――――第五章
      第七話 砂の果実







 聖都イシスに到着して、既に十日という時が既に流れていた。
 その間、聖都を囲う外殻楽園畿内に魔物が出現したという情報は無い。砂を掬う渇いた風と共に、灼熱の昼が来て、極寒の夜が来て……変わらずに時を刻むだけ。
 時折城内では、結界外では魔物の群れが集結している、と兵達が慌しく駆け回る姿が見受けられたが、城下までその恐慌は届く事は無く。届く事が無いからこそ、人々は変わらずの日々を変わらなく過ごしている。
 昼は数多の人間の齎す活気に沸き立ち、夜は惧れを抱いて静粛に息を潜め祈る。その姿は、戦争中であるはずの国にあるまじき、余りにも日常的で健全な様相だった。





 時に圧される事無く燦々と輝く太陽の下。空は相変わらず雲一つ無い快晴で、地をなぶる陽射しも容赦無く強かに肌を焼いてくる。
 そんな変わり映えのない環境の中で、人通りの少ない開けたオアシスの辺にユリウスは独り佇んでいた。
 足元の不安定な砂地に根を構えるように立ち、瞑目したまま剣を正眼に構える。風前の灯のように存在感が濃淡に揺らめくその姿は、さながら墓標のように大地を突き立てられた一本の剱。あらゆる存在が時と共に朽ち果て、風塵と還る砂礫の地に穿たれた、戦痕を想起せずにはいられない一振りの錆び付いた銀の刃。
 ユリウスは目に痛い光を受け止めた刃を通して、自らの裡に棲まう忌むべき澱みを排出しようとしていた。

 砂漠の熾烈な熱風に晒されて全身から汗が吹き出てくるも、ひたすらに集中を高めているユリウスにとってはそれは微風にさえならない。研ぎ澄まされる神経はやがて一つの境界を超え、構えた切先の前に何かしらの気配を感じとるに至った。
 それは幽かであったが、徐々にはっきりとした幻影として像を結び、形を得る。所詮幻に過ぎない顕現した影の姿は、嘗て自分がまだ人間・・でありたいと願っていた頃の面影を色濃く残す、表情のある黒髪の少年だった。
 ゆっくりと開眼し、敵を射殺す黒曜の視線でユリウスがそれを認識した瞬間。

――貴方の力など所詮はまやかし。偽りに慣らされた力では、真なる意志の元に築き上げられた力には遠く及ぶ筈もありません――

 いつかの冷厳な声が脳裡に甦る。それは酷く鮮明な響きとなって、視界を狭窄させる。
(ちっ!)
 途端に研ぎ澄ましていた集中が大きく揺らぎ、胸中で舌打ちしたユリウスは力強く一歩を踏み出しては、眼前の歪み始めた幻を真一文字に薙ぎ払う。虚空を分断せんばかりに放たれた轟々たる剣閃は、周囲の風を巻き込んでは容易く影を掻き消した。
 だがその消滅の余韻も束の間。堰を切ったように次から次へと自分の周りに疎ましい影が出現しては、嘲るように無垢なる眸で見つめてくる。その情思に色付いている黒色は、温かな光を載せていた。

――アリアハンの『勇者』殿。貴方は脆弱です……数多に生きる世界の生命達、その誰よりも――

 いつかの鋭利な声が脳裡に迸る。それは酷く鈍重な響きとなって、意識を攪拌させる。
(五月蝿い……五月蝿いっ!)
 掻き乱れる神経に激を飛ばすよう胸中で吠えながら、ユリウスは地面すれすれを滑るように大きく踏み込み、全身全霊の力を注いで剣を疾らせる。それに続いて止まる事無く放たれる裂帛の斬撃は、足蹴によって舞い上がった砂の粒子一粒一粒すらをも切り裂かんと速さと鋭さを加速度的に上げて影を刻んだ。
 五月雨の如く休みなく砂と風を斬る度に、骨や筋肉が軋み悲鳴を上げるが決して連撃は止まる事は無く。

――力への意志。それは…………――

 いつかの厳粛な声が脳裡に翻る。それは酷く尊大な響きとなって、魂魄を削剥させる。
「失せろっ!!」
 胸中で抑え切れなくなった激情から咆哮を上げ、ユリウスは表情を歪めて大地を蹴り、高々と跳躍すると共に前方に宙返りながら、回転力と全体重を刀身に篭めて砂地を強かに打ち据える。爆音のように戛然と響く砂と金属の激突音と共に、黄砂の飛沫が大きく周囲に散らばり、その身を外界から断絶するように覆い込んだ。
 深々と地に埋もれ、輝きが隠された刀身から両腕に伝わる衝撃は速やかに全身にまで浸蝕し、硬直を齎した。

 不安定で、何の思慮も技の欠片も無い剣戟の嵐は、やがてユリウス自身を苛んでは終結した。




 嵐の前の静けさとでも言うべきなのだろうか。
 この戦況の静穏さはかえって不気味で、様々な危惧や懸念が脳裡に浮かんでは消えていた。そう、現実は決して楽観視できる状況ではない。
 聖都を囲う外郭楽園を境に張られた聖なる結界は、確かに敵の攻勢を押し留める事に効を奏してはいたが、それはつまり敵が結界外で手薬煉引いて待ち構えている、という可能性を示唆する。篭城戦を強いる際における重要な要素は、攻めて来るだけで敵が消費してくれる地形要素。的確に敵を分散し討てるだけの迎撃能力。そして、速やかに補給物資を運搬できる物流経路の確保だ。
 兵も人間である以上、ただ待機しているだけでも水や食料といった必需品を浪費し、実際の戦闘が始まれば、武器や防具。薬品、救援物資等の膨大な量の兵糧を消耗する。死と隣り合わせで戦う兵達にとって、自分達を後方から支えてくれる存在の有無は心を支え、士気を支えてはやがて戦端を大きく左右する。
 そんな兵糧の供給は必要不可欠な要素で、いかに滞りなく速やかにそれを調達するか。その経路を安全に確保できるかが、篭城戦の勝敗の鍵を握ると言ってもいいだろう。
 しかし現状は、それこそが最大に欠けている状態であった。
 このイシス戦争における後方支援…主に物資供給を一手に担っていたマグダリア商会が誇る砂上船も、二日前にアッサラームへ戻ったのを最後に、連絡を絶っている。それは結界外で、敵勢力が阻んでいるのだと容易に想像できる事だ。現状で備蓄が充分とは言え、これからは限界値からただ下降するしかなく、仮にこの状態が数ヶ月でも続いたとしたならばイシスは確実に衰退し、最悪は滅びる事になるだろう。
 
 これはあくまでも人間対人間という場合ケースでの戦争を想定したものだ。だが現実の敵は人間ではなく、魔物という人類の天敵。それも死を超越していると持て囃される不死魔物が徒党を組んだ軍勢だ。そのような敵と相間見えている以上、最早どのようにも変化するであろう局面に、気を引き締めずにはいられない。
 魔物という存在は驚異ではある。だがそれでも単体単体で相手をするには取るに足らない存在に過ぎない。それを良く理解しているからこそ、魔族を背景にした魔物の群れの脅威もまた、理解していた。
 既にイシスに来て十日が過ぎようとしているが、日々は相変わらず安穏とした色に満ちている。だからこそユリウスは、この予定調和からなる均衡状態の終わりが、こく一刻と近づいて来ている事を確信していた。








―――静まり返った会議室の中で、ユリウスは落ち着いた口調で言った。
「魔族になる方法を教えてくれ」
 抑揚無く、そして表情も無い淡々としたユリウスは、ただ真っ直ぐに円卓の正反対の位置に座るスルトマグナに向けられている。
 常識から考えて明らかに正常から逸脱しているユリウスの言に、スルトマグナはその真意を咀嚼し、逡巡に双眸を伏せた。
「随分と穏やかじゃない……いや、物騒な質問ですね。何の為にその方法を知るのですか?」
 潜められ慎重な声調になるスルトマグナに、ユリウスは無表情で口早に返した。
「……魔物を根絶させる為、魔族を殺戮する為に相手の情報を仕入れておくのは連中との戦いにおいて必要な事だ。ならばその生態、発生過程も把握しておいて損は無いだろう。寧ろその過程にこそ魔物、魔族を駆逐する為に有効な要素があるかもしれないからな」
「発生とは消滅の対反応……仰る事は正論です。確かに正論ですが、……本当にそれだけですか?」
「……どういう意味だ?」
 何処か矛先を逸らすような意思を言葉に感じたスルトマグナは、胡乱な視線でユリウスを捉える。
 その挑発的な眼光にユリウスも目線を険しくした。
「その目的の為の手段が、手段の為の目的になっていない事を祈りますよ。そう……魔物を根絶させるに足る力を得る為の手段として、ね」
「…………」
「否定は無し、ですか……何を以ってそのような思考の帰結に至ったのかは解りませんが、あなたの言う事は“悟りの書”の読み解き方、『賢者』になるコツを教えてくれと聞いているのと同義なんですよ。ですが非常にそれは難しい……言葉で言い表せる程度の領域など、物事の表層に過ぎないんですから」
 肯定も否定の言葉も無いユリウスを半眼で一瞥した後、度し難い、とスルトマグナは頭を振って深く嘆息する。
 逆に諭すような物言いをされたユリウスは、眉間に皺を寄せ露骨に顔を歪めていた。言葉が癪に障ったのか、その不服が見て取れる鋭利な眼光は、気を確かに持っていなければ気圧されてしまうまでに不可視の圧力さえ伴っていた。
 剣呑さの増した空気は、閉塞された場所にあってピリピリと痛く、渇ききっている。
 だがそれに少しも臆した様子を見せないスルトマグナは、小さく肩を竦めた。
「……まあ、確かに。魔法を操る者として魔物、魔族の発生過程は興味を惹くに値する題材ではあります。ダーマのとある研究機関でも、野生の魔物を鹵獲しては色々と調査を進めていますしね」
 再び大きく溜息を吐く。それは属する組織の所業を思ってか、諦念染みた色に染まっていた。
 だがそれも束の間に消え、スルトマグナは智者の輝きを載せた冷静な眸でユリウスを見つめた。
「普通の生命であれ、物体であれ。魔物化という現象は“魔”の瘴気による物質マテリアル非物質アストラルの存在比が調和バランス崩壊する事によって引き起こされる変異現象です。これは存在個体によって様々であるマナへの親和性によって程度の差が現れるでしょう。……物質体、非物質体、そして生命体を構成するマナの存在法則はご存知ですか?」
「無論だ。マナは二連の両極性…すなわち陽と陰の属性と、秩序と混沌の親和流動性にしたがって存在を構成している。その様相は個体の数だけ存在し、どれ程微小な差はあれど差である以上、他との完全同一はありえない事を意味する」
 ユリウスの言葉を聞きながらスルトマグナは頷き、何時の間にか円卓の上に用意してあった紙とペンを取り、手を滑らせる。その軌跡はまず大きく円を描き、次に上下左右の極点から十字に線が走る。そして四つに分断された扇形の中央を時計回りに指で小突きながら、スルトマグナは続けた。
「その通りです。それを存在の個性と取る方もいらっしゃいますが、それらは単純に座標数値化されたもの。そしてその四方向中の存在座標をより一般抽象化したのが、魂魄の固有色調論というものなのですが……存在とはそれ程容易に表せて良いものではありません。所詮理論は、人が自らを納得させたいが為に築く、整然に舗装された指標にすぎません。ですがそれらは確かに真実の一端を捉えています」
 円卓の上で祈るように両手を組み、そこに額を当てたスルトマグナ。
 どのような思索を広げているのか、対面するユリウスには窺い知る事はできなかったが、その行為を阻む事は無い。
 沈黙に見守られる中、やがて思惟の終結させたスルトマグナは顔を上げた。
「さて、本題に入りますが……お互いの知識にどれ程の差異があるのかも明確にしておきたいですね。尋ねてきたのはユリウスさんなので、まずはあなたが把握している魔族の情報…発生過程を聞かせてくれますか? それに追加の余地があるのなら、僕が補完するという形式であなたの問に答えます。不遜かもしれませんが、その方がお互いに得る物があると思うので」
「構わない」
「では、お願いします」
 智者は無闇やたらと自分から知識を披露したりしない。
 その言葉が導くは、魔導府ダーマ所属の学院生、魔道士達が有している根本的意識。自分達が見出した知識をおいそれと他に開示せず、秘匿のものとする事でその価値を高めようとする。その為か自尊が強く、他を卑下に捉える姿勢も彼らには存在していた。
 だが、そんな傲慢さは逆に己の無知さを露呈しているようなもの。学術的優位、他外に対しての優越感を保持したい小手先の浅ましい虚栄。最高魔導府という名に寄生する悪病だ、とスルトマグナは嘗て一笑の下に蹴散らしていた。
 その言を思い出し、ユリウスは小さく頷いてから綴った。
「俺が把握している限りでは、魔族になる為には二つの方法がある。それは“偽躯魄合フュージョン”と“剥心融魂フューリー”だ」
 両腕を組んで、ユリウスは真っ直ぐに正対するスルトマグナを見据える。彼は、自分の放つ一字一句余す事無く聞き止めようと、油断無い智謀の糸を張り巡らせる怜悧な眼差しでユリウスを見つめ返していた。
「“偽躯魄合”とは、魔物が物理的に直接魔族の肉体を取り込む事によりその力を得る魔族化の方法。それは人間を初めとする生物でいうところの食事……即ち、捕食による他者の摂取に相当する」
 抑揚の無いユリウスの声は淡々と会議室に木霊する。外に逃げる事が無く反響する言葉の波は、重厚にその内容を装飾していく。
「生物がその生命活動を維持する為に、捕食による摂取は必要不可欠な行動。食事とは自らの内で生成できない要素を他の存在から補う事。そして、それは血潮を超えた高次領域での融合を意味する。……ただの脆弱な魔物ですら、消滅前の魔族の屍骸を喰らって力を増し魔族化するという事例も聞いた事がある」
「そうですね。血脈を超えた高次領域…それは生物学用語で遺伝子というのですが、それを踏まえた上で考察すると、“偽躯魄合”とは生物の進化過程に通ずるところもありますね。進化とは、変遷する環境への適応の為に、より多くの他者の遺伝子を己に取り込んでは多様性を得て、多角的な淘汰を乗り越える事。そして、乗り越えたその優性な遺伝子を連綿と後世に伝え続けるものだと言いますから。それ故に普遍生物を基とする魔物も、その因果に縛されているといえましょう。……魔物同士の交配の結果、生まれてくる魔物は親にあたる魔物達よりもやはり強力で、代を重ねればいずれ魔族が誕生する事もあるだろう、とダーマの研究機関では仮説を立てていましたね」
 頷きながら澱みなくスルトマグナは返す。少しも説明に詰まる様子の無い事が、何度も考察されて至った結論であるとユリウスには何となく感じられていた。
「……ですが人間が魔物、魔族の摂取を実行した場合。無論例外はありますが、高確率で拒絶反応を起こし死に絶えます。まあ人の身にとって魔物の身体は度が過ぎた異物に変わりないでしょうから、拒絶抵抗は正常な反応ですし、何より実証され至った結論ですからね」
「実証されているのか?」
 珍しくユリウスは表情を動かす。だがそれは当然かもしれない。妄慮とも言える事象を、想像の域を超えて実際に行動に移しているとなると、酔狂に過ぎている。非人道的なそれが知識を司る機関の息の掛かった範囲で現実に探求を続けているとなると、それは世界からの糾弾は免れず、また世界に対し古より確立した地位も失墜しかねない汚点になるだろう。
 だというのにも関わらず、その組織に所属するスルトマグナは空々しく言った。
「ええ、ダーマの日に当たらない陰の話ですが……ご存じでしょう? 技術も魔法も、人の生温い倫理概念を排してやれば幾らでも進歩するものです。……異常なまでの魔法抵抗力を保持している他ならぬ・・・・あなたなら理解できると思いますが」
「…………」
 事実確認のように目線で語るスルトマグナに、ユリウスは口を閉ざした。それはスルトマグナの言を否定できず、認めているからに他ならない。
「個々の顕在意識が希薄で、精神活動に劣る怪・動植物種を基とする魔王軍に所属する魔族の大半が、これによって発生した魔族だとダーマは決定しました。おそらくこの事に対しては間違いは無いと思います。以前、僕達が滅ぼした海魔将配下の魔族も、そうでしたよね」
「……ああ」
 上下一面に広がる蒼き戦場で、次々に襲い掛かってきた異形の数々。的確に敵意と殺意を散らす事無く標的を捉え牙を剥いて来た獣共を思い出す。確かにその中には、魔物に紛れながらそれらの上位存在である魔族の姿もあった。その存在の醜悪さと威圧をひしひしと感じられた。
 嘗ての戦場を思い出しているのか、眉を顰めるユリウスを見止めた後。満足げにスルトマグナは口元を歪め、では次をどうぞ、と促す。
 一つ浅く嘆息して、ユリウスは意識を正し淡々と続けた。
「“剥心融魂”とは肉体を失くしても精神体のみで活動が可能な魔族、或いは精神体を基盤とする魔族が他者の精神と同調融合、または簒奪する事でその肉体を得る憑依現象だ。憑依者の精神と被憑依者の精神とが惨憺たる意識の奪い合いを行い、その結果、勝利した者が表層に留まる事になる。その多くの場合、奪った肉体を支配する意識は身体の自由と共に、そこに秘めた潜在能力ポテンシャルをも継承するが……常に依代が淘汰される側ではない。その逆として、器が入り込んで来た意識を呑み込んでしまう事もある。その場合、器は変容し魔族化を果たす。これは非物質領域での“偽躯魄合”とも言えるだろう」
「そうですね。付け加えるならば物体、無生物を基とする魔族は、この過程を経て発生した存在といえます。そしてやはり、依代には生命体よりも物質体の方が適しています。前者よりも後者の方が依代の意識による抵抗は無いですから。憑依の難易危険度、汎用性の高さを鑑みても遙かに、ね」
 語尾を上げて同意を得るスルトマグナに、ユリウスは瞳を伏せる事で肯定した。
「あなた達が以前、陰りの霊廟で相見えた魔族…ホロゴーストもこの分類によって発生した魔族といえますね。あれは不遇の内に処断されたハーフエルフ達の怨嗟が、源泉から溢れるマナを依代として魔物化し、それが集合体として構成される事によって魔族化した存在ですから」
 取るに足らない単なる補足として悠々と綴られた言に、ユリウスは眉を顰めた。
「スルトマグナ……お前は何処までこちらの情報を掴んでいるんだ?」
「ノアニールの件は別ですよ。ミリアは僕の姉弟子ですから……不本意ですが、ね」
 苦虫を噛み潰したように渋い顔をしながら頭を掻くスルトマグナを見据え、ユリウスは納得する。
 そういえばあのエルフもオルテガと共にダーマに行っていたな、と思い返しては感慨無く嘆息し、その事への思考と興味の矛先を閉ざした。
「まあ、そちらの事情などどうでもいいがな」
 実情を知っても尚、興味無さそうにするユリウスの反応に、あなたらしいですね、とスルトマグナは失笑する。それと同時に、ノアニールから帰還して以来どこか楽しげな様子で彼ユリウスの事を話してくれたミリアの心情を思うと、何故か哀れみさえ浮かんできた。
 だが今は、それについての思索は余計な事である以上、意識を逸らすには至らない。
 スルトマグナは笑みをしまい、無感情にこちらの言動を窺っているユリウスを見つめた。
「……以上ですか?」
「ああ。だがそれだけでは無いと思うからこそ、お前に訊いている」
 即座に断言するユリウスの姿に、スルトマグナは納得の相槌を打った。
「成程。つまりあなたは納得していない訳だ。それは、今挙げた二つに該当しない魔族化の事実を目の当たりにした事があるから、ですね?」
「…………ああ」
 漸く本題に入れると思ったのか、ユリウスの溜息には何処か疲れたような色が混じっていた。
「判りました。僕が知りうるあなたの問に添えるこたえはたった一つ。それは“堕天誓約カブナント”と呼ばれる現象です」
「“堕天誓約”?」
 全くの未知の単語をユリウスは鸚鵡返す。彼にしては意外な程にゆっくりと綴られた口調は、自らの中で何度もそれについての思案を広げ始めているからだろう。
「はい。存在領域の観点から論ずると、基本的に“偽躯魄合”は物質領域、“剥心融魂”は非物質領域に作用する汚染侵食です。そして両者に共通している事は、魔族という到達点に至る為には魔物となる過程か、或いはそれに等価な要素が必須であるという事です。ですが“堕天誓約”による魔族化には、魔物という中間過程が存在しません。それは汚染侵食が存在を構成するマナそのものに作用しているからである、と考えられています」
「それは、つまり……」
 語尾を霞ませ、ユリウスは口元を手で覆う。それは深い思惟に陥りかけている時の合図だ。
 即座にこちらの匂わす断片的な情報に反応し、答えを探り出そうと模索するユリウスを、スルトマグナは好意的な眼で見つめていた。
 説明している方にとって、話が中断されずスムーズに進むのはありがたい事だ。それは常に思考を回転させる事によって為される。たとえ追加情報が絶えず投じられて来ようが、その速度を緩める事は無い。
 こちらの言を真摯に受け止めている姿勢の表れだ。迷惑な二つ名の所為で久しくそれから離れていたスルトマグナの紅蓮の輝きは、楽しそうに煌々とした光さえ浮かべてユリウスを映していた。
「こんな言い回しは余り好ましくはありませんが“偽躯魄合”にしろ、“剥心融魂”にしろ存在座標上での軸対称反転作用に当たる現象です。そして“堕天誓約”は、原点対称反転作用……本来あるべき存在位置から全くの正対座標に転移する事に相等しているといえます」
 先程記した円十字の図面をスルトマグナはユリウスの方に見えるように差し出した。その紙の至るところには、何時の間に書き記されたのか細々とした専門用語と矢印が幾つも連ねられていた。
 天才が天才たる所以は、自然な姿勢で如何なる時もより先に先にへと意識と思考を向けられる事にある。そんなスルトマグナの怜悧さをユリウスは改めて感じた。
「厭くまでも抽象論に過ぎませんが、これはそう……存在を構成するマナの法則そのものを書き換える、言わば“生まれ変わり”ですね。もっとも現実はそんなに青臭く、文学的ロマンティズムに満ち溢れたものじゃないですけど……この“堕天誓約”は自然発生する現象でなければ、その意識一つで望み起こし得る現象でもないという事です」
「……何か外的な要因きっかけが必要という事か」
「はい。詳しくは判明していませんが、触媒……“昂魔の魂印マナスティス”と呼ばれる器が必要なんです」
「“昂魔の魂印”……器、というからにはそれは物、か? 道具であったり…………剣であったり」
「はい」
「…………」
 スルトマグナの少しも澱みない返事に、ユリウスは眼を細めた。

―――あの時。あの人が闇の天に掲げた醜悪な気配を放つ禍々しい剣の姿が脳裡を過ぎった。

「“堕天誓約”で魔族化した存在は非常に個体数が少なく、先の二つで魔族化した存在よりもより深度の高いマナを紡ぐ事ができるといいます」

―――ロマリアの闘技場で戦士レイヴィスと対峙していた巨漢の魔族。あの魔族が放った異常なマナの収束の様子が脳裡に甦った。

「そして彼らは時としてこう呼ばれます……『魔王ルドラの使徒』と」

―――アッサラームの地で見えた、あの憎悪すべき魔族の冷厳な声が脳裡に鳴り響いた。

 視線を円卓上を虚ろに這わせていたユリウスは、何時の間にか深い思惟の坩堝に陥っていた。その間も、スルトマグナは悠然と丁寧に言葉を続けていたが、それは意味を得て理解するには至らない。
「――とまあ、僕が知る限りの情報は、あなたと大差ありませんでしたね。ただ、これが魔族化についての総ての事柄か、と言うと恐らく違うと思われます。人間が手にできるものなど、たかが知れていますからね」
「……違いないな」
 ユリウスがポツリと同意するのを聞きとめると、スルトマグナは席を立ち、肩を竦めながらゆっくりと窓際に歩み寄る。そして遮光性の高い厚みあるカーテンを一気に開け放った。
 闇の中から突然に光の中に躍り出る事。それは今まで自分が在った世界から、まるで見知らぬ異邦に放り出される事に酷似し、どうしようもない傷みを五感を通して知覚させる。
 暗かった部屋が白に塗り替えられる様子に、耐え切れなかったユリウスは思わず手でそれを遮っていた。
「ですが、いずれにせよ……持って生まれた器を捨て去りたいと仰るのは、この上ない逃避ですね。その究極的先鋭が“死”ですか?」
「っ!」
 嘲るようにわざとらしい抑揚で綴るスルトマグナに、ユリウスは弾かれて顔を上げる。
 睨み据えた先の眩すぎる逆光の中で、スルトマグナの表情は見えない。だがそれだけに声はとても高く澄んで響いた。
「ユリウスさん。あなたは、何の為に存在していますか?」
「俺の、存在意義……」
「そうです。ユリウスさん……あなたは、変わりました」
 昔を思い出すように、スルトマグナはユリウスに問いかける。
 光の中で深遠さを増す一点の影の下で、その相貌はこれまでの智謀の輝きを載せた怜悧なものでなく、歳相応ともいうべき、不安に塗れた弱弱しいもの。それも何処か、失くしてしまった幻影を追い、悼むような憐憫の眼。
「以前の……たかが一年前とはいえ海戦の時のあなたには、今ほどの鋭さも危うさも無い変わりに、確かなものがあった。“天眼の騎士”、“理慧の魔女” 、そしてアリアハン王子…ごく狭い範囲であったけれど、あなたを中心として傍から見ていても判るだけの確かな絆が存在していました。……だけど今のあなたは、まるで冷雨の中で路頭に彷徨う子犬のようです」
「お前に…………何がわかる」
 何時の間にか俯いていたユリウスは前髪の下の眉間に深々と皺を刻み、消え入りそうな声で呟く。それに抑揚は全く無かったが、低く掠れきり裡での絶えない摩耗の結果、無惨に残った残骸から搾り出したようなものだった。
 小さく短く吐息をして、スルトマグナはそれを冷淡に跳ね除ける。
「わかりませんよ、他人あなたの事は。これまでの道中で何があったかは知りませんが、あれ程までに憎悪し、蛇蝎の如く忌諱し、……そして何より“理慧の魔女”を死なせる結果を齎した“魔族”という存在に堕そうとしている人のことなんか」
 紅蓮の双眸が煌々と光を増した。それは冷酷無比な太陽よりも気高い超然とした意志の光。
 スルトマグナの言葉は無遠慮で、一々容赦無い。それは的確にユリウスの胸中に深く突き刺さっていた。
「ご自分の在り方を見失っているんですか? ですが、別にそれは悪い事じゃ無いと思いますよ。自分の事を完全に理解している人間なんて、本当に稀だ。大多数の人間は己という存在の在り方に無意識下で不安を覚え、その孤独の闇に恐怖する。だからこそ他者を、自らの居場所を求めて奔走し、絆を繋ごうと欲します。……ですが逆に、その不確かで不安定から生じる揺らぎこそ、人が心ある存在である事の証明で在り、人に生への希望と、死への絶望を感じさせるんです」
 現に今この国も……、とスルトマグナは眼下で鍛錬に打ち込む者達を窓越しに見下ろしながら言葉を濁した。
「己という存在を知り過ぎているのも問題です。……余りにも精巧に作られたパズルの欠片ピースは、唯の一箇所にしか嵌らないように、その生は眼前を深い闇霧で覆われた一本の路……それも背後は虚無の崖淵に立たされているようなもの。生も死も、善も悪も超えて生まれながらに己に課せられた宿命から、あらゆる意味で逃れられないと、否が応にも悟らされる事になる……」
 室内から燦々と照る太陽をスルトマグナは睨み据えるように見上げる。
 白日と共に青い空は何の憂い無く広がり、幽かに硝子に反射している自分の弱弱しい顔がこの上なく気に入らない。思わずギュッと拳を握った。
「あなたも、僕も。造られた環境は違えど、外界から求められる存在価値からすると似た者同士です。それ故に僕達、もう人間に戻れない者達には周囲の意思に左右されず己を己と定義し、律する為の確かな言葉と理由が必要だというのに……それさえも見失ってしまったのならば、悲しいじゃないですか」
 最後の一言は、同属意識から零れ落ちた悲痛な感情に震えるものだった。
 ただ黙し、聞き入っていたユリウスはゆっくりと立ち上がり、表情の無くした顔で冷酷に返した。
「……スルトマグナ。一つ、忠告しておく」
「何ですか?」
「この世界に確かなものなんて……何一つ無い。それだけが確かな事だ」
 スルトマグナは硝子に反射する景色の中で、ユリウスが会議室の戸口に向かうのを見止めていた。やがて扉を押し開き、それと共に放たれた冷白な言葉に、思わず踵を返す。
「っ! ユリウスさん――」
「だからこそ俺は外殻を虚構で塗り固め、欺瞞によって仮初の定義を自らに課す。……それが俺の在り方だ」
 強引にスルトマグナを遮り、背中で返したユリウスは長く深く嘆息して、部屋の外に一歩を踏み出す。そのまま退室しようかと思われたその時。
「その在り方を貫く為に、あなたはあの二人・・・・の想いも願いも、裏切るんですか?」
 ポツリと呟いたスルトマグナの言を聞き、刹那足を止める。だが何の反応を見せる事無く、氷の表情でユリウスはその部屋の扉を閉じた―――。








 聖王国イシスが直面している戦争に協力すると公言していても、こうも状況に変化が無ければ王城からの緊急の召集はない。守りに徹している現状、様々に変化する局面への対策が練られているのであろうが、その細々とした采配まで他国の人間に関与、指図されるのは良しとしない、と判断したのだろう。
 その事は正しい事だと思う。所詮、自分はこの地の利も把握し切れていない外来の余所者なのだから。
 また、ユリウス自身で刈り取った結末なのだから仕方の無い事だが、“砂漠の双姫”をはじめとするごく一部以外のイシス軍の人間達は一定の距離を保ったまま、こちらの様子見をしているのがこの一週間の中で良く判った。
 イシス軍の人間からしてみれば、『アリアハンの勇者』である自分という存在は酷く扱い辛く、気に障るものなのだろう。国家としての表面の裏側で、それぞれの裡に秘められた感情がどんなものなのかは理解できないが、自然と疎ましく思う方向への意識の流れは判らなくも無い。
 協調と言いながらも適切な距離を保ち、陽に照らされた美辞麗句を掲げながらも関わりを持たないようにする。そして引かれた境界線の外、交錯する事の無い安全な場所で、各々が持つ善悪是非の感情の下に罵詈雑言を陰で連ねる……そう、アリアハンの人間に良く似ている対応だ。

 だがユリウスにとってその事は寧ろ好都合で、特に何かしらの感慨を沸かせるには至らない些細な事に過ぎなかった。他者との不和に意識と時間の徒労を課せられるよりも、ただ己を高める為の研鑽に没頭する事の方が遙かに重要で、必要な事だったからだ。

 しかし、その思惑も虚しく……。その鍛錬もまた上手く実を結ぶ事は無かった。
「くそっ……」
 まだ微かに疼く掌を握り締め、肩で息をしながらユリウスは虚空と地面に悪態をつく。動悸が激しいからか酷く眼前の地面が揺れて見え、小さく語散た筈の自分の声がやけに大きく聞こえていた。
 思いも寄らない自分の変調に、ユリウスは苛立たしげに髪を無造作に掻き回す。汗でいくつかの房に纏められた髪の隙間を、砂漠の熱風が梳いて行くが、それは圧力を伴って不快感を煽るだけ。何とか息を整えて上体を上げると、眩い視界の中が陽炎に侵食されていた。



(今のままでは駄目だ。このままでは足りない……力が、足りていない)
 最近、剣を振るう度に、魔法を紡ごうとする度に。戦いに対しての意識を集中させる度にアークマージの、遙かなる高みから下された声が脳裡に再生される。そしてその度に、手も足も出ず、何もする事ができずに敗北した己への不甲斐無さと苛立ちに意識が灼き切られ、自身の抑制が利かなくなっていた。
(奴を殺す為には、……あいつを止める為には、決して折れない力が要る。決して揺らがない意志ちからが要る)
 自身の力を驕った事など一度も無い。だがそれでも、あの敗北がやけに鮮明に思い返されるのは、この国に足を踏み入れた時から、ロマリアに到着した時から…いや、王都アリアハンを出てからずっと感じていた、ゆっくりと流れる世界の時間にどうしても馴染めない事に起因するのかもしれない。
 幼い時から常に、世界の情勢は逼迫し、崖淵に立たされて何とか踏み止まっている状況である、と聞かされてきた。そしてその現状を打破する為に『オルテガの息子』、『アリアハンの次代勇者』という中身の無い偶像として、自我が形成しきる前から足を止める暇なく血と狂気と殺戮の中を駆け抜け、その術を身に着けてきた。
 改めて思い返してみても、これまで送ってきた人生総ての時間の中でゆっくりと流れる時間を感じた事など限りなく無いものと同じ。絶無と言わないまでもその期間の何と薄氷な事か。
 だからこそ、その時間は自分の中に強く鮮烈に残っているのだが、今となってはそれすらも自らを追い詰める為の強迫要素に過ぎない。そしてそう思い至った要因を想起すると気が狂いそうになる。……いや、もしかすると既に狂っているのかもしれないが。
 混迷の中を駆け抜けている時は、周囲に流れる景色の端々の総てを見止める事などできない。一つ一つのものまで見据える余裕が無いから、意識もそれに束縛される事が無かったのだろう。だが緩慢に流れる景色ではそうはいかない。はっきりと細部まで見つめる暇ができるからこそ、不要なまでに外界に起こる事象を意識が捉えてしまうのだ。
 つくづく自分は微温湯の時、安穏と流れる時間に浸る事ができない、訪れないと思い知らされる。
(下らない! 感傷など、所詮俺には不要のモノだ。俺の総ては敵を殺し尽くす為だけに在るのだ。故に、人として在ろうなどと思ってはいけない。……すべてはあの時・・・、放棄した筈だ)
 スルトマグナにも言われたとおり、これはある意味、現実逃避と同種の物なのだろう。魔物を殺戮する事にのみ拘泥し視界を狭め、その視界外での事象を徹底して排し、見ないようにする。そうすれば路を見失う事は無い。踏み外す事は無いと目論んで……。
(力を得る為には、俺の中に残る人を人たらしめるモノを消去しなければならない。例えそれで、この身が魔に堕そうとも……)
 だがアリアハンから旅立ち、見た世界はまだ緩やかな流れの中にあった。局所局所では慌しくあるも、総体として捉えるならば今、人間の世界が存続している事実はその証明になるだろう。そしてそれは、闇の中に何とか見出した路すら影に覆い、見失ってしまう程に煩わしくある。
(そうだ……俺が人である必要など、どこにもない。元より人として産まれ生きてはいない)
 耳の奥で何かを責め立てるような甲高い音が響いている。それはやがて聴覚を麻痺させ、脳髄までごちゃまぜに掻き回しているような激痛を齎してくる。
(自我など葬ってしまえ。願いも、望みも。悔しさも、苛立ちも何も抱けなくなるまでに。俺は――)
 例え虚構であれ自分自身の在り方を定義しておかなければ、外界との不調和と絶えず懐裡で奏でられている不協和音…二つの軋みに意識が崩壊しそうだった。



 足元から腐敗し、朽ち果てていく感覚。足元の砂地が崩れ、そこに呑まれていく錯覚に苛まれながらもユリウスは剣を構え、空を見上げる。
 果てしなく続く青の中に、朧な輪郭の白円が居座っている。それは厭味なくらいに曇り無く輝き、ただ地面に犇く者達を冷静に照らしていた。
「剱の聖隷」
 瞳を閉じてそう呟く。その魔法の言葉を自らに言い聞かせた瞬間だけ、自分の中の煩わしい何かが死滅したような、あらゆる柵から開放されるような気がした。




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