――――第五章
      第九話 闇中の大輪







「何なんだよ、あれは……?」
 空を見上げたまま、シェイドは誰に向けるでも無しにポツリと呟いた。
 だが呆然と零れたのも致し方の無い事。理解を超えた現実が眼の前にあるからだ。
 物質と貨幣を基とする実質的な経済活動。人間が古来から営々と築いてきた現実的な生活を、より誠実に送っている者ほど不可解な異常に対しての耐性は脆い。それはどのような物事であろうとも自身の確固たる尺度で測り、理解に消化しようとする無意識の選別があるからだ。
 ある意味これ以上無い位の人間味の産物から培われた意識にとって、とても理屈では説明しきれない神秘の顕現は、その思考活動を麻痺させるには充分過ぎる要因だった。
 シェイドは今、イシス大砂漠地帯の入口とも言えるアッサラーム南西に位置する平原に立っていた。この辺りはアッサラーム近傍の高温多湿で豊かな草原地帯とは違い、砂漠から絶えず流れてくる乾いた風によって草木は徐々に乏しくなり、地面が干裂している所が多々ある。干上がった土に追い討つ陽射しで地表は灼け爛れ、赤銅色に染まっていた。
 荒野と言っても過言ではないこの平原には、視界を遮る草茂や潅木が欠乏している為か酷く見晴らしが良く、運が悪ければ野を往く魔物にすぐさま発見され、標的にされてしまう危険性があるだろう。足元を見れば、晴天に曝された地面を這いずり回る昆虫の動きが良く判る。それがまるで危険に見つめられている自分達の姿をまざまざと見せ付けられているようで、虫の進行を阻まぬように避ける足のやり場に困ってしまっていた。
 無論、呆れんばかりの精神退行に浸りながら危険漂う場所に一人立つ彼ではない。実際にシェイドの側には数名の商人達と共に居た。だが彼らも、シェイド同様須らく呆然自失に空を見上げているのだった。 

 シェイド達マグダリア商会は、聖王国イシス政府からの要請通り“剣姫”と“アリアハンの勇者”をイシス本国に移送後、戦争中の彼の国への救援活動を継続する為に、一旦アッサラームに帰還して物資補充を行っていた。そして全ての準備が整い、満を持して再度砂礫の秘地に向かわんと、対魔物用の牽制対策を施している馬車連隊キャラバンで砂海の入口にある砂上船の港湾施設への途を順当に歩んでいた。
 そして異変を目にする事になる。
 始めは進路上の地平線に浮かび上がった、ただの一点の翳りに過ぎなかった。蒼穹と翠緑の狭間に浮かんだ一芥の黒。遙か遠くに映った取るに足らないそれを気に止める者は無く、それ故に馬車は進路を変更する事無くただただ前に向かって走り続けた。
 だが、そこで誰もがはたと異常に気付く。単なる染みの様な点に過ぎなかった影が徐々に横に連なる点群に変わり、砂漠に近付くにつれて厚みを増していく。そして肥大する影…いや、闇は砂漠の入口がもう眼と鼻の先という地点に到達すると、見上げるまでの壁となって蒼穹の空に聳え立っていた。
 先頭の馬車に乗るシェイドは、そこで漸く眼の前の現実は只ならぬ事の顕現であると覚る。緊急で馬車連隊の進行を止めると複数の商人達が馬車から降り、不安そうに闇の壁を見上げている。そんな彼らの不安が伝わったのか、挽馬達は何かを恐れる余り鼻息を荒く、いきり立って半ば直立するように前足で宙を漕いで立ち上がってしまう始末だった。
 馬達を宥めようと御者が必死で手綱を繰る。もしこれで荷台が転倒してしまっては惨事になるからだろう。だが四苦八苦する彼らの労苦は、より衝撃的な現実の前では霞んでしまった。
 既に目で捉える事のできない砂漠の光景に反して、今自分達が立つ荒野の空は尚も変わらずに眩いばかりの蒼穹が広がっている。青の天蓋と聳え立つ闇壁。その二つが境界線上で互いを蝕まんと啄ばみ合い、軋みの悲鳴を上げていた。
 ポカンと表情を作る事すら忘れていた商人の一人が、同じく眼を丸くしているシェイドに声を掛ける。
「わ、若旦那……あれは何ですかい!?」
「…………俺に訊かないでくれ」
 瞠目したままのシェイドは、空返事をせざるを得ない。眼前の異変が何なのか、聞きたいのは寧ろ隊商の責任者であるシェイドの方だった。
 この調子では、ほんの入口にすぎないが砂漠地帯に居を構えている港湾施設も、闇壁の先にあるだろう。そして直感だが、この闇の壁に生身で触れてはいけない気がする。それは早打つ心音の警鐘による、危機感が最大限に働いている事の証だ。
 人というものはどういう訳か、悪い予感の方が良く当たる。それをよく理解しているからこそ、シェイドは危険を誘う場所に部下達を送る事はしない。ここは一旦アッサラームに引き返すのが最善だと思うも、上手く考えがまとまらず段取りが組めなかった。
 そんなシェイドの迷いの胸中を代弁するように、話しかけてきた商人は言う。
「どうします? このままここに居ても埒があかない」
「どうする……って、どうすりゃいいんだよ?」
 まるで砂漠をこの世界から切り取ったかのような闇壁を見上げながら、商人達は口々に不安を漏らしている。それらを背中で聞き止めながらも、ただ眼前に立ち塞がった壁を見上げる事しかシェイドにはできなかった。








 太陽が堕ち、昼の刻限が世の摂理から乖離して一日。聖王国イシスは嘗て無い喧騒に塗れていた。
 目まぐるしく城内、そして市中を駆け回る兵達。往来を流れる人の波は、濁流の如き乱雑に渇ききった砂の地面を煽り、薄っすらと宙に砂塵を舞い上がらせる。のっそりと広がる砂霧が、街の至る所に掲げられた篝火の暖色を色濃く反し、黄昏の帳を形成していた。
 闇と黄昏によって斜陽の色彩に染まる城下を硝子越しに一望しながら、アズサは小さく溜息を吐く。
(昨日までの静穏が嘘みたいじゃな……いや、こんな状況に転ずると一体誰が予想できようか)
 できる筈も無い。アズサの中で自問の答えは既に確定的な事だった。
 聖王国イシス当代最高の頭脳と称される執政官…十三賢人の一柱、ナフタリ=シャルディンスですら激変した現状に対して慎重に後手にまわっている。だが参謀顧問としてイシスに招いているダーマの天才魔導士、スルトマグナ=ベニヤミンはこの現状に対してまだ余裕を持って対処しているように感じられていた。
 アズサは、相棒の“魔姫”ユラ=シャルディンス程手放しに少年参謀の事を信用しているわけではなかった。それは“焔の申し子”と敬称される彼が、まだ重要な何かを隠している気がしてならなかったからだ。
(っと、いかんな。こんな時に味方を疑うとは……疑心暗鬼になってどうする)
 今の今まで自分が自然に繰り広げていた思考の不自然さを不意に自覚して、アズサは小さく頭を振る。そして決して穏やかではない眼差しで硝子に幽かに映る自らの顔を睨めつけた。
 緊張に強張ったその表情が、自身の心に巣食った虚栄の闇を如実に表しているようで拭い去りたくなった。
(やれやれ。これがこの“夜”の真なる恐ろしさなのか……)
 だとすればこの策は何と狡猾にして深遠なる事か。“夜”の下にいる者は、それぞれの意志とは無関係に意識を負陰の方向へと誘導されてしまう。それは強靭な意志、明瞭な信念を持つ者ならまだしも、不安定な情勢下にある人々の心はどうしても浮き足立ってしまうものだ。
 この混沌の流れ。“夜”に潜む大気、或いは自らの裡から零れる負陰の増大に反応しているのか、腰に佩いている“聖剣・滅邪の剣ゾンビキラー”が暴れるように鼓動を打っているのを感じる。断続的にではあるが、間隔は徐々に短く強かになるそれは何処となく迷想している自分を戒め、叱咤しているようだった。
(……わかっておる。考えすぎは良くないな)
 剣からの鼓動に身を委ね、心身が清潔な風に拭われるのを実感して口元に小さく笑みを浮かべる。アズサはそれを齎してくれた愛剣へ謝礼を込めて柄を強く握り締めた。
 再度小さく嘆息し、踵を返してアズサはこの部屋の主に視線を向ける。その先で緑灰の双眸が捉えたのは、寝台の上で上半身を起こして虚ろな視線で別の窓から外を見つめているユラの姿があった。
「調子はどうじゃ?」
 アズサが佇んでいたのは城内にあるユラの私室だった。つい数刻前にユラが意識を取り戻したと部下から報告があって、真っ先に自分が彼女を訪ねていたのだ。
 穏やかな声調で問いながら、アズサは側にあった書机の椅子を寝台の側まで引っ張り出す。そして背凭れを体の前で掻き抱くように身体を預けた。およそ淑女らしからぬその仕草は、何度注意しても決して直らない。奔放で少々破天荒気味なアズサの性質に、ユラは弱弱しく苦笑しながら返した。
「何とかね。呪縛はフィレスさまが解いてくれたから後遺症は無いわ……でも、ご免なさい。その代償として大きく魔力を持っていかれてしまった。今の私は殆ど空っぽ……これではもう結界が張れない」
 悄然と言いながらユラは己の掌を見つめ、表情に憂いの彩を載せる。未だ目元に微かな影が射している憔悴した様子から、これまでに蓄積された疲労も昏倒した要因の一つだったと真に思い知らされる。
 アズサはそんな彼女を慮ってか、言葉を選び暢達に労った。
「……無理はせんで良い。今まで良く一人で耐え忍んでくれた。後は私が引き受けるから、お主は寝てろ」
 その言葉には純粋な心配色しか載っていなかったのだが、如何せん連ねられたそれは余りにも率直であんまりな言い様だ。それには流石のユラも失笑を禁じ得なかった。
「アズサ……だけど、私も“砂漠の双姫”の一翼を担う者。こんな時に休んでいる訳にはいかないのに……。ううん、やっぱり悔しいものね。ただ魔法が使えなくなっただけで、自分がこんなにも無力になるんだから」
 ユラは切実に表情を引き締め半ばほど瞼を伏せる。長い睫毛に隠された深い碧色の眸には、自責と自嘲が浮かんでいた。
「そんな事はあるまい」
「あなたやティルトが羨ましいって思う事が多々あるわ」
 羨望から真剣に見上げてくるユラに、はぁ、と深く溜息を吐いてアズサは返した。
「それは質の差じゃろ? お主は魔力エーテルの習熟に特化している故に、闘氣フォースを上手く繰る事ができない。私やティルトはその真逆……要は適材適所という奴じゃ」
「道理ね……つくづく思うわ。闘氣に特化した人達ってどうしてそう、寛大に物事を割り切れるんでしょうね」
「む、それは私が大雑把で能天気だと言いたいのか!?」
 唇を尖らせるアズサを見て、漸くユラは表情を緩めた。
「拗ねないでよ。別にそんな事を言ってないわ。ただ、考えすぎてグルグル回ってしまって動けなくなるよりは……ずっと好い」
「黙って聴いておれば言いたい放題じゃな! まったく……じゃが、くくく」
 頭を掻きながら気難しげな顔で、心外じゃ、とぶつぶつ唸っていたアズサは、突然含み笑いを浮かべる。それにユラは怪訝そうに眉を寄せた。
「……どうしたの?」
「いや、お主ら姉妹は本当に姉妹なんじゃなと思うてな」
「は?」
 言われた事にユラは目を白黒させる。そんな彼女を他所にアズサは訥々と続けていた。
「いつも事あるごとに、姉のようだったら良いのに、やら、妹が羨ましい、とか同じような事を私に言ってきおる。お主ら姉妹に板挟みにされる私の身にもなって欲しいものじゃ」
「そ、そうなの?」
 狼狽した声を出すユラに、わざとらしく大仰にアズサは頷いた。
 ユラにとって三つ歳の離れた実妹ティルトは最近、顕著に自分から距離を空けようと行動しているの、その言動の端々から感じていた。もっとも、幼少の頃より妹には余り好い感情は抱かれていない、という寂寥に染まった確信があったが。一体自分の何の要素が、妹を遠ざけている原因なのかユラ自身には判らず、またティルトの胸中を知る事など叶わない事だった。
 そのティルトがそんな風に自分の事を言ってくれている。その嬉しさからか少し、妹との距離が近くなった気がした。
「……ずっと嫌われているんじゃないかって思っていたわ」
「んな訳無いじゃろう。お主はたった一人の姉なのじゃ。……なにを照れておる?」
「別に、照れてなんかいないけど……」
 獲物を狙う目で朗らかに茶化すアズサに、ユラは擦れた声で否定する。だが傍目からも頬を弛ませているのが判るユラの様子に、アズサは笑みを一層深めた。

 その後。和んでの雑談もそこそこに、ユラが欠席した会議での報告を幾つか交わす。ユラの体調を気遣うのであればそれは敬遠すべきなのだが、責任感の強いユラがそうされるのを嫌う性格である事を理解しているアズサは、包み隠さず報告した。例えどんな状況にあったとしても、各々の立場と矜持を忘れる事は無い。他ならぬ二人はこの聖王国で唯一無二の“砂漠の双姫”なのだから。
「さて、私は行くぞ。これまでサボっておった分、しっかり働かねばお主に顔向けできんからのぅ」
 颯爽と椅子から立ち上がるアズサ。腰に佩いてある鞘を動かし、剣を抜き放ちやすい位置に調節する。その毅然とした眼差しは、戦場へ向かう戦士のそれだった。
 穏やかな一時の終わりを察し、ユラも表情を引き締める。
「また会議?」
「いや、あの方が“アリアハンの勇者一行”と直接・・話がしたいと申されてな」
 アズサがその顛末を話す。黙って聞き入っていたユラは、話が進むに連れて目を大きく見開いていった。
「……でも、それは」
「あの方の意思じゃ。あの方の“剣”である身の私に、異論を唱えるつもりなど毛頭無い」
「そう……そうね。あの方御自身の意思なら、私達はそれを支えてあげなければいけないわね。私達は、あの方の双姫なんだから」
「そういう事じゃな……って、おい。何をしておる」
 視線を窓の外に移していたアズサは、硝子に反射したユラを見て、即座に目を剥き振り向く。その先ではユラが寝台から下り、今まで着ていた部屋着を脱ぎ去って親衛隊の正装に着替え始めていた。
「何をって、あの方が客人とお会いになるのに、双姫が側に控えていないのはおかしいでしょ?」
 洗い立てのひんやりとした正装に袖を通すと、心身が引き締まるのをユラは実感する。
 身なりを整えるその仕草は少々心許無かったが、彼女の双眸に宿った“魔姫”として光は確かに、強かにアズサに向けられていた。
「いやそれはそうじゃが……お主、身体は」
「ただ立っているだけなら問題は無いわ」
 決然とユラは言い放つ。そんな頑として譲らないユラにアズサは諦念にがくりと頭を垂れ、深々と嘆息する。
「……本っ当に、お主ら姉妹はそっくりじゃ。揃いも揃って頑固者ときておる」
「あら、強情さ加減じゃあなたには負けるわよ」
「ふん、ぬかせ」
 肩を落として深く嘆息し、悪態をつくアズサ。だが再びユラに正対した際の表情は涼やかだった。








 聖王国イシス女王に再び招聘された“アリアハンの勇者一行”は謁見の間に待機していた。急を要する呼び出しだったのか、今この場所に彼ら以外に人間はいない。側近である親衛隊や近衛隊の隊員ですら出払っていて、完全に無人の状態だ。
 既に昼夜の境界さえ亡くした“夜”の刻限もあってか、この広大で厳かな空間がとても酷薄でおどろおどろしく見える。階下から吹き上がって来る風が、悲鳴のように反響して恐々と謁見の間を駆け回っていた。
 どうして自分達がここに呼ばれたか。その理由を知る由も無いミコトは暗がりの中に何があるのか、ジッと目を凝らして部屋の中を見回していた。
 今自分達が立っているのは以前の謁見時と同じ場所。そこから視線を真正面に飛ばした所にある空の玉座は、周囲の闇に呑まれ孤独に浸っている。その様は権威から失墜し、打ち捨てられた砂上の楼閣を強く連想させた。
 それは懸命に闇に抗っているこの国とその象徴である女王に対して非常に失礼な事で、とても愚かな感傷を抱いてしまったとミコトは自らを戒めて、小さく頭を振った。
(不安も、こんな後悔さえも敵の糧となってしまうんだろうか……)
 先日、会議でスルトマグナの言葉を最後まで聴いていたミコトは、つくづく厄介だな、と思う。
 どうしたものかと思惟と視線の散策に興じていた時。女王の私室に続いているという左前方の通路から床を蹴る音が静謐の闇に拡がった。その奥から現れたのは“剣姫”アズサ=レティーナだ。
 アズサは引き締められた表情でこちらに歩み寄り、先頭で無為に中空に視線を彷徨わせていたユリウスの前に立つ。
「待たせたな『アリアハンの勇者』殿、そして勇者一行殿。女王陛下がお会いになられる。着いて来られたし」
 恐ろしく他人行儀な言い回しをする“剣姫”に、違和感を覚えずにはいられないミコトは口を開く。
「アズサ。陛下にはここで拝謁するんじゃないのか?」
「…………」
「アズサ?」
 答えずにただ真っ直ぐに見つめて来るアズサに、ミコトは首を傾げる。
 二つの緑灰の双眸が交差するも、やがて“剣姫”は踵を返し、着いて来い、とただ一言だけを零して今し方出てきた通路に向かって歩き始めてしまった。
「……どうしたんだ?」
「行ってみましょう」
 どことなく拒否を許さない高圧さを醸していたアズサに、ミコトは釈然としない面持ちをする。やはり今のアズサに違和感を覚えていたソニアがミコトを宥め、“剣姫”を追う事にした。

“剣姫”に導かれ、ユリウス達は外来の者ならばまず足を踏み入れる機会など無い秘庵へと向かう。
 謁見の間より奥は閉塞された回廊で、通る者に圧迫感を与えるように続いていた。採光の為の窓が無いにもかかわらず、夜の刻限でもここが闇の染まりきっていないのは、一定の間隔で壁に描かれている円を基調とした紋様によるものだろう。整然と並べられたそれらは魔法紋字によって編まれた簡易魔方陣で、一つ一つから火に似た暖色の光が零れ出ている事から照明として用いられているのだろう。それぞれ個々は淡く儚い蛍の灯りに過ぎなかったが、群を成して連なる事で、決して揺らがない力強さを回廊に拡げていた。
 侍女達による日々の清掃が行き届いているのか、大理石の床には塵一つ無い。あるのはただの静謐で、ここを往く者達が放つ音だけだった。
(こうして歩いてみると、凄い造りだな……否応無しに足音が出るようになっているじゃないか)
 一歩一歩、確かめるように石床を踏みしめながらミコトは驚愕する。恐らくこの回廊に敷き詰められた一つ一つの石畳の裏底は空洞になっているのだろう。表層が硬質な石である分、音は良く伝い反響する。それは否応なしにこの回廊を往く者の存在を知らしめる警鐘となるだろう。
 床を蹴る甲高い音が飛び交う回廊を越えると、次は上階に続いているであろう階段が待ち構えていた。何時までも単調な螺旋で続くそれは、登って行くうちに今自分達が進んでいるのか戻っているのか上下前後、方向感覚さえをも麻痺させるようだった。気を確かに持たねば一歩足を踏み出す事さえ躊躇われ、これ以上進む意志を挫かせてしまうだろう。
 そんな螺旋階段を只管に登りきると、これまでに比べて少し開けた空間に辿り着く。
 イシス宮殿の外観から考えると恐らくここが宮殿唯一の尖塔で、その上層部に相当する場所だ。外を仰ぐ為の窓が無い事は相変わらずだが、壁の紋様から齎される光が部屋を満たしていた闇を駆逐している。
 光による闇の蹂躙に一行の目が慣れ、やがて見渡せるようになった空間には、一行を先導していた“剣姫”と前日に臥した筈の“魔姫”が静かに佇んでいた。“魔姫”の表情はやはり“剣姫”と同じく極めて凛然としていて、怜悧な眼差しからは感情を押さえ込んでいるような酷薄ささえ感じられた。
「ユラさん。お体の調子は如何ですか?」
「庶務に支障はありません。お気遣い痛み入ります」
 倒れたと訊いて心配していたヒイロが問うと、“魔姫”は丁寧に返していた。だがその体裁を取り繕った完璧な応対にも温度は浮かばない。
(……やっぱり、何か違和感があるな)
 アズサにしろユラにしろ、今の双姫はどうにも傲然というよりは緊張と慎重からの厳正な態度を執っているようにミコトは思えた。普段の彼女らの柔和な気質からすれば考え難いが、“砂漠の双姫”としてはこちらこそが正しい在り方なのかもしれない。しかし彼女等の真意を推し量れる筈も無く、冷静な探るような視線を向けられる事に居心地の悪さを覚えるだけ。
 窮屈さに耐えかね、どうしたものかとミコトは双姫の背後に視線を動かす。すると石で造られた壁の一部分に、上向きに半月を描く鋼鉄の壁が視界に飛び込んできた。周囲の構成と形状から照合すると恐らく扉になるのだろう。だとするならば、その先にあるのは恐らくこの国の頂点に君臨する王の私室。
(これまでの道筋を鑑みても、警護に重点を置いた構造だと理解できるけど……些か度が過ぎていないか?)
 目から得たありのままの印象がミコトの心象にさえも影響したのか、夜にあって冷たさを増す鈍色は、扉の奥に在る者を閉じ込め、隔離する為の監獄のように見えて仕方が無い。一介の防衛対策として考えるには余りに物々しい…封印という言葉が脳裏を過ぎった。
 堅牢な鉄壁の表面には厳かに四枚の翼を広げる壮麗な女神の彫刻レリーフがあるが、そこから温かみなど少しも感じない。そしてその壁には扉として最低限必要な取手や継ぎ目すら見当たらなかった。
 扉という目算は誤りだったのかとミコトは思うも、壁の照明紋から零れる朱色の下。鉄壁の両脇に佇んだユラとアズサ…双姫の在りようはさながら門番と言っても良い程に泰然としていた。その奥の存在を護る為に、扉の前に立つべき者を厳粛に公平に選定する最終関門…ラーの化身を守護する“砂漠の双姫”。
 殆ど無意識的にミコトは固唾を呑み、掌を握りしめて二人の一挙一動を見据えていた。
 やがて壁の左右両脇に立っていた“魔姫”と“剣姫”が、静かに鉄の壁に手を添える。そして同時に双眸を伏せた。
 すると空気が一瞬震え、双姫がそれぞれ携える聖双導器が眩い輝きを解き放つ。それに呼応する形で彼女らが触れている扉の表面に二条の光筋がぼんやりと浮かび上がった。“魔姫”からは赤い光、“剣姫”からは青い光が掌を通して壁に伝わっている。それらは意味深長な幾何学模様を踊るように描きながら壁面全体に行き渡る。そして、絡み合った光の軌跡が潰えると、内外を隔てていた鈍重の壁もまた光と共に何時の間にか音も無く掻き消え去っていた。
 刹那。薄暗い部屋の奥から、鼻腔を擽る濃厚な甘い香りが空気と共に流れ出てきた。
 突然の事に驚いている一同に、何事も無かったかのようにユラが涼やかに言う。
「皆さん。女王陛下がお待ちです。どうぞ……」

 今度は“魔姫”に促され、彼女に続く形でユリウスを先頭に一行は部屋の中に立ち入った。
 そこは花園だった。王侯貴族にありがちな無駄に煌びやかで豪奢な調度品が広い空間を占拠している訳ではない、閑散とした部屋。所狭しと敷き詰められた花壇で咲き誇る色取り取りの花々が、太陽が無いにもかかわらず咲き、回廊にまで漂う強い芳香を部屋中に広げている。天窓を見上げると、そこには夜空の中に独り蕩揺う月の姿を籠絡していた。
 目的の人物である女王は、夜の花園の真ん中で幾つもの冷彩色からなる月の帯光を全身に纏っていた。その後姿は彼女本来の美貌も相俟って神秘的な雰囲気を醸し、生者の領域さえ超えたどこか儚い存在…まさに月下美人と形容しても良いだろう。
「皆さん、わざわざご足労願い、申し訳ありません」
 女王は振り向かずに告げる。だがその声を聞いていた来訪者達は眉を顰める事になった。
 それは女王の声色が、以前謁見の間で拝聴したものと比べて違和感があったからだ。だがその違和感は聞く者の記憶違いとして一蹴できる程かけ離れたものではなく、今の声は以前のよりも深みこそ無いが高く張りが有り、まるで同一の人物の年齢を随分と幼くしたような感じがしていた。
 一同が戸惑いと不可解な感想を抱く中。女王は悠然と振り返る。
 降り頻る滑らかな逆光の所為で、その相貌をはっきりと捕らえる事は叶わなかった。だがそれ以上に、女王とは眼前に正対しているにも関わらず、決して手の届かない隔たりさえ感じられた。
「っ!?」
 声にならない叫び声を上げたのは誰だったろうか。
 不意に女王の姿がぐにゃりと揺らいだ。光の加減が齎す錯覚になのかその姿は右に左に、初めはゆっくりと微細に振幅するも、徐々にそれは激しさを増して左右から半円、やがて円から渦を成して行き、揺らぎの範疇を超越する。そして終に、女王の姿は輪郭はそのままに容貌も、色彩も判別できないまでに歪んでしまった。
 突然の女王の変容に、一同は驚き固唾を呑み込むしかできない。対して双姫は、極めて平静に女王の姿を見守っている。
 やがて、パリンと薄氷が割れるような音がその部屋を駆け巡ったかと思うと、女王を浸蝕していた歪みは均され、本来在るべき姿に還っていた。
「え……!?」
「へ…陛下?」
 大きく目を見開いたまま、声を震わせるのはミコト。その隣でソニアも愕然と口元を押さえて、声を押し殺している。ヒイロも彼にしては珍しく驚いた表情を面に載せ、ユリウスはただジッと目を細めて現れた少女を見据えていた。
 四者四様の視線が向けられた花苑の中心には、艶やかな黒髪を今は柔らかな月光に梳かせている麗しい少女が存在していた。その入れ替わりに、今し方までここに立っていた女王の姿が消えている。
 光の滝に全身を委ね、伏せていた瞳を持ち上げた少女は唖然としている謁見者達を見止めて柔らかな笑みを作り、その可憐な容姿に符合した声で言う。
「改めて自己紹介をさせて頂きますね。私は聖王国イシス第三五代ファラオ、ネフェルテウスの子。名をフィレスティナ=ホルス=ソティスと申します」
「…………」
 以後お見知り置きを、とフィレスティナは深々と腰を折る。だが余りに急激に移った状況に反応できる者は無かった。
 遷移する状況に置き去りにされている彼らを不憫に思い、気を利かせたのかユラは苦笑を貼り付けて主君を仰いだ。
「……フィレスさま。やはり皆さん、固まってしまいましたね」
「それは致し方なかろう。今しがたそこに立っていた女王がこーんな少女に変わったのじゃ。驚くなと言う方が無理というものじゃ」
 ユラに同意しながら暢達に深く頷くアズサ。そんな彼女に柳眉を寄せたフィレスティナが、頬を膨らませる。
「……アズサ。こーんな・・・・とはどういう意味でしょうか?」
「え…あ、いや……その、これはえーと、言葉のあやと言うもので……」
 鋭い主の及言に、目に見えてアズサは狼狽する。
 そんな彼女の様子が、一行の緊縛を解くきっかけになった。
 一同の中で現実から受ける衝撃が著しく少なかったユリウスが淡々と告ぐ。
「僭越ながら申し上げさせて頂きますと……先日拝謁賜った折、御身の周囲に微細ながら魔力の流れを感知しました。故に何かしらの魔法的な施術が御身に処されているのではないかと愚考した次第です」
 ユリウスは言いながら側頭部がズキズキと鈍い傷みを発しているのを感じ取る。それは何かを囃し立てているのか、血管を食い破らんと脈動する血液の流れによるもの。その鼓動に一瞬だけ視界が白転し、とある光景を幻視してしまう。
 それを僅かに残った意識で無理やり圧殺し、内心を無で固めてユリウスはフィレスティナを見つめた。
「まあ……やはり勇者殿は、聞きしに違わぬ聡明な人物のようですね」
 抑揚無く連ねられたユリウスの考察に、心の底から驚いているのか、大きな眼をさらに丸めフィレスティナは口元に手を添えている。その様は王女という厳めしい肩書きから遠く離れた純朴な少女そのものだ。
「騙されてはいけませんぞ、フィレスさま。こやつは超絶無感動無関心男なだけです」
 素直に肯定の感嘆を零すフィレスティナに対して、肩を竦めて耶喩するアズサ。そんな彼女を眉間に指を当てながらユラは疲れたように溜息を吐いた。
「アズサ……段々意味不明になっているわよ」
「じゃがこやつを形容するにはこの上なく適してはいよう?」
「それは……」
 否定せずに言葉を呑み込むあたり、ユラもそれを感じているのだろう。その事に対して何の感慨も沸かなかったユリウスが意味も無くユラに視線を移すと、弾かれたようにユラは眼を背けていた。
 当人を前にしての失礼極まりないやりとりに、苦笑しながらフィレスティナは二人の側近を諌める。
「もぅ……ユラもアズサもユリウス殿に失礼ですよ」
「このような自己紹介の場をお考えになられたのはフィレスさまです」
「うむ、そうじゃな」
「二人とも、意地悪です……」
 キッパリとしたユラの言葉に深く同意を示すアズサ。そんな双姫に、フィレスティナは再度頬を膨らませた。




 先程まで女王であった人物であり、フィレスティナと名乗った少女…要はこの国の王女なのだが、そんな彼女とアズサ、ユラのやり取りは、とても和やかなものだった。主君と臣下という垣根を越えた、とても気兼ねない心の応酬を重ね広げていた。
 その展開に一同は言葉を上手く紡げず、半ば蚊帳の外に放り出された状態のまま。かと言って中途半端に発言する事はこの場に在って、召致された者としての分を超えた行動になるので相応しくなく、自然と閉口せざるを得ない。
 何となく息が詰まりそうになる心地だった来客達に、フィレスティナはすまなそうに一礼する。
「すみません。少し享楽に過ぎました……皆さんをわざわざこの自室にお越し頂いたのは他でもありません。表向き、私は病に臥せっている、という事になっていますから、皆さんを大っぴらに訪ねる訳にも参りません。そこで不誠実かもしれませんが、こういった形式をとらせて頂きました」
 丁寧な仕草で頭を垂れるフィレスティナ。その様子から、王族にありがちな高慢さなど微塵も見られない。
 再び上体を正したフィレスティナは何かを決しているのか双眸を伏せ、両手を胸の上で握ったまま沈黙する。だがそれも数瞬の事。開眼した王女の眼には強い輝きが載っていた。
「既にお気付きかと思いますが、階下で謁見した女王は私が魔法で変化している仮初の姿。真なる女王である母は……もうこの世におりません。魔王軍が我が国に侵攻を開始する矢先、何者かに先だって殺害されてしまいました」
「っ!」
「以降の状況と情勢の遷移を鑑みる限り、母を殺めたのが魔王軍の手の者である事は確実でしょう」
 さらりと告げられた事実に一同は驚愕を浮かべて息を呑み込む。だがそれも無理の無い事だ。
 公になってすらいない一国の主の訃報。神の化身たる王あってのイシスにとって、この事実は聖王国の根底を一度で覆す極めて不穏な事実だった。もしもこの事が今、公に露見すれば国は一気に混沌の奈落へと加速度的に陥っていく事は明白だろう。
 そのような事情を鑑みるならば、今となっては狂言に過ぎなかったであろう先程までの双姫の雰囲気…真実を秘匿とする故に、真実に近付く者を慎重の下に冷然と観察していた事も頷ける。
 見れば双姫は、決然と告白する主を、悲痛な面持ちで見つめていた。
「女王陛下が亡くなられて早三ヶ月……。フィレスさまは擬態魔法モシャスを用いて、片時も怠る事無く陛下を演じられているのです。……このイシスを混迷から護る為に」
「擬態魔法モシャス……だけど、それは」
 ヒイロが言葉を濁すと、その意を汲んだユラがこくりと頷いた。
「察しの通りです。擬態魔法モシャスとは、変化対象者が生存している事を前提として成立する魔法。本来ならば崩御された女王陛下の御姿に擬態する事など不可能といえましょう。ですが、フィレスさまにだけはそれが可能だった」
「……殿下だけが?」
 首を傾げるミコトに、ユリウスは目線を向ける事無く淡々と答えた。
「擬態魔法モシャスを成すには、変化対象者の生存を前提とする他、変化者と変化対象者の間にどのような形であれ因果が必要となる。血縁は、その点では充分過ぎる因果だ。対象者の生死を問わないほどの、な」
 特種魔法モシャスとは、術者が変化対象者の存在状態を模倣する魔法である。汎律級においてそれは姿形という表層部のみの模倣になるが、階位が上がるにつれより深度が高まり、存在を構成する霊素エーテル元素フォースの在り様…終にはその根源たる魂魄マナの存在法則さえも写し取る事が可能になるという。だが厭くまでもそれらは理論上の事で、実践できた存在は魔法史を読み解いても浮かんでこないのが現実だった。
 ポツリと零したユリウスの注釈に、ユラは肯定に頷く。
「それだけではありません。イシス王家の血脈は、神祖たるファラオから連綿と継がれている代々強い魔力を秘めた血族なのです。そして亡き陛下の血を唯一人継ぐフィレスさまは、陛下の念が最も色濃く残る場所……生前愛しておられたこの花苑に潜んだ残留思念を“聖環・星降る腕輪”に取り込んで増幅し、それを基として陛下の御姿を模写なさっているのです」
「じゃあ、この部屋の厳重な警備体制もまた」
 床を見れば花壇に隠されて魔法文字が記された床石が敷き詰められている。それに先程の扉を重ねると、自ずと見えてくるのは一つの事象だ。
「はい。陛下の想い・・をこの場所に留めておく為の措置です。……代償として、マナを聖環に取り込む為にフィレスさまは常にこの渦中に身を置き、縛り付けられる事になってしまいましたが」
 一日の殆どをこの場で過ごさねばならない。それは半ば軟禁であり、封印そのものだ。国の安定を保つ為とはいえ、まだ若すぎるフィレスティナに背負わせるには余りに重過ぎる責務。
 悲愴に染まった表情で、心底申し訳無さそうにユラは言う。本人の意志と真相を知る極少数の意思によって決定した事ではあるが、彼女としても割り切れていない事実なのだろう。
「そこまでして“女王”を立てる必要が有ったと言う訳ですか……」
 沈痛な表情を浮かべているユラに、ミコトは同調と憐憫を浮かべて呟く。国を成すにはまず王が在る事。故郷を身を削って支えている姉を思い浮かべながらミコトはしみじみとその重みの片鱗を見た気がした。
「聖王国イシスの王たる存在は、この国で信奉されている主たる女神ラーの化身と同一視されています。現実には王と神を同一視する政策など既に廃れていますがイシス黎明期、中興期にかけて確かに存在していた事実です。それが確か過ぎたが故に、古の教義と慣習は強固に両者を繋げ、切り離してはくれません。以来イシス王という立場に立つ者は常に“剣”と“杖”を携え、陽光の如きに民を照らし、先導しなければならないのです」
 自身の置かれた境遇を悲嘆するでも無しに、フィレスティナは毅然としていた。眩いまでの意志を漲らせるその姿こそ、王家の血に連なる者の証なのかもしれない。
「母の死を公表すべき、との声も確かにありました。ですがこの国において王とは神の写し身……決して病などでは倒れられませんし、魔の者に屠られる事などもっての他。そう易々と、ましてや戦時下であるこの時期に訃報を流す事は国としての存亡に関わります」
 誰も言葉を挟む事はできず、真摯な眼差しで語る彼女の言葉に聞き入っていた。
「神たる王は光そのもの。この国において王の死が認められるのは、幽玄の王墓ピラミッドにて入寂の儀を済ませる事のみ。……現状、それは不可能であると言わざるを得ません」
 戦時下で、しかも崇拝し心の拠り所となっていた太陽を奪われた以上、人々に入寂の儀の告知はこの聖王国イシス滅亡への最終宣告にもなりかねないだろう。
「とはいえ、王と言えど所詮は人の子。怪我をすれば病にもなります……」
 消え入りそうな声で呟き、ここで初めてフィレスティナは瞳に陰りを走らせる。悲しみに表情を歪めて俯くその様は、亡き母親を悼み思ってのものだろう。日に日に顔に翳りを載せて思い詰めた表情の母の顔が瞼の裏に浮かび、フィレスティナは涙が零れそうになるのを必死で押さえ込んでいた。
 その様を見て周囲は理解する。“神の写し身”といえども結局は年端もいかない精神的に脆い一人の少女に過ぎないという事を。だからこそ、誰もがフィレスティナの嘆きと、後に続く願いも察する事ができた。
「私は、死後尚も辱められる母を、一刻も早く王という軛から解き放ってあげたい。その魂を安らかな涅槃に導いてあげたい……そう思っています」
 俯いて、擦れた声でフィレスティナは言った。胸の前で組んだ両手は微かに震え、その両腕に嵌められた腕輪の宝石がキラリと刹那煌いた。もしかすると、それはフィレスティナの涙だったのかもしれない。
「一度周囲に神格化された存在は、そう易々と人の地に立ち戻る事は叶わない。まして非業の死によって装飾され、掲げられた高みであるならばそれ故に地に降り立つ事は、もう望めない」
「え……」
 小さく零したユリウスの独白。それはとても小さく呟かれたもので、唯一人…隣に立っていたソニアを除いて誰もユリウスの言に気が付く者は無かった。
 彼の独白を脳裡で反芻したソニアが眼を丸くし、紅玉に揺れる感情を浮かばせてユリウスを見上げるも、彼は無表情で、他の者達と同様に眼前で黙した王女を見ているだけだった。
 余りに普通にしているユリウスを見改めて、ソニアは今のが幻聴だったのではないかと自問する。ユリウスにしては余りに情緒的な言葉は、これまで見てきた彼には似つかわしくなく、それを素直に受け止められるだけ自分の気持ちに余裕が無かった。
 ソニアの微細な心の動きを知る由も無いユリウスは、実に彼らしい口調で淡々と言った。
「それが、私をこの国に召致する為に“剣姫”を差し向けた理由ですか。一刻も早く、この戦争を終わらせ、母王を葬る為に……」
「ユリウス。言葉を慎め」
 何となくユリウスの口調が詰問調で皮肉のように聞こえた為、“剣姫”アズサは目を細めて戒める。だがそれをフィレスティナ自身が制した。
「いいんです、アズサ。軽蔑されても仕方ありません。私は私の個人的な想いの為に遠路遥々貴方を招き、利用し血を流せと言っているのですから」
 ここでフィレスティナは言葉を切り、一つ深く嘆息する。思考と心を一旦鎮める事が必要だった。
「ですが無論、以前母の姿を借りて言った事も本当の理由です。王家の血を継ぐ者として、国を支えている民達を守る義務が私にはあります。……ただ私は政治の惨さも戦争の恐ろしさ、剣の重みも知らぬ若輩の身。この身にそれを成すだけの力量と器量が備わっていないのが心苦しい事です」
 魔物に苦しんでいる民の事を、最も安全な場所で案じなければならない事に一番歯痒い思いをしているのはフィレスティナ自身なのだろう。
 そんな王女を慮ってか、ユラが言葉を繋いだ。
「先日、参謀顧問は言いました。今、我が民を脅かしているのは誰にでも平等に与えられる死と、命の輪廻を冒涜するを理の簒奪者。闇を恐れるラーの民から、その拠り所となってきた陽光の恩寵が奪われてしまった以上、我が民達の意識は暗澹に囚われ始めています。それらの意識は負陰にマナを大きく揺らし、その揺らぎとは混沌の微細動……こうしている間も、負陰と混沌を糧とする不死魔物達の力が連鎖的に増している事でしょう。そして芳しくない事に、不死魔物に対して有効な対抗手段であり我々にとって保身の要である正流魔法は封じられてしまった」
 現状を綴るユラの言葉は重圧を伴って場に響き渡る。事が事だけに誰も下手な言葉は発せない。
「何度も言うようですが、ユリウス殿。お願いです……どうか、どうか私達イシスに力を貸して下さい」
「……助けてくれ、とは仰らないのですね」
「当たり前です。我が国を守るの他ならぬ我ら自身。誰か一人に押し付けるような真似は致しません。ですがそれすら儘ならぬ以上、私にできるのはこのように国の代表として頭を下げる事くらいです」
 言いながらフィレスティナはユリウスの前に跪き、祈りを捧げるように両腕を組んだ。
 神の化身が人間を前に跪く。その突然な主の行動に、双姫は目を剥いて狼狽する。
「フィレスさま!」
「…………」
「ユリウス……」
 口を閉ざしたまま動かないユリウスとフィレスティナを交互に見据え、弱弱しく声を震わせるのはアズサ。それもまた、懇願に近いものを感じた。
 集中する視線と沈黙に辟易したのか、小さく嘆息しユリウスは口を開いた。
「先日の謁見で申し上げた事を繰り返しますが、私がこの国に来た理由……それは私の目的を遂行するのに必要であったからです。そしてここは現在、魔王軍に侵攻されている。魔物を根絶させる事こそが私の存在意義である以上、陛下の申し出を拒む選択肢は持ち得ません。但し……」
 空々しくユリウスは一旦言葉を飲み込む。その事に眦を鋭くする双姫と、ビクリと頭を垂れたままのフィレスティナの肩が揺れるのを見止めた。だがそれらに何の感慨も抱く事無くユリウスはゆっくりと綴る。
「俺は光にはなれない。この身は魔物を殺戮する為だけに用意された剱。そして血塗れの刃など、光に当たらない方があらゆる意味で穏便に済む」
 弾かれたように顔を上げるフィレスティナの目に映ったのは、無表情のユリウスの顔。人の温かみが亡失した冷たい刃の眼差し。それはとても綺麗で、空恐ろしくあった。
「……ありがとうございます。そう言って頂けるだけで、充分です」
 だがそれでも、フィレスティナはただ感謝に呟いていた。




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