――――第五章
      第十一話 王家の幽谷







『……この決定は、一体何だというのですか?』
『不服か?』
『当然です。年々増していく魔物による被害への対策として、守護の結界方陣を張る事に異論はありません。ですが提示された規模においては、とても納得できるものではありません』
『……此度の決定では、外郭楽園を守護方陣の限界としている。それは術式の要に立つ“魔姫”に潜在する維持力を鑑みての事』
『発案は……やはり神殿府と貴族枢機院の連名で?』
『然り』
『っ……外郭楽園の外にも民の住まう街は数多あるでしょう! いえ、そもそもこの砂漠には古くから先住する砂の民、前世代の奴隷階級を祖とする者達、外国からの移民、巡礼者の集落……一体どれだけの人間が生活していると思っているのですか!? この決定では、彼らを見捨てるようなものですっ!』
『この決定を見て判るとおり、事実上それらを見捨てる気なのだろう。現実問題として聖都に民を移住させるにしても限度があり、選民意識の非常に強い神殿府や枢機院の御老人方が憂慮しているのは、人口増加に伴う市街地の拡大によって神聖にして厳粛な聖都の美観が損ねてしまう、という点だけ』
『そんな……馬鹿な』
『古き慣習に縛られる彼等が考えそうな事。「聖なる」、「神の」…を接頭語に令を布けば、ラーを奉ずる民は反故にする事は無いと本気で信じ込んでいる。……実に嘆かわしき事よ』
『……そもそも神殿府と貴族枢機院の癒着は、嘗ての宗教戦争以来、神権分離政策によって断たれている筈です。歴代の大司教様もそれを徹底してきたではありませんか』
『歴史の表面に現出する領域ではな。いかに表面の装丁が清廉な佇まいを保っていたとしても、その内側が朽ち果てるのも世の習い。王家の権威が形骸化しつつあるのもまた、認めざるを得ない現実。だが埃の被った古訓を縛する事もさることながら、魔物、それらを統べる「魔王」の存在は大きい』
『……「魔王」ですか。ならば尚更このような時世だからこそ、無用な混乱の火種を撒き散らさない為にも指導者は厳正であるべきではないのですか?』
『老人方にはそれが判らない。いや、敢えて判らないようにしているのかもしれぬな。「魔王」という存在に対しては、嘗ての東より来たりし英雄…「アリアハンの勇者」オルテガ殿の威光に日和る姿勢がある様だ』
『勇者の、威光?』
『然様。未だ一般には浸透しきっていないが、彼の者の遺志を継いだ子息が数年後、彼の国で成人を迎えると共に魔王討伐の旅に出るという。数年前、オルテガ殿の訃報と共にアリアハンより出だされた発布が、今になってその効力を示し始めている。そしてこの先、時を経る度にその影は確実に世界中に浸透するだろう』
『……血の宿業、ですか。馬鹿馬鹿しい……私は、その「勇者の子息」に同情します。自らの預かり知らぬ処で、無責任で残酷な期待を一方的に掛けられているのですから』
『皆が皆、そなたのように冷静に現実を受け止め、享受できる程に強くは無い。魔物という絶対的な脅威の具現を前にして、人々の心は安定を保つ為に神の威光を欲している。それ故にその御声を感じさせるものならば、実体を確かめずに諸手を広げて人々は歓迎するのだろう』
『……普段は無意味に他を軽侮し、己を誇示するくせに』
『そうだ。心の弱き者は集団性を求め得て、異端、孤高を蔑如する事で安定を得る。そしてそんな連帯による保守的意識は束なるが故に変わり難いもの。古より在り続けているこの国の存在そのものが、その証明』
『そんな下らない理由で、女王陛下は…双姫はこんな上奏を認めたというのですかっ!?』
『発言には気を配れと何時も言っておろう。陛下の御心など我らには計りようもない。双姫についても、老人方の狡猾な甘言に丸め込まれたのだろう。だが彼女らの心に利心は無く、在るのはただ民を護りたいという想い』
『その想いの結果がこの決定だというのならば……、とんだ茶番です!』
『そなたは手厳しいな。確かに彼女らはその御位に立つ以上、無辜という訳にはいかぬが……そう責めるものでもない。彼女らはその御位に就任して未だ半年にも満たない。経験、思考、配慮……性急な代替わりが齎した激変する環境に着いて行くのが精一杯なのだろう。そして何より、若すぎる故に老獪な詭弁とまともに渡り合えないのが実情』
『ですが……ですがっ、だからといってこんな非道な事がまかり通って良いのですか!?』
『決定は、既に一個人の感情だけでは覆されぬ位置に落ち着いた。だが、この国を古くから蝕んでいる膿以上に浮かぶ問題もある。それは、こういった事に対して誰一人として表立った糾弾を行わない意識の流れ。今回の件にしても疑念すら抱かぬ者も多い事だろう。人は、自分の痛みには過剰に反応すれど、他人の痛みにはとても鈍感で居られる。盲目的にひかりに縋る事で、その対すべきものを見ないようにする。そんな意識によって、な』
『くっ……』
『万象とは、陽光と陽光の当たらぬ陰影によって構成される。どちらかが欠けても駄目なのだ。この国を在るべき姿にする為には、永く視界から外していたものを改めて見初める必要がある。そしてその意識の改変には、発端として大きな揺らぎが必要なのかもしれぬ。夜と昼との間に立つ、暁の刻がな』
『……―――ル様』




「ん……」
 寝台の上で小さく身を捩りながら呻き、その自らの声でアズサの意識はゆっくりと浮上する。未だ微睡の霧中を彷徨ったままの眼に飛び込んできたのは、いつもの目覚めの時に見えている自室の天井だった。
 窓から射る僅かな夜光でさえ強烈に視界を圧迫している。光による刺激に慣れぬ霞んだままの眼で捉える曖昧な世界は、今の今まで見ていた夢の残滓の為か薄紫の靄に覆われていた。
「……また、か」
 凄烈な光に圧され、アズサはきつく双眸を閉じる。伏せられた瞼の裏、その闇中で紫色の燐光が何かの鼓動を打つように一定の間隔で現れては消え、泡沫の生消を繰り返していた。
「私、はアズサ……」
 寝台に横たわったまま自分に言い聞かせるように、自らの名を虚空へと発する。それは睡眠中使っていなかった咽喉を通した為か低く掠れたものであったが、夜の冷たい空気の中では緩やかに響き、やがて自らの聴覚へと飛び込んできた。
 閉ざされた視識に反して、身識はとても鮮明だった。今こうして、どうしようもなく不快感や息苦しさを覚えているのは、寝ている間に全身から汗が吹き出していて、それを吸い込んだ寝間着がピッタリと肢体に貼り付いているからだろう。
 起床時の心身の昂揚を落ち着かせ、ゆっくりと瞼を持ち上げてアズサは亡羊と天井を見つめた。そして視線に導かれるまま、掌を虚空にへと伸ばす。視界を占めるスラリと長く健康的に日焼けした指先は親友の“魔姫”ユラを始め、同年代の女官達に比べれば女性的な丸みに乏しく、逆に随分と骨太な造りだった。だが剣を握っている以上それは避けては通れない事で、自身も重々解しているから今更なのだが、少しやるせないと思う。
 平時にならば気にも止めない些細な事でも、感受性が高まった結果として感傷的になってしまうのは、このような目覚めを迎えた時特有のものだろう。
 寂寥に揺らぐ眼差しで暫くの間ぼんやりと手の甲を見つめ、返しては視界を塞ぐ。額に触れる夜気によって冷やされた皮膚の柔らかな感触が、心地良い安堵を齎した。
「私は“剣姫”、アズサ=レティーナ」
 目元を覆ったまま、アズサは肺腑に溜め込んでいた吐息と共に自己を形成している矜持を呟く。先程よりも決然とした韻が踏まれたそれは、耳の奥にその余韻を残し、伝わってくる鼓動に漸くアズサの意識は完全な覚醒を果たす事ができた。



 手早く部屋着に着替え、就寝中に固まってしまった筋肉を解すように身体を大きく動かす。気分的にあのまま再び寝入る事ができそうも無かったので、アズサは諦めて起床する事にしたのだ。
 新鮮な空気を肺腑に染み渡らせ、全身の筋肉の収縮と共に血流が安定してくると身体と意識は何時もの調子を取り戻す。その時、ふと窓に映った自分の顔を見つめ、自らの性質を思い返したアズサは小さく嘆息した。
「今になって“紫寂の夢”を視るとは……のぅ」
 今しがた顕れた夢を思い返して、その残滓にうつろう意識。滾々と裡から湧き上げてくる愁嘆に、アズサは一人語散た。

 夢とは、人の顕在意識から零れ落ち深層意識下で堆積した願望として、記憶の中の種々多々な断片を繋ぎ合わせて紡がれた空想として、過去に体験した記憶の追走として、様々な形をとって顕れる。
 アズサが自ら呼称する“紫寂の夢”の場合は、分類で言うならば記憶の追体験に相当した。だがその真髄は、自らの記憶を省みる事では無く、自分以外の外世界に留まる残留思念おもいを追跡する事…他人の記憶を、夢を介して垣間見る事にあった。しかもそれは横から盗み視るといった客観とは異なり、あたかも自身が実際に体験したかのような生々しいまでに精巧な現実感と温度で、自らの懐裡に主観として取り込まれてしまう。それがこの夢の最も厄介なところだった。
 今でこそ言葉一つ、名一つ。自分を自分と定義する要素で夢の残滓による影響をやり過す事が可能となったが、自我の成育しきらぬ幼少の折、アズサは何度も唐突に漠然と顕れる“夢”の影響によって、未成熟な自意識が淘汰され崩壊しかけるという事態に瀕していた。
 その為、聖王国イシス“剣姫”アズサ=レティーナにとって目覚めは安堵であり、ある意味恐怖でもあった。
 何故自分がそんな夢を視る事ができるのか、原因はアズサ自身も判っていない。そして無論この事は他人に、親友であるユラにですら話してはいない事実だった。だがそれもその筈。夢を媒介に他人の記憶を垣間見るなど、言葉だけを聴くならばそれはとても突拍子も無い事。単なる過剰な自意識が齎した錯覚や陳腐な絵空事染みた妄言に過ぎず、とても他人に信じて貰えるような事象ではなかったからだ。
 時折垣間見るその“夢”が往々にして薄紫色の霞が掛かり、どうしようもない虚脱感、寂寥感を己の裡に残していく事から、アズサ自身はその夢の事を“紫寂の夢”と称していた。

「こいつを手にして以来、じゃな」
 寝台の直ぐ側に立て掛けてあった愛剣、“聖剣・滅邪の剣ゾンビキラー”。その澄み切った刀身を鞘から開放しながらそう思う。
 現在より時を遡る事二年。当時、王宮で行われた次代の“剣姫”選定御前試合の結果、アズサは“剣姫”という誉れ高い称号とともに、イシス四聖宝の一つ“不死絶殺”を賜る事になる。その事はアズサを囲む外側の環境だけでなく、内側まで変化を及ぼす事になった。
 それまでは、日々の精神修養によって培っていた意志によって、その夢は他人のものだと拒絶ではなく受け容れる事で、頻発していた夢の影響を回避できるようになっていたが、聖剣を手にした途端、ぴたりと“紫寂の夢”そのものを視る事が無くなったのだ。
 だからこそ今回の夢の顕現は久しぶりの事で、聖剣を手にして以来初めての事だ。それだけにこの時期、今回の夢は何かしらの意味があるような気がしてならない。
 アズサは胸の内で警鐘が打ち鳴らされているような思いに駆られた。
「今の夢は、一体誰の想い出なのじゃろうな……」
 達観した眼差しで虚空を見つめる緑灰の眸。
 全てに紫色の霞掛かった夢の中で、誰かが憤り昂ぶっていた様子だけが鮮明に思い出せる。その人物が抱いていた悔しさ、悲しみ……そういった様々な感情が自分の裡で自らの感情として消化されつつあるのか、その人物の情思の動きが良く理解できた。
 夢に見た人物が誰なのかは定かではないが、共感できる事が多い事から、自分にごく近しい者なのかもしれない。ほとんど直感であったが、アズサはそんな気がしてならなかった。

 鬱蒼としてきた気分を払拭する為、アズサは窓を押し開く。その途端、夜空の冷気が熱在るものを奪わんと部屋の中に殺到してきて、思わずアズサは表情を歪めた。
 決して明ける事の無い“夜”に堕ちてからというもの、空にはただ煌星と月が浮かんでいる。だが決してそれらは動く事はせず、ただ黒空という天井に鏤められた装飾品。静止したままの光はとても作り物めいていて、不気味ですらある。少しでも星が動けば、月が満ち欠ければ時間の変化から朝という太陽の昇りを想起できるのだが、そんなささやかな人の願いさえ塗り潰すように昏黒は変わらずに大地を覆い、不安は一層募り往くばかり。
 こんな意識の流れへの誘いこそがこの状況を造り出した者の真の狙いだったとするならば、とてもそれは陰湿で執拗だとアズサだけでなく、現状を解している者ならば思った事だろう。
 切りつけてくるような刃の冷風に身を竦ませ、アズサは己が両腕を抱き締めるように摩りながら窓を閉めた。
「ん? 何じゃ……」
 踵を返すと、書机の棚からぼんやりとした光が零れているのが目に付いた。自ら光を発する物など腰に佩いてある聖剣以外に持ち得ないアズサは、怪訝に思ってそれに近付く。慎重に開けた引き出しの中には、掌から肘程までの小刀が大事そうに納められていた。
 これはアズサが“紫寂の夢”を認識するようになった頃、唯一その事情を知る養父から護符代わりにと授けられた宝物といえる小刀だ。黒塗りの、非常に滑らかで美しい鞘の表面に掘り込まれている“素戔嗚スサノオ”という記号は、見ているだけで何故か涙が溢れてきそうになるまでに何かを心に齎してくる。その事から何らかの効果を秘めた意味深な魔法紋字に見えなくもない。だがこれは自分にとって明らかに未知の図で、どのような意味が内在しているか解らない以上、それより先の探求の術は思い浮かばない。そしてこれに手渡された時、養父からもこの小刀を養父以外のどんな人間に見せてはならない、と厳に戒められたから公然と追跡もできないでいた。
 今、秀麗な烏珠の、鏡のように自身を映す鞘の継ぎ目から清澄な光が滔々と溢れている。
「これは……一体?」
 恐る恐るそれを手にし、何かに急かされるようにその刀身を解き放つ。すると刹那、太陽を思わせんばかりの光が視界を覆い、音も無く潰えた。
 大きな緑灰の眼を瞬かせるアズサは驚愕のまま、呆気に取られて己が手の内を見つめる。そこに座す、緩やかに反る血を吸った事の無い純潔の刃は、新鮮な空気に晒された事に歓喜するように優しい光を携えていた。
「何かに、呼応しているんじゃろうか……」
 この小刀を手にしてから十年以上経つが、このような現象は初めてだった。だからこそ、刃の光を見つめているアズサにはそう感じられた。

 それは決戦の地、幽玄の王墓ピラミッドに赴く当日。早朝にすらなりきらぬ、真夜中の刻限の事だった。








「……感じる。砂礫の大地で喘ぎ、苦しみ、嘆く者共の魂の慟哭。力への意志に囚われた者達の歓喜の鼓動が」
 誰も居ない玄室で“影”は虚空を見上げていた。
 玄室のあらゆる場所に描かれている魔法紋字は、燈篭の如き幽静なる漆黒の光を湛えている。静かだが、それ故に齎されている確かな存在感と緊張感は、孵化の瞬間を刻々と迎えている雛の昂揚を思わせた。
 閉塞した玄室の中心には黄金に塗り固められた柩が変わらずに横臥し、それを囲う揺り籠のように三方に仰々しい彫刻の台座がある。台座は互いに等しい距離を保っており、何れかが何れかを睨み合い、牽制し、補完し合っていた。
 それら三点の台座から例に漏れずそれぞれに等しい位置の、柩の真上の虚空には不自然に歪められた空間が生じ、裡には禍々しい黄昏色に輝く天秤を擁していた。暁の天秤がゆらゆらと浮かぶ様は、反して異様なまでに濃密な威圧感を周囲に放っている。秤皿の片方には闇、もう片方には光の球体が錘として鎮座し、両者の釣り合いは今、光の方が重きにあった。だが刻一刻と時を経る度に、その差も徐々に確実に詰められてきていた。
 また僅かに闇の秤皿が下に傾き、それに伴って光が昇る。少しずつ光と闇が平衡になりつつある様子を凝視しながら、周囲に漂う闇霧に紛れて“影”は薄っすらと喜悦の笑みを描いた。
「全ては順調だ。平衡の刻を越え、染められた“魔法の鍵”を以って“扉”が開かれれば……余の望みが叶う」
 冷たい石室に厳かに反響する声に、その真意を解しているのか皿の上の闇が小さく揺らめいていた。

「――――様」
 不意に、玄室の入口から“影”に向けて声が掛けられる。
 冷たい印象を催す声の主の姿は闇に潜み、“影”の立つ位置からは死角に当たる場所に立っているので目視する事はできなかった。だが、“影”にはそれが誰なのか判りきっている為、改めて誰何する必要の無い事だ。
 故に“影”は振り向きもせず、ただその配下が継ぐべき言葉を泰然と黙し待つだけ。
 数呼吸の沈黙の後。やがて闇の先から抑揚の無い声が続いた。
「すべての準備は整いました。イシスは予定通りに動きます」
「……策を弄している故に予定調和とはいえ、ここまで配剤がこちらの意のままであると逆に恐ろしくあるものだ。順風故に何かあるのではと勘繰ってしまうのは、やはり人の性というもの……だが、この局面は我らにとっての僥倖に相違無い」
「はい」
 余りにも己が描いた通りに時局が展開している為か、気分を良くしている“影”の饒舌は止まらない。裡から込み上げてくる情動を隠しもしないで感慨深げに綴る“影”に反して玄室の入口に佇む人物は無感情に、ただ簡素に返していた。
 その気配も声も微動だにさせない様子に満足したのか、“影”は小気味良さそうに笑う。
「そなたに授けた“死の首飾り”。それを身に着けておけば、砂漠で最も生と死が鬩ぎ合うこの場所・・・・で、不死者共はそなたの意に従う。それを上手く用い、そなたはそなた自身に課せた宿業を果たせ」
「……御意」
 余韻すら残さない淡々とした一言を残し、その人物は気配を闇の更なる深淵にへと溶かし、消えた。



 配下が去り、一人泰然と玄室に佇んでいた“影”は、柩を囲う台座の一つに安置されていた小箱を手にし、虚空に向けて恭しく高々と掲げた。するとその小箱から零れる濃密な闇の波動によって、周囲に犇いていた闇霧が猛烈な勢いで顫動を始め、玄室内部に描かれていた魔法紋字に吸い込まれていく。輝く紋は冷え切った石室の空気を擾乱させながら貪欲に闇を呑み込み、玄室を含むこの場所・・・・を大きく震動させた。
 一定の間隔で揺れる様は、まるで大地の鳴動のようだ。その地の奥底に潜む存在の確かな鼓動に、積み上げられた石と石の隙間から、年月によって摩り減らされた細やかな石礫が溢れ出て石床を打ち付け、粉塵となって鬱蒼と漂う。
“影”は小箱から絶えず溢れ出している闇が“夜”の下に広がっていったのを実感し、喜悦の笑みを浮かべる。複雑に入り組んだ迷宮を駆け抜ける風の音と共に、小箱から出る闇と空気とが触れ合う事で発せられている音色の喚起によって、歓喜する不死者達の言葉にならぬ雄叫びが聞こえていた。
「いよいよ大詰めって感じだね。屍術師ゾンビマスター殿」
 小箱の奏でる旋律に耳を傾けていた“影”の耳朶を、聞き慣れない柔らかな声色が打つ。それと共に背後に新たな来訪者の気配を察知して“影”は何事かと踵を返した。
 自らの配下は、現在の玄室内に立ち入る事は決してできない。だと言うのにも関わらず、入口を越えた室内には周囲の闇よりも深く昏く浮かび上がる二つの人影…闇色の外套で全身を包み柔和な気風を纏った青年と、獣の如き粗暴な気性を無遠慮に撒き散らしている黒髪の巨漢が物珍しげに周囲を見回しながら佇んでいた。
「……貴殿らか」
 不意の来訪者の正体が判明し、つまらなそうに鼻を鳴らして“影”は二人を一瞥する。
 屍術師と称呼された“影”の、歓迎とは程遠い剣呑な視線と声をサラリと流し、闇色の外套の青年…アトラハシスが鬱陶しそうにフードを脱いで黒いまでに豊かな翡翠の髪を空気に晒した。黒の渦中に花開いた鮮色は柔らかで、青年の纏う優雅な気品にざわめいていた周囲の闇は平伏する。
「この舞台は蒼古にして実に壮麗だね。これ程までに雄偉な建造物を築くに至った太古の人間の知恵と技術、それに伴う犠牲は賞賛に値するよ。そして……」
 そこでアトラハシスは言葉を留める。口腔内で何度も咀嚼吟味し、やがて言葉に充分な感嘆を絡ませては微笑んだ。
「そして何より異彩を放っているのは、この砂漠全土を覆う“夜”の帳……実に興味深い演出だ。“夜”に満たされた負陰のマナと死の香りが犇く砂漠を“死宵の砂漠”と称するとは、古の人間は上手い事を言う」
 そんなアトラハシスは既に “檻”の基点を解しているのか屍術師の背後、三つの台座の一に座している“闇のランプ”を見つめていた。その熱心に翡翠の視線を注ぐ様子を、屍術師は無聊から酷く冷やかに睥睨する。
「ふん。気に召したのならばくれてやる。もはやそれは我にとって価値の無い物。我が欲したのはそれの齎す“檻”としての機能のみ。その“檻”でさえ一度起動させてしまえば、内に捕らえた者達のマナを糧として永続的に独立稼動するのでな」
「本当かい? じゃあ、お言葉に甘えて頂戴するよ」
 声を躍らせて、アトラハシスは意気揚々と台座から“闇のランプ”を手に取る。台座に手を近づけた際、指先にバチリと淡い痺れが走ったがアトラハシスにとってそれは躊躇いを覚える程のものではなく。壊れ易い陶器を扱うが如く、大事そうにランプを両腕に抱え込む様は、まるで打ち捨てられていた仔猫を抱く子供のようだ。
 アトラハシスの醸す陽だまりの様な雰囲気と相俟って、その姿はとても和やかなものに見える事だろう。だが、この場所・・・・にとってはあまりに相応しくない在り様を看過する訳にはいかない屍術師は、苛立たしげに口早に促した。
「そんな事よりも、貴殿らは何をしに来た? 再三に亘るこちらの要請を跳ね除けていたのだ。台本に記されていない貴殿らに、既に立つべき舞台など無い」
「解ってるよ。ぼくはただの観客さ。貴方が心血を注ぎ、慎重に入念に準備を進めていたこの晴舞台……ぼくとしても、この催しの行く末には興味がある。折角の機会だし、この余興を充分に愉しもうと思ってね。直に観に来たと言う訳さ」
「暇な連中よ……ならば舞台脇で、存分に観覧しているがよかろう」
「あはは、重ね重ねお言葉に甘えさせて頂くよ」
 鷹揚に外套を翻した屍術師に、アトラハシスは屈託無く笑った。








 灼け渇いた砂の細粒が無遠慮に頬を撫でていく。
 温かさが全くと言って良い程に感じられない冷やかな風は、その渓谷の砂面を蹂躙しながら颯爽と駆け抜けていた。
 太陽亡き空を支配するのは深謀の闇。その中で不気味に輝くのは生彩の無い月と、それに寄り添う無数の星々。その強弱も緩急すらも無い、闇空に寄り添う献花として鏤められただけの停滞した無機質さは、冷徹な酷薄さを観る者に感じさせた。
 薄っすらと明るんだ冷淡色の白翠の灯りは、昏き砂礫の大地に立つ人の心に安堵を齎すよりも先に、不安の影を落とす。それは幾筋もの風紋が刻まれた大地が、爪弾くべき弦のない竪琴の空虚さを醸し、否応無しに儚さを拡げていたからかもしれない。
 本来ならば太陽が空を支配しているこの時間帯。赤褐色に染まった砂と岩で構成された焔獄を想起させる渓谷も、夜光の下では翳りが強ばった岩肌がおどろおどろしく映える冷たい氷壁。だが凍えるまでの閉塞感を与えているその様子は、ある意味その名と場が示す本来の意味に回帰していた。
 歴代の聖王国イシス国王…ラーの化身が葬られる幽玄の王墓が座す渓谷、王家の幽谷。そこは生と死と、光と闇とが交わり拮抗を保つ点。

 今現在、その生者と亡者の領域を隔てる境界を往く数名からなる一団があった。

 聖都イシスを襲撃する不死魔物の軍勢との諸戦を悉く勝利し、人々の意識に小さくも確かな光輝きぼうの火種を蒔く事に成功したイシスは、その火種を育成させ決然とした焔に成さんと次の一手を放つ。
 それは神の化身が没する神聖にして厳粛な地を陥落させ、畏れ多くもそのまま拠点としているであろう不死魔物を統べる存在の抹殺。即ち、敵陣と化した幽玄の王墓への直接侵入、その制圧だ。だがそれは敵の本営に突撃する事と同義であり、そこには否応無しに死の影が背後についてまわる。
 そんな無形の影に囚われず、確実に任務を遂行できると見出されその配役に任ぜられたのは、“不死絶殺”を振るう不死者の天敵たる“剣姫”アズサ。対魔物としてその存在を認知されている“アリアハンの勇者”ユリウスと、共に魔王討伐に随行する勇者一行からはヒイロとミコト。そしてイシス軍の中からは王室近衛隊隊長ティトエスを始めとする精鋭の騎士数名だった。

 ユリウス達…決戦部隊は今、堕ちた聖域へ向けてただ北に進んでいた。




(月洸で大海の底に息を潜めさせた煉獄の回廊も、たしかこんな感じだったか)
 眼下に広がる無機質な世界を見下ろしていると、嘗て自らが閉ざした場所・・・・・・・・・の幻影と重なって、それが酷く胸中がざわめかせた。耳の奥で何かが慌しく囁いているのを感じ、それに流されるように改めて自身の思考回路を振り返って、はたと気が付く。
(自分が……閉ざした? 俺は今……何を、考えた?)
 その刹那故に遠謀な自問の解は、きっと失くした記憶に関係するものかもしれないと直感で思い、逸って記憶の探索に駆け出そうとすると、眼前の景色が大きく揺らいでしまった。
(! 駄目だ、今は……遠視に集中しないと)
 悲願に走ろうとする自らを叱咤し、意識を視に集めると再び景色は安定する。だがその彩りの無さが、現実と夢幻の境界を酷く曖昧にさせていた。
 冷たい月光を背負い上空から陰影の深まった地表の凹凸を睥睨していると、同じ目下の大地に立っている筈の自分が、本来そこに在るべきではない存在なのではないかという想いに強く囚われる。この“夜”になってからというもの、何か自分の奥底にある魂に訴えかけてくるものが多いような気がしてならない、とヒイロは感じていた。
 その正体が何なのか、自分はその前提すら失っているのだから皆目検討もつかず、半ば置き去りにされる寂しさともどかしさに緩やかに蝕まれる。所詮は取り留めの無い感傷に過ぎないのだが、そんな事を思わせる程に砂の大地は果てしなく地平の彼方に拡がり、この“夜”はどこまでも懐かしかった。

 王家の幽谷の全容を一望できる小高い丘に立ちながら、ヒイロは『盗賊』としての特殊技能“鷹の眼”を凝らしていた。だがその表情は険しく、頬からは幾筋もの汗が線を引いていた。
 いかに空の王者の眼力と冠される技と言えど、この特技は太陽が昇っている日中にこそ真価を発揮する性質を持つ。故に、夜という光が欠しい刻限において使用不可にこそならないが、難易度が上がるのは動きようの無い現実。これは、この特技に付いてまわる制約だった。
 ヒイロは『盗賊』を職として永い間、冒険者として世界を渡り歩いて来たのだから、その技術の練度の高さは申し分無かったが、夜に“鷹の眼”を運用するには、やはり普段以上に深い集中と神経を酷使していた。
 一通り渓谷の周囲を見渡したヒイロは遠視を解除し、眉間を揉み解して過負荷を与え続けた視神経を和らげる。頬に留まり切れず宙空に零れた汗の粒を、砂漠を走る冷え切った風が掬っていった。
「周囲に不死魔物はおろか、他の生物の姿形も無い。敵の勢力圏である事を忘れる位に、静か過ぎる程静かだ」
「お疲れ様。……だけどそれって不自然だな」
 自身も深い集中の困難さを解しているからこそ、遠視を試みていたヒイロを気遣って少し離れた場所に立っていたミコトは、労いながら首を傾げる。その際、両側で結った艶やかな黒髪の束が流れて、月光に冷たく梳かれて白く煌いた。
「ああ。だからこそ気を緩めるべきではないかな」
 帽子を脱ぎ、銀糸を掻き上げてヒイロは北の方位を仰ぐ。それは今の今まで、遠視で視ていた方角だ。
 通常でも目視が充分に可能な位置に、闇に紛れながら巨大な影がある。影は漆黒の中の月を背天に配し逆光に霞みながらも、その存在感は少しも翳りを見せない。彼の地…“幽玄の王墓”は今、夜の深海の如く静謐に満たされていた。



 ユリウス達一行は王墓守衛隊の生存者達を水先案内人として、彼らの導きで聖都より北に数日の所に位置する“王家の幽谷”への道程を順当に経て、既に王墓そのものを一望できる場所にまで至っていた。
 その見晴らしの良い丘の中心で、一行は野営に取り掛かる。通常ならば岩壁や洞窟を利用した方が背後から急襲される事は無く安心は得られるのだが、今のような、姿を見せない敵が何時、何処から襲撃して来るかわからない状況では逆にそれが仇となる可能性があったからだ。いざという時に行動が起こし易い様に敢えて自分達の存在を敵に晒す場所を選び、敵の方から姿を現してもらう。
 それは決して特別な事でも酔狂でもなく、この魔物が蔓延る世界を往く冒険者にとっては、日常的に過ぎない右か左かの二者択一に過ぎなかった。

 砂の表面に大小二重の円を描き、その内側に数基の三角形を配して魔法紋字を加える。それが火炎魔法メラを熾す魔方陣の構成だった。難解な原理や法則が当然働いているのだろうが、何も無い大地の表面に炎が具現され漂う様は何とも不可思議だ。魔法という超常的神秘を行使できる者にとっても、その現象は充分に興味と視線を惹くに値する。
 焚火の替わりに用意された火の魔方陣は、潅木さえ稀で得難い砂漠の上で、暖を得る為にイシスの民が古来より築いてきた魔法技術の一端だった。
 慣れた手付きで野営の準備を終え、ぼんやりと宙に揺らぐ炎の側に腰を落としてミコトは一つ嘆息する。
「……ここまで不死魔物とは遭遇しませんでしたね」
「そうだな。これまで遭遇したのは元々砂漠に土着している魔物だ」
 ミコトの言葉を拾ったのは、炎を挟んで正面に腰下ろしたティトエスだった。彼の明茶髪や白銀の鎧も今は炎の暖色によって煌々と照っている。精悍な眼差しは言葉と共に真っ直ぐミコトに向けられていた。
「そうですか。ではただの思い過ごしですかね……」
「何か気になる事でも?」
 口元を手で覆い、翳りを浮かばせた表情で小さく言い濁したミコトに、ティトエスは目を細め顔に疑問符を貼り付ける。そんなティトエスの様子には初対面時に向けられた軽侮の類の色は少しも孕んではなく、寧ろそのミコトの発言を真摯に受け取ろうとしている態度だった。

“アリアハンの勇者”に打ち倒され、意識を取り戻した後。ティトエスの“勇者”に対しての見識は変わる事となった。自らよりも一回り近い年月という時間の隔たりがあるにせよ、それさえも優に凌駕して有り余る才能を身を以って知る事となったからだ。
“勇者”への認識が改まれば、自然と彼に随行する一行への眼も変わってくる。歳若い者達による編成ながら、諸悪の根源に恐れず向かい立つ気概を持った冒険者達の存在を一目置くようになるのは当然の流れとも言えよう。また、そんな意識を持とうと思い至らせる切欠となったのはユリウスその人と、“夜”に堕ちて以来に見出された“癒しの乙女”…この決戦部隊には参加しておらず、今も聖都でその力を振るって傷付いた人々を癒しているであろう僧侶ソニアの存在があった。
 イシスという国家は長久の歴史と品格を継承してきた為、その足取りはたどたどしく頼りなかったが、少しずつ確実に歩み寄るような意識が芽生えつつあった。
 それはあたかも、東から来た新しい風が少しずつイシスという古く堆積した砂面に柔らかな風紋を拡げているようであった。

 視線と言葉で問われたミコトはゆっくりと周囲の闇を見回して、どこか疲れたように吐息を零した。
「いえ、ずっと何かに監視されているような気がして」
「監視? 先程までヒイロ殿が“鷹の眼”を使っていたが……それとは別、か?」
「はい。何て言えばいいのか……そう、殺意や敵愾心とまではっきりはしないけど、着かず離れずで付き纏ってこちらを窺っているような視線…違和感を感じるんです。……聖都を発ってからずっと」
 その違和感は、武闘家として長年培ってきた感覚によって察知できたものだとミコトは考えている。実際にそれを為せるだけの修練を積んでいるし、不遜ではあるが培ってきた自身の力への自負もある。だが実際に事を引き起こしていたのは、彼女の持ち得た闘氣フォースの特殊領域“破魔の神氣”によるところが余りにも大きい。ミコトに足りないものがあるとすれば、それは自身の特殊性についての自覚だった。
 暖を保つ為に羽織った厚手の外套を手繰り寄せ、ミコトは幽然とした炎を見つめる。炎が空気と共に砂塵を貪る音が夜闇に酷く恐々と響き渡り、抱いた一抹の不安を増長させていた。
「不死なる者は“地”の加護属性エレメントを包含していると言う。今も、地面の下で蠢いているのかもしれない」
 その時、二人に届く小さく零されたユリウスの言。今の今まで剣を抱え、瞑目して沈黙を保っていたユリウスが無表情で砂を掬っている。そんな様子にミコトとティトエスは互いに目を合わせ、同時に頬を引き攣らせた。索敵能力が非常に長けているユリウスだけに、その淡々とした口調がミコトとティトエスにはとても不穏に聞こえたからだ。
「ユリウス。頼むから物騒な事を言わないでくれ……」
「……勇者殿。貴公は発言する機をもっと読んだ方が良い」
 げんなりした様子で深々と溜息を吐くミコトと、眉間に皺を寄せて苦言を呈するティトエス。両者とも似たような気質がある為か、ユリウスに対しての苦手意識も秘めているようだった。
「あ、そうだ! お前の魔物除けの結界魔法…えっ、と何だったかな……ト、トヘ――」
「トヘロス」
「そう、それ。その魔法を使ってくれないか?」
「断る」
 良案だと自身で思い付いていたミコトの提案を、ユリウスは無感情に即断する。その逡巡する素振りすら微塵も見せない事に、ミコトは呆気にとられて眼を瞬かせるばかりだった。
「な……何でだよ? 結界でも張れば安心できるだろ!」
「“魔姫”と同じ轍を踏むつもりは無い」
 冷然なユリウスの言葉にミコトは思わず口を噤み、ティトエスは明からさまに顔を顰めた。
 この砂漠が“夜”に陥った際、“魔姫”は外郭楽園を覆う守護結界の解除に遅れ、反干渉作用で大きく魔力を削られてしまった。その失われた魔力は未だに回復してはいないと言う。
 事実とはいえ、あまりに率直な言にミコトは慌てて周囲を見回した。ユリウスの“魔姫”を冒涜するような暴言がイシスに住まう者達の不興を蒙るかもしれないと危惧したからだ。だが幸か不幸か、それを聞き止めていたのはミコトを除くとティトエス唯一人だけ。他の者はそれぞれの休息に時間を割いている為か、こちらの会話が聞こえたような素振りは見せなかった。
 杞憂に終わった自身の狼狽に深く胸を撫で下ろしながら、ミコトはユリウスを強く睨む。
「お、お前な……この状況でそんな事を――」
「効率と弊害を天秤に掛けた結果だ。単純に敵の接近を阻みたいのであれば、トヘロスを用いるよりも聖水を周囲に振り撒いた方がリスクが無い」
「……どういう事だ? ここには特殊な法則でもあるというのか?」
 怪訝に眉を寄せるミコトの追求に、ユリウスは躊躇い無く頷いた。
「ああ。それは――」
「魔法現象を効果的に発揮したいのならば、霊素減衰率を考慮しなければなりません。余所の土地では大地にも大気にも普遍的にマナ…つまり霊素エーテルが満ちているので余り懸念される事は無いのですが、この“屍の生地”では事情が異なります」
 だが、ユリウスの声に被せるように発せられたティルトの言葉に遮られてしまった。ティルトは休憩を摂ると決めた時、数名の者を連れてこれより先の幽谷の様子を探る先遣として席を外している筈だった。その彼女が無事に戻ってきたという事は、何事も無かったのだろう。
 突然の闖入者に視線を集めるミコトとティトエス。半ば発言を封じられたユリウスは、だが特に気を害した様子も無く口を結んでは、ただジッと空を焼く炎を見つめている。
 ティルトは篝火に無表情で歩み寄ってはユリウスの隣に腰を下ろし、淡々と続けた。
「魔法現象を顕在化し持続伝導させる…つまり時空系に対し連続作用させる為には、基となる霊素の連鎖励起が必要不可欠です。マナの分布が平坦均一ならばさほど問題は無いのですが、不整合で散逸的な分布であると、魔法はその効力維持と空間伝播に魔法そのものを構成している霊素を消耗して安定化を求めます。それが度重なった結果、魔法自体に篭められた魔力が著しく減少し、効力を弱めてしまう」
 ティルトの言を聞いているかは定かではないが、ユリウスは何時の間にか掌の上に掬ってあった砂を、陣の上で現出している炎にゆっくりと零した。すると炎は騒然とした悲鳴を挙げてその姿を大きくはためかせる。だがそれも自身に降り注ぐものが潰えると共に収められた。
 自身の発言を推すようなユリウスの行動を視界の端で捉え、ティルトはやや口早に言う。
マナの流脈レイラインを利用した陣による補助があるのならばまだしも、術者単一で行うのならば術者に過負荷が掛かり過ぎ、それでいて威力は減少する……無意味に消耗させるだけで、支離滅裂です」
「……そうなんだ」
「イシスにおいて魔法操術が陣式として発展してきたのは、そういった大地の理じじょうがあるからです」
 高度な魔法教本に書かれている理を、こうもスラスラと言える事は深く理解し、自らの知識の一角として構成されている証拠だ。
 ミコトは緑灰の双眸でティルトを見ながら、感嘆を零した。
「ティルト殿は、魔法について随分と詳しいんですね」
「初等魔法すら紡げない不肖の身ですが……私もイシスの魔導の大家、シャルディンス家の一員ですから」
 賞賛に等しいミコトの言を受けるも、無抑揚で返したティルトに表情は無い。その黒よりも昏く映える暗青の双眸は、秋風に散り往く木の葉の侘しさを載せ、無為自然のまま遠き聖都に向けられていた。





『このままではこの国は、ラー教団は腐敗する一方だ。だがそれらは腐り堕するまでは至らない。……何故なら世界がこのままで在り続けるのならば、この地は間違いなく亡ぶ事になる。それは遙かなる時に定められた事』
『それは……一体?』
『古に起こったとある事象によって、この砂漠の地は亡びの途を歩まざるを得なくなった。ゆっくりと……だが確実に地は蝕まれ、今この時も崩壊は進んでいる。亡びを回避する術は唯一つ。嘗て不完全な形で開かれた“扉”を、今一度開く』
『“扉”……それは教典に在りしラーの秘儀“死者の門”の事ですか?』
『然り』
『「聖邪審判を下す、断罪の扉を開かんと欲する者よ。昏き冥道を律する裁定者が声を以って、輝ける四光を捧げよ。さすれば扉は、その懐裡より遙かなる天へと続く翔浄の路を照らし出さん」…でしたね。裁定者とは王裡アセトで、四光とはイシス王家に代々伝わりし聖四宝…と神殿府は謳っていましたね』
『否。四光だけで“扉”を開いてはならぬ。ただ開けるだけでは崩壊の速度に拍車をかけるだけ。正しき開扉を導くには、欠く事のできない必要な因子がある』
『必要な因子、とは?』
『……“魔法の鍵”』
『“魔法の鍵”……幽玄の王墓に埋葬されていると云われる、聖王国開闢かいびゃくの礎となった秘宝』
『口上ではそうだ。だが本質は決してその通りではない』
『……“扉”、そして“魔法の鍵”とは一体何なのですか?』
『“魔法の鍵”は、解放の導。深々たる韻律によってイシスの民は、生来縛されたるくびきより解き放たれる』
『軛?』
『教典にある、悪しき者を悪たらしめる業、とでも呼べばよいか。軛からの解放は、人が意識の奥底に印された根源的な“力への意志”の表面化を意味する』
『それはつまり……各々の裡に潜む心の、顕現』
『自らが眼を背け続けてきたものに、改めて相対する。信仰に溺れ、権力に驕れ……光に当たりすぎて逆に盲目となってしまったこの国に必要な事だとは思わぬか?』
『それは……』
『――よ。この国は醜悪なる病に永い間侵されてきた。そしてそれは、既に修復不可能な領域にまで到達している。余りに深くに根付いてしまった病巣を取り除く為には、誰かがやらなければならない。例え如何なる犠牲を払おうとも、如何なる汚名を被ろうともだ』
『…………』
『そなたは……そなただけは生粋のイシス人でありながら、その血潮に軛を内包してはいない。それがどういう意味を持つか、解るか?』
『私、が……。私だけ、が』
『そう、そなたは時代と世界に望まれたのだ。この地の改変を成就する為に』
『それが、私の存在意義……』
『全ては、この愛すべき砂漠を救う為。我らが安息なる故郷を護る為』
『私は、私は……』




(また、か!? 何で、今になって……)
 砂に鞘を立て、それに寄り掛るように身体を預ける姿勢で仮眠を摂っていたアズサの脳裡に、突然紫の靄と共に幻影が描きだされた。まどろみの波間に漂うそれは、紛れもなく“夢”の顕現だった。
 元々小休憩だった為か、浅い睡眠に落ちていたアズサの意識はすぐさま半覚醒状態になるも、それ以上にはならない。“夢”が意識の尾を引き、鎖の如く全身に纏わり付いてそれ以上の浮上を阻んでいるかのようだ。
 それでもアズサは半ば意識の伴わない鈍重な腕を動かし、こめかみに爪を立ててはその痛みで内から込み上げてくる切なさと傷みに抗する。兎にも角にも今、決戦の地に赴いている現状で“夢”に囚われる訳にはいかなかった。それは経験上“夢”を視た直後に、自分は剣を満足に振るう事は出来ないと自覚していた為である。
「――サ」
(いかん。こんな時にっ……)
 どこか遠くで何かを叫ぶ音が聞こえてくる気もするが、意識に“夢”の痕が色濃く残っている以上、それは幻聴の可能性が高い。薄っすらと開いた視界は紫に歪んでいた。
「ア――!」
(しっかりせよ、アズサ=レティーナ!)
「アズサ!!」
 尚も漣のように潮汐で迫る傷み。アズサはその流れに呑まれまいと自らを叱咤し、下唇を噛み締める。
 次の瞬間。左肩に痛烈な刺激が走った。
「っ……ティ、ル…ト?」
 左肩を強く掴まれた痛みによって徐々に晴れてきた視界に浮かんだのは、暗青の眼を怪訝の色に染めているティルトの顔だった。ティルトは綺麗な顔の造りをしていたが、それを生かすにはあまりに無愛想。尚且つ言い辛い事を誰に対しても冷静淡々と発言できる性格の為、周囲には酷く冷淡な印象を抱かれがちな女性であるが、自分にとって苦楽を共にした親しい存在に違いなかった。そんな親友を確かに感じて、アズサの意識は紫靄の中から一気に浮上する。
 アズサの緑灰の双眸に力強い光が戻ったのを確認して、肩から手を放したティルトは深々と嘆息する。
「……何を呆けているんですか。ここは既に敵勢の領域です。休憩中とはいえ油断など……貴女らしくない失態ですね」
 酷く冷めた口調でティルトが発する。それは何処から聞いていても怜悧に注意を喚起するものなのだが、その双眸だけには心配色がちらついていた。誰にも気付かれそうに無いそれを逃さずに受け取ったアズサは、小さく唇を歪ませる。
「す、すまぬ……。それで、お主こそどうしたんじゃ?」
「貴女が仮眠を摂っている間、先遣に出ていました。一応、この場での指揮官は貴女ですので、その報告を」
「悪かったと言っておろう……まあ良いわ。続けてくれ」
 言葉の端々に棘を感じる韻を織り交ぜたティルトに、苦笑してアズサは頷く。未だに脳裡での疼きが消えなかったが、意志で無理矢理に抑え込んでティルトを促した。
「はい。これより先の砂の回廊、及び王墓周辺に敵の姿は見られませんでした。ヒイロ殿による空からの観察結果も併せますと、やはり異様ですね」
「ふむ……」
 アズサは口元を押さえ、漸くまともに動き始めた思考で齎された報告を組み直していると、ティルトがこれまでとは幾分か声量を抑えた調子で言った。
「……大丈夫ですか?」
「ん?」
 パチリと眼を瞬かせて、アズサはティルトを見やる。暗青の眸は冷静にこちらを見据えていた。
「顔色が良くありません。先程私が起こした時も 随分とうなされていまし……夢見でも悪かったんですか?」
「流石におぬしに隠し事はできぬか。大丈夫じゃ。もう…何時何処から敵が襲ってこようとも対処できる」
「…………」
 余りにも鋭いティルトの指摘に、アズサは苦笑いを浮かばせずにはいられなかった。誤魔化すように朗らかに笑って返すも不審の色を消さないティルトに、逆にアズサは笑みを悪戯っぽいものに変える。
「……じゃが、おぬしが私を心配してくるとはな。何か起こりそうで落ち着かんなぁ」
 何時ものように気安く放ったアズサの一言。ティルトの性質を熟知しているアズサの機微は抜群の効を奏し、当のティルトはその双眸から心配色を失せさせ、無表情の仮面を付け直していた。
「“不死絶殺”の貴女は、対不死者戦闘においての要。人一倍働かねばならない貴女には、心身共に万全を期して貰わねば困ります。“剣姫”である貴女に不調の兆しが見え隠れすると、周囲の士気に関わりますので、重々自覚して下さい」
「……ふ、相変わらずおぬしの言葉は無遠慮で辛辣じゃな。か弱い私の心は今にも泣き出しそうじゃぞ」
「それは無用の心配というものです。どんな事柄でも素直に受け容れて…いえ、細かい事をまるで気にしない無駄に図太い貴女の精神が、この程度の事で折れるなど天地がひっくり返ってもありえない事です」
 次々と湯水の如く湧き出てくるティルトの辛辣な言に、アズサは思わず項垂れる。もとを糺せば非はアズサの方にあるだろうが、アズサとしてもティルトの心配を解そうと思って言った事でもある。だが想いは素直に届かず、ティルトの神経を思いっきり逆撫でしてしまったようだ。
「ティルト、私が悪かった。……そんなに怒らんでも良いではないか。ちょっとした冗談じゃよ」
 ここで遂にアズサが折れるも、ティルトの冷やかな視線と口調は変わる事は無かった。
「別に私は怒ってはいません。そんな事よりも、戯れはいい加減にして下さい。先程も具申した通り、ここは敵の領域にしては異様です。敵の出方が予想できない以上、何が起こるかわかりませんので油断は禁物です」
 眦を吊り上げて小言を言う際の細かな仕草が、姉であるユラにとても良く似ている。こんな事を言えば、きっとこれ以上にティルトの不興を買う事になるので口にする事はないが、二人と仲の良いアズサにはそう思えて仕方が無い。
「大丈夫じゃ。ここに居る者は皆、強い。不死魔物アンデッドなどに遅れはとらぬ」
 それは油断でもなければ驕りでもない、決然とした自信の顕れ。少しの澱みも見られないアズサの緑灰の眼差しには、周囲への信頼が揺るがなく在る。その様を直視できなくなったティルトは、思わず顔を背けた。
「……貴女のそういう能天気さと強心臓が、時々羨ましく思います」
「そんなに手放しで誉めるな。照れるではないか」
「付き合っていられません」
 皮肉を皮肉と受け取らず賞賛として受け取り、照れを浮かべているアズサを前に、ティルトは疲れたように深く嘆息を落とし、踵を返していた。

「二人は仲が良いんだね」
 立ち去ったティルトの後姿を見ながら、これまでのやり取りに加わらず黙って観ていたヒイロは、面に苦笑を載せつつ呟いた。他人にそう改めて言われると歯痒さを覚え、アズサは何と無しに鼻の頭を指先で掻く。
「まあのぅ。あやつとは幼い時分より、同じ師に師事しておったからな。付き合いの長さで言うならばユラよりも長いし、所謂腐れ縁という奴じゃ」
「へぇ」
「しかしあやつの照れ隠しも相変わらずじゃな。あやつは自身の感情を面に出すのは不得手とはいえ、ああやって突っぱねてばかりいては心配じゃよ」
 言葉通り、ティルトが去った後の方角には心配の色を載せた緑灰の視線が向けられていた。
 それを横から眺めながら、傍観者に過ぎない自分が彼女らの領域に立ち入る事は許されないと自認しているヒイロは、言葉無く頷くだけ。だがこのまま懐郷の念に囚われるのは良くないと判断できる以上、ヒイロは釘を刺す事を忘れなかった。
「でも実際、ティルトさんも言ったとおり、こういった状況はあまり歓迎したくはない。参考までに聞いておくけど、君は仮に不意な襲撃があったらどうするんだい?」
 問いに、アズサは両腕を組んで天を仰ぐ。だがそれも数瞬で、視線は直ぐにヒイロに戻された。
「どうもこうもないのぅ。出たとこ勝負じゃな」
「……それって、行き当たりばったりって事かい?」
 大胆不敵に朗らかに言うアズサに、ヒイロは苦笑して目を細める。何時しかその琥珀の眼は、嘗て所属した盗賊団“流星”の参謀時代のそれになっていた。闇夜さえも見透かす怜悧な琥珀の視線に、アズサは否定に手を振った。
「違う違う。予め定めた策や型に当て嵌めるのではなく、有るがままに現実を受け容れ柔軟且つ迅速に対応する、という意味じゃ」
「臨機応変、ね。その基底である受け容れる事は、命が掛かっている状況でとても難しい事だけど」
「無論じゃ。それが師の教えでもあるし、……自分を見つめ直した時、私は自らの帰結を知ったからな」
 握り、開いた掌を真摯に見つめながらアズサは零す。その韻はあまりにも真剣で、とても切迫していた。
「受け容れる事……それこそがきっと私の本質であり、私にできる事の根幹をなすものなんじゃよ」
 つい先程視た“夢”の主は、それが判らないから迷いの中を彷徨っているようにアズサには思えた。とても他人事とは思えないそのもどかしさが少しでも和らぐ事を祈り、アズサは空を見上げる。
 だが天を覆う“夜”はやはり昏く、明るい蒼穹は未だ遠い先にあった。








「……深淵の闇より出だせ、我が魂魄を彩る御印よ」
 その意識に応じて虚空の一点から闇が溢れ出した。玄室を呑み込まんばかりの圧倒的な勢いで顕れた負陰の波濤は、部屋の中心に泰然と立っていた屍術師に降り注ぐ。闇は餓えた猛獣の如く貪るように刹那でその存在を包み込んでは、朽ちた腐鉄の生々しい気配を放ちながら闇色の卵球を形成する。裡に屍術師を孕ませた闇卵は、その内側での成熟を促すように胎動を強かに刻んでいた。
 緊張に静まり返った玄室の中。宙に舞い上げられていた粉塵の一粒が床を打ち付ける些細な衝撃で、殻全面に亀裂が走り、やがて薄氷を砕いたかのような甲高い音が鳴り響かせて崩壊する。闇色の細雪が玄室中に乱れるのと共に姿が顕になった屍術師は、生者に縋り付く亡者の如く、数基の骸が繋ぎ合わさった構成の鎧を身に纏っていた。その風貌は魔族として、死霊の王として相応しい禍々しさに厳粛に彩られていた。
 息苦しい閉塞した空間に漂う闇が呪怨と悔念の息吹と絡み合い、凄絶な威圧を伴って周囲を動擾させる。その震動は建物全てに行き渡る程で、だが眼前に立ち、空気と屍術師の変容を見守っていたアトラハシスは、暢達に発した。
「へぇ、それが貴方の印…“冥鎧・屍怨の鎧ゾンビメイル”。舞台衣装にしては些か派手さに欠けるけど、それを羽織るという事は、いよいよ貴方の出番なんだね」
「役者が舞台に揃わなくては、その劇は立ち行かなくなろう。……つまりはそういう事よ」
 全身に漲る力の為か気勢が昂揚している屍術師は、鷹揚と言いながら最後の台座に乗せられていた妖しく金色に煌く鉤爪を手にする。そしてそれを右腕に装着し、確かめるように空を縦に横に凪いだ。
 腕の一振りで部屋中の空気が断裂する。騒然と慄く風の鼓動を感じながらアトラハシスは笑んだまま、だが双眸から柔和さを潜ませる。
「“凶爪・黄金の鉤爪”も持ち出すのか……良いのかい? 異なる二種の印はよほど相性が良くない限り反発し、互いを淘汰し合うものだよ。もしも淘汰が起こった時、果たして貴方は魂の啼哭に耐えられるのかな?」
「予め答えが知れている問を投げ掛けるとは、やはり白々しいな貴殿は……。この“昂魔の魂印マナスティス”は永きに渡る蓋として役割によって力が流出しきっている。最早“堕天誓約”を起こせるだけの力など残ってはいまい。せいぜい流出した力に満ちるこの墓所で、力への意志に囚われている者共を惹き付けるだけだ」
「ふぅん。だけど、だからこそ貴方はそれを利用するというんだね、屍術師ゾンビマスター殿」
「……屍術師とは、境界を超えていなかった頃の我であり、“堕天誓約”を経た今の我に非ず。今後、我の事は屍王ワイトキングと呼ぶが良い」
「成程……“印”を纏い自らに迸る力の充実を以って、自らを王とする、か。力の確信に昂ぶるその気勢は解らなくもないけど……じゃあ一つ忠告でもしておこうかな、屍術師殿」
「……何っ?」
 意味深長でわざとらしい感嘆を零しながらアトラハシスは屍王を見据える。屍王の方もそれに気付き、眉を顰めながらも閉口して言葉を待った。
「どれほどの強制力を持った束縛であろうとも、結局のところ、力への意志に従う飢渇に喘ぐ者達かれらの魂を惹き付けるのは、決して折れる事の無いいしを振るう何者にも冒されない気高き精神性……それは王たる存在の必須の教養。果たして貴方にそれがあるのかな?」
「っ!!」
 見る見るうちに敵を射殺す形相に変わってゆく屍王に満足したのが、アトラハシスは哂う。その口調は、まるで貴方には持ち得ないものだ、と断じているようで、批難に屍王はアトラハシスを強く睨めつけていた。
「改めて言われるまでも無いっ。そのような事……我が骨身に染み付いておるわ!」
“堕天誓約”によって自身に内包されるマナの肥大化は、精神の振幅に直結する。大きく揺れ動いた意識のままアトラハシスに吐き捨てた屍王は、踵を返して玄室を後にする。けたたましく響いて来る硬質な音が、猛然とした屍王の気概の様子を如実に表していた。
 返答に困窮して去った屍王の後姿を、アトラハシスは酷く冷め切った双眸で見つめていた。だが、それも直ぐ興の削がれたものとして視界から外し、玄室の中空に浮かんだままの天秤に移す。
「……だと良いのだけれどね」
 見上げる翡翠の視線の先で、光と闇を擁した天秤は緩やかにその両腕を揺らめかせていた。




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