――――第五章
      第二五話 祭りの後で







 限りなく広がる月も星も無い昏い夜空。
 その天蓋には新月の夜に感じる空虚さ、清らかさはまるで無く、洞窟や屋内における真闇のように先から得体の知れない圧迫感を覚えずにはいられない。この有機的な帳は、特異な現象が起きた結果として現れたものではなく、寧ろここ・・では普遍的な、至極日常的な空の様相に過ぎなかった。
 黄昏の闇に覆われし絶望の大地。そこに住まう人々が何時しか自嘲的にそう呼ぶに至ったこの地は、墨汁の如き黒濁の海から吹き入る湿った風に常に曝されている。その為、この地の気候は一年を通して寒冷で、動植物が生命を育むには決して適した環境とは言えないだろう。
 だがしかし、そんな生きていく事さえ過酷な現実であろうとも、世界は紛れも無く己が一部としてこの地を組み込んでいる以上、地に立つあらゆる存在は逃れる事ができず、半ば絶望と背中合わせに生の刻印を世界に刻み続けている。

 漆黒の海より吹く潮風には、水気の他にも只ならぬ何かを孕んでいるような心象を一望する者に齎す。それは宙を凪ぎ潅木や岩肌を梳く風の音が、宛ら人々の慨嘆と絶望を乗せた悲鳴のように響き渡っているからかもしれない。
 その中で、この世界・・・・の外縁と謳われる人里から遠く離れた海岸線沿いには、荒涼とした湿原地帯がひっそりと広がっていた。そこは枯れ果てた草木や腐った土壌から形成され、そこに堕ちた腐敗した動物等の死骸から発生する毒の沼気を周囲に解き放ち、絶えず生命を蝕んでいた。
 海からの風は背に巨壁の如く泰山と聳える岩山に跳ね返り、沼気と絡み合って雨に成り切れぬ濃度の高い霧を常時その地帯全域に漂わせ、世界から隔絶する。まるで人をはじめとする、あらゆる者の往来を阻んでいるかのように決して生命を寄せ付けない。
 だがその秘奥の内側には、人知れず周囲の景観に酷く不調和で厳かな祠がひっそりと佇んでいた。



 湿原地帯の広大さに比べると些細な規模に過ぎない祠の中は、しかし周囲の暗濁さとは裏腹に実に鮮やかで明るい色彩に染められている。無数に燈された燭台の火が束になって小さき太陽の光輝を構成し、何処から湧き出しているのか清澄な水が室内に牽かれた水路を往く事で活潤を促す空気が絶えず産み出され続ける。闇の中では得る事の出来ない刺激的で朗らかなそれらを糧に育まれた色取り取りの草花は、眩いばかりの生命の躍動を漲らせて咲き誇り、甘く濃厚な香りを空気に溶かして羽ばたく小鳥達を誘っていた。
「“黒曜ニグレド”がオルレラの“門”を通って越境し、予定通りに“聖女”と合流を果たしたようね……これで満足かしら?」
 清流の音と鳥達の囀りの余韻が清浄な空気に潰えぬ内に重ねられたのは女の声音。麗しく、だが勝気で揺らがぬ意志が覗える凛としたものだ。その声が挑発的な韻に弾んで虚空へと響き渡る。そして、それは直ぐに掬われた。
「ええ。貴女には一応感謝しておきますよ」
 受け答えるのは、深い知性を醸す落ち着いた声色。しかし声の清楚な色彩に反して、発した者の姿格好は些か不釣合いだった。その身に纏うのは、乳白の靄が漂う室内において一際眼を惹く闇色の外套。だがそれは外の空や海のように混濁したものではなく、澄んだ夜空の慎ましさをそのままに主張し、裾や袖口には金糸によって意味深長で細緻荘厳な刺繍が施されていて、周囲に放たれる崇貴な気品は隠しようが無い。
 淑女然とした佇まいで、だがそれだけには留まらぬ清冽な威厳と烈気を身に纏った者…魔王軍総括参謀長“導魔カオスロード”セリカシェル=ソフィーリアは、丹念に整えた己が黄金の髪を微かに揺らし、面に微笑みを浮かべていた。
「これで、当面“黒曜”は此方に留まる事になりますね。わざわざ“焔魔バルログ”を煽って“聖女”に差し向けた甲斐があったというものです」
「それは誰の為? ……なんて、解り切った事を聞くのも無粋かしらね」
「……さて、貴女が誰を思い浮かべたなど知りよう筈もありませんが、要らぬ憶測は己が身の破滅を招くと忠告しておきますよ」
「ふふ、じゃあそういう事で納得してあげるわ」
 それは互いに明らかな挑発の応酬であったのだが、セリカシェルにしろ彼女に相対している女性にしろ真に受けて憤る様子は微塵も無い。寧ろ軽口を叩き合うこのやり取りを楽しんでいるかのような親さが在った。
 魔王軍に属する者達からでさえ畏れられる“導魔”を前に背を向けている女性は、同性の中では背丈が高いセリカシェルに比べてかなり小柄な体格だ…もっとも、彼女らを人間の型枠で語る事自体にさほど意味など無いのだが。
 頭一つ以上の視点から一見できるその姿は華奢で、身を覆う聖職者と同種の法衣は、丈の調整が不充分だったのか床上で長く引き摺られている。大きくゆったりとした造りの衣は青碧の色調に統一され、その上を膝まで届くやや青みが強い碧の髪が真っ直ぐに流れていた。
 その姿を初めて見る者は違和感を覚えずにはいられないだろうが、紛れも無くその女性こそが、この秘境の祠の主だった。
 青碧の女性はやがて踵を返し、セリカシェルに正対して表情を和らげた。
 性根の潔さを物語る大きな群青の双眸と、意志の強そうな整った眉。それらの顔立ちはまだ少女とも取れる若齢の様相であるが、老成した雰囲気を纏うしなやかな姿がそれを払拭する。まるで時を止めて長久を生きてきたとの印象を受けるその彼女が視線を向けていたのは、彼女の足元に犇く床石…正確には、硬質な水晶で造られた透明な床の下に張られた水面だった。
 底さえ容易に見透かせる程に澄んだ水は、まるで鏡の如きに煌びやか。そして、そこには如何なる術の賜物なのか、不可思議な事に別の景色が映し出されていた。セリカシェルの立ち位置からは、そこに何が映し出されているのか窺い知る事はできなかったが、彼女にとってそれはさほど問題ではない。重要なのはこちらの要求通りに事が進み、完遂されたという事実にある。その点においては信の置ける青の女性の言葉に、セリカシェルは大きく頷いていた。
「それにしても今回は随分と急な話だったわね。……まあ、貴女が彼方へ行くって言い出した時も唐突だったけど。“ギアガ”の開閉を頻繁に行うのは多少なりとも“闇の衣”に影響を齎すから、余り誉められた行為とは言えないわよ」
 注意を喚起する女性の言葉に、ここで初めてセリカシェルは浮かべていた笑みを潜ませる。そして肩を落して深々と嘆息を零した。
「まったく、此方で大人しくしていれば良かったものを。世界を越え、あろう事か男の尻を追いかけていたなど……慎み深い淑女にあるまじきはしたなさ。全く以って嘆かわしい事です」
「貴女の躾が厳しすぎたんじゃないの?」
「あの方が知れば、何と落胆される事か……」
「……セリカ。鬱陶しいから愚痴は壁にでも吐いて頂戴」
 自分がセリカシェルに振った話題とは言え、こうして自の世界に入り込んで眼の前でブツブツと零されるのには少々うんざりする。呆れたように溜息を吐いた後、咳払いをして小柄の女は声調を強めた。
「世界を越えてまでの愛娘・・の捜索だったのに貴女にしては存外あっさりと帰還した……それ程までに優先すべき重要度の高い事象があったのかしら?」
 その問い掛けに、漸くセリカシェルは姿勢を正して女を見据える。その言葉が想起させる事象が、互いに軽口を叩き合う時間の終わりを導いたのだ。これまでとは打って変わって、セリカシェルの隙の無い引き締められた表情は、これから発する言葉の重みを先行して物語っていた。
「……貴女に隠しても意味は無いので正直に言いますが、貴奴の封印に揺らぎが見受けられまして、ね。監視していたには対処しようが無いとの事なので、急遽私が代わりにその役目を遂行する事になったのです。まあ、魔法に関しては無能な彼に、変異したと思しき封印組成の解析などできよう筈もありませんので的確な采配ですが」
「そう……それで代わりに“剣帝ゴッドハンド”を彼方に」
 納得したのか口元に手を添える相手の様子に、肯定を示すようセリカシェルは重々しく頷いた。
「私が“魔王ルドラ”様より賜っていた任務は、他の者共には荷が勝ち過ぎていますからね。適材適所という事です」
「……嘗ての“勇者ロト”シュレリアによって十二に破壊された“黒”の欠片。興味本位で弄るには少しばかり度が過ぎた玩具だけど……何度も忠告している通り、“魔王”と言えどもアレを制御する事は不可能よ。いいえ“黒”の起源点を思えばこそ、アレを御せるのは寧ろ――」
「それは早計な判断というものです。欠片の本質さえ理解しておけば、使い方など幾らでも考案できます。それこそが意識ある者に許された智慧というもの……火蜥蜴も浅はかなりに、何やら邪な事を企んでいるようですし」
 綴られる懸念をセリカシェルは決然と遮る。それは指摘された可能性をも冷静に見据えた上での清廉な姿勢だった。
 真摯なセリカシェルの言葉に、青碧の女性は薄く笑った。
「邪と知りながらも貴女達は泳がせておくのね……可哀相に」
「想定できるあらゆる諸事象を加味した上で、“剣帝”を向わせたのです。彼には冗談が全く通じませんから、弛緩した彼方の軍も引き締まる事でしょう」
 若干棘が孕んだセリカシェルの言葉に、それは寧ろ貴女の方でしょう、と口を吐いて出そうになった声を呑み込んで、青の女は優美な髪を大きく払った。
「……まあ、それは貴女達の事情だから深くは聞かないわ」
「そうして頂けると助かります」
 背を向けて首だけを回し、肩越しにセリカシェルを捉えて女は言った。
「ではそろそろお帰り願えないかしら? 私もいい加減作業を再開させたいから」
「そうですね。面倒をお掛けします」
「……貴女がそれを言うの?」
 誰の所為だ、と半眼で睨み据えながら青碧の女は溜息を吐く。その反応にセリカシェルは小さく失笑した。
「これは失敬……ああ、帰る前に一つ貴女に尋ねる事があったのでした」
「何?」
 セリカシェルの改まった様子に、深刻そうな何かを察して女は怪訝に眼を細める。
「貴女達は、彼方で“勇者”に神約烙印テスタメントを押印したのですか?」
「“勇者”を……見つけたの!? いえ、あの子が度々彼方に行くのは……そういう事」
「……存じないようでしたね。忘れてください」
「待ちなさい! ……説明してくれる?」
 踵を返すセリカシェルに、今度は眼を見開いていた青の女が静止をかける。それはこれまでの余裕ある態度とは異なり焦燥さえ載せていて、そこから嘘偽りを感じなかったセリカシェルは歩みを止めた。
 この相手との付き合いはもうかなり長い。それ故にセリカシェルは澱み無く言う。
「ふとした事から彼方で“勇者”を発見したのですが、その者には既に忌まわしき烙印が刻まれていました。あれ・・を生成できるのは貴女達に連なる者のみですから、総督である貴女の指揮の内ではないかと思っただけです」
「馬鹿な……私がそんな事を命じると思っているの?」
「貴女個人の心中を察すれば、思いません。だからこそ訊いているのです」
 冷然と告げられる追求に、腕を組んで記憶の戸棚を引き出すように顔を顰める。
「少なくとも、ここ十数年の間で新たな神約烙印が生成された記録ログは、レイライン上に残っていないわ。十六年前の……“白雪姫クロウカシス”に繋がったのが最新で、最後の痕跡よ」
「そうですか……貴女がそう言うのならば、それは真実なのでしょうね」
 セリカシェルはその答えに納得を示したのか淡々と頷く。もしもこれで納得しなかった場合、自分には虚偽に走るか沈黙を保つ以外に選択肢は無かったので、青の女としては内心穏やかではなかったが。
 再び小さく嘆息していると、もう用が済んだと言わんばかりにセリカシェルは足を進めていた。それが入口の門扉の前に到り、手を添えて押さんとするところで頭を振った。
「では、本当にこれで御暇しますね。貴女の事ですから、これ以上立ち入った事を詮索すれば、同盟破棄を提言してきそうなので。それは私共としても本意ではありません……ですがまあ、これからは任地も近い事ですので、しばしば顔を出させて頂きますよ。あの放蕩娘の事で貴女に色々と問い詰めたい事もありますし、貴女とのやりとりは嫌いではありません」
「……お茶の用意はするけれど歓迎はしないわ。お互いの立場をもう少し顧みて欲しいものね」
 口元を歪めながらの邪気の無い皮肉に、セリカシェルは愉しそうに笑った。
「この偽りの同盟が永く続く事を切に願います。“生命の青晶導師ウィリディタス”、マリアベル=カリクティス」








 聖陽暦四〇三七年……アリアハン統督歴五三一年、双子ジェミニの月下旬。
 およそ四ヶ月に及ぶ魔王軍による聖王国イシス侵攻は、イシス側…即ち人間勢の勝利に終わった。
 だが勝利したイシス側もまた、その勝利の余韻に浸る事はできなかった。それはこれまで歴史の表層に出る事の無かった陰の事実が、立て続けに陽の下に曝される事になったからだ。
 久遠の開国より太陽神ラーの化身と尊信されている女王の、突然の交代。
 女王の片腕として国を導くと信じられていた、王弟の叛逆。
 そのどちらもが、イシスの人々の心に大きな傷みを伴う波紋を残す事になる。磐石と信じていたものが根底から覆されたのだから、それは無理も無い事だろう。
 この度の戦争は人間同士の国家間で行われたものではなかった為、領土拡大などの勝利による国としての利潤は皆無であった。唯一この戦でイシスが勝ち得たものと言えば、個人個人、またはイシスと言う国家の生存、存続。それはある意味、これ以上無い程に根源的な勝利の褒賞と言えるだろう。
 しかし、それとて美酒に浸り誇れる事のできるものではない。生き残った人々は、亡くなった人々の死を背負い、混迷の世をこれから先も生きていく事を義務付けられたのだ。生者は皆、苦悶と慨嘆を零す暇無く、戦で蒙った深すぎる傷の修復に奔走を余儀なくされていた。
 実際には一端に過ぎないのだろうが、魔物“軍”に勝利という結果を収めた人間の国。大なり小なり誇張はあるだろうが、この度の戦で元来強国としての位置を保持していた聖王国イシスは、その名に輝かしく重過ぎるレッテルを付ける事になり、現在の魔物に脅かされる世界に対して鮮烈且つ大いなるきぼうの到来を具象する存在となった。だが同時に、その強すぎる光は暗闇の中で否応無しにを集める。闇に潜む数多の眼の一つが、敗れた側にある魔物軍のものだとしても何ら不思議な事では無い。
 強大な力を持つ者が、本人の与り知らない領域で戦端に組み込まれる事があるように、力ある者は無意識に戦いを引き寄せ巻き込まれる。故に、国家組織としての迅速なる復旧と同時に、更なる武力の充実をイシスは求められる事になっていた。
 過分に勇み足なその背景には、“魔物”というその総容が漠然とした脅威ではなく、これまでは混乱を恐れた国々の主導者達の秘匿とされていた“魔王バラモス”という明確な畏恐すべき存在が、市井の民に開示されてしまったという動かし難い事実があったのも無視できぬ一因と言えよう。




 蒼天より降りし四洸の翼よ。悠遠より到りし四煌の翼よ。
 哀しみと向かえる心を。
 哀しみが解る優しさを。
 哀しみに討ち勝つ力を。
 哀しみを救える勇気を。
 愚迷に彷徨うラーの民に与え給え。罪深きイシスの民に与え給え。

―――聖王国イシス第二代女王、メァト=フェニス=ソティス


 ラー教の全ての教義が収められた聖典の初めの一節。それはイシス人ならば誰もが当たり前のように知っている説話。
“死宵の砂漠”を平定し、太陽神ラーの加護を受けた神祖“光輪王ファラオ”の実娘で、父王が築いた国とラー教団の根幹を更に洗練し、現在に至るまで不変であり続けているこのイシスの常識を体系化したと云われる伝説上の女王の言葉だ。
 二対の翼ある黄金の像は、聖四宝を纏ったその女王を原型モデルに造られたとも伝えられる。悠久を越えて現在にその姿を遺す女神は、大聖堂の“光臨の間”に泰然と席捲していた。
 天井に張られたステンドグラスを透して射る七色の月光を浴びて、燦然と輝く姿は太陽と喩える人々の声は間違ってはいない。しかし、有彩の色に染められながらもその表情は何処までも無機質だった。
 祭壇に平伏する長椅子の最前列に腰を下ろして、“剣姫”アズサは虚ろに女神を見上げていた。
 魔王軍との戦争が終結して既に二日が過ぎていた。アズサは気持ちの整理をする為に、皆が寝静まった後に毎晩ここに足を運んでいたのだ。
 だがその面は精彩さを欠き、普段の溌溂さは息を潜めている。終戦直後より、日中は“剣姫”として正式に即位した新たな女王フィレスティナに随行し人々を激励する為に聖都中を廻っているのだから、疲労が蓄積していても仕方が無いだろう。しかし今のアズサにはそれだけではなく、もっと内側からの、精神の根底から滲み出る憔悴が全面に浮かんでいた。
「ふぅ……」
 思わず零れた嘆息は、深々と静まり返った礼拝堂に厳かに反響する。
 窓から射る光以外に灯りの無い周囲には誰もいない。だがそれは当然だった。昼間は誰もが復興に明け暮れて慌しく奔走し、その反動から夜は疲れ果てて休んでいる。ましてやこの神殿の閉館時間はとっくに過ぎていて、こんな時間にこの場所に立ち入る事ができるのは、本当にごく一部の人間だけ。アズサにそれが許されていたのは“剣姫”の御位に立つからだ。
「ティルト……」
 誰も聞く人間が居ない事を覚った上で、アズサは溜息と共に小さく呟く。
 それは同じ双姫の名を冠する親友の妹の名前で、決戦の地で反旗を翻し対峙した敵の名。そして苦楽を共にし、この手で斬った大切な盟友の名だった。
 ティルトはアズサの剣の癖を殆どアズサ以上に知り尽くしていた。最後の剣戟の瞬間、刃と刃がぶつかり合い、力が刹那の均衡を保っていた点をずらして刃を滑らせればアズサは反応しきれず、反撃として致命打を繰り出せた筈なのに、ティルトは敢えてそれを無視したようにも思える。そう確信できるのは、彼女の実力を誰よりも把握しているからに他ならない。
 紫寂に染まるあの瞬間から少し時を置いたからこそ、冷静に振り返る事ができる。
 しかしティルトが敵対した理由がどのようなものであれ、自分は後悔をしてはいけないのだと思う。それは彼女の壮烈な決意に泥を塗る事と同義だからだ。自分の心がどれ程納得していなくても、どんな状況事情があったにせよ自らの手でティルトを斬った事に変わりはないのだから。その事実を背負い、己が定めた路を前に進む以外に彼女の尊厳を守る術は無いのだ。
 そう自らの意識に深く刻み込む事で前へ歩もうとしている訳だが、こういう静かな夜は、少し気持ちが揺らいでしまう。こうした独りの夜は自然と裡から込み上げてくる紫の霞に視界が眩み、それはどうしようもない程に遠く過ぎ去り、触れる事の出来ない時間を呼び起こしてしまうからだ。自らを苛む無意識の後悔の具現とも思えるそれは、いっその事、形振り構わず泣きじゃくって涙と一緒に流れ出てしまえば良いのだと思うも、それが決して叶わない事を熟知している為に、やるせなさを噛み締めながら深く嘆息するしかできない。
 きっとそれが自身の弱さなのだろうとアズサは自嘲し、これ以上の混濁した心の吐出を抑えるように、双眸を伏せてラーの聖句を心中で告げた。



「天空を見上げ、不変のまま在り続ける太陽ラーを人々は愛し、静謐に沈み、神に見棄てられし閉ざされた闇夜の世界を憎んだ。ラーの民は、迷わず挙って光の下に縋り寄る。その様はいわば闇夜で咲く燈明に群がる羽虫のように……光の真中に触れる事は決して叶わない事を知りながらも、ただ威光が及ぶ畿内に立ち入らんと同じ意思の下に集う他者を蹴落としてでも我先にと光を浴びようとする……実に短絡的で浅慮極まりない」
「!?」
 不意に、この場に在る筈の無い他者の声が鼓膜を打ち、アズサは反射的に振り返って周囲を探った。ただ呆気に取られて流されるのではなく、女神像を背に椅子から距離を瞬く間に開け、腰に佩く鞘からいつでも抜剣できるように警戒体勢を無意識で執るのは、やはり彼女が一流の剣士である事の証明になるだろう。
 だが聞こえてくる声は、相も変わらず暢達な韻を連ねていた。
「神に近付かんとする意志がかえって人間的な意思を際立たせているのだから、甚だ滑稽な事だね。どれだけ清廉な光をその身に受けようとも、裡に蠢いている光を希求する感情はとても醜く、汚らわしい闇そのもの……闇とは光の内側、或いは裏側に常に寄り添い、共に在るべきものだと知るべきだ」
 特にこの国の人間はね、と男の声は愉しげに締めくくる。
(馬鹿な……気配は無かった筈じゃ!)
 ここに入る為の扉を開閉する音さえ聞こえなかった。何処よりも静まり返り、炎が空気の流れに揺らめく音さえ聞き取れる程に聴覚が鋭くなっている今でさえ。確信に思い、自ずとアズサは眼を険しく細める。
 強張り硬質化するアズサの声に反し、礼拝堂に響く声はとても穏やかだった。
「君達は大いなる過誤を犯している……“聖”を追及すると言う事は、揺らぎや歪みを暗喩する“邪”の根絶を意味する。それは即ち、全てが平坦均一化され、あらゆる生滅変化の無い恒久常住の境地に至らんとする事だ。しかし、そこには人間を人間たらしめる心の居場所は果たして存在すると思うかい? 揺らぎ、歪み、不安定さを確実に内包する感情という意識こころの動きは、“聖”を極めた境地にとって招かれざるものなのでは無いのかい?」
「……くっ」
 薄闇の先からの問い掛けに、アズサは答える事ができない。それがラーを貶めている言であろうとも、反論さえ浮かんでこない。ただ苦渋に表情を歪めて声が発せられた方角を睨み据えるだけだ。
 礼拝堂の暗さは月光の朧さも相俟って深さを増している。その中で静穏な声と近付いてくる足音だけがはっきりと響き渡っていた。
「しかし同時に興味深い事でもある。遠いサマンオサにおいて広く信じられている太陰神ゼニス教では、全く逆の是を謳い、人の意識を導いている。この似て非なる、無為自然とした対を形成する二つの在り様は、まるでその裏側で働いている何かの意志を隔しているようにも映る……ぼくは、そこに世界を廻す大いなる真理システムの存在を感じずにはいられない」
 やがてアズサの眼が闇色の濃淡を区別できるまでに慣れてきた頃、礼拝堂の入口の方に二つの陰影がくっきりと浮かび上がっていた。
「な、何者じゃ!」
 虚勢と自覚しながらもアズサは声を荒げた。礼拝堂で大声など聖位に就く者としては言語道断であるが、二つの人影から感じられる圧倒的な威圧…姿がはっきりと目視できない不確定さがそれを強めた事もあるがアズサは知らず気圧されていた。反射的に抜いていた聖剣の刀身が、清澄な月光と二人から発せられる“魔”の波動を浴びて昂揚に打ち震えているのをアズサは不覚にも気付く事ができなかった。
 一歩一歩、ゆっくりだが確実に近付いてくる二つの影。闇に霞み未だはっきりと姿を捉える事の出来ない姿は不可解な畏れを齎す。だが相変わらず届いてくる声調も色も穏やかで、寧ろいきり立つアズサを宥めるようにゆっくりと連ねられた。
「物事の裏側に在る真実が陽の目に曝されるか否かは、国や教団、統制者側の裁量次第であるけれど、揺らがぬ信仰を胸に日々を懸命に生きる人々にとってそれは正に夢物語で、知る必要の無い事だ。真実の隠蔽はしばしば周囲に悪印象を齎すけれど、時として人の安定を得る為には偽りこそ求められる事がある……いや寧ろ、偽りとはに用意されるものだと言っても過言では無い」
 イシスの人々はこの度の戦争を以ってそれを知る事となっただろう、と声は挑発的な韻を孕ませた。
「目に映るものだけが真実に非ず。光が隠れている闇の時間であろうとも、世界は変わらずに在り続けている……それはこの世界では不動の理。人の意識こそが自明を闇に隠し、惑い彷徨わせ、堕とすんだ」
 やがて声の主は、完全に天井より射る光の支配下にその姿を曝す。鮮やかに重なる光の帯は深々とした雰囲気に呑まれて白く朧な帳を降ろしている。その中で眼を惹いて止まない闇色の外套は素材によるものか艶やかな烏珠ぬばたまの滴りを見せ、萌える草海の様に鮮明な翡翠の髪が夜光に呼応する様に煌いていた。
 その顔の線は細く、表情は声に違わず柔和な空気を纏っている。中性的に整った相貌の、髪よりも深い翡翠の眸は抜剣し油断無く自分を見据えているアズサを、そしてその背後に聳える『黄金の女神像』に注がれた。
「麗しく輝く幻の容……太陽神ラーを象った『黄金の女神像』。この地で最も強く清廉な聖なるもの……成程、これ程の強固な殻に覆われていたのなら、遠くから察知できないのも頷ける。結果的に、大仰な手間を掛けてくれた智魔将エビルマージ卿には感謝しなければならないね」
 不本意だけどね、と光の下を暢達に歩む翡翠の青年…アトラハシスは、アズサの存在を始めから気に止めていないのか女神像だけを捉えていた。
 対するアズサは、アトラハシスが紡いだ言の葉に大きく反応を示した。
「エ、エビルマージじゃとっ!? 滅邪の剣ゾンビキラーのこの震え……貴様魔族か!!」
「砂漠の双姫“剣姫”よ……ぼくが首を縦に振れば君はどうする?」
 今更ながらに気が付いたとでも言わんばかりに、アトラハシスはパチリと眼を瞬かせ、柔らかく微笑む。
 ある種の挑発ともとれる、道端に落ちている小石を改めて見つけたような言繰りから、自らが発した誰何への肯定、そして完全に侮られていると受取ったアズサは、細められた緑灰の双眸の内に憤然の炎を滾らせて勇ましく声を張り上げた。
「生憎と、最近心穏やかではいられなくてのぅ……貴様が魔王に属する者ならば、叩き斬るっ!」
 アズサは聖剣を軽やかに振り、空を切る。そして敵意を乗せた切先をアトラハシスに定めた。並の使い手でさえ萎縮してしまわんばかりの烈気だが、ただの優男にしか見えないアトラハシスは受け流すように冷笑した。
「君の目に映る、君が心に感じた事を素直に肯定すれば良い。人とは所詮、独善を大儀に塗り替えて、自らを誤魔化してしか行動はできないのだから」
「戯言をっ!!」
 裂帛の気合を発してアズサは床を蹴った。この聖堂での抜剣は本来禁じられている事だったが、聖都に魔族が侵入した以上、見過ごす訳にはいかないと自らに言い聞かせて。その意識こそがアトラハシスの指摘した事なのだが、アズサにはそれを自覚する余裕は無い。
 今のアズサにとっては“魔”に属している存在はただそれだけで許し難い存在で、晴れない胸中の元凶とも言える。故に、問答無用で先制攻撃を仕掛ける事に一片の迷いも無かった。例え、目の前の魔族が明らかに人間の姿をしていようとも。
 冷たい輝きを発する聖刃と共に肉薄するアズサを穏やかに見下ろしたまま、だがアトラハシスは表情をピクリとも動かさない。
 微笑みを崩さないその余裕さがアズサの逆鱗に触れたのか、彼女は大きく跳び上がり、自重と全力を賭して空中から剣を大上段より振り下ろした。
 天より降る雷の如き一閃。迷い無き屈強なる光の軌跡。
 眉一つ微動だにさせずに成り行きを見守るアトラハシスに、刃が到達する――。
「っ!?」
 アズサが初めに理解できたのは聴覚を痛烈に打つ激突音。続いて掌から腕に昇る衝撃の波。
 金属と金属同士がけたたましくぶつかり合った残響が、硬質な空間に木霊する中。漸くアズサの眼は現状を認識した。
 標的と定めたアトラハシスの前に、闇に隠れたままだったもう一つの影が割って入り、恐らくは武器か何かで自分が繰り出した斬撃を阻んでいたのだ。
 衝突の反動で後退し、着地したアズサは自らの一撃を弾き返した相手を凝視する。
 頭上で真一文字に構えていた棒状の得物は、今の自分には皮肉な程に因縁めいた武器…槍だった。躍り出てきた人影は神官が着用する風体の厳かでゆったりとした黒衣に、深くに被られた漆黒のフードでその姿は覆われていた。
 床に膝を着いたまま見上げるアズサと、闇色の紗幕の奥から見下ろす視線。二つの視線が絡まり、刹那の沈黙を堂内に齎す。だが、それは長く続かなかった。
「……こんばんは、今宵は好い月夜ですね」
「!? そ、その声はっ……」
 周囲の静寂さによって良く通る女性の声が耳朶を優しく撫でる。その声にアズサは愕然と眼を見開いた。
 女性らしき人影は言いながら槍を引き、片方の手で頭部を覆うフードを取り払ってその下に隠されていた面を月光に曝す。冷たく鮮やかな白に浮かんだのは、清楚な蒼穹。それはアズサにとってとても見慣れた色彩で、疑いなく声と共に記憶のものとの一致を促すのだが、一瞬アズサにはそれが誰だかわからなかった。何故なら肩で綺麗に切り揃えられていた筈の彼女・・の艶やかな髪は、肩にすら届いておらず男のように短く切られていたからだ。下手をすれば後ろのアトラハシスよりも短いくらいである。だがそれは決して彼女の冷静な面持ちと不調和ではなかった。
 闇から光に躍り出た女性は、薄っすらと笑みを造って未だ片膝を着いたままのアズサを見下ろしていた。
「こうしてまた貴女と言葉を交わす事ができて私は嬉しいです、アズサ」
「ティルト! おぬし……おぬしっ――!?」
 よろよろと立ち上がってアズサはティルトを見つめる。衣服の趣向こそ違っていたが、その姿は健常そのものだ。その事実が大きな惑乱をアズサに招いた。
 その一端は、間違いなくこの手で斬って致命傷を与えた事実。
 その一端は、倒壊する王墓に呑み込まれたであろう推測。
 そしてその一端は、何かの決意を示唆するように様変わりした容姿げんじつ
 アズサの心の奥底から次々と浮かび上がる疑問や、純粋にティルトが生きていた事への嬉しさ。最早言葉には表せぬ様々な感情がごちゃ混ぜになって思考を掻きまわし、次の言葉が継げなかった。
 嬉しさとも哀しさとも言えぬ曖昧な表情を滲ませたアズサに、ティルトは冷水を浴びせるように淡々と発した。
「生きていたのか、と問われるのでしたならば、私の返すべき解は唯一つ。人間としての私は確かにあの時、あの場所で死にました。今の私は、魔族です」
「な、何を……!?」
「改めて自己紹介をいたします。私はティルト=シャルディンス。“昂魔の魂印マナスティス”が一つ、『魔槍・王鬼の槍デーモンスピア』の操者」
 器用に掌の上で柄を旋回させ、やがて切先をアズサに向けてピタリと止める。
 アズサにだけ見せ付けるように前に差し出された槍は、その色彩も造詣も禍々しい存在感を主張していた。髑髏を模された装飾より伸びる鋭利な刃は、アズサが持つ聖剣と真逆の立場であるかのように昏黒に染められている。
 今まさに正対する者の姿はアズサが良く知る者に違いなかったが、その気配はまるで知らない者に変化していた。
「おぬし……魔族に、堕したのか!?」
 混乱する理性と震える唇を何とか動かしてアズサは言葉を紡ぐ。そこには信じたくない、という彼女の心情が如実に表れていた。それを感じ取ってか、これまで絶やさなかった薄い笑みを潜めティルトは眉を寄せる。
「堕した? いいえ、違います。私は産まれ変わったのです。私自身の力への意志に従って」
「ふ、ふざけるでないっ!」
 激昂してアズサが否定を叫んだ瞬間。深く嘆息を零し終えたティルトは穂先を下げて突進してきた。その急な行動に、アズサは咄嗟に左に跳んで回避を試みるも、虚を突かれた為か避け切る事ができず背中に向けて薙がれた金属柄の殴打によって、長椅子を越えて中央通路にまで弾き飛ばされてしまう。それはこれまでのティルトからは想像できない膂力による一撃だった。……もっとも、アズサとて“剣姫”とまで呼ばれる剣士であり、反射的に身体を捻り刀身をぶつけた為に直撃を免れて被害は無かったが。
 石床を滑り、長椅子に背を支えられる形で停止したアズサは、掌の痺れを敢えて無視してティルトを見つめる。
 つい先刻までとは丁度正反対の位置取りになったティルトは、再び槍を構えて言った。
「私は冗談が嫌いです。貴女には言うまでも無い事だったのですが……」
「ティル――」
「……本当は黙ってこの地を去るつもりでしたが、やはり貴女だけには別れを言っておこうと思いまして。これは私が棄てきれない弱さの形ですが、それもまた私自身を構成する要素。否定するにしても、まずは受け容れます」
「っ!」
 その頑固とも言える意志の固さは、間違いなく自分が良く知るティルトのものだった。それを理解してしまい、ただ泣きそうな顔をしてアズサは戦意を失い、剣を携える腕を下ろしてしまった。
 茫然自失となったアズサを見ているのが居た堪れなくなったのか、ティルトは瞑目して構えを解く。
「……アトラハシス。お早く」
「うん」
 これまで一部始終を静観していたアトラハシスは、ゆっくりと女神の下に歩み寄る。
「往古よりこの世界を支える大いなる八色やつしき。“翼の封印たる竜種の遺産ドラゴン・オーブ”は絶えず世界を蕩揺い廻る。その一つ“紫”は嘗てこの地に流れてきた。今でこそそれは既に何処かの国に移ったようだけど、当時この地に根付いたその霊気は、同じく支柱の一で砕かれた“黒”の断片を呼び寄せる事になった」
 厳かに両腕を水平に開き、祭壇に立ったアトラハシスは司祭の如く厳かに告げる。
「十二に分かたれた“黒”の破片……その一欠片がこの神像の裡に隠されているんだ。それがどのような因果によってかは知らないけど、ね。開闢より血潮が絶えず染み込んできた砂漠イシスを見守り続けて四千年。光の戦女神という殻を被り守護獣の象徴スフィンクスとして、長きに亘り“黒”をその胎に封じ続けてきたのか……だけど今、その役目を終える」
「や、やめッ――」
「誓の下にその貴き力を示せ、我が魂魄の印…『崩剣・破壊の剣』よ!」
 両手を頭上に掲げたアトラハシスの手中には、何時の間にかおどろおどろしい剣が握られていた。それは幾つもの骸骨が救いを求めるように縋り重なり合って形成する一つの塔。邪悪な怨念が渦巻いて、更なる不吉と厄災を引き込むかの如く聳える破滅の象徴。
 アトラハシスは大上段に構えた破壊の剣を、像に向けて一気に振り下ろす。黒赤の禍々しい軌跡は女神の頭頂から一直線に下り、それを支えていた祭壇さえも奔り抜ける。
 やがてパリンと硝子が割れるような音がしたと思うと、『黄金の女神像』に蜘蛛の巣の如き亀裂が浮かび、祭壇と共に木っ端微塵に砕け散った。
 飛散する破片は宙を往く半ばで砂になり、月光を反しながら流れる星となって床に降り積もる。
「ああ……」
 信じられないものを目の当たりにしたアズサは悄然と呟き、ティルトは無感動にその様子を眺めている。
 破壊音の余韻が堂内を飛び交い戻ってくると、女神像があった場所には凝縮した闇が宙に浮かんでいた。それは生物に本源的な怖れを誘発するものだったが、アトラハシスは怖れず闇に手を差し入れ、引き抜く。するとその掌には滔々と黒の光を湛えている紅玉が握られていた。
「これが……『闇のルビー』か。ふぅん、どうやら覚醒は済んでいるようだね」
 ルビーを大事そうに懐に忍ばせるアトラハシスの姿を眺めながら、ティルトは抑揚無く言った。
「終わりましたか?」
「うん、もうここに用は無い。ティルト。君の方こそ、お友達とのお別れは済んだかい?」
「……はい」
 若干の間を置いてティルトが頷くと、アトラハシスはただ、そう、と頷いて天井を見上げる。するとアトラハシスの身体はゆっくりと宙に浮かび始め、同様にティルトの身体も床から離れた。
「ま、待てっティルト! 話は終わっておらぬ! おぬしは一体何を考えて――っ!?」
「私と貴女は良く似ている。お互い頑固で、融通が利かない。だからこそ、貴女は私の選択を理解してくれると信じています」
 遠ざかるアズサを見下ろしながら、ティルトは抑揚無く言った。その様子がアズサには余りにも良く知ったものであったから、叫ばずにはいられなかった。
「それで人間と……私と対峙するというのか? それがお前の意思なのかっ!?」
「そうです……貴女の本質が受け容れる事だとするならば、私の本質は、この槍のように自らの意志をただ貫くのみ。新たなる世界を拓く為に、私は進む事を選びます。例え、貴女と敵対してでも」
「ふざけるなっ。では私達が培った時間はっ、語り合った夢は何だったのじゃ!?」
「……剱の、聖隷」
「!」
 涙さえ浮べて悲叫するアズサを前にして、傷みに耐えるようにティルトは双眸を伏せ、槍を眼前に構えて祈りを告げる。
 ティルトの見慣れない、だが見覚えがある行動に、祭壇に駆け寄っていたアズサは大きく眼を見開いて足を止めた。それは仲間の“勇者”が良く口にする言葉だと知っていたからだ。
 愕然と目を見開くアズサに、ティルトは消え入りそうな程薄くではあるが、確かに微笑んだ。
「アズサ……王墓での事を引き摺る必要はありません。どのような容であれ、私はまだこの世界に存在するのですから」
 それはアズサに対しての慰めの言葉なのか。そう零したと同時に、アトラハシスとティルトの身体は天井のステンドグラスをすり抜けて、夜光の中に消え去った。
「ティルト……嘘じゃ、ティルトーーーーっ!!」
 朧な月光は相変わらず深々と降り積もる。限られた光の畿内で、アズサは慟哭した。








「剱の聖隷、ねぇ……ふふ」
 夜の暴虐な風が飛び交う中。聖都を遠く一望できる砂丘に立ち、アトラハシスは意味深に微笑む。
 後ろに佇んでいたティルトが怪訝そうに目を細めた。
「どうかしましたか?」
「その言葉……ぼく達がユーリに贈ったものなんだよ」
 そうなんですか、と無表情ながら頬を綻ばせティルトは頷く。そして遠ざかる聖都を見据えて呟いた。
「……不思議な気分です」
「不思議?」
「少し前まで、この景色が疎ましくて仕方が無かったのに……今は、とても懐かしくさえ感じています」
 過ぎ去った時間を想起しているティルトの横顔を捉えながら、成程、とアトラハシスは内心で頷く。その懐郷とも言える感慨は、己がアリアハンを棄てた時に感じたものと同じであったからだ。そして同時に、自分は因果の円盤を周回し、もうすぐ一年になる過去という時間を、決して届かない永劫の彼方に置いてきたのだと改めて理解する事になった。
「それは、君がちゃんと前に進めているという事だよ」
「……そう、だといいのですが」
 魔族に転職したてで実感が伴わないのは無理も無い事だとアトラハシスは思う。敢えてそれに対する言葉は掛けなかった。
「それよりも良かったのかい? あの別れ方では、君への疑心が深まるだけだと思うけど?」
 振り向いたアトラハシスの目を見て、ティルトは少し表情を顰めるも、やがて小さく頭を振って真摯に答えた。
「……いえ、構いません。私には、まずこの“槍”を知る事が急務と考えます。先程の具現の反動が、もう身体に出始めていますから」
 言いながらティルトは外套の下より自らの手を風に曝す。その白い手は痙攣しているのか小刻みに震え、掌にはしっとりと汗が滲んでいた。それははっきりとした不調の顕れであり、無視できない危機の兆候でもある。こんな状態で平静を保っているティルトの精神力は寧ろ驚嘆に値するものだろう。
「いきなり“印”を具現するなんて無茶が過ぎるよ……でも、それが無茶だと知りながらも敢えて貫き通すまでに、彼女は君にとって特別な存在だったんだね」
 二人の間にある絆は、あくまでも二人だけのもの。それを余人が安易に評するべきではない。アトラハシスはそれを弁えてはいたが、無表情に微かな感情を載せるティルトの様相が余りに嘗てのユリウスに似ていたものだから思わず声に出してしまっていた。
 案の定、ティルトは些か顔をむくらせたが、アトラハシスに悪意が無いのを覚り、嘆息と共に肯定する。
 不器用なんだね、と朗らかに苦笑を浮べ、アトラハシスは闇色の外套を大きく翻す。
「では行こうか、ティルト。君に、同じ路を歩む仲間を紹介しよう」
「はい」
 その声を合図に、再びけたたましく暴風が吹き荒れ、砂塵が天高く舞い上がる。
 澄んだ夜を覆わんばかりに下ろされた砂の帳は、これまでの閉幕と、新たなる混迷の路であるこれからを幻視させる。
(さようなら姉上、父上…………さようなら、アズサ)
 砂色の幕間が終わる頃には、二人の影はこのイシスの砂漠上から完全に消え去っていた。




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