――――第五章
      第十三話 懐淵の昏黒







王墓ピラミッドには魔法が封印される“昏黒の領域”と呼ばれる階層があります。くれぐれも気をつけて下さい』

 決戦部隊がピラミッドに向けて聖都を発つ直前。“魔姫”ユラ=シャルディンスに齎された言葉だった。




(陣式の封呪魔法マホトーンを階層全体に施工した程度のものだと考えていたが……目論見が甘かったか。封印される、などという生易しい次元の話ではないな。ここは――)
 ユリウスは左手で輝きを燈した松明を、右手には磨き抜かれた剣を携えて前に歩いていた。だが、それが果たして現在目的としている場所に続いているのかどうかは、知る由も無い。何故なら周囲は完全な闇の中で右も左も判らない状況にあったからだ。唯一の光源といえば今にも潰えてしまいそうな弱々しい橙の光のみ。それはただ同じ景色に虚ろな彩を添えるだけで現状を何一つ変えてくれない。
 このような視覚的刺激が著しく減少した場所を歩いていると、意識は自然と思惟に落ちてしまうのは止めようがなかった。
霊素エーテルが亡失している……いや、厳密には霊素減衰率が極致に相当している場所になるのか。ここが霊素を除く性質を有した散魔石で建造された階層だとするならば、肯かざるを得ないな)
「―――ス」
(基になる霊素が存在していなければ魔法を紡げる筈も無い。人間であれば、内在魔力を用いて魔法構築を実行すれば発動過程までは行使できるだろうが……いや、顕在過程が封殺キャンセルされてしまうな。この空間の減衰率が極致である以上、霊素の空間伝播による連鎖励起が起こらない。故に外的顕現によって効果を顕す全ての魔法が封じられてしまう、という訳か)
 先程から掌に魔力を収束して開放を試みてはいるが、内的方向への流れの充実に反して一向に発現の兆候さえ見られない。寧ろ外に逃れる事のできない力が裡で澱み、何時しか臨界を超えて破裂してしまうのでは無いかと言う危険性を孕んでいるのを感じ、ユリウスは魔力の収束を断つ。
 封呪魔法マホトーンを受けた時や、霊素の正流加速を封鎖する“夜”の感覚に似てはいるが、今この場所に漂う閉塞感、圧迫感はそれらとは比較にならなかった。
 精神に圧し掛かる強固な束縛を感じながら、ユリウスは己が心身に起きている現象を冷静に解析する。
「ユ――ス!」
(光届かぬ神に見捨てられた地、昏黒の領域……成程、厄介な場所だな)
 そう結論付けてユリウスは浅い吐息を零した。だが気疲れするような思考行動に反して、一度この場所の定義を自らに与えてしまうとこれ以上に危惧を覚える事は無い。それはユリウスの脳裡で、例えこの場所で何が起ころうとも、冷徹に怜悧な対処法の道筋が既に確立されたからに他ならない。
 静かに根を下ろす黒闇の蔦を見据えながら、ユリウスは剣を持つ右腕に意識と力を篭める。その強さに、柄に捲いた滑り止めの革紐が擦れ合う濁った音が深々と響いた。
(何れにせよ、魔力が使用不可ならば闘氣フォースを中心として戦略を築けば良いだけだ……特に問題は無い)
 冷静に思考を進める事ができたのは、平時とは全く異なった感覚矛盾に動揺する事が無かった事を意味する。それは“魔姫”によって予め齎されていた情報に由るところが余りにも大きかった。
 参謀顧問スルトマグナに提示された不死魔物の性質によると、不死魔物は存在を構成する元素と霊素の調和バランスが崩壊し、だがそれでも消える事無く非常に不安定な領域で己を保ち、存在を維持している事になる。それは言ってしまえば砂山の頂に突き立てた棒切れのようなもので、基幹部分にほんの些細な衝撃でも与えてやれば脆くも崩れ去ってしまう儚いものだった。しかし、彼らにとって些細な衝撃を齎すものは武器による単純な物理力ではなく、より根源に近しい要素を用いての手段…それは霊素を基とする魔力によって紡がれる魔法であり、元素を根幹に据える闘氣を用いての特殊技能。これらの手段で応じて初めて敵の表面張力的な天秤は瓦解し、消滅させる事ができるのだ。
 更に手段を突き詰めていくと陰陽正負からなる属性、秩序、混沌の流動の下に世界を律する理によってその術が多種多様に広がるので不死魔物など本来ならば怖れるに足らない存在なのだが、イシスという国に古くから在る体質、そして魔物への対応が後手後手と廻ってしまった為、“夜”を始めとする敵の狡猾な策によって幾重もの制限が付されてしまった。
 戦いに赴く者であるのならば、魔力や闘氣は身近なものであるが、生命のやり取りとは無縁の市井に生きる人間達にとってそれは、例え潜在的に秘めていようとも馴染み無いものであり、意識しての操作を急には望めない。その現実が市中の人々の恐怖を熾し、その恐怖を形作る負陰のマナが魔物に力を与える。人の視点からすればこの上なく悪循環で、敵側からすれば非常に効率良い盤面の展開だった。
(敵の親玉は実に良くイシス人の、ひいては人間の性質というものを理解している)
 質量を得ていそうなまでに重く濃密な闇色を見据えたまま、未だ見ぬ敵にユリウスは何と無しにそう思った。
「おい、ユリウスっ!」
 ここで一際大きくユリウスは自らの名を叫呼される。視覚よりも聴覚が鋭敏になっていた耳元で放たれた喚声に、ユリウスは眉を寄せ、声の発信源…アズサに向けて視線を動かした。
「……そんな大声を出さずとも聞こえている。何のつもりか知らないが、無駄に名前を連呼しないでくれ」
「き、聞こえておるならば早々に返事をせいっ!」
 憮然としているようで無表情を崩さないユリウスの、余りにぞんざいであんまりな反応にアズサは怒鳴る。
 だが彼女としても、つい先刻から名前を呼び続けているにも関わらず無視を決め込まれ、挙句の果てにはその努力を迷惑そうに煙たがられたのだから、終に堪忍袋の緒が切れてしまっても仕方の無い事だった。




 その場所は右も左も、前も後ろも同じ闇一色に染められていた。
 砂漠を覆う“夜”よりも深く圧し掛かる闇に抗うのは手に掲げている松明だけで、パチパチと空気と埃を貪欲に喰らって猛る燦然とした輝きも、その勢いが殺がれているのか数歩先の周囲までしか照らせない。発せられた光を反射する壁が周囲には無く、広大な空間を満たしている圧倒的な闇の前では余りにも儚い脆弱な灯火だ。
 ユリウスはアズサは今、二人だけで昏黒の領域を彷徨っていた。
 限られた視界を支配する闇の遙か先から風が流れる音が聞こえてくるが、如何せん方向感覚を保つ事すら極めて難しい光射さぬ場所では、その位置の検討を付ける事ができない。そして遠く微かな囁き以上に足元から鮮明に響き渡る甲高い圧搾音が聴覚を刺激し、軽石を踏み砕いたような小気味良い確かな感触が靴底から伝わってくれば、否が応にも意識はそちらへ誘導されてしまう。
 仮にこの松明が無ければ、真闇と静謐が充満した領域では現実と夢幻の境界さえ覚束なくなっただろう。
 足を止めない限り絶えず付いて回る乾いた音の正体は、須らく嘗て人であった者の残滓…久遠なる時間に、この場所で王に付き従って旅立った従者達の白骨だ。一歩進む度に必ず乾音が響く事から、床に隙間無く占められているであろう骸骨の群は、楽に千を超える数の人間達の残滓だった。それらの殆どが奇跡的に形を留めていたが、余りにも長い年月が経っている所為か些細な衝撃でも脆く崩れ去り、長久に堆積した石埃と侵食してきた砂面に呑み込まれる。時折砂中からキラリと眩く輝く金属質の物が顔を出すが、それらはまだ人間だった骸達が入寂する際に身に着けていた装飾品の類なのだろう。その数は多く、闇に広がる空間の中で静寂を壊さぬように黙然と迷いし者達を窺っていた。

 光に照らされればきっと死屍累々の凄惨な地獄の光景が広がっているに違いない。敵の有無はともかくとして、灯りを遮る闇の帳の深さにアズサは人知れず感謝さえしていた。
 ふと、ここでアズサは自らの心を検める。平時で、しかも故郷の群衆の中では決して歓迎できない思考の流れ。“剣姫”として相応しくないそれを催してしまった自身の心の弱さを叱咤し、戒める意味とその他諸々の感情を込めてアズサはわざとらしく声を荒げた。
「……ったく、どうしてこうお主という奴は捻くれ者で一匹狼で、無関心で傲慢で天邪鬼で、本っ当に唯我独尊なのじゃ」
「用件は何だ?」
「だいたい周囲と足並みを揃えず独り突出しているようでは、リーダーとして資質を疑われるぞ」
「用件は何だ?」
「そう急かすでない。男はもっと鷹揚に構えておらんと、自らの余裕の無さを暴露しているようなものじゃな」
「用件は何だ?」
 不機嫌な様子を隠しもせず、半眼でユリウスを睨み付けたままアズサはぶつぶつと呪詛のように文句を連ねる。とりあえずアズサは身近に居る人間に、鬱蒼とした今の感情の澱みをぶつける事で平静を保とうとしたようだ。つい先刻の憤りも併せて、その憤慨たるや一入だった。
 そんなジト目で睨んでくるアズサの非難をものともせず、ユリウスはただ無感情に全く同じ言葉を繰り返す。抑揚が少しもない再三の言葉からは、余談など聞く耳持たない、と言った意思を発しているようで、それを感じたアズサはやれやれと深く溜息を吐いた。
「最近お主の随分と切羽詰った余裕無い様子が気になってのぅ。何に追い詰められておる?」
「お前には――」
「関係無い、か? ……心配なんじゃよ。何だか今のお主を見ていると、ポッキリと根元から折れてしまいそうじゃしな」
 平然と屍の道を往くユリウスの言葉を遮るように、その背に向けて放つアズサ。そのしっとりとした韻にユリウスは足を止め、抽象的な言葉を理解できなかったのか心底怪訝そうにアズサを振り返った。
「お前の言葉は随所の語句が欠けていて理解に苦しむ。……聖王国イシスおまえらにとって俺はお前らの目的を達成する為の駒の一つに過ぎない。“剣姫おまえ”という立場の視点からならば、たかが駒の一つの安否など気に掛けるものでは無い。所詮、駒の代えなど幾らでもいるものだからな」
「んな棘の有る言い方をするでない……。お主は駒などではなく仲間じゃと私は思っておる」
 疑念に満ちたユリウスの言葉に、甚だ心外だと義憤を覚えたアズサは口早に言う。
 実際、イシスの上層部の中にはユリウスに対してそんな認識の下、それに見合った扱いをしようとした者もいた。そしてより広義において、“勇者”という存在は魔物に対して人々の抵抗意志の象徴であり、魔物に向けての加害意識を体現する武器と考える人間も本当に大勢いる。哀しくもそれが匙を投げ出した世界の現状だった。
 国としての任務が切欠だったとは言え、ユリウスという人物と少なからず時間を共有してきたアズサはそんな認識を持った事は一度も無いし、他がそれを公然と行うのも看過し、肯定する訳にはいかないと思っていた。一度関わった人間である以上、そこまで冷酷に、無責任な事が出来る程自分の心は廃れていないと解しているからだ。
 そのような想いがアズサの情動に大きく働きかけ、切実な訴えとして紡がれたのだろう。闇に紛れて微かに潤んだ緑灰の双眸が、小さな煌きを刹那湛えた。
 だが、余りに真摯なそれがかえってユリウスの更なる怪訝を深めさせる事になってしまった。
「……なか、ま?」
 その単語・・・・が、己の中に存在しない概念だと言わんばかりにユリウスは亡羊と返す。
 本当に予想外で、理解範疇の外側から問が投げ掛けられた時、人はただ呆然とするしかない事を経験上知っているアズサは、ユリウスの反応にその断片を見出して、落胆を隠せず悄然から表情を曇らせた。
「聞き返すな阿呆が。傷付くではないか……お主にとって皆はただの同行者で周囲の景色の一端に過ぎないのかもしれぬが、他の者にとっては決してそうでない。この混迷に満ちた世界を共に往く、己の命を預けたかけがえの無い存在の筈じゃ」
 緩慢に鸚鵡返したユリウスの無表情に宿るのは疑念や猜疑ですらない、純然なる問い。そんな様を見てしまって、じわじわと胸の内から込み上げる切なさを抑えられなくなったアズサはしみじみと綴った。
「……仲間とは良いものじゃ。共通の目的を掲げ、傷みを共有し、背負った重荷を分かち合う事ができる。そして何より、自分は独りではない事を強く実感できるからのぅ。……例えどれ程の苦難や業に相対しようとも、一人で抱え込むより仲間と協力して向かう事で乗越えられるやもしれん」
 どこか遠い目でアズサは語る。それは自らの深い懐裡を見つめているような面持ちだった。
「じゃからその……余り周囲を拒絶する態度をするでない。例え暗闇の中に在っても、いつか必ず、誰かが手を引いてくれるものじゃ。人とは、世界とはそう出来ておる」
 アズサはユリウスの双眸を真っ直ぐに見据えて言った。それは最近特に孤高の性質が高まってきたユリウスに対し、どうしても言っておきたい事だった。そしてその緑灰の意思の先に居るのは当のユリウスだけでなく、もう一人の、似たような翳りを眸の奥に潜ませた人物の姿を追っているのをアズサ自身も自覚していた。
 対してユリウスは、その言葉に決して遠くない記憶の先を思い出す。が、それらを即座に意識で黒く塗り潰し、呆れたように鼻で哂った。
「何を言い出すかと思えば……馬鹿馬鹿しい」
「……何!?」
 ユリウスのあからさまな拒絶の姿勢に、不満そうにアズサは表情を歪める。だがそれは無理も無い。何の謀も無く、ただ歩み寄ろうと差し出した手を、こうして無碍に払われたのだから。
 ユリウスの言は自然に俯いたアズサを追い詰めるように鋭利だった。
「千の力を持つ敵に、一がどれだけ群がっても届きはしない。仮に数の上で千を満たした所で、そこにある千の意志が全て同一を向いているとは限らない。綻びを内包する群なる千の力が、唯一で千をなす存在と対した所で結果は見えている。弱点であるその綻びから瓦解して全て崩れ落ちるのが関の山だ」
「……っ!」
 その言葉の意味に、アズサは弾かれたように顔を上げる。光さえ飲み込む漆黒の双星と視線が吸い込まれた。
 夜よりも深く、闇より昏い黒の眼と言の前に、即座に浮かんだ幾つもの反発、否定の言葉も消え失せる。つい先程・・・・表面化した確執を脳裡に思い返してしまっては呑み込まざるを得なく、アズサはただ口を噤む事しかできない。
 ユリウスの眼に映る自分の姿が、自身を嘲るように酷薄に映っていた。
「唯一で千の力を持つ敵に対抗する為には、こちらも唯一で千の……いや、千以上の力を得なければならない。それこそどんな手段を用いてでも、今の自らを形作るあらゆるものを棄ててでもだ」
 ユリウスはアズサを見下ろしながら饒舌に言い放つ。その意志を宿した双眸には、この階層に満ちている闇とは別種の、刃のように烈々とした混沌の黒が渦巻き加速していた。
「俺に必要なのは己唯独りだけで敵を屠る為の力。聖だろうが魔だろうが、光だろうが闇だろうが性質などどうでもいい。どんな敵だろうが容赦無く斬り刻み、粉々に蹂躙し、唯一無二の純然たる死を確実に与える事ができる絶対的な力のかたちだ」
 右手に持った剣で勢い良く宙を裂く。空気を断つ澄み切った音と共に周囲の闇が打ち払われ、その軌跡を埋めるように橙の光が満ちるが、すぐさまそれは大波で押し寄せる闇に塗り替えられ、何事も無かったかのようにただ静謐を抱いた。
 ユリウスは伸びきった腕を曲げ、抜き身の刃を目線上まで持ち上げては、鏡に映った自らに言い放った。
「それ以外のものなど、俺には不要なもの。そしてこんな事を改めて他人に発し、自覚しなければならない程度の自意識もまた……剱の聖隷である俺は、要らない」
「…………」
 それは暗示のように余りに無機質で、それは呪怨のように余りに禍々しく、それは聖誓のように余りに厳かで。その余人が立ち入る事の出来ない隔絶した刃の煌きを前に、アズサはただ息を呑んで立ち尽くすだけ。
 ユリウスは完全に黙してしまったアズサを一瞥し、だが声を掛ける事無く闇中の探索を再開する。深度の高まる闇に向けて左手の松明を掲げて狭い骸の道を浮上させ、乾いた骸骨を無情に踏み砕きながら堂々と歩む。一歩一歩進む度に揺らぐ濃紺の外套は蔭りを増し、周りの闇に同化せんばかりに厳かに染まっていた。

 底の見えない冥道を往くユリウスの足取りには少しの迷いも恐れも無く、泰然と往く様はまるで闇の深淵の更なる底こそが自らの住処だと言わんばかりだ。無数の屍を越え行く後姿は凛とさえしていて、とても勇ましい歩みであったが、同時に辺りに犇く闇に呆気なく呑まれ、取り込まれてしまうのではないかという不安を誘う。
 そんなユリウスを見つめながら、アズサは諦念からもう何度目かになる嘆息を零し、惜しむように呟いた。
「孤剣、か……私も同じような事を考えておった時期があるから解るが、その在り方は寂しいものじゃぞ」
 悲哀に満ちた眼差しを闇に消えつつあるユリウスの背に送りながらアズサは零す。訥々とした口調は、その経験と傷みを知る者が持ちえる哀憐と同情に溢れていた。
 アズサはアッサラーム以降、薄々感じていた淡い確信がこの時を持って確固たるものに変わるのを実感した。
「しかし、今のお主には周囲のどんな言葉も届かないのじゃな……」
 光指さぬ闇と血と骸に彩られ死に満ち溢れた孤高の路。
 足元で次々と躯を踏み砕きながら闇の中を手探りで往く現状が、何となくこれまでユリウスが歩んできた人生そのものを体現しているのではないかという思いに駆られる。それはアズサ自身の感傷によるものに過ぎなかったが、そう思えてならなかった。








 ユリウスとアズサが二人だけで昏黒の領域を往く事になった原因は、現在よりも少し前の時…未だ大回廊を進んでいる時をその起点としていた。

 唯一続いている回廊を先へ先へと進む度に、松明の灯りを圧す闇も確実に濃くなる一方で、その陰鬱さにつられて自然と歩む者達は口数が少なくなっていた。
 敵陣に潜入しているのだから、息を潜めるという意味でこの沈黙は正しい事なのだが、余りに重苦しい雰囲気は手足の自由と思考の機転に制限を与える。それを直感的に覚っているアズサは、先頭を黙々と歩くティルトに並んだ。
「のぅティルト。そもそも何故、お主らはピラミッドにおったのじゃ? 確かにこの聖域がラーの民にとって重要な場所であり、ここを守護するのがお主等墓守の役目じゃというのは重々承知しておる。じゃが……」
「……“魔姫”様から窺っていませんか?」
「いや……詳しくは」
 あからさま過ぎるまで会話の為に持ち出した話題ではあったが、ティルトは実に素っ気無く淡々と返してくれた。
 感情の篭らない口調はとても彼女らしい反応で、だが実姉に対して余りにも冷然と他人行儀な返答だった。尤も、現実的に血の繋がった姉妹であろうと共に宮仕えで、社会的立場を慮れば“魔姫”ユラと一兵卒のティルトの間にはそれこそ天と地程の隔たりがある。そして規律と秩序を重んじる性質のティルトだからこそ、仮にこの場に自分と二人だけしかいなかったとしても同じ答を返したに違いない。
 ティルトのユラに対してのそのような意識が育まれる経緯を間近で見てきた同門のアズサは、その事に特に触れなかった。
 ただ何となく腑に落ちない様子を面に浮かべるアズサに、ティルトはそうですか、と頷き丁寧に綴っていた。
「“幽玄の王墓”は聖都から見て真北に位置しています。北とは、古来より方位学で言う所の不吉が来たる象徴。ラーの聖典でも、北とは太陽の威光が及ばぬ厭われし地と謳われているでしょう?」
 言葉と共に向けられる視線に、瞬きの逡巡をしたアズサは首肯する。
「“魔姫”様が支えられていた外郭楽園を限界とする結界で、最も敵に踏破される可能性が高かったのは、北限であるここです。だからこそ、我ら守衛隊を率いるアスラフィル様はこの地を警戒しておられた」
「ふむ……成程」
 理の通った説明に、アズサは一応の納得を示す。
 だが二人の少女の言葉を聞きながら、後ろを歩んでいたティトエスが思案に苦さを感じて小さく喉を鳴らしていた。それを耳聡く拾ったティルトが歩みを止めて踵を返し、睨みつけるように鋭い眼差しをティトエスに向けた。
「如何が致しました? ティトエス様」
「いや……正直な話、あのアスラフィル殿が率先して民の為に動くなど想像できん」
「……どういう意味でしょうか?」
「あの方は、王墓守衛隊隊長にして貴族枢機院議長だ。狂悖きょうはいさえ是とする愚物の巣窟である枢機院の首魁とも言える方を、平素の言動を省みても疑うなという方が無理というもの。王弟殿下が議長の座に就いてからというもの、枢機院と神殿府に巣食う卑しき俗物共の癒着が著しいとさえ聞き及んでいるし、貴女の父君…ナフタリ様の苦労も知らぬ訳ではあるまい?」
 決して市井に流れる事のない現実の裏側を知り得る事が可能な立場にあるティトエスはポツリと零す。生真面目すぎる故に常々ティトエスは、傲岸不遜で選民思想の傾向が非常に強いアスラフィルに対して不満を裡で蓄積していた。主君に連なる者と主君に仕える者の表面上の差はあれど、余りにアスラフィルのそれが顕著である為そう思うのも仕方の無い事だった。
「それにアスラフィル殿と言えば、前議長閣下を――」
「口を閉ざせティトエス殿! それ以上の言はこの私とて、聞き逃せぬ!」
「!?」
 しかしそれは、王室近衛隊長の言としては余りに不誠実で不穏当過ぎる。彼のらしからぬ様子を察したアズサは、イシスという国家に仕える者として、また“剣姫”という立場の者として声を張り上げて制していた。
 アズサの喚起に、ハッとしてティトエスは自らの失言に気付き、反射的に口元を押さえるも時は遅い。既に放たれてしまった疑念の言葉に、周囲の沈黙が重さを増してしまった。だが、何時までも続くかと思われた沈痛な雰囲気は、予想しなかった音によって終わりを迎える事になる。なぜなら、一行の最前に立っていたティルトが肩を小刻みに揺らして笑っていたのだから。
 双肩の揺れは次第に全身に及び、口腔で押し殺していた声は、外への解放以って哄笑へと変容する。
 長年の付き合いがあるアズサでさえ、突然の事に唖然としてティルトを見つめていた。
「ふふふ、近衛隊長殿ともあろう方が宮中で流れる下卑た噂話に毒されでもしたのですか? 陽の当たる表面にしか目が行き届かないとは、浅慮な……笑止千万です」
「な、んだと?」
 実際に宮中では噂好きの女官、下士官達の間で玉石混交その手の話が絶えず流れる事をティルトも、アズサも知っていた。そしてティトエス自身の言葉も、それらを耳にしてから紡がれたものだった。
 ティルトは心底嘲るようにティトエスを睨みながら肩を竦める。
「あの方ほど、この国の行く末を真摯に案じている方はおりませんでした。常に小奇麗に整頓され、安全な城の中に篭もっているだけの惰弱な方々に、一体どれだけこの国の病みきった正確な有様を理解しているのでしょうか?」
「ティルト、貴様……我等を、国を愚弄するのか!」
「私は事実を呈しているだけです。如何に陽神の寵を受けし聖なる国だろうと、人の上に立つ身の者が自身の足元を見れぬ程度の不腆ふてんな様では先が思いやられるというもの」
 激昂するティトエスは声を荒げ、ティルトは絶対零度の視線で睨む。動と静から織り成される剣呑な一触即発の風が一陣、両者の間を颯爽と駆け抜けた。
「つくづく畏れ知らずな……涜神の徒め。“魔姫”殿の妹君だと思いこれまでその不遜が過ぎる様に目を瞑っていたが、もう我慢ならんっ!」
「ふ、図星を突かれ、返答に窮すれば直ぐに力に訴える……清廉潔癖、品行方正な聖騎士卿が聞いて呆れます。その様は道理の通らない子供と差はありませんね」
「愚弄するなと言っている!」
 顔を憤怒の朱に染めて、ティトエスは腰に佩いていた剣に手を掛ける。それに応じてティルトも完全に表情を消し、背負っていた槍をスラリと構えた。
 異なる指揮系統の首領格同士が確執を面に出せば、自然とそれらの意識は付き従う者達にも波及する。二人を筆頭に、それぞれの隊の者達が臨戦の体勢を執ってしまった。
 二人をはじめとして、対立を露にした者達の表情には何時しか深い陰影が浮かんでいた。それは燭台の灯りの揺らぎによって齎されるものではなく、もっと根源的な、内側から染み出てきたような鈍重として濁った翳りだった。
 敵の本拠地の内部で突然に起こってしまった分裂に、アズサは軽くない眩暈を覚えながらも、声を張り上げて緊迫した場に割って入る。
「双方止めぬかっ!」
「アズサ殿、だがっ……」
「今この時、己が何の為にこの場所に立っておるか、各々それを忘れるでないっ!!」
 腰に佩いていた聖剣を、その刀身を両者の境界線にするが如くに抜き放つ。顕になった白き刃は、剣呑とした喧騒に包まれていた空気の中で燦々たる輝きを放ち、薄暗い回廊中の影という影を照らし出す。その清冽な輝きは、まるで積もり積もった邪な澱みを浄化する朝陽の清澄さだった。
「そ、そうだな。確かに、今のは私の失言だ。……面目無い」
「……まぁ、いいでしょう。貴方達からどんな誹りを受けようとも、それは今更というもの。耳に残す価値の無い風韻に過ぎません」
 明けの光を浴びせられ、ティトエスとティルトをはじめとして彼らに従う者達の表情から、今の今まで侵食していた疑念や猜疑といった蔭りが消え失せていた。
 自身の言動を検めて狼狽を零し自身を戒めるティトエスを、ティルトは冷え切った眼差しで一瞥し、やがて興味が失せたように外していた。アズサはそんな彼らの様子を見据えたまま、一つ嘆息する。
「ったく、急にどうしたのじゃ? 内なる悪しき業に意識を囚われおって……」
 納剣し、決戦前の緊張よりも内患外憂の不協和音に鈍痛を感じてアズサは掌で視界を覆う。『聖剣・滅邪の剣』の聖光で表面化してしまった感情の澱みは浄化されたが、今の確執は確実に彼らの心の奥底に根付いた蟠りの意識だという事を、聖剣を振るう者として双姫の一翼を担うアズサは知っていた。
 そして今、この場所でその蟠りが顕になった事への危惧を、アズサは痛烈に感じていた。

「おい」
“剣姫”として部下に相当する者達全員に睨みを聞かせているアズサ。そんな彼女の背に無抑揚の声が掛けられた。
 声で誰なのか既知であるアズサは、苛立たしげに背後を見るとそこには予想通り心底無関心そうな無表情でユリウスが佇んでいた。
「……何じゃユリウス。今、取り込んでおるから後にせよ」
「それはこちらの台詞だ。下らない内輪揉めならば時と場所を選んでやってくれ。敵陣で滑稽な茶番に付き合ってやる道理は無い」
 ユリウスから至極淡々と告げられた言葉は、余りにも情思を孕んでいない所為か酷く横柄で悪辣に聞こえ、身内の確執に苦心するアズサは、嘲られたと思わず表情を凄めてユリウスを強く見据えた。
「こ…の阿呆がっ! せっかく鎮火したというのに、煽動するような事を言うでない!!」
「消化したと思った焚火が、実は裡でまだ燻っているという事など良くある事だ」
「何じゃと!!」
 ユリウスの言い分は甚だもっともだったが、如何せん率直に過ぎる。普通に情理を解せる人間ならば、この場の空気の機微を読んでもっと気の利いた言い回しをするのだろうが、何の飾り気も無く無感動に淡々と告げられた言の葉は、自らの未成熟な場所を痛烈に射抜いて来るように思えてならなかった。
 羞恥と激昂に顔を紅潮させて歩み寄り、正面からユリウスの外套を掴み上げて睨むアズサ。外套を掴まれた側であるユリウスは顔色一つ変えず、無情な視線を降らせるだけでその手を振り解こうともしなかった。
 先程とは別の静と動の衝突が起き掛けた時。そもそもの元凶の片割れであるティルトが、珍しく表情に焦燥を載せて叫んでいた。
「二人とも、そこを離れてくだ――!」
「っ!?」
「な……」
 逼迫したティルトの叫び声を最後まで聞くことが二人にはできなかった。
 焦色を載せたティルトの韻に珍しさを思う暇無く、アズサとユリウスは不意な浮遊感とそれに順じて迫る急な落下感に襲われ、そのまま足元に突然に開いた大穴に呑み込まれてしまったのだ。
 唐突に消えた二人の影に、周囲はただ茫然として言葉を紡げずに佇むのみ。そんな中、率先して気付いたティルトが諦念染みた嘆息を零していた。
「……罠が起動してしまいましたか」
「ちょ、ちょっと……そんなものがあるなんて説明は受けていないぞ!」
「ここに設置されている罠の大半は機能停止していると事前に申し上げましたが……まだ生きているものがあったのですね」
「何を悠長な事を……」
 小さく零れたティルトの嘆息交じりの言葉に、ミコトが狼狽を浮かべて詰め寄った。だがティルトはそれに冷静に返し、穴淵に膝を折っては暗闇の先を凝視するように険しい眼差しを落とした。
「お二人は下層領域に落ちてしまったようですね。この場所から推測するに下層まではそれなりの深さがある筈ですから、怪我などしていなければ良いのですが……」
「ユリウス! アズサ! 無事かっ!?」

『つ……おぬしの所為じゃぞユリウス!』
『……どうでもいい。それよりも重いから早急に退いてくれないか』
『お、おもっ……言うに事欠いて、女に向かって重いじゃと!? なんと無礼な奴めっ』
『唾を飛ばすな。お前が重かろうが軽かろうがどちらでも構わない。兎に角まずは退いてくれ』
『……この粗忽者がっ! 朴念仁! 唐辺木っ!!』
『何に怒っているのか知れないが、いい加減に退け』
『……ふん、剣を抜くがよいユリウス。口の聞き方を教えてやるっ!!』
『次から次へと騒々しい……周知の事だろうが、武器を構えて向かってくるならば誰であろうと容赦しない』
『上等じゃ! これまでの諸々の鬱憤を篭めて、ここで決着をつけてやるわっ!』

 沈黙に落ちていた回廊に、アズサのだんだんと方向がずれて行く罵詈雑言と澄み切った抜剣の玲瓏音が凛と響く。それはやがて刃と刃が激突する剣戟に変わり、火花が闇の中に咲き乱れた。
 ティルトの懸念を踏み躙り、真闇の中に在りながらも剣戟を織り成す二人に感心半分、呆れ半分の気分になったミコトが大きく溜息を吐いた。
「……心配するだけ無駄だったな」
「……そうだね」
 声色低く抑揚無しに呟いたミコトに、ヒイロも同意する。彼にしては珍しく苦笑ではなく冷笑を浮かべていた。
 仲間の身に起こった不測の事態を前にして、冷静な反応を見せる二人に、今度はティトエスが狼狽から声を震わせる。
「ほ、放っておいて良いのか?」
「……まあ、いつものやり取りですから」
「いつも?」
「何かとアズサがユリウスに絡んで、剣の勝負にかこつける事かな。何時の間にかアズサはユリウスをライバル認定しているみたいだしね」
「「…………」」
 説明するミコトに、ピクリと眉を動かしてティルトは問う。思いの他強かった追求の視線にミコトは口を噤み、逆にヒイロが掬ってくれた。
 その逸話を聞き、ティルトとティトエスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。二人の表情からは余り歓迎したくないのだと言う言葉無き感情が見え隠れしていた。それがどのような意識によって紡がれたかは、まだ知り合って日の浅いヒイロとミコトの二人に判る筈も無い。
 顔を顰め黙したままのティルトは、手早く荷物から取り出した松明に火を灯し、それを躊躇い無く穴の中に放る。その行為に誰かが呆気に取られた声を上げていたが、その氷のように冷たい無表情は揺らぐ事は無い。
 光が呑まれた闇の中で、奏でられる剣戟は旋律を早めていく。

『くくくっ、相変わらず惚れ惚れする程に研ぎ澄まされた剣閃よのぅ』
『…………』
『うぬっ!? まったく、味方に向けても急所突きを狙ってくるか……つくづく容赦の無い奴じゃ』
『平然と人の背後から不意討ちを敢行するお前にだけは言われたくない』
『今宵の聖剣こいつは良く切れる……覚悟せよユリウぬあああぁ!? な、ななな何事じゃ! 敵襲か!?』
『……落ちてきた松明だ』

 冷徹に、そして愉悦に対峙する二人の間を鮮烈な光が断つ。
 駆け出そうとした瞬間、突如頭上から眼前に飛来した火の燈された松明に、気の毒なまでに動揺するアズサ。そんな彼女に対し、恐ろしく冷静に現状をユリウスは告げる。
 暗闇の中の応酬は、その状況を見渡せない声だけのものの為か随分と喜劇染みているが、それを静聴している場合でもない。松明を落とした張本人であるティルトは半ば遮るように声を張り上げた。
「ユリウス殿。その領域では魔法が顕現しませんので、灯りにはそれを使用して下さい」
『ティルトか! おぬし、火を点けたまま松明なんぞ落とすでない! 危ないじゃろうがっ!!』
「ピラミッドはその構造上、下層と上層が内部で合流する事は不可能です。そちら側には別に外への脱出口が用意されている筈ですから、自力で離脱して下さい」
『ああ』
『こらティルト! 私に謝罪は無しか!? 無視するなっ!!』
 さらりとアズサの激昂の言葉を右から左へと受け流し、ユリウスだけに注意を喚起するティルト。先程から闇に響くアズサの溌剌な声が聞こえている所為か、あまり彼女の安否を問う声がティルトの他からも上がらない。だがそれはある意味信頼の裏返しなのだろう。……声を張り続けているにも関わらず、相変わらずティルトに無視され続けているアズサには多少なりとも哀愁を誘うが。
 アズサの発する言葉を意図的に無視し、ティルトは口早に続けていた。
「荷が勝ちすぎているかもしれませんが……くれぐれも気をつけてください」
『…………』
『ユリウス、今の溜息はどういう意味じゃ!』
「……では、御武運を」
 アズサの怒鳴り声と共に再び剣戟が奏でられたのを認めて、一瞬の間を置きティルトは闇に落とす言葉を締めくくる。足元にポッカリと口を広げた昏黒を捉えたままゆっくりと立ち上がり、踵を返した。
「……さて、戦力は別れてしまいましたが、こちらも進みましょうか。今の我々にできる事は、一刻も早く敵の頭を叩く事ですから」
「あ、うん。そうだね」
 応じたヒイロに頷き、ティルトは歩みを進める。落とし穴を避けて、そこに気遣わしげに視線を投げ落とす者達に混ざり一瞥をするも、刹那の瞑目を経た暗青の眸には感情が浮かんではいなかった。








 もうどれだけの時間、この昏黒の中を彷徨ったのだろうか。
 時間感覚は既に潰え、永遠を思わせる変わらない景色にアズサは心底辟易していた。ここで何か会話でもあれば幾分かは気が紛れるのだろうが、生憎とこの屍の道を共に行くのはユリウスでその選択肢は既に断たれている。ユリウスは已然黙々と歩を進めているだけで、こちらから問い掛ければそれに応じた言葉は返すものの、端的で抑揚も無く至極事務的な口調である為か質疑応答で、会話にはならない。これまでの道程で判った事であるが、ユリウスは魔法理論や戦術戦略についての話題ならばそれなりの反応を示してくれる。が、それこそこんな時にこんな場所でする話ではない。
 緊張と生死を掛けている敵陣で考えるような事ではないが、この心身を退廃させる環境に順応してしまうのだけは何としてもアズサは避けたかった。
「おい」
「な、何じゃ?」
「あの階段は何処に続いている?」
 ユリウスの方から言葉を発する事はこの階層に落ちてからというもの初めてだったので、アズサは思わず狼狽してビクリと身体を揺らす。だがユリウスはアズサの些細な動揺など微塵も気に留めなかった。
 立ち止まったユリウスは、変わらずに空気やそれに溶けている燐を貪っている松明を前方に掲げる。すると薄っすらと骸の床により闇が集約して口を空けている場所が浮かび上がってきた。近寄ってみるとそれは確かにユリウスの言うとおり更に深部に続いているであろう階段だった。
「知らぬ。ピラミッドの事は管轄外じゃしなぁ……“魔姫ユラ”ならば知っておるかもしれぬが」
 ここに来て更なる下層へと到る路の存在についてアズサは記憶の探索を試みるも、自分の知識の中に該当するものは無かった。“剣姫”として先代から引き継いだ情報にしても、ピラミッドに関しての事はごく僅か。
 見栄を張っても意味が無いのでアズサがその旨を包み隠さず伝えると、ユリウスは批難も落胆もする事も無くただ、そうか、と単調に頷き、階段へと歩み始める。
 その逡巡の無さにアズサは思わずユリウスの外套の端を掴んで静止に掛かっていた。
「そ、そうかって…それで話を終わらせるでない」
「お前は知らない。俺が知る訳が無い。ならば話はここで終了だろう。無意味な議論を展開する必要はない。百聞は一見に如かず……行けば解る事だ」
 感情が欠片も篭らないユリウスらしい言い回しにアズサは呆れたように半眼を向けた。
「慎重という言葉を知らぬ訳ではあるまい。何の策も持たず不用意に進むのは危険じゃ。仮にもここは敵陣なのじゃぞ」
「それこそ今更だ……虎穴に入らずんば虎子を得ず、という諺がある」
「屁理屈を弄するな」
 何故か頑なに会話を続けようとしているアズサを怪訝に捉え、ユリウスは疲れたように深く嘆息する。何となく視界にちらついた前髪を掻きあげては階段と、その闇の先を強く見据えた。
「俺は立ち止まり、躊躇し、後ろを振り返る資格など既に放棄している。故に何があろうとも進むだけだ。お前が怖気付こうが逃げ回ろうが俺の知る所ではない」
 そう冷酷に告げると、ユリウスはアズサの手を外套から払い除け、振り返る事無く階段を降り始めた。

「安い挑発を……まったく、小憎らしい奴め」
 闇は根源的な人の恐怖心を増長させる。使い古された言い回しだが、確かに真実を示した表現だ。ここ最近再び視るようになった“紫寂の夢”の顕現を惧れ、暗中模索を進める内にアズサはいつしか弱腰になっていた。
 狙ってか否かの判断はできないが、発破を掛けられたアズサは不服そうに、だが口元を不敵に歪ませてユリウスの後を追う。陰鬱な闇に呑まれまいと強く床を踏み締めて、聖なる銀の刃を握り締めて。




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