――――第五章
      第十話  光輝きぼう求めて







 海面から、そして地上のどの場所と比べてもその場所・・・・は遙かな天空に存在しているとしか表現のしようが無かった。翼の無い生物にとって、見上げる事しかできないまでに高く連なる山脈は、越える事が叶わないと否応なしに自覚させられる絶壁であり、その先には一体何があるのか、という夢想と浪漫と好奇を擽るのに絶好の対象だった。
 いつの時代からそう呼ばれるようになったのかは定かではないが、その場所・・・・を構成する“透華の銀嶺”と呼称される自然景観は、ただそれだけで至高の芸術であり、また同時に破り難い天然の城壁であった。
“透華の銀嶺”に護られた台地は地上よりも遥かに清浄な空気に満ちており、豊かな緑に覆われている。台地の中心には透き通った広大な湖が在り、その内に数多の島々を抱えていた。台地、そして点在する島々に生息する動植物は地上で芽吹くものとは一線を画したものが多く、独特の環境に順応してきた進化の賜物だ。
 そんな秘境の中の一つ。広大な湖沼に浮かぶ最も大きな島に、周囲の自然に溶け込むように調和を果たした国が存在した。
 その国は久遠の時代に空から落ちてきた王国の末裔が築いたとされ、今では失われてしまった文明の残滓を継承し、不可侵の天然城塞に守られながら気の遠くなるような永い時間をかけて独自の、非常に高水準な文化に昇華し、営々と生を刻んでいた。
 嘗ては世界同盟と言う大連環に所属していながらも、連帯意識を掲げる諸加盟国と比べ何処か異なる視点、意識で臨む姿勢は当時の主導国であったアリアハン、サマンオサ両国にとって非常に不気味といえる存在だった。その国は特に何かしらの思惑を持っての事でも、数の力に迫られて加盟した訳でもない。至極単純な事に加盟しようがしまいがどちらでもよい、といったような遙かな高所から周囲の地を見下す傍観者たる姿勢。その国の在りし姿そのままの意志だった。そしてそんな姿勢は主導両国において目の上の瘤だったのだろう。
 だがそれが罷り通るだけの不気味な深遠さを、その国は他の加盟国家に知らしめていた。

 その国の孤高で、恒久かと思われた平和と栄華も、突如として現れた絶対の厄災の前には無常に潰える事になる。
 始まりは大きな地震だった。蒼穹の空が戦慄に震え上がったかと思う程の激震は三日三晩絶え間なく続き、その国家を支える主要都市群はほぼ壊滅する。異変はそれだけには留まらず、やがて国家が存在する台地そのものが得体の知れない神掛かった力によって天を衝く勢いで隆起し、遂には天空に孤立するまでになってしまった。
 国家の象徴であった美しい湖は、台地の内側から湧き出してきた負陰の瘴気によって侵され毒々しく変化する。深緑の木々は枯れ、或いはその色彩を亡失させる。またそこに生息していた動植物や怪物は、密度を増す“魔”に当てられ異形なる“魔物”と呼ばれる存在に変異し、跋扈するようになっていった。
 辛うじて生き延びた人々は、魔に変異し何かしらの意志の下に編成された軍勢によって徹底的に淘汰され、誇示していた華やかさも禍々しさにとって変わられて、在りし日の面影も無くなってしまった。
 驚天動地の異変の結果。その国は世界から完全に隔離し、乗っ取られて恐怖の具現である魔物の本拠地となる。
 その堕ちた国の名は、ネクロゴンド。
 世界を破滅に導く“魔王”バラモスの居城、全ての厄災の原初たる地―――。




 ネクロゴンド城。この世界に存在していながら、異次元であるかのように異質な空気を犇かせている城は真昼であっても薄暗く、地肌が太陽に決して曝される事は決して無い。常に空気には怖気がする不気味な青紫の闇靄が漂い、消える事は無かった。
 開けた中庭では、時折吹く強い風が朽ちた潅木を嬲り、人の悲鳴のような音を周囲に響き渡らせる。それを聞きとめた城内警護の魔物達は興奮と破壊欲に恍惚の雄叫びを上げ、醜悪な殺気を撒き散らして空気にとぐろを巻き上げる。
 そんな狂気舞う中庭を一望できる尖塔が、この城内には五つあった。嘗て人で賑わっていた時代、それらの塔はそれぞれの方位を守護する神獣を奉じ祭事を執り行っていた厳かな場であったのだが、打ち捨てられ無残な今の様からはその面影を見出す事は難しい。ただ塔そのものの威容さだけが、図々しいまでに鷹揚に城内を睥睨していた。
 それらの一つ、南方を守護し叡智と炎を司るとされる朱雀の彫刻レリーフが壁面に飾られている塔。尤も、時の経過と破壊衝動の強い魔物によって殆どが瓦解してしまい、本来の彫刻が何を意味しているのか判る者など無くなって久しい。
 そんな入寂した塔の最上階の一室にて。

 部屋を満たしていたのは濃霧のようにのっそりと漂う闇と、備えられた燭台で煌々と灯る火の光だった。ただその相反する筈の光と闇は互いに互いを貪り合う事は無く。燻る火は温かさとは無縁の冷青色で、周囲に犇く闇と交じり合い、部屋の深淵さを更なるものにするように昏々と揺らめいていた。
 不可思議な調和の場に、一人の人影が佇んでいた。その人物は闇の中で眩い位に映える濃緑色のローブで全身を包み込んでいる。露出している部分など皆無である為、一見してどのような人物なのか想像するのは難しい。ただ静謐に佇んでいるだけの様相が、どこまでも深い闇を感じさせた。
「シャドーよ。イシスにおける戦況はどうなっておる?」
 濃緑色のローブの人物は闇に満ちた虚空に向けて、冷淡で高圧的な女性の声を高らかと響き渡らせた。
 その余談許さぬ声は部屋に満たされていた闇を伝播し、それを受け止めたのは周囲の闇を凝ったように浮かび上がる影。シャドーと呼ばれた影の魔物は声に震えたままの闇の波間を蕩揺いながら返した。
屍術師ゾンビマスター殿が率いる死霊軍が優勢にございます。マナの死せた地の理は、彼の軍勢に有利に働いているようで。尚、最新の報告では、屍術師殿は“檻”を発動させたそうです」
「ふむ。“闇のランプ”を用いたか……まあよい、汝はこのまま監視を続けよ」
「は。……あの、一つ宜しいでしょうか。エビルマージ様?」
 忠実な配下であり、自分の言葉を受け取るだけの存在であるシャドーが、自分に向かって言葉を掛けてくる事は非常に珍しい。その事を内心で驚きつつ、何だ、と濃緑の外套者…エビルマージはシャドーに視線を投げた。物珍しさが孕んだ為か、思いの他強まった視線に、影は怯んだ。
「これは屍術師殿が零していた事なのですが……」
 慎重と畏怖から歯切れの悪いシャドーに、エビルマージはピシリと言った。
「申してみよ」
「イシス側に、“アリアハンの勇者”と“焔の申し子”が荷担しているようで」
「ほぅ……精霊の奴隷に天竜の仔とな。まるでテンタクルス卿が討たれた海戦の再来ではないか」
 愉しげに笑う主に、シャドーはその身体を揺らめかせた。
「……放置しておいて宜しいのですか?」
「構わぬ。そやつらの始末はいずれ然るべき時に行う。現状でイシスで何をしようが、わらわが目的には障り無い。汝は己が任務に戻るが良い」
「御意」
 拒否の許さない主の言葉に、影そのものであるシャドーは人が頷くような仕草を闇を揺らめかせる事で示し、霧散して消えて行った。

 再び静寂が戻った部屋の中。
 一人佇んだままのエビルマージは徐に、虚空の闇に両手を差し出す。すると霧の如きに犇いていた闇が一点に収束し、やがて実体を伴って台座たる両手に収まった。
 それは表面のいたる所に複雑怪奇な魔法紋字が描かれた兜だった。両側頭部からは鋭すぎる金色の尖角が天を穿つように生え、頭頂からは赤金のたてがみが後ろへと猛々しく優美に流れている。
「“黒の欠片”……力への飢渇、その奥に潜む昂魔の胎動」
 虚空から現れ出た兜を目線の高さに掲げ、見据えたままエビルマージは冷たい笑みを浮かべた。
「賽は既に投じられている。どのような目が出ようと、妾の害にはなるまい」
 鉄仮面のように頭部全てを覆う兜を装備し、虚空より溢れ出した圧倒的な量の闇を纏う。そして全身に魔が満ちるのを実感して、嗤った。








―――夜。
 それは空を光無い暗陰に染め、生ある息吹を地に平伏させる、黒に塗り替えられし時。
 黒は全ての色を裡に呑み込む。それは他とのどんな強固な繋がりさえも霞ませ、意識有る生命を途方も無い孤独の頂に攻め追いやる無形の影。
 聖王国イシスにおいて、黒の影が世界を支配する夜という刻限は、無垢なる懼れ抱かずにはいられない魔酔の刻だった。

「ただ斬るだけでは敵は倒せん! 斬撃を見舞った箇所に聖水を浴びせるか、火炎魔法で焼き払え!!」
 けたたましい剣戟と、戦いの興奮による喚声が飛び交う空。その下で“剣姫”アズサの声は思いの他良く通った。夜の冷えた空気の助けもあってそれは瞬く間に戦場を駆け、剣を振るっている同胞達の意識に届く。
 背後から飛び掛ってきた大王ガマを振り向き様に斬り伏せたアズサは、その影から強襲してきた六本の剣を巧みに操る骸骨剣士の六閃を躱し、逸らし、或いは受け止め、やがてその剣群ごと“聖剣・滅邪の剣ゾンビキラー”で薙ぎ払う。輝く剣の軌跡は敵に抵抗すら許さず、瞬く間にその躯を真横に断裂し、消滅させた。
 使い手の戦う意志に呼応している為か、常に清澄な青白い光を燈した刀身が麗雅な円弧を描く度に、確実に不死魔物アンデッド達は消滅の途を辿る事になる。最前線で死を超越した異形の敵に臆する事無く、果敢に滅ぼしていくその姿は光の戦乙女に相応しき凛々しいものだった。
“剣姫”が敵を一体、また一体屠る度に、彼女に続く兵達の気勢は自然と増していく。勇ましい陽なる雄叫びを上げて、兵は敵勢を押し返していた。
 周囲の士気が良い方向に昂揚しているのを実感して、アズサは周囲を見回す。魔物の大半は不死魔物に分類される骸骨剣士や、腐った死体。ミイラ男、マミー……敵の狙いなのだろうか、それらは須らく人の形をとっていた。
「悪趣味なっ……!」
 それらが元々は自分達の同胞の、死さえも弄ばれた結果であると考えると、それらを使役する敵の親玉には憎悪と憤怒を覚える。だがそんな烈々たる感情も、敵にとっては絶好の糧。
 理屈では感情を抑えなければならないと判っていても、心は納得しきれない。イシスの民として、“剣姫”としてアズサに出来るのは、死して尚も辱められる彼等への追悼を込めて、聖剣を翻す事だけだった。

「……しまった、とばし過ぎたか」
 ふと、他の者達との距離が開いてしまった事にアズサは気が付く。自身は不死なる者にとって天敵である聖剣を振るっている為に撃破は容易であったが、他の者達の得物ではそうはいかない。一動作と二動作。断片的に見るならば微々たる物だが、連続的に積み重ねればその差は開くのが自明の理。
 窮地に立たされたという訳ではないが、己の浅慮さに小さく舌打っていると、視界のすぐ側に、ふわりと華麗に舞い降りる影があった。今は遠い空を髣髴させるその影は、宙を漕いでアズサに近づいていたキャットフライを、手にしたホーリーランスで串刺しにする。
「余り一人で突っ走らないで下さい、アズサ」
 暗青色の双眸が発した無表情で抑揚の無い戒めに、アズサはバツが悪そうに唇を尖らせた。
「む、ティルトか。すまぬ……」
 今し方射殺した魔物の骸を無造作に地面に落としていた影は、ティルト=シャルディンスだった。
 ティルトは槍の穂先にこびり付いた魔物の血糊を振り払うと、歩み寄って来ていたアズサに向けて無表情で槍を突き出す。その疾風の一撃はアズサの耳の横を素通りし、背後に迫っていたミイラ男の頭部を貫いた。
 敵の接近に気付いていたアズサは、そのタイミングに乗じてティルトの背後に踏み込み、剣を下段から上へ薙ぐ。それはティルトの背中を狙って、斧の様な上段からの一撃を繰り出そうと腕を掲げていた腐った死体を両断した。
 各々が持つ武器に宿る聖なる力が魔物に浸透したのか、穿たれ、或いは斬り裂かれた魔物の躯は同時に砕け散り、粉々になって冷たい風に攫われて消えていった。
「お主……身体は良いのか?」
「戦闘行動に支障はありません。貴女が連れて来た勇者一行の僧侶…ソニア殿の回復魔法のおかげです」
 抑揚無く言い、周囲に犇く魔物の群れを油断無く睥睨しながらティルトは包囲に痺れを切らして飛び掛ってきた魔物に向けてホーリーランスを横薙ぎに振るう。聖なる銀で鍛えられたそれは、アズサの持つ聖剣程ではないが、確実に不死魔物にとっての厄災となってそれらを滅ぼしていた。
 それを見止め、アズサは鼻を鳴らす。
「ふん、無理が祟って後で泣き喚いても心配してやらんからな」
「貴女こそ猪突猛進の挙句、再び孤立無援にならないように気をつけて下さい。もうフォローはしませんからね」
「ぬかせ」
「そちらこそ」
 互いに軽口を叩き合い、次々と迫りくる魔物の群れを前に自然とお互いに背中合わせになったアズサとティルトは、それぞれ剣を、槍を構え、敵を討つ。背に頼りになる気配を確かに感じている為か、多勢に無勢の状況であるにも拘らず、二人には微塵も恐怖や焦燥が浮かんではいなかった。

 たった二人で、どれだけの不死なる者共を無に還したのだろうか。多勢から突出し、孤立していたアズサとティルト。だが戦況は上手い具合に傾き、敵をより多く引き寄せ、撃破する事ができていた。
「アズサ! 参謀からの“篝火”が来るぞ!!」
 ここで漸くイシス軍勢の前衛が二人に合流したのか、その中に混ざっていたミコトの声が、自らの名を呼ぶ。その逼迫した声色と内容に、アズサはティルトに向けて剣戟の中を叫んだ。
「ティルト、後ろに跳べ!」
「っ!」
 ティルトは聞き返すよりも先に行動に移す。それは殆ど戦士としての直感だ。
 二人が退いたその直後。闇と風を引き裂きながら矢の形をした半透明の紅い光の群れが、今の今まで彼女らが立っていた地面と、その周囲に群がっていた魔物達に降り注いだ。光矢は敵や地面に突き刺さると、猛然と昂ぶる焔に変わり、その一帯を無情に焼き尽くす。
 煌々と輝く業火は、魔物も砂も空の闇をも無差別に呑み込んでいった。
 闇の帳が降りている夜の中で、眩い光を発している前方を見つめながら、額に浮かんだ冷や汗をアズサは拭う。
「たかがメラでこの威力とは……恐れ入る。流石は“焔の申し子”か」
「……魔法顕現による既定の事象を変容させるには、より深い理解と膨大な魔力を要すると言いますが、どうやら彼は両方を備えていると言う訳ですね。十三賢人すら凌駕する魔力を保持していると噂は、真実でしたか」
 震撼するアズサの隣に立ったティルトは、神妙な面持ちで呟く。イシス随一の魔導の大家の出であるだけに、その声は、複雑な韻を孕んでいた。
「“焔の申し子”の二つ名は伊達ではないという事じゃな……」
 今も少しも衰える事無く空気を貪っている焔を見つめて、アズサは戦慄を覚える。その先では闇に潜んでいた魔物の姿が浮き彫りになり、踏破不能な焔の壁を前にして怯んでいるのが良く判った。逆に、この焔壁を築いた当の本人…スルトマグナは遙か後方で、この場からその姿を目視する事は出来ない。こんな事を思うと親友である“魔姫”ユラに失礼だろうが、確実に彼女よりも格上の、恐ろしいまでの射程距離と精密な制御力を以って紡がれた魔法だった。
 喉の奥が渇いてくるのを感じながら、アズサは擦れたそう零さずにはいられなかった。

 参謀の提示した策では、篝火・・を前線に打ち込んだ後は全軍と足並みを揃えて残存する敵勢体を一網打尽にする予定だった。その前段階として聖剣を持つ“剣姫”を囮として、敵の局所集中を誘い、後衛が陣形を崩さずに彼女と合流する手筈だったのだが……アズサが少々突出しすぎた為、ティルトがフォローする事となった。もっとも、計画とは多少の差異はあったものの、所詮微々たるものに過ぎず、順当にスルトマグナは前線に向けて篝火を放ち、この討伐戦も終決に向かっていった。

 腐った肉が焼かれて、気分を著しく害する悪臭が周囲に撒き散らされている。闇を侵す暖色の光が周囲を牽制し、その稼がれた時の間に兵達は速やかに陣形を整える。訓練の行き届いた動きと意識は迅速な行動を彼らにとらせ、残るは“剣姫”の号令を以って敵に向けて突撃するのみだった。
 興奮と緊張が一同に漂う中。
 突然、整列する兵達から一つの人影が焔の横を疾走し、闇の中へと消えていった。
「むっ!?」
 微かに起こった兵達からのざわめきにアズサは即座に反応し、目を細めて疾駆して行った人影を注視する。
 闇よりも黒い漆黒を風に揺らし、夜よりも深い紫紺の外套を翻した後姿。焔の暖色を受けて煌く白刃を携えた“アリアハンの勇者”…ユリウスだった。
 暗がりで表情が見えないが、ユリウスは砂漠の悪路をものともせずに駆け抜け、焔を跳び越えてはその場で踏鞴踏んでいる魔物の中に躍り出た。
 急な闖入者の出現にまるで対応できていない魔物の一匹…マミーの頭部に、ユリウスは疾駆の勢いを乗せて上段から剣を叩きつけた。その容赦無い斬撃は薄汚れた包帯と腐った肉と皮、そして頭蓋を容易く断ち割ってやがて胸の中心付近まで到達する。そしてそのままユリウスは剣を抜くでも無しに、ただ一言…誰にも聞かれる事の無い声量で何かを呟く。すると刀身が鮮烈な白光を発し、瞬く間にマミーを包み込んだ。その光の放射は魔物を内側から崩壊させ、終には消滅させる事となった。
 ユリウスが用いたのは彼の得意とする戦闘技術“魔法剣”。文字通り己の武器…剣の刀身に魔法の具現事象を付与する事で斬撃に属性を付加する事を可能とした必殺の剣。……ユリウス本人ですらまだ窺い知れない深度の宿命ではあるが、それは紛れも無く『勇者ロト』の特質である霊素エーテル元素フォースの共振現象の顕現。
 現在。ユリウスの携える剣には、不死魔物の天敵たる陽に属する正流魔法ニフラムが篭められていた。その清浄にして燦然とした佇まいと威力は、この場に在って“不死絶殺”の異名をとる“聖剣・滅邪の剣”に匹敵する。
“剣姫”にしか持ち得ない力が今、“アリアハンの勇者”の手の中に確かに輝いている。その信じ難い現実は敵味方の区別無く、初見の者達の行動を停止させる。そしてその間にこの戦闘の終止符が打たれた。
 敵である以上、動けようが動けまいがユリウスには関係が無い。無慈悲に、ただ躊躇い無くユリウスが光輝を放つ剣を一振りする度、斬られた魔物は崩れ去り、消滅していく。スルトマグナが熾した篝火付近で魔物達は屯していた事も在って、そこはユリウスによる虐殺の場に直ちに変化する事になった。
 無辜の光を湛えた白刃を前に、死すら超越している筈の魔物達もただ狩られる側の存在に過ぎなかったのだ。

「あやつ……策も何もあったもんではないのぅ」
 灯りに照らされる景色の中。まるで埃でも払うかのように魔物を次々と消滅させていくユリウスの姿を見て、アズサは深く溜息を吐いた。
「……少なくとも、アズサには言われたくない言葉だ」
 嘆息混じりで呆れた様子のアズサに、ミコトはジト目で告げる。ほんの少し前まで、ユリウスと同じ事をやらかしていたのは他ならぬアズサだったのだから。
 そんなミコトの呟きを敢えて無視し、ユリウスの戦い様に見入っていたアズサは哀憐を零す。
「……しかし、相変わらずな戦い方じゃ。あれでは死に急いでいるのと変わらん」
「でも……ロマリア闘技場の魔物の殆どを、あいつ一人で倒した」
 アズサの悲哀に染まった呟きを何処か遠くに聞きながら、以前の蒼茫に染まる闘技場を垣間見た者として、ミコトは眸を曇らせる。実際にはその結果しか見ていないが、きっと今のような戦い方で敵を駆逐して行ったのだと容易に想像できてしまった。
「にわか信じがたいのぅ……つか、あの技は何なんじゃ? 人の株を奪いおって……!」
 ユリウスの手で輝く剣を見てのアズサの悔しそうな発言。彼らと旅路を共にして数ヶ月経ったが、ユリウスが魔法剣を繰っている場面に遭遇するのは今回が初めてだった。聖剣あいぼうを飼い慣らす為に膨大な時間を要したアズサとしては、いとも簡単に同系統の事象を引き起こしているユリウスの姿に、単純な嫉妬心が浮かんでいた。
「まあ、良いか……ん? どうしたのじゃティルト?」
「…………」
 だがそれさえも直ぐに受け容れたアズサは、思考を直す意味で隣に立つティルトに目をやると、普段から表情の変化に乏しい彼女が、珍しく驚いている様相でユリウスの姿を見つめていた。
「ティルト?」
「! いえ、何でもありません」
「……まだ何も言っておらんぞ」
 怪訝を深めて声を強めるアズサに、ティルトは弾かれたように顔を向け、慌てて取り繕う。
 親友の新たな一面の発見に、頭の周囲に疑問符を幾つも浮かべていそうな表情のアズサに向けて、ティルトは眉を顰めて冷然に言い放った。
「“剣姫”! 優勢とはいえ単独では危険です。ユリウス殿の援護にでますよ!」
 アズサの返事を待たずに、槍を構えてティルトは焔に向かって走り出す。
「ふん、言われずともわかっておるわ!」
“剣姫”は背後に整列して陣形を造っていた兵達を振り向き、聖剣を高々と掲げる。そして上天を指していた切先が振り下ろされ、焔の揺らめきの先に浮かぶ異形に向けられた。
「敵を蹴散らすぞ! 全軍突撃っ!!」
“剣姫”の号令に、空気を割らんばかりに捲き起こった鬨の声。
 地鳴りの如きに戦場を満たすそれに、魔物が怯む。それを機に、イシスの兵達はユリウスによって刈り取られていた魔物の残党に突撃した。

 聖都を襲撃した魔物軍との幾度目かの衝突。イシス軍は連戦の勝利をまた一つ飾る事になった。








“夜”に陥って以来、聖都全域では松明が掲げられ、それら橙の光が煌々と闇に抗していた。だが砂漠全土を覆う程の圧倒的な量の前にして、それらは今にも潰えてしまいそうな儚いもの。まるで暗迷という奈落の底に叩き落された今の自分達…イシスに住まう人間の心を象徴しているかのようだった。
 また物質的側面の問題として、陽が昇らない為に熱を留める事が叶わない砂上の気温は下がる一方。吐息は極寒の地でのそれと同じく白く夜闇に広がっては呆気なく霧散し、身を切る様な冷気は砂と数少ない緑、そしてそこに生きる命を遠慮なく甚振っていた。
 そんな中。不死魔物の群れの襲来という事態が度々起きている。
 それはこれまで“魔姫”の結界に護られ不可侵を誇っていた外郭楽園に敵の侵入を許した事を示し、イシスの民にとって悠久よりの矜持を傷つけられた事に等しい。聖都への直接被害は未だ無いが、それも時間の問題であるとの見解が徐々に民の間に浸透していた。
 無論そんな不穏当な事象を、指を咥えて静観するつもりは無いイシス国軍は、率先して魔物を迎撃する。
 それは大局からすれば微々たる動きかもしれないが、幾つもの戦いの勝利を以って少しでも人々に希望の火を燈さんとする、地道ではあるが確かな意識の前進だった。
 本来この為に招かれているユリウス達も度々この喧騒に組しては、殺戮と狂気渦巻く戦火に身を投じていた。




 城下は今、先の戦いの勝利による興奮に満ちていた。暗がりの中を威風堂々凱旋する兵達の姿に、暗澹漂う自分達の未来を変えるくれるのではないかという、光輝きぼうを見出し始めているからに他ならないだろう。
 だが戦いである以上、どのような形であれ負傷者は出る。幸いにもここ数日の諸戦で死者こそ出さなかったが、大小なりとも怪我人は増えるばかり。
 正流魔法が封印される“夜”の下。その対処法は、専ら薬草や傷薬と言った非魔法的手段に頼るしかなく、この地特有の治療施設…治癒方陣は稼動こそするものの、数えられる程度の設備が加速度的に増え続ける重軽傷者の数には決して届く事は無かった。
 治癒方陣とは、イシスで連綿と継承されてきた魔法文化による恩恵の一つ。回復魔法の効果を顕現する魔方陣だ。
 その原理はこの地で普遍的に用いられている魔方陣と同様に、紡がれる魔法の構成を解析し、図面紋様化した構築式で陣を組むように編み直して“場”に刻んだもの。魔法構築式の解析そのものは、近年発展が著しい魔導器技術の進歩により容易になってきていたが、力場を安定させ半永続的に起動させる為には、陣に集約される周囲の魔力の流れを御し、流量を精密に調律する必要あった。その調律こそが非常に難解な事実で、“屍の生地”に住まう陣式の魔法操術に長けたイシスならではの技術となっていった。
 施設の管理責任者である“霊療ネフティス”イスラフィル司教の統制の下、治癒方陣は徹底した管理調整がなされていた。だが治癒方陣の欠点は、治療効果が見られるまでには幾許かの時間を要する事にあった。平時なればさほど問題にはならなかったが、現在のような戦時下で負傷者が次から次に続出する事態では、その手段も効率的に回転していないのが招かれざる現状だった。
 輝かしい勝利の反面、人知れずその裏側で深まる翳り。そんな中、この“夜”の下でも正流魔法が紡げる稀少な人物として、アリアハン大陸出身のソニアとユリウスの名がスルトマグナによって挙げられていた。これはソニアとユリウスが特出した力を秘めているという訳ではなく、二人の出身がアリアハンだという事実に基いての事だ。
 その原因は、十三賢人首座賢者“智導師”バウル=ティスレビによって張られている、アリアハン大陸全土を覆う程の強力な結界にある。その結界の性質とは、元素と霊素の活動抑制…より強大に両者を構成する存在に対して強く作用し、繁雑に活動するマナに制限を掛けて安定を図る。この結界の内では、例え魔王軍六魔将の地位に立つ高位魔族でさえ存在する事が困難になり、その為にアリアハンに土着する魔物は脆弱な種類しか存在しない。
 スルトマグナ曰く、イシス大砂漠を覆う“夜”の作用は、厭くまでも第一過程で収束した魔力を発散させ、第二過程である発動過程を妨害する類のもの。限定的に正流方向への加速のみを封鎖しているのは、恐らく結界の展開領域をイシス大砂漠全土という広域を対象としている為、他に手が回らないからだろう。故に、真言過程をより強固な経路を辿って行使する事ができるのならば、多少の違和感はあれどつつが無く正流魔法の通常使用は可能である、との事だった。
 その条件を考慮した場合、予め妨害制限が掛けられているアリアハン大陸で何不自由なく魔法を紡げる者には、“夜”の作用で正流加速が封鎖される事は無い。スルトマグナがアリアハン出身の二人を推す理由はそこにあったのだ。

 現実にユリウス、そしてソニアも全く問題なく正流魔法を紡げていた。そしてその事実が大きな光輝になった。

 ソニアは今、息を吐く暇無く大神殿の礼拝堂で回復魔法を使用し続けている事だろう。実際に存在属性が陽にある彼女の正流魔法は強力で、“夜”の下では他の追随を許さない。
 だがそれに反してユリウスは、己が紡ぐ回復魔法は他人に対して、そして自身に対しても大した効果を示さない事を熟知していた。その為、勝利の凱旋による沸き立つイシス人達の騒ぎに乗じて姿を晦まし、ユリウスは度々足を運んでいたオアシスの辺に避難し、鍛錬に勤しんでいた。
 瞑目したまま正眼に剣を構えるユリウスは、上段に振り上げ、開眼と同時に下ろす。空気を引き裂くその剣風…切先の軌跡に仮に何者かがいようものならば、真っ二つにせんばかりの斬撃だった。
 続いてユリウスが虚空に向けて連撃を繰り出そうと剣を引き戻した時、砂を踏み締める音が聴覚に捉えられた。
「やはり、こちらにおいででしたか」
 続いて背後に投げられた声に、ユリウスは構えを解く。そしてその声が誰の物なのか即座に覚り、疲れたように嘆息した。
「あれ程の戦闘の後だというのに、あなたは休まれないのですか?」
「必要無い……それに、そんな事は瀕死で死地より帰還して間もないあんたに言われたくない言葉だ」
「それは、そうかもしれませんね。全てソニア殿の回復魔法のおかげです」
 ユリウスから少し離れた後方に立っていたのは、聖槍を携えるティルト=シャルディンスだった。

“魔姫”の妹、ティルト=シャルディンスが所属する王墓守衛隊は数日前に壊滅していた。
 彼女らが聖地の巡視で幽玄の王墓ピラミッドに訪れていた際、砂漠全土が“夜”に堕ちる。そして負陰の活動力が増した不死魔物の群によ急襲されたのだ。唐突な侵攻を前に、碌な抵抗すらできず王墓は敵勢に落ち、守衛隊隊長以下殆どの隊員が捕虜となってしまった。命辛々何とか脱出してきたティルトと他数名は、“砂漠の双姫”にその凶報を伝えた後、“癒しの乙女”とイシス人に囁かれ始めていたソニアの治療を受け、昨日漸くまともに動けるようになったばかりだったのだ。

 ユリウスの評に誇張は無く、ただの事実だった。実際ティルトは王墓脱出時には瀕死だったというのにも拘らず、僅かな時で傷を完治させ、果ては戦端の最前線で“剣姫”に遅れを取らない行動を示している。ユリウスも呆れんばかりの生命力だった。
 そんなティルトは無表情を微かに和らげ、ユリウスに向かう。
「上層部からの通達で、幽玄の王墓に侵入する部隊の編成が終了したそうです」
「……そうか」
 余りにも無感情な反応に、ティルトは目を細めた。
「気にはなりませんか? ご自分がどの舞台に立つのかが」
「別に、どうでもいい。何処に立っていようが、俺に出来る事は変わらない」
「それは頼もしいですね。では、これから宜しくお願いします」
 表情の変化が欠しいながら緩やかに笑んで頭を下げるティルトに、ユリウスは眉を顰めた。彼女の発した言葉の真意に気付いたからだ。
「…………そういう事か」
「はい。王墓の水先案内人は私共、王墓守衛隊の者がさせて頂きます。勝手知ったる他人の墓なのでわからない事があれば何なりとお聞き下さい」
 微妙な言い回しにユリウスは眼を瞬かせるも、直ぐに無に戻す。そして返事の変わりに深く溜息を吐いた。

 ユリウスがティルトと邂逅したのは、この国に到着して間も無い時だった。“剣姫”アズサの視察と称した観光に心底辟易して、見つけた静かな場所を鍛錬の場として剣の素振りをしていた時だ。
 唐突に現れたかと思うと出会い頭に、手合わせ願います、とこちらの返答を待つ事無く槍で切りかかってきたのだ。
“剣姫”アズサを筆頭に、ティルトといい、近衛隊長ティトエスといい、イシスの人間はどうにも行動が短絡で直線的過ぎる気もしたが、気に留めるまで興味が動かなかったのでユリウスはその思考を破棄し、早々に面倒を終わらせるべく刃を合わせた。
 手合わせと銘打っていたので勝敗に意味は無い。だが、こと戦闘行動に関して手を抜く事をユリウスは由としなかったので、敵では無い以上本気にはならなかったが、手は決して抜かなかった。そんな意識と槍と剣の相性もあったのだろうが、結果は……とりあえず互いが地に膝を着く事はなかった。
 その手合わせ以降。ティルトは何か得るものを見出したようで、ユリウスがこの場で鍛錬をしている所を度々訪れては二つ、三つ言葉を交わしたり、鍛錬に刃を合わせたりした事もあった。彼女が如何なる意思によって行動しているのか不明で、ユリウスには理解できなかったし興味も無かったので、何故とは問わず我関せずを貫いていた。……ある時、ティルトが訪れていたのをアズサに発見されて、彼女による色々と意味不明な追求ならぬ尋問にはこの上なく辟易したのは記憶に新しい。

 黙々とユリウスが虚空に向けて剣を振る。ティルトは脇に腰を下ろしてその様をジッと見つめていた。それがここ数日の彼女の行動。沈黙の視線に観察されるのが鬱陶しくなったのか、ふとユリウスが口を開いた。
「……あんたは何もしないのか? 鍛錬の為にここに来ているんだろう?」
「はい。貴方の剣閃を、貴方の動きを見ているだけで十分鍛錬になります」
「……そういうものなのか?」
 その返答にユリウスは怪訝に眉を寄せる。
 習うより慣れろ、の指示の下で幼少より殺戮の術を磨いてきたユリウスにとって、それは理解しがたい思考だった。
「ええ。イシス軍の主流武装は剣ですし、この国に在りし流派の殆どはもう見飽きてしまいましたからね。貴方のように、外国から来る方の鍛錬はとても新鮮で、勉強になります」
「だがあんたの得物は槍だろう。剣では余り参考にはならないと思うが?」
「そんな事はありません。頂点を極めるにはどんな些細な事でも自らに取り込み、裡で昇華する必要があると私は考えます」
「…………」
 余りにも率直で誠実なティルトの意志に、ユリウスは逃れるように視線を背けた。何故自分がそうしたのか理解できぬまま、その微かな疑念を振り払わんと素振りを再開する。
 沈黙の夜を、空を切る音と風の音が支配していた。
「鋭いですね」
 嘆息交じりにティルトは感嘆に言った。
「貴方の剣技には本当にゆとり・・・が無い。何処までも鋭く、ただ敵を屠る為の効率を追求しているのですね」
 地面に腰を下ろしたまま、見上げてくる暗青色の双眸は夜光を反し僅かに光る。
「貴方は、虚空の先に一体何を捉え、斬っているのですか?」
「質問の意図がわからない」
「ここ数日。貴方の鍛錬を見て思ったのですが……私には、鍛錬の中でも貴方が誰かに対して斬りつけているように見えます。無為に宙を薙ぐのではなく、常に斬るべき相手を想定し、斬撃を繰り出しているように思えます」
 訥々と語るティルトの言葉に、ユリウスは口を水平に結んだまま聞き入っていた。
「これは私の師の言葉ですけど、優れた剣の使い手は手にした剣と同様に、やがて己自身をも刃に変えてしまう。己が人であるという事を保つ為に、鍛錬の際には虚空に自らを映し切り付ける。そうやって己を戒める為に――」
「怪物と戦う者は、その過程で自らも怪物にならないよう意識し、注意しなければならない。血染めの輝きを見つめている時、その輝きもまたこちらを見つめているのだから、……か」
 ティルトが言い終わるのを遮って、ユリウスは言葉を重ねる。
 そんな思いも寄らなかった反応に、ティルトは小さく目を瞠った。それはユリウスが自分の言った事に対して肯定の意とも取れる事を返したからだ。
「貴方は、自らを斬っているのですか?」
「さあな」
 ユリウスは瞑目し、一つ宙を薙ぐ。空気の悲鳴が一つ、響いた。
 その反応に、立ち入った事を発したのだと気付き、弁えてティルトは頭を垂れる。
「すみません、一方的過ぎました……。でも、私にはそう見えたのです」
 あからさまな拒否。その中に肯定の意を見出したティルトは真剣にユリウスを見つめた。
「……教えて下さい。傷みは、自分を自分と定義する為に必要不可欠なものなのですか? 茨の路を進み続ける事は、その過程で常に伴う痛みすらやがて忘れ、自分という存在の在り方を見失ってしまうものなのですか?」
「…………」
 ユリウスは無言を貫いたままティルトを視界に捉える。それが彼女の饒舌を促した。
「どれだけ足掻いても、どれ程手に入れられないと理解しながらも、それでも望み続ける私はさもしい女なのでしょうか?」
 縋るように見上げてくるティルトの眼には、逼迫の色が浮かんでいた。何かに追い詰められ、潰えてしまいそうになる危うさをユリウスは感じた。恐らくそれは、自分も同じような眼をしているのだと、頭の片隅で自認しているからなのかもしれない。
「俺には何も答える事は出来ない」
 それ故のユリウスの答え。だがその答えに、あからさまな落胆をティルトは浮かべる。そんな彼女に向けてユリウスは決然と続けた。
「……あんたの傷みを解せるのは、あんた自身をおいて他には居ない。誰かの言葉で、それを左右されるのであれば所詮はその程度の事なんだろう。慰めや優しい言葉をかけて欲しいのならば、あんたに親しい者達か他の人間に言えばいい。同情は一時の共感意識と、忘却を齎してくれるだろう。……だがそれらは根本的には何も変えない。ただ目を逸らすだけの逃避に過ぎない」
「ユリウス殿……」
「……あんたが何を考え、俺に何かの言葉を求められても、困る。俺自身に予め備わっていないものを、他人に教え与えるなどできる訳がない」
「貴方は……本当に冷たい方ですね」
「そういう性分だ」
 思わずポツリと零れたティルトの言葉に、抑揚無くユリウスは返す。特にユリウスに不興を蒙った様子は見られなかったが、自分の発言が余りに率直で皮肉染みたものだった事に気が付き、ティルトは慌てる。
「あ、いえ…悪意はありません。寧ろ、私にとっては好ましい事です」
 更に自分の吐いた言葉に気が付いて、軽く混乱をきたしたティルトは小さく頭を振った。
「突然申し訳ありませんでした。……この“夜”の影響なのかもしれませんが、私は少し弱音を吐きたかったのかもしれませんね」
「何故俺に話した? 弱音というものは、真っ当な反応を返してくれる者に吐くものではないのか?」
 心底怪訝そうにしているユリウスの言い様に、ティルトは苦笑を浮かべた。
「貴方なら……ただ言葉の羅列として聞いて貰えると。貴方ならきっと感情や周囲の情思の一切を介さずにただ在りのままに受け取り、聞き流してくれる。そう…つまらない口先だけの慰めなど決して言わない、と勝手ながらそう思ったからです」
「何故、そう思う?」
「貴方の在り方は私の望み、私が目指しているものだから。孤剣として在る貴方の姿に、私は自身の辿り着くべき場所を見出したから」
 それこそがティルトにとって、ここ数日の行動原理。それを伝えようと主張するティルトはただ真摯にユリウスを見つめる。それをユリウスがどう捉えたかティルトには判らなかったが、ユリウスは能面の無感情さで見つめかえし、やがて踵を返した。
「……与えられる存在意義に意味はない。必要なのは、自らをどう定義するか」

『あなたは、何の為に存在しますか?』

 その時、以前のスルトマグナの問が脳裡を過ぎった。
 それを脳裡で反芻し、咀嚼し、乱れ解れた糸を紡ぐ。
「俺には俺の進むべき路がある。例えそれが虚構で塗り固められた欺瞞だったとしても、そこにはどんな他人の意思も入り込む余地など有りはしない。そしてあんたには、あんたが見出すべき答えがあるんだろう。それに他人が口を挟む事などできはしない」
「どう自分を定義するか……」
 自身に投げ掛けるように呟くティルトの姿。ユリウスはその様子を一瞬横目で捉える。そして、手にした剣を騎士の敬礼のように眼前に掲げた。
「俺は“剱の聖隷”……それが俺自身を定義する為の言葉であり、存在意義だ」
 静かに紡ぐ魔法の言葉。それは数多の思惟に拡散し行く意識を、ただ一点に集約させる排他の呪文。
 それを聞き止め、弾かれたようにティルトは顔を上げる。その言葉に何か惹かれるものを感じたのか、微かにその双眸は揺らいでいた。
「剱の、聖隷……不思議な響きですね。自分の中の意識こころが鎮まりかえるような韻……これは決意と自戒の言葉、なんですね?」
 目線で尋ねてくるティルトに、ユリウスは応えない。だがその無表情こそが肯定を物語っているようだった。
 ティルトは胸に手を当てて、祈りの句を捧げる如きに小さく呟いた。
「言葉には霊魂が宿る…魔法の使えない私には、ずっと価値の無い戯言だと思っていました。ですが、“剱の聖隷”……頂いても宜しいですか?」
「言葉にどんな意味を見出そうとも、所詮は他者との意思疎通を図る為の道具に過ぎない。普遍的なものの使用許可を俺に得る必要が何処にある」
 何ともユリウスらしい率直で中庸な言葉。
 知り合ってからごく僅かであるが、そう感じたティルトは薄っすらと微笑んだ。
「ありがとうございます。ユリウス殿……貴方と話せて良かった。これで私も、決心する事が出来ました」
 何を、とはユリウスは問わなかった。そんな事をしても何の意味も無いし、ティルトの双眸に決然と燈された光輝を見て、何となく悟ったからだ。
 ティルトは立ち上がり、先程のユリウスの仕草に倣って槍を両手で包み込み、眼前に恭しく掲げる。
「剱の、聖隷」
 穂先の刃は、夜光を集めて燦然と煌いていた。
 空を仰ぐティルトの決然と晴れやかな横顔は、嘗て見た二人に重なってユリウスには見えていた。








 時を同じくした異なる場所。“天空の塔”と敬称されるガルナの頂より、“魔呪大帝”ジュダ=グリムニルは世界を睥睨していた。彼が手にした杖に座す翼竜も、彼と同じ目線で地上を見下す。
 悠然と大空を往く風との対話を楽しむ至高の大賢者に、背後から無抑揚の言葉が連ねられる。
「ジュダ様。グロリアからの報告で、イシス大砂漠の当次元空間からの乖離を確認したとの事です」
「そう。封印されたんだね…………予定通りに」
 はい、と能面の氷青賢者キリエは首肯する。そして首を傾げた。
「よろしかったのですか? グロリアの目算では正規のものより出力は遙かに下回っていますが、“闇の衣”の断片に違いないとの事ですが」
 コクリと頷き、ジュダは暢達に返す。
「構わないさ。紛い物は所詮紛い物。出来損ないが封縛できる領域など、たかが知れている。それに、こんな時の事を想定してスルトにを聞かせ、彼の地に送り込んだ訳だし。同行させたミリアにとっても“屍の生地”は“神鍵”の試運転には丁度良い場になるだろうから、ね」
「…………」
 何処までも未来を見透かした超越者。予定調和を語る主にキリエは無表情を強めた。
 全身で塔内に吹き入る風を受け止めていたジュダは、吸い込まれそうなまでの青空を見上げ、その双眸を開く。決して開かれる事の無かった瞼の下には、絶えず虹色に変化する瞳が気ままに流れる雲を捉えた。
「っ!」
 大気が激震し、見つめた雲が四散する。視界に満ちたマナが擾乱し、悲鳴を挙げていた。
 世界を伝い届く圧倒的な力の波動に、直接眼を合わせた訳でもないキリエは押し潰されそうな圧力に跪き、息苦しさに胸元をきつく押さえ込んだ。
 背後の配下の様子を察し、ジュダは小さく苦笑を零す。キリエの全身に圧し掛かる力が、少し和らいだ。
「大空を往く烈日の白煌に愛されしは、悠久を巡る黄砂。
 輝ける事を渇望せし者、天を仰ぎ其を請うも叶わず。押し寄せる懼れを前に、ただ地に項垂れる。
 斜陽を越え、漆黒の太陽が昇りし時。飢渇に地を這う者共、歓喜の中で産声を上げる。

 彷徨える霊魂を縛り付けし天導の柩、安らかなる寝所。
 還りし者、彷徨せし者と輪舞の音韻を刻み鳴らし、乖離せし二条の聖なる輝き、火花散らす。
 天を周回する円し太陽と月。西から東へ、東から西へ。その軌跡、地に刻み残す。

 弛まぬ永久なる時の中で、安息を得ていた鍵の目覚め。
 空に昇りし四昂の光、地に迸るは七つ星。翼有る天輪が動きし時。原初の大河へと還る門、開扉する。
 空高く顕現せしは清冽なる濁流。其が奏でるは、柔らかなる入寂の、福音の音。

 大地に立つ者共、慙愧に堪えず見上げるは曇天の闇空。
 滴る雫は枯渇の紅沙に染み渡り、浄罪の路を照らす烈光は、命律回天を再び紡ぎはじめる。
 猛る百獣の斉唱を包摂せし、雷霆と、昂焔と、轟嵐が織り成す弔詩を」
 幾つかの詩を詠い、ジュダは振り返る。その双眸は閉じられていた。
「全ては、マリエルの預韻詩篇に予め記されている通りの事象だ」
「あのじゃじゃ馬の……いえ、星詠みの預言者が遺したものですか」
 キリエの、憔悴を何とか押し隠した無感情の言に、ジュダはコクリと頷く。
「そう。この世界には、彼女の遺した言葉・・が数多く眠っている。彼女は“悟りの書”の一篇、“慈悲ケセドの章”に至った者。悟りの書より齎される連綿と続く世界の記憶を紡ぎ、未来事象の因果律を詠む事が許された稀少な存在なのだから」
 ゆっくりと綴りながら、ジュダは開かれた塔の外周部を歩きはじめた。
 そこは地面から塔身に沿って吹き上がる豪風に曝されている場所。それに掬われ一歩でも足を踏み外せば地上に一直線に墜落する背筋の凍る行動なのだが、そんな愚を彼は決して起こさない。
 それを知っているキリエは無意味な思考を切り捨て、ただ只管に主の言葉を待った。
「見守ってあげようじゃないか。そこに生きる者達の力への意志を。……そして、今はまだ彷徨える『勇者』の選択を」
 ジュダは頭だけを半ばほど後ろに返す。閉ざされた視線の先には、石床に描かれた複雑な魔方陣より虚空に向けて吹き上げる白光の奔流。その清冽な瀑布の中を白妙の女性…ルティアが眼を閉じたまま、揺り籠に揺られて眠る赤子の如きに宙を蕩揺っていた。
「それでいいだろう? アタラクシア」




back  top  next