――――第五章
       第二十話 潜陽の果てに







 その男はピラミッドを一望できる丘の上から眼下を睥睨していた。
 男は痩身ではあるが、一切の無駄なく引き締められた体躯を烏珠に黒光りする革衣で包み込み、鍔の長い漆黒の帽子を深々と被っている。その為、常に深い影に覆われていて表情は覗えない。ただ胸元で黒色の宝玉が淡く艶かしい輝きを放ちながら、何かに呼応するかのように強かな脈動を刻んでいた。
「紛い物とはいえこの“闇の衣”の中。月の顕現はあいつの影響だとして、この星々は……ルクレツィアか。あいつの紋章の中に“星の紋章”との共鳴痕が残っているとはな。……“塔”が攻められた時、何があった? お前ら二人が揃っていながら、みすみす“女神”を封印されやがって」
 男は誰に問い掛けるでもなく、馬鹿共が、と夜空に浮かんだ月に向かって吐き棄てる。それは月として定義される人物に対して放たれた憤りの言葉であり、反して星として定義される人物の安否を案ずるように向けられた言葉でもあった。
「……畜生が、相変わらずこの世界の空気は馴染まねぇ」
 冷たく擾乱する風に曝される事に嫌悪を覚えて、男は漆黒の帽子を深く被り直す。
この世界・・・・の人間共はこの程度の闇に惧れを蔓延させていやがるのか。……甚だ呆れる話だ。惰弱で、愚鈍で、蒙昧な……これも我が女神の慈悲も守護も無い所為か」
 実に嘆かわしい事だ、と男は微塵も悲嘆に暮れる様子を見せずに口元を邪に歪ませる。そこにあるのは世界に対しての明らかな皮肉であり、侮蔑であり、嘲笑であった。
 男が天に唾を吐いている時。突如として“夜”にひっそりと佇んでいた王墓の最上部位から三筋の竜巻が噴出した。それらは三方に向かって手当たり次第に破壊を繰り広げていたが、やがて一つの大きなうねりとなる。その巨大な竜巻は粉砕した土石だけでは飽き足りず、夜空に浮かぶ雲さえ貪らんと虚空にその触手を伸ばしていた。
 王墓が暴れまわる猛虎の爪牙の如き竜巻によって崩壊し往くのを見下ろしながら、黒衣の男は小さく舌打ちして眼を細める。
「……これ以上の紋章共鳴は無理か。あいつが壊れちまう」
 そう言い切ると、彼の胸元の黒色の宝玉は輝きを潜める。それと同時に、今王墓を蹂躙していた風の暴君は初めから無かったかのようにひっそりと夜に消えていた。
「……反応が微弱すぎて再起動できねぇ、か。紋章の力が基底状態にすら至らないとはな。“ゲート”を介さずに強引に二界間次元障壁ビフレストを越えた際、自己保存機能でそれ程までに紋章の力を消耗しちまったのか」
 その心中が穏やかでは無い事を体現するように、足元に転がっていた岩の欠片を腹立たしげに踏み砕き、胸の前で両腕を組んで酷薄に眼下を睥み据えながら男は思案を進める。
「こうなったら俺様自ら『月の紋章』に一次接触して、『水の紋章』との連結共鳴で『賢者の石』から回帰を促すしか――」
≪およしなさい、黒曜ニグレド
青晶ウィリディタス!?」
 己の思考を遮るよう脳裡に響いてきた女の声に、男は驚愕に表情を染める。鎮まった筈の胸元に垂らした紋章の護符アミュレットが、再びぼんやりと点滅を始めていた。
 狼狽する男の周囲には誰一人としていない為、これは紛れも無く意識に直接届いてきた声だ。自分と同類だけが交信可能な共時性紋章連結による念話は、時空間的隔たりさえをも越えて齎される。それが例え次元を異にしていても、だ。
 予定に無い自分達の監督者である女の語り掛けに、男は表情を険しくして聞き入った。
白翠アルベドの事は今は捨て置きなさい。それよりも、貴方は直ぐにこちら・・・に帰還して≫
「どういう事だ? 俺様はあいつの探索にわざわざこちらまで出向いているんだぞ……あんたの命令でな」
≪そうね。“女神”が封じられたと同時に行方不明になった白翠の探索。五十年ほど掛かって漸くその痕跡を発見した≫
「ああ。だがあいつは機能不全を起してやがった。『月の紋章』が完全に休眠状態になってるからな……どうりで見つからねぇ筈だ。それで俺様が――」
≪……黒曜。この時を以って白翠探索の任を終了とするわ。そして引き続き別の任務に就いて頂戴≫
「どういう事だ?」
≪動向さえ掴めれば後の処置はどうとでもなる。……つまりはそういう事よ≫
 上品で、だが勝気な気風の女の声は、黒衣の男が躊躇を思考に浮かべる中でも構わずに語り続ける。いや、それは有無を言わせぬ強制力を持った命令という形容に相応しい言繰りだろう。
 急な指令に黒曜の男は大きく眼を見開いていた。横柄な物言いは相変わらずだが、今回は余りにも唐突に過ぎる。青晶の女の性質を鑑みて男ははたと気が付いた。
「……そっちで何かあったのか?」
 慎重に問う黒曜の男に、青晶の女は至極冷静にさらりと肯定した。
≪“剣帝ゴッドハンド”が動いたわ。目標は十中八九……“城塞都市”ね≫
「馬鹿なっ! 奴は“女神の塔”に居座っているんじゃ無かったのか!?」
≪どうやら“導魔カオスロード”は留守らしいわね。彼女に代われる存在があるなら、彼以外に可能性は無いわ≫
 唖然と眼を見開いた男を時空を越えて無感慨に見据えながら、事実だけを端的に女は告げた。
「畜生がっ。“聖女”は……“聖剣士”と“大僧正”は何をしてやがる!!」
≪彼女らを責めるのはおよしなさい。“聖女”は“焔魔”の執拗な追撃に遭い砂漠で窮地に立たされている。“詩人”に守護はさせているけどそれも長くは続かない……貴方が行って助勢しなさい≫
「あの変態の相手かよ……」
 げんなりした様に男は肩を落す。声は意外そうに首を傾げた。
≪あら? 水と炎で相性は抜群だと思うけど≫
「気色の悪ぃ事を言うんじゃねぇ! ……だが“剣帝”はどうするつもりだ? 正真正銘あの化け物が動いたとなると生半可な奴らじゃ相手にもならねぇだろうが。寧ろ俺様が出張って奴を抑えた方が……」
≪“聖剣士”と“大僧正”で何とか抑えるわ。本当に最悪の場合、私も動かざるを得ないけど≫
「……本当に最悪、ね。そこまで逼迫した事態だってのに、相変わらずあんたは高みの見物か? 良い身分だな、おい」
 悪態を付く黒衣の男に、女は眦を吊り上げた。
≪……私に動け、と? それがどのような結末を齎すか理解しての言かしら? 弁えなさい、タナトス=オチェアーノ!≫
 声の勢いが強まったと思うと、脳裡に直接攻撃イメージの波動が送りつけられ、男の意識を圧迫する。それは精神を伝わり肉体にまで激痛を及ぼした。仰け反る身体を両腕で押さえつけながら、耐えられない程の苦痛でもないと覚り、タナトスと呼ばれた男は苦悶に蹲る中で狂笑を浮べる。
「わかったわかった、俺様が悪かった。あんたが一番重荷を背負ってるんだったな。今のは失言だ」
≪……即刻帰還しなさい。ギアガが占領されている以上、“門”はオルレラを使って≫
 女の声から圧力が消え、タナトスが感じていた圧迫感が消える。
≪良いかしら? “黄碧キトリニタス”……ルクレツィア=ガイアーラが“女神”と共に封印されてしまった今、自由に動けるのは貴方だけ。その事を努々忘れないように≫
「了解だ、マリアベル」
 自らがマリアベルと呼んだ女の監視が意識から退くのを認めて、タナトスは盛大に溜息を吐く。
 顎線を伝う汗を無造作に袖で拭い去り、黒衣を翻しては踵を返した。
「やれやれ、怖い怖い姐御のご指名じゃあ仕方が無い。残念だが俺様はここで一時退場か……いい加減、さっさと目醒めやがれよ白翠。闇と風が夜を駆ける限り、オマエの存在は消えないだろ」
 肩越しに横目で“幽玄の王墓”が在った場所を一瞥し、次に遥か地平の先にある聖都を見据えてタナトスは口元を歪ませた。
「さあて、人間共の涙を誘う無様で滑稽な悪足掻きもいよいよ最終局面だ。急がねぇと決定的瞬間を見逃すぜ……なあ、セルヴァ=トルナードきょうだい








 ミリアはラー教団の本拠地である大神殿の屋上鐘楼塔の縁に立ち、聖都の街並みを見下ろしていた。
 空は相変わらず暗闇の緞帳が降りていて、灯りとなっている月と星々は瞬きさえせずに佇んだままだ。静まり返った夜を悠然と流れる風は、さもすればとても肌心地良いものになるのだろうが、純エルフである彼女からすれば、今聖都を流れている夜風は、不死者達が発する阿鼻叫喚の悲鳴にしか聞こえない。そのおどろおどろしい風韻は、裡に込められている墨汁の如きに混濁した乱波を意識に届かせ、不快感を覚えずには居られなかった。
 そんな陰鬱な感傷をミリアが抱いたのは、彼女が世界に満ちる精霊スピリット反精霊ネガ・スピリットを繰る妖精種であり、人間種よりも遙かに世の理を律する秩序に従属し、マナへの親和性が高い故、だ。
 だが現在の状況下では、その特性が逆にミリアを強く苛んでいた。
「……耳障りにも限度があるわ。全く以って鬱陶しいわね」
 嫌悪を隠しもせずに瑞々しい眉間に皺を寄せ、自然と悪態がミリアの口から嘆息と共に零れていた。

 その時。市街のとある場所から幾つもの光球が打ち上げられる。それは光の噴水とも形容すべき壮麗な光景で、暗色の街並みから咲き誇る輝きの筋は黒の虚空に栄える艶やかな橙黄の軌跡を刻んでいた。
 しかし、それは余りにも甘く魯鈍な感慨。萌芽の瞬間こそ世界は優美な幻想絵であったが、現実に齎された現象は酷く凄惨極まりないものだった。
 光球は孤を描いて地に群立する建物に落着し、まるで煩雑な玩具箱でも引っくり返したかのように盛大な炸裂音と閃光、そして熱風を夜空に解き放ちながら粉砕する。四方八方全方位に向けて無差別に解き放たれた暴虐の光は、自らの咆哮を以って破壊の興奮を昂揚させながら連なる街並みを容赦無く蹂躙していった。
 爆撃によって瓦礫の山は周囲一帯に拡大し、白砂を焼き尽くしてなお燻る炎が、散逸的に広がっている。
 眼前に創造された死臭の現実を見て、明らかな人為的所業であると覚ったミリアは、恐らくは爆裂イオ系魔法の行使による結果だ、と冷静に推察する。
 周囲で慌しく駆け回る精霊が悲鳴を挙げている。それがミリアの推察を一層確信付けていた。
 一つ一つの爆裂光に込められた魔力は並ではない。そしてその高みで紡げる者は、この地にはそうは居ない。せいぜい十三賢人の座に就くナフタリか、その娘である“魔姫”ユラ。或いは王家の血を継ぐ者達ぐらいだろう。
 だがそのいずれも、現在の盤面において相応しくは無いと現実が示していた。
 ともなれば、たった今市街を破壊した爆裂魔法を紡いだ術者の候補には自然とスルトマグナか、その少年が対峙している敵勢の総大将、屍王に白羽の矢が立つ。が、ミリアは思案を進めながら即座に前者の可能性を破棄した。何故ならスルトマグナが爆裂魔法を紡ぐ場合、大概において獅子の容に顕現する事を好むと熟知していた為だ。
 よってミリアの思惟は、あの光の群は敵である屍王が解き放ったものなのだろう、との結論に終結する。
 遠巻きに、破壊され往く街並みを他人事の様に見つめていたミリアは、不意にこちらに向かって飛翔してきた光球の群を捉える。猛然と迫るそれらは、明らかな意思によって狙いを定められていた。
(嗅ぎ付けられたかしら? だけど――)
 特に慌てるでも無しに、ミリアは対魔鏡壁魔法マホカンタで反射する事無く、手にしている“嵐杖・天罰の杖”で宙を薙ぐ、という至極単純な行為でもってそれを迎えた。
 ミリアの見当違いとも言える行動は強襲飛来する光群の前に轟風の乱気流を捲き起こし、周囲へと弾き逸らしていた。進行方向を強制的に変えられた光球が、全く別の方向にあった瓦礫の山に着弾し、大きく爆風と音と破砕片を夜に広げる。
「温いわね。その程度では、この私には届かなくってよ」
 光球の落着点より発生する、熱せられた砂と風が髪を梳くのを煩わしそうに避けながら、鐘楼塔に泰然と立つミリアは尊大に、そして辛辣に言い放つ。
 触れればどのような物でさえ粉砕する破壊の光も、真なる妖精が従える風壁の前には脆くも流されてしまったのだ。
 だが言葉は鷹揚としてはいたが、実際のところミリアにはそれ程余裕がある訳では無く、寧ろ虚勢を張っている色の方が強かった。それはミリアが手にしている“神鍵”と称される古代魔導器が、徹底的に周囲と自らの魔力を貪って大きな力を顕現するからだ。使用意志を以ってこの杖を手にする事は、ただそれだけでも大きな負荷を背負うのが実状だった。
 霊素分布率が著しく低い“屍の生地”での“神鍵”の使用は、そのまま自らの負担となって全身に圧し掛かってくる。それを知った上でライトエルフ女王ティターニアより継承させ、こんな場所に派遣した師に向けて悪態を吐いてしまうのは、寧ろ反骨心豊かな彼女の自然な意識の流れになるのだろう。
(ジュダの奴も本当に面倒な物を私に押し付けてくれたものね。……全く、この杖はどれだけの魔力を持っていけば気が済むのかしら?)
 この世の全ての事象を見透かしている師の思惑は計りようも無く、自分がどんな行動を思い選ぼうとも結局は彼の掌の上で躍っているに過ぎないと強く思わされる。厭う訳では無いが気に入らない自身の現状はどうする事もできず、そしてそれを理解しているミリアは辟易しながら思考中でさえ不躾に自らの魔力を吸い上げ続けている“嵐杖・天罰の杖”を握り締めた。
(華奢な見てくれの割には、大喰らいなのかしらね)
 手にした杖に座している天使を眺めながらそんな事を考えると、杖に吸われる魔力が一瞬増大した気がした。
 刹那の錯覚に、パチパチと眼を瞬かせたミリアはやがて諦念に内心で溜息し、背後を振り返る。
 聖都に明けの刻を告げる鐘楼塔はさして広くも無い。欄干が二重に備えられた縁に立つミリアの背後…丁度大鐘の真下に相当する場所には、全身を血塗れにして横臥している壮年の男と、男の側に跪き、手を翳して心安らぐ柔らかな光を発している少女の姿があった。




「……ソニア。ナフタリの治療はまだかかるかしら?」
「もう少しよ。もう少しで、全ての傷口が塞がるから……」
「そう……でも急いでね。儀式の影響でしょうけど、大気中の精霊、反精霊のざわめきが酷くなってきているわ。……まあ、直接的な原因はあの辺りで馬鹿みたいに魔力掻き集めて暴れまわっている二人の所為なのだけれど。このままだと、玲瓏の方にまで不具合が出るかもしれないわ」
「……うん」
 呆れ混じりに発せられるミリアの問いに頷きながらも、だが真剣な表情は崩さずに掌から放射される光を強めるソニア。紡がれている光は回復魔法の淡い輝き、“夜”の下ではソニアにしか赦されていない再生の光だ。
 ソニアは戦いに敗れ倒れた聖王国執政官ナフタリに向けて持てる魔力を燃焼させ、癒しの光を発し続けていた。
 スルトマグナによって運び込まれてきた時は、誰が見てももう手の施しようが無いほど、ナフタリは全身に傷を負っていた。通常よりも高次領域で編まれた氷刃魔法ヒャダインの氷の刃雨に曝されたのだから、その後について回る死という終局は寧ろ誰もが納得せざるを得ない当然の帰結だったのだろう。体中に穿たれた傷痕の奥で筋肉は貫かれ、骨は粉々に砕かれていた。また傷口そのものが凍結していた事も在って出血は微々たるものであったが、壮絶な冷気によって細胞は凍傷による壊死を引き起こしかけていて、生命体が生来持つ自然治癒力を強化、促進させるという素事象を引き起こすよう構成された回復魔法ホイミでは対処には余りに荷が勝ち過ぎている状態だった。
“賢者”の中でも指折りの魔法抵抗力を有するナフタリでこの状態なのだ。もしも他の者が同じ氷雨に曝された場合は、即死のみが運命の終着点である事は想像に難くない。
 しかし今、ナフタリは健やかな血色を取り戻しつつあり、散逸的だった呼吸も安定している。それは意識を取り戻す前兆であり、ソニアの回復魔法が確実以上に効を奏している証明だった。
(これが……スルトの言っていた事なの?)
 喜ばしい現実の中で、だがミリアはその優しい光を眺めながら表情は険しく固めたまま自問する。
 眼前で回復魔法を紡ぐソニアの背は、そのすらりと流れる浅葱髪の所為もあるだろうが、細く儚い印象を覚える。だが彼女が発している淡い光の波動は、今にも潰えてしまいそうな泡沫の弱弱しさを醸している事に反して、厳かにして深遠なる生の命脈を確かに孕んでいた。
回復魔法ホイミは、生来在りし自然治癒力の増強……なのに、これではまるで――)
 自然と強張る面持ちのままミリアが無言で現実を見つめていると、胎動の光を受け続けていたナフタリの瞼、その裡に覆われている眼球がぴくりと動く。そして続いて、闇に放散されていた意識が繋がり、浮上した。
「うっ……こ、こは?」
「大神殿の屋上です。ナフタリ様」
 幾重にも編み込んでいた光を解きながら、ほっと嘆息してソニアは引き締めていた相好を崩す。肌に薄っすらと滲んでいた汗が、光の残滓にきらりと煌いて、風に攫われていた。
 意識が未だ明瞭としていないのか、呆然と虚空に向けて呟いていたナフタリは、安堵を載せて自分を覗きこんでくる少女を見ては瞠目し、眼を瞬かせる。
「! そなたは、ディナの娘の……」
 一つ頷いたソニアを見止めながら、ナフタリは心を落ち着かせるよう努めた。
 死の淵を彷徨っていた事が尾を引いている所為か、一瞬ではあるが娘達の顔とソニアの顔が重なって見えたのだ。そんな自らの精神退行に呆れを覚えるも、その事が逆に今の自分の状態を強く思い起こさせる。
「私は、生きて…いるのか?」
「はい。危ないところでしたが……」
 不遜にならぬよう、控えめにソニアは頷く。
 意識を取り戻したナフタリは上体を起こそうと腕に力を入れるも、上手く力が入らずにバランスを崩して再び床に倒れてしまった。だがそれは当然とも言えるだろう。完全に傷口が塞がり、負傷前の状態に回帰したとはいえ、失血と共に失われた体力と魔力は時を経なければ戻らないからだ。心身ともに憔悴した様子を面に載せたまま、ナフタリは自らの老いをまざまざと実感して深く嘆息する。
 弛緩した意識を再び奮い立たせて、ナフタリは上体を起こし、自身の両腕、脚を観察し、脇腹や背を触ってみた。両肩を大きく回し、膝の屈伸を確かめる。全身が鉛のように重かったが、それでも動作の一つ一つに痛みを伴う事は無い。
「あの傷が……完全に治っている?」
「何とか治療する事はできましたが、安静にしていて下さい!」
 急に起き上がり機敏に動き始めたナフタリに、慌てたソニアは狼狽しながら彼を宥める。たった今まで治療していたが故に、その消耗具合もソニアには良く解っていたからだ。
 平時ならば要らぬ気遣いだ、と一蹴できよう注意の喚起を、ナフタリは自らの状態を覚り潔く床に横たわる。そして横になったまま傍らのソニアを見上げた。
「“癒しの乙女”……成程。兵達の大仰な称賛もあながち誇張が往き過ぎたものでは無いのだな」
 一人納得するナフタリに、ソニアは曖昧な表情を浮べた。ソニアとしてはその賛辞に拘る気も驕るつもりも無い上、大国の重鎮にして世界にその名を知らしめる十三賢人に言われた事に恐縮してしまったからだ。
 拍動が早くなる心臓は、興奮よりも寧ろ緊張によるものだとソニアは心底身を縮込ませていた。
「随分とこっ酷くやられたわね、ナフタリ。貴方もすっかり耄碌したようね」
「み、ミリア」
 背後から降ってきた辛辣なミリアの言に、ソニアは慌てて振り返り異種の妖精を諌める。だがナフタリは気を悪くするでも無しに、ただ苦笑いを浮べていた。
「……ミリア様。これは、情けない姿を曝してしまいましたな」
「別に、気にしてなくてよ」
 小さく肩を竦めるミリアを見てナフタリは笑みを潜め、憔悴の消えぬその相貌を引き締めた。
「……スルトマグナは?」
「戦っているわ……そうそう、そのスルトから色々文句を預かってるの。ええと、『仮にも“賢者”の身の上の方がその役割を安易に放棄しようなどと……責任を丸投げしての退場は、とても身勝手な事だと思います』」
「……」
「『貴方も最近内務ばかりで修練を怠っていたようですね。“賢者”たるもの、常に自らを高める意識を忘れてはなりません。でなければせっかく手懐けた『悟りの書』も寂しさで臍を曲げてしまうというものです』……だそうよ」
 臙脂の外套が風にはためかせながら、指を一つずつ立ててミリアは連ねていた。
 それら一字一句を厳粛に受け止めていたナフタリは、やがて深々と嘆息する。若干両肩が下がっていたのは、気落ちと言うよりは呆れの意味合いが強いだろう。
「あいつは、本当に容赦が無い……ですな」
「まあ、スルトだから……でも、そう言われる貴方にも非があっての事。何の事かは言わなくても解っているわよね?」
 念を押すミリアの指摘を自覚しているのか、面目ない、とナフタリは小さく頭を垂れる。
 何となく場の雰囲気が暗澹としてきたのを察し、それに囚われるのを良しとしなかったミリアは、小さく肩を竦めて踵を返した。
 再び欄干に身を寄せて王城に視線を移す。闇に佇む城の輪郭が逆光によって正確に浮き彫りにされつつある事から、その先に在るオアシスが光を発しているのだろうと容易に想像が出来る。
 大気に犇いている精霊達の啼きが、一瞬一瞬を経る度に恐々としていくのが否応無しに理解できた。
(嫌がっているのかしら?)
 不意にそう思い、ミリアは半身ほど身体を引いて横目でナフタリを見下ろした。
「私には良く判らないけど、儀式とやらは滞りなく始まったそうよ。“剣姫”…いえ、この場合“聖剣”を欠いている為に多少手間取っている様だけど」
「……そう、ですか。ですが、再び『死のオルゴール』を用いられれば」
 言いながら震える膝に喝を入れてナフタリはよろよろと立ち上がる。このままこの場所で話し込んでいるつもりが無い、との意思表示だろう。それでも足元が覚束ないナフタリを気遣って、半ば諦念からソニアも一緒に立ち上がった。身体を横から支えようとしていたのだが、それは意地によってなのかナフタリ自身に手で制されていた。
「それについてはもう封殺しているわ。これ以上、アレによる不死者の増加が起こる事は無い。ね、ソニア」
「え、ええ」
 促されて頷いたソニアは、柱の一つに備えられていた鐘楼を打ち鳴らす装置に歩み寄り手を添える。その行動を見てナフタリは怪訝に眉を寄せた。
「封殺?」
「スルトのあざといまでの周到さと秘密主義は、貴方も知っているでしょう? つまりはそういう事」
 人の悪い妖しい笑みを浮かべるミリアに、はっとしたナフタリは思考を早めて状況の整理を試みる。
 ミリアの言が正しいならば、スルトマグナは敵の聖都侵攻前より何らかの策を張り巡らせて居た事になる。事前に準備を進め、それも執政官であるナフタリにさえ全容を明かさずに、だ。
 与り知らないその事について少年に追求すれば、敵を騙すにはまず味方から、と小憎らしく返って来るに違いないと確信し、思わずナフタリは額に手を当てて嘆息交じりに零していた。
「まったく……可愛げのない子供だ」
「私もそう思うわ」
 朗らかにミリアはナフタリに同意し、件の少年が立つ戦場を見る。
 連なる建物の影から天を衝く勢いで氷の柱が幾つも生まれたのは、それと同時だった。








「くそっ! まさか、これ程とは……」
 夜を引き裂く烈風の如く駆け、聖都に連なる瓦礫の山を掻き分けながら屍王は呟いた。
 聖都を襲撃した配下の不死魔物達による猛攻は現在に至るまで未だ続いており、その結果。冥韻に囚われず抗っていた毅き人間…殆どの騎士兵士達は退却を繰り返し、こちらが決して手を出せない王城と神殿に既に撤退し、篭城の姿勢を見せている。数多の白き家屋は軒並み崩され、ただ不精な石礫の山となって宛ら墓標のように夜に聳えていた。
 ここに来て聖都はその首都としての都市機能を失ったと言わざるを得ないだろう。大局を見る限り、この戦況は人間側の敗北を意味している。
 だが、それは聖王国イシスの滅亡とは全く別の事だった。
 イシスの人心にとって拠り所の光であり、事実イシスの象徴とも言える“太陽ラーの化身”、その存在は未だ健在だ。人々の心に燈る太陽が未だ陥落してしない故に、一縷の望みを持って人々は退き下がっているのだった。
(盤面に狂いなど無かった筈が……くっ!)
 屍王は崩れ去った路地を駆け抜け、元々は王城まで続くメインストリートであった開けた場所に躍り出る。路の中央に辿り着くと、白砂犇く地面を強く踏み込んでは急転し、たった今自分が通ってきた路地に向けて腕を振り翳した。
「ヒャダルコ!!」
 疾駆しながらの綿密な魔法構築。瞬間の集中で紡いだ呪文を裂帛した声で吼える。その叫呼に遅れる事、刹那。突如として地面から幾つもの氷柱が空を穿つように昇り、壁…いや山のように聳えた。その氷山の高さは瓦解する前の家屋を優に越えるもので、屍王が全力で紡いだ中級氷刃魔法の顕現だった。
 夜の砂漠という気候風土と相俟って、氷山から零れる凄絶な冷気は周囲の空気を凍結させ、砂の白面に霜を容赦無く吹き付ける。それらは微かな夜光さえをも返して、星々の如く燦然と闇を貪った。
 だがそれ程までの規模で発現された氷山もまた、次の瞬間には甲高い衝突音と共に圧し広がる水蒸気となって虚空に消え去っていた。
 氷山跡から憤然と立ち昇る蒸気の煙幕を掻き分け、宙を奔る三匹の炎蛇が狙いすましたかのように屍王に迫り来る。だが屍王もそれらの到来を見越した上で氷刃魔法を放ったようで、既に対応策は築かれていた。
「バギマ!」
 呼び熾されたのは逆巻く激動の渦ではなく、その渦を解き、一本の線に圧縮された刃風。空気を引き裂く断層の筋は炎蛇の数に合わせて三刃、三度の剣閃が的確に蛇を捉え、消滅させた。
 真空魔法に合わせて腕を振り抜いた姿勢で硬直していた屍王は、呼吸を整えるようにゆっくりと腕を引き、体勢を正す。霊素のぶつかり合いによる乱流が大地に波及したのか、足の裏から微かに揺らぐ振動を感じていた。
「っ!」
 一つ深く息を吐いた直後に、ハッとした屍王は咄嗟に後方へと跳躍する。
 直後。屍王の直感を確かなものにするように、大地の鳴動が増大し地割れが生じた。それは獅子の鬣の如き朱光の輝きを地中から放射しつつ、奮迅の勢いで白砂の地面を二つに断裂させながら進む。そしてその猛りが極致に達した時、今まで屍王が立っていた場所を敢然とした咆哮が呑み込んだ。
(これは……中級爆裂魔法イオラの変容か!? 爆発に指向性を与えたというのか!)
 跳躍の最中、地面を見下ろしたまま思案を進める屍王。それが一連の攻防の中で、唯一の隙となった。
「メラミ」
 闇夜にその幼声が厳かに浸透する。己の僅かな油断に屍王は気付き身構えたが、時は既に遅し。
 空中で周囲を窺おうとしていた屍王の眼前に、夜を縫って飛来した等身大の炎鳥が既に肉薄していた。
「しまっ――!」
 炎鳥はその大きな嘴で正面から屍王を啄ばみ、咥え捕らえたまま空高く舞い上がっては、やがて遙か後方に聳えている瓦礫の山に勢いを強めて突っ込んだ。爆発のような激突音が夜にけたたましく響き、鳥の纏っていた炎は、瓦礫から突出していた木材などに燃え移り、徐々にその勢力を広げてはその山全容を炎に包み込むまでに到っていた。
「鬼ごっこは終わりですか? 不死者の王?」
 瞬く間に夜に咲いた紅蓮の大輪。
 メインストリートを威風堂々と歩いて現れた紅蓮の少年スルトマグナは、煌々と天を焼く炎の息吹に見据えたまま慇懃に口元を歪ませていた。



――時を少し遡る。
 ナフタリを退けた後に現れた少年参謀が放った炎蛇を砕き、屍王は戦慄を覚えていた。
(……油断は、無かった)
 魔法の光球を放った自らの掌を見つめながら、屍王は思い返す。
 印の効力で全身に力が充実し、その事に昂揚こそしていたが意識に隙を作ったつもりは無い。ましてや魔力の集約に手を抜いた覚えなどある筈も無い。弛緩し、撓んだ意識のままこの状態・・・・を保てる程、魂印の誓いは軽いものではないのだ。
 だが、ならばこの現実はどう受け止めればよいのだろうか。
 少年の放ったの一度のべギラマを相殺するのに、結局屍王はイオラを三回も唱えざるを得なかった。互いに用いた魔法の属性相性もあるのだろうが、一度の魔法に込められている魔力が尋常ではない。魔族体となり、“印”の特性で能力が底上げされているにも関わらず、完全に圧倒されてしまったのだ。
 忌々しき事だ、と屍王は少年魔導士を睨み据えながらそう思った。
 一度の衝突で互いの評価が下されたのか、警戒を顕にする屍王に対して、スルトマグナの調子は変わらなかった。
「……ふむ、ナフタリ様をいとも簡単に退けただけあって大した魔力ですね。僕も、気をつけなくては」
 心中に戒めを促しているのを髣髴させる言繰りだが、その声調は極めて冷静。そんな相反する様子から発せられる注意の喚起など、この上ない侮辱として屍王の聴覚に届いた。
 屍王は剣呑にスルトマグナを睨んだまま、恫喝とも思わせんばかりの声で低く唸る。
「小童が。この地に『魔法の鍵』がある限り、我は無限に力を増大できる事を知らぬわけではあるまい?」
「そうですね。確かに周囲から負陰のマナを際限なく集約できる事はとても厄介な事実。……ですが、どうにもできない、という訳ではありません」
「何?」
 仮面の下で眦を吊り上げた屍王に、スルトマグナはにこりと笑みを浮かべて屍王を指差す。
「何れにしても、次にそれを使った瞬間が貴方にとって終りの始りと言う事です」
「ふ、ふははは! いいだろう。若さ故の蛮勇の代価は、貴様の命で購って貰おう! さあ聞けっ、往古より連ねられし業を熾す甘美なる魂魄の律動を! 闇天の静寂に啼け『死のオルゴール』!!」
「イオ!」
 屍王が小箱を天高く掲げるのと、スルトマグナが上空に向けて爆裂魔法を放つのは同時だった。それは闇の虚空に強い光を轟かせながら爆ぜた。
 次の瞬間。意識を動かせば直ぐに忘れ去ってしまう程度に鐘楼の音が囁いたかと思うと、続いて不可視の波動が街全体に満ち広がった。
 聴覚からそれを認識した時には既に時は遅かった。今この時に聖都を蹂躙している不死魔物がその動きをピタリと止め、もがき苦しみ始めたのだ。胸の内側から圧し砕かれるような息苦しさは、不死者アンデッドの長でもある屍王も例外なく感じている。もっとも、彼の“不死”属性が専ら“印”に寄る所が大きい為に、誓を成していても意識を霞ませる程ではなかったが。
 だがそれでも、使役する者として今も城下に点在する配下の異変を敏感に察知して、屍王は動揺を顕にした。
「な、なんだこの韻律は? どうしたというのだ!?」
「目には目を。歯には歯を。そして音には音を……『天使の鈴』という物をご存知ですか?」
「『天使の鈴』?」
 スルトマグナの言葉をそのままに鸚鵡返す屍王には、その表情が仮面に隠れていようとも全身から滲み出ている動揺があった。それが今しがた起きた事象と絡み合って泰然としていた精神の振れ幅を大きくさせている。
「肉体や精神を構成している元素や霊素の流れを掻き乱すに外的干渉を、中和させ正常へと還す状態治療魔法キアリクを秘めた魔導器。本来は受動的に…まあ護符アミュレットのように用いる物なのですが、今回は逆に少々手を加えて、能動的に用いさせて頂きました」
 屍王の狼狽を手に取るように察しながら、だが敢えてそれには触れず、悠然と杖を肩に担いでスルトマグナは饒舌に続ける。
「今、この聖都にはとある場所・・・・・を基点として蜘蛛の巣の如く随所に『天使の鈴』を設置してあります。鈴と鈴の間には魔力によって糸で繋いでいますので、基点にて『天使の鈴』を起動させれば同時共鳴を起こして聖都全体にその韻律を轟かせます。これは、普くマナを正陽に揺らす波動を世界に拡げる……原理に少々差異はありますが、概ねシャルディンス先輩が繰る守護結界と等価の効力を示します。そしてその差異も、世界を満たす霊素に直接干渉を起こすか、音を媒介にしての間接干渉か、という程度です」
 まあ急造なので範囲も精度もたかが知れていますけどね、とスルトマグナは暢達に言った。対して屍王はただ仮面の下で唖然と目を見開くのみ。
「! まさか『死のオルゴール』の――」
「だからこそ貴方は、“夜”を用いてシャルディンス先輩とその結界を封じた」
 屍王の言葉を肯定で遮り、スルトマグナは担いでいた杖の切先を屍王へと向けた。
 杖の先端に座している深い青の宝玉の、その奥で小さな焔が蠢いたかと思うと、ぼんやりとした半透明の紅い光が宝玉を包み込み、焔のように揺らめいていた。
「貴方が基盤としている力の根源は、不死者と化したイシスの民。その存在の形式が有ろうが無かろうが、この“夜”の下に在ったと言う因果さえをも、何らかの方法で己が裡に取り込んでいる」
「……」
「不死者の組成は既に解析済みです。精神を引き剥がして再び肉体に戻す……その仮説を念頭に置いて思案を拡げた場合、それを引き起こせる術は限られてくる。物質側面マテリアルサイド非物質側面アストラルサイドの両側に同時に干渉作用を及ぼすのは、呪殺魔法系統ですね。両者を繋ぐ銀鎖を断つ効果を示す呪殺魔法ザキを変容させてイシス人特有の遺伝子面に働きかける……ああ、そうそう。イシス人特有というのは勿論根拠があっての事ですよ。気は進みませんでしたけど、遺体安置所にも通って詳しく検査しましたからね。結果は、イシス人ではない外来の者達は、須らくザキによる心身剥離によって亡くなられていました」
「……まさか」
「本当の意味で『死のオルゴール』に対する最良策は『復活の杖』を用いて昇天させる事なんですが、シャルディンス先輩には儀式を完遂する為にも『滅邪の剣』の分まで頑張っていただかないといけません。ですので最良を執るよりも、代替品として『天使の鈴』を持ち出す事で最善を尽くさせて頂きました。……滅してしまえば貴方の糧となるのであれば、行動不能に陥って頂くに限ります」
「こちらの手の内の全てを……読んでいたというのか?」
「とんでもない。僕には他人の心なんて読めませんよ。全ては散逸する諸事象より推察し、紡がれた結果に過ぎません」
 培った自信の、鍛えた精神の、そして築いた意志に生ずる撓みは魔力の揺らぎに通じる。それを誰よりも理解しているスルトマグナは、屍王の周囲からその綻びを察し決然と言った。
王手チェックです。さて、次の手はどうしますか?」
 嘲るでも無しに淡々と問う紅蓮の双眸には、闇を呑み込む燦然とした焔を揺るがなく燈っていた――。



 あの後。追い詰められた屍王が執った一手は、反攻だった。
 打ち拉がれていたのは数瞬で、即座に戦闘意志を立て直した屍王は無挙動で足元に爆裂魔法イオを放つ。爆風と共に立ち昇る砂塵の紗幕でスルトマグナの視界を塞ぎ、その生じた隙に屍王自身は闇に潜んだ。
 逃走したのかと一瞬スルトマグナは考えたが、その思考を直ぐに改める。何故なら夜に紛れながら、こちらの警戒の網目を縫って攻撃魔法を立て続けに仕掛けてきたのだから。
 屍王自身の基盤であった『死のオルゴール』による補完が封じられても完全に折れる事の無かった意志に、スルトマグナは素直に賞賛を心中で贈る。勝利を確信した者程脆い者は無い、とこれまでの経験上知っている故に、その賛辞は確かなものだった。
 そして同時に、屍王の折れぬ意志の後ろに何か別の思惑があるのではないかという懸念が脳裡を掠める。自分がもし仮に屍王と同じ立場で同じ手段を得ているのであれば、イシス陥落にこれ程までに時間を要する事は無い、とはっきり言い切れるからだ。
 何時の間にか戦局は大きく動き、その形態さえ変化させていた。
 その場に留まり、馬鹿正直に真正面から魔法をぶつけ合うのではなく、地形を考慮し、状況を見極め、狡猾に隙を窺い多様に局面が変化する戦い。当然戦場がこのような形に移行する事もスルトマグナにしては想定内の事だったが、些か形振りを構っていないようにも映る。
 自分も含め互いに繰り出している魔法によって、市街地の破壊状況は加速度的に進んでいる。『天使の鈴』による結界を破綻させようと目論もうが、それでも所詮は氷山の一角に過ぎない。破壊され尽くした街並みを見て、そこに住まう者達は大いに落胆し悲嘆に暮れるのだろうが、現状で戦闘を繰り広げる自分達には与り知らぬ事だ。
 無意味な破壊を拡げる屍王の狙いが何処にあるのか、スルトマグナには解らなかった。



「これで終わり、なんて事はないですよね?」
 所々に炎の砕片が燻っている瓦礫の山を正面に見据えながら、スルトマグナは鷹揚に言った。問い掛けるその様子はまるで、何を企んでいるんですか、と続きそうな程小憎らしく映る。
 スルトマグナの眼前に築かれた瓦礫の山上から、一破片の石が甲高い音を立てて転げ落ちてきた。山を構成する一つ一つ石礫が小さく蠢動している。
「全く……人間にしておくには惜しい逸材だな、“焔の申し子”!」
 雄叫びと共にその瓦礫の山が空高く吹き飛んだ。瓦礫の雨がスルトマグナを避けるように両脇に降り注ぐ中、屍王はゆっくりと現れる。その身体には輝ける暗紫の霊光を纏っていて、今までに溜め込んでいた魔力の解放に寄るものだった。
 連続して喰らった魔法の影響を微塵も見せず、呆れる様に虚空に毒吐く屍王。魔族にしてそう言わしめるのは対峙している少年魔導士に対して最大限の賞賛に他ならない。
 対してスルトマグナは、無傷である屍王の姿と、彼から迸る不可視の圧力の心地良さに笑った。
「やはり魔法は通っていませんか。流石に“堕天誓約カブナント”を完遂した魔族は他を凌駕していますね。全く以ってやり辛い」
「その割には随分と余裕そうだな」
 未だに余裕を崩さない少年に、屍王は声と表情を顰める。だが警戒は怠らず己の魔力を集約させていた。そしてある意味、その予感は当たっていたと言えよう。
「開扉はもうそろそろ。余り戦いを長引かせて聖都を壊滅させては元も子も無いですし、何よりシャルディンス先輩に怒られてしまいますので」
 質問に質問で返した屍王に向けて、スルトマグナが颯爽と掌を翳す。次の瞬間には、その掌前の虚空に眩い光の魔法紋字が陣を成して描かれていた。
「そろそろ終局といきましょうか。シャナク!」
「!? ぐ、あぁぁぁあぁああ!」
 その呪文が邪呪滅却魔法と認識したと同時に、屍王の全身を強烈な痛みが駆け抜ける。夜を劈く無数の光の流星群が屍王の全身を貫いていたのだ。余りの唐突さに防御の暇すら無かった屍王は、為す術なく正面からそれを受け絶叫を上げていた。
 全身から焦煙を立上らせながら、屍王はその場に蹲る。流星に直接撃たれた“印”である『死屍の鎧』は、まるで高熱の焔に焼かれた時のように身体中のあらゆる部位を黒焦げにさせ、鼻を衝く不快な焦臭を空気に拡げる。
 屍王が表情を歪めているのを何の感慨も無く見下ろしていたスルトマグナは、朗らかに言った。
「夜風は如何ですか? ……アスラフィル殿」
 蹲っている屍王…アスラフィルの足元には、真っ二つに割れた髑髏の仮面が無造作に転がっていた。




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