――――第五章
      第二二話 暁闇の讃歌







『……もうすぐ“扉”は開かれる。不安定な土台の上に、永き時を上塗りされ続けてきた色層を還す原初の扉が』
 最後に意識の届いた声は、決して気のせいでは無い彼女の安堵。
 王墓崩落の時。光に消え往く直前に見た彼女の顔はとても安らかなものだった。



(……う)
「……ト。ミ、……ト」
(だれ、だ?)
 暗闇の遙か先から明らかに自分を呼ぶ遠い声に、粘着質に絡みつく闇に囚われていたミコトの意識はゆっくりと覚醒へ向う。やがて虚無に拡散し点々としていた意識の断片が徐々に繋がり、網目を為すまでに修復されると、途端に全身を痺れさせる様な鋭く荒い衝撃が奔る。その余りの激痛にミコトの意識は小さく身じろぎ、呻いた。
「ミコト」
 傷みに耐えていると、再び自分を呼ぶ声が意識に届く。労わるように穏やかに綴られる今度のそれは、先程とは違い随分と近いような気がした。
 そこで完全に意識が浮上したのか、ミコトはゆっくりと瞼を持ち上げる。霞んでいた視界が徐々に鮮明になり、真っ先に飛び込んで来たのは見慣れた、月明かりを返して月そのものの威容醸す白翠に煌く銀髪だった。
「ミコト! 気が付いたかい?」
「ぁ」
 暫し呆然と虚空に視線を彷徨わせていたが、やがて夢幻と現実の区別が明確にできるようになって数回瞬きし、堅固な意識を取り戻す。だが眼前の人物を前に、ミコトは違う意味で呆然とした表情を浮べた。
「ヒイロ!? おまえ、なのか?」
「ん?」
「いや、だっておまえ。ザキを喰らって死んだ筈じゃ……」
 本人を前にしてありのまま発するのは些か不躾だ。が、ミコトの心情を思えばそう問いたくなるのも無理は無い事だった。
 全く以って悪気が無い事はミコトの顔を推せば明らかだったが、当のヒイロにしても特に気分を害した様子も無く、寧ろどう返せば良いのか判らないと言った曖昧な表情を浮べていた。
 そんなヒイロの様子が逆にミコトに自らの失言に気が付かせる。詫びながら上体を起こし、ミコトは何があったのか頭の中で整理した。

幽玄の王墓ピラミッド”の最上層で、イシスに反旗を翻したティルトの持つ魔導器『死の首飾り』を通して伝わってきた『死のオルゴール』の韻律で味方の陣営は崩れ、更には溢れ出てくる不死魔物との戦いで窮地に立たされる。逆境の中で孤軍奮闘し、何とかそれらを撃退したと思った矢先、“天臨の間”の中心に座していた棺が突如として開き、溢れ昇る光の滝中に女の姿が現れた。
 陽炎の女が語るそれは、聖王国イシスにおいて誰にも伝えられていない正史であり、王の娘として彼女自身が抱いた傷みの形そのものだった。
 聖なる王国の根幹を揺るがす程の事柄が連ねられ戸惑いを禁じえなかった。だが自分にとって真に驚嘆すべきは、悲哀交じりに綴られたそれに耳を傾けている最中。突如として、死んだと思っていたヒイロが立ち上がっていた事だろう。
 呪殺魔法ザキによって齎される心身乖離という死の形は、肉体と精神を分断させ、再び両者が結ぶ事を赦さない。例外として蘇生魔法ザオラルによる幽魂回帰が存在するが、それも時間が開いてしまえば効力を示す事はない。それは非物質領域アストラルサイドに構成される精神体の方がより根源であるマナに形質が近い為、還元され易いからだ。
 魔法の原理に明るくないとはいえ、ミコトは呪殺魔法にまつわる惨澹たる逸話はこれまで幾つも聞き及んでいた。それ故に平然と立ち上がっていたヒイロの姿に驚愕を覚えていたのだった。
 驚愕はやがて疑問に変わり、だがそれは王墓そのもの崩壊によって有耶無耶になってしまっていた。こうして改めて思い起こせばそれら全てに抱いた疑問は何一つ判明していない。ただわかっているとすれば、殆ど僅かな間に過ぎなかったが、あの時。ヒイロから発せられていた人間からかけ離れた畏怖さえ覚える清冽な存在感は、旅路を共にしてから接している静穏な姿とは違う、まるで外見だけが同じで裡の精神を異にした別人のようだった。

 ミコトが状況の整理に黙り込んでいると、少なからず自分が意識を閉ざしていた自覚はあるのか、ヒイロは困ったように指先で頬を掻く。
「うーん、死んだつもりは無かったんだけど。君が冗談なんて言う筈もないし……現状を鑑みるに、それに近い事態に陥った事は間違いないようだね」
「お前なぁ……」
 酷く他人事のように綴るヒイロに、ミコトは呆れたように嘆息交じりに呟いた。
呪殺魔法ザキを受けても無事でいられたのは……多分これの御陰だと思う」
 ミコトから胡乱な視線を浴びながらヒイロは腰の道具袋を探り、目当ての物を取り出しては彼女に差し出す。その掌の上に乗っていたのは、小さな鉱物の砕片だった。特に精製された様子も無く、ただ岩盤から力任せに打ち砕いてきたかのように各々の面に統一性が無い原石だ。夜光を受けて温かく、深い群青に染まるそれは半ばから真っ二つに断たれており、その鉱石の構造性質なのか、断面が鏡のように滑らかだった。
「何だ、これは?」
「“朗らかなる大地の恩寵”……一般には『命の石』と言われているね」
「い、『命の石』っ!?」
 訝しさに眉を寄せて石を見つめていたミコトは、返って来た答えに眼を丸くする。
『命の石』と呼ばれる鉱石は、冒険者として世界を廻っている時が長いと度々耳にする聞き覚えの良いものだった。
 その鉱物特性についての詳細は未だ公式な形として発表された訳ではないが、経験則から導かれた判断は幾らでも世には下されている。最も広く世間に知れ渡っているのは、石の所持者が何らかの生命の危機に瀕した時、所持者の身代わりとなって砕け散りその危機を回避する、というものだ。他に知られている逸話といっても、主観客観等の違いよって誇張されたものが多く、程度の差はあれど概ね似たようなものである。
 そんなわかり易い開示の下に人々の間では、石には不老長寿の秘密が隠されている、などという愚にも付かない迷信が深く信じられるようになるのも仕方が無い事なのかもしれない。そして、そんな意識によって数在った鉱脈は次々に乱獲され、枯渇し、鉱石自体の希少価値が非常に高くなっていった。
 現在において、採掘したままの原石でさえアッサラームの宝石商に流せば大金で換金ができる。ましてや精製され、宝石として加工されたのであれば屋敷一つを楽に買える位の富を得る事ができるという。冒険者の中にも、その鉱脈を専門で探す者も決して少なくない。
 ミコト自身は護符としての絶大な効力を持つ、という話が記憶に残っていたのだが、こうして目の当たりにするのは初めてだった。微かに逸る心を抑えてつぶさに石を凝視していたミコトは徐にヒイロを見上げる。
「……こんな高価な物をお前、どこで?」
『命の石』が高値で取引できる市場が確立している中で、このように余りにも無頓着で無防備に扱っている冒険者を初めて目の当たりにしてミコトは驚き半分、呆れ半分で思わず嘆息を零す。
 そんなミコトよりも世間のより裏を知っている筈のヒイロは、だがやはり石の価値には興味が無い様子で、無造作に掌の上で弄びながらそれらに視線を落していた。
「これは……俺が俺と知覚した時、最初から持っていたもの。……まぁ俺も、今の今までこれの事を忘れていたんだけど」
「……お前」
 ヒイロが自分の過去を失っている人間だと言うのは以前聞いた事があった。そしてその手がかりを探してこの旅路に参加しているという事も。ならば今、掌の上で砕けている鉱石は、彼にとって唯一過去に繋がる物と言う事だ。
 ここで憂い顔の一つでも浮べていればミコトは何も言わなかったのだろうが、ヒイロは特に感慨を載せるわけでもなく、ただ興味深げに美しい断面の滑らかさに眼を這わせているだけだ。
 普段以上に暢達で手応えの薄い反応に気疲れしたミコトは、諦念のまま追求の匙を投げ出す。一つ深く嘆息して、現実を糺す事にした。
「ここは、何処だ?」
「王墓の外……いや、正確には王墓があった場所の直ぐ側、と言ったところかな」
 今一要領の得ない曖昧な言繰りにミコトは怪訝に眉を寄せる。
 その様は寧ろ真っ当な反応だと思いながら一つ苦笑を零し、ヒイロはミコトの視線を導くようにゆっくりと指先を動かした。
 示された先には何処から、そして何時湧いて出たのか窺い知れない広大なオアシスが広がっており、透き通った水面の奥に底は見えず、薄い水膜を破らんと圧し溢れる鮮烈な光によって昂然と輝いていた。
「何時の間にこんなものが……いや、それよりもこの光は一体?」
 王墓に侵入してからと言うもの立て続けに起こる常軌を逸した現象、そしてその最果てを前にしてミコトは狼狽するだけ。そんな彼女を笑うでも無しに、ヒイロは真面目な相貌でこくりと頷く。
「君が眼を覚ます前に周辺一帯を“鷹の眼”で捜索して見たけど、恐らくこのオアシスは王墓が在った場所に湧いて出来たと考えていいね。判別は難しかったけど、周囲の様子が侵入前に見た景色と一致する事から座標は同じだと思う。そして何より、あの雄大な王墓の姿が何処にも見当たらない」
「……」
「そうそう。他の皆には、先に聖都に戻ってもらったよ。君が目覚めるのを待つと言う者が多かったけど、それ以上に聖都の様子が気になって気が気じゃないのが眼に見えて判ったからね」
 ヒイロが目を覚ました時、そこは既にオアシスの畔だった。様変わりした状況を検分せんと冷静に周囲を見渡せば、共に王墓の最上層に立ち入ったティトエス達が倒れていた。どうやら自分が真っ先に気が付いたようで、横たわったティトエス達に声を掛けてみると直ぐに意識を取り戻したが、ミコトだけは心身ともに大きく消耗している為か、意識の潜行が深いようだった。
 激変した現実に正対し、今のミコト以上に驚愕する彼らを宥め、ヒイロはティトエス達に聖都への先行帰還を促した。オアシス近辺は魔物に遭遇しないという事実を踏まえた上で、一人の意識が回復するまで大勢を無為に待機させておく事に、戦略的意義を見出せないとヒイロは考えたからだ。その当り、ヒイロも冷静に徹する事ができる参謀気質であると言えよう。
 ヒイロ自身よりも最上階で起こった事に詳しいティトエス達は、自分達の危機を身を挺して庇ってくれたミコトをこのまま捨て置く事などできないと主張していたが、聖都を、ひいては女王や民を守らんとする意志とを天秤に架ける事はできず。各々にとっての優先順位をヒイロに問われて、己が本分を全うする事を急務としたのだ。
 無論、彼らの意識を誘導した事もあって、ヒイロに彼らの選択を非難するつもりは全く無かった。
 出立前に参謀顧問の少年より手渡されていた『キメラの羽』を用いて、ティトエス達は聖都に直帰する。それら蒼の軌跡を見送ってから、ヒイロは周囲に聖水を振り撒き、ぼんやりと光を湛えたオアシスの水面を眺めながら、張り詰めた表情で己が意識の深淵を覗こうと思惟を始めた。
 それから半刻もしないうちに、ミコトが呻き声を上げて、意識を取り戻したのだった。
「…………」
 ミコトは最早声を出すのも忘れてしまったのか、ただ茫然と眼前に広がるオアシスを見つめている。彼女の停止した思考がそのまま虚空に霧散せぬよう、ヒイロは最も納得を得れるだろうと踏んだ言葉で杭を打った。
「恐らく儀式が成功した……“死者の門”とやらが開いたんだろう」
 聞きながらミコトは徐に頷く。
 水面から昇る光は均等に零れているのではなく、円形のオアシスのとある方向・・・・・に集中していて、その輝かしさは思わず眼を細めてしまう程だ。光輝はオアシスを抜け出しては地を伝わり、一本の筋として遙か砂丘の果てまで伸びている。その様は云わば光の路であり、それが示す先には忌まわしい“夜”に抗わんとする人の意志の体現か、燦然と昇る光の柱が煌々と天を突いていた。
 光が地平線に沿って一点に収束し、やがて連なって天に流れている……そんな圧倒的で壮麗な光景は言いようの無い昂揚と同時に、妙な一抹の不安を抱かせる。光が強ければ強い程、隣接して生ずる影もまた深い。それを体現するかのように、意識を捕えて放さない様子を前にミコトは人智を超えた何かがあったのだと理解を超えて納得する他無かった。
「あの光の柱があるのは、聖都……か?」
「十中八九、間違いないね。あれ程までに騒然と動擾し、攪拌しようとするマナを叛く事なく束ね、一点へと誘っている……きっと聖都では途方も無い敷居でマナが収束されているんだろう。それこそ、古より塗装され続けてきた層を全て引き剥がす程に」
 後半の推察はヒイロの口腔内で呟かれたもので、ミコトには聞こえない。そして幾許か声調も落ちていたのだが、彼女には届かなかった。
「俺達も戻ろう。ミコトも疲れているだろうけど、これから何が起こるかわからない以上、戦力を分散させておくのは得策じゃない」
「ああ、そうだな」
 神妙に重く頷き、ミコトは遙か地平の彼方を見据える。
 都そのものの姿は全く見えなかったが、光が射す方角には、泰山のように聳える光柱が、砂漠に生きる全ての者にその雄偉と威厳を知らしめんばかりに、鮮烈に輝いていた。








 始まりはとある一点だった。その一点は、暗闇の中で燈された弱々しい燭光に過ぎなかった。
 しかし、その一点の周囲にぽつぽつと同じような灯火が次々に現れ、深々と光を呑み込む闇にささやかに抗い始める。決起した灯火達は、萌しの光に対して円を描くように列挙し、一つ、二つと次第に増え、やがてそれが六つ目を数えると、朧ではあるが闇に圧し潰されない確かな足場を確立するに到る。
 互いが互いを補完し、支え合う光点の群は各々の鼓動に触発され徐々に昂揚し、次の瞬間には互いを断つ事の出来ないきずなで結び合って、基盤たる地上を縦横無尽に迸っていた。
 点と点は線で繋がり、線は何かの図紋を描くように躍動のまま駆け回り、終には複雑細緻極まりない円陣を地上に刻む。
 円陣の中心に昇格した始点から、陣を描く光よりも遙かに強かな光点が放出され、それは敷かれた路を外す事無く潤滑に進む。点が線をなぞれば、点の後に連なる路は燦然と輝きを増していき、励起させる光の点が隅々まで足を伸ばして、最後に円陣の真上に位置する中継点を経て中心に還った時……爆ぜた。
 ほんの一刹那を越える度に陣から溢れる光輝の圧力は加速度的に強まり、円陣という境界領域にさえ留め切れなくなって、とうとう光は瀑布となって空を駆け昇った。

 全ては、一瞬の出来事だった。




「ふ、ふはははははははは!!」
 人々が絶句して隆起した光の行く先である空を見上げる中。感極まったアスラフィルは視界全てを白く呑み込む光の波濤、その源流である空高く“夜”に突き刺さった光の柱に向けて高らかと腕を掲げ、恍惚の表情で裡から込み上げる歓喜に哄笑していた。

『黄金の鉤爪』を繰るアスラフィルが、切り裂かんと爪を振り被った瞬間。
 間合いを詰められたスルトマグナが、冷絶な眼で魔法を解き放った瞬間。
 全ての時間がゆっくりと流れるように感じられた永遠の一瞬は、衝撃さえ伴って圧し拡がる光の洪水に一気に押し流されてしまった。
 爆発的の膨脹する光と共に放散されるマナは、戦場で慎ましやかに擾乱していた霊素エーテル元素フォースの濁流を易々吹き飛ばし、それを基として戦っていた者達の術さえをも封殺した。肉薄していたスルトマグナとアスラフィルも爆ぜた光に引き寄せられた暴風で互いに後方へと吹き飛ばされる。
 余りにも深く、紡がんとしていた魔法に意識を傾けていたスルトマグナは宙に投げ出され、受身を取る事すら叶わずに地面を転り、神殿付近にできていた人垣を背にして立つナフタリやソニア、そしてミリアの直ぐ側まで後退し、対してアスラフィルは、人々から離れた場所に聳える倒壊した家屋が折り重なってできた瓦礫の山の麓に着地していた。
 営々と築かれた文明と、それが滅んだ様……この戦端における互いが背負ったものの因果を、そのまま縮図にしたような背景だった。
 煌々と滾る光によって夜風は冷たいものから暖かさを乗せたものに移り変わり、砂漠では考え難い事だが湿気がおぞましく強かった。水分を過分に孕んだ風によって巻上げられる砂塵は、しっとりと肌に絡み付いて不快感を催す。風の熱に反してそれらが冷たいままなのが唯一の救いだったと言えよう。
 往々の表層に現れる陰影さえも払拭する光は、ただ圧倒的と評するしかない。暴虐とも言える無慈悲な閃光は、聖都に在る全ての者の視界を惹き付け、灼いた。

 動揺する人々の中にあって、だが既にアスラフィルの認識に周囲の人々は存在せず、世界を廻す法則など問題ではなく。ただ天と地を繋いでいる光の円柱だけが全てだった。
「ついに……ついに“扉”が開いたかっ! 原点回帰へと至る路…神韻級ラナルータを記した極大魔法陣。往古、天空さえも支配していたという天翅イデーン種の偉大なる遺産!」
 廻天魔法ラナルータ……それは限定領域の昼を夜に、夜を昼に、という時間的因果を逆転させる魔法として広く人々に知られている。だがそれは厭くまでも、往々に体感できて単純明快な顕現効果を示した定説に過ぎず、より緻密な理論を以って論ずるならば、特定領域に存在する霊素や元素に働きかけ、それらが活動する空間の場の属性エレメントを反転操作する事こそが真なる作用だといえる。
 これは汎律級ウルガトゥスにおいての現象であり、より次元を高めると操作対象はより根源的な領域にまで作用するようになる。それは森羅万象の構成要因である陽と陰、混沌と秩序。そして正と負などといった霊素、元素などを色濃く際立たせる存在を確立させる方向性への諮詢。それを操作する事で局所的な場を、意図的に活性化した色彩で染めあげる、という場の属性の創成定着に変貌する。
 そして究極の高みに至りし時、廻天魔法ラナルータは陰と陽、秩序と混沌、正と負の境界領域に極小だが存在する、中庸層に働きかける。あらゆる方向から来る諸因子に対して等価な逆位相の因子を以って相殺し、両者の安定を結んでいる中庸層を拡大する事で、育まれ数多に重なる属性の層を押し流し、何色にも染まらない素の状態に純化する……つまり場の属性を原点回帰リセットさせる、というものだ。
「こ、これがラナルータだと言うのか……す、すごい!」
 ミリアに背を支えられ、よろめきながら立ち上がったスルトマグナが彼にしては珍しく顔を紅潮させて空を見上げていた。嬉々とした表情に反して己を抱き締めるように両手で両肘を抑えているのは、静かな興奮から全身が打ち震えるのを無意識で耐えていたからだろう。いかにスルトマグナが常人の領域を超越した魔導士であっても、眼前に聳える絶対的な事象を前にしては、そんなつまらない肩書きなど何の意味も成さない。初めて眼にする神韻級の魔法が自らの予想を遙かに超えている事実に、一人の魔導士として探究心と好奇心が根底から揺るがされたのだ。
「待ち侘びたぞ、この時を! 我が大願を成就せし、深淵の“扉”が開く時をっ!」
「何!?」
 喜悦に満たされた狂笑を浮かべるアスラフィルに、“賢者”ナフタリが怪訝に顔を歪めた。その言葉を察するに、自分達が切望していた切り札を敵であるアスラフィルも望んでいたという事になる。この儀式の存在を王族であるアスラフィルが知っているのは当然だろうが、不死魔物を束ねる己に不利に働く事は間違いないこの儀式の成功を、果たして嬉々として臨むべきものなのか。
 こちらの混乱を狙っての事かとナフタリは瞬時に思ったが、この状況でアスラフィルに嘘を吐く事の利が無い事を鑑みて、彼の言は紛れも無く真実であるという結論に達する。そしてそれが更なる困惑を齎した。
「何をする気だっ、アスラフィル!」
「さあ、解放を望みし顕花達よ! 源流への回帰を彩る魂の蔭り…『魔法の鍵』よ! 『死のオルゴール』の音色と共に、悠久なる次元の果てに還るが良いっ!」
 険しく詰問するナフタリには答えず、アスラフィルは高らかと『死のオルゴール』を掲げる。既にその効力は『天使の鈴』によって中和相殺されているにも関わらず、彼は何の躊躇も逡巡も無くそれを用いた。
 光の柱に向けて奉げられた小箱は、その内側から醜悪さを一層深めた闇を噴出させる。明らかに木箱の容積以上の闇が零れ続け、やがて乾いた裂帛音と共に木製の外装に粗雑な亀裂が幾つも奔り、終には四方八方に弾け飛んだ。
 顕になった木箱の内側には、ただ凝縮された闇の塊が虚空に浮かび、自らに取り込んだ裡の全てを吐き出すように、“夜”に闇を放散させていた。
「っ!」
 アスラフィルの執った行動にナフタリは一瞬身を強張らせる。『死のオルゴール』の危険性を直に体験した彼にとって、その時に打ち据えられた感覚の余韻は未だこの身に残っているからだ。だが現実は思惑に背反し、記憶の再現は起こらなかった。スルトマグナが布いたという『天使の鈴』による作用かとも考えたが、それにしては余りにも何も起きていないように思える。先刻まで、あの木箱の存在を思うだけで体内を流れる血潮が、別の意志によって蠢いているような錯覚を覚えたのに、だ。
 考え込むナフタリさえ知覚する事ができなかったが、荘厳な光柱の足元に犇く全てのイシスの民達からは、その背より薄っすらと闇色の煙が立ち昇っていた。それぞれが今、己の身に起きている異変を認識する事は無く、闇を貪り輝きを増す柱をただ固唾を呑んで見守っているだけだった。
 もしもこの場でその異変に気が付く事が出来る者がいるとすれば、イシスの血を持たない外来の者達だけ。だが巡り合わせの数奇な悪戯か、真っ先に気が付きそうな目敏いスルトマグナを始め、殆どの者達は天に開かれた光輝の扉に見入っている為に、地に犇くイシスの人々に起きている異変には気付く事は無かった。
 天に降り頻る光に抗わんと拡がる闇の量が微かに少なくなるのを見止め、アスラフィルは『死のオルゴール』の最期を覚る。だが既にそんなものに価値など見出してはいなかった。
「まだ足りぬか……ならば持って往け! 我が意志と共に数多の意識を喰らい続けてきた愛しき邪悪達、『冥鎧・死屍の鎧ゾンビメイル』よ! 『凶爪・黄金の鉤爪』よ!!」
 絶叫染みた咆哮に兆し、アスラフィルが装備している“鎧”と“爪”がぼんやりと暗紫の霊光を纏い、宙に浮かび上がる。そして二つの“印”は、各々が表面に湛えている霊光をけたたましく“夜”に放出した。
 上天に奉げられた供物の如く、或いは空中で燃え盛る火炎のように“昂魔の魂印”は自らを構成する網目を解き、素子を吐き出し続けている。暫くの間、揺らめきのままに二つの“印”はその状態を保っていたが、元々が不完全な贋作故か『冥鎧・死屍の鎧』の方から発せられる紫焔の勢いが衰えを見せ始めた。
 所持者からゆっくりと離れ消沈する“鎧”を隣に、もう一つの印も同じ途を辿ると思われたが、反して“爪”は未だアスラフィルと一定の距離を保ったままだ。両者の間にある引力と斥力が絶妙なバランスで鬩ぎ在っているのか、“爪”の存在感は強まっては薄くなり、弱まっては濃くなり、逸り、緩やかに不規則で奇妙な点滅を繰り返していた。その様は、まるで『黄金の鉤爪』がアスラフィルに対して何かを切実に訴えかけているようにも見える。そんな周囲に与えた印象を肯定するかのように、“爪”を冷たく見据えたアスラフィルが酷薄に鼻で哂った。
「魂印の宣誓? そんなもの、知った事か。全てはこの時の為に利用していたに過ぎぬ! 全てが叶わんとしている今を前に、それしきの事など瑣末っ!」
 冷然に下したアスラフィルの一言で、両者を繋いでいた線も分断され、“爪”も“鎧”と同じく宙高く浮かんでいく。
 傍から見ている分にその様子は独り言に過ぎなかったが、それを窺っていたスルトマグナが眼を見開いていた。
「何を考えているんだ……“堕天誓約カブナント”を自ら破棄するなんてっ」
 その行為が何を意味するのか、真意こそスルトマグナすらも知らないが、それに近い現象ならば概ね予想が付く。その為かアスラフィルを刮目していた。
 拠り所を亡くした二つの“印”は、流されるままにマナの激流に弄られていたが、やがて“鎧”の方は存在を構成している網目が完全に解けて容を失い、時を置かずして全てが黒の粒子と化して光に呑み込まれた。そして“爪”もその存在の形をゆっくりと失いつつあった。
「正陽の氾濫は、普く悪意の流れによって今この時に抑えられる。扉の先に導かれる負陰の意識に牽かれ、我らが裡に在りし『魔法の鍵』も、これで……」
 空中で解かれ往くそれを感慨深げに見上げながら、アスラフィルは両の眼を細めた。

「叔父上っ」
「! な、に?」
 不意に聴覚に届いてきた鈴が鳴るような可憐な声に、愕然とその方角を仰ぎ見るアスラフィル。意識が逸れたのか、虚空に消えようとしていた『黄金の鉤爪』は、容を取り戻しては重力に引かれ、ドサリと重々しい音を立てて砂の大地に突き刺さった。
 眼窩から眼球が零れんばかりに見開いて、アスラフィルはこちらに駆け寄ってくる少女の姿を見つめた。
「叔父上、どうしてこんな事を……」
「お前……まさか、フィレスなのか!?」
「……はい」
 搾り出すように問うアスラフィルに、王女フィレスティナは小さく頷く。儀式を完遂させ、砂漠に仕掛けられた極大魔方陣を発動させた彼女は陣の起動と共に祭壇を辞し、王城裏のオアシスから休まずに駆けつけたのだ。フィレスティナの後方から彼女に常に付き従う“砂漠の双姫”…“魔姫”ユラと“剣姫”アズサ。そしてミコトの従者であるイズモやサクヤまでもが神殿前の戦線に集結する形となった。
 突如として現れた王女の存在に、人垣は大きくどよめく。だがそれは当然の反応だろう。ただでさえ公には病に臥しているという事情で姿を見せる事の無い深窓の姫君。それが健常な姿で、薄紅色の優美な外套をはためかせて惨憺極まりない戦場を駆けて来たのだから。王室とラーの尊い結びつきを重んじる人々にとってみれば、気が気でないのかもしれない。
 しかしこの場において、当の本人達にとって周囲の心象はさほど問題ではなく、ただ両者の在り様が互いに互いを無常に打ち据えていた。
 フィレスティナは悲哀を湛えた眼差しで変わり果てた叔父の姿を見つめている。涙こそ浮かんではいなかったが、揺らいでいる瞳の奥には、余人には推し量れない感情の数々が渦を成していた。
 対してアスラフィルは全身を硬直させたまま身動き一つできなかった。吹き飛ばされた左肩口から滝のように紫掛かった鮮血が飛び散っていて、その失血量たるや常人ならば既に失血によるショックで死に絶える程のものであるが、魔族である彼の生命力の深さが大事には至らしめない。そしてそれ以上に、“扉”を前にして昂揚するアスラフィルの精神が、肉体を凌駕してその感覚全てを超越していたからだった。
 だが、今。これまでどんなに窮地に立たされようとも決して折れなかったアスラフィルの意志は、ここに来て初めて大きく撓む。
「あ……姉者はどうした? 何故、お前がこんな場所にいる!?」
「御存知、ないのですか? 母はもう……」
「! まさか……お前が“扉”を拓いたと言うのか?」
 控え目にコクリと頷くフィレスティナを見て、アスラフィルは喉を鳴らし更に大きく眼を見開いた。
「何という事だ…………いや、だが既に開扉はなされ普く人の悪しき負陰の意識、『魔法の鍵』は“扉”の先へ……全ては予定通りに――っ!?」
 その時。ぞくりと背筋を這う悪寒を覚え、アスラフィルは弾かれたように空を見上げた。
 相変わらず鮮烈な光輝が天に向って昇っているが、言わばそれはただの前奏に過ぎない。外郭楽園を象る六つのオアシスによって、広域より急束されたマナが最大限に活性化されているに過ぎない。更に言うならば今、天に昇って光もただの光ではなく、アスラフィルが放散させた負陰のマナが飽和した状態にある光ならぬ光。いや、その量と勢いを鑑みるならば既に正陽からなる光の範疇ではなく、正陽と等価に負陰も包含した白輝の闇と表現するのが最も適切と言えるだろう。
 そして開扉の真髄は、その昇る流れの先にある。
 空を深く覆っている“夜”の帳。そこには何時しか巨大な円陣が描かれていた。その紋様は、地上に奔るそれを鏡合わせに描いたような構成で、懐に飛び込んでくる流れを貪欲に啜っていた。
 空に刻まれた円陣こそ次元の極地。“死者の門”によって開かれし、深遠なるマナの流脈レイラインへと到る扉だった。
「“扉”の様子が……これは、どうしたのだっ!?」
「叔父上?」
 だが今、夜空と扉はアスラフィルが期待していたものとは別の威容だった。昇る光には密度の濃い闇が融解して共に“扉”の先へ送られていた筈だが、何時の間にか光と闇が分離し、闇のみが再構成されて大いなる流れを阻まんと“扉”の前に敢然と立ち塞がっていたのだ。
 想定外の事象に怪訝を深めるアスラフィルは、空に叫ぶ。そしてそれに対する答えを、砂漠に立つ全ての者が聞いた。
≪くくく≫
 それは余りにも厳かで、余りにも妖艶で、そして余りにも邪気に満ちた声だった。
 周囲の者はただその声の放つ凄烈な威厳に身を震わせて目線を彷徨わせるのが精一杯だったが、アスラフィルだけ一人天を見上げていた。
 輝きの柱に引かれ、悠久より上塗りされ続けて来た世界の層はゆっくりと剥がれ、砂漠全域を閉じ込めている闇の帳さえも裂帛され断片に散り始めている。が、それはもう数瞬の過去の事。今は逆に、“扉”の両極直前に出現した深闇の雲が光を貪欲に啜っている。光と闇はその攻勢を絶えず逆転し続け、その狭間にどちらともつかない真なる虚無の稲妻を胎動させていた。
“扉”を食い入る様に見上げていたアスラフィルは、やがて光と闇の共餐に狂い咲く閃光の渦中にその姿を見出した。
≪アスラフィルよ……、汝は良くやった≫
「貴女は、智魔将エビルマージ様……っ!」
 明るく、暗く転じるおどろおどろしい逆光の中で、一際目を引く人影がある。舞い躍る風にはためくローブは濃緑で、金糸で施された刺繍紋様がどれだけ距離を隔てていようと否応無しに認識される。
 魔王バラモスの六魔将が一柱。深謀の叡智に狂気を併合させた凶禍の魔導師、エビルマージ。
 完成された魔族が放つかつてない凄絶な威圧が、地上に平伏す者達に等しく圧し掛かった。
≪このイシスに伝わりし秘儀“死者の門”は数多の生命を、世界を構成せし魂魄マナを崇貴なる太源に還す為の浄化の儀式。そしてそれは、世界を往くマナの流脈が澱み、氾濫を起こした時の為に用意された緊急解放リリースの点でもある≫
 世に数ある魔法の中で、一際異彩を放つ存在である特種魔法群。それに数えられる一つ、ラナルータ総てに共通する場の属性という局所的な空間制御は、世界に普く流れるマナの流脈に直接接続する事で促される。そしてそれを支える接続強度こそが、階位を隔てている要因であると言えるだろう。
 エビルマージは厳かに理を語る。
≪だがわらわが欲していたのはそれではない。天高きにて開扉が成されし時、“扉”はその性質よりここ一帯で楔を亡くした彷徨える全ての魂魄を集める。妾は原色に還る前の絶望と恐怖、苦渋と後悔と悔恨、慨嘆と憎悪に満ち染まった魂魄を求めていたのだ≫
「馬鹿な! これ程の高密度のマナを局所に集中させて流れを停滞させてしまうとどうなるか、貴女はわからないのか!?」
 地で喧しく吼えるアスラフィルを、天に立つエビルマージは嘲笑った。
≪妾を誰と心得る? 無論理解しておる。局所にマナを過密集約させる事で時空連続体に干渉し、増大する過負荷は空間に歪みを生じさせて隣接する二界を隔てる次元境界面ビフレストに孔を穿つ。即ち、嘗てネクロゴンドに開かれた“ギアガ”のように、此方と彼方を繋ぐ“ゲート”を形成するのだ≫
「っ!!」
 その言葉と共に空に浮かぶ闇雲の一点が深さを増し、吸い込まれてしまうような黒さは、萎縮せずにはいられない烈々とした鳴動をその内側に湛えていた。
≪だが案ずるでない。妾とてここに新たな“門”を開くつもりなど毛頭無い。だが、だからこそ妾はこの時を切望していた……“黒の欠片”よ≫
 エビルマージは高らかと暗闇の雲へ向けて腕を掲げる。その先で深潭なる黒の輝きが、一瞬だけ世界に発せられたかと思うと、次の瞬間。その小さな輝きに向けて天を覆う雲が一斉に吸い込まれるように流れを象っていた。
 雲を喰らえば喰らう程、小さな輝きが秘めた鼓動は強く深くなり、緩急をもって空に広がる闇の輝帳は、何か生物的な躍動を想起せずにはいられなかった。
「あれは……冗談でしょう!? あれほどのマナを全て吸収しているというの?」
 フィレスティナの横に立ち、彼女を護るように『聖杖・復活の杖』を構えたユラは、空を見上げたまま愕然と零す。優秀な魔導士であるが故に、彼女は今まさに天で起きている事象は信じ難いものだと理解できてしまったからだ。
 ユラの怯懦に染まった悲鳴のような声が実際に聞こえたのか、エビルマージは愉悦に高らかと笑った。
≪ふはははは! 黒き獣を収めし魂の器よ。存分に喰らい尽くすがいい! 負陰に染まりし意識が紡ぐ螺旋の音律を。いと高きに捧げられし闇の讃歌を!≫
「止め、ろ。止めろっ! エビルマージ!!」
 自らの成さんとしている事の全てを無に還さんとするエビルマージに向けて、アスラフィルは腕を掲げて魔力を収束する。害意意志によって集約するそれは、紛れも無く攻撃魔法。その標的を宙に浮かぶエビルマージに定めた。
 だがエビルマージはそんなアスラフィルの行動など特に気にするでも無しに、ただ汚物を卑下する冷絶な視線で捉えた。
≪黙るが良い。汝が役目は既に終焉を迎えておる。そして魂印の誓を反故にした業罪、その命を以って償え≫
 エビルマージがパチンと厳かに指先を鳴らすと、アスラフィルの足元から半透明の黒光が蔦のように顔を出し、それらは宙を引っ掻くように虚空を泳いでいたが、やがて狙いをアスラフィルに定め、一斉に肉薄した。
「! ぐ、ぐああああああっ!!」
≪だが、アスラフィルよ。妾は汝に感謝しておる。汝がその毅き力への意志によって妾もまた、目的が達成された。力への意志に染まりし負陰のマナを集め、イシス人に潜在せし『魔法の鍵』を諸共虚空の果てへと消し去る為に、汝はこの地に反した。妾に利用されていると解りながらも突き進み、虚栄に築いた骸の玉座はさぞ座り心地が良かったであろう?≫
 澄んだ闇色の触手はアスラフィルの肉体を超えて、彼自身を構成している魂魄を貫き、断ち切り、雁字搦めに絡め獲る。葛に触れている部分の魂魄がじわじわと熔解され、跡形も無く蒸発させていた。
 これまで自分のしてきた事への報いなのか、自らを構成するマナを簒奪されたアスラフィルは耐え切れずに断末魔を叫び、やがて糸が切れた人形のようにガクリと力無くその場に倒れ臥した。
 アスラフィルが沈黙する様子を睥睨していたエビルマージは、両肩を上下させて上品に哂う。
≪故に妾も心に刻もう。我執に拘泥する事で自らの意志を貫き、残虐なる力を以って完遂させた“悪”たる汝の名を≫
 餞なのか、静穏に囁くよう綴っていたエビルマージはその態度を一転させて、高圧的で尊大に空を見上げるだけの人々を睥睨した。
≪人間共よ! 恐怖するが良い、平伏すが良い。そなたらの絶望が、この世界の覇者、魔王バラモス様の礎となる。……怖じてその御名を心に刻むがいい!≫
 狂笑の余韻と喰い散らかした闇の残滓を遺し、エビルマージは空を行く雲を飲み込んでいた黒の輝きと共に静かにその姿を闇の残照に溶かし、消えた。








 エビルマージが聖都上空に出現したのと同じ頃。
 聖都を一望でき、且つ空に開かれた光輝の扉を良く見渡せるなだらかな砂丘の上で、その男は空を見上げていた。
「……おいおい、ババア自ら来るなんて聞いてねぇぞ」
 刃を通さんばかりに鍛え上げられた筋肉の鎧に身を固める魁偉、オルドファス。彼は、彼自身が上役と仰ぐ翡翠の青年アトラハシスの願いで今の今まで聖都に侵入していたのだが、獣の如き危険察知能力で早々に聖都を辞し、それなりに距離を置いたこの場所に避難していたのだ。
 そしてここに到達すると同時に起きた天変地異。
 天と地を繋ぐ光の柱。その中心で闇を拡散させて光を貪る黒輝と、その側で高々と哂う智魔将。
 急激過ぎる場の転換に、オルドファスはしばし呆然としていた。
「何を聞いていないんだい?」
「うお!? た、大将……いたのか?」
 オルドファスが大袈裟に身を仰け反らせて振り返ったそこには、線の細さから柔和な印象を覚えるアトラハシスが、やはり“夜”に調和しながら穏やかに立っていた。
 アトラハシスは砂混じりの粗暴な風に翡翠の髪が曝される事を嫌い、深く闇色のフードを被っている。彼は狼狽を露にしているオルドファスを無視し、前に歩み出て同じく空を見上げた。
「どうやら“極光の地平”へと到る“扉”が開かれたようだね。あの煌き、あの美しさ……うん、まさに“翔天の路”と呼ぶに相応しい偉容だ」
 昇天し逝く数多の意識に向けて、追悼にアトラハシスは一呼吸の間、双眸を伏せた。
屍術師アスラフィル殿。自らの死さえ厭わずに何かを為さんとするその意志……その在り方はとても貴いものだけど、行く末を見守る事を初めから放棄している程度の悲壮な覚悟で、掴めるものなどたかが知れているよ)
 アトラハシスはアスラフィルを厭うていたが、消え往く意識に対して何時までもそのような感傷を抱くのは無粋である。そう考えてアトラハシスは潰えつつある彼の燈に黙祷を捧げていた。
「な、なあ大将。ありゃあ……ヤバくねぇか?」
 この場、この時において静謐こそが、最も相応しい様相だったのだが、先程から何かに動揺を隠し切れていないオルドファスは些か騒がしくもあり、それがより一層の怪訝を際立たせる。しかしアトラハシスは彼の内心への追求を行わなかった。
 オルドファスが危険と断じて指し示すもの…今まさに宙に浮かび、空を貪っている“黒の欠片”を見止めながら彼に肯定を示す。
「そうだね。まさか智魔将卿の狙いが、開扉によって急束する負陰のマナだったとはね。屍術師にも色々と指示を出していたようだから、てっきり“闇の衣”の内側で欠片を『魔法の鍵』に埋め込んでゆっくり育むものだと思っていたけど、相殺を前に最も加速して華々しく猛る瞬間を狙っていたとは」
 これは一本取られたよ、と暢達に零すアトラハシス。
「回収は――」
「無理だね。彼女の持つ『不倖の兜』を見てみなよ。あんな輝きを放っている物に近付いたら、こちらの“印”も意志に関係なく励起されてしまう。……侵蝕が早まるよ。ぼく達はまだ、完全同調には到っていないのだから」
 エビルマージより更に高く。“扉”の直前で昂揚に煌く“黒の欠片”を眼を細くして見つめたまま、アトラハシスはオルドファスの言葉を遮った。その声調は、わかりきった問答への批難も少なからず込められていた。
 オルドファスの方にしても、自分では敢えて言ったつもりであったので、ただ単調に頷くだけ。先程までの異様な動揺も、どうやら落ち着いた様相だった。
「……だな。『魔神の斧』もさっきから疼いてらぁ。あのボウズを連れてこないで正解だったか。若造ヒヨッコには、この急場はまだ無理だ」
 ここでオルドファスがボウズ…キラーアーマーの事を指す言葉を吐いた事にアトラハシスは小さく苦笑を漏らす。普段のやり取りから反りが合わないように見受けられたが、彼は彼で意外と気に掛けているようだ。
 オルドファスの心情は、厭くまでも彼の物なので外部から不要な詮索は不躾だと考え、アトラハシスはそれを無視する事にした。
「恐らく、智魔将卿はもう……」
 その先は言葉にはせず自身の胸の裡で消化し、まあいいか、と小さく語散て外套を大きく翻した。その際にアトラハシスは冷淡に空を一瞥するも、空の上に座す者へ向けられていたのは忌諱でも、哀憐でもなく、ただの無だった。
 人知れず小さく口元を歪ませて、アトラハシスはその澄んだ翡翠でオルドファスを捉える。
「それで、頼んだものは見つけたかい?」
「……ああ。目星なら付けた」
「そう…………うん。では後程、時を置いて行くとしようか」
 少し間を置いて咀嚼していた割には、放たれた答えは少々消極的で、オルドファスは意外そうに眉を寄せた。
「直ぐに取りに行かんでも良いのか? 欠片の収集は、俺ら最優先の任務だろうが」
「物事にはそれに適した機というものがある。少なくとも、今は止めておいた方が良い。まあ、目処が付いたのならある意味任務は完遂したも同然だ。欠片に近づける者は限られているしね。だからこそ輝かしい外殻に覆われているのだろうけど……それに、智魔将卿の持つアレも充分に胎を満たしだろうし、覚醒は済んだと見ていいだろう。先の先の事を考えれば手間が省けたというものさ」
 穏やかに綴るアトラハシスに、拍子抜けしたオルドファスは若干納得のいかない顔をした。
「それよりも今は、優先すべき事がある」
 何か言いたそうな顔をしているオルドファスに視線を向けて、アトラハシスは踵を返す。その進む先にある朽ちた潅木の根元には、“槍”を胸に抱えて眠る一人の人影があった。示されてそれを見止め、オルドファスは呆れたように嘆息した。
「……また拾ったのか?」
「志を同じくする仲間は多いに越した事はないから。それだけでもイシスくんだりまで来た甲斐があったというものだよ」
 嬉しそうにそう言って、アトラハシスは未だ眠るその人影を抱き上げ、その場を後にした。
「今度は『魔槍・王鬼の槍デーモンスピア』か。随分と大所帯になってきたが……これでいよいよ“軍”の連中も俺らの行動を無視できなくなってくるな」
 その先の可能性を頭の中で想起し、それを読み取ってせせら笑う“斧”の声を意識で押し込めて、オルドファスは険しい顔付きのまま一人小さく呟いた。








 エビルマージによって光柱の勢いは大分廃れてしまったが、原初へと誘われる流れは未だ健在だった。
 意識に射す緩やかな燭光を前に、人々は今の今まで起きていた現実……エビルマージという紛う事無き“魔”の存在と、その背後に見え隠れする全ての諸悪の根源たる“魔王バラモス”の名を耳にし、戸惑いを隠す事ができなかった。
 魔物の脅威こそ認識しているものの、其れを統括する意志の存在が始めて一般人に明示されたのだ。
 その先に予想できる混乱を思えば、既に知っていた者達は往々に眩暈を感じていた。

 そんな中。イシスを混迷の底に叩き落した敵であり、ラーに連なる王族であるアスラフィルは砂塵に斃れ、フィレスティナの膝に頭を抱えられたまま弱々しく虚空を見上げていた。
「……余は、ナフタリ殿の助手として長くイシスを空けていた。国の心配をしなかった訳ではないが、王を継いだ姉者、そして側には双姫が控えていたから安心していた」
 穏やかに訥々と過去を語るその姿は郷愁なのか。過ぎ去った想いの容を表出しているのかアスラフィル自身の身体は半ば透けており、小さな蜃気楼がそこに顕れているようであった。
 今にも風景に解けてしまいそうな面持ちのまま、アスラフィルは続ける。
「だが数年前、国に戻った余は愕然とした。愚物な貴族どもが政を食い物にし、古来より人心の拠り所として培われてきた教義を崇める神官司祭すら、自らの裡にある神の方を慮り、私利私欲に教えを捻じ曲げている……帰国して早々にナフタリ殿が執政官に着任したが、まだそれは収まる気配は無かった。眼に見えて国に斜陽の時が訪れているというのに、“ラーの化身”である姉者は何もせず。そして何よりも、腹心である双姫までもが暗殺されていながら、姉者は何一つ動こうとはしなかった!」
 だんだんと綴る言葉は口早になり、裡から込み上げてくる慨嘆にアスラフィルは総身を小さく打ち震えさせる。周囲からすればその声色も、言葉にも疑念を覚えずにはいられないものだったが、直接触れているフィレスティナだけには彼の荒ぶる心情とその根底にある哀しみが伝わってきていた。
「まさかそれを糺す為に、母を……」
「……余ではない。現にお前が姉者に転写していた事にすら気付いていなかったのだ」
 思わず零してしまったフィレスティナの本音を、アスラフィルは即座に否定する。
 人間的な情緒に心を任せるならば、故郷を惨憺たる様に変えた元凶の言はそのままに受け容れられる事は無かっただろう。だがフィレスティナは、終焉を控えたアスラフィルの風の無い水面の如く凪いだ光を載せる双眸を見止め、その言葉を信じる事にした。
 幼い頃、フィレスティナは生来潜在する魔力が高い為か夜に精神が活性され、眠れない夜が続く事がしばしばあった。そんな時フィレスティナの苦しみを察して子守唄を聞かせてくれたのは叔父で、あの優しく温かな眼差しが今、眼の前にあったのだ。
 記憶が意識とは裏腹に滲み出でて、フィレスティナは胸が締め付けられる傷みに顔を歪めた。
「……私は知っています。叔父上、貴方は誰よりも優しい方でした。貴方は誰よりも真摯に国の事を憂いていました。それなのに……どうしてこのようなやり方を選んだのですか?」
「この地を負陰に染める必要があった。……嘗てファラオによって不完全に開かれた“死者の門”の暴走で正陽の氾濫がこの地を覆った。その結果、齎されたものこそ、今の砂漠の大地」
「え」
 どこか観念した様に連ねるアスラフィルの言葉に、フィレスティナは眼を大きく見開いた。
「この地は、嘗ての氾濫によって著しく極端な正陽の属性に染められてしまったのだ。そして今も、その息吹は確実に根付いている。理由は単純、ラー教の存在だ。ラー教とは元々、祖先ファラオの行動の果てに齎された結果を過ちと断じた者達が隠匿し、人々の意識を一方向へと逸らし導く為に用意された紗幕ことば
 アスラフィルはゆるりと目線を動かし、自らの右手を捉える。意識して握り拳を作ったつもりだったが掌は未だ開かれたまま、その先に伸びる脚が透いて見える。この感覚矛盾は誓約を破棄した事への報いからか、肉体と精神の連結が既にズタズタにされているからなのだろう。自身の身体が自分のものでは無くなった感覚に恐れを禁じえない。
 だがそれでも、今アスラフィルの心は凪いでいた。
「ファラオは、彼の者・・・が持つ清廉な意志に惹かれ、彼の者達と共に歩もうと力を欲していた。そしてそれを得ようと見出したのが、太古世界を支配していた超古代文明……イシス開闢よりも遙かな過去に世界を席捲していたムー帝国、アトランティス王朝の源流となったと言われる天翅種の遺産。しかし扱うには、余りにもそれら技術が崇貴過ぎた為、諦める事を余儀なくされた。そのまま時が流れ、その想いも風と共に流れ去ってしまえば良かったのだが、黒霧の異変がイシスを襲ったのだ」
 眼を伏せればその時・・・の情景が鮮明に浮かんでくる。それが自分の意志ではなく、『黄金の鉤爪』より流れ込んできた嘗ての人の記憶である事をアスラフィルは受け容れる。自分の記憶とファラオの記憶。自と他が混ざり合って、もはやその境界さえ曖昧になっていた。
「ファラオは、“扉”を開かんとしたその瞬間まで、国を、民を護る事を確かに望んでいた。だが本当に微かに、別の事も考えていた」
 断言するアスラフィルに、フィレスティナは言葉を挟まない。虚空を彷徨うアスラフィルの眼は、決して触れる事の出来ない悠久の彼方を掴まんとするファラオの心を代弁しているような気がしてならなかったからだ。
 裡から滾々と湧き出てくる想いに、アスラフィルは饒舌だった。
「嘗て追い求めていた見果てぬ夢、彼の者達に近付く為の力への意志を……だがそれは終ぞ叶わず、ファラオは人として崩壊し、魔に転化して滅ぼされた。それから悠久の時が流れても尚、世界は平和だった。だが二十年前、魔王バラモスが世界に降臨した」
「……魔王、バラモス」
 遙かなる時間の回帰が現在に還り、急に現実味を帯びてくる。それを齎したものこそ語られた名。口にするのも躊躇われる人類の大敵の名に、フィレスティナは固唾を呑み込む。
 そんな彼女の呟きを聞いたのか、アスラフィルは瞼を伏せて首肯した。
「魔王バラモスが世界に広げる“魔”の波動。そしてそれによって生み出された魔物という存在は、この地に犇いていた正陽を大いに刺激してしまった。不完全ゆえにファラオが没したと同時に機能不全で沈黙を保っていた“死者の門”。光あれば必ず闇は存在するように闇が強ければ強いほど、光はより鮮烈に輝く。世界に満ちる魔の気配に撓んだ閂が外れ“扉”が再び開かれてしまえば、再び陽光の氾濫が起き、間違いなくこの砂漠の上に生きる全ての命は焼かれ死滅していただろう。……それを阻む為には明けぬ“夜”によって砂漠を封じ、死の影と恐怖によって負陰の意識を高め、陰闇を氾濫させて正陽負陰を平衡化する他無かった。世界を安定させる為には秩序も混沌もどちらかが特出していてはならない。原点に在る事それだが世界を存続させるのだからな」
 アスラフィルは語る調子を緩めなかった。それは自らを閉じる時が差し迫っている事を理解しているからかもしれない。
「正陽負陰の調和崩壊は、人の精神にも大きな影響を齎す。それは憎悪であり、怨嗟であり、博愛でもあり、希望でもある。余の目論見通り、“夜”の影響下に在って最も人間的な醜き部分が露見した。やはり、死を恐れる人の心の弱さ……いや、生を望まんとする力への意志は凄まじかった」
 当初からのアスラフィルの予定では、既に正陽に染められている“扉”に“夜”を以ってして掻き集めた負陰を流し込み、飽和させてそのまま“扉”の先の太源に押し流してしまおうと考え、事を運んでいた。それに伴う敵味方問わず犠牲の大きさも、あるがままに受け容れて。
「だが、結局は余の目論見もエビルマージに見透かされ、利用されていただけ。……いや、死の瀬に奇麗事は言わぬ。力を望み、他者を貶め、我が民を苦しめたのもまた、余自身の傲然なる意志によるもの。我執のままに己が是の路を突き進んだ余は、この砂漠に住まう者達にとって“悪”そのものだ」
「ですが、それは……」
 アスラフィルを慮っているのか、フィレスティナは表情に翳りを載せて言葉を濁す。次にイシスを統べる者としては、糾弾の言葉を一つでも発するべきものだったろうが、フィレスティナにはそのような文言が一つも湧いてこなかった。
 人としてか、王としてか。その狭間で感情を揺らしているフィレスティナに、アスラフィルは穏やかに相貌を崩す。
「これで良い。“悪”のまま逝く事こそ、余に相応しい最期だ」
「……でもっ」
「聞け、フィレス。この世界に唯一絶対など無い。無いからこそ、この世界は途方も無く不安定で、不確定……それはどうしようもない程の混沌だ。だが、なればこそ混沌から秩序を生む為にも、余のように“悪”に定義されるべき存在が必要だった。人々の意識を二つの方向性に蕩揺わせる猶予が必要だった……フィレス。お前は“善”で在れ」
「叔父上……貴方は、自らを“悪”とし、人柱となる事でこの地を守ろうとしたのですね? 噴出したあらゆる悪意を一身に背負い、“扉”の先へ導こうとしていたのですね?」
「……嘗て見えたオルテガという男は、ただ独りで世界を救おうと動いていた。他国は、いやこの国も大いに沸き立ち彼の旅路を支持したが、結局彼と共に立とうという者は終に現れなかった。だが、それさえも受け容れて進まんとする太陽の如き意志の輝かしさに、余は焦がれ、そして嫉ましかったのかもしれぬな。……これは、嘗てファラオが彼の者の背を見送った時と同じ。余には、神祖の気持が良く解る」
 手の届きそうな過去に思いを馳せているのか、アスラフィルは薄っすらと消え入りそうな表情を微笑で染めた。
「フィレス……お前は王で、次なる“ラーの化身”だ。しかし、それ以前に……人間だ。それは決して覆らぬ事実」
「っ!」
「これから先、数多の苦難がお前を待ち構えていよう。心が挫ける事も多々あるだろう。大いに迷え。大いに悩め。だがそれを独りで抱え込む必要も無い。お前は決して独りではない事を、忘れるな」
「おじ、うえ……!」
 フィレスティナは裡から込み上げてくる感情を留めきれなくなったのか、その双眸から涙を溢れさせる。その熱い雫が薄れ往くアスラフィルの頬に滴り、頬を伝って地面へと流れた。
「余にこんな事を言う資格など無い、が遺言だ。フィレス…この地を、我が愛すべき砂漠の民を……頼んだぞ」
 アスラフィルは満足げに瞳を閉じ、口元に穏やかな笑みを湛えたままフィレスティナの腕の中で静かに消えていった。




back  top  next