ封じられたミコトは、ただ静かに問い返す。
「……あなたはどうする気だ」
「なに、美味しい処をあいつに持っていかれたままじゃ癪なんでな。乱入させてもらうさ」
 何処まで本気なのかわからない、おどけた口調。だがそこには確かな力への自信が秘められていると、ミコトは感じた。
「…………わかった」
 同じように納得がいかない顔をしているジーニアスも、言葉無く頷いていた。
 この時、外の光が強すぎて、逆光に隠れたレイヴィスの表情は見る事は出来なかった。それ故に二人は、彼の双眸が赤金になっている事に気が付く事は無かった。
 今、戦場に立つ勇者。そしてこの眼前の騎士。この二人の常識を逸脱した力を思い、去りしなにミコトは自問するように小さく呟いていた。
「……アリアハンは、一体どんな国だというんだ」




 壁のように聳え立つ鋼鉄の門扉を前に瞑目していたレイヴィスは、その小さな呟きを聞き止め、立ち去るミコトの背に薄い笑みを口元に浮かべて言った。
「碌でもない国さ」
 そしてレイヴィスは開眼と同時に、戦場の内外を隔てる扉を一閃の元に切り崩した。





 切り結び、足を捌く度にバシャバシャと舞い上がる水飛沫。水本来のそれよりも透明度は低く、粘度は高いそれらは二人が織り成す暴風に呑まれ、舞い上がってはその身に染み込んでいく。剣戟の音が高くなるにつれ、舞い散る血飛沫は激しさを増し、二人の間で応酬される殺気は静かの海で渦を巻いた。
 斬り裂き、薙ぎ払い、打ち込み、突き穿ち、捌き、流し、二つの刃は交差する。
「あー、張り切ってんなぁ小僧。一対一タイマンを邪魔する無粋な趣味は無ぇし、暇だなぁ……ん?」
 眼前で殺しあっている二人の間合いに入らぬ程度に距離を空け、デスストーカーは手持ち無沙汰に巨大な三連の刃を擁する戦斧を、まるで棒切れでも扱うかのように軽々と片手で振り回し弄んでいた。
 すると、ズズズッと何か巨大な物体が地面に崩れ落ちたような物音がして、そちらを振り向く。すると、長身の騎士が剣を担いでゆっくりと歩いてきていた。
「よぅ、ユリウス。楽しそうだな。俺も混ぜてくれよ」
 余りに軽い口調で言葉は違うが、加勢する、という意思表示だ。それに顔を向けぬまま、槍を突き出し払いながらユリウスは抑揚無く返した。
「必要無い。魔族こいつらは俺が殺す」
「まぁ、そう堅い事言うなよ。お前はお前で今は手一杯、だろ?」
「…………勝手にしろ」
「ああ。そうさせてもらう」
 ユリウスの返事に間があったのは、レイヴィスの言が正しいからだ。それを認めるのが癪で、ユリウスは小さく舌打ちをしては槍を右に、左に薙いでいた。
 それにレイヴィスは一つ苦笑を零し、剣の切先をデスストーカーに向けて、臆面も無く泰然と言った。
「って事で、俺の相手は暇そうにしてるアンタでいいよな?」
「そうなるなぁボウズ。小僧は小僧で燃えているみてぇだしな。じゃ、殺ろうぜ。せいぜい愉しませてくれや」
 言葉そのものはともかく、まるで数年来の友人にでも話しているかのように気兼ねない応酬。互いの軽い口調の中からは、隠すつもりの無い殺気が滝のように溢れ出て、周囲の空気をピリピリと灼いた。
 頬を撫でる緊迫した空気の痛さに心地良さを感じたのか、レイヴィスは満足げな笑みを浮かべ、言った。
「じゃあ早速だが、オッサン。あんたの見せてくれよ」
「!!」
 言葉の終わりとほぼ同時に繰り出されて剣閃。真一文字に、残影すら浮かばない程の疾さで空を切るレイヴィスの一撃を、デスストーカーは手にした斧の腹で受け止めていた。戛然と響く金属の衝突音は、横で今も奏でられている剣戟の比ではない。それだけの力が、ただ一撃の攻守に篭められていたのだ。
 刃の交点を挟みながら、両者は互いに視線を向けた。
 赤金の双眸は好奇に満ちた光を宿している。逆に覆面の奥の光は剣呑さを増した。
 拮抗していた点をずらし、レイヴィスは即座に切り付ける。デスストーカーはそれに瞬時に対応し、肉厚の刃で剣閃を弾き返し、互いに間合いを取った。
「愉しみたいんだろ? だったら見せてくれよ。このまま殺り合ったら、確実に俺が勝つんでな」
 飄々とレイヴィスは嗤い、挑発するように大仰に肩を竦める。するとデスストーカーからは完全に笑みが消えた。そして、空腹な猛獣の如き唸り声と共に、空気を圧す力が増大した。
「テメェ……、何者だ?」
「さぁ、な? オッサンのには、どう映る?」
「とぼけやがって!」
 冷酷に余裕な笑みを浮かべるレイヴィスに、デスストーカーはその半身程もある大戦斧で横殴りにした。空気を捲いて圧力を増したその一閃を、レイヴィスは後方に下がりそれを回避する。だがデスストーカーはその類稀なる腕力で即座に切り返してきた。驚くべき速度で顔に向けて放たれた一撃を、レイヴィスは上体を捻転させ、そのばねの反動を利用して斬撃に伝える。
 爆音の如き金属の衝突音が、ビリビリを青い海面に伝わってざわめかせる。
 二人は掌の感覚が薄れるような痺れを覚えていた。だがそれでも攻撃意志は潰える事はない。
 デスストーカーは両手で大戦斧を天頂に構え、高々と跳躍して振り下ろす。
 それにレイヴィスは大地を思い切り踏み込んで、剣を振り上げて迎え撃つ。
 攻撃速度は僅かに剣の方が速かった。刃は斧の柄の根元に吸い込まれる。そこは巨大な斧刃の重量を支えている力が集中する点だった。押し付けてくる質量と圧力にレイヴィスは目を細めて腰を落とし、膝を曲げ、地を踏み締める脚に力を篭める。そうして圧し寄せる重量と衝撃に耐え切った。その結果、大戦斧は根元から折れ跳び、クルクルと弧を描いて遠くの地面に突き刺さった。
 痛恨の一撃を防がれ、間合いを取りながらデスストーカーはただの棒切れと化した柄を忌々しく投げ棄てて、憤怒に目を血走らせヌラリとレイヴィスを睨み据える。
「くそっ! テメェ、人間じゃねぇな!?」
「失敬な……。何処からどう見ても魅力的なお兄さんだろ?」
 ふぅ、と溜息を吐き、不敵に悠然と両腕を広げるレイヴィス。それにどこまでもふざけた奴だ、とデスストーカーは覆面の下で歯噛みし、怒りを募らせていた。
「ふざけろよ……」
「始めに言っただろう? このまま殺り合ったら、確実に俺が勝つってな」
「いいだろうボウズ! そんなにお望みなら見せてやるよ。見物料は、テメェの命であがなってもらうぜッ!!」
 デスストーカーは咆哮と共に手を高々と上げた。するとその先の虚空が歪み、異質な、それでいて圧倒的な圧力と質量を伴う混沌とした負陰のマナが擾乱する。
「来いやっ! 魔神の斧!!」
 小さく紅く迸る稲光を放ち、擾乱するマナの嵐流の中心が急速に黒くなり、闇が空を決壊して溢れ出してきた。それは一点に濃密に収束し形を成していく。それは神話に出てくる邪悪な魔神が振るう斧の形を成す――。

――直前に、収束しかけていた闇は一つパチンと弾け、霧散して消えた。

「何ィィ!?」
 何が起きたのか理解できていないデスストーカーは、驚愕の声を上げる。
<そこまでだよ>
 突如、二人の魔族の脳内に落ち着いた穏やかな声が響いた。
<やめるんだ。デスストーカー。キラーアーマー>
「大将っ! 今のはあんたの仕業か!? 邪魔すんなっ!」
<デスストーカー……、ぼくはそれ・・の使用を許可していないよ>
「うるせぇよ! このまま嘗められっ放しは俺の趣味じゃねえんだよっ!」
<状況が変わったんだ。今すぐ、そこから退いてくれないかな?>
「何だと!? このまま逃げろってのか! ふざけんなっ!!」
 虚空に叫び、悪態をついているデスストーカーに、彼らの念話が聞こえないユリウスとレイヴィスは何事かと目を細めている。ユリウスと対峙していたキラーアーマーも今は手を止め、しかし構えを解かぬままに空を見上げていた。
 その間もデスストーカーは罵声を吐いている。すると背後から何者かの気配がした。
<……じゃあ、強制的に連れて行くけど?>
「うおおっ!? た、大将、何時来てたんだよ……」
 脳裡に風のように届く声と共に、静かに背後に現れた姿にデスストーカーは慌てて仰け反った。
 山のような体躯の男の陰には、何時の間に紛れ込んだのか深い闇が佇んでいた。注視するとそれは深い闇色のローブを纏った人物で、深くに被られたローブからは表情を除く事は出来ない。また、微かに覗くフードの中で口元も布で覆っている為、声も正確に聞き取る事は出来ないだろう。
 突如として景色から染み出したように現れた第三者に、ユリウスとレイヴィスは瞠目していた。
<楽しんでいる場を邪魔しちゃって、本当に申し訳ないと思う。君達の憤りもわかるけど、ここはぼくの顔を立ててくれないかな?>
 穏やかに有無を言わせない言葉が脳裡に響く。それにデスストーカーは小さく肩を震わせて、そっぽ向いた。キラーアーマーはただ無言で構えを解く。どうやら闇のローブの男に従順な様子だ。
「…………ち、わーったよ。だがこの貸しは高くつくぜ?」
「……」
<ありがとう>
 闇色のローブの青年は、フードの奥で微笑んだ。

 既に戦闘態勢を解いた敵が、これからどうするのか。何となくそれを察したユリウスは冷厳に言い放つ。
「逃がすと思っているのか」
 即座に間合いを詰めて、ユリウスは槍を突き出した。それは二人の魔族の先頭に立っていた闇色のローブに包まれた身体に真っ直ぐに伸びる。だが槍がローブを貫く刹那。その直前の虚空に、より深く昏い闇が噴出する。それは急突された刃を受け止めていた。
「!!」
 槍から掌に伝わる感触は紛れも無く金属同士の激突による衝撃。それも棒のような細長い、恐らくは剣の腹だ。だが腹を突かれたにも関わらず、闇に包まれた剣はびくともせずに悠然と佇んだまま。逆に突き出した槍の柄の方が衝撃にたわみ、ユリウスの身体が押し返されてしまう始末だ。着地と共に返ってきた反動に、掌が軽く痺れている。
 渾身の一突きだった。必殺を目論んで放った一撃を容易に阻んだ闇を、ユリウスは眼を細めて凝視する。そして……凍りついた。
 槍の切先が触れた場所。その部分だけ微かに闇が払われて、その奥にある禍々しい何かが顔を覗かせていた。それは骸骨のような有機的な色彩を放ち、視界に捉えるだけで魂が奪われてしまうような醜悪な気配を醸し出していた。
 呼吸が止まったように身動き一つせずに、ユリウスは大きく目を見開いてその部位に視線を囚われている。
「!?」
 バシャリと軽快な水音がした。それに続いてドサリという重いものが崩れ落ちる音。その二つの異音の主をレイヴィスは見て、眼を疑った。
 敵を目前にしてぶきを手放し、力無くユリウスは血の海の中に膝をついていたのだ。
「おい、ユリウス?」
「…………」
 レイヴィスは新手の出現に警戒し、剣を構えたまま首を傾げてユリウスを見下ろすも、ユリウスに動く気配は無い。ただ、だらりと肩を落とし前に眼を見開いたまま。微かに開かれた唇は注視しなければ気付かない程度に震えていたのだ。戦闘中においてユリウスがそんな無防備な醜態を晒す事など考え難いが、この様子は動揺が抑えきれていないようであった。
 闇のローブの青年は、血の海に跪いたユリウスを深くに被った闇の奥から見下ろしていたが、やがてフワリとローブを翻す。そしてここで初めて肉声を発した。布で口元を覆っていた為に、その声色ははっきりと聞き取る事ができなかった。
「…………ルーラ」
 三人の魔族を取り囲むように青い地に、青白色の光が円を描き、それは瞬く間に彼らの姿を包み込んで、天空に吸い込まれるように舞い上がる。地から昇る昼の流星は瞬く間に大空の蒼穹に消え、後には茫然と血海に佇む二人だけが残されていた。





 大きく開けた蒼空から風が吹き入って来た。
 それは流星の残滓のように清涼な冷たさを伴って、青に穢れた大地を駆け抜けていく。
「やれやれ、逃げられたか」
 空に疾った光の軌跡を見上げながら、溜息を吐くレイヴィス。
(だが、あの新手とまともにやり合っていたら、どうなっていたか……)
 あの新手を取り巻いていたマナの流れは異常だ。流れる清潔な風に委ねるように刀身についた血糊を振り払い、レイヴィスは剣を肩に担ぐ。そして、逆の手の甲で額を拭った。何時の間に薄っすらと滲んでいた汗が無くなって、額に風の冷たさを感じた。
「どうやら、魔物は全て片付けたようだな。……俺はあの先を調査してくるが、ユリウス。お前はどうする?」
 静まり返った闘技場の中で、ポッカリと口を開けて闇を湛えている魔物が出だしていた先を指すレイヴィス。
 その視線を受けたユリウスは、耳鳴りがしそうな沈黙が流れる中、未だ破滅の蒼茫の地に茫然と膝を着いていた。無表情の上に疲弊による憔悴を載せ、肩で浅く疎らに息をしている。全身にこびり付いている汗と青い血が、虚空を当ても無く彷徨っている双眸の生彩の無さを助長させていた。その様子は焼ききれた銀の刃のように、張り詰めた何かが今にも壊れてしまいそうな危うさを想起させる。
「……っ!」
 突如、ユリウスはビクリと大きく肩を揺らしながら数回激しく咳き込み、口元を掌で覆った。青く染まった革掌の中に、鮮やかな紅の花弁が数枚散っていた。それを見止めてレイヴィスは目を細め、前のめりに傾きかけたユリウスの肩に手を掛け支える。
「おい! ……そろそろ限界なんじゃないか? これだけ長時間立て続けにフォースとエーテルを収束してたんだ。負担はでかいんだろ?」
「五月蝿いッ! ……お前には、関係無い」
 漸く発した言葉には覇気も無く、弱弱しささえ感じる。跳ね除けるユリウスの様子に大きく溜息を吐いたレイヴィスは、鎧の左胸の部分を親指でトントンと小突きながら見下ろして言う。
「どう足掻こうが、お前の特異性・・・は有限なんだ。それが存在のって奴だからな。……己の限界を見誤るなよ」
「…………黙れ」
 下された言葉にユリウスは表情を酷く不快そうに歪め、大きく舌打ちした。そして肩に置かれた手を乱暴に払い、落としていた槍を拾い支えにしてフラリと立ち上がる。ゆっくりと一歩一歩、青に溶けた屍を踏み締めるように、レイヴィスが開けた場内外を隔てる扉へ向かって歩み始めた。
「まったく……。愛想のない奴だ」
 惨憺たる場に似つかなく暢達に溜息を吐き、行き場の無くなった掌をヒラヒラと虚空に振りながらレイヴィスは肩を竦め、その去り往く後姿を見眺めていた。
 その赤金の双眸は、陽を反して暮れる夕焼けの空の色を湛えていた。それは確かな憐憫の光だった。






 闘技場の正門前は、未だに慌しく人が行き、喧騒に満ち溢れていた。
 混乱の極みであった場に、到着していた騎士団が陣頭で指揮を執って市民の救出と保護に走り回っている。訓練された確かな指揮系統の下で、的確に迅速にそれぞれの役割を果していた。
 兵士騎士達の尽力のおかげで火事になっていた建物の殆どは消火され、今は寒々しく黒煙が立ち昇っている破壊の残滓だけが悄然と佇んでいる。大通りの脇にぽつぽつと分厚い布を張っただけの即席の天幕からは、教会の神官、修道女による怪我人の治療の光が絶えず漏れ出しており、外の地面に幾つも無造作に広げられた布の下には、もう目を覚ます事の無い人々が永遠の眠りに就いているのだろう。そんな彼らの傍らに力無く座り込み、嘆きの声を寒空の下で零し続けている。
 さながら戦争災害に遭い、路頭に迷った難民のような暗い顔付き人々が、備えられた角灯の光に照らされている。誰しもの表情には悲しみの陰が載り、暖かな角灯の光が返って彼らの受けた傷痕の深さを物語っていた。
 そこにはもう、街を覆っていた平和の帳など、影も形も残されてはいなかった。

 魔物の体当たりにでも在ったのか幾つか連なって倒れている簇柱と、拉げている観音開きの鉄の大扉を擁する回廊を抜け、西に向けて傾き始めた空の下に出たユリウス。全身のいたるところを人ではない者の返り血の青に染め、それを浴びている表情は生彩が無く、目の焦点も何処か虚ろだ。
 ゆっくりと、引き剥がされた石畳の上を歩きながら前に向かう。一歩足を踏み出す度に、ポタリポタリと外套の裾や手にした刃から滴り落ちる青が石畳に大きく名残を落とし、その厭に大きく響く零落音が愁嘆の空に響き渡る。
 無感情に、利き手に武器を握ったまま淡々とユリウスが歩を進めていると、周囲を支配していた喧騒が唐突に鎮まった。その中でパチパチと建物を焼く残り火と、廃墟を流れる風の音だけがはっきりと聞こえる。
 通りを右に左に奔走し、慌しく声を荒げていた騎士兵士達、悲叫し、悲嘆に呻き声をあげるだけの市民達。その場にひしめいていた誰しもが声と息を呑んで、静かに現れたおどろおどろしい格好のユリウスに目を奪われていたのだ。
「あ、ユリウス君……」
「……ぁ」
 その中で聞き覚えがある、厭に良く通る声が聞こえた。視線をそちらに移してみると案の定、思考と違い無い声の主…ジーニアスは呆然と立ち尽くしてこちらを見ていた。
「…………」
 無言のまま見返す、全身に青い返り血を浴びたユリウスに対して、ジーニアスは呪縛に捕われたかのように眼を外す事も身動き一つとる事も出来ずに立ち竦んでいた。その背後で、怪我人の治療をしていたソニアが恐怖を湛えた弱弱しい表情を浮かべて見つめてくる。そんな彼女が小さく零してしまった嗚咽が、酷く遠くから発せられたもののように聞こえた。
 ユリウスは二人の真正面で足を止め、真っ向から対峙する。そして、ソニアとジーニアス…二人だけを揺らぎ無い視界に捉え、他には聞こえない程度の声量で呟く。
「…………俺に出来るのは、殺しだけだ」
 淡々と、冷然と。一切の感情は無く、ただの事実を何の婉曲も比喩も用いずに告げる。そして、大きく眼を見開いた二人の返事を待つ事無くユリウスは踵を返す。その無表情で生彩が無い故に禍々しく映る様相から、自然と人の波が二つに避けて開いた路を通り、闘技場を後にした。

 天幕の周りに犇いていた、恐れ慄く野次馬達。激務の疲労を色濃く顕していた、青ざめる兵士達。慈悲に満ちた笑顔を浮かべていた、悲鳴を上げる修道女達。大通りに出来た人垣は、そこを泰然と往く異質な青い血に塗れたユリウスを、まるで化物や恐ろしい物…魔物そのものを見るような目で見ていた。その誰もが恐怖を双眸に湛えてユリウスを見つめていた。
 地に靜列する動かぬ骸達。その中の一つ、既に物言わぬ母親にしがみ付いている泣き止まぬ子供。その子供を宥めるように頭を撫でている、ジーニアスの仲間である赤毛の魔法使いの少女。刹那、その二人と眼があった。
「ひっ……!」
 怯えた眸に震える声で小さく後ずさる赤毛の少女。黒の三角帽子がその反動でハラリと落ちた。
「あ、あのお兄ちゃん、恐いよぉ!」
 少女の腕に縋り付いて、その子供が甲高い泣き声を響かせた。
 怯え泣き叫ぶそれを皮切りに、通りを埋めていた人々は明らかな恐怖と忌諱を篭めた視線をこちらに向けてくる。それは自分達のやり場の無い幾多の激憤と、身勝手な悲愴を練り混ぜて陰鬱な雰囲気にあった場に狂々と咲き乱れた。



(……どうでもいい)
 周囲に沸いた流れ往く感情の嵐を横目に、そう思う。
 勇者という者は人々の為に、人々を守るという崇高な使命の元にある、とアリアハンの誰かが言っていた気がする。だがいかに清廉な大儀があれど、それに関係の無い人間からしてみればこの旅路は、血潮に手を穢す殺戮に過ぎない。
 その結果、向けられる視線に載せられるのは、先程まで異形の魔物に向けられていたそれと同じ。いや、魔物以上の化物に対して浮かべるような畏れと恐れ。
 普通に考えれば何とも報われない話だと思うも、結局のところ自分にとってはどうでもいい瑣末事だ。
 自分は自分の目的の為にこの路を進んでいるに過ぎない。決して見ず知らずの他人の為などではない。
 その過程で立ち塞がる敵を殺し、屠り、斃し、滅ぼす。この殺戮の路の果てに至る場所など、ただの虚無であり、終焉だ。その狭き確かな路に、他の意思が入る余地など始めから無いのだ。
 だが既に自分にとって、それは悲観するものでもない。
 光さえ求めようと足掻かなければ、闇は静かで心地良い。生に希望さえ抱かなければ、死など怯えるに値しない。絶望など、相反する希望を抱くからこそ生まれるのだ。ならば、始めから何も抱かなければ、何一つ自分の中に生まれるものも無い。亡くすものも無い。
 今まで在った中で出た結論。他に何かを求めなければ、己は何一つ変わらない。そして、それを感じる己の心というものを絶殺し、無に帰してしまえばもう何も感じない。
 それが自分の在り方。それが俺の――。
(剱の、聖隷……)



 漆黒の眸には余人など映してはおらず、ただ一つの、目の前に伸びる黒い路しか捉えてはいなかった。




 風に吹かれたのか、遠く教会の鐘楼が大通りに清浄に響き渡っていた。それはおどろおどろしく広がる惨状の中に涼やかな安らぎを広げていくが、そこに在るただ一人の少年には、少しの安寧も齎す事は無かった。




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