――――第五章
      第二三話 黒の萌芽







 虚無の波間に己の意識が安らかに溶解していくのを、ユリウスは何となく感じていた。
(何も無い、深黒の闇……)
 開けているのか、閉じているのかすら最早わからない視界は、真闇。眼は既に見えない。
 甲高く鳴り響いていた耳鳴りも何時の間にか失せていて、無音。耳は既に聞こえない。
 落ちている浮いているの上下の感覚は無い、虚空。全身の感覚も既に失われている。
(……俺は)
 思考だけが稼動できる煩わしなさを鬱陶しいと感じながら、ユリウスの意識は徐々に無意識の漣に浸食され、己が深淵へと緩慢に堕ちていく……。

『どうしたら僕はみんなの期待に応えれるの? どうしたらもっと強くなれるの?』
(!?)
 暗闇の中で突如として響いてきた幼な声は、まるで洞窟の中で発せられたかのように幾つにも重なり、厚みを増した木霊は無邪気な健気さと、ある意味おぞましい程の残酷さを以ってユリウスに投げ掛けられる。
 溶暗し往く四肢を言葉に絡め取られたユリウスは、耐え難い嫌悪感を覚え、見えざる蔦を振り払おうと意識を戦慄わななかせる。
(……うるさい)
 しっかりとした意志によって発せられた問い掛けにユリウスは忌々しげに心中で吐き棄てるも、こちらの拒絶だけは届かないのか、その声は構う事無く語り続けた。
『僕には力が必要なんだ。魔物なんかに負けない力が。皆の敵を倒す力が。……だって僕は“勇者”にならなくちゃいけないから。お父さん…勇者オルテガのような誰にも負けない力を身に着けなきゃいけないから。僕は“オルテガの息子”だから』
(黙れ……黙れ)
 決然と確かな意志を交えて告げられた言葉に、ユリウスは両耳を押さえて頭を振り、全身で拒む。
 これ以上は聞きたくない、何も知らなかった頃の嘗ての自分の声。
 これ以上は見たくない、景色がまだ鮮やかに色付いていた偽りの世界。
 この世界には確かなものがある、と信じて疑わなかった愚か過ぎる己の姿。
『俺は、剱だ』
 同じ声の声調が変わり、少し低くなる。刹那の間に時が廻ったようだ。
(っ! ……もう、やめて、く…れ)
 引き続き発せられるであろう言葉が誰よりも解る故に、ユリウスにとってそれは最早絶望の前触れに過ぎない。
 裡から這い出て膨脹するきおくを前に、ユリウスは瞠目する。
『セフィやアトラを守――』
(やめろぉぉぉぉおおおっ!!)
 その言の葉は滑らかに耳から頭蓋に入り込み、脳髄を直接掴んで深く深くに刻み込んで来る。自身の中で目まぐるしく狂騒を奏でる音の羅列に、ユリウスは喉が潰れんばかりに慟哭した。
 魂の叫びは意識の全像にひびを走らせ、足元からゆっくりと崩れ去って無意識の海に溶け込んでいく。今やユリウスの意識は大海を漂う藻屑の一篇に過ぎなかった。
≪汝、力を望みますか?≫
 しかし、それも全く別の声によって掬われる。
(だ、……れだ?)
 潰えそうになっていたユリウスの意識は、今のが錯覚ではないかと訝しみ暗闇の中で眼を凝らして周囲を窺う。だが、やはりあるのはただの闇。
 だというにも関わらず、ユリウスは確実に何者かの存在を感じていた。
≪汝、力を欲しますか?≫
 再び届いた声は、これまでに聞いた事のない女の声。それは無垢なる少女の囀りであり、妖艶な女の囁きでもある。声は暗闇の中に射し込む光帯の如く摩耗しきった意識に深々と染み渡り、緩やかに厳かに常世のものとは思えない、神秘の花苑に響き渡る優麗な歌声の韻律を奏で流れていた。
 情緒が廃れ切ったユリウスにして、現れた声への警戒は自然と最大に高められる。誰何する己の声に緊張が迸り、意識が刃のように鋭利に硬質に強ばる。直感では、この声に耳を傾けるのは危険だと警鐘を打ち鳴らしていたが、理性は言葉を解し、続きを連ねんとする声を切に待ち望んでいた。
 裡で相反する意識の鬩ぎ合いにユリウスは戸惑いを覚えるも、女の声は艶やかに歌い続けていた。
≪何者をも降伏する力を。全てを超越する力を、汝は願いますか?≫
(……俺は)
 労わりを孕ませながら意識に問い掛けてくる声。それは余りにも濃厚で芳醇な果実酒のようで、妖しさを仄めかす甘い毒。
“声”の問い掛けに引き寄せられ、いつしかユリウスもまた自らに問い掛けていた。それを自らの深奥で咀嚼し、浮かんできた答えは…肯定だった。
 どんな敵だろうと確実に滅ぼせる力が欲しかった。
 目的を果たせる決して揺るがぬ意志ちからが欲しかった。
 元より人間としての自覚など無かったが、力を得る為に人としての根源を完全に棄て去り、ただ一振りの兇刃にならんと決めた。それを貫く為ならば、自ら忌み嫌う“魔族”に堕しても構わないとさえ思っていた。
 仇敵アークマージに何も出来ずに敗れ去った、あの夜。自分の意識は固まったのだ。
 意識に満ちてくる“声”は、ユリウスの意志を見透かした上で、優しく嬲る。
≪“黒”は全ての色を呑み込む。取り込んだ全ての色を“黒”に染め、“黒”はその輝きを増す≫
(おれ、は……)
≪汝、“黒”に染まらん事を願い、望みますか?≫
 その時、ユリウスは直感で解った。今、自分には手が差し伸べられている。そして自分の意識とは関係なく、自らがその手を掴もうと腕を伸ばしているという事を。
 意識が自身の意思を自覚した時、ドクンと確かに心音が一つ高鳴った。
(この手を掴めばきっと、俺は――)
 詩が聞こえていた。それは緩やかで、穏やかで、温かな。久しく忘れていた安らかな子守唄のような音色。
 ユリウスも知らず“声”と共に言葉を重ねていた。それが聞いた事も無い旋律で、歌詞であるにも関わらず。ユリウスにはそれを疑う意識さえ残っていなかった。
 ただ意識が為す五体の中で、左胸が破裂せんばかりに激しく動擾するのがわかった。
(……聖別せサクラメン――)
『――その“歌”に耳を傾けては駄目っ!!』
 指先が差し出された指先に触れようとした瞬間。逼迫した悲鳴が真闇を引き裂いた――。



「!」
 遠退いていた意識が急に肉体に還り、弾かれたようにユリウスは目を見開いた。
 何時の間にかユリウスは仰向けに倒れたまま、何かを掴まんとして右手を虚空へ掲げていた。自分が何故、こんな事をしているのか疑問であったが、無意識による行動の為かその答えを見出せる筈も無く。
 つい先ほどまで全身の感覚さえ亡失していたのだが、何時の間にか柔らかな感触に包まれている。意識と身体が接合した時に一瞬だけその傷みに意識が白に陥るも、続いた羽毛の山に飛び込んだ時のような感覚に消えて無くなっていた。
 暫し呆然と視線を彷徨わせていると、視界の隅々に純白の羽が粉雪のようにちらついて、ゆっくりと自分の頬に降ってきている事に気が付いた。
「アタタ、カイ……。ナツ…カ、シイ…ヒ…カ……リ…………」
 小さな、だが確かな輝きを秘めた白光の羽。宙を優雅に滑空する光羽は白雪のように幽然と、しっとりと宙を満たしている。それらは往々に儚い印象を覚えるのだが、現実は反して温かく全身を包み込む。その感触に安堵を覚え、全てを茫洋たる表情で見つめていたユリウスであったが、不意に眉間に皺を寄せて瞼を伏せた。
 一分の穢れない白の結晶にあらゆる者の返り血に黒く塗れきった自分が触れては、その穢れが汚染してしまうのでは無いかという躊躇が生まれ、自分が今こうして白の中に埋没している事への奇妙な後ろめたさを微かに感じてしまったのだ。
 そこまで思い至り、自らの思考を顧みてユリウスは眼を瞬かせる。
「馬鹿な……どうかしている」
 明らかに酷く自分に不似合いな思考行動にユリウスは自嘲に口元を歪ませる。今の思考は、感傷とは無縁の存在である筈の自分にとってあまりにも相応しくない。実に馬鹿馬鹿しいと自らを罵っていると、背には硬質な石床に横たわっているような冷たさがある事に気が付いた。
 いよいよ自分の感覚にも狂いが生じてきたかと、上体を起こし周囲を見回す。するとユリウスは自らの眼に驚愕を載せた。
「何だ……、ここは?」
 視界はただの黒。だがその黒を圧倒せんばかりに鏤められた白の輝きが無数にある。その場に留まるものもあれば、悠然と黒の海を縫って流れるものもある。それはまるで晴れた日の、月明かりの無い夜空に広がっている星海の只中に在るような、ユリウスの理解を超えた不可思議な世界だった。
 足元に視線を落すと、そこには先程の白雪の羽が集っては固まり、羽からは想像できない硬度で自分を支えている。靴の裏から感じる感触は、本当の地面のそれと何ら遜色が無い程だ。そして、それ自体が薄っすらと燐光を放っている床は、何をきっかけにしたのか眼前の虚空に次々と現れ出て、次第に螺旋階段を構築していった。
 天頂は見えず、深淵もまた見えない。今自分が居るのがどの程度の中腹にあるのかさえ、ユリウスには皆目見当もつかなかった。目の前の理解を超えた異常を前に、流石のユリウスといえども唖然として見入るのは無理も無い事だろう。
「……いや、待て。あの時、俺は王墓ピラミッドの崩壊に呑み込まれた筈……」
 徐々に意識が記憶を鮮明にさせるのか、はっとしてユリウスは口元を手で覆う。
 あの後・・・。王墓そのものが大きく鳴動したかと思うと、突如として床に描かれていた紋章陣を中心に亀裂が走り、床全体が瓦解し始めた。まるでその床下に大穴が開いて吸い込まれるように周囲の瓦礫が地面に沈んでいく。それは瞬く間の出来事で、その玄室に呆然と独り・・佇んでいた自分は脱出策を取る暇すら与えられず、瓦礫の濁流に呑み込まれ、意識を失った筈だった。
「ここは死後の世界だとでも言うのか……馬鹿な」
 ふと浮かんだ考えを、ユリウスは即座に一笑に臥す。どうしてそんな愚にもつかない事が浮かんだかは理解できないが、それは余りに浅慮で幼稚で、突飛過ぎる。死を迎えた生物は、ただの肉塊に過ぎない事をこの身が一番良く知っている筈ではないか。それを自覚しているが故に、退廃している自身の思考に、呆れた内心が表に零れてしまい嘆息を零していた。
 だが、現状が全く以って理解できないのも、動きようの無い事実だった。
 常識的に考えて、あれだけの質量体の下敷きになったのだ。あの状況で自分が生き残る可能性はまず浮かばない。浮かべる事ができる程、世界に期待も執着もしていない。
 金属化魔法アストロンを反射的に唱えてしまった所為で意識が続いている間は傷みこそ皆無であったものの、やがて魔法の効力が切れれば圧死するのが関の山だ。そして人間など比する事さえ無意味なまでの大質量が、全方位から圧迫したのならば、一瞬にして全身が粉砕され、傷みを感じる暇が無かったというのも頷ける。
 やはりどのような方向へ向けて思考を進めても、自分は死んだ、という結論に帰結する。それ程まで淡白に自らの死を容認できたのは、自分はどうしようもなく死という終焉…罰の形を望んでいるからに他ならない。そしてそれを認める理解の下に、こうして実際に死が訪れたのだと再認識してみると、期待していたものよりも余りにも呆気無いものなのかと落胆を覚える。が、やはりそんな滑稽さも自分にはこの上なく似合いだと納得した。
 だから、ユリウスはここで思惟を放棄する。これ以上の思索は無意味で、無価値だと解りきっているからだ。
 視界を圧倒する星の海を睥睨しながら、ユリウスは亡羊と精彩の抜け落ちた相貌で呟いた。
「存外、呆気無かったな……だが、死など所詮こんなものか」
「いいえ、体感できる死は一瞬の傷みに過ぎない。だけど死という事象そのものは、魂魄マナが次に辿り着く新たなる器を形成するまでのまどろみを生ずる」
「……死より始まる生、か」
「そう。死した肉体からだは大地に還って数多の生命の温床となり、死した精神こころは虚空に融けて世界を育む揺籃となるように自然せかいはそう動いている。その在り様は宛ら、生から始まり死で終わる一本の糸。多元的に見て両端のどちらが先かを論ずる事に意味は無いけど、その糸を手繰る事を人は総じて人生と呼び、中途に生じる絡まりを運命と称するわ。そして往々にして人という存在は、運命による糸の断裂を本源的に怖れるあまり両端を結び、強固なる形…円と成さん事を欲している。それこそが、力への意志によって導かれる永劫回帰。世界を循環させる大いなる歯車システム……即ち、輪廻」
「輪廻……転生、か。……下らない、そんなもの永遠を望む人間が描いた妄想に過ぎない。どう足掻いて何を想おうが、生まれて最初の呼吸を完遂した時点で死は既に始まっている。どのような解釈を以って死生観を築こうとも、結局生と死は同時に始まり、同時に終わる。……などある筈が無い」
「……あなたは現実的ね。でも、そういう考え方は嫌いじゃない。生を一度きりのものだと確かに捉え、そこに死をも背負っているからこそ、往々に忍び寄る終の刻に対して真摯に抗う事ができる。死を思う故に生在り、と言ったところね」
「いや、最早どうでもいい事だ。俺は、終わったのだから……っ!?」
 今の今まで内心で呟いていたかとユリウスは思っていたが、どうやら声に出していたようだ。それも、事もあろうか誰かが呟きに言葉を返してさえいる。ユリウスはぎくりとして背後を振り返った。正直、何者かが後ろに現れた気配など微塵も感じなかったからだ。
 振り返ると、数段上の階段に腰を下ろしてユリウスと同じ視線の高さで眼を合わせていたのは、白妙の女性。さも初めからそこに居たような落ち着いた佇まいは、今のユリウスからすれば真逆の立場に居る事になる。
 この不思議な世界に通ずる羽毛の如き白雪の燐を常に纏い、その暁色の眸には穏やかな光を湛えている。透き通る白き衣から覗く両膝に両肘を乗せ、掌で包まれた表情には、柔和で悪戯っぽい微笑が浮かんでいた。
「おはよう、ユリウス」
 アッサラームで邂逅したアークマージに敗北し、意識を失くした時以来の再会だったが、白妙の女性…ルティアはふわりと笑ってユリウスを見つめていた。




 光翼の階段を昇るルティアとユリウス。軽やかな足取りで先導するルティアの背を、決して穏やかならぬ警戒した眼差しで見据えたままユリウスは言った。
「あんたに聞きたい事がある」
「……」
 だがルティアからの返事は無い。眉に皺を寄せたユリウスは声調を下げる。
「おい」
「……」
 再度呼ぶもやはり返事は無い。こちらは確実に聞き取れる声量で発しているのだが、ルティアは頑なに言葉を返さずに階段を昇る足を止める事は無く。その時、以前に見えた時の記憶から何となく思い当たるものが脳裡に浮かび、ユリウスは倦怠感を覚えながら言った。
「ルティア」
「なに?」
 今度は即座に返事が返ってきた。ユリウスの溜息は深く長くなる。
「……聞きたい事がある」
「答えられる範囲なら、どうぞ」
「ここは何処だ?」
 声に抑揚を孕ませずに淡々と言う。自分は死んだ訳では無いのだとすれば、まずこれは聞かなければならない事だった。
 死は常に己の背に付き纏っているものだと理解しているユリウスは、死による終焉を迎えていない限り前に進まなければならない。例え背後を振り返る事を禁じられていても、例え足踏みする猶予さえ無くても。ある意味それは破滅的な強迫観念ではあるが、自らに課した宣誓に殉じる為にも、生を続ける限り足を止める事は赦されていない。
 ユリウスは階段を昇りながら、この場所の異質さに戦闘時を凌ぐ緊張さえ感じていた。そんな彼の強張った気構えが伝わったのか、ルティアは振り向いて両腕を組み、指先を唇に当てて考えるような仕草をする。天を見上げながらくるりと眼を回し、やがて人の悪い笑みを口元に浮かべた。
「ここは、遠い所。あなたがいた場所から果てしなく遠くて、限りなく近い場所」
「そんな仄めかしでは意味がわからない」
「そうね……敢えて言葉をあてがうならば、世界の外側。いえ、寧ろ星の裏側と称するべきかしらね。まあ厳密に言えば内や外、表と裏の概念なんてここでは意味を為さないのだけれど……虚無の海原、或いは次元の狭間と呼ばれる事もある」
「……もういい」
 全く要領を得ない返答とも言えない返事に、うんざりしたユリウスは無感情に振り払う。冷静に徹している事に違いは無いが、些か穏やかでは無い気配を醸すユリウスを見て、ルティアは悪ふざけが過ぎたと笑みを潜めた。
「……ここは原初への回廊。各地に数多存在する霊穴レイポイントを結び、世界中を巡る網路ネットワークを形成したマナの流脈レイラインの内在宇宙」
「レイラインの中だというのか!? ここが……そんな馬鹿な」
 詠うように綴るルティアの言葉を聞いて、ユリウスは眼を瞠り驚愕を露にする。漸く理解が通じる単語が連ねられたのだが、それがかえって予想を超えた信じ難い現実を齎したからだ。
 明らかに驚いた様子を示すユリウスに、ルティアは満足げに小さく口の端を持ち上げた。
「在り得ないと思う? いいえ、それこそ在り得ないわ。世界を廻す絶対の真理を前にしては、人智など敷居が低過ぎて遠く及ばないもの。そのままそこで模索の手を止めてしまうのも蓋然たる一つの手段だけど、人間は往々に思考し、想像を現実に繋ぐ事で創造出来る存在。古よりここの存在を囁かれる事はあっても、明確に観測された訳では無いから公に認知されていないだけ。……もっとも賢者認定機関が徹底してその当たりの情報を規制しているから、どのみち開示される筈も無いのだけれど。まあ、それは余談ね」
「何故ガルナがそんな事する? ダーマも含め、あそこは公平無私に智の統制を布く機関だろう?」
「正確に言えば、ガルナというより“魔呪大帝スペルエンペラー”の意思ね。もっとも、“聖芒天使アースゴッデス”も関与しているみたいだけど」
 余りにも高みに立つ存在の名を連ねられ、流石のユリウスといえども深刻な色を表情に載せた。
「……それ程までにこの場・・・を開示する事は、世界に対しての影響を齎すのか?」
「ええ。極論を言えば存在の容を歪ませるから。歪みを内包した存在は、在るだけでいずれ世界そのものを蝕み、やがて崩壊を引き起こす。その観点で考えれば、『魔法の鍵』を包含するイシスの人間は須らく歪んだ存在であると言えるわね。だからこそ往古、天翅イデーンの民は“鍵”の側に安定を促す為の解放リリース装置として“死者の門”を併設した」
 イシスに伝わる『聖鍵・魔法の鍵』。その実態は純然なマナを精製して結晶化させた物質。何の目的を以って天翅種がそれを作り遺したかは定かではないが、その危険性が少しでも見出せたのならば、還元させる術を予め備えておくのは当然の流れというものだろう。そしてそんな当然の意識を継いでイシスは用いた……例えその真髄に到らず、真なる効果を計り違えていようとも。ただ切に一縷の光を求めて。
 階段を昇る足を止め、ゆっくりとルティアは星の海を指す。その遙か先で、周囲の星々よりも圧倒的な大きさと光量で流れている星がある。それは進路上にある極微な星々を呑み込み、至極僅かではあるが確かに勢力を増しているようだった。
 ユリウスが言葉無くその様を見据えていると、ルティアは言った。
「今、あそこを流れている彗星こそイシスで拓かれた“死者の門”。天翅種の遺産である神韻級を喚ぶ極大魔方陣。あの構成は……ラナルータね」
 ルティアの語る言葉の数々は、ユリウスの理解を超えたものであったが、先程と違い真摯に綴るその暁色の双眸には嘘が見られないと感じるも、そのまま鵜呑みにはせずユリウスは慎重に返す。
「……まるで実際に見ていたかのような口振りだな。あんたが何故、そんな事を知っている? あんたはイシスに縁がある者では無ければ、その天翅種とやらでもないだろう?」
「勿論、調べたからよ」
 胡乱な視線を一身に受けるも、何という事も無いようにルティアはあっけらかんと返した。そんな手応えが余り感じられない応酬に、ユリウスは億劫になって小さく頭を振った。
「馬鹿な……あんたの言った事全ては現在の学術水準を超越していて突飛過ぎる。そもそも、天翅種とは何だ?」
 ユリウスの知る限り、世界の最古の種は竜である。それが世界の真実かどうかは計りようも無かったが、世界の歴史書を紐解いても概ね同じ見解に辿り着く。それはユリウス自身これまでに読み漁った文献より到った経験だ。
 そんな現実も知っているのか、ルティアは思い出したかのように頷いた。
「そういえば、天翅イデーンという言葉そのものが今では失われていたわね。……現在古代文明と称されるのは、その殆どがムー帝国とアトランティス王朝とされているわね?」
 ヒイロがいれば喜び勇んで喰い付いてきそうな話題であったが、今のユリウスの意識に余人を思い浮かべる空白は無い。首を傾げて問い掛けるルティアに、ユリウスは淡々と頷いた。
「ああ。“旅の扉”もそいつらが遺した技術だと言うのが通説だな」
「イデーンはその二国の源流になったと言われる文明よ。超が付く程の古代文明と言ったところね」
「……どこにそんな事を記載している文献があった? 現存する人間種最古の文書はせいぜい四千年前……それこそイシス黎明期に築かれたという神聖石碑紋字ヒエログリフの筈だが?」
「文献とは、所詮は過去の人が到達した知識を容に遺しただけの物。それは真実でもなければ絶対でもない」
「言葉を弄するな」
 余談は赦さないといったユリウスの険しい口調に、ルティアは口元に手を添え小さく苦笑を漏らした。
「別に、私だけじゃないわ。“賢者”に就く者ならば知る権利がある程度の知識よ」
「“賢者”? ……『悟りの書』か」
「ええ。それならば納得してくれる?」
「……ああ」
 荒唐無稽だと思っていたルティアの言も、その名を出されてしまえば理解を超えて納得せざるを得ない。『悟りの書』が齎す真理が、数多くの人間の多岐に渡る解釈を生み出そうとも、決して揺るがない真実を示すものだと経験的にユリウスは知っていたからだ。己が持つ知識の大半も“智導師”の『悟りの書』を盗み見たものだから、最早疑う余地は無かった。
 こちらの反応の逐一を愉しんでいるかのようなルティアに、ユリウスは表情を強張らせた。今も以前も感じた事だが、彼女と言葉を交わしていると何となく好いように翻弄されているような気がしてならなかったからだ。何故そんな心象を抱いたかは、ユリウス自身理解していないが。
 真剣な面持ちで沈黙を湛えていたルティアは、徐に星々を見つめる。それにつられてユリウスも虚空へと視線を動かした。
「この宇宙に鏤められた光芒の一つ一つは、この世界の刻んできた記憶の断片」
 何かの情思に満たされているのか、ルティアは遠くを見透かす眼で星々の瞬き、そこから齎される光を捉えた。
「記憶とは人の意識だけに残るものじゃない。物にも、大地にも、そしてマナにも宿り、連綿と無限に引き継がれる流動的なもの。……マナの流脈の中心に在る特殊観測領域『悟りの書コズミックブック』より見渡せる流脈総体の動きを観察した時、ここはあらゆる次元方向に対して円を描くように動いているという。その事実からここを“大いなる記憶の円環アカシックレコード”と称したのはグリムニルだけど……確かに的を得た良い喩えね」
 ルティアは振り返り、立ち尽くしているユリウスと視線を合わせる。その表情は非情で無感動そうな白さだった。
「状況を確認しておくと、今のあなたは特異点より始まった解放の波に呑み込まれて、不完全ながらここレイラインに直接接触してしまった。正規ならぬ経緯でここに到達してしまった者は、まず固有性を失う。ここを通るあらゆる存在は自らを保つ事が許されず、“元型”に還されてその意識は虚無の海原に消えてしまうから。そして、無垢なる数多の“元型”達は雄大なる流れに取り込まれ、総ての原点…即ち世界樹に還る」
 ルティアが湛えた微かな神々しさを前に、何時しかユリウスも彼女が呈する一字一句取りこぼさぬよう真剣に聞き入っていた。
「だけど勿論例外もある。それは世界に幾つも提示されている“職”という魂魄を安定させる器の容。そしてその中で最も顕著なのは“賢者”。“賢者”はこの内在宇宙に対して『悟りの書』という接触アクセス権限を得た者。だからここでの固有自己の保存は可能だけれど、他の“職”では各々の路を極めし者を除いてそうはいかない。たとえ正真正銘の“勇者ロト”の資格を持つあなたでもは、ね」
「…………」
 無常の真理を綴っている為か、ルティアの雰囲気も先程までの穏やかなものではなく、ある種の冷徹ささえ醸しているようにユリウスは感じる。彼女が従えている白燐の光と、足場を形成している白羽。それらの鮮烈な煌きが、ユリウスの感覚に一層の拍車を掛けていた。
 ユリウスの内心を察したかのようなタイミングでルティアは数段階段を昇り、再び踵を返して朱の醒めた眼差しでユリウスを見下ろした。
「あなたはまだ、何者でもない。それがあなたの強みであり、同時に最大の弱みでもある」
 見下ろす朱暁と、見上げる漆黒。両者は暫くの間、声も発さずに互いの視線を絡ませていたが、不意にルティアがその相貌を解した。
「だから、私があなたを帰してあげる。あなたはまだここに到ってはいけない。まだその時じゃない」
「……ここを昇っていけば王墓に戻れるのか? いや、そもそもイシスは“夜”に覆われていて外界からの接触は無理ではないのか?」
 ユリウスの疑問は至極当然だった。これまで世界が経験してきた魔物との戦争は、その結果が勝利にしろ敗北にしろ概ね短期決戦で終結する。実際にユリウス自身参加していたアリアハン―ランシール領海戦争においても、六日も掛からずに終局を迎えていた。それは力に依る魔物側の物量が圧倒的に優位である事と、知恵に依る人間側の対応が多種多様に展開できる事に起因し、それら意識は互いに相容れない敵同士、どちらかを根絶させる目的に向かって邁進あるのみだからだ。
 また人同士の戦争と違い戦後を見据えた政治的駆け引きや社会的風潮を考慮する必要が無い事も大きい。
 だが現に、今回のイシス戦役がここまで長引き、苦境に立たされたのは偏に砂漠全土が閉ざされた空間に陥ってしまった事にある。敵の狙いが何処にあるにしろ、他の土地への撤退、或いは他国への援助という選択肢が予め断たれてしまった以上、対応の手段の幅も狭まるのが必然というものだろう。
“夜”の突破を試みた訳ではないが、早々に無理だと結論付けたユリウスが懸念するには十分な事象だろう。が、ルティアは自信に満ちた微笑を浮かべて決然と言った。
「直接は無理ね。あの地に印されていた解放の歯車が動き始めた事によって王墓もまた、元型へと還った。……でも大丈夫よ。『闇の衣』は既に取り払われているわ。所詮紛い物だから、解放の波に一緒に流された筈」
「『闇の、衣』?」
 初めて聞く単語にユリウスは眼を細める。何故か耳の奥に残る、とても重要な韻を感じた。
「……それもまた、いずれ解る事ね」
 反芻しているユリウスに言い切り、ルティアは口を閉ざして階段を昇り始めた。
 とても意味深で意識が惹かれる言葉であったが、当のルティアの様子はそれへの問を受け付けぬようだった。予め言われていた事もあって、これ以上ルティアは口を割らないという事を察したユリウスは諦念に一つ溜息を吐き、先行する彼女の後ろを重い足取りで歩き始めた。








 天を貫いていた光輝の柱も既に消え失せ、深藍の天蓋に無機質な光沢を鏤めた空に戻っていた。しかし、人々は未だ空を見上げたままその余韻を胸の裡に反芻させている。
 これまで忘れていた涼やかで清々しい風が、戦いに疲れた人々の心身をゆっくりと解す。それを優しく見守るように、東の空がゆっくりと明るみ始めていた。
 濃藍が薄紫に変わり往くそれは、注意深く見ていなければ気付かない程の幽かな変化に過ぎなかったが、砂漠に立つ全ての者がそれを見逃す事は無かった。
「……朝日だ」
「ああ、なんて……綺麗な」
“夜”に堕ちて太陽が昇らなくなって早二週間。誰もが心より望んでいたその兆しに、人々は歓喜する。それに伴い、人々は次第に長く続いた戦いの終結を察し、勝利…つまり自分達の生存を確かに実感する。意識の支えであった太陽を奪われ絶望の底に叩き落されていた事も相俟って、光の回帰が齎す希望の燈は今や人々の顔を借りて燦然とした輝きに満ちていた。
 朝の到来を喜ぶ声は聖都のあちこちで湧き上がり、やがて重ね合わされて空を圧倒する大合唱となる。
 或る者は涙を流し、或る者は隣人と抱き合い、或る者は両手を組んで太陽に祈る。
 そんな人々の心からの笑顔達を目の当たりにして、“魔姫”ユラ=シャルディンスもまた満面の笑みを浮かべ、主君であるフィレスティナに声を掛けた。
「やりましたね、フィレスさま」
「……ええ」
 アスラフィルが消えた時と同じく地面に膝を着いたままのフィレスティナは、背に受けた声にゆっくりと立ち上がる。若干その表情には叔父を喪った事への翳りが尾を引いていたが、民の前である事もあって彼女はそれを刹那で胸の裡に隠した。
 そして明け往く空に向かい、両手を組んでそっと静かに双眸を伏せ、失われた命達に黙祷を奉げる。
 そんな主君の邪魔にならぬようユラは数歩下がり、隣で気難しい顔のまま佇むアズサを見て怪訝に思う。周囲はこんなにも漸く訪れた朝陽の温かさを噛み締めているというのに、一人晴れない鬱憂な顔をしていれば余計に気掛かりに思ってしまうのは人の性というものだ。
「どうしたの? アズサ」
 何の邪気も無く、ただ本心から心配を顕にするユラの声に、アズサはビクリと肩を小さく震わせた。
「……いや、結局我らは同士討ちをさせられていたに過ぎんからのぅ。同胞を討って得たこの勝利に浸るのは些か複雑な気分じゃ……」
 それは親友であるティルトと戦ったアズサだからこそ紡げる言であっただろう。イシス全土を巻き込んだ今回の戦争、その敵勢力の元を糺せば、本来ならば敬うべき立場にある王弟であり、彼が操っていた同じ国の民なのだから。
 アスラフィルの最後の告白をフィレスティナの側で聞いていたにしろ、心は納得してはくれなかったのだ。
 明るむ空に反して表情を曇らせたままのアズサに、ユラは掛ける言葉を失う。いつも朗らかで、大胆不敵なアズサの心を圧し折るような事態が、自分の与り知らぬ所であったのだと察した。
「アズサ……王墓で何があ――」
「そうかもしれません。この度の戦、守れた命は元より喪った命を考えると心が張り裂けそうになります」
 戸惑いながらも言葉を続けようとしたユラを遮り、祈りを奉げていたフィレスティナは重ね言う。それは両者を慮って発せられたようなタイミングだった。
「フィレスさま……」
 主が喋り始めた以上、彼女に従うユラとアズサの二人は口を噤んで、その言葉を待つより他は無い。背筋を伸ばして双姫はフィレスティナが紡ぐのを待った。
「だけど……いいえ。だからこそ、生きている私達は彼らの分も生き抜かなければならない。この砂漠を護る為の礎となった彼らの死をこの胸に抱いて」
 王墓の地下で、アズサとティルトが刃を交えた事実を超常的視点から見ていたフィレスティナは、眸に蔭りを載せたままのアズサの心を労わって、声調を落し連ねる。そしてこれからそれを知るであろうユラの心を慮って、敢えて決然と締めた。
「私は全ての傷みを背負い、それを覚悟の糧とします。聖王国イシス第三十六代ファラオとして。“ラーの化身”として」
 つい先日までとはその雰囲気ががらりと変わったフィレスティナの毅然とした眼差しが双姫に向けられる。
 ユラとアズサは一瞬だけその姿と意志に気圧されたが、やがて力強く頷き返す。二人の眸には、“砂漠の双姫”として覚悟が燦然と燈っていた。

 フィレスティナとユラ、アズサが共に己が路を往く覚悟を固めたと同時に、小気味良い硬質な何かが打たれる音が空に響く。
 何事かと三人は音の方へと視線を移すと、そこには両手で頭を抱えて蹲ったスルトマグナと、杖を振り抜いた体勢で荒く呼吸をしているミリアの姿があった。
 状況が全く見えない三人は思わず首を傾げる。眼の前で突如始った諍いに唖然と眼を丸くするソニアと、表情を強張らせて二人を見つめるナフタリの姿が、一層混迷を助長していた。
 叩かれた場所をさすりながら、スルトマグナは立ち上がり穏やかならぬ顔で叫ぶように言った。
「ミリア! いきなり何するんだよ!!」
「黙りなさいクソガキ!」
 年相応の子供らしい憤然とした反応も、ミリアはその怒声で一蹴する。激しく波立った心が落ち着く事を拒否しているのか、ミリアは顔を真っ赤にしながら怒りのまま“嵐杖・天罰の杖”でスルトマグナの頭を再度殴った。
 二度も同じ部分を殴られて痛みが大きかったのか、スルトマグナは蹲って小さく呻き声を漏らしている。冷静怜悧に戦端を運んだ参謀の姿とは思えない様相であったが、あれが本来の少年の姿なのかもしれない。少なからずスルトマグナという少年を見てきた者ならばそう思うと微笑ましいものを感じた事だろう。……但し、それが平穏に囲われた状況であれば、だ。
 傍から見る限りは子供の喧嘩に近いのだろうが、それにしては当人達の様子が余りにも逼迫した様子だ。“賢者”であり年長者であるナフタリが両者の間に入れば収める事が出来る、と期待する眼差しでソニアが見上げているものの、ナフタリは不動でミリアとスルトマグナのやり取りを静観するだけだった。
「貴方達、何をしているの? お父様も見ていないで止めてください!」
「ユラ……少し黙っていろ」
 駆け寄りながらのユラを、ナフタリは厳粛に制する。ナフタリが何を思って二人の仲裁に入ろうとするのを阻んだのかユラには計り知れなかったが、それは有無を言わせない高圧的なものだった。
 思いも寄らぬ強い口調を受けて、ユラは半ば呆然と眼を見開いて足を止める他無かった。
 立ち上がりかけたスルトマグナの胸倉を乱暴に掴み挙げ、ミリアは憤怒の形相を崩さぬままスルトマグナに詰め寄っていた。
「スルト! あなた、さっき自分が何をしようとしたか理解していて!?」
「……わかってるよ」
 余りにも真っ直ぐに憤りを載せる藍青の眼を直視できなくて、スルトマグナは自然と眼を逸らす。それが更なる追撃の余地をミリアに与えた。
「わかってないわ! 全然理解していない!! あの魔法・・・・を使って戻れなくなったら……どうするつもりだったのよっ!」
「……大丈夫だよ。あの状態を維持するには“屍の生地”は条件が悪すぎる――」
「そんな事を言っているんじゃないの! ノエルが悲しむような真似を、この私が許すと思って!?」
 眦を吊り上げて連ねるミリアの言葉には情思が溢れ、非論理的。そして直接口頭に並べられた理由は、ここに在らざる人物の為だった。が、そこには彼女自身の想いも込められていた事を汲めないだけスルトマグナは無智でも子供でもなく、勝てないと判断して観念したのか白旗を挙げた。ミリアが自分の事を心配して言っているのだという感情が解ってしまった以上、どのような言葉を冷静に並べようが反論はただ幼稚な弁舌にしかならないと覚ったのだ。
 半ば馬乗りに近い体勢のまま胸倉を掴まれ、所在無く地面に視線を這わせていたスルトマグナはミリアの拘束を解こうとせず、瞼を伏せて唇を動かした。
「…………ごめんなさい」
「……いいわ。許さないけど、赦してあげる」
 消沈した様子で本当に幽かに口から零れた謝罪の言葉を、良すぎる聴覚で捉えたミリアは哀しげな表情を一瞬だが浮べ、深く嘆息を零して漸くスルトマグナを解放した。

 誰もがこの戦争の終結を受け入れてこれまでを顧み、そしてこれからの事に思考が推移しようとしていた。
 その時。漸く訪れた平穏を天ごと劈かんばかりにおぞましく響く獣の咆哮が、明けの空に恐々と響き渡った。








 穢れない白の外套を揺らしながら進むルティアの背中を見据えたまま、ユリウスは無に拡散しつつあった記憶を手繰り寄せていた。
 忘れもしない、自由交易都市アッサラームを訪れた際に起こった異変。それに半ば捲き込まれる形で相見える事になった仇敵、アークマージとの戦闘。あれ程までに力の差を見せ付けられた挙句、殺されなかったのが不思議で仕方が無かった。慈悲でも、殺せなかったという訳でも無く、殺す価値すら見出せなかったと考えた方が自然で、それを思うと苛立ちが募るばかりだった。
 強ければ生き、弱ければ死ぬ。敗北と死は等価値。幼少より自身の背に貼り付けられた理は、今の意識を築く基盤でもある。だとすれば何故、自分がこうしてアッサラームの事を思い返す度に苛立ちを募らせているのか。その疑念を思うと、裡から噴出する闇が暴れまわって意識と思考を浸蝕し、攪拌させる。
 解への目処さえ立たない思惟に自然と深い皺を寄せるユリウス。その時、不意にルティアは足を止めた。
「あなたは何も言わないのね」
「……何の事だ?」
 怪訝に眼を細めてユリウスは段上に立ち尽くすルティアの後姿を見る。その表情は豊かな純白の髪に隠されていて見る事が出来なかった。
「……アッサラームであなたは、私に関わったばかりに死に瀕する目にあった」
 語尾を微かに擦れさせて、搾り出すようにルティアは言う。
 ルティア自身はユリウスを探していた事に違いなかったが、アッサラームで起きた事象を望んでいた訳ではなかった。後遺症は残らなかったとはいえ、自分に無関係な人間を捲き込むつもりなど微塵もなかった。
 狡猾で執念深いアークマージの動向を読み切れなかった己の甘さが、大都市一つを呑み込んだ異変の元凶と言っても良いだろう。
 だが最も被害を蒙ったであろうユリウスは、そんな事か、と実に素っ気無く嘆息した。
「別に。あんたに対しての文句など特に無い」
「え?」
 その返事は予想していなかったのか、虚を突かれたルティアは思わず振り返り、大きく眼を見開く。
 ユリウスは揺れる暁色を転ばない黒で映しながら、淡々と続けた。
「あれは俺が勝手に逆上してアークマージに戦いを挑んだ挙句、一方的で無様に負けただけだ。何故生きているのか不思議なくらいだがな」
「……そんなに、あの人が憎かった?」
 恐る恐るルティアは問う。そこにどのような感情が込められているかはわからなかったが、問い掛けられたユリウスは何時の間にか握られていた自身の右手に視線を落とした。
「……そこに奴が居る。それだけで俺には戦う理由が生まれる。アッサラームでも同じだ。例え奴があの街に現れた原因があんたにあったとしても、奴に刃を向けたのは俺自身の意志によるもの。結果が敗れ去り死に至るものであったとしても、そこにあんたが絡む要因など皆無だ」
 自惚れるな、とユリウスは独白の最後に冷たく付け足して肩を竦める。
 胸に手を当て、ユリウスが放った温かみとは程遠い言葉を裡で反芻したルティアは一瞬だけ感情を忘れたような顔になるも、やがて柔らかく儚げに微笑む。それはどちらかと言えば、彼女の心から嬉しさが湧き出ているような笑みだった。
「……ありがとう」
「あんたが何故礼を言うのか理解に苦しむ」
「私はこうして生きている。あなたが護ってくれたおかげで」
 ふわりと唇の端を持ち上げての言葉に、今度は逆にユリウスは苦々しく顔を歪め小さく頭を振る。
「何処をどう曲解したらそうなる……俺は、自分の未熟で敗れた。あんたを助けてもいなければ、護ってもいない……いや、そもそも俺には誰かを、何かを護るなどという資格さえない。考える事すら許されはしない」
 ユリウス自身自覚していない些細だが確かな人らしい変化を見止めて、ルティアは笑みを潜め、だが穏やかな表情に変えた。
「確かに、あの時のあなたは可哀相な位に取り乱していたし、負けっぷりもそれはもう見事なものだった」
「…………」
「だけどあなたは逃げなかった。どれだけセリカに絶望的な差を見せ付けられても一歩も退かず、あの人に抗い続けていた」
 余りにも正直に悪意無く連ねるルティアに、ユリウスは知らず憮然としていた。その、ゆっくりと子供に言い聞かせるように綴るルティアの言葉を耳にしていると、ユリウスは自分でも理解できない震えが身体の内側から外に向けて解き放たんとするのを感じていたのだ。どういうわけか心拍が激しくなり、連なって呼吸が苦しくなる。視界の端が徐々に曖昧になり、全身の体温が上昇して身体の中が騒然とするような気がしていた。
「その結果があれだっ。結局俺は何もできなかった! 俺の技も魔法も、持ち得る術の何一つ奴には届かなかったっ!」
 精神の昂揚に肉体の方が着いていけないのか、その不調和に何度か噎せ返りそうになりながら、裡の底から沸々と込み上げてくる不快な何かが抑えられずユリウスは叫ぶ。無性に浮上しようとする破壊衝動が僅かな理性に阻まれて中途半端に顕現し、言葉と同時に真一文字横に腕を振り払ったが、それは虚しく空を切るだけだった。
「俺は弱い……どうしようもなく弱い! だからこそ力が、どんな敵だろうと斬り伏せる術が必要だ! 質などどうでもいい。自分がどうなろうとも知った事では――」
「それで“魔族”になりたいの? セリカと同質の力を求めるの?」
「っ!?」
 激昂しているユリウスの形相にたじろぐ様子は微塵も見せず、むしろそれさえも慈しむように落ち着いた眼差しで見つめたまま、ルティアは虚空に投げ出されたユリウスの手をそっと包み込んだ。
「セリカがどうしようもなく強いのには相応の理由があるわ。無論、研鑽に当てた時間とてあなたとは比較にならない。……悔しかった? 何も出来なくて。戦いにさえならなくて」
「! ……な、んで」
 アッサラーム以来自分の意識の底で渦巻き、持て余していた得体の知れない何か。それが明示されたようで、ユリウスは眼を見開いて息を呑み込む。対照的にルティアはゆるりと眼を細めた。
「……それでいいのよ。その想いは、間違いなくあなたの力への意志の礎になる。何かに対しての悔しさも、前に進む為に必要な大切な一歩だもの」
 一歩ルティアは階段を下りてユリウスに歩み寄る。静かで穏やかな心中が浮き出た眼差しに、逆にユリウスは一歩後ずさった。その様子を暁の視線は捉え、だがそれ以上の追随は無く。代わりにルティアは目線をずらして星の海へと移した。
「私は、いつも逃げてばかりいた。あの人からも……運命からも。だから、どんなに無様でみっともなくても、あなたの抗う事を止めない不屈の姿勢を見ていると、純粋に羨ましいって思う」
 ルティアは星の一つ一つを並べ見て、その光輝に過去の残影を思い返す。しかしそれは長く続かず、ユリウスに視線を戻した。
「まあ、私の事はいいわね。それよりも今はあなたの事よ」
 言いながら微笑を湛えてルティアは指先で呆然とした表情を保つユリウスの額を軽く突付く。最早理解を超えて受容できない唐突なそれに、ユリウスはただ眼を瞬かせるだけ。
「何?」
「黒い霧……あの時、あなたを取り巻いていた漆黒の霊光」
 言われてユリウスはハッとして眼を瞠り、無意識に左胸を抑える。
「! あれは……何だ? 記憶が曖昧ではっきりと覚えていないが、俺は自分であんな事象を引き起こす事などできない。何らかの外的な原因があるとしかな」
 その外的要因の一つであるルティアに向けていた眼差しを、ユリウスは自然と険しくした。
「その問いに答える前に一つ聞かせて。……どんな気分だった? あの黒い霧を纏っていた時は」
「別に……ただ元素フォース霊素エーテルが酷く容易に収束できたのは覚えている」
「それは別の要因なんだけど……それだけ?」
 何時の間にかルティアの表情から笑みは失せ、声の調子も抑揚が平坦化して探るようなものになっている。
 問いに、暫し考える素振りをしてユリウスは珍しく躊躇いつつ言った。
「感覚の言語化は難しいが……そうだな。どんな事でもできる……そんな気がした。結果を見ればそんな事、この上なく浅はかな錯覚に過ぎなかったがな」
 最後に自嘲的に口元を歪ませてユリウスは肩を竦める。その応答に満足したのか、だが笑っては失礼だとルティアは気付かれぬよう小さく口の端を持ち上げた。
「あれは、あなたの力。あなたに秘められた可能性の具現……といっても、それはまだ表面的な部分の露見に過ぎないけど」
「……俺の、力?」
「“黒”は、全ての色を呑み込む」
「っ!?」
 ユリウスは息を呑み込んで喉を低く鳴らす。
 それはつい先刻、闇の先から聞こえてきた、自分の意識を惹き付けて止まなかった誘惑の言の葉。そのうち無意識の底に埋没してしまいそうになっていた濃厚な蜜の囁き。それが再び聴覚を優しく撫でた。
 ユリウスは完全に眼前の女性を信用した訳ではなかったが、それでもあの時の歌声・・が彼女のものではない事はその声質から判断できる。今の己の情報量では歌とルティアの関連性を推察するにはほぼ直感に依るものだけだったが、それでも全く無関係ではないという事だけは確かだと、これまでにない真摯な生彩で固めたルティアの相貌を見てユリウスは何と無しに思った。
 ルティアは、張り詰めた氷のように揺れる感情を裡に潜ませて、滔々と連ねた。
「“黒”とは、あらゆる色彩を包含し、全ての境界を廃絶し、自と他の領域さえも亡失させる混沌の顕現……だけどそれは“黒”を定義する側面の一部でしかない。真の意味での“黒”とは、何者にも侵される事の無い絶対の座に立つ孤高の具現。“黒”はあらゆる色彩と隔するが故に、全てを在りのままに反す鏡。全ての存在を容認した上で否定する、深遠なる純粋な色」
「……純粋な、黒」
「黒の霧は、あなたの魂魄が放つ四端の輝き。全てを在りのままに反す黒は、透明と同じ。透明とは“無”。そして“無”とは“有”に対しての“反”」
 ユリウスはただ沈黙に佇んでその声に聞き入っている。ユリウスは当初、自身が力を得る為の手段に繋がる有益な情報を得ようとして耳を傾けていたのだが、次第にその利己的な意識は薄れ、いつしか損得を数える思考は闇に潰えていた。
 ありとあらゆる感情を超えて、ユリウスの全神経を傾けさせるだけの何かが、切に語るルティアの言には秘められていたのだ。
「あなたの力は“反”。全てにおいて特出する事が無い故に、全てを重ねても決して届く事の出来ない高みに到る事のできる存在……即ち“勇者ロト”」
 厳かに告げたルティアは、やがてそっとユリウスの胸に自らの掌を添える。それは繊細な硝子細工にでも触れるような羽毛の微かさで。
 細く温かい掌がユリウスが胸元に垂らしている紅いペンダントと衣服越しに触れ合うと、その小さな接触が火花となり瞬く間に空間全てを覆う鮮烈な白い光輝に肥大した。
「これはっ……!?」
 胸元から溢れ出す白にユリウスの視界は既に塗り潰され、圧力さえ伴うそれに思わず後退する。間近にいる筈のルティアの姿は視認する事さえ叶わず、触れ合った時の温もりも光に流されて感じられない。
 ユリウスは自分の意識がそこから急激に離れていくのを感じていた。それを自ら知覚した瞬間。これまでにない何か壮絶な力によって背を引かれ、意識が遠ざかる感覚は加速度的に上昇する。
 暴走する光は、ユリウスとルティアの二人を。そしてこの星の海でさえをも呑み込んで行く。
 だがそんな中で、ユリウスは確かにルティアの声を聞いた。
「怖れずに、全てを受け容れなさい。それこそがあなたを、あなた自身に向かわせる為の第一歩。大きく重く、そして何よりも深いその一歩を踏み出す意識……絶望の底で思い馳せる切なる希望こそ、力への意志」
 それを最後に、意識の全てが白く塗り潰されて消えてしまいそうになる刹那。自分を見つめているルティアの顔には、慈しみと哀しみが同時に浮かぶ不思議な表情を載せていた。
「いつかあなたの魂魄に、安らぎが訪れますように」
 幻聴かと思わんほど幽かに囁かれた言葉。それを意味のある言葉として認識しようとした刹那、白は一瞬で黒に転化した。



 気が付けば、ユリウスは夜闇が空に犇く大地に立ち尽くしていた。
 地上に平伏す全てのものを嘲るように蒼白い月が虚空にポツリと浮かんでいる。
 ここはイシス大砂漠かと思ったが直ぐに違うと覚った。大地には潤いを示す草花が風に嬲られていて、仄かな芳しさを鼻腔に誘ってくる。
 この空気の佇まい、大地の感触、風の匂い、夜の面持ち……この場所を形成する全ての記憶が、己の意識と身体の細胞一つ一つに刻まれている。ここは、アリアハン大平原。そしてこの夜の感じは、王都襲撃事件があった時のそれ。即ち……自分が、犯してしまった罪業の刻。
「!」
 狂々とした風の悲鳴が上がり、背筋がゾッとする。尋常ならざる不可視の力によって、自分の全ては後方を振り向かされる。脳裡に刻まれた記憶が神経に指令を下し、全霊を賭して振り返るのを拒んでいるというのに、決してそれを阻む事はできなかった。
 眼を閉じたいのに瞼は蝋にでも塗り固められてしまったのか見開いていて、視線を外せない。
 そして、見た。
「あ、あぁぁ……」
 震える咽喉は既に声を奏でる事は無く、ただ弱々しく擦れ消えてしまいそうな震える嗚咽。
 そこには、ただ巨大な影があった。その影を前にしたのならば、人間という存在など酷くちっぽけなものでしかないと否応無しに自認させられる。納得を超えて本能に直接理解させられる圧倒的な現実――。
「うぁ、あああぁぁ……」
 そこには一人の竜がいた。自分の身長を三倍にしても届かない高さから、悠然とこちらを見下ろしている。
 どれ程熟練の技を持った職人による金銀細工であろうとも、人の手が加わったものなど及びもしない美しさを誇る命の造詣。夜光に輝ける紫水晶アメジストの竜鱗は、空に散らばるきら星を一箇所に凝縮したように煌いていて、その荘厳さに支えられ血よりも濃厚で潔い朱茜の双眸は、感情などという些細な揺らぎを無常に吹き飛ばす。
 大きく広げられた両翼は、空の支配者は自分だと誇示するように、絶対的な存在感を解き放っていた。
 良く見ると、そのひとは人間の身体など一握りで粉々に粉砕できよう程の厳つい両手に、黒髪の少年の身体を包み込んで眼の高さまで掲げている。少年と竜が正対し、鼻孔から零れる途方も無い風圧を前に少年はされるがまま身を仰け反らせた。その時、戦斧など比較にならない凶悪な鋭さの牙が口腔から艶かしく覗いていた。
 人間の胴に易々と風穴を開けて有り余る程に堅強鋭利な爪は、器用に捉えた少年に触れる事無く拘束している。肉の感触は岩壁のそれで冷たく硬質で、その様はまるで牢獄であり、事実そこは人間の力で抜け出す事など不可能に近かった。
 閉じ込められた少年は身動きを取らない。否、出来ない。その思考は擾乱し混迷する意識の坩堝の底辺に堕し、精神と肉体が全く別の指揮系統によって相反するように動いているのか、剣を携えた手は完全に硬直し切っている。絶望を載せた眼は、ただ見開かれて虚ろに竜の姿を映しているだけ。
 もし仮に、この場に対岸の火を遠望する者がいれば、少年の命運は既に尽きたと理解せざるを得ないだろう。そして少年自身、それを理解しているからこそ身動き一つしていなかった。
 少年の、忙しなく逸る心臓の音だけが距離を隔てている筈のユリウスには何故かはっきりと聞こえる。いつしか少年とユリウスの心臓の鼓動が完全に同調し、少年の内側で駆け巡っている全身を喰い破らんとする破壊の衝動が、ユリウスの心臓から血潮に溶けて全身に向けて注入され始めた。
「うぐッ、……ぅああああああああっ!」
 ユリウスは乱暴に左胸を掴み、天を仰いで喉が潰れんばかりに絶叫する。
 内側から引き裂かれんとする感覚に悶え、その傷みは記憶と眼前の現実の境目が消し、不意に竜に捕らわれた少年が自分と入れ替わっていた。
 捕らわれたユリウス。だが束縛を逃れていた両脚はただ虚しく宙を漕ぎ、決壊した心の堤防を越えて氾濫する波は、荒れ狂う濁流のまま血潮を全身へと圧し流しては血管を膨脹させて破裂させる。全身を巡る神経の隅々に稲妻が迸り、感覚をそこに根付く意識ごと灼き尽くした。
 ユリウスという個を形成する肉体と精神による外殻が崩壊し、それが深奥に在る魂魄の咆哮を呼び熾す。深淵より立ち昇った漆黒の雷鳴は天を衝き、やがて弾ける。
 世界の終焉に相対したかのような悲鳴を上げたユリウスは、次の瞬間には全身から噴出する夜より深く混沌よりも昏い漆黒の霊光に包まれていた。焔のように揺らめいて激しく燃え上がり、限界無く猛り続ける荒れ狂う黒の波動は己を超え、やがて自分を捕縛していた竜さえをも呑み込んでいく。燃え滾る黒はやがて雷光にその姿を変えて大地を穿ち、空を撃ち、自らも竜も、周囲の全てを打ち据えて崩滅させる。
 己の竜燐を傷つけた雷撃に反応し、竜が動いた。その両の眼から凄絶な殺気が、空気を硬質どころか融かさんばかりの密度と重圧を以って発散する。常人ならばそれに中てられるだけで狂死してしまいそうな殺気を一身に浴び、ユリウスでさえ、それに耐え切れなかった。
(死ぬ……死ぬ、死ヌ。死ぬ、死ぬ死ヌ……死、死…死死、死死死死―――――!!)
 血液が沸騰する。意識が蒸発する。筋肉は爆ぜ、全身が霧散する。
 意識が赤く染まり、やがて黒に落ちる。光さえ呑み込む黒の先から押し寄せてくる不可避の現実を捉えた瞬間。ユリウスの懐裡の、深淵の更なる底で力への意志が目醒めた。
「あアああああああアアアっ!!」
 望んではならないと、抱いてはならないと自ら戒め続けてきた力への意志…それは死への恐怖であり、生命そのものに刻まれた因子。生存本能による死への足掻き、生への執着。
 嘗てより自分には決して持ち得ないものだと二人・・に談じていた醜穢なるそれが、ユリウスの中で小気味良い音を立てて弾けた。同時にユリウスの意識もまた、決して光射さぬ闇の底で融けた。


 紫竜に捕まれたままのユリウスから発せられていた黒の雷光は、何時しか手にしている剣に葛の如く絡み付き、全てを否定する漆黒の輝きを以って竜の左胸から腹に掛けて深々と貫いていた――。








 銀色の星々が燦爛と輝き、自由気侭に行き交う漆黒の宇宙。永遠に限りなく近い深淵を覗き見るように、ルティアは白羽の階段の縁に立っていた。
 彼女が眼下にも変わらず広がる数多の色彩を言葉無く見つめていた場所こそ、つい瞬間先までユリウスが立っていた場所。ルティアはユリウスという存在を象る構成体が、光の粒子となって宇宙の中の一つの銀河に溶け込むように消えていったのを見送り、その行く末を見守っていたのだ。
 だがその表情は無から、やがて悲哀に染まったものに変わる。
「……まだ、過去を受け容れる事はできないのね」
 若干の後悔を孕ませてそう言い落とし、どこからともなく銀色のサークレットを取り出しては自らそれを被る。額に座した蒼穹の宝玉が彼女の心情を代弁するように、時折往く流星の姿を映し、そして潰えた。
『終わったようだな、ルティア』
 小さく双肩を落して嘆息したルティアの背に、厳かな声が投じられる。
 その瞬間、空間全てがピシリと音を立てて凍結した。上下左右前後、あらゆる場所に犇き、瞬く事を止めなかった星々がその活動を停止させ、ある種の壮大で荘厳な絵画の如き世界に変貌する。だがその時さえ止まったかのような世界に、幾十幾千、幾万の亀裂が一斉に奔り、崩壊した。
 割れた窓硝子が砕け散る様相で空間の断片が虚空に落ち、消滅していく。ただ一人、氷結に巻き込まれなかったルティアは白の燐光を身に纏い、その先に隠れていた真の意味での闇の空間に踏み出した。
 数歩前へと進み、ええ、と掛けられた声に頷いて踵を返す。それが誰のものなのか既に知っているルティアはこの変容に特に驚いた様子を見せず、また何の感情も載せずに漆黒を見据える。
「……少なくとも、これで楔は打ち込めた筈よ」
『しかし酷い女だな。あの小僧への助力と言いながら、小僧の最も触れられたくは無い場所を土足で踏み躙ったのだから』
 闇黒から聞こえる声は、ルティアを嘲るように冷たく笑った。
「生きようとする力は、何にも勝る力の根源となるのにユリウスはそれを知らない。いえ、認めようとしない……今の彼の時間は、あの時から止まったまま。だから、凍りついた時計を再び廻す為にこれは必要な事。他ならぬ、彼自身の為にも……」
『それが其の免罪符か。……ふん、我には詭弁にしか聞こえぬな。其の想いを押し付けて、それであの小僧が壊れては元の木阿弥というものだ』
 声は次々に皮肉を並べるも、ルティアはそれを気にする様子も無く。逆に同じく皮肉で返した。
「あら、あなたは彼を心配しているの?」
『愚問。意識を己の内側にしか向けていない小僧なぞ、嘗て我が共に歩んできた者達比べれば見劣りして然るべき。あれで壊れるならば、所詮はその程度の存在だった事。我を手にする資格など無い』
 憮然とした調子に変わる声に、ルティアは失笑した。
「手厳しいわね。あなたにとって、それ程までに前任者は愛しい主だった?」
『……』
「当面、“精霊の歌”の脅威は去った。ガルナにある『悟りの書“原典”』からレイラインを監視していた甲斐があったというものね」
 押し黙った声に小さく肩を竦め、ルティアは再度踵を返す。その仕草は、この視界さえ無い真闇の中にどのような世界が広がっているのか熟知しているようだ。そして事実、ルティアは理解している。それ故に暢達な足取りだった。
 遠ざかる白き背に、声は単調に言った。
『ルティア』
「なに?」
『其に改めて言う事ではないが、“神約烙印テスタメント”と“精霊の歌”は直接接続リンクしている。あの小僧が世界を、そして自らを拒絶せし時……呑まれるぞ、容易くな』
「……そんな事、させないわ」
 足を止めたルティアの小さな呟きを覆い潰さんと、声は間髪入れずに続けた。
『今でさえ危かったというのに何を言う……其が如何なる意気込みを秘めていようと、如何に小僧が紅水晶…“天陽の核”を持っていようとも、世界の鎖は堅強だ。“勇者ロト”とは全てを認めた上で全てに否を唱える者。決して己が裡なるまま拒絶するだけの者ではない』
「…………」
『何にせよ、あの小僧には未だ誰の言葉も届くまい。そして、小僧の真価は我自身で見極める事だ。其がそこに関与する権限は無い』
 それは忠告なのか。ルティアは振り返り声の主に薄く笑った。
「ええ、それはあなた達の問題。……だけどね、私は確信を持っていっているのよ。いずれあなたが、彼を主と認める事のね」
『確信、だと? この世界に確かなものは無いと言い続けた其が、か? 笑止な!』
 声はルティアに嘲笑を返す。
「……いずれ解る事。その時を楽しみにしていてね、『天剣・稲妻の剣カラドボルグ』」
 ルティアは暁の眼を細め、つい先程まで自らが立っていた場所に突き立つ黄金の剱を闇の中から見出した。その姿は、闇夜の大地に突き刺さった稲妻の姿そのものと言っても違い無い、清冽な激しさと迸る力を秘めていた。
 その挑発染みた諫言に、剣は望むところだと言わんばかりに尊大に言い放った。
『是非そうさせて貰おうか、“白厄の魔女”』




back  top  next