――――第三章
      第十二話 魂の還る場所







 自分の中で延々と絶える事無く沸き上がる殺戮衝動。
“あの日”に己の裡に打ち込んだちかいの楔が、渦巻く憎悪の対象を前にして激しく動擾どうじょうしている。
 漆黒の双眸から零れ落ちた敵意と共に、狂奔する黒い思念は刀身を通して鋭利な刃の如き冷厳さと重圧を伴って殺意と化し、爛々と兇刃の輝きを増す。
 既に狂気に塗れきっている魂の破壊を求める雄叫びが、身体中の神経をズタズタに寸断しながら縦横無尽に駆け回る。それが咽喉を越えようとするのを、虚空に消え去りそうになっていた微かな知覚で閉口し抑えると、行き場の無い圧倒的な流れが烈々たる焔となって断裂した精神と、身体の内を灼き尽した。
 身体中の血液が沸騰して気化する感覚。筋肉や骨、臓器が燃え尽きて一握りの塵芥になる感覚。魂を覆う精神、その精神を縛する肉体が崩壊していく感覚。
(俺は、殺す為の剱)
 灼き切れた意識の残滓が自身に投げ掛けた一言。それで渦巻いていた衝動は意志に昇華される。自己を繋ぎ留めていた鎖が崩れ落ちる。
 荒々しく猛っていた焔は沈静化され、ただただ強烈な光を放つ灯火となった。その黒い光が静かに閃く度に、今自分を覆っている表皮の全てが削げ落ちて、その裡に眠っている静かな剱が極冷色の顔を覗かせた。
 身体中の感覚が甦る。刀身が形作られる。兇刃が血を求める。
 水の無い晴れた海のように決して何者にも侵されない静寂の中、虚無が何処までも広がる灰色の空の下で佇む自分がいる。感情が、心が完全に解離して、そこに残っているのはただ一振りの剱。
(俺は、ただ人の形をした剱)




 鷹揚に構えた『アン』の身体を乗っ取った者・・・・・・が、ゆるりと腕を振り被る。すると収束した闇が、獲物を狙う餓えた猛禽類の鉤爪の如く俊敏に伸びて来た。それに捕えられるという事は、身体を貫かれるという事を意味する。それを証明するように、その闇が貫いた場所はパックリと穴を開け、削り取られていた。
 周囲に散乱している岩石をも易々と断ち割って迫るそれを、サイドステップで横に跳躍してかわし、ユリウスは更なる前に踏み出す。その驟雨しゅううの如き鋭い尖撃の前には、カザーブ村で新調した鱗の盾で受ける防御など既に叶わず、手にしている剣と盾で何とか弾き、逸らし受け流すという防戦を強いられていた。
 だが、それでもユリウスを突進を阻む事はできなかった。
 一見すると無謀とも思しき突貫。だが、それは駆け巡る感情で視野が狭窄になり思考が回っていないという訳ではなく、寧ろ逆だった。身体を流れる血流は早くなっていると感じるが、思考は恐ろしく冷たく明瞭に次への行動の指示をはじき出し、身体に伝えていく。迫りくる闇の筋を読み切っては躱し確実にその差を詰めていた。
 そんな接近の意志を緩めないユリウスに躊躇を覚えたのか、一瞬だけ魔族の攻撃の手が緩んだように見えた。
 その刹那を見極め、踏み込む足に一層の力を篭めてユリウスは疾駆する。そして速さに乗った勢いで刺突を繰り出した。一直線に伸びる青白い光の軌跡は、闇の霧を滑り払って敵の身体に吸い込まれ、捉える―――。
 剣を前に繰り出しながらユリウスは、そう確信していた。
―――だが、有るべき筈の手応えは無く、まるで虚空に放ったかのように空気を裂くだけで、身体を貫かれた筈の敵は至極自然な笑みを浮かべて、悪意に満ちた眸でぬらりとこちらを見下ろしていた。
「何!?」
 闇をすり抜け着地しながら刹那の間、ユリウスは瞠目する。
 そして息を呑み込むいとまなく、咄嗟に左腕に括りつけていた鱗の盾を眼前へと放る。と同時に、身体の重心をずらして大きく身体を翻しながら横にんだ。
 一呼吸の間も置かぬ後、たった今ユリウスがいた場所を闇の爪牙が通り抜けていった。僅かにその到達が遅れたのは、放り投げた鱗の盾が闇を一瞬だが阻んでいたからだ。その本分を終えた盾は、無残に真っ二つになって冷たい地面に転がり落ちる。
 硬い岩床を叩く盾の甲高い音が周囲に木霊した。
「ほぅ……、今のタイミングで躱すとは。野蛮な人間に相応しき、たいした反応速度に敏捷性よ」
 愉快そうにこちらを見下ろす魔族に、ユリウスは目を細める。
(剣が素通りした……。奴には実体がないのか? いや……、こいつはこの地にひしめく大虐殺された者達の怨念が魔物化した…思念体の魔族ホロゴースト。実体が無いのは当然……)
 ユリウスはそう逡巡している間、魔族はただ黙ってユリウスの行動を静観していた。人間如きに負ける筈がない。そんな余裕と侮蔑、そして嘲りを篭めた冷笑をユリウスに浴びせていた。
(だが先程までを見る限り、『アン』の肉体と完全に同化している。ルビーを収めて顕現したという事は、こいつは完全にここの闇そのものと考えるべきか……)
 剣を握る手にユリウスは力を篭める。視線はより鋭くなり敵を捉えたまま、僅かな変化も見逃さず注視する。
 その時、床に転がっていた盾の残骸が目に入った。思わず見惚れる程に美しく滑らかな切り口は、確かな刃による斬撃の証明。
(あの闇……。攻撃に転じる時は実体を伴っているという事か)
 ユリウスは視線を敵から逸らさずに、目を細めながら眼前の敵を構成している知る限り総ての要素を頭の中で並べていく。知識の断片を組み合わせて、打開の智恵を築き上げる。そして、導かれるのは次にとるべき行動。
(この祭壇の場所が怨念…闇の射出いだす処というのならば、ここでは歩が悪い。……ならば)
 余裕からか口角を歪ませて魔族は言う。声色は『アン』という女性のものである為、その冷然と響く高い声調がより一層こちらを扱き下ろしているように聞こえていた。
「どうした? 次はどう動――」
「ニフラム!」
 相手に全てを言わせる前に、左手を前に翳してユリウスは浄化魔法を放つ。その呪文と共に発したまばゆい清浄な白光はユリウスの掌から顕れ膨れ上がり、周囲を、やがては神殿総てを呑み込んだ。
 余りの光の強さに、魔族は眼を細める。
「これは……」
 全身にピリピリとした感触が伝わる。自らを形作る闇がこの浄化の光にあえいでいたのだ。だが、それも束の間。辺りに犇いている深い闇の前でそれは呆気無く抑えられ、終には逆に黒く塗りつぶされてしまった。
「その程度の浄化魔法など、雨中の篝火かがりびよりも儚きものよ。我らが闇を払うには至らぬわ!」
「そんな事は解っている」
「何!?」
 嘲るような魔族の物言いに、ユリウスは微塵も焦りを孕んではいない淡々とした口調で返す。そんなユリウスを睨みつけようと魔族は目線を動かすが、光の残滓で視界が閉ざされてしまっていた。
(光に隠れて攻撃して来るつもりか!)
 緩めていた顔を引き締めて、より一層の闇を自らの周りに収束させる。そして、周囲にまだ名残惜しく犇いていた光をむしばむように呑み込んでいった。
 やがては完全に押さえ込まれ、眩んでいた視界が元に戻る。
 還った視界には、ユリウスがただ悠然と立ち構えていた。その傍らには、魂が抜けたようにただ呆然と床に座り込んで、弱弱しく震えているミリアがいる。
 周りで何が起こっているかなど、まるでわかっていないような光の宿らない藍青の双眸。所在無く虚空に彷徨さまよわせたままの様子を無感動に一瞥した後、ユリウスは左腕でミリアを抱き上げる。
「…………」
 軽々と小脇に抱えられたミリアは何の反応も示さない。ただ腕に伝わるのは彼女の震え。小刻みに自分に伝染してうつってくるかのようなそれに、ユリウスは小さく舌打ちをする。
「貴様っ!」
「種族差からか、魔族化したから余裕が生まれているのか知らないが、それで足元をすくわれるようでは愚の骨頂だな」
 眼前の敵である魔族が声を荒げた。今の今まで余裕を醸していた声色ではない事が良くわかった。
 憤然する魔族を冷たい視線で嘲笑いながら、ユリウスは切っ先を敵に向けて突きつける。そして――。
「イオラ!」
「!」
 紡がれた呪文と共に、剣先に光が収束し始める。やがてそれは瞬く間に肥大し、圧し止めきれなくなった光球から一条の光の筋が零れる。それは祭壇の周囲の石床を、立ち並ぶ列柱を駆け抜けた。
 そして刹那の後、決壊した光の洪水は圧倒的な光と熱、風と圧力を伴う爆発となって光筋を疾った。




 鼓膜を激しく打ち鳴らす轟音が、閉じた空間の中に響き渡る。

 爆心地であった神殿の中の祭壇を始め、そこを囲んでいた列柱を次々と爆破して神殿そのものが崩れ落ちる。
 内からの衝撃に外側に倒れる石柱は、飛礫を撒き散らしながら風と共に湖水や辺りに降り注ぎ、無残な瓦礫の間から大きく巻き上がった土煙は闇に変わって灰暗色に視界を覆い尽くしていった。






「ユリウス!」
 ミコトは叫んだ。
 突如、神殿の内側から起こった轟音と捲き上がる煙塵。そしてそれと共に崩壊する天蓋と列柱。光と闇がせめぎあって、内の様子が窺い知れなかった事に焦りを覚えていた矢先のこの爆発。
 神殿に居る筈のユリウス達の安否が気がかりになった。
 噴煙のように懇々とまき上がる土煙は、完全にその内外を切り離している。それを見止め、どうしようかとミコトが逡巡していると、その鈍色の帳に薄っすらと影が映った。
 一体誰のものなのか、と警戒に構えるもそれは杞憂に終る。
 無表情のまま煙の中を駆け抜けてくるユリウスと、彼に抱えられているミリアのものだったのだ。
 小脇に抱えられても何の反応すら見せていないミリアの様子に、焦燥を覚えるもミコトは先ずユリウスに声をかけた。
「やった…、のか?」
「あの程度の魔法で、魔族が滅びる訳が無い」
 恐る恐るといった声のミコトに、感情を孕ませずに淡々と返す。ユリウスは後退して他の同行者達がいる所まで下がり、ミリアを抱えていた腕を解いた。
 ただ力無く、ドサリと地面に身体を落としたミリアはやはり何の反応も見せない。
「ミリア!」
 不安に叫びながらノエルは彼女の傍らに駆け寄った。ノエルの声に反応してか、ミリアは力強く自分を抱きしめながら小刻みに震え始めた。
 その様子を横目で捉えながらミコトはユリウスに近付く。
「……ミリアを助けたのか?」
「別に助けた訳ではない。あの場に居られたら邪魔だったからだ。それに――」
 完全に感情が消え失せたのかと思えるほど単調に、ユリウスは口早で続ける。
「奴の狙いはこいつの身体を乗っ取る事だ。ならば、奴から離した方が得策だ」
 説明に何となく納得がいっていないようなミコトを視界から外して、ノエルの横に立っていたソニアを冷たい瞳で一瞥しながらユリウスは言う。
「一応、キアリクでも掛けてやるんだな。ルビーの光で精神的な呪縛に囚われている可能性もある」
「あなたはどうなの? あなただって……」
 あのどうしようもない悲しみが、先程の紅い光によって引き起こされたものならば、この場にいた全員がそれを浴びている筈。そう懸念しながらのソニアの言葉に、ユリウスは踵を返す。
「問題無い」
「でもユリウス。あなた……、その腕も」
「触るなっ!」
「っ……!」
 未だにナイフは腕に突き立ったまま。そこから刃に紅い雫が伝わって地面に滴り落ちている。それを治療しようとソニアは手を近づけるも、乱暴に冷たくユリウスがそれを払った。
「……来る」
 瞬間的に見せたユリウスの激情に身を竦ませるソニア。それを捉える事無くユリウスは、ただ敵の方に視線を送っていた。
「図に乗るなぁ、人間が!」
 煙を払い除けて跳び出して来た敵の咆哮と共に、発せられた圧倒的な闇と魔力の流れは犇いていた土煙を払い飛ばし、宙空でルビーは一際妖しく輝いた。






 魔族の天をく叫びと共に発せられた光。先程のような麻痺を警戒したのか、全員がそれを捉えないように眼を覆う。だが、今回は違った。
 紅い蟲惑の光に誘われて、人面が付着したような奇怪な形をしたきのこの魔物…マタンゴ。より凶暴化して人の頭蓋など容易く噛み砕いてしまう程の顎を持った人面蝶…人喰い蛾。バリイドドッグ、バンパイアといった、この洞窟に足を踏み入れてから遭遇してきた魔物達が、大挙して橋の周りに集まり始めたのだ。魔物は群れを作り、橋を包囲するように展開している。ただ破壊衝動に突き動かされている魔物にあるまじき、知性によって導かれた行動だった。
「……囲まれた」
 ヒイロは険しい顔つきでチェーンクロスを構え、腰に携えていた掌程度の刃渡りを持つアサシンダガー、その柄底を鞭の先端の分銅に繋ぎ合わせた。予め細工が施されていたのか、それは寸分違いなくまり、完全に固定される。その状態を確認して油断無く呟く。
「こんな状況なら、仕方が無いか」
 左手に掴んでいたダガーの柄を軽く宙に放り、右手で一気に鞭を振り抜いた。
 横一文字に空を切る鞭は次々と魔物の群れを薙いで行く。鞭が持つしなやかさと強かさを秘める威力を加えた刃の閃き。それは戦士の剣撃の一閃をも凌駕する。本来ならば敵を穿つ鎖の鞭のつぶて攻撃は、敵を切り裂く風刃となって魔物の群れの間を駆け抜けた。
 閃く刃に難無く魔物の群れは切り裂かれ、両断されていく。運良くそれを免れた魔物も致命傷は免れない。
 次々と地に伏していく魔物の中、掠り傷程度で済んだ数匹のマタンゴが体当たりによる攻撃を仕掛けようと次々と跳び掛ってくる。が、その跳躍の最中に突如として動きが止まり、地面に落ちる。
 生々しい音を立て、地面との衝突の際に崩れ飛び散った自らの体液による水溜りの中で、ピクピクと小さく痙攣していたかと思うと、終には動かなくなり骸へと変わり果て、虚空に消えていった。
「ど、どうしたの?」
 その様子をヒイロの後ろで、魔物の動きに警戒しながらミリアに麻痺の治療キアリクを施していたソニアは呟いた。
 鞭の柄を巧みに操っては手繰り寄せ、左手で再びダガーの柄を掴む。前の魔物の群れから視線を外さぬまま、ダガーを掌で弄びながらヒイロ。
「このダガーの刃には、猛毒が塗りこまれていてね……。あまり気持ちの良い物じゃないけど、ここでやられる訳にもいかないだろ」
「え、ええ……」
 狼狽を隠しきれていないソニアに一つ苦笑を零して、ヒイロは真剣な声色で言った。
「ソニアはミリアを見ていてくれ。まだ動けないだろうからね……。ノエル君は魔法で援護を頼むよ」
「は、はい!」
 声色に緊張を貼り付かせて、ノエルは魔道士の杖を両手で握り締めた。





 武闘家を武闘家たらしめる素早さを持って、闇の刃雨を駆け抜けながらミコトは跳び膝蹴りを敵に繰り出す。だが、それも空を切るだけで効果が無い。ただ蹴撃の軌跡に沿って風が生まれ、その部分だけ闇が薄くなるという程度だった。
 チッ、と一つ顔を歪めながら舌打ちをして、体勢を取りなおし後退する。追撃の闇の刃も、ミコトの電光石火の動きを捕らえる事は出来ず、まさに一進一退の攻防が続いていた。ただ、攻撃が当たる事が無いのと、攻撃が当たっても効果が無いのとでは長期戦においてどのような結果をもたらすのか、それは火を見るよりも明らかだった。それが解っているだけに余計にミコトは気を苛立たせていた。
「攻撃が通らない……。どうすればいいんだユリウスっ!」
 大きく地を蹴って後退し、共に敵と対峙しているユリウスの傍らにミコトは戻る。
 その様子を見る事も無く、敵を射殺すように睨みつけながらユリウスは酷く落ち着いた様子で返した。
「どうもこうもない。……殺すだけだ」
「だからっ、それは――」
「メラ。メラ。メラ……――」
 苛立ちを募らせるミコトの言葉を遮って、ユリウスは連続して火球魔法を紡ぐ。
 発せられた火炎弾と共に、剣を構えたまま疾駆して斬りかかるも、圧倒的な量の闇の前に火球は溶けるように掻き消され、剣撃は霧を薙ぐように虚空を掠めるだけ。
「ニフラム」
「効かぬっ! メラミ!!」
 振り向き様に再び浄化魔法を放つも、ユリウスの掌から発せられた白光は、魔族が翳した手より生まれた青白い巨大な火球に呆気無く呑み込まれてしまった。そして振り下ろされた腕と共にそれ・・が降ってくる。空気を貪欲に貪り尽くすその業火の息吹に、暗闇に満ちていた洞窟が平伏すように、冷たい煉獄れんごくの光に溢れた。

 耳を傷めてしまうような轟音が周囲に響き渡る。
 砂塵と土煙に周囲の喧騒が無くなったかと思うのも束の間。捲きあがる風と闇が地を切り裂いていく。
 間一髪でそれらを躱していたユリウスとミコトは、晴れた煙の…火球によってえぐられた岩床の窪みを見て眼を細めた。恐らく、アレの直撃を受けていたら骨も残らなかっただろう。それを否応無しに思わせる現実を前に、ミコトは背筋に冷たい何かが這っているような気がしてならなかった。
「メラミの威力では無いな……。まぁ、元がエルフならば納得は出来るが」
「そんな悠長な事言っていられる状況かっ!」
 だからこそ冷静に検分するユリウスに、ミコトは怒鳴らずにはいられなかった。
「ギラ!」
 振り上げた左腕から真っ直ぐに赤い閃光がはしる。それは一直線に伸びるも、先刻放った火炎弾と同じ末路を辿り、闇の壁に衝突しては敢え無く潰えてしまう。それを見止めながらユリウスは目を細めた。
「……やはり魔法が届いていないか」
「何でっ!?」
 少しずつ後退しながらも、視線は敵から離さずにミコトはユリウスに言う。こちらの攻撃による効果が無い事が、予想以上に自分の気概に負荷をかけていたのだ。その為、焦燥感から声の調子がいつもより乱暴に高くなっている。
「奴から溢れ出ている瘴気…あの闇に圧されて魔法が掻き消えている。つまりあの闇は純粋な魔力エーテルと等価だと考えられる」
「なっ」
「そして、奴は魔族の状態でも元はエルフの肉体だ。エルフは周囲から魔力をほぼ無限に収束して魔法を紡ぐ」
「それじゃあ……」
「ああ。ここの地底湖…陰に染まったマナの源泉は、魔族体である者にとっては最高の餌場だ。奴に限界など無いだろうな」
 窮地に追い込まれようとする意識の中、至極淡々と返してくるユリウスにミコトは背筋が凍るような思いになった。どこかこの状況に喜悦すら感じるその様子は、今まで同行して来た間で見てきた彼のどんな姿にも重ならない。ただただ冷然に、冷厳に。冷徹なその面はまるでその手にしている剣そのもの。
 僅かに前に踏み出しているユリウスの顔を見つめながら、ミコトはゴクリと唾を呑みこんだ。
「……どうする?」
「何度も言わせるな。……殺すだけだ」
 剱のように鋭くなった視線を前に投げ掛けたまま、ユリウスは無意識的に口角を歪めていた。

(まともに効いた…いや通ったのは不意打ちの一発ベギラマだけ。非物質アストラル体にダメージを与えるには、エーテルを孕ませた攻撃しか無理だ。だがあの溢れている桁外れの量のマナに、こちらの魔法攻撃は通らない……)
 ユリウスは剣の柄を握り直し、力を篭める。その強さに刀身がギシリと戦慄わなないた。
(となると、残る手段はアレ・・しかない)
 揺ら揺らと動かしていた剣…その研ぎ澄まされた切っ先に敵の姿を載った時、ユリウスの考えは結論に至る。静かに息を吐きながら、意識を剣に集中させようとした時だった。
「……出し惜しみできる状況じゃないって事だな」
「?」
 言いながらミコトは右腕に装備していた鉄の爪を外し、邪魔にならないように後方に放り投げる。
 戦闘中に自分の武装を解くミコトの行為に怪訝な視線を送っていたユリウスは、彼女が懐から取り出した一本の小刀に目を止めた。
 滑らかな乳白色が鮮やかに栄える鞘から抜き放たれた刀身は、芸術品とも言える程に美しく洗練されている片刃だった。緩やかに反り返り青白く光を返す刀身に施された波打つ模様は、自分が持つ剣との絶対的な性質の差を見せ付けているようだった。
 左手で鞘を掴み、右手ではその流線の刃を人差し指と中指を立てた…まるでナイフを投擲とうてきする時のように構える。そして、ゆっくりと刃を持った右手を左から右へ、上から下へ……。精霊神ルビス教徒が祈りの際に執り行うのに似た仕草を、何度も繰り返していた。
「臨める兵、闘う者、皆、陣をきて、前に在り」
 低く、まるで自分自身に言い聞かせるようにミコトは何かの文句を呟いていた。
 精神を集中させているのか、その双眸は伏せられている。静かに深く、一定の感覚で呼吸を繰り返していた。
 何かしらの儀式、と思える行動の間に、ユリウスは肌に何か張り詰めたピリピリしたものを感じて、ただ黙したまま横目で捉えていた。
「滅っ!」
 開眼と同時に放つ言葉。それに応じて刀身が淡い光を纏い始めた。
 それを確認するまでも無く、クルリと器用にミコトは刀身を返してそれを逆手に構える。そして敵に向かって疾駆した。
「無駄だというのがわからぬかっ!」
 迫り来る淡緑の風に、眼前の敵は吼えながら闇を幾重も閃かせてくる。だが全身にフォースを漲らせたミコトを捉える事は出来ず、接近を許す。
 地を蹴って跳躍し、身体を大きく翻しながら遠心力をつけ、一気に拳を突き出した。
「これはどうだ!!」
 勇ましい喚声と共に刃は霧散する闇を捉え、その深奥で護られていた肉体にまで到達し接触する。そして皮膚と肉を切り裂く特有の手応えが刀身を伝わり、掌に微かな痺れを齎す。
「そんなもの……、なにぃ!?」
 他者が触れる事など叶わないと絶対の自負を抱いていた闇を、その肢体ごと切り裂かれ明らかに敵は動揺を示す。切り裂かれた闇の割れ目から青い血液が周囲に飛び散った。
 ミコトは大地に体勢を低くして着地し、その反動と全身のバネを使って再び跳びながら腕を振るい連撃を繰り出す。
 信じ難い事実に驚愕し、隙だらけになっていた敵を、緑と白の旋風は容赦無く次々と切り裂いていった。

(……あれは、魔導器のようなものか)
 目を細めたままミコトの手の中の物を注視し思う。
 幾つか不可解な点があるが、あれは魔族に対して効果のある武器である、という事は魔族の身体に増えていく傷で良くわかる。
 そんなユリウスの思考を裏付けるように、魔族が纏う闇に触れる度に、ミコトの持つ小刀の刀身はそれを貪るように光を揺らめかせていた。
 風に攫われる流水の如き演舞による攻撃の前に、見る間に魔族の全身には無数の切り傷がつけられてゆく。そこからは夥しい量の青い鮮血が噴き出し、闇が溶け薄まる様は明らかな消耗の事実を代弁していた。
 だがそのどれもが致命傷に至っていないのは、やはりこの地の性質によるものなのか。この地に満ち溢れている陰と闇は絶えず魔族に流れ込み、その力を後押ししているのだ。
 連撃を繰り出していたミコトが一旦退いた。特殊な武器を扱っている代償なのか、確かな疲労がその顔には浮かび始めていた。
 そんなミコトが一つ深呼吸をして再攻撃を試みようとした時、この地下空洞の空気が激震した。
「人間は人間らしく、無様に散るがいいっ! バギクロス!」
 大気の鳴動に一瞬ミコトが硬直する。
 敵の背後から生み出された巨大な真空の流れが、その進路上にあるものを切り刻みながら迫ってくる。風速で迫り来るそれを、唖然としたまま眸を大きく見開いたミコトは躱せないと、瞬間的に思った。
 捲き上がった小さな岩や瓦礫の破片を粉砕し、水飛沫を宙高く撒き散らし、逆巻く気流の激動が耳を突く。まだそれからは離れているにも関わらず、一閃して跳んできた何かが頬に一筋の軌跡を残す。のっそりと垂れるそれは汗とは全く別のものだと言う事を、どこか頭の片隅で理解していた。
「まずい……」
 この場から離れなければ、と脳と意識が指示を下すも、激しく吹きつける風と疲弊に足が動かない。本能的に体勢を低くして顔を守る為に両腕を交差させて盾にするも、その両腕が丈夫な武闘着諸共切り裂かれ、覗く視界に紅い血潮が飛散した。
「おい」
「!?」
 同じように肌や衣服を小さく無数に切り裂かれながらも悠然と立ち構えていたユリウスは、至極冷静に自分の前に立っていたミコトの襟首を左手で掴んでは、自分の方に強引に引き寄せる。同時に入れ替わるように身体を反転させ、刀身を敵との境界にすべく斜めに翳し、紡いだ。
「アストロン!」
 真空の刃の狂宴が生身の二人を切り刻む直前に、ユリウスの魔法で金属化した二人。
 身体の自由を犠牲に得た絶対的な防御。意識だけが働く檻の中から、嵐が視界の総てを切り刻んでいく様子を眺めミコトの意識は唾を呑んでいた。
 荒れ狂う風の刃が自分達を切り裂く事は無かったが、それでも圧倒的な風圧と衝撃の前に身体が浮かび上がるのを感じる。幾ら金属の身体といえども、擾乱じょうらんする風の力に抗え切れず、浮き上がっては後方に吹き飛ばされてしまった。
「ミコト! ユリウス!!」
 ソニアの叫び声が、暴風の為す裂帛れっぱく音に飲まれて虚空に掻き消えていった。
 紙のように宙を飛ばされている動かない体と、何とかこれを脱しようと足掻いている意識。眼前に迫る地面がまるで何処までも続く絶壁のようにそびえている。どうしようも無い状況だと解っていながら、ミコトの意識は思わず両腕で顔を覆って視界を閉ざしていた。





 退路上の橋、その周囲に広がっていた魔物の群れは、ヒイロの攻撃とノエルの魔法で片がついていた。この洞窟に満ちた邪悪な気配によって、その存在に何かしらの加護があった為なのか、前衛で鞭を振るっていたヒイロや魔法による援護をしていたノエルの表情はあまり楽観視できない。明らかに疲労の色が浮かんでいるその様子に、後ろから見ている事しか出来なかったソニアは内心とても歯痒かった。
 自分のすぐ側に地面に座り込んでいるミリアの治療は既に終えている。彼女もまた先刻のルビーの光によって精神に何かしらの呪縛を受けていたのだ。だがそれから解放したというのにも関わらず、容態は一向に改善する事は無く、ただ光の宿らない双眸で後ろを…つまりユリウスが魔族と称した存在と戦っている、ミコトや彼の方を映しているだけだった。
 ふと、背後から項をゾッとさせる風の流れを感じた。そして次に放たれた呪文の内容にソニアは戦慄する。
 バギクロス…真空系最高位に位置する風の魔法。今の自分にとって遥か星霜の彼方にある境地。知識でしか知らない遥かな高嶺のそれに、ソニアは震えながら振り向いた。
 視界に入る岩と闇と湖。その三者をも巻き込んで立ち上る大気の怒り。その圧倒的な流れを前に、鈍色の光を纏った二人が呑み込まれ、宙高く舞い上がり、こちらに吹き飛ばされてきた。
「ミコト! ユリウス!!」
 二人が冷たい地面に衝突すると、硬質な金属と岩壁がぶつかる甲高い音が聴覚を襲い、立ち上った砂埃に視覚を奪われる。あの竜巻はどうやらたった今吹き飛ばされてきた二人だけを狙ったもののようで、既に姿を消し、この辺りまで及んで来る事はなかった。ただ未だに豪嵐の残り香ともいえる風の流れは、閉じたこの空洞の中を行き場も無く駆け巡っていた。
 その風に流されて煙が徐々に晴れていく。
「くそっ!」
 金属化が解け身体が自由になったミコトは勢い良く立ち上がる。が、膝に力が入らずによろけて片膝をついてしまった。
「ミコト!」
「……大丈夫、ちょっと疲れただけ」
 慌てて駆け寄ってソニアは切り裂かれている腕に回復魔法を施す。それを見て、ミコトは少し気だるそうに表情を緩くした。
 その弱弱しさに、ソニアはミコトの憔悴振りを感じずにはいられなかった。





 周りの同行者達がこちらに集まり始めたのを、視界の片隅で確認しながらユリウスは服に付いた砂埃を払い落とす。空色の衣服に滲んだ赤い鮮血が蝕みながら広がりつつある。それが砂塵と混ざり合って生まれる鈍粘の腐泥が自分の全てを侵蝕していった。
 痛みがあれば、それから逃れようと足掻いたかもしれない。だが既にそれは無く、自らの手傷を気にもしないで剣を握りなおし、ユリウスは無機質な視線で敵を捉えた。
「やめてっ!」
 その時、今の今まで心此処に在らずで呆然としていたミリアが左腕にしがみ付いてきた。懇願するように見上げてくる双眸には、いつもの強い光は無い。
「もう、やめて! アンを傷つけないで!!」
 裏返るような高い言葉に、今更何を言うのだ、とユリウスは冷たい視線でミリアを見下ろした。
「じゃあ、どうするんだ? 抵抗しないで大人しく殺されるのか?」
「……これは私の罪の形。アンに殺されるなら、私は……」
 下唇を噛んで俯くその姿は、諦めにも似た何かを感じ、受け止めている者のそれであった。ユリウスはそれを一瞥し、即座に視線を引き剥がす。そして感情の載せない声で冷淡に続けた。
「お前がそれを享受するのは勝手だが、他人がそれにならう理由は無いな」
「!」
「罪に対しての罰は、厭くまでも罪を犯した者にしか意味など無い。……逆も同じだ。だがその輪から外れた他の者にとっては迷惑な事、はなはだしい」
 俯いたままのミリアを刹那、一瞥した後ユリウスは小さく溜息を吐いた。
「……聞くが、アレはお前に罰を与える事の出来る存在か?」
「えっ……?」
 愕然と見上げてくるミリアを、ユリウスはもう視界に捉えようとはしなかった。ただ漆黒の双眸のうちに滾っている黒い光で、眼前の敵を見据えていた。
「生憎と、俺はお前がどんな意思でそんな事を言っているのか、それを汲むつもりはない。だから、はっきり言わせて貰うが……アレは魔族だ。ああ・・なった以上、もう二度と元には戻れない。……既に奴には、エルフの王女アンの意識など残ってはいないだろう」
「あなた…何を言っているの? 何で、そんな事が言えるのよっ!?」
 信じられないのか、認めたくないのか。震える視線でミリアは見上げてくるが、ユリウスはそれを気にも止めない。目の前に立つのは魔族てき。自分の中で既にそう認識している以上、周りにどんな感情が蠢いていようが、翳した切っ先は揺らぐ事は無い。否、揺らいではいけないのだ。
「……戻れない。例え、いかなる手段をもってしても…だ」
 僅かに声をくぐもらせつつ言い切り、ユリウスは剣を構える。
 自分の顔の前で剣を真横に構え、柄に左手を添える。鏡のように自分の顔を映す刀身には、ただ漆黒の光を宿した双眸だけがギラギラと輝いていた。
 そのユリウスの様子を見上げながら、ミリアは震える声を上げる。
「な、何をするつもり!?」
「……魔族てきは殺す。容赦などしない」
「やめて!」
 悲嘆に叫ぶミリアの声は…いや、周りに居る者達の声など既にユリウスには届いていなかった。
 ただ意識を集中させ、全身と手にした刀身との境界を無くし一体となる。一振りの剱と化した全身に駆け巡る力を束ね、かたちを与えた。
あん貫きて煌く光よ。充ち輝きて力の刃とならん! ニフラム」
 魔法を唱えたユリウスの手にしている剣、そのつばから切っ先に広がるように白光が刀身を覆っていく。顕れた光の白刃の眩しさと、理解を越える現象に誰もが眼を奪われていた。
「な、何だ…それは!?」
「ユリウス!?」
 先刻、ミコトが振るっていた小刀の刀身は有機的な柔らかな光を点していたが、ユリウスのそれは完全に無機的な、見る者、触れる者を無慈悲に切り裂くような鮮烈にして冷厳な光に満ち溢れていた。
「小賢しいっ!」
 それの危険性を本能的に察したのか、魔族がこちらに向かって閃かせてきた闇の爪牙に、ユリウスは光の白刃を合わせた。甲高い金属音が洞窟内に響き渡ったかと思うと、白刃に触れている闇が凝縮された光の奔流に蝕まれていき、消滅…浄化されていく。
「ば、馬鹿なっっ!?」
 ユリウスは剣を操り、伸びている闇の路に白刃を這わせながら、その先にいる敵に向かって地を蹴る。
 闇の爪牙を二つに断ちながら、剣の間合いに入り込んだユリウスは、敵の目前で小さく回転し、袈裟懸けに光の白刃を振り下ろす。それは纏っている闇もろとも『アン』の左腕を肩口から切り飛ばした。
 宙を弧を描いて舞う腕、闇に霞んだままの身体。その両方の傷口から大量に青い血潮を飛び散らせるも、白く輝く刀身に触れたそれはバチンッと大きな音と煙を立てて消え失せていた。
「ぐああああああぁぁ!」
 敵の叫びに気をとられる事無くユリウスは無表情で剣を返し、大腿を真一文字に深く切り裂いた。
 眉一つ動かさず、息を吐く暇なくユリウスは追撃する。
 逆袈裟に切り下ろしては、魔族の右の肘より先を切り落す。数歩横に落ちたそれは血を吹き上げながら痙攣している。
 ユリウスは腰を落とし、右薙ぎに敵の両膝を断った。魔族は四肢が分断されても地に身体を横たえる事無く、闇を纏いながら宙に浮かんでは苦痛に喘ぐ。
 その様子にキリが無いと判断したユリウスは、一気に止めを射そうと大上段から唐竹に切り下ろした。
 天から降って来る鋭い斬撃に対して、魔族は纏っていた闇の全てを一点に収束し、それを壁として迫る白刃に対抗した。だが、ミコトとユリウスに付けられた無数の傷が回復していないその身体に、放たれた一撃を完全に受け止めるだけの力は無く、魔族は大きく後方へ吹き飛ばされた。





「や、やめて……」
 暗闇の中に響く悲鳴。その声は良く知るアンのものである為、ミリアにとってそれは聞いていられなかった。苦痛に喘いでいる呻き声に記憶の中の何かが掻き回され、ミリアは耳を押さえてそれを拒むように頭を振る。
「やめて、やめてっ!!」
 ミリアの叫びに応じて、宙空に巨大な火の玉が生まれた。それは轟々と空気を貪ってその荒々しさを示す。
 驚愕している周りを他所に、ミリアはそれを今も大事な人アンを傷つけているユリウスの背中に向かって振り下ろそうとした――。
「やめ……」
―――パシンッ!
 乾いた音が周囲に響き渡った。
「!?」
「いい加減にしないか!」
 視界に立ち塞がったミコトの怒声に驚いて、呆気にとられたミリアは弾かれたように顔を上げる。憤然に顔を薄っすらと紅潮させているミコトの緑灰の双眸には、ただ激しい感情が浮かび上がっていた。
「何よ……」
「償う為に殺される? 死ぬ事が贖罪の形? そんなの間違っている。それこそ現実つみから逃げているだけじゃないか!」
「…………」
 顕れた火の玉も既に消滅していた。容を保つ為のいしずえである魔法構築が疎かであった為に、意識が反れた瞬間に脆くも崩れ去っていたのだ。そして、それは同時にミリアの昂ぶっていた精神の鎮静を意味していた。
「罰を受ける意志と覚悟があるなら、生きてそれを受けるんだ。赦されたいと願う意思があるなら、生きる事がそれに繋がるんじゃないのか!? 死んだら…死んだらそれで何もかもが終りじゃないか。生きる事から逃げて、全てを放り投げて、それで一体何が変わるって言うんだ!?」
「あ、あなたに何がわかるって言うの! 何も知らない部外者の癖に!!」
「ああ、わからないさ! でも、あなたがアンさんを慕っていたのは解る。あなたがアンさんの子供のノエル君を大事にしているって事は解る。あなたの大好きだったアンさんが、そんな事を望むのか!? アンさんはあなたが死ぬ事を本当に望んでいるのか!?」
「それは……」
「いつものあなたはどうしたんだ、ミリア! あなたはノエル君を護るんだろう? ここであなたが死んだら、ノエル君が悲しむって事がわからないのか!?」
 真摯なミコトの叫びに触発されたのか、ノエルがミリアにしがみ付く。
「そうだよ! ミリア……お願いだから、死ぬなんて言わないで。でないと僕…、僕!」
「…………ノエル」
 大きな瞳に涙を浮かべているノエルを、ミリアはただ弱弱しく見つめていた。





「く……。身体さえ…純エルフの身体さえあれば、こんな人間如きに!」
 ユリウスの光の白刃を前に完全に窮地に陥った『アン』は、ミリアの方に向かって宙を滑走していた。
 既にユリウスによって切り飛ばされている四肢からは、魔族のおどろおどろしい青い血が絶え間なく噴き出ていた。
 そんな激痛と苦渋に醜く歪められた顔には、最早麗しいエルフの面影など残していない。半ば狂乱するように闇の爪牙を振り上げるその姿に、ノエルはミリアを庇うように立ちはだかった。
「あ、危ないミリア!」
 勢い良く振り下ろされる闇。
「邪魔するなぁ、小僧!!」
 小さな背中から悲鳴を上げるミリア。
「ノエルっ!!」
 三者の叫びが周囲に木霊した。




「……え?」
 思わず眼をきつく瞑ったノエルは自分に何も起こっていない事を不思議に思い、恐る恐る目を開ける。
 顔を覆っていた両腕の隙間から見える視界には、確かにたった今自分に迫っていた人物の姿が捉えられる。だが時が止まったかのように動く気配が無い。
 何事かと顔を上げて、ノエルは大きな眼をさらに見開いた。
『……ノエル』
 そこには、いつもミリアが向けてくるような優しげな光を宿した、自分と同じ群青の双眸があった。黒かった髪も今は鮮やかに映える深緑のそれで、慈愛に満ちた雰囲気はかつてどこかで見た事があった。
「お……、お母さん!?」
 ポツリと零す。それに眼前の人物は嬉しそうに、たおやかな笑みを作る。
「ア、 アン……」
 背中でミリアも同じような顔をしているのだと、ノエルは思った。声色がそれを物語っていたからだ。
 それを受けて『アン』も視線を動かす。今度は、眼を伏せ済まなそうな表情を浮かべていた。
『ミリア……』
 声が途切れ、姿が変容する。優しい面が苦悶の形相に変わった。
「何、なんだこれは……。まさか、この身体の意識がまだ!?」
 両腕で頭を押さえようとするが、既に切り落されている。それでもその仕草を続けていた。
 豊かな髪が再び、鮮緑に戻る。
『私とスルーアの子…ノエル。……こんなに、大きくなって……。ミリア、ミリア――』
「アン……、本当にアンなの!?」
 ミリアに問われ、応えようと笑みを浮かべようとした時、髪が再び黒く染まった。
 その瞬間、背後からユリウスがその背中を深深と切り付ける。漆黒の闇に塗れた髪が無残に宙を散り舞った。





 黒から緑へ、緑から黒へ……。変化し続ける髪の色と周囲の闇の変化に瞠目するも、ユリウスはそれを気にするつもりなど無かった。今までに無い内側からの抵抗に悲鳴を上げ続ける魔族を切っ先に捉える。
(……このままでは剣がもたない)
 掌を通して伝わるこちらの状態に、内心で小さく舌打ちをする。そして瞬時に、新たな攻勢の算段を組む。
(……ならば)
 柄を握る手に力を篭め、ユリウスは白銀に輝く剣を水平に構えたまま、魔族に肉薄した。
 魔族はその接近に気付き、闇を盾にユリウスの突進に抗する。
 バチリと、何かの悲鳴が鳴り響いた。
 侵蝕し合う白と黒の波動に、周囲の岩や湖面が嘶き、振動する。
 少しでもこの闇をずらしてしまえば、この白刃に切り裂かれる。拮抗を保ちながらそれを確信して魔族は大きく歯噛みする。この状態を維持する事が今の己の限界であったからだ。
 だが、それがユリウスの狙いだった。均衡に保たれたまま静止している身体。それを支える足に更に力を篭めて、圧倒する。その先にあるのは、陰りに染まった地底湖。
 押され往く身体、その先に在るものを理解し魔族は叫ぶ。
「愚か者が! 直接あの泉に入れば我の力は増すのだぞ!」
「そんな事、わかっているっ!」
 それに返るのも叫び声。ただならぬそれは、ユリウスの感じていた焦りを顕していた。
「ちっ!」
 力の鬩ぎ合いに耐え切れず、大きく舌打ちをして魔族は飛び退く。水飛沫を上げながら湖の深い場所にフワリと降り立ち、湧き上がってくる力に悠然と構える。闇の収束に伴い四肢が生じた。
 湖面上に浮かび上がりながら、充実してくる身体…拳を握り締めて腕の確認をする。
「愚かな人間よ。敵に塩送るとはな……」
「愚かはお前だ。…………消えろ」
 ユリウスは無造作に剣を手放す。手から離れた瞬間、白く輝いていた剣は在るべき鈍色に戻った。
 何事かと目を剥く敵と周囲にいる者達。そんな視線の中、その場に跪いてユリウスは両手を湖水に浸した。
「漠々たる幽明にまろびる無垢なる流れよ。真なる理の交響にて、あるがままに還れっ! トへロス!!」
「!」
 何か・・がユリウスを中心に円状に疾る。
 それが不可視の魔力の波動である事に周りが気付くまで、時間を要した。
 その周囲の瞠目の間も変化は起こり続け、やがてそれは目に見える形になって顕れる。
 ユリウスを中心にして、今の今まで闇色に染まりきっていた湖水の色が薄まりはじめ、やがて淡く光を点し、終には眼を開けていられないほどに眩く煌きはじめたのだ。
「ぐおぉぉぉぉぉぉおおお!」
 光に変わった湖水に囲まれていた魔族が苦悶に絶叫する。その荒々しさは今までの比ではない。陰に属する魔族体にとって、その指向を陽に塗り替えられた湖面上に立つというのは、猛毒の霧を発する沼地に立ち尽くす事と同じである。その湖水に触れると身体が灼かれ、立ち上る空気を吸うと精神が蝕まれる。
 叫びの中でもはっきりと聞こえる、バチリと耳を打つ喚声は闇が光に塗り替えられていく際の嘶き。瞬く間に光はこの広大な地底湖全体に渡り、薄暗かった空洞が光に充たされた。
「……すごい」
 ソニアが唖然としたように呟いた。湖が漂わせていた邪悪な気配が、湖水全てに光が行き渡ると同時に薄れ消えていく。洞窟に入ってから忘れていたこの清々しさは、先程休憩をとった聖域とは似て非なるもの。
 軽くなっていく体と心。現実ならざる神秘的な光景に、誰もが眼を奪われていた。

「これは……!?」
 両手を湖水に浸したまま、ユリウスは目を細める。
(普段のトヘロスの消耗量じゃない。……自分の中の魔力が急速に失われ…いや、奪われている!?)
 自分の中から何かが流れ出て、重く身体に圧し掛かってくる虚脱感と倦怠感……。このまま魔力を放出し続けていたら自分もただでは済まない。それを理解しながらユリウスは思った。
(……かまうか。魔族は…殺す)
 尚も途絶える事の無い黒い思念を裡に滾らせたまま、ユリウスは光を放ち続けた。





『立ってミリア』
「アン!」
 ユリウスの前で苦痛に絶叫を上げている『アン』の姿が再び変わった。足元からの光を反して白く輝いていた髪は、生き生きとした命の鼓動を秘める鮮緑になる。先程、陽炎のように顕れた時と異なり今は確かな存在を感じる。
 地底湖に満ちていた陰りが、ユリウスの魔法によって浄化されているからだろうか。原因を推し量るよりも先に、ミリアの感情は引き寄せられるように動いた。
『ミリア……苦しめて、ごめんなさい……私は』
 自分の行った事への申し訳なさからか身体を震わせ、自らを抱きしめる。悲痛に群青の双眸を伏せて涙を零すアンの姿は、今までとはまるで違う確かな記憶に残ったもの。頬を伝って零れ落ちた涙は、水の底から湧きあがっている光の奔流と一体となって広がっていく。
 ミリアもまた、藍青らんせいの双眸を濡らしていた。小刻みに頭を振り、涙は飛沫となって地に至る。
「いいの……。私、全部思い出したから。……あの時、ルビーに封印してあった『ノエル』や怨念の晴れない他の者達の魂に乗っ取られて、私はあなた、あなた達を……」
『ミリ――』
「――邪魔、するなぁぁ!」
 アンがその名を呼ぼうとした瞬間、再び髪が黒く染まる。魔族と化した『ノエル』の意識が表に出たのだ。
「アン!」
 ミリアの声に、アンの姿は再び変わる。
『ミリア、私が抑えているうちに…私を――』
「そんな……、そんな事できない。できないよぉ……」
「――消えろ、消えろぉぉ!」
 緑と黒の移り変わりが、湖から発せられる白光に照らされて鮮やかに点滅している。だがそれは決して穏かなものではなく、異なる二つの意識の惨憺たる奪い合いであった。
 アンもまた、戦っていた。突如払われた己の肉体を支配する黒い呪縛。その時解かれた自分の意識で、決して拭いきれない憎しみの意識の渦と。足元から蝕まれ崩れる感覚に気が狂いそうになりながらも、必死で抵抗していたのだ。
 両手で頭を押さえて苦しそうに喘ぐ『アン』のそんな姿に、ミリアは震える。眉尻を下げて眼を見開き、揺れる瞳孔は涙に歪む。
 揺らめいていた光が鎮まり、残った緑の光がミリアを見つめた。
『ミリア……。約束、覚えているよね?』
「!」
 黒の闇が、怒号を上げる。
「――出て、くるなぁぁ!!」
「アンと……、約束した。ノエルを守る、ルビーを護る……」
『――そうよ、ミリア』
 懐かしい声に触れて、深い闇の中に埋もれていた記憶が蘇る。自分の中に遺った、アンとの最後の記憶が。
 伏せた瞼の裏、瞳の奥に過ぎった光景を前にして、ミリアは内から沸き上がる確かな何かを感じる。それは確かな力の脈動となって全身に行き渡った。
「そう、約束した。……他ならぬ、アンと約束した。……ノエルを守るって、約束した。ルビーを護るって約束した!」
 開いた瞳の中に強い光を宿したミリアは颯爽と立ち上がる。袖で涙を拭っては、杖を力強く手にした。
 ユリウスによって既に陰りを払われたこの地底湖は、エルフの自分にとってこの上なく魔力を紡ぐのに都合が良い。瞬く間に充実していく力の奔流を束ね、ミリアはに向かって杖を高々と掲げた。
「あなたは! あなたなんかアンを蝕む病巣! アンの魂を愚弄する、穢らわしい魔族っ!」
『ミリア!』
 毅然としたミリアの表情は、ただ強い意志に満ち溢れていた。それを見て、アンが嬉しそうな声で叫ぶ。
「ノエル、私が合図したらイオをあいつの前に撃って」
「……うんっ!」
 洞窟に入ってからというもの忘れていた、朗らかな笑みを満面に浮かべノエルは頷く。いつもの大好きなミリアに戻ったのが嬉しくて、声が弾んでいた。それを見て聞いて、ミリアも口元を持ち上げた。

「……光を縛する氷晶よ」
 紡がれる魔を隷する言の葉に、掲げた杖の先端に光が収束していく。それは青と白の冷たい冷気の渦に形を変え、周囲の空気を鎮まらせていく。
 人間の水準を遥かに越えたそれに、ソニアやミコト、ヒイロはただ固唾を呑むばかり。
「霊廟に座す冷たき女神の祝韻と共に、永劫なる静寂を」
 綴られる真言に心当たりがあるのか、ユリウスは即座に結界の魔法を解いて湖から引き上げる。
 それを視界の端で見止めて、ミリアは叫んだ。
「ノエル!!」
「炎と風と光の精霊たちよ。爆ぜろ! イオ」
 ノエルの発した光球は、敵のすぐ前の湖面に触れて大きく爆ぜる。轟音と共に爆散した湖水は雨の如く降り注ぎ、敵の身体を打ち付けては溶かしていく。
 崩れ逝く身体中から煙を立ち上らせて敵は絶叫した。
「や…、やめ――!!」
『――今よ! ミリア!!』
 漆黒の髪が深緑に変わった。叫びが天を衝いた。
「氷葬蓮華! マヒャド!!」
 杖の先に収束した光が、眩い鼓動を打ちながら一層閃く。強烈な光の奔流が、全てを呑みこんだ。






 ――ここは? ……ああ、そうだ。ここは…あの時の。

「これで良し…と。これで暫くは封印も持つ筈よ」
 ルビーを嵌め込んだ祭壇を前に、アンは額に浮かび上がった汗を左手の甲で拭う。右手首に走った傷から紅い雫が零れ落ち、安置されているルビーを鮮やかな朱に染めていた。
「終った?」
「ええ……」
 傷痕を痛々しく見つめながらスルーア。過剰なまでに心配の色を見せる彼に、アンは苦笑を浮かべながら回復魔法で右手の傷を治療する。
 淡い光と共に見る見る傷が塞がっていく。その様子を見て、スルーアは肩を落とした。
「良かった……。でもどうして君の母親の大切な持ち物を、君は持ち出したんだ?」
「なまじ近くにあるから、お母様は何時までも引き摺ってしまう。時には引き離して、自分を見つめ直す事もお母様には必要なの……」
「アン……」
「ごめんねスルーア、私の我侭につき合わせて」
「気にしないで」
 この暗陰とした洞窟に呑まれずに、朗らかな笑みを浮かべるスルーア。それにアンはクスリと微笑んだ。
「ここは陰のマナに満ちている。親和性の低い人間にとっても、余り長居は出来ない場所だから……。早く、行きましょう」
「ああ」

 ――この後で、私がここに来たのね。だけど、その先は…………。

 全身に刻まれた細やかな傷からは、赤い鮮血が溢れ出ている。二人は地面に腰を落としたまま身体を這わせ、寄り添っていた。
「大丈夫かい、……アン?」
「ええ……何とか…ね」
 絶え絶えになる呼吸を何とか繋ぎとめながら、アンとスルーアは会話を続けていた。
「全く…無茶をする。自分の血をあのルビーに被せるなんて」
「……でも、ああするしかなかった。魂鎮の儀は代々エルフに伝わる秘術。お母様に昔聞いたことがあったから……」
 アンの深深と刻まれた左手首の傷を見て、スルーアはまるで自分の痛みのように顔を歪める。
「だけど、自分の血を半分も……。血が必要なら俺のだって」
「違うの。あのルビーを抑えるのは、多分私の血じゃないと駄目だったかもしれないから。……賭けだったけどね」
 首を傾げるスルーアにアンは眸を伏せた。
「あのルビーは、お母様の…………。それに、ミリアはどうしても助けなきゃいけなかったから……」
「そこまでして、あの子の事を? ちょっと妬けるかなぁ」
「フフ……。……こうなったのは私にも……責任がある。もしかしたら、これが私の贖罪の形なのかもしれない。あなたを巻き込んでしまったのは、心苦しいけど」
 顔を上げて洞窟の天上を見上げる。今にも落ちて来そうなそれに、自然と気分が暗澹としてくる。それから逃げるように、縋るように隣に座っていたスルーアの肩に、アンは頭を預けた。
「君は一人で背負いすぎだ。俺にだって君の傷みを分かち合う事ぐらいはできる。君を支える事ぐらいはできるさ。……まぁ、頼りないけど」
「……ありがとうスルーア。本当に、嬉しい……」
 自分の頬に触れてくる温かい大きな手。アンはそれにそっと両手を添えた。
 だんだんと身体の力が抜けていくのを二人は感じていた。心なしか寒くなってきたのは、周りにある地底湖の為だけと言うわけではないだろう。だけど、その先は決して二人は口にしなかった。
「……ごめんね。私たち、エルフの事情に巻き…込んじゃって……」
「俺は気にしないさ。……寧ろ、君と出会えて良かったと、思ってる。この想いだけは……絶対さ」
「でもルビーの宿命もまた、種族差が…原因なの……。やっぱり、壁は……」
 膝を抱えて顔を埋めるアンの手を、スルーアは諌めるように固く握った。
「アン。そんな哀しい事…言うなよ。それじゃ、俺は何の為に……ここにいるんだよ?」
「……ごめん。ちょっと、気弱になっていたわ」
 微かに指先が震え始めていた。それを誤魔化すように二人はより力を篭めて手を握り合う。
「そういえば……父さん、ちゃんと仕事してるかなぁ? ノエルは…泣いていないかな……?」
「ふふ……そうね」
「……アン。俺、ちょっと眠るよ。何だかすごく…眠くなってきたから」
「私も、よ……」
「はは……。お互い、良い夢が見れたらいいね……」
「ええ……、本当に…ね」
「おやすみ…アン。愛しているよ」
「私もよ、スルーア……。おやすみ……」
 一つ唇を重ねてから、スルーアは双眸を伏せ眠る。いや、眠るように息を引き取った。その表情は子供のようにあどけなさが残る穏かなものだった。
 そんな彼の寝顔を見つめ、アンは震える手でその頬を撫でながら呟いた。
「嘗て聞いた事のある話。ここの地底湖は世界樹へと繋がっている。この源泉でマナに還された肉体と精神は、世界中を往く遥かな流れに乗って世界樹に帰される。そして、再び世界を巡るマナの欠片となって、私は私に孵る――」
 ゆっくりと立ち上がり、まだ温もりを遺したスルーアを抱え、一歩一歩ゆっくりと湖に向かって歩き始める。
「――孵ったその先で、私はまたこの人と出会う……。全く、夢のような話ね。……前は信じてはなかったけど、今は信じてみたい……な」
 湖の浅瀬は膝に届かない程度の水深。疲弊しきった終幕に向かう身体に、背負ったもう動かない愛しい人。辛いけど、諦めはしなかった。
 やがて膝から大腿に、腰から胸、首にまで至る。そこから一歩でも踏み出せば、遥か深遠の中に……。
「ミリア……。ノエルをお願いね……」
 深遠の淵に立って、アンは呟いた。
(願わくば、輪廻の先でも再び合間みえる事がありますように……)
 動かなくなったスルーアの身体を支えながら、アンは最後の力を振り絞ってその一歩を踏み出した。
(願わくば、輪廻の先でも姉妹のような関係でありますように……)
 何かに引き寄せられるように沈み、遠くかけ離れていく明かり。深く深く決して光の射さない闇に埋もれ逝きながらも、アンとスルーアは決して互いを離さずに底へ、底へと消えていった―――。

 ――そう……、だったんだ……。だけど、私の罪は変わらないよね…………。






 刹那の瞑目。次に視界が開かれた時、辺り一面が氷の世界に変わっていた。
 地底の空間総てに行き渡るように咲いた氷の花。水晶のように何処までも透く澄んだ花弁は清々しささえ感じる。深深と漂う冷気を纏い、見る者の視界を霞ませるその様は、まるで此方と彼方を隔てている壁のような神秘性を醸していた。
 咲き乱れている冷たい花苑かおんの中、一際大きな氷花が、地底湖の中心に咲いていた。地を這う冷気が立ち上り、面紗ヴェールのように覆い被さっては氷の棺を飾っている。
 氷晶に薄っすらと浮かんだアンの姿。彼女はその輪郭を淡い光に包まれていた。
 彼女にゆっくりと歩み寄りながら、ミリアは呟いた。
「ごめんねアン。私は……」
『ありがとうミリア。私たちの子供…ノエルをこんなに立派に育ててくれて』
 謝罪に返されたのは、優しい笑み。罪と罰の価値を越えた処にある、ただ温かい穏かな笑み。
 ミリア本人も気付いていないであろう、表情を覆っていた翳が消え失せるのを見て、アンはまた微笑む。そして、ゆっくりと愛しそうにノエルに視線を移した。
「お母さん! お母さんっ!!」
『……もう、逝かなきゃ。あの人が待っている』
 泣きながら叫ぶノエルの姿を見て、アンは抱きしめたい衝動に駆られるが、決してそれは叶わない事を知ってか悲哀に眉を寄せ、哀しい笑みを浮かべる。それを間近で見て、ミリアは叫ばずにはいられなかった。
「待って! アン! 私はっ――!!」
『あなたの心を縛っている鎖は、もう解き放たれているわ。……今まで、最後までありがとうミリア』
 悲嘆に叫んでいるミリアを遮って、アンは慈愛に満ちた声色で語りかける。
 遠くで何かが崩れる音がしていた。
「アンっ!!」
 駆け出そうとしていた時、後ろから駆け寄ってきたミコトの手に腕を掴まれる。
 氷の大地に蜘蛛の巣のような亀裂が幾重にも走った。ガラガラと足の裏から氷が崩れる音を感じて、ミリアとノエルの手を引きながらミコトは後退する。
『あなたは、私の大切な親友……。大切な……』
「アンーーー!」
 轟音を立てて、氷が崩れた。次々と咲いた氷の花が湖に呑まれて行く中、アンの閉ざされた花もまたゆっくりと崩れ落ち、消えた。
 腕が千切れそうな程前に翳したミリアの叫びも、洞窟すべてに響くような轟音に掻き消されていた。




 湖岸に流れ着いた夢見るルビーが、鮮やかな優しい光を湛えていた……。




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