――――第五章
      第八話 落下する太陽







 闇が漂う幽玄な空間に響く足音が二つ。
 冷たく反響する甲高い足音は、さしずめこの世に死を運ぶ凶鳥の嘶きの如き、崩滅への秒読み。
 見上げる程に高い天井を縋りつくように支えている石壁は、建造されてからの長久など微塵も感じさせない精巧さを保ち続け、その回廊を満たしている靄霧の真闇には、彷徨い、縛され、嘆き喘ぐ事しかできない亡者の怨嗟が潜み蠢いている。数で計る事自体愚行と言えるまでの哭声が幾重にも溶け合って、一つの壮大な狂想曲を奏でているようだった。
「“アリアハンの勇者”の監視は順調か?」
「……はい。特に目立った動きはありません」
「そうか。“焔の申し子”の方は中々に警戒が強い。流石はダーマで謳われる造られた天才だと言うべきか」
 深淵へと続く路を二つの声が木霊する。それは紛れも無く二つの足音の主のもの。淡々とした応酬は、靴底が石床を蹴る音の余韻と絡み合って厳かに静寂を侵していた。
「しかし、アリアハンの勇者一行とは中々に面白い人員で構成されている。粒のどれもが普遍ならぬ資質を秘めた者ばかりだ。異常の極みである“勇者”を筆頭に、その周りに集う逸常なる者達……偶然とは言い難い蓋然がいぜん性を感じるが、一体如何なる意思によるものなのか」
「…………」
 一つの影は唇を引き結び、もう片方が感慨深く綴る言葉にただ耳を傾けている。
 冷やかな笑みを浮かべながら、“影”は続けた。
「現状、他に気掛かりな存在といえば“焔の申し子”と共に在るあの魔導士か。小僧が警戒に眼を光らせている以上仔細は余にも掴めぬが、潜在する魔力の高さで言えば“魔姫”や“四華仙・律”をも優に凌駕するだろう」
「そうなのですか!?」
 沈黙していた影はその言葉に小さく驚愕を零す。そんな狼狽の様子に満足したのか、もう一つの“影”は尊大に頷いた。
「間違いは無い。……そなたには判らぬやもしれぬがな」
「……然らば我らが厳に警戒すべき存在は、やはり当初の予定通り、魔王“軍”と戦争経験のある存在…即ち“アリアハンの勇者”と“焔の申し子”」
 眼を見開いて驚きの表情を浮かべていた影は、途端に能面のような無を装う。だが意識がそれに追いつかなかったのか、微かな不満の色が顔と声に残してしまっていた。
 雄弁を見せていた“影”はその様を横目で捉えながら口元を歪ませ、楽しげに吐息を零した。
「まぁ、その二つの周囲に在る外来要素にも注意を払っておいて損はないだろう」
「…………双姫はいかが致しますか?」
「瑣末事よ。常に表舞台に縛り晒されねばならない彼女らの動向など、隠せる筈も無し。その道理が判らぬ訳ではあるまい? そなたらしくもない」
「申し訳、ありません……」
 失笑混じりの冷やかな視線を浴びて、その影は顔を伏せる。消え入りそうに小さく放たれた声は、冷たい石壁と闇の中に呑まれていった。

 闇霧に啄ばまれている燭代の火が弱々しく揺れている。それだけがこの回廊に座する光源。だが幽かであるそれらは充分に石の回廊を照らし出し、蛍火によって浮かびあがる陰影は何処までも長大に床を這ってはその二種の足音に付き従っていた。
 二つの影は回廊を往き、やがて開けた空間に辿り着いた。そこは回廊と変わりなく薄闇がかっているのだが、これまでの積み重なっただけの味気ない構成とは趣が異なり、広々とした部屋の四方を囲う壁や柱の端々には見事なまでの彫刻と、意味深で解読不能な象形文字が隙間無く刻まれている。
 ひんやりと厳粛な雰囲気に満ちた部屋の中心には、色取り取りの宝石が鏤められ金で塗装された豪奢な石柩が一つ、黒大理石で造られた祭壇の上に横臥していた。滑らかな黒の祭壇の上には柩を囲うよう円形の魔方陣が刻まれており、さらにその外円周上の三点には葬られた者への供物を捧げる為の小さな台座がある。そこにはそれぞれ、人面を模した手甲を擁する妖しく輝く黄金色の鉤爪、気が狂わんばかりの怨嗟を絶えず奏でている小箱、そして細かな装飾の成された黄銅のランプが安置されていた。
 その三宝どれもが尋常ならざる“魔”の気配を放ち、台座から陣を通して中心の柩に流れ込んでいる。三つの支流を一つに束ねている柩は、おどろおどろしい邪気を部屋に拡げ、空気を恐々と歪めていた。
「機は熟した」
 玄室に立ち入り、大袈裟なまでに仰々しく外套を翻して“影”は台座の一つに歩み寄る。これまで追従していたもう一つの影は、この部屋を支配している闇の重積に耐えられず入室を許されていない。ただ玄室の入り口で黙したまま“影”の背を無表情に見つめていた。
「さて開演といこうか」
“影”は台座の一つに据えられた黄銅のランプを恭しく手にし、それを虚空に掲げる。すると何かで満たされているランプの口からは、周囲に火気が無いのにも関わらずゆらりと炎が生じた。だがその空気を貪り煌々と燃え盛る炎は、理では有り得ない黒色だった。
「この幽冥なる砂漠と、飢渇に彷徨える者達に永久とこしえの恩寵を与えよう」
 厳かに“影”が言い放つと、周囲に犇いていた闇は歓喜に動擾する。
 祭壇の魔方陣と、玄室の全ての壁面に描かれていた象形文字が一瞬鮮烈な白光を発したかと思うと、次の瞬間には真逆の、漆黒の光を灯していた。それは強弱の鼓動を確かに刻み、徐々に早く強くなっていく。次第に荒ぶる黒炎から煤のように撒き広がる闇霧が、玄室内に満たされていた薄闇と粘質に絡み合い、それを糧にして炎は急激にその勢いを肥大させた。
「深淵より熾りし真闇の息吹…“闇のランプ”よ。偽神の幻光に満ちた忌むべき明け空を深々と彩り給え」
 止まる事を知らず増大する負陰の闇。その成長に、やがて黒炎が炎という形質を保持する臨界を超越すると、一気に爆ぜる。今の今まで裡に取り込んできた闇の全てを解き放ったのだ。
 それは風を伴う見えない衝撃と共に光と等価の速度で空気を伝播し、周囲の景色を侵蝕する。それだけには止まらず、その場に在る二つの影と柩、玄室と回廊。それらを包括する建造物を越え、やがて黄金の砂海と蒼穹の大空をも呑み込んで世界を闇に染め上げていった。








 その日も普段と変わらない場所で、変わらない時間を送っていた。
 戦時中である事さえ忘れさせる、穏やかな時間。甘く香る色取り取りの花が芽吹く、薫香の空間。
 心地よい陽気が窓から射し込み、鮮やかに彩られた花苑の中に佇んで少女は空を見上げていた。
 太陽が昇りきる前のこの時間に、限られた空から降り頻る光を一身に受け止めている花々を愛でるのが彼女の日課。その時だけ、彼女はただ一人の少女でしかない泡沫の自由の時だった。
 だが今。つい先程まで花々を愛でていた少女は、何かに引かれるように天球状の天井に備えられた窓を越えた先にある蒼穹に釘付けだった。その不安そうな面持ちに、側に控えていた“剣姫”アズサが視線で追う。
「……如何なされました?」
 慎重に問うその声には心配と、幾許かの怪訝が篭められていた。それには少女は答えず、空を見上げた姿勢のまま、瞑目し苦しげに胸を押さえて小さく呻く。
「空気が、大地がいている。この世界を震わせる歪な鼓動は…胸が押し潰されそうになるこの不安感は?」
「?」
 アズサが主たる少女の無視できぬ不穏な言葉と様子に眉を顰めた時。この部屋の扉が乱暴に押し開けられた。
「――スさま! 砂漠の様子が……」
「いけませんっ!!」
“魔姫”ユラが部屋になだれ込んで来るのと同時に、不安の正体に気が付いて大きく眼を見開き、少女は悲叫に声を張り上げる。思いの他甲高いそれは、勇んで部屋の中に踏み入ったユラですら一瞬動きを止める程だった。
 静淑を絵に描いたような気質の少女が、嘗てこれ程までに声を張り上げる姿を見た事が無い。呆然と硬直するユラと同じ思いを抱いているのか、アズサも隣で呆気にとられたまま少女を見つめている。
 二様の瞠目に囲まれる中。ユラが言葉を続ける前に、少女は言った。
「ユラ! 直ぐに守護結界を解いて下さいっ!!」
「は? ですが、しかし……」
「早くっ!」
「! り、了解……」
 有無を言わせないその烈々たる剣幕に、ユラは反射的に頷く。いや頷かずを得なかった。
 逼迫した表情の主の意に従うべく、ユラは“聖杖・復活の杖”を眼前で真横に構え、外殻楽園を覆う結界に意識を移す。
「っ!?」
 天球状に展開する陽なる結界と自らの意識が同調したその時。不意にユラの視界が黒転し、弾け跳んだ。
 意識的、視覚的な衝撃であったにも関わらず、その余波にユラはビクンと身体を海老反りに大きく打ち震わせる。その余波で全身が痙攣し、立つ事も、杖を持つ事さえままならなくなったユラはその場に崩れ落ちそうになるが、そこを背後に回り込んだアズサが何とか支えた。
「ユラ! ユラ、どうしたのじゃ!?」
 腕に抱えるユラを見下ろし、その全身の異常なまでの震えようにアズサが困惑しながらその名を叫呼するが、虚空に視線をうつろわせたままのユラから言葉が返される事は無い。眼窩から眼球が零れんばかりに大きく見開いた双眸の、深い碧色の瞳孔は大きく開ききり、焦点は定まらず宙を彷徨していた。
「あ……ぁ、ぁ」
「ユラぁ!」
 意識はあるが舌さえも麻痺し、最早声を紡ぐ事さえ出来なくなったユラは、小さく喘いでいる。そんな彼女の姿を見つめながら、どうしていいか判らず、ただ名を叫ぶしかできないアズサはもどかしさに歯噛みした。
 その混乱する背をそっと支えるように、清澄な少女の声が花の中を響いた。
「外郭楽園を覆う結界が破られた……いえ、今も侵食されているのですね」
 少女は無造作に花壇に放られていた聖杖を拾い、そっと自らの手をユラの手に添わせて握らせる。そしてユラの額に指先を当て、何か一言を小さく呟いた。
 その瞬間、触れ合った場所からまばゆい閃光が刹那発せられたかと思うと、ユラの強張っていた表情は弛緩し、自然とその瞼は閉じられる。数瞬の呪縛から開放され、だが余りにも急激に心身を消耗してしまったのか、アズサの腕の中でユラは眠るように意識を手放していた。
 ぐったりとしながらも一定の間隔で呼気と吸気を繰り返すユラの様子を見て、アズサは脱力に大きく溜息を吐いた。
「アズサ……夜が、来ました」
 少女は“双姫”の様子を安堵で見つめた後、窓の外に視線を移す。
「夜? ですが、まだそのような刻限では…………っ!?」
 あらぬ方向を見つめたままの主の言葉につられて、アズサも窓の外を見る。そして、愕然とした。
 限りなく広がる清々しい蒼穹の空が、遙かなる地平線…黄金の砂海から立ち昇る闇色の何かに侵食されていくのを見る事になったからだ。
「か、影が……闇が空を呑み込んでいく?」
「…………」
 その言葉が、現状の総てを代弁していた。地平線から湧き上がる闇は、水を吸い込む海綿のように瞬く間に空の蒼を侵食し、黒に塗り替えている。
 アズサはこの尋常ならざる現象を前にうろたえ、懼れを隠す事ができなかった。
 対してアズサの前に立つ少女は、常軌を逸した現象から眼を背ける事無く、ただジッと成り行きを見つめている。幼さを残しながらも、凛とした佇まいで現状を見据えるその姿からは、貴い品格と意志が滲み出ていた。
 空に最後まで残っていた蒼の一片さえも呑み込まれた時。少女はついに諦念から深い吐息を零した。
「フィレスさま……」
 アズサが不安そうな面持ちで主の名を呟く。
 空は黒く染まり、微かな夜光が申し訳程度の光を地上に届けている。理に従ったものならば暗闇の中にある微かな光には安心を覚えるも、だがその地上は今、在る筈の無い光によって混乱の極みに在る事だろう。
 暗闇の帳が下ろされた部屋の中で、両腕に嵌められた星屑の輝きを灯している一対の腕輪を抱くように掴み、少女…聖王国イシス王女フィレスティナは声を震わせる。
「……太陽が、堕ちました。時局が、動くのですね」
 いつか訪れる事が判っていた平穏の終焉を実感してか、その声は哀惜の色に染まっていた。








 まだ正午にも満たない刻限が、唐突に夜に入れ替わる昼夜逆転現象。
 尋常ならざる事態は、聖都イシスに住まう人々を不安と混乱の底辺に叩き落すには充分過ぎた。この異変は、今自分達の住まうこの地が手段の厭わない人ならぬ魔物と戦いの最中にある現実を、改めて人々に突きつけたのだ。
 後に“陽堕の刻”と呼ばれるようになる異変に対し、女王の命を受けた砂漠の双姫“剣姫”と聖王国執政官がイシス軍を指揮する将軍達に対して緊急招集をかける。民に瞬く間に広がった恐怖の火種が次なる恐慌の炎に変容する前に、手を打たなければならなかったからだ。
 大円卓が部屋の中央に座する会議室。女王が円卓の上座に座し、その両脇を執政官、砂漠の双姫“剣姫”が固めている。本来“剣姫”が座す席には“魔姫”の姿があり、“剣姫”は執政官が座る席にいる筈なのだが、会議の議長を務める筈の“魔姫”が、先の結界崩壊の余波で臥してしまった為に欠席しているからだ。その為に急遽、議長代行を務める事となった“剣姫”を“魔姫”の場所に据え、執政官が“剣姫”の座を補う事になった。
 女王を頂点に左手側から順に“剣姫”、王室近衛隊隊長を始めとする国軍の主だった将達が腰を下ろし、更に今回はラー教団直属の聖陽騎士団の長達もが同席し、円卓を囲む。一般的な貴族社会では、王に近ければ近い距離に在る存在ほど、国家での地位が高く、より強い発言権を持つとされるが、ここイシスにおいては事情が異なる。頂点にある女王の両脇を固めるのが“砂漠の双姫”である事。そしてそれ以外の者達は実際の序列に依らず等価な発言権が与えられる。太陽は誰しもを等しく照らす……それが代々守られてきた尊い慣習の一つだった。
 何はともあれ、今この部屋には太陽神ラーを信奉するイシスという組織体の中で、最も高きにある者達が一同に集められた事になる。その錚錚たる顔ぶれには、同じイシス内の人間であっても緊張を隠す事はできない事だろう。
 だがその中にあって、女王の右手側に構える執政官の真横に座り、会議室に揃う面々の中で異端の人間である客員参謀顧問のスルトマグナが、鈍重化している空気をまるで気にしないように穏やかな口調でアズサに尋ねた。
「レティーナ殿。シャルディンス先輩の容態は?」
「……安静にしておる」
「そうか……」
 多少声調を低くしたアズサの返事に反応を見せたのは問い掛けたスルトマグナではなく、隣に座る執政官ナフタリからだ。彼にしては感傷的な珍しい仕草では有るが、それは無理からぬ事だろう。ナフタリはきつく瞑目して、眉間に何重にも皺を刻み深く長く嘆息している。その様子は裡でざわめく感情を、理性で強引に押さえ込んでいるようだった。
 彼の心情を誰もが察する事ができる故に、誰もその事には触れる事は無い。変わりに面々がそれぞれに安堵の吐息を零している。誰しもたった一人でこれまで国を護る結界を張っていた“魔姫”を心配しているのだろう。
 沈痛な雰囲気の中、それを打破するように円卓の上を良く通る声が奔った。
「参謀殿。今、この地を襲っている状況が何なのか説明できるのか?」
 先日意識を戻したばかりであるが、強靭な精神力で既に現場復帰を遂げて変わらず指揮を執っている近衛隊隊長ティトエスのものだった。愚直なまでに誠実な彼が、スルトマグナに厳しい眼差しを向けている。それは批難でも、まして期待でもない追究の視線だ。
 ピリピリと肌に痛いとさえ感じる視線にスルトマグナは動じる事無く、小さく頬を掻いて答えた。
「可能ではありますが、確証がありませんので要らぬ混乱を避ける為にも今はまだ何も言えません。現状報告を集める事を最優先とすべきと具申します」
「何を悠長な事をっ。非常識な事態に民は脅えきっているのだぞ!」
 直情で不器用であるが、純粋に民の事を思っているのだろう。卓を叩いて激昂するティトエスに、スルトマグナは冷やかな視線を送る。
「だからこそ、です。不確かな情報で不用意に動いては、いたずらに民の不安を煽る事にもなりかねませんよ。貴方は大雨の夜の中、明りを得ようと篝火を灯す為にただ我武者羅に市中を走り回る事が最善と仰るのですか?」
「そうは言っていない。だがっ!」
「熱くならないで下さい。感情的な性質は、冷静な判断力を損なわせます」
 水と油の無意味な罵り合いに発展しそうな時。んんんっ、と喉を詰まらせたようなわざとらしい戒めが室内に響く。どこか厳かに広がるそれが剣呑な空気を力任せに払拭した。
「両名、それ位にしておけ。太陽を奉ずる我らイシスの民にとって、不安を覚えずにはいられないこの忌々しき事態。内輪で揉めている暇など無い」
 声の発信源は、女王の隣に座する“剣姫”からだった。アズサは凛然とした声と眼差しで静かに場を宥める。拒否を許さない双姫のそれに騒ぎ立てていた誰もがかしずき、口を閉ざした。
 室内が静まったのを見計らい、ナフタリは隣に座るスルトマグナに言う。
「……この刻限で突然に太陽が消え、夜になったのだ。闇中に放り込まれた我らに少しでもその可能性の火を燈せ、“焔の申し子”」
「…………」
 命令口調ではあったが、ナフタリの声調は懇願のそれに近い。少なくともスルトマグナにはそう感じられた。
 だが考えても見れば当然なのかもしれない。言うなればこの異変の最初の被害者であるのは、他ならなぬ“魔姫”。彼女はそれ以前に、ナフタリにとって大切な娘だ。十三賢人として世界中から崇敬される立場の人間であっても、人の親である事に変わりは無い。娘を危機に陥れた現状を前に、一番困惑と憤りを感じているのが彼なのだろう。
 子を思う親の姿。ありきたりなそれを目の当たりにして、ふとスルトマグナは自らの周囲を改めて思い馳せらせてみるも、結局自嘲しか沸いてこない。そんな今となっては無意味な思考を消し去る為に一つ鼻の頭を指先で掻き、スルトマグナは、わかりました、と頷いた。
「昼が夜になった事象に関して、これは廻天魔法ラナルータか、それに類するものだと考えられます」
「時間的因果を御する特種魔法、か。汎律級ウルガトゥスでは昼夜逆転だったな。確かに、現状を作った要因を考えれば最初に挙げられる可能性であるが……納得を得るには些か弱い」
「そうですね。ラナルータとは、局所閉鎖空間における昼夜を一定時間逆転させる魔法。主に星占術師や天文学者達が、星々の運行を観測する為に用いる術です。また、儀式や神事として祭司がこの魔法を用いている宗教にラー教やゼニス教の存在が挙げられますが、厭くまでも両者は昼と夜を操作する事によって儀式の神秘性を高める為の欺瞞……それ以上でも以下でもない、ただそれだけ・・・・の魔法です」
“ラーの化身”その人、ラーを奉ずる者達が集うこの場にあって、ラー教の根底を嘲るようなスルトマグナの言は決して歓迎できるものではなかった。一様にラー信者である会議の参加者達は誰しも顔を苦々しく歪める。特に女王…大司教の御前もあってか教団直属騎士団の者達の表情は烈々としていた。だが、当の女王自身は表情を動かさず、静かにスルトマグナの言葉に耳を傾けている。
「ラナルータとは違う…いや、それ以上の我々にとって未知である要素を用いて現状を造った、か」
 ポツリとナフタリは一人語散る。
「この“夜”という事象は、ラーを信ずる民達に懼れを蔓延させる為の刻限だけではなく、そこに敵の望んでいる更なる真意が潜んでいる……と、お前はそう言いたいのか?」
 遠回しであるが、スルトマグナは徹底してラナルータが齎すのは普遍的な“夜”である事。そしてそれは現状の“夜”とは全くの別物だと言っているような気がしてならなかったからだ。
 そんなナフタリの推測を肯定するように、スルトマグナは満足げに笑みを浮かべていた。
「その通りです。どの程度の広域までにこの現象が作用しているか判りませんが、窓から見ても、見渡す限りの砂漠が“夜”に堕ちています。シャルディンス先輩が倒れた事も鑑みて、結界を侵したこの“夜”の規模は最低でも外郭楽園以上……これは、汎律級におけるラナルータの範疇を明らかに超えている。この現象を創造し、維持するのにはラナルータ系の魔法を引き起こす魔導器を用いるか、或いは汎律を超える連環、神韻級の高みで紡がれたラナルータだと考えるのが自然です」
 言うべき事が予め用意されていたように滑らかに綴るスルトマグナ。その言に孕まれる事の大きさに、魔法を行使できる者達は固唾を呑む。そして改めて自分達が敵対しているのは人間以上の脅威である事を実感せざるを得なかった。
 動揺からか、微かなざわめきが流れる中。スルトマグナは冷静に続ける。
「……正直な所、敵がこのような術を用いて戦端を動かしてくるのは予想外でした。そしてそれはこのイシスの地において非常に分が悪い。その理由は……このイシスという地の風習を深く理解している皆さんには説明するまでもありませんね」
 スルトマグナが会議室にいる者達に向けた問い掛けに、沈黙が応える。それは紛れも無い肯定の色だった。

 暫し、会議室は静謐に満たされていた。平時であるならば陽を遮る為の分厚いカーテンもこの夜の時刻では意味を成さず、逆に少しでも光を集める為に開け放たれている。
 部屋に備えられていた燭代に灯された燈は、煌々と空気を貪りながら静寂と時を刻んでいた。
 それぞれがスルトマグナに放たれた言葉を重苦に受け止めているのか、円卓を囲む者達の表情に翳りが薄っすらと浮かんでいた。その様相は沈痛で、放っておけば暗澹に流れて行きそうな深い陰影だった。
 だがそんな流れを誘う雰囲気を享受する訳にも、看過する訳にもいかないスルトマグナは断ち切る意味を篭め、語調を強めて告げた。
「そこで、皆さんには明確にしておかなければならない事が幾つかあります。結論から言ってしまえば、それらは間違いなく悪い知らせ・・・・・になるでしょう。ですが、こんな時だからこそ自らの立ち位置を正確に知っておかなければならないんです」
「参謀殿、それは……」
 その二つ名に相応しい決然とした意志を秘める眼差しに、議長代行として公平に発言者達を捌いていたアズサは言葉を挟む。スルトマグナが何を言わんとしているのか察し、揺れている者達の心情を慮ってのものだ。
 今まさにスルトマグナが言わんとしている事……それはこの場において女王、執政官、そして双姫だけしか知らない事。会議が始まる前に予めスルトマグナから聞かされた時に我が耳を疑った事象だった。信じられない、いや信じたくないと言った方が正しい真実の形。それを現状を知り不安定になっている場で知らしめてしまう事こそ、周囲の不要な混乱を煽ってしまうのではないか、とアズサは危惧を覚えていた。
 そんな内心がアズサの表情に不安という形容を取って顕れていた。それを見止め、逆にスルトマグナは“剣姫”を諌める。
「勝つ為には、自分達に何が不利益なのか、どんな状況に立たされているのか把握する事が必須事項です。……確かに現状こちらには不安要素が山程ありますし、貴女の懸念も当然の事だと思います。ですが、時局は既に動き始めました。……焔は、燃え盛り自らを維持する為に常に新しい風を欲する。それは、変化を恐れる者に行く末が無い事を示唆しているんです」
「……じゃが」
「闇の中、暗天の下でも人間は光を生み出す術を見出してきました。それは連綿と続けてきた人の歴史が証明するもの。心に希望という名の炎を絶やさない限り、人は恐怖に屈する事はありません」
 苦々しく顔を歪めているアズサを宥めるように、今まで沈黙を保っていた女王が口を開いた。それは優雅に羽ばたく鳳の如く、勇ましいものだった。
「発言を許可します。参謀顧問」
「陛下っ……!」
 驚愕するアズサと真摯なスルトマグナの双方の視線を受け止めながら、女王は続ける。
「太陽とて、常に天上に座す訳では在りません。疲れた御羽を癒す為に、一時その身を沈め休む時はあります。それこそが“夜”という刻限。……ですが休息を得られた太陽は必ず再び我らの前に顕現し、より強い光で我らを導く事でしょう」
 化身として威厳とも言うべきものなのだろうか。その堂々たる威容を前に、卓に着いていた面々が感嘆を零した。
「恐縮です。では……」
 女王の言に一つの軛を払った将達を見眺めて、スルトマグナは一つ頷く。そして怜悧な眼光で円卓を睥睨しながら、厳かに口を開いた。








―――不意に訪れた“夜”の刻限。自然の理に背いて空を覆うは漆黒の闇。
 闇色に染まった空と大地を一望できる、オアシスの水面上に築かれたイシス宮殿に連なる水上回廊に佇み、ユリウスは独り月と星が浮かんでいる夜空を見上げていた。
 本来ユリウスはスルトマグナと同じく外来客員の協力者、“アリアハンの勇者”として会議に参加していた。あの会議室に在って異端の存在はスルトマグナ、ユリウス、そして “勇者一行”の代表として参加したミコトの三人。酷く場違いな煩わしさと億劫さを抱きながら、気だるげにユリウスは円卓に座していた。
 だが、何時まで経っても堂々巡りで結論の出ない討論に辟易し、見切りを付けたユリウスは早々に会議室を辞す。女王の御前で不遜極まりない行為に当たるそれに糾弾の声も上がっていたが、他ならぬ女王がその事を不問に伏した為、誰一人として表立った言及をする者は無かった。
 ユリウスはイシスに到着してから…いや、正確にはアッサラームを出立してからというもの徹底して他人との交流を避け、独りになる時間を求める傾向があった。それはユリウスの思考が昏い炎のようなとある意志・・・・・に囚われ、そこに他者の思考が入り込む事を拒絶しているからに他ならない。
 今は抜剣こそしていないが、纏う雰囲気は近付けば切られてしまわんばかりに鋭い刃そのもの。無表情の利刃の眼差しで、ユリウスは眼下に広がる無風の水面に反射される月の姿を見据えていた。
「この感覚……やはりアッサラームでのあの夜・・・に似ている」
 虚空を掴み、掌から伝わる感触にユリウスはそう実感する。
 たった二週間程前の事に過ぎないが、今はもう遠い日の出来事のように思える。だがあの時、自分の身に起こった感覚変調は、意識すれば直ぐにでも甦ってくる程に鮮烈なものとして、記憶と身体に深く刻み込まれていた。
 アッサラームに立ち入った時に感じた違和感……それは脳髄を弄り、神経を掻き乱す雑音そのものだった。あの街に施された違和感の正体は、高位魔族によって編まれた常識を遥かに超えた規模と現象を引き起こした呪縛結界。その真髄は、あの街で出会った白妙の女性…ルティア唯一人・・・を捕らえる為にアークマージが編んだ鳥籠だ。
「だが……粗い」
 アッサラームのもの程に圧倒的に鮮烈なものではなかったが、今このイシスの地を覆う“夜”からはアッサラームで感じたものと同系統の違和感がひしひしと肌に感じられていた。
「魔法による呪縛結界がこの“夜”の本質、か……ならばその効力は指向性を持ち、何らかの事象封印にへと誘うものに限られてくる」
 空気の中に潜んでいる“魔”の息吹を敏感に感じとれる。思えばあの夜以来、自分が魔法の気配…周囲の霊素、元素に対して受容感覚がより鋭敏になったような気がする。その理由は分からない。だがそのお蔭でこの“夜”の異常性を確かに感じられていた。
(夜……闇の侵食。イシス…太陽神ラー、光……堕ちた太陽。脅え、恐れ、困惑……増大する負陰の感情、活性化する混沌のマナの流れ……敵である不死、魔物)
 瞑目してユリウスは、現状から導ける要素を一つ一つ連ねていく。それを進める過程で、脳裡で並べた全ての要素がとある領域で一点に収束していくのを感じた。
 何かに急かされるままにユリウスは開眼し、右手を力強く握り締める。視線を右手に移しては雷速で意識を集中させた。
 自らの魔力エーテルを集め、自然方向に加速しようとしている右手に、何か大きな重圧を感じる。それは腕ばかりか全身に圧し掛かる程の負荷だと言う事に気が付いて、ユリウスは魔力集約、加速を解き、徐に夜空を見上げた。
「この“夜”……まさか」
 静まり返った闇の中に落ち込んだ大地と、遠く微かな星明りの中で、満月だけがハッキリとおどろおどろしく光を湛えている気がしてならなかった。




「何を独りでぶつくさ言っているのかしら? 傍から見ていてとても怪しくてよ」
 鳥の囀りを思わせる麗しい声で放たれた茨の如く鋭い言葉が背後から降ってきた。
 それはこの“夜”の来訪と同じように唐突なものだったが、特に気にする事の無いユリウスは回廊の石床を蹴る音を聴覚で捉えながらも、夜空から視線を外す事は無かった。
 無反応を貫くユリウスの姿勢を気に止めずに、硬質な靴音と共に声は更に近付いてくる。
「太陽が無くなった所為でクソ寒いわね。……でも会議をサボって、貴方はこんな場所で何をしていて?」
 挑発的な口調で揚々と綴られた言葉。ここでユリウスは小さく吐息を零し、漸く背後を振り返った。
 視界に飛び込んできたのは深海を思わせる深藍の髪。冷たい月光を浴びてその輪郭は薄っすらと青銀がかり、反す光が波打ち際の朧な明暗を蕩揺う幻想的な雰囲気を醸していた。もともと白い肌が月明りによって蒼白になり、その様が神秘性さえ髣髴させる。ユリウスの背後に近寄る人物…ミリアは、臙脂の外套を胸の前で手繰り寄せて言葉通りに肌寒さから身を守っていた。
 声と気配で背後から近付くのが誰なのか察していたユリウスは、無感情に淡々と言う。
「……あんたか。別に、あんたには関係ないの事だ」
「そうね……貴方が何を考えていようが、私の知った事ではないわ」
 互いに素っ気無い言葉だったが、ミリアの抑揚は懐かしい応酬に嬉々として弾んでいるようだった。表情は穏やかに辛口を言いながらミリアはユリウスの隣に立ち、両肘を欄干に預けて一面に広がる水鏡を睥睨した。
 その行動と横顔をユリウスが何の感慨も持たない双眸で追っていると、視線に気付いたミリアが途端に表情を歪めてユリウスを半眼で睨む。ユリウスの目線より随分と低い位置から上目遣いで見上げてくる藍色の双眸は、夜光を灯して夜空そのもの煌きを放っていた。
「……何よ?」
「別に、何でもない」
 何故か不機嫌そうに刺々しく振舞っているミリア。瞬時に真逆に雰囲気を変容させる彼女の思考行動が理解できないユリウスは、ウンザリしたように絡ませていた視線を外し、再び水中の月を見据えた。
 その場所は静かだった。情思による声は無く、遠くで風が流れる音だけが砂を揺らし、水面を躍らせる。
 ユリウスはそんな偽りのまどろみの中で、自らの思惟の世界へ再び足を踏み入れようとしていた。
「貴方、何を考えているの?」
 だが、そんな目論見も唐突な言に遮られる結果となった。
 突拍子も無いミリアの言葉に、ユリウスは月を見ながら怪訝そうに眉を寄せる。
「何の話だ?」
「……スルトに聞いたわ。貴方、魔族になりたいんですってね」
 きっぱりと断言するミリアに、ユリウスは一瞬だけ目を細めて振り向く。何時の間にかミリアは正立し、真っ直ぐにユリウスの眼を見つめていた。その力強い輝きの裡にどんな感情が込められているのか理解し得ないが、ミリアの清冽な眼差しをユリウスは双眸を伏せて遮る。
「俺には力が必要だ。敵を絶殺できるだけの力が。その為の力ならば……質などどうでもいい」
 眼前のミリアにではなく、寧ろ自分自身に言い聞かせるようにユリウスは独白する。
 良過ぎる聴覚でその呟きを余さず捉えたミリアは、諦念に肩を竦めて嘆息した。
「貴方、馬鹿? ……いいえ、確認するまでも無いわね。貴方は大馬鹿者よ。陰りの霊廟で、あれ程までに魔族に憎悪を剥き出しにしていた貴方が、憎悪の対象そのものになる事を望んでいるのだから」
「…………」
「貴方、変わったわ。ううん、私が知っている貴方の事なんて微々たる物だけど……始めは、何事にも動じない、周りが何を言おうと耳を貸さない、妖精だろうが人間だろうがそんなものは気にも留めない…冷酷無比で倣岸不遜なガキだと思っていたわ。……だけど違うわね。今の貴方を見て、認識を改める事にするわ」
 訥々と遠慮なく綴りながらミリアはユリウスを睨む。“嵐杖・天罰の杖”を握っている手が小さく震えていた。
「貴方は何かを恐れ、逃げている子供。その何かから眼を背ける為に、全てを拒絶しようとしているのね」
「俺は何からも逃げてなどいない」
 その単語・・・・に、ユリウスは鋭敏に反応する。ユリウス自身、どうして自分が反論しているのか解らないまま。
 反射的に返って来たユリウスの異を、ミリアは肩を竦めて一笑に伏した。
「そうかしら? それ程までにただ頑なに力を求めている姿勢そのものが、脅え逃げている自身の在り方を否定したいという意識の流れ……それはつまり、その事実を証明している事に気が付いていないの? 力があれば全てが変えられると妄信していた昔の私と同じ、ね」
 言いながら憤りの感情に顔を歪めていたミリアの言葉は止まらない。そしてそれを黙って聞き入っているユリウスも、無自覚に下唇を噛み締めていた。
 そのユリウスの微かな変化を認めながら、ミリアは続ける。
「貴方の周囲に漂うマナは、力への焦燥と飢渇に震えている……貴方は力への意志に囚われているのね。力への意志の根源は、何かに対しての恐怖そのもの――」
「違うっ。俺は何も恐れてはいないっ!」
 その単語が聴覚から脳髄に到達した瞬間。ユリウスは否定に叫んでいた。忌々しそうに顔を歪めて視線を鋭くミリアを射抜き、興奮からか微かに紅潮した口から零れる吐息の感覚が早い。
 普段からは結びつかない、叫び猛るユリウスの様子。その一瞬だけ、ユリウスの周囲を何かの黒い靄が生じていたのをミリアは見た。刹那の幻だったのかと、眼を丸くして凝らすミリアは、やがて諦念に眸を閉じて踵を返した。
「……スルトからの伝言よ。『もしも、貴方があの二人の想いも願いも無碍にするような事があるのなら、僕は貴方を殺します』、……だそうよ。私には何の事か判らないけど、あの子は本気でしょうね」
 顔を合わせないで苦々しく、傷みに耐えるように小さく吐き棄てるミリア。だがユリウスからの反応は無い。それがどうしようもなく苛立たしかった。
 その意識の現われか、振り返り双眸を伏せたままミリアはユリウスの鼻先に向けて杖を突きつける。
「だけど、スルトにはさせない。貴方が魔族に堕したのなら…………真っ先に私が殺すから」
 大胆不敵に、傲然に。人ならぬ故の美しい笑みを浮かべるミリアと、“嵐杖・天罰の杖”に座した鈍色の天使の無表情がユリウスを捉えていた。
「どんなに足掻こうとも貴方は所詮、ただの人間・・。私の力を以ってすれば貴方如き楽勝でしょう?」
 ザワリと魔力の振動からか周囲の空気が鳴動する。
 人間、という単語を殊更強調してミリアは厳しく言い放つ。聞き様によっては種族差を棚に上げた侮蔑とも取れるが、情思に満ち溢れているミリアのそれは、彼女ならではの彼女にしか許されない意識の顕れだった。
「……そうだな。それも悪くない」
 切実なミリアの訴えに返って来たのは、疲労の色が色濃く滲んだ吐息と否定ではない肯定の言葉。それを聞き止めたミリアは内心で舌打ちし、何か痛烈な一言をぶつけてやろうと思いながら開眼する。だが予めそこに宿していた毅い意志の光も、言葉を発したユリウスの表情を見て撓み、大きく揺らぐ事になってしまった。
 ユリウスは完全な“無”の顔でミリアを見つめ返していた。いや、見つめるというよりは映すという方が表現は正しい。視線はこうして在るにも関わらず、その意識は別の場所を見つめている。それはありとあらゆる情理が破棄された原色の、零の表情。普段のように冷酷無比な凍結したものでも、今まさに憤然と歪めていた烈々したものですら無い。これまで見たユリウスのどの表情にも当て嵌まらない、とても空虚で透明な無垢なる相貌にミリアは息を呑まずには得なかったのだ。
 しかしそれも一瞬。その自らに這い寄る死の影さえ微塵も気に留める事無い様子を前に、沸々と裡から込み上げて来るやりきれなさにミリアは表情を歪める。そして毅然とユリウスを見据え、紡いだ。
「っ! バシルーラ!!」
「!?」
 圧倒的な斥力と浮遊感を覚え、ユリウスがその正体に気付いた時には、既に眼前はオアシスだった。欄干を越えて回廊から弾き出されたユリウスは、水面に映る滑稽な自分の姿に向け慣性に引かれて頭から水没した。
「そ、その中で少し頭を冷やしなさいっ! このクソ馬鹿!!」
 水面が煩雑に大きく揺れて、映していた月の姿も唯の歪で断絶された光の塊に成り下がっていた。けたたましく飛散する落水音を掻き消すまで大声で罵倒し、ミリアはその場から走り去る。振り向き様にミリアの目尻から小さな滴が尾を引いていたのだが、半ば強引に水中に沈められたユリウスは見る事さえできない。
 静寂を劈いて石床を蹴る音が、まるで彼女の心中を代弁する悲鳴ように夜空に大きく響き渡っていた。




 それから間も無く。バシャリと水を掻き分ける音と共に、ユリウスは立ち上がる。
 水深は腰辺りまでで、深いという訳ではない。ただ、衣服が水を吸い込んでしまった為か全身が酷く重かった。
「……俺は、何も恐れてはいない」
 裡の澱みを搾り出すように吐き棄てる声に抑揚は無い。
 茫洋と夜空を見上げるその顔にも表情は無い。
 何処までも無依な黒曜石の眸は、大空に鏤められている筈の星々の光を探し、闇の中を途方に彷徨う。だが決してその双眸が光を反す事は無かった。何時の間にか自らを覆っている黒の霧光にユリウス自身気付いておらず、その黒が世界とユリウスを隔てていたからだ。
 夜の冷気を孕んだ風が水面を駆け抜けた。それでも黒は少しも揺らぐ様子を見せず、滾々とユリウスの全身から発せられ、己が裡にへと還っている。
「恐れては、いない」
 再度繰り返す。今度のそれは呪詛染みた呟き。昏すぎる怨嗟を自らに刻まんとする、黒く深々とした呟きだった。




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