――――第五章
      第十九話 持たざる者







『……これが、剣舞終曲“魔鬼破斬”だ』
『す、すごい』
『……』
『驚いて、いるか? 私も、こんな身体でまだ使えるとは、思わなかった……うっ』
『師匠、その容態で無理をされるから……』
『構わん! まだ身体が動くうちに、この技をお前達に見せておきたかった。……これが最後かもしれんからな』
『師っ! お願いですから、そのような事は仰らないで下さい』
『……ふふ、二人ともそんな顔をするな。この病の事は、私が一番良く判っている。もう、悔いは無……いや、一つだけ残っていたな』
『師匠?』
『“剣聖”に敗れたままこの世を去るのは……少し、悔しい』
『“剣聖”ブラムバルド……かの勇者オルテガ殿の父君』
『彼奴の剣は殺戮の剣。オルテガ殿と質こそ異なるが、その剣は曇りなく何処までも怜悧に澄み切っておった。斬る事に、殺す事に何の迷いも苦しみも無いあの危うい輝きは……近付く事は憚れるが、しかしそれだけに魅せられ心惹かれる』
『師匠……』
『私には子供がおらぬから、お前たち二人は私の娘だといつも……思って、いた』
『……師』
『アズサよ……“剣姫”はお前だ。その名の重みに押し潰されぬよう、お前の思うままにその任を全うせよ。ティルトよ……アズサを支えてやれ。どんなときでも友であり味方であれ』
『……はい』
『お前たち故に、これから先も苦難が続くであろうが……挫けても心は折るな。自らの心に正しき路を進め』
『師匠……』
『……疲れた。少し……、休む』
『師っ!!』



 眠るように息を引き取った師匠の顔は安らかだった。裡に燻り、外に吐き出せないままの未練は人間ならば有って当然だっただろうに、それを感じさせないまでに清々しく充足した、穏やかな寝顔だった。
“剣姫”としてある者は、或いは聖剣の担い手とは自らを御する徹底した意志が必要なのだろうか。そう考えた時、自分には無理だと改めて確信を持つ。なぜなら、自分はどうしようもなく自分の感情のままに行動し、生きてきたのだから――。


(師……私の選択は、アズサにとって正しくないですよね?)
 まどろみの海を漂う意識で、ティルトは懐かしい景色を思い出していた。
 寄せては返す覚醒の漣に揺られていると、徐々に視界がぼんやりと開けてくる。
 建造されてどれだけの時を支え続けてきたのだろうか。堅牢に構えている天井は堕ちてきそうなまでの仄暗さを漂わせていて、ここに満ちて居る薄闇はその先にある“昏黒の領域”から滲み出ているのではないか、という愚にも着かぬ考えが浮かんだ。取るに足らない思惟に過ぎないが、闇に霞む天井を視界に留めたまま呆然と揺らぐ意識でふとそんな事を思う。
 当ても無く天井の岩と岩の隙間の迷宮に視線を彷徨わせ、漸くティルトは自分が冷たい床に仰向けに横臥している事に気がついた。
 手にしたままの愛槍は半ばから真っ二つに断たれ、穂先は玄室の壁に虚しく突き刺さっていた。胸の上に据えていた『死の首飾り』も無惨に斬られ、既に灰燼に帰している。銀の胸当ての防御を越えて到達した剣閃は、肢体を斜め十文字に切り裂き、その傷口の深さは即死に到るものではないが決して浅いものでも無く、確実に切先が肉を裂いて胸骨の上を滑ったのか血が防具の割れ目から滾々と溢れ出ているのが実感できた。
 失血と共にじわりじわりと這い寄る死の足音が、背中や耳の奥で聞こえてくるような気がしていた。だが反して精神が昂揚している所為か、肉体的な痛みは不思議と感じなかった。
 解読不能で複雑怪奇な円陣の中心に仰け反ったまま、ティルトは視線だけを動かす。すると倒れた自分の直ぐ横に立ち、今にも泣き出しそうな顔をしながら自分を覗き込んでいるアズサがいた。淡く涼やかな聖光を発する剣を携え、重力によって揺れる髪はとても艶やかな黒髪。唇を真一文字に引き締めて気丈を装っているが、だがそれも中途で歪んでしまっている為に弱弱しさしか見えてこない。
 アズサは爆発しそうな感情を、無理やり理性で押し留めている。そんな涙目の、苦虫でも噛み潰したような顔を見て、ティルトはぎこちなく笑った。
「……流石ですね、アズサ」
「ティルト、お主……はじめから」
 倒したティルトの姿と、剣を持つ自らの手を交互に見つめアズサは声を震わせる。言葉が続かないのは、思考が動擾する感情によって掻き乱されているからだろう。
 そんなアズサを見上げながらティルトは、何の事ですか、と一笑に伏そうとするも、全身に力が入らない為かその試みはただ小さく浅い吐息に止まり、静まり返った玄室に弱々しく響き渡る結果となる。それは聞き様によってはアズサの呟きに対しての肯定のようにも捉えられ、事実アズサはそのように受け取ってしまった。
 しっとりと濡れる眸を見開いているアズサを視界に映して、小さな意固地が裏目に出てしまった事をティルトは少し後悔した。そしてアズサの意識を逸らせようと、彼女が喰い付きそうな言葉を記憶から選ぶ。アズサの性格など、昔から良く知っている事だった。
「……まさか剣舞終曲まで体得しているとは、思いませんでしたよ」
「阿呆が。何を見ておった! あんなものただの見様見真似で、師匠に比べれば児戯にも等しい。おぬしもその眼で見たのならば、そんな戯言を口にするでないっ!」
「ふふ……」
 効果は……覿面だった。
 ティルトの思惑通りとは露知らず、アズサは憤りを露にする。
 自らを貶めているような言繰りであるが、それは彼女の本心がそうさせているのだろう。剣に関しては何処までも誠実に妥協無く取り組んできた為、嘗て見た師の至上の剣技が、未熟な己が真似ただけのそれに重ねられるのを厭うたのだ。アズサとはそういう人間だと言う事をティルトは熟知していた。
 だからこそその言葉を選んだのだが、期待以上の結果にティルトは内心で笑みを深めてから瞑目する。心の中は、森林の深奥にある湖のように穏やかな静謐に充たされていた。

 深々と降り積もる石埃と静寂。だがそれは完全な無音と言う訳ではなく、遠く微かな風韻がざわめきとなって空気にゆっくりと満ち往く、風の無い真夜中の砂漠を想起させる静けさだ。それはアズサにとって永遠とも思しき沈黙の時間で、佇んでいると自身の鼓動から心の裡が面に表出してしまうのではないかという錯覚を抱かずにはいられない。
 誰のものか判らない、整然とした拍動が玄室に満たされていく。その消え入りそうな泡沫の旋律を耳にしながら、己の思考を宥めたのか倒れているティルトはやがてゆっくりと息を吐いた。
「私は……貴女には期待していた。このイシスに巣食った忌まわしき古の慣習を払う新しき風として」
「じゃが、私は未だに何もできていない……だから幻滅したのじゃろう? おぬしを差し置いてこの座に立った私を……」
 ティルトの纏う雰囲気の変化に会話の流れも変わったのだと察したアズサは、同時に生じた悔しさに表情を歪ませる。そんな拗ねたように小さく唇を尖らせるアズサの姿に、ティルトは薄っすらと眼を開いて苦笑を漏らした。
「そんな訳無いですから、拗ねないで下さい。今は未だ……ままならない事はたくさん有るでしょうけど、それは時間をかけて研鑽すれば良いだけの事……私のように、性急さを求めては駄目です。特に、早とちりなきらいが強く直情径行で向う見ずな性質の、熱血電光石火な貴女はね」
「ティルト……」
 どんな時でも容赦の無いティルトのらしい・・・言動に、アズサはホッとして吐息を零す。そして漸くティルトの流血に気が向くだけ心が鎮静し、慌てて自身の衣服の袖口を破りティルトの傷口に当てた。
 今度は、アズサが差し伸ばした手をティルトは払う事は無かった。ティルトは動かずに、半ばほど瞼を伏せる。
「覚えておいて、下さい……最善を尽くす事が常に最良に到るわけでは無い事を……。最良を成す為には、時に悪さえ、必要となる事を」
「もうよい……これ以上喋るでない」
「お仲間には、悪い事をしました……ですが私にも、何に変えてもしなければならない事が、あった」
「……おぬし」
 アズサの静止を聞き入れず、訥々とティルトは続ける。閉ざされた瞼の裏で茫洋とする視線は、現実の岩の天井をすり抜けて虚構に広がる蒼穹の、自由の大空を見据えていた。
「騒がしくも慌しい……それでいて穏やかな日々が続くのなら、良かった。だけど、この地にはもう時間が無い事を私は知ってしまった。だから、私達は行動を起こした……いいえ、起こさなければいけなかった」
 うわ言の様に口々に零れ出てくる理由はやはり現実味に欠けていて、荒唐無稽に聞こえてならなかったアズサは、これ以上の失血を幅まんとティルトの胸元を圧迫しながら、ポツリと零す。
「ティルト……やはり私には解らぬ。おぬし、何を求めてこのような行動を? こんな……」
 ここでティルトは瞼を持ち上げて、つぶさにアズサを見つめる。暗青の双眸が玄室に備えられた燭台の光を淡く映した。
「……最初の『魔法の鍵』であるファラオの残骸をここで消滅させるのも、我々の目的にとって必要不可欠な事でした。ですが、ファラオは言わばイシス人に在りし“魔”の因子の根源。彼を祖とするイシス人に、彼を討つ事は決してできなかったでしょう。ですから、このイシスの血の柵に支配されない方が必要だったんです」
「ならばおぬしとて……」
「いいえ。たとえ“魔”の因子を包含していなくとも、私がイシスの血族である事に変わりはありません。寧ろ私の場合、血族でありながら“魔”の因子を持たない事が仇となって、相見える事すらできなかったでしょう」
 それでは意味が無い、と自嘲気味に口元を歪ませるティルトを見て、アズサは業を煮やして叫んだ。
「誰なんじゃ!? おぬしを煽動したのは!?」
「煽動とは人聞きが悪い……私達、守衛隊の者達は自らの意志で、須らくあの方の意志に賛同して従っただけ」
「だから、それは――」
 誰だ、とアズサが言葉を連ねようとした時。大地が大きく鳴動した。
 それは“幽玄の王墓ピラミッド”全体が瓦解してしまうかと思える程の大きな揺れで、直ぐに収まる。だが、足の裏から伝わる床の、いや地面の奥底で生物的な鼓動を打つ何かを感じた。
 錯覚にしては生々しい感触のそれを確信すると、ティルトの倒れ伏した床に刻まれている紋章がぼんやりと光を発し始めた。
「な、何じゃ……紋章がっ!?」
「……どうやら翼有る天輪が動き始めましたか。“扉”が開かれるのも時間の問題ですね」
 満足気に笑みを零し始めたティルト。そんな彼女をアズサは愕然とした面持ちで見つめた。
「“幽玄の王墓”は“死者の門”を閉ざす為に用意された最後の閂。この構造物の最下に在る、原初への流れを封鎖する蓋です。この王墓の地下も含めた聖都を囲う六つのオアシスの一つ一つは風車のようなもので、風車とは周囲の空気を巻き込み、収束加速しながら圧縮する。同じように六つのオアシスは周囲のマナを掻き集めて大きな一つの流れを造り、結び……やがて聖都の大オアシスへと向かう」
 失血による体力の消耗が激しい為か、憔悴した声色でティルトは言う。しかしそれでも口調も、そして語る時の眼の輝きもしっかりしていた。
「この砂漠に鏤められた七つの星が地を奔り、輝ける四光が天に奉げられし時、天柩は開かれる。この砂の地に彷徨える魂魄マナを一つ所に導き、原初の大河へと誘う。それこそが天臨の路……即ち“死者の門”」
「では、この“夜”は……?」
「“夜”は、在りしもの全てに宿りしマナを選り分け、負陰に染めし色域を抽出する篩。そして自然に世界に拡散し往くマナをそのままの色で封じ込める為に編まれた檻」
 意味深長な言葉の全てをアズサには理解できなかったが、それでも断片的な情報を繋ぎ合わせる事で、その内容の壮大さを窺える。自分達の切り札としている秘儀の名が度々挙げられた事と、それを促すような言い様にアズサはハッとして息を呑んだ。ティルトの言を信じるならば、イシスを窮地に追い遣った敵将の目的は――。
 眼を瞠るアズサを見上げながら、ティルトは冷やかに笑った。
「全てはあの方の意志のままに。この地の壊変を成就する為。この地を正陽の暴走による崩壊から、護る……為に」
「正陽の、暴走?」
「嘗てファラオによって穿たれた大地の傷跡……それはこの砂漠そのもの。私に言えるのは、これだけです」
 言い切るとティルトは困惑するアズサを他所に、眸と口を閉ざした。

 相変わらず地面の底からは脈動が響き、昂揚しているのか心なしに強まったように感じられる。それを確かなものにするように、床に転がる小さな石片がけたたましく敢然と周囲を転がり、静まった場に緊迫を広げていた。
 ティルトの傷口に当てた親衛隊の制服の切れ端は既に紅蓮に染まり、しっとりとした感触がアズサの手を包み込む。手に伝わる冷たさと、ティルトの顔色が血色を徐々に失いつつある事。そして貪るように空気を取り込む間隔も浅く、早くなってきている。
 そんな衰弱していく親友の姿を見る度にアズサはティルトをこの手で斬ったという事実が沸々と込み上げてきては重く圧し掛かり、悔悟の念を抱かずにはいられなかった。例えあの場で反撃しなければ自分が殺されていたであろう状況であっても、アズサはティルトとの戦いなど望んではいなかった。
 罪の意識によるものか、昏い表情を浮べるアズサの醸す沈痛で重たい空気を破ったのは、他ならぬティルトだった。
 悔恨の淵に落ち込んだアズサを横たわったまま見上げ、何時の間にか開いていた暗青は試すように真摯に問う。
「アズサ……イシスを、護りたいですか?」
「……当たり前じゃ。あそこは私の故郷じゃ」
「それならば、戻りなさい」
 予想通りの解にティルトは単調に言い連ねるも、アズサは駄々を捏ねる子供のように頭を左右に振って反駁していた。
「おぬしもじゃ……おぬしをこんなところに置いて行ける訳が無かろう。手当てもせねばならないし――」
「いいえ。私は戻りません」
 その意思は低く擦れ、搾り出すようにアズサの口から発せられる。だが重ね言われた決然とした拒否の言葉に、アズサは大きく緑灰の眼を見開いた。
「どうして!? 私との決着が望みだというなら、生きてそれを叶えよ!」
「それはたった今、叶いました。貴女の……勝ちです」
「じゃ、じゃが……そう。剣舞終曲! 魔鬼破斬を直接見ていたのは私とおぬしだけ。私一人の力では師の高みまで到るには心許無い故、あの技を完成させる為にはおぬしの助けが必要――」
「アズサ」
「っ!」
 必死に自分の意志を繋ぎ止めようとしているアズサの姿を見据えるティルトは酷く冷静だった。その双眸は瞳色が宿す気風と違わずに涼やかで、アズサが言葉を連ねようとするのを緩やかに断つ。
 息を呑み込んでアズサが身体を大きく戦慄かせるのをティルトは見逃さなかった。緑灰の双眸は潤み、唇は小刻みに震え、その相貌は徐々に蒼白になってきている。それは今にも泣き出してしまいそうな、対する者に微かな躊躇いを催す顔だった。だがティルトは、敢えてそれに呑まれずに続けた。
「聞いて下さい。既に縛は解き放たれた。消滅を恐れる本能のままに不死魔物は群を為して暴走するでしょう。狂奔はより大きな恐慌を生みつつ伝播し、周囲のマナを負陰の方角に大きく揺らす。そこにある『魔法の鍵』を強く刺激する事でしょう」
「な、に……!?」
「そして今、この砂漠の地で最も不死者が密集している地は……聖都です。あの方が『死のオルゴール』を手に既に攻め入っていますからね。ピラミッドに分散した戦力も既に集結を始めている筈です」
 ティルトが何を言わんとしているのか察したアズサは、血染めの布切れを握り締めて全身を強張らせる。その際に腕に力が入ってしまい強くティルトの傷口を圧迫したのだが、彼女は表情を変えずに無言で頷いた。
「私がここで不死者を使役できていたのは補完器である『死の首飾り』があってこそ。それが砕かれた今となっては、“魔”の因子を生来内包していない私には、彼らを御する事などできません。そして直接的な閂であったファラオは貴女達が滅し、彼の寄代であった『凶爪・黄金の鉤爪』も既にあの方が持ち出している。……既に全ての条件は充たされ、柵は無い。もうじき他を経由した流れはここに至り、やがて聖都へと向かうでしょう。そうなればこの場所も――」
 崩れ落ちます、とティルトは聞き逃せ無い忌忌しき事象を淡々と告げた。
 イシス戦争を取り巻いていたあらゆる因果がここで収束し、聖都に向かって放散されようとしている。ティルトが嘘と冗談を言わない性格なのはアズサが一番良く知っている為、語られた事紛れも無くこれから起こる事実になるのだろう。
 様々な想いで不定形だった意思が、一刻も早く聖都に戻らねば、という意志により固まろうとしていたアズサの心中を見抜いたのか、ティルトは緩慢な動きで自身の道具袋から小さな宝石をあしらった羽根を取り出し、強く祈るように胸に抱いて握り締める。
「それは……」
「出立前、参謀顧問より手渡された『キメラの羽』です。貴女は丁度“夢”の件で塞ぎ込んでいた為に受取りそびれていましたが、これを用いれば聖都に直接帰還できるでしょう。……ただし、“昏黒の領域”を越える為には私が用いて来た抜け道を経ねばならないので、私がこの魔導器を起動せねばなりません」
 ティルトが取り出した『キメラの羽』とは、その説明通りに聖都を出立する際、参謀顧問スルトマグナより全員に手渡されていた緊急退避用の魔導器だ。これは一般に広く流通している魔導器『キメラの翼』を、スルトマグナがイシスの陣式魔法操術を用いて改造し、迷宮脱出魔法リレミトを付加したものだ。羽の一枚一枚に複雑な紋字が細かく整然と書き並べられているのは、若き天才魔導士故の仕事だった。
 だが通常にこの玄室で用いても、上層にある霊素の亡失空間“昏黒の領域”に阻まれてしまい魔導器の効力さえ殺がれてしまう。魔法による脱出はこの場所に至っては不可能に近い。しかし、ティルトは“天臨の間”から“星胎の間”に続く抜け道を知っている。その記憶・・を辿ろうと言うのだろう。
 起動の予兆か、薄っすらと光を発し始めている魔導器を前にアズサはたじろいだ。
「ま、待て! これで全員脱出できるのか?」
「……この魔導器で転移できる人数は一人だけです」
「そんな! 私はおぬしを置いていくつもりは無い」
「では聖都を見捨てる、という事ですね」
「違う! 何かもっと別の方法がある筈――」
「甘えないで下さいっ!」
「っ!?」
 揺れ惑い煮え切らぬアズサは、ティルトの怒号にビクリと身体を震わせる。眉を寄せて眦を吊り上げ、ティルトは逼迫の表情でアズサに発する。
「そんなに都合良く選択肢は落ちてはいません。常に最良が選べる訳ではなく、常に最善を尽くせる訳ではない。その無慈悲なまでの不確定さこそが世界の中に在る人の領域せかい。そこを生きる為には、常に蕩揺う限られた路の中から自らの心で選んだ唯一を納得して進むしかない。それを為す原動力こそ、人が持つ輝ける力への意志」
 烈々とした感情の火を燈していたティルトの双眸はやがて鎮静し、達観した茫洋たる眼差しで遠くを見つめた。
「……人には、いつか必ず路を選択しなければならない時がある。それが善き路であれ、悪しき路であれ。……例えその果てに大切な何かを犠牲にしようとも、己が力への意志に殉じる為には。だから私は、あなたと敵対する事を選んだ」
「ティルト、そんな事を言うでないっ!」
「あなたは砂漠の双姫“剣姫”でしょう? 自らの意志でその路を突き進む事を選んだあなたが、そんなに迷った顔をしてどうするのです。あなたを推した師と、並び立つ姉上、あなたの帰りを待つ皆の期待を裏切らないで下さい」
「わたしは……、私はっ」
「しっかりしなさい、アズサ=レティーナ。“剣姫”とは、太陽が進むべき路を切り拓き闇を掃う始まりに歩む者……あなたはただ前を見据えているだけで良い。その方が猪突猛進で無鉄砲で、でも直向な努力家であるあなたらしいです」
 下唇を噛み締め、言い澱んでいるアズサにティルトは儚く微笑みを浮かべる。それは何かに惑える妹の背を押すたおやかな姉の微笑。きっとそんな事を想うのももう赦されないであろうと、自嘲を僅かに孕ませティルトは告げた。
「私は国賊。あなたは“剣姫”。既に道は別け断たれ、その結果が……これでいいんです」
 羽に装飾された青い秘石が燦然と発光する。それは魔導器が起動した時に発せられる兆し。石から発せられる青い光によって部屋全体が蒼茫に染まっていく。それに感化した訳ではないが、ティルトが次に紡ごうとする言葉を予感を察してアズサの顔からは血の気が引いていた。
 そしてそれは、確信の下に告げられた。
「さよなら……アズサ」
「ティ――」
 言葉と共にティルトは羽をアズサに押し付ける。
 爆発的に肥大した眩いばかりの蒼い光に圧されてアズサの意識は肉体から乖離する錯覚に堕ち、やがて視界は白転する。音も感覚も消え、最後に自分が発した声も、燦然とした光輝の中に呑み込まれて行った。



「……天で燃え盛る太陽に弓を引き、放たれた矢の結末は志半ばに力を亡くして堕するか、太陽に触れた瞬間に燃え尽きるか。……そう、これは初めから判り切っていた結末」
 一段と強くなった地鳴りの中で、ティルトは微かに砂粒が流れ落ちてきた天井を仰ぎながら満足げに笑った。
(アズサ……この地に浮かんだ悪意は私達が……。だから、あなたは善き路を)








 大きく開いた両腕を引き戻しながら両の掌で二つの小刀を器用に回して逆手に持ち、胸の前で斜め十字に構える。そして両の掌を合わせ、閉演だと言わんばかりに深々とミコトは腰を折った。
 礼に始まり、礼に終わる。ミコトの中にある最も根源的な戒めであり、それは紛れも無くこれまでの麗雅な演武の終了を意味する。躍動の喧騒が去った部屋に残されたのは、ただ無為に部屋の中心で沈黙を護ったまま座している石の柩だけだった。
“天臨の間”に犇いていた数十体の魔物全てを打ち滅ぼしたミコトは、だが満身創痍といった状態だった。
 両側で結われていた黒髪もいつのまにか解け、豊かにその背に流れていた。衣服も所々が裂け、その内で薄っすらと血が白い肌に滲んでいる。それらは闘氣が活性化している時の、苛烈な戦闘中に躱し損ねて負った軽症に過ぎず、どれもが大事に到る外傷では無かった。ここにおいてミコトをこれ程までに消耗させたのは、偏に切り札としている二振りの護神刀“天照”と“月読”を同時に使用した反動の為だ。
 艶かしい白銀の刃は使用時に自らの体力と闘氣を著しく消耗する。未だ飼い慣らしきれていないミコトには、最早立っているのが精一杯だった。だがそれは逆にミコトが成長したという証でもある。以前まだ未熟な身のまま用いた時など、反動で意識を二日程失う事態に陥ってしまったのだから。
 疲弊しきったミコトは刃を鞘にそれぞれ納め、懐に忍ばせる。そして両膝に手を着いて重くなった身体を支え、大きく何度も空気を貪っていた。
 その時。突如として建物全体が大きく揺れ動いた。
「な、何だ?」
 今にも壁が崩れ落ちてきそうな激震の中。立っている事さえままならなくなったミコトは溜まらずに床に跪き、何事かと周囲を見回す。するとこれまで沈黙を保っていた部屋の中央に座す柩がゆっくりと持ち上がるのを見止めた。それは明らかに人為的で、常識を超えた何らかの作用によるものだろう。
 柩の中から出だしていたのは鮮烈な光。内より外へ圧倒的な波濤として流出する光の紗幕。その逆光の中に、ぼんやりと影が揺らぎ、やがて人型として浮かび上がってきた。
「貴女は……?」
『私は……父をこの手にかけた、罪深き女です』
 警戒からか恐る恐る誰何するミコトに、現れた女の幻影は悲哀に小さくはにかんだ。
「え……」
 光に霞んでいる為はっきり姿を捉える事は叶わないが、その雰囲気も容姿も、先日見えたイシス王女フィレスティナに良く似ていた。いや、フィレスティナにそのまま数年の歳月を重ねたように瓜二つと言った方が正しい。
 発した言葉の方に眉を顰めたミコトに向けて、幻像の女性が穏やかに告げた。
『私の残留意識が再び目覚めたと言う事は、どうやら彼女らは意を決して頂けたようですね……』
 ミコトの背後で、揺れ動く地面に倒れ伏した者達を一望しながら、女性は言う。その韻は哀しみに満ちており、事実彼女は涙を流さずに泣いていた。
「あ、貴女は何を言っているんだ? 彼女ら? 何を決する?」
 悲嘆に微笑む女性を見ているのが居た堪れなくなったミコトは、思わず目線を背ける。それでも問う事を止めないのはある意味ミコトらしい行動だっただろう。
 狼狽するミコトを見つめたまま、光の中の女は旧知の誰かを懐かしむように笑みを深める。すると何故か、今もピラミッドを揺らがせる震動が緩やかになった気がした。
『この地に縛られていた我が子孫達の魂も、貴女の力で祓われたようですね。……話しましょう。この聖王国イシスという国の事を』



 光の中で、女は語った。
 聖王国イシスという国は、南大陸最北端の大砂漠地帯を流れる大河の辺にその起源があると云われている。それがイシスという国の歴史。イシスの起源に纏わる普遍理解だ。
 だが、幻像の女が語った真実の世界は、世に広く語られるものとは似ても似つかぬ、全く別の国の歴史のようだった。
 本来、この南大陸北部地方に砂漠など存在しない。往古よりここを占めていたのは世界樹が君臨する“神護の森”に次ぐ大森林地帯だった。だが肥沃で命の温床であった大森林はある瞬間・・・・を以って、常識を逸脱した風化速度でその全てを渇きと餓えに満ちた死の砂漠に変わってしまったのだ。
 結論から言えばその元凶とは、“ラーの化身”と呼ばれた初代ファラオの所業。だが彼は、自ら破壊を齎さんとして砂漠を広げた訳ではない。彼は、決然とした希望を抱いていたが故に、この地を砂漠に変えてしまったのだった。

―――当時、イシスだけでなく世界規模で忌々しき異変が起きていた。
 何が原因かは定かでは無いが、マナの存在分布法則の崩壊によって次元に歪が生じ、大地ごと世界から切り取られるという局地的な消失現象……黒霧・・による不可侵領域の侵蝕が世界各地に影を落としていた。
 また同時にマナの歪みは環境を歪ませ、普遍生命を異形へと転化させる。その当時もまた、世界は現在で魔物と呼ばれる存在と同義の脅威に曝されていた。
 大森林に住まう幾つかの部族を併合し、一つの大きな共同体として新たな歩みを先導していた後の光輪王ファラオ…若き日のラーウケプリは、森に蔓延る異形達を徹底的に駆逐し、自らの生活圏を着実に拡げ、やがて大森林地帯全てを統治するに到っていた。
 霧に蝕まれる世界の中で、イシスと名付けられた国家は拙いながらも組織の基盤を築き歩み始める。そして国家運営が漸く軌道に乗り始めた時にそれ・・は起きた。
 イシス王国の領土である大森林の一部が、黒霧に呑み込まれて世界から隔絶されてしまったのだ。
 その場所はイシスにおいて交易の重要拠点であった為、事象の調査と解決にイシスは直ぐに臨んだが、目ぼしい成果は何一つ挙げる事ができなかった。何故なら黒霧に覆われたその領域は通常の物理的接触はおろか、魔法や特殊技能といった外部からのあらゆる干渉を拒んでは一切受け付けず、それでいて周囲のマナを貪るように吸収し急速に肥大していたのだから。
 豊かな森林地帯であった場所が、瞬く間に荒野に変貌する凄惨なる様子は世界を震撼させたという。
 異常事態の打開を模索して王は頭を悩ますも、“魔呪大帝スペルエンペラー”や“聖芒天使アースゴッデス”が在るダーマやランシールは沈黙を保ったまま不動の姿勢を崩さない。これまで被害にあった世界の国々も、何一つ抗う事が出来ず匙を投げるのが精一杯の行動だった。
 だが、その暗澹も長くは続かなかった。
 絶望色が世界を呑み込まんとしていた時。とある旅人の一行がイシスを訪れ、世界がその解決に白旗を挙げてさえいた現象を打ち払い、正常にへと還したのだ。
 それは前代未聞で、これまで誰一人として成し遂げる事のできなかった快挙…いや、偉業だった。
 イシス王国は突如として現れた救世の存在に沸き立ち、王自ら彼らを“救い主”と称して頭を垂れる。そしていつしか若き王と彼らの間には友情が芽生え、霧からの世界還元の旅を続ける彼らの背を王は誇らしげに見送ったという。いつか必ず再会を果たすという約束を胸に。

 それから数年が流れた。
“救い主”達の活躍によって世界は次々と霧から解放され、本来在るべき容へと戻りつつある。だが黒霧が残した世界の傷痕は容易に癒えず、爪跡の深さをまざまざと世界に遺していた。
 正陽負陰の調和崩壊による不安定さは植物を、動物を、そして人間達の生活さえ脅かしていた。
 イシスの人々はその不安定さの中に安定さを求め、国家樹立以前よりこの地にあった超古代文明期の遺跡に安置されていた遺産を用いて、自らの血潮に精製したマナの結晶体を取り入れる事を決定した。それによって自らを不安定化させ、不安定なる世界に順応し歪による崩壊を回避しようとしたのだ。
 だが森の遺跡と遺産に手を出す事はこの地に暮らす人々にとって禁忌と伝えられてきた呪。王は民にその必要性を説く為に率先してそれを行い、己の命を賭して認めさせる。
 事実それは功を奏し、人々の生活に穏やかな日々が戻った。だが、それは世界から見て一端の成功例に過ぎず、ましてや世界に提示された問題の根本的解決にはなっていない。
 その事に気付いたのは、さらに十数年後。霧が再びイシスに襲い掛かり、大森林全土を覆わんとしてきた時だ。
 世界に押し寄せる黒霧が何なのか予め研究を重ねていた王は、見出していた一つの可能性に賭けた。それは森の遺跡そのものを起動させる事だった。遺跡は世界の深域に在るマナの流脈レイラインの集積点である霊穴レイポイント上に築かれており、遺跡を為す施設の数々はその増幅装置の役割を成す代物だ。
 王が望んだのは、遺跡を起動させて黒霧そのものをマナの流脈の彼方に還元させてしまおうと考えたのだ。

 しかし、それは叶わなかった。遺跡を起動させる為の資格を得んとして、王は『凶爪・黄金の鉤爪』による“堕天誓約カブナント”を試みるも拒まれてしまう。その事を受け止められず、また易々と諦める訳にはいかなかった王は更なる力を求めて嘗て用いた禁忌を再び犯し、“昂魔の魂印マナスティス”に真向かう。
 だが分を弁えない愚行に激怒した“印”は、その咎として王が多重に取り入れたマナの結晶を暴走させ、人の形を喪わせた。そして肉体の変容によってその精神も崩壊してしまい、不完全な魔族に変えてしまったのだ。
 狂奔し破壊を望む魔の者としての意識と、この地を護らんとする指導者としての意志が王の中で葛藤する。そして僅かに勝った王としての意志が、遺跡を半ば無理矢理に起動させ、結果として黒霧をレイラインの彼方に押し流す事に成功した。……だがその代償は余りにも大きく、嘗ての大森林は見る影も無い砂漠へと変貌してしまった。
 己の起こした行動の結果に耐え切れなかった王は、慨嘆のままに最後の自我をも無くし、獣となって護ろうとしていた人々に牙を向ける。
 そんな折に、再会の約束を果たす為に再訪した旅人の一行は、決起した王の娘と共に深い悲しみを胸に王と戦い、これを討つ。
 王の御霊を鎮める為に“幽玄の王墓”を建立し、彼の亡骸と共に霊穴に蓋をした。そしてイシスの人々にとって確かに善き王であった彼の名誉を護る為に、ラーという穢れなき御簾で人々の意識を覆った―――。



『父王の中に在ったのは、ただ民を救いたいという高貴なる願い。そして“救い主”達と共に在りたいという儚い想いです。それは陽であり、正であり、紛れもなく光の意志に相違ありません』
 語り終えた女は、小さく嘆息する。それは久遠の父を想ってのものだろうか。
 ミコトは年月と意志の重みに言葉を発せず、ただ黙して聞き入っているだけだ。
『私は、持たざる者……可笑しな話ですよね。イシスに広まった“魔”の因子の根源たる父の実子である私が、“魔”の因子を持たずに産まれたのですから』
「……」
『ですが、因子を持たないからこそ変容し続けるイシスの民に対して楔となれる。その意志の下にあの方達と共に、腕輪と衣を纏い、剣と杖を携え、父と戦う路を選んだ。その結果父の命を奪う事になるのだとしても、私は父を止めたかった』
「あ、あの……」
 何かを継ごうとして、だが様々な思いが思考や胸中を目まぐるしく駆け回っている所為か、碌な言葉が浮かんで来ずに言い澱んでいるミコトを見つめたまま、女は日溜りの輝かしさで微笑んだ。
『ありがとう、私の守護者イザナミ。そしてありがとう……バルマフウラ』
「え?」
「……」
「ヒイロ?」
 自分の事を誰かと間違えているのかと怪訝に思う以上に意識を引いたのは、後に呼ばれた名の方だ。その姓を呼ぶ声と女の目線を辿り、ここでミコトは初めて自分の背後に斃れた筈の仲間のヒイロが立ち尽くしている事に気が付いた。
 だが、呪殺魔法で死に至らしめられた筈の彼が何の前触れも無く、平然と立っている事に驚きを隠せない。あの時、脈と呼吸が停止している事を確認したのは他ならぬ自分だったのだから。そしてそのヒイロにしても様子が妙だとミコトは思う。ヒイロは平時の穏健さなど微塵も載せず無感情に、だが険しく眉を寄せて琥珀の視線で鋭く幻影の女性を見上げている。棺からの光が強すぎてはっきりと判別できないが、寒気のする霊光がひっそりとヒイロを包み込んでいるようで、それが白銀の前髪を持ち上げては下に刻まれた光の筋を浮き彫りにする。光に霞む中で、潰えそうに光の筋が描いていたのは……三日月のようであった。
 ヒイロの烈々とした視線に反して光の中の女性は、ヒイロに憧憬にも似た視線を送りながら綴る。
たいようを斃し、導を見失い迷える私達の意識に、貴方の象徴とも言える赤碌ルベドの輝きを示してくれて』
「……違う。私は、赤碌ではない」
 その呟きは、彼自身の口腔で発せられたもので、側に立つミコトにさえ聞き取る事はできなかった。
に伝えて下さい。貴方達は、父や私だけでなくこの砂漠と世界に“秩序”を齎してくれた“救い主”。この砂漠が未来永劫続く限り、私の魂魄マナはその感謝の記憶を砂塵に遺し、風と共に世界に囁き続けると』
 表情を失くしているヒイロを見つめたまま、だがそこに別の誰かを浮べて居るのだろうか。女はヒイロに祈りを奉げる様に両手を組み、眼を伏せた。
『願わくば、貴方達の旅路が、貴方達の魂魄に安らかなる事を……』
 ゆるりと微笑んで、女の幻影は宙に融ける。それと共に棺の内側から昇っていた光の紗幕も消え失せて、ただ年月を感じさせるミイラが複雑な紋様が敷き詰められた寝台に、安らかに横たわっているだけだ。
「……何だったんだ、今のは?」
 今のは夢か、幻だったのかと思わずにはいられないミコトは、どうしたものかと傍に立つヒイロを呆然と見上げた。ヒイロは女の消えた虚空に、憎悪にも似た意思を載せて射抜くような視線を向けたままで、ミコトの視線に気付いている様子は無い。
 普段の彼からは違いすぎる印象と、一連の常識を超えた事象にミコトは混乱を覚えずにはいられなかった。

 沈黙と共に波及する不可思議な幻夢の余韻を打ち払うように、足元の遙か下で何かが崩れる震動が感じられた。それは瞬く間にこの階層にまで波及し、床に蜘蛛の巣の如き亀裂を走らせる。
 その事に、漸く自分達の状況に気が付いたミコトは厭な予感を感じ取る。
「ここは危険だ。脱出するぞ! ヒイロ!」
「…………私は、バルマフウラ=フエーゴではない」
 ミコトの叫びが届いていないのか、ヒイロはそれに反応する素振りさえ見せない。
 ヒイロはただ徐に、今度はその呟きを声に発する。だがそれも先程からの部屋の激動によって掻き消されてしまっていた。
「おい、どうし……っ!?」
「私は――」
 状況をまるで察していないヒイロの異常な様子に、怪訝にミコトが返した瞬間。
 天井や壁が一斉に崩れ落ちて、部屋の内に在る者達目掛けて瓦礫の雨が燦々と降り頻った。








 一向に止まぬ激震が続き、歪み開いた天井の隙間から上層の砂が雪崩れ込んで来ている。雨水のように滔々と零れる滑らか流れに混じり、拳大もある岩礫が落ちて来ていた。
 宙を滑り地面に触れて砕ける敢音は、それは刻まれる崩壊への秒読みで、自らが望んだ結末への一歩である。
 魔方陣を構成する大円の中心に当たる場所で、仰向けに倒れ臥していたティルトは、背に配されている紋様の輝きが強くなっているのを感じていた。それはとても暖かくて、心地良くて、どうしようもない睡魔を誘う。
 その誘惑に引き込まれそうになる意識で、ぼんやりと先程から続いている地鳴りに堕ちてきそうな天井を虚ろに見つめていると、ふと何者かの気配を察して顔だけをそちらに向ける。そして眼を見開いた。
「……ユリウス、殿?」
 霞み始めた視界でその人物を認識すると、重くなった両手でティルトは切り裂かれた衣服を胸の前に手繰り寄せる。そんな彼女らしくない、妙に慌てた様子を無表情で見下ろしていたユリウスは口を開いた。
「……何をしている」
「私だって、女です。こんなあられもない姿、殿方に見つめられては……恥かしいです」
 ティルトの反応は死に瀕している自身の状況からかけ離れた、ユリウスにとって見れば甚だ理解し難い言動で、思わず疲れたように嘆息した。
「ユリウス殿には、感謝しなければなりませんね」
「何の事だ?」
 地面から昇る逆光の中。満たされた表情で天井を見つめながらティルトは言う。その唐突な謝礼に、ユリウスは怪訝に眼を細めた。これまでの自らの行動を省みても、ティルトに礼を述べられる理由など皆目検討も付かなかったからだ。
 困惑というには余りに情感が乏しいが、ユリウスの微かな表情の変化を汲み取って、ティルトは苦笑を漏らした。
「……アズサとの戦いに、手を出さないで頂けて」
 ティルトは弱弱しく持ち上げた右の掌に視線を映したまま、握っては開き、開いては握っている。感覚は既に薄くなってきているが聖銀をぶつけ合って生じた痺れとあの熱は、確かにこの身体の奥に残っていた。
 感慨に浸るティルトを無情の眸で見下ろしながら、ユリウスは嘆息混じりに呟いた。
「生憎と俺は自分に敵意や殺意を向けられなければ斬らない」
 小さく肩を竦め、酷く無関心を装うユリウス。一見してそれはとても冷酷なように映りさえするも、そこに無闇やたらと他者の領域に干渉する事の無い潔さを一方的ながら見出して、ティルトは好感に口元で孤月を描いた。
「……どうにもアズサは、心許せる者が周囲にいると無意識に許容してしまう性質なんです。それは人としては美徳ですが、アズサ自身の深い部分にある本質を思えば……少し残酷過ぎます。だからこそ他に流れない、揺らがないつよい意志を持って欲しかった」
「それ故に敢えて背反したと言う事か。……あの女は、あんたにとって命を賭する程の存在なのか?」
 他人事に関して非常に無関心なユリウスが、淡々としてではあるが珍しく尋ねていた。
 それを受けたティルトは僅かに眼を瞠らせてユリウスを捉え、やがて瞑目して自らの心と正対する。問への解を模索する過程は、過去の回想より齎される温かなものだった。
「そうですね……強いて言うならば光。……いいえ、無慈悲に射すだけの冷酷な光ではなく、温かさと優しさを併せ持った……そう。アズサは、私にとって太陽そのものでした」
 声もその雰囲気も、とても和やかな色彩を放ちながらティルトは綴る。
 それに感化された訳ではないが、ユリウスの脳裡で一瞬だけあの二人の姿が横切った。だが即座にその姿は、軌跡さえも黒く塗り潰された。恐らく思考ではない無意識が反射的にそうしたのだろう。遅れて意識がそうしなければならなかったからだ、と理由を後付ける。
 そんな懐裡の動きなどおくびにも出さず、ユリウスは素っ気無く言った。
「そうか。愚問だったな」
 謝罪に小さく頭を動かしたユリウスに、ティルトはいいえ、と口腔で返していた。

 暫く無言で見つめ合っていた二人は、崩壊していく王墓の悲鳴を何処か遠くの風韻のように聞いていた。だがそれは永遠のような刹那。時間は常に進み、翻り返る事は無い。
 床一面に刻まれた魔方陣の紋様が燦然とした輝きを増している。それに伴い、王墓全体に伝わる壊滅の音色が徐々に、確実に強くなっていた。
 玄室を煌々と昇り始めた燐光は、床石の繋ぎ目を伝って流れるティルトの血潮を絡み取って、薄紅の花弁となって宙に舞っている。その中心で静かに横臥しているティルトは、まるで火と花に包まれて荘厳に葬られ往くようにさえ映っていた。
 そんな幻想的な光景の中。だがユリウスは感慨無く、ただティルトを真っ直ぐに見下ろしていた。
「……ユリウス殿。貴方に……問いたい事が、あります」
「何だ?」
「持たざる者が、持つ者になる為には……何が必要だったのでしょうか?」
 消耗が大きくなってきたのか、息も絶え絶えにティルトは徐に言った。横臥したまま発せられた問いは、今のティルトの心象そのものの顕れなのか、迷いからの脱却を求めて何かに縋りつく弱々しさを強調している。
 心身の憔悴から己を律していた意志に亀裂が走ってしまったのか、微かな涙声が硬質な室内を駆け回った。
「持たざる者が持つ者になる為には……何かを得ようとするのではなく、今在る全てを捨てなければならない……それが、貴方の答え。……結局、私にはできませんでした」
「…………」
「イシスを捨て、旅の風に身を委ねる事もできたのに私はこの路を選びました。……私には敵が多かった。だけど少なからず味方も確かに存在していました……父、姉、そしてアズサ。私は、彼女達との絆を、断つ事が……手放す事ができませんでした」
 本人が自覚しているかどうかユリウスには知る由も無いが、ティルトは今、歳相応の不安定な情緒に揺れる相貌だった。目尻に溜まった涙は徐々に量を増やして光を遮り、見失ったそれを求めて彷徨っているようだった。
 独白が続く中で、ティルトの声色は徐々に抑揚を大きくしていき、感情の色が強く滲み出る。
「ユリウス殿、教えて下さい。もしも、私が私だけの答えを見出していたら……違った結末になったのでしょうか?」
 それらの言葉を一字一句余さず受け止めたユリウスは、静かに瞑目し淡々と言った。
「……もしも・・・など、この世界に存在しない現実と同じだ。考えるだけ無意味……いや、虚しいだけだ」
「!」
 返されたのは無情の意思。それは冷たい冬の雷鳴の如く、鮮やかに荒れる感情の海に突き刺さる。冷厳なそれに強かに打ち据えられたティルトは目を見開いた。
 人間味や感情といった不透明さからとても遠く感じられる言葉は、この上なく現実的で明瞭な音の羅列に聞こえる。そして先刻、他ならぬアズサに向けて放った自らの言葉を思い返し、その皮肉に思わず可笑しさが込み上げてきた。
 一体自分はどんな言葉を期待していたのか。自分の感情の在処が解らなくなっていたティルトの視界には、浮かび溜まっていた涙が臨界を超え、零れるや否やのところで踏み留まっていた。
 それを見て見ぬ振りをして、挑発的にティルトはユリウスに投げ掛ける。
「貴方らしい言い方ですね……こういう時は嘘でも肯定すべきなのでは?」
「虚言に価値など在りはしない。それに以前、言った筈だ。俺の答えは俺だけのもの。あんたが求めていた答えに非ず」
「そう、ですね……私は貴方という目の前に現れた答えの容に安易に縋っただけ。貴方と同じ様に、どんな事にでも揺らがない強さが欲しかった……貴方の様に、なりたかった」
 深く息を吐くように胸中を吐露するティルトの双眸からは、遂に涙が零れ、頬を伝いやがて床に滴り落ちる。赤くなった眸を悲しげに半ばほど伏せたティルトを見下ろしたまま、ユリウスは嘆息混じりに言った。
「……あんたは何処まで行こうともあんたのままだ。俺と同じになる事などできはしない。周囲が何を言おうが、何を願おうが……人は所詮、どう足掻こうがその人でしかない。人が他の誰かになれる事など……ない」
「ユリウス殿……」
 落涙に牽かれて静かに瞼を閉じようとしていたティルトは、徐々に口早になるユリウスの言葉に再び眼を見開き、その顔を捉える。だがそれは徹底して否定された事に愕然としているのではなく、ユリウスの発する韻にこれまでとは異なり何らかの情思の影がちらついたからだ。
 ユリウスは普段の無表情から比べると本当に微かに顔を顰め、剣呑にティルトを見下ろしていた。
 その顔を見た瞬間、ティルトの思考は急に燈明が点いたように鮮明になる。そして“イシスの魔導の大家シャルディンスの血族”、“アリアハンの勇者オルテガの息子”といった言葉が次々と浮かんだ。
 思えば、あの砂漠で初めてこの人を見かけた時に感じたもの…それはきっと閃きにも似た直感で解る事。その人間が自分と同じ傷みを知る者であるか否か。恋慕でも、友愛でも敬愛でもない。方向性は違えど、親友であるアズサに対して抱いていたものと同じ、共感という寄り添う意識の動き。
 こうしてユリウスと対峙している時に感じる心の充足の正体が解り、ティルトは嬉しさと、そして小さな切なさに薄く笑った。
「ふふ、貴方は本当に冷たい方……でも、ありがとうございます。私は全力で、自分の意志を貫けました。今、強くそう思います」
「……そうか」
 そう言ってユリウスは口を閉ざした。
 胸中で澱んでいた想いを吐き出して晴れやかな気分になったティルトは、未だ憮然とした様に見えるユリウスに向けてはにかもうとした時。身体を大きく揺らして激しく咳き込んだ。耳に障る乾擦音を何度も室内に響かせ、夥しい量の鮮血でその口元と肢体を染める。
 そしてティルトは自らに残された時間が尽き掛けているのを今更ながらにまざまざと理解した。
 理解と同時に込み上げてくる忘れていた激痛にティルトは苦悶のまま端正な顔を歪ませ、徐々に顔面を蒼白にさせる。
 その様子を黙して見ていたユリウスはティルトの側に膝を着き、眉一つ動かさずにティルトの口元で艶かしく垂れる血を指で拭い去った。
「俺からも問う。あんたは敵としてこの場に立ち、“剣姫”に対峙した。つまり、この結果を予定調和としてか?」
 ユリウスの問いに、小さく眼を見開いたティルトは弱弱しく首肯する。
「私は……これより開かれる“扉”に、負陰の性質を与え……以後、上書きされぬよう封鎖する為に、配された。嘗て、ファラオの娘が“天臨の間”でそうしたように……だから、この結末は……必要な、事。これからも続く……未来の為、に」
 訥々と語るティルトの抑揚は乱れ、呼吸は疎らだった。身体は細動し、眸から力の輝きが徐々に亡失し始めている。
 人が死の影に蝕まれ往く瞬間を見据えたまま、そうか、と小さく呟き、ユリウスはブーツに忍ばせていた新たな聖なるナイフを抜き払った。
「止めは、必要か? 今ならばこれ以上苦しまぬ内に殺してやる」
「……それは、同情ですか? それとも、憐れみ?」
 ユリウスの真意を量りかねたティルトは、当惑する感情を抑えて淡々と問う。
「敵の事情など知る必要は無い。俺はただ、敵に止めを刺すだけだ」
 それに返されたのは至極彼らしい言の葉だ。だがそこに嫌悪は微塵も見られず。寧ろそれはつまらない表面的な取り繕いなど必要ない、自身の選んだ意志の全てを肯定しているように思えてならなかった。
 ユリウスの言葉にそのような事を匂わす明示は無かったが、それでもティルトはそう確信を以って実感し、笑う。
「あなたは……優しい、ですね」
 ゆっくりティルトが言うと、途端にユリウスは表情を歪め、険しくした。
「……妙な言い方はしないで貰おう。俺は、あんたに対して死の宣告をしているにすぎない」
「ふふ……では言葉を、変えます。あなたは、不器用ですね。とても……ああ、でもやっぱり貴方は……優しい」
 刻一刻と断ち切られていく意識の筋を無理矢理に束ね、ティルトはその答えに満足げに笑みを浮かべる。だが急激に押し寄せてきた肌寒さに震えが止まらなくなった身体は、奇妙な浮遊感に蕩揺い意識を切り離そうと大きく揺さぶっていた。
「……俺に、そんなものは無い」
 消え去りそうで、だが歓喜に満ちたティルトの言葉に、僅かに俯いたユリウスは掠れる声で搾り出すように言っていた。意識の波に特異な揺らぎは無かったが、何故か喉が渇ききっていたのをユリウスは自身の声で察する。
「お言葉、に甘えて……宜しい、ですか?」
「ああ。その意志のままに死んでゆけ」
 冷酷に下したユリウスの言葉にティルトは屈託無く笑う。本人すら自覚していないだろうが、本当に心の底から浮き出てきた嬉しさに満ち溢れた笑みだった。
 ユリウスはまず、ティルトの後ろ髪を一房掴んでナイフで切り落とした。その行動に呆気に取られるティルトを他所に、ユリウスは掌のそれを腰の道具袋に忍ばせる。そして次に左腕をティルトの背に回してその上体を抱き起こして引き寄せた。自分を一心に見つめてくるティルトの顔が近くなったが何の感慨も沸かず、何も感じない。
 小さく揺れるティルトの眸を見据えたまま、右手に握った聖なるナイフの切先をティルトの左胸の、傷口に触れる寸前の所に当てた。
「すみま、せん。貴方の手を、汚させてしまって……ですが、最期を看取ってくれるのが貴方で、良かった」
「俺には殺ししかできない。故に、あんたが気にする事ではない」
 この状況でも相変わらずに淡々と言うユリウスの表情を間近に見上げて、ティルトは思わず息を呑んだ。本当に短い間しか時を共有できなかったが、目の前に在った顔は普段からの表情から遠くかけ離れたもの。恐らくは無意識の産物なのであろう。
 ティルトは自分の感じた共感意識のままそれを敢えて見なかったように心にしまい込んで、眸を閉じる。最早眼に見える世界に未練は無く、嘗てこれ程までに穏やかな心に浸れる事があったかと思う程、今は安穏を感じていた。
 体の感覚はすでに無い。今も絶えず崩壊し続けている王墓の悲鳴など、全く聞こえてはこない。だがそれでも最期を迎える意識の働きなのか、力無くその両手でユリウスの右手を包んでいた。
「ふふ……ユリウス殿。ありが、とう」
 明け方の砂漠を流れる穏やかな風を感じながら、ティルトはその意識を手放す。
 刃を握るユリウスの手に、力が込められた――。



(未練は、無い。私は、私の思うように生きたのだから……)
≪本当に、そうかい?≫
(えっ!?)



「これはっ……!」
 驚嘆を挙げるユリウスの声を、ティルトは閉じ往く意識で聞いたような気がした。




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