――――第五章
      第二一話 拓かれし扉は暁鐘







 聖都の象徴である宮殿の背後に座するオアシスは、イシス大砂漠に無数に点在する中でも最大のものだ。その広さは、他のそれらを掻き集めて並べた所でまるで及ばない、オアシスというよりは湖と言った方が往々の納得を得る事ができるだろう。
 その湖の中心には、壮大な水鏡の一点の蔭りとでも言わんばかりに古めかしい石造りの祭壇が築かれていた。厳かな印象を受ける建造様式の祭壇と、そこに到る唯一の石橋である水上回廊は、開ける視界を一点に凝縮するかのように伸びながら風砂と水飛沫に常に曝されている。だが長久の年月を経ても尚、それらは浸蝕し、朽ちる様子など微塵も見せてはいなかった。
 円陣を組むように配置された石柱と、それらに支えられる天球状の屋根。至極簡素な造りの祭壇には、黒大理石で作られた台座が唯一構えていた。鏡のように在るがままに世界を反すそのかいなに、静謐を壊さぬように抱えられている真球がある。それは台座と同じく磨きぬかれた黒大理石より拵えられたもので、その水が滴っているかのような潤色は透き通る水晶球と同じだった。
(真球とは神の肉体。そしてその周囲のいかなる場所にも満ちた容無きものこそ、その精神こころ……)
 歴代の“ラーの化身”のみがその眼に捉える事を赦された秘匿の御神体を前に、フィレスティナは自然とそう思った。
 固唾を呑み、改めてその御神体と正対する。曲鏡に歪む自分の顔が緊張に強張っているのがよく判る。しかし、それでも不思議と未知の領域に近付く事への畏怖は無かった。
 だがやはり年齢相応の精神の未成熟さが顕れたのか、泰然となりきれなかったフィレスティナは微かに躊躇い、まず細い指先をそっと石球に触れさせてみる。水場に囲まれた場所であるが故に冷たい感触を覚悟していたが、実際のそれは余りにかけ離れていた。
(あたた、かい?)
 それは産まれたての卵に触れたような感触だった。
 物理的な原理や法則に目を向ければ、明らかに背反している現実。しかし神という存在に付いて廻る摂理の超越性を思えばとても些細な事のように感じられた。その当たりはやはり敬虔なラーの民で、信仰に生きる意識もあって、やがて意を決したフィレスティナは鎮座するに近付かんとその表面にゆるりと掌を添える。
 その瞬間、何かがフィレスティナの全身を駆け巡った。
(! これは……)
 例えようの無い唐突な衝撃にフィレスティナは大きく目を見開く。
 視界を占めるのは、黒水晶に映る自分の顔。だが視識を通して脳裡に叩き付けられ、意識に再現されてくるのはもっと別の景色だった。
(ああ……、そんなっ!)
――横にいた友人が不死魔物に変異する様を目の当たりして、狂ったように叫ぶ民の悲嘆。
――背を預け、凶牙によって斃れた仲間に、背後から斬り捨てられた兵の絶望。
――かけがえの無い友と、刃を交えなければならなかった女の慟哭。
 黒水晶に触れた瞬間。今この時、砂漠の上で起きている全ての事象を理解する事となった。
 広大な砂漠のあらゆる場所で、今も進行形で繰り広げられる悲劇、惣劇、惨劇……。それら数多の感情の渦が意識に直接灼き憑いてきたのだ。
(やめて……)
 今、自分の身に起こっている奇怪な現象はどのような理屈を以っても説明できない。ただはっきりしているのは、守るべき民が眼の前で蹂躙されている、大切な人達が泣いている、と言う事だ。だがそれでも自分は決して手を伸ばす事は出来ない。否、腕を幾ら伸ばしても届く事は無かった。それでいて虐げられている人々の意識はこちらに何の遠慮も無しに流入してくるのだから、フィレスティナは恐々とした慨嘆を前に打ち据えられるだけだった。
(だ、め……駄目です!)
 思わず耳を塞ぎ、目を逸らしたくなる凄惨な現実の数々。
 自然と石から離れそうになる指先を、拒絶しようとする心を、現実を正対せんとする真直な意志を以って踏み止まる。だがそれでも脳裡に伝わる惨憺としたイメージは繋がったままだ。
 フィレスティナはそのイメージを検めようと、きつく眼を閉じる。全ての感覚を意識に集中させる。
(私が、この現実から眼を背けてはいけません。これは、私が負うべき傷みの数々……太陽とは、地上を等しく照らし見守る光)
 決然とした心で、厳かに深々と呼吸を整える。そして開眼し、凛とした眼差しで黒に歪んだ己を見据えた。
(私は……“ラーの化身”。皆が守ろうとした場所を護る、“王裡アセト”!)
 溌剌と己の意志を黒水晶、ひいては自らに示す。すると黒水晶は一つ大きく脈動し、フィレスティナの脳裡に掛かっていた重圧を消し去る。続いて草花が萌える春の風が全身を包み込み、意識にこびり付いていたあらゆる翳りを払拭していった。
(ここは……)
 気がつけば、フィレスティナの意識は遥かなる蒼穹を漂っていた。視界には大空に悠然と浮かぶ白い雲が幾筋も気侭に流れており、それは宛ら自身を飾る優雅な羽衣のように追従している。全身に感じる風は軽やかで、自らに取り巻く衣は緩やかで、まるで自分が自由の大鳥になったような気持ちになる。
(あれが、イシスを包む“夜”の帳……)
 羽衣に射す光に梳けて浮かび上がる遙か先。遠く見据えた先の地上に、白地に付着した染みのように闇黒のがある。そのポツンと置かれる様相の何と侘しい事か。とても小さく儚く、周囲の鮮やかな色彩の中で孤独に打ち震えているように、フィレスティナは黒点に憐れみさえ感じてしまった。
 だが、それへの感情の動きはこれ以上無い。ここに到っては正も負も、聖も邪も。二元に分けれる程度の感慨は完全に切り離され、ただ超然とした無垢なる純真を以って世界を見つめるのみだった。
 今やフィレスティナの意識は、遙か天道を往く太陽と同一化し、全てを見下ろす光と化していた。

「今、我は紡ごう。荘厳なる詩を」








 祭壇を一望できる水上回廊の始端には、両側に二つの石柱があり、そこには二人の女性像が彫られている。まるで生きているかのように躍動を感じさせるそれらは、一方が勇ましい甲冑に身を包んだ戦士風の女性像で、もう一方が叡智溢れる法衣を纏った魔導士風のそれだ。彼女らは互いに見つめ合い、それぞれ左手と右手を高くで繋いでいる。その様はアーチを形成しているようで、逆に結ばれていない方の諸手は、何かを握っているように虚空に差し出されていた。
 オアシスの祭壇はある意味で神域であり、ラーを信奉する民は絶対に立ち入る事が赦されていない禁断の場所。古より続く戒厳によって、そこは手が届きそうで決して届かない地、イシスでは最も近く、果てしなく遠い地とされていた。
 王女フィレスティナが『聖衣・天使の霊衣ローブ』と『聖環・星降る腕輪』を装備して、儀式起動の為に祭壇に赴いて既に二刻を過ぎようとしている。その間、貴き立場にある彼女の周囲を守護する影は何一つ無く、独りその姿を曝したままだ。それはまるで侮蔑嘲笑がとぐろ巻く群衆の中で火刑台に架けられる魔女の図のようであり、或いは大海嘯を鎮めんと独り祈りながら砂浜に跪く聖女の様でもある。
 フィレスティナが祭壇に向かった当初は、湖岸に犇く群衆から王女が“王の儀式”に向かう事への疑問を呈する声も挙がっていたが、四半刻程前より沈黙が保たれ、ただ事の行く末を見守ろうと固唾を呑んでいるだけだった。
 恐らく誰もが気付いたのだろう。感情を越えて納得させられる深々とした何かに。往々の裡に潜む業…“魔”の因子が緊張と昂揚にけたたましく擾動している事に。
 何時の間にか、無風で静謐に堕ちていた湖面に、地の底より届く胎動によって確かに波紋が広げているのを誰もが怪訝に見下ろしていた。
「殿下……」
 孤立する祭壇を遠くに見つめながら、フィレスティナの安否を一心に祈る。手にした『聖杖・復活の杖』を強く握り締め、ユラは今、聖杖を用いた守護結界をオアシスを包み込むようにのみ展開している状態だった。そしてその強度は、外郭楽園を包んでいた頃と比べて数十倍、いや百を越えんとする意志で精緻に剛毅に編まれている。
 この結界が生きている限り、不死魔物は絶対にオアシスにへと侵入する事はできない。そして人々もまた、古より連綿と継がれてきた教義によってこれ以上近づく事を畏れ憚っている。この儀式に関して、外部からの干渉は最早無いと考えていいだろう。
 スルトマグナによって明かされた事実で、敵勢力の主体である不死魔物は、何かしらの手段を用いてイシスの民を魔物化させているとの事だった。卑劣で決して赦せない事であるが、同時にこうも簡単に聖都への侵攻を許してしまった理由としては頷ける。
 そしてそれを予め見極めた上で、スルトマグナは対応策として『天使の鈴』による共鳴網を聖都中に編んでいた。紛れも無くその企ては効を奏し、つい先程一時的にであるが聖都に犇いていた不死魔物達の動きが止まったとの報告を受けている。次いでスルトマグナの指摘により敵を討つのでは無く、その行動を封鎖する事を徹底して行動し、氷刃魔法ヒャド系の魔法や魔方陣で氷縛し、氷牢に捕えて敵を無力化させていた。
 形成は確実にこちら側に傾いていると、密かにユラは内心で嘆息する。そして直ぐに弛緩した自らの意思を戒めた。
(もしも不死魔物ではない魔物軍も攻めて来たら……いいえ、備えはしてある。考え過ぎは良くないわ)
 これまでイシスに対して牙を剥いてきたのは不死魔物が主体の軍勢だった。多少なりとも他種の魔物の姿も確認できたが、それは砂漠に生息する野のもので、大きな流れを為している負陰の意識に触発されて連なってきたに過ぎない。魔物が魔族の意志を忠実に体現する手足であるからこそ、不死の群にそれらは余りにも異色だった。だが、どのような物事にも例外は必ず存在するものだ。そして今の状況においての例外は、紛れも無くそれらだろう。
 常に最悪の状況と言うものを想定し、実際に直面したときに平静を保てるか否かが勝敗を、ひいては自分達の生死を別つ。戦とはそういうものだと、軍務に就いて以来ユラは度々思い知らされていた。
 宮殿と僅かではあるがその敷地内には、築城の際に張られた結界が今でも存在しており、その効力で敵に宮殿を強襲されるという事態は今のところ無かった。しかし物事は常に人の楽観の隙を衝いて来るもので、この場所は安全かと問われれば、例え立場に副そわない解であっても黙さざるを得ないとユラは確信していた。
(開戦時より聖都に留まっている冒険者や傭兵もまだ大勢いる。……大丈夫、私達はまだ闘える)
 それは寧ろ自身を奮い立たせる為に紡いだ心の声だった。だが泡沫の決意を改めて熾すまでもなく、仮にそんな事が起ころうとも、自らの命を賭してでも生涯の忠誠を誓った主君フィレスティナを守らんとする意志だけは、既に心の中心に息衝いていた。

 その時、一陣の風が聖都全体を駆け抜ける。暴風に蒼穹の優美な髪はされるがままに乱れ、圧倒的な風圧から両腕で顔を咄嗟に護った。その風韻は悲鳴にも似た空気の裂帛。不協和音の旋律は背筋を冷たく這う悪寒を齎し、焦燥とは別種の不安感にユラは襲われた。
(なに? この感じ……)
 それは喩えるなら、胸にポッカリと孔を穿たれた様な喪失感。自分の中にあった何かがスルリと抜け落ちていったような虚脱感だった。それが魔導士としての感性が高い為か、或いは血に潜む特質の為か、先程から空を見上げて覚える感慨は一入だ。まるで混濁した闇色の坩堝に叩き落されたような気分になった。
 言いようの無い想いに両手を組み、ユラは未だ見えぬ太陽に祈るよう虚空に放つ。
「アズサ、ティルト……皆、どうか無事に帰ってきて」

――だが、ユラは知らない。
 ティルトは既にイシスと袂を別った事を。
――だが、ユラは知らない。
 アズサとティルトが戦った、その結末を。








“夜”に満たされた砂漠の中、絶えず燈されている聖都の灯りは風前の灯と言っても良い侘しさを醸している。そしてそれは、この大地に残された時間の針を終へと刻んでいるようであった。

 蹲った屍王…アスラフィル=ステフ=ソティスは、その全身から黒煙を立ち昇らせていた。もっとも、正確に言えばそれはアスラフィル本人からではなく、彼の躯体を覆っていた“鎧”の方、であるが。“鎧”の表層部位のいたる所に負った火傷は炎に焼かれたのではなく、光に灼かれたが為に生じたもので、患部は徐々に崩れ始めていた。
 スルトマグナが放った邪呪滅却魔法シャナクは、“昂魔の魂印マナスティス”に甚大にして確かな被害を齎していた。強かに打ち据えられた当の“鎧”は、自己の保存の為か静かにアスラフィルの身体を離れ、彼の後方の虚空にて幽鬼の如く漂っている。
“鎧”の下から露になった魔導士が纏う優美な法衣を風にはためかせながら、跪いているアスラフィルは総身を打ち震えさせた。他人に、そして自身にも厳しい性格の彼故に、自らの失態が赦せなかったのだ。
「く……我が印、『死屍の鎧ゾンビメイル』がっ」
「!」
 力強く拳で地面を打ち突け、低く苦渋に染まった唸り声を発し続けているアスラフィルに、スルトマグナはその表情に疑問を呈する。今の些細な仕草の中でさえ、予想よりも遙かにアスラフィルには余力があると感じ取ったからだ。
 優位に立った事への余裕を見せず、寧ろ逆に冷静な達観した眼差しでアスラフィルを見据え、スルトマグナは淡々と言った。
「ふむ。どうやらシャナクに耐え切ったようですね。今ので“昂魔の魂印”を完全に引き剥がしたと思ったんですが、未だ繋がったままだ。……インパス」
 スルトマグナは自らのこめかみを人差し指で数回小突きながら眼を細め、紡いだ。アスラフィルの深層を覗き込まんと深い紅蓮の瞳孔がより絞まり、それに付随して解析魔法インパスの顕現効果が視界を彩りの亡失した原色に染める。
 時が停止したかのように、全てが灰色で構成された世界。その中で朱紅の輝きを燈らせた無数の葛が大地や空気、世の何処からともなく伸びてアスラフィルに絡み付いている。それらは彼を世界に捕らわれた者である様な心象を見る者に想起させ、逆に世界を篭絡せんと諸手を拡げているようにも感じさせた。
 余りにも抽象的で、それ故に感傷の挟む余地の無い怜悧な現実を解析魔法から得て、そこから更に思考による推察を併せて到達した結論に、スルトマグナは静かに眸を伏せた。
「……成程。その“印”の特性だったんですね。貴方に向けて数多の魔力の流れが接続されている……線が面を成し、層を形造って貴方を包み込んでいるなら、シャナクはおろか他の魔法が届かないのも道理ですね」
 邪呪滅却魔法シャナクとは、上塗りされた魂魄の色彩を本来在りし色に還す魔法で、外界からの永続的な塗抹干渉を消去する効果を持つのだが、この効力を示す為には最深層にある魂魄の基幹色に働きかけなければならない。だがアスラフィルの場合、印の効力で外部から接続された幾つもの魔力の流脈が何重にも層を形成していた為に、基幹領域まで魔法が届かず滅却が敢行されなかったのだ。
 自身の状態を看破されアスラフィルは自嘲的な笑みを浮かべながら、少年に向けて発する。
「全く以って末恐ろしき童子だ……これが、音に聞く“天竜の――」
「まあ何にしても、です。……既に大勢は決しました。『死のオルゴール』とやらが使えない以上、貴方達の兵力が増える訳ではありませんし、“死者の門”も間も無く開きます。一斉掃討はそちらに任せてますので」
 アスラフィルの声韻は賛辞に近いものであったが、それを遮って厳かにスルトマグナは告げた。言いながら、ふぅ、と短く嘆息して後頭部を掻くその仕草は、疑問に対しての解を得られた事への満足感か、アスラフィルが紡がんとした言葉への拒絶か。それはスルトマグナ自身にしか解らない事だ。
 だが対峙しているアスラフィルには、今の様子にどうにも見た目相応の子供らしさを見出して、敵対しているのにも係わらず思わず苦笑を浮べた。
「先刻まで勇んでいた割には随分と消極的だな。敵将である余の首を獲れば褒賞が用意されるのではないか?」
「そんなものに興味はありません。大体、僕の役目は時間稼ぎですし、僕が貴方を討つ事に意味なんて無いんですよ。貴方はイシスの王族でありながらイシスに牙を剥いた敵です。イシスの敵は、イシスの人々が討つ事によってのみ本当の意味での勝利を獲得できる……まあ自分達の国に降り注いでいる脅威は、自分達の手で掃ってこそ筋が通ると言うものです。外来の僕達がそれを行ってはいけません。だからこそ、ユリウスさんにもピラミッドに出向く事を承認して頂いたのですから。……まあ、あの人には言うまでもない事だったんですけどね」
 無表情のまま淡々と頷くユリウスの姿を思い返し、スルトマグナは小さく肩を竦める。
 再び戻った少年らしからぬ思考と様相に、アスラフィルは口腔で笑い声を上げて口元を歪ませた。
「ふ……自らの立場を弁えている、と言う事か。存外潔い少年達だな。てっきり若さに逸って功を急くものだと思っていたが」
「僕も、ユリウスさんも。他の人間達と生きてきた次元が違うんですよ、……次元がね」
 ゆっくりと綴るスルトマグナの韻と眸に、感情の色は無かった。








「親衛隊、近衛隊は民の保護を最優先にして城内を死守して! 聖陽騎士団は現状を維持したまま前へ! 隊列を崩すなっ!」
 ユラは毅然とした態度で鋭い声を発し、配下の騎士兵士達に指示を飛ばす。勇ましく麗らかな“魔姫”の檄に、兵達は慌しくあったが身を奮い立たせてそれに従っていた。
(どうして最悪って、本当に起こるのかしら……)
 水上回廊の前に立ち、次々に伝令兵達より齎される報告に耳を傾けながらユラは内心で思う。だがここで溜息を吐く訳にはいかない。指示を待つ部下達に気の緩みなど見せられる筈も無かった。
 人の持つ本能的な危機察知能力の現れなのだろうか。大体の場合、悪い予感というものは良く当たり、その確率たるや考えるだけで気疲れしそうな程だ。
 聖都…いや、この戦況を正確に把握するならば聖都背後のオアシスにある祭壇前の水上回廊、という拠点防衛の現状で“魔姫”ユラが感じた悪い予感・・・・はものの見事に的中してしまった。即ち、不死魔物すら陽動として正面からぶつけ、防衛線が局所に集中した隙を狙って別働隊である不死者以外の魔物によって本陣に奇襲を掛けられたのだ。
 陽動に回す戦力が大きければ大きい程、防衛側の人員も割かねばならない為、どうしても布陣に偏りが出来てしまう。ましてや背後をオアシスに阻まれている地形を鑑みれば、不利な状況であると言わざるを得ない。敵の狡猾な攻勢に、野生の獣には無い確かな意思の影をユラは感じていた。
 不幸中の幸いと言うべきか、現在交戦中の別働隊は“地獄の鋏”や“火炎百足”といった戦い慣れた姿が大半を占めている。この“夜”の影響もあってか、それらが滾らせる殺意や狂気は一段と凶悪さが増していたが、決して対処できないものではない。確かに己が死をも厭わない勢いで迫ってくる姿はまさに脅威で、“夜”に堕して以来劣勢の中を戦い続けてきた兵達の精神に、鈍重に圧し掛かってくる壁のようにさえ見えているだろう。だがそれ故に数々の戦闘を勝利で収めて来た彼らの裡にも、困難への打たれ強さと自信、生き残る事への貪欲さが育まれていたのもまた事実だった。
 砂漠という苛烈な環境で心身を鍛え上げてきたイシスの騎士達は、“アリアハンの勇者”や“焔の申し子”のように一騎当千たる抜きん出た能力を保持している訳ではないが、落ち着いて平時通りに対処できれば、この戦とて十二分に勝機を掴める力がある。この戦争においては尋常ならざる事態が立て続けに起こり浮き足立っていたが、しっかりと慣れ親しんだ砂の地を踏み締めれば、彼らが魔物に遅れる道理など無かった。
「弓兵魔導士達は後方へ下がって援護射撃を! 敵を充分に引きつけて……撃て!」
 猛々しくユラは吼え、それに続いて一斉に矢や魔法による火球メラが、氷刃ヒャドが、閃熱ギラが解き放たれる。それらの驟雨は、前線を飛び越えて迫って来た飛翔可能な魔物である“キャットフライ”や“バンパイア”などをことごとく貫いて消滅させていた。
 ユラ自身、上空より螺旋を描いて飛来するキャットフライの群を、中級火炎魔法メラミで一度に焼き払い、他の者達に遅れをとらない事を凛然と示す。彼女はスルトマグナより手渡された霊薬『エルフの飲み薬』によって守護結界と“夜”との干渉作用で失ってしまった魔力を、ほぼ完全に回復していた。
 砂漠の双姫“魔姫”の敬称で尊ばれるユラの魔法の威力を直に見て、他の魔導士達は感嘆さえ挙げてしまっている。それらにすぐさま釘を打ち、ユラは伝令兵達に細かく指示を飛ばしていた。

「ユラっ!」
 最前線である市街地に向かった父、ナフタリ執政官や参謀スルトマグナ、そして孤立して居る大神殿の状況の報告を受けていたユラの耳に、今一番聞きたい声が飛び込んできた。
 思わず表情を僅かに緩めて、声の方角をユラは仰ぐ。
 その先では、宙を滑空し執拗に攻める魔物達を難なく斬り捨て、叩き潰している異国の装束を纏ったイズモとサクヤの姿があり、更にその二人に先導されて全力で駆け寄ってくるアズサの姿があった。
「アズサ!」
「こちらに居ったか……今戻った!」
 アズサは全力疾走の勢いのまま、ユラの眼前まで躍り出ては大きく項垂れ、全身で呼吸を何度も繰り返す。それは余程急いで来たのが良く解る姿で、そしてその砂と汗と血に汚れ、所々が破れさった親衛隊の隊服に目が留まってユラは眼を細めた。
「アズサ……大丈――」
「守衛隊が裏切ったっ!」
 心配を醸すユラの言葉を遮って、金切り声を上げるようにアズサは叫ぶ。両膝に両手を掛けて支える前屈みの体勢のまま、顔を上げる事はせずに絶叫していた。
 思わぬアズサの反応に、呆気に取られたユラはただ目を丸くするばかり。一刹那の沈黙も今は感じたくないのか、アズサは整わぬ呼吸のまま声を荒げて捲し立てる。
「王墓に敵の親玉が居るという情報は狂言じゃった。敵と通じておる者達が上層部にいて、我らを謀っておったのじゃ!」
「ちょ、ちょっと待って! そんな……じゃあ、ティ」
「聞け、ユラ! “死者の門”を開く殿下を阻まんと“幽玄の王墓”におった不死者の群れがこの聖都に迫っておる。気を引き締めよ」
「これ以上の攻勢がこれから……でも」
「私達は“砂漠の双姫”! 殿下を、イシスを護る為には足踏みしていられる暇は無いぞ!」
 次々に齎される信じ難い情報に眼を瞬かせ、軽く混乱をきたし始めたユラの細い両肩を掴み、正対したアズサは逼迫した表情で告げていた。その憔悴の翳り始めた面、そして微かに赤らんだ目元には僅かながら涙の跡が残っていた。
 どう見ても尋常ならざるアズサの様子を前に、ユラはピラミッドで心を強かに揺るがせる何かがあったのだと推察する。どうにもその話題を逸らそうと…いや、触れさせないようにしているアズサの対応が一層それを強く思わせた。だが今はアズサの内心を邪推している場合でもないし、彼女の事だから後できっと話してくれるだろうと信じ、ユラはアズサへの追求をこの場は破棄する。
 アズサの意思を慮り、静かに肯く。そして小さく震えているアズサの手にそっと自身のそれを重ね、労わるように優しく握った。
「……アズサ。わかったわ。詳しい報告は後。儀式はもう最終段階に移行しているわ。後は私達の聖双導器を双姫の像に」
「うむっ!」
 大きく頷いたアズサは一歩下がり、鞘に納めていた『聖剣・滅邪の剣』を雄々しく抜剣する。そして後方から襲い掛かってきた魔物を振り向き様に切り上げて切り落す。ドサリと重く生々しい音が白砂に響いたのを認めては踵を返し、水上回廊を護っている戦士像に歩み寄った。
 アズサに続きユラも逆に鎮座している魔導士像の下に辿り着く。そして手にした『聖杖・復活の杖』を握り締めたまま、アズサをここまで導いてきたイズモとサクヤの二人を仰ぐ。
「イズモ殿とサクヤ殿は、恐縮ですがここの守護をお願いします。聖双導器を接続中は、私達は完全に無防備になってしまいますので」
「わかりました」
「承知した」
 何の異も無く同意してくれた誠実な異国の二人に感謝しつつ、ユラは再び像を見上げ、大きく息を吸い込む。
 オアシスの水面は、既にその裡に太陽を孕んでいるのかと思わんばかりに燦然とした輝きを燈しており、風が無いというのにも関わらず、激しく波打っている様子は超常の顕現の兆しであると否応無しに理解させられる。
 儀式の手順は、互いに双姫を引き継いだ時に、先代から口伝えに教えられている。現実にならなければ良しとされてきたそれを、敢行する時がきたのだ。
 ユラとアズサは互いに互いを一瞥し、同時に頷いてからそれぞれの石像の空手に、聖双導器を委ねた。
 その瞬間、剣と杖を飾っていた青い宝玉が清冽な光を燈し、それらは像の腕を伝い、胴から脚へ。冷たい石の回廊を奔り、その中心に待つ祭壇へと真っ直ぐに向っていった。
「フィレスさま……後はお願いします」








 大神殿前の広場は、その場所の性質上大きく広く開けている。そして更に強大な力を持った魔導士二人の攻防によって周囲に犇いていた建物もあらかた破壊され、無惨な廃墟となって夜風に嬲られているだけだ。
 シャナクの余波で意識を苛まれていたアスラフィルは、その傷みが治まるのを実感して、ゆっくりとそして優雅に立ち上がった。その様には魔に堕してもなお彼を王族たらしめる教養があり、気品がある。引き剥がされたとはいえ“鎧”とは未だか細く繋がったままの線、そして周囲のから流れてくる数多の力が、その威風堂々たる様を一段と引き立てていた。
(ティルトよ……逝ったのか)
 眼前の少年を見据えながら、だがアスラフィルは遠い虚空を見つめていた。
 意識に常に感じていた『死の首飾り』の気配がつい先程完全に消失した。それは首飾りの装備者であった配下、ティルト=シャルディンスが敗れ去った事を意味している。そして同時に、ティルトを“幽玄の王墓”に派遣した第一の目的が完遂された事も理解していた。右腕に座している『凶爪・黄金の鉤爪』の鼓動が強かに、深く厳かになっているのを感じていたからだ。
 自分の意志に賛同し、実に忠実に動いてくれた配下達を悼み、アスラフィルは眦を細めた。
(皆に報いる為にも、何としても余は果たさねばならぬな)
 意識を集中させ、全身に行き渡るように魔力を漲らせる。キラリと腕に装備している『黄金の鉤爪』が夜の虚空に一瞬だけ煌いた。

 少年と青年による睨み合いが虚空を駆け抜ける中。
 何時の間にか大神殿に批難していた人々が、疎らにではあるが外に出て来て、その直前の広場で繰り広げられる戦闘と、周囲の惨事。そしてそれを織り成したであろうスルトマグナと、アスラフィルの二人を見比べて唖然としていた。特にイシスの民ならば誰もが知る王弟の背後に、彼に忠実に寄り添わんと宙に浮かぶ禍々しい髑髏の姿に、目と意識を奪われずにはいられなかった。
「俺達の街が……ひ、酷い」
「あれは、アスラフィル様?」
「あのお姿は、一体?」
「あの少年はさっき“霊療”様と話していた……」
「どうして、あの方が?」
 唐突に神殿から流出してきた人々は、自分達の故郷の見るも無惨な姿を目にして口々に悲嘆を零して居る。そんな彼らに、スルトマグナは困惑の意を露に示した。
(何で、今更隠れていた人達が……)
 未だ力を温存している様子のアスラフィルに注意を向けつつ、スルトマグナは神殿から次々と出てくる人々を大いに訝しむ。人々が神殿より出だして来るタイミングが余りにも図ったように露骨だったからだ。だがそれが大衆心理の動きによるものなのか、未だ自分が見落としている何かしらの要素なのか、流石のスルトマグナと言えどもそう易々と明瞭な判断は下せない。しかしながら、そこで思考を放棄する事はしなかった。
 戸惑いを微かに載せたままのスルトマグナに対して、アスラフィルはこの状況の予定調和として迎え入れている如く、鷹揚に口元を歪ませていた。
(……やはり、まだ僕の知らない要素が)
 予定外に現れた人々の前で正体を曝しても泰然としているアスラフィルの姿に、スルトマグナはそれを確信する。だが彼が何を行使したのか、真偽を見極めるには余りにも情報が少なかった。
 どうしたものかとスルトマグナが思考を巡らせていた、その時。何時の間にか形成されていた人垣を掻き分けて、瀕死の重傷から還ったナフタリが姿を現した。彼に付いていたソニアとミリアも彼を追ってスルトマグナの視界に入ってくる。
 人々が新たな闖入者である執政官の姿を驚きの目で注視する。そんな中、ナフタリは白砂の戦場に立つ二人を捉えて大きく眼を見開いた。
「貴方は……貴方だったのか!?」
「……」
「貴方がこの国を貶めていたのか、アスラフィル!」
 それは信じられないという彼の心の内が良く解る悲痛な叫びだった。
「いかにも。この国の腐敗していく様を最も間近で見てきた余以外、壊変を成す事などできぬ。我が師にして聡明なる貴殿ならば余である事に気付いていると思ったが……やはり身内には甘いな。それが貴殿の美徳であり、愚昧な点ではある」
“夜”が無常にその嗚咽染みた声を拭い去る前に、アスラフィルは口元を歪に持ち上げる。
「ナフタリ殿。貴殿は数年前にダーマより戻って来て、今のこの国の在り様を見て何を思った?」
「……何?」
「余は……絶望した」
 声調を下げ、深く長くアスラフィルは溜息を吐く。鉤爪を装備した腕とは逆の左手で拳を作り、それを苦々しく見下ろす。
「神の寵愛を一身に受けていると驕り錯覚した民は、己が裡に棲む神こそが世界を統べているのだと信じて疑わない。光に当てられ過ぎた事によって生じる妄信、妄執……自らを昂ぶらせる“陽”の流れ、希望を語るその光の意識」
「……」
「何を為さんとするにも接頭語に“ラー”を据え、それが例えどのような無謀なる政策であろうとも民は受け容れ、疑問を持つ事すらしない……解りやすく例を挙げようか? 外郭楽園結界を創出した際、その外側で魔物の襲来、自然災害、蛮族の横行…それらを原因としてどれだけの民が失われたと思う? 度々の聖都区画整理とうつつをぬかし、どれだけの民草が都を追放されたと思う? 聖都に残りし民にその事を問えば、何と返って来ると思う? 全てはラーの御心のままに、だ……呆れを通り越して、最早笑いすら起こらん」
 嘆くように小さく何度も左右に頭を振り、アスラフィルは続けた。
「政に神の名を用いる事の愚かしさは、歴史が証明していたはずだ。貴殿も執政官の身ならば重々承知している事だろう? 絶対的な光の律令を前に、人はまず考える事を放棄する。そして疑う事を行わぬ意識は享受する事にのみ拘泥し、やがて自らの足で立つ事を忘れる……卑賤なる回天だと思わぬか?」
 そこはナフタリにとっての魔法射程内であると言うにも関わらず、アスラフィルは彼に背を見せ、切実に思弁を連ねる。大仰に腕を掲げながら市街を一巡に眺め、最後に虚空を強く握り締める様には何かしらの情思が滲み出ていた。
 握った拳を突き出したまま、アスラフィルは踵を返しナフタリに向ける。
「民も国も、“神”によって踊らされるだけの人形ではない。国とは民の為にあり、民とは国の為にある。この地が悠久より連綿と築き上げてきた歴史、伝統……その全ては人間が時を重ね織り成してきた事。その両者の切り離せぬ天秤に、どうして“神”が関与できよう? 何処にそんな余地がある? この国は“ラー”という輝ける御柱に縋り過ぎなのだ。盲目で一人立てぬ赤子のように……故に、変わらねばならない。国の在り方を、人の在り方も……その根源に在りし意識の容を」
「その為にイシスを滅そうと言うのか!?」
 咽喉を震わせながら、ナフタリは声を絞り出す。それを見て、アスラフィルは邪に口元を歪ませた。
「必要とあらば……虚構に染まりし外殻を削ぎ落とし、“ラーの化身”には人の地平に堕ちて頂く。唯一にして至高の光、など傲慢なる独裁者とさして変わりが無い。違うか?」
「馬鹿な、それでは本末転倒だ! 信仰とは、人の意識こころに射す光の標。闇多き世界を生きる上で道標となるべき光無くば、人は惑い、迷う。そして温かな光が無ければ命が芽吹き、健全に育まれる事は無い。“ラーの化身”とは人々の陽なる数多の思いを受け止める存在だ」
「ふっ……成程、その辺りはやはり貴殿も敬虔なるラーの民、という事か」
 小さく肩を揺らして、楽しそうにアスラフィルは笑う。それは侮蔑でも嘲笑でもない。ただ単純に、自らが師と崇めた人物が執政官という立場になろうとも、意識の根幹は昔と何も変わらないのだと覚ったからだ。
 だがそれを嘲りと取ったナフタリは顔を顰めて、威厳を込めて言った。
「この国に巣食いし膿を吐き出す為に、我らが行っている事も貴方は知っているだろう。貴方は我々がやろうとしていた事に理解を示していた筈……何故だ!?」
「……ナフタリ殿。確かに貴殿が推し進めている改革は、遠くない未来、いずれこの地にとって必要不可欠なものになるだろう。それをに手繰り寄せた手腕に、余は心より尊敬の念を持している。そしてその方向性は誤ってはいない……だが悔やむべくかな遅い、遅すぎる! それでは間に合わぬのだ。この地には新たに蒔かれた種が実るまでの時が既に無い。いいや、もう既に尽き掛けて枯渇の破綻が見え始めている……そして、その先で待ち受けるのは凄絶なる死だ!」
「何を……」
 逼迫した表情で真摯に語るアスラフィル。言葉だけを聞くならば、それは国の晩年を憂う王族としての貴い責務の重さを垣間見る事ができただろう。だが彼の背後に浮かぶ髑髏の鎧の姿と、彼がこれまでしてきた所業を絡ませれば、その印象は決して結ぶ事は無かった。
 そしてそんな前提の下。アスラフィルの放つ不可解な言質に何の裏表も無く純粋に疑問を呈しているナフタリ。それを見て幾許かアスラフィルは落胆の色を声に載せた。
「そうか、『悟りの書』を持つ貴殿でも知らぬのか……この砂漠の地が今、どれだけ不安定な場所に立っているのかを。この地に残されている時間がもう僅かだと言う事を」
「それは……どういう事だ?」
「……初めは偶然だった。だが偶然とは必然の一端。そして一度知ってしまった以上、むざむざ看過する事など余には出来ぬ」
 ナフタリの問いに応えるように、アスラフィルは“夜”を見上げた。地の柵に囚われる事の無い空は相変わらず無機質に、黒く染まっていた。

 アスラフィルは決然と表情を引き締めて王城を、その先にあるオアシスを睥睨する。
 イシス大砂漠に点在するオアシス群の中でも最大の大きさを誇っている聖都のオアシスは、古のファラオの代より枯れる事無く、跪く生命に癒しと潤いを与え続けてきた。過去にダーマの地質学者を招いて聖都周辺の地下水源の調査を依頼した事実もあったが、その実のある結果はイシスの民に享受される事は無かった。
 それは人々の深い信心が、厭くまでも外郭楽園、ひいてはこの砂漠に在る全てのオアシスはラーからの賜物、寵愛の証であると頑なに通そうとするからだ。
(外的観測により得られた正当なる評価を、内的情思によって否定するか。実に愚か……いや、嘆かわしき事よ。彼らは決して理解しないのだろう。光の加護を受け続ける事の結末を)
 灼熱の太陽が沈む事が無ければ、作物は実らず樹木は乾き朽ち果てて、生命は日々を慎ましく暮らしていく事さえ過酷な苛烈な環境になる。そもそもここイシス大砂漠が形成された原因こそ、世界の構成素子であるマナがバランスを崩し、陽に傾きすぎた事にあるのだ。光を享受し続ける事の凄惨なる結末の一つを、その途をこの砂漠に住まう者は先天的に辿っている事になる。だが――。
(光の氾濫は、活潤と全く正反対の事象を齎す。ラーを求める陽の意識、神に縋ろうとする惰弱な意志がそれを加速させているという事に、誰一人として気付いていない)
 泰然と天に座し、何時までも変わらない永遠を髣髴させるその威容が人々にそれを意識させない。
 しかし大地に住まう生命の一つでしかない人間がどう思おうとも、崩壊の音色は確実に流れ続けている。その為に陽を閉ざし、輝ける光を遠ざけたと言うのにも拘らず、亡びは既に確定された逃れられない宿命だった。

 自らの裡を再訪していたアスラフィルは、現実に回帰する。
「この世界を構築し、維持させるのは光でも闇でも、陽でも陰であってもならない。両者がどちらも突出せず、ただ平衡を保たねばならぬ。善き事も、悪き事も。陰も陽も光も闇も、全てを含めてこの世界は存在している。どちらか片方だけでは世界は立ち行かない」
「貴方の言う事はもっともだ。だがそれは余りに結果を求め急いでいる! 激動の改変に人は付いていけない。目まぐるしく廻る現実を受け止めきれず、瓦解してしまうのは明らかだ……ましてや、人から魔に堕した人を襲い続けてきた者の言など、人間に受け容れられる筈が――」
「奇麗事だけで世界は動かぬ! 新たに何かを成す事は、既存の何かを破壊する事だ。世界に対して何かを成せば必ず犠牲は付いてまわる。土付かずの理想だけで全てが罷り通る程、この世界は優しくは無い!」
 ナフタリの言葉に被せ、アスラフィルは高圧的に続けた。
「理想を語るには、それを実行する確かな力が必要だ。どのような現実であれ眼を逸らさずに正対し、進む事を畏れ憚らない剛毅なる意志が必要だ。……果たして、神の威光に縋る事を良しとし続けて来たこの国に、それがあるか?」
「! それは……」
 未だ魔力が充実しているアスラフィルの迫力に気圧された訳ではないが、ナフタリは言い澱んだ。それは放たれた問いが余りにも正しかったから。王族として民を知るが故に、それだけにこちらの回避を閉ざしていたからだ。
 眉間に深く皺を寄せ、言い返す事が出来ずもどかしさに口を真一文字に結んでいるナフタリに、アスラフィルは決然と言い放った。
「見るがいい。イシスに犇く亡者達の姿を! 聞くがいい。夜を裂く鳴鐘を! 信仰に溺れ、立つ事を畏れ、自らの裡に潜む“魔”に取り込まれた弱き者達を! 浅ましいまでに自らの生にしがみ付き、死という終焉を恐れ憚る生への貪欲さ。死への恐怖こそが力への意志! 震える彼らの意識が、この地を崩壊より救うのだ!!」
 邪気を周囲に放散しつつ、アスラフィルは雄渾な声で叫喚する。アスラフィルの威圧が一段と強さを増した。
 完全に言葉を詰まらせてしまったナフタリはただ苦々しく顔を歪め拳を震わせている。今まで彼の後方で聞き入っていたソニアは不安げに表情を曇らせ、ミリアはその言が気に入らないのか憮然として半眼でアスラフィルを睨んでいた。そしてある意味徹底的に扱き下ろされたイシスの人々、それを受け止めるか否かの狭間で呆然としていた。
 沈黙が訪れ、風韻だけがその場を支配する。誰もがその言の葉を咀嚼し、吟味せんとしていた。
 そんな中、最も早く頭脳を回転させていたスルトマグナが、ゆっくりと口を開き沈痛な空気を破った。
「……アスラフィル殿。貴方の雄弁はこの病んだ世界においては確かに見事です。毎年ダーマで開かれている国際首脳会議に参列している空出張な方々に拝聴させたい位だ……ですが、残念ながらここにいる誰もが貴方の言に耳を傾けはしませんよ。何故なら貴方の言動は、徹底してラーを否定しすぎている。ラーの教義を意識の根底に据えている国の意思の常識において、貴方の弁は余りに異端です」
「確かに否定はできんな」
 不敵に笑うアスラフィル。それに合わせてスルトマグナも皮肉気な笑みを浮かべた。
「ご自身の言葉を省みて下さい。貴方の言繰りをそのままに受取ると、それはとても耳心地良く聞こえます。ですが、貴方はさしずめ闇の太陽……不死者を統べるイシスの敵であり、ラーを奉ずる者にとって見れば“悪”そのものだ。古来より“悪”の囁きは終ぞ人には届かずに拒絶されるもの。貴方の願いは決して叶う事はありません」
 誘導する意思は無かったが、スルトマグナの言葉によって、霧中を彷徨っていた人々はその意識の方向を定める事となった。イシス人として、ラーの民として意識が往々の根幹に萌して育まれた以上、アスラフィルの言葉は決して受け容れてはならない。どれだけ大義を掲げようとも家族を、恋人を、友人を、同胞を貶め、苦しめてきた元凶は他ならぬアスラフィルなのだから。
 敬虔であり人間的な感情故に、個々の反発心は繋がっては瞬く間に肥大し、強烈な反意の流れに姿を変えて押し寄せる。その大きな敵意と不信の波濤を前に、アスラフィルは寧ろ愉悦に口元を歪ませた。
「……何が可笑しいんです?」
「何故、余がこうして衆目に姿を曝しているかそなたらには解らぬであろうな。だが、それで良い」
 アスラフィルは両腕を広げ、くつくつと哄笑した。
「余の願いも、それを為すべき力への意志も。余人が知るべき事ではない。相容れぬのであれば、余はただ只管に我が願いに向けて邁進するのみ! 貴殿らの言う“悪”としてな!!」
 意志の昂揚が魂魄を煌かせ、儚い接続のまま待機していた“印”が再起動する。燦爛と妖しく輝いた『死屍の鎧』は中空でばらばらになり、アスラフィルを包み込んでいく。やがて先程と変わらぬ姿…いや、邪悪さが増し以前よりも狂気に満ち溢れた魔族が降臨した。
 ナフタリは気圧されながらも身構え、ソニアやミリアは小さく立ち竦んでいる。
 戦う力の無い人々からは恐々とした悲鳴が次々と上がる。
 凄みの増した圧倒的な存在感より放たれる威圧を真正面から受け、スルトマグナは半歩後ずさる。自分達の悪意も自らの糧としたのか、と小さく語散た。
「“焔の申し子”」
「……何ですか?」
「最早余も、後の事を考えて力を温存するなどと甘い考えは止めよう。全力を賭して、我が大望を阻む敵を排除する」
 アスラフィルが頭を抱えるように右手で顔面を覆う。するとその右手に嵌められた『黄金の鉤爪』が燦然と輝いた。
「これは……っ!?」
「いくぞ!」
 アスラフィルが強く地面を踏み締めた次の瞬間。その姿は掻き消え、スルトマグナの左上方に跳躍し、大きく爪を振り被って肉薄していた。
 スルトマグナは咄嗟に杖を振り翳し、その先端から噴出した焔の如き半透明の刃と、アスラフィルの『黄金の鉤爪』がけたたましい音を発ててぶつかった。
「ぐ! 何だ、この力はっ?」
 繰り出される『黄金の鉤爪』の威力。そして子供と大人と、その重量と体格の差からスルトマグナは後方へ更に吹き飛ばされる。アスラフィルはそれを悠長に見送らずに、追撃に駆けた。
「考える余裕など、与えぬ!」
「ボミオス!」
 だが小柄ゆえに身軽だったスルトマグナは何とか体勢を整えて着地し、瞬時に速度減退魔法を解き放つ。スルトマグナを中心に天球上に展開する光の網は、突進してくるアスラフィルに絡みつき、その加速度を奪い去った。
 だがそれでもアスラフィルは怯まず、そしてスルトマグナにしても本当に微かだが猶予が得られた。
「こんなものっ!」
「スカラ!」
 光網を突破し、攻撃を繰り出すアスラフィル。左手を自身の胸に当て、防護増強魔法を掛けるスルトマグナ。
 同時に繰り広げられた攻防は、スルトマグナが制した。
 不可視の光の圧力によって押し返され、アスラフィルは後退する。今度は転じて、スルトマグナが攻勢に出た。
「バイ、キルトっ!」
「ぬぅ!」
 唐竹に振り下ろしたスルトマグナの杖は、盾として『黄金の鉤爪』構えたアスラフィルを強かに打ち付ける。
 大きな爆音が轟くと共に、柔らかな砂塵を宙に猛然と立ち昇る。
 アスラフィルの下半身は打撃の衝撃によって砂に埋まり、周囲の地面は、筋力強化魔法によって倍化したスルトマグナの打撃威力に耐え切れず擂鉢状に陥没していた。
 スルトマグナは動けなくなったアスラフィルを前にしても、それを機とせずに後退して間合いを開ける。変容し続ける状況に、頭の中を一度整理する必要が急務だと考えたからだ。
「……どういう事だ。闘氣特化型に変化した?」
「何という打撃威力……本当に魔導士か!?」
 水平に杖を掲げて、警戒にアスラフィルを凝視するスルトマグナ。
 砂の束縛から脱し、剣呑にスルトマグナを見据えるアスラフィル。
 両者は違いに相手の状態を考察していた。それぞれの思惑が口を衝いて出ているのは、両者ともそれを自身の裡に留めて置くだけの余裕が無かったと言えよう。
「そうか……貴方は二種類の“印”を装備していたんですね。意識の拠り所をその鎧から、爪に切り換えた訳ですか。これは――」
「先刻までの戦闘を見るに、紛れも無く貴奴は魔力特化型。ならばこれは在り得ない現象……何らかの魔導器によるものか、――!?」
 無論両者の思惟は互いの耳には届かない。そして、そんな二人の超越した戦闘を見ているだけの周囲にも届かなかった。
「……二つの“印”の並行励起! “印”は一つしか持ち得ないものだと決め付けていた僕の落ち度、ですね」
「あの杖は、……かの十三賢人“智導師”が造り上げたという『理力の杖』! 所持者の魔力を闘氣の刃に変換する機構を持ち、接近戦に劣る魔導士でもそれを可能にした新たな指標かっ」
 両者に共通する事は、お互いの本質が魔導士であり、研究者であり、求道者である事だ。故に、自然と沸きだした疑問の解を見出せたならば、その時。愉悦に笑う。
「ですが……実に興味深い現象ですね!」
「面白いぞっ! “焔の申し子”!!」
 満足げな笑みを浮べながら互いに互いを正面から睨み据え、疾駆した。


――魔導士同士の戦いとしては余りにも異端な形式を執った小さき戦争は、結果としてスルトマグナが優位に立った。
 接近肉弾戦に移行しても、スルトマグナの魔法構築速度は衰えを見せず、寧ろそれは異常の極みだった。一動作で一つの魔法を構築し、展開している。ボミオスで機動力を下げ、スカラで自身の防御力を上げ、前に踏み出して杖を振う瞬間にバイキルトで攻撃力を倍化させて一気に叩き伏せてくる。そして更には距離的に余裕があれば火炎、閃熱の魔法を織り交ぜて翻弄さえしてくる。
 フォースの制御を考えなくて済む分、エーテルの練度を幾らでも高められる。なまじ“賢者”なれば両方を扱えるが故に意識が拡散してしまうのだが、魔力特化の“魔導士”という職に在る為、完全に意識を一方に傾けられるのがこの超速魔法展開の秘訣だった。
 対してアスラフィルは、全力を出してはいるものの、その実は完全に燃焼しきれていない。自身ですら把握しきれていない無意識の一端で尾を引いているのがこの戦闘の全てを決めていた。
(……本体は既に消滅していようが、このままでは不味いな)
 己の変調に気が付いて、アスラフィルは内心で臍を噛む。意識が躊躇した瞬間に、火球の雨霰が全身に降り注いだ。
「やっぱり魔法による効果は薄い……“爪”に意識は移行したようですが、“鎧”の加護もまだ残っているようですね。まあ完全に遮られる事は最早無いようですけど、ね」
 スルトマグナが目晦ましに放ったメラの火球群は、アスラフィル自身にダメージを与えては居ない。だが常にアスラフィルを覆う暗紫のヴェールは薄まり、その奥にある『死屍の鎧』の所々を僅かだが砕いていた。
(これ以上、この状態を保つと“爪”が覚醒する。目覚めれば余も、ファラオと同じ結末に……そうなれば余は――)
 そこまで思い至り、はっとしたアスラフィルは自嘲する。自身の背に死の気配を感じ、急に可笑しさが込み上げてきた。
(結果がどうなるにしろ、自身の全力を出し切らねば何も得る事などできぬ。振り翳した力への意志を忘れるな!)
 痛烈に自らを叱咤し、アスラフィルは全神経を“爪”に集中させる。『黄金の鉤爪』はこれまでにない禍々しい輝きを解き放った。
「これで、終わりにしましょうっ!」
 スルトマグナが両腕を広げ、その手先に空間を歪ませんばかりの膨大な魔力を集約させている。
 紅蓮の少年の魔力は底無しなのだろうか。正規ならぬ手順で昇った魔族であれ、それを圧倒する幼子を前にアスラフィルはそう思う。あれ程までに収束した魔力で紡がれた魔法の威力は、一体どれ程なのだろうか想像を絶する。そしてそれを受けた時、自分は耐えられるのかもまた未知数だ。それが否応無く理解できて、納得した。
「だが!」
「べギラマッ」
 雄叫びを上げ、アスラフィルは突貫する。
 同時に、魔法を構築していたスルトマグナも編んでいた中級閃熱魔法を全力で放った。疾空する炎蛇はアスラフィルの左肩に喰らい付き、引き千切った。
 人間の赤い鮮血とは異にする赤紫の血潮が虚空に派手に飛び散り、断たれた左腕が焼け焦げた白砂に落ちる。
「それでもっ!」
「く、イオラ!!」
 弛まぬ意志を前面に押し出し、退く事をせずにアスラフィルは突撃を止めない。迫り来る敵を前に、スルトマグナは自ら余波を被る覚悟で中級爆裂魔法を放つ。それで距離を開けようとしたが、アスラフィルは全身から血を噴出させつつも獅子の襲撃を振り払い、その猛追は止めなかった。
 身体中に纏っている『死屍の鎧』はスルトマグナの爆裂魔法の破壊力に屈して、拉げ、砕け跳んでいる。その下の魔導士の衣も既に血塗れで、ボロボロに破れていた。
「だとしてもっ!」
「っ!」
 再びアスラフィルは絶叫を上げる。決して怯まない意志を喰らい“爪”は耀く。
 間合いは、既にもう無かった。
 それを理解した瞬間、スルトマグナから表情が完全に消える。
「余は“悪”として不退転であらねばならぬ!」
 アスラフィルが跳躍し、爪を大きく振り下ろす。
 空気を引き裂く爪撃を前に無惨な結果を想起して、周囲で誰かが悲痛に叫んだ。
 紅蓮の双眸はただ肉薄するアスラフィルを映し、そしてゆっくりと細められた。
「……ドラ――」








――“剣姫ネイト”とは開拓者。胎動と激震を以って退魔を為す、始まりを往く者。

――“霊療ネフティス”とは導眠者。静寂と深漣を以って安楽に誘う、臥床を正す者。

――“魔姫セルキス”とは鎮守者。流転と旋律を以って繊芥を防ぐ、揺籃を覆う者。

――“王裡アセト”とは喚鐘者。光焔と燦爛を以って覚醒めざめを促す、終わりを告げる者。


 清澄さを否応無く醸す白桃色の袖口からすらりと伸びる細く白い腕、その先の掌を通して確かな鼓動をフィレスティナは感じていた。そしてその拍動は自らの血流を伝い、両腕に嵌められている一対の腕環に取り込まれている。
「朱き裁審に転ぶ者。蒼き閑縛に惑う者。暗き曇頂に嘆く者。明き天橋に臨む者」
 自然と詩が口腔を越えて零れ出てくる。それは太古より続く命脈に潜んでいた血の記憶。
 紡ぐ為に旋律など必要なかった。自らの裡を流れる血潮の脈動こそが、至高の伴奏となっていた。
「天を往きしは輝ける四光。地を迸るは七つ星。彷徨える魂に導きの陽を。荒ぶる魄に和らぎの陰を」
 そしてそれは、……呪文だった。
「災禍を前に墜為す心、安らかなる諷韻を以って翻らん。天を歩み地を飛ぶ霊鳥、始まりと終わり接ぐ唄を囀れ」

 フィレスティナは力強く開眼する。
「開け、天律の扉――」
 手にしている黒水晶から鮮烈な光が洪水のように溢れ出し、その瞬間。闇に堕ちていた世界は白転した。




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