――――第五章
      第十二話 歿ぼつ陽の王墓







「市街地に明りを灯せ。決して絶やさせるな!」
「全班に各種薬草と『奇跡の石』の携帯義務を徹底させろ!」
「負傷者はラー大神殿、及び城の中庭に運べ。治癒方陣の管理は厳重に!」
「神官達……いや、城下に滞在中の冒険者、巡礼者も含めて、“癒しの乙女”の他に正流魔法を起動できる者がいないか、徹底的に探すのだ!」



 聖都に犇く家々は干煉瓦を積上げ、烈々たる陽射しを弾くように白泥が塗られた造りだった。燦然と輝く太陽の下で眩い光に包まれる街並みは、冒険者や行商人達から“光煌の都”と称される程の景観を持ち得ていた。
 だが“陽堕の刻”以来その姿は一変してしまい、夜空にポツリと浮かぶ酷薄な白月の燐光を反しては、夜気の寒々しさと絡み合ってとてもおどろおどろしく深冷な様相に彩られていた。
 そんな輝きが亡失した中。逼迫した怒声が夜空を縦横無尽に飛び交い、それに牽かれて慌しく剣呑な雰囲気が聖都全体を覆う。
“夜”に堕ちて以来、城下のいたる所では火の魔方陣による篝火が燈され、橙の光が細々と闇に抗している。点在するそれらは砂漠全土を覆う程の圧倒的な闇の前に、呆気なく潰えてしまいそうな儚いもの……まるで暗迷なる奈落の底に叩き落された自分達、イシスに住まう人間の心を象徴しているかのようだった。

――もっとも、それは少し前までの話。今、人々の心は逆の方向に移りつつある。

 連なる家々の戸口や窓の影から、騒然とする往来の様子を盗み見ている住人達。しかし、その息を潜めるように憚れた姿勢とは裏腹に、往々の眸には不安や恐怖と言った感情を押し退けるよう異質で生彩な色が強く輝きを増していた。
 眸の奥にある意思は、どれほど深遠なる闇が空を覆わんとも僅かでも光を胸に燈して地に立てば、決して押し潰さる事は無い。光を諦めない意識の点を拡げ、より大きな光の円環として聖都を、ひいては砂漠全土を苛む闇を払う……この地の深層に根付いたラーの教えから織り成される想いの断片が、光輝きぼうという陽水を糧とし、着実に人々の中で生への意志が萌芽し始めていた。




 光の種子を闇に閉ざされた飢渇の大地に放散させた一人である“癒しの乙女”ソニアは、ラー大神殿の礼拝堂で負傷者の治療にあたっていた。
「清廉なる生命の光よ。傷つき伏せし者を癒せ。ホイミ」
 幽かな違和感は有れど、幼き頃より変わらない確かな道筋で癒しの光を順当に紡ぎだす。翳した掌に集まる光の粒子は瞬く間に肥大し、鬱蒼と漂う薄闇を根こそぎ払わんばかりの清浄な波濤となって堂内に行き渡り、そこに在る人々の表情の陰影さえも拭っていく。
 ソニアの治療を受けていた兵士は失血の為か顔を蒼白にし、胸部には魔物から受けた裂傷が痛々しく刻まれていたが、柔らかい光に触れて傷が尋常ならざる速度で修復される様子に生彩を取り戻して表情を輝かせた。
 傷口が消え去るのを見止めてソニアは魔法を解く。光の消失と共に集中による緊張から解放され、そして何より兵士の治療が完遂できて小さく安堵が零れた。
「……傷は完全に塞ぎました。ですが失血と共に失われた体力までは戻りませんので、どうか安静にして下さいね」
「あ、あの傷が一瞬で……感謝します。“癒しの乙女”!」
 兵士の感極まった深い陳謝を皮切りに、周囲から感嘆や賞賛、喜色の喝采が沸きあがる。やがてそれは立ち並ぶ音叉の如く周囲の人から人へと共鳴していき、堂内全体に響き渡る斉唱となった。
 全く油断していたところに不意に轟いた大歓声。その中心にいたソニアは、空気はおろか建物全てを震撼させんばかりの強かさに思わず小さく背を竦ませる。たくさんの人間達の視線と声で奏でられる見えざる圧力に圧倒されたからだ。
 表情を笑みで固めたまま、誰にも気付かれぬようにソニアは内心で小さく嘆息する。
(やっぱり、こういうのって慣れないな……)
 ソニアとしては自らにできる普段通りの事をしているに過ぎないのだが、状況が状況だけに周囲の反応は著しく大仰で驚かされるばかり。だが向けられる温かな情思を嬉しいと思う反面、不安もまた覚えずにはいられなかった。こんな事を考えては素直に謝辞を向けてくれる人々に悪いのだろうが、そう思わずにはいられない程に人々から伝わる想いが強く、眩しく……そして空恐ろしかった。
 そう感じるまでに至ったのは、殆ど休みを取らずに絶えず回復魔法を紡いでいる事もあって、平時に比べて精神的に打たれ弱くなっていたのが主だった原因と言えるだろう。
 疲労に憔悴する心身を誤魔化すのが流石に厳しくなってきたのを自覚し、ソニアは人目を忍ぶように堂内を移動する。数多の怪我人や、それらを看病する人間達に溢れかえっている堂内は幾つもの灯りが用意され、尚且つ治癒方陣の稼動による碧光で煌々としていた。強まる光によって逆に深化する陰影に隠れながら、ソニアは少し身を屈めて人と人の間を縫って歩く。
 喧騒に紛れた為か誰にも呼び止められる事無く、人気が少ない堂の片隅に辿り着いて何とか一つソニアは息を吐く事ができた。
(皆、もう幽玄の王墓ピラミッドに着いているのかな……)
 無造作に置かれていた木の椅子に腰を下ろし、瞼を伏せたソニアは背を壁に預ける。夜に冷やされた礼拝堂の石壁の、ひんやりとした感触は衣服を通して疲弊した身体には心地良かった。
(私だって、まだ弱音なんて吐いてる場合じゃない……っ!?)
 深く長く吐息を零し、徐に開眼したその時。完全に油断しきっていたソニアの視界の正面に、突然真白なタオルが映り込んで来た。何とか声を挙げるのは堪える事ができたが、吃驚して全身が硬直してしまう。見開いたままの紅眼で直ぐ前にある清潔できめ細やかなタオルを眺め、それに連なる腕を辿ってソニアはタオルを差し出した人物を仰ぐと、見上げた先には、闇夜の中ではそれ自体が焔に映える紅蓮の髪。幼い線を面に残す少年…スルトマグナが、朱の双眸に心配色を浮かべて覗き込んでいた。
 人目を憚ってこんな場所に居るソニアの心中を察してか、囁く程度の声量でスルトマグナは言った。
「ライズバード殿、大丈夫ですか?」
「あ、スルトマグナ君。うん……まだ大丈夫よ」
 来訪者の確認で固まっていた表情を解したソニアは、玉のような汗を額に浮かばせたままはにかんで見せる。だが紅蓮の少年の厚意を受け取り汗を拭っているその姿からは憔悴しきっているのが一目瞭然で、彼女の浅葱の前髪は拭っても直ぐに滲んできた汗に絡み取られて額に張り付き、慈愛の心を載せる目元は少し暗んでいた。
 虚栄に強がり、それを見せないように弱弱しく微笑むソニアの頑なで健気な姿に、スルトマグナは苦笑を零した。
「無理はいけませんよ。貴女はここ数日、碌な休憩も取らずに負傷者の治癒に当たっている。いくら治癒方陣があるとしてもその数には限りがありますし、随時増え続ける負傷者数はその比ではありません。貴女一人で治療しきれる数では無いんです。このまま続けていれば、いずれ必ず貴女の方が精神疲労で昏倒してしまいますよ」
「スルトマグナ君……」
 幼い容姿に反して紳士的で丁寧という実に不調和な佇まいで発するスルトマグナ。その落ち着いた口調と滑らかに綴られる言の葉は、高い徳を得た司祭による説法か、老獪に弁舌を振るう教師の講釈に酷似していた。
 言い抗えぬ深い説得力を心に実感しながら、半ばほど瞼を伏せてソニアは思惟を深める。スルトマグナの忠言は憔悴した思考には酷く耳心地良く聞こえた。だからこそ、今の自分が在るべき姿をもう一度だけ心に問い掛けたくなったのだ。
 瞑目は数呼吸の間。自らの心への問答を意識下で済ませたソニアはスルトマグナを真っ直ぐに見据える。
「皆が危険を顧みず幽玄の王墓に向かった……なのに私は、今こうして安全な場所にいる。例え倒れるのだとしても、私ばかり休んではいられないわ」
 それが、決戦部隊に編入されず聖都に残ると決定した時から固まっているソニアの答えだった。
 決意の言葉は口早に、声の抑揚の振れ幅は大きく。何かに急かされているように自嘲的でさえある昏く儚い表情は、まるで消え入りそうな夜霧のようだ。
 そんな張り詰めた表情が居た堪れなくて、スルトマグナは緩やかな笑みを潜める。ソニアの方も、少年参謀が纏う空気と表情の変遷を察してか、少年が口を開く前に続けた。
「……それにね。不謹慎かもしれないけど実を言うと私、少し嬉しいの」
「嬉しい、ですか?」
 神妙に鸚鵡返したスルトマグナに一つ頷いて、ソニアは自らの胸の前で組み、それを一心に見つめた。
 重ねられた両手の隙間から、回復魔法を紡ぐ際に発せられる燐光が僅かだが零れ落ちている。落涙する光の粒は星屑となって夜を滑り、床に触れる前に消え失せた。
「うん。こうやって誰かの役に立てていられるのがはっきりと実感出来て……。戦闘じゃ、私はいつも皆の足を引っ張ってばかりだから……」
 それはソニアが常々抱いている二律背反の想いだった。
 ソニア自身率先して魔物をこの手で討ちたいという訳ではない。だけど、いつも敵と刃を交える前線に向かって駆ける仲間の背を、後ろから見ているだけなのは嫌だった。遠ざかる後姿に、いつか自分は一人置き去りにされるのではないかと言う恐怖が懐裡に深く根差していたからだ。その根底にはあの時・・・の、最期に見た姉の後姿があるのは疑いようが無い。
 光の軌跡はソニアの心中を代弁するように、しっとりと夜に痕を残しながら宙に溶けていた。
「皆と同じ場所に並び立つ為に、自分に何ができるんだろうかって改めて考えた時……私の原点はやっぱり、これ・・なんだって思ったの」
 これまで、治療を施した兵士達や市井の人々から幾度も感謝の言葉を贈られていた。自分は損得で動いているつもりはないのでそれを求め固執する心の卑しさは厳に戒めているが、現実にそれらの言葉を受けて素直に嬉しいと感じる自分も確かにいる。
 ありのままの感情の譲渡。人と人との確かな繋がりから得られる安心感。心に満たされる温かなものを実感し、木漏れ日の下で涼風を受ける清涼な気分に浸れていた。きっとこういう感じが心に光が息衝く事なのだと。今、この地の人々に必要なものなのだと、ソニアは自分なりに考えを導き、切に感じていた。
「だから今、この癒しの光を紡ぐ事が、私がここに存在する理由。皆と同じ場所に立つ為の手段なのよ」
 宙空に消えた光を紡いでいた掌を見ながら、自らの裡に渦を巻いていた想いを吐露するソニア。その様子をただ傍聴に徹して見つめていたスルトマグナは、柔らかく微笑んだ。
「僕の見立てでは、貴女のパーティで他の方々に戦闘力で並ぼうとするのは並大抵の事では無いですからね。揃いも揃って秀でた力を保持していますし、それに見合う特質も秘めている」
「……何となく解る気がする。皆が皆、特別な何かを持っている。私だけは、何も……」
 姉のように大きな魔力を持っていれば良かった。母のように膨大な知識を持っていれば良かった。そのどちらも中途半端で、旅に出てからというもの自分の未熟さが酷く浮き彫りにされているようで、自分が惨めに思えていた。
 心で思っている事が直ぐに顔に浮かぶソニアを見下ろしながら、スルトマグナは小さく首を振る。
「何を仰っているんですか。貴女だって充分にその特別な何か・・・・・をお持ちですよ、ライズバード殿」
「え?」
「自らにできる事を見極め、行う。それは言葉で発するには簡単ですが、いざ実際に行動に移そうとするととても難しい事です。ましてや、今は生命線である正流魔法が封じられて、自己の安定も危ういこの“夜”の下。そんな中で、自分よりも他人の為に尽くそうとする貴女の意志は、とても清廉で特別な資質だと僕は思います……そう、哀しくなる位にね」
 尾ひれに翳りを残したスルトマグナの言を聞き、ソニアは一瞬何を言われたのか解らなかった。
 自己を省みる事無く、ただ他人に尽くす自己犠牲を基盤に据えた博愛精神。それはルビス教の根幹にある意識で、ソニア自身にとっては幼き頃より自らの血肉と化している、常識の一端で至極自然な行為だ。
 だがスルトマグナはそんな意志こそ特別だと言う。
 どきりと跳ねた落ち着かない心を抑えながら、ソニアはスルトマグナの言葉を待った。
「それに、実質類稀なる力も秘めている筈です」
「私に?」
「そうです。貴女はあの“三博士・理”ディナ様の御息女。魔法の手解きは、彼女から受けたのでしょう?」
「ええ。基礎の基礎から……ずっとお母様に習っていたわ」
 戸惑いを載せたソニアの反応に、確信を得たスルトマグナは重々しく頷いた。
「かの女史は、魔法によって本来顕現するべき事象を変容させる技巧の先駆者です。その女史に一から教わったというのならば、貴女の紡ぐ魔法はその秘儀を裡に内包しているのでしょう。ここ暫く貴女の魔法行使の様子を観させて頂きましたが、やはり一般的な行使とは違うようですし、ね」
 最先端の魔導を研究するダーマに在るスルトマグナの、智謀の光を燈した眼差しがソニアを捉えた。
「更に言うのならば、正流封鎖の“夜”の影響下で正流魔法を通常行使できる者……確かに以前僕は、現状でそれが可能なのはアリアハン出身の貴女とユリウスさんの二人だけと言いました。そしてそのお二人の力を秤にかけた場合、“陽”と“秩序”の均衡が美しく整えられた貴女の方に分があります」
「私が、ユリウスよりも?」
 半ば呆然とソニアは呟く。
 俄かには信じられなかった。確かに回復魔法という領域の中では自身の方が優位だと感じていたが、それさえも霞んでしまうまでの万能なユリウスの能力の高さを、これまで厭と言うほど見てきたのだから。
 瞠目を抑えられないソニアを前に、スルトマグナは口元を歪めて、小憎たらしく肩を竦めた。
「まぁ、存在属性が無いユリウスさんと比べるのも妙な話ですが……僕の見立てでは、こと正流魔法の適正にかけて貴女は、ランシール聖殿騎士団“神聖騎女ホーリーナイト”エレクシア=ヴォルヴァ様に手が届く位置にいると判断しています」
「エ、エレクシア様と!? それは、いくらなんでも……畏れ多いわ」
 不意に余りにも清澄で崇高な、雲の上の存在の名前と並べられてソニアは思わず眩暈を覚えた。だが表情とは心を映す鏡と喩えられるように、狼狽とは別の方向に早まる心臓の鼓動につられ頬は上気していく。
 ソニアのそんな微細な変化を穏やかに見つめていたスルトマグナは、だが釘を刺すのは忘れなかった。
「厭くまでも適正にかけて、です。研鑽に当てた年月も鑑みては、比べるに値しません」
「……そうね」
 不遜と解しつつも、憬れの存在と同列とされて少なからず心が跳ねた以上、直ぐに冷や水を被せる様なスルトマグナの言に、ソニアは俯かずにはいられない。もっとも、スルトマグナの分を弁えろという言葉無き意思も十二分に理解できる為、少年に対して不服の感情は少しも湧かなかった。寧ろ、世界的にも確かな力を持っていると認識される少年の言葉に深く納得させられた。
 自身の繰る言葉によってころころと変わるソニアの表情の豊かさに、喪われた微かな憧憬を覚えたスルトマグナは、コホンと咳を一つ払ってそれを冷静な思考の底にしまい込んだ。
「ともあれ、貴女の紡ぐ光の力は、この地に犇く闇を寄せ付けません。だからこそ貴女の助力が欲しかったんです。それが、貴女を聖都に残すよう進言した理由です」
 スルトマグナはその幼声を出来る限り低めて言った。余りに真摯に見つめて来るゆとりのない眼差しは、普段のユリウスの様子に酷似している。それだけに、聖都に残された事の深刻さと重要さからソニアは首の後ろに微かな寒気と震えを感じた。
 気が付けば、何時の間にか膝の上で眼前の少年から手渡されたタオルをきつく握りしめていた。無惨に固められた無辜なるタオルを解し、丁寧に折りたたみながら心を落ち着かせ、ソニアは何となしにピラミッドの方角を見つめた。

 礼拝堂の冷たい壁の上方に備えられた窓からは、丁度そこを歩んでいた満月がこちらの様子を覗き込むようにひょっこりと顔を出していた。








 幽玄の王墓には正面入口から侵入する事となった。
 それは潜入という点では相応しくない選択とも言えるが、敢えてそれを実行したのは、敵の拠点と化した筈の王墓入口付近はおろか周辺に至っても見張りの存在が全く見当たらない現状と、王墓の内部に侵入する事が可能なのは正面と秘された入口のたったの二つしか無いという構造上の事実があったからだ。
 肌寒く薄暗い内部に足を踏み入れると、入口を越えてまず眼前には大きな回廊が一直線に伸びていた。
 果ての見えない大回廊の幅は大人三人が両腕を広げても楽に並び立てる程で、それに支えられた天井は闇に霞むまでに遙か高い場所に位置している。また、大回廊には緩やかに下る傾斜がついていて、先に進む事でより深い場所に誘われた。
 海底のような静粛に満ちているこの場所の雰囲気。所々に配された燭台と自分達が持つ松明の僅かながらの灯りを圧倒する暗闇。そして等拍のリズムを刻み石床を蹴る硬質な足音と相俟って、一歩一歩進む度に奈落の深淵に迷い込んでいるのではないかという不安染みた錯覚を、往く者達に感じさせていた。
 大回廊の両側には幾つも支流の如きに脇へ逸れる小路があり、それらの先は闇色が濃すぎて遠巻きに目視する事は不可能だった。幸い内部の構造に精通する王墓守衛隊の指導により暗中模索の可能性は払拭されていたが、それでも魔物の本拠地となってしまっている以上、その前を横切る際には闇に紛れた敵から急襲されるという危惧は消せない。その為この回廊は注意を厳密に、警戒して進まなければならなかった。

 進行する上で最も危険が多く、敵との戦闘が強いられるであろう先頭を率先して歩いていたユリウスは、回廊に無造作に転がった石片群…細かな図紋が描かれ、それだけでも歴史的価値がありそうな一つを無情に踏み砕いた。特に意識しての行動では無かったが、敢え無く粉砕された石片は細かに群がる一握りの砂となって周囲の足元に広がっている砂塵に呑まれる。
 自身の一部が欠けてしまっても冷然と座すだけの壁画は沈黙を保つ。その抽象的過ぎて理解し難い図は、陽の目に出れば恐らく歴史学を大いに湧かせる程に史跡としての価値が非常に高いものなのだろう。その証拠に、世界中の古代遺跡を廻っていた経験を持つヒイロが、砕け散った破片を名残惜しそうに見つめながら小さく吐息を零していた。
 ユリウスは靴底で擦れ合う砂塵の身動ぎにふと足を止め、雄大な壁画を何となく一瞥する。その漆黒の双眸には、情思は少しも浮かんでおらず、それ故に純然な怪訝を載せていた。
 普段が無表情無感動なだけに、足を止めてまじまじと壁画を見つめるユリウスの姿に新鮮さを感じ、ヒイロは思わず感嘆を零した。
「やけに熱心に見ているね……! もしかして君も遺跡が持つ趣の深さに気付いたのかい?」
「そんな訳が無いだろう。単純に疑問を感じただけだ」
「疑問?」
 呆れたような嘆息混じりの返答にヒイロは眉を寄せる。ユリウスは視線を壁画から動かさず、淡々と言った。
ピラミッドここは何の為に造られた? 古代王の墳墓とは聞いていたが、たかが一人の人間の墓にしては仰々しく度が過ぎている。何を利と求めて建造したのか、その理念が理解できない」
 余りにも雄大で、余りにも荘厳な造物ならば、それが墓という形をとっていえど情緒を備えた人間なら感嘆する事も吝かではない。だがそんな感傷が廃れて久しいユリウスにすれば全く無縁の感慨で、ただ墓としての認識を遙かに越えた佇まいに、疑問が沸くばかりであった。
 無抑揚に綴られた言葉はその場に居るラーの民の感情を負の方向に揺らし、それ以外の者に失笑を齎した。ギロリと胡乱な視線を向けてくる“剣姫”アズサをはじめとするイシスの人間と、そんな彼らが眼前に居るにも関わらず、少しも物着せぬ率直な言を零した相変わらずのユリウスに苦笑とも言えぬ曖昧な表情をミコトは浮かべる。
 険悪さはなかったが、それでも静穏からは程遠い沈黙が両者の間に一陣流れた。
 その沈黙に佇む中。ヒイロはユリウスの言に成程と内心で頷く。
 聖都イシス滞在中にヒイロはピラミッドに関する様々な書物に眼を通した。それこそラー教の教典から神学書、地質、歴史、魔法学、風土記、果ては御伽噺や童謡民話に到るまで多岐に渡って、だ。そしてその何処にもピラミッド建造に関しての記述が曖昧で、且つ現実味に欠けるものであった事を知っていた。
 ラー教団の総本山である事が巨きな理由なのだろうが、そのあざと過ぎるまでに一方向からの視点で描かれた数多の記述は、その裏側に何かを隠蔽しているような気がしてならない。半ばこの建造技術水準の高さの方に意識が向いていたヒイロは、ユリウスの言にその矛先を本来の道筋へと回帰させる。
「墳墓はもとより、神殿や祭壇……それに順ずる宗教石碑の意義も強いだろう。もっとも、それ以上の何かを匿している気もするし、ね」
「……おぬしら、この場においてそんな事をほざくとは、良い度胸をしておるのぅ」
「ラー教に馴染みの無い方だからこそ、そう感じるのかもしれませんね」
 半眼で睨みながら頬と声を引き攣らせるアズサの隣で、同じくイシス側に属する筈のティルトが声調を緩め、ピラミッドの神聖さを冒涜しつつあったユリウスやヒイロの言を肯定すべく頷いた。
 仮にユリウスがそれをイシス市中の往来で放ったならば、群衆の非難は避けられなかっただろう。それだけこの場所は、敬虔なラーの民にとって誇り高く、畏敬を集めている聖域であり神の領域だった。
 イシスの事情を脳裡に馳せらせて浮かんでくる乾いた笑いを抑え、ティルトは立ち止まって闇に隠れていた天井へと視線を移した。
「ピラミッドとは再生への道標。未練と妄執に満ちた昏迷なる地上の旅路を終えた死者の魂が、“極光の地平”と呼ばれる高みへ昇る為の天への階段。往古よりイシスでは死者の魂は鳥の姿を象ると云われ、鳥達は標たるピラミッドより飛び立ち、“翔天の路”にて幾多の審判を下されます。その数々の試練を乗り越え、やがて遙かなる高みに到った者だけが天上におわすラーの赦しを得て浄化される。そして無垢となった選ばれし魂は、再生の導き手である神翼に誘われて再びこの地上に舞い戻る――」
 一旦言葉を切り、ティルトは左手に持っていた松明の灯りを闇に霞んでいた壁に向ける。周囲への警戒を疎かにする訳ではないが、その場に居た者達も光に誘われてその軌跡を追った。
 暖色で闇が打ち払われて顕になる壁面には、ピラミッドを模しているであろう三角形から飛び出した数匹の鳥達が高く昇るように描かれていた。群れを成して羽ばたく鳥達の先には、唯一つの円が他を一切寄せ付けず孤高に浮かんでいる。ティルトの言からすると、その円が示すものこそが太陽神の威光そのものである“極光の地平”であり、その極地より小さな鳥達を従えて下降の先陣をきっている大鳥が再生の導き手に当たるのだろう。
 その時代に主流であった文化様式なのか、原色の顔料で描かれた酷く稚拙で抽象的な絵柄のそれらは実に単純明快、簡潔に言葉なき意思を回廊に広げていた。
「生を奏でる魂魄は、死という転機を迎える度に因果の円環を周回する。魂ある存在は天地開闢の刻よりその一連の環上を歩み続けていて、それはあたかも東から西へ、西から東へ…大空を交代で支配する太陽と月の追走のように永遠の時を繰り返す……この不変性こそがラー教の根本原理。そして“極光の地平”として不滅に在り続ける光の箱舟に乗じる事こそ、ラーの民が久遠より連綿と求め続けているのです」
 余程聖典を熟読しているのか、ティルトは澱みなく続ける。だがその声調は熱の篭ったものではなく至極淡々としたもので、敬虔とは真逆の意識を垣間見せていた。
「何となくだけど、考え方…というより輪廻転生を根本理念としている死生感がロマリアで信仰されているフェレトリウス教に似ているな」
 ラーの教理を聞きながら記憶に何か引っかかるものを感じ、考え込んでいたミコトがポツリと零す。それを隣に立っていたヒイロが拾った。
「それはそうだろう。ラーもフェレトリウスも同じ天廻三神の一柱だから、思想が似通ってしまうのは仕方が無いさ」
「……何だその括りは。自然三神とは違うのか?」
 聞き慣れない単語にミコトは眉を寄せてヒイロを見据える。何時の間にかラーを信奉する者達も、耳馴染みの無いそれに興味が惹かれたのかヒイロに視線を集めていた。
 周知の事だと発言したのだったが、どうやら余り浸透していない概念だったようだ。思わぬ注目を集めてしまった事に後悔から頬を掻きながら、集まる視線にこれから発する返答の不調和を考えてヒイロは言葉を慎重に吟味する。
「俺が無神論者である事を前提として聞いてくれ。……この世界の主だった神話、宗教を総じて眺めてみると、数多の神々の中で全ての宗教に共通して登場する十三の名前が往々に形を変えて存在しているんだ。詳しくはこの場で言う事じゃないから省くけど、それは天廻三神と対になる地戒三神。世界を支える古き四柱。世界の始まりと終わりに姿を顕す双つの獣……そして、全てを見守る唯一無二なる太母」
 誰に対しても中庸であるよう咀嚼した言葉を厳かにヒイロは綴った。それは己の信じる神を確かに定めている者にとってすれば、全く新しい視点の見解だった。
 自然三神とは、世界というあまりに漠然としていて壮大な概念を知覚できるように分別した領域…つまり空、地、海の平定をそれぞれ担う役割を持った神として連ねられる括りの一つだ。それらは大空神フェレトリウス、大地神ガイア、大海神ポセイドンの三神からなる。
 天廻三神とは自然三神とはまた別の分類で、イシスを中心として広く信仰されている太陽神ラー、サマンオサ地方に広く根付いた太陰神ゼニス、そしてロマリア全域で盛んに布教される大空神フェレトリウスで構成される、自然三神よりも更なる巨視的視点を以って選択された類別だ。対して大地神ガイア、大海神ポセイドン、そして豊饒神ユグドラシルから成るのが地戒三神である。
「始まりと終わりに姿を顕す双つの獣……もしかして、白き神鳥と黒き獄竜?」
 嘗て別の言い伝えで聞いた事のある単語を小さく反芻し、ミコトは神妙な表情を造る。そんな彼女の言に該当する単語を脳裡で検索照合して、ヒイロは頷いた。
「白き神鳥と黒き獄竜……ああ、そうだよ」
「……意外な発見だ。全ては、繋がっているんだな」
 目で捉えられるものだけでなく、思考、意識といった不可視の領域にまで拡がる壮大な連鎖に思わずミコトは感嘆し、天井を見上げる。そしてはたと気が付いた。
「でもお前って、無神論者って断言している割には宗教について随分と詳しいんだな」
「はは、古代遺跡を巡る為の予備知識って奴だよ。それらを念頭において見れば、より無色の見地で物事を見れるからね」
「……実に傍観者おまえらしい発言だ」
 暢達に言うヒイロに、好意的な苦笑を浮かべながらミコトは呆れたように嘆息した。

 ティルトによって綴られたラーの教理と、ヒイロとミコトの宗教談話に特に興味が擽られた訳では無かったが、ユリウスも何となく宙を優雅に滑空する壁画の大鳥に視線を留めていた。そしてそんな自分に改めて気が付いて辟易するように肩を竦め、随分と逸れてしまった話題修正を図る。
「……曰くなど別にどうでもいいが、この場所からは表面的な存在意義よりも、何かもっと深域での因果縁業を秘めているように思えてならない」
 それがユリウスが感じた疑問の根源であり、全てだった。
 この王墓に足を踏み入れてからというもの、ユリウスは何か外的な圧力によって一様に整えらた流れのようなものを感じていた。だがそれは自ずと整然を成すものではなく、強引な束縛によって圧し留め、溜め込む事を余儀なくされた氾濫の兆し。巨きな濁流が自由と開放を求めて外殻を内側から喰い破らんとする、烈々たる慟哭の軋み声だった。先へ先へと進むにつれ、自分の感覚がより鋭敏にそれを察知し、自身の直感が確信へと至らしめているのを実感していた。
 だが、それは厭くまでもユリウス自身の感覚的なものに過ぎず、それを他に証明する手段は無く。その為、周囲からすれば随分と荒唐無稽な言い回しになってしまった。
 根源的な見えざる流れを察する感覚がアッサラーム以降肥大し続けているユリウス。だがそれを魔法の知識は有れど適性に欠けるヒイロ、“破魔の神氣”によって断絶されているミコト、『聖剣・滅邪の剣』に護られたアズサ他、人種的にマナへの親和性が高いとされるイシス人でさえ解する事はできない。
 誰もがユリウスの言の真意を量れず、返答に窮し困惑を面に浮かべていた。
 そんな中、ティルトは周囲と裏腹にユリウスに対して羨望にも似た視線を向ける。それは普段の無表情、無抑揚とは結びつき難い様子で、爛々と眼に彩を載せて連ねた。
「……貴方は物事の姿形に惑わされはしないのですね。ラーの教えは魔法学、特にマナの循環法則を記した理論に通ずる一面も持ち合わせていると私は考えます」
「成程。世界樹で造られ、その枝葉より世界に放散され満ち往くマナが、やがて地中の根より根源である世界樹に還る……確かに、言われてみればマナの循環理論に似ている。神学と魔法学との関連性は古くから追求されているけど、改めてその道筋を追走してみるのも興味深いかもしれない」
 ティルトの一言で直ぐに連想ができるヒイロの魔法知識はやはり並ならぬものなのだろう。口元を押さえ真剣に呟いているヒイロの言を聞き、ユリウスも同意に言葉無く頷く。不透明だった感覚が明瞭に言葉として提示されて外観が引絞られた為か、示されたそれに頷けるところを見出して肯定したのだった。
「数多の文献から導いたとはいえあくまでも私的な考察にすぎませんが、ラーの教えとはマナの循環現象に着目し、それに解りやすい血肉を与えて外形を定め、人々に伝えられたものなのかもしれません」
 薄闇の中で燦爛と輝くティルトの瞳は、自分と同じ考えを持つ者の発見に喜んでいるようであった。表情は微かに和らぎ、声色は嬉々として。周囲の同郷の者達から、あたかもラー教そのものを否定している様な言繰りに非難染みた視線を送られるも、ティルトはまるでそれらを気にする事は無かった。




 大回廊の更なる深部に差し掛かると、両脇に逸れる小路も無くなり、徐々に回廊の幅が狭まっていた。この建物の構造なのか回廊の傾斜には緩急昇降が付いており、既に階層を下がっているのか上っているのかさえ、初めて足を踏み入れる者達には判断が付かない。
 どれ程地下に潜ったのか、後ろを振り返って見てみると両側の壁に整列した燭台の点群が、遙か遠い上方で一点に収束している。それがきっと入口付近に相当するのだろう。単純な建物の高さで言うところの、二階分程を回廊を進むだけで降りた事になる。
 先頭を往くティルトは歩みの速度を変えず、だが警戒を更なるものにしながら言った。
「ラーの化身であらせられる“王裡アセト”とは“極光の地平”への導き手。王は天上に到るのを神によって予め約束されていて、生前はもとより死後も王と共に在らば来世への再生を認められる……ここにはそんな意識の下、死を超えても王と共に在らんとするが為に、王に付き従った数多くの人間も供として入寂されています」
 その凛とした声は乾いた空気に良く揺らし、周囲に広がる闇を巻き込んで静謐を侵した。
「ですがそんな意識もまた、王という存在を利用して再び現世に舞い戻らんとする人の妄執。愚昧で汚らわしくも根源的な人の欲望…永遠の生への浅ましき渇望こそが、歴代の王と共に入寂する大勢の殉教者達を生む切っ掛けになったのでしょう」
 壁に備えられた燭台の灯と、ティルトが左手に掲げる松明の灯が回廊を駆ける風に揺らぎ、塵と空気を貪る咀嚼音を大きくさせる。足元の床下や回廊の闇の先から、見えざる何かの呼び声が聞こえてきたような気がした。
 辛辣にラー教を評するティルトは、何かしらの情思を潜めてユリウスを振り向いた。
「ときにユリウス殿……貴方は前世や来世を信じますか?」
「……下らない」
 唐突な問いに、何処か憮然とした風体で忌々しそうにユリウスは吐き棄てる。
人生おれに“前”が有ろうが無かろうがどうでもいい。だが“次”が有るなど……考えたくも無い」
「……愚問だったようですね。不躾た事をお尋ねして、申し訳ありません」
 掠れて発せられた答えは、地に足の着いた今に固執する意識の顕れなのか、或いは不確かで多様な未来像などに囚われるのを由としていないからなのか。ユリウスの意志の指針がどちら指しているのかはティルトには推し量りようも無かったが、後ろも、前さえも冷然と切って捨てるその虚無的とも言い換えれる様子は、ティルトの眼には寧ろ好ましく映っていた。
 淡く過ぎ去り、未だ来ない朧な自分の姿など、少なくとも今を歩む事しかできない自分にとってすればどうでも良い事だ。空に満ちる光ばかり追う事に拘泥し、地を流れる砂に足を取られて転ぶのは愚の骨頂である。常々そう考えるティルトは、独り善がりであるがユリウスに深い共感を覚え、その口元は自然と薄っすらとした笑みを形作っていた。
 それを隠す為にここで一つ咳払いをし、ティルトは言う。
「不死者と対峙していると、私は思います。持たざる者は、どれだけ足掻いても届かないものだと熟知していても、足掻かずにはいられない。持つ者を妬む意識は止めようが無い、と」
「…………」
「生来より持つ者は、持たざる者の貪欲さを理解できず、ただその気迫に圧されるものです。……イシスの民は、長久の歴史を紡いできた所為もあって、自分達が神の寵愛を受けし選ばれし民だと思い込んで居る。自らの裡に連綿と継がれてきた血脈は、神に捧げしもの。故に神と共に在る自分達は、不変の転換を走る光と共に永劫の時を生きる事の赦された特別な存在であるのだ、と驕り高ぶる」
「ティルト……もう良い、止めよ」
 耳に残すのも不愉快だと言わんばかりにユリウスは無言で嘆息し、アズサは周囲を察しながら声を潜めてティルトを諌める。だがティルトの饒舌は止まらなかった。
「心のどこかで、だれかが助けてくれる……そんな愚かな意識が根底に在り、自らの足で立つ事を忘れているんです。ですが歩みを忘れた人間に、進化の無い生物に存在する価値が果たしてあるでしょうか?」
 ティルトは真っ直ぐにユリウスを見据え、だが彼だけでなくこの場に居る全員に問い掛ける。その意志を押すように、右肩に背負った聖なる銀の槍が暖色の光に強かに煌いた。
「ティルト=シャルディンス! 先刻より黙って聴いていれば、貴女はラーの民であるのに信奉するラーを否定するというのか。何たる罰当たりなっ」
「ティトエス様。既に御存知でしょうが、私は神を信じてはいません」
「開き直るな空々しい。それ以上の暴言……如何に“魔姫”殿の妹君とは言え看過する事はできん!」
「…………」
 心底不快そうに顔を歪めてティトエスは零す。敬虔なラーの信徒で、また聖騎士としての矜持を持つ彼にしてみれば当然の反応だといえるだろう。
 憤りを露にするティトエスを横目に、“剣姫”アズサもらしからぬティルトの様子に柳眉を寄せざるを得なかった。アズサはその付き合いの長さからティルトの性質を熟知していたし、また信徒として熱心なティトエスの事は王宮仕えの者ならば大概知っている事柄。ラーの聖域であからさまに主を非難すればティトエスの精神を逆撫でし不興を蒙るのは目に見えて解る筈である。だというのにも関わらず、ティルトは敢えてそれを実行しているようにも見えた。
 ティルトの反ラー教の思考が形成される過程を知るが故に、極めて無表情で抑揚無く返した彼女の様子に、アズサは言いようの無い不安を覚えた。
「持つ者に、持たざる者の思いは解らずただ謗り……持たざる者は、持つ者の傷みに気付かずただ妬む」
 ユリウスは漆黒の眼を回廊の先に向けて、歩みを再開しながら綴った。
 その夜闇の如くしっとりと染み渡る韻は幽かで、だが誰しもの耳に確かな足跡を残す。
「持たざる者が持つ者になる為には否定しなければならない。持つ者を象る事象の全てを。そして……持たざる己の、全ての在り方を。他者を否定し、自らを拒絶して零になる……その時、初めて持たざる者は持つ者への途を歩み始める事が出来る」
 やがて足早に、忙しく響く足音にその言葉も掻き消された。茫然とする周囲を意識から外し、ユリウスは他の誰とも歩調を併せる事無く平時の速度で闇の先にへと進んで行った。
 ユリウスが返答ではなく自発的に言葉を放つ事自体珍しく、それが情緒的であるのならば尚更の事だ。この中で一番長く時間を共有し、ユリウスがどのような人物なのか各々で形作られているミコトやヒイロでさえ、その言動に戸惑いの余り瞠目するばかり。逆にイシスの民にはその孤高の心象が直接受け取られ、疑念や困惑といった複雑な情思を抱かせる。
 互いに視線を交わし、小さく頷きあったミコトとヒイロが率先してユリウスに続き、ティトエスを始めイシス騎士と墓守達がそれを追う。その更に後、髪を一つ梳いて諦念に嘆息したアズサは重々しく一歩を踏み出し、最後まで立ち止まっていたティルトは、人知れず先頭に立つユリウスの後姿を見つめていた。








 熱の鼓動を留める術を持たない夜の砂漠。大地を、天を駆け抜ける極寒の風は、砂上にある僅かな熱でさえ無慈悲に刈り取る簒奪者だ。荒々しく暴虐で、貪欲なそれによって舞い上げられる砂は緞帳のようにその場所・・・・全てを覆い囲っていた。
屍術師ゾンビマスター殿も舞台に登った、か。これで“力への意志”を演ずる全ての配役が揃ったという訳だね」
 砂塵に隠れ始めたピラミッドの天頂に立ち、紅く染められた満月の光に彩られる大地を睥睨していたアトラハシスは一人呟いた。
「この場所と同じマナの属性分布を『闇のランプ』で砂漠全土に拡大し、『死のオルゴール』の旋律で造りだした不死魔物達を『凶爪・黄金の鉤爪』で繰る。これら諸事実を以って屍術師殿は、この砂漠において不死なる者共の王として君臨している訳か」
 屍王ワイトキングより譲り受けた『闇のランプ』を大事そうに手にしながら、用意周到な事だね、と風に乗せる。それに同意するように、冷たい風が闇色の外套と翡翠の髪を大きくはためかせた。
 恐々とした風琴が絶えず奏で流れる“夜”は心地良いまどろみを誘う。思わず瞑目してそれを全身で感じていたアトラハシスは、空気の流れが澱むのを感じ眼を開いた。
「こんな所に居たのか、大将」
「……オルドか」
 澱みの中心はアトラハシスの背後の、一段降りた外壁の上。そこには何時の間にか巨躯の人影が顕現していた。
 それが誰なのか声と気配で既に判っているアトラハシスは、ただ彼が言葉を発するのを待つ。
「ん? ……大将。またその玩具を弄くってたのか。大体そんなもん貰ってどうするつもりなんだ」
「ぼく達の目的の為には、色々と手段は多いに越した事は無い。これは断片とはいえ“闇の衣”を召喚する祭器に違いないから、然るべき扱い方をすれば大きな戦力となる」
「そういう物なのか?」
 怪訝そうに首を傾げるオルドに、アトラハシスは深々と嘆息した。
「君も盗賊を名乗るなら、物の価値をもっと良く見極める選別眼を養った方が良いよ。……それよりもどうしたの。何かぼくに用があるんだろう?」
「あ、ああ。ここを見物させてもらったが、全く以って碌なお宝が無ぇ。有ったのは黴臭せぇ骸共と、稚拙な罠だけだ。まぁ多少、金目の物はあったが……期待外れも良いところでな」
 無造作に黒髪を掻き上げて何処か悄然とした様子を醸すオルドに、アトラハシスは頭を抱えたくなった。
「……姿を見ないと思っていたら、墓を発いていたのか。他人の死装束を剥ぎ取るなんて無粋な真似、あまり感心できる趣味とは言えないな」
「うるせぇよ。宝探しは男という生き物が求め続ける永遠の浪漫だろうが。大将にはわからんのか?」
 何がどう浪漫なのか、付き合いはそれなりになるが、その辺りの機微をアトラハシスは理解できない。オルドと行動を共にするようになってからというもの、これまで感じた事の無い種類の頭痛を頻繁に覚えるようになっていた。それを厭う訳ではないが、妙な気疲れを催すので余り歓迎できるものでもなかった。
 双肩に倦怠を感じながらアトラハシスは小さく嘆息する。
「まぁ、他人の趣味を否定する気はないけどね。……それで?」
盗賊おれらの世界じゃよ、このピラミッドにはどんな扉も開けることができる『魔法の鍵』ってのがある筈なんだが、それらしいのはどこにも見当たんねぇんだ。職人としては後学の為にも手に入れておきたいんだが……大将。何か情報を知らねぇか? 今アイデアに行き詰っててよぉ」
「『魔法の鍵』? ……成程。それ故の鍵なのか」
 オルドから発せられた単語に、アトラハシスは目を細め、顎を摘むように手を添えて思惟を拡げる。
「お、心当たりがあんのか?」
 己だけに向けた小さな呟きだったのにも拘らず、耳聡くそれを拾ったオルドの耳の良さにはアトラハシスも苦笑を浮かべるしかない。風に弄ばれた翡翠の髪に手櫛を入れて整え、アトラハシスは振り返る。
「……少しは自分で調べたらどうだい? 君のにも、その程度の浅い記憶なら刻まれていると思うけど」
「『魔神の斧こいつ』は俺と同じで、ジッと黙って考えるとかいう作業が苦手なんだよ。同調するなら暴れさせろ、って何時も煩くて敵わん」
 オルドは何時の間にか具現させていたた禍々しい大きさの刃を持つ大戦斧を肩に担ぎ、巨大な見た目から想起できる重量をまるで感じさせず鷹揚と佇んでいた。
 強烈な存在感と威圧を周囲に放つ様相とは裏腹に、深々と嘆息するオルドの何とも人間臭い仕草は在る意味滑稽だった。その格差に、思わずアトラハシスは純粋に問うていた。
「……思考作業が苦手な職人って、職人としてどうなんだろうね?」
「ふん。俺様の作品の全ては、俺様の天才的な感性センスの賜物だぜ。型に囚われない斬新な発想に必要なのは閃きだ、閃き」
 口元を歪ませ、得意げにオルドは胸を張る。いつもの頭痛を一層強く感じたアトラハシスは眉間に指先を当てた。
「……天才的な閃きも、在る意味野生の勘と同じ、か。何とかと天才とは紙一重、とは良く言ったものだね」
「あぁ、何だって?」
「心当たりはあるよ。『魔法の鍵』はこの砂漠の地にならばどこにでもあり、だけどそれは唯一としてはどこにも存在していない」
 流石にこれは聞こえたのか、ギロリとオルドがアトラハシスを睨めつけるも、アトラハシスはそれをサラリと流して本題に戻る。声色の調子はこれまでのそれより一層抑えられ、それが今までの戯れとは異なる真剣さを物語っていた。
「人の世で噂されるまま物事を鵜呑みにしてはいけないよ。『魔法の鍵』というのは、その言葉が指し示す通りの“鍵”という代物ではないという事さ」
 段上で、悠久の砂漠を眺めながらアトラハシスは言った。
「“魔法の鍵”が意味するもの……それはこの地に広がった神祖に連なる血族。つまり、イシスの民」
「……人間が、鍵だと?」
 眼を瞠ってオルドはアトラハシスを仰ぐ。鍵という物を探していた者にとって、それは前提を覆す事柄だったからだ。
 オルドは理解し難い様子で表情を歪め、喉を唸らせている。それに一つ頷いたアトラハシスは深い“夜”に覆われた空を見上げた。
「正確にはこの地の人々の裡の、より深い領域に刻まれし“魔”の因子。遙か昔、生きる為に負わざるを得なかった罪深き宿業の形さ」
 天球を覆う夜空は、所詮は欺瞞に過ぎない仮初の夜。だがそれでも夜は夜である以上、生物の心に深い恐れの影を落とし、安らぎの帳を掛け降ろす。それに囚われるのは重畳、囚われざるのもまた重畳。アトラハシスの翡翠の双眸はそう思う。
「久遠より廻り往く相生相克の星流に座する魂魄が、深々たる摂動にかじかむその姿。それは、永遠を望む儚き生者の妄執であり、生者を妬む飽くなき亡者の怨讐でもある。連綿と繰り返される創造と破壊は意識の螺旋を興し、紡がれ解れる淘汰と繁栄は生命の環を廻天させる……それは即ち究極なる循環、永遠を繋ぐ無限の連鎖」
 何時しかピラミッドを覆っていた砂のカーテンが虚空に浮かぶ月の下弦に手繰り寄せられ、紅く染まった月光で煌いては、まるで涙のように滑り落ちて夜の果てに呑み込まれていた。

「翼在る天輪を廻すのは、力への意志」




back  top  next