――――第五章
      第五話 砂漏の哀韻







 聖都に座するイシス宮殿に備えられている修練場を一望できる回廊。
 熱砂の地にあって屋内に空気が滞るのを防ぎ、僅かでも新鮮な外気を流そうとする為か、宮殿には見通しの良い開けた場所が数多くある。遮る物が無いそれらを、熱き風は宮殿内を我が物顔で駆け巡り、足跡である風紋を大理石の床に敷かれた砂面上に刻んでいく。また、それに少しでも抗うよう涼しさを求める為に城内には水路がひかれており、縁には色取り取りの花を擁する花壇を誂え、甘い芳香を砂混じりの空気に乗せていた。
 王の住まう王城には治世の中心として相応しい体面、権威の象徴である荘厳な姿が求められる。それは国によって実に種々多々にあり、聖王国イシスにおいてのそれは優雅さの極限を追求したものだった。
 視識的に変化の乏しい砂漠の地であるからこそ、人々の意識を集めるには美しさを必要とするのは人の情理であるのかもしれない。そんな現実がこの地の取れる選択肢を狭め、そして聖都イシスを囲う外郭楽園畿内は建国の初期以来、外からの勢力に脅かされた事が無いという歴史的事実が、それを決定付ける大きな要因になったのだろう。
 太陽神ラー教団の本拠地である大神殿とも印象が通ずるイシス王城…俗称“花苑の宮殿”の砂塵に霞む姿は神秘的に麗雅で、だが決して戦時の拠点城砦には為り得ないものだった。





 イシスを治める女王との謁見を経て、“アリアハンの勇者一行”は聖王国イシスに国賓と等価の扱いで迎えられている。だが厭くまでも自分達の世間的な体面は、所詮一介の冒険者に過ぎない。そんな彼らを長久に連ねられた伝統と由緒正しい規律に順ずるイシス軍のどの部隊に編入するかで、今は“砂漠の双姫”を始めとしたイシス軍の将軍達が当人達を差し置いて慎重に議論を戦わせている事だろう。
 外からの暑い風と宮殿内からの冷やかな空気の狭間で。涼しげな印象を周囲に与える浅葱髪を靡かせていたソニアは、回廊に備えられている長椅子に腰を下ろし、白日下の修練場で鍛錬に打ち込む者達の姿を何となく見つめていた。
 その行動に何か目的があるという訳ではない。強いて言うならばただ単純に、今ソニアは何もする事が無く時間を持て余しているだけに過ぎなかった。




――つい先刻。一行は双姫によってイシス全軍を率いている主だった将達への紹介の場を設けられ、彼らとの一応の接触を終わらせる事はできた。だがそれは同時に、一つの衝突を齎してしまう事になってしまった。
 その衝突とは、他所から来た一介の冒険者が、祖国の命運を左右する重要な場に参加する事など実に相応しくない、とイシス軍の将兵達の中で不満の声を上げる者も少なくなかった事に起因する。そしてその意思の表れなのか、“アリアハンの勇者一行”が会議室に立ち入った時。“砂漠の双姫”以外の殆どの面々から軽侮、忌諱が混ざった威嚇の洗礼をユリウス達は浴びせられる事になった。もっとも、ユリウス自身にしてみればその程度の情思による視線など、特に気に止める価値の無い微風の囁きに過ぎなかったのだが、そういった人間からの敵愾心とは無縁で、直接向けられた経験に欠けるソニアなどは思いっきり萎縮してしまった。
 だが、それ自体は無理からぬ事だったかもしれない。
 遠い異国アリアハンの地で囃される武勇の噂……今現在魔王軍と戦争を繰り広げているこの地で、それをそのままの形で受け入れるには、噂の内容はあまりに常識を超えた域に達する上、当の本人であるユリウスはあまりに彼らの思い描いていた姿とかけ離れていたからだ。
 だからこそイシス将兵達の中に、“アリアハンの勇者”に対して不信や疑念を抱く者が居たとしてもおかしくない事だろう。

 一方的に撒き散らされた諍いの火種はやがて、元より人の輪に入ろうとしない孤高の性質がここ最近より顕著になったきらいのあるユリウスによって、大炎にへと萌芽される事になる。

 イシス政府の戦時下における治世の一端として、イシス女王“王裡アセト”、そして砂漠の双姫“魔姫セルキス”、“剣姫ネイト”が外より招いた“アリアハンの勇者”を容認しているからこそ、将兵達も辛うじて均衡を保つ事ができていた。だがその均衡は、納得しているから築かれる、というものでは無く、厭くまでも我慢する事で保つ、という危うい類のものであったが……。
 そして他ならぬユリウスによる、先日アズサが下されたのと同様の事を一切の感情を孕ませずに冷徹な言葉として綴られた事で、砂上に築かれつつあった脆く危うい同盟意識は容易く砕破してしまった。
 激昂する将達を会議の場の進行役でもある双姫が懸命に宥めるも、彼らの裡に潜んでいた負の感情は一度噴出してしまえば抑えるのは非常に困難だった。無感情なユリウスの言に、誉れある矜持を傷つけられたとして将達は憤慨し、特にそれら将の一人…イシス王室近衛隊隊長の憤然たるや凄まじく、遂にはユリウスに一対一での決闘を申し込んでしまう始末だった。
 ユリウスにしてみれば、下らない、と冷やかに一蹴すべき何とも古典的な状況推移であったが、時間の浪費を惜しむユリウスとしては面倒事を早々に片付けたいという思惟の下にその申し出を受けた為、会議の場は騒然の中で混迷を極める事になる。
 ユリウスに決闘を挑んだ近衛隊長ティトエス=ミレニアはまだ二十代半ば程の齢でその位にあるのだから、イシス軍の中でも相当に腕が立ち、一目置かれている人物なのだろう。実際に彼は将来を嘱望され、上と下の間で立ち回り大いに人望と才覚を振るっていた。その場に居た他の将達も彼の言ならばと期待の眼差しを送り、青年の激しい気概を後押ししていた。
 ティトエスは、強気で口の減らない若者に現実の厳しさを知らしめてやるつもりでいたのだろう。事実親衛隊隊長、副隊長である“砂漠の双姫”以外の将達の殆どがそんな光を双眸に湛えて、これから徹底的に躾けられる・・・・・若者に憐憫さえ感じていたのかもしれない。
 そして幾多の想念が絡んだ決闘の結果は…………ユリウスの圧勝だった。いや、その決闘は闘いと呼べるものですらなかっただろう。有無を言わせない圧倒的な力量を以ってユリウスは、情け容赦無く一方的にティトエスを打ちのめし、瞬く間に戦闘不能にまで追い遣ってしまったのだから。
 予め刃を潰されている訓練用の剣に付着した生々しい紅き鮮血。それを片手に佇むユリウスと、その前に力なく倒れ伏した近衛隊長の姿……イシス軍の者にしてみれば、それは信じられない光景だった。“剣姫”にさえ引けを取らない実力を持つと仄めかされるイシス勇将の一人が、他国の若輩の足元に、一矢報いる事すらできずに横臥おうがしているのだ。……ティトエスは時間が経っても未だ意識が戻らず、神官達の手厚い看護によって絶対安静の状態にある。
 信拠の無い噂話でしかなかった、若すぎる“アリアハンの勇者”の凄絶な現実すがたを目の当たりにし、魔姫はただ唖然とするばかり。剣姫はこれまでの旅路を共にしたから彼女程に驚かなかったが、他の将達は疑念を吐露しただけに魔姫以上の衝撃を受けて閉口せざるを得ず、“アリアハンの勇者”という存在を認め、その扱いに慎重を期する事になった。
 もしかすると、“アリアハンの勇者”がいればこの劣勢を覆す、いやこの戦争に勝てるかもしれない、という一縷いちるの希望という名の波紋を広げて……。

 結局、ユリウス達は碌な状況説明もされないまま、半ば締め出される様に自由行動の機会を与えられた――。




 予想もしていなかった展開と、突然与えられた自由時間に一行はただ戸惑うばかり。だが時間を無為に過ごす事を良しとしないユリウスは颯爽と何処かに姿を晦まし、こういう時にじっとしていられない性分のミコトはサクヤを伴って城下の見回りに行く。ヒイロはヒイロで思う事があるのか城内の図書室で調べ物をしたいという言葉を残していた。
 ここで、旅路に出て以来久々に一人になったソニアはというと、当ても無しに城内を散策する事が精一杯の時間の使用法だった。

(本当に、大きな城ね……)
 砂塵と甘い花の芳香が混ざった温かな風が吹き入る回廊を望みながら、ソニアはそう思わずにはいられなかった。
 見渡しても視界に収まりきらない程遠くに、宮殿を囲う城壁が建ち連なっている。その内側で、隙間無く敷き詰められた白砂の中に、疎らに深緑の木々が天に向かい真っ直ぐに生い茂っていた。また修練場とされる広場の一角に大勢の人間が鍛錬に励んでいるも、それでも白を侵す影は微々たるもの。それらの景色がこの場所の広大さをより明確にさせていた。
 間違いなくこの宮殿は、アリアハン王宮以上の敷地面積を誇っているのだろう。そう思いながら、自然と吹き出てくる汗を拭い、ソニアは嘆息する。
 自分達の事はまだ完全に城内に知れ渡っていないのか、時折この回廊ですれ違う兵士、文官、王城に従事している使用人達は彼らにとっての新顔であるソニアを、物珍しそうに物陰からこちらを盗み見ている。付け加えて、聖王国イシスは国教を太陽神ラーと定めている以上、国民の誰もがラーを信奉する。先日アズサに案内されたラー大神殿には、戦時下という状況もあって熱心な参拝者達の影が消える事は無かった。“協会”の存在によって宗教間の諍いを固く禁じられている為か衝突は無かったが、この地の人々にとっては異教でしかない精霊神ルビス教の僧服を纏ったソニアの姿はやはり眼を惹き、常に奇異の的となっていたのだ。
 それらが何とも居心地を悪い。慣れない環境で、幾多の無遠慮な視線に晒される事にソニアはすっかり気疲れしてしまっていた。
(こうして改めて考えると、アリアハンからとても遠い所に来た事になるのね……)
 違いすぎる環境の隔たり。それを自らの中で消化する為に、ソニアは双眸を細めて思惟を深めた。



 雄大に広がる青空と白地の中には、男女問わずイシス軍の軍服に身を包んだ正式の騎士兵士の姿もあれば、国兵が纏うものからすると少しばかり品の落ちる粗野な武装をした冒険者風の男達。剣、鎧姿がどこかぎこちない市井の人間、果ては成人を迎えていない少年少女達の姿まである。
 その場にいる誰もが指導している騎士の怒声に併せ、裂帛の気合と共に剣を振り下ろしている。必死で研鑽に取り組む真摯なその姿からは緊迫の余り怖いものすら感じ、修練場の空気は炎天下にも係わらず冷たい緊張感に満たされていた。
(何だろう……この感じ)
 じっとその様を見詰めていると、言葉にはならない何か・・が胸中で疼くのを感じた。それは閃きよりも微かな感覚ではあったが、決して無視できるものでもない。不可解なもどかしさを探索する一環として、眼前の状況に似通っていたアリアハン宮廷司祭としての職務時に良く見かけていた騎士達の修練の様を思い出す。そしてそれは直ぐに功を奏し追憶の情景は、視界の景色と重なった。
 外敵から国家を護る為に存在する騎士兵士、自分達の生活を守る為に立ち上がった民間の義勇兵達。国家も宗教も、場所も状況も意思も思想も異なるのに、それぞれが醸す真剣な気概はあらゆる意味での垣根を越えて同じもの。
 戦いに赴く大きな一つの意志の下に揃った彼らが掲げ、裡に秘めた理由とは……喪いたくないから。失いたくないから。
 単純明快であるが故に、とても重く双肩に圧し掛かる想い。視界に広がる必死さの中にちらついていた何か・・とは、一面の空気に充満している熱気に孕まれた、弛まない剛き意志の奔流だった。
 胸中で霞み掛かっていた疑問が晴れると、自然と目に映る景色せかいも鮮明に見えてくる。
(……まぶしい)
 雲一つ無い晴れ渡る空の下、陽炎が景色を歪ませる中でも揺らぐ様子が見えない彼らの姿を見て、強くそう思う。そして、それに目を眩ませている自分はどうなのかと自問してみると……惨めな気分になってしまった。
(……日に日に、自分の中の黒い感情が膨れ上がっている気がする)
 そう感じずにはいられないまでに、自分の中に醜悪でどろどろした感情が存在していた。日陰の中にある長椅子に座り、影に覆われている自分の姿が一層その暗澹の沼地に引き摺り込んでいるようだ。そう意識すると急に胸が苦しくなったので、胸元で両手を組みルビス教典の一文を脳裡で反芻する。そうやって気持ちを鎮める事で自己の安定を保っていた。

(私には、何ができるんだろう……)
 侵略されている世の為、苦しんでいる人々の為に自分は自分に出来る事をしたい。自己犠牲、慈愛献身の精神はルビス教典にて最も尊く、徳の高いものだと謳われている。勿論それだけが理由の全てではないが、それは今自分がここにいる事の大きな要因。旅路の中で育まれた自分の偽らざる純粋な気持ちだ。
 決意して故郷を発ち、今は遙か遠い異国の地にいる。これまでで自分の気持ちは少しも色褪せてはおらず、寧ろ日々濃くなっている。そしてその想いを全うする為に何を優先すべきなのか判っているつもりだった。それは選ぶまでも無い明確な事だから。
 だけど、そう認識しているのにも係わらず、絶えず自分の心を阻み苛む要因もまた自らの裡に存在していた。
(……ユリウス)
 その名を呟く。すると思い浮かぶのは、アッサラーム以降どんどん人間味を喪失させていく彼の姿。星空の下で人間で無くていいと語った彼の姿。魔物の青い返り血で全身をおどろおどろしく染め上げている彼の姿。安易な挑発で真実をひた隠しにしようとしている彼の姿。自分を憎み呪い殺せと冷厳に言い誘う彼の姿。
 そして……姉と殿下の後ろを子犬のようについてまわっていたユリウスの姿。
 今と昔とでは、もはや面影さえ重ならないまでに激変した雰囲気。ただ敵を屠る為だけに造られた剱と自らを綴った言葉。自らの死すら厭う事の無い凍てついた意識……。
 自分の裡にある全ての蟠りは彼に収束する。黒い感情の全ては彼から生まれている。
 それに足掻く事はとても苦しくて、呑まれてしまえばこれ程の甘美は無い。両極の相容れない欲求は絶えず心の中で互いを貪りあって、摩耗を繰り返している。
 だからこそ、その黒い葛藤を終わらせる為にも姉の死の真相を知りたかった。これ以上大切なものを失うのは嫌だったから。もう自分だけが何も知らないままなのは、嫌だったから。



 自らの心のありようを模索をするソニアは、その一環として今は遠い時間の望郷に緩やかに堕ちていった。





「あら、随分と辛気臭い顔がいるわね」
「えっ……!?」
 逃避の旅路は不意に声を掛けられた声によって終焉を迎える。
 穏やかな口調とは裏腹の辛辣な言が耳朶を打つと、ソニアは慌てて振り返った。そこには逆光の中で深みを更に増している臙脂色の外套を羽織った人影が、こちらに向けて歩み寄って来ていた。
 すっぽりと顔全体を覆い隠すように深くフードを被り、更に色濃い陰影が面紗のように垂れている為にその顔を覗く事はできない。だが鈴が鳴った様に高く澄んだ声からして間違いなく女性だろう。それも酷く聞き覚えのある、耳の奥にその余韻が良く残るものとさえ感じてしまう。
 自分には、聖王国イシスに知り合いなどアズサ以外には居ない事を鑑みて、ソニアは戸惑いの視線を眼前にまで詰めた人影に向ける。そんなソニアの、困惑が漂う紅の双眸を見下ろしていた女性は、浅く微笑むような吐息を零して肩を竦めた。
「久しぶり、になるのかしら? 人間あなたたちの時間感覚には、何時になっても慣れる事はないわね……」
 どこか哀愁を孕ませた言い回しをしながら、臙脂の女性は被っていたフードを頭の半分程持ち上げる。それだけで女性の顔が顕になった。臙脂から豊かに零れる藍青の髪。不敵な輝きを燈した同色の眼。意志の強そうな柳眉に、すらりと整った鼻梁。そして何よりも眼を惹くのが、鋭く天に伸びる長い耳殻……。
 人間とは文字通り次元を隔する佳麗な容姿を持つ妖精種…この世界で唯一とされる純エルフ。
「み、ミリア!?」
 半ば悲鳴のように裏返った声でソニアはその名を叫呼する。
 ソニアの目の前に立っていた女性は、それ程遠くない過去に一時的に旅路を共にしたエルフの魔導士、ミリア=エルヴィラ。思いもしなかった人物との再会に、ソニアはただ唖然と目を見開くだけだった。




 白砂が敷き詰められた地面は、容赦なく照る太陽を反して燦然としている。それはこの砂漠に足を踏み入れて一週間を迎えようとする身であっても未だに慣れるものではない。やはり輝ける景色を長時間見続ける事ができなくて、背けるようにソニアは双眸を伏せ、視識の負担を和らげる事に努めた。
 ソニアの座る長椅子の隣には、ミリアが腰を下ろしていた。と言ってもその二人の間に人間一人が座れるだけの空余があるのは、やはりミリアが人間であるソニアに対して未だ慣れていないからだろう。彼女の事情も自分なりに理解しているので、この隔たりをソニアは寂しいと思うも、それ以上の事は考えなかった。
 ちらりとソニアはミリアを盗み見る。泰然と背を伸ばし、鷹揚と両腕を組んで柱に背を預ける彼女は再びフードを深く被り直し、影中から眼前の修練場を無感動に睥睨していた。
 人の往来が多い室内にまで、深くフードを被っているのは不審な印象を周囲に与えるが、本人の言では陽射しが強すぎて肌が焼けてしまうから、との事。だが彼女の同行者…スルトマグナに言わせると、ミリアに特異の証である髪と耳を大っぴらにされると面倒が増えるから、という事である。確かに人間国家の中枢に関わっている人物の側に、人間とは違う異種の存在がいれば不穏当な混乱は避けられない。ましてエルフは、人間の観点からしてみれば比較にならない程強大すぎる魔力を持っているのだ。その存在は戦時下のこの国にとって、陽の意味でも陰の意味でも天秤を動かす大きな錘になる。スルトマグナはその露見を危惧しているのだろう。
 そんな彼女の手には、以前とは別の神々しい杖が握られていた。それはライトエルフ女王ティターニアが所持している断罪の天使を擁いた“嵐杖・天罰の杖”。何故彼女がそんなエルフの王杖を持っているのかソニアは不思議に思ったが、恐らく自分の知り得ない事情があるのだと思い、疑問は裡で直ぐに溶け消えた。
「ノエル君は元気?」
 それはミリアの事情の一端を知る者として、初めに聞かなければならない事だった。
 ソニアの質問にミリアはこくりと頷き、ここからは遙かな場所であるその地を想って北の空を見上げ、慈しむ笑みを浮かべた。
「ええ、おかげさまで。慣れない環境の所為で大変そうよ。隠れ里アルヘイムとノアニールを殆ど毎日行き来しているって話だから、無理もないわね」
「話…って、ミリアはノエル君と一緒じゃないの?」
 逆に酷く人伝で聞いたような物言いに、ソニアは訝しげに眉を寄せた。てっきりあの後、ミリアはノエルと共にノアニール村に留まったものだと考えていたからだ。
 当惑するソニアの言いたい事を察したのか、ミリアはゆっくりと頭を振る。
「……あの子が新しい環境に溶け込んで、確かな自分の居場所を作る事ができるまで、私は側に居ては駄目なのよ。多分私が近くにいれば、過去に拘束してノエルの世界を狭めてしまう。それに、ライトエルフの連中からしてみれば私は永遠に厄介者だから」
 その影に隠れた悲愴の表情を前にすれば、ミリアの決意に共感と悲哀を覚えずにはいられない。ソニアは思う事があったのか、目を細めてミリアを見つめた。
「ミリア……変わったね」
 上手く言葉に言い表せる事ができないが、とてもミリアは輝いて見えた。その心身を縛して離さなかった過去の鎖を振り払う…いや、乗り越えて前に歩み進もうとする姿勢が、今のソニアにとってどれほど輝かしい事か。眩すぎて直視できない程にミリアの在りようと、その意志は燦然としていた。
 そんなソニアの敬念の視線が鬱陶しくなったのか、或いは単に気恥ずかしくなったのかミリアは眉を顰めて肩を竦める。
「そんな事ないわ……ただ」
「ただ?」
「周りのものを視界に留めれるだけの余裕ができたって事なのかしらね」
 膝の上で杖を持ち、厳かにある女神に視線を落とす。無機質な青白色の女神の眦は、感情という不確かなものを排した公平な相貌でミリアを射抜いていた。その超然とした視線を前にミリアの独白は続く。
「里に居たくないから。世界を見たいからって理由でオルテガとノエルと一緒に旅をしたわ。確かに世界は広がって、良くも悪くも色鮮やかなものになったけど、それは外観から受ける印象だけ。裡に秘められた物事の本質に触れるには決して至らなかった。……当然よね、世界が私を拒絶していたんじゃ無くて、私が世界を拒絶していたんだもの」
 杖の柄を掴む両手に力が篭る。ミリアは小さく息を吸い込んだ。
「瞼の裏に残ったあの瞬間を忘れる日なんて無かった。だから、死んで赦されるならそれでもいい、ってずっと考えていたわ。だけど……それはただ罪の呵責から逃げているに過ぎない、って本当に今更だけどわかったの」
「…………」
「私には、世界樹に還ったアンやスルーアの為にもノエルが立派に成長した姿を見届ける義務がある。他人に一方的に与えられた義務なんて真っ平ご免だけど、これは私が私自身に課した責務。だから今、私はこうして生を全うする事にしているわ。あの時。泣いていたノエルの声が、全てを投げ出そうとしていた私の眼を醒ませてくれた。……無論、あなたたちにも一応の感謝はしていなくもなくてよ」
 素直に感謝している、と言えないところが何とも彼女らしい。真面目な話をしているのだが、ソニアは思わず笑みを浮かべそうになる。だが僅かにその自制が足りなかった所為か、面に浮かんでしまっているソニアの笑みを見て、ミリアは露骨に顔を歪ませた。
「ともあれっ! ノアニールの件の後、私はガルナの塔に戻って修行を再開したんだけど、ジュダ…私の師に余計な仕事を押し付けられてね。それでこんなクソ暑い所に来ているの」
 明後日の方向に顔を背けながら息を巻いて綴られたミリアの言…特に出てきた名に思わずソニアは固唾を呑む。
 ガルナという単語と共に連ねられたジュダという名前。それらが連想させる存在は世界で唯一。母や尊敬するバウルも含めた十三賢人の筆頭大賢者、“魔呪大帝”。あらゆる魔法学はおろか、世界史にさえも度々その名を連ねている、人の領域を遙かに超越した存在。“魔呪大帝”を除いた十三賢人の面々は、須らく彼に師事を受けているとされる。その点からすると、ミリアは十三賢人と同格の存在という事だ。
 それを解して急にこみ上げて来る畏れを表出させないように、ソニアは慎重に返した。
「ミリアがイシスにいるのは“魔呪大帝”様の命で……」
「ええ。……口の減らないガキの子守りよ」
「こ、子守り!?」
 稀代の大賢者から賜った任務がどれほど崇高なものなのかと思えば、ミリアの口から吐かれたのは酷く人間的な事。話題に出た口の減らないガキが誰かとは口にしないが、その本人が聞けば間違いなく機嫌を悪くするだろう。
 全くの遠慮ないミリアの決然とした発言に、誰の事を指しているのか見当もつかないソニアは、ただ首を傾げるほか無い。だがその泡沫の疑問も、言い始めたミリアによって中断される。
「まあ、私の事はもういいわ。そんな事よりもソニア……。私もあなたに訊きたい事があったの」
「何?」
 パチリと眼を瞬かせるソニアに向けられるミリアの視線は今までとは打って変わって、酷く冷め切っていた。
「あなたは、本当にユリウスの仲間として行動を共にしているのかしら?」
「っ!」
 思いも寄らない質問に、胸を抉られる感覚を覚えたソニアは大きく眼を見開き、息を呑み込んだ。その様子がミリアの疑念を確かなものへと誘う。
「ノアニールの時は私も余裕が無かったから気にも留めなかったけど、今こうして改めて思い返すと私には、あなたがユリウスに対して深い溝を作っているように思えるわ。……今のあなたを見て確信できたわ」
「…………」
 強い藍青の視線を受け止めきれずに、ソニアは俯く。そんなソニアにミリアはかぶせ言った。
「何故ユリウスは、あなたに憎み呪い、殺せと言うの? あなたの姉という存在が、深く関わっているの?」
「な、なんで……その事をッ」
 弾かれたように顔を上げ、ソニアは眸を潤ませる。
 その話を最後にしたのは確かにノアニールの村だった。あの静寂の地でユリウスに投げ付け、返ってきた言葉と意志が、脳裡に甦ってくる。そして事もあろうか、その一部始終を誰かに聞かれていた事に視界が真っ暗になる思いだった。
「この耳は飾りじゃなくてよ」
 何故聞かれたか、表情で物語るソニアの疑問に答えるべく、ミリアは小さくフードを持ち上げる。髪と布地に覆われた暗がりの中で、尖った耳がピクリと小さく動いた。それにソニアは更に眼を大きくして愕然とする。
(聞かれていた……。誰にも言っていない、知られていない事なのに……)
 次々と良くない暗澹へと向かう思考が浮かんでくる。自分の裡にしまっておこうとしていた黒の汚泥が、白日に晒されるのではないかという恐怖が浮かび上がってくる。
 凍えるソニアの心情を無視して、ミリアは宣告した。
「あなたはユリウスに言った。どうして他人を拒絶するのか、って。どうして誰にも心を開かないのかって……だけどあなたが一番にユリウスを拒絶し、遠ざけているのではなくて?」
 その言の葉はとても強くソニアの胸を貫いていた。下唇を噛み締めたソニアは継ぐべき言葉を見失い、震える身体と掻き乱された意識は混迷の渦に陥っていった。








 窓の外から入る陽射し遮る為に、厚手のカーテンが閉められた会議室。
 つい先程までここで、イシスの将達が今後この戦争で自分達がどう立ち回るかを定める行動指針を立てていたのだが、今はもう終決しこの場には二人の人影しかいない。
 先刻までの議論の白熱が余韻として残っているのか室内の空気は篭り、蒸し暑くさえある。ならば窓を開け放って換気するべきなのだが、場所の性質上それは叶わない事だ。
 カーテン同士の隙間から、眼下の修練場で一定のリズムで剣を振るう大勢の姿が見る事ができる。だが彼らの放つ喚声がこの部屋に届く事は決してない。それこそがこの会議室の特殊性。重要な決め事を議論する場の機密性を高める為に、会議室という限定空間内の音を外部に漏らさぬよう、部屋を密閉した上で特殊な魔方陣によって完全に遮断しているからだ。陣の基になっているのは外部からの物理的干渉作用を極限まで緩和する魔法トラマナであり、それを応用して音だけを選択的に遮蔽する事で情報漏洩を防いでいた。
 このイシスという国には、様々な用途において陣式の魔法操術が用いられていた。それはこの砂漠という大気中に満ちているマナが極端に少ない条件下で、それを補完する為に代々培われてきた、いわば築き上げられるべくして建立された魔法文化といえよう。
 飾り気の無い部屋の石壁に描かれた何の変哲も無い紋様を、無感動に二つある人影の片方は眺めていた。するとカーテンの隙間から外を窺っていたもう片方の、小柄な人影が振り向く。
「すみませんね。わざわざご足労頂いて」
 それは少年の声だった。だがその口調は、声色に似つかわしくない程に丁寧なもの。その二つの要素が声の主の、何者にも臆する事の無い不敵な気構えを体現していた。
 石造りの部屋の中を明朗に反響する声を背で受け止め、壁の紋様を見上げていたもう一つの影が踵を返した。
「構わない。俺もお前に用があった」
 声を掛けられた方の影が、感情による起伏が極めて乏しい声調で返事をすると、壁に触れていた手を外しそのまま部屋の中央にある円卓に歩み寄った。
 コツコツと床を蹴る小気味良い音だけが部屋を支配する中。小柄な影の方も続いて円卓に近寄ろうと足を踏み出したが、不意に一つ大きなクシャミをしてしまった。距離はあったものの、その直射上の位置に佇んでいた他方の人影は暗がりの中でさえ判るように怪訝に眉を寄せる。それに慌てて小さな影は取り繕った。
「失礼。……では改めまして、お久しぶりです。次代…いえ、今は正式に襲名されたんでしたね、“アリアハンの勇者”」
「……不本意極まりないが、そういう事になるな。“焔の申し子”」
 交錯する二つの視線。薄闇を縫って互いを捉えたそれらは、やがてこの闇色の簾にも慣れて、それぞれの顔がはっきりと判別できるようになる。
 小柄な影の方の人物は、焔のように煌く朱紅の髪と、あどけなさを残した大きな紅蓮の眸。少年としか言いようの無い容姿であるが、年齢にそぐわない落ち着いた雰囲気を纏う事によって深慮遠謀を携える智者である事を物語っている。
 そしてもう片方の影は、夜よりも深い漆黒の髪と、闇よりも濃い昏さを浮かべる黒曜の双眸。青年期に足を踏み入れかけている姿も、無感情の冷然とした気配と絡み合って清冽なまでに無慈悲で、鋭利な刃のような印象を与えていた。
 互いが互いの表情を目視できるようになったのを見計らって、朱紅髪の少年は唇を尖らせた。
「ユリウスさん。その呼称……僕にとっては余り心地良い物ではないです」
「それはお互い様だ。言い始めたのはそちらだろう、スルトマグナ=ベニヤミン」
 嘆息交じりに抑揚無く綴り肩を竦める黒髪の人物…ユリウスを前に、それもそうですね、と朱紅髪の少年…スルトマグナは笑った。

「海戦から数えて実に一年振りという事になりますか。時の流れとは思い馳せるのには長く、思い返すのは早いものですね。光陰矢の如し、とは良く言ったものです」
「……別に、どうでもいい」
 円卓の両極に座り、二人は手短に言葉を交わす。
 この再会に感慨を覚えているスルトマグナと、そんな少年を無感動で一瞥するユリウス。対照的な二人であったが、彼らは魔王麾下の魔物が軍として人間との雌雄を決する為に起こした戦争に、歳若いながらも参加し、終には人間側を勝利に導いた立役者である。
 そしてその事実と実績より、二人は現在戦争中のイシスという国において是が非でも欲しい存在となる。例えそこを護る兵達にとって招かれざる者であっても、国家存亡の為にイシス政府は“アリアハンの勇者”、そして“焔の申し子”といった若輩の彼らを客員として重用視しているのである。
 素っ気無いユリウスのそれに特に気を悪くしたでもないスルトマグナは、話を進める為にコホンと一つ咳払いをして、これまでの流れを断った。
「取りあえず、僕の方の用は後で良いので、先にユリウスさんの用件をお伺いします」
「お前に訊きたい事があった」
 間を置かずに淡々と告げるユリウスに、スルトマグナは紅蓮の眸を細め、そこに怜悧な輝きを燈す。
「僕に訊きたい事、ですか? ……確かあなたは“智導師”様が所有する悟りの書の写本をその知識の源泉としていましたね。そんなあなたに僕が答えられる事は限られてきますよ」
 口早に綴るスルトマグナに、ユリウスは眼を瞠った。それ程公言していないにも関わらず、自分の拠り所にしている情報源の事を、アリアハンから遙かに遠いダーマの人間が知っていたからだ。だが同時にユリウスは納得する。賢者認定を受けている者の研究成果、或いはそれに組する種々雑他の情報…それらの利権は最終的にダーマ神殿、ガルナの塔に帰属する。故に全てではないだろうが自分と、その周辺の情報もダーマ側には筒抜けなのだろう。
 だが、その事を特にユリウスは言及する気など微塵も無かった。ただ現実の一環として捉え、認識するだけで充分だったからだ。
「俺の知識は所詮、他人が読んでいる書物を横から盗み見ているに過ぎない。“魔”を御する術に関しての研究は、どの国家よりもダーマ神殿に一日の長がある。ならばそこに住み、抜きん出た者に訊くのが最も的確だろう。違うか?」
「……わかりました。それで、何を訊きたいんです?」
 無感情ゆえの圧迫感に降参したのか、スルトマグナは深く溜息を吐く。
「魔物とは…“魔”に変異した存在。その“魔”とは……魔法学で言う所の負と陰のマナ。マナを解し、世界の理に則ってそれを御する術が魔法ならば……」
 促されたユリウスは、暫し双眸を伏せ口腔内で小さく呟く。それはスルトマグナに聞こえる事は無かったが、俯いたその様は、これから放つ言葉を形にするか逡巡しているようにも見える。
 ユリウスらしからぬ行動ではあったが、スルトマグナはその思惟の行方を邪魔しないように沈黙で待った。



 静寂の時間はそれ程長くは続かなかった。
 自らの裡で組み上げた意思の下に、ゆっくりとユリウスは瞼を上げる。
「……魔族になる術を、教えてくれ」
 鏡の如く練磨されたユリウスの漆黒の眸には一点の曇りもなく、ただ冷厳にスルトマグナに向けられていた。




back  top  next