――――第三章
第十三話 夢追い人
「これより女王様がお会いになられる。くれぐれも粗相無きように」
独特の紋様が彫り込まれた木製の扉。重厚にして壮麗な、魔法的な装飾のなされているそれは、外と内との確かな隔たりを感じさせる。
大樹の内側に造られた回廊。木目の流れが鮮やかな壁と天井、燭台の代わりにここを照らしているのは、魔力の篭められた琥珀の輝き。穏かなそれは木の温もりをより一層際立たせ、ここを往く者の緊張を解いていく。
だがそれは厭くまでも同種族であっての事。ここに本来在らざる者達にとってしてみれば、より確かな気構えを胸に行かねば、漂う空気の清浄さに意識が恐慌を起こしてしまうだろう。清らか過ぎるこの空気は、人間にとっては返って身体に障る。それを思わせるだけの清廉な魔力がこの御殿…いや、この集落に足を踏み入れてから感じていたのだ。
「…………ええ」
鋭く射抜いてくるリーヴェの眼差しに、ミリアは顔を顰めながら頷いた。
―――あの後、暫くの間呆然としていた一行の前に、リーヴェと他数名のエルフ達が姿を現した。
女王の命令で自分達の監視をしていたと言う彼女達は、この場所で起こった事の一部始終を見ていて、いまだ信じられないと言った顔をしていた。ミリアとリーヴェの間に一悶着が起こりそうな雰囲気になりもしたが、ノエルや他のエルフ達がそれぞれを宥める。
何かしらの心境の変化があったのか、ミリアの女王に会うという申し出に対してエルフ達は戸惑っていたが、ここでの出来事を代わりに説明するというミリアの提案に、それは許されることになった。彼女等が事の全てを見ていた訳ではないと言う事と、何よりもアンによって紛失した筈の“夢見るルビー”をミリアが持っているという事が決め手になったのだ。
警戒心を剥き出しにしたエルフ達に囲まれて、半ば連行のように洞窟を脱出し、一行はエルフの里、その族を束ねる長である女王の前に通されたのだ。
「はじめまして、人間達。私はライトエルフ族を束ねるティターニア=エルダ=ディースと申します」
異種族の人間の顔を一人一人見渡しながらティターニアは
淑やかに微笑んだ。
その仕草に、謁見したユリウス達は妙な違和感を覚える。ここまで
誘ったリーヴェを始め、エルフの集落の中を歩いてきた時、殆どのエルフ達から向けられる視線は確かに敵意にも似た刺のある視線だった。
だが、その種を束ねる女王が向けてくるのは、穏かで柔らかくすらある。異種族の存在など歯牙にもかけていないのか、種族の垣根など問題ではないのか……。そのどちらともつかない、この超然とした対応こそが女王の地位に立つ者の資質なのだろうか。
そんな思いに駆られながらも、一通り自分達も名乗りを上げる。ノエルが名乗った時、女王は僅かに眼を細めたのだが、種族差という認識の隔たりの為か表情の微細な変化に気付く事は無かった。
一つずつ頷きながら、女王は最後にミリアに視線を留めた。何かしら思うところがあるのだろうか、今度は明らかに異種族でも見て取れる程に眼を細めている。
「……久しぶりですね、ミリア」
「ええ……そうね」
何処か声調を静める女王に、ミリアも視線を合わせないように逸らしながら頷いた。
「あなたがここを去って、十五年……。つい昨日の事のように思えます」
「実際にその程度の感覚なんでしょう? つまらない感慨なんて取り繕う必要は無いわ」
「ミリア! 貴様、無礼だぞっ!」
言いながら大仰に肩を竦めるミリアに、女王の側に控えていたリーヴェや他のエルフ達が表情を険しくする。
だが周りの側近達がいきり立つのに反して、女王は至極落ち着いた様子でそれらを制する。
「良いのです。……それで、ミリア。あなたが再びここを訪れた理由は何ですか?」
「……これをあなたに」
ミリアが差し出した小さな袋を、側近のエルフの一人が歩み寄っては恭しく盆に受け取り、女王に献上する。この辺りのやり取りは人間のそれと変わらないように思えた。ただ女王と称される玉座の人物から横柄な感じを受けない事が、人間の王族とは違うという事をまざまざと見せ付けていた。
袋を運んだ側近の女性に一礼をして、女王はその袋を閉ざしている紐を解いていく。微かではあるが、その女王の手が震えているのは気のせいではないだろう。それはその場にいた誰もが感じていた。
やがて開かれたそれから、部屋に射し入る陽の光を受けて鮮やかに煌いている紅いルビーがその姿を現した。女王の掌の上で輝くルビーを見て、回りの側近達の間に動揺が走る。
女王はそれらを気に止める事無く、目を細めてルビーを見つめていた。
「これは、夢見るルビーですね。…………あの子が、持ち出した」
「ええ、そうよ。それは――」
事の経緯を説明しようと口を開いたミリア。が、語り始めた彼女の言葉を女王は遮る。
「それを何故あなたが、今になって私に返すか。その理由を言葉にする必要はありません」
「!? どうして……」
その事に愕然としてミリアは眼を見開き、女王を見つめる…と言うより睨んだ。事実の説明すらさせてはくれないのか。彼女の藍青の双眸に載った剣呑な光に見え隠れする激情がそれを物語っていた。
小さく溜息を漏らしつつ女王は瞑目していたが、やがてそれを終え、今だ動揺の抜けきらない側近達の顔を見眺めた。
「……皆さん。少し席を外して下さい」
「! ですが……」
「お願いします」
「……わかりました」
真摯に向けられた女王の眼差しに、リーヴェはただ恐縮に頭を垂れる。
釈然としない面持ちを浮かべたまま女王の側近達はこの部屋から退室し、主である女王その人と、来訪者であるユリウス達だけが広い空間に取り残された。
常に側近の誰かが傍に在るはずの部屋の中。それらがいなくなると妙に広く感じる。女王はそんな感傷に刹那の間浸るも、すぐに思考を切り替えた。
「ルビーよ」
女王が夢見るルビーをそっと撫でると、淡く紅い光がルビーから零れるように発せられた。
光が点ると、この部屋の中にはただならぬ程の魔力の渦が解き放たれたようで息が詰まる。ピリピリと肌や耳の奥を打つ空気の振動に、洞窟での一件が重なって、見ていた他の者達は危惧を覚え、身構える。だが、それは数瞬もしない内に杞憂に終る事になった。
目を開けていられない程の光を放ったと思うと、目を閉じた刹那の間に消え失せていた。そして戻った視界、目に飛び込んできた光景に誰もが瞠目する。部屋の中に在る物の何かが変わったという様子は微塵も見られない。……ただ一つ、玉座に座す女王を除いては。
面識のあるミリアですら、眼前の出来事にただ唖然として目を見開いている。
両手で優しくルビーを包み込み、胸に抱きしめながら静かに涙を流している女王の姿があったのだ。
「…………このルビーには、私の血と魂の半分が篭められています。故にこれは私の半身とも言える……。私だけはこのルビーが観た記憶を辿る事ができます」
「! では、あなたが……」
ミリアから聞いた夢見るルビーの逸話。そしてあの地下空洞で垣間見た嘗ての惨劇の幻影。それを思い出してソニアの声が震える。
そんなソニアの呟きを肯定するように大きく深く溜息を吐いてから、女王はルビーに視線を落とす。
「あなた達も、現実にそれを見た以上、知る権利がありますね……」
悲哀に眼を伏せながら、女王は静かに
綴った。
「あの子の身体を乗っ取った者達…『ノエル』という者は、かつてハーフエルフを束ねた者の名です」
「!?」
その名を持つノエルが、女王の言葉に顔を上げる。ミリアと繋いだままの掌に、力が篭った。
「かつて
陰りの霊廟において、我等ライトエルフによってハーフエルフ達は大虐殺されてしまいました。彼らの想いは強く遺り、それは晴れる事の無い怨念と化し、彼の地にあったマナの源泉の性質と流れまでをも歪める迄に至り、此方に留まり続けたのです…………」
涙を拭う事もせずに
訥々と語る女王は、時折悲哀に満ちた双眸でルビーを見つめる。頬から零れる雫がルビーに弾け、その紅い煌きを返しながらドレスに染み込んでいく。それが前に居る者達に彼女の感じている深い悲しみを伝えてくるようだった。
「アンは最期の時、愛する者と共にあの地底湖にその身を任せたのですね。彼の地が陰りの霊廟と
謳われる以前に信じられてきた、伝承に夢を託して……」
きつく眉間に力を篭めて、何かを耐えるように女王は続けた。
「ただ、陰に染まっていた地底湖には、晴れる事の無いハーフエルフ…あの人達の怨念もまた潜んでいました。源泉によってマナに還ったアンは、周囲に混濁していた陰のマナに囚われてしまったのでしょう……。ルビーは彼の地の怨念、負陰を外に溢れ出ないよう抑えておく為の蓋のような役割を持つ封印器です。最後にルビーが浴びた大量のアンの血液を寄代に、アンの魂をも孕んだ彼らの負怨は、貴方達が彼の地にルビーを収めた事によって顕現する事になったのです。……後は、貴方達が目にした通り」
休む間も無く語り続けた女王は、膝にルビーを乗せたまま両腕で自分を抱きしめる。見るからに震えているのは悲しみからか、或いは別の意思によるものなのか、その場にいた誰にも解らなかった。
「このルビーが観た記憶を辿る限り……アンは、それほどまでにあの人間を愛していたのですね。それほどまでにあの人間との間に授かった子供を愛していたのですね。……あれほどまでに、あなたを案じていたのですね」
女王の視線を受けて顔を顰めながらミリアは俯いた。その不貞腐れたように顔を歪ませている様は、不機嫌と言うよりも泣き出しそうになるのを必死に堪えているようにも見える。
「……そして、魔族などに堕してしまう程に『ノエル』は私達…私を恨んでいたのですね。いいえ、裏切ったのは私の方なのですから……当然です」
脳裡に押し寄せるように甦る光景に、身を焦されそうになる。女王はそれに抗うべく小さく頭を振った。
「全ては私の弱さが招いた事。アンも、あなたに罪は無いとこれに想いを遺しています。私にはあなたを責める事は出来ません。そんな事をしたら、それこそアンの心を裏切ってしまう……。これ以上あの子を失望させては、私は母親としてあの子を語る資格すら無くしてしまうでしょう」
「……女王」
擦れる声でミリアは呟く。
「私がもし恐れなければ……。もしかしたら、違った結末を迎えたのかもしれないのですね……」
「…………」
傷みに小さく頭を横に振った後、女王は俯いて涙を拭う事もせずにただ静かに沈黙していた。
その様子は後悔に懺悔をしている者のようにも見えるし、ただ娘の安息を黙祷している母の姿にも見えた。
見ていて痛ましさを感じるそれに、ソニアも胸が締め付けられたように苦しくなった。
大切な肉親を
喪う痛み。かつて感じた心の痛みは、今も心の奥に傷みとなって深く根付いている。それが異種族とは言え、娘を亡くして悼んでいる女王の姿に共鳴して揺さぶられる。面に出てきそうな感情を隠す為に俯き、下唇を噛み締めては眉間に力を篭める。そうしなければ、熱くなった眼の奥から零れ落ちそうな涙を抑えきれなかったのだ。
チラリと横を見ると、相変わらずの無表情で前を見ているユリウスの顔が捉えられた。その至って冷静な様子に、言葉にならない感情が胸の内に生まれそうになるのを覚えながら、ソニアはきつく眼を瞑った。
「……あの子は、愛する我が子に『ノエル』と言う名を託した……。それが何を意図してなのか、私にはわかりません。二人の中を認めなかった私への当てつけなのでしょうか?」
「違うわ、女王。アンは、あなたに顔をあげて欲しかったから。何時までも囚われているあなたの心を、解放してあげたかったから!」
「…………ミリア」
隣に立つノエルの頭を愛しそうに撫でながら、ミリアは言う。
「私にはわかる。だってアン……この子が生まれる前から、スルーアとの間に子供ができたらずっと『ノエル』って名付けようって、決めていたから。その時のアン、とても優しい眼をしていたから!」
双眸から涙が零れているのにも気付かずに、ミリアは叫ぶように続けた。
「それだけじゃない。すぐには無理だけど、アンはこの子…ノエルをあなたに会わせるのをとても楽しみにしていた。いつかきっと種の壁は越えられるって。この子がその光になるって。……その機会を永遠に奪ってしまった私には、言う資格が無いのかもしれないけど、アンはあなたの事が大好きだったからっ!」
「…………っ」
必死のミリアの剣幕に女王は耐え切れずに口と鼻を手で覆う。微かな嗚咽が指の間から零れていた。
それを目にしながら、唐突にユリウスは静かに呟く。
「……確か、『ノエル』とは精霊神ルビス教において、
神の生まれた日を示す言葉になっている。そして、その言葉の真意は『望まれて生まれた子』……だったか」
「あ……」
「!」
感情の篭らないユリウスの声に、ソニアはあっ、と顔を上げる。これまで幾度無く読み返してきた聖書に記されてあるそれを思い出し、確かにそうだ、と頷きながらユリウスを振り向く。その表情はこの場において異様ともいえる無彩無表情だったが、それだけにその言葉ははっきりと響いた。
その淡々とした言葉に、大きく見開いた女王はとうとうその場に崩れ落ちた。
重い沈黙の中、しっとりと流れていた嗚咽は止み、女王が顔を上げる。
既にその双眸には涙の残滓は無く、ただ種を束ねる者としての矜持と強い意志の光が在った。
「…………ノアニール村の封印は解きましょう。と、言いたいですが少しばかり時間を頂けますか?」
「?」
「ノアニールの封印を解く為の“目覚めの粉”を精製するには、幾許か時間を要するのです」
「そういう事ならば」
首を傾げていたユリウスは、続く女王の説明で納得した。
「その間、村の中で時を過ごすと良いでしょう。見る限り、あなた以外は陽の加護にあるようですので、それ程苦にはならない筈です。住人達からあなた達への危害を加えるような事はさせませんので、あなた達もそうよろしくお願いします」
女王は言いながらユリウスを視線に捉える。視線の意図を察してか、ユリウスは僅かに目を細めるが表情には載せない。ただ心内で大きく溜息を吐いた。
「…………その前に女王。あなたに尋ねたい事がある」
「……何でしょう?」
「オルテガという男は、かつてこの地を訪れたのか?」
「オルテガ? ……あの人に定められた勇者ですか。ええ、確かに訪れました」
顎に手をつまむように添え、黙考する女王。やがてそれの答えは言葉になって返ってきた。
「それは何故?」
「かつて、この里にはエルフ族の未来を占う予言者がいたのです。彼女の力を借りに……」
「予言者?」
「もう、この世にはいません。人の暦で数えると今から百年程前、エルフの予言者マリエルは亡くなりました」
「百年? では、どうしてオルテガは……」
「元々、エルフと人との交流は非常に希薄なもの。不確かで些末な噂を頼りに彼はここを訪れました。真実を知って随分消沈していたのを覚えています」
「そうか」
立て続けに質疑を繰り返したユリウスは、返された答えを頭の中に羅列させた。その何処にもその後の行き先を暗示させるようなものが無かった為、ここでの滞在には最早意味が無い事を悟り、淡々と言葉を零す。厭くまでもその声色は、消沈したような様子を微塵も孕ませない、冷淡なものだった。
それすらをも見越しているように、女王は静かに続けた。
「彼は魔王に至る術を求め、マリエル=エルヴィラを頼りました。確かに、彼女が存命ならばオルテガも
ああ不憫に命を落とす事はなかったでしょうに……」
「エルフは人の世の事には無関心だと訊いていたが……」
その言葉の違和感にユリウスは眉を寄せる。自身の言葉通りに、エルフという存在は排他的で外との干渉を持たない。つまりそれは、世界の情勢に介入する意志が無いと言う事の顕れである筈だ。
だがそれを女王は首を横に振って否定した。
「魔王によって危機に瀕しているのは厭くまでも人間の世ですが、魔王による陰のマナの増大が齎す被害には、種族の垣根など存在していません。無関心ですけれど、無関係とは言えないという事です」
「成程……。と言う事は、この里の結界も、半島を覆う森林も、それに抗う為の処置と言う訳か」
「総てが、ではありませんが……そう言う事です」
首肯する女王を見ながら、ユリウスは一応の納得を得る。ただそれ以上の事は興味が無いので、思い返す事は無かった。
女王が“目覚めの粉”の精製儀式に入ると、里の御殿の中は騒がしくなった。側近や他のエルフ達が慌しく回廊の中を駆け、その事の大きさを暗にして示す。
儀式の邪魔になると言う事で、ユリウス達は側近達に御殿を追い出されてしまった。何でも“目覚めの粉”を精製する為には高純度の魔力を練らなければならないと言う事で、御殿はその際、魔力の流れを内に推し止める役割を果すのだと言う。その中に人間という異物が在っては純化できず、更には種族差と言う格の違う魔力量に人間の精神が耐えられない、という懸念もあったのだ。
特に邪魔をする意志も無いユリウス達はそれを受け容れ、儀式の間、御殿の外の広場のような処で時を過ごす事になった。里の中央にある大池は、底がはっきりと見る事が出来る程に澄み切っていて、水面には鮮やかな色彩を放つ蓮の花が咲き乱れていた。
池の辺に横たえられた朽木や切り株を利用した、ベンチのような物に腰を下ろして、周囲を珍しげに見回す同行者達。その中でも熱心に辺りの景色を瞳に焼き付けているノエルの頭をミリアは優しく撫でていた。
無言のままそのミリアの傍らに歩み寄り、ユリウスは感情を載せない双眸で見下ろす。
「マリエル=エルヴィラ……お前の縁者か?」
「……母よ。どうして?」
「オルテガが、彼女を訪ねたと聞いたんでな」
女王が言っていたわね、と頷きながらミリアは眸を伏せる。
掛けられた言葉に反応して、脳裡を掠める人影があった。それは瞳に焼き付けられた温かな笑みと、その時抱いていた淡い感情を甦らせてくる。一瞬だけそれを面に逃がし、また圧し止めた。
「オルテガ……ね。あなたは、彼の足跡を探しているの?」
「それだけが目的と言う訳ではないが……」
「彼はダーマへ向かったわ」
語尾をくぐもらせるユリウスの様子を気に止めないで、ミリアは溜息を吐くように言った。
「……何故、知っている!?」
「何故って……幼いノエルを連れて、私も一緒に着いて行ったからよ」
そう言いきると、ユリウスは完全に瞠目する。そんなユリウスを見上げて、思わずミリアは息を吹き出して笑った。
考えてみると彼はその為に、こちらの事情に首を突っ込む事になったのだ。初めから自分に聞いていれば、あれほどの労力も必要なかっただろうに。そう思うと何故だ急に可笑しくなったのだ。
同じような結論に至っているのだろうか。ユリウスの眼を険しく細められ、視線は至極冷たい。
「……そんなに睨まないでくれない。訊かれてない事に答えようも無いし、それに、訊かれても答えたくない事だってあるわ」
「…………まあいい。オルテガはダーマに行ったか」
微かに声と肩を振るわせたままミリアは返すと、ユリウスは何処か諦めたように溜息を吐いて踵を返した。
他のベンチではソニアとミコト、ヒイロが並んで座っていた。
真ん中に座っているソニアは表情を曇らせたまま池の漣に視線を泳がせている。
ソニアの晴れない表情に、苦笑を零しながらヒイロは穏かに尋ねた。
「納得いかないといった顔をしているね。どうしたんだい?」
「そういう訳じゃないけど。……種族の違いって、そんなに大きな問題なのかな? そんな事よりも、もっと大切な事だってあるのに……」
ソニアは考える。
あの幻影の女性が先程会った女王ならば、種族の差という隔たりで最も苦しんだであろう彼女は、ルビーを生み出した時、そしてそのルビーから娘の最期の記憶を看取った時、一体どんな気持ちだったのだろうか。またミリアについてもそうだ。悪しき力に翻弄されて大切な人を傷つけてしまった。だけど、傷つけられた本人は、本当に最期までミリアの事を案じていた。
一体何処に罪があるというのだろうか。誰もが、ただ想いに従って動いただけだというのに……。
そう考えるといたたまれなくなる。各々が貫いた想いという見えない力の強さに、心が圧されてしまう。
その広場を立ち去ろうと、三人の後ろを歩いていたユリウスは、ソニアの言葉にピタリと足を止めた。
「種族が違えば感じ方、考え方も違う。当人達が納得しているのなら、話はそれで終る。たとえ納得していなかったとしても、これからどうするかなどは当人達の問題だ。余所者に口を挟む余地など無い」
「それは、そうだけど……」
突然降って来た声に、ソニアは弾かれたように顔を上げ後ろを振り向く。すると半分だけ顔を振り向かせているユリウスと目が合った。その漆黒の双眸は、逆光の中で更なる黒みを増している。
「……誰かが誰かを
慮って、自らの意志を貫いた結果としてこうなったと言うだけの事。自分が納得できないといって非を唱えるのは、意志を貫いた者に対しての冒涜にはならないのか?」
「そんなつもりで言ったんじゃないわ。ただ、やりきれなくて…………」
「……それはお前の感傷だろう。感情で考えが纏まらないのならば、尚更言葉にしない方がいい。事を解して同情するならまだしも、同情から理解を試みようとしているのなら……、そんなもの相手にとって迷惑なだけだ」
「……どうして、そう言い切れるのよ?」
「感情で霞んだ物事を理解したところで、それは本質からは程遠い。そんなもの、ただ自分の感情を相手に押し付けているだけではないのか?」
「…………」
パチリとソニアが眼を大きく瞬かせている内に、彼女を見向きもしないで大きく肩を竦め、ユリウスは颯爽と木々の間に消えていった。
木々のざわめきと共に靡く濃紺の外套と、遠く鮮緑と陽の帳に溶けていく彼の後姿が妙に強く印象に残った。
暫し間、ユリウスの去った方向を黙して見ていたヒイロは言う。
「ユリウス……たぶん彼は、誰かが為す行動。それに伴う全てを、在るがまま捉えているんじゃないかな? やっぱり人間って、価値判断の中で感情が左右する事も大きいだろ?」
その琥珀の双眸は、永い時を生きてきたかのような老成した穏かな光を湛え、落ち着いた口調には言い知れぬ深みが篭められていた。
「…………」
責め咎めるでもなく、余りに静かに綴られるそれには、まるで両親から説教されているような錯覚を覚えさせられる。
そんな事を思ってはヒイロに悪いとは思うも、素直な感情は顔を顰めさせ唇を尖らせたまま首肯するソニア。
「難しい事だと思う。疑念、好悪、感情、先入観、価値観……そういったものは、物事を見る上では何かしらの
障壁になっているからね。……まぁ、でも実際に彼がどう考えているかは解らないし、他人がそう決め付けるのは好かない。だけど、今までの彼を見ているとそう思えるんだ」
「……私も、そう思う事ができるかな?」
不安そうにしているソニアに、ヒイロは穏かに微笑み頷く。
「それはソニアの意識次第さ。ソニアが見て聞いて、感じた事。今思っている事、考えている事。それはきっと今後物事を見る上で何かしらの変化の礎にはなる。価値観の変化って、そういうものだと俺は思うよ」
深みの在る言葉を受けて吟味し、そうだね、とソニアは頷いた。そっと背中を後押しされて、迷いの霧から脱せたような気分だった。
ソニアの隣に座っていたミコトは黙ってそのやり取りを聞いていたが、クスリと一つ笑みを浮かべた。
「そうはっきりと言えるヒイロも、ね」
「……何と言うか、俺にはその
元が無いだけだよ」
苦笑しながら頬を掻くヒイロ。照れているというよりは、それ以外に言いようが無いから困っているといった様子だ。
それを見止め、ミコトは両腕を組んで眼前に広がる池を眺める。風に揺れて陽の光がキラキラと煌いて宝石のような輝きに満ちていく。それを見つめたままミコトは眼を細めた。
「でも、ユリウスはやっぱり
ああいう奴だ。単純に興味が無いからって事もあるだろ……。いや、こっちの方が私は納得がいく」
「ま、まぁそれは……。…………ユリウスなら有り得るね」
水面に映る三つの影は静かな笑いを交し合っていた。
涼やかな風が池面を揺らした。揺ら揺らと水面全体に伝わる波紋は穏かに、そこに息吹く蓮の葉は悠然と波間を漂っては紅や白の花弁を散らし、白日の夢のように柔らかな刻を広げていった。
ユリウスは独り村の外れ、集落の中を流れる小川の辺の木々の一つに背中を預け、座り込んでいた。大地に鞘ごと剣を突き立て、それに縋るように抱いている。その表情は重く、険しく、そして
昏い。
「……くそっ」
一人木の幹に
凭れかかり、手袋を脱いだ掌で額を押さえながらユリウスはごちる。
魔法剣を使った代償として、精神に過負荷を与えた代価として、いつも後にはどうしようもない頭痛と眩暈が襲ってくる。それらは単純な痛みだけでなく、何か言葉には出来ない異様な感覚を自分の中に広げるから、これは始末に負えない。
深緑の木々の間を縫って小川がせせらいでいる。そよそよと流れる水の音は、枝葉の間から零れ落ちる心地良い陽気に絡み合って穏かな時を創生する。
腕の中で伏せていた双眸を僅かに開きそれらを見やる。額を、頬を流れる汗は健やかなそれではなかった。
頭皮の下、頭蓋の中で疼く傷みの為か、或いは他に何らかの原因があるのか絶えず高く鳴り響く耳鳴りは意識を遠く霞ませる。それに伴い視界は水中のそれのように揺らぎ、その夢現の境界を見極める事が出来ない。その判断を下す事が既に出来なくなっていた。
(これは夢なのか、現実なのか……。もう、…………わからない)
今、眼に映る歪んだ世界には色彩は無く、ただ白い光に照らされて全てが呑み込まれていくような感覚。この白い靄が自分を覆い隠すように包んでは外界から乖離させ、その無為さが自意識を侵蝕し虚空に溶かしていく。
陽に透ける艶やかな黒髪を無造作にかき回し、倦怠感と虚無感に襲われながら、押し寄せる光の波に耐え切れなくなってユリウスは諦念と共に意識を傾ける。
(光? ……白い…………ヒ、カリ……)
いつか感じた事のある光。今、自分はその光に塗れているのだろうか。
だが滑稽だと思う。どれだけ眩い光に
燦々と照らされようとも、浮き彫りになるのはただ自分の闇の深さ。赤と青の血に塗れた自分自身の愚昧で卑小な姿。それを浮かべユリウスは考えを止める。
(どうでも、いい……)
指先から蝕まれ崩れていく感覚。その覚えがあった。
(何処でだったろうか……。ああ、そうだ。確か前に魔法剣を使った時……、シャンパーニの塔から出た後、カザーブで……)
それならば、次に眼を覚ました時に何が起こっているのか想像はつく。理解が出来ない現象で、何故か肉体も精神も元に還っているのだ。
そう思い至り、そこでユリウスは意識を手放す。
光の中に溶け消えていく自分。
傷ついた肉体は
孵り、精神は還り……。
唯一つ何も変える事無く残るのは寸断され、断裂した魂の残滓。その
址に残った塵芥が求めるそれは――。
―――アリアハン王宮の敷地の一角。ひっそりとした庭園。そこの花壇の辺に三人の人影が在った。
一人は漆黒の髪の少年。戦闘に耐え得るように強化された皮の服に、鋭く光る使い込まれた銅の剣を携えている。まだあどけなさは残るが、全身から漂う鋭さの為か、そこに歳相応の柔軟さを見出す事は出来ない。
一人は紫銀の髪を背に流した女性。賢者という身の者が備える紅蓮の宝珠があしらわれたサークレットを被り、翡翠の外套を髪の下に羽織っている。すらりとした柳眉と茜色の瞳が強い意志と知性を感じさせる。
そして一人は、翡翠の髪に同系色の瞳の穏やかそうな顔立ちの青年。上物の生地からなる派手さは無いが品の有る衣服を身に纏っていた。物腰の柔らかそうな気品に満ちた雰囲気は、この場にあって違和感が無い。
三人はそれぞれ持ち込まれている椅子に腰を下ろし、卓を挟んで談話していた。
卓の上に用意された
芳しい香りのする紅茶が、温かな午後の日差しの中でまどろみのような安寧を分け隔てなく与える。
カップに充たされた紅茶を口にし、喉を潤してから紫銀の女性が
徐に切り出す。
『――ラ。ユーリ。二人はもしも永遠に夢を見続けられるとすれば……、その為にずっと眠っていられるとしたら、どうする?』
『どうしたんだいセフィ?
藪から棒に……』
紫銀の女性の突飛な言に、訝しそうに眉を寄せる翡翠の青年。そして彼女が手にしている本の開かれている頁が視界に飛び込んでくると、そこには催眠魔法についての小難しい図式や論述がされてあったので、途端にその頬が引き攣った。
凍り付いた視線に気付き、女性は慌ててその本そのものを自分の背中に隠す。
『い、いや……特に意味は無い。ただ、ちょっと気になったからな。……間違っても魔法の実験台とか、そういうのじゃないからなっ!』
『あ、あははは……。そんな物騒な魔道書持ったまま言っても全然説得力が無いよセフィ。というより、そこでムキになられると余計に、ね』
『も、ものの例えだ。例え話っ!!』
乾いた笑いを発する翡翠の青年に対して、紫銀の女性は顔を紅潮させ、慌てた様子で叫んでいた。
そんな二人のやりとりをまるで聞いていなかったかのように、両手でカップを包み込み、感情の篭らない瞳で紅い水面を眺めていた黒髪の少年は、聞き取れない位に低くポツリと呟く。
『……俺はずっと、眠る方がいい。寝ている間は戦わずに済むし、殺さずに、……殺されずに済む。夢は、別に有っても無くても、どうでもいい。ただ静かに眠れるなら……、それがいい』
『何て言うか、ユーリらしい答えだねぇ』
クスリと笑いながら翡翠の青年はポンッと黒髪の少年の頭を撫でた。それに黒髪の少年は顔を上げる。
『ア――は?』
『ぼく? ぼくはそうだね……夢、か。良い夢なら歓迎だけど、悪い夢は遠慮したいかな』
『どっちだよ……』
『まぁ夢って、自分の無意識下にある願望の具現だよね? 現実の欠損を夢想で充たすよりも、
未来に重なるように
現在を充たす方が何倍も楽しい。それに同じ夢なら、幻に
視るものより、
直に触れるものの方が遥かに温かいよ。……と言う訳で、ぼくはずっと眠るというのは遠慮したいね』
『俺には、……わからない』
感情が
載せられない漆黒の双眸は、ただ在りのまま紅い水面を映す。自分より視線が下にある黒髪の少年の様子を眺めながら、翡翠の青年は眉尻を下げていた。
『……少しずつ、わかるようになればいいよ』
そうだ、と一人相槌を打ちながら、翡翠の青年は両隣に座っていた女性と少年の手を取る。それを自分の目線の高さにまで持ってきた。繋がれた手を見つめると、その本人達の瞠目した表情が視界に入ってくる。
『こうやって現実で触れられる方がセフィやユーリを感じられる。こっちの方が温かいだろう?』
事の成り行きに呆然としていたが、表情の変化が乏しい中でも何処か微笑んでいるように、黒髪の少年は頷いた。紫銀の髪の女性は、そんな翡翠の髪の青年を見つめながら呆れたような、それでいて優しい微笑を向けていた。
『フフ……、アト―らしいな』
『変?』
『いいや、私もアトラと同じだ。その方が、生きているって実感が出来るからな。……終わらない夢は大切にする価値は無いし、何よりも夢に逃げて囚われるのは好かない』
はっきりと言い切りながらセフィーナは握られた手を握り返す。優しく笑みを湛えるその頬には、赤味が差していた。その余りに綺麗な笑みにつられて、翡翠の青年もたおやかに微笑む。
『ありがとうセフィ。君にそう言って貰えると、嬉しいよ』
『じゃあ、この実験の話は無しだな。あ、でもユーリは望んでいるんだったな?』
にっこりと笑いながらの紫銀の女性の一言に、場が一瞬の静寂に支配される。
『セフィ、さん……今なんて? いや、それよりも単なる例え話じゃなかったの?』
『フフフ…………』
綺麗な笑みが妖しげな笑みに変わった瞬間を見て、翡翠の青年の顔は一層引き攣っていた。繋がってはいない逆の手の指先に淡い光が集まっているのを見止め、戦慄が背筋を這う。
『…………に、逃げるんだユーリ!』
『逃げるなよ、ユーリ!』
狼狽えた翡翠の青年の声が周囲に響いた。
愉しげな紫銀の女性の声が空に木霊した。
耳に捉えられる互いに背反しあう言葉。そんな二人のやり取りを漆黒の少年は、ただ遥か遠くでの、決して手の届かない出来事のように眩しそうに見眺めていた。
穏かに流れる午後の日。確かにそこには優しい笑みとぬくもりが、在った―――。
(……やめろ。やめろ、やめろっ……。やめろやめろやめろやめろやめろぉぉぉ!)
光に解けた後、消えていた筈の自意識に流れ込んでくる景色に耐え切れなくなって、ユリウスは狂ったように絶叫した。嘗て在った平穏の肖像も、今の自分にとっては己が身を焦す煉獄の鎖でしかない。
擦り切れる意識の中、今自分は闇の中に佇んでいる事を知る。全身を覆う闇に己の姿を捉える事は出来なかったが、掌には剣の柄の冷たい感触がはっきりと伝わる。それを全力で己の前に在る、と感じられている幻像に叩きつけた。
幻像はパリンと、まるで硝子のように簡単に割れ砕け、破片を周囲に撒き散らす。
足元に感じる、過去の残滓を忌々しげに何度も踏み躙りながら、ユリウスは両手で頭を押さえた。
頭痛がする。吐気がする。眩暈がする。寒気がする。耳鳴がする。逆息がする。
――その痛みは、傷みはあなたがあなたである証。あなたをあなたと定義し形作るもの。
誰かの声がする。何処かで聞いたことのある声だ。だけど、誰のものなのか思い出せない。
ただ応えの無い裡から込み上げて来る
何かを拒絶するように、総身が打ち震える。
(消えろ消えろ、消えろ消えろ消えろ消えろっ!!)
押し寄せる波に抗いきれず、ユリウスは慟哭する。喉が枯れんばかりに叫びを上げる。
飛散した筈の硝子の欠片の中では、尚も止まる事無く幻像は流れていた。
それを見止め、ユリウスは思いつく限りの攻撃魔法を意識の中で駆け巡らせ、それを具現させる。
火炎が、熱波が、爆裂が、雷閃がそれらを焼き払い、薙ぎ払う。
闇に満遍無く散っていた硝子の破片を粉微塵にしても尚、体中をほどばしる何かは止まらない。
――その心を、その痛みを、否定しないであげて。
誰かが慈しむように囁いていた。だけど、それを聞き止めるだけの意識が残ってはいない。
得体の知れない震えに、全身が、意識が、魂が震撼し狂奔する。
(何で今更……、何で今になってこんなものっ! 俺には、そんな資格あるわけが無いっ!!)
今振っているのが頭なのか、全身なのか、意識なのか。それすらも自分ではもうわからない。
ただただ今自分を覆っている闇は、余りに優しく自分に纏わりついては切り刻んでいく。
それを自覚する度に、自分の中の何かが壊れ崩れていく。
――……まだ、駄目なのね。
誰かが、悲しげに呟いた。それは崩れ往く自分にしっとりと染み込んでいく。
もはや自分がバラバラに切り離されて、闇に溶け掛けていたユリウスに、一握りの疼きが流れた。
その疼きの流れは留まり、凝り集まっては脈打ち、煽動し始める。
(求めてい、る? ……違うっ!! 俺は自分で拒絶した。俺は自分で放棄した! なのに、どうしてこんな……こんなっ!!)
単調なリズムを刻んでいたそれは、やがて激動に変わり動擾する。それは終には臨界を超えて、爆ぜた。
闇が弾けたその残滓。その一つ一つから沸いて出た圧倒的に鮮烈な白い光が、全てを呑み込んだ。
―――藍色の髪の誰かが長年の罪の鎖から解き放たれたような、清々しい顔をしていた。
罪は赦されるもの?
誰かに赦すと言われれば、罪が赦されるのか?
定量の後悔に身を委ね焦されれば、罪が赦されるのか?
たどたどしい言葉で告白し、悲愴に満ちた表情を作れば罪は赦されるのか?
(……ありえない)
―――浅葱の髪の誰かが知ろうとして哀しみと憎しみの光が入り乱れた、泣きそうな顔をしていた。
一体誰が
それを赦すというんだ?
その場にいなかった、何も知らない奴に何が出来る?
盲目的に偽善を翳すしか出来ない者の言葉に、何の意味がある?
言葉だけの悲哀に共感した他人に、何が解る?
(……解る訳がない)
―――紫銀の髪の誰かと、翡翠の髪の誰かが慈愛の眼差しに、温かい笑みを浮かべた穏かな顔をしていた。
関係の無い周りが何と言おうとも、赦されない。
例え本人がそれを赦すと言っても、俺は絶対に俺を……赦す訳にはいかない。
この身体も、裡に流れる紅い血潮も。自分が生きている事、自分という存在を構成するありとあらゆる全て要素が罪の塊だ。そのどこにも、赦しの余地などある訳が無い。
永遠に自分が自分として存在するかぎり、浄罪などありはしない。
(……そうだ。俺はもう戻れない)
生きる事。それは自身に遺された、終わりの無い後悔と厳罰。
殺す事。それがこの世界に生まれ与えられた自分の存在意義。
生きて殺し続ける事。それが唯一つ進める、永劫の贖罪の路。
黒い光に照らされて顕れた唯一つの路。それを自らの意志で進む事に決めた。
進んだその路の果て。どうしても為さねばならない誓の先にあるものは、どうしようもない大罪。それを為しえた時点で、自分は終る。
明るい光を求めて足掻いた所で、それに触れようと手を伸ばした瞬間に闇の深淵に突き落とされる事が既に解っている以上、もうどうしようもない。
故にこの路に救いなど無い。赦しなどない。未来も無い。希望も無い。だがそれは絶望ですらない。
ただ無為に、ただ無意味に、ただ無価値に、ただ無慈悲に自分が在り続けるだけだ。
(この路を進むかぎり、心など要らない。感情など要らない……そんなもの、邪魔なだけだ)
逃げ道など無い事は充分、嫌と言う程に理解している。……いや、それだけに一つだけ思い浮かぶ。
脱する事の出来ない悔恨と贖罪の螺旋の中。戦って、闘って、
争って死ぬ事。殺し合いの中で、命の争奪の中で屈し滅する…それだけが、たぶん唯一の逃げ道。
魂に与えられる休息の刻として、これ以上無いくらいに魅力的な結末。
だけど、自分からそれを進んで選べば、
誓を反故にする事になる。それだけは絶対に駄目だった。
それに、どれだけ殺し合いの中で自らを諦めようとしても、長年に身体の総てに染み込んだ破壊衝動と殺戮本能はそれを許さない。
中途半端に残った心の残滓が、もどかしさに喘いで、その度に魂を摩り減らす。
だからこそ、そんな浅はかな望みの念を断つ為にも、己を壊し続けねばならないのだ。
望みを持とうとする感情を。救いを求めようとする心を。逃避を選ぼうとする己を。
壊れる為に魔物を殺し、壊れながら敵を屠り、壊れた後に誓を果す……その為に。
(俺はただの……剱だ。殺す為の……ただの――)
呪縛の如きこの誓約のサークレット。これをしている限り、自分が進めるのはただ一つ。永遠に終らない悔恨と贖罪の螺旋の路だけなのだ。
だから唱える魔法の言葉を。
肉体と精神の繋がりをバラバラに切り離す呪いの言の葉を。
外に発するのではなく、自身に内包されている魂に呼びかける…いや、魂に穿つ誓の楔を。
(――剱の
聖隷)
想嵐が去り
静謐に満たされ、ようやく訪れた
宙空の景色が歪み、そこには一握りの闇が凝り始めた。闇は次第に容を持ち始め、“影”となってゆっくりと湖岸へと降り立った。
『……オノレェェ! セッカク体ヲ得タト言イウノニ!』
温度の無い無機質な、金切り音のような“影”の天を
衝くような唸り声に湖面は激しく揺さぶられる。だが、それによって齎される風の流れは自身の総てを逆撫でするように不快感を煽る。既に指向の変えられた地底湖は、自身を蝕む害毒でしかない。
早々にここを去るべきだと判断した“影”が、動き揺らめいた時だった。
「やっぱり……、完全に消えてはいなかったのね。魔族化した思念体というのは往生際が悪いと言うけれど、どうやら本当のようね」
酷く落ち着いた、透明な声が掛かって来た。
その余りの清澄振りに、“影”は敵意を漲らせながら声の主を仰ぐ。
振り向いた先にいたのは、視界に捉える事すら苦痛である白光と白妙のローブを纏った人間だった。
『何ダ、貴様ハ!!』
「いえ、あなた達は怨念の集合体が魔族化した、ホロゴースト。アンの魂があなた達の中の『ノエル』の魂を連れて逝ったとしても、まだ総てが浄化されたわけではない」
ルティアは“影”の言葉を聞き取りもしないで、ただ滔々と呟いた。
『目障リナ。消エ――』
忌々しげに吐き捨てながら“影”は、自身の影の身体を刃のように伸ばし、白妙の人物に向かって閃かせる。
『――ロォォ……ォア!?』
だが次の瞬間、捉えた筈の白妙の存在は視界には無く、自身の背後の湖岸に膝を突いて悠然と湖水を片手で
掬っていた。
「まったく。身の程を
弁えて欲しいものね……」
深くに被られたフードから零れる暁色の双眸に、強かな光が疾る。
「澱みは既に還された。此方に繋ぎとめる寄代を失ったあなた達は、既に消の連鎖に捕われている。……滅しなさい、再び世界に孵る為に」
右手には何時の間にか抜き放たれていた剣が握られていた。それは、大空を疾風の如く駆け回る隼を模した鍔が印象的な、細身の剣。白銀色の刀身が、纏う白光を受けて更なる純白に輝いているようにさえ見える。
ルティアは弓矢を引き絞るようにゆっくりとその剣を構え、その切っ先に添えるように左手を翳す。掌から零れ落ちた一滴の湖水は、鋭い切っ先に触れて飛沫となって宙を滑走した。
それを見て直感的に“影”は判断した。アレは拙い、と。その意志に従い、此処から去ろうと闇に溶けようと大きく翻る。
切っ先は“影”を捉えたまま、ルティアはポツリと呟いた。
「願わくば、安らかなる浄化の刻を。ニフラム」
紡がれた呪文と共に、左手の中で鮮烈な白光が輝きを増す。膨らむ光が掌から溢れ、小さな光の結晶が薄暗い洞窟の中を舞うように星散する。それを、ルティアは右手の剣でゆっくりと真一文字に薙いだ。
『!!』
次の瞬間、捲き起こった一陣の風は二閃の光芒となって闇の中を駆け抜ける。圧倒的な光の奔流は、矢のように直線上に疾り、凝り固まった“影”を貫いては散華させ、対岸の岩壁に衝突し抉った。
『嗚呼アアアァァァァ―――!!』
崩れ落ちる砂礫と共に、激しく波打つ湖面。それに引き摺られるように“影”は耳を
劈く断末魔を遺して、虚空へと掻き消えていった。
再び、場に深い
静寂が戻る。
激しく触れ動いている湖畔に立ち、ルティアは双眸を伏せていた。
深い地の底で、更なる思惟の深淵に沈んだまま、ポツリと零す。
「……澱んでいたマナは『勇者』によって還された。此方のマナは世界樹に還り、また世界を流れゆく」
捲き上がった騒動の余韻の風が鎮まり、そのすっかりと冷めた風が水面を柔らかく揺らす。寄せては返す漣が静かな揺り籠を織り成していた。
ふと、静寂の中で誰かの叫ぶ声が聞こえてきたような気がした。
「……っ!」
それに伴って来たる心が張り裂けそうな傷みに苦しくなって、よろめきながらルティアは思わず顔を歪め、ギュッと左胸を押えた。
「……まだ、駄目なのね」
込み上げて来る傷みに耐えながら、喘ぎ荒れた呼吸を落ち着けて、ルティアは大きく深く溜息を吐いた。
その場に膝を着いて、そっと静かに祈りを捧げるように両手を組み、憂いに染まった暁色の双眸を降りた瞼の間から覗かせた。
「此方に囚われし悲しき意識達よ。天律の元に、新たなる寂滅の旅路へ……」
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