――――第五章
      第四話 太陽の王国







 聖王国イシス。
 それは南大陸北部の広大な土地を有し、それだけには留まらず陸で連なる北、中央大陸に跨ってその国土の版図を拡げている大国の名である。
 イシスという国家共同体が歩んできた歴史は、近隣諸国はおろか現存・・しているどの国家よりも古く長久である為に、しばしば最古の人間国家と誉め称えられる事もあり、それ故に周辺諸国に対して強力な発言権と影響力を持っていた。
 その国土の大半は、砂漠という人間を始めとするあらゆる生命が生を営むのには過酷な環境であるが、それでも…いやそれだけに数多の生命の生きようとする根源的な意志はつよく、知恵であれ、本能であれ往々が取り得る手段を用い環境に適応して、それぞれの歩幅で歩んでいた。

 世界そのものが刻んできた悠久の時に比べれば、人間の歴史など灯火が風に揺られ一際強く輝く一刹那の間に過ぎない。だが、その儚さ故に世界に遺す傷跡も深く大きい。
 聖王国イシスの原型となった共同体の興りは、今から凡そ四千年前…現在では枯渇して地図上からは消えてしまった、この砂漠地帯を縦断するように流れていた大河の辺だと云われている。
 当時からこの地は砂に満たされてはいたが現在ほど広域に砂漠化は進行しておらず、流れていた大河は多大な恩恵を生命に齎していた。河川の辺には深緑の自然が芽吹き、農耕や牧畜が盛んに行われ数多の生命の潤いを育んだ。また、大河から離れた砂礫の大地にさえ、点々と多くのオアシスが沸いては炎天下の死地に活潤を与える。そこに人や動物が群がり、そこを拠点として小さな共同体を築き上げ、独自の生活を作り上げるようになっていた。
 だが磐石かと思われた歯車も、小さな歪によって全てが瓦解してしまう事があるように、そうした自然の恩恵は恒久に続くものではなかった。
 時と共に緩やかにではあったが確実に枯渇するオアシス群。その数に比例して依存していた生物の活動範囲は狭まり、オアシス一つに対しての生物の密集度が高くなる。一つ所に生物が多くなれば当然生命線である水や食料の需要は高まり、水源は急速な枯渇の途を辿らざるを得なくなる。それに追随を掛けるように、水を得ようと屯する生物同士での血で血を洗う搾取、淘汰……終局的には死に繋がる悪循環だった。
 だがそれも自然の摂理に縛られた生命である以上は避けられない事。そう自らに言い聞かせ受容れる事が出来たのならば、それは穏やか亡びだったのだろう。しかし、人間は感情の有る生き物。限られたものしかないと解れば、我欲のままにそれを独占し、他との優位を競い合うようになる。この砂漠において最も他者との優劣を自覚できる認識対象だったのは、言うまでも無く生命線であるオアシスだった。
 目に見える物質的な豊かさは否応無しに貧富を生み、貧富の格差は他者に対しての妬み、嫉み、そして憎しみを育む。やがて肥大した憎悪はやがて刃という器と利用する術を見出して、破壊と殺戮といった手段に変化していった―――。




 それが、イシス大砂漠暗黒時代…後世、“死宵の砂漠”と呼ばれる時代の幕開けとなる。




 砂漠の中で唯一絶対のものは力。そして、その力ある強き者による弱き者の淘汰が続いて幾久しい。
 潰える事の無い戦火の中で、一体どれだけの血が灼けた砂に染み込んで行っただろうか。争いの度に黄砂は紅蓮に染まり、乾ききっては風に流されて何事も無く空虚な砂礫に回帰する。それを嘆く涙すら果てたのか、砂漠に数多あったオアシスの殆どがその姿を失せ、この地の大動脈とも言える大河は刻々と確実に砂に埋もれていた。
 生と死と、前進と後退を繰り返し、砂漠に住む生命達は空ろな滅亡にへと向かっていく。何時しか“死宵の砂漠”と呼ばれ恐れられるようになるのも自然の流れというものだろう。
 だが常に死の影が蠢いていた砂漠に奇跡が起きる。太陽の如きに眩い四条の光が天より砂漠に舞い降りたのだ。
 一つは蔓延る邪悪を必滅する雄々しい煌き。
 一つは惑い彷徨える魂を導く優しい温もり。
 一つは傷付き廃れし霊を癒す涼しい安らぎ。
 一つは縛られし魂を解き放つ神々しい輝き。
 それら四つの光芒は地に生きていた一人の人間を包み込み、光に包まれた人間は絶対なる力を得る事になった。
 誰が敬い始めたのかは定かではないが、当時より常に変わらず天に在る存在として崇められていた神、太陽神ラー。その神座たる天より降臨した四条の光は、悲嘆に塗れていた地上に齎されたラーの慈悲なる救いの手とされたのだ。
 太陽神ラーの四条の加護を得た人間は、同時に授かったとされる数々の秘術を用いて、この砂礫の大地に次々と奇跡を起こし存在意義を塗り替える。
 死と渇きの砂漠であったこの地に、尽きる事の無い水に満ち溢れたオアシスを幾つも産み出し、蔓延する疫病や悪霊を払い、殺戮と淘汰を止めない蛮族達を制圧し、混迷の世を平定して砂漠を安寧の色に塗り替える。
 それは腐界を浄化し、新たなる世を新生させる救世主の誕生だった。
 砂漠の救世主は広大な砂漠に散っていた人々を一堂に集める。そして集められた人々を結束させ意思を束ね、そこを理想郷とするべく志を持って国を興し、初代国王となった。

 女神ラーの寵を受け救世主となった人間の名は、ファラオ。そして救世主が築いた王国の名は、イシス。

 彼は自らに力を与えた太陽神ラーを信仰し、国教と定める。そして自らラー神の声を聞き信託を受ける代弁者となって民を統治し、砂漠の奥地に平和の世を齎さんと奔走する。
 時と砂に埋もれ往く大河の辺から、自らの奇跡で生み出した最大のオアシスの辺に遷都し、国内の主だった膿を次々と削ぎ落とす。やがて楽園と他に称されるまでに穏やかな安寧を手に入れた王国は、空前の発展を遂げて世界にその名を轟かせる事になった。
 何時しか王は主たる太陽神と同一視されるようになり、生き神となったファラオの治世は長久に続いていた。彼の治世の時に、人間世界で最も歴史有る王国…現在の聖王国イシスの礎が築かれたのだ。
 晩年、自らの死期を予言していた彼は、自身が悠久の時の渦中に身を委ね、安らかな眠りに就く為の寝所として王墓ピラミッドの建造を執り行う。そしてイシス開闢から数十年の時を経て、ラーの化身である太陽王は永遠の眠りに就いたという……。だがそれは死という終幕ではなく、光に導かれ光と共に歩んできた彼が、その光へと至る路を歩みだした始まりとして、ラー教の信者達には信じられている。
 それ以来、彼の教義において、入寂は神の世界に還る為の儀式。そして王墓ピラミッドとは死せる王が天へと昇り太陽と一体化し、神の霊列に参列する為の天導器として幾つも造られるようになった。




 以降、聖王国イシスは太陽神ラーに護られ、人と人が寄り合い生活する場としては現在まで存続している世界最古の、最初の人間国家としてその存在を世界に知らしめ続けている。
 王墓ピラミッドもまた、王と、死してなお王に付き従った従者達と共に埋葬された数多の宝物の眠る古代遺跡の一つとして盗賊達の魅惑の的となっていった―――。






「っと言うのが大まかなイシス建国の歴史じゃな」
 意気揚々とイシスが刻んできた歴史を語っていたアズサは唐突に立ち止まり、街路のど真ん中で振り返る。その行動は後続の人間にも、街を往く他の人間にとっても迷惑なものだったが、誰一人としてそれを咎める者はいない。歴史を語っている時のアズサの表情がとても楽しげで、何処か誇らしげでさえあったからだ。その様子から、一目で彼女がこの国に対して深い思い入れを胸中に抱いている事が窺える。
 そんなアズサを微笑ましげな眼差しで見つめる幾つもの視線の中。彼女の胸中と周囲の和やかな雰囲気を裂帛する酷く場違いな眼差しがあった。
「何の独創性も無いありふれた話だ。下らない……聞き止める価値も無かったな」
「まぁ、国が興るきっかけなんて往々にしてそんなものさ。開祖源流たる王の血筋を尊いものとする為に、否応無しに困難を打破したという偉業を背負わされる……混迷を平定する事、混沌から秩序への転機。きっとそういった時が、最も人間の求心力が高まる時なんだろう」
「……どうでもいい」
 無感情に抑揚無く吐き棄てるのはユリウス。冷静な傍観者の口調で評するのはヒイロ。二人は口裏を合わせたでも無しに、口々に冷酷に告げている……そんな無遠慮な二人の言葉は、周囲の興を思いっきり削ぐ事になった。
「……おぬしら、言いたい放題じゃな」
 山頂から谷底に叩き落されたような気分なのか、ジト眼で二人を睨みながらアズサは呟く。その声色も低く掠れ、眉間に深く刻まれた皺と引き攣るこめかみからは、込み上げる怒りの感情の吐露を必死に抑え込んでいるのが良く解る。
 周囲がアズサの怒りの形相にどうしたものかと沈黙する中。アズサの声が聞こえていないのか、敢えて聞こえていない振りをしているのか非常に微妙な様子のヒイロが仲間達を見渡した。
「砂漠ができる原因を知っている?」
 誰に対してでもないヒイロの問い掛けを、きっと悪気は無いのだろうと汲み取ったソニアが拾う。
「ええ。通説では気候の変遷によって影響を受ける環境の変化の一環…という事よね」
「うん。まぁ、それは地質物理学、風水学的な意味では正しい。だけど、それだけじゃ無いんだ」
「そういえば……、砂漠の発生について魔法学の見地からもアプローチしている論文を読んだ事があるわ。あれは確か――」
 細い顎を摘むように口元に手を添え、考え込む仕草でソニアはやや俯く。が、記憶の走査が完結する前にユリウスの声が遮った。
「砂漠は、大地に秘められたマナの消滅…世界樹の根とも比喩されるマナの流脈レイラインの消失によって生れる。……つまり、大地の砂漠化とマナの枯渇現象はほぼ同一の事象と考えても良いだろう。それ故に砂漠とは、魔法学において“屍の生地”とも呼ばれている」
 双眸を伏せたまま、書を読み綴る如く澱みなく言うユリウスに一同は視線を集めた。その幾つもの視線の中には、最近めっぽう口数が減っている彼が珍しく周囲の言葉に反応した事への驚きも含まれているのだろう。
 そんな種々雑多の視線を受けたまま、ユリウスはそれらを微塵も気にする事無く平然と続けた。
「だがマナの性質上、局所で急速に減少するなどと言う事象は有り得ない。世界を満たし流れ蕩揺うマナは逐次的に過不足無く、常時均一に充たされていく性質があるからだ。しかし、その絶対たるマナの流れを人為的に乱す行為が少なからずある。それは――」
「魔法と特殊技能……つまるところ霊素エーテル元素フォースの収束、或いは開放だね」
 休みなく語り続けていた為だろうか、一旦ユリウスが言葉を溜めて息を吸い込むも、今度は横からヒイロが掬った。
 先手を取られたユリウスが開眼しヒイロを見やると、彼は人の悪い笑みを浮かべていた。が、それを特に意に介した様子も無く、そうだ、と頷きながらユリウスは淡々と続ける。
「マナを収束し、事象化した結果として起こる現象こそが世界を歪ませる原因。……もっとも人間程度の存在が、こんな砂漠を作り出すだけのマナを消費できる筈も無い。遥か昔に規格外の大規模な魔法的儀式によってこうなった、と考える方がまだ信憑性がある」
「確かにイシスは古くから陣式の魔法操術に秀でている国家だから、その可能性もあるけど……って、その口振りからすると、君はさっきの建国論はまるで信じていないのかい?」
「愚問だな。為政者の権威を誇示す為に捏造された歴史など、信じるに値しない。ましてやそこに宗教が絡んでいるのならば、目も当てられない」
 多分に偏見交じりで、余りに無感情で発せられたユリウスらしい応えに、ヒイロは失笑を禁じえなかった。
 本人達だけの間で話を展開し終結させる男二人に、太陽神ラー教においても貴い地位である“剣姫”のアズサがまなじりを吊り上げて叫んだ。
「き、貴様ら……揃いも揃って、そこまで我が国を愚弄するかっ! 貴様らには愛国心が無いのか!?」
 憤怒の余りに猛然と全身から漲る闘気フォースを放散させるアズサ。その烈々たる剣幕と圧迫感に周囲は押し黙るも、彼女の逆鱗に触れたユリウスとヒイロは至って普通だった。
「無意味な問だ。答える価値も無い」
 無感動、無表情に抑揚無く綴るユリウス。その無色な姿はアズサの問に対しての明らかな肯定と取れるだろう。
「俺の場合、何処が故国なのかわからないから、実感が持てないんだよなぁ……」
 空を見上げながら遠い眼をするヒイロ。どこか飄々とした雰囲気を纏っている所を見ると彼も同じなのだろう。
「くっ……く、くくく……そうか、貴様らはそれ程までに成敗されたいんじゃなっ」
 二人の余りに酷薄な様子に、地の底から重く響くような声で呟き、幽鬼の如く昏い光を双眸に宿しながら微笑むアズサはスラリと腰に佩いてあった滅邪の剣ゾンビキラーを引き抜く。が、それを構えるよりも早くミコトが激昂するアズサを後ろから羽交い絞めにして、それ以上の行動を封鎖した。
「待てアズサ落ち着けっ!」
「放せミコトっ、止めてくれるな! こやつら不敬罪とか諸々の罪で引っ立ててやる!」
「取りあえず氣は抑えろ! 街中だぞここはっ!!」
 拘束を解くようにジタバタするアズサと、それを抑えんと必死になるミコト。瓜二つな二人のそんなやり取りを、極めて無関心に眺めていた当事者であるユリウスは肩を竦め、深々と溜息を吐く。
「……まったく、往来の只中で迷惑な女だな」
「!」
 ピシリと石化したように身体を硬直させるアズサ。ミコト側からその表情を覗う事は出来なかったが、恐らくアズサの表情は今、激怒に歪んでいるのだろうと思う。
 剣士として非常に優れた彼女を抑えきれるかという懸念が背筋に冷や汗を垂らさせ、自然と両腕に更なる力を篭めながら、ユリウスを睨んだ。
「ユリウス! お前も煽るんじゃないっ!!」
「事実を言ったまでだ」
 咎めるミコトに、ユリウスは心底億劫そうに肩を竦めた。




 砂漠の秘地。聖都イシスに到着して、“砂漠の薔薇”と謳われる美貌の女王ネフェルテウスとの謁見の儀を果たしたユリウス一行は、その晩をイシス宮殿で過ごした。砂漠の旅路で蓄積した疲労は、その道程よりも気候の寒暖の差による処が予想以上に大きかったのか、謁見の儀の前に得た小休止程度では癒せる筈もなく。謁見の後に、一行は貪るように深く深く眠りに就いていた。
 そして明くる日。
 女王の側近である砂漠の双姫“剣姫”アズサ=レティーナが疲れの翳りを少しも見せない様相で、イシスに協力する事となったユリウス達に聖都を案内すると言ってきたのだ。
 戦端に加わる以上、拠点たるこの地の事を把握しておく必要性がある事は確か。そんな考えから一行はアズサの申し出を了承し、丁度宮殿を訪れていた…聖都到着時より別行動をとっていたサクヤを伴って城下街に繰り出したのだった。




「おい」
「……何じゃ」
 どこか憮然としたユリウスの単調な声に、一行の先頭を歩いていたアズサは立ち止まる。先程の応酬が未だ尾を引いているのか、振り返るその表情は険しく視線は冷やか。それは間違いなく先程のやり取りが起因していた。

――あの後。遂に堪忍袋の緒が切れたアズサが、僧侶であるソニアを掴まえてユリウスやヒイロに向けて即死魔法ザキを放て、と息を捲いて喚き散らしていたが、精霊神ルビス教の教義で禁忌とされ習得さえ禁じられている為に使えない、とソニアは律儀に説明をして拒み続ける。だがそれを知らされても納得せず、憤怒が収まりきらないアズサは、同じ僧侶を職とするサクヤに矛先を移すも、サクヤによってほぼ強制的に黙らされる結果となった。
 モーニングスターの柄で頭部を強打するという痛快な力技でサクヤはアズサを沈黙させたが、一国の貴い立場にある“剣姫”に対しての行動ではない、とミコトはサクヤを諌めた。が、公衆道徳を疎かにする人間は敬うに値しない、との反論に逆に閉口してしまう。ちなみにミコトはその時のサクヤの羅刹染みた綺麗な笑顔を前に、全身を小刻みに震わせてただ頷いたのだが、それは故郷に居た時にサクヤから受けたお仕置き・・・・を思い出して恐怖が甦ったからである。
 何はともあれ、その時以降冷静さを取り戻したアズサはサクヤの眼を気にしながらも、聖都を案内する為に先頭を歩き、後に続く者達を導いていた。そんな中、ユリウスに呼び止められたのだ――。

 再び言い争い…殆どアズサからの一方的なものを繰り返すのか、という緊迫した空気が周囲の者達の間を流れる中。だがそんな事を気にするユリウスではなかった。
「この街の構造は概ね把握した。これ以上散策にかまけて時間を無駄にするのは惜しい。ここで失礼させて貰う」
 唐突な申し出にアズサは呆気に取られ、先刻の確執も忘れて間の抜けた声を上げてしまった。
「は? 無駄って……おぬし、何処へ行くつもりじゃ? まだ案内していない場所が沢山あるのじゃぞ。それに一応、おぬしらもイシス軍の一角に特別編入されておるから、こちらの指示には従って貰う事になっておる。勝手な行動は謹め」
「戦略上重要な拠点を視察すると言うから着いて来てみれば……行楽気分で観光など、俺にとっては何の価値も無い。そんな事に興じて時を無為に過ごす位ならば、鍛錬に当てた方が遥かに有意義だ。丁度先程、人通りのない開けた場所をオアシスの辺に見つけたからな。そちらに行かせて貰う」
 アズサの言葉は正論ではあったが、返すユリウスの言の方が尤もだった。
 現実に今までアズサに先導されるがまま案内された所は、武器防具や道具、はたまた名産品を売っている商店街。人々の憩いの広場である公園や、宿屋が軒を連ねる宿場街。更に言うなれば娯楽施設などもあった。人間味溢れる生活感に満たされたそのどれもが、戦略拠点という観点からは遠く離れた場所だったからだ。
 何処か痛烈なユリウスの指摘に言葉を詰まらせるアズサ。それはユリウスの言う通りだったからに他ならない。
 こんな事になったのは偏に、アズサの中にイシスという地を仲間に知って貰いたいという心が有ったが為だ。そんな内心を自認し、容認するのは彼女もまだ普通の少女である事に変わりは無いという事だろう。だが、先程散々苦渋を舐めさせられたユリウスの言を額面通りに認めるのは釈然とせず、好しとしていなかったアズサは胡乱な視線を半眼で放ちながらユリウスを射抜く。
「……おぬし、修行馬鹿じゃろ」
「馬鹿呼ばわりは心外だが、生憎と俺はそれしか時間の過ごし方など知らないし、知る必要も無い事だ」
「寂しい奴じゃな」
 皮肉のつもりだったのだが、それさえも気に止めず肯定するユリウスに、アズサは思わず哀れんだ視線を送ってしまう。
 ユリウスはそんなアズサを鬱陶しそうに一瞥して、大きく肩を竦めて踵を返した。
「作戦行動を起こす時に呼んでくれ。協力すると言った以上、敵を殺戮する事に関しては俺も手間は惜しまない」
「そう気張るでないわ。ここが戦火に塗れる事は無かろう。聖都を含む外郭楽園は聖護の結界に守られておる。それを張っているのは他ならぬ“魔姫ユラ”じゃからな。安心して良い、私が保障する」
 親友の能力に絶対の信頼を置いているのか、暢達にアズサは答える。それにユリウスは酷く冷めた視線を送りながら嘲笑った。
「はっ……呆れたな。敵を討つ先駆者の“剣姫”であるお前がそんな気構えでは、この国も長くない」
「何じゃとっ!?」
 嘲笑と共に発せられたユリウスの言葉に、アズサは双眸に剣呑な光を宿した。だがそれは無理からぬ事だろう。
 アズサは故郷であるこの国を大切にしている。それは先程のやり取りから誰にとっても明らかな事だ。そして今、その故郷を守護しているのが敬うべき親友の働きによるもの。だがユリウスの下した発言は、ことごとく彼女の想いを踏み躙ったのだ。裡に秘めた大切なものを貶された時、怒りを覚えるのは至って当然な反応だと言える。
 憤然とする余り顔を紅潮させているアズサに感化されたのか、周囲からも幾つか批難の視線を浴びせられるも、ユリウスはそれらを纏めて一蹴した。
「戦時中である以上、どんな些細な事にさえ常に気を張っておいても足りない位だというのに……つくづく甘い連中だ。戦において最も警戒すべき敵は、己が裡に潜んでいる弛緩しきった油断と知るべきだな。……忠告しておく。魔王軍は牙を向けるだけしか能の無い野生の魔物と違い、人間の信じようとしない現実を容赦なく狡猾に突いてくる。安全だと思い胡座を掻いた場所こそ、最も陥落しやすい場所だ」
「……っ」
 恐ろしく冷然と放たれる言葉。ユリウスが言うだけでそれは生々しい現実味を得るようだった。返す事が出来ないアズサや周囲を無感情に一瞥して、ユリウスは颯爽と一同の輪から外れていった。




「…………」
 ユリウスが立ち去って暫く。アズサは下唇を噛み締めたまま絶句し、言葉を紡ぐ事ができなかった。良かれと思ってした事を徹底して否定され、煮え切らない感情に拳に力が過剰に入って打ち震えている。
「何故、あやつはっ……」
 アズサはそれ以上言葉にする事ができなかった。口にしてしまえば随分と楽になれたが、それを形にしてしまうと築いた何かが崩れ去ってしまうと直感したからだ。その為中途半端な感情の表出が、身体を戦慄かせる事になってしまった。
 そんな彼女の後姿を見て、他の面々も何と声を掛けるべきか判らず、ただ黙するだけ。沈鬱な空気が流れる中、それに侵食されるがままなのを見かねたヒイロが、気を遣ってかアズサの肩に軽く手を置いた。
「まぁ落ち着いて。実際、彼は魔王軍との戦争を体験している訳だから、その言葉は気に留めておく価値はある」
「そういう問題では無かろうっ!」
 慟哭するアズサに、やれやれ、と嘆息したヒイロは、後頭部を帽子の上から掻きながら冷静に言う。
「別にユリウスの肩を持つという訳じゃないけど……アズサ。君は戦争の経験はある? その敵が魔物であれ、人間であれ」
「……無い」
「だろうね。でなければそんなに油断・・してはいられないか」
「お主も私を侮るかっ!?」
 油断という言葉に反応し、震えを必死に抑え込んでいる切迫した声を漏らしながら、振り返るアズサ。
 様々な情思が止め処なく溢れているのか、潤んだ双眸で毅然と睨んでくる彼女にヒイロは、違うよ、と慌てて手を振って否定する。
「君を侮辱なんてしていないさ。今の世の中、君の世代で戦争を経験している人間の方が珍しい。サマンオサ帝国は例外としても、ここ数十年、世界で人間同士の大規模な戦争は起きていないからね。ましてや、魔物との戦争など魔王降臨時以降、殆ど起きていないのが現状だ。……英雄という希望の旗頭を失った人間達の大勢は、争い合いにすらならず一方的に蹂躙されて今に至っている。一般的…とは言い難いけどそれでも認知されている大規模な戦端といえば、アリアハン―ランシール領海域戦争ぐらいなもの。『勇者』の名を以って反魔王軍を掲げるアリアハンと違って、イシスここにそれを求めるのは少し酷と言うものか」
「ヒイロ?」
 ヒイロの言葉を聞きながら得体の知れない違和感を覚えたソニアは、首を傾げてその名を呼ぶ。ミコトやサクヤも怪訝に視線をヒイロに集めている事から、ソニアの勘違いではないだろう。
 それら怪訝な視線を集めようとも、ヒイロは流暢に続けていた。
「人間同士の戦争と違って、魔物とのそれの恐ろしい所は人間の普遍常識を容易に覆してくるという事にある。人間が相手であるのならば、ある程度は行動も推測できるだろう? だけど魔物にそれは通じない。魔王軍に所属する魔物と野生のそれらとの決定的な違いは、前者には生存本能による自己保存の概念が無いという事。何故なら魔王軍の軍勢を指揮する司令官階級にある上級魔族の指示に逆らうという事は、自らの存在の消滅…死を意味する。それを理性ではなく本能で解し、魂魄の髄にまで染み込まされ納得しているから。だからこそそれらの行動には常に一切の思慮は無く、一死百殺の気概で自らを省みる事など決して無い。……その揺らがなさに抗するのは、人間には耐え難いものだと思う。第一に己や、己にとっての大切な存在を意識し、どんな行動にも感情と思考が孕んで制限される…揺らぐ隙間のある人間・・にはね」
 訥々と語るヒイロの琥珀の双眸は、温かい色彩に反して至極冷たい光を反してした。それは何処か人を遙かな高みから見下ろしている人ならざる者の視点…晴れ渡った夜空に浮かぶ冷白の満月を思わせた。
 普段らしからぬ言い回しは、ミコトの好まない類のものだったので、自然と視線が厳しくなる。
「……お前」
「無論物量も桁違いだ。獣ゆえの野生に従って群れを成す搾取行動は、時として理性で組み上げた戦端を容易に覆す。自然で単純なものほど抑えるのは容易ではなく、死の恐怖さえも感じる事のできない存在は、それが可能な存在にとって警戒すべき脅威。だからこそ眼を背ける為の、意識しない為に用意されるのが『英雄』であり、『勇者』なんだ」
「嫌な言い方をするな……。ヒイロ、お前一体どうしたんだ?」
「ん? 何がだい?」
「え、いや…あの……」
 恐ろしく冷徹に、まるで別人のように綴るヒイロ。だが余りに普段と変わらない様子で返されたので、逆にしどろもどろになってしまうミコト。
「もしも、護られている事に耽溺した人間が抵抗という刃を手にする事があるとしたら、それは死の影がその背中を一撫でした時のみなのかもしれない。……魔王降臨以降、世界規模に蔓延したはそれ程までに、根が深い」
「……流石は盗賊団“流星”の“銀梟”。容赦ない事を平然と言えるのぅ」
 黙ってその言を聞き入っていたアズサは、最後に悪態を残して踵を返す。パチパチと瞠目するヒイロを見る事無く、力強く地面を踏み締めて再度歩み始めた。
 聴覚で後ろから仲間が着いて来ているのを認識しつつも、振り返る事は出来ない。今、自分の胸中は悔しさで一杯だったからだ。自分の立ち位置と在り方を否定され、戦争という冷徹な現実を突きつけられたユリウスとヒイロに。そして、それを認めつつも納得できない自分自身に。
(……もっと強くならねばならん。腕っ節ではなく、もっと根源的な魂の剛さ……“剣姫”としての名に恥じない毅さ。何者にもこの地を蹂躙などさせん!)
 雲ひとつ無く晴れ渡る空を見上げながら、アズサは強く心に思った。








 イシス宮殿に組するとある一室。そこは何の変哲も無い部屋に過ぎなかったのだが、宮殿に備えられている図書館ではないかと思わんばかりに書物に溢れかえっていた。それ程広くない間取りを占めているのはただ只管に書棚の群。そして隙間無く並べられている蔵書は物理学、魔法学、歴史風土記、動植物鉱物図鑑、神学宗教関連の書物、果ては民間で流行っているような寓話伝奇、詩集…といった千差万別の多岐に渡るもの。
 ちょっとした私設図書室化しているその部屋は、聖王国イシス執政官が日々を勤しむ執務室だった。
 その書架にて、“魔姫”ユラ=シャルディンスは背筋を伸ばして直立していた。窓際まで所構わず書物を積み重ねている為か薄暗くなっている室内で、それでも弛む事のない真っ直ぐな眼差しで彼女は眼前の執務席に座る壮年の男性を見つめている。机の上に備えられたランプの明りを頼りに書類に眼を落とすその男は、険しく眉間に皺を寄せながら右に左に知的な蒼の眸を忙しなく走らせていた。
 厳格な気風を放つ男の微かに疲労が浮かんでいる目元と、白混じりのくすんだ蒼髪が、眼前で見つめるユラとの血の繋がりを感じさせる。壮年の男の名はナフタリ=シャルディンス。“魔姫”ユラ=シャルディンスの父にして、賢者認定機関ガルナに定められし“賢者”…その最高峰の地位にある十三賢人の一人だ。
 ユラは沈黙を守ったまま不動を保ち、父親が書の束に眼を通し終わるのを待ち続けていた。それは読みながら脳内で様々な断片的情報を繋ぎ合わせて策を構築する、父の思考を阻害しない為の配慮だった。
 一枚、二枚……沈黙が支配する中、書の捲られる音だけが場を浸食する。机の端では、ほんの数呼吸の間に読み終えた書が積もっては山を成していた。そして書類を提出してから半刻もしない内に、ナフタリは凄まじいまでの速さで書の束を読破すると、背凭れに身体を預けユラを見上げる。その油断無い鋭い眼光には既に深慮にて編まれた智略の光網が確かに浮かんでいた。
「これで報告書は全てか? “魔姫”よ」
「はい。ナフタリ様」
「……ふむ」
 自身が積み上げた書類の山を一瞥すると、ナフタリは何の感慨も無しに息声で頷く。
「芳しくない情勢ではあるが、想定内だな」
「…………」
 それは己に問い掛けた言葉なのだろうか。佇むユラは返答を詰まらせる。十三賢人たる父の思慮と、自分の思慮では余りに隔たりが大きすぎる。“魔姫”という称号を得ていようともそれは国内、或いはラーの信仰圏内に限っての事。世界に名立たる父に比べれば余りにも矮小で、見ている世界が違いすぎる。
 先代から“魔姫”を継承し、その任を日々全うするごとにまざまざと思い知らされてきた事だった。
 その事が表情に出た訳ではないが、内面にある翳りの為か気風に僅かな変化があったのかもしれない。ナフタリはユラのそんな微かな機微を見逃さず、目を細めて言った。
「浮かん顔だな。何があった?」
 それは上司として部下を案ずるもの。決して娘を心配する父のものではない。だがそれがこの場に在っての常なのだ。それをユラは不満に思う事も無く、ただ何時も通りの姿勢で小さく首を横に振る。そして咎められる事を厭わずに、正直に言った。
「いえ……少し、妹との距離が解らなくなってしまいまして」
「私事を公務にまで引き摺るのは感心せんな」
「心得ています。ですが……」
 悲愴な表情で言葉を掠れさせるユラに、執政官はここで初めて父の顔を見せた。
「ティルトに何を言われた? 話してみろ」
「はい。実は――」
 双眸を伏せたユラは、先刻の出来事を苦々しそうに語った。
 一言一言が冷徹な刃となって自分の胸を穿ったティルトの怜悧な言葉。
 鮮烈に思い返されるのは、最近はめっぽう笑わなくなってしまった妹の冷たい眼差し。
 何がいけなかったのだろうか。訳も解らず何時の間にか開いていた姉妹の隔たりは、もう修復不可能なのかとさえユラは思ってしまっていた。
 一通りの話を聞いた後、聖王国執政官ナフタリは椅子の背凭れに身体を預け、口元を小さく歪ませる。
「……あれも言うようになったな。さぞかし耳が痛かっただろう、ユラよ」
「はい。返す言葉が見つかりませんでした」
「だがそれも、ティルトも周囲が見れるようになったという事だ」
 父の表情の変化は乏しくとも、その声色はどこか弾んでさえいる。ユラは不安げに声を下げたまま返した。
「それだけだと良いのですが……」
「あの子は魔法が使えない。周囲の連中がそれを非としてうだうだと騒ぎ立てているのは耳に障るが、奇しくもその事実がこの国の歪んだ在り方を誠実に見せる事になったのだろうな」
 非常に珍しい事に、公務中に父が情緒的な色を載せた言葉を紡ぐ。ただそれだけだったのならば、ユラは驚いて父を見つめるだけで良かったのだろう。だが如何せん、言葉の内容が聞き捨てなら無いものだった。
 執政官という職務に就く者にあるまじき発言に、非難染みた視線で魔姫は執政官を見据える。
「今の発言は聞き捨てなりません。反故の意にも取られかねませんよ」
「そう怒るな。魔導師たる者、常に冷静に物事を見据えねばならん。その視界には古の慣習である国是だろうが、埃の積もった教義だろうが挟める余地など無い」
「…………」
 納得がいかないと言った表情で、ユラはナフタリを見る。視線から零れる言葉無き意思に辟易したのか、ナフタリは大きく溜息を吐いた。
「ユラ、お前の懸念は解る。だがそれは国も組織で在る以上、時を選ばずして何れは浮かび上がる事。寧ろこの時局に下からの不満が形を得るのであれば都合が良い。無形の敵が、向こうから姿を現してくれるのだ。これを僥倖と思い、この機に国内の膿の全てを一掃してくれよう」
 無造作に積み上げられた書物に阻まれ、申し訳程度に射る外の光を反して、ナフタリの眼は鋭く輝いていた。それは絶対真理の扉に触れたものが持ち得る、人の情思からかけ離れた冷たい慧眼。十三賢人“四華仙・律”を前に、ユラは敬意と畏怖を全身に覚えていた。

「……ときに、これから参謀顧問と会うが、お前も同席するか?」
「スルトは今は外郭楽園の視察に行っている筈ですが……呼び出したのですか?」
 不思議そうに首を傾げるユラ。その時、計ったかの様なタイミングで執務室のドアが遠慮がちに叩かれた。
「来たか……入れ」
 ナフタリの導きに従い扉を開き、部屋に立ち入る炎のように燃える赤髪の少年…スルトマグナ。そしてその直ぐ後ろには、濃厚な臙脂の外套で全身を覆い隠し、表情すらをも隠蔽している女性が続いていた。
「失礼します。……おや、シャルディンス先輩も在室でしたか」
 その可能性は考慮していなかったのか、スルトマグナは執務室の中にユラが居る事を見止めると、大きく眼を見開いた。
「スルトマグナ。首尾はどうだった?」
 開口一番、ナフタリは椅子に泰然と座しながら真摯にスルトマグナを見据える。それに少年参謀はコクリと頷いた。
「ええ、ナフタリ様の慧眼通りでしたね」
「? 執政官様。スルト。何の事?」
 二人の間にどんな話が交わされているのか解らないユラは、不思議そうに首を傾げるだけ。ユラのそんな様子を横目に見止めたスルトマグナは、続いて呆れたような視線をナフタリに送る。それを察した執政官はそれをフンと鼻を鳴らした。
「……話していなかったんですか?」
「確証が無い事を無闇やたらと吹聴するわけにもいかんだろう。不要な混乱を招く事になる」
「まぁ、道理ですけど……」
「お二方。どういう事か説明していただけますね?」
 置き去りは許さない、とユラは少し強めの口調で言った。特に隠す理由も無いので、スルトマグナは実に呆気なく口を開いた。
「先日より、シャルディンス先輩に許可を頂いて外郭楽園の視察に行っていましたが、それはとある目的の為に外殻楽園の外側に行く必要があったからです」
「どうして? あそこは危険なのよ。結界の操者である私には、もう幾度無く結界を冒す魔物の攻勢を察知しているわ。そんな場所に行く目的って……?」
 怪訝に目を細めるユラに、スルトマグナは重々しく頷いた。
「敵を鹵獲する為です」
「ろ、鹵獲?」
「正直、僕一人じゃ不死魔物を鹵獲なんてできませんでしたね。氷刃系の魔法は不得手ですし、火炎系と不死魔物の相性は最高に良いですから、気を抜いたら全て焼却してしまいかねません………彼女がいたから、実行できた事です」
 狼狽するユラに、スルトマグナは目線で臙脂の外套を被った女性を紹介する。対して女性は姿勢を崩さず鷹揚に両腕を組んで立ち尽くしていた。いや、鷹揚と言うよりは酷く億劫そうな感じが女性から醸し出されていた。
 あの・・スルトマグナにここまで言わせるのだから、彼女の能力は秀逸を超えているのだろう。感心と同時に、臙脂の彼女の纏う雰囲気に、直感で追及してはいけないと思ったユラは、彼女の存在には敢えて触れずスルトマグナを促す。
「……それで、どうして鹵獲なの?」
「戦に勝利する確率を高める為には敵対している者を知る事が必要不可欠。つまり、不死魔物の存在組成を解析する為です」
「ユラ。お前も知っていると思うが、識別魔法インパスによる存在組成解析はスルトマグナの右に出るものはいない。……それで、どうだった?」
 スルトマグナの言葉を補足するようにナフタリは口を挟む。
「はい。不死者の組成は、物質マテリアル非物質アストラル存在含有率バランスが出鱈目でしたね。生きている人間から精神体を無理やり引き剥がして強引に肉体を劣化させた後、再び腐敗し始めた器に精神を押し込めたのでは無いでしょうか。存在含有率は非物質の方に傾いていましたから、恐らく間違いないかと」
「ふむ……かつてディナが研究していた蘇生魔法ザオラルの変容形…反魂の呪に似ているな」
「確かライズバード女史が研究されていたのは、魂を別の器に移殖させる術、でしたね。その副産物として発見されたのが反魂の呪、俗に言う屍霊術ですが……女史の研究は魂魄を冒涜する行為に違いありません。ですが徹底して理に反した結果、より深く理を解する事になったが故に“三博士・理”の名を冠する事になった。これ以上無い皮肉ですね」
「……まあ、あいつにも色々と事情があるからな。その名で呼ばれる事を嫌悪している理由の一つだろう」
 昔を懐かしむようにナフタリは目を細めた。それは旧知の者に対して送る憐憫と悲哀。
 自らの言の所為で話が脱線してしまった事に気がついたスルトマグナは、コホンと小さく咳払いする事で意識の改変を自らに課す。
「すみません、話の輿を折ってしまいましたね。……この度の視察からは大きな収穫を得る事ができました。敵の性質は大源たるマナを揺らがせる負陰の要素……恐怖、絶望といった感情を糧として力を増すようになっています。ならばこちらの対策としてはそれを御し、逆のもので満たすようにしてやればいい」
「逆のものって……」
 抽象的過ぎるスルトマグナの言に、考え込むように俯いたユラは眉を顰めた。
「陳腐な言葉ですが希望、光、生への意志……そういった正陽にマナを揺らがせる因子です。幸い、この国にはそれ・・を御する術がある……そうですね? シャルディンス先輩」
 意味深長に少年参謀が何を言わんとするのかを察した“魔姫”は、弾かれたように顔を挙げ、少年を見据える。その強い意志を秘めた双眸から、例えるならば先程実父に感じた畏敬にも似た感覚を受け、冷やかに汗が背筋を撫でた。
「……持ち得た名の重み、という訳ね。わからない訳じゃないんだけど、ここに来て改めてこの名の重さを実感するわ」
 狭い部屋の天井を仰ぐユラと、そのユラを澱みなく見据えるスルトマグナ。そんな両者を黙したまま見つめていたナフタリは、誰にも気付かれない程に小さく口元に笑みを描いていた。








 執務室から退室したスルトマグナは回廊から外を眺めていた。斜陽によって空は徐々に朱に染まりつつある。雲ひとつ無い晴れやかさ故に、鮮やかな色彩の落ちて行く空模様がハッキリと見えた。
 金赤に焦れている空の昂揚をスルトマグナは何となく見つめていると、今までずっと黙り込んで追従していた臙脂の女性が場の沈黙に耐えられなくなったのか口を開いた。
「スルト。どうして私をこんなところに連れてきたの?」
 それは軽やかに鳴る鈴のような声色だった。だが発せられる言葉は辛辣で、その人物が胸中に抱いている煩わしさに染まっている。彼女は機嫌が悪いのだろう。
 それを気にする様子も無しに、スルトマグナは楽しげに返した。
「シャルディンス先輩が君の事を知りたがっていたから。一応、味方なんだからちゃんと顔見せ位はしておかないと思ってね。丁度良い機会だったし」
「私は別に……人間の事なんて知りたく無いわよ」
「君はそれでいいのかもしれないけど、連れてきた僕の身にもなってよ。イシスに来てから一度だけしか宮殿に来なかったじゃないか。その時だってすぐ逃げ帰るし……怪しまれても文句は言えないよ」
「私はこういう畏まった場所が嫌いなの! 肩も凝るし、反吐がでるわ」
 冷たく吐き棄てながら女性はソッポを向く。その余りに予想通りの反応に、スルトマグナは満足げに笑った。
「まぁいいや。今日、宮殿に来たのは報告もあったけど、それよりもちょっと耳寄りな情報を手に入れたから、城内の様子を直接観察したかったんだ」
「?」
 非常に含みのある言に、臙脂の女性は怪訝を深めた視線をスルトマグナに送る。
「今、この城に“アリアハンの勇者”が来ているんだってさ」
「っ!?」
 ビクリと身体を大きく振るわせる女性。その心身の動揺の様が、外套を伝って外に放散された。
 それを目の当たりにしたスルトマグナは、悪戯を成功させた子供の顔で、ニヤリと笑う。
「会いたい? 会いたいんなら、僕がその場を設けてあげようか?」
 近付いてフードに隠れた顔を覗き込むように、上目遣いに人懐っこく問うてくる様は、明らかにこちらの反応を楽しんでの事だろう。
 それを理解した臙脂の女性は顔を引き攣らせながら、全身を戦慄かせた。
「お、大人をからかわないでっ! このクソガキ!!」
「はねっ返りのじゃじゃ馬娘にそんな事言われたら、僕ももう終わりかなぁ……」
 傷付いたような素振りで肩を竦めるスルトマグナ。その挑発に臙脂の外套から少し零れた深藍の髪を大きく振った女性は、大声で吠えた。
「誰がじゃじゃ馬よ! いい加減になさい、スルトっ!!」

 地団駄を踏みながら隣で喚き立てる臙脂の女性を無視し、遊興の時を終えたスルトマグナは真剣な眼差しで遠くを見据えた。
「……いずれにせよ、そろそろ時局が動くよ。ミリアも戦いの覚悟だけはしておいてね」
 不敵に口元を歪ませるスルトマグナ。手にしている魔導器“理力の杖”の尖端に浮かんでいた半透明の刃が、炎のように猛然と昂ぶっていた。




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