――――異伝一
      第一話 背負いし者







 雲一つ浮かばない、透る蒼穹の色が果てし無く続いている空の回廊を、迷う事無く太陽はただ天頂への路を往く。虚空の海に投げ出されたように、ただポツンと清青の中に在り燦々と輝く力強い白き光には、地上に在るものを分け隔てなく照らし、迷わぬように道先を示す寛大さが秘められていた。




 カザーブ村の西方、天を支えると言う四柱の一。古代遺跡シャンパーニの塔に至るまでの広大な草原地帯。
 嘗てこの地には、肥沃な地と豊潤な天の恩恵を受けた一身に受けた大穀倉地帯であった。農業大国であるロマリアと言う国がその名で世界に知られるようになったのは、国土全域で農業が盛んな中にあって、この地方の存在に寄る処が大きい。
 実りに満ちた広大な魅惑の地を巡って、うちつ国でその領有を翳しては骨肉の争いが起こった時代があった。
 つ国の侵略行為に抗すべく、最前の防衛線として惨憺たる戦火渦巻く中心にある時代もあった。
 その都度建立された城郭も、焼き払われた平原も、負った傷痕の総ては連綿と流れる時によって癒され、やがてはその痕跡の有無を疑ってしまう程に、何事も無かったかのよう在るがままに回帰させ、遠い時間の彼方に葬り去っていた。

 常に時代によって行く先を深い霧中に彷徨わせてきたこの地帯も、今となってはその盛衰の影も遺さない。
 天変地異と共にこの世界に現れ出た魔物、それに絶望し狂奔した賊徒。人の世を乱す権化であるそれらに向かう希望を齎す光達。
 それらの衝突は大地に怨と血潮を撒き散らす。
 血を血で洗った結末、この地帯を行く者の影はすっかりその息を潜めてしまった。
 今は、何の変化も無い翆緑の草原がただ微かな潮を含む風に悠然と吹かれながら、穏かな程に惨憺と広がっている……。






 真夏の風と陽が躍るその草原地帯を、北東に向かって往く四つの人影が在った。




 涼やかな潮風が、太陽の光を浴びて煌く金髪を梳いて行く。眩しい光に透けるそれは、太陽をかえして光る空の果てに浮かぶ月のように、風に靡く度その灯火を宿しては消える。
 鼻腔をくすぐる風を齎す海からはかなり離れた丘陵に立っているのだが、遮る立ち木が周囲の草原地帯には存在しない為に、吹き抜ける風は何時までも微かな潮の香りを漂わせていた。
「あー、空気が美味しい。天気も凄く良いし、こんな日はのんびりしたいなぁ……」
 金髪の青年は蒼穹の天を仰ぎながら、感嘆に呟いていた。視界一面に広がる青のように澄んだ碧空の双眸は柔らかく細められ、それが青年の優しげな風貌と穏かな気質を彷彿させる。
 雲ひとつ見えない快晴の空。見眺めていると、遥か遠くにまで続いているような深淵の蒼穹に意識が吸い込まれそうになる。眩く輝く太陽の光を浴びながら大きく背伸びをすると、長い時間歩いていた事によって強張った筋肉が張り詰めたように均等に伸びる。その際に、吸い込んだ新鮮な空気と張り緩む全身の虚脱感に意識が空に溶けてしまうような錯覚に陥った。
 これまでの旅路で溜まった疲れもあるのだろう。このまま何も考えずに周囲に生い茂っている草叢に背中から倒れこんだらどんなに気持ちが良いだろうか、と朗らかな誘惑に負けそうになるも、最後まで自我の大地に着いていた意識に鞭打ってそれに耐え、肺腑に染み込んだ空気を吐き出す。すると急に背中に背負った確かな力を秘めた剣の重みが双肩に圧し掛かってきて、それが今自分の在るべき状況を思い出させた。

 今日という日は朝からずっと歩き詰めだったから、自分の予想していたよりも疲労が身体の中に蓄積されていた。心地良い陽射しと温かな風は甘美な薫香となり、疲れた身体に否応無く睡魔を誘う。それに持てる意識を総動員させて抗し、大きく頭を振って払った。靡く黄金の髪の軌跡をなぞるように汗の珠が空気に飛散しては宙に消えた。
「なーに、呑気な事言ってんのよ!」
 呆れたような、怒っているような調子の高い声が後ろから掛けられる。その鐘を鳴らしたように高く響く声に振り返ると、少し後ろを歩いていた赤毛の少女は被っている黒い三角帽子を大きく上下させて、乱れた呼吸を正す為に深呼吸をしていた。
 何度も少女は大きく息を吸っては吐き出し、呼吸を整えながら深く被っていた三角帽子を脱ぎ去る。その下から現れた、炎が燃えるように赤い髪の毛が、自由に開放されて風にサラサラと流れる。肩口に切り揃えられた短めの赤髪。汗によって額や頬、首筋に張り付いていたそれを除いていると、新鮮な風に晒される事で拭った場所に撫でられたようなくすぐったい感覚が沸き上がった。それに思わず相好を崩しながら少女が顔を上げると、その際に彼女の深い赤の視線が自分と重なった。
 一つ金髪の青年が微笑を顔に浮かべると、その途端に少女の緩んでいた双眸の光は消え、変わって剣呑な光を載せた眸でこちらを睨んでくる。照れ隠しなのか予想以上に不機嫌そうなそれに苦笑しながら、金髪の青年はその少女のさらに後ろを歩いていた黒髪の青年に視線を移した。
「あとどれ位?」
 黒髪の青年は彫りの深い精悍な顔立ちをしていた。スラリと通る鼻梁を支える眼光は鋭く、艶やかな光を陽に反す黒髪を総て後ろに流して一括りにしている。一見して優男な印象を覚える容姿ではあるが、男の纏う刃のように鋭い凛然とした雰囲気はそれを許さない。
 自分よりも頭一つは高いであろう長身は、身に纏っている格式ある礼装のような緋色の武闘着によって更に高く見え、服の外からでも見て取れる程に鍛え上げた肉体から、決して痩身では無いという事が良く判る。
 思案するように顎に手を当てていた武闘家の青年は、醸す雰囲気と違わない低く落ち着いた声色で答えた。
「そうだな……順当にこのペースで進めるのなら、明日の昼過ぎくらいには着けるだろうな」
「そう。じゃあ、もうすぐか」
 金髪の青年は、期待した通りの答えを受けて少年のように朗らかに笑う。それにすぐさま、ようやく呼吸が落ち着いていた赤毛の少女が素っ頓狂な叫び声を上げた。
「どこがッ!? 魔物が出ないのはいいんだけど、ここ四日間ほとんどずっと歩き詰めなんだよ! ここまで村も家も、何も無いなんて聞いてないよっ!!」
「はいはい。そうやってがなっていると余計に体力を使うぞ。ただでさえ、長く船旅が続いた所為で体力が落ちているだから」
 噛み付くような勢いで喚いている少女の頭を撫でながら、金髪の青年は至極冷静に宥めていた。いつもの事だといわんばかりに慣れた様子のその様は、仲の良い兄妹のようにも見えなくない。
 だが、やはり年端もいかない少女にこれだけの距離を踏破させるのは肉体的にも、精神的にも堪えるものがあるのだろう。そう思い、武闘家の男は律儀に頭を下げて赤毛の少女に謝罪を述べる。
「悪いな。俺が瞬間移動魔法ルーラを使えれば良かったんだがな」
 それに恐縮したのは少女ではなく、その少女を宥めていた金髪の青年の方だった。
「そんな事無いさ。こうやって道がわかるだけでも、ありがたい」
「私はかの地へは赴いた事はありませんので……」
 これまで黙って成り行きを見守っていたもう一人の仲間…空色の長髪を背中に、優美に流している青年が済まなそうに苦笑を浮かべている。その端麗というに相応しい整えられた面、その額には賢者の証たる紅玉をあしらった金のサークレットが陽を反しながら存在を主張していた。吹き抜ける風に自身の長髪と品の良い重厚な蒼の外套を靡かせて佇む様子は、まるで何処かの王侯貴族であるかのように慎んだ気品に満ちている。その表情は至って平静で疲れの色を載せていない。ただ困ったように眉を寄せて、腕を組んでいた。
 そんな二人の青年を見て、金髪の青年…ジーニアスは大袈裟に両手を顔の前で横に振った。
「ヴェインもウィルも気にしないでくれ。リースもいい加減、わがままを言うのはやめるんだ」
「……だってぇ」
 咎められて小さく唇を尖らせるリースと呼ばれた赤毛の少女。不満そうに頬を膨らませている様子は可愛らしくもあるのだが、ここで甘い顔をするのは状況的にかんばしくないと判断して、ジーニアスは続ける。
「もうすぐ君の父さんにも会えるんだぞ。そう言って張り切ってたのは、君じゃないか。あともう少しの辛抱だから、頑張れよ」
「……はぁい」
 ジーニアスの真剣な表情に、これ以上は本気で怒らせかねないと悟って、大きく項垂れながらリースは不服を溜息に惜しみなく注ぎ込んで吐き出していた。




「! 皆、構えろ。魔物だ」
 立ち止まってほんの一息吐いていた時、周囲の気配に異質を察知したのは、気を読む事に長けた武闘家ヴェイン。油断無い表情で鋭く注意を喚起する。
「え?」
「ホントだ」
 それにつられてジーニアスとリースは、ヴェインが睨んでいる方向へと視線を動かす。まだ距離はあるが、確かに視界の先には自然とは異形の影がある。それら醜悪な殺気を撒き散らす魔物がこちらに敵意を放っていた。
 うなじが逆立つようなそれを感じ取ったジーニアスは、自然と右手ききてを背中の剣の柄に添える。柄に触れると、確かな力が宿る刃の鼓動が熱となって革製の手袋を越えて感じられた。その手に馴染んだ感触に気を引き締めながら、ジーニアスは一気に剣を抜き去った。
 玲瓏よりも鋭利な音と共に顕になった刀身は、降り頻しきる太陽の光を浴びて、輝く。燃え盛る炎をそのまま刃の形にしたような刀身の剣を構え、ジワジワとその差を詰めてきている魔物達を見据えた。
 先頭に立つジーニアスの抜剣に倣って、ヴェインは背負っていた荷物を地面に置き、打撃の威力を高める為の鋼鉄製の武器…パワーナックルを両の拳に装備する。戦う気を高める為に一つ両拳を打ち付けると、硬質な金属がぶつかり合う甲高い音が周囲に響き渡り、気が引き締まる。
 リースも緊張に顔を僅かに強張らせながらも両手で杖をギュッと握り締め、魔法使いの本分である後方支援に徹する為に二人の後ろに下がり、場の変遷を固唾を呑みながら見極める。
 緊迫に染まりつつある周囲の空気とは完全に一線を画した様子で佇んでいたウィルは、酷く落ち着いた眼差しで先に犇く魔物達を眺め、言った。
「たいした数ではありませんね。ポイズントードと軍隊蟹ですか……ギラ系の魔法で抗するのがよろしいかと」
 言いながら前のジーニアスの背中に視線を送る。何時の間にか賢者たる身の者だけが手にする事が許された杖を構えており、既に臨戦体勢に入っている。
 三様の視線を背中に感じながら、ジーニアスは瞑目した。



 敵の趨勢すうせいは見えている。打開の案も示された。後は、自分が決めるだけ。
 こちらの状況、敵の状勢。自分達の持ちうるあらゆる術を頭の中で巡らせて、そこから最善を導き出す。
 誰も欠く事無く勝つ為の算段を。誰もが生き抜く為の行動を。
 自分がそれを指し示す。それが自分の役割なのだから。



 刹那、空気が鋼鉄の塊のような重さを伴って双肩に圧し掛かってきた。だが、手の中の剣から熱い鼓動を感じる限り、それに屈する事は無い。
 ジーニアスは開眼し、微塵も淀みない声で発した。
「……よし! ウィルとリースは攻撃魔法で先制してくれ。その間に僕とヴェインで一気に詰めよう。僕がポイズントードの相手をするから、ヴェインは軍隊蟹を頼むよ」
「はーい」
「承知した」
「了解です」
 一人の少女と二人の青年は、特に異論を挟む事も無くただ頷く。それは偏に絶対の、信頼の顕れだった。
「いくよっ、皆!!」
 気勢を篭めた叫びと共に、ジーニアスとヴェインは敵である魔物の群れに向かって疾駆した。




 前線に駆けて行く二人の背中を見止めつつ、ウィルは賢者の杖を的とした魔物に向ける。翳した杖の先端が陽炎のように揺らいだかと思うと、瞬く間にそこには淡い光が収束をはじめていた。
「では――」
「あー待って待って! ウィル、先ずはあたしにやらせて。教えてもらっていた魔法が、漸く容になってきたの。だから見ていて!」
 早口で捲くし立てているが、その表情は真剣なものである。リースのその表情を見てウィルは杖を下ろした。仮に下手をうったところで、あの程度の魔物達に前線の二人が遅れをとる筈が無い。そう確信してウィルは先手をリースに譲る事にした。
「……解りましたよリース」
「うん、ありがとっ!」
 顔を輝かせてリースは体全体で頷いた。
 一つ息を吐いてから双眸を伏せ、精神を集中する。
 両手で構えた杖に意識を重ねて、裡に秘められた魔力エーテルを収束させる。見る見るうちに、杖の一点には光が顕れはじめ、それらは小さな流れを作り、やがて渦を巻く。
 集中したままのリースは瞑目したまま、視界に捉えるまでも無くその様子を感じ、形を与えるべく紡いだ。
「在りしものに潜むよ、鼓動刻みて萌芽せよ。赤き閃光よ、薙ぎ払え! ギラ!!」
 発せられた呪文と共に渦を巻いていた光の筋は一つの球となり、そこから幾筋もの赤い閃光が空気を、草原の上を疾った。
 光の束は先駆しているジーニアスやヴェインの傍らを瞬く間に通り過ぎ、標的となっているポイズントード達に向かって一直線に伸び、その身体に吸い込まれ貫く。その際の衝撃でポイズントード達は後方へと吹き飛び、更に貫かれた部位から広がる尋常ではない熱の苦痛に、奇声を上げながら草原をのた打ち回った。
「ギラ!!」
 もう一声、その呪文が響き渡った。だが今度は弾みの有る少女のそれではない、落ち着いた青年の声。少女が紡いだそれよりも赤く眩く力強い光の奔流は、ポイズントードの傍らでその様子に狼狽している軍隊蟹の群れを灼き、同じ徒を歩ませた。
 その間にジーニアスとヴェインは間合いを詰め、地面に転がって、もはや襲撃に抗する事もできずにいる魔物の群れに追撃を仕掛けていく。ジーニアスは紅蓮の刀身を閃かせてはポイズントード達を次々と切り伏せ、ヴェインは剛拳で軍隊蟹を堅固な甲羅ごと打ち砕いていった。




 戦闘を終え、仲間達の元へ歩み戻りながらジーニアスは背の鞘に剣を収める。その時、無邪気なリースの声が風に乗って耳に捉えられた。
「どうだった、ウィル?」
 どうやら先程の魔法の出来を聞いているようだ。そこでジーニアスは思った事を素直に口にした。
「さっきのはギラ? ……の割りには随分と熱波の余韻は感じなかったなぁ」
「ジーニはうるさいっ! 黙っててよ……」
 ジーニアスの言に目くじらを立てるリースに苦笑を零しつつ、ウィルは丁寧に返した。
「どうやら使いこなせるようになったようですね。威力に欠けるのはまだ仕方がありません。それはこれから高められるようになれば良いだけの事。今の魔法構築の過程は完璧でしたよ」
 それに見る間に表情を綻ばせて喜ぶリース。
「やったぁ! 結構練習したんだから。……ま、でもジェシカ程じゃないんだけどね」
 喜んでいたのも束の間。一転して今度は沈んだように表情を暗くしている様子に半ば呆れながらジーニアスは、リースの肩に手を置いた。
「……魔法使いの君がジェシカに対抗してどうするんだよ。あいつは僧侶だぞ。……それに母さんに徹底的に魔法を仕込まれているから」
「あたしだってそうよ。……あたし、頑張るよ。ジェシカには負けない! だからジーニも頑張んなさい!!」
「いや、妹に対抗しても。人には向き不向きってものがあってね……」
 決意を胸に光を帯びたリースの眸を受けて、困ったように頬を掻きながらジーニアスは空を見上げる。
 今は遠い自分達の本拠地にいる、この空と同じような透き通った色の髪と眼をした自分の妹。魔法の才においては、自分はどうにも妹には劣っていると言う事はとうの昔に知れた事だったから悔しいと言う感情は沸かなかったが、何となく気分が曇るように感じるのは、兄として妹の手本になってやる事が出来ない、兄の不甲斐無さというか、申し訳なさだろうか。
 妹は仲間であるリースと同じように、ウィルと同じ賢者の身である母に師事しているのだから、そんな事を考えるのは傲然と言えるのかもしれないが、やはりたった一人の兄としては何とも複雑な心境だった。
 そんな事を脳裡に巡らせていると、自然と無意識に溜息が口腔を衝いて零れ出ていた。
 その呆けたような様子を見て、リースは怒鳴る。
「だぁから、ジーニはいつもアニキにのんびり屋とか呑気者とか言われるんだよっ!」
「そう言われてもなぁ……」
「そんな処がそうだって言ってんのっ!」
 流石に緊張の中での戦闘があった後で、耳元で怒鳴られるのは精神的に堪える。ジーニアスは困ったように静観していたウィルとヴェインの方に視線を送った。
「はぁ……、二人も何か言ってやってくれよ」
「大丈夫ですよリース。確かにジーニアスは呑気者ではありますけど、怠け者ではありません。おっちょこちょいでもなければ、うっかり者でもないですし、何より一匹狼では無いので安心してこのパーティのリーダーを任せられます」
「……ウィル」
 求めに応じて柔らかにな微笑みながら綴るウィルの言葉に、両肩と共にガックリと項垂れるジーニアス。それを横目にしたヴェインは真顔で冷静に呟いた。
「…………止めを刺してどうする」




 戦闘が丁度良い一区切りとなったのか、彼ら四人はその場で少し休憩を取る事にした。
 まだ日は高く、吹き抜ける風は暖かい。
 長く船旅が続いていた所為か、踏み締める大地の感触は何時まで経っても新鮮に、それでいて心の底からの安堵感を齎す。ジーニアスは荷物を地面に下ろして、それに腰掛けながら革の水筒に口をつける。日に日に暑くなる季節故に中の水は些か温くはあったが、身体が水分を欲していた為に酷く満たされた気分になった。
 周りを見ると、頼もしい仲間達が同じように寛いでいる。とはいってもやはりここは野であって、手放しの安息に浸る訳にもいかず、武装を解く事は無かったが。
 ヴェインはいつものようにただ瞑目して、黙ったまま時の流れに身を委ねている。寡黙と言う性質ではないが、危険が降りかかる可能性にある場所において、彼は決して気を緩め油断する事はない。例えそれが休憩中、野営中であってもそうだ。そんな彼の存在こそがこの旅路においての安全を支えているので、感謝は絶える事はない。
 先程まで疲れたとか言い散らしていたリースは、主張していた筈の疲労をどこかに吹き飛ばしたように溌剌と、隣に座って書物に目を通しているウィルに何かをせがんでいた。
「ねぇウィル! もっと凄い魔法教えてよ。上級の派手で強いヤツを……」
 どうやら魔法の講釈をせがんでいるようだった。それに対しウィルは読んでいた臙脂色の書物を閉じ、諭すように何処か超然とした雰囲気の眼差しでリースを見据えた。
「リース。魔法を極めるのに…いえ、何かを極めるのに近道なんてありませよ。何事も基礎からこつこつと、地道に努力する過程が大事なのです」
「うー、そう言ったって……あたしは早く一人前になりたいの!」
「人と言うものは定められた器になるべく、定められた時を成長するものです。背伸びはその時を惑わさせる。焦ってはいけませんよ」
 不満そうに唇を尖らせながらリースは尚も食い下がるも、やはり賢者という身にあるウィルの整然とした言葉には敵わない。子供と大人という差も有るのだろうが、ウィルの言葉の一つ一つは確かな重みと説得力が篭められている事を、そのやり取りを他人事のように聞いていたジーニアスは感じていた。
 それに妙な共感を覚えたジーニアスも便乗してリースに顔を向けた。
「そうだね。君はまだ子供なんだからさ、ゆっくり学べば良いじゃないか」
「四つしか変わらないのに子供扱いするな!」
「はいはい。子供と言われてそうやって噛み付いて来る内は、まだまだ子供だよ」
「!」
 容赦の無いジーニアスの言葉にリースは目を大きく見開いた。意識しているのか無意識でなのか、不機嫌に口腔に空気を溜めて頬を膨らませている様は、やはり不貞腐れている子供のそれだった。
 ウィルの言葉は渋々ではあったが聞いていたリースも、やはりというか、付き合いが長いジーニアスに対しては激しい感情を顕にするようであった。
(やれやれ……)
 パーティを組んで数ヶ月。それぞれの人格と行動の予測が朧気ながら判るようになっていたヴェインは、次のリースの行動を見越して、その流れを断つ為に立ち上がる。
「さて、そろそろ行くか。日が落ちる前に、もう少し先には進んでおきたいからな」
「あ、うん。わかったよヴェイン。ほらリースも、いつまでも膨れてないで。…………全く、本当に子供だな」
「っ!!」
 付き合いが長いだけにジーニアスも遠慮はしない。今度は顔を怒りの余りに紅潮させるリースを見ながらジーニアスは苦笑を浮かべた。今までも、これからも妹のように思っている彼女の宥め方もまた、付き合いの長さから熟知している。その中で思いつく最良の一手を繰り出す事にした。
「カザーブに行けば、君の父さんがいるんだ。早く会いたいだろう?」
「……うん。……ゼノにいも元気かなぁ」
 その効果は覿面てきめんだった。瞬く間に怒りが空気に霧散して、まだ見ぬ目的地である遥かな東の空を見つめて呟いていた。
 それがまた何とも子供らしいのだが、流石にそれを言葉にする事は無くジーニアスはリースの頭にポンッと手を乗せて言った。
「大丈夫。“飛影”には“流星ぼくたち”の中で五本の指に数えられる内の、二人がいるんだからね」
「……そだね」
 素直に頷くリースを見ながら、ウィルとヴェインは荷物を背負い、薄く笑みを浮かべ合っていた。




 再び東へ向かって歩き出す四人。
 西の空に沈み始めた太陽の光を背負い、生じた影がその道を示すように東へと伸び、草叢の上を躍っていた。






 およそ十年前に、アリアハン王国政府が世界に対して発表した『勇者を継ぐ者』。その人物がロマリア王国を訪れたという噂は、その地に暮らす民達の間で密やかに囁かれ始めていた。
『魔王』という真実と単語は伏せられた“魔物討伐”の最先鋒たるその人物の噂は、水面に広がる波紋のように静かにだが着実に浸透していく。それは王都から遠く離れたカザーブの地にあっても同様である。
 いや、寧ろ背丈の高い頑丈な城壁あんぜんに護られた危機感の薄い王都に比べここ数年、常に絶えず脅威と背中合わせに生き、その意識を持ち続けてきたこの村の民達の方がその情報に聡い。
 だがそんな彼らにとっては姿形も伝わらないような漠然とした『勇者』よりも、彼らの前に確かに立ち、燻っていた勇気と希望を奮い立たせくれる存在がある。盗賊団“飛影”…首領カンダタ率いるその集団があってこそ、今この村は存続し成り立っている事を誰もが理解していた。それだけに、彼らにとっても『勇者』という存在は手の届かない所にある迷妄夢想のような者でしかなかったのだった。




 その『アリアハンの勇者』が北限のノアニール村に向かって八日の後。
 盗賊団“飛影”がその活動拠点として利用している場所…代々この地方を総括しているリンドブルム家の屋敷の一室に、首領たるカンダタと、その相談役のゼノスはいた。
 二人は何処かの坑道の見取り図を睨みながら、難しい表情で話し込んでいた。
「足りないな」
「ああ、どう考えても足りん」
 溜息を吐きながらのゼノスの言に、カンダタは言い切る。
 命を掛けたやり取りである以上、虚栄など意味を為さない。ただ事実を認識してそれを真摯に受け止めなければ戦場では生き残れない事は、これまでの人生の中で嫌と言うほどに理解してきた教訓だ。
 故に、こちらの戦力不足に対して希望的見地などは用いずに、カンダタはハッキリと断言する。
「最低でもあと一班……四人、か」
「だな。それで一応探りを入れられた範囲での出入口の数は総て抑えられる。四人一組を一班にして、それぞれの入口から突入させるのまでは良いんだがな……」
 見取り図の通路を指先でなぞりながらゼノス。
 羊皮紙に描かれた坑道の見取り図の岩屋は所々繋がって、または途絶している。幾つもの入口から奥深くにまで伸びている無数の筋道はまるで樹のように枝分かれしており、上から総じて見眺めていると、その多岐に広がる様から否応無しに討ち入るこちらの不利を感じざるをえない。
「問題はどの班が当たりを引くか、だ。こういう敵側の拠点しろを責める際、敵が篭城の構えを取るなら、どうしても責める側は退路を確保しなきゃならんからな。でばければ、背後を取られて前後で挟み撃ちになる可能性もある」
「だからこそ迷宮脱出魔法リレミトを使える奴等は優先して分散しただろう。後は“飛影”、村の自警団の中から突破力のある奴等で編成すればいいんだがな……」
 所々に存在している分散した坑道が合流する地点には、朱で印を付けられている。広がる乳白色の紙面上でそこは数える程度のものでしかなかったが、それだけに異質さは目を惹き、警戒を思わせる。
「敵側の戦力…個別の能力はどうなんだ?」
「個人戦力で言ったら間違いなく俺等が上だ。ただ敵は数が圧倒的に多い。それに連中が背水の気構えであるなら、ヤケになって何でも有り、って事も有り得る」
「理想的な勝利の形と言うのは、こちらの被害は無く敵の完全な殲滅だからな」
「…………むずかしいぜ、それ」
「だが、その為に智恵を絞るのは必要な事だろう」
 いわおのような両腕には包帯が幾重にも巻かれている。それは先日の『勇者』との死闘の時に負った傷痕だ。痛みこそもう無いが完治にはもう二、三日はかかる。その豪腕を組んで、難しい顔で唸るカンダタ。
 ふと、ゼノスの傍らで卓に立て掛けてあった雷神の剣の柄が視界に止まる。
「お前、坑道の中ではそれ・・は使えないんだろう?」
「まぁな。坑道の総てが繋がって、尚且つ地盤が安定しているんなら、雷神の剣コレを開放してブッ放すだけで話は終るんだがな」
「…………敵どころか味方と周囲の迷惑だから止めろよ」
 自分の愛剣の能力を誰よりも知っているゼノスは呑気な口調で呟くが、それ故に誇張の無い事実は重く受け止められる。
「んな事ぐらいわかってるさ。屋内では使えないのは痛いが、仲間に被害を与えるよりはマシだしな。……あー、ヒイロがいたら良い案出してくれるんだけどなぁ」
「今ここにいない者を頼ってどうする? あいつにはあいつの事情がある」
「わかってるさ。言ってみただけだ」
 ゼノスは頭の後ろで両手を組んで、椅子の背凭れに体重を掛けた。ギシッと言う音と共に身体を後ろに寄りかからせ、窓から部屋に射し言っていた日に当たる。肌にヒリヒリとした感覚を覚えるのは夏の、それも高山地帯特有の気候の為だろう。
 一分程その鮮烈な陽光を浴びていたゼノスは、両肘を卓に突いて口と鼻を掌で覆うように抑え、深く眉間に皺を寄せているカンダタに気が付いた。
「どした?」
「……頼り過ぎるのは、あいつにとっても重荷になるだけだろう」
 カンダタは双眸を伏せ、静かに言った。一瞬、瞼の裏にあの時の少年の漆黒の眼が過ぎっていた。
 その深刻そうな様子を怪訝に思い、ゼノスは眉を寄せ言葉を発そうと口を開きかける。

 その時、ガチャリと言う金属音を立てて部屋の扉が開いた。小気味良い音は、静まり返った部屋の中に深深と響き渡り、いつまでもその余韻を残している。
 扉の内と外での明暗の違いから、廊下から部屋に入ってくる者達の顔は影が掛かって見え辛かったが、それぞれの容姿の輪郭を見止めゼノスは口元を歪ませる。
「お、一人候補発見」
「?」
 妙に楽しげに弾んだゼノスの声色に、何事かと伏せていた双眸を開きカンダタは顔を上げる。
 そこには、敵側の内偵を頼んでいる聖王国イシスの間諜コンスと、その彼と同郷であり同僚であるアズサがこちらに歩み寄り、卓を挟んで椅子に腰を下ろしていた。
 縁があってか今もアズサはこの屋敷に滞在しており、こちらの事情も知っている事から良く話し合いに顔を出していた。特に彼女が誰か他の第三者と接触を持ったと言う事はこの数日は無かった事であり、何よりも同僚のコンスが国命で動いている以上、情報を漏洩させる意味は無い。
 そして何よりも、この少女の人となりから、そのような事はしないだろうと、カンダタの人物鑑定眼はそう見ているから、会議への同席に異を唱える事はしなかった。
「おい剣姫」
「……なんじゃ魔剣士」
 一応身分を隠してこの国にいる立場上、それを隠す様子など微塵も見せないゼノスの物言いに、自然とアズサの口元は引き攣る。
「あんた暇だろ? 山賊狩り手伝え」
 そのあまりに率直な言に、今度はアズサの柳眉が釣り上がった。
「……女を口説くならば、もっと気の利いた言葉を言えんのか、貴様? 全く……私のようにか弱い女子おなごに、何と言う事を……」
 眉間を指で押え、微かに声を震わせているアズサ。それにゼノスは追撃を加えた。
「剣三本もぶら下げている奴の、どこがか弱いんだか……。そこらの悪党どころか魔物だって尻尾を捲いて逃げ出すぜ?」
 クックック…と大仰に肩を揺らして笑うゼノスを視界に捉えたまま、アズサの表情が完全に消え去る。
「…………その喧嘩、買った。塔でのケリを着けようではないか。……魔剣士よ、表に出るがいい」
 発せられる声色は恐ろしいまでに落ち着いており、極めて温度を感じない。ゆらりと椅子から立ち上がり、剣呑な光を湛えた緑灰の双眸でゼノスを見下ろしていた。
 そんな様子の自分の同僚を見上げ、危機感を覚えたコンスは盗賊の軽い身のこなしでアズサの背後に回りこんでは、羽交い絞めにして卓…というよりゼノスから引き離す。
「アズちゃん、落ち着くッス!!」
「止めてくれるなコンス! こやつとはいっぺんケリを着けねば私の沽券に関わるのじゃっ!!」
「若いねぇ」
 下がりつつ必死で叫ぶコンス、暴れながら吼えるアズサ、ニヤニヤと皮肉げな笑みを浮かべるゼノス。
 先程までの緊迫感に満ちていたこの部屋の空気を完全に吹き飛ばした三人の様子を眺めながら、カンダタは溜息を吐きつつ思う。
 剣士としての腕前も、信頼しているゼノスが認めているので味方として在るならば確かに心強い。必要ならば自分からも協力を打診してみるか、と考えが纏まった時だった。
 笑みを止め、コンスに宥められているアズサを見ながら、ゼノスは真顔で呟いていた。
「冗談はコレくらいにして……、どうなんだ?」
「……まぁ、よかろう。私も暫しここに留まる必要があるし、何よりコンスがそちらに助力しているのは女王の命令。待機中の私一人が手を貸した処で問題無いじゃろうしな」
「すまん」
 関係の無い者を巻き込みたくないと言うのが本音ではあるが、彼女の力もまた今の自分達にとってはありがたいものだと言う事も、また本音であった。
 深深と頭を下げるカンダタに対し、アズサは掌をヒラヒラと左右に動かし言った。
「何、気にするな。こやつもそなたらの世話になっているようじゃしな」
 言いながら横に立つコンスに視線を送る。
「そうそう、気にすんなってカンダタ」
「貴様は少しは気にせんかっ!」
 軽い口調で発するゼノスに、アズサは力一杯叫んでいた。

「なぁ剣姫よ。こいつは興味本位の質問なんだが」
 突如、ゼノスの黒い眸が真剣に変わる。紛れも無く戦士の眼だ。
 昂ぶった呼吸を落ち着けながらアズサはそれに静かに返した。
「……何じゃ?」
「あんた。あの『勇者』クンとどっちが強い?」
「ゼノス……」
 横目にカンダタが神妙に呟いているのが捉えられた。それに見ない振りをしてゼノスは前に立つアズサを見上げる。するとアズサは両腕を組んで瞑目していた。
「……試合という場においてなら、十中八九私が勝つ」
 深い思惟の中で、以前この地で手合わせした時の事。そして彼に同行して垣間見た魔物との戦闘の様子を再現する。
 あの時の手合わせを止める事無く続けていた場合の結末は……。今自分の口から出た言葉の通り、それは紛れも無い事実であり、長年歩んできた剣士としての自信、背負った矜持・・でもあった。
「ほぅ、言い切ったな」
 楽しげなゼノスの声が、闇掛かった瞼の奥より聞こえてきた。それに抗うようにアズサはゆっくりと重たくなった瞼を上げる。
「じゃが、死合…殺し合いでならば私はあやつに勝てる気がしない」
 と対峙した時のあの漆黒の双眸を思い出して、自然と気分も重くなっているようだった。アズサは誰にも気付かれないように小さく溜息を吐く。
「正直な話、魔物と対峙している時のあやつは強すぎる。技も心も、戦いに赴く何もかもの質が違う……おそらくは無意識なのじゃろうが。そのユリウスとは対峙したくないというのが本音じゃな」
「ほぉ……あんた程の剣士がそこまで言うとはな。イシスの“剣姫”って言えば、“聖剣・滅邪の剣ゾンビキラー”だ。それを以ってしてもか?」
 揶揄するようなゼノスの物言いに、アズサの双眸に一瞬剣呑な光が走るが、沈黙にそれは押し殺される。
 ゼノスにはそれが自分の問への答えに見えて、微かに口元を歪ませた。




「何にしても、一人増えたからといってもまだ戦力不足は否めない、か。……援軍、どっかから沸いて来ないかねぇ」
 憮然として表情を暗くするアズサから視線を外して、再び背凭れに体を預けながらゼノスは窓の外を見る。
 硝子越しに映る深緑の樹木に目を移した瞬間、木の枝に止まっていた鳥の群れが一斉に羽ばたいて蒼穹の空に飛んで行った。

 まるで何かの予兆を示しているように、騒然と枝葉が揺れ動いていた。




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