――――第五章
      第二四話 聖者けだものの行進







 空には白光の太陽が昇り、蒼穹の空が眩いばかりに燦然と輝いていた。
 長い時を“夜”に覆われ、砂漠は失った体温を取り戻さんとするかのように、ただ一心に身を広げて天から放射される熱を受け止めている。じりじりと面を痛烈に焼く傷みさえ待ち望んでいた感覚だったといえよう。
 聖都を襲撃していた不死魔物群の将…屍王アスラフィルが暁に散り、蒼と朱が混ざり合って薄紫に染まる空。そして明け往く夜空を歓喜のまま迎えていた人々の耳に響いてきた心胆を凍りつかせるおぞましい空の啼哭。それが何なのかを人々が疑う間に、遠い残響は聖都全域の隅々までに染み渡るまでに到っていた。
 朝陽という明確な勝利の形を取り戻していた人々に、それは完全に虚を突いてきた出来事だった。連なる音の波に、それが獣の遠吠えと気付くのには幾許かの時間を要した。そして骨の髄を直接伝わってくるかのような恫喝の雄叫びによって、人々の心を萎縮させる早さはその比ではなかった。
 だが、半ばこの状況さえも予想していたであろう参謀スルトマグナの速やかな機転によって最悪だけは免れる事となった。
 その機転とは、スルトマグナに随行してイシスに滞在している妖精種ミリアが持つ“嵐杖・天罰の杖”を起動させる事により、聖都及び都の背後に座しているオアシスごと風の防御壁で覆う、という事だった。
 物事の表層に目を傾けるならば、その規模においては“魔姫”ユラ=シャルディンスが張る守護結界に遠く及ばなかったが、深層にある本質を見据えるならばミリアの紡いだ結界は文字通り次元が違った。
 砂塵舞う地で熾した風であるにも関わらず、そこには砂の一粒さえ孕んではなく、清らかなる流れは遠くさえ見渡せる程に澄み切っている。涼やかな風の被膜は、オアシスから巻き込んだ陽の性質に染まる水はおろか“死者の門”の影響で活性状態にある霊素エーテル元素フォースに満ちている大気さえその清流に組み込んでおり、完全に御された陽なる流れを“魔”の構成要素である負陰の因子に直接干渉させて、その存在確率を書き換えるという世界を律する法則を侵犯していたのだ。
 もっとも、四神鍵の一振りとされる杖の真価の断片でさえも発揮できれば、風は防御に留まらず攻撃に転じ、一瞬で砂漠全土に徘徊する敵と定義した魔物を残らず崩滅する事もできたのだが、現在の所持者であるミリアの未熟さの為かそれは叶わず。風の結界は外側から侵入しようとする魔物に対してのみ効果を示す程度に止まっていたが、それでも魔に対する絶対防壁として敵の進攻を一時的ではあるが封じたという戦略的事実は非常に大きい。突然の増援出現の報に浮き足立ち、弛緩していた意識をたどたどしくはあるが引き締め直すには十分な間で、幸いな事に王墓に出陣していた味方が帰還した事実もあって自軍の体勢を整えるだけの猶予を得る事となったのだ。



「どうやらさっきの遠吠えはただの宣戦布告あいさつだったみたいだね」
 聖都の内外を隔てる外壁に据えられた大門の上部回廊から、ヒイロは眼下に広がる砂漠を睥睨しながら言った。陽射しに梳かれて眩いばかりに煌く銀髪に反して、逆光の中に据えられた琥珀の双眸は冷たさを増していた。
 砂の一粒一粒が空からの熱線に小さく身動ぎし、遙か彼方の地平線は朧にその線を歪ませている。撓んで濁った砂上の蒼穹は、その先から何かが突如として這い出てくるのではないかという予兆染みた存在感を醸しているようだ。しかし所詮はただの蜃気楼。粗密が際立つ大気を進む中で、光が異常屈折を起こした結果として生ずる単なる自然現象に過ぎない。
 世界の原理システムを読み解きながら、そこではたとヒイロは思考を留めた。
(こんな時に感傷とは……私らしくない。この逼迫した状況においてもまだ俺には余裕があるのか、或いは現状に向う真剣さが欠如しているか……さて、私にとってどちらが真実なのか――)
 客観的に己の心中を量りながらヒイロは誰にも気付かれぬように小さく嘆息する。改めて自身の在り方を評価してみたが、結局のところ自分には他人が感じている危機感、命を掛金チップにした勝負に向う不安や緊張といった揺らぐ情緒を感じる事はできない。どのような立ち位置に在ろうとも、厭くまでも己は事の推移を見つめるだけの中庸な傍観者に過ぎないとつくづく思い知らされる。
 王墓の側で目を醒ました時から、これまで自分の意識下で囁くだけだった風韻の何かが、思考の深域にまで浸透している気がしていた。
(……迷う事じゃないな。こんな時にこんな思考を繰り広げている時点で、俺は誰よりも冷酷な存在である事は確かだ。……だけど、私が“風”である以上、それは自明かという事か)
 何者にも、風を捉える事などできはしない。ただ在るがままに世界を梳くだけ。
 自嘲からか微かに口元を持ち上げて、ヒイロはその双眸を伏せる。そして意識は遙か天空を往く大鷹と化した。
 甦りつつある灼熱砂漠。その上に点在しているのは獣の群れ。大型の山羊や猿、熊や猫や鳥など異常な進化を遂げたとしか思えない禍々しい姿は百や二百では済まない。聖都へと入る正面街道は元より、その最果てに引かれた地平線をも覆わんばかりに犇く異形の獣達が、今にも飛び掛ってきそうな勇ましさで唸り声を洩らしていた。
「結界の効力に関しては信を置いて大丈夫ですが、ミリアの能力的に長続きしないので、結局は一時しのぎです。それに、こうして何時までも引き篭もった所で状況が好転する筈も無いですからね。未来さだめは自ら切り拓いてこそ。変化を恐れていては進歩は見込めません」
 集中を始めているヒイロに歩み寄りながら、紅蓮の少年スルトマグナは外壁から一望できる魔物軍の姿を捉え、何の感情も見せずに言う。篭城を促したのは自分だが、現状のままでは何一つ解決しないと言う事も十分理解しての言だった。
「見渡す限り知性の欠片も無い下品な魔獣ばかりですが、畜生の名を冠する割にはこの統制された様は見事です。……敵に将である魔族がいると見て良いでしょうね。となると彼らは正規の魔王軍で、且つ獣の軍という事は獣魔将本人か、または獣魔将側近級の魔族でも来ているのかな?」
 野の魔物でこうして殺気漂う張り詰めた戦場に立ったならば、それぞれが裡から迸る殺戮衝動にのみ突き動かされて勝手気ままに襲い掛かってくるだけだ。それが徹底して抑え御されているという事は、彼らの上により強大な力を持った存在が随行している事に結びつく。
 安直な連想ではあるが、スルトマグナは己の推察に確信を抱いていた。
(獣魔軍……預韻詩篇で獣を匂わせていたのは、最終節。つまり詩が示すのは、まさに今この時局という事……昂焔は不遜ながら僕、轟嵐は…杖と結び付いてミリアだとすると、残る雷霆は――)
「スルトマグナ君。魔将って? ……さっき空に現れた智魔将エビルマージと同じ?」
 スルトマグナの言葉を本人よりも重く受け取ったのは、“癒しの乙女”僧侶ソニア。彼女は先刻空に現れたエビルマージが放っていた清冽な負陰の波動に中てられて、気分を悪くしてしまっていた。だがそれは彼女の精神が脆弱なのではなく、ソニアの本質的な存在属性が陽の方向に著しく高い資質を持つが故だ。“夜”が明け、陽が昇る事で徐々に緩和されていたが、完全に調子が戻るには今暫し時間が掛かりそうな様子だった。
 ソニアの後ろでは、現在の護りの要となっている純エルフのミリアが、臙脂のフードを深く被って強烈な陽射しを遮り、影の中から視界に犇く獣共を忌々しそうに睨み据えている。手にした杖が絶えず輝きを迸らせているのは、その秘めたる力の断片を発揮しているからだろう。彼女の性格ならば悪態の一つでも着く局面だが、憮然として唇を尖らせた表情のまま無言に徹していたのは、結界維持の為に意識を集中させているからに他ならない。
 周囲の状況を鑑みて一度己の思惟を中断し、スルトマグナは魔物が造る影の垣根を眺望する。そしてソニアに視線を戻した。
「ええ。ご存知無いのも当然ですが、魔王“軍”を構成するのは魔獣ビースト悪鬼デーモン海棲ネレイス蛇龍ナーガ呪師メイガス巨剛オーガに分類される六属からなる魔物群で、魔将とは文字通りその群の長です。今砂漠に展開しているのは紛れも無く魔獣軍で、その監督としてあれ程までに荒ぶる獣を統制できるのであれば、導かれる結論は獣魔将かと――」
「――それはない」
 遠視特技“鷹の眼”の使用で双眸を伏せたまま、ヒイロはスルトマグナの言葉の上から厳かに重ね言った。
 唐突なそれにきょとんとして目を瞬かせたソニアは、ヒイロの横顔を不思議そうに見上げる。瞑目して祈りを捧げているようにも見えるその姿は、ある種の崇高な聖職者のみが持ち得る澄んだ存在感を放出しており、ソニアはその敬虔さ故にヒイロのただならぬ威厳に気圧されていた。
「へぇ。どうしてそう言い切れるんですか?」
 語尾を持ち上げてスルトマグナはわざとらしく試すように語尾を上げて言う。それは自身の言を遮られて不服を感じたからではなく、寧ろ逆にはっきりと断言するに至ったその根拠に興味を覚えたからだ。
 そんな少年の挑発に乗った訳ではないが、ヒイロは眸を伏せたまま単調に続けた。
「バラモスが有する腹心……その椅子に座す者が変わる事は過去に度々あったが、その中には定席の者もいる。それは最も数に優れる獣の群を統べる白焔獅子、ラゴンヌ。奴はバラモスの配下の中では随一の古参で、此方においては魔王軍本城に据えられたネクロゴンドの守護を任務としている。主君に忠実な番犬が、自ら鎖を解いてまで出張ってくるなど在り得ない」
「……随分と詳しいんですね。どこでそんな情報を?」
 ラゴンヌ、と心中で反芻し、胡乱な眼差しでスルトマグナはヒイロを見上げた。
 しかしそれは無理もない事だ。魔王軍の事情など、本来直接邂逅でもしない限り人の世界で知る術などない。スルトマグナ自身は周囲の環境の特質上それを得る事が可能であった事、そして実際に魔王軍との戦端に組した者の一人として知っているに過ぎなかった。そしてその彼にして持ち得た魔将の情報といえば、以前討伐した海魔将テンタクルスと先程邂逅した智魔将エビルマージ。嘗て勇者オルテガに討たれたという天魔将サタンパピーという名前程度のものだ。
 だがヒイロは、現在の人類においてある意味最も魔王軍に精通していると言っても良いスルトマグナさえ知らなかった獣魔将の名前を告げ、しかも魔王との浅からぬ関係を述べている。
 発された言の葉の全てを真実と鵜呑みにする気は無かったが、それでも何よりスルトマグナの興味を惹き着けていたのは、この眼前の青年の語り様が件の魔族達の事を知識としてではなく、経験的に相対した事があるような語感を孕んで綴られていたという点だ。
 周囲の驚愕と疑念の視線を一身に集めながらも、ヒイロは酷く冷静で無感情だった。
「別に驚く事では無い。この程度の情報など、彼方では誰もが知っている事実の砕片に過ぎない…………知っている? 俺が、何を?」
「ヒイロ?」
「ヒイロ……そうだ俺はヒイロ=バルいや違う。私は……俺の名前はっ――」
「どうしたの、ヒイロ!?」
 不意に再び調子が変わり、混乱でもきたしたかのように支離滅裂な独り言を発するヒイロを見て、心配げにソニアは呼んだ。
 それが引き金となったのか、ビクリとわかりやすいくらいに身体を大きく揺らし、ヒイロは両手で頭髪を掻き毟るように掴み全身を戦慄かせる。表情を歪め、口腔から微かに漏れる苦悶の嗚咽にはやはり他者には理解できない意味深長な言葉が練り込まれていた。
 一体どれ程の痛みに耐えているのか、蹲ってしまったヒイロは肌から脂汗を滲ませ、呼吸が疎らになっている。その彼に駆け寄り、その肩に労わるようにソニアは手を掛けて回復魔法を紡いだ。その柔らかで清冽で、決して穢れる事の無い朗らかな陽の波動を浴びて、ヒイロは身体の震えを深奥に潜まる。そして何事も無かったかのように顔を上げ、ソニアを見た。
「ん? どうしたんだいソニア。そんなに怖い顔をして……」
 見上げる琥珀は何時もの穏やかで落ち着いた、そして飄々とした色彩に満ちていた。
 一連の、余りにも無自覚な変貌振りに呆気に取られたままのソニアは続く言葉さえ紡ぐ事を忘れ、ただ唖然としている。そこにスルトマグナが乾いた甲高い音を発てて両の掌を打ち鳴らした。
「……色々訊きたい事はありますが、それはこの際後にしましょう。それよりも貴方はこの現状をどう見ますか。盗賊団“流星”の元参謀、“銀梟”殿?」
 少年らしからぬ醒めた視線に苦笑を零し、ヒイロは再度立ち上がって遙かな場所に犇く獣達を見据えた。
「君に意見を求められるとは光栄だね、“焔の申し子”君」
「茶化さないで下さい」
「これは失敬。……うーん、そうだね。幸いな事に距離はまだ充分にある。わざわざこちらの優位を棄ててまで彼らに合わせて扉を開き、砂漠で激突する必要は無い。直接接触まで遠距離攻撃で数を減らすのが上策かな」
「ふむ」
「街道付近は長年の人の往来により踏み固められていて、地盤も他に比べて遥かに安定している。魔物軍が犇いている場所程度なら、騎馬歩兵隊の突撃範囲としては戦果も充分に期待できるんじゃないかな」
 顎を摘むように手を添えたスルトマグナを見下ろして、ヒイロは悪意無く穏やかに笑った。
「勿論、そんな事を俺が言うまでも無く君は既に考え到っているからこそ、外壁回廊に弓兵隊や魔道士隊を、外門前に騎馬隊を早急に集結させているんだろう? 目下の課題を挙げるのならこちら側に長期においての篭城が不可能な事、魔物が陣取っている位置がこちらの射程を越えている事にある。魔族の管轄下にあるなら、敵もおいそれと射程内に突っ込んでくる事は無いね。さて、どうしたものか」
「……今、認識しました。貴方はどうやらユリウスさん以上にやり辛い相手ですね」
「ははは、誉め言葉と受け取っておくよ」
 深く嘆息して肩を竦めたスルトマグナに、ヒイロは再度苦笑を零していた。








 膠着は長久に続いていた。
 否、実際にはそれ程までに時を経た訳ではなかったが、この状態を体感する者達にとってそれは久遠を思わせん程だった。いつしか日は緩やかに天頂へと到り、煉獄の熱気を以って暴虐なまでに大地を灼く。炎天下に犇く者全ての体力と精神力を分け隔てなく、そして往々の思惑さえ微塵も鑑みず情け容赦無く削り取っていた。
 外壁の上から敵勢を睥睨し警戒態勢を解除せぬまま待機し続ける者達、閉ざされた門の直ぐ前で何時でも突撃ができるように陣形や気勢を保つ者達からは次第に言葉が失われ、それぞれの荒々しい吐息だけが緊張に乾いた空気を軽やかに滑る。身体の内側から滲み出てくる珠のような汗を肌に乗せ、それが零落して砂と岩に吸われる艶かしい音さえ聞き取れそうなまでに誰もが皆、極限まで気が引き締まっていた。
 微かな風紋の軌跡を捉える集中を以って見渡す黄金の砂面には、天より輻射される熱波によって陽炎が浮かび上がり、敵との境界を音も無く歪ませていた。それはあたかも、両極から発せられる殺気によって世界が軋み、その隙間から不条理を喚ぶ終末の焔が人と魔物の両方を等しく覗き込んでいると言わんばかりに、どことなくそこから不吉や不穏に似た気配が流出しているのではないかと誰もが感じていた。
 ある意味、それは予兆だったのかもしれない。
 誰かがゴクリと唾を呑み込んだ瞬間。白砂の戦場の丁度中間あたりに、地面を這うように一陣の風が吹きぬけた。幕間の終わりだと言わんばかりに強かに響いた風韻は砂塵をけたたましく撒き上げて、厳かに降り頻りて視界を断つ。
 猛然と舞い拡がった砂の紗幕は一向に拭い去られる様子が見られない。その中で滾々と湧き出す砂煙に浮かんだ影の色を、両軍は互いの刃と牙を向けた敵影だと認め意識を高めた。
 しかしその場に立つ全ての者の気概を嘲笑うかのように砂幕の蔭りは急激に肥大し、その膨脹を留める事ができず終には内側から喰い破る。
 白日の空の下に曝されたのは何よりも深く、何よりも昏い漆黒に光る霧だった。
 両陣営の者達が敵と察し見据えていた影こそ、その黒霧。尋常ならざる怖気を齎す黒の霧は、瞬時に周囲に散っていた砂煙の残滓を捕らえ貪欲に啜っている。青と黄の景色を亡失させる闇色は、飛散する砂の一粒一粒を頬張り、取り込みながらゆっくりとその諸手を世界へと差し出していた。
「あれは……一体?」
 露になる視界に、外壁の上で横並びに配置された兵達の中から弓矢を構えて弦を引く者や両手や、杖を翳し魔力を集約させる者が現れ始めた。それは突如として現れた異変をどう捉えて良いか判らないと言った困惑する思いが大半で、彼らにしてみれば警戒する以外に自らを保つ術が無かったからだ。
 惑乱にざわめく兵達の前を“剣姫”アズサが勇ましく檄を飛ばし、聖剣の腹を動揺する兵達に向けたまま歩いて壁のように立ち塞がる事でどよめく兵達を宥める。毅然とした眼差しの彼女の姿に、兵達も冷静さを取り戻し、先程までの待機状態に戻る事となった。
 だが実際にはアズサ自身も猛る兵達の心境と同様で、ただその双肩に背負った“剣姫”の名が取り乱す事を封じていたに過ぎない。
 アズサは他の者達と同じように決して穏やかならぬ眼差しで、食い入る様に眼下の異変を見下ろした。
「……誰か、いる?」
 それは誰の呟きだったのか。
 その声に解を与えるようなタイミングで、続いて上空より燦然とした風が再び吹き下ろした。何処からともなく流れて来た轟風は、立ち昇っていた全ての砂塵を払い、黒霧を刹那の間だが拭い去った。
「ユ、リ……ウス?」
 ソニアが遠目に恐る恐るその名を呟く。特別視力が優れているという訳ではないが、彼女はただ直感のままに発していた。
 側に立つヒイロやスルトマグナはその言葉に目を細め、改めて霧を注意深く見据える。
 周囲の霧よりも尚深い漆黒の髪と、風にはためく濃紺の外套がぼんやりとだが視認する事ができた。それは紛れも無くソニアがその名を紡いだ人物。霧の裂け目の先にある内側には、霧状の黒光を身体に纏わせて蹲っているユリウスの姿が確かに在ったのだ。
 しかしそれは新たな疑問を脳裡に過ぎらせる。
 その出現の仕方は、初めからそこに佇んでいたとさえ思える程に自然で、移動魔法を使った形跡など見落とす筈も無い。ならばどうやって、と自然に思考の行き先を定めてしまう程に不可解な現れ方だったからだ。
 決して届くような距離でもないのだが、ソニアがその名を呟くのと同時にユリウスは立ち上がる。
「あぁ、ああぁぁっ……あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
 それは登る事が決して出来ない深淵の沼に堕した者が発する凄惨な絶望。聞けばそれだけで自然と心を震わせるだけの痛ましさを秘めた闇黒の慟哭。空に向かって声にならない絶叫をユリウスは喉が張り裂けんばかりに挙げた。
 悲鳴にも似た痛烈な咆哮は澄み切った蒼穹に潰える事無く、速やかに余韻を黄砂に立つ全ての者に躊躇の影を落とす。そして続いて発せられた空気が凍るような壮絶な殺気は、白く輝く太陽の下に立つ全ての者の心に等しく怯懦を齎した。
 激動するユリウスの心身に合わせて激しく燃え上がる黒霧は、前に立つ者に逃れられない死を想起させる極寒の煌きを解き放つ。その魂を鷲掴みせんばかりの殺気に、生態としての因子に組み込まれている破壊衝動が大いに触発されたのか、理性に欠ける魔獣の群から数体の魔物が統制から外れ、本能の赴くまま狂奔してユリウスに向けて牙を剥いてきた。
 足場の悪さなどお構い無しに砂漠を強かに蹴り、真っ先に突撃してきたのは重量感のある深い山吹色の毛皮に身を包んだ山羊の魔獣マッドオックス。狂気しか載せないその双眸は陽の下では紅蓮に光り、頭部を飾る凶悪な太さとうねりを持った大角は、ただ獲物を貫く為に生えてきたようでもある。
「死ねぇぇ!」
 頭を屈めて体当たりを繰り出してきた狂山羊に、ユリウスは裂帛の叫び声を挙げて真正面に駆け出し、両手で上段に構えた鋼鉄の剣を魔物と交錯する瞬間を狙って全力で振り下ろした。大地を断たんとせんばかりに放たれた渾身の斬撃は魔物の角を断ち、少しの勢いも殺がれる事無く首筋から深々と体内に吸い込まれ、やがて砂に突き刺さった。身体を真っ二つに断たれた魔物はあえなく即死し、だが突進の勢いが残っていたのか慣性のまま数歩先まで砂上を駆け、漸く力を失い横臥する。ドサリと鈍重な音と青き血潮を派手に撒き散らしながら砂にその躯を埋め、静かに消滅していった。
 肉や骨、神経や臓物を切り裂いた際に大量の血糊や体液が糸を引いてユリウスに絡まっていたが、彼はそんな事など微塵も厭わずに、次の殺戮対象へ向けて行動を移していた。
 砂から剣を抜き去っていたユリウスは膝を屈め、深く身体を沈めた後、反動を充分につけて垂直に飛び上がる。直ぐ頭上の宙空には、死角から襲い掛かろうとしていたキャットバットがユリウスの突然の反応にたじろぎ、一瞬だが宙で制動をかけて停止していた。その大きすぎる隙にユリウスは既に構えていた剣を袈裟に叩きつけ、猫の魔物は斜めに身体を断たれて絶命した。
 着地したユリウスは、その瞬間を狙っておぞましい鋭さの尾針を向けて背後から飛び掛ってきた巨大な毒蜂…ハンターフライを、その急襲より早く左足を軸に右足を砂に滑らせて身体を捻転し、剣を真一文字に閃かせる。
 刃が敵を捉えるのを確信しているのか、ユリウスは剣が敵の外殻と接触するのと同時に叫んだ。
「死ねっ」
 円孤を描いた瞬閃の斬撃をまともに受けて尾部と胸部に斬り断たれた魔物は、衝撃で吹き飛ばされ、砂面で発狂しながら上下半身をそれぞれ激しく身動ぎさせて悶絶していたが、ユリウスはそんな不気味に蠢いている魔物を足蹴に踏み砕き、刃を突き立てて完全にその息の根を止めた。
 動かなくなった魔物の躯から剣を抜こうとした時、ユリウスは左腕に拘束を受ける。見れば鞭のように強かな舌を伸ばし、こちらの腕の自由を奪わんとアントベア…大アリクイと類される種の変異体が小さな蒼い身体で地面に踏ん張っている。ユリウスは血潮と共に裡に流れる殺戮衝動のまま手を動かして逆にその舌を握り、そのまま潰さんと力を込めた挙句、自らの方に引き寄せた。活性化している闘氣によって力が平常時よりも遙かに増大した状態でのそれは、小柄の魔物などに反抗を許さない。
「死ねっ!!」
 舌を締め上げられる苦痛に身体を支える意識が移ろったのか、アントベアは軽やかに宙を舞いながらユリウスに引き寄せられ、そのまま突き出された剣で顔面から串刺しにされた。
 大口を開け、咽喉が刀身の根元にまで到った魔物の形相は、形容し難い正視に耐えないものであったが、ユリウスは微塵も表情を変えず、顔に付着した魔物の体液や血潮を拭わぬまま刀身から魔物の残骸を払い落とす。そして後方を振り返り、のっそりと歩み寄ってくる巨躯を誇る豪傑熊と対峙した。先刻より投げ付けられていた強烈な殺気、気配や足音で予めその存在を察していたユリウスも、唸り声を挙げて近付く大熊に向かい歩を進める。
 近付くとより鮮明になる豪傑熊の双眸には、やはりこれまで切り殺した魔物と同じく狂気に染まった紅蓮の輝きが爛々と燈り、研ぎ澄まされた殺気は野性のままにただ眼前へと垂れ流しにされていた。
「殺す。殺す殺す……殺す殺す殺す殺す殺――」
 口腔で自らに暗示をかけるようにひたすら呪怨の言葉を反芻しながら、ユリウスも負けじと全身に殺意と憎悪を漲らせて真正面から敵を睨み据える。
 相対して間合いを詰め始め、それが六歩目に到った瞬間にユリウスは踏み締めたばかりの左足を軸に身体を翻す。それとほぼ同時に、巨熊の右腕が有する鋭爪がたった今ユリウスが立っていた砂の大地を深々と抉っていた。数ある獣の群の中でも際立つ巨体に反して、その動きは機敏そのものだった。
 己が間合いの内に招き入れたと本能的に解った以上、休む間も無く全力で猛攻を繰り出す豪傑熊に対し、ユリウスは剣を合わせず回避を徹底した。真正面からの力押しでは自分に勝ち目が無いのを瞬間的に察し、身体の向きを左に右に変え、砂漠に似合わず軽やかな足取りで躱し続けていた。
 この魔物が他に比べて頭一つ抜きん出た存在だったのか、それとも巻き添えを怖れたのか。先程まで津波のように次々と襲い掛かってきた魔物群も、今は息を潜めて様子を窺っていた。
 やがて、果敢な攻勢を見せていた豪傑熊が何時までも獲物を捉えられない事に興奮に憤り、上体を仰け反らせて空に向って咆哮した。だが、昂ぶる破壊衝動の解放も長く続く事はなかった。空に向かい開口したのと同時に、ユリウスの剣が跳躍の勢いを乗せて豪傑熊の下顎ごと咽喉と脳を貫き、頭蓋を砕いていたのだから。
 刺殺した魔物は咆哮を挙げた時の形相のまま苦痛に歪んだ様子は見られない。恐らく自らの終焉さえ感じる暇すら無い程に不意を突かれた、的確な急所突きだったのだろう。
「メラ、メラ、メラ」
 ゆっくりと仰向けに倒れ込む豪傑熊に併せて寄り添うように跳躍したユリウスは、剣を抜かぬまま左手を魔物の左胸に当てて追撃を加える。直接接触したまま零距離で放たれる三連の火球は、既に絶命している魔物の躯を大きく打ち震わせ、貫通して砂を焼いた。炎の勢いが余程強かったのか、触れているユリウスの掌から零れるように炎の残滓が魔物の体毛をも焦がす。
 砂塵を大きく舞い上げながら地に沈み、硬直する豪傑熊の腹を踏付け、依然として弛む事の無い殺意を湛えた双眸でユリウスは周囲を睥睨する。傍から見るとそれは威嚇であったが、実際はそれ以上に明瞭だ。
 凄絶な殺気を留める理性の堤防は既に決壊し、修羅の如くただ荒れ狂う瀑布となって外に撒き散らしているだけ。魔物が人間に恐怖と絶望を与える存在ならば、その魔物をも簡単に殺し続けるユリウスは、その発する烈日の気風も併せてさながら彼らにとっての純然たる死をぶ死神とも言える存在だった。
魔物てきはっ……皆殺しだっっ!!」
 どれだけ動いても決して離れる事無く、ユリウスの全身を取り巻く漆黒の霧が夜よりも深い昏さをもって彼の手にする剣の刀身にも浸蝕を始める。それを自ら視認しているかは定かでは無いが、切先までもが黒霧に覆われ、刀身が自らの腕と融合したような合一感を覚えたユリウスは、虚空を腕で真横に凪ぐ。
「雲壌破して啼く衝烈よ。爆ぜ放ちて力の刃とならん……イオラ!」
 砂が流れるような澄み切った音が空に響き、静まる頃にはユリウスの掲げた刀身に眩い黄の輝きが燈されていた。
 太陽とはいかずとも、それでも力を秘めた鼓動を発するその刃に、魔物達は口々に慄きの唸り声を挙げる。
 宙に舞い上がっていた微細な砂の粒子が刃に触れて更に小さく破砕される音が、虫の羽音のように周囲に鳴り響いていた。それは遠くから見下ろす人間達には決して聞き取れる程のものではなかったが、今ユリウスの周囲に陣取っているのは、人間などを遙かに超越する五感を有した獣の群れ。
 その良すぎる感覚ゆえに魔物達はユリウスの顕現させた剣の危険性を本能的に察していたのだ。
 軽やかに砂地に降り立ち、未だ世界にその亡骸を曝している豪傑熊に向けて、ユリウスは黄色の閃光を燈したままの剣で強かに打つ。切先は地面すれすれから天を裂かんと繰り出された斬撃は豪傑熊の巨躯を宙に浮かし、粉々に粉砕しながら前方へと飛散した。それら強烈な圧力によって加速された骨の砕片は、ある種の礫のあられとなって踏鞴踏んでいた魔物の群に降り注ぐ。
 真正面から飛来する無数の散弾に、回避に遅れた魔物達は体中に無数の穴を穿たれ、無残に死して虚空へと消滅する。
 その行く末を看取るつもりの無いユリウスは、今度は別の方角に向けて同じく剣を振り抜いて砂漠を穿つ。爆音と共に宙を疾駆する微細な弾雨は、爆発の力によって勢いが高められただそれだけで突撃してくる魔物達を瞬時に呑み込み、その身体に幾十幾百の箇所を貫き、引き裂く。元が砂だけにそれらは致命傷に到らなかったが、それでも確実に傷を負わせ、迂闊に接近を許さぬ為の牽制にもなっていた。

 魔法剣イオラは、未完成の魔法剣ライデインを除いては現状ユリウスが行使できる中で最も破壊力に秀でた技だった。斬撃箇所をほぼ同時に爆砕する事で損傷を甚大にし、また傷口周囲の体組織を丸ごと吹き飛ばす事は内外的な治癒力の著しい低下を招く事になる。そして、斬撃と爆破の時間差は殆ど刹那と言っても良い程に極微な時間で、斬撃に触れてしまえば続く爆破の回避は凡そ不可能であるだろう。
 一振りで確実に魔物を絶命或いは致命傷を与え、破砕の余波は敵単体に留まらず周囲に向けても波及するこの技は、一対大多数での戦闘で敵の殲滅を目的として築かれたユリウスの戦闘スタイルに最も適し、今のような状況下において繰り出す戦術としては確実に理に適ったものだっただろう。
 しかし、唯一ユリウスに誤算があったとしたら、それはこの技を世界に曝した事にある。
 ユリウスがこの技を完全に制御できるまでに体得したのはアリアハンを旅立った日より数えて四ヶ月程前。先の戦端であるアリアハン―ランシール海戦時には会得していなかった。
 体得して以来、ユリウスはこの技を威力と消耗を鑑みて自らの切り札に設定し、人目に曝さないように心がけていた。切り札の開示は自らの限界を周囲に露見する事になり、それは他者に付入る隙を与えるようなものだからだ。
 自分を鍛えた祖父や王、騎士レイヴィスにも戦略的に奥の手は最後まで隠し通す事を厳に戒められた事もあり、これまでの旅路においても細心の注意を払っていた。例えどのような窮地に陥り自らの生死を秤に掛けられた状況に遭遇しようとも、周囲に何者かが一人でも居れば使わず、使用したとしてもそれが敵ならば必ず殲滅する。この度の戦争で“幽玄の王墓ピラミッド”最下層の戦いにおいても、この技を用いれば何の苦労も無くあの魔族を滅殺できていた。そうできなかったのは偏に、あの場に目撃者アズサがいたからだ。彼女が敵で無い以上、自分は斬るつもりはない。不用意に他人に関わる事をしてはいけない。故郷を旅立つ前、そう自らに課した制約が判り切っていた事だが足枷となっていた。
 少なくともこの誤算によってユリウスは更なる奥の手を会得しなければならなくなったが、それを自認するのはまた後の話。今のユリウスは平時ならば何て事の無い、自らの思考を冷静に顧みる余裕、打算を計る怜悧ささえ完全に失っていたのだ。

――何故なら今。ユリウスは曇天の闇が躍る絶望のあの日・・・に舞い戻っていたのだから。



 ユリウスが近、中距離の間合いを制しているにも関わらず、ここで退かなかったのは流石は魔王“軍”に属する魔物といえよう。彼らは己が命を顧みる事無く決死の突貫を何度も続けていた。いかにユリウスが常識を超えた術を以って敵を圧倒していようとも、絶対的な物量を前に無傷でいられる道理は無い。
 阿修羅の如き猛攻を潜り抜けた魔物の牙や爪が何度もユリウスを捉え、決して浅くない手傷を幾つも負わされる。だがどんな一撃を受けようともユリウスは決して退く事は無く、殺戮に没頭する意識は逆に高まり、その尖鋭さは一層増していった。








 突如として現れたユリウスの戦場への介入は、膠着し拮抗を保っていた両軍の体勢を徹底的に破壊していた。

 外壁の上では、一列に長距離狙撃が可能な武器を携えた者達が、それを構える事さえ忘れて食い入るように砂漠を見つめ固唾を呑むばかり。眼を剥いて絶句する者、口元を押さえて嗚咽を零す者。往々にして正とは真逆の意識がそれら面に滲んでいたが、寧ろそれは正常な反応と言えるだろう。
 しかし、彼らが眼を離せずにいる現実こそ、尋常ならざる世界の真実だった。
 眼下で繰り広げられているのは、凄まじいと形容する以外に表現しようが無い鮮烈の殺陣。たった一人の少年が駆け抜けて数多の魔物を駆逐するという、理解を遙かに超えて存在する紛れも無い現実だ。
 是とする殺戮への最善を尽くさんとする一切の無駄を省いた動き、絶えず漲る冷絶な殺気を放散させるユリウスは、狂気さえ載せて燦爛と輝く破滅の刃で獣を切りつけ、その身体を木っ端微塵に粉砕している。一匹に対しほぼ一撃で屠り、同時に周囲への威嚇も兼ね合わせ。小さな群れを暴風のように惨殺しては、次に手近で構えた群れへと標的を移し、蒼い血と肉片の雨を乾いた砂に降らせる。
 巨壁のように聳え、泰然と構えていた敵軍は既に瓦解し、一方的な虐殺の場へと遷移していた。
 黄金の大地に縦横無尽に刻まれる黒の軌跡。よく悠久と謳われる黄砂の終焉を想起させる漆黒の筋が色濃く留まる所には必ず死の影があり、それが過ぎ去った後に残るのは儚い命の残響とおどろおどろしい青き血潮。そして原型さえ留めていない散乱した魔物の残骸。
―――“アリアハンの勇者”。
 それは、魔を絶殺する危うく光る一振りの兇刃だった。そしてその余りに切れ味が良過ぎて鮮やかに黒光りする煌きは、苦しみや迷いから解放された聖者の澄んだ瞳の輝きと酷似している。そこには敵を殺す事への躊躇いも戸惑いも一切無く、ただ眼前に立つ異形の存在を否定する事のみに特化していた。
 ただ単純に、ただ無慈悲に。ただ暴虐に、ただ純粋に。存在の破壊を、生命の崩滅を以って拒絶する。死などその過程に過ぎないと言わんばかりに淡々と魔物を刈り取っていくユリウスの姿は、まさに血塗られし聖なる蒼雷の刃だった。

「流石はユリウスさん。あの数を相手に一歩も引かず、そして相変わらず容赦が無い」
 未だ動揺から抜け出せずに周囲が言葉を失くす中で、唯一好意的に感心を口にするスルトマグナ。
 既に出撃の指示は双姫を通して動ける者達に発せられていた。何処からともなく現れたユリウスが魔物を攻撃し、敵がその陣容を崩した時点で戦局の移行の兆しを誰よりも早く察したのだ。
 動ける者達…この場合、戦闘が可能である者達はイシス騎将のティトエスの指揮下で、大門を開け放ち敵である魔物軍に向って攻撃を始めている。一斉突撃を構成するのはイシスという国に従事する騎士達だけでなく、この時期城下に駐留し、まだ死んでいなかった冒険者達や腕に覚えのある民兵達もだ。雇兵ではなく自らの志願によって戦場に立った彼らは、ただ黙って不条理な死を待つよりも、生きる為に最後まで足掻く方を選んだ。長き戦いに疲弊しきり、既に背水の陣に追い込まれている現状を思えば、当然の意識の流れだっただろう。
 ただし、スルトマグナは戦場に立つ者達全てに、敵が展開する布陣の中央で残虐な殺戮を繰り広げているユリウスに決して近付いてはならない事を厳命していた。今のユリウスに下手な加勢は寧ろその者達の生命を脅かす事になり、同時にユリウスにとっても足手纏い…いや、邪魔にしかならない事を以前の戦争で学んでいたからだ。
 元々が方陣を為していた敵軍も、ユリウスの登場によって彼を包囲する形に今は収まっている。それを左右両翼から挟撃するように人間達の最後の抵抗が繰り広げられていた。
 現在、少年参謀と共に外壁上に居るのは、結界を保持するミリアとイシスの太陽であるフィレスティナ。彼女を守護するユラに、“癒しの乙女”ソニアだった。先程までこの場に居たヒイロやアズサは既に戦端に加わっており、弓兵、魔道士兵達はこちらに飛来する飛翔型の魔物を結界越しに次々と撃ち落していた。
「まったく……あの人がいると作戦の立て甲斐がありませんね」
「す、スルトマグナ君。ユリウスは、一体どうしたの? あんな……」
 容姿にそぐわぬ冷淡な皮肉を楽しげに吐く少年に、ソニアは声を震わせる。それは少年の異質さに今更ながらに気付いたからでもあるが、概ねは最早戦場を支配していると言っても過言ではないユリウスの存在に、だ。
 眼を大きく見開いて揺れる紅の双眸に映るのは、黄砂の上を躍動する小さな黒の影。悲痛の雄叫びを挙げて魔物を殲滅しているユリウス。その姿を眺めながらソニアの脳裡には、以前ロマリアで起きた悲劇の刻。魔物の返り血で蒼茫に染まった彼の姿と、その時に放たれた言葉が鮮明に脳裡に何度も再生されていた。これまでの旅路でユリウスの戦闘を間近で見てきたからこそ、それさえをも凌駕する今の姿に畏怖さえ覚えてしまっていたのかもしれない。そして、それ以上に――。
(あんなに……感情的になるなんて)
 何時もの冷徹さは微塵も見られない。何時もの怜悧さなど欠片にもない。在るのは、ただ感情を爆発させて暴れまわるだけの、子供の影。だがそれは普段よりも遙かに、嘗て羨んで遠くから見ていた三人の景色に繋がっていた。
 記憶と現実とで混濁する懐裡より、泡沫の如く様々な想いが次々と湧き出しては消えていく為に、後の言葉が紡げなかった。
 言い澱むその姿がとても苦しげに見えたスルトマグナは、横目でソニアを一瞥し、静かに瞼を伏せた。
「どうしたもこうしたも……あれこそが“アリアハンの勇者”じゃないですか」
「え?」
「凄まじいの一言に尽きますよね。しかし、その中でも特筆すべきはやはり魔法剣。霊素と元素の共振励起によって導かれる異端の技……中級魔法を御せるまでになったようですが、いやはや実に興味をそそる現象です」
 弾かれたように目を見開いたソニアを他所に、スルトマグナは開眼して好奇の視線で眼下の戦場に立つユリウスを見つめている。そこにあるのは知的興味に相当する自己の欲求に素直なものであったが、周囲の人間やソニアが抱いている負の感情は微塵も載っていなかった。
 そんな様子に、逆に今の自分が抱いた想いこそ罪深いものだと幻視させられ、ソニアは軽く眩暈を覚えながらもスルトマグナに詰め寄った。
「ちょっと待ってスルトマグナ君。“アリアハンの勇者”って、それは――」
「ですから、アリアハンを始めとする魔物に恐れを抱く総ての人の希望……即ち、魔物根絶という大義の為に、造り出された手段である殺戮の刃です。……まさか“アリアハンの勇者”という存在を額面通りに、父の遺志を継ぎ人々の希望と期待を背に故郷を発った英雄譚の主人公だとでも思っていたのですか?」
「それは――」
 無い、とソニアは即座に否定する事ができなかった。今でこそ、現実とは様々な人間の思惑が複雑に絡み合って造られている事を知っているが、故郷で妄信されている清廉なるその虚像を信じていた身としては、簡単に割り切れるものでもなかった。それ程容易く自らの意識を切り替えられる程に自分は器用でも柔軟でもない事を自認していたからだ。
 そして何より今のソニアにとってみれば、ユリウスは“アリアハンの勇者”である前に、大好きな姉の生命を奪った存在……彼自身も認めている以上、優先されるべきは仇としての認識だった。皮肉な事であるが、その認識こそソニアをアリアハンによって造られた夢幻の光から脱却させる要因になっていた。
 自らの想いを振り返り、ソニアが言葉を継がず沈黙したままでいると、スルトマグナはある意味彼女が一番求めていない明瞭な答えを冷然と重ねる。
「人心を統治するにあたり、それは綿密且つ狡猾に築かれた綺麗な物語ですが……それをそのままで受取るのはあまりに浅慮極まりない。人々は推して知るべきです。綺麗な場所を造る為には、まずその場所に巣食う綺麗ならざる全てを徹底的に掃わなければならない。それも、やがてその場所に到るであろう見知らぬ者達に決して知られる事無く敢行される事を」
 紅蓮の少年によって冷淡に口早に告げられる言葉を、ソニアはただ黙って受け止める。
「穢れた過程と無垢なる結果では、結果の方に眼が言ってしまうのは解らないでもない事ですが……“アリアハンの勇者”とは、つまりはその最先鋒の役回り。……どんなに霊験厳かで神聖な剣であろうと、敵を斬れば刀身はその血肉で汚れる」
「…………」
 いつの間にか俯いてしまっていたソニア。その様子を現実に打ちひしがれたのだと思ったスルトマグナは、流石に言い過ぎたなと自らの頭を軽く小突いた。
「すみません……アリアハンだからこそ、知らないのが道理と言うべきなのでしょうね」
 アリアハンで示される国是を、何もこんな時に非難し、糾弾する必要はない。仮にソニアの意識が彼の国の統治によって硬狭化されていようとも、それは彼女の非とは言い切れないのだ。もっとも全く無いとは決して言えないが。
 それよりも珍しく感情的になってしまい、ソニアを責めるような言繰りをしてしまった事にスルトマグナは悔悟の溜息を吐く。だが彼にしても、共感を抱いているユリウスが一方的な数多の負の意識に曝されるのを厭うていた。このあたりの情緒はまだ少年のそれであったと言えよう。
 わざとらしく咳払いして、スルトマグナは雲一つ無い空を見上げる。果ての無い澄んだ蒼さは、今の心情からは厭味に思えて仕方が無かった。
「大らかなる河には、二つの様相があります。一つは、全てをありのまま静穏に梳く清流。そして一つは、全てを荒々しく押し流す濁流。双方を以って大河は一つの悠然たる流れを成しています……今のユリウスさんは、濁流という側面が強く表に出ている状態。趣無く言ってしまえば理性という制御を破棄した暴走にすぎませんが、暴走とは現状における限界の露見。僅か一年足らずでまた上限を高めましたね……嘗てのアリアハン−ランシール海戦の時、魔物に“理叡の魔女”セフィーナ様を傷つけられ逆上した時に比べても凄絶さが増している」
「え?」
 その言葉に、意外そうな顔でソニアはスルトマグナを見つめる。少年は空から眼下の漆黒に視線を移していた。
(姉さんを傷つけられて、ユリウスが……逆上した?)
 スルトマグナとしてはただ単に過去の事象を顧みたに過ぎなかったが、ソニアには重要な何かを誘う一言だった。
あの・・ユリウスが逆上したという事は、その行為が彼にとって許せなかったという事。それはつまり……姉さんが、大切だった? それならどうして姉さんを……ううん、まだわからない。でも――)
 自分を苛むあらゆる因果が王都襲撃事件に収束している。そんな気がした。そしてそれは確信と言っても良いとさえ思えた。
 思わぬ所で見出した指針にソニアは息を呑み込む。
「いずれにせよ、問題なのはこの後です。解き放たれた自我やいばの還る所……が、彼にはもう無いんですから」
 哀憐の韻を乗せたスルトマグナの声に、ソニアは思惟から現実へと舞い戻る。少年に導かれて眺めた先では、正面から魔物に肉薄したユリウスが獣の咆哮を挙げていた。それに驚き竦み上がった魔物が大き過ぎる隙を曝していると、やはりと言うべきかユリウスは一片の躊躇も無く刀身を叩き付けて異形の身体を木っ端微塵に粉砕していた。
 阿鼻叫喚の凄絶な絵図は変わらずの様相であったが、それを仰ぐソニアの心境は少し変わっていた。先程まではユリウスの蒼茫たる姿を視界に映すだけで言い様の無い感覚に身体の芯からの震えを覚えていたのだが、今では本当に幽かだが、その違いを自認できるまでに和らいだ気がしていた。
 血生臭い現実を前に不謹慎に過ぎる気もしたが、ソニアはそんな自らの裡に生じた変化が真実のものなのかを見極めようと、眼を逸らさずに毅然とした面持ちで砂漠に発つユリウスを見つめた。その形の良い唇が、無意識にその名前を音無く連ねんとする。
「べぎらごん」
 だが、次の瞬間。そんな意識を嘲笑うが如く、空より冷厳にして耳障りな宣告が下される。
 敵に向けて砂上を駆けていたユリウスの頭上に驟雨が降り注いだ。勿論それは水滴などではなく、空気を歪ませるまでの熱量を孕んだ炎の波。それに気付いた時には既に遅く、ユリウスは空からの奇襲を躱す事すらできず炎に押し潰された。








 空には巨大な黄金の獅子が君臨していた。禍々しい牙を覗かせて、溜息を吐いた後のように炎の残滓を呑み込んでいる。
 しなやかにして強靭な体躯を覆うのは、陽に梳かれ砂面よりも眩く映える黄金の毛並み。暗群青の鬣を雄偉に風に靡かせ、その背で宙を漕ぐ羽は蝙蝠のそれにも見えるが、寧ろ竜のものと表現した方が納得できる。ただ羽ばたいているだけにも拘らず、壮絶な風圧は地上に砂嵐を巻き起こし、小さな魔物や人間など簡単に吹き飛ばす。その巨体たるや、大型に類する暴れ猿や豪傑熊の比ではない。殺意という光を紅蓮の双眸から垂れ流し、ただ暴虐という言葉が具現したような存在は人間はおろか、味方である筈の魔物さえ萎縮させる。
 蒼穹に現れた翼ある異形…ライオンヘッドは、獣魔を統べる将ラゴンヌの右腕。百獣の王としての威厳と獰猛さを併せ持つ獅子の魔族。
 戦場に立っていた誰しもが大空の魔族と、その魔族が放った業火の瀑布にユリウスが下敷きにされるを剋目していた。
 空の青に反して、世界を紅く染め上げる炎の大波。対象はユリウスであったが、広範囲に亘って撒かれた炎は余波で周囲に犇いていた魔物や人間も呑み込んで骨すらをも残さない。燦然と輝く太陽との相乗効果も合わせて黄砂は今、煉獄だった。
「ユリウスーーっ!」
 手にしていた杖を放り投げて、外壁に身を乗り出してミリアは叫ぶ。眼を見開き、喉が潰れんばかりのそれは、外壁から飛び降り、ただ前に出ようとする意思を否応無く周囲に思わせる。それに気付いたスルトマグナが慌てて彼女の肩を掴んでこれ以上前に出ようとするのを阻んでいたが、ミリアは身を捩じらせてその名を連呼するだけだ。手を放せば本当に戦場に飛び降りて行きそうな気がして、少年も力を緩める事ができなかった。
 風の結界が静かに亡失し、重みのある熱波が聖都に向けて吹き入ってきた。
「……ユリ、ウス?」
 悄然とした声で口腔からその名が零れていた。
 直ぐ側の少年少女二人を視界の端に捉えながら、両手で口元を押さえたソニアは信じられないといった面持ちで眼下の光景を見つめている。あのタイミングで、あれ程広範囲に向けて放たれた炎を回避するなど、常識的に考えても不可能だと言う事がソニアにもわかった。そして、あの炎に孕んだおぞましいまでに束ねられた魔力の鼓動より、まともに受けたのならばどんな人間もひとたまりも無いと言う事が、判ってしまった。
 放心する幾人の者達の心情を嘲笑うが如く、戦場の中心で猛り咲いた炎の花は、内に捉えた者をその養分としているか爛々とした紅炎の輝きを燈す。脅威であったユリウスを排した千載一遇の好機、艶かしい紅に誘われた魔物達は勢い付いて人間達に襲い掛かるものかと思われた。
「…………」
 だが、現実は違った。この群を率いるライオンヘッドは、自分が熾し地面を押し潰している炎が未だ存在している事に怪訝を覚え、注視していた。その泡沫よりも微かな迷いが配下の魔物達にも鋭敏に伝わり、足を止める事に繋がっている。
 通常、魔法による攻撃で顕現する事象は対象とした敵に何かしらの反応を齎し、収束した魔力量に比例する一定時間を越えたところで潰える。しかし、魔族によって放たれた上級閃熱魔法ベギラゴンは未だ顕現し、空気や大地を焼き続けている。
 魔法を行使した者であるライオンヘッド自身が訝しむ程の異常が、炎に孕んでいたのだ。
「待って、ミリア。何か様子が変だ」
「え?」
 ミリアを押さえながらその事に気が付いたスルトマグナも、ライオンヘッド同様に注意深く炎を睨み据えた。
 気高く咲いた紅蓮の花は相変わらず空気や霊素を貪り、空気が弾ける破裂音が戦場に厳かに木霊している。その時だけ、あらゆる剣戟も喚声も静まり返り、空気の嘶きのみが戦場に満ちていた。
 数多の意識を惹きつけていると、不意に赤金色に輝く紅炎の表面に、薄っすらと一点の黒星が現出する。それは言わば太陽の表層に現れる黒点のように冷めた煌き。未だ勢いに勝る炎波に囲まれ呑み込まれそうな心象を与えるも、渦を捲いて漂う黒霧は世界にしっかりと存在を主張せんと深さを増して天球ドーム状に虚空で留まっている。幽冥なるその様は、創始の混沌から生まれる秩序の輝きのようにも見え、また逆の様相にも映っていた。
 何かの誕生に見えるような重々しい静謐を打ち破るように、猛々しい雄叫びが続いて天を衝いた。
 炎花自身が内に潜ませる揺らぎや蔭りが一点にも重なって黒を為したかと思うと、何かが溶けるような、蒸発するような甲高い音を立てて周囲の炎波そのものが消滅した。
 その内から現れるのは、今しがた炎に押し潰された筈のユリウス。そして、何らかの意志によって流れを為してユリウスを取り巻いている黒霧の霊光が、厳かに白日の下に立ち尽くしていた。
「何ダト!?」
 炎が空間に溶けるように消え、代わりに姿を現した被害を蒙った様子の無いユリウスを眼にして、ライオンヘッドが驚愕に瞠目し唸り声を挙げる。いや、炎を現出させた魔族当人だけでなく、その戦場に立つ誰も彼もが理解のできない事象の発露を前に眼を剥いていた。
(一体、何が……いや、あれこそがジュダ様が仰っていた『勇者ロト』の顕現?)
 答えなど返って来る筈も無いのを判っていたが、天才と称されるスルトマグナさえもただ呆然と眼を見開くだけだった。



「……反魔法マホステ。世界に異議を唱えし者の、始まりの灯火」
 遙かなる次元の先で、白妙の女性だけが薄っすらと微笑を浮べていた。








 最期の瞬きに激しく燃え上がる炎の残滓に、世界は漆黒に染まっていた。
 反転した世界に最早彩りは無く、漆黒の月がただ白の空にポツンと残されている。現実には蒼穹の空と白輝の太陽なのだが、ユリウスにそれを判別する事はできない。既に彼の眼に映る世界は、白と黒の二色によってのみ構成されていたのだから。
 生か死かの二択しか存在しないこの場所は、敵を殺し続ける為の世界。己をただ一振りの剱にへと変容させる、殺伐としていてどうしようもないくらい心地好い世界。それは自分にとって間違いなく慣れ親しんだ日常に他ならない。
 そして今、目の前に在るのは異形の魔物。この世界を往く自分にとってある意味肉親よりも、知人よりも、見ず知らずのどんな人間よりも親しい殲滅の対象。その存在を知覚するだけで、裡から溢れる殺戮衝動によって理性のたかが外れてしまう。否、破壊を求める衝動は昂揚し、既に狂奔するまでに到っている。それを潰えそうになる僅かな意思で自覚するも、ユリウスは裡から噴出しつつある衝動を圧し止めようとは思わなかった。
 腕を振う度、全身に、黒の大地に次々と白の蓮は咲き散っていく。全身が徐々に魔物の澱んだ返り血で穢れていく。それは魔物の血潮と己の血潮の境界さえ無くし、ただ全てを呑み込む黒に染めていく。だというのに、自分の腕や胸に付着した赤い鮮血が視界に留まり続け、決して消える事はない。
 それは、この渾然と広がるだけの無機的な世界の中で唯一眼を惹く生々しい艶かしさ。どうしようもなく意識を捉えて放さない眩さ、世界で一つだけの美しき紅の花弁。
≪ユー、……リ≫
 その花を見ていると声が聞こえた。
 自らの身体に狂い咲いた紅の花は、魔物ならざる人間の血色。自分が在るべきこの単調な世界を壊し、複雑で曖昧で不透明な世界に引き摺り出した忌むべき二人・・の片割れ……大切だった、守りたいと強く思い願った、愛しき邪悪の――。
≪わ、たしを……≫
 その人物を幻視するのと同時に耳の奥で甦る言葉は、自分の世界いしきの終焉を知らせる鐘楼。砕け散る世界の欠片が自分の魂魄に深々と突き刺さり、崩滅させる。
 どれだけ魔物を破壊する雑音を起こしても。どれだけ自分を苛む痛みを覚えても。その声は耳から離れる事は無く、その姿は決して眼から消える事は無い。
(嫌だ……嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだイヤだイヤダイ――)
 その後に続く言葉を理解してしまっているが故に逃れなれない。どれだけ拒絶をしようとも避けられない。永劫の罪咎だった。
≪……殺シテ、クレ≫
「ぅう……あああぁぁあああぁあああああああ――」
 白と黒と赤は入り混じり、不協和音を奏でながらグロテスクに世界を掻き乱す。目まぐるしく廻天する全てを拒まんと、ユリウスは自らを壊さんとするような絶叫を挙げた。
 ただ血潮と共に全身を爆ぜ回る闇よりも深い真黒の破壊衝動が、自分という殻を超えて顕現する。暴虐な破滅の権化として、凄絶な光の容をとって深い深い闇の底から放たれる。
(全部……全部、破壊するっ!)
 天も、地も。その狭間に立つあらゆる者も、どのような物も。全てをまとめて薙ぎ払い打ち据える煌きを…………紡ぐ。
「寥落の天柩に誘う蒼き葬列の稲妻。無謬染まりし空を射貫き、虚栄渦巻く地を穿つ――」

「雨雲? 嘘……そんな、ここはイシスなのに」
 空を見上げて愕然とするソニアの言葉は、イシスの人々の意思を普く代弁していた。
 砂漠の奥地にあって奇想とも言える雨雲を見上げ、イシスの人々は救いを求める諸人のように、ただ天を仰ぐだけ。その後に続くであろう事象など、想像さえ出来ずにいた。
「何なの、この精霊スピリットの悲鳴は……」
「まさか……これが!」
 同じく外壁回廊で空の異変を見止めていたミリアは、霊素や元素の尋常ならざる動擾に不安のまま自らの両腕を抱きしめる。そして曇天を好奇の輝きで見上げるスルトマグナは喜悦に口元を歪ませた。

「――斬り裂け、天威の剱よ」
 おどろおどろしい空の胎動が、地上に居る全ての者の行動を停止させた。
 黒の面に、蒼く光る魔方陣が雷速で描かれる。裡で暴れまわる荒々しい流れの鳴動が陣に押し寄せ、それを堰き止める事ができる限界を察する。自分に残る魔力を搾り出し、それを鍵として天の門扉をユリウスは開く。
「ライデイン」
 臨界に蒼く煌いた魔法陣が一層強く輝く。そしてその裡で凝縮していた光の束が解き放たれ、虚空で弾けた。
 轟く雷霆は竜の咆哮。それは無慈悲な破壊を拡げる破壊者の産声。昂然のまま空と大地が震え、景色も、人も魔物の姿も全てを呑み込み、世界は白転した――。








(私は……、まだ生きているのでしょうか?)
――うん。君は生きている。どうしようもなく生を求め続けているよ――
(私は、何の為に生まれたのでしょうか? 何の為に生きてきたのでしょうか?)
――その答えは、君自身で見つけるもの。どうしても答えを得たいのならば、もう一度、産まれ直せば良い――
(産まれ、直……!? これ、は……?)
――君に与えられた可能性。そしてそれこそが、君が見出した希望の輝き。それを手にした瞬間に君は既存の摂理の円環を超え、真なる世界の秩序が眼の前に具象する――
(摂理? 真なる、秩序?)
――これは厳正なる契約で、厳粛なる誓約。君にその覚悟があるのなら……力への意志の下に――
(力……私は、力を……っ!)
――怖れないで、見据えるんだ。他の何者にも流される事無く、君自身の意志で――
(私は……受け容れる事を拒み、いつも突っぱねてばかりでした。だけどこんな愚かで浅慮な私にもまだ可能性が提示され、それを掴む事が赦されるのならば……私は一度だけ、受け容れてみたい)
――君は真面目だね……だけど印を手にするに相応しい、好い答えだ。……眼前に迫った死の瀬戸際に、生への執着を問われ躊躇う事。死を恐れ、生き続ける事を臨む妄執。そこから一歩を踏み出そうとする貴い姿勢こそが即ち、力への意志――
せかいに、踏み出す……)
――君は、ちからを求めた。そしてせいは、君を選んだ。ここに天を堕とす魔の宣誓は完成する――
(…………隷)
――我が印、我が名において、其の魂の願呪を聞き届けん。マナスティス――
(あぁ、あああああああああああああっっ!)
――……どうやら“魔槍・王鬼の槍デーモンスピア”も君を主と認めたようだ。さあ、共に歩もう。新たなる世界へ――




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