――――第五章
      第二六話 残照は明く







――怪物と戦う者は、その過程で自らも怪物にならないよう意識し、注意しなければならない。血染めの輝きを見つめている時、その輝きもまたこちらを見つめているのだから――

『ん? 何だい、ユーリ』
『この前、セフィに言われた言葉……だけど、抽象的過ぎて理解できない。どういう、意味?』
『うーん……言葉に秘められたセフィの真意を断定する事はできないけど、ぼくが捉える解釈として答えるなら……“悪”を滅ぼし“正義”を貫こうとする過程で、もしかするとその“正義”を貫く手段は異なる“悪”に転ずるかもしれない。例えるなら……非戦を唱える者達がその意志を示す為に強大な武力を背景に訴えるとか……そうならない為の自戒の言葉』
『……己への、戒め?』
『そうだね。物事の善悪を知る時に、その悪を探求し突き詰めるあまり、その悪に取り込まれてしまいがちになる心の弱さ・・を戒める意味、かな……成程、何となくセフィが何を言いたかったのかわかったよ。この言葉は自分と他者、目的と手段の境界をしっかり持って、自分の意思を確かに持つ事の大切さを暗示しているんだ。……これは君の為の言葉だよ、ユーリ』
『俺、の?』
『そうだよ、セフィはいつも心配しているんだ。君が背負わされた大きく重過ぎる業に、君が押し潰されないように。君が君自身で在り続ける為に、迷いの闇に落ちて彷徨いように……』
『……よく、わからない』
『あはは。少し難しかったかな? だけどユーリ。この言葉は、君に対してのセフィの心配の表れだから覚えておかなくちゃ駄目だよ。……忘れた、なんて言ったらセフィもの凄く怒るだろう? 怒ったセフィは怖いからねぇ』
『……わかった』
『無論、君を心配しているのはセフィだけでなく、ぼくも同じだよ。君は大切な、大切な――』




 ヒュン、と澄み切った音と共に、渾身の力で真一文字に振り抜かれた刃が空気を裂帛する。阻むものの無い宙空には、太陽の光を反す刀身によって銀色の軌跡が一瞬だが刻まれた。
 斜めに断裂された視界に拡がっていたのは王墓跡地に湧いて出来たというオアシスだ。その水面は風に揺られて金銀細工の如く煌びやかに、そして宝石を空に翳した時のように燦然としている。清冽な圧力さえ孕んで押し寄せる光の波動は、その熾烈さに思わず目を細めてしまう程に澱み無く歪み無い。
 重心を低く沈んだ体勢のまま、ユリウスは自らが描いた道筋を険しい眼差しで凝視していたが、やがて即座に腕を引き戻し、再度虚空に向けて剣閃を連ねた。鮮やかに空を凪ぐその玲瓏の余韻が潰えぬ内に、次々と幾つもの眩い筋が空色の宙を彩る。緩急を織り交ぜて奏でられる閃音は、宛ら爪弾く弦楽器の凛然とした音色とどこか通じるところがあり、それは晴れ渡った空に遠く慎ましく呑まれていった。

「……」
 風紋を揺らすだけの静寂の砂漠に一時の喧騒が満ちていく。
 だが、無言で空を凪いでいたユリウスは剣を翻す度に眉間に深く皺を刻んでいき、口元は奥歯を噛み締めているのか、険しく引き締められたままだ。それはどちらかと言えば憮然としているようで、事実鍛錬中の彼にしては普段らしからぬ様相だった。
「……駄目だな」
 やがてユリウスは諦念に深く嘆息しながら剣を持つ腕をだらりと下げ、体勢を戻しては無造作に髪の毛を掻き回す。煉獄の炎天下にあってその漆黒の髪は酷く熱せられ、手櫛として梳いている指の隙間から僅かに入る風でさえ、心地良い涼しさを刹那だが齎していた。
闘氣フォースの集束が芳しくない……いや、元素の活性方向が不整合と言うべきなのか」
 額から頬を辿って零れ落ちる珠のような汗を乱暴に拭い去り、剣の柄を握る手元に目を落とし一人語散る。オアシスの畔に佇むその姿は静寂に溶け込む様相だったが、しかしその韻に秘められたるは、決して穏やかならぬ内心であった。
 魔力エーテルにしろ闘氣フォースにしろ、その集束の形態は個人の感性、積み重ねてきた修練の方向性などの内外的要因によって千差万別に並べ連ねられるが、闘氣に限り、その指向性は主に縫衣ドレス型と装飾アクセサリ型の二種に大別される。
 縫衣型とはユリウス自身にも当て嵌まるように、一定量の闘氣の層を全身に纏う形に集約するもので、その状態を保つ為には常時全身の闘氣を束ねていなければならないので闘氣自体の消耗量の高い。だがこのタイプの利点は総合的に筋力や神経、接触している物質中の元素の定量的な活性増強が可能で攻守のバランスに優れている点にある。闘氣を操る者達の中で一般に安定性を求める者達…主に軽装の剣士や武闘家、女性冒険者達が好んで選ぶ方向性でもある。ユリウスやミコト、アズサはこの型に属し、特にユリウスの場合は幼少より一対大多数で戦う事を想定して鍛錬を重ねてきた環境もあってか、それは顕著だった。
 もう一つの装飾型とは身体局部、或いは装具に闘氣を部分的に集束させるもので、縫衣型に比べてその消耗量は低い。だが集約箇所には一点集中、極限まで闘氣を集める事ができ、破壊的な攻撃力や鉄壁の守備力を発揮する事が出来る。その反面、非集約箇所には全くと言って良い程に闘氣集約の恩恵に与れず、そこから生じるリスクを補える本来の肉体的堅強さや、それに見合う特質が求められ、一撃必殺を信条とする重戦士や男性冒険者達に良く見られる傾向がある。ヒイロや以前戦ったジーニアス、カンダタがこれに相当する。
 これら二つの方向性の差異は平坦か、偏向かを追及したという程度でしかなく、両者のどちらが優れているかなどの議論は無意味である。互いに長所と短所を等しく秘めている為にそれらに珠玉の輝きを与えるのは、あくまでも個人の性質によるもので、何よりも自己練磨の結晶と言う事だ。
 縫衣型のユリウスが今感じていたのは、全身に纏っていた闘氣の最小構成要素である元素が、各々ばらばらの方向に向けて加速活性されていると点だった。総体として一を為す縫衣型闘氣の層は、層を形成する裡の流れも一様で在らねばその真価を発揮する事が出来ない。少しでも歪が生じれば全体に影響を及ぼし、強制的に活性状態を解除してしまう。そんな原理故に、長時間の闘氣集約による集中力の低下によって半ば本人の意志とは無関係に集束が解かれるのは、寧ろ自己保存機能が正常に働いた結果とも言えよう。
 諦念からユリウスは搾り出すように嘆息を零す。
(まったく……バランスよく消耗しろとは良く言われたものだが、それ以前の問題だったか)
 魔力を大きく消費した次の日は徹底して闘氣の修練を積め、と以前、十三賢人“智導師”バウルに言われた事がある。自分が闘氣と魔力を同時に収束できる特異体質である事が発覚して以来、訓練予定は日によって交互に執り行う様に調整され、それに基いて己の常態を定めてきたが、今に至ってそれが大きく揺らいでしまっていた。
 その要因の一つとして、昨日までの戦争に蓄積された純粋な精神的肉体的疲労によるものだと数える事はできるが、最も直接的には中級相当の召雷魔法ライデイン、爆裂魔法イオラの連続使用、果ては奥の手であった魔法剣イオラの発動……魔法剣は別格としても、魔法を敵の体内に透徹させたりと些か魔力消耗に偏り過ぎている。
(……そしてそれ以上に、あの黒霧の影響によるものと考えるのが自然か)
 変わらずに照りつけてくる陽射しに辟易しつつ、目を細めて空を見上げていたユリウスはそう結論付ける。
 以前、アッサラームでアークマージと対峙した時に黒霧を発生させた自分は、生命として存在を定義する物質マテリアル非物質アストラルの含有率の調和を崩し、瀕死の状態に陥ったとミコトの従者サクヤが言っていた。
 黒霧が発生する手順プロセスは今のところ不明だが、身体から漆黒の霊光オーラが立ち昇る感覚は闘氣と魔力を並行励起させた時…つまり魔法剣を用いた時の感覚に酷似しているとユリウスは直感的に覚っていた。もっとも、その疲弊具合は魔法剣をも遙かに凌いでいたが。
 無自覚な為に死に窮する目にあったアッサラームと違い、今回はその現象を認識していた。だというのにも関わらず、その後遺症の所為か今朝、目を醒ました時より自身の裡を流れる魔力と闘氣の流れがどうにも噛み合っていないと感じていた。そればかりか選択的に魔力を収束しようとすると、途端にそれが強制的に霧散してしまい魔法発現における第一過程…発起にすら至らない。つまりは魔法を行使する事ができない状態に陥ってしまったのだった。
 そうした前提の上で、少しでも魔力と闘氣の平衡調和を取り戻そうと、闘氣系に的を絞り鍛錬に臨んでいたのだが、尖鋭した神経が外界の微細な変化さえも拾ってしまい、静謐を保とうとする意識の弦を大きく揺らす。過敏になっている五感が、砂面に風紋を刻み付ける程度の些細な物音にさえ反応し、目線を動かすだけで筋肉に緊張が疾ってしまう。意識を宥めようと注意を高める事がかえって細動を増幅させてしまい、纏った闘氣の膜に偏りを生み瓦解させてしまう事に繋がってしまっていたのだ。
「……今のままでこれ以上の鍛錬は無意味、か」
 無理の反動で押し寄せてくる強烈な眩暈や、疲労から来る虚脱感は決して無視できないものだと感じている。そしてそれ以上に闘氣を繰る技術の練度を高めようとする意思はあるのに、著しく欠如した集中力、神経や身体はそれを阻んでいるとしか言いようが無い。
 鍛錬に成果さえ見込めない自らの状態に苛立ちつつ、見切りを付けたユリウスは諦念を吐き棄てながら剣を水平に大きく一薙ぎする。それだけで全身に絡み付いていた不調和な闘氣が宙に拡散し、水中から這い出た時のような浮揚感を一瞬だが感じられた。
「闘氣集束の形態変移……いざ試してみると、これ程までに難しいものだったとはな」
 虚空を見上げ、名残惜しくユリウスは零す。
 闇の中で手探りにを模索する今のユリウスが次への指針としていたものは、自らの意志一つで闘氣集束の形態を縫衣型から装飾型へ変移させる事だった。それは同行者である武闘家ミコトや、以前死闘を繰り広げた父オルテガの盟友カンダタが用いていた闘氣を繰る技巧。変移という言葉自体は簡易だが、現実はそんな生半可な技術ではなかった。ユリウス自身拙いながらも何とか実感できたのは、定常状態から少し変移をしようとしただけで、尋常では無い負荷が変移箇所に圧し掛かり、全体を一気に破綻させてしまうと言う点だ。
 ユリウスが戦っても勝てないと自認している者達…アリアハン王ザウリエ、宮廷騎士レイヴィス、そして祖父である“剣聖”イリオス。その三人も当然のように闘氣の変移技巧を操り、その理屈を聞かせてくれた事もあったが、とても頭で解していようとも一朝一夕で到れるものではなく、やはりとも言うべきか経験と素養が全てを語る。この技巧は永い時をかけて鍛錬の方向性と自己の在り様を見つめ直したという土台の上で開花するものだと、否応無く覚らされる。ユリウスの場合、なまじ縫衣型として長く修練を積み、完成形に近い高みに到ってしまっているが故に、その型を崩す事に身体の方が適応できないのが動かし難い現実だった。
 しかし両者間を速やかに、滑らかに遷移する事ができれば戦術の幅も広がり、新たな奥の手の開発に繋がると考える事ができる為、例え重き一歩であろうとも敢えて踏み出さねばならなかった。
(魔法剣イオラを曝してしまった以上、一刻も早く会得しなければならない)
 その意志を決然と自らの裡で言い下し、ユリウスは片手で剣を正眼に構える。そのスラリとした刀身から切先にへと視線を移し、その先にある景色を遠く見据えた。
 燦然と輝ける陽光を乗せてその切先は苛烈な白き圧力を世界に発し、輻射する熱波によってその輪郭を亡失させている。仄かな潤いを孕む風は申し訳程度に芽吹く草木を艶やかに梳き、流れる砂は漣の如き静韻を奏で……そのどれもが個々の範疇で見れば混沌とした煩雑な変化ではあるが、総体として捉えた時それはあたかも美しく整えられた秩序に従属する、万物流転の内側にある調和の一端を覗かせていた。
 痛いほどに降り頻る陽光に身を委ねながら、ユリウスは何度か瞬きをすると、丹念に研磨された刀身に顰めた自らの顔が不意に映り込んだ。鏡と同じく刀身に映った自身の顔は精彩に欠け、逆光の中で尚暗く佇む漆黒の双眸にはただならぬ幾つもの輝きが渾然と融け合い、言い様のない深さを織り成している。
 オアシスの畔で、剣を構えたままの体勢でユリウスは静かに瞼を伏せた。



 空は雲一つ無い輝ける蒼穹であるというのに、自分の佇む場所は何も見えない深淵の闇の中。立っているのかも判らない。動いているのかも判らない虚無の領域。
 そう、閃光さえ通さない黒霧の向こうに繋がる先。そこに広がっていたのは――。








 灼熱の砂塵が吹き荒れる砂漠。そこは地上の煉獄であるイシス大砂漠。
 生物が凡そ生存を続けるには厳しすぎる環境の中で、耳を劈く魔物の断末魔に響き渡った。
 焼け爛れた砂面にぶち撒かれる夥しい量の青き血潮は、燦然と輝く日光に反して深さを増す。熱された鉄板の如き地に落ちた血や肉片は瞬く間に焼かれ、不快極まりない焦臭を立ち昇らせていた。
 そこには十数体にも及ぶ野の魔物が、いずれも往々に首と胴を別け断たれて絶命していた。死屍累々という言葉をそのままに体現する惨憺たる光景も、やがて風に吹かれて何事も無かったかのように消え去るだけ。しかし静寂に落された死生の残影は、確かに異形が世界に存在していたという証を遺し、その異形さえも生と死という世の絶対原理からは逃れられない現実を酷烈に刻み付ける。
 眩いばかりに死臭香る血花が燦爛と狂い咲いた園中を、一人ユリウスは歩んでいた。
 虚空の先を見据えるその表情は彼らしい無のままで、たった今自分が斬殺した魔物の事など気に留めている様子は皆無。漆黒の双眸には裡から滲む意志の輝きが無く、ただ無為に空の光を反しているだけ。力無くだらりと下げられた手には温かさを残した血刃が握られている。滴る血糊が風塵に曝されて硬化している剣は、それ自体が既に終焉を迎えつつあるが、しかしそれでも魔物に終わりを与える危うい輝きは少しも鈍ってはいない。寧ろ終末を目前に控えたが故にその鋭利さは、鮮烈な最期を遂げんと躍起になるように佇んでいた。

 唯一太陽が上天に君臨する真昼の刻。今の陽が昇り、沈む前までは不死なる魔物や狂気に染まった獣の魔物が跋扈していた砂礫の大地。
 ユリウスは人目に付かぬよう一人聖都から脱出し、瞬間移動を導く魔導器『キメラの翼』を用いて“幽玄の王墓ピラミッド”跡に発生したオアシス近辺を彷徨っていた。本当ならば王墓に直接到達する筈だったのだが、王墓最下層の倒壊時に解放されたマナの流脈レイラインに呑み込まれてしまったユリウスは、王墓跡地にオアシスが湧いて出たなど夢にも思わず、その記憶と現実の差異によって稼動中の『キメラの翼』に歪が生じ、到着点が少々ずれてしまった。不発や、動作不良によって全くの異空に放り出される可能性もあった事を鑑みれば、運が良かったとも言える。
 そして、烈日が照りつける下で現状に思案を広げる最中、砂漠に棲息する野の魔物に遭遇したのだ。
 つい先日、獣魔将副将諸共その魔軍は壊滅したにも関わらず、魔物は絶滅した様子を見せず尚も現れて来る。“野”の者達は裡から生ずる破壊衝動のままユリウスに襲い掛かって来たが、敵意や殺気を向けられたからには降りかかる火の粉を払うしかユリウスには選択肢が無い。
 戦争の疲労が肉体的にも精神的にも蓄積された為か、それなりに苦労する事になったが、結末は変わらない。敵と定めた存在を殺戮する事がユリウスという存在を定義している以上、ただそれに順じた過程と結果を手繰り寄せるだけだった。
 戦闘中に躍動した筋肉や血管が発する熱も、殺気や敵意に中てられ早くなった呼吸も。魔物を駆逐した後。十数歩進んでいる内に平常に戻り、魔物と遭遇する前の速さで歩みを続け、やがてオアシスに到る。
 そもそもユリウスが王墓を目指していたのは、確かめる事があったからだ。
 あの時、あの最下層ばしょで見えたもの、その先に連なったレイラインの内在世界が本当に現実のものであったのかを。だが既に王墓は虚空に消え、それを見極めるという目論見も儚く潰えてしまう。目的を失い、特に行く当ても無く、有益な時間の使い方など休眠か鍛錬くらいしか知らない以上、ユリウスの結論がそこに至るのは自明な事だろう。もっとも、直ぐに聖都に折り返し戻るという選択肢もあったが、ユリウスは初めにその可能性を摘み取っていた。

 終戦の興奮が止まぬ内に、イシス王女フィレスティナに昼間は“砂漠の双姫”と共に聖都復興に勤しむ人々への激励の徒に参列して欲しいと請われていたが、ユリウスはその要請を丁重に断っていた。
 それは敬虔なラーの民にすれば不敬と断じられる事ではあったが、本来、ユリウスがイシスへ招待された理由は魔物軍を討つ事にあり、復興への助勢ではない。ましてや“ラーの化身”や“砂漠の双姫”といったイシスを象徴する存在と共に歩む事自体が、外交的にも要らぬ諍いを招いてしまうだろう。現実問題、今更どんな体裁を取り繕おうとも、今回の戦争に“アリアハンの勇者”を組み込んだ時点でイシスはアリアハンによる様々な介入の隙を与えている。その好機を揺るがぬ野心を現実に引き寄せるまでに怜悧なアリアハン王ザウリエが見逃す筈も無い。これから先々、アリアハンからこの国に対して何らかの接触があるであろう事など、誰にでも容易に想像できる未来の事象だ。
 国家存亡の危機という背水に追い込まれていたにしろ、先々の内政干渉を覚悟した上での“アリアハンの勇者”の招致。滅びては元も子もないからとの選択だったとは言え、先送りにしてきた懸念を受け容れるには自国内の膿を排出し終えたばかりで国力、人材共に落ち込んでいるイシスには荷が勝ちすぎている事だ。いずれ女王の任に就くであろうフィレスティナの背後で、ナフタリを始めとした高官達が顔を苦々しく顰めていた事実はそれを言無く証明していた。
 ただ、辞退の意を示したユリウスに、影を浮かばせて哀しそうに微笑んだフィレスティナの表情が、彼女の提案が周囲の事情などを越えた彼女自身の純粋な善意によるものだった事を物語っていたが、情感に疎いユリウスにそれを掬える筈も無く。
 それに今、聖都では人々が復興に駆け回り、更にはアッサラーム商会ギルドより派遣された砂上船が大量の救援物資を搬入している為に大きな賑わいを見せている。人の喧騒の只中に在る事を極端に忌諱するユリウスの性質から、聖都を離れる事を選んだ大きな一因には違いないだろう。
 もっともユリウス自身の本音を言えば、アリアハンとイシスの外交が拗れに拗れようが、人々が外から齎された救援物資に我先にと群がっていようが甚だどうでもいい事だった。それは、人それぞれの腹に抱えた思惑など自分の関知する事ではないと、決まりきった結論に至っていた為でもある。
 結局、ユリウスの心情的には外界の移り変わりに興味は無い。そんなものを視界に留めれる程に余裕がある訳ではなく、今優先して相対すべきは、己が深い深い場所で荒れ狂う形の無きものの方だったからだ。

 裡の擾乱は魔物への言葉だけでは言い尽くせない憎悪と破壊衝動を湧き上がらせ、同時に切り札であった魔法剣イオラを白日に曝したという失態を犯した不甲斐無い己への呵責を齎す。両者のけたたましい摩擦によって殺伐とした場所へと駆り立たせる。
 どんな場所に居ようとも、どんな立場に在ろうとも、結局のところ自分が行き着く果ては殺意と狂気に染まる黄昏の戦場せかい。そして自分はただひたすらに戦いを求め、血潮を求め、死を振り撒くだけの武器…破壊という存在そのもの。剣はどんな清い理由を付与しようとも凶器でしかないという事実と同じく、自分はあくまでも魔物を討つ為だけの存在であり、それ以外の形で世界に存在してはならない。
 魔王バラモスに至る為に、『魔法の鍵』という手段を求めてこのイシスの敷居を跨いだ打算は、戦争を乗り越えた事で成就されたと考えても良い。女王…正確には王女フィレスティナと交わしたイシスに助勢するという約定は果たしたのだ。もっとも、実際に旅路を再開するまでには内部が安定しないこの国の現状を思えば望めないが、これに一人異を唱えたところで無意味だろう。
 そして何より、魔王軍との戦争はユリウスの中に燻っている戦いを求める意識を一層強める結果となった。魔を滅ぼすという意志の根底に、力ない他者の為にという意識が少しでもあれば叙事詩などの格好の題材となったであろうが、ユリウスに限ってそれは無い。度重なる戦闘によって舞い散った死に、命を刈り取る者としての在り方こそが自身の本来の姿である事を再認識し、己の歩むべき路…剱で在らねばならないという自覚を更に強めたのだ。それこそ、人間を人間たらしめている心を完全に棄て去り、ただ純然なる殺戮の剱に到らんと願う程に。
 ユリウスは今の自身が進む道程を真摯に見据えている。……生と死の意味も価値も知らず、世界の何たるかも知らない、思考を止めた殺戮人形であった嘗ての自分に還る事こそ、今の自分にとって至上の本願だった。
 だが、二人・・によって裡の深い部分に植えつけられたものは枯れず、刈れず……。過去に立っていた場所だというのに、今では易々と立ち戻れない。そんな現実が、決して時間の針は戻す事ができないという真理をこれ見よがしに突き付けているようで、それがたまらなく鬱陶しく煩わしく、忌々しい。
 今まさに繰り広げられているこんな思考でさえも邪魔なものでしかない、と排除する事が急務だと認識して、ユリウスは率先して他者との接触を避け、自らの廃絶に専念していたのだ。








――幽玄の王墓最下層。激震に耐え切れず崩れ往かんとする玄室の中央で、ユリウスは膝を着いていた。その腕に、敵対し既に意識を手放したティルトを抱え、右手に構えた刃で今まさに止めを刺さんとした時だ。
 一つユリウスが瞬きをした間に、ナイフの刃が身体に喰い込むよりも先に、その場所を槍が貫いていた。
「これはっ!?」
 何も無い虚空より突如として現れた禍々しい雰囲気を醸す意匠の槍。
 その予想外の事実を前にユリウスが思わず声を挙げて目を瞠っていると、心臓を貫かれた筈のティルトの身体は槍に持ち上げられるよう不可解に宙に浮かんでいった。そして暗色の槍そのものが一瞬だけ強い暗紫の闇が閃いたかと思うと、次の瞬間には負陰と呪怨が絡み合った清冽に輝く闇の波動が放射され、周囲の空気…いや、玄室内に有り余る程に満ちているマナを貪って玄室内を縦横無尽に擾乱する。
「……同じだ」
 強烈な力の波動と共に発せられているのか、捲き起こる風に圧されながらよろよろと数歩後ずさり、呆然と宙を見上げているユリウスは顔色を失わせる。
 眼前で何が起きているのかと考えを巡らせようとしたが、理性よりも先に身体に染み付いた記憶が甦る。決して消える事の無い一瞬の情景が現実に同調し再臨する。
 ここに至っては、もうユリウスには部屋の揺れなど感じる事はできなかった。震動からせり上がってきた石床に足を取られ、膝を着いていたのだがそれを知覚する事ができない。意識が大きく揺れ動かされ、もはや体感など無いに等しい状態に陥っていたのだ。
「あの時と、……同じっ」
 震える咽喉で搾り出す。だがそれも直ぐ側に落ちてきた天井の欠片の激突音で掻き消され、周囲に届く事は無く。
 部屋中を駆けずり回り、マナを搾取し尽くした負陰の波動は、光に群がる羽虫の如く槍に集まり、その裡に還る。すると力を充たしたのか槍の形がゆっくりと亡失して闇の粒子と化し、それに繋がるティルトの姿もまた徐々に半透明にその輪郭を失わせる。両者がより高い領域で融和して一つの新たなる形に生まれ変わらんとしているようだった。
 それは、自分にとってかけがえの無い二人の片割れ……アトラハシスがあの剣・・・を手にした時と同じ。……そして、セフィーナがその姿を変えた時と同じ――。



「……認めよう」
 低く擦れながらに紡がれた独白は自らに向けた言葉であり、嘗て問われた事に対する返答だった。
 厳粛な儀式めいた畏まった動作ですらりと伸びきった肘を折り、恭しく掲げた剣を面前に引き寄せる。空の光を蓄えた刀身が発する熱が鼻先に感じられ、そこに額を押し当てた。
 むず痒くじわじわと灼かれる感覚が神経に刻まれる。この傷みは、意識に刻む烙印だった。
「あんたの言う通りだ。俺は、剣を向けた敵に自分の姿を重ねている。何度も何度も敵を斬り、自分を殺している。……そうやって俺の中に未だ在る忌々しいものを葬る為に」
 ゆっくりと瞼を持ち上げると、そこには鏡に映る己の相貌。手首を返して剣を動かし、ひらけた世界の様相は先刻と何も変わらない。だがそこには、陽炎の如く揺らめきながらこちらを見据えてくる黒髪の少年の影があった。
 少年は陽光の加減によっては笑っているようでもあり、泣いているようでもある。その何れかを確かめる前に、少年の影を視認したユリウスは即座に動いていた。虚無の表情のまま全力疾走で振り抜かれた雷速の剣は虚空を乱暴に薙ぎ、剣閃は空気を引き裂いて呆気なく少年を両断する。しかし、そこに血潮が飛び散るでも無く、ただ少年の残滓は音も無く景色に溶け消えるのみ。だとしてもユリウスの動きが止まる事は無かった。
 今しがた切り裂いた少年の位置とは全く別の方向に跳躍し、そこに何時の間にか顕れていた己の形をした蜃気楼を上段から真っ二つに断ち、消滅させる。剣が大地を穿ったのと同時に大きく外側へと踏み出し、砂地を掻き回すよう剣を引き摺りながら真後ろへと身体を捻転させる。そして極限まで引絞られた切先が、臨界を超えた反動で加速され、その場に無為に佇んでいた幻像を砂埃ごと瞬閃の下に吹き飛ばした。
あの時・・・……、俺が浅ましくも生きたいなどと思ってしまったが故にセフィが死んだ。俺が生を願ったから、セフィは犠牲になった。……恐怖を、俺が死にたくないとさえ思わなければ、セフィは死ななかったっ!」
 奇妙な因縁がある白妙の女賢者ルティアによって呼び起こされた嘗ての記憶は、どれだけ時間を置いたとしても実に色鮮やかに瞼の裏に焼きついて絶えず意識を掻き乱している。
 裡に溜まった澱み吐き出すように吼えながら、誰もいない先に想起したてきをユリウスは切り伏せ続けた。傍から見ればその行動は鍛錬にしては余りに過激な様子であるだろうが、ユリウスにしてみれば魔物に遭遇して戦闘を繰り広げているのと感覚的には変わらない。それだけに暴虐で、鋭俊で、躊躇無い剣の舞いだった。
「だから、俺は……認めないっ」
――力への意志、それは……死への恐怖。つまりは生に執着せんとする純然たる命の煌き。生命ならば誰もが持つ、生きようとする根源的な本能です。
 以前アッサラームの夜に見えた超絶の魔導師、“導魔カオスロード”セリカシェルの言葉が耳の奥にねっとりと絡みつきながら甦る。
「絶対に、認める訳にはいかない!」
 ユリウスの口調に烈しさが増し、空を凪ぐ剣閃に荒々しさが迸った。
 力強く踏み込んだ足が地面を抉り、革手袋が軋み音を鳴らして兇刃を旋回させた。それはもはや技の領域から外れ、ただ一心不乱に我武者羅に振り回しているだけ。腕の腱も筋肉も、骨も神経も身体のあらゆる箇所が悲鳴を挙げている。だが、ユリウスの意識はそれを決して拾う事は無い。寧ろそれを更に誘発しているようでさえある程に、鬼気迫る姿で続けられていた。
 この時、ユリウスは既に気付いていた。アッサラームを出立して以来、いや正確にはアークマージに一矢報いる事も出来ず無様に敗れ去った時より感じていた、咽喉の奥に刺さった刺が疼くような焦燥に似た感覚の正体に。
 それは、どんな魔法を放っても、どんな技を繰り出してもまるで届かなかった仇敵に恐怖した事。殺戮を是とし、そこにのみ自らの存在意義があると定めている筈の自分が、敵を殺せなかった事実に恐怖した事。そして……大切な人でさえ殺めた自分が、最も殺してやりたい敵を前に何も出来なかった、不甲斐無い現実に恐怖した事だ。
 どのような形式であれ、恐怖を認めるという事は死を恐れ生を求めているという事を肯定する。それが自分には決して赦されていない事をユリウスは誰よりも熟知しているからこそ、認める訳にはいかなかった。既に抜き去った血刃は、砕け散る最期の瞬間まで酷使せねばならないのだ。
 それが人の道理に悖り、人の所業に非ざるというのならば、自分はもう人である必要は無い。元々自分は殺戮人形…ただの武器に過ぎない。今更人に戻る路など在りよう筈も無い。ただより強硬な何かにぶつかり、折れ砕かれる時のみが自らの終焉だとユリウスはそう強く意識に刻む。
「俺は剱だ。それ以外であってはならない。俺は――」
 小さく、とても切迫した声調で紡がれる呪文。自らの裡の脆い場所を崩壊させる魔法の言葉。
 意識を蹂躙していく耳心地良い甘い毒が、ゆっくりと自分の中に浸透していった。

「!」
 その時、聴覚が僅かに砂を踏み締める鈍い音を捉える。精神が昂ぶっていたユリウスは反射的に意識を動かし、それに動作が連なる。研ぎ澄まされていた神経は近付いて来る何者かとの間合いを正確に弾き出し、それを捉えんと恐るべき精度と速度を以って刃は襲いかかった。その一撃は全霊を以って放たれた斬撃で、刹那だが無意識に闘氣を纏った必殺の一撃。
(しまっ…………!?)
 我に返り、ユリウスは視線で剣筋を追い無理矢理に剣を引き留めようとする。それは半ば止める事はできないと理解しながらの行動だった。
 そしてその結果、ユリウス自身の思惑に反して彼の動きは完全に停止していた。だが、それが無我のまま踏み止まる事に成功したのではなく、より大きな力で押さえ込まれたような感覚にユリウスは襲われていた。
「……どういうつもりかは知らないが、実に危険な行為だな、少年」
「な……に?」
 自分が今どういう状況に陥っているのか図れず、軽い混乱をきたしていたユリウスに、至極平然とした声が掛けられた。そこに憤った様子は無く、逆に酷く落ち着いた声色で暢達とした韻さえ醸している。
 剣を振り抜いたままの体勢で唖然としているユリウスの目線が腕から剣先に到達すると、そこには長髪で長身の影が佇んでいた。
 ユリウスよりも頭一つ高いその容貌は精悍で、その姿には外見以上に老練な雰囲気と威厳がある。風に優雅に靡いているのは腰まで伸ばされた真っ直ぐな黒髪で、陽光を浴びて艶かしく白に輝いていた。
 ごくありきたりな簡易な黒の衣服の上から羽織る漆黒のコートが織り成すシルエットは、逆光の中でその存在感を壮烈に示し、一見して映る線の細い印象も、腕や双肩、胸など外衣の下から隆々と迫り上げている様から払拭され、鍛え抜かれた力を隠しているのが直ぐに解った。いや、寧ろ隠し切れていない力の波動がその青年が発する霊験あらたかな剣の如き気風と絡んで練達の極みを超えた、ある種の極地に在るのだという事をまざまざと知らしめていた。
 人の到達し得る水準を遙かに超越した者、という言葉がすんなりと当て嵌まる青年の底の見えない威容に、ユリウスさえ呑み込まれ茫然とするしかなかった。
 暫し黙したままその姿を見つめていたが、ユリウスは気付く。視界を占める自分の腕と連なる剣、その先にある事実に――。
(な、ん…だとっ!)
 ユリウスが繰り出した筈の切先は、青年の右手…いや、正確には親指と人差し指、中指の三指で抓む形で完全に受け止められていたのだ。
 その現実を認識したユリウスは我が目を疑う。今の一撃はほぼ反射で放たれた故に一切の加減は無く、誇るつもりなど無いが威力だけならばイシス砂漠で現れる魔物で最も厄介な“地獄の鋏”程度ならばそれだけで屠れるものだったからだ。
 その渾身の一撃が、化け物染味た膂力を秘める巨躯でもない青年に、まるで果実でも抓むように押さえつけられ、剣は全く動かない…否、動かせない。それは錯覚でも幻想でも無い信じ難い事実だった。ユリウスにしたところでただ眼を見開き、その思考を完全に停止させてしまったとしても無理からぬ事だろう。
(完全に……止められた、のか!?)
 青年を凝視したままユリウスは知らずゴクリと唾を飲み込んでいた。それは何時の間にか渇ききっていた口腔に痛みさえ覚える程で、全身の筋肉が凝り固まってしまったかのように動かす事ができなかった。
 硬直してしまったユリウスを静かに見下ろしていた長髪の青年は、突然斬りかかって来たユリウスを咎めるでも無しに、寧ろ宥めんと実に冷静な面で小さく吐息を零した。
「その様子から故意で無いのは解ったが……そろそろ引いて貰えると助かる」
「あ……ああ。悪かった」
 その角の無い声調に、漸く我に返り緊縛を解かれたユリウスは言われるがまま剣を引き、素直に頭を垂れる。それを逆に青年が制した。
「いや、実害は無い故に気に病む事は無い。それに思いの外、少年は集中を深めていたようだからな。これは迂闊に少年の間合いに立ち入った私にも否はあるだろう」
「……」
「だが、少し驚いた。あの間合いを僅か一踏で詰めて来るとはな」
 感慨深げな色で連ねられる言葉とは裏腹に、どう見ても驚いている様子ではない涼しげな顔で青年は綴った。
「敢えて酷烈な環境の中での武術の修練を行わんとするその気概…その若さでは称賛すべきものだ。だが次からは、周囲に誰も居ない事を事前に確認してもらいたい」
 そして最後を軽い苦言で締めくくる。しかし一連の青年の弁舌は極めて抑揚が無く、感情の起伏や咎め立てる様子など微塵も無かった。
 黙聴していたユリウスにしてみれば、明らかに非が自分にあると解り、且つ青年の弁が至極真っ当な論理であるが故に奇妙な感覚に陥っていた。唐突に生命の危険に遭遇したのだから相手は烈火の如く怒り狂ったところで、それこそが正常な反応だろうとユリウスもその程度の分別は弁えている。以前、遠いロマリア王国カザーブ村でも今回と同様の失態を犯した事がある故に、その認識は確かなものとしてユリウスの中で確立していた。
 だが、眼前の青年からはそれが一切見られない。もしかすると今放った剣撃など、青年にしてみたら危険にさえ値しない些末な微風に過ぎなかったのかもしれない、との考えさえ浮かんでくる始末だ。
 自身の中で繰り広げられる意味の無い思考を断ち切って、ユリウスは僅かに眦を鋭くして青年の後姿を追う。青年は、ユリウスが剣を引いたのを認めた後、オアシスの縁まで歩み寄り、左手に持っていた白紙の包み…花束を空高く放り上げていた。
 解き放たれた花束…不毛の地において色鮮やかな牡丹の花は陽光煌く空中で散華し、風に攫われて広がりながら静謐と共に水面に落ちる。鳥の羽を思わせる細長い花弁の群は音も無く横たわり、小さな波紋を水面に生じさせながら風に揺られて伝え拡げる。
 謎めいた行動の一部始終を見ていたユリウスは、理解できないといった様子で首を傾げた。
「……何をしている?」
「ふむ。他者の視点からすれば突飛な事に相違無いが……この場所は、見果てぬ願いを追い求め続けた者達の夢の址。つまりは、ここに眠る旧知の友への墓参と言ったところだろうな」
「墓参、だと?」
 思わず詰問口調で零してしまったユリウスの疑問は、特に隠すでも無しに返された答えに更なる困惑を招く事となった。
 青年の言う墓とは“幽玄の王墓”の事を指しているのかともユリウスは考えたが、王家の墓に葬られるのはイシス歴代の王だ。最も近く葬られた先々代の王とて数十年前の事であり、どう見ても三十路前後の容貌である眼前の青年とは年代的にも合わず、関連性がいまいち図れない。
 訝しげな色を強めたユリウスの眼差しを余所に、水面を漂う花々がゆらゆらと流れて行くのを遠く見据えながら青年は頷く。
「ここに眠る友は、嘗て酷烈に転びる世界の条理を前にして自らの裡に見出した力への意志を尊び、それ以って激動の時代を駆け抜けた。その道程が善いものであれ悪しきものであれ、立ち止まらずに進んだその選択を私は友の一人として肯定する」
「……力への、意志」
 己の口腔内で反芻しながら、ユリウスは知らず掌を握り締めていた。
「水面に落ちたそれら花弁の熾す波紋の一つ一つが彼が世界に記した存在の証となり、漣の余韻が残された者の胸の裡に何時までも残る傷痕となる。捧げし花の花弁の数を以って死者の魂の孤独を慰め、その芳香を以って生前に負った傷みを癒す……これは私の故郷に伝わる弔いの風習で、花葬という儀式だ」
「……欺瞞だ。おおかた水中に没する茎を死者に、水面に浮き広がる花弁を生者に見立て、それぞれの行く末を暗喩しているんだろうが、水面の変化など水中では無いに等しい……弔いなど、結局は生者の為に行われるものだろう」
 苦々しく冷厳に温度無く綴られたユリウスの言は、聞き様によっては途轍もない暴言ともなるのだろうが、儀式に興じる当の青年は一つ瞬きをして、振り返り薄っすらと微笑んだ。
「その通りだ。弔いの儀式とは残された者が後ろを振り返らず、前を見据えて歩みだす為の心の整理を促す事こそに真なる意味がある。その本質を見抜いているとは、少年は見識だな」
 感心するような言葉と共に、その深い深碧の双眸はユリウスを値踏みするように見つめる。ユリウスはユリウスで無表情に青年を捉えていたが、その内心では予想だにしなかった反応に流石に面食らっていた。
 暫しの沈黙。流れる音は風と砂と水の重奏音。
 やがてどういう結論が出たかは定かでは無いが、青年は小さく吐息を零し再び燦然と煌く水面に視線を移した。
「永き時を経てここも随分と様変わりしてしまったものだ。しかし、やはり悠久なる時の流れにあって、営々と築かれる人の世はかくも儚い。諸行無常、盛者必衰の理とはこういう事なのかもしれないな」
 一陣の風が大きく草木を、水面を揺れ動かす。さらさらと宙を流れる砂塵が、誰かの涙のように真昼の空に舞い、散って行った。








「さて、どうやら私は鍛錬の輿を折ってしまったようだな。申し訳ない事をした」
 オアシスに背を向け、青年はやや離れていた場所に立っていたユリウスの側に歩み寄ってきた。
「……いや。元を糺せば非はこちらにある。あんたにそう言われる筋合いは無いが」
 素っ気無く言いながら、ユリウスは半ばほど瞼を伏せる。
 どうにもこの青年に対して、自覚できる程に気後れしている自分がいる事にユリウスは困窮していた。喩えるならば風に吹かれる柳の様に、こちらの言動の全てが悠然と受け流されるだけ。そんな心象が先程から誰かの姿を脳裡で想起させて、どうにも居心地が悪い。
 基本的に他人の存在が自分の中に影響を落す事は無いと自覚しているユリウスが、初めて会った人間にこんな感想を抱いてしまうまでに、彼の心身は不調和だった。
 言い澱んだユリウスを見下ろしながら、青年は思案するよう口元に手を当てる。
「ふむ……少年に害意が無かったので咎めはしなかったが、少年の心理としては文句の一つでも連ねられた方が気持ちに整理が付くのかな?」
「何?」
「とは言うものの、故無き文句など私には思い浮かばないが……代わりと言っては些か不躾だが、少し鍛錬に協力しようか?」
 思いもよらぬ青年の言葉に、ユリウスは顔を上げる。相手の意図が全く見えない事に訝しげに眉を顰め、警戒から自然と眼光は鋭くなった。だが、そんなユリウスの突き刺さるような眼差しを受けながらも青年は変わらず静かな表情をしていて、口元には微笑さえ浮べていた。
 その様子にユリウスが不快そうに眉を顰める。
「唐突だな……何が目的だ?」
「なに、私も剣に生きる者の端くれ……先程の剣を見て少し少年に興味が沸いた」
 幾分も温度が下がったユリウスの声質には少しも動じず、青年は言いながら腰に佩いていた漆黒の鞘に納まる剣を示す。その一振りは一見すると飾り気の無い細身の剣だが、注意深く観察すると底知れない清廉な存在感を主張しているようにさえ感じられる。決してただの剣という枠に収まるような代物では無い事をユリウスは一目で察した。
 男の眼は光の加減もあってか燦爛としていた。だがそこには愉悦や享楽などという俗なる感情の色とは少し趣の違う、かつて無い不思議な眼差しだった。
「……いいだろう」
 青年の真意は不明ではあったものの、ユリウスとしても特に断る理由が見出せなかった。浅慮に他人と関わるような事は極力避けるべき事柄であったが、その思惑を越えて、先程自分が放った全力の一撃を難なく受け止められている事実が意識を引き寄せる。この青年が自分を遙かに凌駕する力を持っているのは瞭然であり、力を得る為に、へ進む為には何が必要なのか、その些細な切欠にでもなればと言う打算が何時しか脳裏に組み上げられていた。
 思惟がまとまろうとしているのを、ユリウスの双眸の光の揺らめきから察した青年は、柄に手を添えた。
「鞘打ちで構わないかな?」
「異存は無い」
 黒の青年と黒の少年はそれぞれに腰のベルトから鞘を解放し、各々右手に握り締める。
 張り詰めた氷の如く凛然とした空気を発するユリウスの姿を見て青年は一つ笑い、己の肩幅に合わせてそれぞれの脚で砂を踏み締め、堂々泰然と正対する。
 両者は奇しくも、剣を握っているだけで構えとはとても言えない自然体で対峙する形となった。
 ユリウスは僅かな変化さえ見逃さない冷徹な眼で相手との間合いを正確に読み、青年目掛けて疾駆した――。



――視界一面には意識が溶けてしまいそうになる蒼穹が広がっている。そこには清澄な何かが満ちているように思うも、その実は何も孕んでいない。だがしかし、そこには確実な虚がある。絶対の無がある。
 遙かなる空は、一つの翳りも無く澄んだ様相でユリウスを覗き込んでいた。
(何が……あった?)
 幽然と意識を蕩揺わせながら自問する。背から衣服を越えて熱された砂の感触がじわじわと浸蝕している。それが空の蒼さに熔けていた意識を急速に引き寄せた。
(俺は……何故、倒れているんだ?)
 ユリウスは何時の間にか剣を手放し、空を仰いだまま地面に横臥していたのだ。
 雲ひとつ無い空は眩しすぎてまともに眼を開いていられない程だ。だがユリウスは逆に眼を見開いて、打ち震える心中のまま驚愕するだけだった。

――型無く剣を構える…ただ剣を持ち立っているだけでこれ程までに隙が無い相手は初めてだった。
 隙を見出す為に一定の間合いを保ったまま摺り足で横に移動しながらも、それは半ば期待できないと断ずる。隙が無いならば、混戦を仕掛けて剣戟を連ねる中で隙を作り出せば良いと戦術を切り替え、初撃は牽制を意図して地面すれすれから切先で砂を巻上げて繰り出した。
 だが相手は舞い上がる砂塵には眉一つ動かさず、こちらが描かんとしていた剣筋を完全に見切り、微かに上体を逸らす最小の動作で躱す。その直後、事もあろうかこちらの剣の腹を手にしている剣の鍔で逆撃として弾いたのだ。
 ユリウスはその事実に眼を瞠るも、弾かれた反動さえ利用して、器用に全身を大きく捻り空中で再度真一文字に剣閃を連ねる。しかし青年は剣の柄を肉薄する剣閃と完璧にタイミングを合わせて振り下ろし、刃を叩き落した。その威力が余りにも凄まじかったのか、真横に軌跡を描いていた切先は急遽軌道を一転させて一直線に砂に突き刺さっていた。
 殆ど瞬き一つの間の交錯で、まず理解させられたのが絶望的とも言える力の差だった。
 声すら出せなかったユリウスは、だが足を止める愚を冒さず、再び間合いを取って今度は正眼に剣を構えて相手を睨みつける。ほぼ敵と対峙した時と変わらぬ烈気を放出するが、青年は露ほどの変化も載せず、その佇まいは限りなく無に近い。青年は完全に“待ち”の姿勢をとっているようで、あくまでもこちらの出方を窺う事に徹している。故に、隙がありすぎるように見えてその実は全く見出す事が出来なかった。
 ここに至り、最早どんな戦術も構築が出来ないと覚ったユリウスは、完全に攻め一点に集中する姿勢をとる。無謀とも言える事だが、常に先手を繰り出し、手数を多くする以外に選択肢は無いと状況がそう言っていた。
 我武者羅に攻め続ける中でユリウスは思う。戦っても絶対に勝てないと自らに定めている相手として挙げられる三人とて、勝てないながらも戦いにはなる。一対一という状況下において外部からの不測の事態が無い限り、総合的に今一歩彼らには及ばなかった。だがこの青年に対しては手加減されてなお、戦いにすらならない。それ程までに開ききった力の差…以前アークマージに敗北した時と同じ無力感を覚えずにはいられなかった。
 それを認めるのは極めて不本意であったが動かぬ現実である以上、下らない心情など棄て去らなければならないとユリウスは自らを諌める。これまでも度々同じような意識的岐路に立った事があったが、今回も同じく認めなければ先に進めない気がしていた。
 ユリウスが攻撃中に他の事を考えた事を僅かな動作の機微で察したのか、何合かの打ち合いになった後、ついに青年が“待ち”から“攻め”に転ずる。その右手に持つ剣を身を低くして溜め、自分目掛けて突き込んできたのだ。
 ユリウスは一瞬閃光が奔った事だけは認識する事ができた。だが、その先はわからない。剣撃を繰り出されたのは間違いないだろうが、その神速に見る事さえ適わなかったのだ――。

「少年の剣筋は素直で読み易いな」
 青年の淡々とした声が、茫洋と宙に溶けかけていたユリウスの意識を肉体に引き戻す。その時はじめてユリウスは、自分の額に乗る冷たいタオルの存在に気が付いた。青年の神速突きは額を捉え、ユリウスは軽い脳震盪を起こして半刻にも満たない間、気を失っていたのだ。仮にこれが真剣であったならば、自分は自らの死を自認する事無く死んでいただろう。
「今のが実力の全てだと言うならば些か失望だったが……どうやら杞憂そうだな。今の少年の剣閃には、内なる迷いがはっきりと浮かんでいた。強いて言うならば剣に載せる感情の波が激しすぎる。それが切先と思い描いた軌跡とを僅かに違わせ、結果として歪曲した剣閃を描いてしまっている」
 冷静に諭すよう青年が連ねる。それを聞きとめながら、ユリウスの乱れきった感覚は背筋を何か冷たいものが這っているのを捉えていた。だが意識は全て眼前の青年に注がれていて、それに思考にまわす余裕は無い。何時の間にか額に浮かんだ珠のような汗が、頬を伝い、顎線を撫でて宙を滑空し、砂に消える。時間にして一呼吸の間は、ユリウスの体感では永遠とさえ感じられていた。
「強すぎる情動は実力の発露を阻む……が、それとて悪い事では無い。時として裡なるままに振るう剣のみが真理に至る事もある故、な。少年の場合、剣筋に余裕が無い事が仇となって、乱れた時の歪みが激しい……若さの顕れだ」
「……言いたい放題だな」
 顔を歪め、深々と溜息を吐き出すユリウス。遙かな高みから見下ろしていた青年は、憮然としたようなユリウスの様子を見てフッと笑った。
「何がおかしい?」
「いや、失礼……久々に心躍る時間だった」
 眉を顰めて追求するユリウスに一つ苦笑を零し、青年はユリウスの側に膝を着く。そしてオアシスの水を汲んだばかりの水筒を置いた。
「その若さにしては練度も経験も悪くは無い。だがそれだけに、まだまだ鍛錬の余地がある。若い時分の時間は濃密だ。誠心誠意、常に一振り一振りに意義を抱いて鍛錬に励むと良い」
「……あんたは、一体何者だ?」
 半身を起こしながらユリウスは誰何する。初対面の人間に対して放つ言葉としては随分と今更な感じがするが、そんな心象など問題ではなかった。ただ単純に、この練達した青年の観点からくる言動に興味が湧いていた。
 だが青年からの返答は、ユリウスの期待に応えるようなものではなかった。
「人に誰何する時は、まずは己から名乗るのが礼儀というものだろう。違うか?」
「……ユリウス=ブラムバルド」
 至極真っ当な言葉にユリウスは反論できず、言われるまま名乗るしかなかった。そして口腔を名乗った時に喉が随分と渇いている事に気付いて、青年が置いた水筒を乱暴に掴み取り、栓を抜いてその中身を一気に喉に流し込む。急激に潤いに充たされる身体は、まだ立つ事は叶わなかったが活動を再開させ、朦朧としていた意識も漸く明瞭になった。
「ブラムバルド…………そうか。善い名だな、少年・・
 そんな中、ユリウスの名を聞いた黒衣の青年は僅かに目を見開きその名を反芻していた。だがそれも瞬き一つの刹那の間であった為、丁度水を飲んでいたユリウスはそれを見落とす。急に黙した青年にユリウスが怪訝な眼差しを向けていると、それに気付いた青年は頬に手を当てて口元を隠し、その内側で薄く緩める。
「折れる事の無い、欠ける事の無い絶対の力とは、心技体の三重で奏でられるものだ。技術を練磨する事、己を追求する事も欠かせないが、もう一つ、忘れてはならない事がある」
「…………」
「どんな状況に陥ろうとも、自らの中に定め高く翳した刃を信じ抜く事だ。仮に己が信じた世界の総てに裏切られた時、最後に自らを支えるのはその剱しかない」
「それは…………爺さんの口癖」
 無意識的に発せられた呟きを自らの聴覚で捉え、ユリウスははっとする。先刻からこの青年に抱いていた不可解な気後れは祖父イリオス…いや、“剣聖”の雰囲気に悉く酷似していた事に端を発していたからだ。
 呆然としているユリウスに、青年は歩み寄る。その手には、遠く弾き飛ばされていたユリウスの剣が握られていた。
「それはそうと、この剣……もうじき剣としての存在意義を失うな」
 僅かに抜剣し青年は刀身を見つめていた。それを聞き止め、ユリウスは遂に声を挙げてしまう。
「! 何故、それを……」
 それは本来自分しか知り得ない事実。魔法剣の行使によって引き起こされる存在劣化は、他人には知る事ができない。ユリウス自身にしても感覚的にそれを覚っているだけだ。それが言い当てられたのだから、ユリウスとて驚きは隠せない。
 青年はその剣を悼むように眺めた後、恭しく納める。そしてユリウスに手渡した。
「しっかりとその最期を全うさせてやる事だ。……どのような物であれ、どのような生命であれ、己が世界に生まれ刻む存在意義を貫き、その果てに殉ずる事ができるのは重畳の至り。世界の歪みの前に、志半ばに潰えるものも数え切れぬ程にあるのだから」
 だが青年は真摯にユリウスを見下ろすだけで、それ以上は語らない。やがて、青年の意図を計りかねているユリウスの肩に軽く手を置き、踵を返す。
「年寄りの助言だ。覚えておいて損は無い。頭の片隅にでも置いておくといい」
 立ち去ろうと踵を返したところで、青年は何かを思い出したように半身だけユリウスに振り返る。
「私の名は、エヌマエリス=ラグナギア。星流の廻り合わせがあるならば、いずれどこかで相間見える事もあるだろう……それまでは死ぬなよ、少年」
 微かに砂塵を舞わせ、水面を躍らせる風に青年の髪が、コートが優雅に靡かせている。去り往くその広い背中を、ユリウスは視界から外れるまでずっと無言で見つめていた。




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